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2019年9月

2019年9月30日 (月)

『栄光へのノーサイド』

「ふぅーん、こういう日系オーストラリア人がいたんだ」

 という感慨を持つと同時に、戦前の一時期、日本でもブラジルや中南米などに移住(移民)す日本人が多かったこともああったので、オーストラリアに移民をし、現地でイギリス系の女性と結婚し、ハーフの子どもが生まれてもおかしくはない。

 物語はそんな実在の人物、ウィンストン・フィリップ・ジェームス・イデ、通称ブロウ・イデという人物の物語なのである。どこまでが実話で、どこからが創作なのかは分からない。しかし、それは問題ではない。「小説」として「架空の物」として書かれたものから、何か真実を見つけるのも小説を読む愉しみではあるし、そこから見つけられないものを、他の資料を当たって、その物語に秘められた更なる真実を求めるっていうのも、もうひとつの小説を読む愉しみではあるし、もしかするとそれが本当の真実に行きあたる道かも知れないのだ。

Photo_20190728114301 『栄光へのノーサイド』(増田久雄著/河出書房新社/2019年7月20日刊)

 日本人の父親とオーストラリア人の女性との間に生まれたブロウ・イデは、当然、オーストラリア人としての義務を果たすべく、オーストラリア軍に志願し、現在のマレーシアのクチンに捕虜として収容されている。その捕虜収容所に新たに所長として就任してきた大石大尉が、もともと日本のラガーマンだったっていうところから、物語の後半が始まって、前半に敷かれた謎が解けてくるっていう構造の小説であるのだが、まあ、それは私にとっては関係ない。気になるのは、ただひとつ、大石大尉とブロウのセリフなのだ。

『「ところで、確か、オーストラリアでは、ラグビーの試合終了時のことを『フルタイム』と言うそうだね?』
「ええ、時間切れ、まさに試合終了だからです」
「日本では、そう言わないのですか?」
「日本ではね、試合終了を告げる時に、『ノーサイド』と言うんだよ」
「ノーサイド?」
「試合が終われば、敵も味方もない。サイドが無くなってひとつになる――そういう意味が込められたゲームセットなんだ。私はこの言葉が好きでね」
 ブロウの脳裡にあの日の光景が蘇ってきた。
 イチジクの樹の上で八歳の春、――審判のホイッスルが鳴り、試合の終わりが告げられると、それまで激しく闘っていた敵味方が抱き合いながら健闘を讃え合いあっていた。そこには敵と味方の垣根が見事に無くなっていた。
「ノーサイド……」
ブロウは呟いた。』

 これはなんとなく、ラグビーをよく知らない私たちにも納得がいく説明ではある。まあ、「試合が終わってしまえば、敵と味方っていう分け隔てはないんだ」っていう、日本の武士道的な考え方だ。

 それはそれで理解できるんだけれども、同じような文章を他の小説で発見してしまっては、ちょっと解釈が変わってくるんだなあ。

『「高貴か……。ノーサイドって言葉、あるよな」
 君嶋は持っていたペンをおくと、静かに椅子の背にもたれた「アストロズのゼネラルマネージャーになったとき、調べてみたんだよ。すると、英語圏のラグビー用語としては見つからなかった。〝ワンフォーオール、オールフォーワン〟もだ」
 どちらも、ラグビー精神を礼賛する言葉として多用されるものだ。「結局、ふたつともいわば〝和製ラグビー英語〟なんだな。だけど、それがしっくりくるのは、日本人なら誰でも知っている武士道の精神や潔さといった美意識との相性がいいからじゃないか」
 君嶋がそれを調べたのは、島本から呼び出され、散々ラグビーのもつ高貴なスポーツ性を説かれたからだ。
 アストロズの後ろ盾として島本は欠かせない存在だが、島本が口にした「だからラグビーは素晴らしんだ」という言葉は、みんな嘘っぱちだ。
 人の好い日本人だけが信じている迷信である。』(『ノーサイド・ゲーム』池井戸潤著)

 しかし、そんな「試合が終わってしまえば勝ち負けはない」といういわゆる「武士道の精神」というのは、実は単なる「勝ったほうの論理」であるしかないのかもしれない

 要は「勝った方」が「負けた方」に対して「負けたからって恨まないでね。これで貴方と私の対決は終わりだからね」というサインなんですね。当然、負けた方は勝った方に、「再度戦って勝つまでは自分は負け」っていう意識があるんだから、この戦いはどちらかの「家」そのものが滅びるまでは終わらない戦いになるのである。

 試合である以上、それは「たかだか」ラグビーの試合であっても、国と国(本当はそうじゃなくて「ある国の政権と別の国の政権」)の戦い(要は戦争ですね)であっても、勝った方はそれでおしまいって論理はあるけれども、負けた方は、結局「臥薪嘗胆」を経ていずれは以前の戦勝相手に対して戦いを挑むのは必然なのである。結局、家と家の戦いであっても、国と国の戦いであっても、結局、どちらかの国が亡びるまでは戦いは続くっていうことなんですね。それが、戦争だ。

 ブロウ・イデという人がいたのは事実なんだろう。

 捕虜収容所に新任した大石大尉の存在も、多分、事実なんだろう。

 で、その二人が捕虜収容所で出会ったということは、別にフィクションであっても、ノン・フィクションであっても関係ない。

 ただし、問題はそれらの問題を、単に「ノーサイド」っていう言葉だけで済ましてしまっていいのかってことなんですね。

 それでは、問題は何にも解決しないと思うんだけれどもな。

……って、「問題」って何なんだ?

『栄光へのノーサイド』(増田久雄著/河出書房新社/2019年7月20日刊)Kindle版は出ていません。う~ん、河出書房新社って、何で未だに電子化ってことに後ろ向きなんだろう。そんなことやっているとツブレちゃうよ。

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 あっ、これはアメフト写真です。ラグビー写真ではありません。

2019年9月29日 (日)

ひとりぼっちで”ぼっち”ロケハン

「ひとりぼっちで”ぼっち”ロケハン」なんて、それこそ独りごちたところで、何を言っているのかわかりませんね。

 問題は”ぼっち”って何なのか? ってことなんだけれども……。

『ぼっちは、収穫した落花生を乾燥させるために作られる、円筒状の塊。ボッチ、ボッチ積み、豆ぼっち、落花ぼっち、落花生ぼっちとも称する。落花生は千葉県を代表する作物であり、秋の収穫期には畑に多くのぼっちが並び、特徴的な農業景観を作り上げる。
 ぼっちという言葉は千葉県における呼称・俗称であり、共通語では野積みと言う。ぼっちを使った乾燥は、産地での長い栽培経験から生み出された日本独自のものである。』というのがWikipediaの解説。

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 実はカミさんの叔母が千葉県の船橋市に住んでいて、いろいろ千葉県を歩きながら絵を描いている人なんだけれども、その人から「八街のぼっち」の話を聞き、興味を持ったのが話のはじまり。

 だいたい千葉県の八街では10月の半ばから後半にかけて落花生の収穫があって、収穫した落花生を乾燥させるために”ぼっち”というものを作るらしいっていう話を聞いたんだが、そもそもなんで落花生の野積みが”ぼっち”なのかが分からないし、”ぼっち”そのものも見たことはない。

 ということで、10月には”ぼっち”を撮影に来ようと考え、その下見に千葉県の八街まで行ってみたっていうわけ。JR総武線の八街駅前には大きな落花生のモニュメントがあって、いやでも期待が膨らみます。そういえば、先日千葉県を襲った台風15号も八街辺りはさほど被害はなかったようで、ひと安心。

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 取り敢えず情報をいただいたので、大きな駐車場があるランドロームフードマーケットに車を停めて、周辺の落花生畑を予備取材というふうに決めたんだけれども……

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 悲しいかな、落花生というかピーナッツというか、食べ物のほうは知っているんだが、地下に落花生の実をつけているはずの地上部分がどうなっているのかが、全く分からない。まったく物事を知らない都会の人間はどうしようもないですね。

 上の写真のようなニンジンみたいな株なのか……、下の写真のようなそれなりになんか地下に実をつけているような感じの株なのか……、どっちなのかが不勉強で分からないままで予備取材にくる間抜けさというかなんというか……。

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 しょうがないので、上記のフードマーケットで落花生のお土産を買って帰って来たっていうわけ。

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 と、思ったら帰路、佐倉インターチェンジのそばで”ぼっち”発見!

 これが千葉県名物”ぼっち”なんですよ、”野積み”なんですよ。

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 去年の落花生の”ぼっち”であるはずはないので、多分、台風の襲来に備えて、早めに落花生を収穫したのかもしれない。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Yachimata ©tsunoken

2019年9月28日 (土)

「牛込柳町」界隈を歩く

「牛込柳町」という地名は正式にはない。しかし、現在の市谷柳町交差点界隈が昔は牛込区だったという関係から、現在の市谷柳町交差点界隈を、以前は牛込柳町と呼んでいた。

 市谷柳町交差点は外苑東通りと大久保通りの交差点であり、早稲田方面から四谷三丁目方面へ抜けるクルマと、飯田橋・神楽坂あたりから新宿方面へ抜けるクルマでひしめき合って、なおかつ両方とも2車線の狭い通りであることなどから、東京の高度成長期には「光化学スモッグ」などの汚染で有名な交差点であった。

 最近になってやって外苑東通りの拡幅工事の完成が見えてきて、一体、何年かかったらできるんだって言いたいけれども、まあ、一度出来上がってしまった都市の再開発っていうのが如何に難しいものかという見本みたいなものだ。

 外苑東通りを防衛庁方面へ行くと右側に市谷薬王寺町というのがあって、そこにアニメ『逮捕しちゃうぞ』シリーズの音響制作会社があって、なんか、そこで毎週徹夜をしていた記憶があるなあ。

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 その市谷柳町交差点のすぐ裏にあるのが「試衛館」跡であります。

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 試衛館ってなんだ?

