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2017年9月19日 (火)

『電通と博報堂は何をしているのか』だって? 何もやっていないに決まってるじゃん

 要は新聞ダネになった女性新入社員の自殺事件に関して、電通や博報堂が何をしてきたのか、そして現在何をしているのか、という本なんだが、そんなの決まってるじゃん。「何にもやってません」なんだよ。

 別に、悪いことをしたと思っている人はいないでしょうね、多分。

Photo 『電通と博報堂は何をしているのか』(中川淳一郎著/星海社親書/2017年3月24日刊)

 事件の概要は以下の通り。

『電通女性社員の自殺は労災 三田労基署、残業倍増を認定

 広告大手の電通に勤めていた高橋まつりさん(当時24)が昨年12月に自殺したのは、直前に残業時間が大幅に増えたのが原因だとして、三田労働基準監督署(東京)が労災認定していたことが7日、分かった。遺族代理人の川人博弁護士が明らかにした。認定は9月30日付。
 川人氏によると、高橋さんは東大卒業後の昨年4月、電通に入社し、インターネット広告などを担当した。本採用となった10月以降、業務が増加し、11月上旬にはうつ病を発症したとみられる。12月25日、東京都内の社宅から投身自殺した。
 労基署は発症前1カ月の残業時間は月約105時間に達したと認定。2カ月前の約40時間から倍増していた。
 高橋さんは「土日も出勤しなければならないことがまた決定し、本気で死んでしまいたい」「休日返上で作った資料をボロくそに言われた もう体も心もズタズタだ」などの言葉を会員制交流サイト(SNS)などで発信していた。
 電通は取材に「社員の自殺については厳粛に受け止める。労災認定については内容を把握していないので、コメントは差し控える」と説明した。
 都内で記者会見した母親の高橋幸美さん(53)は「労災認定されても娘は二度と戻ってこない。過労死等防止対策推進法が制定されたのに、過労死は起きた。命より大切な仕事はない」と訴えた』(日経新聞2016年10月/7日)

 う~ん、この高橋まつりさんっていう人、静岡の中高一貫校を出て東大文学部に入り、電通に入ったっていうんだけれども、学生時代に「週刊朝日」でアルバイトをしていたのが、広告業界入りする前のマスコミ業界経験。まあ、週刊誌にいたんならマスコミの労働荷重ぶりについては多少は知っていたんだろうけれども、まあアルバイトだからそこまでは知らなかったのかもしれない。でもね、多少自分の周りを見ていれば分かったはずなのよね、その程度のことは。

 で、もう一つ間違っちゃったのは「電通もマスコミ」だと思っていたところかな。「電通=広告代理店」自身がマスコミなわけないのであります。あくまでも「黒子」。それもメーカーだったり、流通業者だったりっていう、「地味~な」会社の、「地味~な」黒子なんですね。それをたまたま「週刊朝日」の経験があるから「自分もマスコミ志望だっ!」って言って、何で広告代理店なんかに入ったんだろうなあ。

 その昔、私が出版社に入った頃だから、今から40年ほど前か。人事の教育担当者から「これからは『広告代理店』って呼んじゃだめだ『広告会社』って呼べ。これからは『取次』って呼んじゃだめだ『販売会社』って呼べ」なんて会社の中で言われて、「う~ん。そんなもんかなあ」なんて考えて会社の中を見渡してみれば、結局、みんな「代理店」「取次」って呼んでいる。まあ、これからはクライアントとメディア企業の間で右往左往するだけの「代理店」じゃなくて、クライアントやメディア企業に対して、「いろいろ提案していく企業を目指す」なんてことを電通が言ったりしていたことを受けてのことなんだろうが、結局、クライアントから言われたことをそのまま社内外のクリエイター部門に(言われたことの意味も分からないままに)伝えるだけの「代理店」だったり、出版社と書店のあいだで言われたことをそのまま「オウム返し」に伝えて、結局は本を「出版社と書店の間で取り次ぐだけ」の「取次」っていう実際の業態にはなんの変化もないっていうことだけは証明されているわけなのだった。

 結局、高橋まつりさんの長時間労働に関していえることは

『なぜ、そんなことになるのかといえば、大いに影響しているのが「所詮は下請け業者」である点だ。ネットでは電通が日本の政財界すべてを牛耳り、猛暑やゲリラ豪雨まで電通が仕掛けたといった「ぬえ」のような存在として扱われているが、実態として私が感じるのは、「客に対して忠義を徹底的に尽くす社畜集団」という点だ』

 ということであり、ある種の「正論」として言えるのは

『僕の感覚だと、105時間の残業をしていたという高橋さんの残業時間は、『短かった』と思います。多分、デジタル界隈にたくさんいるヤバい人の時間と比較すると、そこまでではない。でもそれを「甘えだ」と言った人が出た。それはちょっと会社としてそのヤバさに気付いていないというか……。そういったことを安易に言えてしまうレベルの人がごろごろしているんです。漫画『ドラゴンボール』で『私の戦闘力は53万です』みたいなのがありましたが、仕事人としても同様の『戦闘力』みたいなものはある。300時間やっても死なない人を電通の社員は見てきた。だから、ハードル設定のミスというか、周囲とか上司にも勘違いがあったのではないでしょうか。個々人は耐性が違うんです。高橋さんの不安定さが浮き彫りになったツイートを見て思ったのは、採用ミスであり、配属ミスだということです』

 ということになる。

 別に、100~300時間くらいの残業は当たり前なのである。それがマスコミであり、広告代理店なんだよなあ。つまり、それが嫌だったら「入らなければいい」し、入ってから気づいたのであるならば「辞めればいい」のである。本人も「辞めたい」「耐えられない」って言ってたんだから、そうすればよかったのである。私たちの時代なんかに比べたら、はるかに会社を途中で辞めた人間に対する社会の扱いは「ユルく」なってきているし、転職の機会だっていくらでもある。ましてや東大卒だし。

 なんで、そんなにツラくてヤメたいのに会社を辞めなかったんだろうねえ。ってところに実は家族(母親)のプレッシャーがあったんじゃないかとも考えられてしまうのだ。勿論、100時間を超える残業を「させていた」んじゃなくて「していても何の注意も払わなかった」電通の方にも責任はあるんだろうけれども。もう一つ、家族間の話し合いってのも気になるのだ。

 なあーんてことを、結婚したばかりの頃に月に400~500時間位残業(家に帰るのは2~3日に1回位かな)をしていた私が言ってるんだが。月106時間位の残業なんてラクショーじゃん、なんて言ってはいけないのだろうか。

 今どき。

『電通と博報堂は何をしているのか』(中川淳一郎著/星海社親書/2017年3月24日刊)やっぱり星海社は講談社直接じゃないので電子版は遅いのかなあ。

2017年9月17日 (日)

作品展二日目だが『新しいメディアの教科書』について語る

 今日は講談社社友会作品展の二日目です。

 場所は、「雑司が谷地域創造館」地下一階(東京メトロ新都心線雑司が谷駅2番出口上がってすぐ)です。

 皆様のご来場を係一同お待ちしておりますです。

 で、そんなこととは関わりもなく、今日は佐々木俊尚氏の『新しいメディアの教科書』について語ります。久しぶりだなあ佐々木俊尚氏。

Photo 『新しいメディアの教科書』(佐々木俊尚著/Amazon Publishing/2017年7月14日刊)

