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2017年5月26日 (金)

東京いい道、しぶい道

 ああそうか、泉麻人氏って「街歩きブームの先駆者」だったのか、知らなかった。といっても、もともと下落合っていう微妙な場所で生まれ育った泉氏ならではの視点がいろいろ見つけられて面白い。

Photo_2 『東京いい道、しぶい道』(泉麻人著/中公新書ラクレ/2017年4月10日刊)

 取り敢えず、どんな「いい道、しぶい道」があるのか、更にその中で私が辿ったことがある道はどれだけあるのか、目次から拾ってみよう(赤・太字で書いてあるのが、私が辿ったことがある道)。

Ⅰ 城北エリア
1 怪人オブジェの古道…尾久本町通り(前編) 2 尾久三業の仄かな面影…尾久本町通り(後編) 3 鬼子母神裏のクネクネ川道…雑司ヶ谷 弦巻通り 4 お化け煙突が見えた商店街…千住 いろは通り 5 ライオン看板の見える参詣道…西新井 関原通り 6 二又交番脇の裏街道…トキワ荘通り・千川通り 7 23区最北の銀ぶら…志茂銀座 8 キデンキの迷宮へ…柳原千草通り 9 巣鴨に江戸橋あり…江戸橋通り 10 昔のブクロ、ここにあり…池袋トキワ通り

Ⅱ 城東エリア
11 神鹿としめ飾りの里…鹿骨街道 12 影向の松と相撲寺…篠崎街道 13 水神前から浅間前…亀戸中央通り・水神通り 14 四ツ木の灸とハチミツ…渋江商店街 15 スカイツリーの裏町へ…十間橋通り・橘橋通り 16 谷根千境角蛇行散歩…へび道・よみせ通り

Ⅲ 城南エリア
17 シナノキ並ぶ銀座の間道…並木通り 18 高野聖と火の見やぐら…三田聖坂・二本榎通り 19 新幹線から見えるコアな道…西大井 のんき通り 20 黒い温泉街道…蒲田本町通り 21 文士も歩いた馬込の尾根道…仲通り・馬込三本松通り 22 龍子の屋敷から池上梅園へ…池上道(旧池上街道) 23 大森の海苔ノリ街道…三原通り・するがや通り 24 水止舞見物記…するがや通り・羽田道 25 目黒銀座の奥の細道…蛇崩・伊勢脇通り

Ⅳ 城西エリア
26 幻のオリンピックの面影…野沢通り 27 渋谷区の鳥頭地帯…幡ヶ谷 六号通り・不動通り 28 南中野のクネクネ街道…川島通り・玉石垣の道 29 阿佐ヶ谷からバスに乗って…旧早稲田通り(前編) 30 豊島氏の山と練馬アメダス…旧早稲田通り(後編) 31 ウルトラの道を往く(1)…旧東宝ビルド通り・祖師谷通り 32 ウルトラの道を往く(2)…祖師谷通り・千歳通り 33 世田谷線ゆるカフェ参道…松陰神社通り 34 西部のお屋敷町歩き…荻窪 荻外荘通り

Ⅴ 多摩エリア
35 新緑の三鷹ケヤキ道…人見街道(前編) 36 野川べりの水車小屋…人見街道(後編) 37 多摩の隠れ里・小野路へ…鎌倉街道・小野路宿通り(前編) 38 多摩の隠れ里・小野路へ…鎌倉街道・小野路宿通り(後編) 39 ヘー、こんな街道があるのだ…鈴木街道

 全部で39の道が紹介されているわけであるが、その内私が歩いたことのある道が21ある。これが多いのか少ないのかは分からない。が、こうしてみるとさすがに城北エリアや城東エリアは多いのに比べて、城南エリアが少なく、城西エリアはまあまあ、多摩エリアは広すぎて……、というところだろうか。

 城北・城東なんかは元々の「私のエリア」だったのに、まだ歩いたことのない道があるってことはちょっとショックだった。「雑司ヶ谷 弦巻通り」「志茂銀座」「柳原千草通り」「池袋トキワ通り」に「渋江商店街」か。今からでも遅くはない、すぐに歩いてみよう……、ったって、今日からは学生時代の悪友との福島行きだし、帰ってきてすぐはツアー・オブ・ジャパンの最終、東京ステージがある日なんで(人によっては日本ダービーなんでしょうが)行きたくても行けない。となると余計に行きたくなるってもんなんだが、まあこれは仕方がない。順次歩いてみようと思います。

 まあ、でも結構いろいろ歩いているでしょ。まだ未踏の道では、「新幹線から見えるコアな道…西大井 のんき通り」とか、「多摩の隠れ里・小野路へ…鎌倉街道・小野路宿通り」なんかも今すぐにでも歩いてみたい道ではあるなあ。

 まだまだ、東京にもいろいろ歩いてみたい道があるってことを教えてもらった。

 うん、いい本だ。

『東京いい道、しぶい道』(泉麻人著/中公新書ラクレ/2017年4月10日刊)

2017年5月25日 (木)

『フリマアプリで新刊も販売 メルカリ、トーハンと組む』って、そんなに記事にするほどのものかな?

