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2017年11月 1日 (水)

『通りすがりのあなた』の古くて新しさって

 昨日、無事手術は終わり、現在はICUで回復へ向けてリハビリ中。なのでこのブログは小人さんたちが、エッサカ・ヤッサカ上げてます。

 まあ、2~3日くらいで一般病棟に帰って、再びブログも再開できそうです……、ってなればいいな。

Photo_2 『通りすがりのあなた』(はあちゅう著/講談社/2017年10月1日刊)

 目次から本書の構成を見る。

「世界が終わる前に」
「妖精がいた夜」
「あなたの国のわたし」
「六本木のネバーランド」
「友達なんかじゃない」
「サンディエゴの38度線」
「世界一周鬼ごっこ」

 という、すべては男と女の関係に話は発するのだが、別に結婚話ではなくて恋愛話でもなくて、まあそれは「男と女」じゃなくても、あってもよさそうな話なんだが、でもやぱり「男と女」じゃないと成立しそうもない微妙な線の話ばっかりだ。まあ、女性作家っていうと、そのほとんどが「男と女の恋愛感情」にかかわる話ばっかりが求められるところから、そんな話を拒絶したいっていう、はあちゅうさんの思いのようなものが感じられる。

 はあちゅうさんは、慶応大学の学生時代に友人と書いていたブログが書籍化されて、まあそれはそれで「文壇デビュー」なんだけれども、まあ、ブログ本くらいじゃあ認められない文壇なので、はあちゅうさんとしてはなんとしてでも「文学誌」に書いて、その結果として書籍を出版し自分も「作家」として認めてほしいという願望が強かったんだろうか。

『この本では「名前の付けられない人間関係」を扱っています。日本は曖昧なものの美しさを愛でる国でありながら、人間関係だけは明確な名前が付いていて、その人間関係における一般的なルールからはみ出した人や「らしくない」振る舞いをした人を社会全体で叩く風潮があるように感じています。でも、人間ははみ出すものだし「らしくない」ことをするものだと思うのです。人の数だけ人間関係があっていいし、その関係性の数だけ、それぞれのルールがあっていい。誰かのルールにあてはまらない人間関係があっていいし、それをお互いに許容する社会であればいい。そんなことを最近思っています。友達でないけれど恋人とは言い難い人、、普段生きている場所は違っても心の支えになっている人、一度しか会っていなくても人生に大きなインパクトを残してくれた人……。呼び方のわからない人間関係を多く持てば持つほど、人生は彩り豊かなものになっていくように思います。この本は、曖昧なものを、曖昧なまま残しておくのもいいんじゃないかという私なりの提案です』

 っていうのが本書の最後「エンドロールのようなもの」における作者はあちゅうさん自身による『通りすがりのあなた』改題なんだが、ああ、そうかそれを引用しちゃうと、本書をまだ読んでいない人にはネタバレになってしまうなあ。いかん、いかん。

 つまりそういう小説なんだ。別に恋愛関係があるわけでもないし、男と女としての肉体的接触があるわけでもないし、人間関係においてストーリーの始めと終わりで特に大きな変化がないというストーリーなのだ。う~ん、それで小説として成り立つのか……、っていえば、別に成り立つわけなのですね。

「そういう関係も人間関係なんだ」って言っちゃえば、それはそれ。まあ、実を言うとそういう「何の変化もない普通の人間関係」が人と人との関係論の中で一番多い関係なんだ。でも、普通それを小説に書いちゃうと「ストーリーがない」と言って批判をされるんで、それを皆避けているというのが実際ではある。

 じゃあ、この小説が今までなかった全く新しい小説ジャンルなのかといえば……、実はそうでもないんだよなあ。つまり、日本には「随筆文学」という考え方があって、それはまああまりストーリーに起伏がないことが良いとされているジャンルの文学なんですね。

 そういう意味でいえば、このはあちゅうさんの「小説」は、新しくて古い文学なんだってことは言えるのであります。

 じゃあ、そこで描かれた世界についてお前はどう考えるんだ? って言われちゃうと、「まあ、そんなこともあるんじゃないの?」っていう、これまたいい加減な返事しか返せないのが、ちょっと情けない。

『通りすがりのあなた』(はあちゅう著/講談社/2017年10月1日刊)

2017_10_30_2

 いい天気なのはわかるんだけれども、建物の中にしかいないので、寒いのか暖かいのかが全く分からない、ってのがちょっと残念ですね。

2017年10月31日 (火)

『縮小ニッポンの衝撃』のなるほどなあ

 今年6月27日のブログ『未来の年表』で描かれている世界がマクロ的に「縮小ニッポン」をとらえたのに対し、同じ講談社現代新書の『縮小ニッポンの衝撃』は、まさしくNHKドキュメンタリーですね、見事なミクロ的視点からの証言集だ。

Photo 『縮小ニッポンの衝撃』(NHKスペシャル取材班〈大鐘良一・森田智子・花井利彦・田淵奈央・鈴木冬悠人・清水瑶平・植松由登/プロデューサー:天川恵美子・大鐘良一・高倉基也・小野寺広倫〉/講談社現代新書/2017年8月1日刊) 

 内容(章立て)は以下の通り:

プロローグ
第1章 東京を蝕む一極集中の未来 23区なのに消滅の危機(東京都・文京区)
第2章 破綻の街の撤退戦① 財政破綻した自治体の過酷なリストラ(北海道・夕張市)
第3章 破綻の街の撤退戦② 全国最年少市長が迫られた「究極の選択」(北海道・夕張市)
第4章 当たり前の公共サービスが受けられない! 住民自治組織に委ねられた「地域の未来」(島根県・雲南市)
第5章 地域社会崩壊集落が消えていく「農村撤退」という選択(島根県・益田市、京都府・京丹後市)
エピローグ 東京郊外で始まった「死の一極集中」(神奈川県・横須賀市)

 2006年に財政破綻に直面した北海道夕張市がある。夕張国際ファンタスティック映画祭なんかで有名な市なんだが、結局は炭鉱閉山の後の処理がちゃんとできていなかったための財政破綻なんだが、NHKの番組もそこからスタートしたのだった。

『「もしかしたら夕張の姿は、数十年の日本の未来図かもしれない……」
 NHK札幌放送局では、財政破綻当時から夕張市を継続的に取材してきた。破綻から10年を経たいま、行政や住民はどんな現実に直面し、格闘しているのか。今だからこそ顕在化してきた課題を徹底取材すれば、きっと夕張の特殊事情にとどまらず、日本全体へのヒントとなるはずだ。こう考え『NHKスペシャル 縮小ニッポンの衝撃』の企画はスタートした』

 というのがそもそものNHKの番組取材のきっかけだった。

 ところがその取材の過程でとんでもない情報が飛び込んでくる。

『日本有数のターミナル・池袋駅を有し、およそ29万人を抱える豊島区。人口は2000年以降、順調に増え続けている。ところが、3年前、民間の研究機関「日本創成会議」(座長・増田寛也元総務相)から驚きの発表が出された。「消滅可能性都市」のリストの中に、豊島区の名前が挙げられたのだ。まったく予想もしていなかった「消滅」の2文字に、区は大きなショックを受けた』