 書くのが電子版だろうが、紙版だろうが佐々木氏のスタイルは同じである。つまり、最初に本書の構成を紹介する。

『第一章ではまず、これまでのインターネット広告モデルが生んできた落とし穴と、そこにネットメディアが引きずられてきた現状について解説する。
 第二章では、バズフィードをはじめとした新興メディアがどのような手法で巨大化してきているのかを見る。
 第三章では、この状況に危機感を感じている伝統的な新聞、ニューヨークタイムズの取り組みを紹介する。
 第四章では、記事や動画の制作方法でさえも大きく変わりつつあるということを解説する。
 そして第五章では、新興メディアとSNSの巨大プラットフォームがどのような関係になっているのかを見つつ、これからのメディア空間の可能性について論じる。』

 といっても、結論は簡単。ポイントは第五章。

『「良質なコンテンツ」「配信テクノロジー」「ネイティブ広告」は、メディアが進化していくうえで同時に揃わなければならない三つの重要な要素だ。新しいメディアの「三種の神器」と言えるだろう。

 良質なコンテンツ × 配信テクノロジー × ネイティブ広告

 もしこの要素が欠けているとどうなるか。それを浮き彫りにしたのが、二〇一六年末に日本のインターネットを震撼させた「キュレーションメディア」騒動だった。』

 つまりSNSはプラットフォームではあるけれども、メディアでは「本来」ないはずだ。

『このキュレーションメディア騒動は、二〇一〇年代におけるネットメディアの二つの本質的な不備を浮き彫りにした。
 第一は、それまで多くの人が信頼していたグーグルの検索エンジンの不備が明らかになったこと。そして第二は、ネットメディアのビジネスモデルに内在する構造的な欠陥が明るみに出たことである。』

 グーグルは自身「メディアである」とは公表していないし、自負もしていない。ある種の「プラットフォームとしての中立性」をいかに保つのかということに腐心してきた企業である。それは本来ディー・エヌ・エーだって同じはずだったのだが、どこかで自身が「プラットフォームなのかメディアなのか」を見失ってしまい、いつのまにやら「SNSもメディアのひとつである」と思い込むようになってしまった。そしてメディ企業としての矜持をなんらもつことなくメディアのようなふるまいをしてしまったことに、その原因があるのではないだろうか。

『たとえばグーグルはプラットフォームとして検索エンジンやストアでできる限りの中立を保とうとしているが、アップルはストアでの管理を強め、コンテンツやアプリの思想や品質を問うようになっている。グーグルは本来のインターネット的な企業だが、アップルはそうではない。故スティーブ・ジョブズは創業のころからハードウェアのオープン性を否定し、自社のコンピューターの第三者による改造を拒否し、気持ちの良いUIでユーザーを囲い込んでしまうという理想を描いていた。
 しかし巨大になるプラットフォームが垂直統合を目指すと、それは異様な独占支配を生みだしてしまう危険性がある。同時にプラットフォームは、マネタイズを強固にするために必ず垂直統合の方向へと進みたがる。これは大きなジレンマだ。』

 佐々木氏はプラットフォームがメディアのように振舞ってしまうことに対して、それを受け入れる立場のようだが、やはりそれは難しいだろう。プラットフォームはテクノロジーとともにあり、メディアはテクノロジーとは離れたところにある独自の存在だからだ。

 なんてことを言うと、それはメディアの特権性に対する無謬の思い込みだという批判が出そうだが、しかし、それは本来的には事実であるし、変わることはない真実でもあるのだ。

『一九九五年からの過去二十年のインターネットは、水平分離に向かって進んできた。今後の二十年はコンテンツを制作するメディア企業による新しい垂直統合も広がっていき、水平化と垂直化が同時に進む方向へとむかうだろう。メディアは垂直に文化を統合していき、プラットフォームは水平に基盤を提供していく。その二つの方向は縦横に交わりながら、二十世紀にはなかったまったく新しいメディア空間を創造していくのだ。』

 結局、プラットフォームとメディアは本来的に異なった存在なのであり、それを混同したときに間違いが生ずるっていうわけなんだ。プラットフォーム(企業)はプラットフォームとしての存在の仕方があるし、それをわきまえていれば問題はないのだ。がしかし、問題はそんなプラットフォーム企業の中にいる人間が持つ「メディアへの憧れ」のようなものなのかもしれない。いつしか、プラッフォーム企業の人間の中に芽生えてくるメディア・コンプレックスが自らをメディアであると錯誤し、メディアのように振舞ってしまうんだなあ。

『新しいメディアの教科書』(佐々木俊尚著/Amazon Publishing/2017年7月14日刊・Amazon Publishingなので、当然電子版のみです)

2017年9月15日 (金)

『ニッポンの奇祭』って、本当に「奇祭」なの?

 小林紀晴といえば、アジアで長いこと暮らしている、というかアジアの旅人のはずがいつの間にか旅人じゃなくなってしまった日本人、というかあるいは日本人バックパッカーに取材した『アジアン・ジャパニーズ』という、「写真+エッセイ」集が有名というか、多分、それが小林氏の、フリーとしてのデビュー作ではなかったのだろうか。

 その後、自らを主人公にしたような『写真学生』という小説(?)をものしたと思ったら、自分の生い立ちに大きな影響を与えた「諏訪の御柱祭」に材を撮った写真集で一躍有名になった写真家である。

 その小林氏が、御柱祭以外の日本の祭り(それもいわゆる「奇祭」と呼ばれているもの)を追いかけて作った「写真+エッセイ」集が、この『ニッポンの奇祭』である。まあ、初めから「奇祭」って言っちゃってるところが、ちょっとアレですけれどもね。

Photo 『ニッポンの奇祭』(小林紀晴著/講談社現代新書/2017年9月1日電子版刊)

 材をとった「奇祭」は以下の通り。

一 御柱祭/長野県諏訪地方
二 バーントゥ/沖縄県宮古島
三 ショチョガマ・平瀬マンカイ/鹿児島県奄美大島
四 ケベス祭/大分県国東市
五 銀鏡神楽/宮崎県西都市
六 椿山虫送り/高知県仁淀川町
七 大野の送神祭/埼玉県ときがわ町
八 テンゴウ祭り/埼玉県秩父市
九 脚折雨乞/埼玉県鶴ヶ島市
十 蘇民祭/岩手県奥州市
十一 相馬野馬追/福島県相馬市、南相馬市
十二 木幡の幡祭り/福島県二本松市
十三 和合の念仏踊り/長野県阿南町
十四 道祖神祭り/長野県野沢温泉村
十五 新野の雪祭り/長野県阿南町
十六 御射山祭/長野県富士見町

 以上の16の祭りなんだが、こうして眺めてみると、まあ世間に知られているということもあって、諏訪の御柱祭なんかは既に奇祭でもなんでもなくて、ごく普通の祭りに思えてくるから不思議だ。

 小林氏の祭りに向かう姿勢は以下の通り。

『諏訪は古くから狩猟採集の縄文文化が根強い地で、反ヤマト的な地といわれている。その影響で遅くまで稲作が行われなかったという説がある。むしろ稲作を最後まで拒んだともいわれている。それを『古事記』から読み解くこともできる。「国譲り」で大国主神は天照大神に国を譲ることを迫られる。そのとき大国主神の息子である建御名方神が激しく抵抗する。建御名方神は天照大神の使いである建御雷神と戦うが敗北し、出雲を追われ命からがら諏訪に逃げ、諏訪明神となるのだが、それ以前から諏訪には別の神の存在があった。洩矢と呼ばれる、縄文の流れをくむ土着の神だ。土地の精霊的な存在である(ミシャグチ神と同一とされることもある)。』

