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2018年8月20日 (月)

『挑戦するフォトグラファー』で知る、もう一つの真実

 本書『挑戦するフォトグラファー』を刊行している未知谷という出版社は、基本的に哲学などの人文書や東ヨーロッパを中心とした文学や詩集など、かなり地味な本ばっかり出している出版社だ。

 その未知谷で唯一の異色のジャンルが「自転車競技の世界」というジャンルなんだが、なんで自転車なんだろう。誰か自転車マニアの人でもいるのだろうか。

Photo 『挑戦するフォトグラファー 30年間の取材で見た自転車レース』(砂田弓弦著/未知谷/2018年7月7日刊)

 その未知谷の自転車ジャンルなんだが、これまで出版されているのは全部で23点。で、実は私はそのうち19点を持っている。きっかけは砂田弓弦氏の写真集『GIRO(ジロ)』と『フォト! フォト! フォト!』の2冊である。今回の『挑戦するフォトグラファー』もそうした自転車ロードレース写真集なのかと思ったら、そうではなくて、大学を卒業する寸前にイタリアに渡って自転車レースに参加しようとした頃から、自転車レーサーを諦めて写真家となり、やがてオートバイに乗って写真を撮れる資格を持った唯一の日本人として、オートバイのサドルから見てきたヨーロッパの自転車レースの世界を見てきた経験の集大成なのであった。

『自転車レースは現在、世界中で急速に広まっているが、本場は昔から発祥の地ヨーロッパで、今もそれは変わっていない。コースとなるヨーロッパの道はヨーロッパにしかないからだ。底辺はものすごく広く、たとえばイタリアでは七歳からロードレースを走ることができる。それに女性や中年のレースなどもあるし、なかには「パン職人選手権」、「スキー教師選手権」、「警察官選手権」など百花繚乱。週末の朝など、僕が仕事の拠点を置いているミラノ近郊はサイクリストの楽園と化し、近くの道路だけでも一時間に軽く一〇〇〇人を超えるサイクリストが行き交う。
 昨年、日本の若い女の子数人と話をしたとき、自転車レースもツール・ド・フランスも、見たことも聞いたこともないと言われて慄然となった。ヨーロッパにいれば、冬を除いてテレビの中継がほぼ毎日のようにあるし、スポーツニュースでも取り上げられる。大きなレースではテレビのニュースや一般紙でも報道されるので、自転車レースに全く興味がないひとでも、そういうスポーツがあることぐらいはみんな知っている。また、
「最近自転車に乗る人が日本でも増えて来ましたよね」と、日本の方からよく言われる。ただ、ヨーロッパの状況を見ていると、とても同意できない。日本の週末のサイクリストの数が、ヨーロッパの平日の数の足元にすら及ばないのだ。』

 と書く砂田氏ではあるのだが、それはそうだろう。元々、自転車レース、それもロードレースはヨーロッパ発祥というだけではなく、「一般の道路を使ったスポーツ」ということで言えば、せいぜいマラソンしかないような国で、自転車レースが盛んになるわけではないのだ。

 おまけにそれがもととなって(と私は考えている)、今、世界で通用する日本人の自転車レーサーっていえば、別府史之と新城幸也の二人だけだし、これまでヨーロッパに挑戦してきた日本人レーサーだって二ケタを超えたとは言っても三ケタには到底届かない状態だ。

 それでも毎週末にサイクリングロードや一般道を含んで、ロードレーサーで走っている人の数も以前に比べるとだいぶ増えてきたし、時たま行われるホビーレーサーたちの大会やヒルクライムレースなんかも次第に多くはなってきている。というか、こんなヘタレの私でもそのうちのいくつかのレースには出たことがあるのだ。勿論、高校生や大学生が出走するレースや、実業団、プロ(セミプロも含む)などのライセンスをもった選手でないと出られないようなレースには出たことはない。「出版人選手権」なんてのも、この日本ではないしね。

 そんなわけで、我々日本人が自転車レースを見る方法としては、実際にレースが行われる場所に行くか、あとはJ Sportsなどで深夜放送されるテレビ中継を見るしかない。それでも、現在ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、ヴェルタ・ア・エスパーニャなどの三大ツールや、ヨーロッパで行われるクラシック・レースなんかは見られるようになったのはCATVさまさまではあるのだが。それでも、プロ野球みたいな「たかだか日本選手権」を毎日数チャンネルで見られるような状態や、「たかだか高校生の日本選手権」である甲子園の野球を毎日毎日一日中放送している状態からすると、その関係は彼我の状態でもあるのだ。

 まあ、自転車レースっていうのが日本ではそれくらい、ラクロスやローラーホッケー、なんかよりも更に更にマイナースポーツだっていうことなんだなあ。

 で、日本で自転車レースが普通のニュース番組なんかで取り上げられるのは、有名な選手がドーピングでひっかっかた時だけ。なんか、まるでその選手が悪の権化みたいな感じで取り上げられるのだが、実はそれもやむを得ないことなんだというのが、砂田氏の本書にも書かれている。

『今、僕の周りにはパンターニといっしょだった多くの人が自転車界に残っている。アシストだった連中、たとえばヴェーロはRCSで僕たちフォトグラファー相手のレギュレーターをやっているし、ポデンツァーナはノヴォ・ノルディスクの監督、キエーザはイスラエルの監督だ。メルカトーネウーノで第二エースだったガルゼッリはテレビの解説でレース会場にいるし、カレーラでいっしょに走っていたボンテンピはRCSでオートバイに乗っている。監督だったマルティネッリはアスタナにいるし、もう一人の監督ジャンネッリはRCSで働いている。共通しているのは、みんな当時のことをあまり喋らないということだ。パンターニが死んだとき、この中の一人に、
「マルコが活躍している時に持ち上げるだけ持ち上げて、そのあとはドーピングで総攻撃。そんな彼が可哀想で、いたたまれなくて行ってないんだ」
 はっきり言おう。あの頃は皆がやっていた。レースのスピードは異常に高く、アタックに次ぐアタックの繰り返しを見れば一目瞭然だった。もちろんあ、やっていなかった選手もいたかもしれないが、それはごく少数だったと思う。けれど、そうした状況は誰にも止められなかったし、それが当たり前の時代だった。今になってあの頃のことを持ち出して批判することは、誰にもできないと思う。』

 とね。

 この状況は同じ未知谷から出ているポール・キメイジが書いた『ラフ・ライド ―アベレージレーサーのツール・ド・フランス』にも出ている。つまり、ドーピングが「やってはいけないこと」であることは誰でも知っているし、自転車レーサーの間では当然なのだ。しかし、ある種の状況の中でそれをなくすことはできないし、それが必然の場合だってあるのだ。

 自転車レースとドーピングっていうのは、ある種の「やむを得ない関係」にあると言える。勿論、それは決してやってはいけないことなんだけれども、その競技の過酷さと裏腹の関係にあることでもある。それを知るのも、やはり自転車レースの歴史を知らなければならない。

 というのが、実は未知谷の各種の自転車本を読むとよくわかる仕組みになっている。ドーピングというのは、ヨーロッパの自転車レースの歴史とは切って切れないものであるし、言ってみればそれをも含めてヨーロッパの自転車レースの世界なのだ、と……。

 ということなので、興味を持った方にはキメイジの本も読むことをおススメする。いろいろと「蒙を啓いて」くれますよ。

『挑戦するフォトグラファー 30年間の取材で見た自転車レース』(砂田弓弦著/未知谷/2018年7月7日刊)

『ラフ・ライド アベレージレーサーのツール・ド・フランス』(ポール・キメイジ著/大坪眞子訳/未知谷/1999年6月10日刊)

2018年7月30日 (月)

