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2020年7月

2020年7月31日 (金)

一番最後は等々力だっ! でも、渓谷には行かない!

 仮称「東急大井町線シリーズ」(えっ? そんなシリーズあったの?)の最終話は等々力駅であります。

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 まあ、普通だったら等々力駅で降りれば、(地元在住の人ではない限り)その目的は等々力渓谷に行って、都会の中の渓谷美を感じながら渓谷沿いに歩いて、等々力不動尊とか御岳山古墳まで訪ねて行くっていうのが普通なんだが、もうね、そんなものはね、もう何度もやってきてるんで、おまけに空模様も怪しいし、傘は持ってきてはいるけれども、そんなのさすのは嫌だし……

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 ってことで、今回は等々力渓谷は無しで、等々力の街を少しばかり歩いてみた。

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 等々力駅から等々力渓谷に至る道の途中のこの辺りに、以前は古本屋さんがあって、私も等々力渓谷深訪の後で、「あれっ? こんなところに古本屋さんが」ってな感じで存在していた古本屋さんだったんだが、今は既にありません。

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 ってことは、渓谷とは反対側の南口の方でも、確かに、この辺に本屋さん(新刊の本屋さん)があったはずなんだけれでもなあ。

 左側は確かに昔は公園かなんかがあった場所なんだけれども、現在は世田谷区の施設を建設中で、その右側にあったんだよなあ。結構、ユニークなことをやっている本屋さんなので、私も何度か行ったことがあるんだがなあ。

 やっぱり、「もうダメ」ってこと? 等々力の人って本を読まないのかなあ。

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 ってなことで、「等々力操車場発→東京駅丸の内口」行きのバス(これが、結構、東京の名所旧跡を巡っていて楽しんですよ。走る距離も長いし)で、帰って来た。

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 これで、しばらくは東急線のローカル線記事は少しお休みかなあ。

 まあ、東急線は、基本的に私のテリトリーではないしね。

LEICA M-E LEITZ EKMARIT-M 28mm f2.8 @Todoroki ©tsunoken

2020年7月30日 (木)

九品仏駅って自由が丘と駅ひとつ違うだけで

 東急電車っていうのは基本的に渋谷と横浜を繋ぐ東横線が基本で、最初は渋谷から玉川通りをは走っていた玉川電鉄も元々は路面電車だったんだけれども、まあ、今や田園都市線になって今や東横線と一緒にメジャー路線になっている。でも、そのほかの「東急〇〇線」っていうのは、やっぱり「超マイナー路線」なんですね。

 で、その東急マイナー路線東急大井町線の旅も超メジャー東横線との乗換駅、自由が丘を過ぎてお隣の九品仏になってしまうと、いかにも「ローカル線の駅」っていう雰囲気の駅になってしまうんですね。

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 で、その九品仏の駅を出るとすぐにあるのが、「浄土宗 九品山 唯在念佛院 浄真寺」いわゆる「九品仏(くほんぶつ)」の参道の入口なのである。

 この九品仏駅にはいろいろいわくがあったようで『(自由が丘駅の)駅名も最初は「九品仏」という名前の駅だったんだが、1929年(昭和4年)現在の東急大井町線に九品仏の門前に九品仏駅が出来ることになり、東急東横線の九品仏駅は最初当時の地名からとって「衾駅」という名前にしようという計画だったんだけれども、1927年(昭和2年)に自由ヶ丘学園という学校が設立されたところから、「自由ヶ丘駅」になったそうだ。』というお話。

 う~ん、まあ、別に九品仏駅は九品仏駅のままでも良かったんじゃないのかなあ、という気がしないでもない。自由が丘の街の方がずっと大きいし、そこから九品仏までの導線を作れば、別に遠い場所でもないしな。で、現在の九品仏駅をここの地名の本来の呼び名で「奥沢」でも良かったんじゃないでしょうかね。あれっ? そうか、そうなると東急目蒲線(現・目黒線)の奥沢駅と被ってしまうのか。

 そうか、そうなると九品仏駅には九品仏しか、駅名に出来そうなものはない、普通の住宅地だしなあ……、てなことで九品仏駅の駅名が決まったのかなあ。結果としてみれが、それでOK、やっぱり自由が丘駅が九品仏駅じゃあ、今ほどメジャーになれなかったかもしれない。

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 浄真寺の山門を入るとすぐにあるのが、この「三途の川」であります。

『三途は仏典に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教からギリシア神話にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。』(Wikipedia)というとおり、仏式の葬儀でもなくなった人に三途の川を渡るための草鞋を履かせたり、三途の川の渡しに渡す小銭を持たせて納棺するなんてことも行われているんだが、お寺の境内でこんなにも堂々と「三途の川」があるのは初めて見た。

 うしろの「のぼり」の閻魔様のセリフ「うそはつくな!」ってのがいいですね。ねえ、安倍さん!

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 で、元々なんで「浄真寺」が「九品仏」と呼ばれているのかという話なんだが……

『広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼん・じょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。』(またまた Wikipedia)

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 そうか本堂になにかがあるわけではなく、本堂周辺の阿弥陀堂にある九人の仏像なんだなあ。

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 で、どうでもいいんだけれども、お寺の境内にあった公園のトイレの貼り紙であります。

 おいおい、神聖なお寺の境内でそんなことをするなよ。こんなことをする人が世田谷区民なんだろうか。

 世田谷区民の「民度」ってのも、あてにはならないなあ。

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 まあ、もともと期待してなかったんだけれども、九品仏の駅周辺には商店街なんてものはありません。とにかく、住宅地が展開しているだけ。まあ、商店街の方は自由が丘に渡して、こちらは静かな住宅地として過ごしていけばいいんだ、っていう周辺住宅民の思いなんでしょうね。

 駅前にあるのは、こんな古美術商とか古本屋さんです。

 まあ、いかにもな「九品仏」な駅前でした。

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LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Okusawa ©tsunoken

2020年7月29日 (水)

自由が丘は丘じゃないという話

 自由が丘は丘じゃないという話は以前にも書いたことがあるんだけれども、いつ書いたんだか思い出せないので、もう一度書きます。

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 昨日のつづきということで言えば、上大「岡」や緑が「丘」は、たしかに山や丘の上の方にあるんだが、「自由が丘駅」がある目黒区自由が丘一丁目は『駅周辺は戦前に「衾沼(ふすまぬま)」と言う沼地を埋め立てて造成された土地であるため、丘と云う地名ながら、周辺と比較して低地となっている。二・三丁目には丘が多いが、自由が丘の南に九品仏川があり、そこへ流れていた雨水が削っていったためである。』(Wikipedia)となっている。駅名も最初は「九品仏」という名前の駅だったんだが、1929年(昭和4年)現在の東急大井町線に九品仏の門前に九品仏駅が出来ることになり、東急東横線の九品仏駅は最初当時の地名からとって「衾駅」という名前にしようという計画だったんだけれども、1927年(昭和2年)に自由ヶ丘学園という学校が設立されたところから、「自由ヶ丘駅」になったそうだ。

 1932年(昭和7年)10月1日の東京市域拡張による目黒区成立時(目黒町と碑衾町が合併)に東京市目黒区自由ヶ丘となった。また、1965年(昭和40年)の住居表示施行時には「自由が丘」となった。翌年1966年(昭和41年)には、駅名も「自由が丘駅」に改称されている。というのが地名成立の由来。

「学校設立」→「駅名変更」→「町名変更」という、なんか本来の駅名変更とは逆の順番で自由が丘駅になったっていうのが面白い。

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 自由が丘といえば、まず、モンブランで有名な「モンブラン」ですね。ここでは、必ずモンブランを買わなければいけません。

 もう一つ重要なのは「王貞治『自由ヶ丘亀谷万年堂のナボナはお菓子のホームラン王です』/國松彰『森の詩もよろしく』」でお馴染みの、亀谷万年堂ですね。

「森の詩」はもう作っていないそうですが、ナボナは相変わらずお菓子のホームラン王です。ということで、自由が丘土産といえば、モンブランとナボナです。

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 自由が丘で思い出すのは下の写真の建物にあった自由書房という本屋さんで、普通の本屋さんというレベルの存在じゃなくて、いろいろな出版社の営業マン・編集者なんかの取り次ぎ・取り纏めなんかもやっていて、結構、文化人的な働きをしていた書店主だった。

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 自由が丘駅を降りると駅前から東急東横線沿線に鰻の寝床のように伸びているのが「自由が丘デパート」と「ひかり街」であります。

 なんとなく、このテの共同店舗によくある戦後の焼け跡闇市からスタートした店舗なのかと思ったんだが、さすがに米軍も自由が丘なんかを空襲するわけもなく、そんな焼け跡闇市ではないそうで、もともとこの近辺で店を開いていた人たちが共同で建てた店舗だそうだ。

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 一軒、自由が丘で面白そうな店を発見。

「ポパイカメラ」という店なんだけれども、普通のカメラ店の場合、店の外側にショウウインドウなんかがあって、そこにカメラが並んでいるんだけれども、この店にはそんなものはなく、外から見るとどう見てもカメラ屋さんとは思えない。

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 でも、店に入ってみると中古カメラや、奥の方には新品のカメラ(ただし、一眼レフなんかの「高いカメラ」はありません)なんかが展示されている。う~ん、面白そうなので、少し通ってみようかな。

LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Jiyugaoka ©tsunoken

2020年7月28日 (火)

大岡山から自由が丘へ歩く

 東急目黒線大岡山駅で下車する。

 これまでは大体駅を出て左側の東京工業大学の方へ進んで、中原街道方面へ出るんだけれども、実はそちらは大田区南千束に属する地域で、今回の目的の「目黒区大岡山」ではない。

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 ということで、今回は大岡山駅の北側にある「大岡山北口商店街」を探訪することにする。

「大岡山北口商店街」は大岡山駅から坂道を上がる途中にある。

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 大岡山というと、お屋敷の多い住宅地というイメージがあるので、この北口商店街の展開はかなり予想外だった。つまり、そこにあるのはまんま下町の商店街だったのであります。

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「ONGA -DO」っていうのがいいですね!

 商店街を構成するお店も、かなり下町的なお店が多い。

 下町商店街の特徴というのは「お総菜屋さんが多い」っていうことなのだ。つまり、家内制手工業の多い下町では「食事は主人も職人も一緒に食べる」で、さらにご主人の奥さんも働き手なので、基本的に夕食の準備は最低限でご飯を炊くだけ、で、オカズは近所の商店街で買ってきたもので済ませる、という具合。

 なので、下町の商店街は「お総菜屋さんが多い」っていう風になるんだけれども、こんな高級住宅地でもやっぱり事情は同じで、専業主婦は多いはずなんだけれども、結局、お総菜屋さんに頼っちゃってるんだなあ。

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 で、商店街を上っていくと、環状七号線に出る少し手前で、そろそろ頂上かなという場所に至るので、そこを左折するとしばらくして坂道を今度は坂をどんどん下りていく。

 で、下りて行った先が「呑川緑道」である。

 呑川はこの辺りでは既に暗渠になっており、その暗渠部分が緑道になったいるんだが、ここから少し先、東工大の裏辺りで地上に顔を出し、大田区雪谷辺りを走って蒲田へ流れ、東京湾に注いでいる。もっと上流を辿ってしまうと、東急東横線都立大学駅付近から、水源は桜新町辺りになる。

 あれっ? 東急東横線って言えば、ここから自由が丘の駅は近いんじゃないか?

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 ということで、呑川緑道と交差する道をそのまま真っ直ぐ行けば……、なんだすぐに自由が丘じゃないか。

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 で、「自由が丘は『丘』じゃない」っていう話は、明日のココロだぁ!

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Oookayama & Jiyugaoka ©tsunoken

2020年7月27日 (月)

「なぜ京橋に画廊・骨董が多いのか」ということについて

 銀座の裏通りから京橋にかけての場所にはギャラリーがかなり多くみられる。

 銀座通りの裏道あたりは現代作家の個展や、現在の絵画グループなどの共同展などが開催されていることが多い。

 京橋あたりには、表通りには国立近代美術館のフィルムセンターから独立した、ナショナル・フィルム・アーカイブなどがあるので有名だが、そのから一歩裏道に入った場所にはギャラリーというより、むしろ画廊と呼んだほうが良いような場所が沢山ある。

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 いろいろなビルのそこここにある画廊なんだが……

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 銀座のギャラリーに比べると、現代作家というよりは古典的な作家や、昔の作家の作品が展示されている……、というよりは「展示する」という目的よりは、販売目的で展示されている作品が多くみられる。

 なかには骨董品店とでも呼ぶ方が相応しい店もある。

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 その京橋近辺なのだが、『京橋から日本橋に続く「東仲通り」は戦前から骨董美術商の集まる町で、「京橋美術骨董通り」と呼ばれています。現在でも100を超えるギャラリーなどが軒を連ね、春には「東京アートアンティーク~日本橋・京橋美術骨董まつり」を開催しています。世代を問わず国内外の多くの人が、日本の美術、骨董に親しみ、作品に触れる機会を作りだしています。』というんだが、じゃあ何故、京橋に画廊が多いのかというと……

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『昭和22年には京橋区と日本橋区が合併して中央区となり、昭和27年にはブリヂストン美術館が開館し周囲に画廊も増え美術と骨董の拠点となりました。』

 っていうのだ。

 えっ? ブリジストン美術館ができたのが、周囲に画廊が増える理由だったのか。

 なんだ、『江戸時代の頃、浮世絵などの版元が京橋辺りに多くあって、それが画廊やギャラリーが京橋近辺に多くなった原因である』てな解説がどこかにないだろうかってネットを調べてみたんだが、「浮世絵の版元としては有名な蔦屋重三郎が一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出」という記述くらいで、別にそれが現代の画廊や骨董屋さんに繋がっているというようなことはないようだ。ちょっと残念!