 試衛館は新選組で有名な近藤勇の天然理心流剣術の道場である。
『天保10年(1839)、近藤勇の養父である天然理心流3代目近藤周助(?-1867)が創設した。
 文久元年(1861)、4代目を勇(1834-1868)が継ぐが、勇の上洛により、佐藤彦五郎(1827-1902)と幕臣寺尾安次郎が留守を預かり、慶応3年(1867)まで存続した。
この道場には、既にのちの新選組の中核をなすメンバーが顔を連ねており、門弟として土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一(『浪士文久報国記事』による。但し、斎藤については不明な点がある)等がいたとされる。』というのがWikipediaの解説。

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 近藤勇の道場もそうだけれども……

 ここ大妻女子大学の加賀町寮は……

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 あの柳田国男の家だったんですね。

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 このあたりは市谷加賀町といって、加賀前田藩の奥方の屋敷があった場所であることからその名がついた、昔からのお屋敷町だったんですね。

 でその市谷加賀町には、あの有名なタレントの家があるんだけれども。世間一般的にはこの家は「神楽坂の屋敷」ということになっているらしい。

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「市谷加賀町」よりは「神楽坂」の方が町としては世間的には名前が売れているんで、そういう言い方をしているんだろうが、しかし、どう考えてもこの家が神楽坂にあるとは言えないよなあ。どう考えても市谷だし、なんでここが神楽坂なんだろう。

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 で、今や市谷は防衛庁と大日本印刷の街ですね。

 むかしは大日本印刷とか凸版印刷とかの大手印刷会社にとっては講談社だの小学館だのはおお得意様だったんだけれども、今や紙に印刷して製本するなんてまだるっこしい仕事は、こんな大印刷会社にとっては本業ではありません。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ichigaya Ynagicho & Ichigaya Kagacho ©tsunoken

2019年9月27日 (金)

横浜昼景

「おいおい、横浜だからってランドマークタワーかい」っていう風に笑われそうな写真ですね。

 いやあ、笑ってください。どうもこの日は前日までの疲れも残っていて、なんかあまり出歩きたくない気持ちだったんだけれども、「そんなものに負けてしまってはいけない」と勇気を振り絞って横浜まで行って、桜木町駅で最初に撮った写真がランドマークタワーだってってことなんです。

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 降り立った駅は京浜東北線桜木町駅。

 まあ、「横浜に行く」というと大体が桜木町か関内駅下車っていうのが定番で、横浜駅下車だと、どちらかというと横浜の「浜」じゃない旧東海道あたりから山手の方に行くということになる。

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 桜木町で降りていく先は野毛の飲食街。まあ、だいたいここが定番ですね。

 勿論、野毛は夜の飲食店街なので昼間に行ってもお店の大半はまだ閉まっています。

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 夜に営業する飲食店街に昼行って写真を撮ることに何か意味があるんだろうか? って言っても、別に意味も何もありません。

 まあ、夜に行っても写真は撮れないしね……、っていうか撮れるんだけれども、だからといってあまり意味はない。

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 その辺が大岡川を挟んだ反対側の伊勢佐木町とは違う町の貌だ。

 伊勢佐木町も繁華街、飲み屋街ではあるのだが、お店の規模は伊勢佐木町の方がだいぶ大きい店が多いのに比べて、野木は小さなお店、個人営業の店が多い。更に伊勢佐木町の飲み屋街は伊勢佐木町のショッピングモール(一番表の道)からは一歩引っ込んだ道にあって、ショッピングモールは名前の通りに「昼間のショッピング」のための道ではあるのだ。なので、野木は昼間はほとんど人通りのない街であるのに比べて、伊勢佐木町は昼間から沢山の人通りに溢れている街になっている。

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 おまけにお目当ての大貫カメラ店もお休みなんてね……。つまり、野木に行ったのは失敗だったってことですね。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Noge Yokohama ©tsunoken 

2019年9月26日 (木)

久々の「新宿の夜」

 講談社社友会作品展の後始末で結構クタクタになったんだけれども、お誘いに乗って夜の新宿に繰り出した。

 仕事を辞めてから既に7年過ぎて、夜の街からはかなり縁遠くなったんだけれども、久々のお誘いだったので勇躍赴いたってわけです。

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 なんのお誘いかというと、実は今から25年前の1994年9月24日っていうのが、OVAシリーズ『逮捕しちゃうぞ』第1巻の発売日という記念すべき日だったんであります。

 そうか、もう25年も経ったんだっていう感慨もあり、あの頃の関係者が今どうなっているんだ、ってな興味もあり、午後7時から代々木の日本共産党本部そばのイタリアンレストランが開催場所だったんだけれども、ひさびさの「夜の街」に心躍って、少し早めに新宿に出て、そこから代々木まで歩くことにした。

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 藤島康介氏の原作を元にした『逮捕しちゃうぞ』の映像作品はOVAシリーズが1994年から1995年にかけて4話、TVシリーズがTBSで1996年から1年間第1シリーズ、2001年4月から半年が第2シリーズ、2007年秋から2008年春までが第3シリーズ。劇場版が1999年4月24日東映系公開。実写テレビがテレビ朝日で2002年10月から12月。という具合に結構大当たりしたシリーズだったんだなあ、今から考えてみると。

 もしかすると同じ原作者の『ああっ 女神さまっ』よりは営業規模は大きかったのかもしれない。

 実写も含めてこんな長い間OVA及びTV化されたコミックって今はないですもんね。

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 私が直接かかわりあったのはOVAシリーズとTVシリーズの第1シリーズくらいで、以降は次第に離れて行って、周囲から見守る状況になっていった。OVAシリーズの古橋一浩監督、TV第1シリーズ前期のわたなべひろし監督とはいい関係で仕事が出来たのだが、TV第1シリーズの後期になって西村純一監督になってからは次第に離れて行って、現場のプロデューサーに任せるようになっていったのだった。

 まあ、OVAシリーズの「講談社×バンダイビジュアル(当時)×ビクター音産(当時)」という座組自体は講談社が提案したものだったので、そこはそれお互い心を知った同志の付き合いだったのでかなり楽しく作品作りが出来たっていうのがあったんだけれども、TBSという異分子が入ってきたために座組に変化が生じ、私としては段々疎遠にならざるを得ない状況になった(っていうより自分でそんな状況に追いやった?)ということなんだろうなあ。

 座組が変わったことでもってバンダイビジュアルとの付き合いは薄くなったが、ビクターやアニメの現場スタッフや声優を含む音響スタッフとの付き合いは、以前ほどではないが、薄々でもって繋がっていたってわけです。

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 ってことで、この夜代々木のイタリアンレストランに集合したメンバーは、原作者の藤島康介氏。元ビクター音産(現在はフライングドック社長)の佐々木史朗氏、今もアニメの音楽を作っています。元バンダイビジュアルでは松本健(通称:マツケン)、宮井ちゃん、菅野というメンバーなんだが、今は皆、バンダイ関係の会社じゃなくて他の会社に移ったり、自分で始めちゃったりというぐあいが如何にもバンダイビジュアル出身の多士済々というところだ。

 声優では勿論、辻本夏実役の玉川砂記子さん(「逮捕」当時は「紗紀子」)と小早川美幸役の平松晶子さん。

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 いやあ、平松さんの「昔のまんま年取ったんだけれども、髪なんか金髪になってしまって」年齢が分からない変化も凄いし、玉川さんの貫禄(いや、別に体形のことじゃなくて、雰囲気ね雰囲気)ぶりと相変わらずの優しい声には癒されます。

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 てな感じで、代々木の夜は更けていくのであった。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D Shinjuku ©tsunoken

2019年9月25日 (水)

社友会作品展は終わったんだが

 ちょっと疲れちゃったんで今日も講談社社友会作品展ネタで誤魔化します。

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 基本的に「講談社社友会」って講談社のOB会のこと。各社こんなOB会はあるらしいんだけれども、さすがに講談社っていうクリエイティブを商売にしている会社なので、仕事以外にも何か趣味でクリテイティブなことをやっている人が多いということなので、「じゃあ、作品展をやろうよ」っていう具合に、昔なったらしい。

 まあ、もともと講談社には書道部ってのがあって、その作品発表会がベースになっているんだろうと思うんですけれどもね。

 なので「作品」として提出できるものは何でもアリっていうわけで、書道とか絵画とか、私が出している写真とかなんでも出品してもいいし、講談社社友会の会員じゃなくても会員の知り合いなら誰でも出品できるっていう、かなりユルい展示会でもあるのだ。

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 なので、こんな「手作り百人一首」とか……

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 伊勢型紙とか……

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 レリーフなんてのもある。

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 もともと社友会の主旨っていうのが以下の通りなのだ。

『「社友会作品展」は、退職後、有意義な毎日を送りながら、自分の好きな趣味を持って、創作にいそしまれている社友の方々の発表の場として喜ばれています。
 会場には、絵画、写真、書、陶芸、手工芸、彫刻及び俳句や本など多彩な分野の作品が百数十点並びます。
 社友会では、作品展会場を社友の方々が現役社員や講談社関係者と「幅広く交流できる場」と考えています。
 毎年おいでになっている方も、また、おいでになったことのない皆さまも、この機会にぜひ一度ご来場ください。間違いなく楽しめると思います。出展者や接待係の幹事の皆さんと、定年後の消息を語り合ったり、昔の仕事の苦労話をしたり、懐かしい談話のひとときを過ごすこともできます。最近は同期や元の職場の仲間がこの会場で待ち合わせて、早めの“居酒屋”というケースも多いようです。』

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 ということなので、要は講談社のOB達が旧交を温める場、というのが作品展の本来の目的なんだが、講談社OBじゃなくても何らかの関係で講談社で仕事をしたことがある方、あるいは講談社の人と知り合いの方も出品できます。

 など来年は皆さま是非ともご参加を……。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Zoshigaya ©tsunoken

 

2019年9月24日 (火)

作品展三日目っていても、もう更新むりです

 昨日が講談社社友会作品展の最終日だったんだけれども、まあ、名古屋から初出展の人が駆け付けたぐらいで、それ以外はまあそんなに話題はない。

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 会員の一人がギター演奏をしったってもなあ、まあ、それだけです。

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 なので、今日は特にブログとしての新しいネタはないので。これで終了。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Zoshigaya ©tsunoken

2019年9月23日 (月)

作品展三日目:鬼子母神が大黒天の妻だったって話は知らなかったなあ

 浅草や下谷、目黒などの七福神は有名だが、池袋周辺の雑司が谷にも「雑司が谷七福神」というのがある。

『鬼子母神堂(大黒天)/大鳥神社(恵比寿)/清龍院(毘沙門天)/清土鬼子母神堂(吉祥天)/観静院(弁財天)/中野ビル(布袋尊)/仙行寺(福禄寿)』というのがその七福神だ。