問題だらけの女性たち

 別に女性たちが問題だらけなんじゃなくて、それに対する男どもの方に問題がたくさんあるっていう逆説なんだけれども、まあ、ここまであからさまに言われてしまうとなあ。という気分も少しはある。

Photo 『問題だらけの女性たち』(ジャッキー・フレミング著/松田青子訳/河出書房新社/2018年4月25日刊)

 ジャッキー・フレミング氏に俎上に載せられた男どもは以下の通り。

ダーウィン、ジャン=ジャック・ルソー、クーベルタン男爵、ラスキン、ピカソ、ショーペンハウアー、ジョージ・ロマネス、ハーヴァード大学の教授であったエドワード・クラーク博士、イマヌエル・カント、モーパッサン、フロイト、シャルコー教授、フレデリック・カーペンター・スキー、ヘンリー・モーズリー、などなど、私たちも知っている人もいるが、よく知らない人もいる。イギリス人のジャッキー・フレミングにしてみれば、みんな知ってて当たり前の人たちばっかりなんだろうけれども、我々日本人にはあまり馴染みのない人も多い。

 まあ、それはそれで仕方がない。で、一方で本書に登場する女性たちはこんな人たち。

ヴィクトリア女王に育てられたサラ・フォーブス・ボネッタ、ヴィクトリア女王自身、銃の名手アニー・オークレイ、馬術のナン・アスピンウォール、ヒルデガルド・フォン・ビンゲン、ジェイン・オースティン、アンナ・マリア・ファン・シュルマン、フィリス・ホイートリー、マリアンヌ・ノース、マリー・キュリー、メアリー・ポール、エミロー・デュ・シャトレ、数学者エミー・ネーター、ルイーズ・オーギュスティーヌ・グレーズ、マーガレット・バルクレイ、エリザ・グリアーなどなど、こちらも私たち日本人にとっては馴染みの少ない人たちばっかりだ。

 しかし、書かれていることを読んでいると、如何に女性が虐げられていたのかっていうのはよくわかるんだが、それをジョークにして語るっていうところが、やっぱりイギリス流なんだろうな。

 まず書き出しがこうだ。

『かつて世界には女性が存在していませんでした。
 だから歴史の授業で
 女性の偉人について習わないのです。
 男性は存在し、その多くが天才でした。

 その後、女性が
 少しだけ誕生するようになりました。
 でも、頭がとても小さかったので、
 刺繍とクロッケー以外のことは
 なんにもうまくできませんでした。』

 で終わりもこう。

『1840年の反奴隷制会議の初日は、
 3000マイルを旅してきた女性代表団の参加を
 許可するかどうかの議論に費やされました。
 参加は認められませんでしたが、傍聴人として
 カーテンの後ろに座ることだけは許可されました。

 この出来事がフェミニズムの第一波につながり、
 2000年にもわたる女性が特筆すべきことを
 何一つとして成し遂げていない時代に
 終わりをもたらしました。

 第一波の前にもたくさんの波がありましたが、
 それらの波はゴミ箱の中です。

 男性だけが
 意思決定できる進化レベルに達しました。
 男性は何を決定するか決定するほかなく、
 それから自ら投票しました。
 1875年には、法的に結婚できる年齢を
 12歳から13歳に引き上げました。

 女性は大人になっても乳歯が生えたままだったので
 (この特徴は蝶々と同じでした)、
 「社会の玉」に入れてもらえませんでした。
 どのリボンを買うか、それとも男性として生きるか、
 選択する自由はありました。

 ショーペンハウアーは簡潔に、
 女性は大人になっても子どものままだと述べました。
 「子どもと本物の人間である
 大人との中間段階ってとこだね、 やれやれ!」

 まあ、女性の進化なんて
 まだ途中みたいなもんですよね。

 ダーウィンによると、
 著名な男性と著名な女性のリストを比べてみれば、
 男性がすべてにおいて優れていることは
 明白だそうです。

 人数で比較するなんて、与えられた証拠と、
 自然に選択された女性より5オンス分多い
 客観性をもとに天才がたどり着いた結論としては、
 首を傾げざるを得ません。

 でもそれが正しいのでしょう。何しろダーウィンは
 大きなお猿さんだったのですから。』

 う~ん、あの進化論で有名なダーウィンですらこうだものねえ。「お猿さん」です。

 まあ、女性から見たら、すべての男なんてお猿さんなんだろうなあ。

 考えてみれば、人間の歴史なんて、結局は女性迫害の歴史なんだもんなあ。

 そんな歴史に対して正面切って反論しようとしても、それは徒労に終わるだけだし、そんな無意味な反抗をしても面白くない。

 じゃあ、そこはユーモアでもって対抗しようじゃないですか、ってところがこの本のキモなんだろうなあ。

 まあ、『何しろダーウィンは大きなお猿さんだったのですから。』

『問題だらけの女性たち』(ジャッキー・フレミング著/松田青子訳/河出書房新社/2018年4月25日刊)

2018年7月23日 (月)

KADOKAWA、直接取引を3300書店に拡大 「取次」介さず翌日配達も

 7月22日の日経電子版の記事がこれ。

KADOKAWA、直接取引を3300書店に拡大 「取次」介さず翌日配達も
2018/7/22付
 KADOKAWAは書籍を直接取引する書店数を1000店舗から3300店舗に増やす。届けるのは出版取次会社を経由するのが一般的だが注文から1~2週間かかる場合があった。注文から早ければ翌日に届けたり印刷会社を介さずに自社印刷する書籍を増やしたりして、アマゾンなどのネット書店に対抗する。』

Epsn59092KADOKAWAです。飯田橋にあります。

『書籍の2017年の国内市場は7152億円で、10年前に比べると21%減った。消費者の本離れやネット通販の普及で書店数も減る。KADOKAWAは消費者が求める本を実店舗に早く届けるため、出版取次会社を介さない直接取引店を増やすことにした。遅くても2日以内に届ける。
 同社は取引関係が深い書店チェーンとの間で、自社の書籍を注文するシステムを導入している。相互に在庫状況を把握でき、書店は1冊から書籍を注文できる。紀伊国屋書店や三省堂書店など導入店は1000を超えており、数年以内に3300店規模にする。これは国内の実店舗の書籍市場の約8割に相当するとみられる。
 出版取次会社は書籍を書店に届ける物流機能と、売れた書籍の代金を書店から回収する金融機能を持つ。金融機能は取次会社が担うが、物流機能はKADOKAWAが手がけることで消費者に素早く本を届ける。
 在庫数が限られる実店舗に比べ、ネット書店はいつでもほしい作品を購入できる。書籍は1日に約200の作品が発売され、消費者の目に留まりやすい売り場に置かれる書籍は少ない。書店にほしい書籍がない場合、取次経由で注文すると、書店に届くまで1~2週間ほどかかる場合があるほか、時期も確約できないこともあった。』

Epsn59613まあ、こういう大書店には関係のない話。というか、三省堂は既に実施済み。

 結局、書店から注文の入った書籍の物流はKADOKAWAが持つが、書店と出版社に対する金融機能はこれまで通り取次が持つという、あのKADOKAWAにしては珍しいくらいのおとなしい措置だ。普通だったらメディアコングロマリットを目指すKADOKAWAからしてみれば、流通から金融まで含めた自社の支配権を求めると考えるのが普通だと思うんだが、そこはおとなしく取次の機能の一部を認めているっていうのはなぜなんだろう。

Epsn59362むしろこうした「町の本屋さん」に一番関係がある話なんだ。ところで、この廣文館書店って、典型的な「三ちゃん本屋」なんだけれども、一時期、東京都書店組合の理事長をやっていた時期がある。そういうことをするから町の本屋さんの力が弱くなるんだよなあ。

