無料ブログはココログ

chotoku.note

自転車フォトグラファー 砂田弓弦

シュクレはお留守番

アローカメラ&我楽多屋

フォト

« "AKOMEYA"という「お米屋」(?) in Ginza | トップページ | 等々力渓谷へは、東京駅から東急バスで »

2019年8月29日 (木)

音羽物語

 文京区音羽の町の象徴と言えば護国寺である。

 護国寺は真言宗豊山派の大本山。徳川幕府の庇護を受けた寺院である。

『天和元年(1681年)2月7日、徳川綱吉は母、桂昌院の願いをうけ、高崎の大聖護国寺住持であった亮賢に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じた。』(Wikipedia)

Epsn00042_20190827204301

 その護国寺の前から神田川へ展開している道が音羽通り、それを取り巻く町が音羽の町である。

 これまた徳川家が関係していて『1697年(元禄10年)に護国寺領となり町屋にしたが人が入らず、桂昌院の信任が厚かった奥女中の音羽という人物にこの門前町が与えられたため「音羽町」と名付けられた。』(Wikipedia)

Epsn00262_20190827204301

 現在は神田川から護国寺に向かって音羽一丁目と二丁目という二つの町があるが、昔は一丁目から十丁目まであって、江戸川橋に近い今宮神社の祭礼の際には昔の丁目でもって町会が作られているのがわかる。

 この音羽の地に徳富蘇峰から「私設文部省」と呼ばれた「大日本雄辯會講談社」が、団子坂から引っ越してきたのが昭和8年(1933年)。以来、講談社や光文社、キングレコードなどを中心とした百数十社が「音羽グループ」と呼ばれ、小学館を中心にした「一ツ橋グループ」と並び称されるようになったわけです。

Epsn00272_20190827204301

 この講談社に昭和50年(1975年)に入社してきたのが私、tsunokenであります。って書くほどのことでもなんでもないんだが……。

 さすがに(写真家の田中長徳氏が通学のために乗っていた)音羽通りを走る都電こそは既になくなってはいたんだが、東京メトロ(昔は「営団地下鉄」といった)有楽町線は、私が入社試験を受けた時はまだ走っていなくて、営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から坂を降りて講談社まで来たのでありました。勿論、帰りは音羽の谷底から茗荷谷の山の上までテクテク上って行ったのでありました。

Epsn00232_20190827204401

 それから37年間、実はそのうち5年は名古屋支社にいたので実際には32年ということになるが、この音羽の町に毎日通ってきたことになる。

 う~ん、長いような短いような37年なんだけれども、その37年で私が学んで成長したってことはあるんだろうか。なんか、全然成長なんかはしなくて、学生の時に映画評論を書いていたり、自主映画を作っていたりしていた頃と、なんかまったく変わっていないというのが、私の37年の総括である。というか、要はこのブログ自体がその延長線上にあるってわけで……。

Epsn00252_20190827204401

 音羽の町も、確かに音羽通りの両側はマンションばっかりになって、まるで音羽通りがマンションの谷底になってしまったような印象はあるんだが、考えてみればもともと目白台と小日向台に挟まれた谷底が音羽の町なんだから、実はあまり地勢的には昔から全然変わっていないんだなあ。

 まあ、講談社自体は一生懸命デジタル化に取り組んでいて、最近はそれが功を奏して会社経営は上手くいっているみたいだが、なんか、まるで時代から取り残されてしまった町、っていう感じの音羽の町ではありました。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Otowa Bunkyo ©tsunoken

« "AKOMEYA"という「お米屋」(?) in Ginza | トップページ | 等々力渓谷へは、東京駅から東急バスで »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« "AKOMEYA"という「お米屋」(?) in Ginza | トップページ | 等々力渓谷へは、東京駅から東急バスで »