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2021年1月

2021年1月31日 (日)

クルマを手放してから1年経ったんだけれども

 ちょうど1年前、昨年1月31日のブログ「デジタルライカを買ったぞ! 買ったぞ! 買ったぞ!」で書いたとおり、今日でクルマ生活とおさらばして1年が経ったんだけれども、どんな感じだろうというお話。

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 昨年の1月31日にはこう書いた。

『メルセデス・ベンツC200(車両重量1,490kg)をドナドナして、買ってしまったのがライカM-E(カメラ本体重量680グラム)なんであります。
 1,490kgの金属の塊が、たかだか680gの金属の塊に化けて、ところが重い方がずっと安いってのは、どういう関係論なんだろう、なんてことも考えずに、買ってしまいました。』

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 で、買ったのがこのライカM-E(ただし、Type 240の姉妹機なので旧型M-E、レンズはアナログライカ時代から持っていたライツカナダ・ズミクロン35mmなので、フードはグニャグニャ、ただし皮ケースは新品)。

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 クルマを手放したことで大きく変わったのは、「Suica」の使用量が倍になったこと。

 それまでは東京都内や周辺地域はまあ、電車で取材に行っていた。まあ、電車で行ける所までは電車で行くんだけれども、その先にまで行かなければならないときにどうするか。まあ、バスで移動ってことですね。

「東京周辺」を超えるときはどうするか。

 まあ、茨城、栃木、群馬なんてところは取り敢えず電車で行くんだけれども、電車ではちょっと遠い、茨城なら鹿島方面とか、群馬だったら大泉あたりとかね。要は、電車でも行けるんだけれども、その先が不明な場所に行く時には、まあ、クルマ利用ですね。

 東京からの距離もあります。

 東京から2~3時間程度の地方に行くのであれば、まあ、クルマにするか電車で行くかは、時刻表とマップファンのにらみ合いです。で、電車の場合は降りた駅から目的地までの距離と時間ですね。

 で、まあ、結局1年経ってどうだったのか? っていう話ですよね。

 別に持っていても良かったクルマなんだけれども、「持っていなくても別に不便じゃなかった」というのが結論であります。

 この一年間はまさしく「コロナ禍」の一年だったので、あまり遠くには出かけられず、まあ、神奈川、埼玉あたりの近県ばかりの撮影行だったので、「だとしたら『電車で行って、必要ならバスに乗る』という方法でだいたい行きたいところには行ける」っていうことだったのだあります。

 まあ、その分、当たり前と言えば当たり前なんですけれども、Suicaの使用料が車を手放す以前は、毎月1万円位だったのが、その後の昨年は、毎月2万円は必ず超えるっていうことなんですね。

 そりゃ当然ですよね。移動手段をすべて公共交通機関だけに限っているんですものね。

 でも、クルマを持っていると、自分が運転していないときにも駐車料やら何やらを払っているわけで、そんな意味では、一番簡単な断捨離って、クルマを手放すっていうことなんですね。

 この1年間レンタカーの使用もまったくなかった。なんだ、結局、クルマっていうのは「それが必要な人」が使う物であって、どちらでもいい人にとっては、言わば(多少の)「ステイタス」程度の存在でしかなかったんだ。ベンツも車庫代もね。

 結局、Suicaの使用料が1ヵ月で1万円増えただけって言うんだったら、(東京に住んでいる限りは)もうクルマはイラン・イスラム共和国っていうことなんだってことだと気がついた、あ、私は別にイスラム教徒じゃない、単なる元NDC Tokyo(日本ダットサンクラブ東京)会員なのでありました。

2021年1月30日 (土)

「池袋写真」は池袋駅北口にあった!

 1月24日のブログ「「池袋写真」が実はあったのだ!」でもって、新宿写真でもない、銀座写真でもない、「池袋写真」というのがあったのだということを「池袋への道ー近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道」で知って、じゃあそれはどこを撮れば「池袋写真」なんだろうと考えながら池袋駅北口まで行ってきた。

 実は上記の「池袋への道ー近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道」の図録に堀口麗氏による「森山大道ロケーションマップ」というのがあって、森山氏の上記イベントへの出品作を撮影した場所が、そこに記されている。と、そのほとんどが池袋駅西口、それも北口方面の地域が多かったのを発見。

 やっぱりそうなんだ……。で、行ってみた。

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 まあ、池袋駅北口周辺は私もよく行く撮影場所であり、特に北口周辺に数多くの中国人が棲みつき、さながらチャイナタウンが出来ているみたいだと言われたのが数年前。で、その頃から何度もこの地域には私も状況を見に行っていた場所なのであった。

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 池袋チャイナタウンは横浜や神戸の中華街とは異なっている。

 それらのチャイナタウンは、どちらかというと中国南部の南京、広東、上海あたりから日本に来ている人たちが多く、彼らの目的は「日本人に中華の味を知ってもらうことによって、自分たちもそこに定着しよう」という発想法でできた街なのだ。従って、横浜の中華街の中華料理は、日本人向きに多少マイルドな味付けになっていて、日本人が食べても「美味しい中華料理」になっている。

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 ところが池袋チャイナタウンの中華料理は、華北、北京などからきている人たちが多く、基本的に北京料理などの辛い中華料理が多い。あまり日本人の嗜好については考慮していなくて、それこそ中国の北部の方から来た人たちの好みの味になっている。

 つまり、「日本人向けに味をマイルドにしている横浜の中華街」と、「華北から来ている中国人のために、祖国にいるのと同じような味の中華料理を提供している池袋の中華街」という、大きな違いがそこにはあったのだ。

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 まあ、まさしく、世界中に進出している中国人の、ひとつは「昔風の、まだあまり中国人が進出していない時代の仕方」であり、もうひとつは「中国人が世界進出したあとの、現代風の進出の方法」なんだろう。世界中にある「チャイナタウン」も、その「形」は実は時代にとって変わるんですね。

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 池袋の東口は、特に東京拘置所(旧・スガモプリズン)がなくなって、戦後の遺構がなくなり、サンシャイン60が出来たあとからは、途端に清浄化が始まり、なんか急速に昔からの飲み屋街なんかもなくなってしまってきてしまった。

 西口も立教大学がある方は、それなりに整備されてきていたんだが、最後まで残ったのが池袋北口前あたりの、元々は戦後の闇市があった辺りである。

 今も「客引き防止」のための池袋警察の街頭放送が流れる中で、平気で客引きをやっているような、逞しい地域でもある。

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 まあ、いずれは、池袋北口前あたりも、今のうちに見ておかなければ、池袋東口みたいな、「なんか表向きだけは奇麗な」街になってしまうんだろうなあ。

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 豊島区郷土資料館まで行けば、「池袋モンパルナス」や「池袋東口ヤミ屋街」なんかのジオラマが見られます。

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 ちょっと昔の、まだ池袋名物のトロリーバスが走る前の「池袋」ではありますけれどもね。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Nishi Ikebukuro / Jan. 29 2021 ©tsunoken

2021年1月29日 (金)

「このはしわたるべからず」

 最近、面白がって見ているTVCMがこれです。

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「このはしわたるべからず」

 一休宗純和尚は室町時代の人。

 頓智で有名な「一休さん」とは、その後から付け加えられたいろいろな「逸話」っていうか、「一休頓智噺」というか、そういうもので形作られた私たちのイメージとしての「一休さん」と、本当の一休宗純和尚との違いっていうものがあるんだろうなあ。

 で、「このはしわたるべからず」の一休さんの正しい答えはわかっていますよね。それがわかっていないと、このブログ読む意味はないです。

 もともと風変わりな和尚さんだった一休宗純師、その後の「一休さん」につながるエピソードも沢山あるようだ。

 Wikipediaによれば、こんなエピソードがあるそうだ。

〇印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
〇男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
〇木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。

Photo_20210127122001伝・墨渓筆『一休宗純像』(奈良国立博物館所蔵)
〇親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の〇商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。
〇正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
等々

 こうして見るとなんか型破りというよりは、とんでもない「破戒僧」にしか思えないんだけれども……。

 一休宗純師の、こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。

 このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んで、後には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。

 それは江戸時代のことである。実際に一休宗純師が生きた室町時代からは数百年後のことだ。

 昔、室町時代には「鼻つまみ」だった一休宗純師は、数百年後になった江戸時代には「頓智の一休さん」というスターになってしまうんだから、世の中何が起こるかは分からないってことですね。

 一休宗純師の近影を見ると、どう見ても「生臭坊主」って感じだもんね。

Photo_20210127121101一休宗純師近影「紙本淡彩一休和尚像(重文) 」

2021年1月28日 (木)

東上野裏道散歩カメラ

 この日は上富士から広小路前松坂屋行きのバスで御徒町まで行った。

 駒込から山手線で行っちゃえばもっと早く着くんだけれどもね。まあ、気分ですね。

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「東上野裏道散歩」って言ったって、別にアメ横を歩こうっていうんじゃない。もっと「裏道」らしいところがあるんですね。

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 アメ横の入口の前にあるこのローレックス屋さん、以前はライカなどのカメラも扱っていて、私が以前持っていたブラック・ライカM6はここで買ったものだった。現在は中古のローレックス専門店になってしまったようで、ライカは扱っていない。

 う~ん、だんだん中古ライカを扱っている店が少なくなってしまっているなあ。

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 で、春日通りを厩橋方面へ少し行くと、ありました「新橋イチカメラ」です。

 しかし、御徒歩町なのになんで「新橋」? って、当然、疑問が出ますよね。

 実は、もともとこのお店、昭和28年に新橋駅の前に「新橋カメラ」という名前で開店したのが出発点。お嬢さんに代替わりして平成16年に新橋駅前を立ち退きして、翌年、御徒町に「新橋イチカメラ」としてオープンしたという歴史を持つ。「新橋カメラ」は覗いたことがある、しかし、なんで「イチ」が付いたんだろう?

 ライカやキャノン、ニコンなどの他、ハッセルブラッドなんかも充実している中古カメラ店です。

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 新橋イチカメラからはホンの1ブロック昭和通り方面へ戻って、そこから春日通りに背を向けて上野方面へ歩き始めます。

「SHOOT The WORKS CASTING CORPARATION」って何か怪しい名前の店なんだなあ。「SHOOT The WORKS」の方は、なんかモデルガンなんかを扱っているお店らしいいんだが、もうひとつの「CASTING CORPORATION」ってのは「鋳造屋」っていう意味らしい。要は、お客さんの注文に応じて鋳造のアクセサリーを作ってくれるお店らしく、アメリカンアクセサリーのお店なのだそうだ。

 まあ、お店のファサードはいかにもアメリカン・テイスト。

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 そこから少し歩くと「一般社団法人在日韓国人貴金属協会」の看板が。

 なんでも日本に流通している貴金属商品の70%が在日韓国人が製作したものらしく、そうした人たちの起業を手助けしたりしている団体が「一般社団法人在日韓国人貴金属協会」らしい。このビル自体がそうした在日韓国人たちのコミュニテイーの場となっているようだ。

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 で、上野駅前の東京メトロ本社の裏に行けば千曲商会があります。

 千曲商会は、私はまだここでカメラを買ったことはないが、中古カメラフェアなどで必ず目にしている中古カメラ屋さんなのである。

 いつもスチールカメラばかりでなく、16mmのムービーカメラを必ず出品していて……、あれ? 333,000円のアリフレックス16SRって、前にも中古カメラフェアで見たことがあるなあ。

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 ということで、「あゝ 上野駅」なのでした。

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LEICA M-E VOIGTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Higashi Ueno / Jan. 26 2021 ©tsunoken

2021年1月27日 (水)