 まあ、ひとつには取次の持つ機能の一部を認めて取次の出版社離れを避けたということ。もう一つは、書店の持つ金融機能の弱さを直接KADOKAWAが受け持つことなく、そこは取次にまかせることで、KADOKAWAの金融リスクを避けたということなのかもしれない。

 つまり、それだけ書店が持つ金融部分の弱さをKADOKAWAが丸々受けてしまってはさすがのKADOKAWAもリスクを避けることはできなくなってしまう、ってことなんでしょうね。DOKAWAとしては書店が持つ顧客との直接の関連性には目をつけて、それだけはいただこうということなんだろう。ただし、お金が入ってこないリスクは避けたいということなんですね。

 実際にはKADOKAWAとしてはAmazonや楽天などのネット書店のメリットはそのまま継続するわけで、別にKADAKAWAは今後書店とだけ付き合いますっていうわけではない。つまり、書店が持つ書籍選びの機能についてはそのまま使いつつ、自らの企業にとっての「おいしいとこ取り」だけを狙ったっていうわけだ。

 したがって、今回の措置でもって書店が本来持つべき選書機能についてはますます厳しくなって、多分、いずれは書店に対する新刊配本についても厳しく望んでくるってことなんだろう。まあ、今でもいわゆる「町の本屋さん」には、ほとんど新刊配本なんてものはなくなってしまっていますけれどもね。

 まあ、いずれにせよ、書店にとっては今後とも自らの存立基盤が脅かされるっていう状況は変わりはないわけで、厳しい状況におかれているっていうことには変わりはない、ってことなんだろう。書店側もこれからは日書連なんかの団体頼みの活動ではなくて、企業個別の自らの業態を含めた改革というか革命が必要なんじゃないだろうか。いろいろな「文化的存立事由」でもっていろいろと保護されていた書店業界も、それこそ本格的な改善が必要になったということなんだろう。

Dsc_00012どうも最近はラドリオじゃなくて、このタンゴ喫茶「ミロンガ」に行くことが多い。なんでかな~という話はいずれまた。

『角川歴彦「メディアの興亡」三部作【全3冊 合本版】『クラウド時代と〈クール革命〉』『グーグル、アップルに負けない著作権法』『躍進するコンテンツ、淘汰されるメディア』(角川 歴彦 著/KADOKAWA/2017年7月7日電子版刊)

2018年6月21日 (木)

『学歴フィルター』なんかぶっ飛ばせ!

「学歴フィルター」っていうと、どこか「悪いこと」のように言われているんだが、そんなに悪いことなのかなあというのが私の考え方で、問題は「リクナビ」や「マイナビ」なんかで「誰でもエントリーできる」っていうのが一種の「幻想」を学生たちに持たせてしまい、その結果「裏切られた」なんていう思い違いの批判が出てしまっている、というのがその問題の真相のように思えるんだ。

 何しろ、私たちが就活(なんて言葉もなかった時代だ)をしていた頃なんて「指定校制度」なんてのがあって、初めから「その会社を受けることができるかどうか」が大学によって分けられていた時代だったのだ。そんな立場から見ると「まさしく就活は幻想」、学歴フィルターがあるのは企業側からの「安全弁」であり、そのことに学生が気づかされるのがちょっと遅くなってしまっただけ、ってな具合に思えるんだがなあ。

Photo_2 『学歴フィルター』(福島直樹著/小学館eBooks/2018年6月6日電子版刊)

 ところで「学歴フィルター」ってどんな具合に使われているんだろう。

『・上位大学……入試選抜度、偏差値の高い大学。東大、京大、そのほかの旧帝大、一橋、東工大、及び国公立大、早慶上智、ICU、東京理科大、GMARCH(学習院、青学、立教、中央、法政)、関関同立(関西、関西学院、同志社、立命館)など。

・中堅大学……入試選抜度、偏差値が中位レベルの大学。日東駒専(日大、東洋、駒澤、専修)、産近甲龍(京都産業、近畿、甲南、龍谷)、大東亜帝国(大東文化、東海、亜細亜、帝京、国士舘)など。

・低選抜大学……入試選抜度が低く、偏差値が 40 前後、あるいはそれ以下の大学。時折メディアで話題になる、定員割れで受験生すべてが合格する大学、つまりボーダーフリー(Fランク大学)もここに位置する。』

 なるほど、じゃあ、そんな学歴フィルターってどんな企業が使っているんだろうと思ってみると、意外と予想通りではない。

『大手総合商社や大手マスコミ、大手金融、大手メーカーなどの人気企業の事務系総合職は、熱意のある就活生が集中しハイレベルな競争が繰り広げられている。そんな状況もあり、中堅、低選抜大学の学生の中には最初から諦めて避ける人も少なくない。反対に、中小企業では受けに来る上位大学の学生が極端に少ない。
 その点、大手企業の子会社には上位大学から低選抜大学まで満遍なく学生が受けに来る。上位大学の学生は大手企業の冠に惹かれ、中堅大学、低選抜大学の学生も、あくまで子会社であり大手企業本体ではないので気後れしないからだ。このように幅広く学生が集まる企業において、学歴重視で採用しようとすれば、大手企業以上に学歴フィルターを使う動機が強く生じるのだ。』

 うーん、そうか。結局、学歴フィルターってのは上位企業だろうが下位企業だろうが、関係なくそれぞれの企業で使っている考え方なんだな。

『いまやセミナーや会社説明会はインターネットで申し込む時代だ。企業がインターネット上で学歴フィルターを使うとき、具体的に何をどう操作しているのだろうか。
 人気企業は学生を募集するにあたって、「リクナビ」、「マイナビ」、「キャリタス」など複数の就職ナビを使うことが多い。それぞれの管理画面で応募してきた学生の情報を管理するのは面倒であり、漏れやダブりなどのリスクもある。
 そのため複数の就職ナビを1か所で管理できるソフトウェアがいくつかの企業から提供されている。仮にこれを「Sシステム」と呼ぼう。
 この「Sシステム」を使って学歴フィルターが操作される。

・会社説明会の受け付けにおいて、上位大学60名、中堅大学30名、低選抜大学10名(合計100名)といった具合に、あらかじめ受け付け可能数(枠)を設定する。さらに細かく、東大20名、一橋15名、早稲田50名、慶應50名というように大学ごとに設定することも可能だ。
・就職ナビ自体に「Sシステム」の一部機能を持つものもあり、会社説明会の告知画面を大学や大学群ごとに変えることもできる。告知画面に「早稲田大学の皆さんへ」というような特別感を演出した表現やコンテンツを入れ、好感度を上げて人気企業ランキングで投票してもらおうとする企業もある。
・上位大学→中堅大学→低選抜大学という順番で、時期をずらしてセミナーの案内メールを送る。申し込みは先着順のため、自然とセミナー参加者は上位大学の学生が多くなる。学歴フィルターを使用しなくとも、一般的にセミナーは上位大学の学生が多く参加する(その点、確かに上位大学の学生には熱意がある)。それでも企業が学歴フィルターを使う理由は、万が一、中堅、低選抜大学からの申し込みが多かった場合に備えているものと思われる。中堅、低選抜大学の学生で枠が埋まり、結果的に上位大学の参加者が減る事態を人事は何としても避けたいのだ。
・上位大学生にのみリクルーター面談の案内メールを送り、メールに記載されている申し込み画面のURLにアクセスしてもらい、予約してもらう。』

 っていう、結構、面倒な作業を企業側も行っているんだなあ。まあ、それだけ企業側も「学歴フィルターを使っている」という形でネットで炎上することを避けようってのだろう。実際には学歴フィルターを使いまくっているんだが、それがばれて炎上し企業イメージを損なうことを嫌うんだろう。まあ、企業イメージっていうのは、対象が就活生だけではなくて、一般社会におけるその企業のイメージにつながってくるので、それなりに慎重にならざるを得ない。

