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2020年1月

2020年1月31日 (金)

デジタル・ライカを買ったぞ! 買ったぞ! 買ったぞ!

 1月1日のブログで「デジタル・ライカを買うぞ! 買うぞ! 買うぞ!」なんて別に今年の目標でもなんでもないことを書いて、2月末のCP+あたりを目標に購入予定としたんだが、意外と早く達成してしまった。

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 で、メルセデス・ベンツC200(車両重量1,490kg)をドナドナして、買ってしまったのがライカM-E(重量680g)なんであります。

 1,490kgの金属の塊が、たかだか680gの金属の塊に化けて、ところが重い方がずっと安いってのは、どういう関係論なんだろう、なんてことも考えずに、買ってしまいました。

 ベンツも中古なら、このライカも中古。中古市場というのは生鮮食品と同じで、出物を見つけたら即買わないと誰かに買われてしまう、っていうことなので、マップカメラの中古通販を毎日見ていたらそんな出物に出会ったというわけ。

 お値段はメーカー希望小売価格の半分位、勿論メーカー希望小売価格ってのは新品の時のお値段です。まあ、古いものは段々値下がりしてくるのでもっと下がる可能性はあったんだが、もうそろそろ潮時かな、ということで「ポチッ」しちゃいました。

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 上下の写真とも、上が今回購入したLEICA M-Eで下が以前から持っているLEICA M6です。

 カメラの幅は双方ともほとんど同じで、高さがM-Eの方がホンの少し高いかなという感じ。

 ところが厚みになるとM-Eの方がかなり分厚い。

 これは撮像素子の関係で、フィルム・カメラの撮像要素は要はフィルムなのでほとんど厚みがないのに比べて、デジタル・カメラの撮像素子はCCDやCMOSなどの電子部品なので、その厚みがどうしてもカメラの厚みになってしまうのだ。そこをEPSON RD1などはレンズのマウント部を少しカメラより出っ張らせることで、もともとのカメラであるコシナ・フォクトレンダーベッサRの筐体をそのまま使えるようにしている。

 この辺、ライカももう少しは考えても良さそうな気がするんであるが……。まあ、どうでもいいか。

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 我が家のレンジファインダー勢ぞろいであります。

 ライカの距離計の有効基線長は47.1mm、これはアナログからデジタルまで統一した、多分ライカの憲法みたいなものなのだろう。一方EPSON R-D1sの有効基線長は38.2mm、この8.9mmの違いが、フォーカスを合わせる時には大きな違いとなって、ライカの方がずっとピントを合わせやすい。その辺はライカに分がある。

 一方、EPSON R-D1sはシャッターチャージはレバーで行って、それがフィルム・カメラ・ライクで好い、とカメラマニアの間では評判だったんだが、ライカの場合はシャッターチャージは自動で行ってくれる。のは、いいんだがシャッターを押した直後に、シャッターチャージをするモーターの音がするのがちょっとウザい。

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 まあ、何物にも長短があるってのは仕方がないのかもね。

 ということで、早速、テスト撮影に行ってきました。まあ、別にEPSON R-D1sの画像とどう違うかというと……、別に変らないんだけれどもね。どのみち縮小しちゃっているんでね。

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 ということで、我が家のカメラ保管庫は最早満杯状態。う~ん、これれこそがなんとかせねばいけないんだけれどもね。

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 まあ、次は体重か。

RICHO GRDⅢ & LEICA M-E LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Komagome & Sugamo ©tsunoken

2020年1月30日 (木)

ニコン大井製作所がなくなったんだけれども

 JR京浜東北線大井町駅を降りたら、取り敢えず光学通りですよね。

 ニコンの大井町製作所に行く、ゆったりとした上り坂です。

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 その上り坂を登り切ったところにあるのが(あったのが)ニコン大井製作所であります。

 2016~17年に取り壊しが始まって、今や工場があった場所は整地されて、なおかつ舗装までされています。

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 ニコン大井製作所の101号館は、第二次大戦後、それまで日本帝国海軍の測距儀を作っていた日本光学が、レンジファインダーのカメラ、ニコンⅠ型から、一眼レフの銘機ニコンFまでを製作していた、ライカのウェッツラーに並ぶ、ニコンの大井という位の、名工場であった。

 その後の、F2からF4までの試験機が作られたのもここニコン大井製作所101号館。まさしく、日本の戦後カメラ史とともにある聖地なのであります。

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 取り壊しが始まった頃に見に来たんだけれども、その後、ずっと見に来ていなかった。

 で、もうしばらく来ていなかったので、「ニコンの工場跡は、今やマンションである」なんて記事が書けるかななんて気持ちで来たんだけれども、「あれっ? なんにもできていないなあ。というか、整地をして舗装までしているんだけれども、実は何にもない場所になっている!」ってな驚きと共にその跡地は存在しているのであった。

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 どうも、ニコンとしては大井製作所の跡地をどうするのかを決めていないらしいんですね。まあ、実際には決めているんだろうけれども、対外的に発表していないだけなのかも知れないけれどもね。

 地元の共産党区議団は

『共産党は「ニコンに跡地計画が、まだ無いのであれば土地の購入を申し入れ、スポーツ広場、特養ホーム、認可保育園などの計画を作ってはどうか」と質問。区は「民間の土地なので、区民の考え方を見極めたい」との慎重な姿勢を示しました。
 一方、自民党は「うまく再開発に絡めれば」との提案がありました。
 これだけの土地を、またマンション開発等にするのではなく、スポーツができる広場や福祉施設、震災時には広域避難場所や仮設住宅に使える計画こそ区民の願いでは……。』

 なんて暢気なことを言っているんだが、実はこの土地の南には西大井広場公園という、とても大きなスポーツ広場が付いた公園があって、今更、この工場跡に公園を作る必要はないんじゃないかっていうのが、周辺住民の考え方じゃないんだろうな。

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 まあ、いずれにせよ東京のど真ん中にこんな空き地を持っていられるなんて、まあしばらくはニコンも安泰、ってことなんでしょうね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Oi ©tsunoken

2020年1月29日 (水)

吾輩はやにゃかである

 週末の谷中銀座は黒山の人出で満杯状態であります。相変わらず。

 すごいなあ。でも、日本人の他には欧米人らしき人たちは目につくんだけれども、中国人みたいな感じの人はあまり見当たらない。まあ、爆買いするような店は谷中にはないもんなあ。マスク屋さんなんてのもないし……。

 場所としても、浅草ほどにはメジャーじゃないし……。

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 今、谷中銀座で注目なのはこれ、谷中堂というお店で売っている「吾輩はやにゃかである」というお菓子。

 猫の肉球を型取ったチョコクランチ。形は肉球なんだけれども、本当の肉球みたいにプニプニしていません。チョコクランチなのでザクザクした感じかな。谷中銀座の夕焼けだんだんから行って、一番奥のよみせ通りへ出る場所で売っています。

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 基本的に「谷中と言えば猫」っていうのは、この夕焼けだんだんの脇に沢山いた野良猫軍団がおおもと。

 今はマンションが出来ちゃったりして、野良猫たちの姿は見えなくなってしまったんだが、以前はこの階段の両側に沢山の野良猫がいて、それぞれ悠然と自分の居場所を得て、のんびり日向ぼっこなんかをしていたんですね。

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 マンションの建設工事が始まった頃から、だんだん猫の姿は見えなくなってしまい、マンションが出来てからも、階段の反対側あたりにはまだ数匹の猫はいたんだが、今はまったく見えなくなりました。

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 こうなっちゃうと、お店の軒の上に置いてある猫のお人形が唯一の「谷中の猫」なんだけれども、本物の猫には会えなくなってしまっています。

「谷根千」のすぐお隣り、文京区には「ぶんねこの会」というのがあって、野良猫の保護・去勢とか、里親探しなんかのイベントをやっていて、野良猫の保護に努めているので、多分、そんな人たちのお世話になって、夕焼けだんだんの猫たちも、今は幸せな生活を送っているんだろうな。

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「吾輩はやにゃかである」の谷中堂のブログはコチラ

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Yanaka ©tsunoken

2020年1月28日 (火)

「神レンズ」って、何だ?

「アサヒカメラ」2020年1月号の特集タイトルが『「神レンズ」は存在するか?」である。

「神レンズ」ってなんだ?

202001『アサヒカメラ』2020年1月号/朝日新聞出版/2019年12月20日刊)『アサヒカメラ』は既に2月号が出ているので、バックナンバーをお求めください。

「撮り手にとってよいレンズとは何か」というのがその特集の一番最初に来ているテーマ。プロの写真家128人がアサヒカメラのアンケートに答えて、その回答の中から「神レンズ」とは何なのかを探ろうという企画なんだが、基本的に「プロフェッショナル・フォトグラファー」というのはアサインメントで撮影を行うのが普通なので、その場合は雑誌などの企画に沿った写真を撮らなければならないわけで、つまりそんな時には「神レンズ」なんてものは関係ないのである。

 つまり、写真家が自分の撮りたい写真を撮る時に一番お気に入りのレンズは何なんだろう、というのがその企画の主旨なんだろう。ということは、それぞれの写真家にとっては自分が得意としている被写体・撮影テーマによって異なる訳で、それぞれの写真家にとっての「神レンズ」は異なるっていうことなんである。で、私の写真と同じく「街角スナップ」を得意とする、我が敬愛する二人の写真家、田中長徳氏と森山大道氏にとっての「よいレンズ」というのが面白い。

 田中長徳氏は「視神経と一体化するレンズ」であり、それはそれで何となく理解できるんだが、森山大道氏は「肉眼レンズ」ってのは、何なんだろう。

『アンケートの回答のなかには自分の目の延長としてレンズを求める声もあった。
「視神経と一体化するレンズ」(田中長徳)、「目の代わりになることができる」(百々俊二)。
 森山大道さんは「若いころ、中平卓馬とよく『肉眼レンズが欲しいよね』とバカを言い合っていました」。
 人間の目にいちばん近い画角のレンズが「標準レンズ」といわれるが、実際、写真家にとっての標準レンズは何ミリなのだろうか。』

 ということで、「視神経と一体化するレンズ」という田中長徳氏の選択は「12~16ミリ」、「肉眼レンズ」の森山大道氏は「28ミリ」、「目の代わりになることが出来る」百々俊二氏は「35ミリ」と、それぞれの人にとっての「標準レンズ」が異なるのが面白い。

 田中長徳氏が現在数多く使っているEPSON R-D1sにVOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12ミリというレンズは、多分、APS-Cサイズの撮像素子を使っているエプソンだからなんじゃないだろうか。

 実は、私も現在主に使っているカメラとレンズも田中氏と同じ選択。でもそれは、35mmフルサイズの撮像素子ではないからであって、APS-Cサイズの12ミリというのは、フルサイズ換算で18ミリ。もう一つの常用カメラとレンズはNIKON Df にNIKKOR 20ミリということなので、ほぼ、両方とも20ミリ前後というレンズを使っている。まあ、20mmでなんでAFレンズなのか、ということもあるんだけれども、現在選択できるのがそのレンズだけっていうことなので仕方がない。まあ、別に20mmになっちゃうとAFでもMFでも関係ないんですがね。

 ということなので、私にとっての標準レンズというのも、ほぼ、20ミリということになる。

 だからどうなんだってことなんだけれども、別にどうということもありません。たまたま、敬愛する田中長徳氏と同じようなレンズ・チョイスになっているっていうだけで、撮っている写真には大きな差があることは理解しています。多分、今後フルサイズのデジタル・ライカを手に入れた場合は、多分、21ミリ位が標準レンズになるかもしれない。今、私が持っている21ミリ・レンズは、現在もたまに使っているVOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm。要は、私にとっての標準レンズ「12ミリ」というのは、あくまでもフルサイズのカメラを手に入れるまでの「つなぎ」みたいなもので、以前、フィルム・ライカに12ミリを使って撮影してみたら、かなり特殊なレンズであるという感覚があった。

 別に私に35mm信仰なんてものがある訳でもなく、単に私にとってのカメラのスタートが35mm、富士フィルム・ネオパン100だったっていう話だけ。要は、頭の中に「35mm」というものの画面サイズがあるっていうだけです。

 まあ、使ってみたら意外と「35mmフルサイズ×12mmレンズ」ってのも使えるレンズである、ってなことになるかもしれませんがね。

 田中氏は、ありがたいことに私のブログをたまに読んでいただいているみたいで、「12ミリがよい」というメンションをいただいてみたりしているんだが、実際に田中氏が35mmフルサイズで12ミリレンズを使った場合のことについては、果たしてどうなるのかは分かりません。ちょっと読んでみたいかなあ。

 まあ、どこかで田中氏と遭遇したら、そのへんのお話しをしてみよう。

『アサヒカメラ』2020年1月号/朝日新聞出版/2019年12月20日刊)『アサヒカメラ』は既に2月号が出ているので、こちらをポチってバックナンバーをお求めください。

2020年1月27日 (月)

雙葉学園発祥の地

「築地居留地」という言葉をご存じだろうか。

『東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地が設けられた。今日の中央区明石町一帯の約10ヘクタールである。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園の発祥地となっている。』(Wikipedia)

 そもそも「居留地」とは何か?

