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2019年1月16日 (水)

『そうだ、京都に住もう。』って簡単に言うけれど、やっぱり「二都物語」は敷居が高いなあ

「東京の「ガエハウス」に3週間、京都の「ガエまちや」に1週間。ひと月を2軒の家で過ごす永江朗さん。京都の町家を手に入れたのは、茶道を始め、茶室がほしくなったことがきっかけ。」という永江朗氏。

 私の場合、妻と違って、私自身は茶道にはまったく興味はないのだが、「東京と京都で過ごす二都物語」というのに憧れたのである。なので、私は京町家に住むという選択肢はなくて、どこか京都の中心地で安いマンションはないものか、と探しているのだが、未だに適当な物件は見つかっていない、っていうより段々、段々、結構、敷居が高いものなのだなあと感じ始めているのである。

Photo 『そうだ、京都に住もう。』(永江朗著/小学館文庫/2015年1月23日電子版刊・2015年1月10日紙版刊)

『そもそものはじまりは茶室だった。  私たちがお茶を習いはじめたのは2002年の暮れである。』

『セカンドハウスの条件について、妻とあれこれ考えた。
 まず、茶室をつくれること。これが第1条件である。茶室のためのセカンドハウスだ。』 『2つめは寝泊まりができること。お茶だけでなく、それなりの生活ができる空間にしたい。できれば少しぐらいは仕事もしたい。オフの時間を過ごすだけでなく、そこで仕事もできるような家にしたい。私が会社をやめてフリーライターになろうと思った理由のひとつは、いつでも・どこでも仕事ができるからだった。パソコン1台あれば世界中どこででも仕事ができるけれども、セカンドハウスでも最小限の仕事場所はほしい。』

『3つめは都会にあること。ふだん私たち夫婦はあまり外食をしない。私のお腹が弱く、外食が続くと体調が悪くなるからということがいちばん大きいけれども、外でご飯を食べてお酒を飲むと家に帰るのが 億劫 になるという理由もある。夜の電車は混んでいるし、タクシーはあまり好きじゃない。できれば歩いて帰れるぐらいのところに家がほしい。』

 というようなことで東京自由が丘にある「ガエハウス」のセカンドハウスである京町家をリノベーションして、「ガエまちや」として作成し、いまや月に一週間をそこで過ごして、仕事もそこでやりなんていう理想の生活を送っているらしい。

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 私の場合「茶道」というモチベーションがないので、たかだか徳川開府から400年の歴史しかない江戸(東京)で生まれ育った人間からすると、平安京から1,200年の歴史を持つ「古い町」に対する憧れっていうのもある。

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 実際、京都で家を探そうということで始まった永江氏の京都行(実は、それ以前から何度も京都行は行っている)は結局1年ちょっと後に実現することになった。

『1カ月のうち、3週を東京で、1週を京都で過ごす。大学の勤務が終わる2013年の春まで、このパターンが続く。
 2つの街に住むことで、生活にメリハリが出てきた。東京にいる3週間も、「次に京都に行くまでに」と日付を逆算して考えるようになった。
「東京と京都では流れる時間が違う」と妻がいう。東京は何ごとも仕事が中心になるし、京都では衣食住が最大の関心事になる。もちろん京都でも仕事はするし、東京にも衣食住はあるけれども、たぶん力点が違う。京都には行きたいところ、見たいもの、やりたいことが山ほどあって、退屈するひまはなさそうだ。』

 っていうのも幸せだよなあ。

 まあ、京都のコンパクトシティぶりや、年間を通した「祭り」の多さなんかは、確かに魅力ではある。でも、実でもまだまだ私の知らない祭りなんかは沢山あるし、コンパクトシティでは絶対ないけれども、まあ、それなりに動きまわる方法はいくらでもある。

 なあんていって、自分を慰めているんだよなあ。

 月1週間京都生活って、やっぱり未だに魅力ではある。

  『そうだ、京都に住もう。』(永江朗著/小学館文庫/2015年1月23日電子版刊・2015年1月10日紙版刊)

 こちらもどうぞ。『ときどき、京都人。』は電子版もあります。

Photo_2 『ときどき、京都人。』徳間書店/2017年9月30日刊/『65歳からの京都歩き』京阪神エルマガジン社/2017年10月1日刊)

『ときどき、京都人。』徳間書店/2017年9月30日刊/『65歳からの京都歩き』京阪神エルマガジン社/2017年10月1日刊)

2018年12月21日 (金)

NHK「まんぷく」ネタ本『魔法のラーメン発明物語』をご紹介

『一九五八年(昭和三十三年)の春、私は無一文からの再起を期して即席めんの開発に没頭していた。理事長をしていた信用組合が倒産して、すべての財産を失った直後だった。唯一の財産として残った大阪府池田市の自宅の裏庭に粗末な小屋を建て、そこを研究室にあてた。丸一年、試行錯誤を繰り返した末に、ようやく完成のメドが立ったのだった。玄関先の桜の木が満開で、私の心と同じように華やいで見えた。
 私が開発していたのは、お湯をかけるだけですぐ食べられる、簡便性の高いラーメンだった。それも、工業化されて大量生産できる製品でなければならない。実現すれば、必ず世の中に受け入れられる。そんな確信があった。』

 と書くのは皆さんもよくご存じの、「お湯をかけるだけで、3分で食べられる」チキンラーメンやカップヌードルでお馴染みの、日清食品創業者・安藤百福氏である。

 言うまでもなく、NHK朝の連続ドラマ「まんぷく」の主人公・立花萬平・福子夫人のモデルである。というか、その辺の興味でもって読んだ本なのであるが……。

Photo 『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』(安藤百福著/日経新聞出版・日経ビジネス人文庫/2018年9月3日電子版刊・2018年5月11日紙版刊)

 本書は日経新聞の文化欄の記事「私の履歴書」からの文庫版である。様々な会社の経営者が書いているその記事は、多分、いかにもゴーストライター(というか、多分、日経新聞の記者?)が書いたものと思われる文章もあるし、社長御自身が書いたらしい記事もあるが、基本的には創業者自身の自伝的な記事が多い。「私の履歴書」は、1956年(昭和31年)3月1日にスタート。第1回は鈴木茂三郎で、3月1日から7日にかけて連載された。当初は連載期間が1週間と短かったが、その後次第に長くなり、1987年(昭和62年)からは、毎月1か月間(1日から末日)に渡って1人を取り上げるスタイルが定着。2018年(平成30年)現在も継続中である。日経新聞としてもそれなりに(私のような)読者がついているし、基本的には日経新聞のスポンサー企業であるなどのメリットもあるので、60年以上も続いている記事なのである。

 まあ、朝日新聞じゃあ、こんな経営者よりの記事はないだろうなあ。下手すりゃあ、創業経営者の自慢話になっちゃうもんなあ。

『太平洋戦争で、大阪の街は焦土と化した。食べるものがなく、スイトンや雑炊が食べられればいい方だった。芋のツルまで口にして飢えをしのいだ。阪急電鉄梅田駅の裏手、当時の鉄道省大阪鉄道局の東側は一面の焼け野原で、そこに闇市が立った。
 冬の夜、偶然そこを通りかかると、二、三十メートルの長い行列ができていた。一軒の屋台があって薄明かりの中に温かい湯気が上がっている。同行の人に聞くとラーメンの屋台だという。粗末な衣服に身を包んだ人々が、寒さに震えながら順番が来るのを待っていた。一杯のラーメンのために人々はこんなに努力するものなのか。ラーメンという食べ物に、初めて深い関心を持った。屋台の行列に、漠然とではあるが、大きな需要が暗示されているのを感じたのである。』

『それから十年の後、機は熟し、ついに即席めんの開発に成功した。忘れもしない、五八年八月二十五日である。商品名は「チキンラーメン」と名づけた。
 即席めんの開発に成功した時、私は四十八になていた。遅い出発とよく言われるが、人生に遅すぎるということはない。五十歳でも六十歳からでも新しい出発はある。
 私は今年九十二歳になった。振り返ると、私の人生は波乱の連続だった。両親の顔も知らず、独立独歩で生きてきた。数々の事業に手を染めたが、まさに七転び八起き、浮き沈みの多い人生だった。成功の喜びに浸る間もなく、何度も失意の底に突き落とされた。しかし、そうした苦しい経験が、いざという時に常識を超える力を発揮させてくれる。
 即席めんの発明にたどり着くには、やはり四十八年間の人生が必要だった。』

 という安藤百福自伝。とりあえず朝ドラの現状進行までを追うと……

『一九四六年(昭和二十一年)の冬、疎開先を整理して大阪府泉大津市に急ごしらえで建てた家に移った。上郡からの列車は超満員だった。窓ガラスは割れてなくなっていた。その窓から乗り込んだ。列車にしがみつくようにして大阪駅に着いた。そこから南海電車難波駅までの四キロほどは徒歩である。私も家内も、一緒にいたお手伝いさんも、寒さに着膨れて重い荷物を背負い、廃虚の中を黙々と歩き続けた。
 終戦から一年余りを過ぎても街にはうつろな目をした飢餓状態の人があふれ、亡くなったばかりの餓死者が道端にうずくまっていることもあった。 「やはり食が大事なんだ」と思った。「衣食住というが、食がなければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない。」』