 じゃあ、本当に学歴フィルターっていうのはそんなに厳密に使われているんだろうか、っていうとそうではないみたいだ。

『学歴フィルターや学歴差別を乗り越えることは可能だ。実際、私は今まで多数のそのような中堅大学、低選抜大学の就活生を見てきた。上位大学ほどの比率ではないにせよ、事実として中堅大学、低選抜大学から人気企業に内定しているのだ。』

『学歴フィルターで排除され、会社説明会(セミナー)に参加できない場合はどうすればいいのだろうか。簡単である。行けばいいのだ。
「行く? どこにですか?」
 学生はそう疑問に感じるかもしれない。行き先はもちろんセミナー会場だ。たとえWEBの申し込み画面で「満席」と表示されていようと、アポなしで行くのである。人事に怒られるのではないか、などと心配する必要はない。きちんと対応すれば怒られない。
「申し訳ございません。予約はないのですが御社への思いが強く、なんとしても参加させていただきたいと考えて来てしまいました。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。立ち見で結構ですので参加させていただけるよう、ご検討くださいませ」』

 なるほどなあ、企業だって別に大学みたいに「自分の学校の教育レベルについていける人間を学生として採る」んじゃなくて、要は「ヤル気」と「状況に応じた態度がとれる常識人」であれば問題はないわけで、その人がその企業にどれだけ貢献できるかは、いずれにせよ入社してから数年経たなければ分からないのだ。だとしたら、面白そうだからこんな奴でも採ってみようかってな気分にもなろうってもんだ。

 まあ、要は大学入試でも合格してしまったらそこでおしまいなのではなくて、大学でどんな勉強・研究をするのかが大事なのである。それと同じ、というかそれ以上に企業に就職するっていうことは、それこそ「職に就く」ことが大事なのではなくて、その会社で「何をするのか」ということが大事なのだ。

「学歴フィルターがある」の「ない」のってことより大事なのは、「貴方がその企業に入って何をしようとしているのか」ということなんだなあ。つまり、それが明確にあるのであれば、それを企業側に伝えることでもって「学歴フィルター」なんてものは簡単に突破できるんだっていうことを、大学生には知ってもらいたいもんだ。

 たかだか「学歴フィルター」なんてもにのにぶち当たって、それでもって人生を諦めてしまうっていうだけで、貴方は負け犬の人生を送ることになるのだ。

『学歴フィルター』(福島直樹著/小学館eBooks/2018年6月6日電子版刊)

2018年5月29日 (火)

『ロシアカメラがむせぶ夜は』

 なんとなく勢いで買ってしまったロシア(ソ連)カメラなんだが、だもんで本書を買っていろいろお勉強をしようと思ったんだが、残念ながらFED 2は載っていて、結構いい評価をしているんだが、その後継機であるFED 3については全く触れていない。

 う~ん、残念!

Photo_2 『ロシアカメラがむせぶ夜は チョートクの赤色カメラ中毒者の作り方』(田中長徳著/グリーンアロー出版社/1999年12月刊)

 FED 2とFED 3の違いは以下の通り。

『FED-2 - 戦後型FEDの外観を一新した機種で、ファインダーは視度補正機構付の一眼式となりフラッシュシンクロも付き、フィルム交換時には底板とともに裏蓋が外れるようになった。距離計の基線長も長くなったが、後期生産分は生産高効率化によりFED-3のファインダーブロックを流用したため再び短くなった。シャッター速度は1/25-1/500秒または1/30-1/500秒。』

 というのがFED 2。

 FED 3は

『FED-3 - FED-2に低速シャッターが追加されている機種である。生産の簡便化を図るために段差を無くすなど何回も外観が変更され、基線長の長さもFED-2よりかなり短くなっている。シャッター速度は1-1/500秒。』

 更に

『FED_3 Type-bは、Type-aの軍艦部デザインが変更され、フィルム巻上げレバーが備わった。Type-aではフィルムの巻き上げをZORKI-1のようにダ イアルで行っており、軍艦部にも段差が付いた古風なデザインとなっていたが、Type-bからは軍艦部の凸凹も無くなり、より近代的でスマートな外観となっている。反面、ロシアカメラとしての怪しい雰囲気は薄まっていると言える。』

 私が買ったのはこのFED 3 Type-bで、Type-aのようなバルナック型ライカとはだいぶデザインが違うし、(多分)使い勝手も異なるんだろう。Type-aと比べると何となくM型ライカに近いデザインになっているので、それはそれで面白いと思って買ったんだが、肝心のこの本ではまったく触れられていなかったのは残念!

 長徳氏が推しているのはFED 2 Type-aの方で、「アンダーパーフォレーション・エフェクト」という、まあ言ってみれば微妙な設計上のミスなんだけれども、それ自体を楽しんでいるということも、Type-bではできないのであります。

 そんなこんなでやっぱり長徳氏が勧めるType-aの方を買えばよかったのかな、値段もあまり変わりなかったし、なんてことも考えているんだが、じゃあすぐにType-aを買うのかと言えば、う~ん、ちょっと待てよ、Type-aを買ったらType-bより古いわけだから、シャッター幕のピンホールなんて問題も更にありそうだ。

 ということなので、とりあえずこのFED 3 Type-bのシャッター幕問題を片づけてから、次はどうしようか考えるべきなんだろう。というか、やっぱりロシアカメラは「古い!」わけだから、実用品として考えると、サービスショップがある現行品の方が安心して使えるわけで、ということに思いをはせる私にはクラシックカメラを愛でる資格はないってことなんだろう。

 私にとっては、やはり「カメラは実用品」なんであります。まあ、クラシックカメラを愛でるような余裕よりは、現在のところ(そのすべてがデジタルではないものの)毎日のブログにUPできるようなカメラの方が安心して使えるってもんですね。

 ということなので、相変わらずデジタルはニコンDfとEPSON R-D1s(これだって最早クラッシックカメラの仲間入り?)、アナログはニコン New FM2とF4、そしてライカM6という組み合わせに、時たまオリンパス・ペンFやOM10という、やっぱり露出計付きのカメラということになってしまう。まあ、ローライコードというクラシックカメラもあるけど、一回しか使ったことはない。

 最後に長徳氏オススメのロシアカメラ購入方法をご指南。

『「五万円でこれだけ買えるチョートクスキーの買い物指南」といこう。
 三五ミリカメラの代用品、つまりライカの代用をさせてしまおう、というロシアカメラの開業当時の精神に立ち戻って、さて何を買うべきかを考えるのなら、私はライカマウントのフェド2型を真っ先に推薦する。というのは、この偽ライカで私はウィーンでの偽ライカサンポを成功裏に終了したからである。フェドは私のようなコレクターくずれになると、戦前のフェドの初期型に、ライカなどよりも遥かに多額のお金を支払って恬然としているのであるが、これは慢性不況構造にある、日本国民のとるべき態度であるとは思えない。戦前のフェドは、その距離計の連動システムが戦後のそれと異なるので、調整が面倒である。そこでフェド2がお勧めで、このモデルは二〇万台以上が存在するから、値段もびっくりするほどではない。なによりも「付録」として付いて来る、インダスタール五〇ミリf二・八のレンズはこれをライカに付けても恥ずかしくない描写をする。
 コンタックスコピーであるキエフも買って損はないカメラであるが、何しろ、本家のコンタックスのシャッターの故障しやすい、という特徴も染色体に受け継いでいるから、程度の良いモノを探そう。ついてに忠告しておくと、これらのカメラはその値段の上限をまあ、二万円と見積もって起き、まる二年使えたら、それでもう元がとれたと、満足する種類のカメラであるということだ。間違ってもカメラ修理工房で、シャッターの精度を上げようとか、そういう色気は出さないほうがよい。高労賃の日本では、これはまったく見合わないことになる。
 六×六判カメラなら、キエフ6Cがよい。最近ではその数は減っているが、右手巻き上げで左手でシャッターを切る、これはソユーズ計画でも使用されたスペースカメラだ。同型機で最新型のキエフ60TTLも安いし結構使えるカメラだ。』

 う~ん、やっぱりFED 2なのかなあ。

20180521_1808532 私が買ったシャッター幕にピンホールのあるFED 3です。結構、雰囲気はいいんだけれどもなあ。

 確かに、『偽ライカ同盟入門』でも触れられていたのはFED 2だったしなあ。

 

『ロシアカメラがむせぶ夜は チョートクの赤色カメラ中毒者の作り方』(田中長徳著/グリーンアロー出版社/1999年12月刊)

『偽ライカ同盟入門』(田中長徳著/原書房/2005年4月1日刊)

2018年5月20日 (日)

『アニメプロデューサーになろう』って? え?

