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歴史

2017年5月 7日 (日)

河合継之助と山本五十六

 5月4日は闘牛は小千谷だけでいいという、同行のY川氏やT山さんのために、午前中は長岡市内を案内することにした。

 まず最初に行ったのが「長岡城址」(笑)であります。何故、(笑)なのかはいずれ謎解きをしますが、そんな「長岡城址見物」(大笑)の後は、長岡が生んだ二大英雄、河合継之助と山本五十六のそれぞれ記念館に行ってきました。

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 司馬遼太郎の小説「峠」で有名な河合継之助ですが、河合継之助と言えば「小千谷談判」ですね。徳川慶喜が密かに江戸へ帰順したのを知った、河合継之助は急ぎ長岡に帰り、戦支度と同時に、いかにして新政府軍と戦わないで済ませるかという方法を考えたのでした。

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 が、結局そのための交渉はわずか30分で決裂。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戊辰戦争へと突入するわけです。この交渉が後に言う「小千谷談判」で、結局、長岡藩は敗れるわけです。新兵器ガトリング砲をもってしても、新政府軍の勢いは止められなかったわけですね。河合継之助はそれを知っていた。

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 まあ、同じようなことが山本五十六の逸話にもあって、当初、日米開戦にはその圧倒的な戦力の差を知っていた山本五十六は反対していた。

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 しかしまあ、連合艦隊総司令官になってしまうと、そうそう反対ばかりしているわけにはいきません。

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 で、真珠湾攻撃はアメリカになんと言われようとも「奇襲作戦」で戦争のコントロール権を奪って、そのままミッドウェー海戦まで勢いでいってしまい、その直後にソ連に仲裁に入ってもらい日米和平というイメージを持っていたそう。

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 つまり、河合継之助と山本五十六は共通する戦略「短い勝ち戦を戦って、早期に和平へと持っていく」を持っていたということになる。

 この辺が長岡の人たちが河合継之助と山本五十六を郷土の英雄と讃える理由なんだろうなあ。

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 河合継之助記念館と山本五十六記念館はすぐそばにあり、山本五十六の傍の山本五十六記念公園には山本五十六の生家が復元されています。

NIKON Df AF Nikkor 24-85mm f2.8-4 D @Nagaoka ©tsunoken

2016年12月15日 (木)

赤穂義士③新橋から泉岳寺まで

 さて、浅野家上屋敷を過ぎた一行は、いよいよ新川を渡って新橋へ。

 で、ここ浜離宮庭園の前を過ぎたときが一番危なかったんだろうでははないだろうか。

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 なにしろ元々は将軍家の別邸浜御殿だった浜離宮庭園。言ってみれば、この行程で一番幕府の施設に近づいたわけなのだ。当然、警備は厳しかっただろうし、警備の兵によって捕らえられても仕方がない。

 が、それがなかったっていうのは、まあ幕府も多少は討ち入りには目をつぶっていたのかもしれない。まあ、吉良上野介が呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になったということ自体が、幕府が討ち入りを暗に認めていたという考え方もあるのだ。

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 で、新橋からは昔の東海道、現在の国道15号線で高輪の泉岳寺まで行ったんだけれども、既にこの時間には世も明けていて、多分沿道には物見高い江戸町民が沢山出ていたんだろうな。その中を意気揚々と引き上げていく赤穂浪士たち。

 勿論、結果として死罪かよくて切腹を命じられることが前提の討ち入りではある。複雑な思いでいたことは事実だろうが。そうは言っても江戸町民からすれば英雄である。

 まあ、この辺は面白くないんで割愛。

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 泉岳寺に着いた一行は、泉岳寺の僧侶に迎えられて……

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 まず、浅野内匠頭の墓前に吉良の首を備えて焼香したということである。

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 内匠頭の墓のそばには義士たちの墓が並んでいる。

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 さすがに、12月に入ると参詣客が沢山いた。普段は静かなんですけれどもね。

 12月14日には「義士祭」も開かれていた。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Minato ©tsunoken

2016年12月14日 (水)

赤穂義士②両国橋は渡らなかったのに、なぜ永代橋を渡ったのか

 いよいよ本日は赤穂浪士47士の討ち入り当日です。

 さて、乳熊屋で休息をとった一行は、ここ永代橋から江戸市中へ入るわけですね。といっても江戸城がある場所ではなくて、渡った先は霊岸島という島。江戸からはまだ新川という堀を隔てています。

