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2017年8月20日 (日)

『ネットは基本、クソメディア』

 結局、かつて『ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は「2ちゃんねるはゴミため」という趣旨の発言をしたことがある。同じくジャーナリストだった故・筑紫哲也氏も「ネットの書き込みは便所の落書きのようなもの」と言っていたものだ』という時代とあまり変わっていないってことなんだな。

Photo_2 『ネットは基本、クソメディア』(中川淳一郎著/角川新書/2017年7月10日刊)

 タイトルは「ネットはクソメディア」と言っていながら、どうもそうではないような言い回しが気になるんだなあ。

『タモリ、明石家さんま、ビートたけし、イチロー、安倍晋三といった誰もが知っている人物についてグーグル検索をすると、1ページ目にはウィキペディアや公式ページが出たり、多くの人に読まれたであろうニュースが出たりする。しかし、テレビを見ていて「この人ってどんな人だっけ……」と思う人物が出てくると途端に怪しげなメディアが続々と1ページ目に表示されることが多くなっている。
 こういったサイトが「信頼性の高いサイト」としてグーグルからは上位に表示されるようになっているのだが、こうした「このキーワードを入れれば人々の関心を呼ぶだろう」と考えた結果の構成である。これらのサイトの特徴は芸能人の名前が基本的にフルネームで書かれており、ダラダラと一つの記事が長いことである。グーグルがここを評価し、検索上位にしてくれる、という情報がサイト管理人達の間で共有されていると見られる』

『旧来型のメディアでは基本的には「取材をする」ことがベースにあった。事件や事故の現場に行き、周囲の人の話を聞く。何かの事象について、専門家のコメントを取る。こうしたやり方を「足で稼ぐ」と呼び、メディア人にとっての報道するにあたっての矜持となっていた。
 一方、ネット時代になると、スペースが無尽蔵になったため、紙や電波では載せないレベルのものであろうとも、載せる場所だけはあるためキャッチーな記事に仕立てあげられたならば載せるという判断をする。だからこそ、芸能人がコストコで購入した戦利品を公開したり、女子会をしたことをブログで報告したりすればニュースになる』

 と、こうなってしまうと基本に立ち返って「ネットはメディアなのか?」という疑問を再び繰り返さざるを得なくなるのだ。

『まだネットに対する希望に溢れている2009年に私は『ウェブはバカと暇人のもの』という本を書き、ネット編集者の立場からネットへの幻想を批判した。2013年に『ネットのバカ』を書き、ネットがもはや「普通の人」たちのものになったことを指摘した。本書を出すことになった2017年、ネットの影響はさらに大きくなった。テレビ・新聞・雑誌・ラジオという既存の4マスメディアであってもネットの発信力を活用したり、ネット発のニュースを大々的に取り上げたりしている。
 しかし、ネットの実態はまだまだ無法地帯であり、ゲス業者とクソ記事が溢れる地獄絵図でもある』

 つまりそれは「普通の人」たちのものから「普通の人たちを利用するもの」になってしまったってこと。

『かつて私はラジオでもっとも信頼できるネットメディアについて聞かれて、新聞社・通信社・テレビ局の情報を除けばヤフーであると語ったことがある。それは圧倒的なPVがあること、そのおかげで制作費もそれなりに充実してそこに手間が掛けられること、加えてメディアとして信頼されるものでなくてはならないという強い自負があることなどが理由だ。私自身がネット編集者として記事を配信するなかでも、もっともチェックが厳しいメディアであるという印象を受けている』

 という時点では、まだ「ネットもメディアである」という意識があったんだが

『「まとも」に作っておけば問題がない手法だったにもかかわらず、著作権に疎く、編集・執筆の実際に疎い者達がカネのためだけにメディア事業を運営したことが問題だったのだ。また、「所詮は文字と写真、別に誰も死なない」「我々はネットの新興メディアだから、それなりのやんちゃは許される」といった意識があったのかもしれない。そこまでの問題は起きないという危機意識のなさもあったことだろう。
 今回、様々なニュースでは「WELQ問題」や「DeNA問題」といった報じられ方もあったが、WELQや、それを抱えるDeNAだけの問題というわけではない。むしろ、ネットメディア全体のコンテンツの作り方と、ビジネスのあり方について問題視しなくてはならないのだ』

 という時点では、もはや「ネットはメディアではない」単なる情報の糞溜めだっていうことになるんだが、それは当たり前のこと。

 と言ってねえ、

『ネットと上手く付き合う10カ条』ってのがあるんだが

『①グーグルは全面的に信用するな
②クソサイト独特の文体や、記事の長さ、ページ構成を理解せよ
③信頼できるサイトを見つけ、そこを情報源にする
④RT、シェアする前に一呼吸
⑤ヤフーが頻繁に選ぶメディアをチェック
⑥ニュースアプリだけではダメ
⑦大企業・官公庁はそれなりに信頼できるので、確認するにはそれらをチェック
⑧健康情報は安易に信じるな
⑨センセーショナルな話、いい話、ウィットに富んだ話は疑ってかかれ
⑩良質な情報獲得には時にお金を払う必要があることを理解する』

 ってなっちゃうと、なんかどんどん当たり前すぎて読む気にもならなくなってくる。

 要は「ネットで」「タダで」入ってくる情報なんて、基本的に情報としてのない、クソみたいな情報でしかないということ。「タダで」入ってくる情報なんていうものは、基本的にその情報の発信者が何らかの理由があって「タメにする」目的で流したものに決まってるじゃん、っていうメディア企業にいたら当たり前の価値判断でしかないのである。

 なんか中川淳一郎氏自身がネット企業との仕事が多すぎて、なんかネット寄りに劣化してきてるんじゃないかとも思えてしまうのだ。

 もうちょっとはまともなネット・ジャーナリストだと思っていたんだが、どうもそうではなくなってしまったようだ。

『ネットは基本、クソメディア』(中川淳一郎著/角川新書/2017年7月10日刊)

2017年8月13日 (日)

『宝くじで1億円当たった人の末路』って、まあ、そんなもんです

「末路」っていうのは、基本的には「最後の姿」のことなんだが、まあ、あまりいい意味では使いませんね。行ってみれば「人生のなれの果て」ってな意味だもんなあ。

 でも、私なら宝くじで1億円当たっても、この本の例の人みたいにはならない自信はある。なぜか、それは私には「同調圧力」は関係ないからなのだ。そんなものに左右されていたら、今の私はあり得ません。まあ、その分、会社人間としては出世ができなかったわけなんですけれどもね。

 で、「宝くじ」に関する末路から考えた結論っていうのが、これなわけです。

『人生もビジネスも「リスクを取ってリターンを取りに行く作業」の繰り返し。その際。何より大事なのは、目の前のリスクとリターンを正確に見極めることです。リスクもリターンも過大評価していては、人生も仕事もろくなことにはなりません』

 まあ、要は「リスクを過大評価」してもいけないし、「リターンに過大な期待」をしてもいけないってことでしょう。

 って、あまり夢もないことなんだが、まあ、それもそうだってことにして考えると、どんどん人生が相対化されてしまう。

Photo 『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行著/日経BP社/2017年3月28日紙版刊・2017年3月22日電子版刊)