『本書は「製作もわかる制作プロデューサー」育成のために』書かれた本であるそうだ。

 えっ? 「製作」と「制作」ってどう違うの? というのがそもそもの問題。だって、本来の映画製作の大本であるアメリカでは「プロデューサー」はプロデューサーでしかなく、その間に「製作」と「制作」なんて言い分け方なんてものはないのだ。っていうか「製作」と「制作」を分ける考え方が実は日本だけの考え方で、かなり特殊な考え方なんだということを知っておく必要があるだろう。

Photo 『アニメプロデューサーになろう! アニメ「製作」の仕組み』(福原慶匡著/星海社新書/2018年3月23日刊)

『アニメのプロデューサーといっても「製作」のプロデューサーと「制作」のプロデューサーでは、役割が違います。本書で私が増やしたいと考えているのは、両方のスキルを持ったプロデューサーです。
「製作」はアニメを「商品」としいて見る立場、「制作」はアニメを「作品」として見る立場です。「製作」は企画立案や制作費集め、配給、興行など(制作を含めた)の全工程をあらわすものであり、「制作」は作品を創造する実作業です。
 スタッフクレジットで言うと、「企画」が社長や役員のような方、「エクゼクティブプロデューサー」が「企画」に準ずる役職の方、このあたりの人がアニメセクションのトップか会社のトップの人であり、プロジェクトにハンコを押す人になります。そしてプロデューサーとクレジットされている人が実際に当該の作品において製作委員会会議にも出席し担当する人となります。』

『一方、制作側のプロデューサーは予算、スケジュール、スタッフの管理を行います。制作と呼ばれるセクションのトップが「アニメーションプロデューサー」と呼ばれます。』

 うーん、なんでこういう使い分けになるんだろう? って、勿論、私も製作委員会側の製作プロデユーサーの経験はあるんだが、じゃあ、製作プロデューサーはクリエイティブを理解しなくてもいいのかと言ってしまえば、少なくとも私はそうではなかった。勿論、クリエイティブは制作プロデューサーにまかせて、自分はビジネスのことだけを考えているというスタイルの製作プロデューサーもいる、っていうか製作委員会方式で作っている映画の場合の製作プロデューサーの場合、そうしたプロデューサーの方が多いっていうか、実は大半の製作プロデューサーなんてそんな「ビジネスマン」でしかない。当然、そういう人たちは制作予算の問題にまで入り込んで解決しようとはしないし、制作予算は制作発注契約書でもって決められているので、それ以上のことには言及しないという形で現場から逃げてしまう人たちが多い。それはそれで「仕事の分担」という意味では間違ってはいない。

 でも、そういう人たちが「プロデューサー」を名乗っていいのかという疑問がある。結局、「製作委員会方式」という日本独特の映画ビジネスのスタイルがそうさせているんだろう。単なる「製作委員会代表」あるいは「代表補佐」でしかない、クリエイティブなんかとは、それまでまったく関係がなかった人が、ある日突然プロデューサーになってクリエイター面をするという不思議な光景を私はよく見てきた。まあ、多分「プロデューサー」を名乗ったほうが対外的にメンツが立つってもんで、そうしてきているんだろうけれども、そろそろ日本でもプロデューサーはプロデューサーとしてクリエイティブにかかわるような状況にしていかなければならないのではないだろうか。勿論、「出資者側の担当者」もそれなりの肩書をつけなければいけないというのは分かるが、だからと言って「プロデューサー」って呼ばなくてもいいだろう。

『アメリカでは、映画の新人脚本家はいろいろな映画スタジオに脚本を送ります。それを製作プロデューサーの下でインターンに就いていたりするリーダー(Reader)と呼ばれる若い人たちが下読みをして「こんな脚本でした」というレポートをあげて、プロデューサーが気になったものがあれば読んでみて「面白いじゃん」となれば「映画化しよう」となっていきます。でも、日本のアニメ、映画、ドラマ界にはこういう仕組みがない。
 日本では、いわば、脚本を見る製作プロデューサーの役割を、出版業界のマンガ家と小説家、編集者が担っているかのような構造になっています。アニメプロデューサーに脚本をガンガン送る脚本家はあまりいない(し、送ったところで採用される見込みはきわめて薄い)代わりに、出版社に持ち込みをするマンガ家や、小説新人賞やウェブ小説サイトに投稿する作家は無数にいます。マンガにしても小説にしても、映像と比べると低コストで作品を発表できます。出版社がリスクを負って作品を世に出し、そこで市場原理にさらされて勝った作品を原作にしてアニメ化する、という構造になっています。これならそれなりに売れる(見込みが立つ)のは当然です。』

『ハリウッドでは文字で書かれた脚本から「これはこういうふうにするとおもしろいだろう」とイマジネーションしないといけない部分が大きいから、製作プロデューサーもクリエイティブセンスや経験が必要になります。』

 ではなぜ、日本では「製作委員会方式」というリスク分散(と同時に「責任分散」)方式の製作方法が取られ、ハリウッドでは一切そうした責任分散方式の方法をとらないのか。製作委員会方式という「責任のありかがよく分からない」やり方をやめれば、日本のプロデューサーももっとプロフェッショナルなプロデューサーになれるのになあ、と現役時代考えていた。

 その解決方法としてひとつ考えられるのが、ハリウッドで使われている「ネガティブピックアップ契約」なんだ。

「ネガティブピックアップ」というのは、映画の脚本に銀行が投資する方法なのである。プロデューサーがある脚本を探し当てて(あるいは脚本家に書かせて/脚本家が持ち込んで)、それをもとに映画を作ることを決めると、まず。メジャースタジオにその企画を売り込んで、メジャースタジオと「ネガティブピックアップ契約」を締結する。この、「ネガティブピックアップ契約」とは完成したフィルムの原版(ネガ)をメジャースタジオに収める代わりに、メジャースタジオは原版が納められると同時に、映画の製作費をプロデューサーに支払うという契約だ。ここまでは、まあ創造の通りの話なのだが、それから先が違う。プロデューサーはそのメジャースタジオと締結した「ネガティブピックアップ契約」を担保にして、銀行から融資を受け映画を製作するのだ。この辺が日本と大いに異なる点で、銀行は別に不動産を担保にしなくても、「映画が完成すればメジャースタジオが製作費を支払う」という契約書だけでもって、映画の製作費を融資するのである。

 この場合、当然銀行側でも脚本を読む力が必要になるわけで、そのための人間を雇ったり、臨時で頼んだりするのである。まあ、土地代なんて二束三文である代わりに、映画の脚本は莫大な富の源泉でもあるという、まさしくハリウッドらしい銀行の営業スタイルであったりするわけである。

 そういうことが日本でも可能であれば、「リスク分散と同時に責任分散」方式の変な「製作委員会」なんてものは無くなっていき、もっともっと日本映画が面白くなるんだけれどもなあ。

