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2021年3月 4日 (木)

浦安、境川を往く

 昨日は「桃の節句」である。桃の節句なら蛤のお吸い物だろうということで、浦安に行った……わけではない。

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 っていうか、浦安駅前は「焼蛤の越後屋」だもんなあ、越後屋の焼蛤も美味しいけれども、それはお吸い物ではないしね。まあ、何となく=「桃の節句」→「蛤のお吸い物」→「蛤」→「浦安の焼蛤屋」っていう「短絡」だけで、別に意味はない。

 なので、取り敢えず旧浦安町役場前まで行くわけです、っていつもここが浦安写真の起点なんだけれどもね。

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 今日は、浦安を流れて、浦安の町を作ってきた「境川」に沿ってちょっと歩いてみようという趣向で……、って言っても、このブログでも何度か書ている境川なのでねえ……、どうなりますことやら。

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 境川については、川の途中に浦安市教育委員会が作った説明板があるので、それをコピペ。

『境川          昭和三十三年(一九五八)、準用河川として指定
              昭和四十年 (一九六五)、一級河川として指定

 境川は、江戸川の支流で、本市の中央を西から東へ流れ、東京湾に注いでいます。
 かつての境川は、長さ一・七キロメートルほどの小さな川でしたが、昭和四十年(一九六五)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約四・八キロメートルになりました。
 江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家を建て、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。
 川の水は、昭和二十年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったといいます。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきました。
 また、漁業を生業としていた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果たしていました。かつては、二千艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られました。
 しかし、昭和四十六年(一九七一)に漁業権が全面廃棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していきました。こうして、境川の光景も次第に漁師町の面影を失っていきました。

 平成十六年一月           浦安市教育委員会』

 まさしく、山本周五郎『青べか物語』の世界が、ここ浦安にあったっていうわけですね。

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 その浦安市の堀江側の中心的な道が、この「堀江フラワー通り」なんだが、昔は浦安一の繁華街だったそうなんだけれども、今や、その面影はまったくありません。

 上の写真の「旧宇田川家」とか、そのちょっと先の茅葺屋根の「旧大塚住宅」とか、下の写真のような昔の濱野医院などの遺構以外は、そんな繁華街がこの辺りにあったとはとても思えない、静かな街並みが繋がっている。

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 で、濱野医院跡のあたりで、以前は猫実側に境川を渡って、神社なんかを見ながら浦安駅まで戻ってきたんだが、今回はもうちょっと先まで堀江側を歩いて、「フラワー通り」に沿って境川を渡って猫実側に至り、浦安市役所まで行こうという算段。

 と言っても、猫実側を歩いてもすぐにこんな神社に出会います。「左右天命弁財天(さゆうてんのみことべんざいてん)」という、地元では「猫実の弁天様」と呼ばれている神様です。

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 で、そこからちょっと川の下流方面へ行くと、浦安市郷土資料館があって、その脇には「べか舟河童」という置物があります。う~ん、「河童」なのか「蛙」なのかよく分かりません。まあ、モチーフとしては『青べか物語』で出てくる「べか舟」(貝や海苔を採る一人乗りの平底舟)で遊んでいる子どもたちらしいんですがね。じゃあ、人間じゃねえか、なんでカッパなんだ? 「小童(こわっぱ)」ってことなのかなあ。

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 で、浦安市郷土資料館の隣が浦安市役所です。

 境川の旧江戸川の分岐点そばにある浦安町役場跡に比較して随分立派で大きな建物だ……、って当たり前か。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Urayasu / Mar. 3 2021 ©tsunoken

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