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2021年3月

2021年3月31日 (水)

久々の東海道品川宿

 久しぶりに京浜東北線品川駅で下車して、旧東海道品川宿を目指す。

 国道15号線を北品川方面へ向かって歩いていると、あれっ? そういえば京急線の駅裏の食べ物屋さんがみんな閉まってフェンスで囲まれている。よく見てみると、「京浜急行、泉岳寺~新馬場連続立体交差事業」という文字が見える。

 まあ、泉岳寺から品川までは元々が地下鉄路線なんで問題はないんだが、要は品川の高架駅が、八ツ山橋で地上になってしまい、北品川までが平面通行なので、一番の問題は北品川手前の二つの踏切なんでしょうね。まあ、北品川側にある片方は所詮、旧東海道の踏切なので、まあ、踏切なんかも「風情」で済むけれども、品川側にあるもう一つの踏切は、普通にクルマが通り、結構、交通量も多い踏切なのでで、そこも品川から高架にしちゃって、既に高架になっている新馬場駅まで高架にしちゃって、そうなると京浜急行は品川から川崎まですべてが高架線になるっていう訳で、まあ、それで見事シャンシャンということになるのかな。

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 ということで、いずれはなくなる北品川駅手前の踏切を撮影。

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 まあ、あとはもう既に何度も行っている旧東海道です。

 ただし、こんな感じの闌れた感じのお店は段々少なくなってきています。

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 新馬場までくると目黒川の下流域です。

 勿論、桜並木はここまでも続いているんだけれども、皆さん、「桜」っていうと、中目黒から目黒近辺までしか行かないのか、この辺りは全然「密」にはなっていないです。いいですね。

 もうちょっと、品川区も「桜並木と旧東海道」ってウリでもって宣伝すればいいのになあ。でも、それで「密」になっちゃあいけないか。う~ん、難しい選択ですね。

 川の正面が、右が北馬場駅で左が南馬場駅だったのが一緒になったのが「新馬場駅」です。

 でもねえ、なんで目黒川を挟んで二つの駅があったほうが風情があったんだけれどもなあ。

 まあ、通勤客にとってみては「無駄!」っていうことなんでしょうけれども、私らみたいな「ヒマ人」にとっては、結構、こういう「ムダ」が好きなんですねえ。

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 川沿いの交番跡も未だに残っています。

 こういうのどうするんだろう。所有権は警視庁だと思うんだけれども、そのまま残していくんだろうか。月島交番は普段は閉まっているんだけれども、何かには使っている感じだし、どうするんでしょうね昔の交番を警視庁は、ってな感じで歩いて行くと青物横丁に至ります。

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 ところが、この青物横丁駅の前の道が「ジュネーブ平和通り」なんていう名前だとは知らなかった。う~ん、品川区とジュネーブ市が友好関係にあって、その関係でつけられた名前らしいんだけれども、それが「何故なのか?」は、未だに分からない。

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 旧東海道品川宿を歩いていて見つけた質屋「東屋」のショウ・ウインドウです。

 ニコンF2フォトミック¥44,000ってちょっと気を魅かれますよねえ。

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 なので、場所は教えない。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Kita Shinagawa & Minami Shiagawa / Mar. 27 2021 ©tsunoken

2021年3月30日 (火)

竹ノ塚駅の高架化はどこまで進んでいるのか?

 田中長徳氏のnoteで東武伊勢崎線竹ノ塚駅前の公団住宅(今はUR賃貸住宅っていうのかな?)が写っており、「そういえば竹ノ塚駅の高架化はどうなっているのか?」というのが気になったので、見に行った。

まあ、田中氏が言うように「集合住宅の規模は小さいけれども鉄道の駅のそばに集合住宅があると言うその理想の社会主義国の住宅の形を竹ノ塚駅前は持っていたと言うことに驚いたのである。」というほどの問題意識は全然もっていないTsunokenですけれどもね。

 東武伊勢崎線は1974年に、他の私鉄に先駆けて帝都高速度交通営団(スゴい名前だよね、すでに戦後であるにもかかわらず「帝都」だって)日比谷線と北千住駅から東横線中目黒駅まで相互乗り入れをして、北千住駅から北越谷駅までを急行線と各駅停車に分けて複々線化し、都心までの大量乗客輸送を実現していた。今は私鉄と東京メトロの相互乗り入れなんてのは当たり前なんだけれども、それを一番最初にやったのが東武鉄道ってのがスゴイですよね。

 複々線化に合わせて順次高架化も進めてきたんだけれども、竹ノ塚駅だけは高架化が進んでいなくて、その結果、2005年3月15日に『女性4名が浅草行き上り準急列車(当時)にはねられ、2名が死亡し2名が負傷した。』といういたましい事故が発生した。『当時、この踏切は手動式であり、東武鉄道の係員が操作していた。事故発生前の列車が通過後に列車の接近を知らせる警報ランプが点灯したが、次の準急列車通過までに余裕があると踏切警手が思い込み、遮断機のロックを解除して2 - 3m上げてしまうという操作が原因だった。』(Wikipedia)

 その結果、東武鉄道は西新井駅の北側から竹ノ塚駅を含めて、その先の方まで高架化(地上の道と立体交差)をすることを決定した。

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 以前から何度か竹ノ塚駅までは行っていたんだが、残念ながら各駅停車は未だに地上を走っていて、駅前の事故があった踏切は今でも残っているんですね。

 ただし、上りと下りの竹ノ塚駅には停車しない急行線は既に高架化しており、各駅停車も高架化するのは2024年3月が高架化事業完了予定らしいので、あと3年なんとか我慢すれば全面高架化が済んで、駅前踏切の「開かずの踏切」もなくなるし、踏切事故の恐怖もなくなるので、竹ノ塚駅周辺の皆さんも、待ち望んでいるだろう。

 まあ、営業運転をしながらの工事なので、やっぱり時間はかかるんだろうなあ。

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 で、竹ノ塚駅の正面(東口)に戻ってみよう。

 竹ノ塚駅の駅舎は線路の高架化に備えて改造中で現在は閉鎖されている。以前は地上ホームで階段を上がって改札口、そこから階段やエスカレーターで降りて地上出口っていう感じだったんだけれども、高架ホームからどういう導線でもって地上出口まで繋ぐんだろう、っていうのも楽しみですね。

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 その代わり、谷塚駅方面に地下改札が出来ていて、以前は東口の橋上駅舎だけが出口だったのが、地下通路が出来たので西口にも出口が出来たので、西口方面の住民にも便利な駅になったわけですね。

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 東口の地下通路の出口。

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 で、東口の駅前広場っていうか、駅前ロータリーは、いやあ昔のまんまですね。

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 竹ノ塚駅東口の駅前は昔の公団住宅が駅前から広がっている場所なので、取り敢えず駅前ロータリーに面している建物は、基本的に一階が店舗で二階から上が住居という造りになっている。

 この辺は高島平や豊島五丁目団地なんかも同じ造り。昔に出来た公団住宅(現在はUR賃貸住宅)には共通の造りなんですね。

 まあ、商店街なんかもない場所に作った団地なので、団地住民のためには一緒に商店街も作る必要があったってところなんでしょうね。

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 なんとなく通り過ぎてしまいそうですが……「とんかつ さぼてん」は昔はなかったよな。

 まあ、これが田中氏の写真の再確認なんですけれどもね。で、別にそれ以上の意味はありません。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Takenoduka / Mar. 29 2021 ©tsunoken

2021年3月29日 (月)

『大江戸坂道深訪』

 3月1日には日本坂道学会副会長のタモリ氏の著書『タモリのTOKYO坂道美学入門』を紹介したんだけれども、遂にこの時が来ましたね。なんと日本坂道学会会長の著書です。

 さすがに会長の書でありますから、少しは学術的な感じにななっているかな(プッ!)。

Photo_20210323163901『大江戸坂道探訪 東京の坂にひそむ謎と不思議に迫る』(山野勝・著/朝日文庫/2014年6月30日刊)

『 東京には、江戸時代に命名された坂が約500、明治以降に命名された坂が約140もある。東京の地形は台地の連なりでできている。北の赤羽から南の大森あたりまでを見ると、上野台、本郷台、豊島台、 淀 橋台、目黒台、 荏原 台といった台地があり、その台地と台地の間に、 石神井川、小石川、神田川、目黒川、 立会川といった川が流れている。
 このように、丘と谷が複雑に入り組んでいるので、そもそも坂が多いのは当然といえる。しかし、多くの坂に名前がつけられた理由は、江戸という街の特異性にあった。
 町人の住む地域には「江戸八百八町」(実際にはそれ以上あった)というように、多くの町名が幕府によってつけられていたが、江戸の面積の8割を占めていた武家地と寺社地には、理由は定かではないが、町名がつけられていなかったのだ。
 従って、人々が目的地に向かうには、どうしても 俚俗 地名が求められた。そのランドマークとして選ばれたのが坂であって、その坂に町名を代替する名前が冠せられるようになったというわけである。』

『しかし、 坂名を整理してみると、一定の法則があることに気づかされる。
 富士見坂や潮見坂などの「坂からの眺望」、 胸 突 坂や 転坂などの「坂の 勾配」、 鍋割坂や 薬研坂などの「坂の形状」、王子大坂や 袖 摺 坂などの「坂の状態」、幽霊坂や 暗闇 坂などの「坂の明暗」、南部坂や仙台坂などの「大名の藩名」、北条坂や 服部 坂などの「大名や旗本の名前」、 左 内 坂や 権 之 助 坂などの「名主の名前」、 新 助 坂や 三平 坂などの「町人や農民の名前」、 明神 坂や安養寺坂などの「神社や寺院の名前」、 霊 南 坂や 絶 江 坂などの「僧侶の名前」、植木坂や茶屋坂などの「その人の生業の名前」、狐坂や狸坂などの「動物の名前」、 榎 坂や 梨 木 坂などの「植物の名前」、 帯 坂や 綱 坂などの「伝説」、 蜀江 坂や 庾嶺 坂などの「中国の名所」、 二合半 坂や三べ坂などの「 駄洒落」など、多岐にわたっていることがわかる。』

 ってことで、本書で紹介している東京の坂道は以下の通り。

港区
高輪ー三田
 【桂坂・伊皿子坂・幽霊坂】
白金台ー白金 【桑原坂・蜀江坂】
南麻布 【青木坂・奴坂・絶江坂】
元麻布ー西麻布 【狸坂・大横丁坂・牛坂】
六本木ー三田 【長垂坂・於多福坂・一本木坂・綱坂】
愛宕ー芝公園 【銀杏坂】
虎ノ門ー麻布台 【霊南坂・道源寺坂・俄善坊谷坂・狸穴坂】
赤坂 【丹後坂・薬研坂・南部坂】

文京区
関口ー目白台 【鉄砲坂・胸突坂・小布施坂・日無坂】
小日向 【八幡坂・服部坂・切支丹坂】
春日ー小石川 【堀坂・善光寺坂・金剛寺坂・三百坂】
本郷 【鎧坂・炭団坂・建部坂・新坂】
湯島 【相生坂・妻恋坂・無縁坂】
西片ー白山 【胸突き坂・御殿坂】
大塚ー千石 【湯立坂・白鷺坂】
向丘ー千駄木 【新坂・大給坂】

新宿区 
南元町ー若葉 【紳助坂・闇坂・観音坂・鮫河橋坂】
市谷本村町ー愛住町 【津の守坂・自証院坂】
住吉町ー新宿 【安養寺坂・梯子坂】
市谷左内町ー神楽坂 【左内坂・浄瑠璃坂・庾嶺坂・神楽坂】

千代田区
紀尾井町ー霞が関 【紀尾井坂・三宅坂・三年坂・三ペ坂】
麹町ー番町 【五味坂・南法眼坂】
九段北ー富士見 【冬青木坂・富士見坂】

目黒区
大橋ー中目黒 【旧大坂・別所坂】
上目黒ー三田 【目切坂・稲荷坂・なべころ坂】
下目黒ー目黒 【行人坂・三折坂】

品川区、大田区
北品川ー東大井 【御殿山の坂・ゼームス坂・犬坂】
山王ー中央 【闇坂・右近坂・おいはぎ坂・汐見坂】

渋谷区、世田谷区
渋谷ー広尾 【道玄坂・内記坂・羽沢坂】
奥沢ー野毛ー大蔵 【寮の坂・等々力の坂・稲荷坂・行善寺坂・堂ヶ谷戸坂】

台東区・荒川区、北区、豊島区
谷中ー西日暮里 【三浦坂・富士見坂】
谷中ー上野公園 【紅葉坂・清水坂・忍坂】
上中里ー岸町 【蝉坂・稲荷坂】
目白ー雑司が谷 【宿坂】

 う~ん、凄いなあ。

 この人『ヤンマガ』の編集長やりながら、なんてことをやっていたんだ。って、まあ、別に、仕事が入っていないときに何をしようと勝手なんですけれどもね。

 タモリ氏の博多出身と同じく、山野氏は広島出身という地方出身者なので、多分、東京に来たのは早稲田大学に入学したときが本格的な上京の初めての体験だったんだろうなあ。それで感じたのは「東京ってなんて坂の多い街なんだ」ってことは、まあ良く分かるんだけれども、何故か、早稲田大学の地元にある「夏目坂」が入っていないのは、何故なんだろう。夏目漱石は早稲田の関係者じゃなかったので、あまり気になっていなかったんだろうか。