「晴海の選手村をコロナ病床に」っていうのが、ちょっと無理筋という話

 晴海埠頭に行くには東京駅丸の内南口から都バスに乗るのが、一番便利だ。10分に一本ぐらい出ているし、乗っている時間も30分足らずだ。

 ということで、晴海まで行ってきた。

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 晴海には東京オリ・パラの選手村として活用する目的で、数多くのマンションが建設中である。

 オリ・パラ終了後に、内装などをリニューアルしてマンションとして販売する目的で、その数、4,000戸以上、分譲価格は6,000万円~1億3,000万円という、都営大江戸線という公共交通機関から歩いて20分以上という足場の悪さの割にはかなり強気の価格設定の「晴海フラッグ」という名前の総合開発計画だ。

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 勿論、当初の東京オリ・パラは昨年の夏の開催予定だったので、マンションはほとんど完成していて、すぐにでも入居できるような準備は出来ているんだろう。

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 そんな晴海フラッグのマンションをコロナウィルス病床として使用しろという声が上がっているらしい。

 まあ、せっかくできている建物を無駄にしておくことはないというのが、その理由なんだろうけれども、実は、それは無理筋っていうものなんですね。

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 何故ならば、東京オリ・パラの選手村として使うのはJOCだし、実質的にはそれは東京都なんだけれども、じゃあ、そのマンションを造っているのは誰かっていうと、民間のデベロッパーなんですね。

 つまりデベロッパー側の目論見としては、オリ・パラの選手村に使われたっていうことを付加価値としてマンション販売が出来ればいいという考え方。つまり、苗場プリンスホテルのワールドカップロッジみたいな、そんな考え方ができるからこそ、東京都の要請に応じて、普通なら完成即入居となるはずのマンションを1年間寝かせて販売するという方法に同意したのだ。

 そのオリ・パラも既に本来開催されるはずの昨年夏から半年も過ぎてしまっている。つまり、デベロッパーとしては、せっかく完成したマンションを、本来販売する時期から既に半年以上もほったらかしているわけで、その間の金利負担だってバカにできない。まあ、晴海フラッグに参加しているのは大手デベロッパーばかりなので、それで会社の経営が傾くなんてことはないんでしょうがね。

 更に、オリ・パラの選手村だったら付加価値にはなるけれども、感染症の臨時病棟なんかに使われてしまっては付加価値どころか価値の毀損になってしまう。下手したら、マンションを販売することすら危ぶまれてしまう結果になりかねない。少なくとも、販売価格はいやでも下がるでしょうね。

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 さらにいうと、マンション・デバロッパー側からの反対論だけではない。

 つまり、今言われている「医療崩壊」の危機というのは、「病床の不足」ではなく、医師や看護師などの「医療従事者の不足」なのだ。

 いくら病床を増やしても、疲弊してしまっている医療従事者を休ませ、新たに補給する医療従事者が増えない限りはまったく意味がないことになってしまう。

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 ということなので、「せっかく建物があるのにもったいない」という理論は成り立たないのであります。

 じゃあ、どうすりゃいいのか? ってことなんだけれども……………ここは指をくわえて見ているしかないんでしょうね。

 ……残念ながら。

 ……コロナ禍の終息を願いながら。

 ……てか。オリンピックなんて本当にやるの?

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LEICA M-E VOIGTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Harumi Wharf / Jan. 21 2021 ©tsunoken

2021年1月26日 (火)

思わず、西池袋散歩カメラ、に

 一昨日のブログ「池袋写真」が実はあったのだ!」を見に行った時に、豊島区立郷土資料館企画展示室に、常設展示室に闇市やアトリエ村のジオラマ模型があることを知ったので、結構、ジオラマ好きな私としては、それを見ようととしま産業振興プラザまで行ってきたんだが……、七階にある豊島区立郷土資料館は毎週月曜日はお休みだったんですね。

 う~ん、毎日、六義園の前を通っていて、現在六義園は閉園中だってことを知らずに来てしまい、諦めて帰っていく人たちを見るたびに、「なんで皆、調べてから来ないのかね」なんて嗤っていた自分が、見事にそのしっぺ返しにあってしまったっていうバカなお話です。

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 ということなので、気分を変えて西池袋二丁目を散策することにした。森山大道氏も豊島区西池袋二丁目に住んでいたことがあるので、まあ、森山氏の見たものを見てみようかな……、なぁ~んてね。

 実際は、森山氏じゃなくて、自分が以前見てきた西池袋の風景の再認識をしたってだけ。まあ、森山氏はこんなものは撮影しないんだろうけれどもね。

 ということで、西池袋と言えば自由学園明日館ですよね。

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『自由学園は、羽仁吉一・もと子により大正10年(1921)に女学校として創立された。明日館はその自由学園誕生の校舎で、その設計は羽仁夫妻の教育思想に共鳴した世界的建築家フランク・ロイド・ライトで、彼は自らの建築思想を融合させて校舎を建築した。
 自由学園は生徒の増加に伴い、昭和9年(1934)に東京都久留米市に移転し、この建物は卒業生の活動の場として使われ、羽仁夫妻が自由学園と日本の教育の明日を託して「明日館」と命名した。太平洋戦争末期の空襲で池袋周辺は壊滅的被害を受けるが、幸い明日館は被災を免れた。
 その後老朽化が進み、昭和40年代になると取り壊しの可能性もあったが、卒業生、建築家をはじめ多くの関係者の保存への思いが実り、この地における保存が決定した。
 建築の特徴は高さを抑えて水平線を強調した屋根、窓やドアなどをはじめ多用されている幾何学的デザイン、建物の中に入ると床の高さを少しずつ変えた部屋を連続させた空間構成など、「プレーリースタイル(草原様式)」というライトの第一期黄金期の作風を良く表している。昭和2年(1927)に道路を隔てて竣工したライトの弟子、遠藤新設計の公道とともに、これら一連の建物がライトの作風を示す典型的な建物として重要であると評価され、平成9年5月29日に重要文化財に指定された、その後、約3年間の保存修理工事が実施され、現在は「使いながら保存する文化財」として、見学はもちろん結婚式、コンサート、展示会、公開講座など多くの人が利用し、文化財建造物として保存されている。
                     豊島区教育委員会』                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

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 自由学園の前には、やはり羽仁吉一・もと子が創立した『婦人之友』社がある。

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 いやあ、今でも「羽仁もと子・案『家計簿』」を売っているんだなあ。明治37年(1904)から売っているんですよ。

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 で、さらにJR脇を目白方面へ行くと、西武池袋線との立体交差に出る。

 ここから先には尾張徳川家の屋敷跡に出来た高級住宅地「徳川ビレッジ」やら、その中にある女子寮「徳川ドーミトリー」なんかがあったりして面白いところなんだけれども、そこまで行っちゃうと豊島区目白になってしまい『西池袋散歩カメラ』じゃなくなっちゃうので、今回は行かない。

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 ってことで、池袋駅のそばまで戻ってくると、ホテルメトロポリタンの前の小さな公園に、1月15日のブログ「雑司が谷を往く・弦巻通り」でかいた弦巻川の源流「池袋地名ゆかりの池」に出くわす。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Nishi Ikebukuro / Jan. 25 2021 ©tsunoken

2021年1月25日 (月)

小春日和の日は小日向散歩カメラ

 寒い毎日が続いているが、たまに「小春日和」という言葉で連想できる暖かい日があったりする。三寒四温という言葉もある通り、そんな寒い日と暖かい日が交互にやってくるのが春の気候だ。

 で、そんな小春日和に歩きたくなるのが、文京区の「小日向」であります。地名の小日向(こひなた)っていうのが、いかにも「春」っていう感じでいいですね。ところが、この「小日向」という地名がなにか天候に関係しているのかなと思ったんだが、別にそういうことでないらしい。

『「江戸砂子」によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で、家が絶えたあと、「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、「十方庵遊歴雑記」は、大塚大慈寺(現在廃寺)が昔日向国にあり、徳川家康に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることから、この意味の「古日向」の可能性もあるとする。いずれにせよ「ひゅうが」と「ひなた」で読みが一致しないので、「御府内備考』」以下後の考証家からは否定されている。』(Wikipedia)といういささかも面白くない解説があるようだ。まあ、要は何故「小日向(こひなた)」という地名になったのかは分からない、というのが正解だってんだから、なんか面白くない。

 いずれにせよ、護国寺から江戸川(神田川)に至る「音羽」という谷底の南側に小日向台地があって、その地が「こひなた」と名付けられている。つまり台地の上だから当然陽当たりは良いはずなので、それらが何らかのきっかけで「小日向(こひなた)」という地名になったんだろう。

 って勝手に考える。

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 で、日向の「小日向散歩」のスタートは、大塚三丁目で都バスを降りて、お茶の水女子大学の脇を右に折れて、少し行った先の「新大塚公園」である。まあ、別に意味はなく「公園」ではじまって「公園」で終わるっていう勝手な決め事だけなんですけれどもね。

 新大塚公園から西の方へ向かって少し進むと、まったく昔ながらのお豆腐屋さんがあるので、その交差点を右に折れる。少し坂を上がるとドン突きになるんだが、そこが(多分)小日向台の最高地点である。標高は分からないが住所としては「文京区小日向2丁目31番地」。

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 急な坂道が音羽方面へ下りている。

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 そこを音羽方面へ下りずに左へ曲がって少し進むと、右側に見えるのが「鳩山邸」であります。

 こちら側は裏側なので、こちら側から鳩山邸には関係者以外は入れない。鳩山邸に行きたい一般の方は坂を下りて音羽通り側から、今度は坂道をエッチラオッチラ上らなければなりません。

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 鳩山邸の裏門をさらに進むと、道は下ってきて、その途中にあるのが、以前、マツダだかスズキだかがコーナリング性能の良い新車のCMで使っていた「鷺坂のヘアピンカーブ」です。よくまあ、こんな狭いコーナーでクルマをブンブン回してコーナリングするようなCMを撮影したなあ、って思うんだが……、問題はこのCMを見た人の大半は、東京らしいんだがどこなんだか、場所が分からなくて困ったんじゃないかな。

 まあ、実は場所がわからなくて大正解。

 だって、このCMを見たら、自分もこのヘアピンカーブでブンブンクルマを振り回してコーナリングをしたくなるじゃないですか。でも、そんなコトしたら、大半の人はヘアピンカーブの真ん前にある家に突っ込んじゃったんでしょうね。

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 で、その鷺坂を下りると江戸川橋に出るんだが、鷺坂下あたりから江戸川橋に出る途中に、写真家・田中長徳氏の生家があったらしい。ただし、今は、街そのものが変わってしまっているのでどの辺にあったのか分からない。

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 ということで、下の町まで降りてくると、江戸川公園です。春には桜の名所で、お花見客がいっぱい出ているので、それを避けて散策路として歩くにはとてもいい道です。ということで「公園つながり」が出来ました。

 その先の江戸川(神田川)流域には椿山荘とか関口芭蕉庵なんてのがあります。

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 で、江戸川橋まで出てくるとそこは音羽堂出版(©TBS『オー!マイ・ボス!恋は別冊で』)……、いえいえ講談社の音羽グループの本拠地です。スミマセン、って何で俺が謝るんだろう?

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LEICA M-E VOIGTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Kohinata / Jan. 22 2021 ©tsunoken

2021年1月24日 (日)

「池袋写真」が実はあったのだ!

 一昨日のブログで『「新宿写真」「銀座写真」はあるけど「池袋写真」はない?』なぁ~んてことを書いた舌の根も乾かないうちに、早速「池袋写真があったのだ!」なのである。いやはや、無責任の極みではありますな。

 実は、昨日から開催されている『池袋への道―近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道』の、まさしく『森山大道』が「池袋写真」なのであります。

 そうだった。森山氏は以前、池袋に住んでいたことがあったのだった。

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 早速、池袋の東京芸術劇場地階「アトリエウエスト」まで森山大道氏の「池袋写真」を見に行く。

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 写真とは現実社会のコピーにすぎないという森山氏の考えなのかどうかは知らないが、会場内写真撮影OKなのがイイ!