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 雑司が谷の鬼子母神堂はその近所にある日蓮宗の威光山法明寺の飛び地境内にある。まあ、この鬼子母神堂は有名だから知っている人は多いだろうが。その鬼子母神が大黒天の妻だったってのは知っている人は少ないだろう。

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 鬼子母神堂の境内に雑司が谷七福神の一番、大黒天の紹介として「鬼子母神の夫でインドから伝来しました」とある。

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 鬼子母神というのは『夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将八大夜叉大将(パーンチカ、散支夜叉、半支迦薬叉王)の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母であったが、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていた。そのため多くの人間から恐れられていた。
 それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子のピンガラ(嬪伽羅、氷迦羅、畢哩孕迦)を乞食(こつじき)に用いる鉢に隠した。彼女は半狂乱となって世界中を7日間駆け抜け探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなる。
 そこで釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、そうすればすぐにピンガラに会えるだろう」と言った。彼女が承諾し、三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を戻した。
 そして五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教えた。かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となった。』(Wikipedia)というのが通説。

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 ってことは、大黒様は500人もの子供を鬼子母神に産ませた「精力絶倫男」だったということになるのだが、どうなんだろうか。産ませた方も生ませた方だけど、生んだ方も生んだ方ですよね。どうやって育てたんだろう。

 って、庶民感覚で疑問を呈しても意味はないんだなあ。だって「神様」の世界なんだからなあ。

 まあ、日蓮宗の解釈によれば大黒様の妻だったということらしいので、インドの古代仏教の解釈と、日本で成立した仏教である日蓮宗の解釈は異なるんだろう。しかし、私なんて3人の子供を育てたのだってヒイヒイ言いながらやっていたんだが、500人なんてどうやって育てたんだろう。

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 で、その鬼子母神堂の表参道には、あの手塚治虫氏が椎名町のトキワ荘を出て移り住んだ並木ハウスというのがあって、今でもそれは保存されている、というかアパートとして運営されているようなのだ。

 もう、売れっ子になった手塚氏が生活の場と仕事場として使っていて、各出版社の編集者が連日詰め込んでいた家である。

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 並木ハウスの守護神(?)です。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Zoshigaya ©tsunoken

 

2019年9月22日 (日)

作品展二日目 "Graffiti in Shibuya"

 講談社社友会作品展の私の出品作は写真の部で”GRAFFITI IN SHIBUYA"というタイトル。

 渋谷区というか、渋谷駅周辺の「落書き」を撮影した六枚組の組写真。珍しく「人が写っていない写真」なんですが、まあ、それには理由があるんですね。

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『“GRAFFITI”というのは、つまりは「落書き」のこと。
 ただし、単なる「落書き」ではなくて、芸術性の高いものや、社会風刺などのメッセージ性の高いものを特別に”GRAFFITI”と呼んだりしている。これが一番目立つ東京の街が渋谷である。

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ニューヨークではキース・ヘリングやジャン=ミシェル・バスキアなどがGraffiti Artistとして有名で、またバンクシーなどの社会性の高いものなどはオークションで高値を呼んだりしている。

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勿論、「落書き」は「器物損壊」という犯罪ではあるのだけれども、渋谷区などでは芸術性の高いものなどは保護しようという動きをしている。さすがに文化都市・渋谷……、と言いたいところだが、残念ながら、今、渋谷は大改造の真っ最中だ。

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 で、そんな改造された町には「落書き」ができないようなビルの壁を作ったりして、次第に「落書き」の数そのものや、「落書き」ができる壁が減っている。

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 そんな「落書き」のイメージを残しておこうと、渋谷の街に立った。

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「落書き」がアートなのかどうなのかは分からないが、せめて消えゆく「街の残滓」を残しておきたいという気持ちからだった。』

 というのは、正直言って単なる「能書き」。

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 まあ、要は「落書き」に関する「能書き」って言うだけなのか。

 アレ? 何か「語呂」が合っちゃったなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Zoshigaya / LEICA M6 VOIGHTLANDER COLOR SKOPAR 21mm f4 KODAK 400TX @Shibuya ©tsunoken

2019年9月21日 (土)

今日から講談社社友会作品展

告知です。

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講談社社友会 第28回(2019年)社友会作品展へのご案内
今年も社友会作品展の季節がやってまいりました。
★会期:令和元年9月21日(土)、22日(日)、23日(月・祝)
午前10時~午後5時(最終日は午後4時30分まで)
今回の「特別展」は
講談社の少女漫画を牽引してきた
『里中満智子・大和和紀「歴史漫画」の魅力』

です。
 少女漫画において、恋愛は最も大きなテーマのひとつですが、その原点を「万葉集」、「源氏物語」に、中学生のときから見出していたお二人の「若き慧眼」には、脱帽せざるをえません。
そんなお二人が描く美しき歴史絵巻に、浸ってみませんか。

Dsc_000342 Dsc_00104©里中満智子/講談社 

Dsc_00154 ©大和和紀/講談社

★会場:雑司が谷地域文化創館 地階        
 〒171-0032 東京都豊島区雑司が谷3-1-7  千登世橋教育文化センター 電話:03-3590-1253
東京メトロ副都心線雑司が谷駅下車 2番出口直結

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 私は渋谷の「落書き文化」を撮影した"GRAFFITI IN SHIBUYA"で出展。どんな写真かは明日のココロだぁ~。

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2019年9月20日 (金)

フジテレビ通りがコリアンタウン化している件について

 都営地下鉄新宿線の曙橋で降りるとすぐそばにあるのが「あけぼのばし通り」の入口だ。

 1997年にフジテレビがお台場に移る前まではこの通りは「フジテレビ通り」という通称で呼ばれていた。フジテレビのお台場移転の前の時期って、お台場カジノ構想だとか、それこそF1中継などでフジテレビが一番ブイブイ言わせていた時期で、F1もお台場に呼んじゃおうかってなことも真面目に考えられていた時期である。いやあ。まさしくバブルですなあ。

 勿論、ここフジテレビ通りももっと賑やかな商店街だった。

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 その後、お台場にはカジノもF1も来ないで、フジテレビの凋落ぶりも皆さんご存知の通りであります。なにせ、ライブドアで突如(と、受け止められた)登場したホリエモンに乗っ取られそうになっちゃうくらいだったもんなあ。

 この時期、つまりフジテレビが河田町からお台場に移る時期に、私はフジテレビとアニメの共同制作をやっていた。ただし、テレビアニメじゃなくてOVAだったってのは、何故?

「創竜伝」という田中芳樹の人気小説が原作のアニメ・シリーズだったんだけれども、アニメの方は原作ほどヒットせずに終わってしまった。まあ、私のせいではないことだけは確かである(これだけは、ハッキリさせたい)。

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 フジテレビが河田町を後にしてお台場に移った1997年という年は、日本はバブル崩壊の影響を引きずって経済は下降気味、アジア通貨危機や香港がイギリスから中国に返還されるなど、現在に続くいろいろなことがあった年ではあります。なにせ、アジア通貨危機で韓国なんて国家が倒産する寸前まで行っちゃったんだから。

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 フジテレビの跡地は現在、河田町コンフォガーデンというUR都市機構の賃貸高層マンションになっていて、どうもそこには新大久保からも近いということなんだろうか、韓国人の人たちがかなり多く住んでいるらしい。そんなこともあってか、「あけぼのばし通り」にもジワジワ韓国料理店やら韓国語の看板などが目立つようになってきた。

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 近所に東京韓国学校という、在日韓国人や日本に駐在する韓国人ビジネスマンの子弟が通う学校があるということも、韓国人が集まる理由の一つなんだろう。

 まあ、新大久保ほどには韓国人が目立つってこともないので、「嫌韓ヘイトデモ」なんてのがないのはいいことなんだけれどもね。まあ、町を歩いていても日本人と韓国人なんて見分けはつかないからね。

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 で、結局、存在感をますます高めているのは河田町から坂道を上がったところにある東京女子医科大学とその附属病院なのであります。

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 学校法人や医療法人は税金で優遇されているから、どんどん増殖するよなあ。

 しかし、EPSON R-D1sには、やっぱり12mmのレンズが一番スッキリするなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Kawadacho ©tsunoken

2019年9月19日 (木)

石神井公園は江戸商家の別荘だったっていう話

「隠居所」という呼び方がある。

 隠居というのは、家督を跡継ぎに譲って本人は役勤めから引退することで、そこで元々住んでいた本家からは出て、どこか田舎の方に家を建てて住む場所を作り、その家を隠居所という。

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 しかし、侍の隠居は自分の藩に戻って行うので、当然それは江戸ではなくてどこかの田舎でやる訳である。で、江戸の隠居っていうのは、基本的にそんな侍の隠居をまねて、大店の亭主などが自分は隠居して家督を息子に譲って、自分はそれこそ「根岸の里」などに隠居するっていうのがパターンなんですね。

 まあ、「根岸の里」に隠居するっていうのは、浅草蔵前の大店の亭主が台東根岸に隠居する、落語「茶の湯」のネタなんだけれども、別に隠居した亭主がケチをして油でこねた芋を茶の湯にそえて出したっていう「茶の湯」のネタとは関係なく、実はここ石神井公園あたりが、日本橋あたりの大店の亭主の隠居所だったという話がある。

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 勿論、石神井公園が出来たのは1933年のことなので、それまではこんな石神井池はなかったわけで、多分、江戸時代は石神井池とか石神井公園じゃなくて、石神井城があった三宝寺池のことなのかも知れない。あるいは、三宝寺池から流れ出ている石神井川の畔っていう場所だったとか?