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 勿論、写真のギャラリーもあります。

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LEICA M-E KONICA M-HEXANON 50mm f2 @Kyobashi ©tsunoken

2020年7月26日 (日)

兵(つわもの)どもが夢の跡:プリンス自動車工業村山工場

 西武拝島線の武蔵砂川駅で降りて、そのまま少し西武立川駅方面へ歩くと、残堀川という川に出るので、川沿いに右に曲がって行くと、すぐにフェンスの中にある土手のような土盛りがある。

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 何を隠そう、実はこの土盛りこそがもとはプリンス自動車工業村山工場に併設されたテストコースの外周路のオーバスコース4.25kmの南端にあるバンクの土盛りなのである。

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 下の写真の一番下にあるバンクの外側の土盛りがそれ。

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 プリンス自動車工業という会社は、第二次世界大戦後、航空機製造を禁じられた立川飛行機出身の技術者により、1947年に「東京電気自動車」の社名で発足。電気自動車製造からスタートしたメーカーであるが、1951年以降はガソリン自動車開発に転身した。更に旧・中島飛行機系の企業である「富士精密工業」との協業・合併をも経るなど、企業としての成立過程は複雑である。

 しかし、1960年代におけるモータースポーツにおける活躍ぶりは突出していて、なかでも1964年の第2回日本グランプリにおけるプリンス・スカイラインGTの活躍ぶりは未だに語り継がれている。

 このレース、プリンスはプリンス1500(4気筒)のシャーシーを少し延長させて、グロリアの2000c.c.エンジン(6気筒)のエンジンを載せた、スカイライン2000GTをプリンス7人の侍と呼ばれたドライバー(生沢徹、砂子義一、大石秀夫、小林元芳、横山達、杉田幸郎、小平勝だったと思う)に与え、日産はフェアレディ1500なので最初から勝負は諦めたんだが、トヨタは姑息にもポルシェ904を急遽輸入して、式場宗吉に与え、取り敢えずプリンスだけには勝たせないという作戦で臨んだ。

 結果、優勝したのは式場宗吉ポルシェ904だったんだが、一時期、生沢徹がドライブするプリンス・スカイライン2000GTが式場を抜いてトップに立つという快挙を成し遂げ、レースそのものはポルシェに凱歌が上がったが、一時期ポルシェを抜き去った生沢スカイラインGTのドライビングは後々の語り草になった。

 まあ、実はこれについては生沢徹と式場宗吉の日頃からのいろいろな付き合いという裏話があって、その関係からの生沢徹の大逆転劇という尾ひれがあるんだが、まあ、いずれにせよ未だ語り継がれている、日本レース史の伝説なのである。

 まあ、こんなオーバルコースでは最高速のチェックは出来るとは思うが、ハンドリングのチェックなんかは出来るはずも無く、結局、それは箱根峠とか碓氷峠とか……、それこそ榛名山の上り下りでトレーニングを積んでいたんだろう。浅間レーシングコースの裏だしな。いやあ、まさしく『イニシャルD』の世界だなあ。

 その後、プリンス自動車工業は1966年に日産に吸収合併され村山工場も日産プリンス村山工場となり、その後、プリンスの名は無くなり日産村山工場となって、2004年にはカルロス・ゴーンによって工場は完全に閉鎖となり、テストコースの北側はイオンや武蔵村山病院になり、南側は真如苑という宗教団体の持ち物となった。

 武蔵村山病院の脇には「プリンスの丘公園」という公園ができている。

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 公園の一角には「スカイラインGT-R(PGC-10)発祥の地」という碑があって、かろうじてここが昔の自動車工場だったということが分かるようになっているんだが、出来ればオーバルコース南端のバンクあたりは真如苑もまだ手を付けていないようなので、ここだけでも公開して、昔のプリンス自動車工業テストコースの一部として残してもらえないだろうか。

 レリーフの左端がオーバルコースであります。

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LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Musashi Murayama ©tsunoken

2020年7月25日 (土)

最近、銀座のライカには行かなくなった

 以前は銀座に行けば必ず覗いていたのがライカ銀座なんだが、最近はほとんど覗いてないなあ。

 まあ、一階のショウルームはサラッと眺めて、基本的には二階にあるライカギャラリー東京を覗きに行くのであったんだが、う~ん、なんかあまり展示に興味がなくなってしまった。まあ、ギャラリーでどんな写真展を開催中なのかのアナウンスがないので、なんとなく行きそびれてしまっている、というのがその最大の原因かなあ。

 まあ、ライカという会社が以前は「写真文化全体に奉仕する」っていう立場だったのが、どうも最近はそうじゃなくて、『「ライカで撮る」という文化』の方向にシフトしてしまった感があり、どうも「ライカ」というブランドが最前面に出てしまっているような感じがするんですね。

 奥ゆかしさがないというか、まあ、日本ではこの「奥ゆかしさ」というものが文化程度を示していたんだが、その「奥ゆかしさ」を以前のライカ(というかライツ社?)は持っていたような気がしていたんだけれども、今はもう既にそんな余裕はありませんっていうところなのかなあ。

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 まあ、「銀座といえば、中古カメラ店めぐり」というのが私の基本で、有楽町駅を降りると最初に行くのがこのレモン社。

 その昔、一番最初はライカM3(ダブルストロークの初期型)、その後、M5やM6なんかも、更にそのいろいろなレンズを買ったのがこの店だったんじゃないかな。

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 銀座教会ビルの八階にあるんだが、カメラばっかりじゃなくて、鉄道模型なんかも扱っていて、以前はカメラの店と鉄道模型の店は別の場所にあったんだが、銀座教会ビルに移ってからは同じ場所にカメラも鉄道模型もある。

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 レモン社におけるかなり執拗な点検を終えてからは、銀座教会ビルの裏側にある清水カメラでウィンドウショッピング。

 ライカ関係の商品を見るんだが、ここの店で買ったことがあるのは、数千円で売っていた外付けファインダーだけでありました。

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 清水カメラの後はスキヤカメラへ。

 本店はライカを見に行って、ここスキヤカメラNikonハウスでは当然ニコンカメラとレンズを見る。

 ここでは、フィルム時代からニコンのレンズ群をかなりかなり購入している。もしかしたら、これまで一番お世話になった中古カメラ屋さんかも知れない。

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 スキヤカメラを出た後は、晴海通りの反対側に渡ってカツミ堂カメラを覗いて、ライカやニコンのレンジファインダー機を眺めるんだが、今日はスキップして、三原橋の三共カメラを覗きます。

 ここでは、2年ほど前にベル&ハウエルのフィルモが出ていたので、思わず買おうかどうしようか、数週間悩んだことがあった。ああ、ボレックスH-16を手放すんじゃなかった。

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 ってなことで、銀座の中古カメラ店巡りなんだが、既にこれで往年の三分の一位に店数は減っている。それに引き換え新宿が西口・東口を含め、なくなった店も多いが、新規に開店する店も多く、もう既に、「中古カメラを探すのなら銀座よりも新宿」という風に潮目が変わってきてしまっているようだ。

 となると、次第に銀座に来ることは減ってくるんだろうか。

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 ニコンハウス銀座ショウルームもなくなって、新宿一か所になってしまうらしいしな。

LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Ginza ©tsunoken

2020年7月24日 (金)

名犬チロリの像

 銀座から出ている晴海通りが首都高を跨ぐところにある築地川銀座公園というのがあるんだが、そこに見慣れない銅像が建てられている。なんか見慣れない犬の像だなあと思って、写真に撮り、家に帰って調べてみた。

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『名犬チロリ
1992年初夏
千葉県松戸市で、生んだばかりの仔犬5頭と共にゴミ捨て場に捨てられていた、後肢に障がいを持つ雑種のメス犬。
殺処分寸前に救助され、既に訓練中だった純血統のセラピードッグ候補生を追い抜いて、日本で第一号の認定セラピードッグになりました。

福祉の現場で数々の奇跡を生み、日本のAAT(動物介在療法)に道を拓き、動物愛護法に多大な影響を与えました。その功績が認められ、国などから30に上る表彰状、感謝状を授与されています。

2006年3月
乳がんにより没。

2007年5月
築地川銀座公園にブロンズ像が建立されました。』(一般財団法人 国際セラピードッグ協会 公式ブログ より)

 えー? そんなにエライ「お犬様」の像とは思わなかった。

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 考えてみれば、テレビアニメ、劇場アニメ、ビデオアニメなどの映像制作をやっていたのは2004年頃までだったので、それまではこの(旧)電通ビルや、手前にある東映ビデオが入っていたコンワビルなんかにもしょっちゅう出入りしていたことがある。当時からこの公園はあったんだが、こんなお犬様の銅像はなかったわけだ。

 ふ~ん、世の中は変わってきているんだけれども、しかし、電通ビルにはいまや電通はいないわけで、今、どんな会社が入っているんだろう……、なんて、今やどうでもいいことなんだろうな。

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 多分、チロリはノラ犬だったんだろうなあ、ノラ犬の子供として生まれ、そのままノラ犬として育ってしまった。でも「既に訓練中だった純血統のセラピードッグ候補生を追い抜いて、日本で第一号の認定セラピードッグになりました」ってのがいいですね。

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 人間もそうだけれども、それ以上に「血統」が重要視され、つまり「生まれ/育ち」が需要視される犬の世界だって、そんな「生まれ/育ち」だけでは判断できないモノ・ゴトがあるんだろうなあ。

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 この暑い日に、築地川銀座公園に屯している一般サラリーマンの皆さ~ん。

 ノラ犬の子供だってセラピードッグになれるし、可能性はいくらでも開けてるんですぞ。

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「お犬様」を見習って、いろいろなことに励みましょう。

 築地川銀座公園で群れて愚痴っているだけじゃ、何にも解決しないし、進歩もしないぜ。

 そんな貴方たちのために、この銅像が建てられているんですよ……、かなあ?

LEICA M-E ELMARIT-M 28mm f2.8 @Tsukiji & Ginza ©tsunoken

『文庫 名犬チロリ 日本初のセラピードッグになった捨て犬の物語』(大木トオル・著/岩崎書店フォア文庫/2016年6月18日刊

『Dog Road セラピードッグ・チロリの物語 VOL.1』(川上慎 (著), 大木トオル (著)  /秋田書店/2006年5月1日刊(電子版)

 

2020年7月23日 (木)

新宿駅東西自由通路が供用開始

 JR新宿駅の東西をつなぐ自由通路が7月19日から供用が開始となった。

 これまでは、新宿駅の東側と西側を繋ぐのは、北側が東京メトロ新宿駅から西口の小田急ハルクへ抜ける地下道か、青梅街道沿い。南口の甲州街道沿い。あるいは思い出横丁から繋がっているしょんべんガードを通る方法があるが、新宿駅をまっすぐに突っ切る方法がなかったので、まあ、確かに新宿駅の東西の行き来がしやすくなったのは慶賀、慶賀であります。

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 下の写真が西口側の自由通路入り口。以前はこの部分に西改札口があった。

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 改札口は自由通路西口から入って右側に移された。

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 以前の入口に比べると少し改札機の数は減ったかな?