『泉大津で最初に始めたのは、製塩業である。私には塩作りの経験はない。疎開している時に、赤穂の塩田が近くにあって、それをじっくり観察したことがあるが、その程度である。まったくの素人だったのに、なぜか自信はあった。
 構内には戦災を免れた古い建物が残っていて、それを工場や宿舎に利用した。薄い鉄板が放置されていたので、これを材料にして、自己流の製塩法を考えた。』

『塩作りと漁業に精を出す一方で、私は名古屋に中華交通技術専門学院を設立することになった。製塩事業と同じように、有為の若者を集めて、彼らに食を与え、技術を身につけさせたいと思ったのである。自動車の構造や修理技術、鉄道建設の知識などを総合的に修得できる学院を目指した。全寮制で食事がつき、授業料は取らなかった。』

『一九四八年(昭和二十三年)九月、私は泉大津市に「中交総社」を設立、翌年に「サンシー殖産」と商号を変え、大阪市北区曾根崎に移転した。サンシー殖産はやがて長い休眠状態に入るが、五八年に「日清食品」としてよみがえることになる。』

『研究所では、牛や豚の骨からタンパク栄養食品になるエキスを抽出することに成功した。「ビセイクル」という名前で、ペースト状のものをパンに塗って食べた。厚生省に品質が評価され、病院にも一部供給された。ほんの小さな商品だったが、私の食品加工の第一歩は、こうして報いられたのである。』

『GHQは、国の深刻な歳入不足を解消するために徴税を強める必要があるとして、日本の税務当局を督励した。これを受けて税務署は厳しく税を徴収した結果、国民の間から激しい反税運動が起きている時期だった。新しく着任した軍政部長が「日本人は納税義務を果たすべきで、違反者は厳罰に処す」という新聞談話を、私の名前まで載せて発表した。みせしめに使われたようだった。』

 というのが、朝ドラの現状の進行までの本物のストーリー。そうか「ダネイホン」っていうのは、本当は「ビセイクル」っていう名前だったのか。

 ところで「皆様のNHK」なので実際にある商品名・会社名は番組に出さないのが原則である。大相撲の懸賞幕だけはどうにもならなかったようだが、何しろ『真っ赤なポルシェ』を『真っ赤なクルマ』なんていう著作権法違反の言い換えを行ったNHKなのである。「チキンラーメン」や「カップヌードル」はどうなるんだろう。

 まあ、番組がスタートして3か月、ほぼストーリーが見えてきたの、でこれまでだとネタバレになってしまう恐れがあったんだが、もういいでしょうね。

 ただ、気になるのは「チキンラーメン」と「カップヌードル」の商品名だけだ。

  『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』(安藤百福著/日経新聞出版・日経ビジネス人文庫/2018年9月3日電子版刊・2018年5月11日紙版刊)

2018年12月12日 (水)

『東京「水流」地形散歩』はお手軽アースダイビングだ

 小林紀晴氏は長野県茅野市の出身である。目の前に諏訪湖を抱え、背中に山々を背負っている地に生まれた小林氏にとっては、東京という場所は最初「なんて平らな場所なんだ」という印象を持ってしまってもおかしくはない。しかし、その東京という街は実は丘と谷と、谷を作った川があって、その先に海へと連なる沖積平野でもってできた土地だったということに気づいた結果が本書『東京「水流」地形散歩』なのである。

 東京の大阪との違いは実はここの部分にある。「坂のない街・大阪」と「坂の街・東京」との違いだ。まあ、人の生活というものは、「山の手」と「下町」に言いあらわしているように、地形に左右されるものである以上、地形からいろいろなものを考察するっていう方法論というものはあるのだ。

 つまり「アースダイバー」である。

Photo 『写真で愉しむ 東京「水流」地形散歩』(小林紀晴著/今尾恵介監修・解説/集英社新書/2018年11月21日刊)

『東京に暮らす多くの人は日々の生活のなかで実際に坂を上がったり下ったりしていても、その意味についてどれほど考えるだろうか。おそらくあまりその機会はないだろう。それでも、足下には太古から続く時間の蓄積が眠っている。
 神田川と善福寺川が合流する地点には縄文後期、弥生時代の遺跡がある。川は三方をコンクリートに囲まれているが合流地点の少し上流側に立ち川下を向けば、あたかも岬の先端にみずからが立っているような気がする。その時代の人もそこから似たような川の流れを見ていたはずだ。その頃、そこからはどのような風景が望めたのだろうか。川は同じように蛇行していたのか、あるいは違ったのか。かつて海の波が削った日暮里崖線にも足を運んだ。そこには縄文時代の巨大な貝塚跡があった。いずれも水と人の生活との深い関りを感じた。』

 とまえがきに書くフォトグラファー小林紀晴氏にとって、やはりそれは「カメラのレンズを通してモノゴトを考える」というものが、考え方の基本なんだろう。

『私は一人の縄文の男の姿を頭に描く。男に現代の東京の姿を想像することはできるだろうか。仮に今の東京を見たら、同じ場所だと認識できるのだろうか。おそらくできないだろう。だとしたらコンクリートとアスファルトに囲まれた現代のこの街は、縄文の男が見ている夢かもしれない。そんな奇妙な思いにとらわれた。
 やがて、私はひとつの境地に至った。写真で未来は撮れるのだと。写真で未来は撮れないとずっと信じ込んでいたが、間違いだった。私は一万年前の縄文人。未来の東京を日々撮影している。』

 うーん、そうか。なるほど写真家らしい発想法だなあ。写真が撮っているのは、目の前にある光と影だけである。しかし、その「光と影」は数万年という時間の蓄積の結果としてある「光と影」なのである。今の風景の中に、その数万年の時間の蓄積をどうやって読み取っていくのか、それがまさしく「アースダイバー」である。

 本書の構成は以下の通り。

第一章 水の力、太古からの流れ……中野区弥生町
第二章 地下に現れた「神殿」と「測量の人」……善福寺川
第三章 幻の土手とのどかな風景……神田川を東中野付近から下流へ
第四章 暗渠の魅力と洪水対策のグラウンド……妙正寺川①
第五章 文豪の暮らしと「気の毒」が募る寺……妙正寺川②
第六章 土地はどのようにして人を受け容れるのか……日暮里崖線
第七章 発展する都市が目を背けた川……渋谷川
第八章 崖から一路、コンクリへ……国分寺崖線
第九章 人工河川の魅力……小名木川
第一〇章 映画の聖地と縄文海進……四谷・鮫河橋谷
第一一章 湿った土地に集う人々……四谷・荒木町
第一二章 意識にのぼらない、しかし長い……石神井川

 この中で異彩を放つのが「第九章 小名木川」だろう。それ以外のすべての章は、もともと自然の丘と川によって形作られた谷筋や、海水面の低下によって地上に現れた沖積地だったりするものが、小名木川だけは、というか小名木川周辺の「深川」という土地そのものが、すべてが人工物であるということなのだ、

『小名木川は人工の河川である。長さはたった四・八キロほど。今回、人工河川を取り上げるのはここだけなのだが、以前からとても気になっていた。
 この河川を作ったのは徳川家康だ。天正一八(1590)年に江戸に入った徳川家康は水路を機能させることに努めた。元々は干潟だった小名木川の開削もそのひとつで、行徳産の塩を江戸に運ぶのが最大の目的といわれている。さらには成田山詣でに行く一般の人たちも途中まで船で東へ向かったようだ。』

 この地「深川」が江戸の下町として、日本橋についで有名な場所であることは、今や誰でも知っているのだが、この深川も実は銀座も、その土地はほとんどが江戸時代の埋め立てでできた土地だということはご存じだろうか。東京という街の作りそのものの話になってしまうが、武蔵野台地の上にある町が「山の手」となって武家屋敷が多く作られ、その武蔵野台地を切り裂く川によってできた谷底が「下町」という名の庶民の町となった。その下町の延長線上にあるのが、銀座、日本橋、深川といった低地の町で、まさに「江戸っ子」たちが跋扈して、当時としてはよその田舎に比べれば、かなり自由な振る舞いをしていた町があったわけだ。で、その下町の大半は「人工の街」だったっていうのも面白い。