 要は、早稲田大学生の普通の生活として、基本的には学校には通っていなくて、殆ど地方から来た友人と雀荘に入り浸りか、飲み屋でバカ騒ぎばっかりしていた、普通の早大生だったんだろうなあ。

 で、出版社の編集部に入ってみると、これが「待ち時間」がやたら長い仕事なんですね。夜に原稿の上がり待ちをしている時は、まあ、池袋や新宿で酒を呑んでいるんだが、酒があまり好きじゃない編集者とかは何をしているんだろうか。まあ、そんな感じで、出版社の編集者って、とても高給取りなんですね……、昔は天井知らずの残業手当だったしねえ、今はどうかは知らないけれども。

 で、その原稿上がりの待ち時間の有効な使い方として、山野氏は、東京に最初に出てきた時に感じた「東京ってなんて坂の多い街なんだ」っていう感想なんでしょうね。で、「待ち時間に町歩き」ってな感じで、東京の坂道歩きをしたんでしょうか。

 まあ、東京(って言っても場末なので)出身の私でも歩いたことのない坂が沢山あるようですね。取り敢えず、それを一つづつツブしていこう。やっぱり、こういう主旨のものって、東京出身者からは出てこないんですね。

 別に、坂道に興味がないということではなくて、別に。それは「普通の存在」だから、何も考えていなかったというだけのことだったんですけれどもね。

 私は東京という町には「坂」があるのは当たり前だと思っていたので、別に「当たり前じゃん」っていう「東京の坂道」がネタになるとも思って行かなかったのが「原・東京人」なのであります。

 別に、たまたま私が東京(の場末)に生まれ育っただけのことであって、別に、それでどうだっていうことはないんですけれどもね。

 『大江戸坂道探訪 東京の坂にひそむ謎と不思議に迫る』(山野勝・著/朝日文庫/2014年6月30日刊)

2021年3月28日 (日)

「相ノ坂」を探して

 切っ掛けは3月1日のブログ「新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門」である。

『相ノ坂は、コンクリート塀に囲まれたおもしろい坂道です。迫り来るような石崖とその美しい湾曲には、一種の凄みを感じますね。かつてこの坂は、崖と樹木に覆われた寂しい路地だったとか。現在坂下に、創立140年を迎えようという菅刈小学校があります。名の由来は、大坂と新道坂の間にあったことから。大坂は現在の玉川通り、新道坂は現駒沢通りにあたる大きな街道でした。』

 という一文に魅かれてその「相ノ坂」を訪ねようというわけだった。

Tokyo3表紙が相ノ坂©TAMORI

 東横線代官山駅を降りると、普通は旧山手通りを西郷山公園を脇に見ながら南平台方面へまっすぐ進むんだが、相ノ坂に行くには、西郷山公園で旧山手通りから山の下の方へ下りていく感じになるようだ。

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 ということで、旧山手通りの蔦屋書店をすぎれば……

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 道の反対側が西郷山公園です。

『明治時代になって西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入した。しかし、西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されることになった。』(Wikipedia)というもの。

 しかし、西郷山公園の下には菅刈公園(すげかりこうえん)っていうのがあって、そちらも西郷従道の旧宅が公園になっているっていう訳で、なんとまあ、やはり薩長の輩が江戸を支配した強欲の明治維新という構図を物語っていて、なんか嫌になりますね。

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 で、西郷山公園を下に降りていく道を歩いて行きます。

 階段道もあるけれども、なんかそれは山の下へ直結っていう感じなので、ゆっくり降りることが出来る坂道をゆったり歩いて行きます。

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 で、坂道を降りていくと、そこは目黒川。

 凄いですね、この人出。もう中目黒からは池尻大橋方面へ移っている場所で、桜並木ももう終わりかなという地点なんだけれども、いやあ、まだまだ桜見物の人出は続いています。

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 っていうか、実はもうこの時点で今日本来の目的「相ノ坂」はLOSTしてしまっていたんですね。

 本来は西郷山公園の下で、菅刈公園のそばにあるはずの菅刈小学校を目指していたんだけれども、目指す相ノ坂の脇にあるはずの菅刈小学校に至りません。

 どうもなあ……

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 でも、両側の角を見ると「階段あり」っていう表示があって、まあ、ここから登れば菅刈小学校や相ノ坂に行けるはずなんだけれども……、もう面倒くさくなってしまいました。

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 やっぱり、もうちょっとキチンとロケハンをしなければいけないなあ。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Aobadai Meguro / Mar. 26 2021 ©tsunoken

 

2021年3月27日 (土)

西新宿で森山大道を観る

『西新宿で森山大道を観る』なんていうタイトルを付けると、いかにも、それもヘタクソなキャッチーなコピーを装ったみたいだけれども、実際には西新宿じゃなくて、西新宿のちょっと先、中野区本町なのでありました。

 実は「写大ギャラリー森山大道アーカイブ」の所蔵展『森山大道 写真展「衝撃的、たわむれ」』を見てきたっていうだけのこと。

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 あれっ? 森山大道って写真大学出身だっけ? って思たんだけれども……

「1975年に写真家・細江英公が東京写真大学短期大学部(現・東京工芸大学)に教授として就任した際に、写真作品を専門に展示・収集するギャラリーを創立。当時、日本国内には写真を収集する公的な美術館などはまだ存在していなかった。細江は優れた写真作品の実物のプリントを教材として活用すべきだとも考え、現在までに国内外の約12,000点の写真作品を所蔵している。森山の初期作品が多数所蔵されているのは1976年に同ギャラリーで、かつての師でもある細江の呼びかけで行われた「森山大道寫眞展」によるところが大きい。同展には、森山の活動初期の雑誌や写真集の印刷原稿のためのプリントが多数展示された。展示終了後、展示されなかったプリントも含めて、細江の提案によりすべてのプリントを一括して同ギャラリーが購入し、アーカイヴすることになった。当時の日本の写真界においては、雑誌や写真集などのための印刷原稿としてのプリントは返却されずに処分されたり、散逸したしたりした例が多かったなか、一括して収集したことは当時の細江に先見の明があったといえるだろう。」(「写大ギャラリー森山大道アーカイヴとは?」より)

 という、森山大道氏のお師匠さんの功績なんですね。

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 東京写真大学といえば、作家の椎名誠氏や、写真家・立木義浩氏、小林紀晴氏などの出身学校として、有名なんだが、実は森山大道氏も写大出身ではないけれども、客員教授を務めているんだ。

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 今回の写真展の構成をしたのが、小林紀晴氏なんだが……

「展示できる作品の数は当然ながら限られている。どの作品を選び、構成するべきか、選択の数は無限にあるだろう。ちなみに、自分以外の作家の方の作品を構成するのは初めての経験だ。」

 ということを前提としながら……

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「私はすべての作品をつぶさに見た。そしてあることに気が付いた。同一のカット(ネガ)からプリントされたものが多くあることだ。さらに同じ被写体を撮影した別カットからプリントされたものも複数存在する。それらには共通した特徴がある。同じカットであっても、トリミング、濃度、コントラスト、焼き込みなどが大きく異なっている。ネガを裏返してプリントした「裏焼き」もいくつかある。裏焼きで有名(もはや伝説的?)な「三沢の犬」にも「裏焼き」が存在することを知って少なからず興奮した。森山は1枚のカット、1つの被写体にとにかくこだわっていた。私はこれらの方法を勝手ながら反復運動ならぬ「反復作品」と名付けることにした。イメージを変えて何度もプリントすることで、まったく別の作品となり、何度でも再生するのだ。森山の思索の痕跡、創作の秘密を垣間見ることができる、かなり実験的な展示となるだろうという予感もあった。」

 と、写真展のパンフレットに述べている。

 確かに、同じネガからいくつもの映像を作り出すっていうのは、森山大道氏の写真作品における特徴ではある。

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 だとしたら、本写真展でも、同じネガから作り出された写真作品を何度も、何度も見返さなければならないなあ。

Photo_20210325201801©Daido Moriyama

 あと何回かは、同じ写真展に通うことになるのかなあ。少なくとも、昨年夏の東京都写真美術館の「森山大道の東京ongoing」よりは、いろいろな示唆に満ちた展示であることは確かだ。

 東京工芸大学『森山大道 写真展「衝撃的、たわむれ」は5月31日まで開催中。公式サイトはコチラ

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Nakano Honcho / Mar. 25 2021 ©tsunoken

2021年3月26日 (金)

目黒銀座は蛇崩・伊勢脇通りが正式名称

 中目黒は東京メトロ日比谷線の終着駅で東横線との乗換駅であるにも関わらず、以前、東武伊勢崎線の西新井の近辺に住んでいた頃は、一度も来たことはなかった。

 中目黒の街に最初に来たのは、知り合いの芝居が中目黒商店街にある劇場で行われ、それを見に来たのが初めてで、たかだか数年前のことである。それ以来、この小さな商店街が気に入って、何度も来ている。

 中目黒駅で下車して、中目黒ゲートタウンという商住複合施設の裏にある「第六天社」が目黒銀座商店街の入口だ。

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 第六天社って何だ?

『この社祠は第六天社と呼ばれ、最初は石川橋の付近(現在の上目黒2丁目側)にありましたが、明治末期から大正初期にかけて推進された神社合併政策により、上目黒氷川神社(現在の大橋二丁目16番21号)に合祀されました。
 その後、道路建設(現在の山手通り)により、最初にありました第六天社の土地もとり払われましたので、昭和10年11月、地主朝倉氏の協力を得て、地元有志の発起により上目黒二丁目1番6号に社祠が再建されました。
 また、中目黒駅前再開発に伴い、平成11年3月、中目黒八幡神社に仮安置されましたが、平成14年3月、目黒銀座通りに面するこの場所に移されました。
 祭神は、天神六代の神である面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)です。昔、近くにあった石川田圃(旧上目黒3丁目付近地域)や小川田圃(旧上目黒6丁目地域)を水害や旱魃などから守る農村の守護神・厄除けの神としてまつられていました。
 現在は、健康長寿、商売繁盛、家内安全の神として地元に人たちに厚く信仰され、毎年1、5、9月の例祭には中目黒八幡の神官により祭事が行われています。

                          平成14年3月
                        目黒区教育委員会』

 というのが、その説明板。

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 さて、目黒銀座商店街だ。

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 なんんだかここのところ、コロナ禍のせいか芝居の公演もないし、小屋の場所もわかからなくなってしまったなあ、なんて商店街を歩いている。

 この、上下の写真のような「すっとぼけた」感じがいいんですよねえ。

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 なんて言う感じで歩いているうちに、目黒商店街は行き止まりになってしまう。目黒駅を背に、右へ曲がると祐天寺、左へ曲がると駒沢通りなんだが……。

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 ふと、付近の電柱を見てみると「蛇崩・伊勢脇通り(じゃくずれ・いせわきとおり)」という表示がある。

 そうか、目黒銀座っていう呼び方は一般名称で、正式な道の名前が「蛇崩・伊勢脇通り」ということなんだな。以前、この地域に「蛇崩川(じゃくずれがわ)」という川が流れていたという話は、以前、この辺りに来て祐天寺まで歩いた時に知っていた。ただし、現在は暗渠化されているので、どこが蛇崩川だったのかは分からなかった。

『東京都世田谷区弦巻五丁目の馬事公苑付近に源を発する。昔は品川用水の悪水吐からの水を受けていたものと考えられている。東流し、弦巻三丁目にて桜新町二丁目からの支流を合わせる。弦巻通りと平行して世田谷警察署付近で玉川通りと交差し、下馬一丁目にて野沢公園付近からの支流を合わせ目黒区に入る。この付近を蛇崩という。上目黒四丁目で祐天寺駅付近からの支流を合わせて東急東横線・東京メトロ日比谷線の中目黒駅付近で目黒川に合流する。』(Wikipedia)

 というのが「蛇崩川」に関する説明なんだが、川の流域はどこなんだっていう説明はなかったなあ。

 何故、「蛇崩川」というのかというと『大水で崖が崩れた際にそこから大蛇が出てきたから、などいくつかの説がある。』(Wikipedia)なあんて説もあるんだけれども、良く分からない。

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 ……、で、東横線の高架を目黒銀座の反対側に進んで中目黒駅方面へ進んでみると、ありゃりゃ、偶然に見つかりました。

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 これが蛇崩川の暗渠なんだなあ。いかにも川を暗渠にした道のスタイルだもんなあ。その辺は、すぐにわかる。

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 東横線の下を横切って目黒川方面へ流れています。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Kami Meguro / Mar. 23 2021 ©tsunoken

2021年3月25日 (木)

青山から赤坂へ

 信濃町で中央線を降りて四谷3丁目とは反対方向に進めば青山方面へ出る。

 港区立青山中学校は昔、バスケットボールの試合に来たことがある。まあ、今から50年以上も前の話ですけれどもね。

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 最近はそのまま真っ直ぐ青山通りを突っ切って、六本木方面へ行くことが多いんだが、この日は何となく気分は赤坂ってなわけで、青山通りを左折して赤坂見附方面へ進む。

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 青山近辺で一番存在感を示しているのがカナダ大使館です。

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 カナダでもケベック州は、自分たちはフランス人だと考えている人が多く、ケベック州の州都モントリオール市民なんかは、モントリオールはフランス第二の都市だなんて発言をしたりします。まあ、確かに人口からすればパリの次に人口が多いフランス系の街ではあるんですけれどもね。マルセイユよりも人口は多いんだそうです。フランス的に言えば「マルセイユは現在の行政上フランス第二の都市」なんだけれども、汎フランス(要はフランス帝国主義的な発想からすれば、ってこと)的な発想からすれば、カナダ・ケベック州はフランスの一部だし、モントリオールは、それこそパリに次ぐフランス第二の都市ってことらしい。モントリオール映画祭は、カンヌ映画祭の次くらいの映画祭だそうです。

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 そんなこともあって、結構、文化的な催しも多いカナダ大使館です。

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 おおっ! ニコル・レーシングにマクラーレンだ!

