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2019年5月18日 (土)

長谷川平蔵 遠山金四郎 屋敷跡

 都営地下鉄半蔵門線を菊川駅で下車して、新大橋通りに出る。
 菊川駅から1ブロックほど東に行くと、丸山歯科医院というのが1階にあるマンションの前にこんな碑がある。

 題して「長谷川平蔵 遠山金四郎 屋敷跡」???

Epsn00112_6

 遠山金四郎は実在の人物なので分かるんだが、長谷川平蔵って池波正太郎氏が作り上げたフィクションじゃないのか、なんて考えていたら、実はそうじゃなかった。

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 菊川駅まで戻って、三つ目通りの側に回ってみると、こちらにも「長谷川平蔵 遠山金四郎 屋敷跡」の碑が。ただし、こちらには墨田区教育委員会が作った碑文がある。

『長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
 住所 墨田区菊川三丁目十六番地二号
 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。
 平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通りの千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西端にあたります。
 長谷川家は家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(一七八六)、かつて父もその職にあった役高千五百石の御先手弓頭(おてさきてゆみがしら)に昇進し、火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)も兼務しました。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。
 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職場訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
 寛政七年(一七九五)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替となり、替わって入居したのは遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)です。通称は金四郎。時代劇でおなじみの江戸町奉行です。
 遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。
屋敷地の南東端にあたる所(菊川3丁目16番13号)にも住居跡碑が建っています。
 平成十九年三月 墨田区教育委員会』

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 そうでした。「鬼平犯科帳」や「剣客商売」「仕掛人シリーズ」があまりにも有名なんで、なんとなく「鬼平=長谷川平蔵」も池波正太郎氏が作り上げたフィクションかと思っていた私の早計でした。長谷川宣以(通称:平蔵)も実は実在の人物だったんですね。

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 そうか、江戸時代の旗本はもともと自分の家というのは持っていなくて、幕府から拝領した家屋敷に住んでいた。つまり、会社の寮に住むようなもんで、本人が死んじゃえば「屋敷替え」となって、今度は別の旗本が住むんですね。

 で、後からこの屋敷を拝領した遠山左衛門尉景元(通称:金四郎)は長谷川平蔵よりもずっと上の位だったので、元の長谷川屋敷は遠山家の下屋敷になったというわけなのでありました。ただし、大名が住む藩邸の下屋敷ではなかったようなので、遠山金四郎はこの家に住むことはなく、遠山家の家臣が住んだのか、あるいは遠山家の別荘みたいな感じだったのかはよく分からない。

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 う~ん、「明日のジョー」は墨田区じゃなくて、荒川区の南千住なんですけれどもねぇ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Kikukawa ©tsunoken

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