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歴史

2018年9月 4日 (火)

六義公園で発掘調査始まる

 駒込六義園の隣にある六義公園が昨日から一週間閉園して埋蔵文化財試掘調査が始まった。

 六義園は東京都の管轄なんだけれども、お隣の六義公園や六義公園運動場っていうのは、東京都からの分割を得て、文京区の管轄になっている。で、今回、六義公園の改修工事をやるっていうことになって、それじゃあそのついでにやちゃっおうってことで、埋蔵文化財の試掘調査をやろうということになったようだ。

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 もともと、六義園はご存知赤穂浪士の仇敵、柳沢吉保が前田家から受け継いで作った庭園であり、屋敷である。

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 っていうことなので柳沢家の財宝でも出てこないかな、なんて期待のもと、六義園周辺の開発に関しては文京区がとりあえず「待った」をかけて、発掘調査をするんですね。

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 基本的に庭園部分は柳沢時代から岩崎弥之助が受け継いだままの状態なので、岩崎家の蔵なんかが新たに建てられただけで、「庭園は」、かなり昔のままに残っているらしい。

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 問題は柳沢家の家屋敷とか家来の住まいとかなんかが完全に壊されて、柳沢家の家屋敷は、現在の不忍通り北側の部分で住宅地になってしまっているし、家来の住まいは不忍通りの南側になるんだが、そこは文京グリーンコート(旧・理研)、駒込警察、日本医師会館、東洋文庫、昭和小学校、日本アイソトープ研究所なんていう施設が出来てしまっている。

 ということで、前にも書いたことがあるが、我がマンションの建て替え工事に際しても、さすがに鉄筋コンクリートの建物の下は既に破壊されているので対象外だったんだが、新たに取り込んだ隣の木造家屋部分が発掘調査の対象となってしまった。

 発掘の結果、柳沢家のものらしい陶器なんかが、地下3メートル位のところからでてきたり、もっと掘り下げたら縄文時代の矢じりなんかも出てきたり、まあ、そのおかげで建設工事が一週間ほど伸びてしまった(つまり、それだけ建設費が余計にかかる)んだけれども、それはそれで面白かった。

 まあ、今度の試掘調査も、柳沢家のもの、つまり江戸時代頃の「かわらけ」位しか出てこないだろうと思えるんだけれども、まあ、どんなものが出てきたかを、出来れば六義園あたりで公開してもらえるとありがたいんだけれどもなあ。

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 昨日は重機だけを持ち込んで終わりみたいだったけれども、何が出てくるかは楽しみだなあ。ただし、問題は今日・明日の天気ですね。台風が来ちゃったら、当然、発掘はお休みだろうし、その場合、どうするんだろう。

 まあ、楽しみな一週間なので、毎日様子を見に行こう。どうせ、ヒマですから。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f1:5.6 @Hon Komagome ©tsunoken

2018年6月30日 (土)

『悪人か、ヒーローか』という設問は、やはり東洋的ではない

 東洋文庫ミュージアムで公開中の展示「悪人か、ヒーローか Villain or Hero」というのがなかなか面白い。

『誰が悪人といったのか。だれが英雄といったのか。

 歴史資料や創作物を見ていくと、当時の社会規範や支配体制の枠組みにおいて「悪」とされた人々が、一転してヒーローやヒロインとして魅力的に描かれている例が多々あります。一方、歴史上で大きなことを成し遂げた人物が、後世への教訓のために悪い例として語り継がれていることも少なくありません。本展では、多様な立場、視点によって「悪人」あるいは「ヒーロー」とされた古今東西さまざまな人物に関する記録を集め、彼らの虚像と実像に迫ります。』

 というのがその惹句。

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『一神教を掲げる西洋では、善と悪はいわば仇同士のようなもので、どちらかが負けるまで戦い続ける、といいます。中国では、陰と陽、善と悪といった両極の対立を一方では認めますが、しかしそれらの対立はしまいには調和にもたらされて一つになる、という考え方があります。』

