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2019年11月

2019年11月30日 (土)

ある日の「銀座写真」

 実は少し前に撮った銀座4丁目から三原橋への道程の写真なんだが、何か特別なことをこの写真で言いたいわけではない。

 ただ単に、街を歩きながら撮った写真に何か特別な意味付けをしようと思っているんだが、何も思いつかないだけ。

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 でも超広角12mm(35mmフルサイズ換算18mm)で撮影している割には、結構、人や車でつまった映像になっているのが、まあ、街の特徴なんだろうなあ。銀座でもこれだけ人や車が集中している場所っていうのは、やっぱり一番中心の4丁目ならではというところである。

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 それが三原橋あたりまで、ほんの少し移動するだけで普通の町の人波になっていく。

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 ここまで来ると、街は普通の混雑具合っていう感じになってくるんだが、それでも他の町に比べると、まあ、人出は多い方だろう。

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 撮影者としては人は多い方が面白いので、やはり歩む先は人出が多い場所になる……、ってことで再び足は銀座4丁目に向かうのだった。

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 っていうだけの写真なのでした。

 こりゃ「銀座写真」っていうほどのものでもないか。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Ginza ©tsunoken

2019年11月29日 (金)

タピオカブームも、もう終わりかな?

 スイーツ・ブームというのがあって、過去、クレープ、ティラミス、ナタデココ、パンナコッタなんてのがあって、今はタピオカ・ブームなんだそうである。まあ、無茶苦茶甘いらしいので、私は飲んだことはないのだが、何とJR駒込駅前にタピオカ屋さんが出来たのだ。

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「台湾タピオカ専門店 吉茶(JICHA)」というお店がそれで、九段下あたりにあるお店の支店らしい。

 以前はラーメン屋さんだったと思うんだがあまりよく覚えていない。そこが退店した後に出来たのがこのタピオカ屋さん。

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 まあ、それはいいのだがJR山手線の駒込駅って、山手線29駅の中で24位の乗降客数を誇る(?)駅。駒込から下は、大塚、田端、目白、新大久保、鶯谷という具合で、田端を除いてどこも他のJR、私鉄や地下鉄などとの乗り換えがない駅で、要は大東京山の手をひと回りする路線の中の、まあ、ローカル駅なのであります。

 つまり、あまり力を入れて出店してもたいして儲かることもない駅前なので、大きなお店もないような街なのである。

 以前は、洋菓子店で有名なアルプスとか、カステラの文明堂なんかもあったんだけれども、両方とも既に退店済みである。

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 つまり、まさしく「大東京の田舎駅」である駒込駅前は、地元資本のあまりお金をかけない店なんかは生き残るんだけれども、外部資本のお店に関しては、実に残念な街なのである。

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 当然、「今流行りのお店」には縁のない街なのであります。

 そんな街にも遂にタピオカ屋さんができたってところは、まあ、嬉しいんだけれども、長続きはしないだろうなあ、という見通し。駒込あたりに出店するっていう段階で、もう既に「タピオカ・ブームは終わっている」ってことなんですね。

 残念ではあるが、それが現実。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Komagome ©tsunoken

2019年11月28日 (木)

ミルクスタンドという存在

 なんとなく日々通り過ぎていて気が付かなかったんだけれども、秋葉原駅のミルクスタンドってまだあったんだ。

 昔、よく前を通っていて、アンパンを頬張ってビン牛乳でそれを流し込む大人の人の姿を見て、結構カッコイイななんて考えていた、子どもの頃を思い出す。いやいや、まだJRが国鉄の時代ですよ。

Dsc_00242_20191127145001総武線秋葉原駅千葉方面ホーム

 まあ実際には「カッコイイ」なんてもんじゃなくて、食べているご本人にとっては、時間がないのでやむなくおお急ぎで朝飯を済ませているところなんだろうけれども、子ども心に「ああ、これが大人の朝食なのか」なんて独り言ちていた記憶がある。

Dsc_00292_20191127145001総武線秋葉原駅新宿方面ホーム

 以前は秋葉原だけじゃなくて、池袋や新宿などのターミナル駅には必ずあったし、ちょっと大きな駅にもかなりあったような気がする。

Dsc_00092_20191127145001山手線御徒町駅改札前

 ところが、最近ではキオスクなどのスタンドやニューデイズなんかの駅ナカコンビニにどんどん変わってしまって、ミルクスタンドというのはここ秋葉原と御徒町駅くらいでしか見られなくなってしまった。

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 ここ、秋葉原駅と御徒町駅は「ミルクスタンド 酪」という名前がついていて、要は同じ外部業者が出店しているようである。というか、戦後のある時期に出店して国鉄から権利を得て、そのままずっと変わらずに出店し続けているっていうことなんだろう。

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 その後、国鉄時代からJRの時代になって、JR東日本も傘下にJR東日本リテールネットが出来て、そのまた傘下にキオスクやニューデイズを抱えるようになっちゃったら、そういうところを優先的に出店させるだろうし、新しく駅施設を作るとなったら、当然、自社の傘下の店を優先するのは、まあ、そういうもんだろう。

 そんなわけで、昔の国鉄時代から出店していた業者だけが生き残っているわけなんですね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm @Akihabara & Okachimachi ©tsunoken

2019年11月27日 (水)

渋谷パルコには行ったんだけど、「アキラ・ウォールアート展」には行かなかった話

 渋谷パルコが11月22日にリニューアルオープンした。

 それまで旧パルコが取り壊しになり、新しいパルコが出来るまで、工事を覆う壁に大友克洋氏の「AKIRA」をベースにした壁面を作っていて、それは以前にもレポートしたことはあるんだけれども、いざパルコが新装なってオープンした時のことまで考えてそんな外装工事を行っていたとは知らなかった。要はその工事用壁面をアートにしちゃってビジネスにしちゃおうっていうことなんですね。すごいなパルコ。

 ってことで、新装なった渋谷パルコまで行ってきた。

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『AKIRAアートウォールが渋谷に甦る。
「AKIRA ART OF WALL Otomo Katsuhiro × Kosuke Kawamura AKIRA ART EXHIBITION」』

 ってのがその展示のメインタイトル。

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『AKIRA ART OF WALL
Katsuhiro Otomo × Kosuke Kawamura AKIRA ART EXHIBITION
11月22日(金) 開業予定の渋谷PARCOにアート・カルチャーの 情報発信の場として「PARCO MUSEUM TOKYO」(4F) ・「GALLERY X」(B1F)がオープン!

 オープニングを飾るエキシビジョンとして、渋谷PARCO 建て替え工事の仮囲いを美術演出した「ART WALL」を再度巨大コラージュ作品として展示する「AKIRA ART OF WALL Katsuhiro Otomo × Kosuke Kawamura AKIRA ART EXHIBITION」を開催いたします。

 活用する「ART WALL」は日本を代表する漫画家・映画監督 である大友克洋氏の代表作である『AKIRA(アキラ)』をコラージュアーティストの河村康輔氏と共同で再構築した作品となります。
 4F PARCO MUSEUM TOKYOでは約2年に渡り渋谷の街と共存してきた「ART WALL」を工事現場から再発掘し、時間と共にダメージを受けた仮囲いを再度巨大コラージュ作品として展示いたします。
 加えて当時の貴重な原画やポスター、 AKIRA作中に登場するオブジェをリアルに再現し、山城組の AKIRA音楽が鳴り響く中で AKIRA ART WALL "AD2019"の歴史を遡ると共にネオトーキョーに入り込んだような体験ができるエキシビジョンを開催いたします。
 B1F GALLERY Xでは巨大立体物を展示するインスタレーションを実施いたします。

 グラフィックデザイン・ ゾーン構成並びに空間演出にはアパレルブランドなど、国内外の様々な企業とタッグを組むグラフィックアーティスト YOSHIROTTENが率いるYARが担当いたします。

 また作品を使用し、デザインした展覧会記念商品の販売や、アパレルブランドのコラボ商品の販売を実施いたします。』

 ってのがその全容。

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 う~ん、しかしちょっと作戦を間違えちゃったんだよな。

 まあ、普通に考えていたのなら11月22日オープンなので、もうそろそろ空くころかななんて考えて、渋谷までいったのですね。まあ、パルコそのものにはまだまだお客さんが沢山来ているだろうけれども、パルコ劇場やら展覧会まではもうそろそろ空き始めるんじゃないかな、なんて考えていたんですが……。

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 11時頃に行ったら、整理券で入れるのが17時頃だというのであります。

 ウヮオ! そこまでパルコに居たって何をするわけでもないし、ちょっとなあ、そこまで待てないよなあ、さすがの俺だって多少は予定なんかもあったりしてなあ、ってことで、その日は『AKIRA ART OF WALL』には行かないことにして、まあ、12月16日までやっているらしいので、その期間中のヒマな頃を見計らっていくことにした。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shibuya ©tsunoken

2019年11月26日 (火)

『東京のヤミ市』ジオラマ編

 一昨日の記事『東京のヤミ市』の135ページから144ページまでに掲載されているヤミ市の写真のおおもとがどこにあるのかが分かったので、早速、見に行った。

 場所は両国にある江戸東京博物館である。

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 江戸東京博物館の常設展示の5階、東京ゾーンのT8展示「よみがえる東京」であります。

 常設展示自体は「江戸ゾーン」として「江戸城と町割り」「町の暮らし」「江戸の四季と盛り場」「江戸の商業」「芝居と遊里」などという展示を経て江戸から東京へと変遷する様子、文明開化から産業革命、関東大震災と経て空襲、として「よみがえる東京」から高度成長時代、そして現代へという展示を、いくつかはジオラマや再現展示などで見せてくれる。

 企画展示などでは江戸東京博物館には何度か来ていたのだが、常設展示の方は来たことがなかった。

 いやいや、結構面白い展示が多く、これは嵌りそうだなあ。

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 ということでヤミ市であります。

「武蔵野商業組合」という看板がついたヤミ市のマーケットの入口が見えるんだが、実際にもこんなヤミ市があったんだろうか。「武蔵野」という名前だから、新宿の武蔵野館のそばなのかなあ、あるいは吉祥寺の現在もあるハモニカ横丁なんかの前身なのかなあ、なんて気持ちで奥の方を覗いてみる。

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 ジオラマの左に説明書きがある。

『右:新宿―夜のヤミ市ー 1947年(昭和22) 縮尺:1/20

 1945年(昭和20)9月のはじめ、新聞に「光は新宿よりー」をキャッチフレーズにした新宿マーケットの広告が載った。ヤミ市は、終戦直後、空襲で焼け野原となっていた駅前に誕生し、鍋や包丁・茶碗・下駄などの生活用品を販売していた。ヤミ市で商売していたのは、露天商が約20パーセントで、ほかに引揚げ者や復員軍人もいたが、戦災にあった一般の都民も少なくなかった。また多くの朝鮮人や中国人もヤミ市で活動していた。
 10月ごろまでに、新宿、上野、銀座、新橋、渋谷など都内各所の駅前に、大きなヤミ市ができた。また同月には東京露天商同業組合が設立され、露天商の統制、違反者の取り締まりを行い、出店までも取り仕切った。このころのヤミ市は戦後の行政の混乱の中で、ただひとつ活況を呈していた場所であり、都民にとっては、生活必需品を入手するための数少ないルートのひとつであった。
 なお、、「新宿ー夜のヤミ市ー」模型は、写真や聞き取り調査をもとに、一部不明な部分については、憶測を交えて復元した。』

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 かなり作り込みをして奥の方を狙っているんだが、『東京のヤミ市』に掲載されている写真のようには詳細には撮影できない。

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 まあ、『東京のヤミ市』の著者である松平誠氏自身がこのジオラマ作成にも参加しているようなので、この出来上がったジオラマを撮影したのではなくて、分解状態で撮影したのか、あるいはシュノーケリング撮影をしているんだろう。

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 私が生まれるほんの少しだけ以前の、アメリカに占領されていた時期の東京の様子も少しは分かるような展示だ。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1.8 G & AF NIKKOR 20mm f2.8 D @EDO-TOKYO MUSEUM ©tsunoken