「居留地」というのは、幕末の江戸幕府が諸外国と締結した不平等条約の結果認められた、外国人が日本政府の許可を得なくてもいることが出来る日本の土地ということ、つまり居留地内では外国人が日本政府から入国許可を得なくても自由に行動できるし、そこには日本の法律は適用しないという、かなり一方的なある種の植民地みたいなものである。

『居留地は外国人を一ヶ所に集めておけるので、日本人との紛争防止に役立つなど、日本政府にとって便利な面もあった。半面でやはり治外法権、領事裁判権を認める不平等条約の落とし子であり、国家的な体面から容認できないものであった。このうち、欧米列強側の維持費の都合から、長崎では1876年に居留地の返還が行われ、横浜でも1877年に日本側の行政権が回復して事実上撤廃された。』(Wikipedia)

 まあ、「日本国内における外国」みたいなもので、外国人はそこの町の中にいる以上は日本の法律に縛られずに自由に行動できるという、まあ日本国家における治外法権区域っていうことでしょうね。勿論、そこから出てしまえば「行動の自由」なんてものはなかったんですけれどもね。でも、その中にいる限りは日本の法律には縛られない。

 今でも外交官ナンバーをつけたクルマなんかを見ると、私たちなんかは「治外法権ナンバー」なんていって、近づかないようにしていますがね。あいつら、日本で法を犯しても「外交官特権」で逃げちゃうもんね。

 というところで、要は江戸末期の諸外国との不平等条約の結果として「無理矢理開国」しなければならなかった日本政府(幕府?)のギリギリの政策で作らなければならなかった、「やむなき場所」ではあったのだ。

 で、中央区明石町といえば、その中心部にあるのが聖路加国際病院であり、この「St. Luke's International Hospital」も、その不平等条約の結果としてできたものである。

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 その周辺にも教会やミッション系の学校があったらしく、その記念碑なんかがいろいろある。

 一番は「雙葉学園発祥の地」という記念碑であります。場所は地下鉄新富町で降りて、明石町方面へ歩いて、下部に老人施設なんかがあるマンションの前にあります。

『徳に於いては純真に 義務に於いては堅実に SIMPLE DANS MA VERTU FORTE DANS MON DEVOIR」という、雙葉学園のモットーが書かれた記念碑が置かれています。ただし、雙葉学園を意味するものはこの記念碑だけ。今、雙葉学園は四谷にありますもんね。

 雙葉出身のウチのカミさんに聞いたんだけれども、そこに記念碑があることは知ってはいたんだが、在学中にそこを訪ねるなんてことは、まったくしなかったそうだ。う~ん、まあ、そんなもんなのかなあ。伝統ある学校に行ったのに、なんかもったいないなあって感じがするのは、そんな伝統とは何の関係もない公立小学校・公立中学・公立高校に行った私だからなんだろうか。

 まあ、一種のひがみではありますが。

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 ってな感じで、現在青山に本キャンパスがある青山学院やら……

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 上中里にある女子聖学院とか……

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 白金にある明治学院とか……

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 三鷹台の立教女学院とか……

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 女学院があるんだから、当然、今は池袋にある立教学院なんかの記念碑がいっぱいあるんですね。

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 ああっ、慶応義塾大学の元になる学校もここにあったし、実は上記のミッション系の学校よりずっと古いんだけれども、今回は本題の主旨に反するので無視します。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Akashicho Chuo ©tsunoken

2020年1月26日 (日)

東京ららばい

 新宿のマップカメラで中古のデジタル・ライカを物色した後は、さてどうしようと考えながら、そのまま山手通りを歩いた。

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『〽午前六時の山の手通り
シャワーの水で涙を洗う
鏡の私 二重映しに
レースの服の少女が映る……』

 というのが1978年の中原理恵のデビュー・ヒット『東京ららばい』の2番の唄い出しである。

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 山手通りというのは環状6号線のことなんだけれども、実は東京23区の西側だけを通っている道で、環状にはなっていないのだ。

 ただし、五反田から目黒不動、中目黒、代官山、南平台、代々木八幡などを通る関係で、東京のいわゆる都会らしい雰囲気でなおかつ盛り場ではなく住宅地でもあるという感じなので、「東京の街らしいところ」という雰囲気で、歌われた地域なんだろうなあ。

 ただし、それはあくまでも1978年という、今から40年も前の話であり、現在の山手通りから、その当時のことを思い浮かべるのは難しい。

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 多分、その曲の作詞をした筒美京平氏としては、あくまでもその「山の手通り」のイメージは、中目黒あたりから南平台あたりの地域なんだろうけれども、実際には最後は板橋あたりまで行ってしまった山手通りを知っている我々にしてみれば「なんで板橋が『東京ららばい』なんだよ」ってなところですね。

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 現在の山手通り周辺は完全にマンション街道になってしまっていて、これまた昔の山手通りを思い起こされるものはありません。

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 せめて、この代々木八幡宮くらいですかね。

 でも、この辺りは『東京ららばい』で歌われている「山の手通り」ではないと思うんですね。

 もう、外れだもん。

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 ところで、中原理恵という人は、その後、コメディエンヌとして多少活躍はしたんだけれども、歌手としては『東京ららばい』以外はヒット曲というものはなく、まあ一種の「一発屋」で終わっちゃった人です。

EPSON R-D1s LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Yoyogi Shibuya ©tsunoken

2020年1月25日 (土)

徳山噺はまだ続きます……。

 徳山噺はまだ続きます。

 22日の水曜日、葬儀から戻ってきて、徳山駅について「さあ、これから東京に帰ろう」と思ったというところなんだけれども、ご覧の通り12時過ぎに徳山駅に行って、東京駅行きののぞみは2時間程後にしかない。いろいろ、その前のさくらとかこだまで新大阪まで行って、そこからのぞみに乗ろうかと思ったんだけれども、どうも、新大阪駅の到着時間を考えると、なんかそれは徒労になりそうなんで、しょうがないのでとにかく2時間程待って13時55分発ののぞみで帰って来た。

 とにかく、1時間に2本位、のぞみは2時間に1本しか新幹線が止まらない駅なんだな、徳山は。ってなことで妙に納得。ホーム下の待合室にいても、なんかゴーっていうのぞみらしき列車が通過していく音だけが、なんか空しく聞こえてくるんですね。

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 東京にいるとなんか「当たり前」のことが、地方では当たり前じゃないことが多いのだが、こんな新幹線のダイヤでも同じで、東京駅をスタートする東海道・山陽新幹線は大体5分から10分間隔で動いている。ところが、新大阪を過ぎてしまうと途端に本数が減ってしまう。更に、編成もすべてが16両編成の東海道新幹線に比較して、山陽新幹線の場合、16両編成は東京行か博多行ののぞみだけで、その他のさくらとかこだまになってしまうと6両から12両編成だそうだ。

 まあ、それだけ利用者も少ないっていうことなんだろう。

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 現在は「徳山」という地名はなくて周南市に一括されてしまっており、徳山という名前は徳山駅のみに残っているそうだ。しかし、徳山は瀬戸内海でも有数の工業都市で、出光興産やトクヤマなどの化学工業が盛んな街ではある。周南市の人口は14万人位で、徳山地区がそのうちの10万人をかかえる中核都市なんだが、じゃあ徳山駅の1日の乗降客数はと見ると、2018年の記録が7,511人。これって、東京の山手線で一番乗降客が少ない鶯谷駅で46,000人ってのに比べると如何に少ないかというのがわかる。

 ちなみに山手線のローカル駅と言われている駒込駅でさえ10万人を超えているんですよ。

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 山陽新幹線の海側を見ると、石油コンビナートが一面を覆いつくしていて、駅のホームにもこんな「周南工場夜景」なんてものを売り物にしている状況なんだが……。

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 街を歩いてみてもこんな感じだもんなあ。

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 火曜日は商店街も休みのお店が多いようなんだが、それにしても街を歩く人が少ない!

RICHO GRDⅢ @Tokuyama Shunan ©tsunoken

2020年1月24日 (金)

徳山駅前図書館は蔦屋書店

 妻の親戚の家の不幸があったので、久々に新幹線で徳山まで行ってきた。

 徳山に行ったのは、これまでに2回あって、最初は新幹線で徳山まで行って、あとはレンタカーで鹿野町、萩市など、昔の私の家の母方の家からすると仇敵である場所なんかを訪ねたのが一番最初。二番目が妻の伯父に当たる人の葬儀で、その時は岩国まで飛行機で行って、そこからレンタカーという行程だったんだが、岩国から葬儀所のあった徳山までは結構遠かった、という印象があった。ということで、今回の葬儀は徳山駅の山陽本線で隣の駅の新南陽駅のそばらしいので、再び新幹線で徳山まで行った。

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 そうしたら、徳山駅がまったく変わってしまっていたんですね。

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 題して「周南市立徳山駅前図書館」。

 要は、今まであった「昔からよくある駅ビル」というものを辞めてしまって、1階から3階まですべて図書館っていうか、本屋さんっていうか、なんかそんなビルになってしまっているんですね。1階は蔦屋書店、2・3階は周南市立徳山駅前図書館っていうことです。

 1階にはスターバックスコーヒーもあるので、時間潰しには充分かな?

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 で、この図書館兼本屋さんについては……

『周南市がJR徳山駅に隣接して整備した周南市徳山駅前賑わい交流施設の核施設。2018年(平成30年)2月3日に開館。中央図書館とは約800mの距離に位置している。
 本図書館は、周南市徳山駅前賑わい交流施設と共に指定管理者制度が導入されており、指定管理者であるカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が一体的に管理を行っている。年中無休の開館、図書館内への書店やカフェの出店など、武雄市図書館・歴史資料館をはじめとしたCCCが運営する他の図書館と共通する特徴がある。』(Wikipedia)

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『2、3階の徳山駅前図書館は“未来の私に出会う場所”をコンセプトに、365日無休で9:30〜22:00に開館する。550席の座席に加えて、Wi-Fiも完備。電車を待つ間の待合所としても利用できる。1階には、6万冊以上の書籍をそろえる蔦屋書店を図書館の補完機能として併設する。』という形の「本屋」なんだか「図書館」なんだか、良く分からない店になっているんですね。それも、駅ビル全部が。

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 公立図書館が自ら運営することの限界を感じて民間に管理・運営を任せるようになってだいぶ経つ。東京都大田区みたいに地元の書店組合に運用を任せている例もあるが、書店組合などではなく、単一書店に任せている例も最近は目立っているようで、蔦屋書店が公立図書館の運営を任されている例は、ここ周南市徳山だけではなくて、武雄市図書館、海老名市立中央図書館、宮城県多賀城市、岡山県高梁市、宮崎県延岡市とあって、ここ徳山駅前は6例目らしい。

 武雄市図書館に関しては、蔦屋書店としても初めての「図書館運営」なのでいろいろ問題があって、地元の書店組合からも「地元の書店を潰す気か」ってな批判もあった。まあ、それは蔦屋自体も図書館運営も初めてということもあって、いろいろ分からないこともありつつの運営だったんだろう。