 でまあ、いろいろな人の「末路」を書いてある本なんだけれども、じゃあどんな人たちの末路なのかといえば……

第1章 やらかした人の末路
 宝くじで1億円当たった人の末路
 事故物件を借りちゃった人の末路
 キラキラネームの人の末路

第2章 孤独な人の末路
 「友達ゼロ」の人の末路
 子供を作らなかった人の末路
 教育費貧乏な家庭の末路
 賃貸派の末路

第3章 逃げた人の末路
 自分を探し続けた人(バックパッカー)の末路
 留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路
 「疲れた。海辺の町でのんびり暮らしたい」と思った人の末路

第4章 変わった人の末路
 電車で「中ほど」まで進まない人の末路
 「グロい漫画」が好きな人の末路
 外国人観光客が嫌いな人の末路

第5章 怠惰な人の末路
 癖で首をポキポキ鳴らし続けた人の末路
 8時間以上寝る人の末路
 いつも不機嫌そうな上司の末路
 体が硬い人の末路

第6章 時代遅れな人の末路
 禁煙にしない店の末路
 日本一顧客思いのクリーニング店の末路
 リモコン発見器の末路

第7章 仕事人間の末路
 ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路
 ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路?
 男の末路
 アジアの路上生活障害者の末路

 ってな具合なんだが、何だ、別に悩むようなことじゃないじゃないか、といったテーマが多いんですね。

 要は日本の社会にはびこる「同調圧力」ってやつが、基本的に人の生きにくさにつながって、それが「〇〇な人の末路」ってことになるわけなんですね。

 なので、最後の結論。

『表面だけつながった薄っぺらな友達なんてゼロで構わないし、これからの社会は一生賃貸派でも何の問題もありません(「事故物件」には気をつけるべきですが)。お金がなければ身の丈以上の教育費を投じるのではなく、親が子供を教育すればいいし、子供に奇抜な名前を付けてまで個性的な人間に育てる必要などありません(キラキラネームを付ければ個性的に育つと考えるのはそもそも根本的な誤解です)。 自分が納得していれば、他人がどう言おうと「バックパッカー」になって世界を旅すればいいし(「学歴ロンダリング」はなかなかうまくいきませんが)、「海辺の町でのんびり暮らしたい」と思えば、それもいいでしょう(一定の社交性は必要です)。「グロい漫画」が好きなら心行くまで読めばよし、いくら政府が観光立国だ、おもてなしだと騒いでも、「外国人観光客」が嫌いなら無理しておもてなしをしなくてもよし。〝意識高い系〟の人に睡眠時間の短さを自慢されても、体が欲しているなら、知らん顔をして「8時間以上の睡眠」を確保しましょう。 自分が望むことを貫けば、毎日の仕事だって、ずっと楽しくなるはずです。「日本一顧客思いのクリーニング店」の社長は、過酷な仕事なのに元気一杯でした。「リモコン発見器」の開発者も、大企業の技術者よりずっと幸せそうです。楽しく一生懸命仕事をすることは、「アジアの路上生活障害者」の希望にまでつながっています。
 同調圧力なんて関係ない。今日から自分がやりたいことをやり、やりたくないことはやめましょう。お金なんて必要最低限あればいいんです。「宝くじで1億円」当たっても、ろくなことはないんですから』

 って結論だったら、もはや何も言うことはない。

「そんなの当たり前でしょ」

 で、済ましちゃえばいいことなのであります。

『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行著/日経BP社/2017年3月28日紙版刊・2017年3月22日電子版刊)

2017年8月 6日 (日)

戸越銀座でつかまえて

 私もよく行く戸越銀座。東京メトロ南北線が東急目黒線(昔は目黒と蒲田と結んでいたので「目蒲線」って言ったんだけれどもね)に直通してくれているおかげで、駒込から武蔵小山まで直で行けて、そのまま戸越銀座まで歩いていく道すがらは、結構好きな散歩写真の道だったりする。

 で、その戸越銀座ってどんなところよ、ってところに結構「向き」の本が出ていた。

『明治時代までは水田地帯だったこの地域に人が集まり始めたのは、大正時代前半のことだ。現在のJR山手線の大崎、五反田駅界隈の目黒川沿いに大きな工場が建ち、その周辺が住宅地として発展した。
 池上線が戸越銀座まで延伸したのは昭和二(一九二七)年。住宅が密集しすぎているから大規模な再開発をすることはできず、もちろんマイナーチェンジは繰り返しているものの、町のつくりは戦前からさほど変わらず、現在に至っている。駅舎はいまでも木造だ』

 品川区に属する戸越銀座なんだが、京浜東北線以東の品川区とはだいぶ趣を異にする品川区なんだよね。まあ、下町。っていうか江東区辺りの「下町」っていう雰囲気。

 嫌いではない。

Photo 『戸越銀座でつかまえて』(星野博美著/朝日文庫/2017/1/6刊)

『生まれて初めて親しむ線路によって、その人間の世界観はおおむね作られる。その鉄道を基準鉄道と呼び、駅を基準駅と呼ぶ。誰も賛同しないかもしれないが、私の持論だ』

『私にとっての基準鉄道は三両編成の東急池上線であり、基準駅は戸越銀座駅だった。線路の行き着く果ては、見知らぬ世界でも何でもなく、五反田と蒲田。駅で人を見送るのは家族がどこかへ出かける時で、しかも彼らは夜には家に戻ってきた。ロマンのかけらもない。  第二基準鉄道は山手線で、基準駅は五反田だ。しかしあろうことか、この鉄道には始発駅も終着駅もなく、ぐるぐる永遠に回っている。どこへも到達できない』

 ふ~ん、そんな閉塞感が彼女をして「旅ライター」となさしめたのか?

『若い頃から目指してついた職業なのかというと、そういうわけでもない。確かに異文化を知りたいという熱意はあったが、だからといってカメラマンやライターという職業をイメージしていたわけではない。大学卒業後は一般の会社に就職したし、なりゆきでこうなった』

 とはいうものの、写真家・橋口譲二氏のアシスタントになった時点で、なぜか思うところはあったんだろう。つまり<写真家→旅がつきもの>という具合にね。

『私はたまたま写真や文章の仕事を始めるきっかけになったのが旅行記で、その後も旅にまつわる仕事が割と多かったので、旅行の好きな人間だと思われている』

 いやいや、それは「潜在的なもの」なのかもしれないが、「写真家」を職業として選択した時点で、実はどこかに「旅」へのあこがれがあったんだろう。

『あまりに臆病な子どもだった反動からか、自力で旅行ができるようになると、たがが外れたように旅行をした。無茶な旅行をするのは簡単だ。資金が足りなければ、旅はいきおい無茶で刺激的なものになる』

『しかし一方ではこうも思う。商店街の端にさえ行けなかった仔猫のような子どもと、もっと遠くへ、見知らぬ場所へ行きたがった旅人。
 いまの私には、臆病だった自分のほうが、生き物として信用できるような気がするのだ』