『普段は八ヶ岳の奥に息を潜め、古代以前の古層から密かに住み続けている縄文人、あるいは山岳少数民族が六年に一度だけ里に姿を現し、盛大に行う宴が御柱祭のような気がしてくるのだ』

『普段は穏やかでシャイな諏訪人が、人が変わったように祭りに熱狂する。そのさまがいつも気になっていた。それを縄文人、山岳民族の仕業だと考えれば納得がいったし、説明がつく。なによりそう考えれば、カメラのファインダー越しに遠く縄文から連なる古層の人々の姿を、まざまざと感じられる瞬間があった』

 そうか、ここにもあった「縄文人vs.弥生人」というものを対立する日本人の原像に対する概念と捉える考え方が。

 同じようなとらえ方をしたものに柳田国男の『遠野物語』があって、112段「ダンノハナ」の項にこうある。

『ダンノハナは昔館のありし時代に囚人を斬りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンンハナは大洞へ越ゆる丘の上にて館址よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷という四角に凹みたるところ多くあり。その跡くわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字をホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然殊なり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様なども巧みなり。埴輪もここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋などの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉も出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩ほどの場所なり。星谷は底の方今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありなしという。このあたりに掘れば祟りありという場所二ヶ所ほどあり』(岩波文庫版より)

 柳田国男は官吏であるから、決して「蝦夷vs.大和」「縄文vs.弥生」という対立構図は持ち込まないものの、やはり「日本人の原像」というテーマになると、現代人へと続く「弥生人、大和人」というものが決してリニアに現代へとは繋がっていないという点に注目する。

 やはりそこには「狩猟vs.農耕」「蝦夷vs.大和」という、それは歴史が進んでいく過程ではやむを得ない変化なんだろうけれども、ある種のノスタルジーと共に語られていくもんなのだろう。そして、古くから伝えられている「祭り」という「民族の意匠」の中にそれを発見しようとする、やむを得ない、人々の「思い」なんだろうな。

 はてさて、そうしてみると「奇祭」というものは、本当に「奇祭」なんだろうか、という疑問にブチ当たる。現代人の意匠から言えば、それは奇祭なんだろうけれども、古代からの日本人にとってみれば奇祭でもなんでもなくて、ごく普通に「そこにある祈り」みたいなものなんだろう。

 アジアにいる日本人バックパッカーを、もし最新の日本人の形とみなすならば、やはりその底流には、「奇祭」を信じる原・日本人みたいなものがあるのであり、最新の日本人をみながら、小林氏はそこに流れる原・日本人の「血」を見るのであろうか。

『ニッポンの奇祭』(小林紀晴著/講談社現代新書/2017年9月1日電子版刊)

 いやあ、久々の「本ブログ」でありました。

2017年8月20日 (日)

『ネットは基本、クソメディア』

 結局、かつて『ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は「2ちゃんねるはゴミため」という趣旨の発言をしたことがある。同じくジャーナリストだった故・筑紫哲也氏も「ネットの書き込みは便所の落書きのようなもの」と言っていたものだ』という時代とあまり変わっていないってことなんだな。

Photo_2 『ネットは基本、クソメディア』(中川淳一郎著/角川新書/2017年7月10日刊)

 タイトルは「ネットはクソメディア」と言っていながら、どうもそうではないような言い回しが気になるんだなあ。

『タモリ、明石家さんま、ビートたけし、イチロー、安倍晋三といった誰もが知っている人物についてグーグル検索をすると、1ページ目にはウィキペディアや公式ページが出たり、多くの人に読まれたであろうニュースが出たりする。しかし、テレビを見ていて「この人ってどんな人だっけ……」と思う人物が出てくると途端に怪しげなメディアが続々と1ページ目に表示されることが多くなっている。
 こういったサイトが「信頼性の高いサイト」としてグーグルからは上位に表示されるようになっているのだが、こうした「このキーワードを入れれば人々の関心を呼ぶだろう」と考えた結果の構成である。これらのサイトの特徴は芸能人の名前が基本的にフルネームで書かれており、ダラダラと一つの記事が長いことである。グーグルがここを評価し、検索上位にしてくれる、という情報がサイト管理人達の間で共有されていると見られる』

『旧来型のメディアでは基本的には「取材をする」ことがベースにあった。事件や事故の現場に行き、周囲の人の話を聞く。何かの事象について、専門家のコメントを取る。こうしたやり方を「足で稼ぐ」と呼び、メディア人にとっての報道するにあたっての矜持となっていた。
 一方、ネット時代になると、スペースが無尽蔵になったため、紙や電波では載せないレベルのものであろうとも、載せる場所だけはあるためキャッチーな記事に仕立てあげられたならば載せるという判断をする。だからこそ、芸能人がコストコで購入した戦利品を公開したり、女子会をしたことをブログで報告したりすればニュースになる』

 と、こうなってしまうと基本に立ち返って「ネットはメディアなのか?」という疑問を再び繰り返さざるを得なくなるのだ。

『まだネットに対する希望に溢れている2009年に私は『ウェブはバカと暇人のもの』という本を書き、ネット編集者の立場からネットへの幻想を批判した。2013年に『ネットのバカ』を書き、ネットがもはや「普通の人」たちのものになったことを指摘した。本書を出すことになった2017年、ネットの影響はさらに大きくなった。テレビ・新聞・雑誌・ラジオという既存の4マスメディアであってもネットの発信力を活用したり、ネット発のニュースを大々的に取り上げたりしている。
 しかし、ネットの実態はまだまだ無法地帯であり、ゲス業者とクソ記事が溢れる地獄絵図でもある』

 つまりそれは「普通の人」たちのものから「普通の人たちを利用するもの」になってしまったってこと。

『かつて私はラジオでもっとも信頼できるネットメディアについて聞かれて、新聞社・通信社・テレビ局の情報を除けばヤフーであると語ったことがある。それは圧倒的なPVがあること、そのおかげで制作費もそれなりに充実してそこに手間が掛けられること、加えてメディアとして信頼されるものでなくてはならないという強い自負があることなどが理由だ。私自身がネット編集者として記事を配信するなかでも、もっともチェックが厳しいメディアであるという印象を受けている』

 という時点では、まだ「ネットもメディアである」という意識があったんだが

『「まとも」に作っておけば問題がない手法だったにもかかわらず、著作権に疎く、編集・執筆の実際に疎い者達がカネのためだけにメディア事業を運営したことが問題だったのだ。また、「所詮は文字と写真、別に誰も死なない」「我々はネットの新興メディアだから、それなりのやんちゃは許される」といった意識があったのかもしれない。そこまでの問題は起きないという危機意識のなさもあったことだろう。
 今回、様々なニュースでは「WELQ問題」や「DeNA問題」といった報じられ方もあったが、WELQや、それを抱えるDeNAだけの問題というわけではない。むしろ、ネットメディア全体のコンテンツの作り方と、ビジネスのあり方について問題視しなくてはならないのだ』