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 しかし、裏道をたどる一行の動きは変わらず、永代橋から大通りを通らずに、霊岸橋のそばまで来ると、左に折れて新川沿いを行きます。

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 相変わらず裏道ばっかりを行くのは、やはりご法度を犯した自覚なのか。

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 で、現在の聖路加国際病院のそばまで来ます。

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 で、聖路加国際大学の敷地の中にありました……

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 ここは元々浅野家の上屋敷があった場所。

 勿論、浅野内匠頭の所業によりお家はお取り潰し、屋敷も召し上げられてしまってはいますが、浅野家の家臣としてはやはりそれは悔しかったのでしょう。

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 で、元々浅野家の上屋敷前をわざわざ通ったということなのだと思う。

 まあ、もともとが仇討ちという行動自体が、内匠頭だけが切腹を命じられ、吉良上野介はお咎めなしという「片手落ち」の幕府の判断に対する抗議行動だったんですからね。

 一種の示威行動だったのかもしれない。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Chuo ©tsunoken

2016年12月13日 (火)

赤穂義士①なぜ彼らは両国橋を渡らなかったのか

 明日、12月14日は赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日であります。

 なので、今日から三日間、赤穂義士が討ち入りを終えて、泉岳寺まで歩いた通りに辿ってみたいと考えます。結構、距離があるんだよね。

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 見事、本懐を遂げた大石内蔵助と46名の仲間は吉良邸を後にして……

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 回向院と大徳院の間を通って、隅田川沿いに裏道を通って泉岳寺に向かうのだけれども、何故、すぐそばの両国橋を渡って江戸市中に入らなかったのか?

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 現在の一之橋を渡って……

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 芭蕉庵なんぞには目もくれずに……

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 萬年橋を渡り……

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 永代橋のそばまで来ると一休み。乳熊屋という味噌屋がたまたま上棟だったので、甘酒を義士たちにふるまったという。 義士の一人。大高源吾が乳熊屋の主人・竹口作兵衛と同じ俳人・其角の弟子だったということもあったそうだ。

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 で、最初のテーマ「なぜ、義士たちは両国橋を渡らなかったのか?」への答。

 やはり両国橋を渡ってしまうと、そのまま江戸城のそばを通らなければならなくなってしまい、「仇討ち」というご法度を犯した立場としては、江戸城のそばを通ることを避け、裏道ばかりを歩いたのだろう、ということ。まあ、そういうことだったんでしょうね。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Sumida ©tsunoken

2016年11月23日 (水)

立会川 坂本龍馬 浜川砲台

「立会川 坂本龍馬 浜川砲台」と言っても別に三題噺ではない。

 旧東海道品川宿をずっと南下して、立会川を渡る手前が京浜急行立会川駅。

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 その駅前に展開する立会川繁栄会商店街なんだけれども、その商店街の小さな公園に突然、二十歳の坂本龍馬像という銅像が建っている。

 えーっ? 何で、江戸に坂本龍馬像が? ってところなんだけれども。

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 立会川は浜川という名前で江戸湾に注いでいたが、その河口辺りに土佐藩鮫洲抱屋敷というのがあったそうだ。つまり、ここ浜川河口は土佐藩が藩から江戸藩邸に送る荷物を陸揚げしていた場所。まあ、土佐藩専用の港みたいなものだったそうだ。

 立会川をちょっと上って国道15号線の反対側には土佐藩下屋敷なんかもあった。

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 1854年1月、ペリーの二度目の来日に備え、土佐藩が幕府に願い出て急遽造ったのが、浜川砲台である。

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 浜川砲台には八門の大砲が供えられていたが、その内最大の「六貫目ホーイッスル砲」というのが復元されて浜川砲台に安置されている。

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 で、その浜川砲台には佐久間象山塾で砲術を学んでいた坂本龍馬も、当然参加していた訳だ。

 その経験は坂本龍馬が初めて外国の文化と接触した機会でもあった。

 ということで、見事三題噺は繋がったんであります。あれっ? やっぱり三題噺?