 一昨日の日経新聞のタイトルが『フリマアプリで新刊も販売 メルカリ、トーハンと組む』というものなんだが、「まあそこまで来てるんだよなあ」という印象と、もう一方で「そんなの当たり前じゃん。いままでよくもまあ『取次制度』が生きていたもんだよなあ」という印象がないまぜになった感じだ。

Photo

 まあ記事自体はそんな大したものではない。

『新刊の書籍をフリマアプリで購入できるようになる。メルカリ(東京・港)は漫画など新刊書籍販売で出版取次大手のトーハンと組み、今夏にも提供を始める。フリマアプリは通常、中古品を売買するが、利用者にとっては好きな作家の本なら新刊で、試しに読みたい本は安い中古でといった具合に購入時の選択肢が増えそうだ。
 メルカリの子会社ソウゾウ(東京・港)が5月に始めた、書籍やCDなどに特化したフリマアプリ「メルカリ カウル」で新刊本を取り扱う。通常は個人間で中古本などを取引するが、加えてアプリ運営会社が新刊を販売する。
 購入された新刊本の配送は、トーハンが外部の宅配業者に委託し、同社の物流拠点から利用者の自宅などに配送するルートを検討している。在庫がない場合は出版社から取り寄せる』

 その結果

『アマゾンジャパン(東京・目黒)などのネット通販が台頭するなか、取次大手も従来の書店を経由するルート以外での販路拡大を模索している』

 ということであり、それへの対応策っていうことなんだが。

『出版市場は1990年代をピークに減少を続けており、トーハンの2016年3月期の売上高は5年前に比べて1割ほど落ち込んだ。ネットで書籍を注文し、店頭で受け取る通販サイトを拡充するなど、支援策を積極的に実施してきたが書店の減少に歯止めはかからない。書籍の流通量を確保するため、新たな取引先を開拓する必要性に迫られていた。
 メルカリは主力アプリで国内4500万件のダウンロードがあり、ユーザーに姉妹版の利用も促していく。利用者数が多いだけでなく、10代や20代といった若者のアプリの利用も多い。書籍販売で手を組めば、普段書店を訪れない人も含め幅広い層と接点を持てるとみられる』

 というとところなんだが、じゃあ今後どうやって書店は生き抜ければいいのか、っていうと。

『出版業界では「出版社―取次―書店」という既存の流通構造が大きく変わろうとしている。ネット通販大手のアマゾンは取次会社や書店を通さず、出版社から本を仕入れ、消費者に販売する直接取引を推進している。
 アマゾンの倉庫に書籍を集めることで注文を受けてすぐに届けられるようにする。同社は6月末に取次大手の日本出版販売(日販)の一部取引を打ち切る方針を示している。ネットを通じて新刊の書籍を売る企業が増えると、既存の書店や取次業界に影響が出そうだ』

 う~ん、これじゃあ全然解決策にはなっていないじゃないか。

 ポイントは『出版業界では「出版社―取次―書店」という既存の流通構造が大きく変わろうとしている』っていうこと。

 実は日本における「出版社→取次→書店→読者」っていう書籍や雑誌の販売ルートって、なんだか昔からある確固たる流通ルートだと思っている人が多いんだが、実はそうじゃなくて、戦前の言論統制の結果生まれた一時しのぎでできた制度が戦後まで生き延びていたっていうだけのことなのである。

『日本出版配給が創立される以前、出版取次は四大雑誌取次(東京堂・東海堂・北隆館・大東館)の他、書籍取次や中小取次も合わせ全国に200社以上が存在していた。
 1940年(昭和15年)、日本政府は情報局指導の下、日本出版文化協会(文協)及び洋紙共販株式会社を創立して出版物の統制を行うようになった。次いで1941年(昭和16年)5月5日、全国の出版物取次業者240社あまりを強制的に統合した一元的配給会社として「日本出版配給株式会社」が設立された。資本金は1000万円。商工省及び情報局の指導監督、日本出版文化協会の配給指導の下、「日本文化の建設、国防国家の確立」をモットーに、出版社(文協会員)が発行する全書籍雑誌の一元的配給を担った』(Wikipedeiaより)というのが実際のところ。東京堂は現在神保町にある東京堂書店がその前身だ。

 当然そんな言論統制組織は戦後に解体されて、そこから大阪屋(1949年(昭和24年)9月6日設立)、日本出版販売(1949年(昭和24年)9月10日設立)、トーハン(1949年(昭和24年)9月19日設立)、日教販(1949年(昭和24年)9月20日設立)、中央社(1949年(昭和24年)10月7日設立)、栗田出版販売などが分離独立し、それに太洋社などを加えた七大取次の時代が大分続いていたのだが、次第にトーハンと日販の寡占体制になって行き、唯一特異な分野を扱っている日教販だけが別で、あとはほぼトーハンと日販に糾合されてしまっている、というのが日本の出版販売業界の現状なのである。

