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2020年7月26日 (日)

兵(つわもの)どもが夢の跡:プリンス自動車工業村山工場

 西武拝島線の武蔵砂川駅で降りて、そのまま少し西武立川駅方面へ歩くと、残堀川という川に出るので、川沿いに右に曲がって行くと、すぐにフェンスの中にある土手のような土盛りがある。

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 何を隠そう、実はこの土盛りこそがもとはプリンス自動車工業村山工場に併設されたテストコースの外周路のオーバスコース4.25kmの南端にあるバンクの土盛りなのである。

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 下の写真の一番下にあるバンクの外側の土盛りがそれ。

Photo_20200724170001

 プリンス自動車工業という会社は、第二次世界大戦後、航空機製造を禁じられた立川飛行機出身の技術者により、1947年に「東京電気自動車」の社名で発足。電気自動車製造からスタートしたメーカーであるが、1951年以降はガソリン自動車開発に転身した。更に旧・中島飛行機系の企業である「富士精密工業」との協業・合併をも経るなど、企業としての成立過程は複雑である。

 しかし、1960年代におけるモータースポーツにおける活躍ぶりは突出していて、なかでも1964年の第2回日本グランプリにおけるプリンス・スカイラインGTの活躍ぶりは未だに語り継がれている。

 このレース、プリンスはプリンス1500(4気筒)のシャーシーを少し延長させて、グロリアの2000c.c.エンジン(6気筒)のエンジンを載せた、スカイライン2000GTをプリンス7人の侍と呼ばれたドライバー(生沢徹、砂子義一、大石秀夫、小林元芳、横山達、杉田幸郎、小平勝だったと思う)に与え、日産はフェアレディ1500なので最初から勝負は諦めたんだが、トヨタは姑息にもポルシェ904を急遽輸入して、式場宗吉に与え、取り敢えずプリンスだけには勝たせないという作戦で臨んだ。

 結果、優勝したのは式場宗吉ポルシェ904だったんだが、一時期、生沢徹がドライブするプリンス・スカイライン2000GTが式場を抜いてトップに立つという快挙を成し遂げ、レースそのものはポルシェに凱歌が上がったが、一時期ポルシェを抜き去った生沢スカイラインGTのドライビングは後々の語り草になった。

 まあ、実はこれについては生沢徹と式場宗吉の日頃からのいろいろな付き合いという裏話があって、その関係からの生沢徹の大逆転劇という尾ひれがあるんだが、まあ、いずれにせよ未だ語り継がれている、日本レース史の伝説なのである。

 まあ、こんなオーバルコースでは最高速のチェックは出来るとは思うが、ハンドリングのチェックなんかは出来るはずも無く、結局、それは箱根峠とか碓氷峠とか……、それこそ榛名山の上り下りでトレーニングを積んでいたんだろう。浅間レーシングコースの裏だしな。いやあ、まさしく『イニシャルD』の世界だなあ。

 その後、プリンス自動車工業は1966年に日産に吸収合併され村山工場も日産プリンス村山工場となり、その後、プリンスの名は無くなり日産村山工場となって、2004年にはカルロス・ゴーンによって工場は完全に閉鎖となり、テストコースの北側はイオンや武蔵村山病院になり、南側は真如苑という宗教団体の持ち物となった。

 武蔵村山病院の脇には「プリンスの丘公園」という公園ができている。

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 公園の一角には「スカイラインGT-R(PGC-10)発祥の地」という碑があって、かろうじてここが昔の自動車工場だったということが分かるようになっているんだが、出来ればオーバルコース南端のバンクあたりは真如苑もまだ手を付けていないようなので、ここだけでも公開して、昔のプリンス自動車工業テストコースの一部として残してもらえないだろうか。

 レリーフの左端がオーバルコースであります。

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LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Musashi Murayama ©tsunoken

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