 その一番大きな要素は『豊島区は、25年以上にわたりほぼ毎年、「自然減」の状態が続いていたのである。他の自治体からの流入がなければ、とうの昔に人口減少が始まっていたのだ』。そしてさらに門田なのが『豊島区外から新たに転入してきた人の平均年収だ。その中の「20代の単身者」の欄に目を移すと、241万円とあった。2015年時点で、従来から区内に住み続けてきた同世代と比較すると、40万円以上も低いことが分かったのである』。

 そんな低年収の若者たちは当然ながら税負担の能力は低いし、多分非正規雇用の若者たちが多いだろう。で、当然そういう人たちが伴侶を見つけて結婚する可能性は低いし、ということは子供を作る可能性も低い。で、将来的には消滅可能都市になるっていう論法なのである。うーむ、それは確かにありそうな話だなあ。

 1920年に国勢調査を開始以来100年近い間増加を続けてきた日本の人口なんだが、2016年に発表された国勢調査(2015年)によると総人口は1億2709万人と、5年前の調査に比べて初めて減少に転じた年として、90万2667人の減少が確認されている。以降は、日本の総人口は(よほどの海外からの移住を受け入れない限り)順次減少していき、『未来の年表』によれば2053年には日本の人口は9,924人と一億人を切るそうだ。

 結局、我々はこれから先どうしたって縮小する日本と日本民族の前に立ち会わなければならない以上は、もはや覚悟を決めてかかるしかないのだろう。

『東京オリンピックから5年後にあたる2025年は、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる年である。この年以降、日本は5人に1人が75歳以上という超高齢社会に突入する。ニポンを支えてきた団塊の世代が医療や介護を受ける側にまわれるようになれば、消費は著しく減退するとともに、社会福祉費が増大し、国家財政が破綻の危機に瀕する。東京オリンピックは、縮小ニッポンがもたらす歪みが噴出し始める分水嶺となる。祝祭の先で私たちを待ち受けているのは、奈落の底へとつながる絶壁なのかもしれない。
 そうした厳しい状況の中で、私たちにできることは何か。それは、国も自治体も、そして私たち国民も、この過酷な現実をしっかり直視し、問題を先送りしないことしかない。その上で、これまで当たり前に思っていた行政サービスを諦めたり、自分たちの暮らす地域を縮めていくなど、一人ひとりが痛みを分かち合いながら、「撤退戦」に身を投じなければならないだろう。そこには地方と東京の差はない。私たちは、次の世代にこの日本をつないでいく責任を負う者として、縮小ニッポンの未来図と向き合う覚悟があるのか、今まさに問われているのである』

 撤退戦として戦うのか、あるいはいろいろな宗教的問題やら民族的問題を抱え込みながら海外からの移住を受け入れるのか、まあ、選択肢は二つに一つなんだから、問題の捉えかたは比較的単純だ。

 さあ、どうなんでしょうかね。

『縮小ニッポンの衝撃』(NHKスペシャル取材班〈大鐘良一・森田智子・花井利彦・田淵奈央・鈴木冬悠人・清水瑶平・植松由登/プロデューサー:天川恵美子・大鐘良一・高倉基也・小野寺広倫〉/講談社現代新書/2017年8月1日刊)

 本日、心臓手術を受けます。ICUに入ったりするんで、暫くはブログの更新はストップすると思いますが、いずれまた再開する際はTwitterやFaceBookでお知らせしますので、暫くお待ちください。

 では、行ってまいります……、なんちゃって、明日は更新しますので、ヨロシクね!

 

2017年10月15日 (日)

『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか?』っていう理由はわかっているんだが、でもそれが問題なんだなあ

 西森マリーさんていう人は、よくある外国人と日本人のハーフでバイリンガル、それを利用したタレントという位の認識しかなかったのだが、いつの間にかジャーナリストとして結構キチンとした仕事もやっていたんだなあ。

『今回の選挙は、都会の消費者(多文化尊重、学歴重視のホワイトカラー)と、田舎や工業地帯の生産者(額に汗して働くことを美徳としている信心深く愛国的な人々)の戦いでもありました。グローバル経済で消費者は得をして豊かになり、生産者は被害を被って生活が苦しくなったので、この大統領選はまさしく階級闘争だったのです。
 ただ、階級闘争戦略を用いて勝ったのは、階級闘争をお家芸とする民主党のヒラリーではなく、共和党のトランプだったわけです』

『私は2000年はゴア、2004年はケリー、2008年はヒラリーを応援していた極左環境保護派ではありますが、テキサスに住んでいるため隣人は皆、保守的なクリスチャン。ボランティア先のアニマル・シェルターでもふれ合う人のほとんどが保守派で、知り合いのほぼ全員が銃を持っている、という超保守的な環境にどっぷり浸かっています。
 今回の大統領選本選で、私の周辺の人々は皆トランプを積極的に応援していました』

 まあ、『2000年はゴア、2004年はケリー、2008年はヒラリー』が『極左』ってところにはちょっと引っかかってしまうが、要は2016年のアメリカ大統領選は「都会の民主派と田舎の保守派」の争いで、結局「田舎の保守派」が勝ったっていうことなんだな。それはいいけれど、その結果はどうなったんだろう。

 まあ、後出しジャンケンと言えばいえるんだけれども、実はそれは大統領選以前から分かっていたことでもあるんだ。

Photo 『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか? アメリカを蝕むリベラル・エリートの真実』(西森マリー著/星海社新書/2017年2月24日刊)

 ところでアメリカ人のパスポート所持率って知っていますか? これがなんと30%なんだそうだ。要は、国民の70%は海外に対して「行く気もないし、興味もない」っていう人たち。まあ、これについては日本人だって23%しかパスポートを持っていないんだから、あまり偉そうなことは言えないんだけれども、まあ、太平洋を挟んで両側の国の国民は海外への興味を持っていないってことなんだなあ。

 それは何故か? まずアメリカ人ってたかだかプロ野球のアメリカ選手権を「ワールドシリーズ」って名付けちゃうほど、「アメリカ=ワールド」だと思っている人が多い国民なのだ。更に言ってしまうと、それは「世界はアメリカとそうじゃない国」しかないと思っている人たちが多い。もっと言ってしまうと「世界中の人たちは英語(米語)を話していて、それ以外の言語はない」と思っている人たちがほとんどだってこと。つまり「世界一の田舎者」がアメリカ人の実像だってことなんだ。「アメリカ以外の世界のことを知ろうとしないアメリカ人」がものすごく多い国がアメリカなんだな。って、実際ヨーロッパから追い出されたように新天地を求めてアメリカ大陸にやってきて、アメリカ合衆国という新たな国を作った人たちの末裔が、何故、このように内向きになってしまったのか。まあ、それが一番不思議って言えば不思議なんだが。

『民主党派の人々は「そもそも金持ちは、何か悪いことをして小市民から搾取して金持ちになったに違いない」と信じています。ですから、金持ちには思い切り資産税をかけてやろうと思うわけです。
 一方、共和党派の人々は、「誰でも努力して一生懸命働き、絶好のチャンスに巡り会えれば金持ちになれる」と立身出世のアメリカン・ドリームを信じています。ゆえに、「もし自分が金持ちになったときには、せっかくがんばって働いて貯めた資産を子どもに残してあげたい」と思っているので、資産税に反対しているのです。
 富を憎む民主党がトランプを憎み、「富は勤労の成果・努力に対する褒美」と解釈している共和党派(特に福音派キリスト教徒)が大富豪のトランプを受け入れた、ということもいえるでしょう』