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 東洋文庫なので、当然資料は文献学から始まる。

 で、「悪人」として挙げられた人たちと、その論拠となる本を挙げる。

●始皇帝……「史記 秦始皇本紀」「定監図説」

●劉邦と呂后……「史記 高祖本紀」「後漢書 光武帝紀」

●則天武后……「資治通鑑」「歴代君臣図像」

●徽宗皇帝……「宣和博古図録」「宣和遺事」

●鄭成功(国姓爺)……「明清軍談国生爺忠義伝」「アモイ近海図」

●蘇我入鹿……「日本書紀」「妹背山婦女庭訓」

●平清盛……「平家物語」「愚管抄」

●足利尊氏、楠木正成……「太平記」「大日本史」

●織田信長……「信長記」「読史余論」

●春日局……「老人雑記」「春日局」

●鼠小僧治郎吉……「鼠小紋春着雛形」

●スレイマン1世とヒュッレム・スルタン……「一般トルコ史」

●ナポレオン・ボナパルト……「ナポレオン・ボナパルトの生涯」「佛郎王歌」

 その他、引用書としては「三国志」「水滸伝」、「悪を裁く」としてその裁きの結果としての「流罪」「蟄居」「牢問」「土蜘蛛」「疫病」「大地震」などなど。

 まあ、こうした展示でありがたいのは、なんとなく展示を見ているだけで、その参考となった書まで読んだ気になれるところだろうか。

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 上に上げられた人々にしても、一方から見れば「悪人」かもしれないが、その反対側から見れば「ヒーロー」なわけだ。特に蘇我入鹿、平清盛、足利尊氏、楠木正成、織田信長なんて人たちも、すくなくとも政治にかかわった人たちは、当然、その政敵から見ればとんでもない悪人なんだが、逆から見れば善政をおこなった「立派な人たち」ってことになるんですね。

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 春日局にしても、元々、明智光秀の重臣だった人が父親で、それが巡り巡って徳川家に仕えることになったっていうのも、織田信長-明智光秀-羽柴秀吉-徳川家康という流れの中で翻弄された人生っていうことになるわけで、別に春日局自身の出世欲とかそんなものがあったのかどうかは分からない。

 それを「悪人」と「正義の人」に分ける二文法というのはいかにも西欧一神教の物事を単純にしか考えられない方法論によるものだろう。ロンドンタイムス通信員だったオーストラリア人、アーネスト・モリソンの蔵書をベースに作られた東洋文庫らしいっていえばそうなのだが、まあ、それも物事の見方のひとつとして見ることも面白いかもしれない。

Photo_2 『悪人か、ヒーローか 時空をこえる本の旅 19』(公益財団法人東洋文庫/2018年6月5日刊)

東洋文庫ミュージアム展示「悪人か、ヒーローか Villain ro Hero」は9月5日まで公開中

公式サイトはコチラ

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Hon-Komagome Bunkyo ©tsunoken

2018年5月 3日 (木)

日野は新選組でもつ、新選組は日野でもつ(?)

 5月12・13日は「日野新選組まつり」であります。

 新選組は京都で組織された京都守護職・松平容保の警察部隊のはずなので、東京の日野市で新選組の「出陣式」なんていう、ちょっと「?」な催しもあるみたいですが、新選組のファンは、当日はJR中央線日野駅を降りて、目の前にある旧甲州街道を少し行った先の八坂神社に集合です。

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 八坂神社は近藤勇が「天然理心流奉納額」を納めている神社。

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「天然理心流」とは、江戸時代後期に近藤内蔵之助によって打ち立てられた古武道の流派で、剣術以外の様々な武術を統合した流派のようである。

 近藤勇は元々は宮川姓の農家の子供として生まれたが、長じて近藤家の養子となり近藤家四代目近藤勇と名乗った。その後、天然理心流の道場は近藤家三代目周助の時代に現在の市谷柳町に移り、試衛館として道場を開いた。

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 さすがに旧甲州街道の街道筋だけあって大きな日野宿の本陣が残っている。この旧日野本陣も実は天然理心流の道場があった場所である。

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 なかなか立派な旧日野本陣を後にして旧甲州街道から川崎街道に入ると、あれ? 既視感のある風景だなあ。と思って進んでいくと……。あっ、そこはエプソンの日野事業所なのであった。