 しかし、そんな旅の毎日も日常的になってしまえば、どこかに違和感を感じるのではないだろうか。つまり、「旅」というのは、「日常からの逃避」であったり、自らの「日常性からの飛翔」だったりするものである。勿論、そんな「非日常性が日常化してしまう逆転現象」「非日常の日常化」に倦む時期がやがてやってくる。で、そんな時、写真家は生まれ故郷に帰りたくなるのかもしれない。

『本書は、生き方を見失った私が、何かを取り戻すため、実家のある戸越銀座に帰ったところから始まる。
 何かをつかまえることはできるのだろうか。
 それとも、また何かを失うのだろうか。
 それは私にもわからない。』

 っていうんだけれども、別にそういうことではないでしょう。

「生き方を見失う」っていうのは、何も仕事をしているからそうなるわけでもなく、別に仕事をしていないからってそうなるわけでもない。まあ、いろいろなきっかけがあって、何となく「自分は生き方を見失っているのではないか」と感じるとき・感じるところが誰にでもやってきたりするんだ。

『戸越銀座には無数のお年寄りが暮らしている。そこに同じ人生は一つもない。彼らが昔どんな社会的地位に置かれ、どれだけの資産を持ち、あるいは持たず、どんな道のりを経てそこにいるのか、私はよく知らない。目に入るのは、必死で生きる彼らの現在である。
 彼らの人生にも教科書はない。前の世代が経験したことのない、前人未到の長寿な老生活を、彼らもまた、日々手探りしながら生きている』

『思い返せば、これまでずっと強くありたいと願い、自分の弱さから目を背けてきた。ありたい自分と現実の自分はどんどん乖離してゆき、いつしか統合できなくなった』

『本当に様々な人生がある。何もかもがうまくいっている人など一人もいない。いちいちここでは挙げないが、これでもか、これでもかと、すごい話が日々の井戸端会議を通して入ってくる。体力と立場が弱くなった時に、人生はこんな試練を与えるのかと、憤りを覚えることも頻繁だ。お年寄りを取り巻くのは、家族にさえ油断がならない仁義なき世界だ。閉じられた関係で外に見えづらい分、家族が最も凶暴な収奪者となる可能性も高い』

『自分が老いた時、どのように前半生から復讐されるのだろうか。これは怖い。本当に。
「若い頃に成功したとか、昔は幸せだったとか、老後には何も意味はない。いつだって一番大事なのは、現在。いまを楽しんで吞気に暮らすことだよ」
 様々な人たちの仁義なき老後を見渡したうえで、母はそんな結論を導き出した』

 まあ、古い町には、お年寄りの古い知恵がいっぱい詰まっていて、その古い町では、そんな古い知恵が一番役に立つってことなんでしょうね。

 それはそれで「古い町」に帰ってきた意味はあるけれども、実は、そこから再度出発する、もう一つの勇気が必要なのではないか。

 その「勇気」っていうのは、「結婚」ってこともあるし、やっぱり「旅」だってこともあるかもしれない。どちらなのかはわからないが、たぶん、星野博美さんに必要なのは、その「もうひとつの勇気」なんじゃないかな。

『戸越銀座でつかまえて』(星野博美著/朝日文庫/2017/1/6刊)

2017年7月30日 (日)

Amazon Kindle 読書術

 確かに、今やAmazon Kindleで本を読むっていう習慣がかなり普及してきたのは事実。ただ、問題なのは「紙の本で読む」体験と「Amazon Kindleで読む」体験が、何故か分かれてきているというような印象があるのだ。

 別に読んでる本は同じ本だし、違うのは媒体だけのはずなんだけれども、やっぱりここにもあったのか、という媒体による体験の格差ってやつが。

Amazon_kindle 『《新版2017》本好きのためのAmazon Kindle 読書術』(和田稔著/金風舎/2017年5月31日刊)

 今はKindleで本を読むという体験はいくつかの方法がある。

『Kindleで購入できる本は大きく3種類に分けることができます。

1.紙の書籍がKindle化された本  Amazonで書籍を購入しようとするとKindle化されている本なら紙の書籍と 電子書籍版を選択できることに気づく方も多いかもしれません。ここ 数年ほどで紙の本がKindle化される割合は高くなっており、新書の場合、早ければ数週間程度でKindle化されていることもあります。また、最近は一度紙の本として絶版になった本が再びKindleで出回るというケースもあります。

2.セルフパブリッシングの本(KDP)  Kindle本はアップロードの方法さえ覚えてしまえば、誰でも出版することができます。これは素晴らしいことなのですが、誰のチェックも入らない本が大量 に出回る結果となり、内容的に薄いものや誤字脱字がそのままの本を購入して、 読者が電子書籍に幻滅してしまうというケースが増えているのも事実です。

3.ボーンデジタルの本  紙の書籍とAmazonのダイレクト出版(KDP)の中間に位置する存在として出版社を経由した電子書籍が存在します。私が記事を連載したPubliss(パブリス:電子出版を楽しむためのブログメディア)を運営されているデジカルさん に代表されるように、電子書籍を専門に取り扱う出版社があるのです。電子のみでの販売でありつつも、プロの目を通しているため、ある一定の品質を保って世に出されていると言えます』

 まあ、こうした方法があるのは事実なんだが、私がとる方法は実はこの「1.紙の書籍がKindle化された本」が大半。セルフパブリッシングの本やボーンデジタルの本もたまに読むけれども、ほとんどない。何故か? 実は単純な話で、「紙の書籍」の場合、書店店頭で(偶然)その本を見つけ、さらに立ち読みすればどんな本なのかわかるからなのだ。

 しかし、セルフパブリッシングやボーンデジタルの場合は、基本的にAmazonのRecommendで紹介されるしか、その本の存在を知る方法はない。で、残念ながら私に送られるRecommendは大半が私の興味の範疇に入ってこないのだ。それも理由は単純。私の興味の対象は常に変化しているし、一冊読めば大体わかった気になるジャンルの本を、何故複数読まなければならないのかがよくわからない。ある程度読んで、その興味あるジャンルの問題が大体わかれば、私にとってそのジャンルは「上がり」で、次に興味を持つのはそれまで読んだことのないジャンルの本なのであります。そう、AmazonのRecommendに頼っちゃうと、永遠に同じジャンルの本ばっかりを「グルグル」読む結果になってしまう。しかし、それでは私という人間の興味の幅が狭まってしまうばかりだし、何の発展性もない読書にしかならないのである。

『本を出版する側の視点では選択肢の多いKindle本ですが、本を購入する読者の立場からすると品質が一定とは言えず、また書店や図書館に行って中身を見ながら探すようなこともできないため、自分の目的の本を見つけられないというのが実情です』

 だから、書店の店頭で読みたい本を探して、ちょっと読んでみて、買うかどうかを決めるっていう方法が一番間違いがないんですね。勿論、面白そうだからそのまま紙の本を買ってもいいし、ってなもんなんです。別に、私は「紙の本が嫌い」で電子書籍を読んでいるわけではなくて、複数の本を持ち歩かないで済むっていう点が一番でAmazon Kindle(前はSONY Readerを読んでいた)を読んでいるだけだし、別にAmazon Kindleを神格化しているわけでは全然ないのだ。