 まあ、別にコチラは接写してコピーしちゃって、自分の作品としてどこかで発表しようなんていうことは考えていないので、この措置は当たり前。原則、撮影禁止っていう、東京都写真美術館が神経質すぎるだけなんですね。

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 森山大道氏が以前、西武池袋線椎名町に近い西池袋4丁目のアパートに住んでいたことは知っていたのだが、2003年2月から再び西池袋2丁目に戻っていたとは知らなかった。以前、西池袋に住んでいた時にも池袋はよく撮影していたらしいのだが、その頃はあまり池袋を撮影していないものだと思っていたのだが、実はそうでもなくて、まさしく森山大道氏の「池袋写真」の原点が以前の西池袋在住にあったのだったんだろう。

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 作品は森山氏の『記録』という写真誌というか写真集からピックアップされた写真が多い。

 写真キューレーターの倉石信乃氏との対談が図録に収録されている。

倉石 最終的に街の表面をはぎ取って行った後に残る物のひとつに地形、起伏があるかと思います。渋谷では坂がありますが、池袋で地形を体感できる感覚はあるのでしょうか。
森山 渋谷のような感じで地形を知覚するということはないね。
倉石 池袋にも新宿にも、いわば「東西問題」があります。東口と西口の性格がそれぞれ違って、両方を往還することもあるかと思いますが、その往還に池袋らしい特徴はありますか。
森山 池袋はいろんなエレメントがギュッと詰まっているという感覚があります。
倉石 商業地域と住宅街が比較的接近しているということもあるんでしょうか。
森山 ありますね。歩いているとあっという間に目白に行ってしまいますから。新宿だと何か違うんですね。僕のなかでは地形とは関係なく、もっとフラットというか。先程言ったように時間が積もっていない。もっと表象的だという気がしますね。地形についてはわかりませんが、池袋には一種の立体感があります。』

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Photo_20210123221001@森山大道

 う~む、犬の写真も、あの有名な犬の写真とは違うのだ。これは池袋の犬、あちらは、あの「三沢の犬」。ポーズは同じなんだが、あとは顔もスタイルも全然違う。しかし、なんで森山氏の前で、犬は同じポーズをとってしまうんだろう?

 なんか、すごい写真家の能力ってものがあるんでしょうね。犬にまで影響を与えちゃうっていう。

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「池袋への道、近世の歴史資料、池袋モンパスナス、森山大道」は、東京芸術劇場、豊島区立郷土資料館企画展示室、雑司が谷鬼子母神堂にて、2月28日まで開催中。各会場とも入場無料。

 公式サイトはコチラ

Photo_20210123142901 『池袋への道ー近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道』図録は東京芸術劇場シアターアートショップにて販売中

 明日は豊島区立郷土資料館企画展示室に闇市のジオラマを見に行こうかな。

2021年1月23日 (土)

「新宿写真」「銀座写真」はあるけど「池袋写真」はない?

 「新宿写真」とか「銀座写真」とかいうものはあるんだが、「池袋写真」はないという話。

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 新宿写真というのは、勿論、森山大道氏だろう。

 花園ゴールデン街を中心に、数多くの新宿の街を撮影した森山氏は、同時に横須賀写真も数多く撮影しているのだが、やはり森山大道と言えば「新宿」という感じで数多くの写真を発表している。

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 銀座写真については、『GINZA TOKYO 1964』という写真集を2020年に出版した、銀座で1冊の本を売る〈森岡書店〉の森岡督行氏が、銀座写真家=伊藤昊(いとう・こう)をこうして紹介している。

「昨年の夏に伊藤昊さんの写真に出会いました。社会の矛盾や暗部を注視したフォトジャーナリズムの手法を踏まえつつ、新しく生まれる建築や文化、ファッションなど、都市の繁栄の明るさに目を向けてそれを捉えた。銀座が好きで、それを素朴に写し撮っていく伊藤さんの視線に共感を覚えて、写真集を作ろうと思ったんです」「フリーのカメラマンとしての仕事を35歳で辞めて以降は、益子に拠点を移して陶芸家として活動していたそうです。20代の短い期間に撮っていたのが銀座と横浜。欧米に憧れて、欧米のような煉瓦の街並みを作ろうと夢見て生まれた銀座という街を劇場に見立てて、そこに一瞬の物語を探した。三越の前に立つ新婚旅行中のようなカップル、碌々館の駐車禁止の看板の前に停められたバイク、キャバレーらしき場所に掲げられた “インド大魔法” の6文字など、ユーモアが重なり合う瞬間を待って、それを写真に忍びこませていったのだろうと思います」 

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 勿論、我らが「街撮り写真家」田中長徳氏も銀座写真家としては忘れてはならない存在だ。

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 ところが「池袋写真」というジャンルは見たことがない。

 何故なんだろう? それほど池袋という街は写真家の「写欲」をそそらない街なんだろうか。

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 まあ、例えば新宿ゴールデン街みたいな、昔からのまま残っているような飲み屋街は、今の池袋にはここ「栄町通り」という十数メートルだけの短い通りが唯一残っている昔からの飲み屋街ではあるんだが、実際にはそこにある店もほとんどが入れ替わってしまっている。

「駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、1612年(慶長17年)に江戸に移されて以来、これが地名として定着した。」なんていう銀座にあるような歴史もない池袋。

 たかだか「上野駅 - 前橋駅間に鉄道を開業させていた私鉄の日本鉄道が、1885年に官営鉄道(新橋駅 - 横浜駅)との接続を目的に、現在赤羽線(埼京線)・山手線となっている赤羽駅 - 品川駅間の路線を開業させた。だが、この時には池袋の地に駅は設けられなかった。その後、1903年に田端駅への支線を建設することになった。当初は目白駅での分岐が想定されていたが、地形や経由地などにおいて種々の難点が指摘されたため、それより北の台地上に新たに池袋駅を開設してここから分岐することになった。」という程度の歴史しかない池袋。

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 そんな池袋を撮影した森山大道氏の写真展「池袋への道―近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道」が今日から「東京芸術劇場アトリエウエスト」で始まる。

 森山大道氏は池袋の近所に住んでいた時期があるはずだ。って、ことで、そこには森山氏なりの「池袋」があるはずだ。

 これは見にイカネバの娘だ。どんな池袋が展開しているんだろう。

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LEICA M-E VOIGTLANDER COLOR-SCOPAR 21mm f4 @Ikebukuro / Jan. 19 2021 ©tsunoken

2021年1月22日 (金)

『日本カメラ』

 毎月20日はカメラ雑誌の発売日……、っていうのはいつ頃のことまでだったろうか。もはや『カメラ毎日』『アサヒカメラ』は休刊してしまったし、『日本カメラ』も大分発行部数を減らしたんだろう。私の家のそばの文教堂では、もう何カ月も前から配本はなくなってしまっており、一昨日、買いに行った神田の三省堂でも発売日に行っても私が買った一冊で既に完売状態。

 まあ、カメラというものが一般の人にとっては「無くてもいい」存在になってしまっており、スマホがあれば十分じゃないっ? てな感じになっているんでしょうね。

Photo_20210120160601 『日本カメラ 2021年2月号』(日本カメラ社/2021年1月20日刊)

 で、『日本カメラ』の2月号の第1特集が『モノクロ写真が面白い!!』というものなんだが、口絵特集が『ロベール・ドアノー/音楽/パリ』というもの。ロベール・ドアノーと言えば「パリ市庁舎前のキス」(Le Baiser de l'hôtel de ville)で有名なパリを舞台にした写真で有名な写真家だ。 1912年生まれで1994年に没したロベール・ドアノーの写真は、少なくとも我々が知っている限りは、すべてモノクロ写真である。

 う~ん、まさしく今月の特集記事に合わせた口絵なのであった……、というのは大嘘で、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで2021年2月5日から2021年3月31日まで開催される「写真家ドアノー/音楽/パリ」のパブリシティではあったのです。

 しかし、いまさら『モノクロ写真が面白い!!』って言ったって、そんなのモノクロは写真の原点なので当ったり前じゃない! って言っているのは、モノクロで写真を始めた私みたいなオールド世代だけなのかもしれない。今は「カラーが当たり前」「デジタル写真が当たり前」の時代ではあるのだから、「色彩というものを剥ぎ取った抽象性が本来の写真なのだ」なんて言っても誰も振り向きもしないだろうなあ。

 ところが最近、ライカからM10モノクロームとかQ2モノクロームという、モノクロ専門のデジタルカメラが出始めてしまって、様相が変わってしまってきている。

 勿論、もともとデジタルカメラには普通にモノクロモードという設定があって、モノクロで撮影できるようになっているんだが、どうもそのモノクロモードというのがなんか「付け足し」みたいな感じで、なんか昔のモノクロフィルム(私にとってはトライXなんだが)みたいなはっきりとした「黒」がイメージ通りにならないのが困った問題ではあった。その意味ではEPSON R-D1のモノクロモードは優れていたなあ、私が求めるトライX的な「黒」が出たのだ。その他、富士フイルムのデジカメや各社のデジイチなんかには、このモノクロモードにも何種類かのモードが付けられていて、最近は各種のモノクロモードのおかげで自分なりのモノクロデジタル写真が選択できるようになっている、っていうのはモノクロ写真っていうものの奥深さを表しているような、いないような。

 まあ、あくまでも私的な視点から言わせれば、いまでもモノクロは写真の原点なんだから、「色彩というものを剥ぎ取っ抽象性が本来の写真なのだ」ということに尽きるんですな。

 もう一つ面白い記事が『モウレツ!! シッパイ写真列伝』という記事。

 その「シッパイ写真」とは、まず『ロバート・キャパの第二次世界大戦の従軍写真、ノルマンディ上陸作戦』の有名な写真、マン・レイの『レイヨグラフとソレリゼーション』、リー・フリードランダーの『セルフポートレイト』、『「コンポラ写真」と「ブレボケ」の類型化と流行』って言うんだから、まあ、今なら別に「シッパイ写真」とは呼ばれないもの。

 その辺が「世紀のシッパイ」と「普通のシッパイ」の違いなんでしょうね。

 『日本カメラ 2021年2月号』(日本カメラ社/2021年1月20日刊)

 こちらもおススメです。

 『きままに、デジタルモノクロ写真入門』(丹野清志・著/ナツメ社/2019年6月4日刊) 

2021年1月21日 (木)

西武新宿線連続立体交差工事はどうなっているんだ

 西武新宿線の都立家政駅に出たので、そこから沼袋駅まで電車に乗って、取り敢えず現在進行中の「西武新宿線連続立体交差化工事」が、どこまで進捗しているのかを見に行ってきた。

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 西武新宿線連続立体交差化工事というのは、西武新宿線の中井駅を出たら、妙正寺川を渡った公園脇から地下に入って、新井薬師前駅から沼袋駅までを地下に移動しようという大工事なのだ。

 これによって、新井薬師駅と沼袋駅の途中にある中野通り(都道420号線)の混雑回避と、新井薬師前駅の急カーブを緩和しようという目的の工事なのである。

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 沼袋駅から見た工事の進捗状況は、まあ、はっきり言って、よく分かりません。

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 基本的には地下をシールド工法でもって進めているので、はっきり言って地上から工事の進捗状況を見ることは出来ない。

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 とは云う物の、都営地下鉄大江戸線みたいな、「大深度シールド工法」ではないので、基本的には地上に工事現場の地上側が出ているわけで、なんとなく「ああ、工事が進行しているんだな」というだけのことはわかる。

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 地下を少しづつ掘っていく作業なので、なかなか前には進まない工事なんだろうなあ。中野通りはまだまだ相変わらず踏み切りだしね。

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 こういうやり方だと、まだまだ時間はかかりそうで、西武鉄道の予定では、この工事が完成するのは2026年度末だそうだ。おいおい、まだ5年もこんな状態が続くんだなあ。

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 ドラえもん50周年記念の「ドラえもん号」なんて。知らん!