 もっともっとクリエイティブなものに対する投資を行っていかないで「クール・ジャパン」なんておこがましいことは言ってはいけないのだ。製作委員会のどこがクリエイティブなんだろうか、クールなんだろうか。

 てんで、問題になりませんな。

『アニメプロデューサーになろう! アニメ「製作」の仕組み』(福原慶匡著/星海社新書/2018年3月23日刊)

2018年5月15日 (火)

『10年後の仕事図鑑』の示すこと

 本書を目にして最初に想起したのは、2003年に村上龍氏が書いた『13歳のハローワーク』だった。ただし、同書は現在ある514の仕事について「〇〇が好き」という観点から紹介し、かなり具体的にそれらの仕事に就くための能力や経験などを語り、その時点での「将来の仕事」としてIT、環境ビジネス、バイオ産業、などを紹介している点で、まさしく「13歳の子供たち」に向かって「職業についての考え方」を語ったものだった。

 勿論、本書はそんな子供たちに向けた本ではないのだから、もうちょっと辛辣に「これからなくなる職業(あるいは減る職業)」と「生まれる職業(あるいは伸びる職業)」について語ったものなのだけれども、基本的に言ってしまうと、実はそれは具体的に「これっ」と言えるわけではないし、言っても意味はない、ということも同時に語っている。

 要は、人間は社会の変化に対して、特に現在の変化に対してどういう心構えでいればいいのかということを語っているのだ。

10 『10年後の仕事図鑑』(落合陽一・堀江貴文著/SBクリテイティブ/2018年4月13日紙版刊・2018年5月1日電子版刊)

 まず本書の基本スタンスを書くと……

『「AIが仕事を奪う」という事実に対し、否定的な反応を示すか肯定的な反応を示すか。しかし、はっきりいうが、「AIによる職の代替=不幸」のロジックを持つ人間は、自分の価値をAIと同じレベルに下落させてしまっている点で、ダサい。
 仕事を奪われ「価値を失うこと」を恐れる前に、なぜAIを使いこなし「価値を生み出す」視座を持てないのだろうか。
「価値を失う」ことに目がいくタイプの人間は、常に「使われる側」として搾取される状態にいることに気づかなければならない。AIが古い社会システムを刷新していけば、今、世の中の人が思っているような”会社”のありようは失われていく。
 時代に合わせ、常に変化し続けられることが、これからの時代を生き抜く必須条件になる。』

 つまり、今話題のAIと人間の「労働」に関するものなのだが、だいたいそうした主題の設定自体が間違っているのだ。昔、産業革命の時には「機械が人間の労働機会を奪う」といって、ラッダイト運動なんかが起こったわけなのだが、現在それと同じことが、一般サラリーマンとAIとの間で起こっているわけだ。

 でも、そんな設定は簡単なこと。

『「人間対機械」の役割の最適化は簡単だ。検討する材料になるのは「コスト」でしかない。つまり、機械が行ったほうがコストが安いのであれば機会に任せればいいのだ。もちろん、手技による付加価値のようなものは保証されるはずだ。』

 で、その結果面白いのは、AIによって仕事が奪われる最初の人間として「経営者」をあげていることだ。

『僕が考える、経営者の仕事は2つ。「組織にビジョンを語ること」と「組織を管理すること」だ。ビジョンを語り、人間をモチベートすることは「今のところ」AIにはできない。そのため、ビジョンを語れる経営者は代替不可能である。しかし、管理することならAIにもできる。むしろ、これは人間よりもはるかにAIが得意とする領域だ。これはクラウド型の会社管理ツールに顕著に現れている。
 トヨタのように「自律分散型」で個々が最適化された働き方ができている組織なら、ビジョンを語る以外に経営者の仕事はない。管理しかできない経営者に高い給料を支払う必要はなく、寸分の狂いもなく的確な管理を行うAIが1台あればよい。その点、トヨタは選択と集中では語れないスケールの大きな経営を行っている。
 次になくなるとしたら、定型的な仕事のため低コストで、かつ携わっている人が多い仕事だ。具体例として、一般事務全般が挙げられる。どの会社においても必要不可欠な仕事ではあるが、特殊な能力がなくてもできる仕事ではあるため、採用コストも、給料の水準も高いとはいえない。こういったものはクラウド化されやすいのだ。
 ただし、日本には、事務仕事をする人材が多くいるため、全体でみれば「事務職」に支払われるコストは大きい。総合的にみてコスト高であるから、先ほどの経営者と同様に、AIに代替される職業の代表格となる。もしくはAIとともに働くことが一般的になるはずだ。』

 基本的に「定型化」した労働はAIとかいう以前に、「あいまい」なところを持つ人間が担当するよりは、「原則に忠実」な機械がやったほうが効率がよいってこと。これが、もう少し発展した形でAIにしても、これを「効率的な機械」であると捉えれば、同じくAIがやったほうが効率的に運ぶ仕事もかなり多く見えてくるってことなんだろう。

 特にAIの基本は人間が教え込んだ学習内容にプラスして、その後の機械学習でもって「解」に至る道を自らさがすのであるが、その結果はせいぜい「最適解」に至るだけであって、もともと「解」のない命題に対しては、答えを出せないのである。ところが、そんな「解」のない命題に対して、どこからか似たような命題を探し出してきて「解」を出してしまうのが人間の素晴らしさなのである。勿論、その「解」が正しい「解」なのか、間違った「解」なのかは、すぐには分からない。長い時間を重ねて、結果として正しいか間違っていたのかがわかるだけなのである。でも、そんな「解」を出せる人間って、やっぱり素晴らしい生き物だ。

 つまり、「AI社会」って言っても、別に怖がることはないし、むしろ生産的な仕事はどんどんAIやマシンに任せてしまって、人間はもっとクリエイティブな仕事をしましょうってことなんだな。あ、そうか非生産的な仕事でもいいんだ、このブログみたいにね。

 それじゃあ、そんなクリエイティブな生活って何なんだろう。

『SNS上でアウトプットすることは非常によい訓練になる上に、より知識を深めることができる。最近では、SNSやネット記事を見て情報収集するだけの「情報メタボ」が非常に多い。得た情報をSNS上でアウトプットし、多くの人の意見を取り入れることで、より多角的な視座を手に入れることができる。「インプット」と「アウトプット」、両方のバランスがとれているとき、人は格段に成長できるのだ。』

 っていうこと。

 つまり、様々な方法で社会的に発信できるようになった現代。この機会を逃す手はないわけで、それこそ様々な方法でアウトプットをして、時には「炎上」もしてみて、それを自分の良い経験として取り込めば、それこそその体験は自分の身になりこそすれ、毒にはならないはずだ。まあ、仮に毒になったとしても、その経験自体は後になってみればよい経験として、貴方の中に残るはずだ。

 ってなことなので、まあAI、AIって騒がず、恐れず、むしろAIを利用して、その結果余った自分の時間を、自らのアウトプットをする時間として使いましょう。

 ラッダイト運動が結果としてまったく後向きで世の中の役に立っていなかったという状況を見る通り、AIなどのテクノロジーの進展に対して後ろ向きになってしまっても何の役にも立たないってこと。

 むしろ、その結果出来てしまった自分自身のための時間をどう過ごすのか、それが重要なテーマなのだ。

『10年後の仕事図鑑』(落合陽一・堀江貴文著/SBクリテイティブ/2018年4月13日紙版刊・2018年5月1日電子版刊)

2018年5月 5日 (土)

『カメラはじめます!』って言うほどの問題じゃないんだけどね

 なるほど、デジタル一眼の時代になってくると、我々が「写真のお勉強」をした時代とはだいぶ違ってくるんだな。

 なにせ50数年前に写真のお勉強をした頃は、要は「写真はピントと絞りとシャッタースピードで決まる!」だけだったもんな。とにかく「ピントはシャープに」「絞りは被写体のボケをコントロール」「シャッタースピードは被写体の動き(ブレともいう)をコントロール」というのが「覚えることは3つだけ! カメラのコツ」だったんだが、今の「3つだけ!」は違うようだ。