『私がこれまでに訪ねた地はすべて、遠い過去の記憶の痕跡がそのまま地形に反映されていた。その痕跡を発見することに醍醐味があった。足元の岩や土石がどう削られ、どう流されたのか。それを見つけたときにカメラのシャッターを切ってきた。面影、痕跡を見つけることが喜びだった。それが地形散歩の楽しみといえるだろう。
 しかし、ここにはその片鱗はほとんどない。見渡す限り人工物である。何より一見、地盤沈下をまったく感じさせないことが驚きでもある。記憶喪失者のような地といったら、言いすぎだろうか。
 だが逆に、水の存在を東京のどこよりも強く感じさせる土地ともいえるだろう。地盤沈下も含めて水に翻弄された地だからだ。このあたりは江東デルタ地帯と呼ばれるが、それゆえのあやうさを感じさせもする。水の陸の境目が曖昧で、儚いとでも言えばいいだろうか。そのあやうさをコンクリートと閘門でかろうじて堰き止めているのだ。』

 川というものの立場(?)に立って考えてみれば、別に川は人を困らせるために存在しているわけではない。『もともと、「削って流す」のが川の仕事なんだから。従来はそれを黙って受け入れてくれた田んぼの沖積地に、ひと頃から家を建てて永住しようなんていうキテレツな人が激増してしまった』『おまけにちょうどこの頃から、みんなが汚い水を流し放題にするようになった。臭くてかなわないから、好都合とばかりに片っ端から暗渠にしていった。神田川や目黒川、そして石神井川の息子や娘たちである支流も、もう日の目を見なくなって久しい』という状況だ。

 しかし、東京もそんな人工的に自然の土地の形を変えることで出来上がってきたのだが、もはやそれも限界にきているんだろう、東急東横線の工事と共に、渋谷川を清流にして復活させようという活動も盛んになってきた。「春の小川」を復活させようというのだ。

 それはそれで楽しみにしつつ、しかし一方でアースダイビングを続ける楽しみはいくらでもあるというのが面白い。なにしろ、人工物で変えられてしまえばしまうほど、実はその昔そこには何があったのかを探る愉しみが出てくるのである。

 しかし、小林紀晴氏といえば、人々、特に市井の人々や、祭りに参加する人々など、基本的に「人」写真家なのかと思っていたのだが、その一方でこんな「土地」に関するレポートも行っているっていうのは知らなかった。

 うん、いい仕事をしていますね。

  『写真で愉しむ 東京「水流」地形散歩』(小林紀晴著/今尾恵介監修・解説/集英社新書/2018年11月21日刊)

2018年12月 8日 (土)

『ときどき、京都人。』って、いいなあ

『ひと月のうち一週間から一〇日間ほどを京都で暮らしている。東京と京都の二都生活。だから「ときどき、京都人」である。』(「まえがきにかえて」より)

 って、いいなあ。

 京都って見どころは沢山ある割には、東京に比べるとかなり狭い。狭い街にいろいろあるものを見に行くには、一回一回計画を立てて東京から京都旅行に行くよりは、京都に住んでしまった方が楽である。が、しかし東京生活もいろいろあって楽しい。じゃあ、「東京と京都の二都生活」ってのもいいんじゃないかと考えるんだが……。

Photo 『ときどき、京都人。 東京⇔京都 二都の生活』(永江朗著/徳間書店/2017年9月30日刊)

 上と同じく「まえがきにかえて」からの引用。

『東京から京都に移動する日は、午前一一時ころ新横浜駅を出る新幹線に乗る。車中で弁当を食べて、午後一時に京都駅着。途中で食材などを買い、わが家に着くのは二時ごろである。三週間の留守中に異常がなかったかを点検してから一週間分の食材を買いに出かける。レンタルビデオ屋で映画のDVDを借り、予約した店で晩ごはんを食べる。』

『朝は夜明けとともに起きて、仕事をはじめる。近くの下御霊神社にお参りして、井戸水をいただく。妻が朝ごはんをつくるあいだ、わたしはその水でコーヒーを淹れる。』

『京都から東京に移動する日は、朝から洗濯と掃除。その合間に仕事。お昼ごはんを進々堂で食べ、乾いた洗濯物にアイロンを掛けてクローゼットにしまい、家の中を点検して鍵を掛ける。京都駅で夕方の新幹線に乗る。』

 まあ、永江氏の奥様っていう人が、相当よくできているのか、あるいは永江氏自身が奥様の家事を手伝うことをまったく厭わないひとなのか。それでも、「妻が朝ごはんをつくるあいだ、わたし(永江氏)はその水でコーヒーを淹れる」だけなんですね。「朝ごはん」は必需品、「コーヒー」は嗜好品、って考えると、ここは永江氏自身が「朝ごはん」を作らないといけないんじゃないの? なんて考えてみたりするのだ。

 昔、私もバブル真っ盛りの頃、新潟の苗場スキー場にリゾートマンションなるものを買ったことがあった。まあ、実際に買ったのは私の母ではあったんだけれども、大半は私が使っていた。

 結婚して、子供が出来てからは、冬は当然子供を幼児の頃からスキーに連れていき、春には山菜取り、夏には避暑かなあ、なんて感じで重宝して使っていたんだが、言って見ればそれは単なる夫の勝手な思い込みであって、実は妻はあまり面白くなかったんですね。

 何故か? 結局、妻にとっては家にいてもリゾートマンションに行ってもやることは同じ。朝晩の食事の支度やら、食材の買い入れやら、毎日の洗濯やら、部屋の掃除やらなどなど。これがホテルにでも泊まれば、それは多少お金はかかるのだけれども、そうした炊事その他は「上げ膳、据え膳」ですべてホテルがやってくれ、妻も客という立場でリラックスできるっていうわけなのであった。おまけに行くのはいつも同じ苗場じゃ面白くないはずではありました。そりゃそうだよね。

 で、結局、百ン十万円の損でそのリゾートマンションは手放してしまった。まあ、それはそれでよかったんだけれども。

 それはいいとして……。

 そうなんだよな。どうも本を読んでいる限りは永江氏には子どもはいないようだし、あとは永江氏自身が家事が大好きな人なのか、あるいはよっぽど暴君で「女は家事をしていろ」なんて奥様を押さえつけている人なのか、のどれかのパターンなんでしょうかね。

 読んでいて、やっぱり「でも、京都に住んでみたい」と思わせる理由は、京都の一年間ってどういうものなのだろう、ってことで「第五章 京都の四季の時の時」の各タイトルから引用。

『 中年になると梅が好きになった(一月)
 春はたけのこ(三月)
 葵祭(五月)
 新緑の昼床が気持ちいい(五月)
 蛍の舞う夜(五月)
 藤を見に行く(五月)
 夏はやっぱり納涼床(五~九月)
 水無月と夏越祓(六月)
 祇園祭 宵宵山と宵山(七月)
 祇園祭前祭(七月)
 祇園祭の後祭(七月)
 粽は食べられない(七月)
 京都のセミは強烈(八月)
 夏の京都の熱帯夜(八月)
 鮎と鱧(八月)
 送り火(八月)
 地蔵盆(八月)
 京都の地蔵たち(八月)
 きのこの季節(九月)
 梨木神社の萩まつり(九月)
 時代祭(一〇月)
 猪子餅とお火焚き饅頭(一一月)
 火の用心(一一月)
 紅葉の穴場 石清水八幡宮(一一月)
 今年の紅葉 去年の紅葉(一一月)
 南座のまねき上げ(一一~一二月)
 京都の年末年始(一二~一月)
 京都の雑煮(一二~一月)
 雪の大文字(一月)
 御池桜(一月)
 神泉苑と恵方(二月)
 下御霊神社の餅つき(二月)』

 いやあ、見事でしょう。

 そうか、そうした祭りや行事の度に旅行を計画するから、ホテル代もかかっちゃうし、結局は人ごみの中で動き回らなければならなくなるのだ。

 普段の京都を見たいのであれば、上のような、特に三大祭りと呼ばれている「葵祭、祇園祭、時代祭」の時期は外して、少なくとも「京都の四季の時の時」の内容を見ながら、それぞれの「いい時期」を探して京都に短期旅行でいけばいいんだ。

 まあ、ちょっとこの本を読んで、京都と東京の「二都生活」もいいなあ、なんて考えたんだけれども、以前の苗場のリゾートマンションのことを考えたら、まあ、それほどいい選択肢でもないようにも思えてきた。

 とは言いながらも、未だに「二都生活」っていうものには憧れがある。

 要は、どちらの街にも私は「根っ子」を持っていない「デラシネ」(根無し草)って言うものに対する憧れがある。多分、実際のデラシネっていうのは、実はかなり過酷な生活なんではないかとは思っているんだが、それでもまだある「デラシネに対する憧れ」っていうものが、男にはあるんじゃないだろうか。

 要は、五木寛之症候群なんだけれども、考えてみれば『デラシネの旗』を書いた五木寛之氏自身はデラシネじゃなかったもんな。

   『ときどき、京都人。 東京⇔京都 二都の生活』(永江朗著/徳間書店/2017年9月30日刊)

2018年12月 1日 (土)