 というんだけれども、だとしたらそんな共和党派の人たちって、もはや「フロンティア」がなくなってしまい、それは「アメリカン・ドリーム」の終焉だってことに気付いていないのかもしれない。いつまでたっても「フロンティア」があるわけではなく、それは西海岸にまで開発の手が及んで以来消滅したんだが、それが同時に「アメリカン・ドリーム」の終焉だったということに気付いていない人たちがいるっていうことに気付かされたのが、実はドナルド・トランプの勝利だったのだ。

 既に「アメリカはもはや世界の警察ではない」とオバマが言ってから、「世界に冠たるアメリカ」なんてものは誰も信じなくなっている。勿論、それはアメリカ人自身がそれを自覚しているはずなんだけれども……。

 問題は、こうした「よその国に興味を持っていない」国民は戦争に走りやすいってことなんだ。外国のことをより知っていれば、そうした国と戦争を起こせば自分の国がどうなるかってことに考えが及ぶんだけれども、そうでない人々は簡単に「あの国はけしからん、つぶせ」ってなっちゃうんだなあ。まあ、日本にも「嫌韓」だとか「嫌中」だとかって、訳の分かっていない人はたくさんいるけどね。

『民主党派はアメリカは世界の中の一つの国にすぎず、アメリカ人は世界市民の一員で、アメリカ政府はアメリカ国民に対しても世界の国々の人々に対しても、金持ちに重税を掛けて富の再配分を行う義務があると思っています。
 共和党派、およびブルーカラーの民主党派は、アメリカは世界一ずばらしい自由な国で、均等に与えられた機会をうまく利用できれば大成功を収められると信じています。
 そして彼らは、世界一の偉大な国としてのアメリカの地位を守るためには、強い軍隊が必要だと思っています。
 彼らは戦争が好きなわけではありません。
 単に世界最強の軍隊を持っていたいだけなのです。
 圧倒的な軍事力があれば、他の国やテロリストたちは米軍から攻撃・報復されることを恐れて、はなっから戦争やテロなどを起こしはしないだろうということです。
 オオカミは自分が負けることが分かっているのでライオンにたてついたりしない、というのと同じです』

 まあ、ここにきてもやはりアメリカ人の夜郎自大な考え方が見えていますね。「Great America Again」とか「America First」とかのトランプ氏が言っている夜郎自大な言い方は、もはや世界のどこの国の首脳も口にしなくなっている(まあ、お隣の国の労働党委員長は別ですけれどもね)。

 アメリカの無知な庶民にとっては「Great America Again」とか「America First」っていう言葉は心地よく聞こえる言葉なのかもしれないが、傍の国の人間からすれば、それは危うい言葉であるわけだし、その裏に、「世界が見えていない同士の戦争」って言葉が張り付いているのだ。

 まあ、アメリカの庶民からしてみれば、アメリカが北朝鮮とかイランと戦争でも起こして初めて、自分たちの選択が間違っていたことに気付くんだろうけれども、その頃には、世界中で他の国を巻き込んで戦争が起きているってことを、アメリカ国民は知るべきだろうな。

『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか? アメリカを蝕むリベラル・エリートの真実』(西森マリー著/星海社新書/2017年2月24日刊)

2017年10月10日 (火)

『マンガで読む「応仁の乱」』を読んでみたんだが

 テレビで「今度の総選挙は関ケ原の戦いのような天下分け目の戦いっていうよりは、応仁の乱みたいな相乱れた戦いになる」って田崎史郎氏が言っていたその日に、本屋さんに行ったらこの本が平積みしてあったので、思わず取り上げたって訳なんだが……。

 本日、公示です。

『ぐだぐだな展開、ヒーロー不在。勃発から550年を経て、いよいよ残念な「地味すぎる大乱」を漫画界の巨匠はこう描いた!』

 って腰巻がイイネ!

 ただ、なんで「マンガ版」なんだろうか?

Photo_3 『マンガ日本の歴史22 王法・仏法の破滅――応仁の乱』(石ノ森章太郎著/中公文庫/1997年12月18日刊)

 で、どこが応仁の乱なのか? というか応仁の乱って、一体どんな戦争だったんだろうか?

『応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した』(Wikipedia)っていうのが、まあ一般的な応仁の乱の解説なんだが、じゃあ、要は今日告示される総選挙は、自民党か希望の党かっていう天下分け目の戦いではなくて、これから数年続くであろうこれから各党会派入り乱れての戦いの前哨戦っていうことなんだろうか。

 まあ、そのほうがありそうだな。

 という前に、取り敢えず「応仁の乱」って何だったのか、をマンガで振り返ってみることに。まあ、あまり日本史は得意でなかったってのもあるんだが。

『第六代将軍足利義教の専制は有力守護を淘汰し、西暦1449年(宝徳元年)義政が一四歳で将軍位に就いた頃は、有力守護の勢力均衡の上に成り立っていた<宿老政治>は機能麻痺に陥り、側近政治が擡頭した…。』

『畠山家では西暦1454年(享徳三年)八月弥三郎が家督となったが、翌年三月に持国が没すると、将軍義政は義就に弥三郎を攻めさせ家督を継がせ領国を安堵した…。』

『……四年後(長禄三年)、弥三郎が急死し、畠山家の内訌は収まったかに見えたが、弥三郎派はその弟の政長を擁立した…。』

『……将軍義政は20歳に成長 日野富子を室に迎えていた。』

『…幕政の乱れは、自ら重臣会議を主宰した将軍義政の生母・日野(裏松)重子をはじめ、世人から<三魔>と恐れられた乳人・今参局、有馬持家(奉公衆)、烏丸資任<公卿>らの側近の政務への容喙からもたらされた。』

『義政は一転して政長に畠山家の家督を認め、河内国に走った義就を追討させた。』

『……畠山義就は嶽山城に立て籠もり、畠山政長や山名宗全(持豊)など幕府の大軍を相手に二年余に亘り孤軍奮戦した。』

『十四歳から三〇歳まで、義政は将軍職につくづく疲れていた。引退を考えた義政は嗣子がなかったため、弟の浄土寺義尋(義視)を後嗣として還俗させた(寛正五年=西暦1464年12月2日。』

『…だが、翌西暦1465年(寛正六年)一一月二三日、正室日野富子が男児(後の義尚)を産む。わが子を将軍にと願う富子と義視の間に冷たい対立が生じていた。』

『打ち続く飢饉、悪政、守護大名の内訌と党派抗争、渦巻く民衆の不満…。
 それらが絡み合い、なによりも山城守護職の人事を軸に、<応仁の乱>は目前に迫っていた。』

 というのが「応仁の乱」前史。

 こうして義就と細川勝元を総大将とする戦いが都で始まって、それから一〇数年にわたり京を舞台にして戦いを繰り広げたのが「応仁の乱」。その後、守護職の統治力不足から、各地に国一揆が起こったのだが、それを抑えた細川政元が将軍職を傀儡化し、天皇をも実態を抜いてしまい、各地の守護大名たちが実力で領国を統治する戦国大名の時代になったのが、「応仁の乱」。