Photo 『カメラはじめます!』(こいしゆうか著・鈴木知子監修/サンクチュアリ出版/2018年1月20日刊)

 現在のデジイチにおける「覚えることは3つだけ!」は、その前にデジタル一眼の「3つの撮影モード」ってのがあって、その中の「こだわりモード」というのがある。

①おまかせオートモード 設定はカメラに全部お任せ
②こだわりオートモード 設定の一部を自分で決められる
  ・P(プログラムオートモード)「色」や「明るさ」を決められる
    さらにこれらに加えて…
  ・A・AV(絞り優先モード)「ボケ具合」を決められる
  ・S・Tv(シャッタースピード優先モード)動くものに応じて「シャッタースピード」を決められる
③マニュアルモード 設定を全部自分で決める

 というのがあって、漫画の主人公はこれまで「おまかせモード」だけで撮影して、なかなか自分のイメージ通りの写真が撮れないことに悩んでいたんだけれども、そこで「おまかせオートモード」で撮っていたものを、「こだわりオートモード」で撮ることをおススメするのである。まあ、その辺がすべては「マニュアルモード」しかなかった我々が写真を学んだ頃と、基本的にカメラ側ですべてを操作してくれるデジイチ時代との違いなんだな。

 で、その「こだわりオートモード」で覚えることは3つだけってことなのだ。

その1 ボケ具合を変えられる!!
 要はレンズのF値を変えてボケ具合を変えようってことなんだけれども、それがA(Av)モード、つまり絞り優先モードで撮影した際の特徴ですね。

その2 明るさも変えられる!
 露出補正のことであります。だいたい普通のデジイチの場合は+1から+3位まで(普通はその間をさらに三段階くらいには調整できる)。

その3 色を変えられる!
 ホワイトバランスのことなんだなあ、これが。でもまあ、「光の状況によって、カメラが認識できる色は異なるため、青っぽくしたいか、赤っぽくしたいかで、色をコントロールできる」ってことだけだったら、それはカメラ側で行うよりは、撮影後Photoshopか何かの画像編集ソフトでやっちゃったほうが安心できるんだけれどもなあ。

 本当のことを言っちゃうと、「明るさも変えられる」ってのもPhotoshopで可能であります。最初の「ボケ具合」だけはカメラ側でコントロールしなければならないのだが。つまり実は『「ピントはシャープに」「絞りは被写体のボケをコントロール」「シャッタースピードは被写体の動き(ブレともいう)をコントロール」』というカメラ側でコントロールしなければならない要素は、昔と変わっておらず、それ以外の要素だけが「デジイチで行える3つだけの覚えること」なんだけれども、まあ、基本的にパソコンは使わない設定の漫画なんで、まあ、そういう「3つだけのこと」になるんだなあ。ただし、「ピントはシャープに」ということだけは、今のデジイチだったらカメラマンよりは高性能だ。

 実はRAWで撮っておけばもっといくらでも画像を変化させることは可能なんだが、まあ、JPEGで撮っても相当程度には変化させることは可能だ。つまり、アナログ時代からデジタル時代になって、それだけ「やれること」は幅広くなったんだけれども、「やれることの幅が広がる」ってことは、更に表現のフィールドを上げなければならないってことでもある。

 でもまあ、それだけカメラ任せにしても写真が撮れちゃうってことは、問題はその撮影者のセンスの問題になってしまうんだなあ。で、すべてはカメラマンのセンスの問題っていうことになってしまうと……、そこで話は終わってしまう。

 デジタル時代になっていろいろな表現のテクニックはどんどん上がっては来たけれども、問題はそれを使って表現をする人間の能力がなかなかそこに追いついていかないってことなんだなあ。

 まあ、あとはどんどんいろいろなものを撮って経験とセンスを積むことでしかない、ってことなんだろうなあ。で、最後はセンスの問題ってこと。

 要は『ハッと感じたら、グッと寄って、バチバチ撮れ!』(by 篠山紀信)ってことなんですね。

 で、話はおしまい。

『カメラはじめます!』(こいしゆうか著・鈴木知子監修/サンクチュアリ出版/2018年1月20日刊)Kindle版が出ていたんだ!

2018年4月26日 (木)

『新・日本の階級社会』で分析するだけじゃなくて、処方箋も欲しいなあ

 結局、「一億総中流」という言い方をされた戦後の高度成長期を過ぎて、バブルの崩壊、その後の「失われた20年」を経て、日本の「格差社会」は「階級(固定)社会」にまで発展(後退?)してしまったということなのだ。

 結局、「格差」というものは、まだまだ逆転可能な社会であり、社会における階級を上り詰めることも可能だったんだが、既に現代ではそれは不可能。「格差」は世代を超えて固定化してしまい、それが「超すに超えられぬ階級社会」になってしまったっていうことなんだなあ。

 問題はそれがヨーロッパ的な階級社会とは若干事情が異なり、例えば「親世代が裕福であれば、子供に良い教育を与えることができるし、その結果、子供の世代が裕福な生活をおくることができる」というようなものとして、元々はあったんだけれども、今やそれはひとの努力ではひっくり返すことができなくなってしまったという意味での『新・日本の階級社会』なんだ。

Rimg00022 『新・日本の階級社会』(橋本健二著/講談社現代新書/2018年2月1日刊)

 社会を類型化する場合にはどうしてもそこから漏れ落ちてくる中間的な存在が発生するんだが、まあ、それは類型化に伴う仕方のない考え方だということで、その類型化を受け入れることにする。

 いずれにせよその類型は以下の通り。ただし、これは20世紀までの話。

資本家階級 従業員規模が五人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業者

新中間階級 専門・管理・事務に従事する被雇用者(女性と非正規の事務を除外)

労働者階級 専門・管理・事務以外に従事する被雇用者(女性と非正規の事務を含める)

旧中間階級 従業先規模が五人未満の経営者・役員・自営業者・家族従業員

 この四階級のうち「労働者階級」というものが正規雇用者と非正規雇用者に分かれて、その非正規雇用者が「アンダークラス」という新しい労働者像を作り出したというのだ。つまりこの「非正規労働者」とは「雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。きわだった特徴は『男性で有配偶者が少なく、女性で理死別者が多い』『とくに男性アンダークラスは、強い不満をもち、自分の境遇に不仕合せを感じながら生きている』、つまり『アンダークラスは、所得水準、生活水準が極端に低く、一般的な意味での家族を形成・維持することからも排除され、多くの不満をもつ、現代社会の最下層階級である』でありながら、じゃ労働組合への加入率は『13.8%と低いが、これまで労働組合の組織対象としてみなされることの少なかった非正規労働者のことだから、意外に低くないという見方もできる。実際、この比率は2005年SSM調査では3.7%だったから、大幅に上昇している』という部分には、多少この「アンダークラス」への希望が見えてくるようなのだが、果たしてそうだろうか。

『資本家階級、新中間階級、正規労働者では、所得再配分には消極的で排外主義的傾向の強い「格差容認排外主義」の立場をとる人がもっとも多く、それぞれ40.6%、37.8%、36.9%を占める。
 ところがアンダークラスでは、所得再配分に積極的でかつ排外主義的傾向の強い「格差是正排外主義」が34.2%と、もっとも多くなっているのである。』