『昭和の怪物 七つの謎』昭和は戦争の時代だったんだ

「昭和の怪物」ということで取り上げられた人物は6人。

 東條英機、石原莞爾、犬養毅、瀬島隆三、吉田茂の5人に加えて渡辺和子の6人なんだが、実はここに現れていないもう一人の女性がいる。犬養毅の項は実は犬養毅の孫、犬養道子からの聞き書きが異常に多いのだ。

Photo 『昭和の怪物 七つの謎』(保坂正康著/講談社現代新書/2018年8月1日刊)

 構成は全八章。

第一章 東條秀樹は何に脅えていたか
第二章 石原莞爾は東條暗殺計画を知っていたのか
第三章 石原莞爾の「世界最終戦争論」とは何だったのか
第四章 犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか
第五章 渡辺和子は死ぬまで誰を赦さなかったのか
第六章 瀬島龍三は史実をどう改竄したのか
第七章 吉田茂はなぜ護憲にこだわったのか

 二人の女性登場者に触れる前に、結局「昭和の時代」とは畢竟「戦争の時代」だったということに注目したい。昭和6年(1931年)の満州事変、昭和12年(1937年)の支那事変(日中戦争)、昭和16年(1941年)の太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)という昭和の戦争は、それまでの明治27年(1894年)の日清戦争、明治37年(1904年)の日露戦争、大正3年(1914年)の第一次世界大戦と比較して、やはり「戦争の質」が異なってきていることがあるのだ。

 ひとつにはそれまで「戦争」と単純に呼んでいたものが、「事変」という巧妙なすり替えが行われたというのが、まずその第一の特徴であろう。宣戦布告もないままの侵略行為を「事変」と呼び変えるのは、まあ、如何にも官僚らしいごまかしなんだけれども、それを軍隊自身が使ったという特徴がある。

『東條英機は、私の世代には悪魔のような存在として印象づけられている。
 私の世代、つまり昭和二十一(一九四六) 年四月に小学校(このときはまだ国民学校といったが)に入学し、戦後民主主義をきわめて純粋に教えられた世代にとって、その成長過程では太平洋戦争とその指導者は、「負の存在」として教育された。私の周辺では、東條英機を語るときにまるで罪悪人のように話す「大人たち」は少なくなかったのである。』

『昭和十三(一九三八) 年五月、東條は東京に戻り、陸軍次官に就任している。近衛文麿首相は、陸軍から大臣を誰にするかよりも、まずは陸軍次官に東條英機が就任すると聞かされ驚いている。なぜ陸軍大臣が先に決まらないのか、というのである。このことは東條のように強引で、自らの権限しか考えない軍官僚こそが陸軍を動かすのにふさわしいと陸軍内で考えられていたことを示す。東條が表舞台に出てくることになって、陸軍の政治的態度はあまりにも偏狭になっていく。とにかく強引で、自分に都合のいい論理しか口にしない。相手を批判するときは、大声で、しかも感情的に、という東條の性格は、はからずも陸軍そのものの体質になっていったのである。』

 その陸軍のインテリジェンスというのが、実に明快に語られている。

『大日本帝国の軍人は文学書を読まないだけでなく、一般の政治書、良識的な啓蒙書も読まない。すべて実学の中で学ぶのと、「軍人勅諭」が示している精神的空間の中の充足感を身につけるだけ。いわば人間形成が 偏頗 なのである。こういうタイプの政治家、軍人は三つの共通点を持つ。「精神論が好き」「妥協は敗北」「事実誤認は当たり前」。東條は陸軍内部の指導者に育っていくわけだが、この三つの性格をそのまま実行に移していく(その点では安倍晋三首相と似ているともいえるが)。』

 まあ、最後の「その点では安倍晋三首相と似ているともいえるが」という部分は、まあ、それはそれで面白いが、なにかその相似形を見るとちょっとそら恐ろしくなるのは私だけではないだろう。確かに、安倍晋三氏のインテリジェンスについては、かなりの疑問を感じている。

「第五章 渡辺和子は死ぬまで誰を赦さなかったのか」で保坂氏の聞き取りに答えたのは、『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)で知られる学校法人ノートルダム清心学園理事長だった故渡辺和子氏であるのだが、彼女はわずか9歳の時に、二・二六事件で青年将校などが父・渡辺錠太郎を殺しに来て、機関銃で撃たれて死亡した現場を目の当たりにした人だったのである。

 陸軍大将にして教育総監兼軍事参議官だった渡辺錠太郎は、決して『豊かとはいえない家庭で育ち、本来なら旧制高校、帝国大学と進みたいと思っていたが、つまりは学資を必要としない軍関係の教育機関(陸軍士官学校→陸軍大学校:引用者注)で学んだ。若い将校のころから月給の半分は書籍代に使ったといわれているだけに、軍人としては珍しく学究肌のタイプであった。昭和の軍内にあっては、天皇を神権化するグループとは一線を画し、むしろ美濃部達吉の天皇機関説を評価していた。』という、陸軍には珍しいインテリだったのである。

 しかし、こうして見ると、東條英機の非インテリぶりには予め納得していた部分はあるのだが、その一方、石原莞爾の反東條のスタンスは理解できるんだけれども、その「世界最終戦争論」自体もなんかあまりインテリジェンスを感じられないもののように思えてきた。

『「世界戦争」をもって人類は戦争と別れを告げると言い、それは「決戦戦争」と名づけられるという。その戦争の単位は「国民の持っている戦争力」を最大限に投入するというのであった。戦法は「空中戦」が主体になるだろうと言い、世界最終戦争のときは、決戦戦争の極限での戦いが要求されると指摘する。
 石原は「戦争発達の極限に達するこの次の決戦戦争で戦争が無くなるのです。人間の闘争心は無くなりません。闘争心が無くならなくて戦争が無くなるとは、どういうことか」と問い、次のようにまとめている。
「国家の対立が無くなる──即ち世界がこの次の決戦戦争で一つになるのであります」

『どこの国とどこの国が戦うのが世界最終戦争なのか。石原はその前段階として、世界は国家連合の時代に入ると予想し、四ブロックに分かれるというのであった。第一はソビエト連邦で「社会主義国家の連合体」、第二は米州で、「合衆国を中心とし、南北アメリカを一体」とした連合だという。第三は「ヨーロッパ」で、今ドイツがその大連合を狙っていると分析する。そして「最後に東亜」だという。現在、「日本と支那は東洋では 未だかつてなかった大戦争」を戦っているが、しかしこれは「日支両国が本当に提携するための悩み」と見るのである。』

『「(前述の) 四つの集団が第二次欧州大戦以後(保阪注・このときは太平洋戦争は始まっていない)は恐らく日、独、伊 即ち東亜と欧州の連合と米州との対立となり、ソ連は巧みに両者の間に立ちつつも、大体は米州に多く傾くように判断されますが、我々の常識から見れば結局、二つの代表的勢力となるものと考えられるのであります。どれが準決勝で優勝戦に残るかと言えば、私の想像では東亜と米州だろうと思います」
 素人考えだがと前置きしつつ、「アジアの西部地方に起こった人類の文明が東西両方に分かれて進み、数千年後に太平洋という世界最大の海を境にして今、顔を合わせたのです。この二つが最後の決勝戦をやる運命にあるのではないでしょうか」と結論づける。』

 まあ、この辺までは東條よりは少しはインテリ臭さを感じさせるのだが、結局、その結論は日蓮主義になっていくあたりで限界が見えてくる。

『「大東亜戦争」は自由主義から統制主義への革新が進められるべきだとも言っている。この点は英米の民主主義体制に対して全体主義国家が勝利することが望ましいと述べたうえで、統制主義時代に入っての指導者には何が求められるのか、そのことを石原は『国防政治論』の中で明確に示している。』

『ドイツのヒトラーを指導者として注目すべきだというのは当時の日本の識者と同じなのだが、この点では石原もヒトラーの権勢を充分に捉えていなかったということになるのだろう。ドイツのヒトラーやソ連のスターリンに比べて、日本に「天皇」という存在があるとしたうえで、最高幹部(一人ではなく数人でもいい)が必要であり、この人物の能力はとくに秀でていることが重要だとする。』

 この辺に至ると、完全に石原莞爾自身も世界の動向の読みを誤ってくるのである。第二次世界大戦を「大東亜戦争」という部分から見るだけでも、日本の天皇主義とソビエトの一国社会主義という統制主義の国々が争う中で、それを両方とも倒そうとした中国の毛沢東共産主義があったという関係論を、やっぱりこの人たちは理解していなかったんだな。

 毛沢東主義者は対日本の戦争という部分に限って共闘をしたのであって、その当時の毛沢東主義は統制主義ではなかったのだからね。

 しかし、この本に登場する6人はいずれも第二次世界大戦(太平洋戦争)における重要人物である。それ以降に重要人物は存在しないのかといえば、決してそうとは言えないんだけれども、やっぱり昭和という時代においては大きな存在は「戦争」である以上、その戦争にかかわった来た人たちが、やっぱり「怪物」として認識されることになるのだろう。