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 この復元事業を中心として担った品川龍馬会と復元事業への協力者の名前が銘板に記されている。

NIKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Higashi Oi Shinagawa ©tsunoken

2016年11月 8日 (火)

朝霞 柊塚古墳 一夜塚古墳

 5月18日のブログに書いた朝霞市の岡城(城山公園)のそばに「柊塚古墳」というのがあって、それは「柊塚古墳公園」という形で、昔のまま保存されているのだ。

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 ただし、本来は前方後円墳だったのだが、「前方」の部分は壊されてしまっていて、「後円」の部分しか残っていないので、見ると円墳のように見える。

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 本来はこんな形だったそうだ。

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 公園にはこんな家形の埴輪のようなトイレがかわいい。

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 柊塚古墳から少し歩くと朝霞市立第二小学校があって、その校庭には「一夜塚古墳跡」の碑がある。つまりこの一夜塚古墳をつぶして小学校が作られたのである。

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 ここは黒目川の河岸段丘上にあって、根岸古墳群といういくつかの古墳があったところなのだ。

 まあ、河岸段丘上にはだいたい集落があったので、その集落を束ねる豪族の墓が古墳ということなのだろう。

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 黒目川河畔から見上げた柊塚古墳。下の写真の真ん中にある森が柊塚古墳。黒目川からは20mほど上がったところにある。

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 ここも武蔵野丘陵の一番端のところなので、こうした集落が作りやすいところだったんだろうなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Asaka ©tsunoken

2016年11月 5日 (土)

東京 青梅 勝沼城

「勝沼城」って言ったら、そりゃ山梨県でしょう、と思ったのだが、そうではなくて東京都青梅市東青梅六丁目にあるらしいのだ。

 で、早速JR青梅線東青梅駅で降りて歩いていると、「城山通り」とか……

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「城前東通り」とかあって、いやあ妙に気がたかぶってきますねえ。

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 で、考えてみればこの道、5月の大和郷会のハイキングで来た吹上しょうぶ園や塩船観音へ行く道だった。

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 で、その吹上しょうぶ園へ行く道の手前で左に折れると、妙光院っていう曹洞宗のお寺がある。

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 で、そのお寺の裏の方に山へあがる道がある。これは行ってみるべきだな。

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 そこを上がってみると、ありました「勝沼城址歴史環境保全地域」という看板。

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 ただし、山の上に上がってみればそこはお寺の墓地になっていて、本丸跡などのようなお城の遺構はない。

 それでも山の上からは青梅市が見渡せる。多分、600年くらい前には霞川ばかりか、多摩川あたりまで見渡せたのではないだろうか。

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 更に墓地がある山の裏側は、現在は吹上しょうぶ園となっている湿地帯なので、まあ城の前後を川と湿地帯で守っていたということなのだろう。

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 そういえば、私が上がってきたこの道も、どこか空堀と両側の土塁に見えないこともない。

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 う~ん、やっぱりここは城跡なんだなあ。

 で、なんで「勝沼城」なのかといえば、実はこの近所にある青梅鉄道公園なんかがある別の山は「青梅市勝沼」という地名。つまり、昔はこのあたりも勝沼という地名だったんだろう。

 ということで、納得、納得。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f1:2.8 D @Ome ©tsunoken

2016年10月18日 (火)

「じょーもぴあ宮畑」って、すごいネーミングセンス

 まあ、アメフトが目的の今回の福島行、特に翌日の予定は入れてなかったんだが、取り敢えず観光場所だけは知らべておいた。

 しかし、「御倉邸」なんていう昔の日本銀行支店長の家を見たって面白くないし、「旧堀切邸」っていう古民家園なんて東京周辺にも沢山あるしなあ、ってことで宮畑遺跡という縄文時代の遺跡があるそうなので、そこに行くことにした。

 で、カーナビに「じょうもぴあ」と入力してもとんでもない場所に連れていかれてしまいそうになり、もう一度調べたら「じょうもぴあ」ではなくて「じょーもぴあ」なのだった。「じょうもんじだい」だから「じょうもぴあ」だと思ったら、福島弁では「じょーもんじだい」なんだなあ。

 スゴイ言葉のセンス。

 で、国道を走っていたら突然「← じょーもぴあ宮畑」っていう看板が。もう、危うく見落としちゃうじゃないかよ。

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 宮畑遺跡は、もともとは工業団地開発のために発掘調査をしていたところ、1998年に大型柱穴が出てきたことで大騒ぎになったそうで、2003年に国の史跡に指定され、市は保存を決定。2007年に「宮畑遺跡史跡公園」の愛称が「じょーもぴあ宮畑」に決まったそうだ。

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 じょーもぴあ宮畑の体験学習施設の展示室には「しゃがむ土偶」や……

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 さまざまな発掘された土器なんかが展示されている。

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 で、表に出てみると縄文晩期に作られた掘立柱建物群(大型柱穴の元はこれ)の集落や……