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 日本橋から石神井までほぼ20km、徒歩で5時間くらいで着くので、まあ、一日歩けば到着するっていうことで、まあ、隠居所としては丁度よい距離だったのだろう。現在でいえば東京の大会社のオーナーが軽井沢辺りに別荘を作って、会社を自分の子供か部下に譲って引っ込んでしまおう、って感じなのかなあ。

 まあ、でも石神井が軽井沢みたいに東京に比べて涼しい町であったのかは、まずないでしょうけれ。まあ、江戸日本橋よりは「せせこましい」問題はなかったんでしょうね。それだけでも(気分的には)涼しくなるってもんです。

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 そんな感じなので、石神井池の周辺には「いかにも」という感じの大きな一戸建てが沢山並んでいる。う~ん、この大きな家々は昔の日本橋当たりの大店の御主人たちの隠居所であり別荘だったのかなあ。なあんて想像しながら池の畔を歩いていると趣きがある。

 ただし、最近はそんな一戸建ての跡地に、あまり大きくない集合住宅なんかも出来ていて、少しずつ代替わりが始まっているようだ。

 石神井公園駅の周辺にはタワーマンションなんかも見つけられるんだが、ここ石神井池周辺ではそんな高い建物は許可にならないようで、小ぶりなマンションが多いのが、あまり周囲の雰囲気を壊さないでいい。

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 本当は石神井池は「魚釣り禁止」なんだけれどもね。

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NIKON Df AF NIKKOR 28mm f2.8 @Shakujii Park ©tsunoken

2019年9月18日 (水)

神戸の地形・考

 9月の15日は大阪でアメフトの試合を観戦し、その日に神戸へ移動。ポートアイランドホテルに宿泊した。

 前日は神戸に着いたのは夜だったので、よくわからなかったのだが、翌日朝、起きて窓から見える景色は、さすがにちょっと異常だった。

「そうか、神戸っていうのは本来の街っていうのは、瀬戸内海に面したほんの少しの平地の後ろはすぐそばまで六甲山系の山々が迫っている町で、それこそ埋立地でもって町域を拡げなければならなかったという歴史を持った街なのだ。」

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 上のグーグルマップを見てもらえばわかる通り、東側の六甲アイランド、西側のポートアイランドと神戸空港の神戸市における存在感の大きさというものが良く分かる。

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 歴史的にはポートアイランドが一番古く、1966年に第1期、1987年に第2期工事が終わってポートアイランドは現在の形になった。

 六甲アイランドは1972年に着工し、1992年に竣工。

 神戸空港は2006年の開業だ。

 ポートアイランド、六甲アイランドともに今後の拡張計画はあるようだが、現在の形からの拡張工事はかなり滞っているようで、まあ、町の発展もかなりの速度低下になっているようだ。

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 神戸といえば、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の記憶が24年経った今でも記憶に新しい。

『近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区、灘区、中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)、兵庫区、長田区、須磨区の被害は甚大で、当時東洋最大の港であった近代都市での災害として、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6,434人に達し、第二次世界大戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模である。』(Wikipedia)

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 とくに埋立地特有の液状化現象はポートアイランドでかなり大きな被害を与えたのだが、現在ではその記憶もあいまいになってしまうような発展ぶりを見せている。

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 まあ、その辺の問題は東京でもお台場周辺の埋立地でも同様な問題を抱えているし、なんか「埋立地」って言うものに対する我々の考え方ってものを、もう一度問い直す必要はあるのではないだろうか。

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 なあんて、たまたま神戸に立ち寄っただけの旅人が考えても意味はないか。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1.8 G @Kobe ©tsunoken

2019年9月17日 (火)

Photograph in Ginza by 21mm なんだけれども

 これまでサラリーマン時代から使っていたファイロファックスがかなりボロッちくなったので、買い替えるために銀座の伊東屋まで行った。なんか以前に比べると、ファイロファックスのバインダーも豪華になったというか、ちょっと余計なモノばかりがついてしまっているなあ、なんてことを考えながら、まあ、いろいろ試して新しいものを買ってきた。

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 それはいいのだけれども、ちょっとここ数日間はEPSON R-D1sにVOIGHTLANDER COLOR-SKOPAER 21mm f4 をつけて撮影をしているんだが、どうなんだろうという結論をそろそろ出さなければいけない時期になってきているような気がする。普段はURTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6でもって撮影していることが多いのだ。

 以前、ライカM6にVOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4で撮影した時に、「えっ? このレンズ結構いけるじゃん」て感想を持ったので、その後もこのレンズをずっと持っていて、最近、EPSON R-D1sでもたまに使っているってなわけなんだけれども……。

 う~ん、なんかイマイチなんだよな……。

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 APS-CサイズのCCDセンサーを持つEPSON R-D1sでは21mmレンズっていうのは、35mmフルサイズへの換算で32mmになる。

 普通の35mmカメラの感覚では標準レンズが50mm、広角が35mm、超広角が28mmという分類が以前は言われていたんだけれども、なんかレンジファインダー・カメラの世界ではもっと広角系にレンジが振れているようだ。つまり、標準は35mm、広角が28mm、超広角が21mm以下、という具合にね。つまり、APS-Cサイズのセンサーを持っているカメラで21mmっていうのは35mmフルサイズ換算で32mmになってしまうので、実はそれは最早標準レンズの範疇になってしまうんだなあ。

 そうか、それがEPSON R-D1sに21mmレンズを装着して撮影した写真になんとなく「中途半端」なレンズだなあって思っていた理由だったのだ。

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 35mmフルサイズの(って、当たり前)ライカM6に21mmレンズをつけて撮影していた頃は、いやあなかなか「21mmレンズってのは、スゴいっ! 面白い!」なんてことを考えていたんだけれども、APS-Cサイズの撮像素子になってしまうと、なんかシマリのない「普通の写真」になっちゃうんですね。

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 これで分かった。これからはAPS-CサイズのEPSON R-D1sではVOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6を基本に撮影していこう。VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 はもうちょっと「普通っぽい」写真を撮るために使うレンズだ。

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 ってことは何だろう、要はライカのフルサイズ・デジタルカメラをいよいよ購入する段階に来たのか? ってことなんですかね。

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 アナログライカはそこそこ値段がこなれてきているモノもかなりあるんだけれども、デジタルライカはまだまだ中古カメラ自体の出回り数も少ないし、デジタルの場合、アナログほどには「旧いものが良い」っていう感じではなくなっている。問題は「デジタルカメラである」っていうこと。要は、リニューアルのためのサポート体制がどこまであるんだろうか、っていうのが一番多いんだろう。アナログライカであれば、基本は光学と機械工学なんで、それら中古カメラを修理してくれる工房はいくらでもあるんだが、デジタルになってしまうと、カメラとしての機械部分はなんとかなるのだろうけれども、根幹の撮像素子などになってしまうと、街の修理屋さんではどうにもお手上げになってしまうことだ。ライカがどこまでそれを本気で『永久保証』するのか、できるのかっていうことなんですね。

 SEIKO EPSONもすでにR-D1sのサービスを辞めてしまったし、メーカー側のこうした体制の問題になってしまうんだなあ。

 ライカはそんな「半永久的な」サービスをやるつもりがあるんだろうか。それなら……、ってのもあるんだが。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Ginza & Yaesu ©tsunoken

 

2019年9月16日 (月)

学生街の喫茶店

「〽君とよくこの店に来たものさ」で始まる、フォークロックグループ・ガロの『学生街の喫茶店』なんだが、つい最近まで私はガロというのは、その頃はやっていた学生フォーク・グループの一種だと思っていた。ところが、そうではなく普通にプロ歌手を狙っていた人たちが、ビジネスで結びついて、なんとなく学生フォーク風のグループとして売り出していたんだな。

 まあ、確かに「作詞 山上行雄/作曲 すぎやまこういち」って言えば、まさしくプロの音楽家だもんなあ。

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 ところで、今、実際に学生街の喫茶店っていうものが残っているんだろうか? と気になって早稲田の町まで行ってきた。

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 しかし、そういえば「学生街」っていうのは、どんな街をいうのだろう。

 例えば、池袋には立教大学という歴史のある大学があるんだけれども、誰も池袋が学生街だっていう風には呼ばない。港区の三田も、慶應義塾大学があるけれども、三田を学生街とは言わない。一方、お茶の水は以前は明治大学、中央大学、日本大学などがあって名実ともに学生街だったし、中央大学が既にいなくなってしまっていても、やっぱり学生街ではある。

 まあ、「神田カルチェ・ラタン」は言い過ぎだったけれどもね。本当のカルチェ・ラタンはパリ大学ソルボンヌ校があるんであります。まあ、東大がお茶の水か神保町辺りにあれば、カルチェ・ラタンでもいいけどさ。

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 一方、早稲田は早稲田大学から程遠い高田馬場までをも含めて学生街のイメージは強い。

 高田馬場駅周辺はほとんど繁華街の風情で、どちらかというと早稲田以外の予備校生や各種学校の生徒や普通のサラリーマンの街である。別に早稲田大学がなくても街としては成立しているにもかかわらず、なんとなく「高田馬場は早稲田の街」というイメージがついてまわる。

 まあ、早稲田大学の存在感っていうものがあるんだろうなあ。

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 そんな「今や危うくなっている学生街に『学生街の喫茶店』が残っているのか?」と言えば……、当然そんなものは今はありません。「学生街の喫茶店」なんてものはとっくの昔にいわゆる(チェーン店の)「カフェ」にとって代わっているのだ。

 カフェで「〽片隅で聴いていたボブ・ディラン」なんてものも決してありません。

 こんな喫茶店も本当に少なくなってしまっている。まあ、それが時代の変化だって言ってしまえばその通り。それを惜しむように見るのも結構なんだけれども、残念ながら、惜しんだところで時代の趨勢っていうものに抗うことはできないのであります。

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 お茶の水も、駿河台下の三省堂の裏の一角だけになってしまったもんなあ。

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 この一角だけは時代が40年前のままで止まっています。

 いいのかそれで? まあ、いいんじゃないの。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Nishi Waseda & Jimbocho ©tsunoken

2019年9月15日 (日)

祭りは子ども神輿から始まる

 9月14・15日は駒込天祖神社の祭礼の日だ。

 駒込天祖神社の由緒は『文治5年(1189年)源頼朝の奥州征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられている。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648年-1652年)に堀丹後守年直(越後村松藩主堀直吉?)が再興する。江戸時代には駒込神明宮と称され、駒込村総鎮守とされた。空襲により残らず消失したが、氏子各町の熱意により1954年(昭和29年)に新築し現在に至っている。』というものであり、地元の人は「神明神社」と、今でも呼んでいる。

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 まあ、祭りの初日は午前中に子ども神輿と山車の各町会連合渡御があって、午後は同じく子供神輿と山車の町内渡御があるだけで、大人の神輿の渡御は行われない。

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 まあ、大人の場合は東京の祭りは山車はなくて神輿だけであるけれどもね。

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 で、町内の十三町会の山車と神輿を天祖神社境内のお囃子が出迎えてくれます。

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 神社の境内には既にお囃子部隊がいて神輿を迎え入れます。

 出店が既に出ていますが、取り敢えずはそれに目もくれなく神社を目指す子供神輿。

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 お祓いを行けた後は再び神酒所に戻って……

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 果物やお菓子を町内会の幹事さんたちからいただきます。

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 まあ、子どもたちの神輿担ぎの目的はこれなんだけれどもね。