 つまり、応仁の乱とは、その後の戦国時代の幕開けを意味するということなんだなあ。

 つまり、現在圧倒的な力を持っている自民党も、希望の党の台頭に手を焼き、一方、自らの党内にも希望の党に与する裏切り者の台頭に悩まされる。じゃあ、希望の党の方はどうなんだといえば、それはそれで所詮2017年総選挙に勝つまでの、単なる表向きの合従連衡、選挙が終われば、終わったで責任の擦り付け合いやら、当選すればしたで、当選しちまえば関係ないとばかり脱党、離党はひきも切らないありさまで、何のために希望の党を結成したのか、言い出しっぺの小池百合子氏自身が訳も分からなくなってしまう。

 とはいうものの、小池百合子氏自身はなかなかしたたかに政界を生き抜くすべを心得ていそうなので、やがて織田信長が出てくるまでは生き残るかもしれない。

 一方、安倍晋三氏は残念ながら小池百合子氏ほどにはしたたかではない「お坊ちゃん」なところがある人だから、どこかでこの政局を投げ出してしまうのではないかという恐れこそあれ、最後までこの「応仁の乱」を生き抜くのかどうかは見えてこない。というか、多分健康上の理由でもって、ふたたび政治を投げ出してしまうという予想がする。

 で、結局その「漁夫の利」を得るのは小泉進次郎じゃないかと考えるんだが、どうだろうか。って、それじゃあ小泉進次郎が織田信長ってこと?

「自民党をぶっ潰す」なんて威勢の良いことを言って、総理大臣になり、郵政解散でもって選挙を生き抜いた父親に倣って、意外とこのプリンスの時代が早くやってきそうな気がするなあ。

 ってことで、この総選挙を応仁の乱にたとえた田崎さん。これでいいんでしょうかね。

『マンガ日本の歴史22 王法・仏法の破滅――応仁の乱』(石ノ森章太郎著/中公文庫/1997年12月18日刊)

2017年10月 2日 (月)

『第一次世界大戦 忘れられた戦争』って、本当に忘れられた戦争なんだろうか

 そうだったんだ。

「講談社学術文庫」っていうのは、以前に出版された学術書の中から、文庫版で出しても面白そうなものを再出版するというジャンルの本であり、本書も1985年に社会思想社から「現代教養文庫」として出版されたものの再刊だったんだ。

 なので、本書を現代における社会・歴史評論書として読んではいけないわけで、むしろ評価の定まった学術書として読むべきであり、今回私がとったようなドジでマヌケな本の読み方をしちゃいけないってことなんだ。

 つまり、何がドジでマヌケかと言えば、何となく最近書かれた歴史評論書として読んでしまったのだが、読む進めるうちになんか違うなあ、なんか現代評論じゃなくて歴史の事実を並べているだけだなあ、と思った時にはすでに遅く、本書を歴史評論として読んでしまっていた、ってことなんでした。

2 『第一次世界大戦 忘れられた戦争』(山上正太郎著/講談社学術文庫/2016年12月1日刊)

 とは言うものの、読み進めていくうちに、まあ、それでももう一度歴史、それも現代史を再読するのもいいなあ、と考えつつ、しかし、あまり現代における各国の関係論とは異なっていないとうのが気にかかった。

 要は「世界は西ヨーロッパを中心に回っている」という厳然たる事実なのである。

 まず本書の「はしがき」に書く。

『イギリスの歴史家、A・J・P・テイラーはその著『第一次世界大戦』のなかで、次のような意味のことを述べている。
 もしナポレオン・ボナパルトが一九一七年初めに生き返ったとしても、彼の時代とあまり変わらないヨーロッパ列強が、規模こそ大きいものの、同じような戦争をしている情勢にさして驚くこともあるまい、しかし一七年の末に生き返ったならば、彼は一方で、ボリシェヴィズムとその政権の成立に、一方で、ヨーロッパ外の一大強国、アメリカ合衆国の進出に驚き、当惑することであろうと。
 この機智に溢れる歴史家は続いて、一九一七年に古い意味でのヨーロッパ史は終わった、世界史が始まった、それはレーニンとウィルソンの年であり、現代世界誕生の、現代人出現の劇的な時機である、とまで書いている。』

 そして最後の項「さらば、ロイド・ジョージ」では

『ロイド・ジョージが属した自由党はそれ自体も分裂し、旧来の保守党と戦後、台頭した労働党との間にあって勢いを失っていった。かれは議席こそ保ったが、再び政権を握ることもなく、閣僚の地位に就くこともなかった。
 のみならずロイド・ジョージは自らも成立に関係したヴェルサイユ体制、ワシントン体制がドイツや日本などによって打破されてゆく現実を、まのあたりにしなければならず、また、彼も参画した国際連盟は国際秩序の混乱に対して、充分な機能を発揮すべくもなかった。パリ講和会議で解決できなかった諸国の植民地主義は、民族運動の波を高めた。世界大国アメリカ合衆国の登場、そのヨーロッパ経済への影響力、さらにソヴィエト連邦の不気味な発展は、有為にして少壮気鋭の政治家ロイド・ジョージが満喫したに相違ない「古き良きヨーロッパ」の影をますます薄めていった。政治上の活動で報いられなかった彼は、三〇年代、大戦や講和会議に関する回顧録の執筆に名を残すのみであった。』

 とまあ、歴史の連続性について書くのであった。その最後は

『二度の大戦において、英独の妥協的講話はありえなかった。前の大戦ではイギリスはアメリカの援助をもって、ドイツに対する勝利を得た。後の大戦ではイギリスはアメリカと、さらにソ連の助力によってドイツに対する勝利を得た。そして米ソ対立の「冷戦」である。
 ロイド・ジョージのおそらくは長すぎた政治上の生涯をよそに、大英帝国の面影は色あせ、「古き良きヨーロッパ」は在りし日の想い出となった』

 とまとめるのであるが、しかし、その後の時代における戦争の在り方を見ると、結局は第二次世界大戦は日本とドイツの敗戦という象徴的な出来事はあったとはいえ、それ以外の問題に関しては、何ら解決はあり得ず、いまだに民族主義と植民地問題の解決は遠く、「帝国」を名乗っていない「企業帝国」をバックにした帝国主義はさらに強化され、それこそ昔の宗教戦争が再び世界を覆っている。

 大体が、国際連盟はその常任理事国であった日本が脱退して、それが第二次世界大戦の引き金の一つになったわけだし、そう考えると自ら作った国際連合を後ろ向きにしか捉えることのできない政権がアメリカに登場してきたりして、もはや、その存在自体が危うくなってきたりしている。そうなると結局はEUあたりのような「独仏連合」が再び力をつけてきて、なんかまたまた世界の中心が西ヨーロッパに戻っていきそうな雰囲気であります。

 そんな、EUを脱退して孤立主義に移行しようとするイギリスと、国際連盟に後ろ向きのアメリカって、要はアングロサクソンの「世界後ろ向き外交姿勢」があって、ロシア帝国とモンゴル帝国のごとき中国が世界に覇権を求めようという動きは、なんだ単に第一次世界大戦前のヨーロッパを中心とした世界体制でしかない。

 アメリカはしきりに北朝鮮イビリをしているけれども、そんなものにはビクともしない朝鮮っていう構図は当たり前であるし、大体が朝鮮半島の国内問題である朝鮮戦争に対して、アメリカが直接乗り出してきたって勝てるわけがないのは、ベトナム戦争で随分勉強してきたはずのアメリカなんだが、まあ、アメリカ人の学習能力の低さなんだろうなあ。