2019年11月25日 (月)

東大、TOP8残留? でも、そんなの関係ねぇ

 雨も多少上がってきたので散歩にでも行こうかと、いつもの散歩道を歩いた。

 ということで、朝から出かけるような状況じゃないときによく出かける東大本郷キャンパスまで。

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 そんな時に、関東学生アメリカンフットボールの秋季リーグ戦のTOP8で、不祥事で途中から欠場していた慶應大学に不戦勝して5勝1敗同志の東京大学ウォリアーズvs.日本体育大学トライフォント・ライオンの試合を、横浜スタジアムまで見に行っていたカミさんから連絡。

 東大が最後にクォーターバックがニーダウンをして計時を進め、16対3で勝利、TOP8の6位を獲得したとの連絡。

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 これで関東リーグのTOP8は1位早稲田大(7勝0敗)、2位法政大(5勝2敗)、3位中央大(4勝3敗)、4位明治大(4勝3敗)、5位立教大(3勝4敗)、6位東京大(2勝5敗)、7位日体大(1勝6敗)、番外:慶応大(2勝5敗:但し、不祥事で勝ちはカウントせず、来期BIG8に自動降格)という順位が確定したことになった。

 これでBIG8トップの日大(一昨年不祥事で自動降格していた)が無条件で来期はTOP8、7位の日体大が12月にBIG8の2位桜美林大と入れ替え戦を行うことになった。実はまだBIG8は順位が確定していないが、まあ、日大が全勝するでしょう。

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 でも、そんなの関係ねぇってばかり、東大本郷キャンパスはごく普通の景色を見せている。

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 まあ、それは当たり前で、この写真に写っている人の何人が「東大にアメフト部がある」なんてことを知っている人がいるんだろう。って、知っていたら皆ハマスタへ行ってるよな。

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 って、じゃあなんでお前はハマスタに行かなかったんだって? う~ん、東大が日体大に勝てると思わなかったんだもん。

 今年関東学生アメフトリーグ1部上位リーグのTOP8に上がったばっかりの東大である。早稲田、法政、明治、慶應、中央、立教、日体大という猛者の中に入って、1部下位リーグBIG8には一昨年不祥事で自動降格した日大っていう凄いチームがいる中で、今年、TOP8に上がったばっかりの東大が、そうそう簡単にTOP8に居残ることは、いっかな三沢新監督、森新ヘッドコーチがいても無理だよなあ、というのが秋シーズンの前の普通の人の予想。

 まあ、不祥事で自動降格の慶應大学のおかげってところでしょうか。

 いやあ、毎年毎年、不祥事続きの関東学生アメリカンフットボール連盟だなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D & NIKON D7000 AF NIKKOR 70-300mm ©tsunoken ©tsunotomo

2019年11月24日 (日)

『東京のヤミ市』とりあえず、それを本から

 さすがに私たちの世代になってしまうと実体は経験ないのだが、まだまだその残滓は残っていた。そんな私たちの世代からする「ヤミ市」観って何なんだろうか。

 実はその辺で面白そうな展示があるところにあることを知ったのだが、取り敢えず「ヤミ市」ってなんだったのだろう、ということを本から読んでみる。

Photo_20191120164001 『東京のヤミ市』(松平誠著/講談社学術文庫/2019年10月10日紙版刊・11月電子版刊)

『闇(ヤミ)とは、公定(マルコウ)の対語である。統制経済の時代には、政府の手で主な消費物資にいちいち価格がつけられ、違反すると処罰された。だから、マルコウ以外の商品は明るい太陽の下に出ることはできず、その売買はヤミになった。ヤミの商品を売り買いする市場がすなわちヤミ市である。ここには、食料品、衣類、雑貨、その他、販売が禁止されているものなら、なんでも並んでいた。一九四七年夏に飲食店がすべて禁止されてからは、逆に吞み屋と食べ物屋がその中心になった。はじめのうちは、駅の前にできた焼け跡や疎開後の空き地で、青天井の露店市だったが、翌年になると土地の上に平屋の長屋をつくってマーケットと呼び、敗戦後の一時期、露店とともに、東京の盛り場をつくりだした。これがヤミ市である。
 あるべきところにあるべきものがない敗戦直後の生活のなかで、テキ屋のつくったヤミ市は、それ自身が法とはどこかで対決せざるを得ない運命を背負っていた。一九四〇年代末、庶民の生活が少し落ち着きを取り戻し、ものが市場に出回るようになると、ヤミ市は消えていかなければならない。そして、それが消えていく先には、一九五〇年六月の朝鮮戦争が待っていた。』

『タイム・トンネルを潜って、一九四〇年代後半の四五年から四八年、とくに一九四六、四七年ごろ、つまりヤミ市がいちばん盛んだったといわれる時期にタイムスリップし、ヤミ市と思しき場所を追いかけてみると、すぐに気づくのは、それらのほとんどが鉄道駅前に広がっていることである。』

『鉄道駅がヤミ市の目安だとすると、東京では、山手線に沿ってみていくのがいちばん手っ取り早い。』

『新宿、それはヤミ市の発祥地である。後に述べるように、戦前から新宿露店商の頭株だった飯島一家小倉二代目関東尾津組親分尾津喜之助が、敗戦五日後の新宿東口に開いたのが、新宿ヤミ市であった。』

『東口のヤミ市としては、まず駅前広場角の一角には、尾津組の「竜宮マート」がある。大通りを新宿三丁目まで続く日用雑貨の店や露店、「三越」横手にできた生鮮食料品の店や露店も、すべて尾津組が管理していた。「 聚楽」の周辺は野原組が吞み屋のカスバをつくっており、その南側、「武蔵野館」西側から駅南口にいたる空間を占拠していたのは和田組で、バラックづくりのマーケットが四〇〇軒から並んで
いる。』

『ヤミ市の時代、渋谷は池袋西口と並んで、はなはだ物騒な街とみられていた。ヤミ市の広がる三角地帯が、売春と暴力で恐れられていた宇田川町、 円山 町のど真ん中にあるからである。』

『新宿、池袋などのヤミ市が、かなり統制のとれた「組」組織のもとで運営されているのに対し、渋谷は「組」の勢力が入り乱れ、まとまりがないままにヤミ市が出現している。安藤組がこの街を席巻するのは、一九五〇年代になってからのことである。そしてこのほか、渋谷には新宿にみられない特殊なヤミ商人の一団がある。新宿では「組」組織の中に組み込まれ、勢力としてはみるべきもののなかった華僑の人びとである。』

『新宿がヤミ市発祥の地だとすれば、新橋は「盛り場としてのヤミ市」をいち早くつくりだした街である。』

『一九四七年当時、上野駅と御徒町駅の間のガード下には、へばりつくようなかたちでヤミ市が長く続き、さらに広小路の裏側にかけての一帯に、お馴染みのヤミ市風景が展開している。戦後、そこに人びとが集まり、青空市場ができたのが最初である。東北線、上越・信越線、常磐線、あるいは秋葉原を経由して繫がる総武線、成田線などの各線を使い、各地方からたくさんの人が米や食料品を担いでここへやってくる。それは、敗戦直後の東京において、東北、信越、千葉の各方面からくる生活物資を東京に迎え入れる入り口の役割を果たしている。上野は、都心型のヤミ市──飲食、吞み屋型から出発したのではなく、後背地を背負って、物資集散ターミナル型のヤミ市として誕生したものなのである。』

『池袋ヤミ市もまた、上野同様、食料品の生産地を控えたターミナルとして出発し、盛り場に発展したものである。この場合の食料品とは、関東ローム層の高台にある農村から産出される野菜類、そして甘藷であった。戦前の表側だった池袋駅東口には、現在駅前広場になっている一万九三八〇平方メートルの広大な焼け跡があり、戦後すぐに格好の青空市場がつくられた。当時裏側だった西口も一面焼け野原で、現在東京芸術劇場が建っている旧豊島師範学校跡地や、駅前ビル街になっている三角地帯は、すべて露店市場となっている。』

『池袋東口のマーケットは、東京露店商同業組合が、戦後の混乱期からの脱却を狙い、露店商としての生き残りを賭けて知恵を絞ったボランタリーチェーン構想を、都内ではじめて実現したものである。』

『東口は、森田組が管理していた。ここは区役所ともよく連携してほとんどトラブルが発生していない。これに比べて、西口のヤミ市はいくつかの「組」組織が錯綜している。ここには一九四六年暮れ以来、一斉にマーケットができ、バス通りに面する側を仁栄マーケット、池袋邦映座を含む一角を森田組マーケット、その豊島師範学校よりの一角を上原組マーケット、そしてこれの中央に位置する最も大きいものを池袋戦災復興マーケットと称している。』

 新宿のヤミ市の残滓は今でも西口から東口へ抜ける辺りの「しょんべんガード」周辺の飲み屋街に見られるし、渋谷の宇田川町や円山町にはもう既にその残滓は見られなくて、渋谷駅のそばの「のんべい横丁」の辺りがその残滓なんだろうか。池袋なら東口の美久仁小路なんかの、周囲の発展から取り残されたような飲み屋街なんかが、その昔のヤミ市の残滓なんかじゃないかと思える。

 新橋は本書にも書かれている「新生マーケット」の再生建物が今でも「ニュー新橋ビルディング」として残っている。ある意味で、(中身は入れ替わっているけれども)昔の新橋のヤミ市風というものを残しているかもしれない建物だし、上野のアメ横商店街とかアメ横ビルなんていうのも、やはり昔のヤミ市の名残なんだろう。

『東京都が東京復興の基盤となる駅前・繁華街の土地区画整理事業に着手したのは、一九五〇年。新宿、渋谷、池袋など一三地区一七ヵ所、一一二二平方キロの土地整理がはじまり、まもなく主要なヤミ市はその姿を消した。また、同じ年、道路上の常設露店も都内からすべて取り払われ、都内五九三四の露店は、雲散霧消した。』

 という形で、タテマエ上ではいまや「まもなく主要なヤミ市はその姿を消した」んだけれども、いろいろな街にその残滓は残されているのだ。

 で、明日はそのヤミ市っていうものがどんな感じの町だったのか、写真で分かる資料があるというので、行ってみたっていうお話。

  『東京のヤミ市』(松平誠著/講談社学術文庫/2019年10月10日紙版刊・11月電子版刊)

2019年11月23日 (土)

南平台とJCGL

 渋谷駅南改札を出て西口バスバスターミナルを越えると東急プラザがある。

 東急プラザから、そこから青山通りから名前を変える玉川通りを歩道橋で越えると、あとは東急本社方面へ登っていく山登りコースである。エッチラオッチラその上り道を上がると、その後は当然、これまた急な下り坂になるのだ。

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 で、下り坂を下りきったところにあるのが鉢山交差点。そのすぐ先が昔JCGL(ジャパン・コンピュータ・グラフィック・ラボ)があったところだ。

 JCGLって何だ?

『1980年、日本で最初の商業CGスタジオJCGL(ジャパン・コンピュータ・グラフィックス・ラボ)を渋谷区南平台に設立。JCGLは、2階建てのブティック風のつくりながら、地下にスタジオやマシンルームを備えるという遊び心に富んだものであった。来日時のビル・ゲイツも見学に訪れたという。
 1984年、製作講談社、配給東宝東和系で映画『SF新世紀レンズマン』を製作。宇宙船などを3DCGによって表現した。ニューヨーク工科大学の技術が導入されたものであった。
 機器の高機能化・低価格化に伴う所有機材の陳腐化や財務状況の悪化、特許に関する訴訟などによってJCGLは次第に疲弊し、ナムコ(現・株式会社バンダイナムコゲームス)に吸収される。当時のJCGLのスタッフは離散したが、日本のCG発展に寄与することとなる。
 1985年、スタッフ教育のためにJCGL内に発足した「CGカリキュラム研究会」は、その後、CG-ARTS協会へと発展し、CGクリエイター検定などを実施している。』

 っていうのがWikipediaのJCGLの解説だし、その創設者の金子満氏の紹介記事だ。

 じゃあ、金子満氏ってどんな人?