 えっ? 大人だって、神輿担ぎの目的は、担いだ後の宴会だろうって? う~ん、まあ、そうだな。

 お祭りの二日目は、町内渡御ということで、大和郷周辺を午前中に練り歩きます。

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f2.8 D @Hon Komagome ©tsunoken

2019年9月14日 (土)

ランボー、砂漠を行く

 9月10日のブログで書いた鈴村和成氏の2冊の本が届いたので、取り敢えずポイントになりそうな場所だけ読んだ。

『そもそも現在の日本円に換算して百二十万円もの金をかけてアラビアのアデンに取り寄せたカメラ機材を、紅海のアデン湾をわたり、アフリカ東海岸、ソマリアのゼイラーからエチオピアのハラルまで三〇〇キロの砂漠の道を運んで、ようやく撮った写真というのが、セルフポートレイト三枚と、同僚のソティロのポートレイト、コーヒー商人、ハラルの家、ハラルの市場、馬に乗るアーメッド・ウァディ(これは本物かどうか、疑問視されている)と、総計八枚にすぎないとは、どういうことか?
 ランボーはなんのためにこれらの写真を撮ったのだろう? 写真の数がこんなに少ないのは、なぜだろう? ハラルのコーヒー園やバナナ園で自分自身にカメラを向けたランボーの真意は、どこにあったのか?
 これらの写真以外にも、ランボーが撮った写真が存在するのではないか? あるとして、どこにあるのか? それはどんな写真か?
 一八八三年、ハラルのランボー。――アフリカの八枚の写真をめぐる謎は尽きない。』(『ランボーとアフリカの8枚の写真』「発端――一八八三年、ハラルでランボーは八枚の写真を撮った」より)

24 『ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎』(鈴村和成著/岩波書店/2000年11月28日刊)、『ランボーとアフリカの8枚の写真』(宮村和成著/河出書房新社/2008年12月30日刊)

 冒頭の文章は、鈴村和成氏のメタフィクション作品『ランボーとアフリカの8枚の写真』の文章である。

 メタフィクションの形をとった「ランボーは何故アフリカに(当時としては大変高価な)カメラを持ち込んで、おまけに全部で8枚の写真しかのこさなかったのか」ということについての論考である。ということは、その論考の元になったテキストを語らねばならないだろう、ということで、このブログでは主に鈴村氏の先立つ本『ランボー、砂漠を行く』について語ることにする。

2_20190911155101©Arthur Rimbaud セルフ・ポートレイト《建物のテラスに立っているところ 1883年、ハラル》

『ここで興味深いのはハラルで書かれた二通目の手紙(一八八一年一月十五日付、家族宛)でランボーが、写真機を取り寄せて土地の景観を写真に撮る計画があるという報告をしていることである。』

 しかし、『アデンのランボーがいよいよ写真用具の荷物を携えて再度ハラルに出発するのは、一八八三年三月二十二日と推定されている。アデン発、二十日付の手紙に《あさってゼイラーに向けて発ちます》とあるからだが、ランボーの出発の予告は遅れることがしばしばあって当てにならない。家族宛にハラルからの第一信を書くのは五月六日付。この手紙は《四月三十日にハラルで三月二十六日付のお手紙を受け取りました》と書き出されている。ハラル着は四月中旬と見てよい。』

 まあ、1883年と言えば明治16年。その当時の時間感覚ってそんなもんだったんだろうか。

 いずれにせよ、1881年という時代は、ジョージ・イーストマンが乾式の写真板(乾板)を開発し、イギリスとアメリカでの特許を取得し、1880年に写真の事業を始め、1884年に写真の基材をガラスから乳剤を塗ったロール紙に換える特許を取得し、1888年にロールフィルム・カメラの特許を取得したという時代の流れとシンクロして、写真術というものが特殊な専門家の物ではなくて、一部の人たちが写真を手掛けられるようになった時代である。

 しかし、「土地の景観を写真に撮る」と言っておきながら、実は彼が撮影した写真は3枚のセルフポートレイトと、そのセルフポートレイトのシャッターを押した友人のコンスタンティン・ソティロのポートレイト、「コーヒーを売るハラルの商人」「ハラル、ガラ族の家」「ハラスの市場(マルカート)」「アーメッド・ウッディ」の8点のみなのだ。

 現在の写真撮影感覚と今から140年ほども前の写真撮影感覚っていうものは、現在我々が想像できるものとは全く違う世界なんだろう。

 ウジェーヌ・アジェが現代に続く「写真術」を確立したのが1900年頃のことだという風に考えれば、1880年代の写真というものは、まだまだ一般の人の物ではなくて、おまけに絵画からの脱出を如何にして行うかを模索していた時期なのかも知れない。そんな時代の、それもシロウト写真に我々が何を期待していたんだろうか。

 つまり、「36枚撮りのロールフィルムを何本も使って何百カットを撮影して、そこから撮影者の感覚にあった写真のみを提出する」とか「ほとんど無限に撮影ができるデジタルカメラで撮影して、そこから……」という現代の写真撮影術(そんなものがあるのか?)というものとは比較してはいけない。「イメージ=イマージュ」と現実の間にどんな相違があるのか、どんな一致があるのか……、いずれにせよ、写真術というものが発明されてからまだ半世紀しか過ぎていない時代だ。

『ランボーの手紙から浮かび上がってくるのは、やはりこの詩人がイマージュを排して、現実と直接取引する姿である。』

『ランボーは写真というイマージュについて触れながら、それをイマージュとして扱おうとしていない。写真はランボーにとって「イマージュのない宇宙」に到達する媒体だったのだ。』

『想像世界とも、写実世界とも違う、ただ「ある(いる)Il y a」とのみ名ざされる世界。それはカメラが映し出す客観世界に近いものだ。「即座の、瞬間のスナップ・ショット――『イリュミナシオン』の時間Immediat, Instantane, le temps des Illuminations」とギュィヨーは評する(『断片の詩学」)。「過ぎ去った時の写真」の構想をドライエに話した頃、ランボーは今度はヴェルレーヌに『無なるエチュード Etudes neantes』という作品集を纏める計画を洩らしたという。「少年時Ⅲ」の断章は「ある」世界を描きながら、それが「ない」に反転する瞬間を捉えていないだろうか? そしてそれは写真の特質に似通っていないか?』

 つまりそれは、言葉の天才アルチュール・ランボーは、セルフポートレイトを含む5枚のポートレイトと、3枚の風景写真でもって、写真の本質を(詩人として)理解してしまい、写真は彼がそれ以上追求するべきものではないということに気が付いてしまったのではないだろうか。

 何十カット、何百カットも撮影して、その中からチョイスすることで「いい写真が撮れた」なんて考えている、私たち、ランボーの何世代も後の凡才どもには、全く想像すらも出来ない「天才の感覚・理解・納得」というものが、実は、その8枚の写真にはあるのかもしれない。

  『ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎』(鈴村和成著/岩波書店/2000年11月28日刊)、『ランボーとアフリカの8枚の写真』(宮村和成著/河出書房新社/2008年12月30日刊)両方とも出版社は廃刊扱い、古書のみでの購入になります。

2019年9月13日 (金)

東長崎に行くならば

 西武池袋線の東長崎の駅前がだいぶ変わったというので見てきた。

 確かに、以前はいかにも地方ローカル線の駅という佇まいを見せていた東長崎の駅なんだけれども、お隣の江古田駅から普通電車が急行電車などに抜かれる駅が東長崎に変わったこともあって、以前に比べると駅としての格が上がったのかなあ。

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 でも、その代わり駅前にあったおいしいカレーパンを売っているパン屋さんなんかはなくなってしまったのは、ちょっと残念。

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 でも、まあもうすぐセイユーもオープンするので、地元の人たちにはもう少しは便利な駅になるのかもしれない。

 ただし、東長崎とか椎名町と言えばK談社のOBとしては必ず行かなくてはならない場所があるんです。

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 あの、少年少女漫画家たちの梁山泊とも言えた「トキワ壮(跡地)」です。日本のマンガの聖地です。講談社の発展の素です。

 土地は日本加除出版という会社の持ち物になっていて、その敷地の一部にトキワ壮のモニュメントと碑が置かれています。

 どうせなら、講談社辺りがその土地を購入して、トキワ壮を維持したり……、ってなことをやれば良かったのにね。関口芭蕉庵みたいにね。お金は捨てるほどあるんだから。

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 で、今その代わりを豊島区がやろうとしています。

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 トキワ壮から近いところに「豊島区南長崎花咲公園」っていうのがあって、以前からトキワ壮やそこに住んでいた漫画家たちのモニュメントがあった公園なんだけれども、その一部にトキワ壮を復元して「マンガの聖地 としまミュージアム」を作るという構想を豊島区が持っていて、今や実際にその具体的作業に入っているのだ。

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 もう、すでにトキワ壮を復元する場所の整地は終わっていて、工事開始は既に目前。木造モルタルなんで簡単にできちゃう(でもミュージアムは「木造モルタル風の鉄筋コンクリート造り」なんだろうな)ので来年には開業するらしい。

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 まあ、その開業式にはK談社の面々も顔を出すだろうし、また見に来よう。

EPSON R-D1s VOIGTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Mninami Nagasaki ©tsunoken

2019年9月12日 (木)

少し前の写真から

 暑い日が続くと東大構内の緑にはホッとする。

 いくつかある我が散歩コースのエポックであることは間違いない。

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 家から約4kmの東大本郷キャンパスがちょうどよい一休みのポイントとして存在するっていうのは、好都合だ。

 一休みするベンチもあるし、誰がいてもそれを気にしない雰囲気がとても居心地を良くさせてくれる。

 おまけにこの時期には学生はまだ夏休みであり、観光客だけが来ているからなおさらだ。

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 東大医学部付属病院の脇の門から外に出ると、そこは無縁坂である。さだまさしが歌に唄った「無縁坂」であるのだが、長崎人であるさだまさしが、何故、こんな東大の裏にある坂を唄ったのかはよく分からない。まあ、さだが國學院時代に何らかの経験があるんだろう。

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 無縁坂を下まで降りると上野池之端に出る。

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 さすがに池之端まで来ると東大構内とは大いに異なって、普通の町になるし、暑さもひとしおという感じになる。