 クルド人やスペインのカタルニア独立投票なんてのも、世界を動かしているもののひとつなんだろうけれども。

 まあ、そんなこんなのすべての世界の動きの中心がドイツやフランスを軸にして動いているんだなあ。って考えると、なんか国際政治ってものが見えてくるっていうか、なんかむなしくなってきますね。

 ましてや「コップの中の嵐」をしょっちゅうやっている極東の国にいると特にね。

 まあ、現代世界の歴史をもう一度お勉強しましょうっていう風に考えた時には、オススメ本ではありますが、だとしたら山川出版社あたりの「世界史」教科書なんかの方が読みやすくていいかもしれない。

『第一次世界大戦 忘れられた戦争』(山上正太郎著/講談社学術文庫/2016年12月1日刊)

2017年9月19日 (火)

『電通と博報堂は何をしているのか』だって? 何もやっていないに決まってるじゃん

 要は新聞ダネになった女性新入社員の自殺事件に関して、電通や博報堂が何をしてきたのか、そして現在何をしているのか、という本なんだが、そんなの決まってるじゃん。「何にもやってません」なんだよ。

 別に、悪いことをしたと思っている人はいないでしょうね、多分。

Photo 『電通と博報堂は何をしているのか』(中川淳一郎著/星海社親書/2017年3月24日刊)

 事件の概要は以下の通り。

『電通女性社員の自殺は労災 三田労基署、残業倍増を認定

 広告大手の電通に勤めていた高橋まつりさん(当時24)が昨年12月に自殺したのは、直前に残業時間が大幅に増えたのが原因だとして、三田労働基準監督署(東京)が労災認定していたことが7日、分かった。遺族代理人の川人博弁護士が明らかにした。認定は9月30日付。
 川人氏によると、高橋さんは東大卒業後の昨年4月、電通に入社し、インターネット広告などを担当した。本採用となった10月以降、業務が増加し、11月上旬にはうつ病を発症したとみられる。12月25日、東京都内の社宅から投身自殺した。
 労基署は発症前1カ月の残業時間は月約105時間に達したと認定。2カ月前の約40時間から倍増していた。
 高橋さんは「土日も出勤しなければならないことがまた決定し、本気で死んでしまいたい」「休日返上で作った資料をボロくそに言われた もう体も心もズタズタだ」などの言葉を会員制交流サイト(SNS)などで発信していた。
 電通は取材に「社員の自殺については厳粛に受け止める。労災認定については内容を把握していないので、コメントは差し控える」と説明した。
 都内で記者会見した母親の高橋幸美さん(53)は「労災認定されても娘は二度と戻ってこない。過労死等防止対策推進法が制定されたのに、過労死は起きた。命より大切な仕事はない」と訴えた』(日経新聞2016年10月/7日)

 う~ん、この高橋まつりさんっていう人、静岡の中高一貫校を出て東大文学部に入り、電通に入ったっていうんだけれども、学生時代に「週刊朝日」でアルバイトをしていたのが、広告業界入りする前のマスコミ業界経験。まあ、週刊誌にいたんならマスコミの労働荷重ぶりについては多少は知っていたんだろうけれども、まあアルバイトだからそこまでは知らなかったのかもしれない。でもね、多少自分の周りを見ていれば分かったはずなのよね、その程度のことは。

 で、もう一つ間違っちゃったのは「電通もマスコミ」だと思っていたところかな。「電通=広告代理店」自身がマスコミなわけないのであります。あくまでも「黒子」。それもメーカーだったり、流通業者だったりっていう、「地味~な」会社の、「地味~な」黒子なんですね。それをたまたま「週刊朝日」の経験があるから「自分もマスコミ志望だっ!」って言って、何で広告代理店なんかに入ったんだろうなあ。

 その昔、私が出版社に入った頃だから、今から40年ほど前か。人事の教育担当者から「これからは『広告代理店』って呼んじゃだめだ『広告会社』って呼べ。これからは『取次』って呼んじゃだめだ『販売会社』って呼べ」なんて会社の中で言われて、「う~ん。そんなもんかなあ」なんて考えて会社の中を見渡してみれば、結局、みんな「代理店」「取次」って呼んでいる。まあ、これからはクライアントとメディア企業の間で右往左往するだけの「代理店」じゃなくて、クライアントやメディア企業に対して、「いろいろ提案していく企業を目指す」なんてことを電通が言ったりしていたことを受けてのことなんだろうが、結局、クライアントから言われたことをそのまま社内外のクリエイター部門に(言われたことの意味も分からないままに)伝えるだけの「代理店」だったり、出版社と書店のあいだで言われたことをそのまま「オウム返し」に伝えて、結局は本を「出版社と書店の間で取り次ぐだけ」の「取次」っていう実際の業態にはなんの変化もないっていうことだけは証明されているわけなのだった。

 結局、高橋まつりさんの長時間労働に関していえることは

『なぜ、そんなことになるのかといえば、大いに影響しているのが「所詮は下請け業者」である点だ。ネットでは電通が日本の政財界すべてを牛耳り、猛暑やゲリラ豪雨まで電通が仕掛けたといった「ぬえ」のような存在として扱われているが、実態として私が感じるのは、「客に対して忠義を徹底的に尽くす社畜集団」という点だ』

 ということであり、ある種の「正論」として言えるのは

『僕の感覚だと、105時間の残業をしていたという高橋さんの残業時間は、『短かった』と思います。多分、デジタル界隈にたくさんいるヤバい人の時間と比較すると、そこまでではない。でもそれを「甘えだ」と言った人が出た。それはちょっと会社としてそのヤバさに気付いていないというか……。そういったことを安易に言えてしまうレベルの人がごろごろしているんです。漫画『ドラゴンボール』で『私の戦闘力は53万です』みたいなのがありましたが、仕事人としても同様の『戦闘力』みたいなものはある。300時間やっても死なない人を電通の社員は見てきた。だから、ハードル設定のミスというか、周囲とか上司にも勘違いがあったのではないでしょうか。個々人は耐性が違うんです。高橋さんの不安定さが浮き彫りになったツイートを見て思ったのは、採用ミスであり、配属ミスだということです』

 ということになる。

 別に、100~300時間くらいの残業は当たり前なのである。それがマスコミであり、広告代理店なんだよなあ。つまり、それが嫌だったら「入らなければいい」し、入ってから気づいたのであるならば「辞めればいい」のである。本人も「辞めたい」「耐えられない」って言ってたんだから、そうすればよかったのである。私たちの時代なんかに比べたら、はるかに会社を途中で辞めた人間に対する社会の扱いは「ユルく」なってきているし、転職の機会だっていくらでもある。ましてや東大卒だし。

 なんで、そんなにツラくてヤメたいのに会社を辞めなかったんだろうねえ。ってところに実は家族(母親)のプレッシャーがあったんじゃないかとも考えられてしまうのだ。勿論、100時間を超える残業を「させていた」んじゃなくて「していても何の注意も払わなかった」電通の方にも責任はあるんだろうけれども。もう一つ、家族間の話し合いってのも気になるのだ。

 なあーんてことを、結婚したばかりの頃に月に400~500時間位残業(家に帰るのは2~3日に1回位かな)をしていた私が言ってるんだが。月106時間位の残業なんてラクショーじゃん、なんて言ってはいけないのだろうか。