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 この自由通路開設に関しては、かなり地元の働きかけがあったようで、「祝・新宿駅 東西自由通路 開通!」という嬉しそうな看板が沢山。

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 これが東改札があったところの行き先表示板。

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LEICA M-E LEITZ CANADA SUMMICRON 35mm f2 @Shinjuku ©tsunoken

2020年7月22日 (水)

町田市は東京都なのか、神奈川県なのか

 小田急線で新宿を出ると、多摩川を渡って登戸からは神奈川県に入る。

 そのまま、新百合ヶ丘辺りまでは神奈川県川崎市の山の中をずっと走っているのだが、和光大学がある玉川学園駅からは再び東京都に入り、次の駅が東京都町田市にある町田駅に着く。途中、神奈川県へ越境しちゃうんだけれども、ファイナル・デスティネーションが東京都町田市だから、問題はないでしょ。

 でも、なんか町田市って東京都なんだけれども、あまり東京都っていうイメージがなくて、神奈川県? あるいは「飛び地?」てな思い込みがあるんだよね。でも「飛び地」ではないし、まさしく東京都なんであります。というか、実は東京都でも結構大きな都市なんですね。

『多摩川以南に位置する商業都市で、東京都内では東京23区・八王子市に次ぎ3番目(市町村では2番目)に人口が多い。東京都に位置する自治体としては島嶼地域を除くと最南部に位置する。国道246号・東名高速道路(京王相模原線・東急田園都市線・小田急線)と国道16号(横浜線)が交差する地域。』(Wikipedia)という街。『日本で唯一、3つの政令指定都市(すべて神奈川県の横浜市・川崎市・相模原市)に接している自治体でもある。』(同・Wikipedia)っていうのを読んじゃうと、なんか、やっぱり神奈川県? ってな感じに捉えられても仕方ないのかな。

 でも、実際は八王子市と多摩市に隣接している、れっきとした東京都なんです。

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 町田駅は小田急線とJR横浜線の駅なんだけれども、小田急線の駅前には上の写真のような「絹の道」の碑がある。片方には「よこはま」もう一方には「はちおうじ」という表記がある。

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 明治時代、日本の最大の輸出商品は「絹製品」だった。そこで、長野や群馬などで作られていた絹織物、絹製品を高崎を拠点に八王子まで運び、八王子を集荷地とし輸出港の横浜港を結び最大の貿易商品絹を運ぶ街道として繁栄したというのは、例えば松任谷(荒井)由実の八王子の実家「荒井呉服店」の存在なんかでもよく知られる。その、八王子と横浜のほぼ中間となる原町田が中継地だった。

 そのルートが町田街道とよばれている道で、なるほど高崎から八王子までは現在は八高線という路線が走っており、八王子から横浜桜木町までは横浜線という線路が走っている。つまりこの八高線・横浜線ルートというのが、現在、町田街道と呼ばれているルートなんだな。

 その町田街道の名残が、現在は小田急線を跨いで、小田急町田駅前に展開する町田中央通りなのであります。

 なんとなく普通の賑やかな商店街のように見えるんだけれども、小田急町田駅前の碑の通り、まさしくこの商店街が八王子と横浜を結ぶシルクロードであり、同時に『絹の道』は横浜を通じて、キリスト教や自由民権思想など、外国の思想・文化も運んだ、「自由民権思想の道」でもあったのだ。特に自由民権思想は『絹の道』沿道の豪農など、村の有力者を中心に広まる。町田は石坂昌孝、青木正太郎といった有力な指導者を輩出、また大規模な集会が開かれるなど、自由民権運動の中心地となった。

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 それなりに政治的にも中心になる大都市に発展した町田市である。まあ、今や「政治的」って言うところでは、まあ、完全に田舎町ですけれどもね。

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 上は小田急町田駅にある小田急百貨店屋上からみた町田市の新宿方面の全体図……。

 下が、相模大野方面の全体図である。

 なるほど大きな街であることは良く分かる。なんせ立川市よりも大きいんだもんなあ。

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 で、帰りは東京都町田市と東京都の関係を見ておこうと思って、JR横浜線で八王子経由で帰った。

 んだが、横浜線に乗っても、結局、淵野辺とか相模原とかの神奈川県ばっかりを走っているんですね、東京都に入るのは橋本の先、八王子さがみ野駅からなんですね。こちらも、東京都→(神奈川県)→東京都の移動だ、ザマミロ。

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 何が「ザマミロ」なのか、よくわからない。

Leica M-E TTartisan 21mm f1.5 ASPH @Machida ©tsunoken

2020年7月21日 (火)

なぜ未だ『なぜ未だ「プロヴォーク」か』か

 実はこの本、新刊書店ではなく、古書店でもなく、中古写真機店で買ったのである。

『プロヴォーク』とは、言うまでもなく、中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦らによって創刊された写真同人誌で1968年11月1日創刊、2号から森山大道も参加。3号まで発刊されたが、総括集「まずたしからしさの世界をすてろ」で廃刊。わずか3号と総括集の出版ということで終了してしまった、言わば「幻の写真誌」である。

 で、それについて書かれた本書『なぜ未だ「プロヴォーク」か』も青弓社では在庫切れ重版未定状態になっていて、なかなか読むことが出来ないでいたんだが、家の近所のカメラ店ハヤシ商會のウィンドウに発見したのだ。

 オヤジさんにどこかの古書市か何かで見つけたのかと聞いてみたら、ご自分で読んだ本だったらしい。このカメラ店って結構本を多く売っているんだが、なるほどそういう傾向か、なんてニンマリして見たりするのでありました。

Photo_20200629151001『なぜ未だ「プロヴォーク」か 森山大道、中平卓馬、荒木経惟の登場』(西井和夫・編著/青弓社/1996年5月1日刊)

 で、早速読んでみたのだが、どうもね、この1980年代終わりから1990年にかけての頃の、新左翼風の文章にはちょっとウンザリする。というか、昔はそんな文章に憬れていた時期があったので、尚更「今更」感があって、親しくなれないんだなあ。つまりそれは「脚注の多さ・脚注文章の長さ」である。

 以下に、本書の各文章における本文と脚注のそれぞれのページ数を示す。

同時代的であること―書き下ろし 本文11ページ/註3ページ
“キャパの白痴”へ旅立つのだ「デジャ=ヴ」14号/1993年10月10日 本文30ページ/註12ページ
短い夏の親友―『暗闇のレッスン』(みすず書房、1992年6月刊) 本文5ページ/註1ページ
異形の人―「みすず」1992年5月号 本文6ページ
写真の黙示録―『暗闇のレッスン』 本文26ページ/註9ページ
荒木経惟は観音道の修験者である―『私が写真だ』(群出版、1982年10月刊) 本文26ページ/註10ページ
ギャルの時代の荒木経惟『少女物語』―「朝日ジャーナル」1988年6月3日号 本文3ページ/註5ページ
ヌードと二台のカメラ―「バッカス」1992年1月号 本文3ページ/註1ページ

 まあ、各論考の目の付け所は面白いんだが、それよりむしろ気になってしまうのはその「註」の多さである。本文を読んでいるとしばしば出てくるこの「註」に、本文の途中で「註」のページに飛んでそれを読み、そしてしかる後に本文に戻って読むということを繰り返していると、なんか段々本文の趣旨が見えなくなってしまってイラつくことになる。

 実はこの論文スタイルっていうのは1980年代終わりの頃から90年代にかけての、新左翼の論文スタイルであって、やたら脚注が多いっていうのは、岩波文庫版の『経済学哲学草稿』とか『ドイツイデオロギー』などの、カール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルスの論文スタイルなのである。もうやたら脚注ばっかりでねえ、なんか脚注読んでいるといつの間にか本文に何が書かれているのかわからなくなっちゃうっていう困った問題があって(私だけ?)、その都度、本文を少し前に戻って読み戻し、という読み方をしなければならなくて、なんか読んでいてイライラしてくるのであった。

 著者の西山一夫とは『東京都江戸川区小岩に生まれ(1946年生まれ)、1952年までそこで育つ。1968年、慶應義塾大学経済学部卒業。弘文堂新社編集部を経て、1969年に毎日新聞社出版局入社。「サンデー毎日」「毎日グラフ」記者を経て「カメラ毎日」編集部に入り、1983年から1985年休刊まで同誌編集長。』(Wikipedia)という経歴の人。

 さすがに「カメラ毎日」の編集長だった人らしく、自殺した山藤章二編集長の後を継いだ西山氏らしい文章ではありました。西山氏は残念ながら既に鬼籍に入ってしまっている。まさしく「団塊の世代」ど真ん中の人らしい、やたら脚注の多い文章を書く人だったんだなあ、というのが私が本書を読んだ感想であります。う~ん、なんかそれ以上の感想はないんだなあ、これが。

 えっ? 何が書いてあったのか? って? う~んと……

 なんだ、それで本を読んだつもりか? ハイ、一応読みました。

 まあ、取り敢えず。なんでも『プロヴォーク』の復刻版が二手舎という古書店から出ているらしい。

 そちらの方が気になるなあ。

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 本書を買った、駒込駅前のカメラのハヤシ商會 LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH ©tsunoken

 『なぜ未だ「プロヴォーク」か 森山大道、中平卓馬、荒木経惟の登場』(西井和夫・編著/青弓社/1996年5月1日刊)Amazonではオンデマンド版で購入できます。

2020年7月20日 (月)

お盆の墓参り

『浅草・今戸の慶養寺の門前に、〔嶋屋〕という料理屋がある。
 表構えは大きくないが、奥行きが深く、裏手は 大川(隅田川)にのぞんでいて舟着きもあるし、気のきいた料理を出すので、秋山小兵衛も 贔屓にしていた。
 秋になると、 あぶらの乗った沙魚を酒と生醬油でさっと煮つけたものなどを出して、小兵衛をよろこばせる。
 だが、いまは秋ではない。
 この年の、 梅雨の晴れ間の或 る夜のことだが、嶋屋から座敷女中に見送られて外へ出て来た客が、今戸橋の北詰を右へ曲がった。
 右手は慶養寺の土塀、左手は山谷堀 である。この客は中年の侍で、総髪 も手入れがゆきとどいているし、夏羽織と袴をつけた 風采 も立派なものであった。 侍は、かなり酒をのんでいるらしい。
 いかにも、こころよげに山谷堀沿いの道を歩む侍の前へ、ぬっと夜の闇の中からあらわれた男がいる。土塀の裾に屈み込んでいたのだ。 これも侍……いや、あきらかに浪人者であって、 柿色 の布で顔を隠し、着ながしの裾を 端折り、帯に草履をはさみ、跣 になっている。
 背丈の高いその浪人が、総髪の侍に
「よい、ごきげんですなあ」
 と、笑いかけた。
「おぬしは……?」
 油断なく一歩 退った侍へ、浪人の後ろ手に隠していた棍棒が闇を切り裂いて襲いかかった。
「う……」
 辛うじて身をひねり、これを 躱したが、息つく間もなく打ち込まれた棍棒に頸すじ 叩かれて、中年の侍は大刀の柄へ手をかけたまま倒れ伏した。
 死んだのではない。気をうしなったまでだ。』

 ご存知、池波正太郎氏の『剣客商売 十三 波紋』から『敵』の出だしである。

 この「浅草・今戸の慶養寺」というのが、我が家の菩提寺。曹洞宗霊亀山慶養寺であります。

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 東京は7月にお盆をやる。今年は7月19日にお施餓鬼を開催するというので、その前日に墓参りに行ってきた。

 曹洞宗霊亀山慶養寺というのは結構古いお寺だったようで、龍門寺十二世良寮和尚(承応2年 1653寂)が開山となり、寛永2年(1625)浅草蔵前に創建、その後、現在の台東区今戸へ移転したと言われている。

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 初代・林家正蔵師のお墓があるらしいので、以前、探してみたことがあるんだが、よくわからなかった。

『天保13年6月5日(1842年7月12日)没。享年62。エピソードとして、当時では珍しく火葬をし、燃やした時に棺桶に仕込んであった花火が上がって、参列者を驚かせたという話が伝わっている。』という、まあ、さすがに噺家っていうエピソードですね。

 林家正蔵は二代目が婿養子で3~6代目までは別の家の姓の人が受け継いできたんだが、7代目で海老名竹三郎という本名の人が継いだんだが、その8代目でまたまた別の姓になったんだが、8代目が林家彦六になって海老名家に林家正蔵を返却して、現在の9代目林家正蔵(旧名:林家こぶ平/本名:海老名泰孝)となったそうだ。

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 多分「林家正蔵の墓」というのはないだろうけれども、かといって初代が「海老名」性であれば「海老名家の墓」なんだが、それもはっきりしない。今度、墓参りに行ったら場所を聞いてみよう。

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 ところで、「角田家之墓」というのも、このお寺にはいくつかある。

 この二つ並んでいる「角田家之墓」のどちらかは我が家の墓、もう一つは私の従兄弟が受け継いでる墓であります。

 さあ、どちらがどちらでしょう?

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RICHO GRDⅢ @Imado Asakusa ©tsunoken

『波紋 剣客商売 十三』(池波正太郎・著/新潮文庫新装版/2003年2月15日刊)

2020年7月19日 (日)

ホンダCR110カブレーシング

 恵比寿に行くといつも気になって覗くのがこのバイク屋さんなのである。

 ショウウインドウの下段右端にあるのがホンダCR110という50c.c.の市販レーサー。多分、もう動かないんだろうけれども、展示用にレストアして置いてあるんだろう。

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 ホンダCR110って何だ?

 『世界的なモペッドブームを背景に成立した50cc欧州選手権人気の高まりは、1962年からの世界GP50ccクラス新設に至った。Hondaはこの動きに合わせ、1960年1月より公道用市販車スポーツカブC110をベースに、GP用50ccレーサー開発に着手。そして初年度の1962年には、DOHC単気筒49ccのRC110と、その改良型のRC111を実戦投入した。同年5月に発表されたCR110は、上述のワークスレーサーRC110を母体に開発された市販レーサーである。世界GPデビュー戦となった6月のマン島TTでは、並みいる強豪相手に9位に入賞。国内デビューとなる7月の第5回全日本モーターサイクルクラブマンレースでは、見事デビューウィンを飾った。その後、国内外で販売されたCR110は、多くのプライベーターたちに愛用されることとなり、兄弟機種の125ccクラス用CR93とともに、多くの名レーサーを育てる役目を担ったのである。』(ホンダ資料より)

Cr110aHONDA CR110©Honda Motor Co., Ltd.