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 椎名街のトキワ荘は、西武池袋線だしなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1.8 G @Numabukuro & Matsugaoka / Jan. 18 2021 ©tsunoken

2021年1月20日 (水)

高円寺は純情商店街でしょ

 JR中央線高円寺駅で降りれば、まあ、普通は北口にある「高円寺純情商店街」ですね。

 ねじめ正一の直木賞小説で有名です。

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 勿論、南口にも青梅街道まで続くいくつかの商店街があって、それはそれぞれで見る分には面白いんだが……、でもやっぱり純情商店街なのだ。と、言いながら何が「純情」なのかは分かりません。まあ、単なるネーミングセンスですね。

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 しかし、純情商店街はあまり長い道ではなくて、ホンの少し行くと突き当りに出てしまい、そこを左へ曲がるクランク状の道が伸びています。

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 左へ曲がって右へ曲がると、今度は高円寺庚申通り商店街へと続きます。

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 なぜ、「庚申通り」かと言えば、ご存知の通り庚申塔があるからなのです。

『庚申塔
 この庚申塔は正徳六年(1716)、高円寺村の講中十人が、悪病退散・村民安全を願って建立したものです。
 庚申塔は庚申待供養のために、江戸時代さかんに建立されました。本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)が多く、不見、不聞、不言(みざる、きかざる、いわざる)の三猿が刻まれていることもあります
 庚申待とは庚申信仰の行事の一つで、六十日に一回めぐってくる庚申(かのえさる)の夜に、講中の人々が集まって、寝ずにお経を唱えたり、酒食を共に語り合いながら一夜を過ごしたといわれています。
 当初は現在の場所で真南に向かって鎮座していましたが、大正十二年(1923)の関東大震災で横転してしまい、その後西向きに建立されました。
 また、昭和二十年(1945)の東京大空襲の際には、戦火によって塔の一部が破損しました。現状の如く修復されたのは昭和三十七年(1962)のことです。
 現在も、庚申通り商店街の守り本尊として、地元の人々に朝晩熱心に信仰されています。
  平成二十七年六月       杉並区養育委員会』

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 で、庚申通りをほんのちょっと行くと早稲田通りに出ます。

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 早稲田通りを渡ると杉並区から中野区へ入ります。

 う~ん、商店街はなくなったんだけれども、なんか、道路を拡張する工事が始まっているようだ。

 ただし、計画図を見ると拡張計画があるのは早稲田通りまでで、その先、庚申通りの方までは拡張計画はないようだ。

 まあ、あのゴチャゴチャした商店街の道を拡張しようなもんなら、立ち退き交渉でとんでもなく苦労するだろうなあ。

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 そのまま行くと妙正寺川を渡って西武新宿線の方へと進みます。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Koenji & Yamato-Cho / Jan. 2021 ©tsunoken

2021年1月19日 (火)

裏ムサコ(?)

 東急目黒線武蔵小山駅は、以前、武蔵小杉と一緒にして「『ムサコ』でも、品川と川崎では違う」という風にしておちょくったことがあるんだが、いずれにしても、武蔵小山駅を降りると、まあ、普通は表側の「武蔵小山商店街パルム」を通って、そのまま中原街道を横断し、戸越銀座に至るっていうのが、普通のコース。

 今日は、駅前からそのままパルム商店街に行かずに、言ってみれば「裏ムサコ」じゃなかった「裏武蔵小山」とでもいうべきところを探索。

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 以前、武蔵小山駅前って言えば、結構、昼間からやっていた「センベロ」飲み屋街があって、それはそれで面白い街だったんだけれども、まあ、地元の人たち、とくに新しい住民からは嫌われたんでしょうね。結局、再開発の波に飲み込まれてしまってタワーマンションになってしまった。

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 これは、2番目に建設中のワーマンションで、なんかどんどん変わっていく武蔵小山駅前なんですけれども、更に駅裏の道を行くと、ありました。まだまだ、昔の武蔵小山の遺構って言っちゃあいけないんでしょうけれどもね。

 「武蔵小山温泉・清水湯」です。

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 おおっ! やっぱりあった下町のお風呂屋さん。だと思ったんだけれども、そうではなくて天然の温泉だったんですね。

 しながわ観光協会のサイトには以下の通りの記述。

『創業は大正12年(1923)、大人460円の銭湯価格で2種類の天然温泉を楽しめる大人気の銭湯です。
 深さ200メートル、100~200万年前の地層から湧き出る黒湯温泉(重炭酸ソーダ泉)は保湿・保温効果が高く、美肌の湯として知られています。黒湯には高濃度ナノバブルを充填し、温泉の効能をさらに高めています。
 深さ1500メートルから湧出する黄金の湯(塩化物強塩温泉)は銭湯初の大深度温泉で初の療養泉にも認定されています。ヨード成分が非常に豊富で、切り傷・擦り傷などに効果があり、こちらも美肌・美人の湯といわれています。交互浴をすればさらに効果がアップ。露天風呂、サウナ、岩盤浴(女性のみ)、2階には休憩所もあり、ゆったりと入浴が楽しめます。』

 とのこと。

 今は亡き麻布十番温泉とか新宿十二社温泉と同じく黒湯温泉(重炭酸ソーダ泉)と同じ、東京の黒湯温泉なんだなあ。

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 そこから少し行くと「品川区立あさひ公園」というのがある。

 まあ、だいたいこうした街中に突然公園があると、お決まりのように説明板があるんですね。

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『旧・讃岐丸亀藩京極家抱屋敷跡
 このあたりから東へとひろがる三角形の一帯は、讃岐国(現・香川県)丸亀藩の「戸越屋敷」と呼ばれた抱屋敷跡で、敷地は約8千4百坪、寛文6年(1666)2代高豊の時に取得した。野菜や薪をここから上屋敷に供給していたため、地元農民と京極家は結びつきが強かったと伝えられ、明治初年にこの地が京極家の手を離れたのちも、屋敷内にあった京極稲荷神社は地元有志によって祀られている。
 安政2年(1855)頃の丸亀藩主京極佐渡守朗徹は5万石の家禄があり、上屋敷は虎ノ門外(現・港区虎ノ門)にあった。』

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『屋敷内にあった京極稲荷神社』は、公園の裏側の一本向こう側の道にあります。

 ってなことで、裏武蔵小山を歩いて行くと、そのまま、武蔵小山商店街パルムの出口、つまり戸越銀座の入口に近い中原街道に出てくるのでありました。

 ここで「表武蔵小山」と「裏武蔵小山」が出合います。

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VOIGTLANDER UlTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Koyama & Ebara / Jan. 16 2021 ©tsunoken

2021年1月18日 (月)

いつもの散歩道……と、いう意味

 一昨日の暖かさはどこへ行ったのか、昨日は実に寒い日だった。

 あまりの寒さに遠出する気にはならずに、家の近所をちょっと散歩しただけだった。

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 まずは染井墓地から始めたんだが、こんな寒い日にわざわざ墓地なんてねえ、洒落にもならんぞ。

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 ということで、とげ抜き地蔵通りを往く。

 14日に縁日があったばっかりのとげ抜き地蔵通りなので、昨日はあまり人出も多くはない。

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 まあ、そんなわけで目につくものはときわ食堂やら……

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「日本一のマルジの赤パンツ」なんていつも目にしているものをぼんやり眺めているだけ。

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 おおこれは新しい店だな。

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 って、チンチン電車の通る街って、昨日の続きかよってななもんで……

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 明治通りそばの「パチンコ天国」を過ぎて、亀の子束子本舗の前を通ってJR板橋駅まで出て、都営地下鉄三田線の新板橋から帰って来た。

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 っていう単なる散歩道。なんの取材にもならない一日。

 おお、寒っ!

VOIGTLANDER ULTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Komagome & Sugamo / Jan. 17 2021 ©tsunoken

2021年1月17日 (日)

チンチン電車の通る街

昨日、一昨日の記事とは「都電繋がり」であるな。

 都電荒川線(東京さくらトラム)は、早稲田と町屋間を走る、東京に唯一残された路面電車なんだが、実際に路面(クルマと同じ場所)を走っているのは、王子駅前から飛鳥山までの明治通りを通る部分だけである。

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 とはいうものの、熊野前停留所から梶原停留所のあたりまでは専用軌道ではあるが道路といっしょの場所に線路があるので、なんとなく「都電=路面電車」的な楽しみが味わえる場所である。

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 実際には町屋から熊野前あたりも道路と並んで線路も走っているんだけれども、なんか周囲が住宅地なので、あまり「街中の路面電車」という感じになれないんですね。

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 それが熊野前停留所から先になると、道の両側が商店街になるので、「なんとなく路面電車」っていう気分になります。

 途中には荒川遊園地とか……

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 都電荒川車庫なんかもあって、なんとなく「都電乗り鉄」にも満足できる場所ではあるんですね。

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 で、梶原停留所を過ぎて明治通りと交差した後は、両側に道路もない単なる「ローカル電車」になっちゃうんですね。まあ、それが都電荒川線が生き残った理由、要は、「あまり車と一緒の路面を走っていないから」なんですけれどもね。

 梶原停留所のホーム脇には梶原書店があります。いいでしょ、この闌れっぷり、本の乱れっぷり。おいおい、こんなんで本屋やっていけるのかよ、なんて考えるんですが、どっこい、まだまだ、立派に営業中です。

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 で、結局、ここかよ!

 って言われてしまうのでしょうけれども、そうなんです。何度か来ているんだけれども、いつも休業日で買えなかった「都電もなか」をやっと買うことが出来ました。

 実は今日のブログのお題も、この店の手提げ袋からいただきましたんですよ。

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『東京名物 都電もなか

東京に一つだけ残った
チンチン電車の通る街
梶原に生まれた都電もなかは
なつかしい想い出ばなしがはずみます。

御和菓子司 明美』

LEICA M-E VOIGTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Nishi Ogu / Jan. 14 2021 ©tsunoken

2021年1月16日 (土)

雑司が谷を往く・鬼子母神界隈

 弦巻通りを真っ直ぐに行くと都電の踏切に出る。

 踏切を渡ると大鳥神社の鳥居の前に出るので、それをそのまま目白方面へ向かうと、鬼子母神の参道に至る。

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 鬼子母神の参道入り口そばには並木ハウスがあります。

「並木ハウス」って何だ。

『豊島区雑司が谷にある並木ハウスは、昭和28年に建てられた幅広の中廊下や床の間付きの部屋、気品ある形の手すりが特徴的な上質な仕様の賃貸アパートで現在も住居や事務所など11部屋全てが埋まっている人気物件です。
『鉄腕アトム』などの作者として知られる漫画家・手塚治虫氏が暮らしていたアパートとしても知られていて、平成21年には建物の保全と機能の更新を考えた再生(修復)をし、平成30年5月10日付けで国の有形文化財に登録されました。』(並木ハウス・公式HPより)

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 並木ハウスに入る隣には「雑司が谷 案内処」というのがあって、いろいろな資料が置いてあるので、もし雑司が谷散歩をしたいが良く分からないという方は、先にここに寄って資料をもらってからスタートするのがいいかも。

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 鬼子母神の参道はまっすぐ行くと90度左に曲がり、本堂が見えてきます。

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 本堂脇には何やら面白そうなポスターが……

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 「池袋への道―近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道」1月23日からか……

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LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Zoshigaya / Jan. 13 2021 ©tsunoken

2021年1月15日 (金)