『映画配給会社東宝の重役を父として生まれる。
 慶應義塾大学法学部を卒業後、フジテレビジョンに入社。フジテレビの編成部で『日清オリンピックショウ 地上最大のクイズ』や『第7の男』『ゼロファイター』などを手掛ける。1964年に手掛けた『ゼロファイター』では制作方針の混乱から、当時のスポンサーが完成作品を敬遠して1969年まで「お蔵入り」を招く失敗を経験。その失敗を経て、フジテレビの社内留学制度で南カリフォルニア大学シネマスクールへ留学。さらに、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーで研修を受ける。日本帰国後は『木枯し紋次郎』などのプロデューサーを経て、浜美枝と結婚。
 1974年にフジテレビから独立して、映像企画会社のMK COMPANY(エムケイ)を設立。エムケイでは『ウリクペン救助隊』『ラ・セーヌの星』や、中谷国夫の名で『大空魔竜ガイキング』の原作を手掛ける。その後も、エムケイのプロデューサー兼シナリオライターとして『名犬ジョリィ』や『太陽の子エステバン』を制作。
 1983年には東京工業大学の安居院・中嶋研究室と共同で2Dアニメーションの研究を行い、テレビシリーズのアニメ作品では世界初のコンピュータで描画・彩色した『子鹿物語』を制作。以降も『SF新世紀レンズマン』などのアニメ作品に携わる。1987年にはジム・クリストフらと、ロサンゼルスにメトロライトスタジオを設立。メトロライトスタジオが手掛けた映画『トータル・リコール』では、当時の最新技術だったモーションキャプチャシステムがうまく作動しなかったので、アーノルド・シュワルツェネッガーのビデオショットをハーフミラーで一枚ずつコンピューターモニターに投射して、モニター上の骸骨モデルをビデオの動き通りの位置に張り付けるロトスコープを採用。アカデミーの技術協会から「お金をかけなくても良い効果を生み出せる例」としてアカデミー特別業績賞を受賞する。
 1996年に、東京工業大学大学院後期博士課程修了(情報理工学)。慶應義塾大学環境情報学部及び同大学大学院教授を経て、東京工科大学メディア学部教授、同大学大学院教授となる。2010年に、東京工科大学大学院及び東京工科大学片柳研究所教授。東京工科大学片柳研究所のクリエイティブ・ラボで主宰を務める。また、東京国際アニメフェアで委員を務めるなど、精力的に活動をしている。』

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 まあ、まだまだ世の中コンピュータ・エイデッド・アニメーション(Computer Aided Animation)なんて発想がない時に、2Dアニメーションで講談社と組んで『子鹿物語』シリーズを製作し、その後はまだまだ未完成な「3DCG」と2Dアニメーションに合体させた無理作(と今では言える)『SF新世紀レンズマン』を製作し、ビジネス的には大失敗。パートナーの講談社も数十億円の赤字を出す結果となって、JCGLは解体し、金子氏もアニメ製作の最前線からは撤退し、東京工科大学の教授となって、まあ、今でもコンピュータ・アニメーションの研究をしています。

 まあ金子氏の挑戦を「早すぎた」なんて言って評価する人もいたんだが、世の中に早すぎたなんてことはなくて、金子氏がCGというものを事業化できると考えたこと自体はまったく間違っていなかったし、やはりこうした先駆者の苦労があってこその新テクノロジーなのだろう。世の中の「成功」の後ろには死屍累々というのは、まあ、やむを得ないのかな。

 私が金子氏と関わり合いをもったのは、その劇場映画『SF新世紀レンズマン』が完成間近になった頃。夏に公開された映画に引き続き、10月からはテレビシリーズを予定していて、そのプロデューサーを命じられたからなのであった。

 で、下の写真がJCGLです。

 なんかここがCG会社だとは思えないですよね。秘密はこの建物の地下にあるんです。

Tp04_jcgl_20191122112901Trilogy Future Studio Inc.のサイトより

 渋谷、南平台の瀟洒な住宅地の真ん中にある、これまた瀟洒なお屋敷にしか見えないんだけれども、ところがその地下にはスーパーコンピューターがドンと置かれて、その周囲に数十台のVAX-11というサーバーコンピュータが置かれて、毎晩毎晩徹夜で映像制作作業を行っていたのである。

 一時期、ここの駐車場にほとんど置きっぱなしになっているらしきシボレーカマロGT 7リッターっていう、リッター2~3キロしか走らない「バカクルマ」のオーナー(いやあバブルだったんですね)であるスタッフと話をしたことがあるんだけれども、「実は、殆どここの駐車場に置いたまんまなんでリッター何キロ走るか分からないんですよね」なんて言っていたのを思い出した。

「瀟洒な建物」の地上から見える部分には、金子満(KM)氏の映像企画会社MKや、浜美枝(本名:金子美枝子=KMK)氏の個人事務所KMKがあって、打ち合わせなんかでJCGLに行った際なんかにはボンドガールってどんな人なんだろうなんて期待して行ったんだけれども……、一度も会えなかった。残念!

 勿論、現在は既にJCGLの残滓なんてものすらなくて、場所がどのへんだったかもわからなくなっているんだが、周辺(らしき)場所を歩き回っていると、う~ん、なんかこの秀和レジデンスって以前にも見た頃があるぞ……、とか

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 この女性が立っている場所の奥の半地下のお店って、もしかしたらよく行っていた美味しい中華料理屋さんじゃなかったかしら……、とかうっすらと思い出してくる場所の特徴なんてものが透けて見えだす。

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 とすると、その中華料理店のある角から少し下がった場所にあるこの家が、昔のJCGLだったかなあ。

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 あ、だから別にどうということはないんですがね。

 単なる思い出、思い出。

 今のCGアニメ全盛時代の前に死屍累々なんてことは言いません。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Nampeidai ©tsunoken 

2019年11月22日 (金)

4つの公園をつなぎ、劇場化する

 池袋西口公園の改良工事がかなり大詰めにきていて、東京芸術劇場脇の以前は野外劇場だったところの改修工事がほぼ終わって、姿を現した。

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 この改修工事のポイントは、この池袋西口公園だけじゃないってこと。

『豊島区では西口公園に続き、旧豊島区役所跡地周辺の「Hareza(ハレザ)池袋」の再開発エリア内にある「中池袋公園」も刷新。さらに昨年(2016年)10月に閉鎖した造幣局東京支局(東池袋4)の跡地を使って2020年までに新たな公園も設置する予定です。2016年4月にリニューアルを完了させた「南池袋公園」(南池袋2)と合わせて、「4つの公園をつなぎ、劇場化する」という構想を描いています。』

 っていうのが目玉。

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『現在、着々と進められている池袋西口公園のリニューアル計画は、「劇場広場化プロジェクト」と名付けられ、「西口エリアの顔となるような文化拠点を整備する」(豊島区)としています。
 公園の目玉となる新たなステージについては、豊島区によると、ダンス、ミュージカル、演劇などに加え、オーケストラの演奏も可能な舞台装置、ステージと一体となった大型ビジョンの設置/災害時の情報発信、オリンピック・パラリンピックのパブリックビューイングにも利用可能、指向性の高い音響システムの導入で、周囲への環境に配慮、大型ビジョン、照明、音響機材を集中管理できる施設の設置、イベントに必要なテント、パイプ椅子の収納スペース、出演者控室の確保、等々。
 新たなステージは東京芸術劇場と調和のとれたデザインとする考え(同プロポーザル実施要項より)』

 といった方向性が示されており、これらは東京芸術劇場と調和のとれたデザインにする考え。

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 まあ、その開発意欲は買うんだけれどもねえ、意欲は。

 でも、なんかちょっと疲れますね。

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 そのおおもとが、たかだか椎名町のトキワ荘なんだもんなあ。

 芸術都市の出発点が「マンガ」ってのは別に悪くはないんだけれども……

 でも、どうなんでしょうかねえ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm F5.6 @Nishi Ikebukuro ©tsunoken

2019年11月21日 (木)

六義園から大和郷幼稚園へ

 昨日は、まさしくご近所ネタなんだが、六義園と大和郷、大和郷幼稚園などの見学案内をすることになったので、そのご報告。

 案内をしたのは旭川東高等学校東京同窓会というご一行。私が出た高校なんかは同窓会はおろか、クラス会なんてのもないし、今や、どんな同級生がいたのかもわからなくなってしまっているのが、高校卒業後なんかの常識だと思っていたら、50年以上も前に出た高校の同窓会って、う~ん、すごいな。私は知らないが、旭川東高校っていうのはなんか北海道のナンバースクールなんだろうか。

 行程は、駒込駅を降りて、六義園、東洋文庫、大和郷、大和郷幼稚園、徳川慶喜巣鴨屋敷跡という定番コースで、「大江戸歴史散歩を楽しむ会」の渡辺功一氏が案内人っていう、「鉄板」の内容で、六義園周辺を解説・案内をしてくれって言われたんだけれども、私が入り込む場所がどこにあるんだろうか、っていうような内容。

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 で、六義園の入口で待っていても、いつまで経っても皆さんこないんですね。どうしちゃったんだろう。

 と思ったら、約束の時刻を大分過ぎて皆さん到着。なんでも、この日は六義園の「大名庭園のライトアップ」初日ということで、染井門を開けていたので、皆さんそちらから入って、六義園を取り敢えず見てしまってからの、tsunokenご案内ということになったのだった。

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 ということで、皆さんが「六義園」っていうものをどれだけご存じなのかが分からないので、六義園についてご説明。

22_20191120161001「六義園の図」(財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会収蔵)

 私の説明は「六義園」よりは「大和郷」なんで、実は「柳沢吉保屋敷の半分の大きさしかない六義園」について説明。わがマンションの建て替えの時の文京区の説明では柳沢吉保邸が、まさしく柳沢屋敷の真上にあるらしいのだった。

 上の絵の庭園部分だけが六義園で、それ以外の建物がある部分は吉保の屋敷と、部下の長屋なんですね。その大きさたるや、六義園の南側にある不忍通りを超えて、それから先の昭和小校やアイソトープ研究所、元理化学研究所の先まであった、ってな説明をさせていただきました。

 いやあ、広いなあ。

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 その辺で、ちょっとびっくりさせていただいて、大和郷です。

 大正11年に日本で先駆けて「分譲」を始めた分譲地は、その新住民たちが「大和村」という住民組合を作り、それに同意した岩崎久彌が組合の事務所兼組合員の寄り合い場所として作った場所に、昭和4年、大和郷住人たちが自らの子弟を育てる学校として大和郷幼稚園ができて、昭和14年に美智子上皇后が1年だけ(俵孫一〈評論家俵孝太郎氏の祖父)の家に寄留して)入園したなどという話をさせていただいて、あとは渡辺功一氏にお渡しして、さようならです。

 まあしかし、殆どプロの渡辺功一氏のコースに、私なんかのシロートを入れちゃって、朝比奈氏もイジワルだなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Hon Komagome ©tsunoken

 

2019年11月20日 (水)

標準レンズって、何だろう?