 市販レーサーとして販売されたCR110なので、当時のクラブマンレースではカウリングの装着が許されていなかったため、シートの両サイドとフロントにゼッケンプレートをつけるステーが付いている。フロントのステーはカウリングの装着ステーを兼ねる。GPレースではカウリングの装着が許されているので、当然、皆、カウリングをつけて出場していた。

 ところが50c.c.という極小クラスのエンジンということになってしまうと、エンジン2回転に1回の爆発という4ストロークエンジンの場合、1回転ごとに爆発をする2ストロークエンジンに比べれば、どうしても出力は少なくなってしまう。ということなので、結局、50c.c.クラスはクライドラーなどの欧州の2ストロークのモペット・メーカーの独壇場となった。

 ところが1966年、ホンダは4輪レースのF1進出を決めて、一方、オートバイでは50c.c.、125c.c.、250c.c.、350c.c.、500cc.c.の全クラス制覇というとんでもない目標を掲げて、何と50c.c.クラスに2気筒マシンRC116を投入し、さらなるエンジンの高回転化を狙って、4ストロークでも2ストローク並みのパワーを引き出そうとした。ということは今度は125c.c.クラスには5気筒というとんでもないマシンを開発、ライダーもクライドラーから軽量級専門のルイジ・タベリを引き抜いたり、ラルフ・ブライアンズなどの軽量級ライダーなどを擁してその年のGPレースに臨んだ。

 まあ、あまりにも高回転のエンジンなので、結構、コントロールは難しかったらしい。

 このころのホンダは125c.c.クラスは5気筒、250、350c.c.クラスは6気筒という今から考えてみると結構トンでもないエンジンを開発していて、少なくとも125c.c.から350c.c.クラスまでは制覇していたのだった。

50cc2HONDA RC116 ©Honda Motor Co., Ltd.

 がしかし1気筒を2気筒にするだけのことなら、2ストローク・エンジンでもできる事であり、その場合の問題はエンジンから発する熱の問題なので、水冷化によってそれが開発されてしまえば、結局、軽量級では4ストローク・エンジンは2ストロークには太刀打ちできないということになって、ホンダは50c.c.クラスからは撤退を決めたのだった。

 結局、50c.c.クラスはスズキとそのライダー、 ハンス=ゲオルグ・アンシャイト の独壇場となってしまい、ホンダの50c.c.クラスへの挑戦は、残念ながら成し遂げられずに終わってしまった。

 で、そのきっかけがホンダCR110カブレーシングだったっていう訳。

 結構、歴史的存在なんですね。

LEICA M-E TTArisan 21mm f1.5 ASPH @Yebisu ©tsunoken

2020年7月18日 (土)

立川駅南口を歩く

 立川駅っていうと、今は北口がメインという感じになっていて、多摩都市モノレールの駅もどちらかというと北口がメインだし、立川基地や立飛企業などの大きな工場があって、あまり開けていなかった北口が、近年はそれらの土地が総合開発されて、今や北に発展する立川市という感じになっている。

 雰囲気としては立川駅の北口が現在の立川市の中心エリアで、南口は昔の立川市っていう感じなんだけれども、最近はどうなっているんだろう。

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 立川駅の南口を出ると目の前に出現するのがアレアレアという商業施設なんだが、もともとここにあったのはオリオン書房という、立川を中心に東京西部で大展開している書店の本店があったところ。もともとオリオン書房は万田商事という会社が経営していたんだが、現在は日販系のリブロの傘下に入ってしまっていて、本店機能は多摩都市モノレールの立川北駅そばのノルテ店とJR立川駅ビルのルミネ店に移っている。

 東京都書店組合でも結構ブイブイ言わせていた、書店だったんだけれども、まあ、これも時代の流れってやつなんでしょうかね。

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 要は、北口が基地やら(動いていない)大工場やらがあって、勝手に庶民が手を出せなかったのに比較して、南口は昔からの町で、立川市なんかが手を入れていなくて、普通に庶民が勝手に作り上げた街だったのであります。

 その結果、北口に比して南口は、あまり計画的な発展をしなくて、どちらかというと飲み屋街を中心とした、ちょっと剣呑な町として発展してきたのでありました。

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 ただ、その立川市も北口周辺が大きな再開発をされるのに合わせたのか、南口周辺も次第に様変わりしてきて、昔のような「剣呑な町=立川」という感じから変わってきて、だんだん普通の街みたいになってきている。

 以前のように、昼間っから町を歩きなれていない人間にとっては、ちょっと構えて歩かなければおっかないっていう感じの街ではなくなって、まあ、今や普通の街になってしまっている立川駅南口周辺なんですね。うん、あまり面白くない。

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 で、まあ立川といえば、青梅から多摩川沿線を下りてきた奥多摩街道と、高尾方面から来た甲州街道(国道20号線)の合流点がある日野橋交差点で、有名な場所である(?)。 えっ? 別に有名じゃないって? 奥多摩街道なんて誰も知らないよ、だって?

 日野橋交差点は、あの『バリバリ伝説』でも出て来ている有名な場所なんだけれどもなあ。

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 で、練馬から青梅方面へ旧青梅街道を走ってきたサイクリストが、青梅から東京に帰るルートとして多摩川ルートを通る場合は、奥多摩街道の旧道を走ってきて、ここ日野橋交差点まで帰ってくれば、あとはまっすぐ甲州街道を新宿まで走るだけなので、少し「ホッと」するところなんであります。

 下の写真、左側が新奥多摩街道、右が旧奥多摩街道です。新奥多摩街道はごく普通の片側2車線の道で、途中に面白いものも何にもないんですけれども、旧奥多摩街道は途中にいろいろ見るところがあって面白い道です。

 ただし、まあ、この日野橋交差点からは、あとは国道20号線を走るだけなので、後ろから来るトラックに気を配って新宿まで走るだけです。

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 日野橋交差点を過ぎて多摩川のそばに行くと、立川市立野球場があります。

 ここもまた夏の高校野球東京都予選を開催することで有名な球場なんだけれども、当然、このコロナウィルス禍でもって、開催は中止。閑散としていますね。

 この球場がある公園は、同時に多摩川サイクリングロードへの入口でもあるんだけれども、まあ、ウィークデイではあまりサイクリストの姿は見えませんね。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Tachikawa ©tsunoken

2020年7月17日 (金)

馬喰町なのか、横山町なのか

 中央区の小伝馬町・大伝馬町から浅草橋へ抜ける道が馬喰町、現在は中央区日本橋馬喰町という。

 なんとなく、日本橋から北へ伸びる中央通りが昔の奥州街道・中山道へまっすぐ伸びる道であると考えてしまうんだが、実は浅草橋へ抜ける道が、そのまま浅草、南千住を通って奥州街道(日光街道)へ出るわけで、つまりコチラが昔の日光街道へ出る道だったんだろう。つまり、日本橋からまっすぐに北行する道は歩きの旅人の通る道で、少し東進して浅草経由で行く方法は、多分、荷物を運ぶ人、つまり仕事の人が通った道なのではないだろうか。

 で、そのための役馬の調達をしたのが、ここ日本橋馬喰町だったのではないだろうか。

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 馬喰町の由来というのがある。

『馬喰町の地名は天正年間(1573年-1593年)、幕府の馬労(博労)頭高木源兵衛、富田半七が居住し、この地にあった馬場を管理していたことに由来します。馬労(博労)は、馬や牛の仲介人のことです。初めは博労町と記されていましたが、正保年間(1645年-1648年)に現在の馬喰町と改められます。』(Wikipedia)

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 ところでこの「ばくろう」という言葉なんだが、上の二つに加えてもう一つの書き方がある。

 つまり「博労/馬喰/伯楽」の三つである。三つめは「びゃくらく」あるいは「はくらく」とも読むんだが、基本的には三つとも「ばくろう」と読む。「博労」と「馬喰」というのは、何となく如何にも馬を扱う労働者っていう雰囲気の言葉なんだけれども「伯楽」というと、なんかもうちょっと違う意味がありそうだ。

『博労、という言葉はそもそも伯楽という中国の言葉からきており、馬の良し悪しを見分ける名人という意味があります(日本民俗大辞典)。そこから馬や牛などといった家畜の治療をする人々のことをハクラク、バクロウと呼んだそうです。』(Wikipedia)

 この馬の良し悪しを見分ける名人という意味での「伯楽」は、中国では同時に神様扱いをされているくらい、地位の高かった人たちだったらしい。まあ、国内の戦が多かった中世の中国では、やっぱり闘いの主要な道具だった「馬」が、それだけ重要視されていたんだろう。

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 ところで、この日本橋馬喰町のすぐ隣、というか奥州街道に面しているのが馬喰町で、そのすぐ裏が日本橋横山町。JR総武快速線の駅は「馬喰町」なんだが、都営地下鉄新宿線の駅名は「馬喰横山」と、両方の地名を駅名として使っている。

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 日本橋横山町の歴史としては、横山町大通りの一部区間が江戸時代の日光・奥州街道に当たり、近隣に投宿する旅人向けの小間物問屋、紙煙草入問屋、地本双紙問屋等が軒を連ねていたらしく、その名残なんだろう、現在の馬喰横山あたりには、馬を扱う店は一軒もないが、洋服問屋などの問屋が多くみられる。

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 なんとなく、昔の町の雰囲気を町名に残しているのは「馬喰町」なんだけれども、昔からの商売を今でも実際に続けているのが「横山町」っていう訳で、ここは横山町の勝ち。

(って、何の勝ち負けなんだか分からないけど……)

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Bakurocho ©tsunoken

2020年7月16日 (木)

「アサカメ」はコケちゃったけど「ポンカメ」まだ健在だ

 6月は「『アサヒカメラ』の休刊」っていう話題でなんか引っ張られてしまったんだが、ついでに『日本カメラ』のことはすっかり忘れてしまった、っていうか最近は多分発行部数=配本部数も減ってきたせいか、近所の書店では『日本カメラ』が配本されなくなってしまってもう何年っていう感じで、特に田中長徳氏の連載がなくなってしまってからは、なんか気にしなくなってしまったな。

 まあ、雑誌の休刊というのは単純に言って、出版社がその雑誌が出す赤字に耐えられなくなってしまって、やむなくというのが普通である。でも『アサヒカメラ』が休刊して『日本カメラ』が続刊しているっていうのは、なぜだろう。

『アサヒカメラ』は元々は倒産した朝日ソノラマを引き入れ、朝日新聞出版部と合併して朝日新聞から独立した株式会社朝日新聞出版が出版していた、写真雑誌。ライバル関係にあった『カメラ毎日』『日本カメラ』とは一線を画した正統派路線を歩んできた。どちらかというと、編集長(特に山岸章二氏)の個人雑誌的なあり方から、山岸氏の自殺から、早いところ休刊となってしまった『カメラ毎日』。毎日新聞とか朝日新聞とかのメジャー新聞社が親会社だった2誌とは違い、基本的に「カメラマニア・写真マニア」のための写真雑誌であった『日本カメラ』という具合に、その三誌の違いを描いても良いだろうか。

 その『アサヒカメラ』の休刊も多分そんな会社の事情なんだろうな。要は「大朝日新聞」が親会社である以上、その子会社である朝日新聞出版も、多分、従業員に対し朝日新聞並みの給料を払わなけらばならない人件費がかかる会社なんだろう。で、いずれにせよ『アサカメ』『ポンカメ』みたいな歴史ある写真雑誌・写真機雑誌の使命すでに終わってしまった、っていうのがまず単純な理由。『アサカメ』がダメで『ポンカメ』がまだ生き残っているというのは、多分、単純に人件費(社員の給料)の問題なんだと思う。

 ってことは『日本カメラ』もいずれかは……? ってことなんだけれども、まあ、それもやむを得ないでしょうね。要は、雑誌の生命っていうのが基本的にあって、まあ、その生命というものが永遠の物じゃない以上、いずれは終焉の時期を迎えるのであります。

 ってことで、いつの間にか私の意識から消えていた『日本カメラ』7月号の特集が「森山大道 東京ongoing ロングインタビュー」であることに気がつかずいたんですね。マズイマズイ……。

 ってことで、早速、池袋ジュンク堂に行きましたとさ。

Photo_20200714161501『日本カメラ』2020年7月号/日本カメラ社/2020年6月20日刊)

 えっ? なんでポンカメで森山大道? って感じはあったんだけれども、その前に、えっ? なんで東京都写真美術館で森山大道? なんで『森山大道 東京ongoing 』っていうのがあったんですね。まあ、森山大道氏も今やエスタブリッシュメント、『プロヴォーク』の森山大道氏ではないってことなんでしょうね。で、安心して「ポンカメ」でも森山大道特集が出来るって……。

 やっぱり、マニア写真雑誌としての「ポンカメ」としては、東京都写真美術館のお墨付きが欲しかったのかな?