雑司が谷を往く・弦巻通り

 雑司が谷近辺を歩くには、池袋方面から東京音楽大学あたりを通り弦巻通りを往く方法と、護国寺あたりから弦巻通りを通る方法がある。

 で、今回は護国寺方面から行く方法をご紹介。

 護国寺前交差点を目白方面へ渡り、池袋へ向かう首都高速の下を、不忍通りの2本裏の道を入ると、実は既にそこは弦巻通りの入口である。1本目を左へ曲がっちゃうと、またまた不忍通りへ出てしまうので要注意。

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 池袋方面へ行く道を左に折れてゆるい坂道を上る。

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 と、そこからすぐに左に菊池寛が没するまで住んでいた菊池寛旧宅跡にあるマンションにぶつかる。

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 マンションの入口に「菊池寛 旧宅跡」という碑が置かれているんだけれども、別にただそれだけ。

 中に入れば何か菊池寛に関するものでも飾ってあるのかなあ。

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 で、そのまま道を進むと、今度は右手に「寛」は寛でも、山窩(サンカ)作家として知られ、人生座や文芸坐などの池袋にある(あった)映画館主であった三角寛旧宅がある。

 ちょっと作家で、しかも同じ名前の人の昔の家がすぐそばにあるというのにはちょっとびっくりします。

 実は、この「三角寛旧宅」は料理屋として使われていて、私も何度かここを仕事で使ったことがある。

 残念ながら2019年12月をもって閉店となり、現在は取り壊し工事が行われているんだが、その後はどうなるんだろう。

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 この寛の並びには日本女子大学の学生寮があり、その先から豊島区雑司が谷となり、同じ道ながら「弦巻通り」になる。

 この弦巻通りは、池袋のホテルメトロポリタン前にあった池が源泉で、そこから護国寺の門前まで流れてきて、そこで他の流れと合流して、江戸川橋で神田川に流れ込んでいた川を暗渠にしてできた道らしいのだ。江戸川橋のそばには岡場所があったらしい。

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 こんなちょっとおしゃれな古本屋さんとか、旅猫百貨店なんていう「何を売っているのかよく分からない」お店なんかもあって面白い道なんだが……

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 確か、この旅猫百貨店のそばに「雑二ストアー」っていう、長屋みたいなスーパーっていうか、共同店舗があったはずなんだけれどもなあ。「雑二ストアー」っていうのは「雑な店」っていう意味じゃなくて、住所が「雑司が谷二丁目」なので「雑二」っていうだけ、「ストアー」っていう言い方が如何にも「昭和」っていうのか「大正」っていうのか分からないが、まあ、多分「昭和」なんでしょうね。

 何年か前に来た時には八百屋さんが一軒だけ残っていたんだが、もうそれもなくなっちゃったのかなあ。

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LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Mejirodai & Zoshigaya / Jan. 13 2021 ©tsunoken

2021年1月14日 (木)

T-CAT(東京シティエアターミナル)

 東京シティエアターミナル(T-CAT)は東京メトロ半蔵門線水天宮前にある、東京国際空港(羽田)へのバスターミナルとして1972年(昭和47年)7月1日に開業した。1978年(昭和53年)に新東京国際空港(成田)の開業にあわせ、東京都区部から世界への出入り口の一端を担うようになり、以来ターミナルで主な航空会社の搭乗手続きや出国審査の手続きが可能であった。

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 場所は水天宮前というよりは、首都高速道路箱崎インターチェンジの下にあると言った方が分かりやすいだろう。まあ、どちらの空港に行くのでも高速道路を使う必要があるので、そのための便利なところに作ったということなのだろう。

 そのために、箱崎インターのそばには車でそこまで来て、長期間駐車で預けるような駐車場があったんだけれども、今はどうなんだろう。

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 ところが、私はあまりここを利用したことはなかった。

 羽田に行く場合は、浜松町から東京モノレールに乗るか、品川から京浜急行の乗った方が便利だったし、成田に行く場合も日暮里から京成スカイライナーのほうが便利だったということもある。ただし、京成スカイライナーも開通当初は国鉄(当時)の成田新幹線計画があったため、成田空港の地下までは走っていなかったので、何度かはT-CATを利用したことはあった。

 成田空港開業当時は「羽田は(台湾便を除く)国内線、国際線は成田」という振り分けになっていたので、そうした理由もあったのかもしれない。更にT-CATで搭乗手続きと出国手続きの双方が出来たので、成田空港まで行く時間を稼げるので便利だったということもある。

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 ところが、2001年(平成13年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生直後、アメリカ連邦航空局の通達によって出発空港以外では北米線の搭乗手続きが不可となり、出国手続も搭乗手続が必要なため不可となった。北米以外の路線ではカウンター業務が継続されたが、各航空会社や入国管理局のセキュリティ強化により、2002年(平成14年)7月15日に出国審査業務が終了し、同年12月31日で日本航空のカウンター業務廃止により、搭乗手続業務が全て撤退・終了した。搭乗手続きと出国審査というのはほとんど一体なので、その片方しかできないのははなはだ不都合なので、その双方が出来ないということは、やがて双方ともなくなってしまうっていうことなんですね。

 さらに「羽田=国内線/成田=国際線」という使い分けルールもなくなって、羽田でも国際線の離発着をするようになり、成田はLCCの専用空港みたいになった。

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 そうなってしまうと、T-CATの存在価値は単なるリムジンバスの停留所という以上の使い勝手はなくなってしまっている。

 で、まさにその通りになってしまったのがT-CATである。

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 まあ、コロナ禍でもって海外旅行する人や海外から日本に来る人が減ったっていうのもあるんだろうけれども、それ以上に閑散として寂しいT-CATではある。

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 以前は航空各社の搭乗手続きカウンターや、出国審査があった2階はバスに乗車するまでの時間潰し用のレストランなんかのスペースになっているんだけれども、こちらもコロナ禍の関係もあって、どの店も「お茶を引いている」感じになっていますね。

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 こうなると、T-CATの存在意義もどうなっちゃうんだろう?

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Hakozaki / Jan. 10 2021 ©tsunoken

2021年1月13日 (水)

渋谷川を往く番外編・裏原宿

 1月5・6日の「渋谷川を往く」の番外編。

 原宿表参道を横切っていた渋谷川の遺構のお話です。

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 JR原宿駅を出ると表参道はゆっくり下り坂になる。

 明治通りの辺りがその下り坂の最低地点で、そこから青山通りに向かってこれまたゆったりとした上り坂になる。つまり、明治通り辺りが一番低い地点でということは、多分、そこには普通は川があるはずなんですね。地形からいって。

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 明治通りを渡ってビクター音産産業(現・ビクターエンタテインメント)と言っていた会社が昔入っていた原宿ピアザビルの脇にあるのが……

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「参道橋」という欄干の跡(?)、あるいは碑なのかなあ。

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 表参道の対面はMOMA Storeが入っているビル。

 じゃあ、そちらはどうなっているのかな?

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 で、表参道を渡ってみれば……。

 やっぱりあった「参道橋」の碑(みたいですなあ)。

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 この辺りは「キャットストリート」という通称が付けられているが、この「参道橋」がある辺りの道の正式名称は「旧渋谷川遊歩道路」という。この旧渋谷川遊歩道路が「裏原宿」と呼ばれる場所の中心地区である。キャットストリートが曲がりくねっている理由も、元々は川だったってことで説明がつきます。

 つまり、新宿御苑あたりの玉川上水を水源とする渋谷川(原宿辺りでは「恩田川」)はこの参道橋で表参道の下をくぐって渋谷方面へ流れていき、渋谷駅あたりで本来の渋谷川と合流し、今、普通に呼ばれる渋谷川になる、ってことですね。

 で、いつ頃この橋が、というか恩田川がなくなって暗渠になったのか。

 それが1964年、前回の東京オリンピックの時らしい。

 つまり、それまではキャットストリートもないし裏原宿もなかったってことなんですねえ。っていうか、原宿が「大人の深夜の盛り場」になったのが、多分、前回の東京オリンピックの頃からだったんじゃないだろうか。「原宿族」なんて言葉もあった。加賀まりことか大原麗子なんていう名前を思い出すけれども、う~ん、何だったんだろうなあ。

 まあ、当時、中学一年生のガキだった私じゃそんなこと知らなくてもしょうがないか。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Harajuku  / Jan. 12 2021 ©tsunoken

2021年1月12日 (火)

鶴見から新横浜まで行ってみれば

「4ヶ月で世界は変わる」なんて言っても、この一年間コロナ、コロナで何にも変わってないじゃん、なんて憤りながら京浜東北線は鶴見駅を目指す。なんて憤る前に、都県境を超える移動はするなよってところなんですけれども、まあ、行っちゃうんですね。

 なぜ鶴見なのかと言えば、昨年12月20日のブログ「昔”トヨタ綱島ワークス”というのがあった」で書いたトレッサ横浜の前から、鶴見駅西口行のバスに乗ったら新横浜駅経由のバスがあったので、その逆で鶴見駅西口から新横浜まで行くバス路線があるかもしれない、ということだったのだ。

 いやまあ、新横浜に何があるっていうんじゃなくて、何にもないってことを言いたかっただけで……。

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 鶴見駅西口と言えば鶴見写真機店である。流石に最近は一眼レフが多いが、かなり古い国産カメラが沢山あって、ウィンドウショッピングをしていても飽きない写真機屋さんであります。

 でも、今日はそんな寄り道をしている暇はない、新横浜方面へ行くバスを探さなきゃ。

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 鶴見駅東口とは異なって、西口にはバス路線と停留所の総合案内がない。

 ということで、前に乗ったトレッサ横浜経由で新横浜経由のバスが見当たらない。駅前のバスターミナルをウロウロしていたら、「菊名駅前経由新横浜駅行き」という横浜市営バス41系統というのがあったので、とりあえずそれに乗った。

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 しかしまあ、このバス、とにかく狭い道ばっかり走るバスで……

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 なんか狭い道ばっかりを選んで走っているのかな、なんて考えていたんだけれども、途中横断する国道1号線なんかとの交差点には出会うんだけれども、そちらには見向きもせず、裏道ばっかり走るバス路線、っていうのも何か、横浜市の哲学なんてもんがあるのかなあ、って考えてしまうのである。

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 狭い道を走りながら、東横線とJR横浜線菊名駅前のバス停を過ぎると、途端に広い道に出る。

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 つまりそこは既に新横浜駅付近だったのですね。

 でも、新横浜で何かを取材する気はない。

 横浜線のお隣の駅「小机」には「小机城」っていう昔の城址があったりして面白いんだが、新横浜駅がある、神奈川県横浜市港北区篠原町なんて昔は何もなかったところ。っていうか東海道貨物線の羽沢横浜駅があった場所のそばで、広大な空き地があったので東海道新幹線新横浜駅を作って、それに合わせてJR横浜線新横浜駅も開業したっていう経緯のとおり、要は新横浜駅が出来るまでは何にもなかったところなんですね。

 街というのは数十~数百年を経て、その街なりの歴史や、駅前のや飲み屋さんなんかが自然発生的にできて、街の歴史を形作って形成されるもの。ただ新しくできた「だけ」の街なんて、取材したって全然面白くないもんね。

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 ってことで、新横浜からは東海道新幹線で帰って来た。

 新横浜から東京まで20分弱。車内はガラガラ。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Tsurumi & Yokohama / Jan. 9 2021 ©tsunoken

2021年1月11日 (月)

『WALKER EVANS AMERIAN PHOTOGRAPHS』を読む

 2021年の劈頭(へきとう)を飾る本の紹介は、ウォーカー・エバンスの代表作『AMERICAN PHOTOGRAPHS』なんだが、実はこの本こそ、「写真が写真として自立する表現となる切っ掛けの本」なのであります。