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 それにしても、ここ池之端にはタワーマンションが多くて、まあ、池之端ビューを売り物にしているんだろうけれども、その分、東大病院の入院患者にとっては病院からの池之端ビューは損なわれるだろう。

 まあ、その辺は微妙な感じだろうな。

 ここから先がいろいろグジュグジュいうブログだと思った貴方。それはありません。まあこういう何もない日もあるんです。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Hongo & Ikenohata ©tsunoken

2019年9月11日 (水)

音羽物語 Part 3 江戸川橋

「音羽物語」の(多分)最後は江戸川橋です。文京区と新宿区の間を流れている川が江戸川、でそこを渡る橋なんで「江戸川橋」なんですね。

「えっ? 江戸川?」っていう人は多いはずです。まあ、普通は「江戸川」って言えば、葛飾区や江戸川区と千葉県を分かつ川が江戸川と呼ばれているんだが、実はあれは「江戸川放水路」っていう人口の川。まあ、こっちの川も言ってみれば人口の川なんだけれどもね。

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 こちらの「江戸川」は元々は神田川の一部の呼び名なんですね。

『 隅田川の支流。神田上水の余水を文京区関口台付近で受け、飯田橋付近で外堀の水を併せて神田川となる。 』(Weblio)

 ああそうか。両方とも人工河川っていうことなんだな。

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 東京都と千葉県の境の江戸川についての説明は以下の通り。

『関東地方を流れる利根川(とねがわ)の分流。一級河川。千葉県野田市北端で利根川の本流と分かれ、流山(ながれやま)、松戸の各市を通り、市川市で東京湾に注ぐ川。延長約60キロメートル、流域面積約200平方キロメートル。上流から茨城県、埼玉県、千葉県、東京都との境界をなしている。近世までは渡良瀬川(わたらせがわ)を上流とする太日川(ふとひがわ)(太井川(ふといがわ))として東京湾に注いでいたが、江戸幕府は江戸を水害から守るため、1654年(承応3)利根川と渡良瀬川の河道を変え、銚子(ちょうし)へ東流させてから、利根川分流の江戸川となった。また、かつては千葉県浦安(うらやす)市と東京都江戸川区の間を流れ東京湾に注ぐ流路を江戸川といったが、1919年(大正8)千葉県市川市に江戸川放水路を開削し、現河川法では、下流部は江戸川放水路が本流、もとの江戸川を旧江戸川とよんでいる。』(「日本大百科全書」(ニッポニカ))

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 で、この江戸川の周辺には元藤田男爵の屋敷があって、藤田男爵がもともとの創業者であった藤田観光の持ち物となって、そこが現在は椿山荘になっていたり、肥後細川藩の屋敷があってそこが庭園になっていたり、松尾芭蕉が神田上水の改修工事に携わった際に住んでいた住居跡が関口芭蕉庵となって、講談社・光文社・キングレコードらが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されていたりとか、まあ、大金持ちの皆さんが持っている土地が、関口台の上から江戸川までの急坂を持っています。

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 この関口台の上と江戸川の間の場所が、春になると桜の名所になるんですね。

「桜の名所」って言っちゃうと江戸川橋公園って言われるんだけれども、別に公園の中だけじゃなくても江戸川沿いの道なんかはすべて桜の道になっちゃいます。

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 桜の季節じゃないときは、散策のための程よい道になっている江戸川公園と江戸川沿い。

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 まあ、川沿いの道なので、それなりに四季を楽しめるし、なかなか風情のある散歩道ではあります。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Sekiguchi ©tsunoken

 

2019年9月10日 (火)

見つかった 何が 永遠が 海と溶け合う太陽が。

 Elle est retrouvée.
  Quoi ? - L'Éternité.
  C'est la mer allée
  Avec le soleil.

 って突然フランス語の詩で申し訳ない。

 邦訳はタイトルの通り。アルチュール・ランボーの詩(「地獄の季節」小林秀雄訳)であります。

 ですが、私にとってはジャン=リュック・ゴダールの映画『気狂いピエロ』のラストシーン、ジャン=ポール・ベルモンドが頭にダイナマイトを巻き付けて自爆するシーンに流れる「詩」なんですね。

 それがランボーの有名な詩であることを知ったのは映画を見た後だった。

Photo_20190909172501『地獄の季節』(ランボウ作/小林秀雄訳/岩波文庫/1935年8月5日刊)

 なんでそんなものに突然惹かれたのか? 実は、そのランボーが詩を捨ててアフリカに赴いた時、カメラを持って行ったという記事を田中長徳氏のnoteで読んだからなのだ。

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『フランス象徴派の詩人アルチュールランボーは、実は優れた写真家でもあると言うことがこの間ブックスキャンの古いファイルを見ていて気がついた。フランスを命からがら逃げ出してアビシニアに行ったアルチュールランボーは写真に興味を持って田舎の母親のところに預けてあったお金で、当時最新のシステムであったカメラと現像用品を送ってもらったのである。当時のお金で2000フランしたと言うからこれは大金であった。
 ランボーが写真を始めるのは 1883年のことであるから組み立て式カメラにガラスプレートを使ったものと思われる。ダゲレオタイプがその特許を公開してからすでに50年以上経過しているから、ダゲレオタイプは装置が大変だからそれを使ったとはちょっと考えられない。
 それでランボーは彼が勤務していたコーヒーの買い付けに関係のある場所を取ったり、マーケットを撮影したりしている。ところがすごいことに彼は自分で持っていた写真機で撮影した写真の数がたったの8枚なのである。これは凄い事ですね。その内訳はセルフポートレートが3枚で残りの5枚が人物とか風景とか言ったものらしい。』(chotoku note 9/7『写真家としてのアルチュールランボーはPhotoshopを知らなかったので教えてあげた。というお話』より)

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 私はランボーの詩集なんて『地獄の季節』しか持っていないし、上に掲げた詩だってゴダールの映画で初めて知ったというくらい散文的な男である。

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 ところが、上の chotoku note を読んだら、ランボーがアフリカに行ったという話と共に、鈴村和成という人の『ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎』という本のことが紹介されていた。

「ランボーが詩を捨ててアフリカで実業の世界で生きることを選んだ際に、カメラを持って行った」っていう意外な事実に興味を持ったことと同時に、その点に注目していた人物がいたっていうことに、更に興味が湧いて、上記の『ランボー、砂漠を行く』ともう一つ鈴村氏の本『ランボーとアフリカの8枚の写真』をAmazonで注文して、いまその到着を待っているという状況だからなのである。

 鈴村氏の2冊の本はいずれも絶版になっているようで、Amazonでも古本しか手に入らない。神田の三省堂に行ったのだが、やっぱり手には入らなかった。

 今はその2冊の到着を待っている状況の中で、若干、早漏気味にブログを書いちゃったっていうわけ。

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 しかし、『アデン・アラビア』を書いたポール・ニザンといい、フランス人ってなにかに絶望するとアフリカに行くのは何故だろうかと考えてみた。アフリカというと日本からはかなり遠いけれども、フランスからは地中海の向こうだ。まあ、昔の日本人が満州を目指したのと同じような理由なんだろうか。その辺も気になることではある。

 『地獄の季節』(ランボウ作/小林秀雄訳/岩波文庫/1935年8月5日刊/岩波文庫はKindle版もあります)

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Hon Komagome & Jimbocho ©tsunoken

2019年9月 9日 (月)

海軍無線電信所船橋送信所

 この国土交通省の航空写真って、やっぱりすごいよね、

 多少は東側(左側)がJR武蔵野線でもって削られているけれども、基本的に「真ん丸」っていう地形は普通の自然な地形ではありえないわけで、要は、人為的に作られた真円形なんですね。それが東京とほど近い船橋にあるんですね。左上側は中山競馬場です。

2_20190908154601©国土交通省

 まあ、今更言わなくても、こうした真円形の地形ではないけれども、米軍厚木基地の周辺にある通信基地なんかも同じで、要は通信品質を上げるためにアンテナがあった周辺を空き地にして電波を邪魔しないようにしたってことなんですね。まあ、厚木基地周辺はもうちょっとテクノリジーが進歩したんでこんな「真円」ではないですが。

 実は、今では通信基地の周辺でもそんなことは考えなくてもよくなって、おまけにこんな大きな「通信基地」を作る必要もなくなっている。

 でも、昔の遺構とも呼べる「真ん丸」が今でもあるんですね。

 今は船橋市行田公園となっていて、地域の住民に対して昔の遺構を残しているんだけれども……、まあ、今の人はそんなことを感じてはいないでしょうけれども。

「船橋無線塔記念碑」っていうのが、その公園にあります。

 上の写真、真円の上半分がマンションなど、下半分がUR賃貸である行田団地です。

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 碑文には……

『ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年に船橋海軍無線電信所が創設された。
 大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。
 広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。
 昭和16年の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。
 船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年5月解体され栄光の歴史を閉じた。』

 とある。

 高さ200mほどの高いアンテナがこの場所にそびえていたらしい。

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 つまりここは『海軍無線電信所船橋送信所』というのがもともとあった場所で、日米開戦の火ぶたを切った場所でもあるのだ。

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「県立行田公園」そのものは、まあ普通の公園です。

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 芝生広場があったり、ジョギングコースなんかもあって、戦争の残滓があるなんてことは誰も考えていないでしょう。

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 まあ、でもね、周囲をうろついていると、すぐそばにこんな「海軍」の標なんかもあったりして、実は結構剣呑な場所だったんですね。

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 行き方はJR総武線、東京メトロ東西線の西船橋か、京成西船で降りて、京成バス「行田団地行き」に乗って15分ほどで終点です。あっ、この辺りのバスは後ろ乗り、前降りなので気を付けて。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D ©tsunoken

2019年9月 8日 (日)

音羽物語 Part 2

 8月29日の「音羽物語」の続きということではないが、またまた、「音羽話」であります。

 まあ、以前、私が働いていた会社の近所なんで、今でもOB会みたいなもんでちょくちょく行くわけで、そんな感じで……、まあ、ご近所写真みたいなもんです。

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 前にも書いた通り、音羽町というのは小日向台と目白台に挟まれた谷底で、なおかつ江戸川橋のそばは湯屋の形式でやっていた岡場所があったところで、つまり湯女という名前の遊女が沢山いたところなのだ。

 この辺は、京極夏彦の小説を読むとよく出てくる話なんだけれども、両方の台地の上に住む独身の旗本や田舎武士が女の肌を求めて通ったんだろうなあ。

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 今宮神社はこの音羽の鎮守様で、元々は護国寺建立と同時に作られた神社なのであります。