『昭和の怪物 七つの謎』(保坂正康著/講談社現代新書/2018年8月1日刊)

2018年11月18日 (日)

『スッキリ中国論』でスッキリしたこと

 まあ、これはビジネスの問題だけじゃなくて、いろいろな局面でもって見られる日本人の思考法と中国人の思考法の違いなんでしょう。

 それは長い間に培われたお互いの歴史の違いから来るもんなんだから仕方がない。要は、「あっちが違う」「そっちがおかしい」という問題ではなくて、要は「文化の違い」なんだからね。それぞれ相手の国に行ってビジネスをしようと思ったら、それぞれ"When in Rome, do as the Romans do. " なんだけれど。

 まあ、それができない中国人の中華思想ってのもあるのかもしれない。

"When in Roma, do as the Chinise do."というか"Everywhere, we can do as our behavior."なんですね。これはどうしようもない。

 まあ、"When in Beijin, do as Beijinese do."で長いこと生きてきた中国人なんだから、それを今更変えろって言ってもむりだろう。まあ、それを前提に「東の果ての国=日本」の人間は生きていかなければならないってことでしょう。

Photo 『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦著/日経BP社/2018年10月10日電子版刊・2018年10月22日紙版刊)

 基本的な問題としては

『「スジ」で考える日本人
「量」で考える中国人』

 ってのがあるらしい。

『「そんな話はスジが通らない」「スジを通せ」などと言うように、「規則」「ルール」「道徳的規範」など、「こうするべきだ」という、いわば「べき論」のことと思ってもらえばいい。
 日本人、日本社会はこの「べき論」が好きで、とにかく「話にスジが通っているか」を重視する。逆に言うと、スジが通っていれば損得勘定は二の次、みたいな部分もある。
 一方、中国人的判断の基礎となる「量」とは何かと言えば、「これだけある」という「現実」である。「ない袖は振れない」という言い方が日本語にはあるが、現実に「袖」という物体がなければ、振りたくても振ることができない。いくら「袖を振るべきだ」とスジ論を言っても、まさに「ないものは振れない」のである。
 つまり、ここで言う「量」とは、「あるべきか、あるべきでないか」はともかくとして、「あるのか、ないのか」「どれだけあるのか」という現実を示している。』

『日本は中国に比べて「べき論」が前に出やすく、中国社会では日本に比べて「具体的な量の大小による判断」が優先される、ということだ。』

 ということで、基本的なことを言ってしまえば、お互いの違いを相互に認め合って、お互いが理解できるビジネススタイルを指向して進めばいいんだ、ってことなんですけれども、でも、それが何故か出来ないんですねえ。で、文化摩擦が起きてしまう。

 結論を言ってしまえば。

『新しいビジネスを立ち上げるのは「量」の得意技だが、それを収益化し、顧客に愛される存在に育て、ブランド化するまで持っていくことは、「スジ」の方に強みがある。中国版シェア自転車の事例が示すように、「量」の思考だけでは継続的な事業に育てていくのは難しい。
  翻って考えれば、このあたりに日本企業の中国での勝機(商機)があるのかもしれない。派手な「投資」話をぶち上げて右から左に売り抜ける商売は日本人の得意とするところではないが、利幅は薄くとも、社会に役立つ仕事を根気よく、丹念に継続し、しぶとく改善して利益をあげていくという「仕事」は、日本人の 能くするところである。
「スジ」と「量」の発想を理解し、その両者をいかに使い分けるか。そこにわれわれ日本人が、中国人や中国社会と付き合うためのカギがある。』

『新しいビジネスを立ち上げるのは「量」の得意技だが、それを収益化し、顧客に愛される存在に育て、ブランド化するまで持っていくことは、「スジ」の方に強みがある。中国版シェア自転車の事例が示すように、「量」の思考だけでは継続的な事業に育てていくのは難しい。
  翻って考えれば、このあたりに日本企業の中国での勝機(商機)があるのかもしれない。派手な「投資」話をぶち上げて右から左に売り抜ける商売は日本人の得意とするところではないが、利幅は薄くとも、社会に役立つ仕事を根気よく、丹念に継続し、しぶとく改善して利益をあげていくという「仕事」は、日本人の 能くするところである。
  「スジ」と「量」の発想を理解し、その両者をいかに使い分けるか。そこにわれわれ日本人が、中国人や中国社会と付き合うためのカギがある。』

 う~ん、なるほどなあ。

 まあ、別にビジネスを行うのに相手とお互いに信頼感を持つ必要はない。別に、緊張関係になったとしても、ビジネスを行うことはできるのだろう。つまり、お互いが信頼関係になることと、ビジネス関係は、なんの関係もないことなのだ。

 なので、お互い戦争関係になっても、ビジネスは別に行うことはできる。要は「ビジネスで戦争をする」ということでいいのだ。

 まあ、それは高度なテクニックが必要であることは間違いないのだけれども、そんな関係論をヨーロッパ(EU)の人たちは遥か昔から行ってきたし、中国もやっぱり行ってきているのだ。まあ、それが地政学っていうものだろう。

「地続き」ってのがその辺のキーワード。

 そこへ行くと、歴史的に考えて、高度な交渉テクニックを持ち合わせていないのが、日本とアメリカだけなのかもしれない。片方は他の国と地続きではないし、もう一つは歴史的に新しすぎるし……。

 ということで、我々が中国人に対して持っている「何故?」については分かったんだけれども、じゃあ、どうやれば我々日本人が中国人に勝る交渉術とか営業力を持てるのかと言えば……、ちょっとわからないなあ。

 まあ、中国に関して「スッキリ」したのはここまでですね。もうちょっと「スッキリ」したかったんだけれどもなあ。

 ああ、そうかそこから先は「自分で考えろ!」ってことなんですね。

  『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦著/日経BP社/2018年10月10日電子版刊・2018年10月22日紙版刊)

2018年11月 7日 (水)

『なぜ倒産』を読んで、かえってホッとした

 起業というのはそれぞれの起業理由があってできるもの、同時に倒産っていうのもそれぞれの理由があっておこるもの、と考えていたんだが、実はそうではないらしい。

『成功はいくつかの要因の組み合わせですが、失敗は究極的には1つの判断ミスによるもの。例えるなら、成功とはブロックを地道に高く積み上げることであり、失敗とはブロックの山のどこか一カ所に異常な力が加わることで一気に崩れるイメージです。成功の要因と違って、失敗は原因を特定できる分、ダイレクトに役立つのです。』

 ということだそうなのだ。

 本書は23社の経営破綻について、3つのケースに分けて詳述している。

 一つは「急成長には落とし穴がある」、二つ目には「ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道」、そして三つ目には「リスク管理の甘さはいつでも命取りになる」というものだそうだ。

Photo 『なぜ倒産 23社の破綻に学ぶ失敗の法則』(日経トップリーダー編集部/日経BP社/2018年7月16日刊)

 まず第一「急成長には落とし穴がある」

 遠藤商事・ホールディングス [飲食チェーン運営]
90秒で調理できる仕組みを考案し、ナポリ風本格ピザのチェーン店を80店超展開した。しかし、急成長に人材育成が追い付かず、収益力は伸び悩んだ。出店のための借り入れが膨らんだ結果、追加融資が難しくなり、資金繰りが滞った。

 グルメン [物流受託、食品卸売り、スーパー経営]
物流業務を一括受託する「3PL」で成長。食品卸売り、スーパーにも注力していた。トップに事業創造の力はあったが収支管理が甘く、実態は赤字続きだった。スーパー業界の再編に巻き込まれて大口顧客を失い、自力再建の道が途絶えた。

 みらい [植物工場の開発販売]
「未来の農業」と期待がかかる植物工場。この先頭を走っていた会社が破綻した。技術力に一定の評価はあったが、組織拡大で経営力の乏しさが露呈した格好に。工場のオペレーションもままならず、大赤字を出し、資金がショートした。

 ヒラカワコーポレーション [寝具・寝装品などの製造販売]
節電ブームを追い風に冷感寝具をヒットさせ、工場新設や本社移転などに投資した。その回収のために売り上げ維持を図り、利益の薄い商品に注力した。”2匹目のドジョウ”を狙った新商品も当たらず、資金繰りに行き詰った。

 エプコット [海外映画、ドラマDVDなどの制作・販売]
海外映画やドラマなどの版権を買い付け、DVDを制作して販売していた。韓流ブームに乗り、大手と競って高額で韓国ドラマの買い付けに動いた。ブームの終焉とともに業績不振に陥り、復活できなかった。

 長崎出版 [書籍出版]
ユニークな絵本がベストセラーになり、急成長した出版社。大ヒット作に頼る事業構造を変えようと、出版以外の事業に次々投資するも裏目に出る。幹部の離反から主力商品の出版権を失い、命運が尽きた。

