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2019年3月29日 (金)

「意味のない写真」の意味について考える

「意味のない写真」ってどんな写真なんだろうか、ということを考えながら、日々「意味のない写真」を撮っているtsunokenです。

Epsn00232_1

 実は一昨日の写真家・写真機家:田中長徳氏のnoteにこんな記述があった。

3_1©Chotoku Tanaka

コンポラ写真とは一体何だったのか?
カメラ本来の形 横位置
写真表現のテクニック否定
日常の何気ない被写体
誇張や強調をしない
標準または広角レンズの多用
撮影者の心境を現した被写体との距離感
==========この項目は大阪芸大で写真を教えた 10年間の1番最初の授業の時に私がよれよれのメモ用紙の裏にボールペンで走り書きをしたものである。コンポラ写真が何であったかと言うことを時々評論家等が思いつきで口にするがそれを真面目に分析した人はまだいないと思う。15年位前にどこかの大学の女性の研究者がコンポラ写真について調べていると言うのでたまたま出掛けた岡山でその女性にいくつか答えたことがあるがなしのつぶてであったからやっぱりわかりにくいのであろう。
日本でちゃんとコンポラ写真を取り上げたのはカメラ毎日であって1969年でトップに据えられていたのは石元先生であった。他に牛膓さんもいたな。牛膓さんが一貫して不幸だったのは駆け出しの写真評論家が牛膓さんの発見を自分の手柄にしていたことだ。』
 という記事。

Epsn00262

「報道写真」とか「動物写真」とか、つい最近では「桜の写真」とか、いろいろなテーマを持った写真というのはある。
 報道写真は何か世界で起こっていることを、皆に知らせたいと考えている人たちが撮った写真だろうし、動物写真は世の中にいる動物の姿を撮影し、やはりそれも「皆に知らせたい」と考えている写真だろう。今や世界に「猫写真家」として知られている岩合光昭氏なんかはその典型であろう。
 しかし、「桜の写真」にどんなテーマ性があるというのだろうか。

Epsn00282_1

 単に「桜がきれい」だと感じたからそれを撮影するのは勝手なんだが、なんでそれをいちいち人に見せる必要があるんだろう。っていうか、なんかウザいんですね、ここ最近のFacebookが。
 まあ、別にFacebookなんかにアップする写真は化学フィルムを使っているわけでもないし、紙焼きを作るわけでもないので、別にそれが「資源の無駄遣いだっ!」なんていうつもりもないんだが、わざわざ高価な一眼レフを使って、自分では「立派なテーマがある写真表現だ」なんて考えて撮影しているんだろう。で、自分が撮影した「テーマのある写真」を人に見せなきゃなんて考えてSNSに載せるんだが、別に桜の写真なんて見たくない当方にとっては「ああ、また桜の写真かよ」ってなもんで、ウンザリするんですね。

Epsn00522

 絵画の場合はいずれにせよ人が介在して、ある景色から対象を選び取って画面化するので、そこには嫌でも描いた人の「精神」っていうものが介在する。したがって、絵画には「意味のない絵画」っていうのは存在しないと思うんだが、写真は単に「機械的に対象物をコピーしている」だけの存在であり、その場合、写真家が映像に介在する部分というのは、実はほとんどないと言ってもいいだろう。あとは、写真家がどんな対象物を被写体として選んで、どんな方法でその「コピー」を発表するかという問題だけなのだ。
 だとしたならば、そんな「コピー」に意味性なんてものがなくなってしまった方に、実は「写真の純粋性」があると言えるのではないだろうか。
 なので、私は日々の街頭スナップ写真では、「如何にして意味性を持たせないか」という点に執着して撮影をしているっていうわけなのです。
 なんか、おかしいかな。
EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Ginza ©tsunoken

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