『AMERICAN PHOTOGRAPHS』っていうことは、直訳すればまさしく「アメリカ写真」つまりこれが「アメリカの典型的な写真」っていうことなんだろうな。

 まあ、ただしそれは1938年のころのアメリカっていうことですけれどもね。

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 『WALKER EVANS AMERICAN PHOTOGRAPHS』(Walker Evans / The Museum of Modern ART ©September 1938 Walker Evans)

 ウォーカー・エバンスとFSAプロジェクトって何なんだろう。ちょっとお手軽にWikipediaで調べる。

 ウォーカー・エバンスは、ウィリアムズ大学を中退し、パリに渡ってソルボンヌ大学で学ぶ。はじめは作家になるつもりだったが、アメリカに帰国してから写真の道を歩むようになった。

 ただし、当時は文学部や哲学科なんていうのはあったし、美術学部はあったが写真学科なんてものはなかった。つまり、写真っていうものは、「学問」ではなく、実学のなかの問題でしかなかったのである。とはいうものの、「写真」というものが直接的に物事を人々につなげることが出来る「メディア」である、ということがわかったことが、実は当時としては一番大切なことだったんだ。

 つまり、それがフォトジャーナリズムの始まりだったのである。

 世界恐慌下のアメリカの農業安定局 (FSA) のFSAプロジェクトに加わり、南部の農村のドキュメント写真を撮ったことで有名になった。
 その作品は、記録性を徹底したストレートフォトグラフィである。絵画的な芸術性を受け入れるものではなかった。

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『FSAプロジェクト(えふえすえいプロジェクト)とは、アメリカ合衆国のFSA(Farm Security Administration; 農業安定局または農業保障局)が、1929年の世界恐慌勃発後のアメリカの(主として南部)農村の惨状およびその復興を記録するため(一方で、農民救済の必要性を訴え、一方で、ニューディール政策の効果をアピールするため)に行ったプロジェクト(1935年から1944年)である。

 手法としては、写真が用いられた。このプロジェクトにより生み出された10万枚以上の写真が、アメリカの国会図書館 (Library of Congress) にコレクションとして現在も保存されている。なお、本プロジェクトのディレクターは、経済学者のロイ・ストライカー(Roy E. Stryker; 1893年- 1975年)である。

 参加した主要な写真家は、ジャック・デラーノ(Jack Delano; 1914年-1997年)、ウォーカー・エヴァンズ(Walker Evans; 1903年-1975年)、セオドア・ヤング(Theodore (Theo) Jung; 1906年生まれ)、ドロシア・ラング(Dorothea Lange; 1895年-1965年)、ラッセル・リー(Russell Lee; 1903年-1986年)、カール・マイダンス(Carl Mydans; 1907年-2004年)、ゴードン・パークス(Gordon Parks; 1912年-2006年)、アーサー・ロススタイン(Arthur Rothstein; 1915年-1986年)、ベン・シャーン(Ben Shahn; 1898年-1969年)、ジョン・ヴェイション(John Vachon; 1914年-1975年)、マリオン・ポスト・ウォルコット(Marion Post Wolcott; 1910年-1990年)、アルフレッド・T・パーマー(Alfred T. Palmer; 1906年-1993年)などである。

 自身は写真家ではなかったストライカーは、撮影者とは異なった観点から、写真作品の取捨選択、トリミング、利用方法の決定(新聞、雑誌、書籍等の発表メディアの選択など)を行い、個々の写真家と対立することも多かった。没にした写真を穴あけパンチで損壊したことすらあり、ストライカーによって穴を空けられた写真が多数残っている。ってなことだったっていうことは、やっぱりまだその頃は「コピーライト」なんて発想がなかったんだろうなあ。とはいえ、そのような問題をはらんではいたものの、このプロジェクトの写真作品は、ドキュメンタリー写真(報道写真の一部)の、またストレートフォトグラフィの重要な実例として、それぞれにおける金字塔となっている。

 なお、このプロジェクト期間中の1935年から1944年までの間に政府の組織改編がおこなわれたため、正確には、1935年から1937年までは、RA(Resettlement Administration; 再入植庁または再定住局)が、1937年から1942年まではFSAが、1942年から1944年まではOWI(Office of War Information; 戦時情報局)が、それぞれ所管していたが、通常は、このすべての期間について「FSAプロジェクト」と呼ばれることが多い。単に「FSA」と呼ばれること、例えば、「FSAの写真家」というような例、もある。また、1942年までに限定して、FSAプロジェクトと呼ぶ考え方もある。』(Wikipedia)

 まあ、アメリカ政府が社会記録として残した写真である。つまり、そこで必要とされるのは「記録性」であり「芸術性」ではないのは当たり前であり、その「当たり前」が写真本来のあり方として認知される出発点であったのかもしれない。

 そして、その時期がまさしくカメラの歴史とダブるのだ。雑誌「ライフ」の創刊が1936年である。

 つまり、オスカー・バルナックが「ウル・ライカ」という、バルナック・ライカの先行モデルを作ったのが1914年、そしていよいよバルナック・ライカが市場に出たのが1925年という年。つまり、大きな組み立て式のカメラではなく、手のひらに収まってしまう位の小型カメラが、取り敢えず大型カメラではドキュメンタリーが撮れないと考えた写真家たちが、次々にライカを手に入れ、まさしくドキュメンタリー・フォトグラファーとして活動を始めた時期が、実はまさしくこのFSAプロジェクトであり、雑誌や新聞報道における写真の登場なのだ。

 まさしく、当時の「ニューメディアとしての写真」という存在そのものである。

 その辺が、画家のための背景写真を撮り続けた、パリのウジェーヌ・アジェとはまた違った意味での、近代写真のスタートがこのウォーカー・エバンスの写真集に見て取れるのだ。

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「アート」ではない、まさしく「ストレート・フォトグラフィー」がそこにある。

『WALKER EVANS AMERICAN PHOTOGRAPHS』(Walker Evans / The Museum of Modern ART ©September 1938 Walker Evans)

2021年1月10日 (日)

銀座写真は85mmで

 のっけからなんなんだが、「銀座写真」なんて言うものがあるはずはない。

 じゃあ、なんで「銀座写真」なんていうタイトルをつけたんだ?

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 これまでにも何度か書いたことがあるが、私が「写真」というものに目覚めたのが小学五年生の頃、五年生から入れる写真クラブというものに入って、トイカメラみたいなものを手に入れて西新井大師を撮影したり、透明な窓ガラスに紙で作った「空飛ぶ円盤」なんかを貼り付けて、特撮映画のスチールみたいなものを撮影していた。

 その後、「写真」への興味は、「動く写真=映画」の方に移り、中学生の頃は007映画にハマり、その後、クロード・ルルーシュの「男と女」を見てからは、ヨーロッパ映画へと傾倒し、高校生になるとゴダールと日活ロマンポルノにハマって、高校生から大学生になる頃に、映画評論を「キネマ旬報」「映画評論」「映画批評」なんかに投稿する、ちょっとマセた「投稿少年」になったんですね。さらには『月刊シナリオ』誌の新人評論賞なんてものをいただいたりしたんだが、その話はまた別の機会に。

 その当時の投稿仲間のライバル(って、勝手に私が持っていただけのことなんだけれども)が、鹿児島ラサールに通っていた寺脇研氏(元文部省「ゆとり教育担当」、その後、映画評論家兼プロデューサー)だった。

 まあ、寺脇氏とのお話はこれまた別の機会に。

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 大学に入ると興味は「映画を自分で作る」という方向になって、最初は8ミリ、その後、日本テレビの報道局でアルバイトをして16ミリカメラの扱いを覚えると、ボレックスH-16を手に入れて、自分で名付けた「現象学的ドキュメンタリー」というものを撮り始める。

「現象学的ドキュメンタリー」って何だ?

 まあ、別に特別なことではない。要は街に出て、いろいろな事象を撮影し、それに適当なコメントをつけるっていう……、要は、このブログみたいなドキュメンタリーっていうほどの価値もない、ドキュメンタリーフィルムなのであります。

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 実は、大学卒業後は映画やテレビ会社なんかに進むつもりだったんだけれども、ちょうどオイルショックのの次の年で多くの会社が新入社員の採用を辞めて、映像関係に行く会社がなくなってしまい、しょうがなく出版社の営業職にもぐりこんだ。

 その後、学生時代の経歴を見た会社は、私を営業職から映像プロデューサーに配転、まあ、そのほとんどはアニメーション(テレビ、ビデオ、映画全部あり)だったんだけれども、そちらの製作が生活の中心になり、自分用のドキュメンタリーなんて作っているヒマなんか無くなってしまう毎日だった。

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 その後、私もいっぱしに結婚なんてものをして、娘が出来て、お恥ずかしながら普通のオヤジと同じくカメラを再び手にするようになったんですね。

 それまで、私が持っていたのは普通のコンパクトカメラだったんだけれども、その時、手に入れた機材はニコンNew FM2だった。いやあ、いかにも「普通のお父さん」ですね。まあ、別に、私が普通のお父さんであっても、別に恥ずかしくはないんですけれどもね。

 で、その頃から、私の第2の写真生活が始まったんですね。

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 当時はまだ「歩行者天国」が珍しかった時代で「ホコテン」なんて言葉もまだなかったんじゃないだろうかな。

 まあ、でも「再び新米になったカメラ少年(×中年)」にとって銀座のホコテンは、やっぱり被写体が沢山ある素材ではあるので、月に1~2回は銀座に撮影に行ってきたんじゃないのかな。

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 それが、私が言うところの「銀座写真」の始まりなんですね。

 結局、自分なりに「銀座写真」って何だろうって考えたんだけれども、それは、学生の頃の「現象学的ドキュメンタリー」の延長線上にある写真だったのである。

 つまり、成田三里塚闘争に寄り添った小川プロダクションのドキュメンタリーのような、取材対象と密接に交流して出来上がったフィルムじゃなくて、結局は取材対象とは一線を画した形でのドキュメンタリーっていうのが「銀座写真」なのだ。

 それが見る者にとって何かを訴えているのか、訴え得ているのか、なんてことは私には関係ない。

 それが「現象学的ドキュメンタリー」なのであります。

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 なあ~んてことを、モーリス・メルロ=ポンティとかロラン・バルトに影響されちゃうと言ってしまうんですね。

 バカだね。

NIKON Df AF NIKKOR 85mm f1.8 Open Iris @Ginza / Jan. 8 2021 ©tsunoken

2021年1月 9日 (土)

西日暮里道灌山

 またまたご近所ネタでICE MAN(あれっ? いつの間にか英語入力になってしまったようだ)。

 という下手なジョークはさておいて……。

 JR東日本山手線・京浜東北線と東京メトロ千代田線の西日暮里駅は、1969年12月20日に営団地下鉄(当時)、1971年4月20日に国鉄(これも当時)の駅が開業して地下鉄と国鉄の乗換駅となった。その後、2020年3月14日に高輪ゲートウェイ駅が開業(暫定)するまでは、JR山手線で一番新しい駅だった。

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 ところでこの西日暮里駅は「開成学園のために出来た駅だ」なんて夜郎自大なことを信じている開成生がいるらしい。って、まあそれは私の息子の思い出話なんだけれども。だとしたら山手線が開業した1909年とか、環状運転が開始された1925年には既に西日暮里駅が出来ていなければいけないはずなのに、なんでそれがなくて、多くの開成生はお隣の田端駅や日暮里駅で下車しなければならなかったのか、という謎を解明できはしないのだ。