 今どき。

『電通と博報堂は何をしているのか』(中川淳一郎著/星海社親書/2017年3月24日刊)やっぱり星海社は講談社直接じゃないので電子版は遅いのかなあ。

2017年9月17日 (日)

作品展二日目だが『新しいメディアの教科書』について語る

 今日は講談社社友会作品展の二日目です。

 場所は、「雑司が谷地域創造館」地下一階(東京メトロ新都心線雑司が谷駅2番出口上がってすぐ)です。

 皆様のご来場を係一同お待ちしておりますです。

 で、そんなこととは関わりもなく、今日は佐々木俊尚氏の『新しいメディアの教科書』について語ります。久しぶりだなあ佐々木俊尚氏。

Photo 『新しいメディアの教科書』(佐々木俊尚著/Amazon Publishing/2017年7月14日刊)

 書くのが電子版だろうが、紙版だろうが佐々木氏のスタイルは同じである。つまり、最初に本書の構成を紹介する。

『第一章ではまず、これまでのインターネット広告モデルが生んできた落とし穴と、そこにネットメディアが引きずられてきた現状について解説する。
 第二章では、バズフィードをはじめとした新興メディアがどのような手法で巨大化してきているのかを見る。
 第三章では、この状況に危機感を感じている伝統的な新聞、ニューヨークタイムズの取り組みを紹介する。
 第四章では、記事や動画の制作方法でさえも大きく変わりつつあるということを解説する。
 そして第五章では、新興メディアとSNSの巨大プラットフォームがどのような関係になっているのかを見つつ、これからのメディア空間の可能性について論じる。』

 といっても、結論は簡単。ポイントは第五章。

『「良質なコンテンツ」「配信テクノロジー」「ネイティブ広告」は、メディアが進化していくうえで同時に揃わなければならない三つの重要な要素だ。新しいメディアの「三種の神器」と言えるだろう。

 良質なコンテンツ × 配信テクノロジー × ネイティブ広告

 もしこの要素が欠けているとどうなるか。それを浮き彫りにしたのが、二〇一六年末に日本のインターネットを震撼させた「キュレーションメディア」騒動だった。』

 つまりSNSはプラットフォームではあるけれども、メディアでは「本来」ないはずだ。

『このキュレーションメディア騒動は、二〇一〇年代におけるネットメディアの二つの本質的な不備を浮き彫りにした。
 第一は、それまで多くの人が信頼していたグーグルの検索エンジンの不備が明らかになったこと。そして第二は、ネットメディアのビジネスモデルに内在する構造的な欠陥が明るみに出たことである。』

 グーグルは自身「メディアである」とは公表していないし、自負もしていない。ある種の「プラットフォームとしての中立性」をいかに保つのかということに腐心してきた企業である。それは本来ディー・エヌ・エーだって同じはずだったのだが、どこかで自身が「プラットフォームなのかメディアなのか」を見失ってしまい、いつのまにやら「SNSもメディアのひとつである」と思い込むようになってしまった。そしてメディ企業としての矜持をなんらもつことなくメディアのようなふるまいをしてしまったことに、その原因があるのではないだろうか。

『たとえばグーグルはプラットフォームとして検索エンジンやストアでできる限りの中立を保とうとしているが、アップルはストアでの管理を強め、コンテンツやアプリの思想や品質を問うようになっている。グーグルは本来のインターネット的な企業だが、アップルはそうではない。故スティーブ・ジョブズは創業のころからハードウェアのオープン性を否定し、自社のコンピューターの第三者による改造を拒否し、気持ちの良いUIでユーザーを囲い込んでしまうという理想を描いていた。
 しかし巨大になるプラットフォームが垂直統合を目指すと、それは異様な独占支配を生みだしてしまう危険性がある。同時にプラットフォームは、マネタイズを強固にするために必ず垂直統合の方向へと進みたがる。これは大きなジレンマだ。』

 佐々木氏はプラットフォームがメディアのように振舞ってしまうことに対して、それを受け入れる立場のようだが、やはりそれは難しいだろう。プラットフォームはテクノロジーとともにあり、メディアはテクノロジーとは離れたところにある独自の存在だからだ。

 なんてことを言うと、それはメディアの特権性に対する無謬の思い込みだという批判が出そうだが、しかし、それは本来的には事実であるし、変わることはない真実でもあるのだ。

『一九九五年からの過去二十年のインターネットは、水平分離に向かって進んできた。今後の二十年はコンテンツを制作するメディア企業による新しい垂直統合も広がっていき、水平化と垂直化が同時に進む方向へとむかうだろう。メディアは垂直に文化を統合していき、プラットフォームは水平に基盤を提供していく。その二つの方向は縦横に交わりながら、二十世紀にはなかったまったく新しいメディア空間を創造していくのだ。』

 結局、プラットフォームとメディアは本来的に異なった存在なのであり、それを混同したときに間違いが生ずるっていうわけなんだ。プラットフォーム(企業)はプラットフォームとしての存在の仕方があるし、それをわきまえていれば問題はないのだ。がしかし、問題はそんなプラットフォーム企業の中にいる人間が持つ「メディアへの憧れ」のようなものなのかもしれない。いつしか、プラッフォーム企業の人間の中に芽生えてくるメディア・コンプレックスが自らをメディアであると錯誤し、メディアのように振舞ってしまうんだなあ。

『新しいメディアの教科書』(佐々木俊尚著/Amazon Publishing/2017年7月14日刊・Amazon Publishingなので、当然電子版のみです)

2017年9月15日 (金)

『ニッポンの奇祭』って、本当に「奇祭」なの?

 小林紀晴といえば、アジアで長いこと暮らしている、というかアジアの旅人のはずがいつの間にか旅人じゃなくなってしまった日本人、というかあるいは日本人バックパッカーに取材した『アジアン・ジャパニーズ』という、「写真+エッセイ」集が有名というか、多分、それが小林氏の、フリーとしてのデビュー作ではなかったのだろうか。

 その後、自らを主人公にしたような『写真学生』という小説(?)をものしたと思ったら、自分の生い立ちに大きな影響を与えた「諏訪の御柱祭」に材を撮った写真集で一躍有名になった写真家である。

 その小林氏が、御柱祭以外の日本の祭り(それもいわゆる「奇祭」と呼ばれているもの)を追いかけて作った「写真+エッセイ」集が、この『ニッポンの奇祭』である。まあ、初めから「奇祭」って言っちゃってるところが、ちょっとアレですけれどもね。

Photo 『ニッポンの奇祭』(小林紀晴著/講談社現代新書/2017年9月1日電子版刊)

 材をとった「奇祭」は以下の通り。

一 御柱祭/長野県諏訪地方
二 バーントゥ/沖縄県宮古島
三 ショチョガマ・平瀬マンカイ/鹿児島県奄美大島
四 ケベス祭/大分県国東市
五 銀鏡神楽/宮崎県西都市
六 椿山虫送り/高知県仁淀川町
七 大野の送神祭/埼玉県ときがわ町
八 テンゴウ祭り/埼玉県秩父市
九 脚折雨乞/埼玉県鶴ヶ島市
十 蘇民祭/岩手県奥州市
十一 相馬野馬追/福島県相馬市、南相馬市
十二 木幡の幡祭り/福島県二本松市
十三 和合の念仏踊り/長野県阿南町
十四 道祖神祭り/長野県野沢温泉村
十五 新野の雪祭り/長野県阿南町
十六 御射山祭/長野県富士見町

