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2020年9月 7日 (月)

『東京、コロナ禍。』非ジャーナリスト的視線

 いずれは出てくるだろうと思っていたタイトルの写真集が出た。

 まあ、こういうものは「早いもの勝ち」なので、先に出したほうが有利になる。そういう意味では「ジャーナリスト的」な考え方なんだけれども、写真を撮る視線は決してジャーナリストのものではない。

Photo_20200902161601『東京、コロナ禍。』(初沢亜利・著/柏書房/2020年8月10日刊)

 解説の佐々木中氏はこうした初沢亜利の視線をこう描く。

『前々作『沖縄のことを教えてください』(赤々舎)刊行の折、初沢氏との対談で語ったことをもう一度繰り返すことにする。沖縄を撮ること、このことには4つのレベルが存在する、と。断じて3つではなく、4つである。

 レベル1。「南国の楽園としての沖縄」を撮ること。つまりツーリズムの欲望の対象としての沖縄を撮ること。

 レベル2。「『真の』沖縄、政治かつ政治的暴力の発言の場としての沖縄」を撮ること。レベル1の写真たちに抗して、抑圧され差別と貧困に喘ぎそして闘争を組織してきた沖縄の人々とその生の場としての沖縄を撮ること。

 レベル3。美的な対象としてのみ「沖縄」を撮るのでも、政治的対象としてのみ「沖縄」を撮るのでもない。言うなればレベル1とレベル2の相克をあえて忘れて、「等身大」の写真家として「等身大」の沖縄を撮ること。あたかも素朴な身辺雑記のような装いすら時には纏い、彼はレベル1とレベル2のあいだを往還しながら、そのどちらも巧みにすり抜けるような写真を撮り続けるだろう。

 レベル4。美的なものに自閉するでもなく、政治的なものを露出させるのみでもなく、その2つを搾取する「等身大」の、素朴を装った悪辣さに溺れるでもないこのレベル4の写真とは一体何だろうか。それは、「対象に拒絶されていること自体を撮ること」である。「写っているその当の事態に何もすることができず、距離を保って無力を晒していることそれ自体を撮ること」である。

 と。

 う~む、なんという弁証法であろうか。

 そんな哲学者の後付けとは関係なく、写真家は目の前の事象を撮影し続ける。

 今は「コロナ禍」であるのか、そうではないのかにかかわらず、写真家は街を歩きながら目の前の事象を撮影し続けるのである。たまたま、現在撮影している時点が、2020年のコロナ禍にある東京だったということでしかない。わずかな違いは、写されている人たちの殆どが、コロナ対策用のマスクを着用しているというだけなのである。

 それを取り除けば、「2020年の東京の風景写真」なのである。

 で、それでいいのである。

Photo_20200904123102©初沢亜利

 本写真集で一番面白かった写真は、巻末のパノラマ写真であります。

 これのどこが「コロナ」なんだと言えば、べつにどこも「コロナ」じゃない。そういうところが「コロナ」なんだ。

『東京、コロナ禍。』(初沢亜利・著/柏書房/2020年8月10日刊)

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