 石川直樹氏による森山大道氏へのインタビューは、勿論、東京都写真美術館で開催中の「森山大道の東京ongoing」にかかわるもので、「アラスカで一番高い山」を撮影して、現在は渋谷のネズミを撮影している石川直樹氏によるインタビューで構成されている記事である。

Photo_20200714172101©Nippon Camera

 このロングインタビューでの唯一の収穫は映画『過去はいつでも新しく、未来はつねに新しい』という森山氏が2000年に出版した書籍と同じタイトルのドキュメンタリー映画というものの存在だ。公開は来年らしく、書籍の内容は基本的に故中平卓馬との関係を対談を通して綴ったものである以上、多分、日本の1960年代後半から70年代における日本の写真界事情以上に政治事情が優先する、当時の状況を、その映画でも見られるんじゃないだろうか、という期待がある。

 雑誌にとっての命綱である裏表紙(表4という)の広告は、『日本カメラ』は取り敢えずフジフイルムの出広だったので、ひとまず安心。

『日本カメラ』2020年7月号/日本カメラ社/2020年6月20日刊)

2020年7月15日 (水)

新宿東口の中古カメラ屋さん紹介

 四谷三丁目にある「アローカメラ&我楽多屋」のサイトで、「新宿駅東側」というタイトルでいくつかの(中古)写真機屋さんが『ちょっと無理があるかもしれませんが歩くのが苦にならない人は、新宿駅東口を出て「北村写真機店さん」~新宿三丁目の「ラッキーカメラさん」~新宿御苑の「諏訪写真機さん」~四谷三丁目の「アローカメラ&我楽多屋」と、はしごするのも一考かと思います。ルート上に写真ギャラリーも幾つかありますし。』なんて紹介されていたので、実際にそれらの(中古)写真機屋さんを訪ねてみた。

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 まずは新宿駅東口の真ん前にあるアルプス堂から……、ただしこちらは8月31日で閉店になるそうだ。興味がある方は急いで訪問を。

 アルプス堂のサイトはコチラ

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 次は紀伊国屋書店本店の前の道を入った右側にある新宿北村写真機店。こちらはまだオープンしたばっかりなんだが、今後は西口のマップカメラみたいな、総合的な写真機店が中古カメラを扱っていくようになるんだろうか。

 7月10日のブログでも書いた通り。

 北村写真機店のサイトはコチラ

 次は三丁目のミヤマ商會なんだが、既に今年の2月20日に閉店になっていた。取り敢えずサイトはまだオープンしている。

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 ラッキーカメラは以前は新宿駅東口の駅のそばにあったんだが、現在は新宿通りを四谷方面へ向かってバルト9の前の道を少し入ったところにある。

 ラッキーカメラはまだまだ健在で、サイトはコチラ

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 相変わらずライカなどを中心に、ローライフレックス、ハッセルブラッドなど、フィルムカメラが充実しています。とにかくライカの充実ぶりは相変わらずスゴい!勿論、デジタルライカも扱っています。

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 そこから新宿御苑の方まで足を延ばすと、新宿通りの御苑側に入ったひとつ裏の道にあるのが諏訪写真機。

 場所がちょっと地味なんで探すのが難しいかもしれないので、サイトで場所を確認してから行ってください。サイトはコチラ

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 諏訪写真機を出ると四谷三丁目まではカメラ屋さんはなくてしばらく歩かなくてはいけないので、四谷大木戸交差点そばのちょっと怪しい古道具屋さんを紹介。

 宇宙村という隕石やら、なんかやたら怪しい宇宙グッズなんかを売っている店なんだが、取り敢えず覗いてビックリなお店です。

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 で、四谷三丁目で左折してちょっと坂を下りて、杉大門通りの新宿通りとは反対側の入口にあるのが「アローカメラ&我楽多屋」です。

 カメラ買取専門店がアローカメラ、買ったなかで売り物にならないジャンクカメラやカメラ部品などを売っているのが我楽多屋です。アローカメラでライカM3なんかを買ってもらったことはあったし、たまに我楽多屋さんにも顔をだすんだが、行ってしまうと、なんかいらんものをつい買ってしまいそうなので、今日は行かなかった。

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 アローカメラが初代社長で「にだいめ」さんがやっているのが我楽多屋さんです。で、サイトはコチラにだいめさんのブログも好調です。

 まあ、カメラがデジタルばっかりになってしまい、今や耐久消費財ではなくなってしまっている状況の中では、なかなか中古カメラの流通っていうのも難しくなってしまっているのかもしれないが、多分、フィルムが製造されている限りは永久的に使えるのがアナログカメラのいいところ。そういう意味ではアナログカメラの存在は永久だってことになります。

 こうした「中古カメラ専門店」を、大いに応援していきたいものですね。

LEICA M-E ELAMRIT-M 28mm f2.8 @Shinjuku & Yotsuya ©tsunoken

2020年7月14日 (火)

特別定額給付金からの葛西臨海公園

 特別定額給付金の申請書が届いたのが6月6日、翌7日には郵送で申請書を提出。6月7日は日曜日なので、翌8日に文京区役所に書類が届いて5週間、昨日13日にやっと振り込まれた。

 文京区のサイトでは、申請書の提出から4週間以上過ぎても定額給付金が振り込まれない場合は、コールセンターまで電話をください、というのが書かれていたので、そろそろクレーム電話を入れようかなっていうタイミングでの振り込み。なんとまあ、文京区のステキなところですよね。なんというタイミング。

 まあ、もっとも小池都知事が住む練馬区は、既に3週間以前に振り込まれていたっていうんだから、まあ、この国の「(国家も地方も関係ない)お役人の忖度」ってのも、まあ、凄いもんですね。

 さて、どう使おうかな。

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 ということとは何の関係もなく、昨日は葛西臨海公園です。

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 JR京葉線も葛西臨海公園駅までは東京都。昨年の台風と今年のコロナウィルス禍でもって、その無能ぶりを開陳してくれたモリケンを首長に仰ぐ、天下の千葉県とは一駅違いで、まだ東京都なのであります。

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 葛西臨海公園へは何度も来ているのだが、電車で来たのは初めてじゃないかな。

 以前は、荒川サイクリングロードの河口右岸ルートの最後で、葛西橋を渡って葛西臨海公園で小休止。その後は、再び荒川サイクリングロードを北上するか、あるいは江戸川まで行って金町あたりで降りるか、関宿まで行ってしまうか、なんてルートの肝心かなめの場所であったり、息子のラクロスの試合が臨海球技場で行わることが多かったので、クルマで葛西臨海公園の駐車場に止めて、ラクロスを見に行ったりなどをしていたんだが、要は自転車かクルマで来ていたことばっかりだったんだな。ああ、子どもがもっと小さい時には葛西臨海水族園に行ったこともあった。この時もクルマ。

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 まあ、電車で来ても別に感想は変わらないわけで、そこにあるのは今まで通りの葛西臨海公園でしかない。

 13号埋立地だったお台場海浜公園は、東京湾に背を向けて13号埋立地でもって遮られた場所がお台場海浜公園の正面になっている。その辺が、葛西臨海公園は東京湾に向かって広がっている開放感のある公園になっているのだ。葛西臨海公園の正面に見えるのは東京ゲートブリッジと、お隣の浦安市にある東京ディズニーランドである。お台場海浜公園から見えるのはレインボーブリッジと東京都中心部の街並みだけである。

 お台場海浜公園で感じさせられる、なんか「東京の街の中に閉じ込められてしまった」感のある雰囲気と異なり、「ここから海!」っていう感じがするのも、葛西臨海公園の良さなのかもしれない。

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 これでもっと天気が良くて、コロナがなければなあ……。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Kasai Rinkai Park ©tsunoken

2020年7月13日 (月)

シェアサイクルが流行っているらしい

「シェアサイクル」というのが流行っているらしい。

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 SUICAやPASMOなどの交通系ICカードを持っていれば、それを事前に登録しておけば、そのカードやカード内容を登録しておいたスマートフォンでもって、シェアサイクルの駐輪場にあるどの自転車でも解錠が出来て、すぐに勝手に乗っても良いというシステム。勿論、スマホだったら何らかのカードの「締め切り/支払い」で使用情報が入ってきて、それで支払い、あるいは交通系ICカードだったら、そのまま引き落としでもって使用料を支払うというシステム。

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 ドコモが運営している「ドコモ・シェア・サービス」は、東京都23区では千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、江東区、品川区、目黒区、大田区、渋谷区の10区の区内それぞれ数か所にサービス拠点があって、使いたい人はそこに行ってスマホを自転車にかざせば、その場で勝手に乗って行っていいし、10区の各拠点のどこに返却してもOKっていうシステムなので、非常に便利であることは言うまでもない。

 一番上と下の写真の赤いバイクがドコモのバイクシェアサービスの自転車。上が千代田区神田橋、下が文京区本駒込。

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 このバイク・シェアリング・サービスなんだけれども、今回のコロナウィルス禍でもって、かなり利用者が増加しているらしい。

 一つには、勿論、移動の手段として、バスや地下鉄などの移動に比べればコロナウィルスに感染する危険性が少ないということなんだろうけれども、実は、もう一つ理由があるようだ。

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 実は、それがUber Eatsなんですね。

 コロナウィルス騒ぎでもって、「自分の店で飲食させる」っていう商法を断念した飲食店が、食品のデリバリーサービスを行うようになったっていうこと。デリバリーサービスって、要は昔は「出前」って言っていたんだが、最近オープンした飲食店はこうしたサービスはやっていなかった。昔は、出前って言えば、まだ見習い扱いの店員がやるジャンルの仕事で、まあ、まだまだ一人前じゃない人間がやることだったんだけれども、今、そんなこと新人にやらせれば「そんなの就業規則(本来、そんなものあるのか?)じゃありませんっ!」って言われそうなんで、今や、出前は飲食店従業員の仕事ではなくなってしまった。

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 まあ、そんなところに目をつけたのがUber Eatsや、そのまねをした出前館なんですね。

 出前は見習従業員がその安月給のなかでやっていた仕事なんだけれども、それができなくなってしまったらどうすりゃいいのさ、ってところですね。そんなところにUber Eatsが誕生して、「出前サービス、諸々、受け付け」ってなことを始めちゃった。そこに追加して、お客さんを店で飲食させる本来のサービスが出来なくなってしまったコロナウイルス禍だ。じゃあ、デリバリーサービスに頼むしかないのか、ということで、一斉に出前サービスはUber Eatsか出前館に、ってな流れになってしまったんですね。

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 じゃあ、Uber Eatsとか出前館の「デリバリー料金」は「お店が持つのかvs.客が持つのか」ってことなんだけれども、「客が持つ」っていうシステムなら「店はラクだけれども、お客さんからはいい印象は持たれない、次からの注文は来なくなる」っていうことになるんだろうから、多分、「デリバリー料金は店が持つ」ということになるんだろう。

 ということは店がUber Eatsとか出前館に支払うデリバリー料金は最低限に抑えないと、以前、見習い従業員に支払っていた給料以下の支出にすることは出来ない。

 ということなので、店がUber Eatsなどに支払うデリバリー料金は多分、相当低いんだろう。まあ、そうしないと発注する店が利益が出ないからね。

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 しかし、そんなに安いデリバリー料金しか受け取れないにもかかわらず、こんなシェアサイクルなんかでお金を使っちゃって大丈夫なんだろうか、という老婆心からの心配なんでありました。

LEICA M-E ELMARIT-M 28mm f2.8 @Ootemachi, Jimbocho & Hon Komagome ©tsunoken

2020年7月12日 (日)

東京周縁部を往く:浦安から葛西まで

 東京メトロ東西線で旧江戸川を渡って最初の駅が千葉県浦安市である。

 駅周辺の地名は浦安市「猫実(ねこざね)」。なんか可愛らしい名前なんだが、別に生き物の「猫」ではないらしい。

「猫実(ねこみ)」という呼び方は、藤島康介氏の『ああっ女神さまっ』ででてきた猫実工科大学で有名ですけれどもね(?)。

『鎌倉時代に、大津波で大きな被害を受けた集落の人達が豊受神社付近に堤防を築き、その上に大きな松の木を植え、この松に根を波浪が越さないように願い、「根越さね」と言われた。それが「猫実」と称されるようになったと言われる。また、かつては猫真とも書いたほか、歌川広重による「名所江戸百景」には「根古ざね」とも書かれている。」(Wikipedia)

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 旧江戸川を挟んで隣り合っている浦安と江戸川区葛西なんだが、いまや住宅地になっている葛西側に比較して、浦安側は商業地になっていて、駅前には飲食店街が展開している。

 このうなぎ屋さんも浦安に行くとたまに覗いてみたりしている店だし、やき蛤越後屋もよく行く店である。

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 ただし、元々の浦安の中心部は旧江戸川の支流である境川を渡ったところ。浦安市堀江の方で、境川沿いには昔の港の跡や旧家なんかが残っていたりして、浦安の町役場の跡なんかも碑と説明板がある。山本周五郎の『青べか物語』も、舞台は猫実じゃなくて堀江の方。

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 猫実側に戻って浦安駅前を通る葛西橋通りを東京方面へ歩くと、旧江戸川に架かっているのが浦安橋。

 ここが東京都と千葉県の境目なんだけれども、さて県境は川の両岸かなと思っていたら……

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 実はここ旧江戸川の東京都と千葉県の間にある妙見島という島が県境だったのです。この妙見島は住所としては東京都江戸川区東葛西。つまり本当の県境は旧江戸川の浦安側の側。葛西側の旧江戸川は東京都側だったんですね。

 この妙見島は、現在は護岸に囲まれてしっかりしているが、昔はこんな護岸もなくて、少しづつ下流側及び浦安側に向かって動いていたらしい。このまま放っておいたら、妙見島が千葉県になってしまう。それに慌てた東京都側が「これはいかん」と護岸工事をして妙見島を東京都側に留め置いといた、ということらしい。(本当かなあ?)

