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2020年10月 9日 (金)

Revenge !  龍ケ崎

 10月4日のブログ「竜ケ崎はやっぱり田舎だった」では、JR常磐線龍ケ崎市駅(旧佐貫駅)と龍ヶ崎市中心部(関東鉄道竜ケ崎線竜ケ崎駅)との距離を読み違い、結局、田舎道を延々と歩くだけのレポートになってしまったので、今回は、初めから竜ケ崎線の佐貫駅からおとなしく乗車して、竜ケ崎駅まで行った。

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 1975年には年間6,043人の乗客がいた竜ケ崎線なんだが、2016年には2,293人にまで乗客は減っているらしい。まあ、佐貫・竜ケ崎駅間4.5kmの間だけしか走っていない路線だ。昔は「龍ヶ崎市から東京駅まで1時間!」ってな宣伝文句もあったらしいが、今は龍ヶ崎市駅までは皆クルマを使って移動、駅前の駐車場にクルマををおいて常磐線で東京方面へ、っていうのが普通の感じで、やっぱり30分に一本だけの運行じゃなあ、結局、龍ケ崎二高の生徒ぐらいしか利用車内ないんだろうなあ。

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 と、まあ、それはいいとして「結構、イイ感じの田舎町」というイメージの龍ヶ崎市を、取り敢えず竜ケ崎駅から歩き始める。

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 途中、八坂神社とか、昔の庄屋屋敷だったんだろう小野瀬家屋敷なんかを見ながら歩いて行くと、ほら、こんなクランク状に道が曲がっている。こんな道を「桝形道路」と言って、お城が真ん中にある昔の町の道の作り方の典型なんですね。

 やっぱり龍ケ崎は昔からの街だったんだ、という証拠。

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 駅前からの道を、この桝形のあたりで左に折れると、やがて見えてくるのが茨城県立龍ケ崎第二高校に至る長い、長~い階段。

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 階段の脇に『龍ヶ峰の歩み』という碑が建てられています。

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龍ケ峯の歩み
「北にあたりて古城あり」「東はかしまの海見えて眺望かきりなし」享保年間当地を訪れた藩主伊達吉村は、ここ古城の地の東端、龍ケ峰からの眺めを講絶賛した。
 古城は、室町時代、白旗台(龍一高敷地)に館を構えた龍ケ崎氏の出城であった。永禄十一年(一五六八)土岐胤倫が江戸崎から分かれてここに城を築き、その支配二十年間に龍ケ崎は飛躍的発展を遂げたが、のち佐竹氏の支配に服し、廃城となった。その後、仙台領となり、古城西麓に陣屋がおかれ、代官が龍ケ崎領一万石余を支配した。
 維新後、古城の昔を伝えるものは次第に姿を消したが、大正十二年、古城の地に、龍ケ崎二高の前身、県立龍ケ崎実科高等女学校が建てられ、龍ケ崎の新しい歴史がはじまった。
 本校の歴史は、大正五年(一九一六)龍ケ崎小学校敷地内の町立龍ケ崎女子技芸学校の開校まで遡る。大正八年、町立実科高等女学校、大正十年、郡立に、大正十二年、古城の新校舎に移って、県立龍ケ崎実科高等女学校、大正十五年、県立龍ケ崎高等女学校と移っていく。やがて戦争の時代に入り一時軍服を縫う学校工場になったこともあった。
 終戦後、昭和二十三年、県立龍ケ崎女子高等学校となり、さらに、二十四年から、男女共学制の県立龍ケ崎第二高等学校として年々施設と教育内容を充実し、多くの有為な人材を世に送り、ここに創立七十周年を迎える。
 龍ケ崎二高創立七十周年記念事業実行委員会 

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 ちょっと先へ行くと、多分、龍ケ崎第二高校のキャンパスに上がるクルマ用の道があるんだが、今日はウィークデイ、週末だったら取り敢えず坂道を上がっちゃうんだが、遠慮をしておいた。

 ただ、山の上に上がらなくても、麓に「仙台藩龍ケ崎陣屋跡」が、龍ケ崎小学の敷地内にあって、この地が、昔の龍ケ崎の中心地だったって言うことが良く理解できる。

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NIKON Df AF NIKKOR 24-50mm F3.3-4.5 @Ryugasaki ©tsunoken

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