 この撮影にも使っているEPSON R-D1sの修理のために来たことがある。その時は車で来たので反対側から来た。なのでちょっと感じが違ったんだが、確かに一度来たことがある。現在はサービスをやめてしまったEPSON R-D1sなんだが、できればサービス再開してほしいなあ、そうすれば安心して使えるのになあ……、あ、そうか、デジタル・ライカを買えばいいんだ、フルサイズだし……なあんて簡単に言っていますけどねぇ。そうそう簡単にはいかないか。

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 で、そのエプソン日野事業所の前を過ぎてちょっといくと浅川にかかる高幡橋を渡ると、もうすぐそこは高幡不動尊の境内である。

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 高幡不動と言えば、その裏山を越えた先が中央大学である。私は駿河台キャンパスの中央大学しか知らない。多摩キャンパスに移ってからの中央大学はよく知らないのだが、どうも地方の高校から中央大学に入ってきた学生が、何故か日野市在住が多い理由がなんとなく分かった。大学があるのは八王子市なんだけれども、実はむしろ日野市の方が近かったのね。

 しかし、さすがにこれじゃあ、地方出身者が「私の田舎より田舎だ!」という理由がわかるなあ。本当に田舎!

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Hino ©tsunoken

2017年5月 7日 (日)

河合継之助と山本五十六

 5月4日は闘牛は小千谷だけでいいという、同行のY川氏やT山さんのために、午前中は長岡市内を案内することにした。

 まず最初に行ったのが「長岡城址」(笑)であります。何故、(笑)なのかはいずれ謎解きをしますが、そんな「長岡城址見物」(大笑)の後は、長岡が生んだ二大英雄、河合継之助と山本五十六のそれぞれ記念館に行ってきました。

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 司馬遼太郎の小説「峠」で有名な河合継之助ですが、河合継之助と言えば「小千谷談判」ですね。徳川慶喜が密かに江戸へ帰順したのを知った、河合継之助は急ぎ長岡に帰り、戦支度と同時に、いかにして新政府軍と戦わないで済ませるかという方法を考えたのでした。

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 が、結局そのための交渉はわずか30分で決裂。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戊辰戦争へと突入するわけです。この交渉が後に言う「小千谷談判」で、結局、長岡藩は敗れるわけです。新兵器ガトリング砲をもってしても、新政府軍の勢いは止められなかったわけですね。河合継之助はそれを知っていた。

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 まあ、同じようなことが山本五十六の逸話にもあって、当初、日米開戦にはその圧倒的な戦力の差を知っていた山本五十六は反対していた。

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 しかしまあ、連合艦隊総司令官になってしまうと、そうそう反対ばかりしているわけにはいきません。

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 で、真珠湾攻撃はアメリカになんと言われようとも「奇襲作戦」で戦争のコントロール権を奪って、そのままミッドウェー海戦まで勢いでいってしまい、その直後にソ連に仲裁に入ってもらい日米和平というイメージを持っていたそう。

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 つまり、河合継之助と山本五十六は共通する戦略「短い勝ち戦を戦って、早期に和平へと持っていく」を持っていたということになる。

 この辺が長岡の人たちが河合継之助と山本五十六を郷土の英雄と讃える理由なんだろうなあ。

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 河合継之助記念館と山本五十六記念館はすぐそばにあり、山本五十六の傍の山本五十六記念公園には山本五十六の生家が復元されています。

NIKON Df AF Nikkor 24-85mm f2.8-4 D @Nagaoka ©tsunoken

2016年12月15日 (木)

赤穂義士③新橋から泉岳寺まで

 さて、浅野家上屋敷を過ぎた一行は、いよいよ新川を渡って新橋へ。

 で、ここ浜離宮庭園の前を過ぎたときが一番危なかったんだろうでははないだろうか。

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 なにしろ元々は将軍家の別邸浜御殿だった浜離宮庭園。言ってみれば、この行程で一番幕府の施設に近づいたわけなのだ。当然、警備は厳しかっただろうし、警備の兵によって捕らえられても仕方がない。

 が、それがなかったっていうのは、まあ幕府も多少は討ち入りには目をつぶっていたのかもしれない。まあ、吉良上野介が呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になったということ自体が、幕府が討ち入りを暗に認めていたという考え方もあるのだ。

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 で、新橋からは昔の東海道、現在の国道15号線で高輪の泉岳寺まで行ったんだけれども、既にこの時間には世も明けていて、多分沿道には物見高い江戸町民が沢山出ていたんだろうな。その中を意気揚々と引き上げていく赤穂浪士たち。