 エルビー技術工業 [カーペット清掃用粘着テープなどの製造・販売]
カーペット清掃用粘着テープなどで一定の技術力があった。業績を拡大したものの、攻めの設備投資が裏目に出て資金繰り難に陥った。円安に伴う原材料代の高騰が追い打ちをかけ、挽回できなかった。

 二つ目は「ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道」

 平和堂貿易 [宝飾品・腕時計の輸入販売]
100万円以上する光学宝飾品の輸入販売会社として、高い知名度を誇っていた。高額商品市場が縮む中でも、百貨店頼みの売り方を最後まで変えなかった。若手社員が相次いで退職、企業改革の力を失い、自己破産に至った。

 鈴萬工業 [配管材料、機械工具の卸]
静岡県で配管材料・機械工具卸の老舗として名を馳せた。県内に営業拠点を絞って大手食品、化学メーカーと信頼関係を築いた。リーマン・ショック後、受注単価の下落と内部の確執で再建が難しくなった。

 東京もち [切り餅などの製造]
切り餅を主軸にフルーツゼリーや和菓子の製造も手掛けていた。大手に対抗して年商の約1.5倍の大型投資で新工場を建てたが、「空振り」に終わった。後継者を不慮の事故で亡くし、事業継続への意欲をさがれたことも打撃となった。

 吉田 [服飾雑貨卸]
下町のベルト工場から、カタログギフト向けの服飾雑貨卸に進出して成長した。冠婚葬祭ギフトの需要が落ち込む市場の変化に対応できず、業績が低迷。独自規格の商品販売で挽回を狙ったが、不渡りを出し事業継続を断念した。

 アートスポーツ [スポーツ用品店運営]
ピーク時は売上高が65億円を超えた創業50年のスポーツ用品店運営会社。テニスや自転車のブームが去り、売り上げが低迷するようになると、ランニングブームを狙った出店の負債が重荷となり、資金がショートした。

 テラマチ [機械部品の製造]
国内屈指の機械保有台数を誇った部品メーカーが破綻した。一貫生産で培った技術力には定評があり、「はやぶさ2」の搭載装置の開発にも関わった。だが、小ロット化などの変化に対応できず、起死回生を狙った中国事業でも失敗した。

 大山豆腐 [豆腐・納豆などの製造]
自動車整備から豆腐製造に参入した創業者の前社長。豆腐、納豆、油揚げ、さらには豆腐レストランまで事業を拡大した。それぞれの事業への思い入れが強く、領域を絞り込めず、赤字を積み重ねた。

 キッズコーポレーション [イベントの企画制作、運営]
大手広告代理店などからイベントの企画制作、運営を受注していた。2005年の「愛・地球博」で日本館を手掛けるなど、実績があった。リーマン・ショックや東日本大震災で受注が減る中、対応が後手に回った。

 装いの道 [着物教室の運営、呉服・和装用品の販売]
着物教室としてトップクラスの知名度を誇り、50年以上の実績があった。教室の講師や生徒、卒業生を増やしつつ、教材や呉服などを売る手法で伸びた。呉服市場の縮小やライバルの台頭が進む中、有効な対抗策を打ち出せなかった。

 ジュネビビアン [女性向けフォーマルドレスの製造・販売]
結婚式やパーティーなどで女性が着るフォーマルドレスの専業メーカーだった。名の通った百貨店の大半に販路を持ち、デザイン力で定評があった。式典のカジュアル化に伴うドレスの需要減と百貨店の衰退で、ニッチ戦略が崩れた。

 そして三つ目が「リスク管理の甘さはいつでも命取りになる」

 ホンマ・マシナリー [大型工作機械の製造]
造船、鉄道、原子力発電向けの大型工作機械メーカー。大型機械に執着して、景気の波や天災などに大きく翻弄され続けた。再生ファンドの支援を得たものの、新興国の債権回収に失敗した。

 美巧 [財布など袋物の製造販売]
香港やベトナムの工場で委託製造したブランドものの財布や袋物を輸入して販売。売り上げが伸び悩む中、融資を受け続けるために粉飾決算に手を染める。本社売却・従業員削減などのリストラや粉飾の事実公表も奏功しなかった。

 イイダ [精密板金、機械組み立て]
複写機大手の1次下請けとしてユニット組み立てなどを受注し、成長を続けた。ところが、発注元の海外シフトや生産体制見直しで受注が激減。次の柱を育てられず、資金繰りが続かなくなった。

 アルベリ [和洋菓子の製造・販売]
90年以上の歴史を持つ老舗の菓子メーカー。赤字続きの会社を継いだ娘婿社長は、試行錯誤の末にOEMの受注を拡大した。しかし、大口の需要に対応しきれず売り上げが激減。新規開拓するも追いつかず、力尽きた。

 プレスコ [化粧品の製造・販売]
化粧品のOEMを手掛けていた。容器やラベル印刷、品質管理など一括で製造を請け負い、大手メーカーから生産を受注するなど、一定の信用力があった。しかし、生産や営業現場の混乱が起き、業績が急落した。

 ユタカ電機製作所 [電源装置の製造]
創業70周年を迎えた電源装置メーカーが、突如、民事再生法の適用を申し立てた。創業者の手を離れた後、親会社は2度変わり、あるベンチャー企業の傘下に入る。だが、このベンチャーが事業を停止。その余波で、老舗企業は破綻した。

 うむむ、こうして見るとまさしく死屍累々。

 創業時はイケイケどんどんでやれるし、最初の頃はその勢いだけでもやっていけるんだろうけれども、跡継ぎの代になると創業者の意識は当然持てないわけで、そうなると創業者はあまり気にしなかった、「金融、財務」などをかなり意識しなければならなくなる。

 企業経営っていうものは、結局は「お金」の問題で、それをどうやって回していくんだっていうことでしょう。

 まあ、難しい問題だって言えばそうなんだけれども、でも、どこかで創業時の意識を変えなければならないっていうことなんだろうなあ。

 私は経営者じゃなくてよかったって思う瞬間が、この本を読むとある

 まあ、私はこんな創業会社の跡継ぎじゃなかったんで(っていうより、フツーのサラリーマンじゃんかよ!)よかったってことなんですかね。

『なぜ倒産 23社の破綻に学ぶ失敗の法則』(日経トップリーダー編集部/日経BP社/2018年7月16日刊)

2018年10月28日 (日)

『本所おけら長屋』は「読む落語」だ

 ここのところずっと「本所」というところにこだわって書いてきたブログなんだが、そのきっかけになったのが、この小説なのであります。

 本所と言えば隅田川の川向う、江戸の下町、つまり日本橋とか浅草に比べると少し格下の地域、言わば「場末」とも呼ばれた地域である。そんな場所にある長屋なので、当然、住民は貧乏人ばかり。つまり「おけら」長屋なんですな。

 そんなところには当然人情のある大家さんがいて、貧乏な職人がいて、そして何故かこれまた貧乏な浪人がいるっていうわけで、まさしく落語の世界なのであります。

 いやあ「長屋の花見」じゃないけれども、こうした貧乏長屋のお話っていうのは落語の世界なんだけれども、じゃあ、そんな貧乏話を江戸の町民が面白がって聴いたわけではないだろうから、多分、こうした長屋の貧乏話って結局は明治以降に出来た話なんだろうなあ。

Photo 『本所おけら長屋』(畠山健二著/PHP文庫/2017年7月19日刊)

 登場人物は……

万造、米屋奉公人。松吉とつるんでは酒を呑み、長屋に騒動、難事、珍事を持ち込む長屋の災厄の元凶!?

松吉、酒屋奉公人。万造とともにおけら長屋の「万松」とよばれる。落語の熊さん八っつぁんの役どころか。

八五郎、左官職人。お里の夫。万造、松吉の持ち込む騒動をまぜっかえすことも多いが、情に厚い正義感の持ち主。

お里、八五郎の妻。

お糸、八五郎、お里の娘。

長屋の大家、徳兵衛さん。万造、松吉、八五郎たちに振り回されつつも、どこか楽しげな様子(!?)の分別ある年長者。

 などのお馴染み「貧乏長屋」の住人の一人に、何故か浪人のお武家様がいる。

島田鉄斎、信州諸川藩剣術指南役。訳あって浪々の身となり、長屋の住人となる。

 その他の登場人物はお話によっていろいろなんだが、準レギュラーとしてとうじょうするのは……

金太、八百屋。どこか頓珍漢で、抜けているところもあるが、長屋の皆に愛される。まあ、与太郎ですな。

辰次、魚屋。

お染、乙な後家女。

 といったお馴染みの貧乏長屋の面々なんだが、基本的に万造、松吉が大体の騒動の持ち込み役。それを島田鉄斎先生の才覚と、刀の腕で解決し、徳兵衛さんが最後まとめるというのが、お話のパターン。