 という時点では、もはや「ネットはメディアではない」単なる情報の糞溜めだっていうことになるんだが、それは当たり前のこと。

 と言ってねえ、

『ネットと上手く付き合う10カ条』ってのがあるんだが

『①グーグルは全面的に信用するな
②クソサイト独特の文体や、記事の長さ、ページ構成を理解せよ
③信頼できるサイトを見つけ、そこを情報源にする
④RT、シェアする前に一呼吸
⑤ヤフーが頻繁に選ぶメディアをチェック
⑥ニュースアプリだけではダメ
⑦大企業・官公庁はそれなりに信頼できるので、確認するにはそれらをチェック
⑧健康情報は安易に信じるな
⑨センセーショナルな話、いい話、ウィットに富んだ話は疑ってかかれ
⑩良質な情報獲得には時にお金を払う必要があることを理解する』

 ってなっちゃうと、なんかどんどん当たり前すぎて読む気にもならなくなってくる。

 要は「ネットで」「タダで」入ってくる情報なんて、基本的に情報としてのない、クソみたいな情報でしかないということ。「タダで」入ってくる情報なんていうものは、基本的にその情報の発信者が何らかの理由があって「タメにする」目的で流したものに決まってるじゃん、っていうメディア企業にいたら当たり前の価値判断でしかないのである。

 なんか中川淳一郎氏自身がネット企業との仕事が多すぎて、なんかネット寄りに劣化してきてるんじゃないかとも思えてしまうのだ。

 もうちょっとはまともなネット・ジャーナリストだと思っていたんだが、どうもそうではなくなってしまったようだ。

『ネットは基本、クソメディア』(中川淳一郎著/角川新書/2017年7月10日刊)

2017年8月13日 (日)

『宝くじで1億円当たった人の末路』って、まあ、そんなもんです

「末路」っていうのは、基本的には「最後の姿」のことなんだが、まあ、あまりいい意味では使いませんね。行ってみれば「人生のなれの果て」ってな意味だもんなあ。

 でも、私なら宝くじで1億円当たっても、この本の例の人みたいにはならない自信はある。なぜか、それは私には「同調圧力」は関係ないからなのだ。そんなものに左右されていたら、今の私はあり得ません。まあ、その分、会社人間としては出世ができなかったわけなんですけれどもね。

 で、「宝くじ」に関する末路から考えた結論っていうのが、これなわけです。

『人生もビジネスも「リスクを取ってリターンを取りに行く作業」の繰り返し。その際。何より大事なのは、目の前のリスクとリターンを正確に見極めることです。リスクもリターンも過大評価していては、人生も仕事もろくなことにはなりません』

 まあ、要は「リスクを過大評価」してもいけないし、「リターンに過大な期待」をしてもいけないってことでしょう。

 って、あまり夢もないことなんだが、まあ、それもそうだってことにして考えると、どんどん人生が相対化されてしまう。

Photo 『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行著/日経BP社/2017年3月28日紙版刊・2017年3月22日電子版刊)

 でまあ、いろいろな人の「末路」を書いてある本なんだけれども、じゃあどんな人たちの末路なのかといえば……

第1章 やらかした人の末路
 宝くじで1億円当たった人の末路
 事故物件を借りちゃった人の末路
 キラキラネームの人の末路

第2章 孤独な人の末路
 「友達ゼロ」の人の末路
 子供を作らなかった人の末路
 教育費貧乏な家庭の末路
 賃貸派の末路

第3章 逃げた人の末路
 自分を探し続けた人(バックパッカー)の末路
 留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路
 「疲れた。海辺の町でのんびり暮らしたい」と思った人の末路

第4章 変わった人の末路
 電車で「中ほど」まで進まない人の末路
 「グロい漫画」が好きな人の末路
 外国人観光客が嫌いな人の末路

第5章 怠惰な人の末路
 癖で首をポキポキ鳴らし続けた人の末路
 8時間以上寝る人の末路
 いつも不機嫌そうな上司の末路
 体が硬い人の末路

第6章 時代遅れな人の末路
 禁煙にしない店の末路
 日本一顧客思いのクリーニング店の末路
 リモコン発見器の末路

第7章 仕事人間の末路
 ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路
 ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路?
 男の末路
 アジアの路上生活障害者の末路

 ってな具合なんだが、何だ、別に悩むようなことじゃないじゃないか、といったテーマが多いんですね。

 要は日本の社会にはびこる「同調圧力」ってやつが、基本的に人の生きにくさにつながって、それが「〇〇な人の末路」ってことになるわけなんですね。

 なので、最後の結論。

『表面だけつながった薄っぺらな友達なんてゼロで構わないし、これからの社会は一生賃貸派でも何の問題もありません(「事故物件」には気をつけるべきですが)。お金がなければ身の丈以上の教育費を投じるのではなく、親が子供を教育すればいいし、子供に奇抜な名前を付けてまで個性的な人間に育てる必要などありません(キラキラネームを付ければ個性的に育つと考えるのはそもそも根本的な誤解です)。 自分が納得していれば、他人がどう言おうと「バックパッカー」になって世界を旅すればいいし(「学歴ロンダリング」はなかなかうまくいきませんが)、「海辺の町でのんびり暮らしたい」と思えば、それもいいでしょう(一定の社交性は必要です)。「グロい漫画」が好きなら心行くまで読めばよし、いくら政府が観光立国だ、おもてなしだと騒いでも、「外国人観光客」が嫌いなら無理しておもてなしをしなくてもよし。〝意識高い系〟の人に睡眠時間の短さを自慢されても、体が欲しているなら、知らん顔をして「8時間以上の睡眠」を確保しましょう。 自分が望むことを貫けば、毎日の仕事だって、ずっと楽しくなるはずです。「日本一顧客思いのクリーニング店」の社長は、過酷な仕事なのに元気一杯でした。「リモコン発見器」の開発者も、大企業の技術者よりずっと幸せそうです。楽しく一生懸命仕事をすることは、「アジアの路上生活障害者」の希望にまでつながっています。
 同調圧力なんて関係ない。今日から自分がやりたいことをやり、やりたくないことはやめましょう。お金なんて必要最低限あればいいんです。「宝くじで1億円」当たっても、ろくなことはないんですから』

 って結論だったら、もはや何も言うことはない。

「そんなの当たり前でしょ」

 で、済ましちゃえばいいことなのであります。

『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行著/日経BP社/2017年3月28日紙版刊・2017年3月22日電子版刊)

2017年8月 6日 (日)

戸越銀座でつかまえて

 私もよく行く戸越銀座。東京メトロ南北線が東急目黒線(昔は目黒と蒲田と結んでいたので「目蒲線」って言ったんだけれどもね)に直通してくれているおかげで、駒込から武蔵小山まで直で行けて、そのまま戸越銀座まで歩いていく道すがらは、結構好きな散歩写真の道だったりする。

 で、その戸越銀座ってどんなところよ、ってところに結構「向き」の本が出ていた。

『明治時代までは水田地帯だったこの地域に人が集まり始めたのは、大正時代前半のことだ。現在のJR山手線の大崎、五反田駅界隈の目黒川沿いに大きな工場が建ち、その周辺が住宅地として発展した。
 池上線が戸越銀座まで延伸したのは昭和二(一九二七)年。住宅が密集しすぎているから大規模な再開発をすることはできず、もちろんマイナーチェンジは繰り返しているものの、町のつくりは戦前からさほど変わらず、現在に至っている。駅舎はいまでも木造だ』

 品川区に属する戸越銀座なんだが、京浜東北線以東の品川区とはだいぶ趣を異にする品川区なんだよね。まあ、下町。っていうか江東区辺りの「下町」っていう雰囲気。

 嫌いではない。

Photo 『戸越銀座でつかまえて』(星野博美著/朝日文庫/2017/1/6刊)

『生まれて初めて親しむ線路によって、その人間の世界観はおおむね作られる。その鉄道を基準鉄道と呼び、駅を基準駅と呼ぶ。誰も賛同しないかもしれないが、私の持論だ』

『私にとっての基準鉄道は三両編成の東急池上線であり、基準駅は戸越銀座駅だった。線路の行き着く果ては、見知らぬ世界でも何でもなく、五反田と蒲田。駅で人を見送るのは家族がどこかへ出かける時で、しかも彼らは夜には家に戻ってきた。ロマンのかけらもない。  第二基準鉄道は山手線で、基準駅は五反田だ。しかしあろうことか、この鉄道には始発駅も終着駅もなく、ぐるぐる永遠に回っている。どこへも到達できない』

 ふ~ん、そんな閉塞感が彼女をして「旅ライター」となさしめたのか?