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 まあ、徳山の場合は地元の本屋さんっていっても、なんかオピニオンリーダーになるような本屋さんはなくて、明屋書店とか宮脇書店とか、いずれも地元資本じゃない。ということは地元の書店組合も多分力がなくて、蔦屋(CCC)の出店を抑えることが出来なかったんだろうな。

 まあ、地場のお店が力がなければ、どうしようもないという典型ですね。

 問題は、そんなことをしても徳山の読書人口が増えるのかどうかっていうことですね。

 実は、そこが一番、難しいところだろうなあ。

 まあ、あんまり徳山の人が本を読むってイメージはないもんなあ。

 結局、スタバでコーヒー飲んで、図書館の本をチョイと読んでお終いなのかなあ。

Photo_20200123124201以前の徳山駅ビルです。©Wikipedia

RICHO GRDⅢ @Tokuyama Shunan ©tsunoken

2020年1月23日 (木)

根岸の里の侘び住まい~御行の松

「根岸の里の侘び住まい」というのは「五月雨や根岸の里の侘び住まい」「行く春や根岸の里の侘び住まい」という具合に、アタマに季語を含む五文字を入れてしまえば、何でも俳句になってしまうという便利な言葉で、不調法な江戸の大店の旦那の隠居先が多かった根岸辺りを題材にした落語で使われる言葉である。

 そんな、根岸小学校から日暮里方面に進んだところにあるのが御行の松(おぎょうのまつ)不動尊というお寺である。

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「御行」の由来は、寛永寺の門跡、輪王寺宮が上野山内を巡拝されるとき、必ずこの松の下で休まれたことからこの名がついたという説や、慈眼法師が若い頃に近くで修業した、という説などいろいろあって、実は、元々の由来は分かっていないそうだ。 

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 それでも、代々の松については、実際の記録が残っていて……

『初代の松は『江戸名所図会』や歌川広重の錦絵に描かれるほど知られていた。』とか『近くの荒川区立第三日暮里小学校には「弟松」が植えられており、同校と台東区立根岸小学校の校歌にも詠われている。』とか『その後二代目として1956年(昭和31年)に上野中学校から松が移植されたが、すぐに枯れた。1976年(昭和51年)8月に植えられた三代目は盆栽状であるため、地元の団体(講)が初代のように大きく育つことを願い、隣に四代目を植えた。』などの逸話が残っているそうだ。まあ、それらしい話がやたらあるところは、如何にも「根岸の里の侘び住まい」ですな。

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『不動堂に祀られている不動明王像は、初代の松の根を掘り起こして彫られたものである。』というのもある。

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 正岡子規がこの近所に住んでいたことがあるそうで、正岡子規文学碑なんてのもある、意外な名寺なのである。それもまた「俳句の正岡子規」ってところで、「根岸の里の侘び住まい」ですなあ。俳句ってのは、季語さえ入れておけば、誰でも作れる駄しいですぜ。まあ、伝聞ですがね。

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 まあ、周囲はどうってことのない、普通の町なんですけれどもね。

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 そんな何でもない町になんか由緒のあるものがいろいろあるのが、まさしく「根岸の里の侘び住まい」なんだなあ。

 そうか?

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Negishi & Higashi Nippori ©tsunoken

2020年1月22日 (水)

『早慶MARCHに入れる中学・高校』って、なんだ附属のことなのね

 早慶はまだしも、MARCH(明治・青学・立教・中央・法政)なんて、付属中学・高校にはいらないと行けない大学であるとは思っていなかったので、そんな「早慶MARCHに入れる中学・高校」なんていうテーマの本が出来るなんて思わなかったなあ。

March『早慶MARCHに入れる中学・高校』(矢野耕平・武川晋也著/朝日新書/2019年12月31日刊)

『わが子にはできる限り「良い教育」を受けてほしい。そして、国立大学や早慶MARCH(早稲田大学・慶應義塾・明治大学・青山学院大学・立教大学・中央大学・法政大学)などのいわゆる「名門大学」に進学してほしい。そうすれば、将来何不自由ない社会生活を営める可能性がぐんと高まる──。そう考える保護者もこれまた大勢いるはずだ。もちろん、名門大学に進めば将来の安泰が約束されているわけではないことは重々承知の上で。』

『本書を手に取ってくださる方は四〇歳前後の世代が中心だろう。
 ご自身の受験当時のこと、すなわち一九九〇年前後のことを少し思い出してみてほしい。
 この頃は連日のように、「教育」に関する諸々の問題がニュースで報じられていた。
 一九九〇年、それまでの大学共通一次試験が改称された「第一回・大学入試センター試験」が実施され、国公立大学のみならず、私立大学もこの試験成績を活用になった。ところが、この変革について当時不安を抱いた受験生や保護者が続出した。
 一九九二年には戦後六度目となる小・中学校の学習指導要領改訂が行われ、そのコンセプトとなった「新学力観」への賛否が渦巻いていた。また、同年にはいわゆる「偏差値追放運動」が起こり、偏差値による中学校の進路指導や業者テストの中学校内での実施が廃止された。結果として、公立中学校の現場が混乱に陥ることになる。
 このように揺れ動く公教育に不信感を抱く受験生やその保護者が多かったのだろう。この頃、中学受験が過熱化する一方、名門とされてきた公立高校、とりわけ都立高校の凋落が始まることになった。
 さらに、この時期は大学進学率が一気に上昇し、受験生の大半がいわゆる「団塊ジュニア」あるいは「ポスト団塊ジュニア」であったことから、大学入試全体がかなり「狭き門」となっていた。受験で苦しい経験をした保護者が多いはずだ。』

『このような大学入試の激変に不安を抱いた保護者は、子に中学受験の道を勧めることになる。大学付属校はもちろんのこと、中高六年間をかけてこの大学入試改革への対応策を講じると明言する進学校の中学入試は、かなりの高倍率になっている。』

『注目すべきは都立トップ校の復活である。たとえば、都立日比谷高校。今春二〇一九年度の大学合格実績に目を向けると、東京大学に四七名が合格している(うち現役合格者数二九名)。二〇〇三年度はわずか三名と「低迷」していたことを考えると、まさに大復活である。学校群制度の撤廃、進学指導重点校・進学指導特別推進校の設置、選抜試験の変更などの諸々の改革が功を奏したのだろう。
 また、都立高校の中には付属の中学校を設立して、「中高一貫校化」を図るところも数多く登場しているのも注目である。しかしながら、トップレベル以外の都立高校は受験生集めに苦戦するという「二極分化」が生じている。これは二〇一七年から東京都が取り組み始めた「私立高校授業料無償化」(対象世帯の所得制限あり)の影響が大きいと見られている。
 そして、特筆すべきは「完全中高一貫校化」による都立・私立高校の募集停止の流れが起こっていることだ。』

 そうかそういうことだったのか。でMARCHクラスの大学にも合格するのが難しくなって、それなら附属中学や高校からMARCHクラスも含めて入試が難しくなってきているということなんだな。世の中は少子化という変化を受けて、大学の入試は以前に比べて容易になってきているものとばかり思っていたんだが、どうも様子が違うようだ。

 しかし、『「受験の結果は人間的成長の結果」ということだ。入試とは結局のところ、親でも塾の講師でもなくあくまでも「ジブンゴト」なのだ。この認識をしっかりと持てる子こそ、最難関の早慶MARCH付属高校に合格していくのである。』なんてところを読んでいると、そんなの昔から変わらないじゃないかよ、ってな気分にもなる。

 確かに、早慶MARCH付属高校に入れる子たちは、それなりに「受験の結果は人間的成長の結果」ということを理解している子たちなんだろうが、別に、それは一流私立大学の付属高校に通った子たちばかりでなく、中学・高校と公立に進んでも、普通に早慶MARCHの大学に合格している子たちだって、その辺はしっかり理解しているだろうし、むしろ、早慶MARCH大学に合格する生徒は、附属から上がってきた子たちよりもずっと多いはず。

 だったら、別に早慶MARCH附属に入るばっかりが選択肢ではなくて、普通に公立からだって別に問題はないのであって、何も気にすることはないのだった。

 ってことなんでしたね。

 早慶MARCH附属中学・高校に入れないと、大学には進学できないって話ではなかったのでした。

『早慶MARCHに入れる中学・高校』(矢野耕平・武川晋也著/朝日新書/2019年12月31日刊)

2020年1月21日 (火)

「カメラと写真家」って、当たり前のような展示なんだが……

 半蔵門のそばにある日本カメラ博物館というのはJCII(一般財団法人日本カメラ財団)というところが運営している博物館。特別、日本のカメラメーカーの団体というわけではないようだ。っていうか、今やカメラメーカーって何なの? って感じですよね。それこそAPPLE iPhoneあたりが実は日本で一番使われているカメラだったりしている昨今です。

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 そんな訳なので、いままでこの日本カメラ博物館の存在は知っていたんだけれども、一度も行ったことはなかった。ニコン博物館なんかはにはちょくちょく行くんですがね。「ニコン羊羹」を買いにね。

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 今度行ったのは、この「カメラと写真家~機材と表現の180年史~」というタイトルに魅かれたからなのです。

 写真表現というのは当然ながら「カメラ」という機械を使わなければならない表現形式で、当然ながら「写真家」の表現は「カメラという機材」によって作り上げるものなのであるから、それなりに「写真家にとっては重要なカメラというものの存在」が重要になってくるわけである。なので、「カメラと写真家~機材と表現の180年史~」は「見るべきである」ということになるんですね。

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 でもまあ、ちょっと残念なのは写真家の代表的な作品1点と、それを撮ったカメラが並んでいて、「う~ん、まあ、こういうカメラを使って撮ったのね」ってことは分かるんだけれども、「何故、その作家がそのカメラを使ったのか」あるいは「使わざるを得なかったのか」という疑問には答えてくれません。

 例えば、ユージン・スミスがオリンパス・ペンFTを使って『水俣』を撮ったっていうことは知っていたんだが、それはオリンパスがユージン・スミスにカメラを提供したからというのは知ってるんだけれども、ユージン・スミスの場合、レンズの焦点距離、やらカラーかモノクロかってなこともあって、一度に7台のニコンFを首から下げている写真はよく見るんだよね。カメラ3台まではベトナム戦争の従軍カメラマンの写真で知っているんだけれども、さすがに7台っていうのは見ないですよね。そんなの重すぎて動きが取れなくなってしまう。なので、オリンパス・ペンというハーフサイズのカメラの軽便さから、オリンパスに親しんだ、ってなことは書いてないんですね。

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 面白いのはこれ。「木村伊兵衛とローライフレックス」という展示。

 木村伊兵衛氏と言えば「パリのアンリ・カルチェ=ブレッソン/東京の木村伊兵衛」って言われるくらい、「ライカ使い」ってことで世界的に有名なんだけれども、その木村伊兵衛氏がライカじゃなくてローライフレックスで撮っている写真がある。

 友人のカメラマンとライカとローライを交換して撮ったらしいというだけの写真なんだが、木村氏が言うには「ライカだと6カット撮ってしまう写真を、6X6のローライだと4カットだけ撮ればOKだ」というんだが、そんなことないよね。やっぱり撮影するのにライカだと「シャッターを押す→フィルムを巻き上げる→次の撮影に備える」っていう作業が一連の流れの中で、ファインダーに目を添えたままで出来るのに比較して、ローライの場合は取り敢えず「ファインダーで見る画像は左右が反転している」ために、一度頭の中で画像を整理しなければならない、という作業があるので、どうしてもライカみたいな「速射」はできないっていうことだけなんだと思うんですけれどもね。

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 まあ、一番面白かったのが「森山大道とコンパクトカメラ」という展示。

 それまではペンタックス使いとして有名だった森山大道だったんだが、ある日、田中長徳氏からリコーGR(まだ、フィルム・カメラの頃の)を紹介されて、すっかリコーGRにはまってしまい、その後、デジタル化してGRDとなってからもGRDⅡ、GRDⅢ、そして現在のGRという名前に再び戻ってからも、GR使いとなったことは有名なんだが、森山大道という人が、カメラを神格化せず、あくまでも「道具だっ」っていうスタンスで使っているっていうのも、そしてそんな展示があるっていうことにも「(・∀・)イイネ!!」ですね。