 なんか、体が重いのでちょいと近所を散歩撮ということに決め込む。

 持って行ったのはニコンDfといういつものデジカメにレンズはAi NIKKOR 50mm f1.4という、(今では)オールドレンズ。とは言うものの、このAi NIKKOR 50mm f1.4というのは十分現代でも通用するマニュアルフォーカス・レンズで、なかなかいい描写をするレンズとして名高いレンズ。ひと回り大きいAi NIKKOR 50mm f1.2っていうのも以前は持っていたんだが、いつの間にか「カメラ&レンズの売買」を繰り返すうちになくなってしまっており、現在持っている一眼レフ用マニュアル標準レンズとしてはこれ一台である。

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 しかし、普段使っているレンズは、35mmフルサイズ一眼レフのNIKON DFにはAF NIKKOR 20mm f2.8 D、APS-CサイズのレンジファインダーのEPSON R-D1sにはVOGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6(フルサイズ換算で18mm)というどちらかというと超広角レンズに属するレンズなんだけれども、それをあたかも標準レンズのように多用していると、なんかそちらの方の画面の見え方の方が普通に見えてしまい、50mmのレンズなんかを通して見ると、なんか随分狭いファインダー視野であるし、奥行きの感覚もなんか狂ってくる。

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 当然、ファインダーを覗く前に肉眼で被写体を見るわけだけれども、その時に当然写真で撮った際の画角を頭に描いて見るわけだ。

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 ところが頭で描いたイメージを持ってファインダーを覗いてみると、予想していたよりもずっと狭い領域しかそこには見えない。

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 ただし、そこで見えた映像が、実際に肉眼で見える映像に一番近い映像なんだ、って言われてしまうと、逆に「私たちが普段見ている映像」って何なんだろうか、という疑問が逆に頭をもたげてくる。

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 要はそれは別に「標準レンズの映像」ではなくて、ごく普通の私たちの眼が見ている映像なわけである。で、それに「一番近い映像」という意味で「35mmフィルム・50mmレンズ映像」っていうものを置き換えただけなのである。

 人によって「標準レンズ」というものは何か? という答えは違うわけである。

 人によって、それは50mmだという人もいるだろうし、85mmだとういう人、35mm、28mm、24mm、21mm、そして私みたいな20mmっていう眇目な奴がここにいるわけだ。

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 まあ、誰でも安心して見られる「主要被写体」と「周辺被写体」の関係論として50mmレンズを標準レンズとする考え方は、たかだか今から100年くらい前に、ライカ社が世界で初めての35mmフィルムを使用したカメラを作って以来のこと……、というか、要はライカ社(後のライツ社)が作った「常識」が今でも世界のカメラ&レンズメーカーを支配しているっていうことなんだけれども、もう、今やカメラ業界のトレンドは少なくとも一般デジカメの分野ではスマホが握っている感じだ。

 まあ、あとは「高級品」としての「ブランド価値」を持ったカメラだけが、それとは別の「カメラマニア」「カメラファン」「カメラ愛好種族」たちだけの世界で生きていくと考えれば、もうそこには「標準レンズ」っていう発想はなくなっているのである。

NIKON Df Ai NIKKOR 50mm f1.4 @Komagome & Hon Komagome ©tsunoken

2019年11月19日 (火)

「GANKOTOSHI」と「眼球譚」

 写真家の故・須田一政氏の個展「GANKOTOSHI」が銀座のAKIO NAGASAWA GALLERY GINZAで開催中だ。

 というよりも、それは個展「GANKOTOSHI」であると同時に、写真集「GANKOTOSHI」のプロモーション・イベントでもあるんだけれども。

201911162©Kazumasa Suda

 須田一政は「GANKOTOSHI」のあとがきに書く。

『日々のスナップのなかで、街中にある眼の画像が気になってついつい撮ってしまう。自分でも何故それを撮っているのかは分からないのだが、出来上がったプリントを眺めてみると、やはりこれらには何かがあると密かに睨んでいる。だから、それらを一冊に纏め、このシリーズの輪郭をつけたい。』

 現在はあまり見なくなってしまっているが、確かに、以前は街中にある「眼」の看板が多かったような気がする。

 その多くは眼科医の宣伝広告であったり、眼鏡屋さんなんかの看板だったりする。しかし、そのようなものを自分の身の周辺に見ると、なんか看板から逆に見られているような気分になったりして落ち着かない。そんな気分を写真という形でまとめたものが「GANKOTOSHI」なんだろう。

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 しかし、私にしてみると、こうして様々な「眼球」から私が見られている状況に中に身を置くと、どうしても忘れられない本があるのだ。

 それが、ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』なのである。

『突然、彼女は立ち上がった。ミルクが腿をつたって靴下まで垂れるのが見えた。私の頭上に突っ立ったまま彼女は、小さな床几に片足を掛け、濡れた体をハンカチで丹念に拭き取るのだった。そして私のほうは床の上で身もだえしながらズボンごしに自分の竿を夢中でしごきまくるのだった。お互いに一指も触れ合うこともなく。そのかわりに、母親が戻ってきたとき、私のほうは肘掛け椅子に腰かけたままの姿勢で、若い娘が母親の胸にしなだれかかった瞬間を利用するのだった。見つからないよう後ろから学生服をまくり上げ、灼けつくような太腿のあわいから、彼女のお尻の下へ片手をすべり込ませ。』

 というような語り始めでスタートする小説は、まあ、はっきり言ってエロティシズムの代表作であるという風に、その昔、学生時代に呼んだ時には完全に「エロ本」として読んでいたことを思い出した。

 実は、エロ本であると同時に、哲学的にもポストモダンなんかにも影響を与えた思想家としてジョルジュ・バタイユを捉える見方もあったんだが、昔、学生時代に読んだ時には完全に「エロ本」として、マスタベーションのオカズとして読んでいましたね。

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 そうやって見ると、「目だま」っていうのは、その『「目だま」に見られている状況』ってのは、実は結構エロチックな状況なのかも知れない。

 須田一政写真展及び写真集「GANKOTOSHI」についてはコチラを参照

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Ginza ©tsunoken

『眼球譚 〈初稿〉』(オーシュ伯(ジョルジュ・バタイユ)著/生田耕作訳/河出文庫/2003年5月20日刊) 

2019年11月18日 (月)

權田原

 外苑東通りと神宮外苑から東へ進む道との交差点が権田原交差点。

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 赤坂見附の豊川稲荷からずっと先、青山一丁目の交差点を右折して、ここ権田原交差点を右折すると赤坂御所の正門がある。

 先日行われた「祝賀御列の儀」でもってお馴染みの場所なんだけれども、私たちにとってはもうちょっと別の意味がある。

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 権田原というのは権田原交差点から赤坂御所正門までの下り坂、本当は「安鎮坂」というそうなんだけれども、私たちはこれこそが「権田原」のおおもとである「権田坂」だと思っていた。

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 で、坂を一番下まで降りた谷底に赤坂御所の正門があり、先日、天皇ご夫妻が皇居から赤坂御所まで帰ってきて、赤坂御所に入ったところがこの門。

 赤坂御所周辺に住む他の皇族たちは、それぞれ別の門から御所に入ります。

 で、「ちょっと別の意味」なんだけれども、その昔、ビートたけしが酔っぱらって原付を操縦していて、この権田坂を下まで降りてきたところで、スリップ&クラッシュして重傷を負ったこと。

 まあ、その頃は講談社とビートたけしの「仲直り」はまあ、多分なんとなく済んでいたので、特に「ざまあ見やがれ」的な感想はなかったんだが、まあ、よくある急成長した芸人の「のぼせ上り」位の見方をしていた。当時はフライデー襲撃事件やらなんやらで、ビートたけし絶頂の時期ではあったわけです。

 権田原交差点からググっと下がって一番スピードが出る坂の下の底のところで左右にS字にターンする、まあある人に言わせれば「ちょっと難しいコーナー」なんだが、ごく普通の人からすれば事故なんかは起こすような難しいコーナーではない。まさしく「酔っ払てでもいないと起こせない事故だった」んですね。

 当時は皇太子が住んでいた赤坂御所なのだが、よくもあそんなところで事故を起こしたもんだ。あるいは、なにか別の意図があったんだろうか。

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 権田原(権田坂)も四谷に坂を上がって左手に学習院初等科がある場所で終わって、右側が赤坂迎賓館です。

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NIKON Df NIKKOR 24mm f2.8 @Gondawara ©tsunoken

2019年11月17日 (日)

アスリートファーストなんてブッ飛ばせ?

 IOCの突然の卓袱台返しで東京から札幌へ移っちゃったマラソンと50km競歩なんだけれども、当然、東京ではいよいよ来年に迫ったオリンピック開催へ向けての準備は予定通り進んでいる。

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 プレゼン時点ではいろいろあった国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場の正式名称です)も、既に完成間近となっている。

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 これまでは休日のお父さんたちのワンダースペースだった、神宮外苑軟式野球グラウンドも国立競技場のサブトラックとするための工事もほぼ終了し、いつでも陸上競技の練習場として使える状態になっている。

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 それなのになんで今更「札幌?」って話なんだけれども、結局、それは1984年のロサンゼルス・オリンピックが味噌のつけ初めなんですね。

 1984年のアメリカ経済は、とにかく最低の時期でオリンピックなんかに金を出せる状況じゃなかった。当時、大統領だったレーガン氏は、自身の経済政策として「レーガノミクス」を発表した。

『1.軍事支出の増大により、経済を発展させ、「強いアメリカ」を復活させる。
2.減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。
3.規制を緩和し投資を促進する。
4.新金融調節方式によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。』

 というレーガノミクスの根本はすべて外れて、アメリカ経済は最悪の状態になっていた。要は政府としてはオリンピックみたいな「金を稼げない無駄なイベント」には、政府としては金なんか出せないよ、っていうことなんだ。

 それに対抗してロサンゼルス市が出したオリンピック政策は以下の通り。

『①テレビ放映料:テレビ放映権は、それまでの常識を超える金額を最低価格として提示、アメリカ4大ネットワークのうちで一番高い金額を示したABCと約450億円で契約。放映権料を前払いとして、利息を稼ぐ徹底ぶりだった。
②スポンサー協賛金:それまで多くのスポンサー企業がマークを使用し、多種多様な活動をしたが、スポンサー数があまりにも多すぎたので、メリットが半減していると判断し、スポンサーは1業種1社、合計で30社と数を減らして価値を高めた。ロサンゼルス五輪のマークを自由に使える、というのが条件だった。コカ・コーラとペプシが激しいスポンサー争いを演じ、他業種もスポンサーに次々に名乗りを上げ、高額の協賛金が集まった。
③入場料収入
④記念グッズの売上』

 その結果、ロサンゼルス市としては、政府から一切口をださせないで「自前で」オリンピックを成功に収めたのである。

 かくして最終的にはこの大会は、およそ400億円の黒字で終了かつ成功し、その全額がアメリカの青少年の振興とスポーツのために寄付された。この大会の成功が、その後の五輪に影響を与える商業主義の発端となった。

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 基本的には現代のオリンピック・ゲームは商業主義が基本線にある。というか、商業主義を基本に置かなければ成立しないほどのバカでかいイベントになってしまっているのだ。

「アスリートファースト」なんて発想は、基本的にないのである。

「アスリートファースト」というのは、今や単なる幻想にすぎない。普通であれば、各競技ごとの世界選手権があればいいのだ。それをなぜ「オリンピック」という国家事業(でも、資金の大半は開催都市が負担)で行わなければならないのか。

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 まあ、商業主義拡大路線でもって今後も続けていくのか、縮小路線で「身の丈に合ったオリンピック」でいくのか、あるいは各競技の国際連盟で勝手に世界選手権をやればいいのか、もうそんな辺りの判断をするときに来ているような気がするんだけれどもなあ。

 あっ? 私? 勿論、各競技団体の世界選手権でいいじゃない、ってところなんだけれども、今後、開催に立候補する都市がなくなりそうなオリンピックの「成れの果て」っていうのも見てみたいですねえ。

NIKON Df NIKKOR 24mm f2.8 @Jingu Gaien ©tsunoken

2019年11月16日 (土)

渋谷スクランブルスクェアへ行ってみた

 下北沢の後は、11月1日に渋谷スクランブルスクェアがオープンしたというので、行ってきた。

 ところでこの渋谷スクランブルスクェアなんだが、要は渋谷の東横デパートの総合改築計画の一つであり、現在出来ているのはその東棟であって、その後、現在の残りの東横デパートの解体を2020年3月から始め、中央棟・西棟ができて渋谷スクランブルスクェアは2027年にすべて完成するという計画のようだ。

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 そういえば、現在改築が進んでいる埼京線・湘南新宿ラインの渋谷駅移転工事は2020年に予定されており、その後、銀座線移転工事があって、最終的には山手線のホーム移転が完了するのも、やはり2027年頃らしい。

 いやあ、すでに出来上がっている街の改造工事っていうのは如何に大変か、ってことなんですね。

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 で、今回オープンした渋谷スクランブルスクェア(東棟)なんだが、ビルの高さは230m、地上47階という大きさ。

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 地下2階から地上14階までがショッピングやレストランフロア、15階が「渋谷キューズ(QWS)」という産業交流施設、16階がオフィスエントランスで、17階から45階がオフィスフロア、で45階と屋上階が展望エリア(渋谷スカイ)という構成。

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 渋谷QWSって何だ?