 勿論、結果として死罪かよくて切腹を命じられることが前提の討ち入りではある。複雑な思いでいたことは事実だろうが。そうは言っても江戸町民からすれば英雄である。

 まあ、この辺は面白くないんで割愛。

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 泉岳寺に着いた一行は、泉岳寺の僧侶に迎えられて……

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 まず、浅野内匠頭の墓前に吉良の首を備えて焼香したということである。

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 内匠頭の墓のそばには義士たちの墓が並んでいる。

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 さすがに、12月に入ると参詣客が沢山いた。普段は静かなんですけれどもね。

 12月14日には「義士祭」も開かれていた。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Minato ©tsunoken

2016年12月14日 (水)

赤穂義士②両国橋は渡らなかったのに、なぜ永代橋を渡ったのか

 いよいよ本日は赤穂浪士47士の討ち入り当日です。

 さて、乳熊屋で休息をとった一行は、ここ永代橋から江戸市中へ入るわけですね。といっても江戸城がある場所ではなくて、渡った先は霊岸島という島。江戸からはまだ新川という堀を隔てています。

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 しかし、裏道をたどる一行の動きは変わらず、永代橋から大通りを通らずに、霊岸橋のそばまで来ると、左に折れて新川沿いを行きます。

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 相変わらず裏道ばっかりを行くのは、やはりご法度を犯した自覚なのか。

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 で、現在の聖路加国際病院のそばまで来ます。

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 で、聖路加国際大学の敷地の中にありました……

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 ここは元々浅野家の上屋敷があった場所。

 勿論、浅野内匠頭の所業によりお家はお取り潰し、屋敷も召し上げられてしまってはいますが、浅野家の家臣としてはやはりそれは悔しかったのでしょう。

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 で、元々浅野家の上屋敷前をわざわざ通ったということなのだと思う。

 まあ、もともとが仇討ちという行動自体が、内匠頭だけが切腹を命じられ、吉良上野介はお咎めなしという「片手落ち」の幕府の判断に対する抗議行動だったんですからね。

 一種の示威行動だったのかもしれない。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Chuo ©tsunoken

2016年12月13日 (火)

赤穂義士①なぜ彼らは両国橋を渡らなかったのか

 明日、12月14日は赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日であります。

 なので、今日から三日間、赤穂義士が討ち入りを終えて、泉岳寺まで歩いた通りに辿ってみたいと考えます。結構、距離があるんだよね。

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 見事、本懐を遂げた大石内蔵助と46名の仲間は吉良邸を後にして……

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 回向院と大徳院の間を通って、隅田川沿いに裏道を通って泉岳寺に向かうのだけれども、何故、すぐそばの両国橋を渡って江戸市中に入らなかったのか?

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 現在の一之橋を渡って……

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 芭蕉庵なんぞには目もくれずに……

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 萬年橋を渡り……

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 永代橋のそばまで来ると一休み。乳熊屋という味噌屋がたまたま上棟だったので、甘酒を義士たちにふるまったという。 義士の一人。大高源吾が乳熊屋の主人・竹口作兵衛と同じ俳人・其角の弟子だったということもあったそうだ。

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 で、最初のテーマ「なぜ、義士たちは両国橋を渡らなかったのか?」への答。

 やはり両国橋を渡ってしまうと、そのまま江戸城のそばを通らなければならなくなってしまい、「仇討ち」というご法度を犯した立場としては、江戸城のそばを通ることを避け、裏道ばかりを歩いたのだろう、ということ。まあ、そういうことだったんでしょうね。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Sumida ©tsunoken

2016年11月23日 (水)

立会川 坂本龍馬 浜川砲台

「立会川 坂本龍馬 浜川砲台」と言っても別に三題噺ではない。

 旧東海道品川宿をずっと南下して、立会川を渡る手前が京浜急行立会川駅。

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 その駅前に展開する立会川繁栄会商店街なんだけれども、その商店街の小さな公園に突然、二十歳の坂本龍馬像という銅像が建っている。