『格差是正の要求と排外主義が、アンダークラスにおいてだけ、強く結びついているということである。貧しい人々が所得再配分による格差の是正を求める一方で、外国人の流入を警戒し、戦争責任を問う中国人や韓国人の主張に反発する。アンダークラスには、このような立場をとる人が多いらしいのである。追い詰められたアンダークラスの内部に、ファシズムの基盤が芽生え始めているといっては言いすぎだろうか。
 2017年10月の衆議院選挙では、小池百合子東京都知事が率いる「希望の党」が注目を集めたが、その政策には、上の集計結果から見て興味深い点があった。「希望の党」は、公認候補となることを希望する候補者に、集団的自衛権の行使を可能にした安保法制の受け入れや、外国人への参政権付与に反対することを盛り込んだ政策協定へのサインを要求した。そして選挙では、九条を含む憲法改正の検討を公約とした。まさに排外主義、軍備重視である。
 ところが公約には同時に、正社員化の促進やベーシック・インカムの導入など、格差の縮小と所得再配分のための政策も盛り込まれていた。つまり、排外主義・軍備重視と所得再配分が結びつけられていたのである。おそらく、このことに気がついた有権者は多くなかっただろうし、結果的に広い支持を得ることもできなかったが、今後の新しい政党のありかたとして、前例を示すことになったと言える。』

 下級労働者の支持がドイツにおいてナチスの台頭を許したということは以前からも言われてはいたことだ。また、孤立主義や排外主義がこうしたファシズムの温床になることはよく知られている。今更、日本が戦前に戻ってファシズムへの道を歩むことは考えづらいが、しかし、アタマでは「ファシズムはよくない」ということを理解していても、結果として「名前を変えたファシズム」になってしまうと、「それを批判する立場になるほどの教育を受けているんだろうか、アンダークラスは」ってな気分にもなってしまう。勿論、アンダークラスだからといってそうした差別的批判の対象にされてよいものではないということは分かってはいるんだが、「本当に大丈夫だよね?」

『新・日本の階級社会』(橋本健二著/講談社現代新書/2018年2月1日刊)

2018年3月23日 (金)

『文藝春秋オピニオン2018年の論点』雑誌を電子で読むという体験

 昨年末に刊行された『文藝春秋オピニオン2018年の論点100』というムックの特集記事が、『文藝春秋オピニオン2018年の論点100 SELECTION』として電子版で切り売りされている。

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 切り売りされているのは……

『見開き2ページで日本の課題がわかる! 最重要テーマに最速アクセスの頼れる決定版

自民一強「2017年体制」改憲論議はどこまで進むか
北朝鮮の脅威に立ち向かうには
AIが新しい産業革命を引き起こす
離脱者続出トランプ政権の命運
習近平「強国」戦略の悪夢
天皇退位「代替わり」で何が起こるか』

 などなど8本程度の特集記事。で、そのうち『社会人の教養は人、本、旅』と『米中覇権争い』の二つを「切り買い」して読んだ。

 雑誌というものを私たちはよく買うんだが、しかし、その雑誌の記事全部に目を通すということは、基本的にありえない。まあ、気になる特集記事なんかがあると、その雑誌を買い、その特集記事を読んだ後は、なんとなく気になった記事だけを読んで、あとは捨てる、っていうのが普通の雑誌の読み方だ。

 なので、駅の売店などで買った週刊誌などを、そのまま全部持っていても邪魔になるだけなので、電車の中でビリビリ破いて読みたいところだけを残し、残りは全部捨てるっていう読み方を。私は一時やっていた頃があった。でもこういうことをやっていると、「アイツ何やってんだ」的な見方を周囲の人がしているのはよくわかるんですね。要は「変な奴」扱いだ。

 実は、その読み方っていうのはある人がやっている方法で、そのことをある本で読んで、「なるほど、そういう読み方ってあるんだ」と思って真似をしていただけなんだけれども、なんか電車の中で変人扱いされるのもなんなんで、その後はやめたんだけれども、でも、その雑誌の読み方って今でも有効だとは考えている。

 で、電子版ということで、特集記事の切り売りができるっていうのは、「なるほど!」的な発見だったわけなんですね。まあ、一種の「効率的な雑誌の読み方」ってわけです。

 電子版だったら、本を作るための製造費とか、最低の単価を決める必要はないわけで、別に効率の良いページ数のあり方とか、定価のつけ方っていうのは別に関係ない。当然、全部買ったほうが割安なのは分かるんだが、だからといって読みたくもない記事を一緒に持って歩くというのは効率面からいって決して良いわけではない。

 なるほどこりゃいい読み方だ。ほかの雑誌もこういう読み方ができればいいのだがなあ。

 ということで、まず『社会人の教養は人、本、旅』なんだが、要はこういうこと。

『人、本、旅で知識を蓄えたら、忘れないうちにアウトプットするといいでしょう。家族でも友人でもいいから、とにかく誰かに話して聞かせる。他人に話すと、「このエピソードはウケたな」とか「ここは退屈なのか」とか、相手の表情から反応を読み取ることができます。そういう刺激が、自分の考えをまとめ、記憶するのにも役立ちます。
 話して聞かせる相手がいなければ、ブログなどで文章にまとめてネットで公開するのがいいでしょう。日記をつけるよりも、何でもいいから、他人に向けて発信することをおすすめします。』

 ということ。

 人に会う、本を読む、旅に出るっていうことで、いろいろな体験を積むことは大事なんだけれども、しかし、それ以上に大事なのは、それらの体験を「アウトプット」すること。アウトプットすることで、本当にそれらの体験や知識があなたの身につくっていうことなんだなあ。この辺は私も同意することで、まあ、このブログなんかもそのために書いているっていうか、皆さんにお付き合いいただいているようなわけです。

 もうひとつ、『米中覇権争い』については、まずアメリカの歴史から学びます。

『そもそも歴史的にみても、アメリカという国は初めから一体的な強大な国として出来たわけではありません。まず北部には、イギリスから逃れた清教徒(ピューリタン)、すなわち理想主義的なキリスト教原理主義者が入植します。そして、ほぼ同時期に、南部にはプランテーション経営を行う、現実主義的で重商主義的な植民地主義者たちが入植してくる。大きくいえば、この二つの勢力のせめぎあいがアメリカの歴史の根底にあるといってといっていい。』

『興味深いのは、これまでは独立戦争、南北戦争といった歴史の大きな節目では、つねに普遍主義を掲げる北部が勝利を収めてきたことです。もしも南部が勝ち続けてきたら、まったく別のアメリカになっていたはずです。これは単なる「歴史のIF」ではありません。今後、トランプのような大統領を選び続けたら、そうなる危険性は十分にあるのです』

『アメリカは今も資源豊富で広大な国土に、世界中のあらゆる分野のクリエイターたちが集まり、世界一過酷な競争を繰り返している国です。その勝者たちが世界一の経済・技術大国を牽引するのです。多くの敗北者が存在しますが、国家としてのダイナミズムには圧倒的なものがあります。そして先進国では珍しく、若年労働人口が増加しています。こうした国は世界でも他にありません』

『もし中国が強引にアメリカに覇権争いを挑めば、最悪の場合、「第二次太平洋戦争」を引き起こす可能性もあるのです』

               

『今後アメリカには、自らが抱える、普遍主義と内向き志向の振り子の振れ幅を見極めつつ、中国といかに向き合うかという舵取りが迫られるでしょう。中国が、国際社会における普遍的な価値を受け入れるような枠組みを築くことが、アメリカのリーダーシップに求められます』

 ということで、アメリカに学ぶという点があるのならば、それはアメリカという国の成り立ちと、その歴史だということなんですね。

 で、多分、この読書経験(といっても雑誌の特集っていう程度なんで、たいしたことはない)をも、やっぱりアウトプットが大事なんですよってことなんでしょう。

「人、本、旅、歴史」って、現役引退した身にとってはすべて「体験、勉強」可能な世界だ。

 せいぜい、私もそんな体験や勉強をしていきましょう。

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