『ありふれた日常から立ち上がる雑多な問い。それらが一つの場所に集積したら、どうなるのだろう。そしてそれらが、多様な個性や領域を越えた深い知性と出会いスクランブルされたら、一体どんな化学変化が生まれるのだろう。
Social Scramble Space / SHIBUYA QWS(渋谷キューズ)ここは、渋谷から世界へ問いかける、可能性の交差点。
未来を創り出す新たな問いが、ここからはじまる。』

 っていうのが、そのコンセプト。

『SHIBUYA QWSは、年齢や専門領域を問わず、渋谷に集い活動するグループのための拠点です。コミュニティコンセプトを「Scramble Society」とし、グループ間の交流や領域横断の取り組みから科学変化が生まれ、未来に向けた価値創造活動を加速させます。

「QWS Program」は、大学をはじめとするさまざまな領域のパートナーと連携し、価値創造を加速させるSHIBUYA QWSのオリジナルプログラムです。プログラムでは、「出会う」「磨く」「放つ」をキーワードに、参加者それぞれが持つ問いを掛け合わせることで、かつてない化学反応を次々と起こし、領域横断的な価値を生み出します。』

 って、理解できましたか? まあ、渋谷系ってところなんでしょうかね。って、なんだか良く分からないものを「渋谷系」で一括りにする安易さ。

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 しかしまあ、ウィークデイにも関わらず大変な人出で、逆にショッピングフロアはゆっくり見られる(というかゆっくりしか見られない)状況。

 展望フロアに上がるのも(有料)なんか随分待たなければならないようで、まあ、それは渋谷スクランブルスクェアも逃げちゃうわけじゃないので、いずれ来ようっていうことで、パス。

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 これは展望フロアからの眺めじゃなくて14階から。正面が渋谷ヒカリエで左側が東京メトロ銀座線の新しい渋谷駅。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shibuya ©tsunoken

2019年11月15日 (金)

駅前食品市場がなくなったのが、一番大きい下北沢の変化

 小田急線の連続複々線化工事も昨年終わり、あとは駅や周辺の整備事業だけとなった、ということで小田急線・井の頭線の下北沢駅へ様子を見に行った。

 京王井の頭線の方は、小田急線の駅改造工事に合わせた工事なので、駅の構造などにはまったく変化はなく、階段だけだったのがエスカレーターなんかが整備されたくらいかな。相変わらず、西口の先には踏切もあるし……

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 小田急線下北沢駅の方はまったく状況が変化してしまい、「あれっ? 自分はどの駅に降りたのかな?」なんて迷いそう(大袈裟)。

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 う~ん、なんだか良く分からないのだが、こんな小田急ロマンスカーのオブジェをあしらったレリーフが飾ってあるのが「シモキタ風のお洒落」なんだろうか。

 コンコースの上には「シモキタ_エキウエ」という飲食店などのモールになっていて、まあ、この辺は普通の電鉄会社の手法ですね。まあ、「駅の上のモール」ということで、それを「エキウエ」って呼んだのが目新しいっていうか、まあ、そんなもんです。

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 で、駅を出てみれば、これまであった「シモキタ」がそのまま残っています。

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 本多劇場やら、何本かあるゴチャゴチャした商店街とか……

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 むしろ、大きな変化はこちらですね。

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 駅前にあった、「昭和の……」っていうか、「戦後の闇市の……」雰囲気を濃厚に持っていた「下北沢駅前食品市場」がなくなってしまって、現状は、井の頭線の場所から小田急線の場所までかなりの段差がついているんだけれども、それらを総称して「しもきたスクエア」というイベント広場になっています。

 なんか「昭和の遺構」がまた一つなくなってしまうっていうのはちょっと残念だが、町というのはそうやって変化しつつ、生き延びていくのだと思えば、まあ、それもやむを得ないということなんだろう。

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 今後の下北沢はこの広場を中心にして「シモキタ文化」が出来ていくんだろうか。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shimokitazawa ©tsunoken

2019年11月14日 (木)

今年も Inter BEE がやってきた

「今年も Inter BEE がやってきた」って、そもそもInter BEEって何だ?

「Inter BEE」っていうのは、「International Broadcast Equipment Exhibition」の略、つまり日本語で言えば「国際放送機器展」なんですね。つまり「放送」にかかわる「映像」と「音声」と「送出技術」とそのコンバインドに関するすべての「技術」に関する総合機器展ということ。

 ただし、放送だけに特化した展示会はないし、映画のデジタル化が既に当たり前になっている現状では、「映画の技術」と「テレビ放送の技術」の境目が完璧になくなってしまった状況からすると、今や「映像+音響+再生」に関するすべての機器展となってしまった感がある。

 まあ、近々その呼び名も変える時代が来るんだろう。

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 で、そんな状況の中、ますます存在感を増しているのが、ここブラックマジックデザインのブースであります。

 数年前にキャノンのEOSを使ったデジタル・ムービーカメラや、弁当箱にレンズを付けたようなデザインのカメラを発表してInter BEEに初登場したブラックマジックデザインは今やInter BEEでも一番広いブースを展開しているようなメジャーな存在となっている。

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 出展最初の年にはあまり人影もなかったんだけれども、今や、出展カメラを扱える展示(まあ、これがInter BEEでは普通に一番人気の各社展示なんですけれどもね)には結構な人だかりで、なんかなあ、凄い出世だなあ。

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 一方でSONYあたりは昔は一番大きなブース面積を誇ってInter BEEに参加していたんだが、今やその姿さえ見えない。

 昔、ルーカスフィルムと共同開発したシネアルタという、デジタルシネマ(カメラとシステム)に関しても、今や、もっとお金をかけないで映画を作るシステムが出来てしまったので、もう大きなメーカーが参入する状況ではなくなってしまったのかもしれない。

 SONYは、もう既に映像関係で世界をリードするというモチベーションを失ってしまったんだろうな。というか、もう「映像関係企業」という考え方をやめてしまったのかもしれない。

 他のパナソニックとかフジフイルムなんかのブースもあまり元気はないし、各メーカーも「技術競争」をするモチベーションは失ってしまったのかもしれないな

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 とは言うものの、ポストプロダクションは技術の世界なんだけれども、撮影現場はもう、というかいまだに「超アナログ」の世界なんですね。

 ってことで、今年も「バコベン(『便利箱』の別称)」「セッシュー」でお馴染みの「箱馬屋」は健在だし……

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 結局、最後は「腹が減ったら仕事はできん」の、ロケ弁なんだよな。

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 この部分だけは、もう超アナログで進歩はまったくありません。

Inter BEE 2019 は明日、11月15日まで。

公式サイトはコチラ

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f2.8-4 D @Makuhari Mecce ©tsunoken

2019年11月13日 (水)

大川端を往く・千住桜木近辺

「大川端」という呼び方は隅田川の吾妻橋から下流域の愛称なんだが、隅田川がいかにも隅田川と呼べるような風情になるのが町屋と千住の境目の尾竹橋から下流なので、私としてはここ尾竹橋のある千住桜木町から下流と隅田川の別称として「大川端」と呼ぶことにする。

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 ここから下流の隅田川沿いには墨堤通りという道が走っているんだが、その名の通り、あまり高くはないけれども隅田川沿いには堤防があって、その堤防上に道が走っている。

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 その最初にあるのが『富岳三十六景「武州千住」千住浮世絵顕彰碑』という碑。

 葛飾北斎が富岳三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」という三題を千住に求めたことを後世に残すために作った碑なんだが、富士を描くために千住の花街を前傾に置くなんて、さすがに北斎さん、「粋なもんですねえ(by 木村伊兵衛)」。

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 もうちょっと行くと、東京電力足立事業センターっていうのがあるのだけれども、それこそここが昔の東京電力千住火力発電所、つまり「おばけ煙突」があった場所なんですね。おばけ煙突は1926年(大正15年)から1963年(昭和38)まであったんだから、1951年(昭和26年)生まれの私にとっては少年時代の記憶とともにあった存在なのだ。

 まさしく都市公害の原因そのものなんだが、廃止にあたっては反対運動なんかもあったらしい「下町(場末?)の象徴」たる「おばけ煙突」に対する地元民の愛着っていうのもあったんだろうな。

 現在は、発電所そのものがあった場所は、帝京科学大学の千住キャンパスになっていて、「おばけ煙突」のモニュメントなんかもあります。

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 千住龍田町の交差点を左折して北千住駅方面へ、墨堤通りを外れると、どうということもない児童公園である、千住中居町公園があるんだけれども、その公園内に「森鴎外と千住大正記念道碑」というのがある。

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     『「森鴎外と千住大正記念道碑」

 明治の文豪森鴎外の父静男は、元石州津和野藩の藩医であったが、維新後東京に出た。明治九年、千住に設けられた区医出張所の管理を東京府から命じられたのが縁で、同十一年、南足立郡設立ともに郡医となり、翌年から千住に千住に移り住んだ。その後、同十四年に郡医を辞して自宅に橘井堂医院を開業した。現在の都税事務所の敷地内である。鴎外は神田に下宿していたが、十九歳で東京大学医学部を卒業すると、父のもとから陸軍病院へ軍医副として通勤し、ドイツ留学までの四年間を千住の家で過ごした。森家が本郷団子坂の新居へ移転したのは、明治二十五年である。
 こうした経緯から、この碑文の依頼を辞退できなかったと鴎外は碑文で述べている。』

 として、その後に「碑文の要旨」っていうのが書かれているんだが、これが、延々と荒川の氾濫の歴史から始まって、ウダウダ、千住の人たちの河川改良・治水の努力に関して述べてはいるんだが、なんか「自分の問題」ではないという姿勢がありありと見える文章なんだなあ、これが。そのへんが、後世読んでみると面白いところですね。

 碑文の要旨のラストが

『千住の人たちが、記念碑を堤上に立て、吉胤(森鴎外の父:引用者注)ゆかりの西掃部堀のいわれなどを残そうと、私に文章を頼んだ。千住は父がかつて住んだところでなじみがあり、辞退するわけにもいかず、いわれを書いて与えた。』

 って、なんか鴎外としては「迷惑なんだけれどもね」っていう雰囲気、ありありなんですね。

 これを「まんま」載せちゃった人たちの心情かくや、ってなもんですね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Senju Sakuragi ©tsunoken

2019年11月12日 (火)

東京周縁部を往く・奥戸街道

 京成線の立石駅で降りると、以前仕事でタカラトミー(当時はトミーだった)によく通っていたので、なんとなく北口の方へ出てしまう。

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 南口を出ても駅前商店街や仲見世通りなどのアーケードがある部分までで、その先に四ツ木方面には行ったことがあるが、反対側には行ったことがなかった。

 で、今回はそのアーケードの先にある奥戸街道を東進して歩いてみようということにした。ただし、奥戸街道というのは『東京都道60号市川四ツ木線のうち、蔵前橋通り交点(東京都江戸川区西小岩2丁目)から平和橋通り交点(奥戸街道入口交差点・東京都葛飾区立石1丁目)まで区間の愛称として用いられる。 』(Wikipedia)とある通り、別に昔からある当時のどこかの大都市同士をつなぐような街道筋ではなく、現代になって付けられた名前である。

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 立石駅をバックに奥戸街道を左の方へ行くと、すぐに中川にぶつかり本奥戸橋を渡る。