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 で、豊川稲荷まで来れば目の前は「とらや」ですよね。

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 でも、京都を訪ねる時の土産に「とらやの羊羹」を持って行ってはいけません。
「なに言うてますのや。『とらや』は京都が『おおもと』でっしゃろ。田舎もんが!」って怒られちゃいます。あ、京都の人は真正面から怒らないから、裏でバカにするんでしょうね。
 まあ、京都の人にとっては、明治維新でもって京都を捨てて江戸(東京)に移ってしまった「とらや」に対する複雑な思いもあるんでしょうけれどもね。

 いやあ、私も「とらや」と言えば赤坂に本社・本店はあるし東京土産の最高峰だと思っていた時期があったので、結構、そうじゃなくて、京都が本店だと知った時はショックだったんですけれどもね。実際に、昔の本店は京都にあるんだよなあ……。

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 で、今話題の東北新社も赤坂にあります。そうだったんだよなあ、本社は昔から赤坂にあったんだよなあ。

 元々は、外国映画を日本語にアテレコ(外国語に日本語を「当て」てアフレコすること)して、TBS、日本テレビ、テレビ朝日なんかの日本のテレビ局に売り込む仕事がメインだったんだけれども、その後、映像事業を拡大して、CGアニメーションなんかにも手を出して、『AKIRA』なんかにも協力していただいたりして、いろいろ私も一緒に仕事をしたことがある。

 ただまあ、というか当然その頃、菅義偉氏のバカ息子が、親のコネで入社していた時期ではないし、東北新社がそんなに今のメディア社会で大きな存在になっていたとは思わなかった。そういえば、東北新社の重役の息子で日大芸術学部放送学科に通っている奴と、日本テレビ報道部で一緒にアルバイトをしていたことがあったなあ。まあ、普通にいい奴でしたけれどもね。そいつに聞いた話で一番面白かったのが「日大芸術学部って、入試の際に親の面接がある」ってことなんですね。まあ、そいつに言わせると、要は親が4年間授業を払えるかどうかの確認だということなんですけれどもね。

 う~ん、それはそれでいい想い出ではあります。でも、そんなに日大芸術学部って授業料が高いの?

 日芸出たっていう奴は何人か知っているんだが、そんなに高い授業料を払うような授業はなかったってのが、皆の発言だったんですけれどもね。そうか、皆、親が裕福だったんだなあ。

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 現場のスタジオなんかは、全然、別のところにあります。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Aoyama & Akasaka / Mar. 20 2021 ©tsunoken

2021年3月24日 (水)

お岩稲荷と中古カメラ

 JR中央線の信濃町駅で下車して外苑東通りを四谷3丁目方面へ進む。

 信濃町駅のそばは創価学会の本拠地で、学会関係の建物が沢山建っている。当然、周辺のマンションなんかに住んでいる人たちも、創価学会の会員が多くて、会員の人が毎日毎日街を清掃しているので、とにかく街が奇麗なんだそうだ。ただし、創価学会員以外の以前から住んでいた人たちは、なんとなくいたたまれなくなり、街を出ていく人が多いらしい。

 まあね、どっちがいいんでしょうかね。宗教的なことを気にしない人たちだったら、あまり関係ないのかな、なんて思ってしまうんだけれども、そうばかりではないようで、やっぱり「街がひとつの宗教で染まってしまう」っていうのは、なんか、あまりいいことではないようではあります。

 まあ、そんな信濃町駅から少し四谷3丁目に進んだだけで、ガラッと雰囲気は変わります。

 左門町(勿論、旧地名です)を右へ折れると裏道(もしかして、外苑東通りが出来る前は、こちらが表通りだったのかも?)に入って、ほんのちょっと四谷方面へ行くと、「於岩稲荷神社」の前に至ります。

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「於岩稲荷」っていうんだけれども、ここは「陽運寺」っていう日蓮宗のお寺。なんでそれがお稲荷さんなんだろう。

『この地にあったお岩様の霊堂が戦災にあったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し当寺が開山されました。』

 っていうんだから、まあ、そうなのかもしれないんだが、なんか良く分からないなあ。

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 で、その於岩稲荷(陽運寺)のすぐ前には、もう一つの「お岩さんの稲荷神社(田宮稲荷神社)」があるんですね。

『東京都指定旧跡
  田宮稲荷神社跡

 田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永一三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。
 鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(一八二五)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治一二年(一八七九)に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(一九三一)に指定されました。戦後、昭和二七年(一九五二)に四谷の旧地にも神社を再興し現在に至っています。

 平成二四年三月 建設 東京都教育委員会』

 という説明書きがある。

 そうなんだ。都電の新庚申塚駅のそばにお岩さんの墓があるのは知っていたんだが、実家が四谷左門町にあったとはね。随分、実家と離れたところに墓があるんだなあ。更に、お岩さんが田宮家の家付き娘さんで伊右衛門が養子だったってのは、知らなかった。

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 で、於岩稲荷(どっちでもいいです)の前を更に四谷3丁目方面へ進むと、中古カメラ買取で有名な「光陽商事」の前に至ります。このビルの2階が光陽商事。結構、お世話になった会社です。

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 光陽商事の前から四谷3丁目の交差点を過ぎると、やなせたかしさんのお店「ANPANMAN SHOP」があります。

 何故か3月1日から休業してるいるようです。私の自慢は、ここのお店にあるアンパンマンよりワン・サイズ大きなアンパンマンのぬいぐるみをもっていること……、ある筋から入手したんだけれども……へいへい、たいした自慢じゃないですね。

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 で、そこから曙橋方面へ行くと、あります『カメラ買います アローカメラ&我楽多屋』ですねえ。

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 なんか、いつの間にか、外苑東通りが中古カメラのエリート街道になってしまっていたんですねえ。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Samoncho & Arakicho / Mar. 22 2021 ©tsunoken

 

2021年3月23日 (火)

池袋がモンパルナスなら、神楽坂はモンマルトルか

 池袋モンパルナスって言うんだけれども、どうなんですかね。

 パリのモンパルナス地区(Montparnasse)っていうのは、要は「パルナス山」っていうことでしょ。確かに、周囲の大塚とか、目白の先の神田川あたりから見れば、何となく「池袋は山の上」っていう風に見えるのかもしれないが、やっぱり「モンパルナス山」っていう程の存在じゃないでしょ。椎名町周辺の地形に「山」を連想させるものはありません。

 そういう意味じゃあ、やっぱり神楽坂の方が「モンマルトル」 (Montmartre) という、フランスの首都パリで一番高い丘(標高130メートル)らしいので、神楽坂が「東京のモンマルトル」と言ってもいいんだけれどもね。近所にアンスティチュ・フランセ(日仏学院)なんてのもあるし……。そんな感じなので、結構、神楽坂にはフランス人が多く在住しているという話もある。まあ、別に貧乏な画家なんてのはいないと思いますけれどもね。貧乏なフランス人の画家が日本に来られるはずも無いもんね。

 まあ、別に神楽坂がそんな芸術家(それも近現代の画家)を生み出してはいないし(脚本家が籠って『課長 島耕作』のシナリオ原稿を書いた「和可菜」っていう旅館はあるが、画家はいなかった)、要は「絵画系」の芸術家はいなかったけれども、文学系の作家(を「芸術家」というのかどうかは、知らない)は、確実に神楽坂で育ってきていたのは事実なのである。まあ、周辺に新潮社なんかの出版社が多かったってのもあるんですけれどもね。まあ、講談社も近いって言えば近い、のかな。

 まあ、なんとなく「芸術的な感じ」ってのを神楽坂に感じるのは、まあ、少しは正解かな、って感じもある。

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 で、ここ赤城神社が(多分)神楽坂の最高峰、何十メートルかもしれませんけれども、都内最高峰といわれる高田馬場の箱根山と、結構、標高を争う高さかも知れない。まあ、最高峰とか標高なんて言っても、たかだか30メートル位の中でのあらそいなんですけれどもね。

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 神楽坂のいいところは、池袋モンパルナスみたいに「生活をしている人の町」になっていないことで、所詮「旅人」として、その町を訪れるような私たちのような「よそ者」も、普通に受け入れてくれる場所だというところ。まあ、その辺もモンマルトルみたいな感じかな。

 まあ、繁華な商店街ですからね。

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「鮎の天ぷら最中」を売っている梅花亭が赤城神社の少し下にあります。以前は池袋の山手線の陸橋の脇にあったんだけれども、いつの間にか神楽坂に来ていた……、えっ? こっちの方が先だって?

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 しかし、本当の神楽坂は表通りにはなくて、やっぱり裏通りに「町の妙」があるんですね。

 神楽坂を歩くんだったら、やっぱり表通りじゃなくて裏通り歩きをしてください。もうね、一回やっちゃうと本当に「神楽坂裏通りマニア」になっちゃいます。

 この階段道路を上がったちょっと先に「和可菜」はあります。

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 神楽坂芸者の「見番」なんてものが、今でも残っていて、昼間っから三味線の音色なんてものが聞こえてくるんですよ。

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 と、いいながらも……神楽坂下にも、先ほどの「鮎の天ぷら最中」の梅花亭があります。

 すこしづつ神楽坂も変わってきてはいるんだなあ。

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 で、神楽坂で数少なく残っているのが「ギンレイホール」という名画座。

 神楽坂にはもう一軒「飯田橋佳作座」っていう映画館があったんだけれども、まあ、それも轟沈。

 シネコンの普及でもって、どんどん旧作を上映する「名画座」っていうものが無くなってきているんだけれども、神楽坂から高田馬場の間では、このギンレイホールと高田馬場の早稲田松竹だけになってしまったもんなあ。

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 あとは あんみつ「紀の善」くらいか?

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「街(町)の変化」は仕方がない、しかし、個人的には変化してほしくない『町の風景』っていうものもあるんだなあ。

 それは私の年のせい?

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Kagurazaka / Mar. 18 2021 ©tsunoken

2021年3月22日 (月)

『スマホ脳』って、どういうこと?

 何故この本を読んだのかと言えば、本書の新潮新書版の腰巻に書かれた「スティーブ・ジョブスは わが子になぜiPadを触らせなかったのか?」という文章が気になったからだ。

 それは何故?

Photo_20210315212801 『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著/久山葉子・訳/新潮新書/2020年11月18日刊)

『IT企業のトップは、自分たちが開発した製品に複雑な感情を抱いている。その最たるものが、アップル社の創業者スティーブ・ジョブズのエピソードだ。ジョブズは、2010年初頭にサンフランシスコで開かれた製品発表会でiPadを初めて紹介し、聴衆を魅了した。「インターネットへのアクセスという特別な可能性をもたらす、驚くべき、比類なき存在」と、iPadに最大級の賛辞を浴びせた。
 ただし、自分の子供の使用には慎重になっている──ことまでは言わなかった。あまりに依存性が高いことには気づいていたのに。ニューヨーク・タイムズ紙の記者が、あるインタビューでジョブズにこう尋ねている。「自宅の壁は、スクリーンやiPadで埋め尽くされいるんでしょう? ディナーに訪れたゲストには、お菓子の代わりに、iPadを配るんですか?」それに対するジョブズの答えは「iPadはそばに置くことすらしない」、そしてスクリーンタイムを厳しく制限していると話した。仰天した記者は、ジョブズをローテクな親だと決めつけた。

 テクノロジーが私たちにどんな影響を与えるのか、スティーブ・ジョブズほど的確に見抜いた人は少ない。たった10年の間に、ジョブズはいくつもの製品を市場に投入、私たちが映画や音楽、新聞記事を消費する方法を変貌させた。コミュニ―ケーションの手段については言うまでもない。それなのに自分の子供の使用には慎重になっていたという事実は、研究結果や新聞のコラムよりも多くを語っている。

 スウェーデンでは2~3歳の子供のうち、3人に1人が毎日タブレットを使っている。まだろくに喋ることも出来ない年齢の子供がだ。一方で、スティーブ・ジョブズの10代の子供は、iPadを使ってよい時間を厳しく制限されていた。ジョブズは皆の先を行っていたのだ。テクノロジーの開発だけでなく、それが私たちに与える影響においても。

 絶対的な影響力を持つIT企業のトップたち。その中でスティーブ・ジョブズが極端な例だったわけではない。ビル・ゲイツは子供が 14 歳になるまでスマホは持たせなかったと話す。現在、スウェーデンの 11 歳児の 98%が自分のスマホを持っている。ビル・ゲイツの子供たちは、スマホを持たない2%に属していたわけだ。それは確実に、ゲイツ家に金銭的余裕がなかったせいではない。』