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 日本カメラ博物館 開館30周年特別展『カメラと写真家~機材と表現の180年史~』は3月22日まで

 日本カメラ博物館の公式サイトはコチラ

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ichibancho ©tsunoken

2020年1月20日 (月)

鶴見線国道駅

 以前にも書いたことがある、JR鶴見線の「国道駅」にまた行ってきた。

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 国道駅は鶴見駅を出て一番最初の駅なんだけれども、なんかこの駅から鶴見駅まで走っていくと、どうも昔のホームの跡みたいなものがある。で、調べてみたら元々そこには「本山(ほんざん)駅」という駅があったんだが、 太平洋戦争の激化に伴う燃料統制のための停車駅削減により廃止されたそうだ。「本山(ほんざん)」という駅名は、勿論、曹洞宗大本山総持寺の門前駅だったからである。わかりやすいなあ。

 それと同じ意味で「国道駅」は、鶴見から出てきた電車が国道15号線をこえたすぐの場所にあるから「国道駅」っていう、まあ、これまた安易な名前の付け方ではあります。

 鶴見線っていうのは、たった3両だけの編成の、大都会にあるながらも、完璧にローカル線の趣きのある路線である。

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 駅も鶴見駅以外はほとんどの駅が無人駅。鶴見から浜川崎を経て扇町へ行くのが本線で、途中、海芝浦、大川駅、浜安善に行く支線があり、それぞれその終点駅には川崎の工場地帯が広がっており、それぞれの終点には大きな工場がある。

 つまり、それらの工場に通う人たちを朝晩送り届けるのが鶴見線の役割であり、まあ、朝晩は通勤列車なんですが、それ以外の昼の時間にはあまりお客さんは乗っていない、やっぱりローカル線なんですね。

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 なので、途中駅で唯一「コンコース」(まあ、高架線の下の通路っていうだけなんですけれどもね)らしきものがあるのが国道駅なんだが、一応、お店らしきものはあるんだが、開いているのかどうなのかは昼の時間に行ってもまったく分からない。

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 駅裏のガード下住居も、今や、人が住んでいるのかどうかも分からないし、改札口からホームに上がるのも、当然ながらエスカレーターとかエレベーターなんてものはありません。

 私の前をお年寄りが上って行ったんだけれども、結構きつかったようです。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Namamugi ©tsunoken

2020年1月19日 (日)

木挽町界隈

「木挽町(こびきちょう)」というのは、現在の東銀座あたりで、北は昔の京橋川、現在では首都高速の中で唯一の私企業が経営する東京高速道路(首都高の京橋JCTと汐留JCTを結ぶ道、西銀座デパートの上です)のある辺りから、西は昭和通り(昔の三十間堀川)、東が昔の築地川(現在の首都高環状線)、南側が汐留川あたりの、要は現在の銀座1丁目から8丁目までの東半分位の地域の呼び名だった。

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「木挽き」という名前の通り、江戸時代には江戸城の大工職人のために、大きな材木を建築資材として切り分ける仕事をしていた職人が多く住んでいた場所である。

 その後、多分江戸城の普請もひと段落が付いた後になって、木挽町もヒマになったんでしょうね、

 結局、その理由は分からないのだが、この場所には多くの芝居小屋ができて、「芝居の街」になったのだが、いろいろ各芝居小屋の事情もあっていろいろと変化し、木挽町から東銀座になった後は、歌舞伎座と新橋演舞場という二つの芝居小屋を残すだけとなっている。まあ、それだけでも大きいですけれどもね。

2_20200118140401木挽町の範囲(Wikipediaより)

 まあ、そんな土地柄だけあって、芸能関係者を幾人か輩出している土地ではあるのだ。勿論、松竹の歌舞伎役者は多いんだけれども、でも、その人たちは木挽町には住んでいません。

 で、それとは関係のないところから有名人を探しちゃうんだけれども……。

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 一番、有名どころではアングラ・フォーク(コミック・フォーク?)歌手で写真家としても活躍中のなぎら健壱氏ではないだろうか。

 なぎら氏の父親は宝石箱職人という、木製の宝石箱を作る人だったらしいのが、なんとなく「木挽町」らしいなとも感じさせるのだが、あるテレビ番組で明らかにされたこととして、なぎら氏の父親というのは、宝石箱職人として落ち着く前にはなんか旅芸人みたいなことをしていたそうだ。プラスしてなぎら氏の祖父は村で(どこの村なのかは分からない)一番の女形役者だったそうで、さすがに「血は争えないな」ってなところである。

 まあ、昔の話なので祖父の女形という話は、多分、村祭りの際の素人歌舞伎かなんかだろうが、父親の旅芸人は戦前の朝鮮やモンゴルあたりまで行っていたそうなので、少しは本格的だったのかもしれない。

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 演劇の演出家、宮本亞門氏は新橋演舞場そばの喫茶店が生家だそうだ。

『新橋演舞場前の喫茶店「須川」(現「茶房 絵李花」)を営む両親の元に生まれる。出生名は「宮本亮次」。幼い頃から新橋演舞場に出入りし、松竹歌劇団専属の元ダンサーだった母の影響により、銀座を中心に歌舞伎座、日劇、日比谷の映画館等にも通いつめる。幼稚園時代には、藤間流家元の藤間勘十郎の下で日本舞踊を習い始め、同門に十八代目中村勘三郎がいる。』(Wikipedia)というのだから、宮本氏の場合の周辺環境は、まさしく演劇演出家になるための環境であったとしか言いようがない。

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 しかし、俳優の柄本明氏もやっぱり木挽町の出身というのは知らなかった。

『父親は、殿山泰司の小学生時代の親友であった。母方の祖父は東京・銀座で箱屋(芸妓斡旋業)を経営していた。生家が歌舞伎座の裏手にあったこと、映画や演劇好きの両親・家族に囲まれて幼少期を過ごしたことが、俳優を志すきっかけとなる。』(Wikipedia)

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 まあ、いずれにしても「人前で何かすることが好きで好きでたまらなかった」人たちである。

 基本的なことを言ってしまえば、大体、東京の人間は元来そういうことが好きな連中が多いと思っている。なんだかんだ「私は引っ込み思案」なんて言っていても、人前に出てしまうと、結構、平気でくっ喋ったり、歌なんかを歌っちゃったりする人は多い。まあ、じゃなかったら、今でも田舎に引っ込んでいる暮らしの方を選択しているんだろう。

 要は、東京に住んでいる人たちの基本は「出たがり」ってことなんでしょう。

「出たがりのバカ」なんでしょう。

 そんな人たちが多かったから、東京は世界に冠たる都市になったんですね。

 なんだ、みぃ~んな、バカじゃん!

 それでなんか文句があるのかっ!

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ginza ©tsunoken

2020年1月18日 (土)

京浜急行大師線産業道路駅

 それに気が付いたのは昨年、いつもの川崎スタジアムへアメリカンフットボールの試合を観戦しに行くためにクルマで行く途中だった。

 普通に首都高速を川崎インターチェンジで降りて産業道路に入るんだが、産業道路に入るとすぐに武蔵小杉とか川崎競馬場の方面から来る道と交差して(理由①)、これが結構難儀する交差点なんだけれども、それを抜けるとすぐに京浜急行の踏切がある(理由②)っていう、まあ、渋滞の元になった交差点と踏切だったんですね。

 それが昨年春からは渋滞の元になっていた理由②の京浜急行の踏切が無くなっていたんですね。「この先、踏切です。一時停止してください」っていうアナウンスもなくなった。

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 つまり、京急大師線の川崎大師駅の一つ先の東門前駅と、終点の小島新田駅の間の産業道路駅が地下化されて、産業道路とは立体交差になって、渋滞のネックのひとつになっていた踏切がなくなっていたっていうことなんですね。

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 電車は産業道路駅を出ると、産業道路と交差したすぐ後に地上に現れて、以前と全く変わらない小島新田の終点に着きます。

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 勿論、「理由①」の交差点がある以上、まあ、産業道路の渋滞は解消されないんですけれどもね。

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 産業道路の踏切跡にはいまでも京浜急行のレールが残っているんですが、別にここで一旦停止しなくてもいいので、踏切の上に堂々と停車しているクルマも沢山います。つまり、この先にも信号があって、なんだ、結局ここも渋滞しているんですね。

 つまり、京浜急行の線路も渋滞の原因のひとつなんだけれども、結局、その前後にも信号があるので、渋滞はなくならない……、って訳で。

 う~ん、京浜急行の努力ってなんだったんだろう。

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 この間の縦断面図なんですが、あれっ? 川崎大師駅と京急川崎との間の地下化計画はどうなっちゃったんだろう?

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Daishi Kawara ©tsunoken

2020年1月17日 (金)

駒込の火事現場を見に行く

 1月14日の早朝に家の周辺でやたらサイレンが鳴るので、あとでテレビで見ていたら豊島区駒込6丁目で火事とのこと。

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 テレビニュースで見るとどうも本郷通りを駒込駅から下がってきて、一番谷底にある「霜降銀座商店街」をずっと進んでいくと次にある「染井銀座」の入口のそばらしい。

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 染井銀座の入口に近いところに「サカガミ」というスーパーマーケットがあるんだが、その前にある同じ棟にある八百屋(丸竹)さんと魚屋(魚一)さんの二軒が火事の現場だった。

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 八百屋さんの方は七十代の人が経営していて、店先で転んじゃったりなんてこともあったそうで、周囲の客からも心配されていたんだが、つい最近、店は畳んだ状態になってしまっていた。

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 まあ、スーパーの真ん前じゃあ普通の八百屋やら魚屋はやっていけないんだろう、その辺の心労もあって店を開いていなかったのかもしれない。

 結局、八百屋の経営者は病院に運ばれてから死亡してしまうという残念な結果となったのだが、今や、霜降銀座もどんどん店はなくなってしまって、アパートやマンションなどになってしまっている。

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 あと数年で霜降銀座も染井銀座も、商店街ではなくなってしまうのかもしれない。

 周辺では「田端銀座」が既にそのような状態になってしまっている。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Komagome ©tsunoken

2020年1月16日 (木)

山手線で一番影が薄い駅

「大学生に聞いた、山手線で一番影が薄い駅」ランキングというのがあって、見事第1位に輝いたのが「鶯谷駅」なんだそうだ。

 鶯谷に次いで、2位が田端駅、3位駒込駅、4位大塚駅、5位新大久保駅というのが続くらしい。う~ん、見事に山手線東北部の駅が連なっていますね。

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 鶯谷駅には山手線と京浜東北線のホームがあって、それと並行して宇都宮線・高崎線(つまり上野東京ライン)と常磐線も走っているんだが、すぐお隣が上野駅なので、それらの路線のホームはありません。確かに、乗換駅でもないし、特に学生さんたちから見れば、殆ど乗り降りはないだろうし、存在感が薄いと感じられても仕方がないのかもしれない。

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 でもね、鶯谷と言えば有名なのがラブホテルの充実ぶりなのです。

 もう、駅前にはそこここにラブホテル、ラブホテル、ラブホテルです。学生さんたちも今は使わないだろうけれども、これからは実に大いに使うことになると思うよ。なんてね。

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 ラブホテルにも使い方はいろいろあって、勿論、カップルで入っていくっていうのが一番ノーマルなんだろうけれども、男一人で入って、そのままずっと見ていると、その後に女の人だけが一人で入って行って、1時間もすると今度は女の人だけが先に出て来て、その後、男一人が出てくる、っていう使い方もあるようです。

 まあ、中でどんなことをしていたのかはご想像の通りだし、その男女の関係もご想像の通りです。

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 で、そんなラブホテル街の中心に位置しているのが元三島神社。別にラブホテルの守り神ではないだろうが、「ラブホテル」が「連れ込み旅館」と呼ばれていた以前から鎮座しています。