 本奥戸橋の脇に子育地蔵尊地蔵尊と馬頭観世音と道しるべがあり、その脇に「立石 母の愛」と書かれた碑がある。

 子育地蔵と馬頭観音に関しては、いずれもかなり昔からあるようで、この奥戸街道が江戸初期から当時の近辺の人たちから頻繁に使っていたであろう道であるという証拠なんだろう。

 永井荷風の『断腸亭日乗』昭和17年6月4日の日記に『……橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し場道……』とある通りの存在に多少感動。

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 本奥戸橋を渡って少し行くと、地名は立石から奥戸に変化。奥戸総合スポーツ運動公園陸上競技場及びサッカーグラウンドがある。

 そのサッカーグラウンドの脇にあるのが奥戸天祖神社である。

 この奥戸天祖神社の鳥居をよく見ると藁の縄で包まれているのが見える。

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『当社の例大祭には区の登録無形民俗文化財第一号の「大しめ縄神事(神社の行事予定には「大〆縄神事」とあった)」が行われる。稲藁で約6メートルの大しめ縄を作り、「アクマバライ」と称して氏子地内を巡り、その後、神社に納められる。
 神社に保存されている『年番帳』によれば、明治27年(1894)までは2月1日に行われていたが、翌年から取り決めにより10月に行われるようになったという。
 かつては「雄しめ」「雌しめ」と呼ばれる2本の大注連縄を作り、氏子地内を巡ったあとは境内の榎に掛けていた。その後、大注連縄は1本になり、正面の鳥居に掛けられるようになった。さらに平成9年(1997)からは、新しく拝殿前に建てられた注連柱に掛けられている。』

 というのがその説明書き。

 奥戸天祖神社を出て、環七から蔵前橋通りを経て新中川を渡ると小岩となって、新中川のそばに「西小岩親水緑道」というのがあるんだけれども、まあ、環七から先は見るべきものはなく、JR小岩駅前に出るんだが、ここも普通のJRのどこも同じような駅なので、あまり見て面白いものはない。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Tateishi Okudo & Koiwa ©tsunoken

2019年11月11日 (月)

『写真家の記憶の抽斗』

 写真というものは不思議なもので、備忘録なんかを読んで、ある日のことを思い出してみようとしても、実は具体的な思い出としては出てこないものが、自分が撮った写真を見ると、その時の思い出が鮮明に蘇るものだ。

 北井一夫の文章を読んでいると、そんな、自分が昔撮った写真を見ている時の感覚が蘇ってきたりする。

 私みたいにヘボカメラマンでも、ヘボカメラマンなりに、撮影当時の思い出が蘇ってくるものなのだから、商業カメラマンじゃないシリアス・フォトグラファーであるならば、尚更なんだろう。

Photo_20191104173501写真家の記憶の抽斗』(北井一夫著/日本カメラ社/2017年1月20日刊)

 北井一夫氏の写真集と言えば、まず最初に思い浮かべるのはやはり1971年に発表した『三里塚』だろう。

 三里塚の農民が成田空港建設に反対する運動を起こしたんだが、当初、農民の反対運動なんかは簡単に潰せると考えた政府の見込みに反して、農民は「三里塚成田空港建設反対同盟」を結成して立ち向かい、最初は社会党などがそれに同調して動いていたものが、新左翼の加入により、運動は先鋭化し、大学闘争から流れた学生運動の次のステージとして設定され、反対運動の過激さは増し、そのうち社会党などの「革新党派」が若干離れ気味になってしまい、運動は益々先鋭化し、成田空港完成後も管制塔占拠事件なんかを起こした有名な成田闘争なのだが、これに関しては小川プロダクションによるドキュメンタリー映像と共に、北井一夫氏の写真集も大きな話題となった。

 北井氏は、それ以前に日大藝術学部の闘争を、学生の立場から扱った『抵抗』という写真集があったんだけれども、それは学生の間だけで話題になった写真集というイメージがある。

 それを覆し、もっと地に足を付けた運動を撮るべきだと考えて作ったのが『三里塚』である。日大闘争を撮影する中で、それは「闘いの記録」だけではなく、結局、「闘いにはそれに伴う日常がある」ということに眼をつけていく。

『いつだったかキューバ革命の写真集を見ていて。チェ・ゲバラの服の胸ポケットに歯ブラシがのぞいているのを見つけた。革命最中の彼らも顔を洗って歯をみがくのだ。そういう日常生活がちゃんとあるのだと、あたりまえのことだが、あたかも大発見したように感動したのを、日に日に日常化するバリケードの中で思い出した。』

 三里塚に拠点を移した北井氏はやはり書く。

『やはり写真は、相手の痛みがわかり、自分も傷つく近い距離で撮った写真でないといい写真にならないのだ。もう五〇近くも前のことで、私も今では七〇歳老カメラマンになっているのだが、忘れてはいけない言葉として重く受けとめた。
 一九六九年一月、それまでの標準レンズから望遠レンズ中心をやまて、キャノンⅡDとⅣSbバルナック型カメラに、それぞれキャノン25ミリF3.5をつけて、新たな装備で成田空港反対闘争の三里塚へ向かった。』

 三里塚闘争に関する北井氏の写真は、勿論、闘争の場面も多くあるのだが、それ以上に目につくのは、三里塚の農民や農家の日常、更には「少年行動隊」などの写真にあるような、まるで「記念写真」みたいな写真なのだ。

 テーマは非日常的な闘争の日々ではなく、それを支える「日常」の方なのだった。学生運動が、それまでのように「学生時代だけの出来事」ではなくて、もっともっと「日常の方へ」と動き出したのも、この時期だった。

 そうした写真を経て、北井氏の写真は、まさしく「日常の方へ」と動き出し、その典型が『フナバシストーリー』なのではないだろうか。

 北井氏が在住する船橋市の周辺の「何ということのない」写真ばかりである。

『一九六四年から八五年まで二〇年間ひたすら写真を撮り続けて、ある日ふと気がついたら浦島太郎になっていた。絶え間なく変化と進歩する時代から一人離れてとり残されていたのだった。
 旅をしていて写真を撮った村はもうこの国からなくなって、私は村の幻を撮るようになっていた、撮った写真が時代の現実とかみ合わずに空回りを始めていたことには気づいていたが、しかしこれほどとは思っていなかった。どうすればいいのだろうか。
 自分の身のまわりの今の事柄を丹念に見直すことから始めるしかなかった。私が写真を撮っていた村は、よく見ればかろうじて古い良さを残して実在した村だったが、日本中を歩きまわって探さなければ見つからないどこにでもある普通のことではなくなってしまった。
 もうこれ以上、村の写真を撮ることは偽善ではないのか、そう感じるようになった。そうなると怖くなって急に写真が撮れなくなってしまった。
 とにかく古き良き時代の日本に目を向けることをやめようと思った。』

 一九七四年からの北井氏のメイン・カメラはライカになった。

 やはりフォトグラファーの行き着く先は、ライカなんだなあ。一番スナップ写真に合うカメラである。

 ってことは、やはり写真の基本であり、終着駅はライカなのか。

 って、あれっ? そんな結論でいいのか?

写真家の記憶の抽斗』(北井一夫著/日本カメラ社/2017年1月20日刊)

2019年11月10日 (日)

銀座でお買い物

 恵比寿、青山を取材していて、ふと気になったので銀座へ出た。

 もうそろそろ来年のシステム手帳のリフィールを買う時期なのだ。

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 私が使っているシステム手帳はファイロファックス社製のシステム手帳で、もう数十年前からファイロファックスなのである。

 実は、山根一眞氏が『スーパー手帳の仕事術』という本でファイロファックスはある種のコンピュータの考えにも似た手帳で、彼は予定から何から何までファイロファックスに記入して使いこなしていた。その本を読んで私もファイロファックスを使おうと決めたのである。

 その当時はファイロファックスは銀座の伊東屋くらいにしかなくて、毎年、秋になると伊東屋へ行ってファイロファックスのリフィールを買いに行った。まだ、デジタル文具なんてものはなかった時代だったので、私の場合、スケジューラは鉛筆で書けるものを使い、いつでも予定変更できるようにして、日記帳的に使う方はスケジューラ機能を持たない形式のものを使っていた。

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 ってなことで、毎年、今頃になると銀座の伊東屋にファイロファックスのデイ・パー・ページ・ダイアリーのリフィールを買いに行くのが習慣となってしまった。

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「デイ・パー・ページ・ダイアリー」には予定表的機能は要求しないで、ただただ単に「その日の天気、行った先、行程、そして現在は使用カメラとレンズ、歩数、歩いた距離、消費カロリー、体重、そしてブロブのページビュー」などを毎日記入している。まあ、備忘録的な使い方ですね。

 予定表的機能はグーグル・ダイアリーでいくらでも変更可能なので、これが便利だ。

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 銀座伊東屋は毎年11月頃になるとシステム手帳フェアをやるので、それを見ているだけでも楽しい。

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 文房具に興味ある方、一度、銀座伊東屋を覗いてみてはいかがですか。

 ある種の「文具フェチ」には、クラクラするワンダーランドですよ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Ginza & Hon Komagome ©tsunoken

2019年11月 9日 (土)

写真集のあるレストラン

 恵比寿から青山へ登っていく駒沢通りの坂の途中に写真集のあるレストラン『写真集食堂 めぐたま』というのがある。

 まず「写真集食堂」っていうコンセプトがよくわからないんだが、まあ、運営している人を見ればさもありなん、っていうところでしょうか。

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 基本的には3人の主宰者がいて、飯沢耕太郎氏、おかどめぐみこさん、ときたま(土岐小百合)さんという3人。

 勿論、飯沢耕太郎氏というのは写真評論家の飯沢氏である。基本的には飯沢氏が所蔵する約5,000冊の写真集が「写真集食堂」の基本。おかどめぐみこさんが「美味しいごはん」担当なのだそうである。イベント担当がときたまさんなんだが、実は、ときたまさんは飯沢耕太郎氏が編集長になって創刊した『デジャ=ヴュ』という写真季刊誌の発行人だった人。

 つまり、飯沢耕太郎氏が自分が持っている写真集を、自分が持っているだけじゃ宝の持ち腐れなんで何か生かせる方法はないか、と考えて『デジャ=ヴュ』発行人のときたまさんに相談して、ときたまさんがおかどめさんを探してきて(か、あるいは以前から知っていて)、んじゃあ「5,000冊の写真集を見ながら、美味しいお昼を食べられます」っていうコンセプトのお店をやってみたら、という形で始まったんじゃないのかな。

 まあ、本を読める喫茶店っていうのは、まあ「当たり前」の存在なんだけれども、基本的に「食事が終わったら退店する」ってのが基本のレストランで「本が読める」っていうコンセプトの店はあまり聞かないなあ。

 まあ、写真集だから小説みたいには長居はしないだろうっていう発想なのかなあ。

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 場所は駒沢通りを恵比寿駅を通り過ぎて、明治通りとの交差点がある渋谷橋交差点をさらに青山通り方面へ坂を上がって行って、広尾高校があるところの少し坂の下。左側にあります。

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 昔(という位の時間が過ぎてしまったのか)1995年4月23日、オウム真理教の幹部・村井秀夫が200人を超えるマスコミ関係者が集まる衆人環視のなか東京都港区南青山にあったオウム真理教東京総本部前で、山口組傘下の右翼団体の構成員に殺害された事件があった場所のちょっと坂の下と言えば分かるかな?