 いずれRecommend機能も発達してきて、それまで読んだこともないジャンルの本を「ほうれ、お前はこんな本を読んだことないだろう。結構、面白いゼ」ってなRecommendが来たら面白いと思うのだが、まあ、AIが今のようにリニアにしか進んでいく以上は、当分そんな時代はこないだろう。ということで、新しい本の渉猟は本屋さんの店頭が一番だし、そこで面白そうな本に出合ったら、タイトルを覚えておいて、あとでAmazon Kindleで出ているかどうかを確認し、出ていたらそこで購入、なかったら少し待つか、あるいは本屋さんで紙の書籍を購入という手順で本を買えばよろしい。

 じゃあ、何が一番Amazon Kindleで便利なのかと言えば、本を読んだことによるアウトプットというテーマなんであります。それについては和田稔氏も書いている。

『Kindleにはハイライト機能といって、本を読んでいる最中に気に入った文章をなぞってマーキングできる機能があります。
 本の引用をつかってブログを書く場合、引用部分を移すのに時間を取られてしまうこともあるので、ハイライトからそのままコピーアンドペーストできるのは大変ありがたいです』

 えっ? ヤバッ?

『ブログに書評記事を書く際のフォーマットは、「ハイライトしてセンテンス3つ〜5つ+まとめ」という形をとっています。

 Kindleでハイライトをした部分を見返して特に印象に残った部分を3つくらい取り出して、ブログに引用していきます。そして、ハイライトにコメントをしている場合はそれらも参考にして、自分がなぜそのセンテンスを引用したかを思い出しながら感じたこと書いてみます。

 おそらく、これを3センテンスくらい繰り返せば、なんとなく書評っぽい文章になっているはずです。
 そして、最後のところにそれらの流れをまとめる文章を書けばとりあえずの内容が書き上がります』

 って、オイオイ、あまり書評ブログの裏側を書かないでほしいなあ。だって、今書いてるこのブログだって、その方法で書いているんですよ。っていうか、引用しているだけなんだけれどもね。

 うむ、思ってもみないところでネタバレされちまったじゃないかよ。

『《新版2017》本好きのためのAmazon Kindle 読書術』(和田稔著/金風舎/2017年5月31日刊)

2017年7月21日 (金)

『東大卒貧困ワーカー』

 新潮社による「著者プロフィール」にはこうある。

『1956(昭和31)年生まれ。ノンフィクションライター。東京大学文学部卒業後、1980年毎日放送入社。アナウンサー、記者として勤務後、身内の介護のため退社。以後、派遣労働者として働きながら執筆活動に入る。著書に『中高年ブラック派遣』など』

 ところが、残念ながら本書のどこを読んでも「東大卒」の話は出てこない。勿論、「貧困ワーカー」のルポだから、貧困にあえいでいる労働者の話はいくらでも出てきているのだが、そうじゃなくて、やはりこの『東大卒貧困ワーカー』というタイトルから読者が期待するのは、「東大出ても正規社員じゃなければこんなもんよ」という、著者自身が経験した実態なんだろう。勿論、書かれているのは中沢氏自身が経験した「貧困ワーカー」の実態なんだろうが、それが「東大卒」じゃないと経験できない仕事のやり方の実態ではなくて、別に東大卒じゃなくても、MARCHじゃなかろうが大卒じゃなかろうが、ごく普通の「中年貧困ワーカーの実態」なんだなあ。だったら、別にそれは何も『東大卒貧困ワーカー』というタイトルをつけなくても別に何の問題もないわけで、「いやいやそれじゃあ誰も読まないよ」という意味でそうしたタイトルをつけるのはわからないではないが、そんなら「東大卒ならではの、貧困ワーカーぶり」というものについて書かなければ、『東大卒貧困ワーカー』というタイトルをつける意味はない。

 う~ん、そんな意味ではこの新潮社の担当編集者の、意識的な読者に対する裏切りっていうものがあるのか、あるいは、企画当初は「東大卒ならではの話」を書いてもらう予定だったのに、全然そうじゃない内容になってしまったときに、「中沢さん、この内容じゃ『東大卒貧困ワーカー』っていうタイトルを付けられないじゃないですか。全面的に書き直しね」というひとことが言えなかったのか、のどちらかではあるのだろう。

 いずれにせよ、ちょっとこれは「詐欺的タイトル」の典型ではありますなあ。「東大卒」の人が書いたのは事実だけど、「東大卒貧困ワーカー」の話は、自分の体験だけでしかない。もうちょっと「一般論としての東大卒貧困ワーカー」について書かないとね。

Photo 『東大卒貧困ワーカー』(中沢彰吾著/新潮新書/2017年6月23日刊)

 勿論、別に書いてあることが間違っているわけではない。現状における日本の労働市場の特異さは言うまでもない。

『世界で日本にしかない特異な習慣で、労働市場の流動性を低下させ、学生を萎縮させて自由意思を阻害し、熟考する時間が足りず企業と労働者のミスマッチを引き起こしやすい。企業側のアンフェアなフライングに青田刈り、学生の意向を無視した囲い込みに内定切り、学生側の大量の内定辞退。全員横並びでスタートさせ不本意な結果に終わった学生に無用な挫折感、敗北感を植えつける等々、新卒正社員のうち3分の1が入社後3年以内にやめてしまうのは、よく考えずに決めたことによるミスマッチが原因と指摘されている。それが当たり前になっている異常さを放置すべきではないだろう』

 というのは当たり前の指摘。

『現代の新卒学生の3分の1は3年以内に離職し、フリーターや派遣になる人もいるから、セミナーや職業訓練、転職先の紹介、人材派遣などで卒業後も何度もビジネスの対象になりうる。また、職業紹介以外での余禄も大きい。不動産、車、金融、結婚、旅行、スポーツ、グルメ、美容、ファッション、メディア等々多様な生活関連ビジネスの各分野の子会社を用意して、ダイレクトメールで営業できる。ビジネスの対象を若者に絞ると、極めて効率良く多角的に利益を上げられるのだ。それも長期に亘って』

 結局、それらの原因は大学卒のサラリーマンの採用方法が「新卒一括採用」に偏っているからに他ならない。結局、新卒学生の3分の1は自分が勤めている企業と自分自身のミスマッチに気が付いて、サラリーマンをやめる。ところが、採用の二次市場がないために、結局彼は非正規労働者として働くしかなく、その結果、ある部分の人たちは「貧困ワーカー」となってしまう。結局、「セミナーや職業訓練、転職先の紹介、人材派遣」は、働く人のためにあるのではなく、企業としていかに収益を上げるかのための「(求職者という名前の)お客さん」のためにあるのだ。