 そういえば、私の高校の同級生で家が鶯谷で連れ込み旅館を経営している奴がいたなあ。なんせ、下町の学校でしたからね。

『1281(弘安4)年発生した元寇において、伊予水軍を率いた勇将・河野対馬守越智通有は伊予国一宮大山祇神社に必勝祈願を行ったのち出陣し、大きな戦功を挙げ帰陣した。
 その折、夢で大山祇命の神託を受け、武蔵国豊島郡上野山内に分霊を勧請・奉斎したのが始まりであるとされる。
 1650(慶安3)年、上野山が寛永寺の寺地になった際に山内よりの社地移転を命ぜられ、金杉村(現・台東区根岸付近)に移転をとげた。
 1709(宝永6)年、その金杉村の社地が幕府用地とされたため、代替地として浅草小揚町(現・台東区寿)に再遷座した。
 金杉村の氏子から氏神様の遠方への遷座は不都合であることから、金杉・根岸の村民は協議を重ね、ついに金杉にあった熊野神社と合祀、これを元三島神社と称した。』(元三島神社由緒書きより)

 という、由緒ある神社なのです。

「谷中七福神」の一つ「寿老人」も鎮座しています。谷中七福神はこの鶯谷周辺のそこここのお寺や神社にあって、お正月には七福神巡りをする人が多く参拝しています。

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 そのラブホテル街から道1本を隔てたところにあるのが、台東区立根岸小学校。

 昔は「下町の学習院」と呼ばれた、これまた由緒ある小学校で、創立は明治4年(1871年)というから、殆ど日本の小学校で一番古いといってもいいんじゃないだろうか。

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 この辺、ラブホテルといういわば「下卑たところ」と小学校という「神聖なところ」が同時に存在していると言うところが、まさしく下町ですね。

 昨日からの「遊郭つながり」ではないですが。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Negishi Taito ©tsunoken

2020年1月15日 (水)

名古屋中村遊郭……って言っても

 名古屋ネタまだまだ続きます。勿論、昨日の「ついで」です。

 このブログを飛んでいる名古屋の皆さん(って、一体何人位いるんだろう)、『おっさんずルネッサンス』を見に行こう! ね。

 定年後にも楽しい世界が待っています。 って、そのついでのレポートです。

 大須とか中村とか、なんか名古屋の古き昔の下町を巡っています。大須は一昨日に書いたので、今日は中村遊郭なのです。

 名古屋地下鉄東山線の中村日赤駅で降りて、日赤病院の裏側が中村遊郭が昔あったところ。昔、名古屋にいた頃一度だけ来たことがある中村(遊郭跡)が現在どうなっているのかということが気になっていたので、見に来たってことなんだけれども。

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 中村日赤病院の裏側の道は今でも「大門通り」という名前の道があって、「おおっ! 今でも大門通りが生きてるんだっ!」って結構テンションは上がるし、あの「松岡健遊館」もまだあるじゃないですか。。

 ところがこの松岡健遊館といえば、昔は高級妓楼として有名だった店だったんだが、今や老人たちのデイサービスの施設になっていて、建物は昔の通りなんだが、中身の営業方針は昔とは一切かかわりのない仕事になってしまっている。

 元々、この松岡健遊館遊っていう旅館は、大昔は大須にあったそうだ。それが中村辺りを遊興街として整備するという名古屋市の方針に従って大正12年(1923年)に中村の地へ移って来たらしい。

 それがねえ、いまや「デイサービス」ですよ。

 まあ、昔、松岡健遊館で遊んだことがあるお年寄りの爺さんにとっては、懐かしい思い出なんでしょうかね。まあ、一緒にいる婆さんには言えないでしょうがね。

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 私としては、東京の浅草の吉原大門通りをイメージして、この中村大門通りを歩いたんだが……。

 吉原大門通りは今や東京いやいや日本最大級の「ソープ通り」として、昔の吉原遊郭とは少し形は違えども、今でもまあ「春を売る街」ではある訳ですね。一方、名古屋の中村遊郭は、中村大門通りはあるんだけれども、ソープランドとか「ちょんの間」とか、そんな「春をひさぐ店」ってのはほとんどなくて、見られたところではこの、アラモードとハーベスト・ムーンっていう2軒のソープランドだけ。

 まあ、他にもあるのかもしれないけれども、取り敢えず大門通りを歩いてみて発見できたのはその2軒だけだったんですね。

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 まあ、あとはこんなソフト風俗の店くらいですかね。結構、おとなしい街になってしまったんですね。

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 あとはこんな中村天神とか……

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 豊国神社なんて、いかにも豊臣秀吉らしい夜郎自大なものが残っているだけなんですね。

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 まあ、名古屋の人たちってのは、名古屋にいる限りはおとなしい、内向きの性格らしいというのは、昔聴いたことがあるんだけれども、今でもそうなんですかね。まあ、その分、外に行っちゃうとハッチャケちゃうらしいんだけれども。

 あ、そうか。だから河村たかしみたいなバカ者を市長に選んじゃうのか。

 えっ? 関係ないって? う~ん、そうかなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm F2.8 D @Nakamura Nagoya ©tsunoken

2020年1月14日 (火)

「定年後の生き方モデルは大府にある」のか?

「おっさんずラブ」とか、なにかと「おっさん」がもてはやされているようなんだけれども、現実はそんなことはまったくなくて、普通に「世の中からジャマにされているジジイ」がいるだけなんだよなあ。

 だから「定年後の生き方モデルは大府にある」って言われちゃってもさあ、こんな定年後なんて送りたくないというのが、私なんかの本音なんですよね。

 だってさあ、定年後の男の人生って「メシを作る」ことだけなのか? 「ベンチを修理する」だけなのか? 「アイロンがけ」をちゃんとやってればいいのか?

 ボーッと、コロッケを作っていればいいってもんじゃないよ! って、チコちゃんに叱られそうだな!

 こんなジジイには、私はなりたくないっ! というのが映画を見ての単純な感想でした。

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 監督の高野史枝さんにとっては2015年に製作・公開した『厨房男子』に続く2作目である。

 前作ではもっと単純に「厨房に入って自ら料理作りに励む男たち」を嬉々として記録していたイメージがあるんだが、どうなんだろうか。

 出てくる男たちも、高野氏の知り合いから始まって、様々なつながりのある男どもで、遂には高野さんの御主人の音響効果技師の高野裕夫氏や、小さいころから料理を仕込んだ息子の高野弘樹氏など、基本的に高野氏の知り合い関係に取材をし、それで映画の基本骨格を形成し、最後の「〆(しめ)」みたいな感じで、愛知県大府市の男女共同参画センターである「石ヶ瀬会館(ミューいしがせ)」のメンズカレッジやそのOBで作る男楽会のメンバーによる、怒涛のコロッケ作りでもって大団円を迎えるという構成で、なかなか楽しめる映画の構造であった。

 それが、今回は初めからミューいしがせが取材対象であり、基本的な取材はすべてミューいしがせのメンズカレッジや男楽会なのである。

 まあ、今回は大府市も少し映画に出資している関係もあるのか、あえてミューいしがせを取材対象の中心に添え、その活動のレポートが映画の中心主題である。勿論、それを否定するつもりはまったくないのだが、何か、それで高野氏はいいの? っていう気もするんですね。

 映画のナレーションからすると、愛知県の大府市というのは名古屋市の隣にある街で、どうもトヨタ関連の会社や工場が多い街らしい。つまり、そこに育った男たちは「大トヨタ」の傘下で、かなり官僚的な組織の中で長年働いてきた男たちなんだろう。官僚組織っていうのは、基本的に前例主義で、仕事をするのに「頭を使う」ことよりも「体を使う」ことを求められる世界である。そうやって、長年、頭を使わずに生きていて、ある日、「定年」という名前の卒業式を迎えると、突然、その日から「自分が何をして定年後の長い人生を送ればいいのか」分からなくなってしまい、基本的には「何もしない毎日」を送ることになってしまい、いわゆる「濡れ落ち葉」といわれる人生を送ってしまう人が多いようだ。

 社長ははっちゃけているので、なんか自由な雰囲気なのかなとも思うかもしれないが、その下はしっかりとした官僚組織でもって支えているのが「大トヨタ」なのであります。宮内庁みたいなもんか。まあ、あのくらい会社が大きくなっちゃうとそれもしょうがないのかなとも思える。なんせ、日本の株式上場総額トップの会社だもんなあ。要は、会社としては日本で一番のお金持ち。

 その中でも、「いやいや、これではイカン」と考えた人たちが、思いを馳せるのがミューいしがせのメンズカレッジなんだっていうことなんだろう。

 勿論、そんな生き方を否定するつもりは、頭からない。「いやあ、なんとか『生き甲斐』を見つけられてよかったですね」とまあご同慶の行ったり来たりではある。

 でも、それって映画にして面白い題材なんだろうか? という疑問が湧いてくるんですね。

 だってさあ、「料理を作る」ことだけが人生なのか? 「ベンチを修理する」ことだけが人生なのか? 「アイロンがけ」をちゃんとやることだけが人生なのか? 「コロッケ作る」のが人生なのか?

 う~ん、まあ、それも人生かも知れないのだが、別にそれだけが「男の人生」じゃないでしょう。もっともっと、いろいろやることはあるはずなんだけれどもなあ。あるいは「あったはず」なんだけれどもなあ。

 基本的なことを言ってしまえば、この映画の本来のテーマは「男女共同参画社会って何なんだろう」っていう大きなテーマがあるはずなんだ。それが単に定年後の「おっさんず」が右往左往する様を記録しても、ちょっと面白くないっていうか、ちょっと的外れなんじゃないかと思うのである。むしろ「男女共同参画社会」のテーマは、定年後の世界ではなくて、むしろそれ以前の時代からあって、定年後の世界に関して言えば、その総仕上げのような社会であるはずなんだなあ。

 高野さんにとってみれば、男女共同参画社会の入口は「男子厨房に入る」というところから始まって、その後、様々な世界に全面展開するという形態をとるはずなんだ。ならば、もう既に定年後のジジイたちにかかわるよりは、それ以前の男子に対する提言をしてもいいんじゃないだろうか。いや、むしろそのほうが「男どもにとって」は有益になるんじゃないかと思うんだが、どうだろうか。

 もしかすると、この映画、前作の『厨房男子』とセットで見ると面白くなるのかもしれない。勿論、『おっさんずルネッサンス』が前座で、『厨房男子』が本命である。そうすると、『おっさんず』でもって「おお、定年後にもこんなことをやっている人たちがいるのか」と認識をもった「おっさん」たちが、『厨房』でもっと楽しい世界があるんだなあ、という感想を持つにいたるのではないだろうか。

 映画『おっさんずルネッサンス』は現在、名古屋市東区にある名演小劇場でロードショー公開中で、その後、横浜、大阪、京都でも公開予定だそうだ。出来たら、その際は『厨房男子』『おっさんずルネッサンス』の二本立てで公開して欲しい。 

Photo_20200113153701 ©おっさんずルネッサンス製作実行委員会

Dsc_00262_20200113153701©tsunoken NIKON Df AF NiKKOR 24-85mm f2.8-4 D @Nagoya

 舞台挨拶をする高野監督。隣の凛々しい顔つきの女性が、カメラパーソンの城間典子さん。

 城間さんは京都造形芸術大学の映画学科映画製作コース専攻出身の才媛。一言だけ彼女に言いたいのは「監督の言うことだけを撮影していてもダメだよ。カメラマンはカメラマンとしての視点があるはずなんだから、それを監督に対して主張してもいいのだ。」とまあエラそうなことを言ってしまうのだが、要は「映画には捨てカットが必要なんだ」ってことです。

 捨てカットは監督に言って撮ってもいいし、勝手に撮ってもいい。「捨てカット」なので、基本的には本編では使われないのが前提なんだけれども……。

『実は、編集時に何となく欲しくなるカット』なんですね。それがあるとないとでは「映画の豊かさ」が違ってきます。特にドキュメンタリーでは必要なんです。

2020年1月13日 (月)

「ういろう」なのか「ういろ」なのか

 28歳から32歳まで名古屋に住んでいたことがあるのだが、大須観音に行ったことはなかった。それで今回名古屋に行ったのか、というとそんなことはなくて、あくまでも大須観音は「ついで」です。

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 大須観音には行ったことはなかったのだが、大須の近所の商店街には行ったことがある。