 分からないだろうなあ。

 まあ、今やその時の建物自体がなくなっていますのでね。

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 実はこの日、私はレストランに入っていない。ちょうど昼食時間だったんだが、基本的に私は昼食を摂らない一日2食派なので、お邪魔をしてはいけないなということだったのだ。

 今度、ティータイムに行ってみよう。

「写真集のあるレストラン めぐたま」の公式サイトはコチラ

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Ebisu & Higashi Shibuya ©tsunoken

2019年11月 8日 (金)

東京周縁部を往く・大島周辺を歩く

 江東区の大島周辺を「東京周縁部」って言っちゃうと、なんか江戸川区民から文句が出そうなんだが、都営地下鉄新宿線の東大島を出ると、もうすぐに荒川放水路を超えてしまうので、なんとなくそこは東京じゃないような気がしてしまう。まあ、江戸川区が東京都(当時は東京府)に編入されたのは廃藩置県の時なので、最初からの東京都じゃないっていうことで、お許しを願おうか。

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 東大島から大島方面へ歩き始めると右側に見えるのが東大島神社である。

 大島っていう地名は昔からあるんだろうが、東大島っていうのはちょっと違うんじゃないのかなあ、と思って調べてみたら、やっぱりそうだった。

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『1945年3月10日東京大空襲(下町空襲)により、東大島地区にあった永平神社(旧深川出村鎮守)・子安神社(旧平方村鎮守)・小名木神社(旧小名木村鎮守)・北本所牛島神社(旧北本所出村鎮守)・南本所牛島神社(旧南本所出村鎮守)が焼失した。戦後の混乱下、五社を各々再建するのは困難ゆえ、牛嶋神社(墨田区)と猿江神社の宮司協力のもと五社の総代及び有志が合併を決議し、1949年11月15日に東大島神社が創立され現在地を取得、1952年に社殿を造営して現在に至る。』(Wikipedia)

 とあるので、結構神社としては新しい神社なんだな。

 境内には六角石塔とか庚申塔やら、力石などの、上記の小さな神社にあった神様が「境内社」として祀られているのだが、それらがどこにあるのかが分かりづらい。

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 東大島神社を出て、新大橋通りを更に西進する。

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 大島駅の近辺まで行くと目立っているのがUR都市機構(元・公団住宅)の「大島六丁目団地」という広大な団地である。

 そういえば、この近辺には都営住宅(これは多分JKK東京の賃貸住宅なんだろう)なんかも多くみられる。

 例えばお隣の江戸川区辺りは分譲マンションなんかが多いのだが、ここ江東区大島近辺は賃貸住宅が多い。

 多分、戦後の高度成長期に急激に増大する都市の住民に供給するために作った賃貸住宅がこの地域には多いということなのだろう。

 当然、そこに住む住人たちの年齢層は上がってくるわけで、住宅と共に住民の年齢も上がってきて、今後、この住宅と住民たちはどうなってしまうんだろう、なんて余計なことを考えてしまう。

 お隣の江戸川区は、こちらも高齢者人口は多いんだが、同時に若い人たちも多く居住して、当然、その人たちの子供たちもいるわけで、結構、区の平均年齢は若いのだが、江東区大島地区はかなり高齢化している? って感じなんだろうか。そんな気がする公団住宅なのでありました。

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 さらに西進して西大島辺りまで来ると大島緑道公園というものにブチ当たる。

 当然これは元々川だったところを暗渠にした「蓋」なんだろうとおもったら、そうではなくて昔亀戸から洲崎へ行く都電の専用軌道の後だったところらしい。

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 えー? だったら荒川線だけじゃなくて、こちらも専用軌道を走っているのなら、この路線も残してほしかったなあ。

 な~んてことを考えたんですがね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Ojima ©tsunoken

2019年11月 7日 (木)

「無題」の題

 以下、5葉の写真には何のつながりもないし、テーマもない。

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 なんとなく、家を出て、千駄木方面へ行って、そのまま東京駅丸の内北口行きのバスに乗って、そのまま終点で降りて、皇居外苑まで歩いたので、そのままを撮ったっていうだけの写真。

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『江戸時代には江戸城の一部で西の丸下と呼ばれ、馬場や厩舎が置かれていたが明治時代に撤去された。その後、皇室苑地を経て戦後、国民公園として開放することが閣議決定され、1949年(昭和24年)に開園した。広大な芝生と黒松の木を中心とした広場に、巨大な噴水を上げている和田倉噴水公園など都心で数少ない安らぎの空間となっている。』(Wikipedia)

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 皇居外苑(皇居前広場)は、第二次世界大戦後いろいろな事件が起こった場所だ。

 当然、それは戦後になって巻き起こった「それでも残った天皇制」にかかわるもので、天皇制を廃止し共和制にしてしまおうという動きはあったものの、結局、アメリカが「天皇制を残したほうがメリットが大きい」という判断を示したための措置ではあった。

 大きな事件と言えば、やはり「血のメーデー事件」だろう。戦後初めての学生運動での死亡者が出た事件だった。その後は、60年安保闘争での樺美智子さんの死であったり、1967年の羽田闘争での山崎博昭の死など、大きな闘争では死者が出るのが当たり前になってしまっている。

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 今や、そんな歴史を持っている皇居外苑であるなんてことを考えている人は誰もいないし、むしろ今週末の新天皇のパレードだけが話題になっているようだけれども、やっぱり、そのバックには人々の死というものがあることは、忘れてはならないことだろう。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Marunouchi & Others ©tsunoken

2019年11月 6日 (水)

入場料を取る本屋さん

「世にも珍しい<入場料を取る本屋さん>」の話。

 その本屋さんは「文喫(ぶんきつ)」という名前の本屋さんで、六本木の元々は青山ブックセンター六本木店があったところにある。2018年6月に閉店した青山ブックセンターの後を引き継いで同年12月にオープンした。

 運営しているのはリブロプラスという会社で、その名の通り元々は池袋西武にあったリブロという書店。立川のオリオン書房やあゆみBOOKSなどを糾合して出来た新しい書店で、日販の傘下にある。まあ、日販の傘下にあるっていうことで、こんな実験的な店舗もできるんだろう。

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 なので、外観も内部もほとんど青山ブックセンターのまま、で、この1階のカウンターや雑誌のコーナーがある場所までは無料で入れます。奥の小上がりみたいな階段から先が有料スペース。

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 カウンターで1,760円(1,600円+税10%)を払うと、こんなバッジをもらって、奥まで入ります。

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 お店の内観は以前の青山ブックセンターの作りのままなのだが、こんな本を椅子に座ってじっくり読めるスペースやら……

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 フリードリンクをもらって、じっくり本を読んでもいい喫茶スペースなんかがある。まあ、1,760円の支払いもフリードリンク代だと考えれば別にそんなに割高ではないのかもしれない。入場料を払って、面白そうな本を読んで、そのまま本を買わないで帰ってしまっても、別に店の人に怒られることはないのでね。

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 面白いのは本の展示方法なのだが、「平積みがない」ってこと。平台にも本は置いてあるんだけれども、普通は平積みの本っていうのは同じタイトルの本が積んであるんだが、ここでは置いてあるのは1冊だけなので、平積みではあるんだけれども、上にある本と下にある本は別の本。なので、こんな感じでバラバラに積んであって、上と下が別の本ですよってな表現をしている。

 要は「ベストセラーの売り方」には完全に反する、どちらかというとあまり売れない本をいろいろ置いてあるっていう感じかなあ。

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 そういう意味で、元々の青山ブックセンターと同じようにアート系の本はスペースの割にはかなり充実している感じだ。

 下の写真は写真集コーナー。

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 まあ、入場料を取るってことで、お客さんを店の方で選別して、それでも入ったお客さんはじっくり長時間にわたって選書ができるっていうことなんだろう。

 もうすぐ開店して1年が過ぎるので、今後どうするのかの結論が出そうだけれども、まあ、それなりにユニークな書店ではあるので、出来れば続けてほしいもんだ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Roppongi ©tsunoken

2019年11月 5日 (火)

11月2・3日は今年最後の牛の角突き

 考えてみたら今年は越後の牛の角突きに一度も行っていなかった。

 ありゃありゃありゃってことで、今年最終の角突き、小千谷11月2日、山古志11月3日の開催に行ってきた。

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 山古志はまだ一日後の11月3日に千秋楽が残っているんだけれども、小千谷は今日が最後っていうことで、一年間の様々な闘いに対する表彰式が行われ、最優秀牛、最優秀勢子と同時に「功労牛」という表彰ジャンルもあって、長年この小千谷闘牛に係わってきて、いろいろな日本の無形文化財の研究をしてきて、同時に小千谷の牛持ちでもある東大の菅豊氏が愛牛「天神」の代わりに受賞した。

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 牛の状況からすれば、春はまだまだ闘牛開始したばかりで本調子じゃなくて、夏場は暑さにやられて本調子じゃないし、実は今この時期の試合が一番本領を発揮できる時期なんだけれども、11月を過ぎてしまうと新潟地方も雪が降る可能性も出てくるので、ちょっと早めなんだけれども、この11月の最初の休日が最終場所。

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 とは言っても、闘牛は普通に開催されていて、牛同士は目を真っ赤にして戦っている。

 昔は「何故、草食動物の牛同士が戦うんだろう?」なんてことを考えていたんだが、まあ、牛同士の「遊び」から来ている「闘い」らしいことが分かってきたので、結構、安心して見ていられるようになってきている。

 まあ、確かに「角で相手の目を突く」というような、本来なら必殺技なんだけれども、それをしないってことは、牛にとっては「闘いは遊びの延長」なんだろうな。

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 むしろ、牛同士を戦わせるようにせき立てる勢子の動きに注目してきたり……

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 結構、危険な目にあったりする勢子のことを思いやったりすることになったりしているんですね。

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 勿論、牛にとってはなんの関係もないことなんです。

RICHO GRD Ⅲ & NIKON Df SIGMA DG 150-500mm f5-6.3 APO HSM @Ojiya ©tsunoken

2019年11月 4日 (月)

麻布仙台山登り

 う~ん、なんか良く分からないタイトルだなあ。

「麻布」は地名だから分かるんだが、その後が「仙台山」に登るのか、「仙台(坂)」を上るのか、どっちかハッキリせい! ってなもんですね。

「仙台坂」っていうのは、坂の途中に昔、松平陸奥守の仙台藩伊達家下屋敷があったから名付けられたんだけれども、実は品川の青物横丁から大井町の大井三ツ又で池上通りに合流するまでの上り坂も「仙台坂」といいます。なんでそこが「仙台坂」なんだといえば、やっぱり仙台藩伊達家の下屋敷があったかららしいのだが、いったいいくつ江戸に下屋敷を作っているんだ、っていうくらい仙台の伊達藩って大きな大名だったっていうことで、実は徳川家も他の藩とは別格扱いしなければならなかったっていうことなんですね。

 つまり「麻布」は地名だけれども、「仙台坂」も「仙台山」も地名にはないっていうことです。

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 で、その仙台藩伊達家下屋敷があった場所に現在あるのが、在日大韓民国大使館。

 日韓関係がギクシャクしているから、警備のお巡りさんが沢山、っていうわけではない。まあ、この近辺にはいろいろな国の大使館があるので結構警備が厳しいっていうだけのことです。

 元々この辺り「元麻布」っていうんだけれども、周辺は南麻布やら麻布十番やらの街があって、基本的には「そもそも」この仙台坂から北側の麻布十番まで下りない山の上が「もともと」の麻布なので「元麻布」という名前。

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 江戸の街の基本は山の上、つまり山の手には武家屋敷、そこから下がってきて川のそばには町民の町、下町ができているんだが、この元麻布界隈もそんな武家屋敷町だった。明治維新で武家は皆地方に帰ってしまったので武家屋敷町は空いてしまっている。江戸城に近い場所には明治政府の関連の役所を作り、その外側あたりに明治政府が国交を開いた国の大使館を置かせたんだろうなあ。

 で、韓国大使館がある仙台坂の少し上には在日中華人民共和国大使館があるっていうのも、別にそこで中韓関係を表しているわけではなく、まあ、たまたまでしょう。

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 まあ、仙台坂の上の山の頂上付近にも各国大使館や麻布学園(麻布中学・高校)などの昔からある私立学校やら愛育クリニック(現在は田町に移転した愛育病院:1934年(昭和9年)に、明仁親王の出産を記念し、昭和天皇より受けた下賜金をもとに作られた「恩賜財団母子愛育会」によって、1938年(昭和13年)に開設された。現在の設置者は「社会福祉法人恩賜財団母子愛育会」であり、総裁を文仁親王妃紀子に推戴している。1986年(昭和61年)3月8日に憲仁親王妃久子が承子女王を出産したのをはじめ、2006年(平成18年)9月6日には、母子愛育会の現総裁である文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産した。 また、都内の出産事情においては、聖路加国際病院、山王病院と共に、「ブランド出産御三家」の一つとされている。)なんてものがゴロゴロしているセレブな街ではあります。