 えーっ? 何で、江戸に坂本龍馬像が? ってところなんだけれども。

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 立会川は浜川という名前で江戸湾に注いでいたが、その河口辺りに土佐藩鮫洲抱屋敷というのがあったそうだ。つまり、ここ浜川河口は土佐藩が藩から江戸藩邸に送る荷物を陸揚げしていた場所。まあ、土佐藩専用の港みたいなものだったそうだ。

 立会川をちょっと上って国道15号線の反対側には土佐藩下屋敷なんかもあった。

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 1854年1月、ペリーの二度目の来日に備え、土佐藩が幕府に願い出て急遽造ったのが、浜川砲台である。

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 浜川砲台には八門の大砲が供えられていたが、その内最大の「六貫目ホーイッスル砲」というのが復元されて浜川砲台に安置されている。

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 で、その浜川砲台には佐久間象山塾で砲術を学んでいた坂本龍馬も、当然参加していた訳だ。

 その経験は坂本龍馬が初めて外国の文化と接触した機会でもあった。

 ということで、見事三題噺は繋がったんであります。あれっ? やっぱり三題噺?

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 この復元事業を中心として担った品川龍馬会と復元事業への協力者の名前が銘板に記されている。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Higashi Oi Shinagawa ©tsunoken

2016年11月 8日 (火)

朝霞 柊塚古墳 一夜塚古墳

 5月18日のブログに書いた朝霞市の岡城(城山公園)のそばに「柊塚古墳」というのがあって、それは「柊塚古墳公園」という形で、昔のまま保存されているのだ。

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 ただし、本来は前方後円墳だったのだが、「前方」の部分は壊されてしまっていて、「後円」の部分しか残っていないので、見ると円墳のように見える。

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 本来はこんな形だったそうだ。

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 公園にはこんな家形の埴輪のようなトイレがかわいい。

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 柊塚古墳から少し歩くと朝霞市立第二小学校があって、その校庭には「一夜塚古墳跡」の碑がある。つまりこの一夜塚古墳をつぶして小学校が作られたのである。

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 ここは黒目川の河岸段丘上にあって、根岸古墳群といういくつかの古墳があったところなのだ。

 まあ、河岸段丘上にはだいたい集落があったので、その集落を束ねる豪族の墓が古墳ということなのだろう。

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 黒目川河畔から見上げた柊塚古墳。下の写真の真ん中にある森が柊塚古墳。黒目川からは20mほど上がったところにある。

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 ここも武蔵野丘陵の一番端のところなので、こうした集落が作りやすいところだったんだろうなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Asaka ©tsunoken

2016年11月 5日 (土)

東京 青梅 勝沼城

「勝沼城」って言ったら、そりゃ山梨県でしょう、と思ったのだが、そうではなくて東京都青梅市東青梅六丁目にあるらしいのだ。

 で、早速JR青梅線東青梅駅で降りて歩いていると、「城山通り」とか……

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「城前東通り」とかあって、いやあ妙に気がたかぶってきますねえ。

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 で、考えてみればこの道、5月の大和郷会のハイキングで来た吹上しょうぶ園や塩船観音へ行く道だった。

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 で、その吹上しょうぶ園へ行く道の手前で左に折れると、妙光院っていう曹洞宗のお寺がある。

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 で、そのお寺の裏の方に山へあがる道がある。これは行ってみるべきだな。

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 そこを上がってみると、ありました「勝沼城址歴史環境保全地域」という看板。

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 ただし、山の上に上がってみればそこはお寺の墓地になっていて、本丸跡などのようなお城の遺構はない。

 それでも山の上からは青梅市が見渡せる。多分、600年くらい前には霞川ばかりか、多摩川あたりまで見渡せたのではないだろうか。

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 更に墓地がある山の裏側は、現在は吹上しょうぶ園となっている湿地帯なので、まあ城の前後を川と湿地帯で守っていたということなのだろう。

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 そういえば、私が上がってきたこの道も、どこか空堀と両側の土塁に見えないこともない。

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 う~ん、やっぱりここは城跡なんだなあ。

 で、なんで「勝沼城」なのかといえば、実はこの近所にある青梅鉄道公園なんかがある別の山は「青梅市勝沼」という地名。つまり、昔はこのあたりも勝沼という地名だったんだろう。

 ということで、納得、納得。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f1:2.8 D @Ome ©tsunoken

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