 で、非正規のワーカーになってしまう。ところが、その非正規ワーカーにはもっと大きな問題があるのだ。

『通商白書2016によれば、製造業以外の業種の労働生産性を比較すると、概ね米国51、ドイツ45に対し日本は27。特にサービス業の生産性が低い』

『非正規は元々政財界の目論みでは、労働ヒエラルキーの底辺を構成し、必要に応じて便利に使えることが大事で、能力は期待されていない。その格付けがあるからか、非正規職場では次のような退廃的な三段論法が定着している。
「利益を上げるために低賃金非正規を調達した→非正規は能力が高くない→効率が悪くても、あいつらは非正規だから仕方がない」』

 非正規だからいくらでも換えがきく。いくらでも換えがきくので、給料を上げる必要がない。給料を上げる必要がないから、労働コストは上がらない。んじゃあ、その方式でいこう。労働生産性なんて初めから望んではいないのだ。

『使う側がそう思ってくれているのだから、非正規は結果にこだわらずのんびりできる。生産性は向上せずむしろ低下していく。たまに非正規がやる気を出して「このやり方はおかしい」などと注意すると「めんどくせえこと言うな」と追い出されてしまう。優越的な立場を与えられた人はその立場にこだわりがちで、非正規から意見されることをひどく嫌う』

 まあ、それが現状ではあるし、その傾向がそうやすやすとは変わるとは思えない。まあ、「正規・非正規」っていう分かれ方から、「向上心のある人・向上心のない人」っていう風に分かれるだけなんだけれどもね。

 と言うことなので、日本でも少しづつ状況は変わりつつあるようで、企業側も経験者を正規労働者として採用しようという動きも出てきてはいるようだ。勿論、経験者を正規労働者として雇用するということは、当然そこには人によって選別するということが行われなければならないし、実際そうなっているのだろう。

 つまり、仕事ができる経験者は、より高い収入を得ることができるし、「出世」という道も考えられている。その一方、仕事ができない奴は、いくらでも代替ができる「便利な労働者」として切り捨てられて、結局「貧困ワーカー」にならざるを得ないのだ。まあ、欧米は以前からそのような労働市場が成立していたし、少なくとも日本のような横並びの就職っていうものはなかったはずだ。

 それは少なくとも、これからの日本の労働市場が進んでいく道だろうし、前に戻すことができない道でもある。

 じゃあ、そこで「高学歴貧困ワーカー」がいなくなるかどうか……、これがいなくはならないのだ。ポイントは「仕事ができるか、できないか」だからね。

 それが厳然たる事実。

『東大卒貧困ワーカー』(中沢彰吾著/新潮新書/2017年6月23日刊)

2017年7月13日 (木)

『不寛容社会』でも、いいじゃないか

 九州では大変な天気が続いているんだが、その一方、東京では好天気が続いている。まあ、ちょっと暑すぎるけれどもね。

 どうもそのせいか、毎日外に出て写真散歩をしているにはいいんだが、その分、本について書く機会が減ってきてしまっていて、いかんなあと思ってはいます。まあ、読んでいることは読んでいるんだが、どうしてもね、こう暑いと本を読むのも多少は億劫にもなってくるのも事実。

 と、言い訳しつつもとりあえず「本について書く」のであります。しかし、いつになったらこの「本について書く」ブログが掲載されるんだろう。

 ということで久々の「本について書くブログ(でも「書評じゃない」)であります。

 別にいいじゃないの、「不寛容社会」だってさ、ってことであります。

Photo 『不寛容社会』(谷本真由美著/ワニブックスPLUS新書/2017年4月25日刊)

 まあ、メイロマ(谷本真由美)さんの日本人叩きも時には面白いんだけれども、時によくある「外国に在住の日本人が陥りがちな、上から目線の日本人叩き(でも、それって自分を叩いてるのと同じなんですけれども)」になってしまっているところは、ちょっと残念だ。

 だって……

『なぜ日本人は見ず知らずの人を叩かずにいられないのでしょうか?
 なぜ日本人はこんなに不寛容になってしまったのでしょうか?
 なぜ海外では芸能人の不倫がトップニュースにならないのでしょうか?
 なぜ日本人は些細な事で正義感を発揮しようとするのでしょうか?
 日本人は集団ヒステリーなのでしょうか?』

 って、今や別に日本だけの状況じゃなくって、世界中がそんな感じになってません? 問題は「ネット社会」ってことでしょう。

 要は「ネットの匿名性」の中にみんな逃げ込んで、そんな匿名性の中、つまり自分だけは安全地帯に身を置いて、他人を誹謗中傷するっていう傾向は、今や決して日本だけの特徴ではなくなってきている。

 勿論、メイロマさんもそんなに西欧礼賛じゃなくて、外国にもある「他人叩き」の例を挙げている。

『私の欧州での生活感からすると、他人を叩く傾向は、南下するほど激しくなり、北上するほど薄くなっていくようです』

『つまり、南下するほど社会における伝統的な役割を重視する人が多くなり、工業化社会というよりも、工業化以前の農村的価値観を色濃く残しているともいえます。男尊女卑もひどくなり、他人に興味がある人が多くなるため、人の行動に対してあれこれ言いたがる人が増えるのでしょう。
 その代表的な国の一つは私がかつて住んでいたイタリアです』

『イタリアからそれほど遠くないスペインも、案外「他人叩き」が好きな傾向があります』

『スペインの強固な同調圧力は日常生活の中にも存在します。
 例えば日本でもお馴染みのサービス残業。欧州では定時上がりが当たり前な国が多い中、スペインには付き合い残業という日本のような「サービス残業」が存在するのです』

『スペイン人の同調圧力の根底には、同じ集団に所属する人とお互いを深く知るような機会がないと寂しい、ダラダラ一緒に過ごしたい……そういった思いもあるわけです。
 さらに面白いのは、スペイン人は日本人の私ですらもこうしたダラダラした「だべり」に誘ってくれて、午前様になってベロベロになるまで一緒に飲んだりすることです』

 これらは南ヨーロッパの特徴なのだろうか。じゃあ、北欧と南欧でどこが違うのか?

『個人主義が徹底していて「他人叩き」にまったく興味がない北米や欧州北部は「階層」と「階級」を強く意識している社会です』

『「階級」(英語では「class」といいます)は歴史的、文化的なもの。「階層」(英語では「social stratum」といいます)は職業や収入などの格差によるものです。昔と違って、現代では「階級」の移動は難しくても「階層」の移動は可能なことがあります』

『より良い教育を受けた人ほど上層階層に移動することが可能なわけです。
 高校教育や大学教育が無償、もしくはアメリカやイギリスに比べたらかなり安いノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ドイツは、たしかに階層移動が容易になってきています』

『アメリカは親が貧乏だと「階層」を移動しにくい社会なのです』

『両親の財力は、より豊かな生活環境や教育環境を整えるだけではなく、子どもが様々なことに挑戦する機会を与え、お金のことを心配しなくても良いという安心感も与えます。お金が保険の役割も果たしていたのです』