『若い頃から目指してついた職業なのかというと、そういうわけでもない。確かに異文化を知りたいという熱意はあったが、だからといってカメラマンやライターという職業をイメージしていたわけではない。大学卒業後は一般の会社に就職したし、なりゆきでこうなった』

 とはいうものの、写真家・橋口譲二氏のアシスタントになった時点で、なぜか思うところはあったんだろう。つまり<写真家→旅がつきもの>という具合にね。

『私はたまたま写真や文章の仕事を始めるきっかけになったのが旅行記で、その後も旅にまつわる仕事が割と多かったので、旅行の好きな人間だと思われている』

 いやいや、それは「潜在的なもの」なのかもしれないが、「写真家」を職業として選択した時点で、実はどこかに「旅」へのあこがれがあったんだろう。

『あまりに臆病な子どもだった反動からか、自力で旅行ができるようになると、たがが外れたように旅行をした。無茶な旅行をするのは簡単だ。資金が足りなければ、旅はいきおい無茶で刺激的なものになる』

『しかし一方ではこうも思う。商店街の端にさえ行けなかった仔猫のような子どもと、もっと遠くへ、見知らぬ場所へ行きたがった旅人。
 いまの私には、臆病だった自分のほうが、生き物として信用できるような気がするのだ』

 しかし、そんな旅の毎日も日常的になってしまえば、どこかに違和感を感じるのではないだろうか。つまり、「旅」というのは、「日常からの逃避」であったり、自らの「日常性からの飛翔」だったりするものである。勿論、そんな「非日常性が日常化してしまう逆転現象」「非日常の日常化」に倦む時期がやがてやってくる。で、そんな時、写真家は生まれ故郷に帰りたくなるのかもしれない。

『本書は、生き方を見失った私が、何かを取り戻すため、実家のある戸越銀座に帰ったところから始まる。
 何かをつかまえることはできるのだろうか。
 それとも、また何かを失うのだろうか。
 それは私にもわからない。』

 っていうんだけれども、別にそういうことではないでしょう。

「生き方を見失う」っていうのは、何も仕事をしているからそうなるわけでもなく、別に仕事をしていないからってそうなるわけでもない。まあ、いろいろなきっかけがあって、何となく「自分は生き方を見失っているのではないか」と感じるとき・感じるところが誰にでもやってきたりするんだ。

『戸越銀座には無数のお年寄りが暮らしている。そこに同じ人生は一つもない。彼らが昔どんな社会的地位に置かれ、どれだけの資産を持ち、あるいは持たず、どんな道のりを経てそこにいるのか、私はよく知らない。目に入るのは、必死で生きる彼らの現在である。
 彼らの人生にも教科書はない。前の世代が経験したことのない、前人未到の長寿な老生活を、彼らもまた、日々手探りしながら生きている』

『思い返せば、これまでずっと強くありたいと願い、自分の弱さから目を背けてきた。ありたい自分と現実の自分はどんどん乖離してゆき、いつしか統合できなくなった』

『本当に様々な人生がある。何もかもがうまくいっている人など一人もいない。いちいちここでは挙げないが、これでもか、これでもかと、すごい話が日々の井戸端会議を通して入ってくる。体力と立場が弱くなった時に、人生はこんな試練を与えるのかと、憤りを覚えることも頻繁だ。お年寄りを取り巻くのは、家族にさえ油断がならない仁義なき世界だ。閉じられた関係で外に見えづらい分、家族が最も凶暴な収奪者となる可能性も高い』

『自分が老いた時、どのように前半生から復讐されるのだろうか。これは怖い。本当に。
「若い頃に成功したとか、昔は幸せだったとか、老後には何も意味はない。いつだって一番大事なのは、現在。いまを楽しんで吞気に暮らすことだよ」
 様々な人たちの仁義なき老後を見渡したうえで、母はそんな結論を導き出した』

 まあ、古い町には、お年寄りの古い知恵がいっぱい詰まっていて、その古い町では、そんな古い知恵が一番役に立つってことなんでしょうね。

 それはそれで「古い町」に帰ってきた意味はあるけれども、実は、そこから再度出発する、もう一つの勇気が必要なのではないか。

 その「勇気」っていうのは、「結婚」ってこともあるし、やっぱり「旅」だってこともあるかもしれない。どちらなのかはわからないが、たぶん、星野博美さんに必要なのは、その「もうひとつの勇気」なんじゃないかな。

『戸越銀座でつかまえて』(星野博美著/朝日文庫/2017/1/6刊)

2017年7月30日 (日)

Amazon Kindle 読書術

 確かに、今やAmazon Kindleで本を読むっていう習慣がかなり普及してきたのは事実。ただ、問題なのは「紙の本で読む」体験と「Amazon Kindleで読む」体験が、何故か分かれてきているというような印象があるのだ。

 別に読んでる本は同じ本だし、違うのは媒体だけのはずなんだけれども、やっぱりここにもあったのか、という媒体による体験の格差ってやつが。

Amazon_kindle 『《新版2017》本好きのためのAmazon Kindle 読書術』(和田稔著/金風舎/2017年5月31日刊)

 今はKindleで本を読むという体験はいくつかの方法がある。

『Kindleで購入できる本は大きく3種類に分けることができます。

1.紙の書籍がKindle化された本  Amazonで書籍を購入しようとするとKindle化されている本なら紙の書籍と 電子書籍版を選択できることに気づく方も多いかもしれません。ここ 数年ほどで紙の本がKindle化される割合は高くなっており、新書の場合、早ければ数週間程度でKindle化されていることもあります。また、最近は一度紙の本として絶版になった本が再びKindleで出回るというケースもあります。

2.セルフパブリッシングの本(KDP)  Kindle本はアップロードの方法さえ覚えてしまえば、誰でも出版することができます。これは素晴らしいことなのですが、誰のチェックも入らない本が大量 に出回る結果となり、内容的に薄いものや誤字脱字がそのままの本を購入して、 読者が電子書籍に幻滅してしまうというケースが増えているのも事実です。

3.ボーンデジタルの本  紙の書籍とAmazonのダイレクト出版(KDP)の中間に位置する存在として出版社を経由した電子書籍が存在します。私が記事を連載したPubliss(パブリス:電子出版を楽しむためのブログメディア)を運営されているデジカルさん に代表されるように、電子書籍を専門に取り扱う出版社があるのです。電子のみでの販売でありつつも、プロの目を通しているため、ある一定の品質を保って世に出されていると言えます』