『当社は元禄十年(一六九七)十月徳川五代将軍綱吉、犬公方の御生母桂昌院殿の発願により、護国寺御建立の時、同所に京都柴野今宮神社より御分霊を迎えて鎮座した。明治元年の神仏分離により明治六年七月音羽九丁目の現在地に遷座した。
 五社今宮とは、伊勢神宮・今宮神社・春日大社・岩清水八幡神社・熊野大社を示している。
 創祀以来三百年余青柳・音羽・桜木の鎮守神として崇敬され、明治十二年十二月にはコレラ伝染除の祭典が執行され、京都今宮神社同様病気平癒の御利益があったとのことである。狛犬は宝暦四年(一七五四)八丁堀の石工小右エ門作である。』というのが神社内に掲げられた説明板の文章。

 毎年9月のアタマが祭礼で、今年は8月21日、9月31日がお祭りでした。

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 で、一番上の写真の続きの写真が下の写真で、以前、スズキのバレーノのCMを撮影した「鷺坂」という場所です。この急坂でなおかつ狭いヘアピン・ターンを奇麗に回っていく姿にはちょっと驚いたが、よくまあこんなマイナーな場所を見つけたなぁっていう気分が先行して、最初はどこだかわからなかった。

 実は、こんな近所だったんですね。そういえば、最初にCMを見た時に何となく既視感っていうのはあった。

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 で、これが鷺坂から下を見たところ。

 ずーっとまっすぐに行くと、音羽通りを越えて、反対側の目白台へ上がっていく坂になります。

 写真家、田中長徳氏のご実家もこの辺だったらしいのだが、今ではどこにあるのかは分からない。

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 で、こちらが目白台へ上がっていく、旧目白坂。

 椿山荘まで上がっていくのは新目白坂も旧目白坂も同じなのだが、やっぱり情緒で言えば旧目白坂だなあ。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HEALIAR 12mm f5.6 @Otowa ©tsunoken

2019年9月 7日 (土)

「新宿写真」って、こんなもんじゃないよね? 森山先生

 現役を退いてからはすっかり盛り場とは縁遠くなってしまった。

 それはそうである。酒場で憂さを晴らさなければならないようなストレスはまったくないし……、って言っても私は現役時代からそんなストレスフルな人生は送っていなかったので、別にストレスが原因で酒を呑んでいたわけではなかったのであります。

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 じゃあ、なんでそんなに毎日盛り場で酒を呑んでいたのかって言えば……、やっぱり「酒が好きだった」ってことなんだろうなあ。

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「酒が好き」っていうことは何なんだろう。やっぱりそれは「酒を呑んで、酔った時の心もち、気持ちが嬉しかった」ってことなんだろうな。

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「憂さを晴らすための酒」っていうのは、実はあまり良い酒の飲み方ではない。というのは、「憂さを晴らした」と思っているのは、酒を呑んで酔っ払っている間だけのことなので、酒が覚めてくると、再びその「憂さ」に出くわすわけですね。

 それはあまり気分が良い酒の飲み方じゃないんだなあ。

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 この花園ゴールデン街に私は足繁く通ったわけではない。そういう実写系の映画屋さんとの付き合いがそんなにあったわけでもなく、ゴールデン街系のライターともあまり付き合いはなかった。まあ、アニメ系のライターなんかとの付き合いが多かったので、あまりゴールデン街には行かなかったなあ。

 やっぱりゴールデン街は「実写系の映画屋さんの街」なんですかねえ。確かに、実写の世界は「基本的に仕事は昼間」なんで、結構、夜はヒマってなもんで、で、呑み代が安いゴールデン街にいくのかなあ。アニメは逆に「夜のお仕事」なんで、実はあんまり酒を呑むことはないのだった。

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 それでもゴールデン街の雰囲気が好きだったせいもあって、そちらの方で「呑む」って話があれば、すぐにノッっていたわけですね。

 店の外で喧嘩をしている奴らなんかしょっちゅういたんだけれども、でも、なんで彼らが喧嘩をしているのか分からない、ってのが花園ゴールデン街の喧嘩なんですね。

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 まあ、「皆、バカですね」って結論なんだろうか?

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shinjuku ©tsunoken

2019年9月 6日 (金)

EPSON R-D1s のモニターが映らなくなってしまった件について

 基本モノクロ用に使っていたEPSON R-D1sの背面液晶モニター・ディスプレイが映らなくなってしまった。

 ちょっと困ったことだけれども、実はそんなに困ってはいない、というお話。

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 以前から、たまに映らなくなってしまったことがあったんだが、大体、一晩過ぎると元に戻っていたりして、特に問題はなかった。ところが、ここ数日の感じでは、完全に映らなくなってしまったのであります。ブラックアウトしたまんま。

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 ただし、一日撮影を終えて家に帰りSDカードをパソコンに挿入して再生するとちゃんと写っているので、撮像素子の問題ではなく、単純にモニター・ディスプレイだけの問題なのであることが分かった。

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 なら問題はない。ただし、モニターが映らなくなる前の撮影設定がモノクロのままであり、モニターで見ながら撮影設定をかえるというカメラなので、もうカラーで撮影するというような設定には戻せなくなってしまった。

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 セイコーエプソンはR-D1sのサービスを既に終了してしまったので、エプソンに持ち込んで修理してもらうわけにはいかない。さらに、アナログカメラではないので「どこでも修理店を探せる」という状況にはない。

 つまり、EPSON R-D1sは最早「モノクロ専用機」として寿命が果てるまで使うしかないということなのである。

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 写真家の田中長徳氏なんかはEPSON R-D1sを使う時は、もともと裏蓋(そこにモニターがある)をひっくり返して、モニターを見えなくして使っているらしい。ここは私もそういう使い方をしなければならないということになったわけだ。

 もともと、EPSON R-D1sのカラー撮影に関しては、あまり色が好みでないということもあって、基本的にほぼモノクロ専用機として使っていた。まあ、あとは『どうしてもシャッターボタンを押すと、モニターで「写っているかどうかを確認する」っていうデジタルカメラのクセ』を封印する必要があるというだけの、言ってみれば私個人の問題だけだ。

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 まあ、そういうのも基本的には撮影時のクセみたいなもんだし、もともと使い勝手はアナログ・ライクなカメラなので、それはそれでいい。

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 ということで、私のEPSON R-D1sは相変わらず、私のモノクロ専用機として使うことになったのであります。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shibuya ©tsunoken

2019年9月 5日 (木)

嫌韓だの、反日だの、バカバカしいことはやめようよ

 まあ、毎日テレビのワイドショーを見ると韓国の文在寅政権の反日姿勢だの、日本政府のそっけない扱いだののニュースばっかりで、なんか日本のテレビは皆「嫌韓」なのか? ってな具合だ。
 遂には小学館なんて大手出版社まで『「嫌韓」より「減韓」、「断韓」を考える』なんて嫌韓意識丸出しの特集を組んだりして、それを「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日系)が取り上げた際、コメンテーターとして出演していたジャーナリストの青木理氏が、「排外主義的な特集をするとそれなりに売れるというようなところにある種すがりついている」というような兆候が出版社の中にあると指摘した通り、まあ、今や『週刊ポスト』もそれなりに販売部数がジリ貧になっているんだな、という具合なんだが。

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 以前にも書いたことがあるんだが、国境を挟む国と国というものは基本的に仲が悪くて、フランスとドイツもいまだにアルザス・ロレーヌ地方の帰属については「取り敢えずフランス領とするという暫定的な決定」しか行っていない。現在は独仏双方とも穏健派が国を指導しているが、双方の国とも最近力をつけ始めている右派が領導する国家体制になったら、またまたこの国境問題は再燃するのだろう。

 EUとイギリスの関係、中国とチベットの関係、ドイツとポーランドの関係もそうだし、いずれにせよ国境を挟む国と国は、その政治体制とは全く関係なく「(政治的には)仲が悪い」のが基本なんだ。

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 これまでは韓国の政治体制も基本的に反北朝鮮で、その辺は日本と同じ歩調で「なんとなく」共同体制を組んできた。まあ、「竹島問題」なんてのはズッと以前からありましたけどね。

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 それが文在寅政権という親北朝鮮政権になったら途端に徴用工問題なんかを持ち出して、安倍晋三国粋政権と対立するもんだから、両国間がギクシャクしているのはやむを得ない。で、そこに竹島問題を持ち出す連中が働きかけて韓国が軍事演習をしたりね。もうワチャワチャでんがな、ってとこですかね。

 取り敢えず「竹島問題」に関しては、日本政府としては韓国が実効支配している現状は認めており、尖閣諸島問題みたいに海底資源が関係しているわけでもない「竹島」自体は、戦略的にはあまり問題視していないので、そこは韓国に勝手にやらせておけってところなんでしょうね。

 政治的にいろいろな対立があるのはやむを得ないとして、だからといって政治とは何の関係もない一般市民がそれに巻き込まれる必要はまったくないはずで、新大久保のコリアンタウンは休日でもないのに沢山の日本人が繰り出しているのはご同慶に堪えないというか、なんかホッとする光景ではある。

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 まあ、政治的対立は政治家同士に任せておいて、いずれその指導者が変わってしまえば、お互いの対立なんてなかったように雲散霧消してしまうにきまっているのだから、我ら一般市民は普通に隣国人とも付き合っていればいいのだ。アルザス・ロレーヌ地方だってフランス系住民とドイツ系住民の仲はまったく悪くはないのだ。

 文在寅政権にしても安倍政権にしても、そんな「対外危機を煽る」ことでしか国民の統合を図ろうっていう考え方でしかないのか? となれば、それはそれは残念なことである。

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 つまり、他国との対立を煽って国民の統合を図ろうっていうのは、実はあまり力のない政治家の常套手段なんですね。

 そんなものには惑わされずに、普通に生活していればいいのであります。我々、一般市民としては。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shin Okubo ©tsunoken

2019年9月 4日 (水)

赤塚を彷徨う

 東武東上線下赤塚駅南口を出る。

 下赤塚駅には南口と北口が当然あるんだけれども、池袋から行くと下り線側にある南口の方が、何となく正門っていう感じなので、だいたい南口の方を出ることになる。

 以前、会社の社友会という、つまりはOB会なんだけれども、それで赤塚城址なんかを見に行った時には、やはり南口を出るんだが、その後、踏切を渡って北口側に回り、赤塚城址の方に向かって歩いた。