 で、その「おけら長屋」のあるのが、本所亀沢町。今の両国国技館の裏側辺りから大横川あたりまでの川向うの町なのである。

Photo 本所亀沢町の場所

 著者の畠山健二氏は本所吾妻橋の出身。元々、演芸作家をやっていた経験から落語の台本を書いたこともあるそうで、2008年4月、浅草公会堂で35年ぶりに復活した「デン助劇場」で脚本・演出を担当したっていうから、こりゃ本格的だ。本作では、古典落語の世界観を小説にしたてようと考えたそうだ。

 さらに面白いのは「ライバルは鬼平犯科帳」っていう点。

『 畠山 長屋の住人が集う居酒屋。あれは鬼平の「五鉄」(鬼平によく登場する軍鶏鍋屋)の向かい側にあるという設定なんです。おけら長屋の万造や松吉が長谷川平蔵や密偵たちとすれ違ってるかもしれない。そう思いながら書いています。どちらも浅草から本所深川あたりでよく事件が起こるから、あり得ないことじゃないでしょう。

 ――万松の本当のライバルは鬼平だったとは。そういえば、火盗改めや女掏摸、盗賊のお頭も出てきますよね。短編の連作という構成も鬼平を意識したんですか?
 畠山 短編の連作にしたのは、一冊の本を寄席形式で読ませたかったからです。一話目に前座っぽいくだらない話があって、途中でちょっと泣かせて、笑わせる。大トリの前に軽めの笑いを入れる。人情者が好きな人でも、馬鹿馬鹿しい話が好きな人でも、みんなが楽しめるようにバランスを考えて構成しています。面白いのは読む人によって好きな話が違うことです。キャラクターの好き嫌いも分かれますが、話のタイプでも好みがわかれるんです。』

 うーん、面白いなあ。落語の世界をそのまんま小説にしちゃったんだもんな、面白くないわけはない。で、逆に、こういう面白い話を新作落語にする噺家か落語作家はいないものだろうか。

 それも楽しみだなあ。

『本所おけら長屋』(畠山健二著/PHP文庫/2017年7月19日刊) Amazon限定で『本所おけら長屋』文庫10巻セットというのがあります。

2018年10月 9日 (火)

『劣化するオッサン社会の処方箋』はもう無意味なんじゃないかとも思う

 まあ、タイトルを見るだけで『劣化するオッサン社会』だもんなあ、まさしくタイトルを読んで、ほとんど内容が分かっちゃうっていう本の典型ですね。

 そうい意味では「いい本」のひとつではあるのだけれども、じゃあどれほど「オッサン社会」の実像に迫っているのかというのが本書のテーマでもある。

Photo 『劣化するオッサン社会の処方箋 なぜ一流は三流に牛耳られるのか』(山口周著/光文社新書/2018年9月30日刊)

『本書で用いる「オッサン」という用語は、単に年代と性別という人口動態的な要素で規定される人々の一群ではなく、 ある種の行動様式・思考様式を持った「特定の人物像」として定義される、 ということです。しかして、その「特定の人物像」とは次のようなものです。
 1:古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する
 2:過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない。
 3:階層序列の意識が高く、目上の人に媚び、目下の者を軽く見る。
 4:よそ者や異質なものに不寛容で、排他的。』

 という前提条件を見るまでもなく、まさしくこれからの社会で排除されるべき思想がつまり「オッサンの思想」っていうことなんですね。

 では、現代における「オッサン」ってどんな人たちなのか。

『現在六十代の人は1970年代に、現在五十代の人は1980年代に社会人となり、それぞれの二十代・三十代をバブルの上昇景気がとどまるところを知らないと思われた 80 年代、つまり「大きなモノガタリ」が、長い坂の上にまだ存在していると思われていた「最後の時期」に過ごしています。  昭和の高度経済成長を支えた一流のリーダーたちが、二十代・三十代を戦後の復興と高度経済成長のなかで過ごしたのに対して、現在の「劣化したオッサン」たちは、同じ年代をバブル景気の社会システム幻想、つまり「会社や社会が示すシステムに乗っかってさえいれば、豊かで幸福な人生が送れる」という幻想 のなかで過ごしてきたのです。これは人格形成に決定的な影響を与えたと思います。』

『2018年時点で五十代・六十代となっているオッサンたちは、 70 年代に絶滅した「教養世代」と、 90 年代以降に勃興した「実学世代」のはざまに発生した「知的真空の時代」に若手時代を過ごしてしまった、 という点です。
 教養世代というのも奇妙な言葉ですが。平たくいえば「教養の習得に価値を置く世代」ということになるのでしょうか。』

『「教養世代」に対置される「実学世代」というのは、「実学の習得に価値を置く世代」ということになります。平たくいえば経営学や会計などの「手っ取り早く年収を上げるための学問」を重視する世代」ということになります。』

『明治維新という第一次ガラガラポン革命から、太平洋戦争という第二次ガラガラポン革命のあいだに 80 年という期間があり、組織や社会のリーダーの「総取っ替え」が行われたということには、それなりの必然性があったと考えられます。
 では、 太平洋戦争の終戦から 80 年後はいつになるのかというと、それは2025年ということになります。
 つまり、いま私たちが生きている社会は、太平洋戦争終戦時の第二次ガラガラポン革命に続く、第三次ガラガラポン革命の前夜を迎えつつある可能性がある、ということです。』

カギは四十代以下の世代の運動 ということになります。実際に明治維新の際にも、太平洋戦争終戦後においても、社会システムの再構築にリーダーシップを発揮したのは主に四十代以下の中堅・若手でした。
 社会で実権を握っている権力者に圧力をかけるとき、そのやり方には大きく「オピニオン」と「エグジット」の二つがあります。
 オピニオンというのは、おかしいと思うことについてはおかしいと意見をするということであり、エグジットというのは、権力者の影響下から脱出する、ということです。』

劣化したオッサンのもとで納得できない理不尽な仕事を押し付けられている立場にある人であれば、まずオピニオンとエグジットという武器を意識してほしい。

 というのはまさしくその通りなんだけれども、実はオピニオンを通そうっていうのは、現実の日本社会では難しい。結局、既得権益が強い日本の社会では、まだまだ「若い者」の発言力は低く、そんな若い者の言うことに耳を傾けようというオッサンたちはほとんどいないっていうわけだ。なので、現実の若者としてはそういう社会にたいしてなしうることは、そんな社会からエグジットするっていうことなんだと思うんだけれども、もっと直截的にいってしまうと「エグジット」なんてカッコイイ言い方ではなくて、単純に「ドロップアウト」することではないのかな。

 今の日本が「劣化するオッサン社会」であるとするならば、そんな劣化する社会を変えようなんて無駄なことは考えずに、むしろ積極的にそんな社会からはドロップアウトして、自ら新しい社会を作り出すことを考えたほうが早いんではないだろうか。

昨今の「劣化したオッサン」による各種の傍若無人な振る舞いはまさに、終焉しようとしている権力システムがあげている断末魔の叫びだととらえることもできるでしょう。
 だからこそ、中堅・若手の世代は知的に武装し、劣化する権力に対してオピニオンを主張し、エグジットすることによって「同じ穴のムジナ」から抜け出ることが必要なのです。』

 ところがそのテーマに差し掛かった時に大きな問題があるというのだ。

『それは若年層のなかで「本を読まない人」があまりにも多いという事実です。
 質の高い結晶性知能を構築することは一朝一夕にはできません。青年期から中長期的に良質なインプットを継続することが必要なのですが。良質か悪質かを云々する以前に、そもそも「本をまったく読まない」という人がとても多い。各種の統計で若干の違いはあるのですが、概ね4割か5割の二十代・三十代が、一月に一冊も本を読んでいません。
 このように知的に怠惰な習慣がそのまま何十年も続けば、次の世代には現在の「劣化したオッサン」以上に劣化した「ゾンビオッサン」が社会に大量に供給されるということになります。』

 勿論、本を読むということだけが唯一の教養ではないことは重々承知はしている。本を読むこと以上に、自ら経験することの方が、本人にとっては大きな経験であり、その結果「教養」というものに結び付くことにもつながることはおおいにあることであろう。しかし、それを助ける意味でも、やはり読書というものは、我々の自らの経験の不足する部分を補って余りあるものである。読書そのものは、実際の経験に比べると、それは「自らの経験」などとは言えないほどの小さな知識でしかない。しかし、実際の自らの経験というものが得難いと同時に、その経験自体が自らの人生においてあまりにも大きな経験となってしまい、その結果、自らのその後の人生においてまさしくネガティブな経験となってしまう危険性はある。だとしたら、「本を読む」という小さな経験でもって、とりあえず文献上の問題だけなのだけれども、それでも「疑似体験」として「本を読む」というのは、実は効率的な「経験を得る方法」でもあるのだ。