 結局、それはビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズなどのIT企業の創始者たちは、そうした傾向を自分自身の経験として知っていたんだろう。

『ブルーライトにはメラトニンの分泌を抑える特殊な効果がある。人間の目の中にブルーライトにだけ強く反応する細胞が存在するがm私たちの先祖にとってブルーライトは晴れ渡った空から降ってくるものだったからだ。この細胞が脳に「メラトニンを作るのをやめろ」と告げる。「さあ起きろ、油断せず警戒を怠るな!」と。私たちの祖先にとってブルーライトは昼間活発に行動するためのものだったから、あなたや私もブルーライトで元気になってしまうのだ。
 眠りにつく前にスマホやタブレット端末を使うと、ブルーライトが脳を目覚めさせ、メラトニンの分泌を抑えるだけでなく、分泌を2~3時間遅らせる。つまりブルーライトがあなたの体内時計を2~3時間巻き戻すのだ。少し大げさに言うと、スウェーデンからグリーンランドか西アフリカに移動したような時差ボケが起きているようなものだ。そのうえ、スマホがストレスを生み、ストレスが睡眠を妨げる。それでも足りないみたいに、すでに書いたようなアプリやSNS、ゲームなど、ドーパミンと関係するあらゆる刺激によって脳が目覚めてしまう。』

 というのは生理学的な「スマホ脳」についての基本である。勿論、そういう訳なので「ブルーライト」が与える人間への影響ということでは、スマホだけではなく、パソコンや電子書籍なども同じような影響を与えるのだろう。

 更に、敢えて「スマホ脳」と名付ける社会的な問題もあるようだ。

『地球上の人間の約3人に1人がフェイスブック上にいる。全大陸のはぼすべての国のあらゆる世代が、みんなフェイスブックを使っているのだ。そして私たちはフェイスブックをよく使う。平均すると、写真を眺めたり、更新された情報を読んでシェアしたり、デジタルな親指を集めたりすることに1日30分以上もかけている。同じだけの時間を今後も費やすなら、現在の20歳が80歳になる頃には、人生の5年間をSNSに費やす計算になり、そのうち3年近くがフェイスブックに充てられる。
 マーク・ザッカーバーグは、「自分の周囲の人のことを知っておきたい」という人間の欲求をネットワーク化することに成功した。しかし、成功の秘訣はそれだけでは終わらない。常に周囲のことを知っておきたいという以外に、もうひとつフェイスブックを成功に導いたことがある。人間に根差す「自分のことを話したい」という欲求だ。』

『自分のことを話しているとき、脳の中では何が起きているのだろうか。ある研究グループがそれに答えるべく、被験者を集め、自分のことを話しているときの脳の常態を調べた。スキーについてどう思うかと訊かれ、被験者は例えば「スキーは最高だよ」という。それから、他の人がスキーについてどう思っているかも言わされる。
 自分のことを話しているときのほうが、他人の話をしているときに比べて、被験者の脳の複数箇所で活動が活発になっていた。特に前頭葉の一部、目の奥に位置する 内側前頭前皮質(medial prefrontal cortex)で。ここは主観的な経験にとって大事な領域なので、驚くことではない。しかし、もうひとつ別の箇所でも活動が活発になっていた。俗に報酬中枢と呼ばれる 側坐核(nucleus accumbens)だ。セックス、食事、人との交流に反応する領域が、私たちが大好きな話題──つまり自分自身のことを話しているときにも活性化するのだ。
 つまり人間は先天的に、自分のことを話すと報酬をもらえるようになっている。なぜだろうか。それは、周りの人との絆を強め、他者と協力して何かをする可能性を高めるためだ。』

 つまり、「ブルーライト」という物理的な原因と、SNSにおける「承認欲求」というものにさいなまれている現代人の現実というものがあるというのだ。

 まあ、まさにこの本をKindleで読んで、ブログに書いて、それをTwitterとFaceBookにクロス・ポストしている私なんか、もう完全にアンデシュ・ハンセン氏いうところの『スマホ脳』にやられちゃっているようではあります。

 とはいうものの、私のSNSの利用目的は、単にブログの宣伝媒体くらいにしか考えていなくて、特に「いいね」を集めることは目的ではないので、本来のSNSの使い方ではないのかもしれない。

 なぁ~んて言って、無理やり「自分は大丈夫」なんて考えているんだが……どうなんだろう。

 『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著/久山葉子・訳/新潮新書/2020年11月18日刊)

2021年3月21日 (日)

京島のメルクマールがなくなってしまった

 立石から四ツ木駅、八広駅を過ぎると京成曳舟駅に至る。

 と、駅前に出てみると駅横の場所がかなり広い空き地になっている。多分、更に再開発が継続されて、タワーマンションなんかが出来て、街はどんどん変わっていくんだろう。

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 ここから押上方面へ行く辺りが墨田区京島という町。

『関東大震災および第二次世界大戦時に東京に集中した空襲の被害が少なかったことや地域住民らの取り組みもあって、特に京島二丁目から京島三丁目付近には大正時代からの昭和初期の長屋などが現存されており、古い家屋と町工場が混在している東京下町の古くからの街並みが色濃く残っている地域としても知られている。』(Wikipedia)

 という、まあ、昔の「下町風情」っていうんでしょうかね、隅田川を超えたすぐそばの町なので、まさしく東京の下町なんだけれでも、この辺りを私が好んでいるのは、私の父母の生家があった町だからなのである。私の以前の本籍があったったのも墨田区押上3丁目であり、現在も、私の従兄弟の家があったりして、結構、私にとって近しい町なのであります。

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 ということで、たまに来たりする町なのであります。でも、東京スカイツリーに上がったことはありません。まあ、この辺は「江戸っ子が東京タワーなんかに上がれるかよ」ってな気分と同じですね。……えっ? 分からない?

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 東武亀戸線の踏切を超えると東京スカイツリーに近くなるんだけれども……。

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 どうも道路の拡幅工事が行われているらしい。そういえば、上のWikipediaの記述にも『一方で狭い路地による車の通行の問題や、大規模地震などの災害時の対策も課題となっている。その対策の一環として、現在、京島一丁目では京成押上線連続立体交差工事および京成曳舟駅前地区市街地再開発事業が行われている。この事業によって車道が拡張され、車の通行の問題は解消されることとなる。』と付け加えてある。

L10016472_20210315163601LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Kyojima Aug. 13 2020 ©tsunoken

 ってことで、昨日この道を歩いた時には、私の「京島のメルクマール」として勝手に使っていた「ボールト・ナット製造・販売 株式会社斉藤製作所」という木造モルタル造の建物がなくなってしまっていた。道路の拡幅工事で取り壊しになってしまい、どこかに移転してしまったんだろう。

L10016482_20210315162901 LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Kyojima Aug. 13 2020 ©tsunoken

 この「どうみても傾いている家」っていうのが面白くて、京島に来ていたんだけれども、それがなくなってしまっては、もう京島に来る目的はなくなってしまったなあ。

 あ、まあ、いやいや、私の従兄弟の町ではあるし、お祭りなんかには顔を出すだろうし、なかなか、縁は切れない町なんですね。

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「業平橋」は目印になるんだが「東京スカイツリー」なんて目印になんかにはなるはずも無い、ってやんでぃ。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Kyojima Mar. 15 2021 ©tsunoken

2021年3月20日 (土)

立石の京成線工事はどうなっているのか?

「京成電鉄押上線(四ツ木駅~青砥駅間)連続立体交差事業」というのが、かなり前から行われているんだが、その後、その工事がどれほど進んでいるのかが気になって、京成立石駅まで行ってきた。

 まあ、何にもないところに線路を敷く工事じゃなくて、既に営業を行っている路線の営業を行いながらの再工事なので時間がかかるのは仕方はないのだけれども、まあ、やっぱり工事は「進んでいるんだけれども、遅々として進んでいないように見える」って訳なんですね。

 まあ、立石の駅が高架になってしまえば、多分、駅前の雰囲気も大分変るだろうから、それ以前の姿を捉えておこうという考えもある。

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 ということで、取り敢えず北口商店街からちょっと入った「呑んべ横丁」へ。

 まあ、こういうマイナーな飲み屋横丁が気になるってのが、私が「どうにも昭和」な人間だからか?

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 まだ、営業しているのかなあ、閉めちゃっているのかなあ。

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 なんとも気になる一角ではあります。

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 勿論、南口駅前の「立石仲見世」も気になります。

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 上が商店が中心の立石仲見世、下が寿司屋とか飲み屋が中心の立石仲見世の、それぞれ駅前の入口風景。

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 こちらが「立石駅通り商店街」。

 テリー伊藤氏のから揚げ屋さんは新顔ですね。

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 まあ、この辺も高架化によって大分変っちゃうんだろうなあ。

LEICA M-E VOIGTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Tateishi / Mar. 15 2021 ©tsunoken

2021年3月19日 (金)

企画展「子吉」は今日から開催

 御嶽山駅に続く池上線シリーズです。

 東京の超ローカル線ですね。東武大師線よりは上、っていう位の超ローカル線ですよね。西島三重子さんって、こういうマイナー路線が好きなのかなあ。ってか、意外と「鉄っちゃん」だったりして。

 取り敢えずまあ、これで気分をしっかり盛り下げてブログを読んでください。

 いいなあ、こういう「盛り下げソング」って、好きなんですよ。ということで……

 東急池上線で御嶽山駅から五反田方面へ三つ先の駅が洗足池駅である。

 洗足池があるのは「大田区千束」、ところが池の名前は「洗足池」なのである。何故、「千束池」じゃないのか……。

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 その由来は、池畔にある日蓮宗妙福寺の入口脇に書かれている。

『公安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。』

 なるほどなあ。

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 で、その妙福寺の前にあるのが『勝海舟別邸(洗足軒)跡』の説明書き。

『勝海舟(一八二三~九九)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺の農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(一八九八)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に明けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣きのある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。』

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 現在は、大田区立大森第六中学校になっているのが、勝海舟別邸の場所。

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 で、その大森第六中学校の裏に、大田区立勝海舟記念館がある。

 まあ、勝海舟が全国行脚した資料とか、太平洋を横断した咸臨丸のCG映像なんかがある、勝海舟の総合的な展示なんだけれども……。

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 記念館の裏には、勝海舟夫妻の墓なんかもあります。

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 で、その勝海舟記念館1階の企画展示室で、この3月19日から開催されるのが『勝海舟記念館企画展「小吉」—”勝海舟”を育んだ父―』なのであります。

 勝小吉という人は、勿論、勝海舟(幼名:麟太郎)の父親。酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り、不良旗本として恐れられた。って、言うから、まあ、ある意味で勝海舟の、あまり身分などに囚われない考え方には良い影響を与えていたのかもしれないが、その分、江戸幕府の重鎮からは親子して鬱陶しがられた存在ではあったんだろうなあ。しかし、「酒はあまり好まず」といいながら「吉原遊び」が好きっていうのが良く分からないですね。そんなに、セックスだけが強かったんだろうか。

 父親の「喧嘩を好んだ」っていうところも、やっぱり「今の時代には我慢が出来ない」っていう雰囲気もあるんだろうなあ。まあ、1980年代末の日本の雰囲気みたいなものかなあ。(あれっ? 段々、今の時代に寄せて来ていますねぇ)

 まあ、その分、「徳川の世をそろそろ終わらせる時が来た」と考えた、十五代将軍徳川慶喜からは高評価を得ていたのかもしれない。

「徳川時代」をどうやって終わらせるのか? それはそれでとてつもなく大きな事業ではあったのである。

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 勝海舟にすれば、明治政府から、数多くの招聘があったにも関わらず、それを一切断り、徳川幕府の一臣として終わったっていうのもカッコイイんだが、その最期もカッコよすぎる!

『明治32年(1899年)1月19日、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼んだが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、息を引き取った。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。享年77。」(Wikipedia)ってアリ?

 私も、風呂上りに備えてブランデーを用意しておこう。 77歳で死ぬのね。 ブランデーはヘネシーかなあ、レミーマルタンかなあ……。

 あっ、バカですねえ。違うだろう、見るところが。

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LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Senzoku / Mar. 27 2021 ©tsunoken

2021年3月18日 (木)

御嶽山(おんたけさん)と御岳山(みたけさん)

 一週間ほど前に池上に行く用事があったので、何故かその先の御嶽山に久々に行ってみたくなった。

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 東急池上線御嶽山駅は大田区北嶺町というところにある。

 Wikipediaによれば大田区北嶺町とは『東京都大田区の北西部に位置する。北部と東部は南雪谷に接する。南部は横須賀線(品鶴線)に接し、これを境に東嶺町・久が原にそれぞれ接する。西部は環八通り(東京都道311号環状八号線)に接し、これを境に田園調布本町に接する。町域内を東急池上線の線路が通っており、当地南部に御嶽山駅がある(横須賀線には駅はない)。駅周辺は小規模な商業地となっているが、その他は住宅地となっている。』という記述がある。

 そう御嶽山駅の下には横須賀線と東海道新幹線の線路が走っている。

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 勿論、御嶽神社の門前町である。

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 ところで東京都の青梅市には「御岳山(みたけさん)と御岳神社(みたけじんじゃ)」がある。一方、こちらは「御嶽神社(おんたけじんじゃ)と御嶽山(おんたけさん)」である。

 どう違うのか?