 まあ、こういうトンデモナイ奴らが東大法学部に進んで政府の役人になってしまうと、まさしく「上から目線」の夜郎自大な馬鹿どもになってしまうんですね。開成じゃないけれども、私と同年代のキネマ旬報の映画評投稿仲間で、鹿児島ラサールから東大に進んだ愛すべき男が「僕はもう庶民の眼で映画を見られなくなりました」なんてキネ旬の編集長に手紙を出したなんて逸話もあったりして、その男も東大卒業後は役人になったんだが、う~ん、やっぱり役人の「上から目線」ってのは、永遠なんですね。まあ、役人としてはいい仕事をした人なんですけれどもね。

 あ、今は役人は退官して、映画評論家兼プロデューサーをやっています。

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 まあそれはいいとして、日暮里から田端にかけての台地の上は道灌山と呼ばれ、道灌山遺跡というのがあります。開成学園のグラウンドを中心に台地上に広がる縄文時代から江戸時代に至る複合遺跡で、縄文時代および弥生時代の竪穴式住居跡、平安時代の住居跡、江戸時代の溝などが発掘され、縄文式土器や弥生式土器が出土している。まあ、縄文時代の頃は、多分、この近くまで東京湾(江戸湾? っていうかなんて呼ばれたんだろう。ああ、結局「海」か)が迫っていたはずなので、海産物を採りつつ、安全な丘の上の村という感じの住居があったんだろうなあ。

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 その一部が「荒川区立西日暮里公園」となっていて、公園内には道灌山についての解説や、「日暮の里散歩」なんていう散歩コースの案内などが設置されている。道灌山近辺は「日暮の里」という別名が付けられていて、それが「日暮里」という地名の元となっている。

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「日暮の里散歩」コースは正式名称を「諏訪台通り」という名前で、その途中に「富士見坂」という分かれ道がある。

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 富士見坂には上の写真のような「ここから撮った富士山」の写真が沢山掲げられているんだが、残念ながら現在は坂の向こうには大きなビルが建ってしまっていて、富士山を望むことは出来なくなってしまっている。

 まあ、「富士山が見られなくなってしまう」なんて理由でビル建設を阻むことは出来ないわけで、まあ、それは仕方のないこと。

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「日暮の里散歩」コースの行き止まりは、ご存知「夕焼けだんだん」でお馴染みの谷中銀座であります。

 夕焼けだんだんの右側(北側)は荒川区西日暮里、左側(南側)は台東区谷中である。

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LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Nishi Nippori / Jan. 7 2021 ©tsunoken

2021年1月 8日 (金)

大森ベルポート

 JR京浜東北線の大森駅は西口と東口でまったく異なる様相を見せる駅である。

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 西口(山王口)の目の前はあまり広くない池上通りが走っており、その向こうには大森山王日枝神社が駅前が台地の上にあるので、駅前広場的なものは作れないような地形構造になっている。

 また、池上通りとJRの線路の間には「山王小路飲食店街」という、昭和の匂いたっぷりな飲み屋街があって、なんか「大森=下町」的な香りがタップリある町なんだが、一方では大森貝塚やらジャーマン通りなんていう道があって、その先は馬込文士村なんてのがあって、なんか山の手なのか下町なのかが訳が分からなくなる街である。

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 一方、東口は昔は海に面した低地で、更に、その後各時代に渡って埋め立てれらた土地で、結構広々とした空間が占めている。

 多分、その低地のそこここの海辺で貝を採取して、京浜東北線(東海道線)脇の少しだけ高地になっている場所に、貝塚を作ったんでしょう。

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 大森駅東口のスポットと言えば何といっても「キネカ大森」というちょっとユニークな映画館なんだけれども、今日はそのちょっと先にある「大森ベルポート」という複合ビルを扱う。

 でも、やっぱり映画の話題。

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 下の写真が大森ベルポート。

「ベルポート」という名前の通り、実はこのビルはいすゞ自動車の本社ビルなのである。

『いすゞ自動車の創立50周年事業の一環として、本社と倉庫などのあった敷地に第一生命との共同事業で整備された施設群である。工事は2期に分けて行われ、1996年9月に全体が竣工した。
 羽田空港が近い敷地のため、建物高さの制限によって1棟型の超高層ビルを建設することができなかった。このため、4棟のビルによる街区型の都市環境の形成を図った。
 元来、業務地区として認識されていなかった大森地区にオフィスコンプレックスを成立されるには、新鮮な理念とそれに基づく魅力的な計画が必要とされたため、3棟のオフィスビルに囲まれた面積4200㎡、高さ40mにおよぶ日本最大級(当時)のアトリウムを計画した。アトリウム中心部はイベントスペースとして活用され、様々な催事が行われている。
 建物は、A・B・C・E館を第一生命、D館をみずほ信託銀行が所有し、管理運営は第一生命グループの第一ビルディングが行っている。』(wikipedia)

 ということで、A館にいすゞ自動車の本社が入っている。

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 なんで、こんなことを延々と書いているのかと言えば、実はこのビル、私との関連があるからなのだ。

 実は、1992年に東宝系で公開された田原俊彦主演の映画『課長 島耕作』のロケで、島耕作が勤務する松下電産がモデルの初芝電産の本社がここにあるという設定で、島耕作の出勤風景のロケーション撮影をおこなった場所なのであります。

 あ、え~と、私はこの映画のアソシエイトプロデューサーを担当していて、撮影にはほとんど立ち会っていたんですね。このビルは、当時、このビルにテナントとして入っていたNiftyからの繋がりで、撮影許可を取った。

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 勿論、その風景は出勤風景のみで、オフィス部分は幕張にあるMTG幕張ビルに、これまたテナントとして入っていたオフィス家具のプラスのオフィスを撮影に使わせてもらった。

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 いやあ、新しいビルが出来ると、すぐに映画やテレビドラマの製作班がどこから情報を入手してきて、撮影に使っちゃう競争を演じているらしいんだが、いやいや、さすがは映画屋さんたちの「蛇の道は蛇」ですな。

 そういえばプラスの役員をされていた大炊御門(おおいのみかど)さんっていう、如何にも「公家さん」っていう感じの、なかなかいい人がいたんだが、今、どうしているんだろうなあ。

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LEICA M-E LEITZ CANADA SUMMICRON 35mm f2 @Omori / Jan. 6 2021 ©tsunoken

2021年1月 7日 (木)

京浜運河・大井埠頭八潮団地

 昨年12月9日のブログ「川崎レポート番外編・京浜運河」のつづき。

 池袋駅でりんかい線に乗り換えて、品川シーサイド駅で降りる。

 元々、この駅には「楽天タワー前」というニックネームがついていたんだが、2015年に楽天本社が二子玉川に移転してからは「ビッグローブ前」に変わってしまった。理由は当駅そばに建てられた品川シーサイドパークタワーが楽天が全館借り切ったために、ビルのオーナーが「楽天タワー」という愛称をこのビルにつけたので、駅名愛称も「楽天タワー前」になったというもの。

 まあ、同じIT系企業とはいうものの、楽天とは規模が違うビッグローブでは全館借り切りというわけには行かなかったんだろう、駅のホームには「ビッグローブ前」って書いてあるけれども、駅の外側には書いていない。

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 で、品川シーサイド駅で降りて大井埠頭方面に行くには本来は大井北埠頭橋を渡るのが普通なんだが、それはクルマで行く場合とか、自転車レースのツアーオブジャパン東京ステージを見に行く時に使う。徒歩だったら海岸通りを南進して八潮橋を渡る。

 で、上の写真が八潮橋の上から見た京浜運河。

 右岸に見えるのが首都高速羽田線と東京モノレール。左岸が大井埠頭なんだが、実際に見えるのが本日の目的の地「八潮団地(八潮パークタウン)である。

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 上の写真が大井埠頭の全体図、下の写真が八潮パークタウンの案内図。

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 八潮パークタウンとは何か?

品川区八潮
 品川区の東部に位置する。町域の東は東京港に面し、対岸には13号埋立地(江東区青海や港区台場など)が広がっている。町域の南は、大田区東海に接する。区内西部の勝島・東品川との間を京浜運河が流れており、町域の北は運河を隔てて東品川五丁目に接し、西は京浜運河を隔てて勝島・東品川三丁目・四丁目に接する。
 1939年(昭和14年)からの東京湾岸の埋め立て事業により完成した。1980年(昭和50年)に「八潮」の町名が誕生。1983年(昭和58年)には日本住宅公団の団地「八潮パークタウン」(八潮団地)が街びらきした。その他、町域内には公園や工業用地、埠頭用地、コンテナターミナルや貨物ターミナルなどがある。
 八潮五丁目
 地域西部。八潮パークタウンの一連の団地が広がっている。緑地として都立京浜運河緑道公園や、都立大井ふ頭緑道公園、品川区立しおじ公園、品川区立八潮公園がある。』(Wikipedia)

 というのが八潮と八潮パークタウンの説明。

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 とにかく大きな団地で、団地を運営する団体も、東京都住宅供給公社(JKK)、やUR都市機構などの大手公共団体だけでなく、民営の賃貸マンションなんかもあるようで、一体この団地の中に何棟あるのかが分からない。お暇な人は二枚上の写真で棟数を数えてください。

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 八潮パークタウンの西側、京浜運河沿いには「都立京浜運河緑道公園」というのがあって、静かな川沿いの散歩道という風情があるんだが、ちょっと東側に目を向ければ、なんか自分の家にも似た団地群が見えるだけなので、う~ん、なんか開放感というのとは程遠い。

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 東京モノレール東京競馬場前駅からみた八潮パークタウン。勿論、これは品川運河沿いの建物ばかりなので、この三倍は団地群があると思ってください。

 うへっ、凄いなあ!

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NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1.8 G @Yashio Park Town / Jan. 5 2021 ©tsunoken

2021年1月 6日 (水)

渋谷川を往く・渋谷川から古川まで

 さて、恵比寿から先の渋谷川なんだが、実はここから先は、川沿いの道っていうのがまったくなくて、歩くのは川と並行して走っている明治通りを行かなければならないんだなあ。

 一番肝心なところなのに残念!

 まあ、橋があったら取り敢えず全部見ておきましょう、ってな感じで明治通りの交叉点の度に、右へ曲がって橋を見て写真に撮るってことをやりながら、歩き始めます。

 まあ、最初は恵比寿の「タコ公園のイカトイレ」ですね。

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 う~ん、本当に「川沿いの道」っていうのがないんだなあ。川があって、そのすぐそばまでビルが建っています。なんか、こういう雰囲気を見ちゃうと、「ここは東京? もしかして東南アジア」ってな感じになりますね。まあ、周囲に立っているビルは東京らしいんだけれども。

 なんか、川を皆が愛していないような感じが受けてとれます。

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 やむなく明治通り沿いを歩くんだが、ここも「渋谷~恵比寿」までとは違って、商業ビルはほとんどありません。人通りも少ないし。

 基本的にマンション(億ション?)やビジネスビルディングばっかり。う~ん、歩いていてもつまらない道だなあ。

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 まあ、その辺が「渋谷区渋谷~渋谷区東~渋谷区恵比寿」っていう地区と「港区広尾」っていう場所の違いなんだろうなあ。

「商業地区」と「住居地区」という違いなんですけれどもね。

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 なんて感じで明治通りを進んでいくと外苑西通りとの交差点、天現寺橋に出ます。

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 天現寺橋の脇にはこんな感じの「渋谷川から古川」への名称変更の碑があります。

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 ここから先は、渋谷川は名称を古川と変えて、麻布の四の橋、三の橋、古川橋、二の橋、一の橋を過ぎて、金杉橋を経て浜崎橋の先で東京湾に注ぐ川になります。

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 ところで、この先、四の橋停留所から新橋駅前行きの都バス06系統に乗って帰って来たんだが、実はこの「06系統」って、金杉橋まで、この古川と並行して走っている路線なんだなあ。つまり、渋谷川と古川に並行しているバス路線なんですね。ほとんど川の源流に近い場所から河口に近い場所まで、並行しているんですね。