 まあ、こうした方法があるのは事実なんだが、私がとる方法は実はこの「1.紙の書籍がKindle化された本」が大半。セルフパブリッシングの本やボーンデジタルの本もたまに読むけれども、ほとんどない。何故か? 実は単純な話で、「紙の書籍」の場合、書店店頭で(偶然)その本を見つけ、さらに立ち読みすればどんな本なのかわかるからなのだ。

 しかし、セルフパブリッシングやボーンデジタルの場合は、基本的にAmazonのRecommendで紹介されるしか、その本の存在を知る方法はない。で、残念ながら私に送られるRecommendは大半が私の興味の範疇に入ってこないのだ。それも理由は単純。私の興味の対象は常に変化しているし、一冊読めば大体わかった気になるジャンルの本を、何故複数読まなければならないのかがよくわからない。ある程度読んで、その興味あるジャンルの問題が大体わかれば、私にとってそのジャンルは「上がり」で、次に興味を持つのはそれまで読んだことのないジャンルの本なのであります。そう、AmazonのRecommendに頼っちゃうと、永遠に同じジャンルの本ばっかりを「グルグル」読む結果になってしまう。しかし、それでは私という人間の興味の幅が狭まってしまうばかりだし、何の発展性もない読書にしかならないのである。

『本を出版する側の視点では選択肢の多いKindle本ですが、本を購入する読者の立場からすると品質が一定とは言えず、また書店や図書館に行って中身を見ながら探すようなこともできないため、自分の目的の本を見つけられないというのが実情です』

 だから、書店の店頭で読みたい本を探して、ちょっと読んでみて、買うかどうかを決めるっていう方法が一番間違いがないんですね。勿論、面白そうだからそのまま紙の本を買ってもいいし、ってなもんなんです。別に、私は「紙の本が嫌い」で電子書籍を読んでいるわけではなくて、複数の本を持ち歩かないで済むっていう点が一番でAmazon Kindle(前はSONY Readerを読んでいた)を読んでいるだけだし、別にAmazon Kindleを神格化しているわけでは全然ないのだ。

 いずれRecommend機能も発達してきて、それまで読んだこともないジャンルの本を「ほうれ、お前はこんな本を読んだことないだろう。結構、面白いゼ」ってなRecommendが来たら面白いと思うのだが、まあ、AIが今のようにリニアにしか進んでいく以上は、当分そんな時代はこないだろう。ということで、新しい本の渉猟は本屋さんの店頭が一番だし、そこで面白そうな本に出合ったら、タイトルを覚えておいて、あとでAmazon Kindleで出ているかどうかを確認し、出ていたらそこで購入、なかったら少し待つか、あるいは本屋さんで紙の書籍を購入という手順で本を買えばよろしい。

 じゃあ、何が一番Amazon Kindleで便利なのかと言えば、本を読んだことによるアウトプットというテーマなんであります。それについては和田稔氏も書いている。

『Kindleにはハイライト機能といって、本を読んでいる最中に気に入った文章をなぞってマーキングできる機能があります。
 本の引用をつかってブログを書く場合、引用部分を移すのに時間を取られてしまうこともあるので、ハイライトからそのままコピーアンドペーストできるのは大変ありがたいです』

 えっ? ヤバッ?

『ブログに書評記事を書く際のフォーマットは、「ハイライトしてセンテンス3つ〜5つ+まとめ」という形をとっています。

 Kindleでハイライトをした部分を見返して特に印象に残った部分を3つくらい取り出して、ブログに引用していきます。そして、ハイライトにコメントをしている場合はそれらも参考にして、自分がなぜそのセンテンスを引用したかを思い出しながら感じたこと書いてみます。

 おそらく、これを3センテンスくらい繰り返せば、なんとなく書評っぽい文章になっているはずです。
 そして、最後のところにそれらの流れをまとめる文章を書けばとりあえずの内容が書き上がります』

 って、オイオイ、あまり書評ブログの裏側を書かないでほしいなあ。だって、今書いてるこのブログだって、その方法で書いているんですよ。っていうか、引用しているだけなんだけれどもね。

 うむ、思ってもみないところでネタバレされちまったじゃないかよ。

『《新版2017》本好きのためのAmazon Kindle 読書術』(和田稔著/金風舎/2017年5月31日刊)

2017年7月21日 (金)

『東大卒貧困ワーカー』

 新潮社による「著者プロフィール」にはこうある。

『1956(昭和31)年生まれ。ノンフィクションライター。東京大学文学部卒業後、1980年毎日放送入社。アナウンサー、記者として勤務後、身内の介護のため退社。以後、派遣労働者として働きながら執筆活動に入る。著書に『中高年ブラック派遣』など』

 ところが、残念ながら本書のどこを読んでも「東大卒」の話は出てこない。勿論、「貧困ワーカー」のルポだから、貧困にあえいでいる労働者の話はいくらでも出てきているのだが、そうじゃなくて、やはりこの『東大卒貧困ワーカー』というタイトルから読者が期待するのは、「東大出ても正規社員じゃなければこんなもんよ」という、著者自身が経験した実態なんだろう。勿論、書かれているのは中沢氏自身が経験した「貧困ワーカー」の実態なんだろうが、それが「東大卒」じゃないと経験できない仕事のやり方の実態ではなくて、別に東大卒じゃなくても、MARCHじゃなかろうが大卒じゃなかろうが、ごく普通の「中年貧困ワーカーの実態」なんだなあ。だったら、別にそれは何も『東大卒貧困ワーカー』というタイトルをつけなくても別に何の問題もないわけで、「いやいやそれじゃあ誰も読まないよ」という意味でそうしたタイトルをつけるのはわからないではないが、そんなら「東大卒ならではの、貧困ワーカーぶり」というものについて書かなければ、『東大卒貧困ワーカー』というタイトルをつける意味はない。

 う~ん、そんな意味ではこの新潮社の担当編集者の、意識的な読者に対する裏切りっていうものがあるのか、あるいは、企画当初は「東大卒ならではの話」を書いてもらう予定だったのに、全然そうじゃない内容になってしまったときに、「中沢さん、この内容じゃ『東大卒貧困ワーカー』っていうタイトルを付けられないじゃないですか。全面的に書き直しね」というひとことが言えなかったのか、のどちらかではあるのだろう。

 いずれにせよ、ちょっとこれは「詐欺的タイトル」の典型ではありますなあ。「東大卒」の人が書いたのは事実だけど、「東大卒貧困ワーカー」の話は、自分の体験だけでしかない。もうちょっと「一般論としての東大卒貧困ワーカー」について書かないとね。

Photo 『東大卒貧困ワーカー』(中沢彰吾著/新潮新書/2017年6月23日刊)

 勿論、別に書いてあることが間違っているわけではない。現状における日本の労働市場の特異さは言うまでもない。

『世界で日本にしかない特異な習慣で、労働市場の流動性を低下させ、学生を萎縮させて自由意思を阻害し、熟考する時間が足りず企業と労働者のミスマッチを引き起こしやすい。企業側のアンフェアなフライングに青田刈り、学生の意向を無視した囲い込みに内定切り、学生側の大量の内定辞退。全員横並びでスタートさせ不本意な結果に終わった学生に無用な挫折感、敗北感を植えつける等々、新卒正社員のうち3分の1が入社後3年以内にやめてしまうのは、よく考えずに決めたことによるミスマッチが原因と指摘されている。それが当たり前になっている異常さを放置すべきではないだろう』