 以上の16の祭りなんだが、こうして眺めてみると、まあ世間に知られているということもあって、諏訪の御柱祭なんかは既に奇祭でもなんでもなくて、ごく普通の祭りに思えてくるから不思議だ。

 小林氏の祭りに向かう姿勢は以下の通り。

『諏訪は古くから狩猟採集の縄文文化が根強い地で、反ヤマト的な地といわれている。その影響で遅くまで稲作が行われなかったという説がある。むしろ稲作を最後まで拒んだともいわれている。それを『古事記』から読み解くこともできる。「国譲り」で大国主神は天照大神に国を譲ることを迫られる。そのとき大国主神の息子である建御名方神が激しく抵抗する。建御名方神は天照大神の使いである建御雷神と戦うが敗北し、出雲を追われ命からがら諏訪に逃げ、諏訪明神となるのだが、それ以前から諏訪には別の神の存在があった。洩矢と呼ばれる、縄文の流れをくむ土着の神だ。土地の精霊的な存在である(ミシャグチ神と同一とされることもある)。』

『普段は八ヶ岳の奥に息を潜め、古代以前の古層から密かに住み続けている縄文人、あるいは山岳少数民族が六年に一度だけ里に姿を現し、盛大に行う宴が御柱祭のような気がしてくるのだ』

『普段は穏やかでシャイな諏訪人が、人が変わったように祭りに熱狂する。そのさまがいつも気になっていた。それを縄文人、山岳民族の仕業だと考えれば納得がいったし、説明がつく。なによりそう考えれば、カメラのファインダー越しに遠く縄文から連なる古層の人々の姿を、まざまざと感じられる瞬間があった』

 そうか、ここにもあった「縄文人vs.弥生人」というものを対立する日本人の原像に対する概念と捉える考え方が。

 同じようなとらえ方をしたものに柳田国男の『遠野物語』があって、112段「ダンノハナ」の項にこうある。

『ダンノハナは昔館のありし時代に囚人を斬りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンンハナは大洞へ越ゆる丘の上にて館址よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷という四角に凹みたるところ多くあり。その跡くわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字をホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然殊なり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様なども巧みなり。埴輪もここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋などの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉も出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩ほどの場所なり。星谷は底の方今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありなしという。このあたりに掘れば祟りありという場所二ヶ所ほどあり』(岩波文庫版より)

 柳田国男は官吏であるから、決して「蝦夷vs.大和」「縄文vs.弥生」という対立構図は持ち込まないものの、やはり「日本人の原像」というテーマになると、現代人へと続く「弥生人、大和人」というものが決してリニアに現代へとは繋がっていないという点に注目する。

 やはりそこには「狩猟vs.農耕」「蝦夷vs.大和」という、それは歴史が進んでいく過程ではやむを得ない変化なんだろうけれども、ある種のノスタルジーと共に語られていくもんなのだろう。そして、古くから伝えられている「祭り」という「民族の意匠」の中にそれを発見しようとする、やむを得ない、人々の「思い」なんだろうな。

 はてさて、そうしてみると「奇祭」というものは、本当に「奇祭」なんだろうか、という疑問にブチ当たる。現代人の意匠から言えば、それは奇祭なんだろうけれども、古代からの日本人にとってみれば奇祭でもなんでもなくて、ごく普通に「そこにある祈り」みたいなものなんだろう。

 アジアにいる日本人バックパッカーを、もし最新の日本人の形とみなすならば、やはりその底流には、「奇祭」を信じる原・日本人みたいなものがあるのであり、最新の日本人をみながら、小林氏はそこに流れる原・日本人の「血」を見るのであろうか。

『ニッポンの奇祭』(小林紀晴著/講談社現代新書/2017年9月1日電子版刊)

 いやあ、久々の「本ブログ」でありました。

2017年8月20日 (日)

『ネットは基本、クソメディア』

 結局、かつて『ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は「2ちゃんねるはゴミため」という趣旨の発言をしたことがある。同じくジャーナリストだった故・筑紫哲也氏も「ネットの書き込みは便所の落書きのようなもの」と言っていたものだ』という時代とあまり変わっていないってことなんだな。

Photo_2 『ネットは基本、クソメディア』(中川淳一郎著/角川新書/2017年7月10日刊)

 タイトルは「ネットはクソメディア」と言っていながら、どうもそうではないような言い回しが気になるんだなあ。

『タモリ、明石家さんま、ビートたけし、イチロー、安倍晋三といった誰もが知っている人物についてグーグル検索をすると、1ページ目にはウィキペディアや公式ページが出たり、多くの人に読まれたであろうニュースが出たりする。しかし、テレビを見ていて「この人ってどんな人だっけ……」と思う人物が出てくると途端に怪しげなメディアが続々と1ページ目に表示されることが多くなっている。
 こういったサイトが「信頼性の高いサイト」としてグーグルからは上位に表示されるようになっているのだが、こうした「このキーワードを入れれば人々の関心を呼ぶだろう」と考えた結果の構成である。これらのサイトの特徴は芸能人の名前が基本的にフルネームで書かれており、ダラダラと一つの記事が長いことである。グーグルがここを評価し、検索上位にしてくれる、という情報がサイト管理人達の間で共有されていると見られる』

『旧来型のメディアでは基本的には「取材をする」ことがベースにあった。事件や事故の現場に行き、周囲の人の話を聞く。何かの事象について、専門家のコメントを取る。こうしたやり方を「足で稼ぐ」と呼び、メディア人にとっての報道するにあたっての矜持となっていた。
 一方、ネット時代になると、スペースが無尽蔵になったため、紙や電波では載せないレベルのものであろうとも、載せる場所だけはあるためキャッチーな記事に仕立てあげられたならば載せるという判断をする。だからこそ、芸能人がコストコで購入した戦利品を公開したり、女子会をしたことをブログで報告したりすればニュースになる』

 と、こうなってしまうと基本に立ち返って「ネットはメディアなのか?」という疑問を再び繰り返さざるを得なくなるのだ。

『まだネットに対する希望に溢れている2009年に私は『ウェブはバカと暇人のもの』という本を書き、ネット編集者の立場からネットへの幻想を批判した。2013年に『ネットのバカ』を書き、ネットがもはや「普通の人」たちのものになったことを指摘した。本書を出すことになった2017年、ネットの影響はさらに大きくなった。テレビ・新聞・雑誌・ラジオという既存の4マスメディアであってもネットの発信力を活用したり、ネット発のニュースを大々的に取り上げたりしている。
 しかし、ネットの実態はまだまだ無法地帯であり、ゲス業者とクソ記事が溢れる地獄絵図でもある』

 つまりそれは「普通の人」たちのものから「普通の人たちを利用するもの」になってしまったってこと。

『かつて私はラジオでもっとも信頼できるネットメディアについて聞かれて、新聞社・通信社・テレビ局の情報を除けばヤフーであると語ったことがある。それは圧倒的なPVがあること、そのおかげで制作費もそれなりに充実してそこに手間が掛けられること、加えてメディアとして信頼されるものでなくてはならないという強い自負があることなどが理由だ。私自身がネット編集者として記事を配信するなかでも、もっともチェックが厳しいメディアであるという印象を受けている』