 実は中古のエレキギターとか、これも中古のウーリッツァーのエレキピアノなんかを買ったのが、大須にあった中古楽器の専門店だったのである。

 せっかく大須まで行ったんだから、大須観音にお参りに行っても良さそうなもんなのだが、一度も行ったことがないという、実に無信心な男ではあったのであります。この男は。

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 で、今頃になって大須観音にお参りに行くなんて、何故だ? とお思いでしょうが、これまた別に信心からではない。

 実は「青柳ういろう」と「大須ういろ」のそれぞれの本店が、大須商店街に軒を並べていることを知ったからなのだ。

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 大須ういろはその名の通り大須観音の商店街にあるのはなんとなく頷けるのだが、青柳ういろうまで大須商店街にあるとは知らなかった。

 創業明治12年の青柳総本家大須本店の所在地は名古屋市中区大須2-18-50。創業昭和24年の大須ういろの本店(本社は別のところにある)は名古屋市中区大須2-18-42。とまあ、本当に軒を並べている状態、っていうか2店の間には3軒くらい別の小さなお店があるだけで、本当に踵を接して同じ商店街に鎮座しているのだ。

 まあ、創業年度からすると青柳総本家に軍配は上がるのだが、その店のすぐそばに堂々とあらたにお店をだした大須ういろってのも結構豪気なもんですね。

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 まあ、東京の浅草観音もそうだけれども、いかにも下町情緒タップリな大須観音近辺ですね。

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 あれっ? 「いらんものはコメ兵に売ろう!」でお馴染みのコメ兵本店も大須だったんだ。今や東京の新宿にも店を開いてる、日本最大級のリサイクルショップです。

 そうか、大須ってもともとリサイクルショップの街だったんだな。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Osu Nagoya ©tsunoken

2020年1月12日 (日)

ちょっと強引なところもある『地形で解ける! 東京の街の秘密50』

 歴史に対してまっすぐに向き合うっていうことが、歴史を研究する者の基本的姿勢なんだろう。

 それに対して、あまりにも荒唐無稽なたとえ話をしてしまっては、歴史を研究する立場が全く失われてしまうのですがね……。

Photo_20200102152901『地形で解ける! 東京の街の秘密50』(内田宗治著/実業之日本社/2016年6月紙版刊・2016年10月21日電子版刊)

 まえがきにある「家康が20世紀からタイムマシンに乗って来たのではないか」というのはさすがに荒唐無稽ではありますね。

『家康は 75 歳まで生きた(1616年没)。当時としてはとてつもない長寿である。江戸時代中期、幕府が404名の大名の死亡年齢を調べたところ、死亡平均年齢は 49・1歳だった(『寛政重修諸家譜』)。合戦など絶えてなくなった時代にも関わらず、この資料では、大名の最も多い死亡年齢が 30 歳代( 77 名)ともなっている。それに比べての家康の長寿ぶりは、家康が 20 世紀の人間だとしたら、何の珍しいことでもなくなる(ただし実は上記の調べで、 80 歳代まで生きた大名も5パーセント近くの 19 名いるのだが)。
 家康は、その性格を「 啼かぬなら、啼くまで待とうホトトギス」とたとえられて広く知られた。織田信長のように啼かぬなら殺してしまえとか、秀吉のように啼かぬなら啼かせてみせる、といったせっかちな性格ではなく、鷹揚な人間とされた。これも自分が長生きし徳川政権が以後長く続くことを 20 世紀の人間なので知っていたと考えれば、納得がいく。』

 まあ、これはまさしく「妄想」なんだけれども 、その一方で『妄想はつきない。ついそう思ってしまうほど、東京の地形は謎に満ちている。この例に限らず、凸凹地図などで地形をじっくり見て、現在から過去への視点も加えれば、興味深いことが無尽蔵に現れてくる。』というのは事実なんだろう。

 本書は江戸(東京)の地形に関する「謎」から、それ以降のいろいろな事象へ至る道を考察している。

 基本的な章立ては以下の通り。

第1章 江戸城・皇居周辺の地形の謎
第2章 東京「丘」の秘密
第3章 東京の「谷」めぐりの謎
第4章 都会にのびるミニ山岳鉄道
第5章 水と川にまつわる話

 基本的には、私もこのブログでいろいろ書いているが、要は「山の手」の武家屋敷と、「下町」の町民の暮らしというのが、基本的に江戸の暮らしの基本であって、その「山の手」である「丘」と「下町」という名の「谷底」の関係をいろいろ調べてみると、東京という街の生活構造であり、同時に権力構造も見えてくるというお話が、本書の基本である。

 徳川家康が如何にして江戸の治水問題や地下水問題を解決したのか、というのは大体知ってはいたのだが、改めて本として読むってのも面白い。

 基本的なことを言ってしまえば『東京と、それ以前の都だった京都とでは、平野と盆地という地形上の大きな違いがある。この相違は誰にでも分かりやすい。もう一つあまり注目されていないが、人々が暮らす上で決定的な自然条件の相違があった。地下水の量がまったく異なるのである。
 京都盆地には、鴨川の伏流水が流れている。盆地の地下に天然の岩盤によるダムが形成されていて、多量の地下水を堰き止める構造となっている。京都盆地は巨大な地下ダム湖の上にあることとなる。そのため、平安時代の昔から、2メートルも井戸を掘れば、鉄分の少ない良質の水を豊富に得ることができた。
 東京の下町低地は、通常の井戸を掘っても塩分が混じり、生活用水として利用できない。江戸時代前半までの井戸はいわゆる浅井戸で、通常は3メートル程度掘ったものだった。』

 というまでの第1章と第2章が、まあ歴史における土地の形との関係に関するお勉強。第3章からあとは、東京の谷を巡る趣味編ですね。

 そんな感じで読んでいけば面白い。

 まあ、「東京」に至るまで引き続く「江戸の治水」なんですね。

 まあ、治水は都市インフラの基本だもんなあ。

『地形で解ける! 東京の街の秘密50』(内田宗治著/実業之日本社/2016年6月紙版刊・2016年10月21日電子版刊)

2020年1月11日 (土)

原宿セントラルアパートの頃

 明治通りと表参道の交差点、神宮前交差点に面したところに現在あるのは、東急プラザ表参道原宿なんだが、ここには昔「原宿セントラルアパート」という建物があった。

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『初めは1958年(昭和33年)、米軍関係者など特別な人々を対象とした共同住宅(アパート)として完成した。完成当時、所在地住所は東京都渋谷区穏田一丁目で、これが1965年(昭和40年)の住居表示施行によって神宮前4丁目に変わった。
 昭和30年代後半になると、アパートは上層階に事務所、下層階に店舗が入居するという形態になった。これに伴い、アパートにはカメラマン、コピーライター、イラストレーターなどのクリエーターが多数入居、ここに事務所を構えることが文化人のステータスとなった。
 また、1階に入居していた喫茶店 『レオン』は、マスコミ関係者が多く集まることで知られた。』(Wikipedia)

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2019年12月12日 (木)のブログ『井の頭公園から三鷹へ向かう玉川上水脇の道が好きだ』で書いたぴえろ(旧スタジオぴえろ)の布川郁司氏が東京に出て来て、デザイナーの勉強をしながら「いつかはオレも」と考えていたのが、その原宿セントラルアパートに事務所を持ちたいということだったらしい。 

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 近所にある同じ「アパート」でも、1926年(大正15年)に作られた同潤会青山アパートとは異なり、階下に商業施設が入ったというところが新しいところだった。上の住居部分にはコピーライターやカメラマンなどの当時の若者の「憧れの職業人」の事務所があり、階下には打ち合わせのためのカフェなんかもあって、布川郁司氏でなくとも、当時の若者が「いずれはオレも原宿セントラルアパートに事務所を」と考えてもおかしくない時代ではあった。

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 1985年頃、『バリバリ伝説』のOVAを製作担当をしていた私は、その作品の音楽部分をビクター音楽産業(当時、現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)が制作していたということもあり、ちょくちょく、原宿セントラルアパートの隣にある原宿ピアザビルにあるその会社を訪れていた。

 で、まあ、そのついでに原宿セントラルアパートの中にあるカフェなんかに行って、ダンスエクササイズなんかをやっている女性たちを眺めながらコーヒーを飲んでいたりしていたのだ。

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 でも、その女性たちって、ウィークディの日中からそんなことをやっていて、生活は大丈夫だったんだろうか?

 まあ、大丈夫だったから、そんな時間からダンスエクササイズなんてやれたんだろうな。そういう時代(バブルな時代?)だったんですね。日本中が、何となく「自分たちは金持ちだ」なんて幻想に揺れていた時代ではあったんだろうなあ。そういえば「竹の子族」なんていうのが出現してきたのもこの時代だ。竹の子族のチーム名のつけ方が今の子供たちに対する「キラキラネーム」の元になったんじゃないか、って話もある。

 原宿セントラルアパートは1998年に無くなって、その後、ティーズ原宿となり、2011年に東急プラザになった。

 いやあ、まさしく「強者どもの夢の跡」だなあ。

 なお、今日・明日は名古屋にいますので、Facebook経由でこのブログを読んでいる方、明日だけは「http://tsunoken.cocolog-nifty.com/tsunoken/」で、お読みください。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Jingumae ©tsunoken

2020年1月10日 (金)

銀座線渋谷駅に行った

 東京メトロ銀座線渋谷駅に初めて行ってきた。

 いやあ、その関係もあって、渋谷駅のダンジョンがますます面白いことになってきているって話を聞いたもんでね。

 とにかく、これまで京王井の頭線から東急百貨店東横店を(ほとんど)経由して直結していた銀座線が、グルグル下へ行ったり、上ったりしながらしなくては銀座線にたどり着けない、なんて感じで非常に評判が悪い東京メトロ銀座線の新・渋谷駅なんだよなあ。

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 銀座線の駅と言うかホームそのものは、東急東横店からはずれて宮益坂方面へズレで、ヒカリエの方のバス停の上にあるんですね。

 いやあ、なかなか未来的なホームのデザインでいいじゃないですか。ホームも以前に比べると島式ホームで広くなっているし。

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 ホームの外れに改札口があって(結構、これが意外な近さなんですがね)、でもその先にも通路もあるし(多分、これが京王井の頭線の乗客線への配慮なのかな)そこまで行くと、ちゃんと以前の銀座線渋谷駅があるし、多分、その先には銀座線の車庫っていうか、停車ヤードがまだあります。まあ、終点駅である以上、それは必要なんでしょう。

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 で、改札口から出ると、目の前が渋谷スクランブルスクェアの3階入口なんですね。

 まあ、もともと銀座線の渋谷駅は東急東横店の3階にあったんだから当たり前、なんだけれども、なんか妙に改めて納得っていう感じ。

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 まあ、そこから地面まで降りてみれば、これまでと同じ、なんか毎週来るたびに変わってしまう渋谷の駅前通路なんですね。

 この辺までは、以前と全く変わっていない「変わりつつある渋谷」なんです。

 要は「変わりつつある渋谷」というのが、「本来の『(変わりつつあることが)変わらない』渋谷」ってことなんですね。多分、この町は(東急が生きる限りは)まさしく「常に変わっていく街」なんでしょう。

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 まあ、いまのところ「のんべい横丁」は、取り敢えず生き残ってはいますが、まあ、ここも風前の灯火なんだろうなあ。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shibuya ©tsunoken

2020年1月 9日 (木)

平沼、戸部って今じゃマイナーなんだけれども

 横浜駅西口を出て帷子川方面へ出ていくと、新横浜通りという、横浜の浅間町とみなとみらいを繋ぐ道路に出ます。

 それをそのままみなとみらい方面へ歩いて行くと、帷子川とJR東海道線を跨ぐ平沼橋を渡ります。その橋を渡ってすぐ左にあるのが「平沼商店街」という、今やほとんど商店なんかない「寂れた」商店街なのです。

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 その商店街の入口のすぐ手前のJRの線路わきに「横浜道」の説明板があります。

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 そう、この説明板こそは、現在、新横浜通りと呼ばれている道が、元々は旧東海道と横浜港を結ぶ「横浜道」だったっていうことを示している説明板だったんですね。

 平沼橋は元々はもっと小さな橋で、その名残が平沼橋脇に「元平沼橋」という名前の小さな橋として残されています。

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 横浜駅が現在の場所に決められるまではいろいろ紆余曲折があり、元々、「〽汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり~」でお馴染みの東海道線横浜駅は現在の桜木町駅や横浜地下鉄ブルーラインの高島町駅辺りにあったんですね。

 で、その辺りと旧東海道の神奈川宿のちょっと先を繋いだのが、横浜道だったわけです。つまり、現在の横浜駅とはちょっとズレた場所に、昔の横浜の中心地があったってことです。もちろん「みなとみらい」なんて腑抜けた名前の場所なんて横浜にはなかった。

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 上の写真は、京浜急行が横浜駅を出て最初の駅だった「平沼駅」跡です。

 第二次世界大戦の横浜空襲で被災し、駅そのものは無くなってしまっており、横浜駅からも近すぎるという理由からか、現在は、駅はないんだけれども、ホーム関連施設だけは残されており、現在は一種のモニュメントとなっています。まあ、だからといって、それに因む慰霊祭とかそんなものはないようなんですけれどもね。

 でもまあ、第二次世界大戦前の昔には、結構、この平沼橋辺りがなかなかの繁華街だったんだろうなあ。

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 で、そこからちょっと歩くと京浜急行戸部駅です。

 横浜駅の次の各駅停車しか止まらないマイナーな駅なんだけれども、すぐそばには戸部警察とか、ちょっと行けば横浜市西区役所があったりと、実はみなとみらいなんかがある横浜市西区の中心部分が、実はこの平沼、戸部あたりだったんですね。

 西区役所のそばには狛ネズミでお馴染みの戸部杉山神社もあります。

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 う~ん、その割には地味だな。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Hiranuma & Tobe Yokohama ©tsunoken

2020年1月 8日 (水)

立石駅前商店街……、については書き忘れた!