『個人主義的な国ほど階層移動には財力がモノをいうようになっています。そして、それがさらに顕著なのが、個人主義社会で他人には構わない傾向の強いアメリカなのです。
 繰り返しますが、アメリカ人は自分は他の「階層」には移動できない=他人と自分は根本的に違う、と最初から思っているので、欧州以上に他人にはことさら無関心。日本人のように「他人叩き」にも時間を使いません』

 そういうことか。

 つまり「階級社会」「階層社会」であるところのアメリカや中北欧は、当然ながら社会における同調圧力が低い、というか階級や階層が違えばそれは「別の種類の人間」なんだから、彼らが何をしようが自分には関係ない、関係ないことには興味はない、なのでそこで「他人叩き」をする意味がまったくなくなってしまうのだ。

 ということは、その逆で、日本ではそんな「階級制度」や「階層意識」というものが薄いので、そこに同調圧力が生じてきて、「自分と違うことをやっている人を叩く(それもネットで匿名で)」っていうことになるんだな。

 っていうことは、まだ日本の社会のほうがそんな平等性の中で生きているんだから、まだマシ? っていう考え方もある。

 まあ、多少、世の中生きにくい部分はあるけれども、そんな平等社会のほうがいいという考え方もあるんだ。

『不寛容社会』(谷本真由美著/ワニブックスPLUS新書/2017年4月25日刊)

2017年7月 1日 (土)

『多動日記』

「多動」というのは『多動性(落ち着きがない、つねに動き回る)という基本的な性格のことであり。
【行動の特徴】
・自分の好きなことは集中して取り組むが、それ以外のことは途中で投げ出し、別のことを始める
・遊びをころころ変える
・外出すると動き回って、親の目の届かないところに行ってしまう
・1か所にじっとしていることが苦手
・イスに座っていても、身体や手足の一部を動かす』

という、これまでは病気の一種だと思われていて、いわゆる「ADHD」『注意欠如・多動性障害(ちゅういけつじょ・たどうせいしょうがい、英: attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性(過活動)、不注意(注意障害)、衝動性を症状の特徴とする神経発達症もしくは行動障害である』(Wikipedia)という、一種の精神疾患だと思われていた。

Photo 『多動日記(一) 「健康と平和」-欧州編-』(高城剛著/高城未来研究所 電子版未来文庫/2017年6月2日刊)

 確かに「多動」ではあるなあ。目次から拾ってみるとこうだ。

AUGUST
8月18日 イスタンブール/8月20日 ザグレブからパグ島/8月22日 チューリッヒからサルディニア/8月24日 コルシカ島からトゥーロン/8月26日 ポロクロール/8月27日 マルセイユ/8月28日 マルセイユからアテネ/8月29日 アテネ/8月30日 ケファロニアからザキントス

SEPTEMBER
9月1日 ザキントスからアテネ/9月3日 アテネからコルフ/9月4日 コルフからアテネ/9月6日 ナクソスからミロス/9月8日 ミロスからアテネ/9月10日 アスティパレアからアテネ アテネからローマ/9月12日 ローマからナポリ/9月13日 ナポリ/9月14日 ナポリからロンドン/9月15日 ロンドン/9月16日 バルセロナ/9月17日 イビサ/9月18日 イビサからアムステルダム/9月22日 キプロス/9月24日 ロンドン/9月26日 ベルリン/9月28日 パリ/9月30日 バルセロナ

OCTOBER
10月1日 ロンドン/10月2日 プラハ/10月6日 タリン/10月10日 ブリュッセル/10月15日 バルセロナから東京へ

 高城氏は自身のブログに2016年を振り返ってこう書く。

『今年は、例年にも増して忙しい一年だった。
珍しく渡航した国を数えてみると、一年間に訪れたのは71カ国。
その内、米国や中国など、別都市に複数回訪れている国も多く、延べで数えたら年間渡航100カ国は超えているだろう』

 たしかに旅行した先はむちゃくちゃ多いわけであるのだ、というか旅が常態化してしまった場合は、それを「旅行」というのが正しいのかどうなのかはよくわからない。旅をするのが日常であるならば、それは旅をするのが普通の生活であり、普通の人のように「旅という非日常を楽しむ」ということはないのだから、その旅自体が普通の生活であり、だとするとその旅自体に普通にストレスなんかが生じてきたりするのかなあ。

 また、確かにいろいろなところへ数「多く」、移「動」しているということでは「多動」ではあるけれども、それは堀江貴文氏がいうような、基本的な性格である、ADHD的な「多動」とはどうも違うようだ。

 ところで「高城剛」とはそもそも何者であるのか?

 私たちが高城剛という名前を知ったのは、CGやらアニメーションを使っていろいろな映像や空間表現をして「ハイパーメディアクリエイター」なんて訳のわからん「肩書」を名乗り、いつの間にか(それこそ「ザッツ・オールド」な)東映アニメーションの社外重役なんかをやったり、いつの間にか沢尻エリカと結婚し、そしていつの間にか離婚をした訳の分からん男、というイメージである。

 高城氏のブログから拾うとこんな感じである。

『LIFE PCKING2.1、黒猫は空飛ぶロボットの夢をみるか?、素敵な星の旅行ガイド-Nextraveler-、人生を変える南の島々、2035年の世界、白本、黒本、青本、魂の再起動、身体の再起動、サヴァイブ南国日本、世界はすでに破綻しているのか? スーパーフード、モノを捨てよ、世界へ出よう、人口18万人の街が、なぜ美食世界一になれたのか? オーガニック革命、サバイバル時代の健康術、時代を生きる力、私の名前は高城剛、住所不定、職業不明』

 高城氏の言葉……

『アイデア(の質、量)は移動距離に比例する』

 というのは少しはわかる。常に移動し続けることによって人間は外界からの刺激を受け続ける。そうした刺激が「アイデアの質や量」になるってことなんだろう。ただそれは、決して具体的に「A地点からB地点に移動する」っていうことだけではなく、そうした地理的な移動だけでない、精神的な移動だったり、日常生活の移動だったりというのもあるはずである。

本書のように移動する街から街へ、次々に現れる事象を書き綴っていると、それはどうしても「旅の途上で考えたもの」以上のものにはなってこない。たぶん、そうした「旅の途上で考えたもの」を修正し、まとめ上げたものが実は後々別の書籍となって表れるのかもしれないが……、たぶん、その時には私も先に行っているので、そんな書籍が出版されているのに気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。

 私は、別に「高城剛ウォッチャー」じゃないのだ。

 いつか、再び高城氏の本と出合った時に、別の「高城論」というか、本書『多動日記』のまとめが書けるのかもしれない。

『多動日記(一) 「健康と平和」-欧州編-』(高城剛著/高城未来研究所 電子版未来文庫/2017年6月2日刊)

2017年6月27日 (火)

『未来の年表』

 う~ん、まあ多分にショッキングなデータではありますねえ。

Photo 『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』(河合雅司著/講談社現代新書/2017年7月1日刊)

 まずこの「人口減少カレンダー」ってのがすごい。

 取り敢えず今から約100年後までの日本の人口の推移と、それに伴う社会の変化を書いてあるんだけれども、いやあ、なかなかのもんです。

Photo_2

 とは言うものの、そんなにリニアには進まないのが人間の歴史だ。日本のここ150年の歴史を見ても、「鎖国」(と言っても完全な鎖国ではなかったですがね)から明治維新が起こったのが1868年、以降、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争(第二次世界大戦)ときて1945年の終戦。その終戦から既に70年が過ぎて、今の状態がある。

 それこそ戦争ですべてが焼け野原になってしまったところからの復興で、それこそ戦前の「産めよ増やせよ」思想さながらに人口を増やしてきて、その圧力で経済をここまで伸ばしてきた日本である。

 その日本が今や逆に人口減少に悩んでいる、っていうかこんな日本経済の状況では子どもを生み増やすような状態ではないってのが普通の人の考え方だ。じゃあ、そんな縮みゆく日本の中でどうやって日本民族は生き延びるのかってことなんだけれども、まあ、考えてみればなにも日本民族の永続性やら永劫性なんてことを、なんで我々が考えなければならないのか?