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 葛西橋通りを西進すると環七通りとの交差点に出る。

 交差点のそばに「葛西親水 四季の道」なんていう「緑道風」があるんだけれども……

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 ホンの10メートル位しかない緑道で、ちょっとガッカリ。入口に「長島橋」という碑があるので、昔はここが川だったことを思い起こさせるのだが、なんせホンの10メートルじゃなあ。

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 で、環七通りを左折してまっすぐ行くと地下鉄博物館があって、道路の反対側が東西線葛西駅。

 う~ん、どうせなら駅側に博物館作って、東西線に乗り降りするたびに、なんか博物館を見られるようにしたら良かったのにな。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Urayasu & Kasai ©tsunoken

2020年7月11日 (土)

地下鉄の中のポエムって、なんかなあ

 昨日、東京メトロに乗ったら目についた、こんな車内吊りがあった。

「シュガーポット」というタイトルの詩で、興村俊郎という人の作品だそうだ。

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シュガーポット

人の大波に溺れないよう
必死にひとり泳いで
東京に来た半日は終わった
大通りから外れて
小さな喫茶店に腰かけると
古びたテーブルの上で
シュガーポットが
口をあけて昼寝している
窓の外に目をやると
若い女性が四、五人
はしゃぎながら通り過ぎていく
それだけが眩しかった

202007093©公益財団法人メトロ文化財団

「メトロ文学館」というタイトルの車内吊りで、地下鉄に乗るとたまに目にするアレである。

 あまり気にしていなかったんで、まあ、多分、コピーライター辺りが書いた「ポエム風」のコピーだと思っていたんだが、そうではなくて、公益財団法人メトロ文化財団というところが一般公募して、毎月そのなかから優秀作を選んで車内吊りでもって公開しているようなのだ。

 公益財団法人メトロ文化財団って何だ?

事業内容
メトロ文化財団は、地下鉄博物館の運営を中心に、地下鉄に関する知識の普及、地下鉄沿線における文化、芸術の振興及びマナーポスターの掲出等を通じて交通道徳の高揚を図り、交通文化の発展に寄与する

事業目的
メトロ文化財団は、地下鉄に関する知識の普及、沿線地域文化の振興及び交通道徳の高揚を図ることにより、交通文化の発展に寄与することを目的としております。
当財団は、上記の目的を達成するため、次の事業を行っております。
1. 博物館の管理運営等地下鉄に関する資料等の収集、保管及び展示等に関する事業
2. 沿線地域における文化行事等の主催又は支援に関する事業
3. 交通道徳の高揚と交通文化の醸成を図るための啓蒙宣伝に関する事業
4. 交通文化に関する出版物の編集、刊行、情報提供等に関する事業
5. その他当財団の目的を達成するために必要な事業

 まあ、東京メトロの外郭団体で、メインは地下鉄博物館の運営なんだけれども、それ以外の文化活動をいろいろやっていて、この「メトロ文学館」もそのひとつらしい。

 いわゆる「企業の社会的貢献」っていうやつなんだろうけれども、まあ「地下鉄博物館の運営」というのはわからなくはないのだが、多分、このメトロ文学館の基になった発想っていうのは「地下鉄沿線における文化、芸術の振興及びマナーポスターの掲出等を通じて交通道徳の高揚を図り、交通文化の発展に寄与する」というのだと思うんだが、どうやってそれが繋がってくるのかは分からない。

 まあ、毎日毎日ラッシュにもまれて殺伐とした電車の車内で、多少はこんなポエムに触れれば、多少は気が和むのではないだろうか、っていう親心っていうか親切心というか、余計なお世話っていうあたりがその辺の発想のもとなのかもしれない。

 でも、そんなことぐらいで気を紛らわせても、肝心の満員電車が解消されなければ、問題は解決しないように思えるんだが、どうだろうか。

 私自身、8年前まではサラリーマンはやっていたんだが、もともと出勤時間にはあまりうるさくなくて、一般企業の出勤時間よりは遅い出勤時間だったっていう会社にいたので、あまり朝晩の一番酷い時刻の通勤ラッシュという経験は、それこそ新入社員の時代だけでしかなかったので、よくわからないんだが、どうなんだろうか? というか、むしろ、そんなヘンテコリンなポエム風を朝のラッシュ電車の中で見せられてもなあ、かえって怒りが湧いてきてしまいますよ、という気分なんじゃないだろうか。

 そんなことよりも、このラッシュをどうにかしろよ、って言ってみても、それは東京メトロの問題じゃなくて、そんな時刻に「出勤せよ」って言っている社長の問題だしなあ、ってなことで、問題は雲散霧消してしまうんであります。

 公益財団法人メトロ文化財団にお勤めの人たちも、そんなラッシュアワーの電車なんかには、あまり乗ったことがない人なんじゃないでしょうかね。で、アタマだけで考えてそんな「ポエムで和むんじゃね?」なんていう風に考えたんじゃないかと……。

 まあ、それも今般のコロナウィルス騒動がきっかけでテレワークなんかが一般化すれば、通勤地獄なんてものもなくなって、もうそんな変なポエムなんかは必要なくなるんでしょうけれどもね。

 えっ? もう、満員電車に戻っちゃったって? う~ん、これは日本の宿痾だなあ。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Urayasu ©tsunoken

2020年7月10日 (金)

新宿北村写真機店

 新宿北村写真機店が7月3日にオープンした。

 場所は新宿通りの紀伊国屋書店本店の前の道を入ってすぐ、8階建てのビルがそれだ。以前、TSUTAYAがあったところかなあ。中村屋が隣だし。

 新宿北村写真機店のおおもと「カメラのキタムラ」は1934年(昭和9年)に高知県高知市にて創業したキタムラ写真機店をその祖とするチェーン店で、ビックカメラやヨドバシカメラなどの家電量販店と違い、基本的にカメラ関連商品以外は積極的に販売していないところがお気に入り。更に、こども写真館「スタジオマリオ」370店舗なんかの運営も行っている、多分、現在日本で一番大きいカメラ専門店で、更に多分日本で一番大きい中古カメラ店でもあるはずだ。

 しかし、戦前からのカメラ店って、凄いなあ。実は同じ四国の愛媛県の明屋っていう、今は全国展開している本屋さんがあったりして、結構、四国出身の全国展開している小売店って多いんですね。

 ああ、丸亀製麺もそうか。

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 1階に入るとまず目につくのがこの新宿のジオラマ。勿論、新宿北村写真機店もあります。

 お店の構成は、B1Fがアップル製品の修理、1階がカメラ関連グッズ、2階が新品カメラ、3階がブックラウンジと写真プリント、4階が中古カメラ、5階がレンタルやメンテナンス修理受付、6階がイベントスペース等々。それより上の階がどうなのかは分からない。

 取り敢えず、まず6階に上がって、順番に下に降りてくる。ただし、6階のイベントスペースは蜷川実花の写真展なので、彼女の原色ギトギトの花の写真が嫌いな私はスルー、その他、ヴィンテージカメラや新品ライカのスペースもある。

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 4階に降りると、私が一番気になる中古カメラやレンズのフロア。

 ライカ、やニコン、ハッセルブラッド、ローライフレックスなどの中古カメラが沢山出ている。ライカについてはフィルムもデジタルも両方あって、結構これは楽しめるなあ。買う買わないは別として、結構、ここを覗くのが楽しみになりそうな場所ではある。

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 中古レンズも充実、憧れのスーパーアンギュロン21mm f3.5なんかもあって、思わず手を出しそうになるが、いやいや、アルティザン21mmがあるじゃん、と思わず手を引っ込めます。

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 3Fがブックラウンジ。いろいろな写真集やマガジン、ムックなんかがあって、その場で読むことができる。う~ん、ますますここで時間潰しをしたくなるなあ。

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 もともと、新宿の東口って中古カメラ屋さんが多くあって、駅裏の方とか歌舞伎町なんかに結構沢山のカメラ屋さんがあった。現在は駅前のアルプス堂と三丁目のミヤマ商會くらいになってしまって、現在、私がよく行くのはは西口のマップカメラ位になってしまっている。

 その他は東口も西口もヨドバシカメラとかビックカメラとかの、カメラ店っていうよりは総合家電量販店ばかりになってしまっているので、以前ほど中古カメラ店巡りで新宿に行く興味は薄れています。まあ、銀座の中古カメラ店もどんどんなくなっちゃっているし、一軒でもこうした中古カメラを扱う店が増えてくれると、またまたその町に行く楽しみが出来て嬉しい。

 新宿北村写真機店もどちらかというと中古カメラやフィルムカメラがメインなので、もしかするとこのマップカメラあたりがライバルになるのかなあ。両方ともライカにはかなり力を入れているもんなあ。

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 あ、西口のヨドバシカメラやマップカメラのすぐそばには「カメラのキタムラ新宿西口店」もあります。これは普通の「カメラのキタムラ」。

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 今や、オリンパスもニコンも元気がなくなっちゃて、この国のカメラ業界はもはや瀕死状態です。

 まあ、でもそういう状況で、しかし、カメラ店の大都市出店計画ってどういうことなんでしょうね。

 まあ、フラッグシップ店みたいな感じなので、あまりこの店の売り上げは気にしていないのかも知れない。

 だとすると、それはそれで心配性になっちゃうんですね、ジジイとしてはね。

 全体的なバランスはどうなっちゃうだろうとかね。

新宿北村写真機店のサイトはコチラ

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Shinjuku ©tsunoken

2020年7月 9日 (木)

Self Portrait

 Self Portrait(セルフ・ポートレイト)というのは「自画像」のこと。

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 自画像といえばヴィンセント・ヴァン・ゴッホが有名で、モデルを雇えなかった極貧時代に、自らをモデルにして習作を大量に製作したことで有名だ。結局、ゴッホが生きている間に売れた絵は一枚だけだったらしいので、結局、生涯を通じて極貧の習作時代だったわけで、そんなことで大量の自画像を残すことになったということなのだろう。

Photo_20200708123001©Vincent willem van Gogh

 写真の世界で『セルフ・ポートレイト』と言えば、リー・フリードランダーが製作した、それこそ『Self Portlrait』という写真集が有名である。

Rimg00012_20200708124601©Lee Friedlander

 リー・フリードランダーは1960年代に活躍したアメリカの写真家で、ジャンルは基本的にはコンポラ写真(コンテンポラリー・フォト)といわれる写真で、街中のスナップ写真が、我々が知るリー・フリードランダーの写真のほとんどだ。なので、基本的にはモデル写真なんかは、多分、数少ないだろうし、つまりゴッホと違って、モデルを雇えなかったから代わりに自画像を撮影したわけではないだろう。だって「スナップ写真」なんだものね。

『Self Portrait』の表紙写真は多分どこかのお店のショウウィンドウに飾られた優勝カップかなにかを撮影したんだけれども、その際に自らの顔がそのカップで隠されていて、顔は見えないけれども、その外側の輪郭でもって、その写真の撮影者が分かるというものである。

 収録されている写真の多くは、太陽を背に背負った写真で、自らの影が地面や、ショウウインドウや壁などに写っているもの。ショウウインドウに自らの顔が写っているもの。更には、ホテルの部屋などで鏡に映った自らの自画像を写したもの、などが沢山収録されている。

 まあ、コンポラ写真なんで、何故、写真家がそのショットを選んだのかは誰も分からない。でも、多くの写真の中でその写真を選んだというのには、何か意味があるのかもしれない。と、まあそれを見た人は考えるわけですね。なんでなんだろう?

 ということなので、写真集にこうした写真が収録されたものを作る写真家は多いが、それはあくまでもその写真集のメインテーマではなく、まあ、写真集の中の「お遊び」みたいな感じで収録されている場合が多い。

 それをそのまま、自画像ばかりで構成して写真集を作っちゃうっていうのは、フリードランダー自身の企画なのか、あるいはどこかにキュレーターとか優れた編集者がいて、彼がそれを勧めたのかは分からないが、いずれにせよこれは一種の「禁じ手」であり、その後にそれを真似て写真集を作ってしまったら、「なんだ、フリードランダーの真似かよ」といわれてオシマイってことになるだけだ。

 自分の写真集にこうした「セルフ・ポートレイト」を収録している写真家は多いが、さすがにそれだけで構成している写真家はいない。まあ、「先にやっちゃった方の勝ち」ってなもんでしょうな。

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 一番上と下の写真は言うまでもなく、私のセルフ・ポートレイトでありまして、上の写真はマンションのエレベーターの中、下の写真はエントランスで、それぞれ鏡に映った私の姿を撮っているだけなんだけれども、これは単なる手すさび。

 まあ、カメラがちゃんと動くかどうかのテストっていう側面もあるんだけれどもね。従って、フィルムカメラではやっても意味はないのだけれども、デジタルだからこそのカメラチェックなのであります。つまり、本来は外には見せない写真なのであります。

 そこを堂々と写真集にしちゃうっていうリー・フリードランダーって、やっぱり「エライ」写真家なんでありますね。

『Lee Friedlander : Self Portrait』(Lee Friedlander/The Museum of Modan Art/2005)

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Hon Komagome ©tsunoken

2020年7月 8日 (水)

銀座写真の現在

「銀座写真」って、何だ?