 なんかアメリカとイランの関係がスゴいことになっていますね。

 イランの司令官を殺しちゃったのはいいけれども、それに反発するイラン国民、イラン政府に対して、もう戦争も辞さないっていう態度ですよね。そこにイラクも反米で加わってしまって、元々、イラクは反米だったんだけれども、それをアルカイダ掃討という理由で、結局、フセイン政権を倒したのはいいんだけれども、その後のイラクの混乱の原因を作ったのもフセイン政権打倒が原因だったのは、世界中の人々が知っていること。

 今度は同じことをイランでやっちゃってるんですね。もうイラン国民は完璧に反米でもって凝り固まっちゃっているから、いつ、アメリカへの反撃があるのかは分かりません。となれば、もう戦争になっちゃうんだけれども、本当にアメリカ人って、何度同じ経験をしても「学習をしないサル」なんですかね。

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 トランプ氏は「不動産王」なんて言われていますが、実は本当の不動産王は父親のフレッド・トランプ氏であって、息子のドナルド・トランプ氏は親父が作った財産のかなりの部分を失うような経営をしてきて、一時は「放蕩息子」の烙印を押されていた時期があるんです。

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 まあ、実はアメリカ大統領にはトランプ氏と似たような経験を持った大統領がいます。

 日本では平和主義者であるかのように受け止められているジョン・F・ケネディ氏なんですね。

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 ケネディ氏の曽祖父はボストンの港湾労働者から成りあがって、銀行家となりケネディ財閥を作り上げた人。

 その財力をバックに上院議員となり、遂には大統領になったわけです。

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 そのケネディ氏は、大統領になったばっかりの頃には「キューバ危機」なんかを乗り越えて、「さすがに平和主義者のケネディ」ってな評価を得たんですが、同時期にベトナムへの加担を深め、その後のベトナム戦争の本格化へと舵を切った人なんですね。

 この「ベトナム戦争の本格化」の理由が、それこそ「他国へのおせっかい」である「ドミノ理論」なんですね。つまり「ドミノ式」に順々にお隣の国が共産化してしまうという、ちょっとバカげた論理。

 で、所詮は「他国へのおせっかい」であるベトナム戦争は、アメリカ史上最初の「敗戦」だったのです。

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 今回のトランプ大統領のイランやイラクへの「戦争圧力」っていうのも、まさしくこの「他国へのおせっかい」そのものであり、別にアメリカにとってはホルムズ海峡が閉鎖されたって、産油国であるアメリカは何にも困らないはずなんだけれども、単なる覇権主義でもって、中東を自分の思い通りに動かそうとしています。

 なんかねえ、民主党のケネディ大統領も、共和党のトランプ大統領も、似たような出自でもって、似たような「他国へのおせっかい」でもって戦争を始めようとしています。

 戦争に駆り出される兵隊、徴兵制のないアメリカでは、司令官レベルの軍人はいい家の出ですが、前線で戦うのは貧困層の家の息子たちで仕事もない若者たちです。つまり、上流階級の政治家の指示のもとに、上流階級の司令官の命令で、最前線で死ぬのは貧困層の息子たちなんですね。

 もう、戦争になったら大統領選どころじゃないですよ。トランプさん、自身の選挙のことを考えるんだったら、戦争はやっちゃいけないんだけれどもなあ。

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 あれっ? 立石のことを全然書かないで終わっちゃった。

 スマソ

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Tateishi ©tsunoken

2020年1月 7日 (火)

墨田区京島あたり

 東京都墨田区のほぼ中央に位置する場所が「東京都墨田区京島」という町。なぜ「京島」という「いかにも、らしい」地名なのかというと、実は「東京」の「京」と「向島」の「島」を取って名付けたという、これまた「く~だらない」理由なんだとか。

 もうちょっと「京都」の「京」辺りから取った地名だったりすると風情ってもんがあるんだけれどもなあ。

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 つまり北西側が向島、南側が押上、という位置関係で、京成押上線と東武伊勢崎線、東武亀戸線などに囲まれている地域である。

『関東大震災および第二次世界大戦時に東京に集中した空襲の被害が少なかったことや地域住民らの取り組みもあって、特に京島二丁目から京島三丁目付近には大正時代からの昭和初期の長屋などが現存されており、古い家屋と町工場が混在している東京下町の古くからの街並みが色濃く残っている地域としても知られている。』(Wikipedia)という地域。

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 実は、私の父親と母親の実家があったのがここらあたりで、私の以前の本籍地は「墨田区押上」である。現在は、私の従兄弟がまだこの辺りに住んでいる。

 すぐそばが墨田区業平で以前、東武鉄道の本社があった場所で、現在は皆さんご存知の東京スカイツリーがある場所である。なので、休日には以前は考えられなかった人出の多い街なのであるが、残念ながらスカイツリーまでは皆さん来るんだけれども、押上・京島まで足を延ばす人は少ない。

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 狭い道には、そこここに商店街が張り巡らされていて、まさしく「下町」の風情を感じさせられる街ではある。

 勿論、東京の下町らしく、近所の飛木稲荷神社の秋のお祭りシーズンになると、各町会で盛大に神輿を繰り出して、かなりな賑わいを見せて、それも「下町らしさ」を醸し出すエッセンスにもなっているんだろう。お祭りで神輿の隊列が東武亀戸線の踏切を渡るので、電車の通行時間には、しばしば隊列が途絶えてしまうのも、なんか、下町らしくていいんですね。以前の箱根駅伝みたい。

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 その道の狭さかがいろいろ防火・防犯などでの問題もあって、道路拡張や道の整備などで大分様変わりしている地区でもある。

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 京島の端っこにある東武亀戸線の小村井駅の近辺は、あのアルフィーのギタリスト兼ボーカリストで写真家としても活動中の坂崎幸之助氏の出身地で、坂崎氏の叔父はエッセイスト・造園家・編集者で日本路地・横丁学会の会長でもある不良隠居・坂崎重盛氏という、まさしく「That's 下町人」ってな人なのである。

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 スカイツリーに行った際には、是非とも、京島辺りまで足を延ばしては如何?

 そこにはまさしく典型的な「東京の下町」があります。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Kyojima & Oshiage ©tsunoken

2020年1月 6日 (月)

浅草「粋れん」

 今年の年賀状で使った「ネズミの置物」なんだが、実は毎年決まったお店のマスコットとして、干支の置物を店先に置いてある店が浅草にあって、その干支の動物の置物を撮影させてもらって年賀状に使わせていただいているのだ。

 勿論、今年はネズミ。白いからハツカネズミかなあ。

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 その店は、「職人が造るモダン和雑貨専門店 粋れん(Sui-Ren)」というお店。

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 場所は、仲見世と新仲見世の交差点を一つだけ雷門方面へ行った裏の道。仲見世や新仲見世のようには大混雑していないので、まだ歩きやすいかもしれない。

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 しかし、てっきりこのお店のオリジナルかと思ったんだけれども、実は、雷門横の人形屋さんに同じものがあるのを、昨年末に発見。

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 なんだ、特注品のオリジナルものだと思っていたんだが、ちょっと残念。

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 思わず買ってしまおうかなと思ったんだけれども、年賀状以外には使わないし、それこそこんな大きな置物を12体も買っちゃったら、家のどこに置いておくんだろう、と考えて購入は断念した。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 & NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Asakusa ©tsunoken 

2020年1月 5日 (日)

正月は明けたけど

 正月三が日は明けたんだけれども、その次が土曜・日曜なので、世間はまだ正月気分なのかもしれない。

 まあ、官庁の御用始めもないし、東証の大発会もまだだもんね、なんて言っているのは、私がもう世間の動きには連動しなくなっちゃっている証拠なのか?

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 実は、やはり昨日のUターンラッシュは相当なもので、やはり皆正月明けの仕事の準備は始まっているんだな。

 まあ、私は既に現役引退した身なので、殆どそんなこととは関係のない生活を送っているので、まあ、あまり親身には感じないっていうだけなんですね。

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 そう、正月気分なのは世間じゃなくて、実は私自身だったのでありました。あっちゃ~。

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 しかしまあ、私だっていつまでも正月気分に浸っているわけにはいかないのである。

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 もうちょっと、色々な場所に出歩かなければなあ、とは思っています。

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 ってことを自覚させられて、「バカ席」に乗って帰宅したのでありました。

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 😥やれやれ。

 中身のないブログだなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Otowa & Sekiguchi ©tsunoken

2020年1月 4日 (土)

一日中、アメフト三昧だったんだが……

 1月3日は毎年「ライスボウル」の日である。

 以前、何年前かな、まだLIXILディアーズが鹿島ディアーズだったころに、それこそ鹿島ディアーズの観客席のど真ん中で、一度見に行った経験がある。

 いやあ、まさしく日本のサラリーマン社会の縮図ですな。ホント、上司とか元上司が来ると皆ヘコヘコしちゃって、う~ん、なんかなあってな感じで試合を見ていました。でもまあ、それが実業団スポーツの世界なんだろうなあ。

 今回はそんな妙な縁のない入場券の入手だったので、お気楽に見ていたんだけれども、なんか、この「ライスボウル」というイベント自体に対して、違和感というか、別に他の方法もあるんじゃないのか? と考えた次第。

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 今年のライスボウルは三つのイベントが併催となっており、まず一つが「第25回女子タッチフットボール日本選手権 さくらボウル 2020」である。対戦は学生代表が武庫川女子大学ジェントルブリーズと、社会人代表が関西アウィリーズの試合は21対14で武庫川女子大学ジェントルブリーズが優勝。

 もうひとつ、良く分からないのが「関東中学生アメリカンフットボールオールター戦」ってやつなのだが、要は東京の中学校のチームと、中学生のクラブチームの試合らしいのだが、女子タッチフットボールのゲームコートのままやっているし、攻める方向も決まっているんですね。そんな試合何てあり得ないわけで、何のためにやっている試合なのかが全く分からないし、試合(?)の実況もない。

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 っていう訳の分からないアメフトの試合の後が本日のメインイベント、社会人アメリカンフットボールの最高峰Xボウルの優勝チーム「富士通フロンティアーズ」と、学生アメリカンフットボールの最高峰甲子園ボウルの優勝チーム「関西学院ファイターズ」が戦う「ライスボウル アメリカンフットボール日本選手権 プルデンシャル生命杯」っていうわけなんだが、これも最近は「なんかなあ……」てな感じで受け止めているゲームではあるんだ。