 御嶽神社(おんたけじんじゃ)の記述には『御嶽神社の創祀は、嶺村(現嶺町地区)ができた天文4年(1535年)頃と謂われる。当時は小社であり祠に近いものであったと推察されるが、後の天保年間(江戸時代後期)に木曾御嶽山で修業をされた一山行者が来社して以来信者が激増し、天保2年(1831年)に現在の大きな社殿を建立し御霊を遷座した。』(大田区御嶽神社由緒より)とある。

 一方、御岳神社(みたけじんじゃ)の方は『修験道の神である蔵王権現を祀る神社は、明治時代の神仏分離のときに、御嶽神社、金峰神社(金峯神社)、蔵王神社などと改称された。蔵王権現は、釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化し出現したとされ、神道においては、「大己貴命」「少彦名命」「国常立尊」や、「安閑天皇(広国押建金日命)」「金山毘古命」と習合し、同一視されたために、それらの神々を祭神とするようになった。なお、覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は、上記と区別して「おんたけじんじゃ」と呼ばれる。起源は蔵王権現信仰であるが別の信仰として分化している。』(Wikipedia)

 なるほど「御嶽神社(おんたけじんじゃ)」と「御岳神社(みたけじんじゃ)」は、そもそも、出自が違うんだ。

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 あれっ? そうすると池上線の線路を挟んで御嶽神社とは反対側にあるこの「美竹不動産(みたけふどうさん)」は、御嶽神社との「同音異義」とかアナグラムっていう訳ではないんだ。

 今までなんかやっぱり「おんたけ=みたけ」っていう読み方の中の問題なのかなあと思っていたんだけれども、う~ん、そうじゃなかったのね。残念!

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 駅前には立石駅通り商店街にあったテリー伊藤氏のから揚げ屋さんが、ここにもあるし……

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 アスクおんたけさん保育園もある……、こちらはわかる人しかわからないか。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Kitamine / Mar. 16 2021 ©tsunoken

2021年3月17日 (水)

鎖国の下の国際線ターミナル

 我が国は現在鎖国状態にある……、らしいですね。

 って言ったって、別に海外への渡航、海外からの入国がすべて禁止されているわけではない。というか、江戸時代の「鎖国」だって、そんなに完璧に「国交を閉ざして」いた訳ではない。

 取り敢えず「建前上は」海外との関係・交流・渡航などを禁止していたんだけれども、朝鮮王朝や琉球王国(当時は日本ではなかった)との「通信」、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間の通商関係は認められていたし、取り敢えず「国交」はあったのだ。まあ、江戸幕府も開国をした場合の国難を考えると鎖国をしたいんだけれども、完全に鎖国をしちゃうと、世界からどんどん遅れちゃうんで、結構、困っていたわけなんでしょうね。

 でまあ、その辺「ホンネとタテマエ」を使い分けるやりかたとして、如何にも日本人らしい方法で、長崎に出島なんかを作っちゃうんだから、本当にどこまで鎖国を徹底する気なんてなかったってことですね。

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 とすると、江戸のお膝元、羽田沖にある東京国際空港第3ターミナルはまさしく、現在の出島なんだろうか。まあ、出島も羽田も人工島ですからね。

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 なあんてクダラないブログの書き出しを考えながら、東京国際空港第3ターミナルへ行ってみた。

 羽田の第3ターミナルは、以前は国際旅客ターミナルって言ってたんだけれども、現在は第2ターミナルの一部にも国際線が発着するようになったので、現在は国際旅客ターミナルから「第3ターミナル」という呼び方に代わって、東京モノレールや京浜急行の駅も「第3ターミナル駅」という風に変わっています。羽田発の国際線利用の方は、第3ターミナルか第2ターミナルか、お気をつけてください。……って、余計なお世話か。

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 で、まあその東京国際空港第3ターミナルまで行ってみたんだけれども、モノレール駅から直接行ける出国ロビーに行ってみれば、当然のことながらガラ~ンとしていて、殆ど人はいません。

 まあ、現在、日本人で海外旅行をする人はビジネスや外交で(やむなく)海外へ行かなければならない人しかいないだろう。ってことなので、その数は少なくて当然。で、入国状況はどうなのかって、出発ロビーからワンフロア降りて到着ロビーに行ってみれば……。

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 到着ボードを見てみれば、取り敢えず結構到着便はあるようなんだけれども……。

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 お客さんの姿は全く見えませんねえ。見えるのは空港職員関係者の姿だけ。

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 まあ、もともと到着ロビーってのは、飛行機が到着した時だけザワザワして、それ以外の時は結構静かなんだけれども、その静かっぷりが異常なほどですね。

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 もう、なんか異常なほどの静けさです。

 凄いなあ、やっぱり現代の「鎖国」って、こういうことなのか。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Haneda Airport / Mar. 11 2021 ©tsunoken

2021年3月16日 (火)

新小岩ルミエール商店街

 JR総武線で新小岩まで行った。

 なんでも、「小岩と新小岩は仲が悪い」ということらしいので、取り敢えずその一方の新小岩に行ってみたわけ。なので、明日は小岩に行くの……、かなあ。

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 実は「新小岩」と「小岩」ってあまり関係がないのに、関係があるような名称付けをされてしまったというのが、その相互離反のもとになったようなのじゃないだろうか、というのが私の考察。

 新小岩駅は「葛飾区新小岩1丁目」、小岩駅は新小岩とは中川を挟んで「江戸川区南小岩7丁目」にある。もともと、何の関係もない場所。

 勿論、駅としては小岩駅の方が古くて、明治32年(1899年)5月24日、総武鉄道(現・JR東日本総武線)の開業と同時に開業。新小岩駅は大正15年(1926年)新小岩信号所として開設され、それが同年、新小岩操車場に格上げされて、新小岩駅が開業したのは昭和3年(1928年)ということなので、小岩駅周辺住民としては、「なんだ最近開業したばっかりの駅じゃないかよ」ってなもんで、一緒にされるのは面白くないってところなんでしょうかね。

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 小岩駅の南口には大きな二つの商店街と、もうちょっと小さなもうふたつくらい商店街がある。

 新小岩駅の南口は結構広い駅前広場があるんだけれども、大きな商店街は、南口からまっすぐ南へ向かって進む「ルミエール商店街」が一本のみ。ルミエール商店街はアーケード商店街なので、東側に並行して平和橋通りというのが走っていて、バスなんかはそちらを走っています。

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 ルミエール商店街っていうのは大きなアーケード付き商店街で、武蔵小山商店街とか十条銀座くらいのスケールのある商店街である。

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 ただし、商店街を構成している店を見ると、意外と地元資本は少なくて、もうちょっと大きな外部資本の店が多いのかなという印象がある。

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 つい最近オープンしたのが、タレントのコロッケさんが開いた「ころっ家」というコロッケ屋さん。

 まあ、こんな店がオープンしてもあまり違和感のない新小岩ルミエール商店街なのであります。

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 おお、第一書林はまだ勇躍営業中だ。

 この第一書林っていうのは、栃木県小山市の進駸堂という書店が中心になって運営している「NET 21」という協業組合というか協業会社というようなものの中心的なメンバーで、実は浦和の須原屋書店で修業した地方の中小書店の二代目たちのあつまりなのだった。

 結構、私も応援していたグループなんだったんだけれども、最近はどうなっているんだろうか。

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 第一書林のNET 21メンバーは、ルミエール商店街にある本店じゃなくて、新小岩駅の北口にある駅前店の店長さんだったんですけれども。でも、今はどうなんだろう。

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 いまでも、元気でやっているのだろうか。もう、駅前店の店長じゃなくて社長になっているかも知れませんね。

 今度、訪ねてみようかな……、まあ、多分、もう、忘れられてしまっているでしょうけれどもね。

LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Shin Koiwa / Mar. 10 2021 ©tsunoken

2021年3月15日 (月)

青天を衝け 大河ドラマ館は、北区飛鳥山博物館で公開中

 京浜東北上中里駅からは「飛鳥の小径」というところを通って飛鳥山へ向かいます。

 まあ、普通に王子から行ってもいいんだけれども、まあ、今まであまり通ったことのないルートで行くっていうのも、面白いじゃないですか。

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 まあ、「飛鳥の小径」なんて小洒落た名前が付いているけれども、要は京浜東北線の脇に人が歩けるような小道を作って、飛鳥山まで行けるようにしたっていうだけのことで、別にどうという道ではない。

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 途中、「国立印刷局東京工場」の裏口なんかを通るんだけれども、要は昔の造幣局(お札を作っている役所)であり、もうちょっとネタバレ気味に言っちゃうと、その造幣局の初代局長が渋沢栄一だったって訳なんですね。

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「飛鳥の小径」は国立印刷局東京工場を過ぎると坂を上がって普通の住宅街の裏道になってしまう。

 で、西ヶ原の七社神社辺りに来ると飛鳥山公園管理事務所の前に至る。

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 渋沢栄一に関係する飛鳥山公園内の施設には、渋沢家の別荘兼迎賓館として使っていた晩香盧(ばんこうろ)、渋沢栄一が集めた国内外の書籍を納めた青淵文庫(せいぶちぶんこ)、そして渋沢資料館があるんだが、しかし、よく考えてみると、飛鳥山公園って「区立公園」なんですよね。

 元々は、徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園であり、それまで武士の特権であった「花見」というものを江戸の庶民にも教えて、こうやって花見を楽しめば幕府に対する批判もなくなるだろう、という善政の一つであったわけなんですね。

 要は元々「公園」だったわけでしょ。多分、江戸時代には徳川家の土地だったと思うんですよね。江戸から明治になって多分徳川家から東京市に持ち主は代わったと思うんだけれども、いずれにしても「公」の持ち物だったはず。

 ところが、そんな公園の中に自分の別荘とか個人図書館とか作っちゃっていいのかしら? って、思いますねぇ。

 まあ、その位、当時の渋沢栄一の実力ってものがあったんだ……、って言えばそうなんだけれども。

 当時の、渋沢栄一くらいの実力があればその程度の「公私混同」なんて「当ったり前!」ってことなんですね。

 現代の総務省の役人や歴代総務大臣がクチャクチャ、自分にはそんな権限はありませんとか、「接待だったけれども、会費分返したからいいじゃん」なんてケチな接待話があるんだけれども、まあ、もっと渋沢栄一クラスの利益供与・贈賄なんて当たり前のことだったんだろうなあ、

 で、その飛鳥山公園で開催されている「渋沢×北区 青天を衝け 大河ドラマ館」だってんで、当然、それは渋沢資料館でやっているんだろうな、って思ったんだけれども……

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 実は、そうじゃなくて北区飛鳥山博物館の方で「渋沢×北区 青天を衝け 大河ドラマ館」は開催中らしい。

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 見てみようかと思たんだけれども、なんか、コロナ禍の関係で入場時間登録が必要みたいなので、そんなの面倒くせえなって感じなので、見には行かないで、そのまま飛鳥山から王子駅発駒込行の北区コミュニティバスで帰って来た。

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 まあ、これもご近所ネタですねぇ、済みませんねぇ。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Nishigahara / Mar. 14 2021 ©tsunoken

2021年3月14日 (日)

写真を言葉で語る無意味さを感じさせる『スナップショット』

 まあ、はっきり言って「写真評論」ってものを、私は信用していない。

 写真というモノは本来「言葉」という媒介を必要としていない媒体(ということに抵抗がある方にとっては「表現」でもいいですけれども)、である以上、その写真の解釈は見る者が勝手に決めていいわけなのだ。まあ、その写真の撮影時の裏側を多少とも知っている人間が書いた文章を「解説」とか「評論」とかいう言い方でもって、写真という表現主体にたいして「言わんでもいい」解説を足して、かえってその写真そのものの価値を落とすってのが「写真評論」の得意芸なんdすね。

 信用していないけれども、写真を見るときのチューターとしては、気にはしている。ただし、実際にその写真を見るときは、そんなチューターの感覚は「ブッ飛ばし」ます。

 写真家に寄り添っている写真評論家っていう人もいるんだが、それこそ写真家が撮った写真を<一般社会に通用するような言葉に置き換えて表現する>導師みたいなもんなんだろうけれども、まあ、実は写真家自身にとってはそことはどうでもよくて、まあ、自分の写真が「売れればいい」ってだけなんですよね。それが生きる糧だからね。

 まあ、写真とは遠いところにいて、たまたま写真について語ったロラン・バルト『明るい部屋』という書物があるんだが、実は、それは写真表現そのものについて語ったものではなく、「写真を記号学的に語った」だけの本なのである。勿論、それはそれで哲学的に写真を論じたというだけのことで、「写真論」ではなくて、「記号学の本」としては認めるんだが、ところが、こんな「写真家にとっては『トンデモ本』を引用して写真について語るようでは、到底、写真を語ることは出来ない」というのが私の考え方なんだけれども。

 北島敬三のスナップ写真について『それらは、例えばロラン・バルトの『明るい部屋』における母のイメージ、つまり不在の鮮明な現前というスナップ写真の極私的な美しいヴォイド、それを搔き乱す、不揃いで不完全な染み・断片である。』と書かれても、それは北島敬三の写真を評論したものでもないし、解説したものではない。

Photo_20210308163101 『スナップショット 写真の輝き』(倉石信乃・著/大修館書店/2010年6月20日刊)