 というのは当たり前の指摘。

『現代の新卒学生の3分の1は3年以内に離職し、フリーターや派遣になる人もいるから、セミナーや職業訓練、転職先の紹介、人材派遣などで卒業後も何度もビジネスの対象になりうる。また、職業紹介以外での余禄も大きい。不動産、車、金融、結婚、旅行、スポーツ、グルメ、美容、ファッション、メディア等々多様な生活関連ビジネスの各分野の子会社を用意して、ダイレクトメールで営業できる。ビジネスの対象を若者に絞ると、極めて効率良く多角的に利益を上げられるのだ。それも長期に亘って』

 結局、それらの原因は大学卒のサラリーマンの採用方法が「新卒一括採用」に偏っているからに他ならない。結局、新卒学生の3分の1は自分が勤めている企業と自分自身のミスマッチに気が付いて、サラリーマンをやめる。ところが、採用の二次市場がないために、結局彼は非正規労働者として働くしかなく、その結果、ある部分の人たちは「貧困ワーカー」となってしまう。結局、「セミナーや職業訓練、転職先の紹介、人材派遣」は、働く人のためにあるのではなく、企業としていかに収益を上げるかのための「(求職者という名前の)お客さん」のためにあるのだ。

 で、非正規のワーカーになってしまう。ところが、その非正規ワーカーにはもっと大きな問題があるのだ。

『通商白書2016によれば、製造業以外の業種の労働生産性を比較すると、概ね米国51、ドイツ45に対し日本は27。特にサービス業の生産性が低い』

『非正規は元々政財界の目論みでは、労働ヒエラルキーの底辺を構成し、必要に応じて便利に使えることが大事で、能力は期待されていない。その格付けがあるからか、非正規職場では次のような退廃的な三段論法が定着している。
「利益を上げるために低賃金非正規を調達した→非正規は能力が高くない→効率が悪くても、あいつらは非正規だから仕方がない」』

 非正規だからいくらでも換えがきく。いくらでも換えがきくので、給料を上げる必要がない。給料を上げる必要がないから、労働コストは上がらない。んじゃあ、その方式でいこう。労働生産性なんて初めから望んではいないのだ。

『使う側がそう思ってくれているのだから、非正規は結果にこだわらずのんびりできる。生産性は向上せずむしろ低下していく。たまに非正規がやる気を出して「このやり方はおかしい」などと注意すると「めんどくせえこと言うな」と追い出されてしまう。優越的な立場を与えられた人はその立場にこだわりがちで、非正規から意見されることをひどく嫌う』

 まあ、それが現状ではあるし、その傾向がそうやすやすとは変わるとは思えない。まあ、「正規・非正規」っていう分かれ方から、「向上心のある人・向上心のない人」っていう風に分かれるだけなんだけれどもね。

 と言うことなので、日本でも少しづつ状況は変わりつつあるようで、企業側も経験者を正規労働者として採用しようという動きも出てきてはいるようだ。勿論、経験者を正規労働者として雇用するということは、当然そこには人によって選別するということが行われなければならないし、実際そうなっているのだろう。

 つまり、仕事ができる経験者は、より高い収入を得ることができるし、「出世」という道も考えられている。その一方、仕事ができない奴は、いくらでも代替ができる「便利な労働者」として切り捨てられて、結局「貧困ワーカー」にならざるを得ないのだ。まあ、欧米は以前からそのような労働市場が成立していたし、少なくとも日本のような横並びの就職っていうものはなかったはずだ。

 それは少なくとも、これからの日本の労働市場が進んでいく道だろうし、前に戻すことができない道でもある。

 じゃあ、そこで「高学歴貧困ワーカー」がいなくなるかどうか……、これがいなくはならないのだ。ポイントは「仕事ができるか、できないか」だからね。

 それが厳然たる事実。

『東大卒貧困ワーカー』(中沢彰吾著/新潮新書/2017年6月23日刊)

2017年7月13日 (木)

『不寛容社会』でも、いいじゃないか

 九州では大変な天気が続いているんだが、その一方、東京では好天気が続いている。まあ、ちょっと暑すぎるけれどもね。

 どうもそのせいか、毎日外に出て写真散歩をしているにはいいんだが、その分、本について書く機会が減ってきてしまっていて、いかんなあと思ってはいます。まあ、読んでいることは読んでいるんだが、どうしてもね、こう暑いと本を読むのも多少は億劫にもなってくるのも事実。

 と、言い訳しつつもとりあえず「本について書く」のであります。しかし、いつになったらこの「本について書く」ブログが掲載されるんだろう。

 ということで久々の「本について書くブログ(でも「書評じゃない」)であります。

 別にいいじゃないの、「不寛容社会」だってさ、ってことであります。

Photo 『不寛容社会』(谷本真由美著/ワニブックスPLUS新書/2017年4月25日刊)

 まあ、メイロマ(谷本真由美)さんの日本人叩きも時には面白いんだけれども、時によくある「外国に在住の日本人が陥りがちな、上から目線の日本人叩き(でも、それって自分を叩いてるのと同じなんですけれども)」になってしまっているところは、ちょっと残念だ。

 だって……

『なぜ日本人は見ず知らずの人を叩かずにいられないのでしょうか?
 なぜ日本人はこんなに不寛容になってしまったのでしょうか?
 なぜ海外では芸能人の不倫がトップニュースにならないのでしょうか?
 なぜ日本人は些細な事で正義感を発揮しようとするのでしょうか?
 日本人は集団ヒステリーなのでしょうか?』

 って、今や別に日本だけの状況じゃなくって、世界中がそんな感じになってません? 問題は「ネット社会」ってことでしょう。

 要は「ネットの匿名性」の中にみんな逃げ込んで、そんな匿名性の中、つまり自分だけは安全地帯に身を置いて、他人を誹謗中傷するっていう傾向は、今や決して日本だけの特徴ではなくなってきている。

 勿論、メイロマさんもそんなに西欧礼賛じゃなくて、外国にもある「他人叩き」の例を挙げている。

『私の欧州での生活感からすると、他人を叩く傾向は、南下するほど激しくなり、北上するほど薄くなっていくようです』

『つまり、南下するほど社会における伝統的な役割を重視する人が多くなり、工業化社会というよりも、工業化以前の農村的価値観を色濃く残しているともいえます。男尊女卑もひどくなり、他人に興味がある人が多くなるため、人の行動に対してあれこれ言いたがる人が増えるのでしょう。
 その代表的な国の一つは私がかつて住んでいたイタリアです』

『イタリアからそれほど遠くないスペインも、案外「他人叩き」が好きな傾向があります』

『スペインの強固な同調圧力は日常生活の中にも存在します。
 例えば日本でもお馴染みのサービス残業。欧州では定時上がりが当たり前な国が多い中、スペインには付き合い残業という日本のような「サービス残業」が存在するのです』

『スペイン人の同調圧力の根底には、同じ集団に所属する人とお互いを深く知るような機会がないと寂しい、ダラダラ一緒に過ごしたい……そういった思いもあるわけです。
 さらに面白いのは、スペイン人は日本人の私ですらもこうしたダラダラした「だべり」に誘ってくれて、午前様になってベロベロになるまで一緒に飲んだりすることです』

 これらは南ヨーロッパの特徴なのだろうか。じゃあ、北欧と南欧でどこが違うのか?