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 元々は1948年に学生オールスターの東西対抗戦という形で始まったライスボウルである。関東学連では今でも1月15日頃に、毎年カレッジボウルってのを開催していて、まあそれは関東学生連盟のオールスター戦で、まあ、「お遊び」の試合ですね。

 東西学生オールスター戦=ライスボウルは、その後、1984年に社会人リーグの優勝チームと、学生リーグの優勝チームの対戦、つまりそこで日本一を決めようじゃないか、という「ガチ」の試合になってしまったんですね。

 その結果、昨年までで社会人チーム25勝、学生チーム12勝というのが実績として残っているんだが、最近の数年は完璧に社会人チームの勝ち、それも完璧なまでの勝ち方なんですね。

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 何故なのか? 多分、社会人チームを取り巻く環境が変化したんじゃないのかな。

 例えば、都市対抗野球に出てくる社会人チームっていうのは、実はプロ契約をしている選手もいたりする、「セミプロ球団」なんですね。アマチュアではない、でも、プロというほどではない。

 今、日本のアメリカンフットボール業界(?)もそうなりつつあるのではないだろうか。

 基本は大学フットボールという、まあほぼ純粋アマチュアの世界から出てきた選手が、例えばXスーパーリーグのチームに入ったりします。Xリーグっていうのは、X1レベルでも「スーパーリーグ」と「エリアリーグ」に分かれていて、はっきり言って「スーパーリーグ」はセミプロリーグなんですね。アメリカのNCAA選手だったんだが、残念ながらNFLドラフトにかからなかった選手が「じゃあその代わりに」ってな感じで、日本のXリーグに来るケースが多いようだ。

 でも、そうそんな選手はまあ言ってみれば「プロ」ですよね。

 その辺の「アマチュア」と「プロフェッショナル」と区別を曖昧にするとても都合の良い日本語が「社会人」だったんですね。

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 そういう意味では、現在のライスボウルはプロとアマチュアに試合をさせて、「ほ~ら、やっぱりプロの方が強いでしょ」っていうだけの試合でしかないのではないだろうか。

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 なんかねえ、そういう感覚を持ってしまうと、あまり見に行こうかなっていう感じはなくなっちゃうんですよね。

 そう、まるで青山学院大学駅伝部の原監督の「ドヤ顔」を見続けるようなもんで……。

 まあ、試合の結果は38対14で富士通が勝ちましたよ。

 でも、お前ら富士通の社員じゃないだろっ! 仕事なんてしていないんだろっ!

NIKON D7000 AF S NIKKOR 70-300mm f4.5-5.6 G @Tokyo Dome ©tsunoken

2020年1月 3日 (金)

「バカ席」に乗って東大まで行く

 都バスの運転手席の左側の前輪の上の高いところにある席を「バカ席・ヲタ席」と呼ぶことを知ったのは、つい最近の田中長徳氏のtanakachotoku note「東京バスライド 12/17」を読んでからのことであった。

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『バスファンの間では「マニア席、ヲタ席」と呼び、乗務員の間では「バカ席、アホ席」と呼ぶそうです。(爆笑)
 バスファンとしては、あの席は見晴らしが良く、先を争うように座ろうとしますが、乗務員にとっては、「監視されてるみたいで気持ち悪い」 「マニアには絶対座ってほしくない」そうなんです。』(「YAHOO! 知恵袋」より)

 まあ、確かに見晴らしはいいもんな。

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 今年も正月恒例の「東京箱根間往復大学駅伝競走」いわゆる「箱根駅伝」をテレビ鑑賞していたんだが、結局、青山学院大学の往路優勝と、残念ながら中央大学は青学より10分以上遅れて、復路一斉スタートということになってしまって、面白くないので、まあ、東大辺りまで散歩に行こうかなってなもんで出かけたんだが、なんかカッタるくなってしまって、帰りは東大赤門前から駒込駅南口行のバスで帰って来た。

 しかし、なんでたかだか関東陸連のいちローカル・レースにすぎない箱根駅伝がこんなにクローズアップされてしまうのだろう。まあ、それもこれも日本テレビというメディアのおかげなんだけれども。

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 で、たまたま空いていたもんで、いわゆる「バカ席」に乗ってきたっていうわけ。

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 ロバート・フランクはバス内で撮影した写真を芸術まで高めたそうだが、別に私の写真は芸術でも何でもない。たんなる「バカ写真」であります。

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 しかしまあ、こんな感じで撮影されちゃうと、運転手さんにとってはあまり気持ちの良いもんではないのだろう。

 で、バカ席か。

 なるほどな。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1.8 G @University of Tokyo & Tokyo Metoropolitan Bus ©tsunoken

2020年1月 2日 (木)

「現実」と「幻想」の狭間で

『坊ちゃん』『こころ』などで知られる夏目漱石は、どちらかというと「私小説」の人なのかと思ったら、こんな幻想的な作品も書いていたとは知らなかった。

 どういった心境の変化なのだろう。

Photo_20191228220801『夢十夜』(夏目漱石・著/岩波文庫ほか/コミック版・青空文庫版もあります)

『こんな夢を見た』で始まる短編小説なのだが、要は10の夢はすべてひとつながりである。

『 第一夜
 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に 坐っていると、 仰向 に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、 輪郭 の 柔らかな 瓜実顔 をその中に横たえている。真白な頰の底に温かい血の色がほどよく差して、 唇 の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと 判然 云った。自分も 確 にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から 覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を 開けた。大きな 潤 のある眼で、長い 睫 に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な 眸 の奥に、自分の姿が 鮮 に浮かんでいる。』
『女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の 傍 に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」』

『第二夜
 こんな夢を見た。
  和尚 の室を 退 がって、 廊下 伝いに自分の部屋へ帰ると 行灯 がぼんやり 点っている。 片膝 を 座蒲団 の上に突いて、灯心を 搔 き立てたとき、花のような 丁子 がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。』

『第三夜
 こんな夢を見た。
 六つになる子供を 負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が 潰れて、 青坊主 になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで 大人 である。しかも 対等だ。』

『第四夜
 広い土間の真中に涼み台のようなものを 据えて、その 周囲 に小さい 床几 が並べてある。台は黒光りに光っている。 片隅 には四角な 膳 を前に置いて 爺さんが一人で酒を飲んでいる。 肴 は煮しめらしい。』

『第五夜
 こんな夢を見た。
 何でもよほど古い事で、 神代 に近い昔と思われるが、自分が 軍 をして運悪く 敗北 たために、 生擒 になって、敵の大将の前に引き 据えられた。』

『第六夜
  運慶 が 護国寺 の山門で 仁王 を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに 下馬評 をやっていた。』

『第七夜
 何でも大きな船に乗っている。
 この船が毎日毎夜すこしの 絶間 なく黒い 煙 を吐いて 浪 を切って進んで行く。 凄 じい音である。けれどもどこへ行くんだか分らない。』

『第八夜
 床屋の敷居を 跨いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。』

『第九夜
 世の中が何となくざわつき始めた。今にも 戦争 が起りそうに見える。焼け出された 裸馬 が、夜昼となく、屋敷の 周囲 を 暴れ 廻ると、それを夜昼となく 足軽共 が 犇 きながら 追 かけているような心持がする。それでいて家のうちは 森 として静かである。』

『<第九夜
 世の中が何となくざわつき始めた。今にも 戦争 が起りそうに見える。焼け出された 裸馬 が、夜昼となく、屋敷の 周囲 を 暴れ 廻ると、それを夜昼となく 足軽共 が 犇 きながら 追 かけているような心持がする。それでいて家のうちは 森 として静かである。』
『こんな悲しい話を、夢の中で母から聞いた。』

『第十夜
 庄太郎が女に 攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に 就いていると云って 健 さんが知らせに来た。』

 結局、この物語の主人公の名前が「庄太郎」であることが読者に知らせられるのだ。

『庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。ただ一つの道楽がある。パナマの帽子を被って、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、往来の女の顔を眺めている。そうしてしきりに感心している。そのほかにはこれと云うほどの特色もない。』
『庄太郎は必至の勇をふるって、豚の鼻頭を七日六晩叩いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻のように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。』

 この「豚」はいくら庄太郎が鼻頭を叩いても、次々に現れ正太郎に襲いかかってくるのだ。

 つまり、この「庄太郎」とは夏目漱石そのものであり、「豚」とは仕事そのものなのだろう。つまり、「幻想小説」の形をとった、やはり「私小説」だったっていうことなんですね。

 なんだ、そうだったのか。

  『夢十夜』(夏目漱石・著/岩波文庫ほか/コミック版・近藤ようこ/青空文庫版もあります)コミック版で読んだ方が幻想性は増すかもしれません。原作に忠実なコミック化なので、結構おススメです。

2020年1月 1日 (水)

謹賀新年

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    謹賀新年

       令和二年(2020)元旦


本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
相変わらず、毎日出歩いて、写真を撮って、ブログを書くという日々を過ごしております。
インプットした情報は、アウトプットして初めて自分のモノになる、なあんてね。
「あなたの購読が私の励み。」

tsunoken

Blog : http://tsunoken.cocolog-nifty.com/tsunoken/
E-Mail : MXL01056@nifty.com

 というのが、今年の年賀状です。

 もう届いている人がいるかもしれませんね。

 というところで、年賀状には書きませんでしたが、今年の抱負、っていうか目標をいくつか……。

〇体重を下げる!

 2017年の10月31日に心臓バイパス手術をして、三週間ほどして退院をした時の体重が約70kg。学生の頃の体重が69kgでほぼ推移していたので、その頃(ほぼ45年前)の体重まで落ちたんですが、ここ最近は83kgと、ほぼ入院前の体重に戻ってしまいました。

 う~ん、これはイカンということで、今年は体重を最低でも75kg位までには落とさないとなあ、ということです。

 まあ、学生の頃の体重まで落とすとなると、体力の低下もありそうで、そこまでは頑張れないとは思うんですが、まあ、30年くらい前の体重まで落とそうというのが、現在のところの目標ではあります。

 一日10,000歩という「歩く目標」は相変わらず継続なんで、それに筋トレでもプラスしようかな、なんてことを目論んでいます。

〇デジタル・ライカを買うぞ! 買うぞ! 買うぞ!

 暮れの「断捨離」の結果として若干のお金も入ったので、今年はいよいよデジタル・ライカの購入に向けて邁進します。

 デジタル・ライカもM8あたりはかなり中古品の販売価格もこなれてきたので、手を出そうと思えばOKなんだけれども、M8は撮像素子がAPS-Cサイズなんで、それだったら現在使っているEPSON R-D1sでも同じ。やっぱりそこは35mmフルサイズのM9以降のライカなんですね。勿論、APS-Cサイズでも画質的にはまったく問題はないんだけれども、やっぱりフルサイズでないとレンズの感覚がイマイチなんですね。おまけにフジフイルムX-PROシリーズもAPS-Cサイズの撮像素子でなおかつCMOSセンサー、レンジファインダーとミラーレスファインダーの両方使えるので外付けビューファインダーを使わなくて済むというメリットも多い、ということなんでフジフイルムX-PROシリーズでもいいんだけれども、そうなるとレンズを新たに購入しなければならなくなったりして、ライカなら現在のライカ・レンズ資産をそのまま使えるし、やっぱりライカの方が押し出しもあるしなあ。

 まあ、今やスマホの画質の方がデジタルカメラの性能を超えてしまっているので、だったら中途半端なデジタルカメラよりは、ここは「押し出し」重視ということで……。

 ということで、2月末のCP+2020までにはライカM9かMEを購入することに決定!

 とまあ、なんともクダラナイ目標なんですが、目標は目標。

 現在考えている目標はこんなもんです。

 まあ、棺桶に片足突っ込んでいるジジイの目標なんで、こんなくだらない目標でご勘弁のほど、お願いいたします。

 ブログを始めたのが2009年11月27日なので、今年はブログ開始11年目になります。

 今後ともよろしくお願いいたします。

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 六義園は1月2日から開園。

1月2日は「神田囃子と寿獅子」(神田囃子千四会)
1月3日は「獅子舞と貫井囃子」(目黒流貫井囃子保存会)
両日とも、10時30分と13時30分の二回公演です。

 門前で「ポケモンGO」はやらないでくださいね。

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