 つまり、板橋区の赤塚っていうのは、東上線で言えば北口(裏口)側が本来の赤塚の中心で、南口側は実は「赤塚新町」という町名になっているってことで、この辺は赤塚としては中心地じゃなかったんだな、ということが分かる。

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 赤塚駅南口を出ると、実はすぐに川越街道(国道254号線)に出る。

 実は、旧川越街道はここ赤塚からほんのちょっと南の方で国道254号線と合流して……っていうか、飲み込まれてしまい、成増を越えて白子川を渡るあたりまでは、旧川越街道の姿は消してしまっている。

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 で、その旧川越街道と国道254号線(川越街道)の合流点が下の写真。

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 見た通り、左が旧川越街道で右が国道254号線であります。

 まあ、東海道だって日光街道だって、中山道だって、元々は旧街道があって、それに沿う形で現在の街道(国道1号線、4号線、17号線)が出来たわけなので、元々の旧街道と現在の国道は、いろいろ分岐したり統合したりしながら進んでいる。

 つまり、東武練馬あたりではまだまだ旧川越街道も普通に国道254号線と並行して進んでいたんだけれども、ここ、東武練馬と下赤塚の中間辺りで国道254号線(川越街道)に合流してしまうんだ。

 じゃあ、まだこの辺には旧川越街道周辺の残滓があるんじゃないかと思って探したら、まず最初に発見したのが、ここ「氷川神社」ともうひとつ「氷川神社富士塚」であります。

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 まあ、でも普通の富士塚っていえば神社と同じ地平をベースに作られるので、ほぼ、その神社のなかでも一番高い場所に富士塚があるはずなんだけれども、ここの氷川神社の富士塚は神社の二の鳥居の下から、二の鳥居の高さまで上がって、でも、そこが富士山の頂上なのだ。

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 ふ~ん、そんな「低くても富士山」っていうのがあるんだなあ。でも、この富士山の山開きって、皆、下から登るのかなあ、あるいは神社の境内から降りてくるのかなあ。

 今度は山開きの日に見に来ようかな。

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 で、国道254線に戻ってみれば、そこにはこんな庚申塚がありました。

 これも、旧川越街道の名残だなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Akatsuka ©tsunoken

 

2019年9月 3日 (火)

新宿、雷電稲荷神社の近辺に

 新宿駅南口と明治通りの交差点が新宿四丁目。

 すぐ裏は都立新宿高校だし、もうちょっと裏はあの新宿御苑というロケーションの良さである。

 その新宿四丁目にあるのが「雷電稲荷神社」なんだが、実はこの神社「新宿と言えば花園神社」の末社らしいのだ。

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『雷電稲荷神社(新宿4丁目4番23号) - 祭神は受持神。1928年(昭和3年)、同地の雷電稲荷神社は花園神社に合祀され、廃社となったが、その後住民らにより跡地に鳥居と祠が再建・維持され、「雷電稲荷神社」として存続。再び末社となった。』という記述がネットにある。

 ふ~ん、花園神社ってそんなにエライ神社だったなんて知らなかったなあ。劇団天井桟敷がテント劇場をやっていた神社だっていうくらいの認識しかなかったもんなあ(一体、いつ頃のことを言っているんだ)。

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 ところがこの新宿四丁目近辺って、昔は旭町というドヤ街だったのである。

 そんなドヤ街だから、そこにある宿はいわゆる「木賃宿」、それが後に「連れ込み旅館」となったのは、結構、皆が知っている話。えっ? 「連れ込み旅館」ってなんだ? って? まあ、今でいう「ラブホテル」なんでしょうかね。「ラブホテル」が今でも死語になっていなければ、まあ、そういう意味です。未婚の男女がSEXするっていう場所で……。

 そのちょっと先の新宿御苑の向こうが現在の内藤町、「内藤新宿」という甲州街道の一番宿場だったので、まあ、宿場の飯盛り女という娼婦がいた場所なんで、その流れの場所っていうことなんでしょうかね。

 なので、今は「ビジネスホテル」とか「ビジネス旅館」とかの看板を出している旅館は、それぞれがそういった歴史を持っている旅館なんですね(多分)。

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 なんで、この町にこだわっているのかといえば、昔、私がプロデュースして東京ムービー新社(現在のトムスエンタテイメント)が制作、テレビ東京系で1989年に放送されていたカネボウ食品の商品をベースにして、テレビアニメと雑誌のマンガ展開を指向した『GO! レスラー軍団』というアニメ番組の音響監督をやっていた本田保則さんの事務所「アーツ・プロ」がこの新宿四丁目にあって、私も月に何度か通った記憶があるからだ。ただし、もうどこにあったのかは思い出せない。

 まあ、私が通った頃は、まさしく「連れ込み旅館」の町っていう感じでしたけれどもね。どんな男と女が連れ込み旅館に来るんだろう、なんて張り込んだこともあります。

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 それでカネボウ食品といえば、当時の番組担当の社員さんが実はラガーマンで、我々が勝手に「プロのラグビー選手」っていう設定を作ったら、なんと「プロのラグビー選手っていうのはいないんだ!」ってクレームをつけてきたことがある。まるで今のTBSドラマ『ノーサイド・ゲーム』を見ていたようなもんです。

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『GO! レスラー軍団』については、メインライターの浦沢義雄さん(私と同い年)と、いろいろカネボウ食品をからかってあげようと(プロのラガーマンも含めて)いろいろ仕掛けをやっていた楽しい思い出がある。まあ、その内容は、私は墓場に持っていきますけれどもね。

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 まあ、そんな思い出もはるか「昭和」の思い出になってしまいました。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shinjuku ©tsunoken

2019年9月 2日 (月)

ラクロスはシーズン終了、アメフトは開始

 8月31日は午前中は相模原中野公園人工芝グラウンドでラクロス・チャンピオンリーグのレギュラーシーズン最終戦、夜は富士通スタジアム川崎で、アメリカンフットボールXリーグ開幕戦が行われ、ダブルヘッダーだったんだが、両方とも観戦をしてきた。

 う~ん、いささか疲れたかな。

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 しかしまあ、ラクロスやアメリカンフットボールっていうのはアメリカ発祥のスポーツなので、基本的にアメリカの年度初めである9月からスタートして、翌年の前半に最終戦の全国大会をやるっていうスケジュールなんだけれども、日本のクラブチーム・ラクロスは、下部リーグであるファンリーグが5月から、上部リーグであるチャンピオンリーグも6月から始まって8月中か9月初めにはレギュラーシーズンは終わってしまう。一年でも一番暑い時期にヘルメットとプロテクターで固めた選手たちがぶつかり合うって、なんか夏の甲子園高校野球よりもキツい日程だなあ。

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 まあ、超マイナースポーツのラクロス協会としては、夏のそんな時期じゃないとスタジアムの確保が出来ないっていう理由もあるんだろうけれども、なんかウィンタースポーツであるラクロスを夏にやるって、なんか無理があるなあ。

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 それはさておき、試合の方はわが応援するデサフィーオは最終戦、対ラガマフィンズに7対6で辛勝して、チャンピオンリーグ2部4チームの中で3勝3敗、第2位でシーズンを終えた。残念ながら東日本クラブチーム・チャンピオンに挑戦するワイルドカードは全勝のヴァイキングスに取られて、今シーズンを終えることとなった。

 しかし、早いシーズン終了だなあ。

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 一方、アメリカンフットボールXエリアリーグはこの日が開幕戦。

 我らが応援するXエリアリーグのブルザイズ東京は警視庁イーグルスとの対戦だった。

 ブルザイズのキックオフで始まった試合は、両者一進一退の攻防で、第1クォーター(Q)はお互い無得点のまま進み、第2Q残り8分5秒、ブルザイズのフィールドゴール(FG)で3点先取。と、ここまではよかったんだが……。

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 ところが残り7分43秒にイーグルスが70ヤード独走のタッチダウン(TD)でもって7点を取られて逆転。更にイーグルスはパント・リターン・タチダウンという大技を見せる。

 結局、終わってみればイーグルスが3TD、ブルザイズが1FG、1TDの21対10で負け。

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 考えてみれば警視庁イーグルスって警視庁の第8機動隊のチームである。言ってみれば「体を鍛えるのがお仕事」のチームなんである。そんなチームの選手に、普段は体なんて鍛えていないブルザイズの面々がタックルしたってビクともしない。まあ、体力負けですな。

 ブルザイズにはタイロン・ジョーンズっていうマイアミ大学出身のものすごくすぐれたランニングバックがいるんだけれども、なんせ身長が167cm。さすがに他のチームには通じても、イーグルスには簡単にツブされてしまう。

 ブルザイズも苦しいシーズンになりそうだな。

EPSON R-D1s KONICA M-HEXANON 50mm f2 @Ebina & Kawasaki ©tsunoken

2019年9月 1日 (日)

銀座までプリント受け取りに

 そんなわけで(って? 何が「そんなわけ」なんだ?)プリントの上りが午後3時半ということなので、午前中は池袋に行っていろいろ買い物をして、いったん帰宅。午後になってフジフイルムのクリエイト銀座まで行ってきた。

 いやあ、なんか一番暑い時刻に行ってきたんだなあ。

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 普通はだいたい午前10時~11時位に家を出て早ければ午後2時とか、普通に午後4時頃に帰宅するというパターンで街に出て写真を撮ってくるっていう生活パターンなんだけれども、ラボの仕上がり時刻がその時刻なので仕方がない。

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 以前は、今使っているプリンターよりもずっとハイクラスのプリンターを使って、自分でプリントをやっていたんだが、そのプリンターが壊れちゃって、もう面倒くさくなって、今度は一番安いプリンターを買ったので書類のプリントにはOKでも写真プリントできるほどのクォリティはない、ということでプリントはプロラボに出すことにして、3年ほど前からはプロラボにプリントを発注している。

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 で、一体なんでそんなプロラボを使ってプリントをやったんだ……ってことなんだけれども、何なんでしょうか?

 現状はまだヒ・ミ・ツ。

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 っていうのは大袈裟で、要はこの9月21日から23日まで開催する「講談社社友会作品展」に掲出する写真のプリントを発注していたのであります。

 どんな写真を出すのかは今のところはまだ内緒。

 作品展のポスターは下の通りです(私が作りました)。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Komagome ©tsunoken

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