 実は、私もここ愛育病院の生まれ、エヘン。まあ、私自身も私の親も、セレブでもなんでもないですけれどもね。見栄を張ったのかな。

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 で、実は「麻布山」というのは、この元麻布にある「仙台山善福寺」というお寺の名前だったのです。

 上の、麻布学園の裏辺りにあります、

 で、有栖川公園から上がって来た道をまっすぐ行くと中国大使館、六本木ヒルズに至るんだが……。

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 それを中国大使館の手前で右折して、今度は坂をどんどん下りていきます。

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 で、暗闇坂まで来ると、もうそこは「下町 麻布十番」です。

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 いやあ、やっぱり下町の方が好きだな。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Moto Azabu ©tsunoken

2019年11月 3日 (日)

軍艦パジャマとミカサ・ツーリング

 赤坂見附にある東急プラザ赤坂及び赤坂エクセル東急ホテルの建物が、その昔「軍艦パジャマ」と呼ばれていたのは、ご存じだろうか。

 1969年に赤坂東急ホテルとして開業したのが、その大本なんだが、その後、形態が変わって赤坂エクセル東急ホテルと東急プラザ赤坂となったというのだが、まあ、基本的な経営主体が変わったわけではない。

 ビルの外装も変わったわけではない。で、何で「軍艦パジャマ」なんだっていう話。

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「軍艦パジャマ」っていう呼び方は、私なんかは赤坂で遊び始めた頃から聞いていたわけで、なるほど「軍艦パジャマ」だなあと思っていたので、なんの違和感もないのであります。

 でも、最近は「何で軍艦パジャマなんだ?」っていう違和感があるようなんですね。

 いやあ、私なんかは「白とピンクのストライプがパジャマみたいで、当時、あれだけ横に長いビルはなかったのでそれが軍艦みたい」ってことで、単純に「軍艦パジャマ」っていう呼び名を受け入れちゃったんだけれども、なんか違うかなあ。

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「白とピンク」の色合いが帝国海軍の海軍旗みたいだっていう説もあるらしいんですけれども、う~ん、どうもそうには見えない。海軍旗は真紅と白ですもんね。違うよな。

 やっぱり「ピンクと白の縞模様」が軍艦パジャマなんだろうな、と思うんですけれどもね。

 で、その軍艦パジャマの2階、現在の東急プラザ赤坂に昔、カルティエの代理店があったんですね。
 で、ある日、どこかの出版社のトッぽい社員が、よせばいいのにカルティエのライターを買おうとして、その店に行ったんですよ。で、当時発売したばっかりのカルティエの五角形のライターを買ったわけですね。邦貨70,000円。

 そのバカはもう有頂天で、当然、そのころよく行っていた赤坂のカジノ・バーなんかにも行ったんだろうなあ。

 んで、当然、その日は深夜まで酒を呑んでタクシーで帰ったと思いねえ。

 家へ帰って、そのまま寝ちゃって、で、次の日の朝ですよ。

 え? あれっ? そんな? 昨日買ったはずのカルティエのライターがないじゃんかよ!

 本当にバカですね。買ったばっかりのライターを面白がって早速使って、結果として深夜タクシーに置き忘れてきてしまったんですね。そんなことが数回ありました。結局、最後に買ったのがジッポの真鍮製ライター(¥10,000-)で、これは今でも持っている。まあ、タバコはやめちゃったんで、使ってはいませんがね。

 で、その軍艦パジャマの前を通り過ぎて外堀通りを溜池方面へ進むと、軍艦パジャマの並びにオフィス用品のプラスのショウルームがあって、その隣に一部ご同業の「椅子のオカムラ」のショウルームがあるってところはいかにも土地柄なんだが、ところがそのショウルームの一番外側の、道路からも目につく場所に展示してあるのが、椅子じゃなくて自動車なんですね。

 なんで「椅子のオカムラ」がクルマなんだ?

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 実はオカムラは戦後の一時期クルマ製造していたメーカーだったらしい。

『岡村製作所は1945年(昭和20年)に旧日本飛行機の航空機製造の技術者らによって創業された。当初はオフィス家具を手がけたが、1950年(昭和25年)に日本初のトルクコンバータの開発に成功。さらに、このトルクコンバータを搭載した自動車の開発を目指すことになる。
 自動車の開発にあたって、岡村製作所ではシトロエン2CVを購入して研究した。
 2CVの手法を取り入れ、当時日本では珍しかった前輪駆動方式と空冷水平対向2気筒エンジンを採用してスペース効率を追求、前輪に動力を伝達するトランスアクスルは当時一般的なマニュアルトランスミッションに代えて自社製トルクコンバータによる自動変速式とした。もっとも完成したモデルの外見から2CVの影響がうかがえるのは、ボルト3本で組みつけられるディスク式ホイールぐらいである。またサスペンションの設計も、2CVの独特な「前後連関懸架」は採用せず、前後とも手堅く重ね板ばね(リーフスプリング)を用い、前輪のみ独立式とした。
 1957年(昭和32年)5月に日比谷公園で開催された第4回全日本自動車ショウにおいて、ミカサ・サービスカー・マーク I及びミカサ・スポーツの2台を出展。
 ミカサ・サービスカー・マーク Iは同年から販売され、ミカサ・スポーツはミカサ・ツーリングと名を変えて1958年(昭和33年)から販売された。また、後にミカサ・サービスカー・マーク IIも発売された。ミカサの製造にあたっては、ボディには航空機の薄板加工技術が、シート及び内装には家具製造の技術が用いられ、生産はすべて岡村製作所の社内で行われた。』(Wikipedia)

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『しかし、メインバンクが共通する本田技研工業が既に二輪車事業を軌道に乗せており、メインバンクが岡村製作所にオフィス家具への専念を勧めたこともあり、1960年(昭和35年)に生産が中止された。総生産台数は、サービスカーが500台余り、ツーリングが10台程度とされる。』ということで、その後、オカムラは自動車の製造は行っていないのだが、ある意味ではオカムラの起業の原点の一つであるので、ショウルームの店頭に展示しているのだろう。

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 いろいろな起業の形ってのがあるんですね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Akasaka ©tsunoken

 

2019年11月 2日 (土)

八街の”ぼっち”は無事だった

 先日の大雨で八街市も水害にあったというのを聞いていて、しかし、北総台地に属する八街辺りがなんで水害に会うんだ、と思いながら、ところで落花生の”ぼっち”はどうなっているんだろうと気になったので見に行ってきた。

 本来は台地上に出来た町なので低地のような水田が出来ない。なので、落花生なんだと思っていたら”水害”って何のことだろう、というのが疑問だったのだ。

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 前回、八街に来た時は京葉道路から東関東自動車道に入って、冨里インターチェンジから八街を目指したんだが、今回は出口を間違えて、穴川インターチェンジで高速を降りてしまったので、国道51号線から八街まで行くことにした。

 実はこれが良かったんですね。

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 前回は八街市のランドロームフードマーケットを目指して行ったら、周囲にはあまり”ぼっち”がなくてがっかりしたんだけれども、実は国道51号線からのルートで行ったら、国道51号線を外れて八街市に入った途端、下のような風景が見えてきたんですね。

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 あっちを見ても”ぼっち”、こっちを見ても”ぼっち”、どっちを見ても”ぼっち”という具合に”ぼっち”が、ぼっち、ぼっち見えてきたのであります。

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 いやあ、前回行った場所がまずかったんで、ちゃんと行けばあるんですね。

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 もう水害のことなんか忘れて”ぼっち”見物です。

 なんだ、ちゃんとあるじゃないか。

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 いやあ、さすがに「落花生の郷やちまた」ですなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 28mm f2.8 @Yachimata ©tsunoken

2019年11月 1日 (金)

四谷しんみち通り、再び

 四谷駅前「しんみち通り」については、以前にも書いたことがある。

 昔、番町に日本テレビ放送網があったことの話である。

 というか、そこの報道局の話である、っていうかその報道局のアルバイトの話である。

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 元々はテレビ局も報道局は新聞社の流れであるから、新聞社にある「坊やさん」という学生アルバイトという存在があった。

 私は、日本テレビの報道局に2年ほど在籍していたことがある。前半1年は報道部、後半1年は編集部である。

 報道部のバイトっていうのは、まさしく昔の新聞社の社会部あたりの「坊やさん」で、基本は記者たちの下働きで、コピー取りやらなんやらの雑用にプラスして、ニュースや報道番組のアシスタント・ディレクターという名前の、やっぱり下働き。

 報道局には報道部の他に外報部と編集部っていうのがあった。まあ、外報部は普通の外報部で、通信社の記事とか海外駐在の記者との対等部署。

 編集部っていうのが、多分、今では若いひとたちには分からないだろうなあ。

 要は、その頃のテレビ・ニュースやドキュメンタリーっていうのは、基本16mmリバーサル・フィルムで撮影していて、ニュースはベル&ハウエル・フィルモ16とかアリフレックス16がサイレント、同録はオーリコンで取材していた。キャノンのスクーピックやサウンド・スクーピックが出始めの時期だった。

 で、記者が取材してきた生フィルムを、ニュースまでの時間を見ながら「あー、あと何分で本番だ!」なん考えながら切っていくのが編集者で、それをひたすら繋いでいくっていうのが編集部のアルバイトっていうか「坊や」の仕事。

 もう一つ言うと、その編集したフィルムを、報道局がある3階から、ニューススタジオがある1階まで、階段でもって駆け下りて、ニューススタジオのサブにあるテレシネ機に書けるのも編集助手の仕事だった。これはエレベーターは使用厳禁「とにかく階段で」って結構危険なんだけれども、エレベーターは途中で止まっちゃう可能性もあるので、とにかく「階段使用」。

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 私が編集部に行ったのは、既に報道部で1年経験があるので「もう分かっているだろう」なんてもんで、記者が撮ってきた「季節ネタ」「ヒマネタ」なんかは、編集者がやるのも面倒くさいってなもんで、「おう、お前、この原稿を読んで自分で編集してみろよ」なんて言われて、欣喜雀躍して編集してみたら、完全に全然違う映像に編集されて放送されてしまったなんてこともあったなあ。

 まあ、勿論、編集者の方は親切なので、どこがどういけなかったのかは教えてくれましたがね。

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 編集部でも多少は経験を積むと、日テレの編集スタジオばかりじゃなくて、日テレ以外の外部のスタジオに行ってドキュメンタリー番組(当時は「ドキュメント24」という番組が「日テレの良心」なんて感じで存在していた)の編集や音入れなんかに付き合ったりするようになる。まあ、そうなると完全徹夜っていう話になります。

 それから先の話もあるんだが、それはいずれまた……。

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 で、まあそんな日テレ生活を送っていると、当然、毎日家に帰るのは「今日の出来事」の放送が終わって、反省会という名前の飲み会が報道局のフロアであってのち、だからまあ早くて午前1時頃でしょうか。まあ、ドキュメンタリーの編集が入ってしまうと、そうはいかないですがね。

 勿論、そこで帰ればタクシー・チケットでもって帰れるんだけれども、なかなか、バイト同士でもすぐには帰れないんですね。

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 で、よく行っていたのが、四谷しんみち通りの四ツ谷駅から四谷三丁目方面の出口そばにあった「酔族館」っていう、いかにもなんて名前の深夜スナックでした。いまや、その残滓すらありません。

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 タクシーで帰れば夜のうちに家に着くんだけれども、結局、酔族館でもって始発電車まで飲んでいるので、帰りは「立っていながら、膝カックン状態」で寝ながら帰るのでした。

 まあ。今や四谷には日テレはないし、たいした思い出はないね。

 もうひとつ、斯波重治氏と浅利なおことオムニバスプロモーションの話は、またいずれ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Yotsuya ©tsunoken

 

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