 こりゃあ渋谷駅前から新橋駅前まで、一度、乗ってみる価値ありだなあ。

LEICA M-E LEITZ CANADA SUMMICRON 35mm f2 @Yebisu to Hiroo / Jan. 4 2020 ©tsunoken

2021年1月 5日 (火)

渋谷川を往く・渋谷から恵比寿まで

 〽春の小川は、さらさら行くよ……でお馴染みの童謡、「春の小川」というのは渋谷川のことだとわかっている人はどれだけいるんだろうか。

 まあ、現在の渋谷川を知っている人としては、この川が「春の小川」の小川とは思えないもんね、っていうところだろう。

 渋谷川の源流は現在の新宿御苑を流れる玉川上水だったらしい。しかし、現在は玉川上水から入ってくる流れはあるんだろうけれども、基本的には源流は高田馬場の落合の下水処理場らしい。

 う~ん、下水処理場が「春の小川」(?)ってなところですけれども、で、それがいろいろ合流して現在「裏原宿」と呼ばれる曲がりくねった道の下を流れて、渋谷駅の下を流れ、以前の東急東横線渋谷駅を過ぎたところから地上に姿を現し「渋谷川」となるのだそうだ。

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 渋谷駅から先はその川の上を以前は東横線が走って、並木橋までは川と並走し、そこから先は東横線は右に大きくカーブして代官山駅へと至る。現在は、そこは地下を走って代官山へと進みます。

 ということなので、渋谷駅から並木橋までは「渋谷リバーストリート」という名前で東急が整備し、川沿いに遊歩道が出来ている。

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 途中にはこんな感じの、「昔の東横線のものらしい高架線」のモニュメントやら……

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 訳の分からないオブジェなんかが飾ってあって、要は「それが渋谷ってもんよ」的なモノゴトがいろいろあるんだが……、あ、いやいや、普通の休憩用のベンチとか、食事用のキッチンカーなんかもあって、まあ、普通の散策道なんですがね。

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 なんてことを考えながら、河辺の道とか、明治通りを歩いていると恵比寿に至り、駒沢通りとの交差点に出ます。

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 この交差点を渡れば、昨年12月13日のブログ「タコ公園のイカトイレ」で書いた、「恵比寿東公園」であったのでありました。

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LEICA M-E LEITZ CANADA SUMMICRON 35mm f2 @Shibuya to Yebisu / Jan. 4 2021 ©tsunoken

2021年1月 4日 (月)

正月の風物詩が別に駅伝じゃなくてもいいんだけれどもね

 正月の有名な行事「東京箱根間往復大学駅伝」がいろいろ問題になっているようだ。

 っあ、いや、そのテレビ中継がね……。

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『前日の往路でも、原則無観客開催とされているのにもかかわらず、多くの人が沿道で見物したことに批判が集まったが、復路でもその様子は変わらず。
 日本テレビの中継にはつねに観客の姿があり、中継所付近ではかなり密になっている場面も散見される。なかには、テレビカメラに向かって手を振る人も。
 中継や現地の係員がテロップで沿道の見物を控えるよう呼びかけたが、残念ながらそれを無視する駅伝ファンが多く見られた。』

 というネット報道があった。

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 そりゃまあね。この「人が密になる」ことを避けるように小池都知事が「密です、密です」なんて言う言葉が流行語大賞になっちゃっているご時世ですから、このご時世に町に繰り出して駅伝見物なんてことをやっている人が批判されるのは、まあ、事の成り行き上、仕方ないことなのかもしれない。

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 しかしねえ、この場合、批判されるべきは「駅伝を見に来た人たち」ではなくて、「駅伝を開催した人」なんじゃないだろうか。

 まあ、それは箱根駅伝だけじゃなくて、元日に行われた「ニューイヤー駅伝」だって同じこと。

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 もうちょっと言っちゃえば、このご時世に「公道を使って開催されるレース」を開催すること自体が間違っているのだ。

 開催される場所が公道である以上、そこに人が出てくることは「絶対に」避けることは出来ないし、「天下の公道を歩いちゃいけない」なんてことを言える人はいない筈。

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「駅伝」「マラソン」「自転車レース」っていうのは、公道を使って行う三大スポーツなのだ。自転車レースっていうのは鈴鹿サーキットなどで行われるレースは過去にあったんだが、駅伝やマラソンってクローズドサーキットで開催されたころがあるなんて話は聞いたことはない。

 公道を使って行うレースっていうのは、警察の許可が必要なので、実際には開催するのはかなり前から警察当局との交渉などがあってとても手間がかかって大変なのだ。でも、一度許可をとってしまえば、次の年の開催許可はとりやすい。次の年に辞めちゃうと、またその次の年はゼロからのスタートになるので、またまた許可をとるのが大変。ってことなので、開催する側はなかなかやめる判断がつかない。

 更に、公道を使って行うレースは、一度、許可をとってしまえば、「公道使用料」なんてものはかからない。しかし、クローズドサーキットは使用料がかかる。鈴鹿サーキットでレースを開催しようと思えば、かなり莫大な施設使用料がかかる。勿論、それは観客の入場料や、メディアの放送権使用料で補うわけではあるけれども、一方で公道であればそんな施設使用料は必要ない(実は、多少はかかるんですけれどもね)し、メディア側も結構稼げるコンテンツなので、放送をやめる気持ちなんてサラサラない。

 ってことで、毎年正月の恒例スポーツとして「東京箱根間往復大学駅伝」と「ニューイヤー駅伝」は、やめるなんて判断ができるわけはないのだ。というのは主催者・メディア双方の現場担当のプロデューサーやディレクターなどの「やむにやまれぬ勝手な理由」に基づく判断なのであります。それは同時に、TBSと日本テレビの役員クラスの人たちの「英断」もないってことですね。要は皆「責任をとりたくない」ってことなんだよっ!

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 あれっ? それって政府が「緊急事態宣言」を出して、国民に対して「外出規制」「行動制限」などを「発出」することを嫌うのと同じ感覚なのかもしれませんねえ。

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 なんだ、要は皆がみんなして(総理大臣から電通のプロデューサー、テレビ局のプロデューサーまで含めて)自分で責任をとりたくないってことだけなんじゃないの?

 う~ん、日本中無責任時代がコロナ・ウィルスを流行らせる、ってこと?

 まあ、そういう意味じゃあ、小池都知事だって同じ穴の狢なんだけれどもね。

LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Otemachi / Jan. 3 2021 ©tsunoken

2021年1月 3日 (日)

写真とそのキャプションについての真剣(まじめ)なご報告

 今日のブログが2021年になって最初に書いたブログです。いやいやいや、目出度いですよ。別に……。

 さて、以下の五葉の写真を目の前に並べて、「この写真にキャプションをつけよ」って言われたらどうしますかね。

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 まあ、暮れから正月にかけてのご近所と上野周辺のスナップというだけのもの。

 別に、それ以上でも以下でもない、ただ単なる「スナップ」。それぞれの関連性も何もない写真なんだが……。

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 例えば、これらの写真に対して、今日おこった「東京、神奈川、埼玉、千葉の各知事が、西村経済再生担当大臣に緊急事態宣言の発出を要請」なんていうキャプションをつけることは可能なのですね。

 要はガランとした街の様子と、「密」になった街の様子を並べて、ガランとした街になることを、知事たちは希望しているってな具合に理解することが可能ってなわけですな。

 それでも「宴会好き」な菅首相は「緊急事態宣言」を出すことについては、その経済に及ぼす影響から後ろ向きな姿勢だし、二階幹事長との関係からも、あまり積極的になれない様子だし……、てな結論付けも出来ちゃう。

 それにしても「発出」って何なんでしょうね? 「緊急事態宣言」なら「発令」でいいじゃないですか。ただまあ、その場合は「発令主体」が誰なのか(どこの省庁なのか)ということが決められるわけで、それが嫌なので何となく「主体が曖昧な『発出』」ってな変な言葉になっちゃうんでしょうね。

 元々、この「発出」っていう言葉は安倍前総理が4月に初めて使った言葉なんだけれども、初めてその言葉を聞いた時、「何だこりゃ?」ってな気分になりましたね。広辞苑では「発出」という言葉には『①あらわれること。あらわすこと。おこすこと。②出発に同じ。』って書いてあって、『いつの間にか「緊急事態宣言」が「あらわれてしまうこと」』なんてことがあるらしい、ってことなんですかねえ、ってますますわからなくなっちゃうなあ。

 う~む、お役人の「無責任文書ひり出し能力」の努力ってのも、バカにはできないなあ。

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 ってことで……

 まあ、要は写真につけるキャプションなんて、書き手の都合でもってどんなものでも可能だっていうこと。それこそキャプションによって、まったく逆の意味を持った写真だという風な受け方をさせることも可能だっていうことなんですね。

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「写真」っていうのは「真実を写しているんだ」というふうに捉えられがちなんだが、実は、そこに写しとられた「真実」っていうのは、どんな解釈も可能な「うわべの事実」に過ぎない、つまり「真実」ではないっていうことなんですね。事実だけ。

「写真」ってなんて脆弱な表現手段なんだ。

 第二次世界大戦の頃とか、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争の頃までは「写真報道の真実」ってのが、信じられていたんだけれども、今や「写真は嘘をつく」っていう時代だもんなあ。

 結局、「言葉」の補助がないと、そこに写された「事実」が伝えられない写真って……、ねえ。

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 まあ、箱根駅伝で、マスクもしないで沿線応援をしていたオッサンたちを、今更責める気もないですけれどもね。バカじゃないか、こいつら。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Hon Komagome, Sugamo & Ueno / Dec. 30, 31 2020 / Jan. 1 2021 ©tsunoken

2021年1月 2日 (土)

本年も「tsunokenのブログ2」よろしくお願いします

 本年も「tsunokenのブログ2」ご購読よろしくお願い申し上げます。

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 取り敢えず、昨年1年間の結果のご報告。

 年間総合PV(ページ・ビュー)は32,739pv、1日平均89.45pvでした。

 まあ、一昨年の3月20日に一度ブログをダメにして、もう一回0pvから再スタートしました。

 それまで大体1日300pv位で年間10万pv位を獲得していたので、そこからのスタートで昨年は一日約90pvというところまでは復活したようなわけです。毎日300pv獲得まではまあ簡単には険しいけれども、まあ、続けていれば何とかなるでしょう。

 要は、皆さんが気にしている「ネタ」をどうやって読み取るかってことなんでしょうね。結構、これが難しい。結局、自分の興味のおもむくままに取材をしているっていうことになってしまうんですね。

 で、今年もよろしくお願いします。

 告知です:「ネタ・場所」などについてご希望がある方は、ブログのコメント欄に書き込んで下さい。

 まあ、行くかどうかは私が決めるんですけれどもね。

2021年1月 1日 (金)

明けましておめでとうございます

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         越後山古志 牛の角突き ©tsunoken

      謹賀新年

      令和三年

 本年もよろしくお願いします。

 いよいよ今年は古希を迎え、年寄りの仲間入り。

 相変わらず、外歩きをし、写真を撮って、ブログを書く毎日。

「インプットはアウトプットして、初めて自分のモノになる。」っていう信念なのですが……、

 どうなんでしょうね。

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 というのが、今年の私の年賀状。

 もう既に読んだ方もいると思います。

 まあ、今年もあきらめずに毎日毎日、町を歩いては写真を撮りながら、ブログを書くという日々を過ごすことになるのでしょう。

 読者の皆様の興味あるネタならいいのですが、結局、自分で考えて記事にするという毎日です。

 なにか、ご意見とか「ネタ希望」などがあるのでしたら、コメント欄などにお書込みください。

 まあ、書かれたからって、その場所に行くかどうかは、私次第ですけれどもね。

 ってなことで、本年もよろしくお願いいたします。

 by tsunoken

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