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 縄文中期の竪穴式住居などが再現されていて、昔の生活の様子が窺える。

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 特に掘立柱建物(三大丸山遺跡みたいなやつね)はムラの行事の際に使用されたと推定され、その掘立柱建物の周囲には幼児の墓と思われる甕が数多く発見されたそうだ。

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 まあ、縄文時代にロクな医療があったわけではないので、幼児の死亡率は相当高かったんだろう。で、そんな亡くなった子どもをいつまでも母親のそばに置いておきたいという気持ちが、そうした数多くの埋甕になったんだろうな。

 そんな「生と死」が隣り合った世界が古代の特徴だったんだろう。今でも、田舎の方へ行くと家を守るような小高い丘の上などに墓があったりする。そんな世界が昔は当たり前だったんだろう。

 その他、じょーもぴあ宮畑では「勾玉作り」「アンギン編み体験」「土偶作り」「縄文しおり作り」「火おこし」「弓矢体験」などの体験学習ができるようになっている。体験学習は日替わりなので、ホームページで調べて、ご来園ください。

 東北地方にはこうした縄文時代の遺跡が数多く見られ、弥生時代の遺跡が多い東海や関西地方とは大きく異なる部分でもある。私が東北系の人間だからだろうか、私はこうした縄文遺跡の方が弥生遺跡より好きなのだ。

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f1:2.8-4 D @Fukushima (c)tsunoken

2016年7月 3日 (日)

都立城北中央公園の栗原遺跡

 いよいよ今年もツール・ド・フランスがモン・サン・ミシェルからスタートして、Dデイで知られるオマハ・ビーチまでの第1ステージで開幕しました、またまた寝不足の三週間が始まった、というわけですが……。

 そんなこととは一切関係なく(まあ、それはしょうがないよな。ツールより先にブログ書いちゃってんだから)、都立城北中央公園っていうのは、ちょうど練馬区と板橋区の区境にあって、両区民の憩いの場となっているようだ(なんか他人事のようだなあ)。

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 元々は第二次世界大戦中に策定された防空緑地(空襲被害の拡大を防ぐために設置された緑地)の一つであり、戦後そのまま公園として整備され、陸上競技場、野球場、テニス場など、特にスポーツ施設を充実させた総合レクリエーション公園になった、というもの。

 だとすると、この東京少年鑑別所(練馬区にあるのでいわゆる「ネリカン」ってやつ)もその防空緑地の一部だったんだろうか。

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 一時期、敷地の一部が立教学院の総合グラウンドであったため(立教大学在学中の長嶋茂雄もこの場所まで練習に通っていた)、現在もスポーツ施設が充実している。

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 野球場も何面もあるし……

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 400mトラックがある陸上競技場や……

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 遊具を備えた児童公園なんかも完備されている。

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 が、その陸上競技場の裏側に行くと……。

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「栗原遺跡の竪穴住居跡」なんてのがある。

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 はるか昔、この地は石器時代の頃から人が住んでおり、縄文式、弥生式の集落があったそうだ。

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 まあ、確かに氷川台というのは石神井川沿いの河岸段丘にあるわけで、人が住むのには適していた場所なんだろうというのが分かる。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f1:2.8 D @Hikawadai Nerima (c)tsunoken

2016年6月19日 (日)

東京周縁部を往く・市川関所跡と国府台城

 京成本線国府台駅のそばに市川関所跡がある。

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 国道14号線(千葉街道)の市川橋のたもとの土手の上に矢印が。

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 で、ちょっと行くと「市川関所跡」がある。

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 説明板に曰く。

『江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。 奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌氏の宗長が、その時の紀行文『東路の津登(つと)』のなかで、市川に渡(わたり)があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場が設けられた。古くから渡があり、市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村一対で1つの関所として定められていた。 そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。 幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、2~3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方(おせきしょつきとせんのむらかた)」とも呼ばれた。
 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869年)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運航は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている』

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 そこから少し上流側に移動すると、そこは国府台城址なのだそうだ。

 ただし、こんな川っぺりに城があった筈はない。

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 多分、和洋女子大学や千葉商科大学がある河岸段丘上にあったと考える方が普通だろう。

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 つまり、もう一つの説の真間山弘法寺に城域があったと考える方が、その寺の広さから言っても、納得できる。

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 城から見下ろす市川の街。

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 更に江戸川も見下ろせて、この川が天然の濠であったのだろう。

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 という具合に納得。

NKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Kounodai Ichikawa (c)tsunoken

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