「これまで日本が伝統的に得意としてきたジャンルであるストリート・スナップの成立は、一九三〇年代に木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄といったいわゆるプロフェッショナルな写真家の登場とシンクロしていたわけです。そういうプロの写真家が自らの身体と技術と知恵をもって被写体にぶつかっていって、ある意味被写体をかっさらって写真を成立させる。そこには確実に写真家から被写体に向けられる暴力、あるいは非倫理的な営みも含まれていて、それは今日の尺度から見て全面的に支持されうるものではありませんが、戦後に至っても、リアリズム運動、VIVOの写真家達、それから六〇年代末の『プロボーク』のすなわち森山大道、中平卓馬、高梨豊といった写真家たちに至るまで、日本の優れた写真家が得意としてきたスタイルは、ごく端的に言ってストリート・スナップであったと言えます。加えて七〇年代以降、荒木経惟のような写真家が活躍し始め、特に荒木の東京の街をスナップして歩くという行為のクォリティーというのは、森山大道のそれと並んで、九〇年代以降の日本写真を西洋人のキューレーター、批評家たちが大がかりに再発見していく中でも、驚愕をもたらすような自由闊達さを持っていたと言っていい。ところがそうした発見とほぼ平行して、その日本の持っていた「かっこつき」ではありますが、古き良き「スナップの伝統」というものが急速に成立不可能にありつつある。」

 と本書の最初の収録稿『監視とスナップショット』に書くんだが、「自ら写真を撮らない写真評論家」としては、そんな「(一般人には決して与えられていない)肖像権」とかプライバシーの権利なんてものには関係ないところで、写真家はストリート・フォトを撮り続けているのである。プロフェッショナルもアマチュアも……。

 まあ、「プライバシーの権利」については、こちら(撮る方)も気にはしているから、「写された」と(勝手に)思った人からなにかアクションがあれば、それは普通に対応する……、ってのが普通のストリート・フォトグラファー(つまり、それに「アマチュア」という冠詞が付くが)の通常のビヘイビュアでしょう。今は、デジタルカメラなので撮影後すぐに画像確認ができるので、「写されたと感じた人に画像を確認してもらって、残すかどうか決めればいいっていうだけのこと」でしかない。

 これがまた面白くない作業で、フィルムカメラだったら、「何が写っているのかは分からない」って言っちゃえば済んだんですけれどもね。

 実は、現在問題になっている「ストリート・スナップにおける、パブリシティ権・肖像権・プライバシー権」という、実際に問題になっているテーマについて語ってくれているのかなと思ったんだが、そういう問題にはあまり突っ込んでいなかったんで、まあ、はっきり言ってがっかりしたわけなんですね。こちらとしては「ストリート・スナップにおける、パブリシティ権・肖像権・プライバシー権なんてものは成立しない」っていう、写真家にとっては理論的武装になる言葉を期待したんだけれどもね。

 結局、「写真評論」っていうのは、どうやって成立している分野なんだろう。

 言っていることは気にしてはいないけれども、でも、写真評論家(!?)が書いてくれることは、ちょっと気にしていたりしてね。

 いまや、まともな「写真誌」なんて、なくなっちゃたもんなあ。

 『スナップショット 写真の輝き』(倉石信乃・著/大修館書店/2010年6月20日刊)

2021年3月13日 (土)

慶應仲通り商店街

 慶應義塾大学にはまったく縁がなかった私にとっては、JR山手線の田町駅っていうのは、森永の駅だという感覚である。

 勿論、国道15号線を渡った先には慶應大学があることは知ってはいたし、まあ、慶應大学前と通る時は車で国道1号線を通る時に前を通るくらいで、田町駅からそちらに行くことはなかったし、その手前に「慶応仲通り商店街」というものがあることは知ってはいたが、そこに行ってみようとか考えることはなかった。

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 でもまあ、いろいろなところの商店街を歩いているtsunokenなので、そろそろ「慶応仲通り商店街」も歩いてみるかっていう感じで行ってきたのであります。まあ、そちらに行くと、なんか「学問のススメ」にまつわるナニモノかに出会えるのかなあ、という期待は「ホンのちょっとだけ」あった。(あまり、期待はしていない)

 まあ、ちょっと別の用件で三田方面はいろいろ歩いたことがあるんですけれどもね。

 慶應大学は「慶應」なんだけれども、慶応仲通り商店街は「慶応」なんですね。この辺の違いは結構重要で、要するに「慶応仲通り商店街」の人たちは、もしかしてあまり慶應大学は好きじゃない? ってな、イメージもあったりするんですね。まあ、勝手な思い込みですけれども。

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 ってな調子で「慶応仲通り商店街」を歩きます。

 田町駅から入ってすぐに道は左へ折れます。まあ、そうしないと赤羽橋の方へ行っちゃって、慶應大学の方には行けないからね。

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「慶応仲通り商店街」っていうんだけれども、あまり大学のお膝元っていう感じはありません。

 早稲田通りとかお茶の水の周辺って言えば、古書店や喫茶店なんかがあって、いかにも学生さんがたむろしている街、っていう感じなんだけれども、ここ「慶応仲通り商店街」は古書店も喫茶店も一軒もなくて、ただひたすら食べ物屋さん、飲み屋さんが沢山並んでいる町並みなんですね。

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 歩いているのも学生さんらしいひとはまず見なくて(今の時期っていうのもあるのかな)、サラリーマンの姿ばっかりが目立ちます。慶應大学の学生さんたちは古書に興味はないのかな? いやあ、「古書」って「格安本」ってことじゃなくて、「奇観本」とかっていう意味もあるんですけれどもね。

 ああそうか、慶應大学の人って『学問のススメ』だけ読んでりゃあいいのか。文庫本もあるしな、まあ、それでいい、って単純な話?

 バカじゃないかこいつら。そんなんじゃ、「思考停止」ですね。もう、東大病と同じです。

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 唯一「大学の街」的なもので見つけたのがこれ「佐藤繊維株式会社洋服部」の「慶應義塾指定制服御調製」の看板。すごいなあ、今でもこんなのやってるんだ。

 でも、考えてみればこんなところで制服を作る人なんて、慶應義塾大学応援指導部(慶應の応援団の正式名称です)の人くらいしかいないんだろうしなあ。それだけで営業をしていけているんだろうか。

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 慶応義塾大学は無視して、大学の前にある「ラーメン二郎三田本店」前に至ります。

 創業者が慶応義塾大学とは関係ないらしいようなのですが、まあ、この地に本店を構えたってのが成功の一因ではあるらしい。

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 なんかラーメン二郎には特有の注文方法があるらしく、それを知らない私は入ったことはありませんがね。まあ、別にラーメンそんな好きじゃないから。やっぱり江戸っ子は「天ざるに冷酒」でしょ。ねぇ

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Mita / Mar. 9 2021 ©tsunoken

2021年3月12日 (金)

12mmで街撮りスナップ・西荻窪編

 吉祥寺まで行ったついでに、隣町の西荻窪まで足を延ばしてみた。

 今野書店は西荻窪駅前にあります。以前は、もっと東京女子大に近いところにあったんだけれども、駅前に進出して大成功……、かな?

 ので、当ブログとしては、少し時を前に戻します……。

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 中央線の線路際を歩いて行くと、吉祥寺東町で五日市街道と交差するので、そこから反対側に渡り、吉祥女子校前を通って、西荻窪北口駅前に至るメインストリートに出る。

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 この道の狭さも有名で、さらにそこにバスが走っているので、特に狭さが強調される。

 まあ、実はこの「道の狭さ」が西荻を特徴づけているものなのであります。

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 しかし、西荻の駅前通りもなんか以前に比べると元気がなくなってきているなあ。

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 なんとなく、以前のような活気がなくなってきている感じがする。

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 まあ、南口は相変わらずですね。

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「やきとり 戎」も健在です。

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LEICA M-E VOIGTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Nishiogi / Mar. 7 2021 ©tsunoken

2021年3月11日 (木)

12mmで街撮りスナップ・吉祥寺編

 まあ、大体銀座なんてそれなりの広さを持った街でスナップ撮影をしたって、別に面白い写真が撮れるわけはない。

 ってことで、せまっ苦しくて、ゴチャゴチャしている街、吉祥寺に12mmレンズを持ち出した。

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 ハモニカ横丁なんだけれども、なんか大分店が入れ替わっているようだ。

 要は「街は新陳代謝する」っていうだけのことなんだけれども、人によっては昔を懐かしむ人もいるわけで、そういう人にとってはそんな新陳代謝は残念なこと、っていうわけでしょうね。

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 う~む、やっぱり12mmレンズだけのことはある。もう、ワンショットですべてを撮り切るっていうわけなんですね。

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 表に出て来ても周辺光量の低下というのも、殆ど気にならない。

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 うーむ、結構使えるじゃないか12mm。

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 ただし、まあ、これだけの狭さだったりしないと、なかなか難しいかな。

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 結構、使い方を考えなければならないレンズではあります。

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LEICA M-E VOIGTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Kichijoji / Mar. 7 2021 ©tsunoken

2021年3月10日 (水)

画家の小道・大宮

 京浜東北線で大宮まで行く。……と、何となく違和感を感じるのだ。

 埼玉県の中で、中心的な三つの都市、川口・浦和・大宮という三つの町があまり一体化していないんですね。

 まあ、川口まではいいんだけれども、途中から乗ってきた乗客の大半は浦和で降りてしまい、終点の大宮まで乗る人はあまり多くはないんですね。川口市は川口市のCMとおり「ほとんど東京」ってノリなので、まあ、わざわざ大宮まで行かずに東京へ行ってしまうんだろう。それより大宮寄りの駅から乗る人もほとんど浦和で降りてしまう。何故なんだろう。

 まあ、浦和は県庁所在地なのでそれなりに必要があって行く人は多いんだろうけれども、大宮に比べればそれほど商業地ではない浦和なんですがねぇ。

 で、終点の大宮で降りる乗客は、なんか物足りないくらい少なくなってしまいます。

 ところが、大宮の駅で降りて、改札口をでると、ものすごい人ごみでビックリしてしまう。

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 大宮は埼玉最大の交通の要衝である。

 JRは東北・上越・北陸新幹線に始まって、京浜東北線、上野東京ライン、湘南新宿ラインに含まれる宇都宮線・高崎線、りんかい線も含む川越線。さらに私鉄の東武野田線(アーバンパークライナー)、埼玉新都市交通などの新顔も含めれば、まさしく「埼玉県の交通の要衝」と言って何の問題もないんだが……。なんか、京浜東北線で大宮まで行く人は少ないんだなあ。

 そうか、要は川越を含む埼玉県の県北部の人が多く集まるのが大宮で、浦和は、まあそこにある役所なんかに用がある人が集まる場所で、大宮を除く県南部の人は、皆、東京へ行っちゃうんだっていうことなんですね。

 う~ん、埼玉って広いんだな~、ってことなんですね。とにかく、面積だけはだだっ広い。県の中心がどこだか分からないほど大きい。それほど、大宮っていう街は存在感があるんだな。別に、埼玉県の「すべての中心」である必要はない、って結構大人の対応をしているのが、大宮なんだ。なんせ「武蔵一之宮」の「大宮」だもんな。

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 で、その大宮駅前にあるゴチャゴチャした「さくら小路」と「ウエスト・サイド St.」の間にある、ある場所がいつも気になる場所なんですね。

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 それが、この「画家の小道」という小さなスポット。

『毎月第3日曜日、大宮駅東口ウエストサイドSt.内で開催されている 画家の小道は、絵画文化・クリエイターを育てる場所として、若手からシニアの作家さんまで毎月大勢参加されております。自分の自由な創作品を、自由な価格で販売。また、音楽や似顔絵などのパフォーマンスも開催。 作家さんの表現の場所、交流の場として、2013年3月より開催を続けております。

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画家の小道は
参加費用は0円!
作家育成を目的とした画家の小道は、出品される作家さん からの参加費用は一切いただいておりません。またロイヤリティーなども0円。 一度参加申し込みをいただければ、自由な時間に画家の小道内で、自由な創作品を販売できます。
あなたも画家の小道で1日画伯になってみませんか?』

 というのが、その「画家の小道」の主宰者の弁なんだが、その主宰者がどんな人なのかが分からない。サイトもないようだ。

 さいたま市大宮区が関係しているようには見えない。

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 で、その「さくら小路」と「ウエスト・サイド St.」を抜けると国道16号線(中山道)に出ます。

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 中山道を渡れば、あとは式内社(名神大社)、武蔵国一宮、勅祭社、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社、宮中の四方拝で遥拝される一社、東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社であり、他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」という、まあ、いわゆる「別格官幣社」ってやつですね。

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 まあ、それについては別に触れることはない。

 メインは「12mmレンズで街撮りスナップ」っていうのが、本当の目的だったのでね。

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LEICA M-E VOIGTLANDER ULTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Omiya / Mar. 6 2021 ©tsunoken

2021年3月 9日 (火)

狐の嫁いり 澤田知子写真展

 恵比寿の東京都写真美術館で、澤田知子写真展「狐の嫁いり」を見てきた。

 実は東京都写真美術館の年間パスポートが3月31日で切れてしまうので、慌てて見に行ったという次第。同時開催の白川義員「永遠の日本/天地創造」展も勧められたが、1970年のマッド・アマノのパロディ事件で一挙に白川氏の写真には興味がなくなってので、そちらは行かなかった。