 まあ、一部の民族主義者の方々なんかが深刻に考えているのは理解できないではないが、じゃあだからといって彼らが日本の人口を増やすのに何かの手立てを考えているのかといえば、決してそんなことはなく、有効的な手段もなく、ただただ「日本民族が滅びてはならない」というお題目を唱えているだけではないのか。

 だとすると本書で河合氏が話している、「戦略的に縮む」ってのが、当面は有効な手段なのだろうか。

『私は、「戦略的に縮む」「豊かさを維持する」「脱・東京一極集中」「少子化対策」の4つをキーワードとして、現段階で着手すべき「日本を救う10の処方箋」を示したい。

日本を救う10の処方箋
1・「高齢者」を削減
2・24時間社会からの脱却
3・非居住エリアを明確化
4・都道府県を飛び地合併
5・国際分業の徹底
6・「匠の技」を活用
7・国費学生制度で人材育成
8・中高年の地方移住推進
9・セカンド市民制度を創設
10・第3子以降に1000万円給付』

 う~ん、まあ多少は効き目はあるのかもしれないが、それをしも日本人が民族としてやせ細っていくことへの対抗措置にはならないのでしょう。

 まあ、いずれは滅びて歴史から消え去る民族として日本人をとらえるってのもあっていいかもしれない。

『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』(河合雅司著/講談社現代新書/2017年7月1日刊)

2017年6月21日 (水)

『峠』を再び読んでみる

 先々週から先週まで、ほぼ一週間入院したので、その間に読んだちょっと長い小説のお話などをしてみる。

 読んだ小説とは、『峠』であります。

『峠』と言えば、故司馬遼太郎氏の長編時代小説で、毎日新聞夕刊に1966年から1968年まで連載されていた作品である。

 1966年から1968年ということは、私が15歳から17歳ということで、まあ、大体この辺から少年は「時代小説」に憧れ、その後、吉川英治の『宮本武蔵』やら山岡宗八『織田信長』あたりの読み進み、NHKの大河ドラマあたりにはまるというのが、オヤジの時代小説ファンの王道だったりするわけで、まあ、私もその通りで、未だにNHK大河『おんな城主 直虎』あたりを「本当はそうじゃないんだよなあ」なんて思いながら、毎週見ているという具合。

 で、5月の越後牛の角突きニ連荘のついでに再度訪れた郷土の英雄河井継之助資料館なんかに行ったりしたわけなのであるが、今回、再度故司馬遼太郎氏の『峠』を読んでみたら、なんか昔読んだときとの印象の違いに驚いているような状況なんだなあ。

Photo_2 『峠(上中下)合本版』(司馬遼太郎著/新潮社/2015年6月15日刊)

 まあ司馬遼太郎版『峠』と言えば、「小千谷談判」が一番の読ませどころで、小説のメインになるところのはずなんだが、「記憶にあるイメージ」とは大違いで、実は上中下全三巻の三巻目、 5章目目になってやっと「小千谷談判」が出てくるのである。なんか、「記憶にあるイメージ」ではもっと小説の中心になって出てきたように思うのであるが、小説全23章中の19番目に出てきていたとは、なんともはや記憶というものは如何にいい加減なものなのかという思いでありました。

 まあ、小説というものは史実と異なるわけで、それは当然なのであることは、それは読む前から分かっていることであるのだ。が、まあ考えてみれば「小千谷談判」は河井継之助としてみれば、最早晩年に属する年代にあった事象であり、それなら小説の最後の方に位置するところであるのは当然なんだが、その事実の大きさからするともっと小説の前の方に出てきた印象が残っているんですね。

 それ以外にも、小説『峠』には事実と反するところはいろいろあるようで、Wikipediaによれば……

『冒頭で河井の人物像が語られる冬の峠越え
創作:三国峠越え。
史実:碓氷峠越え。

河井と福澤諭吉との関係
創作:思想面で共鳴する親密な関係があった。
史実:実際に2人が会った記録はない。

河井が持っていた越後長岡藩の将来像
創作:一藩で武装中立国にする構想を持っていた。
史実:その言動から、尊王でも佐幕でもない中立の一藩にしようとしていたであろうことは想像に難くないが、それを裏付ける史料はない』

 などなどがあるようで、それらは小説として面白い表現になるようにした結果であり、まあ創作とはそういうもんだと言ってしまえばその通り。

 まあ、三国峠越えなのか碓氷峠越えなのかはあまり本題とは関係ないが、福澤諭吉との関係論でいえば、ふたりが実際に会った記録はないというのは正しいようで、福澤諭吉の開民論と河井継之助の言う徳川幕府改正論とは大いに異なるものの筈なのである。福澤諭吉にしてみれば、別に徳川幕府を守ろうなどという考えかたはなくて、むしろ、大政奉還をした以上は徳川方は政治の表舞台からは退くべきであり、一方、天皇を抱いた薩長軍も別に革命のための部隊ではなくて、やはり旧体制の遺物でしかないと考えていたはずである。むしろ、福澤の考え方は「共和制国家」を作ることが一番の目標であり、そのためには天皇の存在もあくまでも共和政政体を作るための臨時措置的なものでしかなくて、いずれは天皇制自体も否定せられるべきものとして考えられていた。一方、河井継之助の考え方はそこまで将来を見こしていたわけではなくて、国の代表としての天皇の存在と、政治の代表としての徳川幕府という二元論が未だ存在しており、大政奉還とは徳川幕府が政治の代表の立場をおりるだけで、その後は「誰か」が政治の代表になればいいという考え方で、その中で「長岡藩が如何にして長岡藩として独立を保てるだろうか」という道を追求していたにすぎない。

 つまり河井継之助としては「国の政体がどうか」ということは眼中になくて、「長岡藩が(それが「藩」なのか「(連邦制のなかの)国」なのかは別として、自分が生まれ育った「長岡」を如何にして生き延びさせるのか」ということだけが目標だったのだろう。それが会津を中心とする「旧守派=奥羽列藩同盟」に長岡が当初は参加しなかった理由なのではないだろうか。勿論「一藩で武装中立国にする」というのは、ある種、ファンタジーをともなったとはいえ「非武装中立」という考え方のなかった時代における「現実論」ではあったのだろう(まあ、現代でも「非武装中立はファンタジー」という考え方もある)。しかし、だからといって、それが永遠の戦略ではなかったに違いない。