 という時点では、まだ「ネットもメディアである」という意識があったんだが

『「まとも」に作っておけば問題がない手法だったにもかかわらず、著作権に疎く、編集・執筆の実際に疎い者達がカネのためだけにメディア事業を運営したことが問題だったのだ。また、「所詮は文字と写真、別に誰も死なない」「我々はネットの新興メディアだから、それなりのやんちゃは許される」といった意識があったのかもしれない。そこまでの問題は起きないという危機意識のなさもあったことだろう。
 今回、様々なニュースでは「WELQ問題」や「DeNA問題」といった報じられ方もあったが、WELQや、それを抱えるDeNAだけの問題というわけではない。むしろ、ネットメディア全体のコンテンツの作り方と、ビジネスのあり方について問題視しなくてはならないのだ』

 という時点では、もはや「ネットはメディアではない」単なる情報の糞溜めだっていうことになるんだが、それは当たり前のこと。

 と言ってねえ、

『ネットと上手く付き合う10カ条』ってのがあるんだが

『①グーグルは全面的に信用するな
②クソサイト独特の文体や、記事の長さ、ページ構成を理解せよ
③信頼できるサイトを見つけ、そこを情報源にする
④RT、シェアする前に一呼吸
⑤ヤフーが頻繁に選ぶメディアをチェック
⑥ニュースアプリだけではダメ
⑦大企業・官公庁はそれなりに信頼できるので、確認するにはそれらをチェック
⑧健康情報は安易に信じるな
⑨センセーショナルな話、いい話、ウィットに富んだ話は疑ってかかれ
⑩良質な情報獲得には時にお金を払う必要があることを理解する』

 ってなっちゃうと、なんかどんどん当たり前すぎて読む気にもならなくなってくる。

 要は「ネットで」「タダで」入ってくる情報なんて、基本的に情報としてのない、クソみたいな情報でしかないということ。「タダで」入ってくる情報なんていうものは、基本的にその情報の発信者が何らかの理由があって「タメにする」目的で流したものに決まってるじゃん、っていうメディア企業にいたら当たり前の価値判断でしかないのである。

 なんか中川淳一郎氏自身がネット企業との仕事が多すぎて、なんかネット寄りに劣化してきてるんじゃないかとも思えてしまうのだ。

 もうちょっとはまともなネット・ジャーナリストだと思っていたんだが、どうもそうではなくなってしまったようだ。

『ネットは基本、クソメディア』(中川淳一郎著/角川新書/2017年7月10日刊)

2017年8月13日 (日)

『宝くじで1億円当たった人の末路』って、まあ、そんなもんです

「末路」っていうのは、基本的には「最後の姿」のことなんだが、まあ、あまりいい意味では使いませんね。行ってみれば「人生のなれの果て」ってな意味だもんなあ。

 でも、私なら宝くじで1億円当たっても、この本の例の人みたいにはならない自信はある。なぜか、それは私には「同調圧力」は関係ないからなのだ。そんなものに左右されていたら、今の私はあり得ません。まあ、その分、会社人間としては出世ができなかったわけなんですけれどもね。

 で、「宝くじ」に関する末路から考えた結論っていうのが、これなわけです。

『人生もビジネスも「リスクを取ってリターンを取りに行く作業」の繰り返し。その際。何より大事なのは、目の前のリスクとリターンを正確に見極めることです。リスクもリターンも過大評価していては、人生も仕事もろくなことにはなりません』

 まあ、要は「リスクを過大評価」してもいけないし、「リターンに過大な期待」をしてもいけないってことでしょう。

 って、あまり夢もないことなんだが、まあ、それもそうだってことにして考えると、どんどん人生が相対化されてしまう。

Photo 『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行著/日経BP社/2017年3月28日紙版刊・2017年3月22日電子版刊)

 でまあ、いろいろな人の「末路」を書いてある本なんだけれども、じゃあどんな人たちの末路なのかといえば……

第1章 やらかした人の末路
 宝くじで1億円当たった人の末路
 事故物件を借りちゃった人の末路
 キラキラネームの人の末路

第2章 孤独な人の末路
 「友達ゼロ」の人の末路
 子供を作らなかった人の末路
 教育費貧乏な家庭の末路
 賃貸派の末路

第3章 逃げた人の末路
 自分を探し続けた人(バックパッカー)の末路
 留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路
 「疲れた。海辺の町でのんびり暮らしたい」と思った人の末路

第4章 変わった人の末路
 電車で「中ほど」まで進まない人の末路
 「グロい漫画」が好きな人の末路
 外国人観光客が嫌いな人の末路

第5章 怠惰な人の末路
 癖で首をポキポキ鳴らし続けた人の末路
 8時間以上寝る人の末路
 いつも不機嫌そうな上司の末路
 体が硬い人の末路

第6章 時代遅れな人の末路
 禁煙にしない店の末路
 日本一顧客思いのクリーニング店の末路
 リモコン発見器の末路

第7章 仕事人間の末路
 ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路
 ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路?
 男の末路
 アジアの路上生活障害者の末路

 ってな具合なんだが、何だ、別に悩むようなことじゃないじゃないか、といったテーマが多いんですね。

 要は日本の社会にはびこる「同調圧力」ってやつが、基本的に人の生きにくさにつながって、それが「〇〇な人の末路」ってことになるわけなんですね。

 なので、最後の結論。

『表面だけつながった薄っぺらな友達なんてゼロで構わないし、これからの社会は一生賃貸派でも何の問題もありません(「事故物件」には気をつけるべきですが)。お金がなければ身の丈以上の教育費を投じるのではなく、親が子供を教育すればいいし、子供に奇抜な名前を付けてまで個性的な人間に育てる必要などありません(キラキラネームを付ければ個性的に育つと考えるのはそもそも根本的な誤解です)。 自分が納得していれば、他人がどう言おうと「バックパッカー」になって世界を旅すればいいし(「学歴ロンダリング」はなかなかうまくいきませんが)、「海辺の町でのんびり暮らしたい」と思えば、それもいいでしょう(一定の社交性は必要です)。「グロい漫画」が好きなら心行くまで読めばよし、いくら政府が観光立国だ、おもてなしだと騒いでも、「外国人観光客」が嫌いなら無理しておもてなしをしなくてもよし。〝意識高い系〟の人に睡眠時間の短さを自慢されても、体が欲しているなら、知らん顔をして「8時間以上の睡眠」を確保しましょう。 自分が望むことを貫けば、毎日の仕事だって、ずっと楽しくなるはずです。「日本一顧客思いのクリーニング店」の社長は、過酷な仕事なのに元気一杯でした。「リモコン発見器」の開発者も、大企業の技術者よりずっと幸せそうです。楽しく一生懸命仕事をすることは、「アジアの路上生活障害者」の希望にまでつながっています。
 同調圧力なんて関係ない。今日から自分がやりたいことをやり、やりたくないことはやめましょう。お金なんて必要最低限あればいいんです。「宝くじで1億円」当たっても、ろくなことはないんですから』

 って結論だったら、もはや何も言うことはない。

「そんなの当たり前でしょ」

 で、済ましちゃえばいいことなのであります。

『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行著/日経BP社/2017年3月28日紙版刊・2017年3月22日電子版刊)

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