 で、澤田知子写真展なのである。澤田知子という写真家は第29回木村伊兵衛写真賞を獲った写真家らしいのだが、私はその名前を知らなかった。しかし、一部には結構有名な写真家だそうだ。

 まあ、そういう事前知識なしで、写真展を見に行くていうのが、本来は正しい見方なんだろうな。で、変な話、たまたま行っただけの話。

 今回だけは……。

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「狐の嫁いり」という展覧会のいいところは「接写以外の撮影OK」っていうところだ。東京都写真美術館もたまに撮影OKという展示をやるんだが、まあ、これについてはこの写真展の意味合いから考えても、納得のいくところ。

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 展示室は一室だけなのだが、その四方総てが真正面から女性の顔を捉えた写真ばっかりで、まるで無数の女性に見つめられた気分にさせられる写真展なのである。

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 写真の点数は、タイトル毎に「Reflection 100点組」、「影法師・ビデオ展示」、「BLOOM 22点組」、「FACIAL SIGNATURE 300点組」、「Sign 56枚組2点」「これ、わたし 36点組」、「Deciraton/Face 20点組」、「MASQUERADE 50点組」、「Recruit 100枚組3点」、「glasses 10点組」、「cover/Face 20点組」、「ID400 100枚組4点、4枚組1点」、「Untitled 2点組」というもの。

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 そのうち、Reflectionは後ろ姿だけ、Signはアンディ・ウォーホルに影響されたトマトケチャップとマスタードの缶を沢山並べたものなので、それ以外の1,164点は、すべて女性の顔を真正面から撮影した、それも、よく駅前にある「証明写真ボックス」で撮ったような写真なのである。それが1,164点。まるで1,164人の女性に見られているみたいで、何か、見る者と見られる者の逆転現象が起きてしまったような感じがする。

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 ところが、その数多くの顔写真をみていると……、どうもよく似た人が写っているようなのだ。

 いろいろ見比べてみると、どうもすべて同じ人物のようである。つまり、澤田知子さんという「写真家」は「写す写真家」じゃなくて「写される写真家」のようなのだ。

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 セルフポートレイトを基本とするアーチストとしては、美術家の森村泰昌氏がいて、ここ東京都写真美術館でも展示があったのを見に来たことがあるんだが、森山氏は「写真家」を名乗らなかったもんなあ。

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 それからすると、澤田知子さんみたいに、「自分では写さない写真家」「セルフポートレイトばっかり撮っている写真家」っていうのは、実は新しい写真家の姿なのではないだろうか。

 ちょっと不思議な気分だ。

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 恵比寿ガーデンプレイスの三越も、つい先日閉店してしまった。まあ、いつ見ても客が入っているのを見たことないもんなあ。

LEICA M-E VOIGTLANDER ULTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Yebisu / Mar. 5 2021 ©tsunoken

2021年3月 8日 (月)

『フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった。』

 フランスやフランス語圏のベルギーでは、元々「バンドデシネ」という、ストーリー漫画が存在していた。その辺が、アメリカやイギリスみたいな「コミック・ストリップ」というショート・コミックスしかなかった世界とは異なったコミックス文化を持っていたのだ。

「バンドデシネ」のアーチストと言えばエンキ・ビラルやメビウスなどが有名で、日本の大友克洋氏などもメビウスの作品には影響を受けたと自ら語っており、その大友氏の「AKIRA」が90年代半ばにフランス語翻訳版が出版されて、以降、日本のコミックスがフランスに進出したわけなんだが、実は、その切っ掛けになったのは、「マンガのフランス語版」じゃなくて「日本アニメのフランス進出」なのである。

 まさしく『フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった。』っていうタイトルそのものなのだった。

Photo_20210302161001 『フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった。』(エルザ・ブランツ・著/解説・鵜野孝紀/翻訳協力・Kana/日本語版製作・中井真貴子/発行・DU BOOKS/2019年12月20日刊)

『80年代から90年代にかけて日本製アニメが大量にテレビ放映されたことで、エルザのような最初のマンガ世代が生まれました。そんなアニメが大好きになった子どもたち(多くは少年でしたが)は、だんだんとアニメは原作のマンガが編集されたもので、カットされたシーンや台詞があること、また、アニメが本来のシナリオとは違う場合があることなどを知るようになります。そして、少しでもその世界を知りたいと、これまで足を運ぶことなどなかった、日本人向けの書店・紀伊国屋書店パリ店に日本語版コミック誌や単行本を除きに行くようになるのです。当時、店内に座り込む子どもたちの姿はパリ市民には衝撃的なものでした。
 そして、90年代半ば、初めてフランス語翻訳版『AKIRA』がバンド・デシネ出版大手のグレナ社より発刊。それに続き、独立系出版社トンカムらがいち早く、テレビアニメの原作もの日本マンガのフランス語版出版に着手します。その後、徐々に他のバンド・デシネ出版社も日本マンガを取り扱うようになり、2000年代に入ると、大手出版社グループがマンガの翻訳出版事業に参入。現在では小さいものも含めて30を超える出版社が日本マンガの仏語版の発売を行っています。』(鵜野孝紀氏による解説より)

 というのが、1980年頃から現在に至る、フランスにおける日本マンガの現状。

 そういえば、1988年にアニメ版『アキラ』のニューヨーク・オープン(全米初公開)に際して、大友克洋氏に渡米していただき、ニューヨークのSF系書店でサイン会を開催した時のこと。お客さんの中に、特別日本語の上手な男の子がいて、「どこで日本語習ったの?」って聞いたら、彼は「僕はアニメの『うる星やつら』のファンで、それで日本語版の『うる星やつら』を見ているうちに、日本語が喋れるようになった」というのだった。

 フランスに先駆けて、イタリアやスペインで日本アニメのTV放映が始まったというのは無理ではない。つまり、世界に冠たる文化王国フランスに比べて、経済的に遅れていたイタリアやスペインなどでは、自社(自国)で「子どもたちが見たくなる」アニメーション番組を作るほどの予算がテレビ会社になかった。で、極東の日本という国で作ったテレビアニメの翻訳・放映権を格安で仕入れて、自国語に翻訳してテレビ放送していたのである。

 その中でも人気があったのが『キャプテン翼』で、日本のマンガ原作の日本製アニメだなんて知らなかったイタリアやスペインの子どもたちの中で、「ぼくもツバサみたいになりたい!」って思って、その後、国際的に活躍するようになったサッカーのプロ選手が沢山いた、という事実がそれを証明している。

 つまり、日本の子どもたちは<マンガ→アニメ>という風に進んで行くんだけれども、アメリカやヨーロッパの子どもたちは<アニメ→マンガ→ストーリーマンガ→その一部がエッセイマンガ>っていう風に進化するんですかね。

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 このエルザ・ブランツ氏のマンガって、長編ストリーマンガじゃなくて、日本でいうところの「エッセイ・マンガ」なんですね。話はせいぜい1~2ページのショート・ストーリー。ストーリーがあるわけではなく、何となくの自分の気分を描いているマンガなんですね。

 多分、こういう種類のマンガって、欧米にはないんじゃないか? 日本にはこんなジャンルのマンガは沢山あって、大人向けの週刊誌のマンガっていえば、この種のエッセイマンガだもんなあ。

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 そこまでフランスのマンガ文化って進んでいるのか!

 すげーな

 エッセイマンガってフランスでもあるんだ。ってことはエッセイ大国フランスでも、こんな「エッセイマンガ」が流行るのかなあ。これはすごい興味だ!

 『フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった。』(エルザ・ブランツ・著/解説・鵜野孝紀/翻訳協力・Kana/日本語版製作・中井真貴子/発行・DU BOOKS/2019年12月20日刊)紙版もあるようだ。

2021年3月 7日 (日)

12mmで銀座写真……の続き、月島編

 まあ、もともと銀座通りみたいな広い通りよりは、この月島通り(もんじゃストリート)の方が12mm超々広角レンズにはあってるんだよな、ってことはわかっていた。

 まあ、周辺光量の落ち込みが多いレンズなので、それを気にしていれば使えるレンズだってことなんですけれどもね。

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 面白いのが、こんな感じで撮っていると、自分で気がつかないうちに「セルフポートレイト」を撮ってしまっているっていうことですね。いやあ、これは面白い。まあ、それだけ12mmレンズの撮影範囲が広いっていうことなんだけれども。
 もうちょっと、アングルを上げなければね。でも、そうすると建物の縦の線が上すぼまりになってしまいます。

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 基本的なことを言ってしまえば、私は「月島もんじゃストリート」っていうのは、あまり好きじゃない。

「もんじゃ焼き」っていうものは、特別な食べ物じゃなくて、普通に町の中に「お好み焼き/もんじゃ焼き」っていう看板があって、普通に町の中にあるもんで、別に月島に行かなければ食べられないものではないと考えている。

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 私が、自分の思い出の「もんじゃ焼き/お好み焼き」といえば、中学時代のバスケットボール部の練習からの帰り道、中学のそばにあったお好み焼き屋さんで食べたもんじゃ焼きであります。

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 っていうか、昔は下町とか場末とか言われていた町にはかならず「お好み焼き/もんじゃ焼き」の店があったんですね。

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 要は、一番小さかった子ども、小学生たちは駄菓子屋で遊んで、中学生になると部活とか始まるんで、男の子は「見栄」をはって大体「運動部」に入って、その帰り道に「お好み焼き・もんじゃ焼き」に寄ってから家に帰るっていう訳ですね。

 なので、わざわざもんじゃ焼きを食べるために月島まで行く理由が分からない、ってのが理由なんですね。あんな「マズい」ものを食べにね。

 特にうまいもんじゃないですよ、お好みももんじゃも。要は、自分で作りながら食べる……ってのが面白いだけで。

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 で、月島を逃げ出して佃島へ。

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LEICA M-E VOIGTLANDER ULTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Tsukishima & Tsukudajima / Mar. 4 2021 ©tsunoken

2021年3月 6日 (土)

12mmで銀座写真

 今、私が手持ちのレンズで一番広角なのがこれらの写真を撮った「フォクトレンダー・ウルトラ・ワイドヘリアー12mm/f5.6」。

 元々は、以前から持っていたレンジファインダー・デジタルカメラのエプソンRD-1Sのセンサー・サイズがAPS-Cサイズ(23.7mm×15.7mm)なので、フルサイズ(36mm×24mm)に比べると、かなり実測上のレンズ焦点距離が実は異なる。で、エプソンの換算表から見て「エプソン12mm=フルサイズ18mm/エプソン15mm=フルサイズ23mm」というのがあるので、じゃあ12mmレンズを探そうということで、エプソンRD-1S用の広角レンズとして、フルサイズ21mmの代用レンズとして使っていたレンズなのだ。現在使っているライカM-Eはフルサイズのセンサーなので、いらなくなったはずのレンズだったんだけれども、ライカの場合の一番の広角レンズが21mmなんだけれども、それを上回る12mmという「超広角レンズ」の「見え方」はどうなんだ、ってことでちょくちょく撮影に使っている、というような状況だった。

 まあ、エプソンRD-1Sもいいカメラだったんだけれども、既に製造中止しちゃっているし、となるとやっぱりレンジファインダーはライカに戻ってきてしまうんですね。

 で、そのフルサイズ・センサーのライカで21mmを超える、超々広角12mmで撮るとどうなるかっていうのが本日の撮影方針。

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 で、その結論として先に言ってしまうと「仰角を抑えて撮影すれば、普通の広角レンズとして使える」っていうことなんですねぇ。

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 まあ、もともと標準レンズで撮ることの方が多かった銀座写真なんだけれども、こうやって超広角レンズで撮ると、「人物」の影はなくなり、写真そのものは「人」ではなく「街全体」が被写体になってくる。

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 勿論、標準レンズや短望遠レンズなどは「人」を撮るレンズであり、広角レンズ・超広角レンズは「街」を撮るレンズだっていう知識くらいは、このぼんくらカメラマンだって知っている。

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 でもねえ、結構、イイ感じで街と人を捉えています(って、自画自賛)。

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 こうして、銀座から三原橋、築地へと歩いているだけでも、結構、超広角に相応しい被写体ってもんがあるのだ。

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 う~む、結構この12mm超々広角レンズっていうのも、使い道はあるもんだ。

 しばらくは、この12mm/F5.6を常用広角レンズとして使ってみようかな。

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LEICA M-E VOIGTLANDER ULTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Ginza & Tsukiji / Mar. 4 2021 ©tsunoken

2021年3月 5日 (金)

さくら新道は無くなっちゃたけど……こっちも?