 つまり、河井継之助とは、あくまでも時代に即した有能な官僚であり、如何にして目前の問題を解決するのかが、彼にとっての一番のテーマであり、その後にどんな国・藩・小国家を作るのかということはテーマではなかったのではないだろうか。

 今、故司馬遼太郎氏の『峠』を読み返してみると、そこに見える河井継之助像は、世の中の先を見こした政治家というよりは、目前の問題をいかにして解決し、短期的に問題解決を図る有能な官僚の姿なのである。

 つまり、そんな河井継之助にしてみれば、小千谷談判なんてものは、数多くある政治取引のひとつでしかないわけで、その結果も、実は見えていたってことなのかもしれない。

『峠(上中下)合本版』(司馬遼太郎著/新潮社/2015年6月15日刊)

(新潮文庫版)(電子版『峠』上中下別売り版もあります)

2017年6月15日 (木)

小説『シンギュラリティ』は『シンギュラリティとは何か』に答える小説じゃなかった、そこが残念!

「シンギュラリティとは何なのか?」について真摯に答えたSF小説……、ではないのだ。

 その辺がちょっと残念!

Photo 『シンギュラリティ』(チーム2045:西村世太郎・里見裕二・鎌田隆寛・山内靖子・堀江悟史・森井友美/幻冬舎/2017年3月21日刊)

 著者の「チーム2045」とは、『2016年、Ster(情報システムの企画、構築、運用などの業務を請け負う企業)である新日鉄住金ソリューションズ株式会社の若手有志で結成。メンバーの本務は営業、システムエンジニア、総務と、部署や職種をまたいだ後世になっており、業務外活動の一環として日本初のプロジェクト型小説制作に挑戦した』というもの。チーム名は勿論人工知能が人間の能力を上回る「シンギュラリティ」が2045年に来ると予測されていることにちなんで命名、というのもよくわかる。

 しかし、残念なのが同時にそうした「素人さんが書いた小説であるからこそ、もしかして真摯に『シンギュラリティってなんなのか。シンギュラリティを迎えた私たちの世界はどうなるのか』に答えてくれるのかもしれない」という期待を、読む方としては勝手に抱いてしまうのだが、残念ながらそれには応えてくれないんだなあ。

 う~ん、プロの作家が勝手にシンギュラリティ以降の世界を書くのは自由だけれども、それはあくまでも作家的感性で書いているだけであり、真摯にシンギュラリティと向き合って書かれたものではないだろう。なので、逆に「小説の素人さん」であり、なおかつ「AIについてのプロ」である「チーム2045」に勝手に期待したんだが、それは意味はないってことなんだなあ。

 そこはちょっと残念。

 シンギュラリティとは何なのか?

『シンギュラリティ(技術的特異点)とは?
 シンギュラリティ(テクノロジカル・シンギュラリティ=技術的特異点)とは、人工知能が人類よりも賢くなり、技術進歩を担い、人工知能がより賢い人工知能を生み出すサイクルを生み出す点のことだ』

 つまり、現在蓄積されているコンピュータ(AI)への知識の量が、今後、ディープラーニングなどにより急激に加速して蓄積され、その知識の量が2045年に人間全体の知識の量を凌駕するというもの。それは多分、現在進められているAI化、IoT化とクラウドコンピューティングの技術が、コンピュータ自身のディープラーニングによって幾何級数的に知識を伸ばし、いずれは人間の持つ知識や考え方の総量以上になり、その時に「人間vs.コンピュータ」の関係論はどうなっていくんだろうかということへの考え方なんだが、それが人によって大いに違うっていうところが面白いところで、「コンピュータが支配する人間社会」を想定する悲観論から、「いやいや人間とコンピュータは相変わらず良い関係論を保って進んでいくんだ」という楽観論まで議論百出で、我々シロートには「これはどうなっちゃうの?」的な興味は尽きないってところなんだなあ。

 おまけにそれが2045年には実現しちゃうって言うんだから、1951年生まれの私だって94歳で、まだ生きている可能性がある(まあ、その前に心筋梗塞で死んじゃうかもしれないけれども)っていうところが、興味の的なんだ。その時、世界はどうなっているのか?

 ところが、小説のラストは……

『「松阪君、君ならわかるだろう。シンギュラリティは人類を滅ぼすんだよ」
 安藤奈津子の口調がいきなり変わった。
「もしかして、僕が連絡を取っていたのは……」
「男だと思い込んでいたでしょう。あなたは単純だから騙しやすかったわ。まあ、それはいい。理屈はもうわかっているでしょう。理屈はもうわかっているでしょう、私たちがシンギュラリティを阻止しようとする理由は」
「そのことについては、ずっと考え続けている。今はあんたたちが間違っているとはっきり言える」
「ほう? せっかくだから、その考えとやらを聞いてあげましょうか」
「確かに人類の歴史は争いの歴史だ。でも、本当に少しづつだけど、そして行きつ戻りつするけど、平和に向かっているじゃないか。それは人類全体が精神的に成長しているからだ。近いうちに人工知能が人間を超えるとして、僕たちより高次な存在が、戦いを仕掛けてくるだろうか。そんなコストの高い選択をするだろうか」
「人類全滅を選ぶ可能性は?」
「ないとは言えないだろう。でも、たとえば自分たちより知能が劣るからといって、僕たちは猿を殺戮しようと考えるだろうか。むしろ、絶滅しそうだったら救おうとするんじゃないか。あんたたちは暗い未来を描きすぎる」』

 で、結局、松阪は安藤の持つ武器のボールペンを体当たりで無効化させて、最後は犬のケンシロウが安藤奈津子の右腕に咬みついて、体勢を崩した安藤の右腕を松阪が絞り上げ、床に落ちたボールペンを奪って、最後のアクションはおしまい。

 って何? これじゃあ「シンギュラリティ小説」じゃなくて、単なる「アクション小説」じゃないか!

「おわりに」で

『「シンギュラリティ」は〝プロジェクト型小説″としての第一弾です。シンギュラリティを人類発展の前向きなステップとして迎えられるように、結衣たちは少しずつ大きな流れに巻き込まれていくことでしょう。結衣たちの活躍によって、多くの方に「シンギュラリティ=技術的特異点」について興味を持っていただき、私たちが携わっているITという技術が幸せな未来のためにはどうあるべきなのか、そんなことを考えていくきっかけになってくれることを願っています』

 というのだが、肝心の「シンギュラリティがどういうものであるか」という、素人読者の素朴な疑問にも答えてくれないと、なかなかシンギュラリティについて興味をもっていただくのは難しいのじゃないだろうか。

 というのは、やっぱり「素人の発想」なのかなあ。

『シンギュラリティ』(チーム2045:西村世太郎・里見裕二・鎌田隆寛・山内靖子・堀江悟史・森井友美/幻冬舎/2017年3月21日刊)

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