 というか、別に「銀座写真」なんていう言葉はなくて、私がこのブログで言い出しただけのことで、あまり意味はないのだです。まあ、自分なりに「銀座写真」という理由があるんですけれどもね。

 元々、私の「写真生活」っていうもののはじめは小学生の頃にたまたま写真好きの先生が初めた「写真クラブ」だったというのは以前にも書いた。その後、中学生の時にクロード・ルルーシュの『男と女』という作品を見た時、プログラムに掲載されていた「カメフレックスを覗くクロード・ルルーシュ」の写真に、「うわっ、カッコいい!」ってな感じになって、映画を好きになり、同時に映画作りが好きになりというかたちで、私の「写真生活」は、とりあえず「シネマ・ヴェリテ」の映画作りから始まったのだった。

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 大学生になり、日本テレビ報道部のアルバイトで、番組制作の補助(いわゆる「ボーヤ」っていうやつ)からフィルム編集助手になって、当時のテレビ報道の基本は16mmフィルムだったので、次第に、会社にあったベル&ハウエル・フィルモ、キャノン・スクーピック16、アリフレックス16SRなんかのムービーカメラをいじくってみたり(同録カメラのオーリコンだけは触らせてもらえなかった)して、なんとなく再度、私の写真生活は映画生活となり、遂にバイト代を貯めてボレックスH16を買うまでになったのでありました。

 一方、高校時代から始めた映画評論なんかも『キネマ旬報』『映画評論』なんかの常連投稿者にもなって、この時代は、なんか完璧に映画を中心に回っていた時期ではあった。

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 一方、映画作りの方では……

 結局、ボレックスを買いながらも、別に一作もマトモな映画を作れなくて(ラッシュだけはあります、今でも)終わってしまった学生時代なのであったのでありました。この辺、原将人の『おかしさに彩られた悲しみのバラード』なんだが、皆さんには分かりませんね。

 要は、映画が好きで、映画を撮りたくて、カメラも手に入れたんだけれども、いざ、カメラを手に入れてしまってみたら「何を撮ればいいのか分からない」という状態になってしまった男の話、っていうのが『おかしさに彩られた悲しみのバラード』のテーマなんです。

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 この頃撮っていた私の映画のことを、私は「現象学的ドキュメンタリーの試み」と名付けていた。

「現象学的ドキュメンタリー」って何だ?

「現象学的ドキュメンタリー」って言ったって、別にそうしたジャンルのドキュメンタリーフィルムがあるわけじゃなくて、特に何かの事件のルポルタージュやニュースでもないし、要は普通の日々のなかのひとつひとつのシーンを撮影しながら、それにまつわる個人的な思いなんかを語る映画、という風に考えていた訳なのであります。

 ん? 何だそれって? 

 う~ん、イメージとしてはジョナス・メカスの”ニュー・アメリカン・シネマ”や「リトアニアへの旅の追憶」なんですけれどもね。

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 オイルショックの影響で、アルバイトから潜り込もうと思っていた、その年の日本テレビ(というか、NHKとTBS以外の在京テレビ会社)は採用なしということになり、テレビを諦めざるを得なかったので、他の、それも学校推薦なんかがない会社を選んで、取り敢えず就職することにした。

「いずれ、独り立ちして映画で食っていくんだ」ってな思いもあったんだろうなあ、ということで大学を出た後は取り敢えず誰でも入れる出版社にでも入って、それからまた新しい人生設計をするんだ、ってのがサラリーマンになった理由。

 別に嫌な会社ではなかったですが、いずれ、サラリーマンは辞めて、映画で食っていくんだって思っていたんですね、出版社に入った当時は。まあ、それがあったんで「編集志望より営業志望の方が入りやすいだろう」と安易に考えて、営業で入ったんだけれどもね。

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 しばらくはまあ普通にサラリーマンをやっていたんだが、会社に入って10年ほどしてから、実は会社が映像制作部門を立ち上げることになり、それまで名古屋支社というところで燻っていた私にもお声がかかり、いよいよ映像制作という、まあ、以前思い描いていた職種に就くことになったんだが……。まあ、プロデューサーって現場仕事じゃないので、ちょっとアレでしたけれどもね。

 で、お約束の通り、結婚して、子どもが出来て、そうなると、これまたお約束の通り、カメラを手に入れたってわけなんだけれども、その手に入れたニコン New FM2が閉じていた私の写真生活を再開させる切っ掛けになったわけなのであります。

 で、そのころ始まった銀座の歩行者天国なんかに出張っては、「街写真」を撮りまくっていたというのが、私の「銀座写真」の始まり。

 そのうち、そんなスナップ写真を配置し、それに適当なキャプションをつけて発表するっていうスタイルのブログを始めたのが今から11年前、2009年11月のこと、「tsunokenのブログ」の始まり、始まり。

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 なんだ、「銀座写真」とは、その昔やろうとしていた「現象学的ドキュメンタリーの試み」の再現ということだったのであります。つまり、「私なりのシネマヴェリテ」ってわけで。

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 えっ? それって、単なる無意味?

 う~ん、そうかもしれない。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Ginza ©tsunoken

2020年7月 7日 (火)

トキワ荘マンガミュージアム、本日オープン

 西武池袋線の椎名町駅のそばに「トキワ荘マンガミュージアム」がいよいよ本日オープンする。というか、まあ、取り敢えずは「豊島区がトキワ荘の実物大レプリカ」を作ってしまったので、そのオープンってことでありますね。

 豊島区としては池袋の東京芸術劇場と、この椎名町のトキワ荘マンガミュージアムを豊島区のひとつのアートセンターにして、(当初は)2020年オリンピックイヤーのインバウンド・セールスの目玉にしようと考えていたらしい。ということなので、当初は3月22日オープン予定だったんだが、コロナウィルス騒動でもって開館は遅らせることになり、いよいよ7月7日にオープンということになった。

 まさに「コミックスとアニメの国、日本」というセールスなんだろうけれども、ねえ、どうなんでしょうね?

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 ともあれ、西武線の椎名町駅周辺は以前から「トキワ荘」をメインの売りにしてきたのは事実で、とにかく西武池袋線椎名町でおりて目白通りを北進して交番前から右に分かれる南長崎通りも、いまや「トキワ荘通り」という風に名前を変えて、トキワ荘関連の名前の商品やらサービスやらがやたら目に付く町になっているのだ。

 西武池袋線椎名町駅も完全に「トキワ荘の駅」ですね。

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 で、トキワ荘通りを少し北進して右側に「日本加除出版株式会社」という看板が見えて、その道の奥に入ると、これは以前からある「トキワ荘跡地」のモニュメントがあります。多分、ここも日本加除出版の敷地内だと思うんだけれども、多分、やはり出版社としてはトキワ荘を無視できないということなのか、あるいはマンガファンがこの会社に多かったのか、でこの土地をトキワ荘から買った時に、こんなモニュメントを作ったんだろうなあ。

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 で、そのモニュメントから300メートルほど行ったところにあるのが以前は「南長崎花咲公園」という公園だったんだが、「トキワ荘マンガミュージアム」の完成と共に公園の名前を「トキワ荘公園」になってしまった。つまり、この公園の中にトキワ荘の実物大レプリカが出来たのであります。

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 この公園内にもトキワ荘のモニュメントがあるんだが、最早そんなものは目立たなくなってしまって、やっぱり実物大レプリカのインパクトの方が大きいなあ。

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 ちょっと来ない間にいつの間にか、こんな説明場板なんかが出来てしまっていて、用意は周到、スポンサーも十分っていうところかな。

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 というか、トキワ荘の裏側の写真。

 コチラから見て、建物の左端、二階からまっすぐに下りている2本の焦げ茶色のパイプがなんだか分かりますか?

 まあ、今の人には分からないでしょうねえ。実はこれ、昔は水洗便所なんてものはなかったので、二階からまっすぐに下りてくる「ポットン便所」のパイプなんですね。勿論、現在は使えないそうだ。

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 ポットン便所は使えないけれども、いろいろ見どころはありそうな「トキワ荘マンガミュージアム」ではあるようだ。

 トキワ荘マンガミュージアムのサイトはコチラ

 ただし、入場に際しては、当面は予約を入れないとダメなようです。

『まんがトキワ荘物語』(手塚治虫、赤塚不二夫ほか著/祥伝社新書/2012年8月1日刊) 

LEICA M-E ELMARIT-M 28mm f2.8 @Minami Nagasaki ©tsunoken

2020年7月 6日 (月)

麻布台、虎ノ門、坂三題噺(4つあるけど)

 六本木方面あたりから麻布十番へ芋洗い坂やら暗闇坂、仙台坂なんかを下りて行くのは麻布台を南へ下りるんだが、もう一方、飯倉あたりから虎ノ門へ下りていくのも、麻布台から東北方面へ下りていく道である。結構、麻布台って広いんですね。

 で、今日は東京メトロ南北線を六本木1丁目で降りて、麻布台から虎ノ門方面へ下りる。

 六本木1丁目の駅は泉ガーデンタワーが出口なので、そのまま適当な出口から飯倉交差点方面へ進みます。

 と、左手に麻布小学校の校舎がみえると、そこが「行合坂」の入口。坂の入口に表示があって『双方から行合う道の坂であるため、行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかではない。』なんてことが書いてあるんだが、なんか「さだかではない」なんてことを書かれてもねえ、そんなら書くなよ、ってところですね。やっぱり「さだか」であることを書いてほしいんです。

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 ところがこの「行合坂」、先の方はなんか大規模なビルディングを開発中でほんのちょっと坂を下りたところで行き止まり。ビルが出来れば再び開通するのかなあ。

 で、やむなく再び泉ガーデンタワーの方まで戻って泉ガーデンの裏の方に回ってみれば、そこにあるのが「御組坂」。

『幕府御先手組(おさきてぐみ。戦時の先頭部隊で、常時は放火・盗賊を取り締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。』と、これまた書いてあるんだが、でも坂を下りた先は泉ガーデンなんですよね。なんか、面白くない。

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 てなことで、もう少し虎ノ門方面へ向かって歩いてみる。

 ホテルオークラ別館の前を右に折れて、少し坂を下りると……

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 NHK朝の連続テレビ小説『エール』でお馴染みの「コロンブス・レコード」のモデルだと思われる「日本コロンビア・レコード」の本社前を通り過ぎると、あるんですねえ。

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「江戸見坂」です。

 かなり急な坂で、そのまま虎ノ門まで降りてしまいます。

『江戸の中心部に市街がひらけて以来、その大半を眺望することができたために名づけられた坂である。』というのが、その由来。

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 ところがその「江戸見坂」を下りると、すぐそばの虎の門病院の前(以前は裏だった)にあるのが「汐見坂」なんだが、その能書きも……

『江戸時代中期以前には海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいった。』ってえんだが、それって、先の「江戸見坂」の能書きとまあ、殆ど同じ。

 確かに、この麻布台の東北辺りからは、昔は江戸城・江戸の町・東京湾なんかは見えたんだろうなあ。江戸城も武蔵野台地の東縁部にあるので、そこから先は江戸時代にはすぐが江戸湾(東京湾)だったので、まあ「江戸見坂」も「汐見坂」も、まあ、言ってみれば同じことを言っているのかな。

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 面白いのは、この汐見坂を上り切ったところ、つまり虎の門病院のすぐ裏が何と言ってもアメリカ大使館なんですね。昔、高校生の頃、赤坂の清水谷公園を出発したデモ隊は、ここの手前の外堀通りで「ベトナム戦争ハンターイ」「アメリカはベトナムから撤退しろ」なんてシュプレヒコールをやっていた場所。

 アメリカ大使館の外景を撮影していたら、警官が近寄ってきて「今、テロ警戒中なんで、写真を消してください!」だってさ。別に、黒マスクに黒メガネなんて怪しい恰好をしているので、もしや北朝鮮のスパイじゃないだろうか、なんて疑われたのかなあ。そう思っていただければ光栄です。

 まあ、持っていたカメラがライカなんで、「いやあ、これデジタルじゃないんで、消せません」って言っても良かったんだが、まあ、こちらもそこまで抵抗する必要のある写真じゃないんで、消したんだけれども、その時警官が言った言葉が気になった。

「ネットかなんかで同じ画像は撮れるんだから」

 って言うことを警察官が言ってもいいのかなあ。だって、それって「著作権法違反のススメ」じゃないの?

 いいのかなあ?

 警察官の名前を聞いておけばよかった。

LEICA M-E ELMARIT-M 28mm f2.8 @Roppongi & Toranomon ©tsunoken

2020年7月 5日 (日)

今日は都知事選挙

 今日は東京都知事選挙の投票日であります。

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 といっても、地方の首長選挙は圧倒的に現職有利という状況は否めない。

 そりゃそうだ。基本的なことを言ってしまえば、現職首長になにか完璧な罰点でもつかない限り、選挙民としては、その現職首長が前回の選挙で当選した時の自らの投票行動を否定するわけにはいかないから、当然、今回の選挙にも同じ人に投票するってことになる。

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 おまけに今回は国政与党の自民党、公明党が完全に手を引いてしまっている。これまた無責任という他はないのだが、まあ、元々は小池知事自身が元々自民党だし、おまけに改憲派で日本会議の超タカ派というか、超右翼だもんなあ。もしかすると、安倍晋三以上の右翼。

 たまたま、前回の都知事選で自民党がその辺を読み誤って、都議会自民党に別の候補を立てさせちゃって、じゃあ小池氏が「都民ファーストの会」なんて訳の分からない団体をでっち上げて音喜多駿なんて、これまた訳の分からない坊やまで巻き込んじゃって、結局、小池勝利ってなことになってしまったっていうだけ。

 騙されたことを知った音喜多駿は、早々に都民ファーストの会を脱退したことは言うまでもない。音喜多氏は小池氏に見事に騙されちゃった「お坊ちゃん」ってわけで……。

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 おまけに、今回のコロナ騒ぎで小池氏は毎日毎日テレビに出ずっぱり。もうこれって最高の選挙運動だよね。ていうことで、もう既に小池氏の再選はテッパンってところでしょう。

 じゃあ「永遠の中二病」患者たる私はどういう投票行動をするのか。

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 まあ、今回の都知事選で本気で出馬しているのは小池氏の他は山本太郎氏、宇都宮健児氏くらいなもので、あとは完全なホウマツ候補ばっかり。「NHKから国民を守る党」なんて、それがどう都政と関係あるんだってところですよね。いっそのことホリエモンが出馬したら面白かったし、本(「東京改造計画」)ももっと売れたんじゃないかな。