 一昨日に続いて「王子ネタ」です。

 とは言っても今日は王子も王子、京浜東北線王子駅のすぐそばのお話。

 王子駅の京浜東北線のホームと飛鳥山の間に木造2階建て3棟の長屋があって、そこが「さくら新道」という、結構、京浜東北線を使う呑み助たちには有名な飲み屋街があった。

 そのさくら新道が火事になったという話を聞いたのは今から9年前、2012年(平成24年)のことだった。火事のすぐ後に焼け跡に立って嗅い焼け焦げた匂いを今でも覚えている。3棟のうち上中里側の2棟が焼けて、残り1棟だけは焼失を免れて、1軒の飲み屋さんだけが営業を続けていたんだが、そこも2019年には閉店となり、2020年には残る1棟も解体となり、さくら新道という看板もなくなってしまった。

 もう、王子には昔からの飲み屋街はなくなってしまうのかな、と思ったんだが、どっこい、他にも昔ながらの飲み屋街があったんですね。王子駅前に。

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 それが王子駅北口の正面にあるサンスクエアという商業ビルの足元にある「柳小路商店会」という一角。

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 実はこちらもさくら新道と同じような戦後の焼け跡闇市からスタートした飲み屋街であります。なので、長屋形式の店舗も多くある。

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 さくら新道と比較すれば多少は小綺麗になっている柳小路商店会。

 まあ、さくら新道の方は周囲に商店街などもなくてそれこそ飲み屋さんだけの飲み屋街であるのに比較して、柳小路商店街は王子駅の表側に存在し、周囲にもいろいろな商店も建ち、人の流れも大きい場所にあるので、さくら新道よりは立地的には商売には適している場所だ。

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 一戸建ての店舗(兼住宅)も多く、それなりにリニューアルしていることもあって、小綺麗にはなっている。

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 が、こちらも貸店舗は空き家のままになっている場所も多く、店を壊して更地になっている場所も目立つ。

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 まあ、これも時代の流れなので仕方のないことなのだろうけれども、こうして次第に「昭和の遺構」もなくなってくるんだろう。今や平成を経て令和だもんなあ。昭和は大昔のことなのです。

 で、令和三年は渋沢栄一の年です。

 王子はまさしく渋沢家のある飛鳥山の麓。飛鳥山博物館では『東京北区大河ドラマ「青天を衝け」』特別展示を今年いっぱいやっています。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Oji / Mar. 1 2021 ©tsunoken

2021年3月 4日 (木)

浦安、境川を往く

 昨日は「桃の節句」である。桃の節句なら蛤のお吸い物だろうということで、浦安に行った……わけではない。

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 っていうか、浦安駅前は「焼蛤の越後屋」だもんなあ、越後屋の焼蛤も美味しいけれども、それはお吸い物ではないしね。まあ、何となく=「桃の節句」→「蛤のお吸い物」→「蛤」→「浦安の焼蛤屋」っていう「短絡」だけで、別に意味はない。

 なので、取り敢えず旧浦安町役場前まで行くわけです、っていつもここが浦安写真の起点なんだけれどもね。

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 今日は、浦安を流れて、浦安の町を作ってきた「境川」に沿ってちょっと歩いてみようという趣向で……、って言っても、このブログでも何度か書ている境川なのでねえ……、どうなりますことやら。

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 境川については、川の途中に浦安市教育委員会が作った説明板があるので、それをコピペ。

『境川          昭和三十三年(一九五八)、準用河川として指定
              昭和四十年 (一九六五)、一級河川として指定

 境川は、江戸川の支流で、本市の中央を西から東へ流れ、東京湾に注いでいます。
 かつての境川は、長さ一・七キロメートルほどの小さな川でしたが、昭和四十年(一九六五)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約四・八キロメートルになりました。
 江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家を建て、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。
 川の水は、昭和二十年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったといいます。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきました。
 また、漁業を生業としていた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果たしていました。かつては、二千艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られました。
 しかし、昭和四十六年(一九七一)に漁業権が全面廃棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していきました。こうして、境川の光景も次第に漁師町の面影を失っていきました。

 平成十六年一月           浦安市教育委員会』

 まさしく、山本周五郎『青べか物語』の世界が、ここ浦安にあったっていうわけですね。

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 その浦安市の堀江側の中心的な道が、この「堀江フラワー通り」なんだが、昔は浦安一の繁華街だったそうなんだけれども、今や、その面影はまったくありません。

 上の写真の「旧宇田川家」とか、そのちょっと先の茅葺屋根の「旧大塚住宅」とか、下の写真のような昔の濱野医院などの遺構以外は、そんな繁華街がこの辺りにあったとはとても思えない、静かな街並みが繋がっている。

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 で、濱野医院跡のあたりで、以前は猫実側に境川を渡って、神社なんかを見ながら浦安駅まで戻ってきたんだが、今回はもうちょっと先まで堀江側を歩いて、「フラワー通り」に沿って境川を渡って猫実側に至り、浦安市役所まで行こうという算段。

 と言っても、猫実側を歩いてもすぐにこんな神社に出会います。「左右天命弁財天(さゆうてんのみことべんざいてん)」という、地元では「猫実の弁天様」と呼ばれている神様です。

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 で、そこからちょっと川の下流方面へ行くと、浦安市郷土資料館があって、その脇には「べか舟河童」という置物があります。う~ん、「河童」なのか「蛙」なのかよく分かりません。まあ、モチーフとしては『青べか物語』で出てくる「べか舟」(貝や海苔を採る一人乗りの平底舟)で遊んでいる子どもたちらしいんですがね。じゃあ、人間じゃねえか、なんでカッパなんだ? 「小童(こわっぱ)」ってことなのかなあ。

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 で、浦安市郷土資料館の隣が浦安市役所です。

 境川の旧江戸川の分岐点そばにある浦安町役場跡に比較して随分立派で大きな建物だ……、って当たり前か。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Urayasu / Mar. 3 2021 ©tsunoken

2021年3月 3日 (水)

豊島五丁目団地を往く

 豊島五丁目団地は町名は「豊島」だが、所属する区は「北区」。『1871年(明治4年)11月14日に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入された。1889年(明治22年)の町村制施行時点では北豊島郡王子村大字豊島であった。』(Wikipedia)というのだから、元々の「豊島」という地名の場所だったらしい。『平安時代頃より当時この地を治めていた豊島氏の発祥の地とされている。現在の豊島七丁目の清光寺には豊島氏の武将の一人である豊島清元の墓がある。』(同じく、Wikipedia)というのだから、豊島区よりも古くからある地名なのである。

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 もともと、日産化学王子工場があった場所で、ここが豊島五丁目団地になる前は、ここをバスで通ると化学工場らしい強烈な悪臭がした場所だった。

 その日産化学の跡地に日本住宅公団(現・UR都市機構)が豊島五丁目団地を作り始めたのは昭和47年頃からだった。全部で12棟、5,000戸ほどというから人口では1万~2万人くらいだろうか。地方都市一つ分くらいの大団地である。

 余りにも大きな団地だったので、大友克洋氏の「童夢」の舞台はこの豊島五丁目団地だと思っていた時期がある。しかし、実際には京浜東北線の蕨駅そばにある芝園団地だと知ったのは、大分後になってから。大友氏は上京して浦和あたりに住んでいたので、まあ、京浜東北線沿線の大団地と言えば芝園団地だったんだなあ。

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 6号棟にある「トーホー・ショッピングモール」の前まで行ってみると何やら貼り紙がしてある。

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「豊島五丁目団地写真展」というのを開催していた。

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 面白そうなので覗いてみたんだが、要はメイン展示はこの団地の建設時代の頃の写真で、あとは団地の住民たちの写真がいろいろ並んでいる。

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「団地の写真」ばっかりではなく、都電荒川線の写真なんかもあって、面白い。

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  ただし、この団地にも高齢化の波と外国人住民の増加という問題も起きているようで、その辺は芝園団地と同じような「超高齢化社会と外国人住民との共生」というテーマが迫っているようだ。

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LEICA M-E VOIGTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Toshima 5 Chome / Feb. 28 2021 ©tsunoken

2021年3月 2日 (火)

「ロベール・ドアノー/音楽/パリ」を見に行く

 渋谷BUNKAMURA ザ・ミュージアムで開催中なのが「ROBERT DOISNEAU LA MUSIQUE PARIS (ロベール・ドアノー/音楽/パリ)」という写真展なのだが、ロベール・ドアノーって言えば、やっぱり「パリ市庁舎前のキス」ですよね。

L10071322@Shibuya©tsunoken

 東京都写真美術館のエントランスにも、日本人が大好きなその写真が掲げられているのだが……

Photo_20210227163901パリ市庁舎前のキス©Robert Doisneau

「さすがだよなあ、こんな一瞬のタイミングで撮影するなんて、さすがロベール・ドアノー」なんて思っていたんだが、実はこれはモデルを使った演出写真だったんだそうだ。

 まあ、演出写真だったからと言って、別にその写真の価値が下がったり上がったりするわけではないが、まあ、多少は興味は薄れますね。

 下の写真「オペラ座のキス」を見ても、中心に位置する二人と、周囲の人の動きの差を見てしまうと、何となくこれも「演出写真」かななんて思えてしまう。

Photo_20210227164002オペラ座のキス©Robert Doisneau

 ジュリエット・グレコも若い頃は随分可愛らしい顔をしていたんだなあ、いえいえ、晩年になっても奇麗だったってことは認めますがね。でも、こんな若い時代があったんだっていうことは、写真を見るということのある種の楽しみである。

Photo_20210227164001サン=ジェルマン=デュプレのジュリエット・グレコ©Robert Doisneau

 しかし、基本的に「人物写真の人」だと思っていたロベール・ドアノーにも、こんな建築物を撮影した「風景写真」があったんだっていうのは、今回の写真展での発見でありました。

Photo_20210227164003エリック・サティの家©Robert Doisneau

「ROBERT DOISNEAU LA MUSIQUE PARIS (ロベール・ドアノー/音楽/パリ)」は 3月31日まで開催中。

L10071352@Shibuya©tsunoken

LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Shibuya / Feb. 27 2021

2021年3月 1日 (月)

『新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門』

 まあ、ちょっとKindle版だけが新訂版だってところが気になるが、新訂版を出す費用と、新たに版を起こす費用を考えてみれば……まあ、原本を買った人が、新訂版でもって、新しい版を買うんだから、まあ、同じことか。

Tokyo3『新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門 Kindle版』(タモリ・著/講談社刊/2012年9月1日刊)

 タモリ(森田一義)氏は、日本坂道学会の副会長であり、会長は講談社の元『ヤングマガジン』編集長でもと役員の山野勝顧問である。たまたま、山野氏が銀座の酒場で部下らしき人を相手に坂道の蘊蓄を語って迷惑をかけていた時に、居合わせたタモリ氏が山野氏に声をかけたのがきっかけで出来たのが日本坂道学会なのであります。

『東京に初めて来て感じたのは、なんと坂の多いところだということだった。京浜東北線を境に西側は台地と谷の地形で当然それらをつなぐ道は坂道だ。東京、大阪、京都、名古屋を地図で見ると、緑か茶色一色で塗られており高低差がないように描かれている。これら大都市は東京を除いてほとんどが平地である。東京もそういうふうに描かれていたので当然平地だと思っていた。ところが実際来てみるとかなり高低差があり、しかも大都市のど真ん中に驚くような急傾斜の坂がいくつもあった。こんな大都市は東京だけだ。そして東京の坂は江戸時代からの名前、由緒がはっきりしている。
 江戸の町は非常に計画的に作られている。大きく分けて現在の京浜東北線の東側は下町で、碁盤の目のように東西、南北の道が直交しており、主に町人の町だ。これに対して西側は山の手で、台地と谷の地形から成っており、尾根筋に東西の道その両側に大名屋敷そして谷にわずかに町人が住むという配置だ。』

 と、初版まえがきに書く通り、東京(江戸)における「坂の上」と「坂の下」の関係というものは、絶対的なもので、今ではその間を往還することが可能だったんだけれども、昔はその関係はまさしく「相容れない」関係であったのであります。なので、その「坂の上」と「坂の下」の関係をみるだけで、昔の「侍」と「町人」の関係も見えてくるのである。

 で、どんな「坂道」が紹介されているのか……

港区の坂  三分坂 霊南坂 南部坂 本氷川坂 道源寺坂 狸穴坂 鳥居坂 暗闇坂 狸坂 綱坂 青木坂 三光坂 桂坂

文京区の坂 大給坂 湯立坂 福山坂 日無坂 鼠坂 善光寺坂 胸突坂 鐙坂

目黒区の坂 相ノ坂 目切坂 別所坂 なべころ坂 行人坂 寺郷坂

新宿区の坂 霞坂 梯子坂 新坂 鮫河橋坂

その他の区の坂 大田区  おいはぎ坂 桜坂
        荒川区  富士見坂
        台東区  三浦坂
        千代田区 紀尾井坂
        渋谷区  ネッコ坂 

 それぞれの区ごとに「史跡お散歩ルート」と代表的な坂の「ウォーキングマップ」が付いているので、結構、便利なお散歩用資料となっている。

 ただし、そんな「本に載っている」「名前のある坂」だけで止まってしまってはいけない。

 実は、それの何倍にもなる「名もなき坂」が無数にあるのが東京の街である。この『坂道美学入門』で東京の坂道に興味を持った方には、更に多くの「名もなき坂」を見つける努力をして欲しい。

 こんな坂道みたいにね……

L10070852上下に消失点が二つある坂道 @Komagome ©tsunoken

L10070842左右に消失点が二つある、昔風情の旅館がある坂道 @Komagome ©tsunoken

L10070952将棋塚や千駄ヶ谷富士でお馴染みの鳩森稲荷神社から千寿院前に降りる坂道 @Sendagaya ©tsunoken

『新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門 Kindle版』(タモリ・著/講談社刊/2012年9月1日刊)旧版(紙版)もあるみたいだ。

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