『学生時代に学び、就活ゴール以降、学びは終了というモデル、つまり「学ぶ」と「働く」がシーケンシャルに連結される人生モデルがこれまで一般的だった日本ですが、今後は「学ぶ」と「働く」がパラレルに動く人生モデルが主流になっていくでしょう。』

『年をとっただけで「老いる」ということはありません。つまり「オッサン」というのは、好奇心を失い、謙虚さも失い、驚きながら学び続けるという姿勢を失ってしまった人たちのことを言うのです。
 本書では「劣化するオッサン社会の処方箋」をつらつら述べてきましたが、最もシンプルかつ重要な処方箋は、私たちの一人ひとりが、謙虚な気持ちで新しいモノゴトを積極的ン学び続ける、ということになると思います。』

 というのがそれぞれ本書の結論なんだけれども、その結論自体には別に特別のことではないと感じるのだけれども、例えば経団連所属の企業なんかにいたりしたら、実に感じ入ることごとなのかもしれない。

 もし、経団連がそんなに時代に後ろ向きの企業ばっかりなのだとしたら、最早そんな経営者集団は日本にいらないというか、そんな後ろ向きの「規制大好きオッサン」の集団はとにかく早めにご退場いただきたいと考えるんだが、どうだろうか。

 っていうかオピニオンなんかして階級闘争になったって、最後は権力を持っている「劣化したオッサン」力をもっている社会にいるんだから、最後は屈服させられて終わり、っていうならやっぱりドロップアウトしっちゃったほうがいいのかもしれませんね。

 ただし、ドロップアウトした後はすべて自己責任ですから、ドロップアウトした結果、自分が失敗したって、今の日本政府に生活保障なんかを求めてはいけないんですね。

 もう、「日本政府」を信頼する時代は終わったってことなんですね。

 革命が必要な時かもしれないが、その前にはまず「今の日本を終わらせる」ってことでしょう。

※文中、太字で表した部分は、原著でマーカーが入っていた部分です。

『劣化するオッサン社会の処方箋 なぜ一流は三流に牛耳られるのか』(山口周著/光文社新書/2018年9月30日刊)

2018年10月 6日 (土)

『転職の思考法』って、最早、特別なことじゃない

 実は私の子どもたちのうち、男二人は大学を出て新入社員で入った会社を両方とも20代で転職してしまっている。まあ、まさしく今や「転職社会」なんだなあ。

『現代は2人に1人が転職する時代に突入しました。また新卒の学生ですら、 60%近くがセカンドキャリアを意識して就活をします。つまり「終身雇用」はすでに崩壊しているわけです。
 にもかかわらず、多くの企業はスキルアップの機会を社員に十分提供していません。総合職で採用され、配属はランダムで決まる。そのうえでジョブローテーションばかりさせ、結果的に、転職市場で勝負できない人々を大量に生んでしまっている。しかも、その事実を 40 代後半まで本人にきちんと伝えない。その構造を、賢い人ほど直感的にわかっています。だから転職を真剣に考えているわけです。』

 そういう時代に変わってきたんだなあという感慨と共に、実はそんな生き方が実は戦前では当たり前、「大卒で新規採用されて、そのまま一生その会社で仕事をし続けて、定年まで勤めあげる」という生き方自体が、実は戦後の高度成長期に出来た生き方でしかなく、それはたかだか最近の70年程度の行き方の典型でしかなかったということを改めて認識させられたのである。

Photoこのまま今の会社にいていいのかと一度でも思ったら読む 転職の思考法』(北野唯衣我著/ダイヤモンド社/2018年6月20日刊)

 基本的なことを言ってしまえば、本書でいの一番に言っている……

『STEP 1 自分の「マーケットバリュー」を測る』

 ということ、これは私にも理解できる。

『給料は、君が『 自分』 という商品を会社に売り、 会社がそれを買うから発生している。あくまで売り込んでいるのは君なんだ。君はたまたま今の会社を選んだだけで、会社は君をたまたま買っている。つまり、雇用とはひとつの『取引』なんだよ。マーケットバリューを理解するには、まず自分を商品として考えることだ』

 つまり、「会社員であるあなたの存在」は、会社にとっては投資対象だっていうことなのである。投資金額は給料分、その目的は基本的には「給料分は稼げよ」ということだし、実は「給料分」だけじゃなくて、本当は管理部門など「お金を稼がない部署」の人たちの給料とか、会社の将来に向けての資産形成とか、そういった部分も含めて稼げよ、っていうのが現業部門の従業員に課せられた使命ではあるのだ。「仕事に対する報酬」ではなくて、「投資に対する一部の収益還元」だと考えると、サラリーマンの仕事にもそれなりの面白さというものを発見できるのだ。

 つまりそれは「会社」というものと「自分」というものを相対化してみる考え方だし、そういう考え方をしてみると、「会社」っていうものが、そんなに自分にとっては大きな存在ではなくなってくるし、逆に、そんな組織だったらいつでも辞めることができる、っていう判断も自分の方に出てくる。

 私にとって、私が属している会社っていうのは、単純に言って「私の(映画)スポンサー企業」だったというふうに考えていたし、今でもそんなふうに考えている。まあ、私の企画に投資して講談社は儲かったでしょ、ってな感じでしょうか。勿論、大きな資本を必要とする劇場映画などの場合は、講談社だけではなくて他の会社の出資も仰がなければならない。しかし、その時にメインスポンサーとして出資をする講談社がいるっていうことで、ほかの出資者にも安心感をあたえることが出来たし、その結果、作品も大きな(?)収益を上げることが出来た(はずだ)。

 その結果として、私が会社から受けた給料は、言ってみれば会社からの収益配分だし、会社がそれだけの給料を私に払ってもいい対象だったわけなのである。いやいやいや、むしろ少ない位だったでしょ。この段階では「私と会社は対等」だったわけで、もしかするとその時期が私にとって一番いい状態で所ごとが出来た時期だったのかもしれない。

 実は「会社から給料をもらう」っていうのは、それくらい緊張感のある関係なんですけれどもね。

『組織にいると、給与は当たり前のようにもらえるものと勘違いする。そして大きな会社にいる人間ほど、実力以上の給与をもらっていることが多い。その中の多くの人間は、会社が潰れそうになったり、不満があると、すぐに社長や上の人間のせいにする。だがな、勘違いするんじゃない。君が乗っている船は、そもそも社長や先代がゼロから作った船なんだ。 他の誰かが作った船に後から乗り込んでおきながら、 文句を言うのは筋違い なんだよ。』

 まあ、本当ならそんなに会社に対して面白くないことがあるんだったら会社を辞めればいいんだけれども、そんなことを言う人ほど辞めないってことなのかもしれない。もともと、転職に対しては鷹揚な出版業界にいたせいかもしれないが、あまりそんな感じで「会社が面白くないから」辞めるっていう人に出会ったことはなかったのは、もしかしたら幸いだったのだろうかなあ。

 まあ、結局こういうことなんだろうなあ。

『「最終的に転職するような優秀なやつは、在籍しているときは、必死になって会社という『みこし』を担いでいるわけでしょ。辞めるまではさ、一生懸命、会社を担いでくれる人材なのよ。でね、反対に、一生この会社にしがみつくぞ、みたいなやつはさ、おみこし担いでいるふりして、ぶら下がっているわけよ。人事部が大事にしなきゃいけないのは、ぶら下がっているやつじゃなくて、もしかすると3年後にいなくなるかもしれないけど、今必死に担いでるやつなんだよ。ほんとに担いでくれるやつだったら数年勤めてくれたら御の字じゃないの?そういうふうに人事部も考え方を変えないと』

 要は、「会社と個人の緊張関係」なんだろう。

 そんな緊張関係のない組織では、働いている人間はどんどん「ぬるく」なるだけだろうし、そんなぬるい仕事意識の中では、たんに「昔からのやり方を続けて行けばいい」っていう守旧派が跋扈するようになって、でも、そういう組織ほど途中で組織を抜け出す人間を出さなくさせるだろうし……っていう、もはや会社組織としては「死んでいる」存在になってしまうのだ。

 勿論、そんな感じの会社になってしまったら、もうとにかく早めにその会社を辞めるのかってことだけだ。

 まあ、そういう会社ばかりじゃないとは思うんだけれども、でも、今はどんどん会社を変えちゃうのね。

 それは悪いことではないけれども、私のような「高度成長期のサラリーマン」からすると、「せっかく入った会社を簡単に辞めちゃうのね」って気分なんだけれども、その位「簡単に辞めちゃう社会」だからこそ活性化していく部分も多いんだろう。

 要は「会社に選ばれてサラリーマンになる」時代から「会社を選んでサラリーマンになる」時代への変遷と言えるのかもしれない。まあ、経団連の就活ルールもなくなっちゃうわけだし、どんどん自由化して、サラリーマンの給与も上がって行けば、なおよろしい。

  『このまま今の会社にいていいのかと一度でも思ったら読む 転職の思考法』(北野唯衣我著/ダイヤモンド社/2018年6月20日刊)

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