『個人主義が徹底していて「他人叩き」にまったく興味がない北米や欧州北部は「階層」と「階級」を強く意識している社会です』

『「階級」(英語では「class」といいます)は歴史的、文化的なもの。「階層」(英語では「social stratum」といいます)は職業や収入などの格差によるものです。昔と違って、現代では「階級」の移動は難しくても「階層」の移動は可能なことがあります』

『より良い教育を受けた人ほど上層階層に移動することが可能なわけです。
 高校教育や大学教育が無償、もしくはアメリカやイギリスに比べたらかなり安いノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ドイツは、たしかに階層移動が容易になってきています』

『アメリカは親が貧乏だと「階層」を移動しにくい社会なのです』

『両親の財力は、より豊かな生活環境や教育環境を整えるだけではなく、子どもが様々なことに挑戦する機会を与え、お金のことを心配しなくても良いという安心感も与えます。お金が保険の役割も果たしていたのです』

『個人主義的な国ほど階層移動には財力がモノをいうようになっています。そして、それがさらに顕著なのが、個人主義社会で他人には構わない傾向の強いアメリカなのです。
 繰り返しますが、アメリカ人は自分は他の「階層」には移動できない=他人と自分は根本的に違う、と最初から思っているので、欧州以上に他人にはことさら無関心。日本人のように「他人叩き」にも時間を使いません』

 そういうことか。

 つまり「階級社会」「階層社会」であるところのアメリカや中北欧は、当然ながら社会における同調圧力が低い、というか階級や階層が違えばそれは「別の種類の人間」なんだから、彼らが何をしようが自分には関係ない、関係ないことには興味はない、なのでそこで「他人叩き」をする意味がまったくなくなってしまうのだ。

 ということは、その逆で、日本ではそんな「階級制度」や「階層意識」というものが薄いので、そこに同調圧力が生じてきて、「自分と違うことをやっている人を叩く(それもネットで匿名で)」っていうことになるんだな。

 っていうことは、まだ日本の社会のほうがそんな平等性の中で生きているんだから、まだマシ? っていう考え方もある。

 まあ、多少、世の中生きにくい部分はあるけれども、そんな平等社会のほうがいいという考え方もあるんだ。

『不寛容社会』(谷本真由美著/ワニブックスPLUS新書/2017年4月25日刊)

2017年7月 1日 (土)

『多動日記』

「多動」というのは『多動性(落ち着きがない、つねに動き回る)という基本的な性格のことであり。
【行動の特徴】
・自分の好きなことは集中して取り組むが、それ以外のことは途中で投げ出し、別のことを始める
・遊びをころころ変える
・外出すると動き回って、親の目の届かないところに行ってしまう
・1か所にじっとしていることが苦手
・イスに座っていても、身体や手足の一部を動かす』

という、これまでは病気の一種だと思われていて、いわゆる「ADHD」『注意欠如・多動性障害(ちゅういけつじょ・たどうせいしょうがい、英: attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性(過活動)、不注意(注意障害)、衝動性を症状の特徴とする神経発達症もしくは行動障害である』(Wikipedia)という、一種の精神疾患だと思われていた。

Photo 『多動日記(一) 「健康と平和」-欧州編-』(高城剛著/高城未来研究所 電子版未来文庫/2017年6月2日刊)

 確かに「多動」ではあるなあ。目次から拾ってみるとこうだ。

AUGUST
8月18日 イスタンブール/8月20日 ザグレブからパグ島/8月22日 チューリッヒからサルディニア/8月24日 コルシカ島からトゥーロン/8月26日 ポロクロール/8月27日 マルセイユ/8月28日 マルセイユからアテネ/8月29日 アテネ/8月30日 ケファロニアからザキントス

SEPTEMBER
9月1日 ザキントスからアテネ/9月3日 アテネからコルフ/9月4日 コルフからアテネ/9月6日 ナクソスからミロス/9月8日 ミロスからアテネ/9月10日 アスティパレアからアテネ アテネからローマ/9月12日 ローマからナポリ/9月13日 ナポリ/9月14日 ナポリからロンドン/9月15日 ロンドン/9月16日 バルセロナ/9月17日 イビサ/9月18日 イビサからアムステルダム/9月22日 キプロス/9月24日 ロンドン/9月26日 ベルリン/9月28日 パリ/9月30日 バルセロナ

OCTOBER
10月1日 ロンドン/10月2日 プラハ/10月6日 タリン/10月10日 ブリュッセル/10月15日 バルセロナから東京へ

 高城氏は自身のブログに2016年を振り返ってこう書く。

『今年は、例年にも増して忙しい一年だった。
珍しく渡航した国を数えてみると、一年間に訪れたのは71カ国。
その内、米国や中国など、別都市に複数回訪れている国も多く、延べで数えたら年間渡航100カ国は超えているだろう』

 たしかに旅行した先はむちゃくちゃ多いわけであるのだ、というか旅が常態化してしまった場合は、それを「旅行」というのが正しいのかどうなのかはよくわからない。旅をするのが日常であるならば、それは旅をするのが普通の生活であり、普通の人のように「旅という非日常を楽しむ」ということはないのだから、その旅自体が普通の生活であり、だとするとその旅自体に普通にストレスなんかが生じてきたりするのかなあ。

 また、確かにいろいろなところへ数「多く」、移「動」しているということでは「多動」ではあるけれども、それは堀江貴文氏がいうような、基本的な性格である、ADHD的な「多動」とはどうも違うようだ。

 ところで「高城剛」とはそもそも何者であるのか?

 私たちが高城剛という名前を知ったのは、CGやらアニメーションを使っていろいろな映像や空間表現をして「ハイパーメディアクリエイター」なんて訳のわからん「肩書」を名乗り、いつの間にか(それこそ「ザッツ・オールド」な)東映アニメーションの社外重役なんかをやったり、いつの間にか沢尻エリカと結婚し、そしていつの間にか離婚をした訳の分からん男、というイメージである。

 高城氏のブログから拾うとこんな感じである。

『LIFE PCKING2.1、黒猫は空飛ぶロボットの夢をみるか?、素敵な星の旅行ガイド-Nextraveler-、人生を変える南の島々、2035年の世界、白本、黒本、青本、魂の再起動、身体の再起動、サヴァイブ南国日本、世界はすでに破綻しているのか? スーパーフード、モノを捨てよ、世界へ出よう、人口18万人の街が、なぜ美食世界一になれたのか? オーガニック革命、サバイバル時代の健康術、時代を生きる力、私の名前は高城剛、住所不定、職業不明』

 高城氏の言葉……

『アイデア(の質、量)は移動距離に比例する』

 というのは少しはわかる。常に移動し続けることによって人間は外界からの刺激を受け続ける。そうした刺激が「アイデアの質や量」になるってことなんだろう。ただそれは、決して具体的に「A地点からB地点に移動する」っていうことだけではなく、そうした地理的な移動だけでない、精神的な移動だったり、日常生活の移動だったりというのもあるはずである。

本書のように移動する街から街へ、次々に現れる事象を書き綴っていると、それはどうしても「旅の途上で考えたもの」以上のものにはなってこない。たぶん、そうした「旅の途上で考えたもの」を修正し、まとめ上げたものが実は後々別の書籍となって表れるのかもしれないが……、たぶん、その時には私も先に行っているので、そんな書籍が出版されているのに気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。

 私は、別に「高城剛ウォッチャー」じゃないのだ。

 いつか、再び高城氏の本と出合った時に、別の「高城論」というか、本書『多動日記』のまとめが書けるのかもしれない。

『多動日記(一) 「健康と平和」-欧州編-』(高城剛著/高城未来研究所 電子版未来文庫/2017年6月2日刊)

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