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2019年8月 4日 (日)

足利学校の謎

 栃木県の足利市って遠いようだが、意外と近くて、北千住駅から東武伊勢崎線特急「りょうもう」で1時間ちょっとでついてしまう。

 ただし、足利市の中心部にあるJR両毛線足利駅と、東武線の足利市駅とはかなり離れており、東武線の駅から足利市の中心部まで行くには、渡良瀬川を渡って行かなければならない。

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 で、足利市の中心部に行くとすぐにあるのが、国指定史跡「足利學校」なのであります。学校の内外にはそこら中に孔子様の像が建っているので、すぐにわかる。

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 足利學校とは何か?

『足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(学長)制度を設けるなどして学校を再興したことからです。
 鎌倉建長寺住持の、玉隠永璵は、長享元(一四八七)年の詩文の中で「足利の学校には諸国から学徒が集り学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」と賛美しております。
 また天文十八(一五四九)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され「学徒三千」といわれるほどになりました。』

 というのが、学校の説明書き。しかし、「学徒三千」って、当時からすればかなりの「マンモス大学」ですよね。

 江戸時代になって、各藩が「藩校」を作って、その藩独自の価値観を植え付けるための若手武士教育を行ったんだけれども、そうした藩校とは異なって、中国の古典を基本に学ぶ学校を作ったってのは、う~ん、足利氏もなかなかの教養人だったんでしょうなあ。

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 足利學校が特徴的なのは……

『上杉憲実は1447年(文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた。この中で足利学校で教えるべき学問は三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。』(Wikipedia)

 ということ。

 まあ、要は実学中心のまさしく「大学らしい学校」っていうことだったのだろう。

 ポイントは河内源氏の出であった源義家(八幡太郎義家)の四男・源義国が下野国足利荘領として足利式部大夫を名乗り、その八代目足利尊氏が、まさしく室町幕府を開いた人であるということ。遥か京都から離れた東国の武士が幕府を開いた稀有な例がの出自がまさしく「足利」という地にあったんだなあ。

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 で、なんとなくその辺と関係ありそうなのが、この足利學校の作りなんだが……。

 何故、学校に土塁や堀が必要だったんだろう。これは城の作りじゃないのだろうか?

 ちょっと不思議な気分になる。

 まあ、そのぐらい「剣呑」な時代だったってことなんでしょうかねえ。

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 足利學校に入るにはこの「足利学校入学証」をとらなければならない、ってウソウソ。参観料を払えば誰でも貰えます。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ashikaga ©tsunoken

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