 となるとどうなんでしょう。山本太郎氏の公約ははっきり言って「絵に描いた餅」。じゃあ宇都宮健児氏の方はどうなんだって言ったら、国政野党がバックについているだけで、別にそれ以上のイメージはありません。というか、多分、この人が当選しちゃったら、以前の美濃部都政や青島都政みたいに東京都の財政がメチャクチャになることは予想通りなのである。

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 そうなると誰にも投票しないで棄権、あるいは白票っていうのが正しい行動なんだけれども、それはしたくないので、ここはオールド左翼の宇都宮健児氏に投票して、要は「死に票」を増やすってことでしょうね。

 まさしく中二病or厨二病。

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 まあ、NHKのニュースで午後8時ちょうどに「小池現知事勝利!」って出てくるんでしょうね。

 ああ、おもしろくもない。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Shimbashi, Hon Komagome & Ginza ©tsunoken

2020年7月 4日 (土)

裏秋葉原を往く

「裏原宿」っていう言葉は聞いたことがあるけれども「裏秋葉原」なんて聞いたことはないですよねえ。実は、私もそんな呼び名は聞いたこともないし、言ったこともない。

 まあ、でも上野の広小路から須田町を抜けて秋葉原、万世橋へ進む中央通りが「表秋葉原」なら、不忍池から昌平橋へ抜ける不忍通りは、まあ、言ってみれば「裏秋葉原」とでも呼べるでしょう、ってことで勝手に「裏秋葉原」と名付けます。

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 どういうことかと言えば、表秋葉原にある「オタクショップ」の第二部みたいな感じの小さな店が秋葉原駅近辺には多いっていうこと。

 さらに言うと、表秋葉原にあるお店などの本社で小さな会社の多くが、不忍通り周辺の秋葉原駅から少し離れた場所には多くあります。

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 まあ、同じ秋葉原ではあっても、もう少し違う様相を見せるのが裏秋葉原なんですね。まあ、あんまり「アキバ・オタク」も歩いていないし。

 で、その「裏秋葉原」を象徴する建物があるのです。

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 それが「アーツ千代田3331」という建物。

 というか、元々ここには千代田区立錬成中学校というのがあったんですけれども、廃校になってしまい、その跡地・建物をどうしようかということになり、結局、展覧会などを中心とするこの地域のアートスペースにしていこう、ということで出来た場所なんですね。建物の中はまんま中学校の校舎。エレベーターなんかありません。

「3331」は神田明神の「江戸三本締め=シャンシャンシャン・シャンシャンシャン・シャンシャンシャン・パ」(つまり「3・3・3・1」という手拍子)からきているらしい。

 最初の頃に、「AKIRA」なんかの展示会とか、「風の谷のナウシカ」なんかに関する展示をしたのを覚えているし、最近はシド・ミードの展示会もやっていたなあ。

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 現在は「EARLY 90's」という展覧会をやっているんだが、『本展は、キュレーターに西原珉氏を迎え、1990年代初頭から後半にかけて東京を中心に活動していた若い世代のアーティストたちが、路上やオルタナティブスペースを横断的に駆使し、新たな文化の土壌を再開拓したエネルギッシュなアクションを振り返り、検証し直す展覧会です。当時の関連資料・映像のほか、各所にあらわれた作品の再展示や関係作家・関係者に対するインタビュー映像の展示等、当事者を中心とした貴重なアーカイブ資料による展示構成が予定されています。まだ未開拓とも言える90年代初頭の東京のアートシーンに焦点を当てた画期的な展覧会となります。』って、書かれて何かわかるでしょうか?

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 まあ、わかりませんよね。1980年代だともう少しわかるんだけれどもなあ。まあ、でも1980年代は「アート」の時代じゃなくて「ポリティクス」の時代だったからなあ。それを経て、90年代の「アート」の時代になったんだよなあ。

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 ということで、「裏原宿」と「裏秋葉原」で一番異なるのは、「公的なアートスペース」があるかないかっていうことですね。

 私的なギャラリーなんかが沢山ある渋谷区と、あまりなかった千代田区の違いなんだろうなあ。

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 それが「裏秋葉原」と「裏原宿」の違い。

 で、どちらがどうっていう話ではありません。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Soto Kanda ©tsunoken

2020年7月 3日 (金)

ギャラリーバウハウスでロバートフランクを見る

 本来であれば4月から開催されている予定だった「ロバート・フランク大回顧展」はコロナウィルス禍でもって開催が伸びてしまい、やっと7月1日から神田明神横のギャラリー・バウハウスで、そのPart 1が始まったので、早速、見に行った。

200422_frank_12©Robert Frank

 普段は入場無料のギャラリー・バウハウスなのだが、今回に限っては入場料800円(中学生以下は無料)を払って会場へ。

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 更に言ってしまうと、普段は会場内は撮影OKで「どんどん宣伝してください」ってな感じだったんだが、これまた今回に限って撮影禁止であります。

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 まあ、接写をするわけではなく、会場の雰囲気を伝えるだけなのでまあいいでしょ、と勝手に解釈してパチリ。

 ロバート・フランクといえば『THE AMERICANS』で有名な写真家なんだけれども、今回のPART 1 ON THE ROADには『THE AMERICANS』からの写真ばかりではなく、そこには収まらない写真が多い。しかし、基本的には『THE AMERICANS』と撮影の姿勢としては同じスタイルであります。つまりそれが「ON THE ROAD」っていうわけ。

 面白かったのは、ロバート・フランクがスチール写真の後に手がけたムービーで撮影したらしき、16ミリなどのネガからプリントした紙焼きがいくつか展示されていたということ。う~ん、これは私にもできそうな方法だなあ。私の手元にも撮影しただけで荒編だけの16ミリや8ミリのプリントがあるので、それを紙焼きすればいいだけで、「そうかこんな展示方法があるんだ」ということを気づかされたことであります。

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 それと、やっぱりゼラチン・モノクロ・シルバープリントの美しさだなあ。

 こうして見ると、本当に美しいプリントってやっぱりモノクロなんですね。私ももっとモノクロ写真に精進しなければ。

"ROBERT FRANK RETROSPECTIVE" Part 1 "ON THE ROAD"は7月7日から9月19日まで、Part 2 "BEYOND MEMORY"は9月24日から11月21日まで開催。

 ギャラリー・バウハウスのサイトはコチラ

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @gallery bauhaus ©tsunoken

「The Americans」(Robaert Frank/Steidl/2008)

2020年7月 2日 (木)

〽東雲のストライキ

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 東雲節という歌が昔あった。歌は昔も今もあるんだからこういう言い方はそぐわないか。

 でも、いまは誰も歌わないし、メディアにも出てこないのだから「昔あった」でいいのかな。

 何故か知らないけれども、私もどこかで聞いた記憶がある歌なんですけれどもね。

「〽何をくよくよ川端柳
 焦がるるなんとしょ
 水の流れを見て暮らす
 東雲のストライキ
 さりとはつらいね
 てなこと仰いましたかね」

 っていうのがその歌詞。YOU TUBEでどうぞ。

 まあ、この最後の「てなこと仰いましたかね」ってところで、それまで謡いあげてきた歌の歌詞を、卓袱台返しにひっくり返してしまうんですがね。しかし、そこまでの歌詞も、じゃあ何か意味があるのかって言えば、なんともはや、まったく意味がないってのも面白い。その辺の「意味のなさ」が好きで、子どものときに聞いたこの歌が、なんかずっと気になってきたんですね。まあ、歌といっても「端唄」なんですけれどもね。

「何なんだろう、この歌って?」てのが気になって、で長いこと、この「東雲のストライキ」の「東雲」って、東京江東区の「東雲」のことだと、私は思っていた。

 東雲に行くにはりんかい線の東雲で降りるか、東京メトロ有楽町線の豊洲で降りて東雲方面へ「東雲橋」を渡って行く。

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 渡った先の江東区東雲の街は、まあ、なんというかとにかくマンション、マンション、マンションなのであります。完全にマンションの街。

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 で、昔、ここ東雲には飛行場があって、まあ、小型機とか軽飛行機みたいな飛行機が飛んでいたらしいんだが、今、その跡地がどこなのかを探したんだが、まったく分からない。

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 りんかい線の東雲駅のそばに都バスの大きな車庫があるんだけれども、この辺りだったのかなあ?

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 ってことで、マンション群の中を歩いていても面白くないので、りんかい線で帰って来た。

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 で、『「東雲のストライキ」の「東雲」って、東京江東区の「東雲」のこと』なのかっていう問題なんだが。全然、違うようでした。

 名古屋説と熊本説ってのがあるようで……

『名古屋の事件に由来するとする説
歌詞の内容については、名古屋で起きた廃娼運動に関わる事件に由来するとする説が広く流布している。
そのひとつは、東雲(しののめ)という名の娼妓が廓を脱出した一件を歌ったものとする説であり、もうひとつは東雲楼という廓で娼妓のストライキがあったとする説である。前者については、娼妓の東雲が、アメリカ人宣教師の助力を得て退楼したなどとされる。後者については、名古屋旭新地(中村遊廓)の東雲楼でストライキがあったとされるが、当時の経営者であった川島勇次郎は、そのような事実はなかったと後に証言している。

熊本の事件に由来するとする説
1900年、全国的な廃娼運動は九州にも及び、熊本でも自由廃業を行うものが出てきたとき、熊本一と言われた二本木遊郭の妓楼「日本亭」(その直後に「東雲楼」と改称)の経営者であった中島茂七は、それに対処する上で中心的な役割を担った。その状況を受けて、「東雲」、「中島茂七」、(番頭だったとされる人物の名である)「斎藤」などを歌い込んだ風刺的な歌詞が成立したという。また別の説では、借金減額を求める娼妓たちの動きが東雲楼にあったともいう。』(Wikipedia)

 まあ「東雲」という言葉自体は「夜明け前に東の空が茜色に染まる」という現象を示したもので、要は東京の東の外れにあった場所なので、そんな名前が付いただけ、ってことらしい。

 なんかつまらないオチでスミマセン。

LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Shinonome ©tsunoken

2020年7月 1日 (水)

上中里を往く

 今日から7月。最早、完全な夏なんだけれども、相変わらず「マスク自粛令」がある以上、出歩くときはマスクが必要になっていて、「暑い!」。

 一体、いつになったらマスクがいらなくなるのだろう。都知事選までかなあ?

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 ということで、今日のテーマは「北区上中里」なのであります。

 京浜東北線の田端駅から上中里を目指して歩き始めます。

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 少し歩くとJR東日本の田端操車場と尾久車両センターを分ける踏切に出ます。

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 現在は田端操車場っていうと、JR東日本の新幹線基地「東京新幹線車両基地」があるのだが、昔、ここは国鉄の貨物専用の操車場だった。東北線に沿って出来ている操車場なので、どちらかというと東北地方や上越・信越線、常磐線など北へ向かう貨物列車が蒸気機関車で入れ替えを行っている操車場だったのであります。

 なので、冬になると屋根に雪を載せた貨車なんかが沢山見られて、眺めていると「あの貨車はどんなところから来たんだろう」という旅情を感じさせる風景がいくらでも観られた場所だったんですね。

 現在は貨物輸送は列車よりはトラックが主体になっているので、貨物列車の姿はほとんど見られなくなってしまって、この田端操車場から常磐線の三河島駅を通って南千住の貨物駅まで走っている路線も、殆ど使われていないようだ。昔、「国鉄戦後五大事故」の一つと言われた「三河島事故」も、ここ田端操車場から出た貨物列車と常磐線の電車が衝突した事故ではあった。

 

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 実は、私は父親を亡くす3歳半ころまでは、父親が文部省の教育研究所に勤務する技官だったので、この田端操車場の真ん前にある上中里の公務員住宅というところに住んでいた。

 まあ、3歳半位までの記憶なので、建物の様子や周辺の状況なんかはまったく覚えていないのだが、何故か、家の窓から眺めていた田端操車場を出入りする貨物列車やD51なんかの蒸気機関車などの記憶だけははっきり覚えている。

 それだけ毎日毎日、機関車の出入りを眺めていたんだなあ。

 その後も、公務員住宅は名を変えて、いずれにせよ国家公務員が住んでいるアパートであったことは確かだったと思う。

 で、先日その「上中里の公務員住宅」の跡地に行ってみたら、なにやら工事中で、埋蔵文化財の発掘調査を行っていた。まあ、住宅が耐用年数を迎えてしまったので、そのついでに発掘調査をやっちゃおうってことなんでしょうね。

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 実は、この元公務員住宅のそばには、昔は知らなかったんだけれども「中里貝塚」というのがある。

 目の前は飛鳥山という武蔵野台地の東の端があって、ここ飛鳥山から急な坂道で、荒川の流域に属する低地、つまりもっと以前の縄文時代などの古代には、もしかすると東京湾に面する海岸がそばにあったっていうことになるのである。なるほど、で貝塚なのかということを知ったのは、現在住んでいる駒込に来てからのことで、これまた3歳半の頃までは知らなかったことではある。

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 なんか昔から駒込に住んでいるような顔をしているが、それもここ10数年前からのことで、それまではそんなに気にはしていなかった上中里ではあります。

 う~ん、これも何かの導きなのかなあ。

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LEICA M-E TTArtisan 21mm f1.5 ASPH @Kami Nakazato ©tsunoken

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