 まあ、言ってみれば、元々は日本中で勝手にいろいろな会社が雑誌や書籍の取次業をやっていたのが、戦前の言論統制の頃に日本で一社だけの独占業種になってしまい、その結果が戦後の日本においても、多少形を変えて生き残ってしまった、というのがちょっと前までの日本の出版販売業であり、実はこんな歪な業界は日本の出版業界だけの特殊性だったのである。

 講談社も何度か「取次制度」「書店制度」の殻を破ろうとしていろいろと試行錯誤をしてきた経験があるが、その都度、取次(取協)や書店(日書連)の反対に会って頓挫してきた。

 基本的に「取次業」なんてものがある国はない。要は力のある書店が一括で書籍を仕入れて自分のところの支店をベースに販売しているというのが普通の(国の)書店であり、地方の小さな書店だけが、卸売業者を通じで本を仕入れているというのが普通の(国の)出版販売業界なのである。

 そこに1998年にアマゾンジャパンが参入してきて、当初はトーハンから、次に大阪屋から書籍を仕入れるようになって、それが最近は直接出版社から書籍を仕入れるようになるところまで実力をつけてきた、っていうのが現状なのである。

 つまり「取次」っていう特殊会社が出版流通を牛耳っていたという、これまでの形の方が実は世界標準でいうとおかしいのであり、むしろアマゾンジャパンのおかげで「出版流通が当たり前の姿、本来あったデフォルトの世界になってきた」といってもおかしくない。それを『出版業界では「出版社―取次―書店」という既存の流通構造が大きく変わろうとしている』という言い方で表するってことは、あたかも『これまでの「出版社―取次―書店」という既存の流通機構』が正しい姿であり、アマゾンジャパンの存在は、そんな「正しい書籍の流通機構を壊している」という見方をしているんだろう。

 というかそんな『「出版社―取次―書店」という既存の流通機構』の中でぬくぬくと育ってきた日本の出版社や書店を守りたいがための記事か? とも受け止められてしまう。

 日経新聞がなんでそんな既存の出版社や書店を守らなければいけない立場なんだろう。むしろ、そんな「しがらみ」のない新しい社会の中で出版物を流通させるべくじゃないか、という立場から記事にすべきじゃないかとも思うんだが。

 如何?

2017年5月18日 (木)

やっと出てきた、真っ当な『琉球独立宣言』

 う~ん、いよいよ本命「琉球独立宣言」って感じですかね。

 実は、こうしたナショナリズムをベースにした考え方をしないと、解決するべきものも解決しないのかもしれないのだ。

Photo 『琉球独立宣言 実現可能な五つの方法』(松島泰勝著/講談社文庫/2015年9月15日紙版刊・2015年10月1日電子版刊)

 1970年頃の学生運動華やかなりしころの「沖縄問題」への左翼各派の主張って「沖縄奪還」とか「沖縄解放」という言い方で、そこには「沖縄を日本から独立させよ」という主張はなかったように思う。まあ、勿論、新左翼だって結局は日本国内の政党なわけで、その日本の政党が「沖縄独立論」を言うはずもないし、当然、その下部組織でもある各新左翼政党の沖縄支部(ってのがあったのかどうかはあやしいのだが)がそんな主張をするわけはなかったんだろう。でも、そんな新左翼の活動と共にしていながら、私の心の奥底では「いやあ、真の沖縄解放は『沖縄独立』でしょう」と考えて、太田竜、平岡正明、竹中労らのいわゆる「新左翼三バカトリオ」らの主張した「アイヌ独立」や「琉球独立」が正しいと考えていたんだが、そんな考え方は「ナショナリズムである」ということで、新左翼各党派からは退けられていたんだなあ。

 しかし、ナショナリズムをベースにしないインターナショナリズムっていうのは、コスモポリタニズム以外にはあり得ないだろうし、コスモポリタニズムではナショナリズムを相克することはできない。結局、インターナショナリズムというのはナショナリズムをベースにせざるを得ないわけで、その一番悪い例がソヴィエト連邦だっていうことなんだろう。結局はナショナリズムを相克できるインターナショナリズムもあり得ないということになってしまう。

 もし、ナショナリズムを相克するインターナショナリズムというのは、多少暴力的ながらもグローバリズムしかないのだろうし、インターナショナリズムに基づいた社会主義が実現せずに、むしろ結果としてグローバル資本主義が勝ち残っている現状を見るにつけ、結局はインターナショナリズムはグローバリズムには勝てなかったという現実しか見えないのである。

 であるならば、ここは堂々とナショナリズムをベースにして「琉球独立宣言」なのである。むしろ、その先にこそ国際的な平和主義の世界・時代がやってくるかもしれないのだ。

『つまり、「琉球」は、かつて国であったことを想起させる言葉なのです。琉球文化圏とは奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島などの歴史や文化を共有する文化圏です。この場合「琉球」は奄美諸島も含みます。しかし、1609年の島津藩の琉球侵略以後、奄美諸島は琉球国から切り離されて島津藩の直轄領になりました。1609年以後の時期において、本文中で使用される「琉球」は沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島を指しています』

『歴史的事実として過去に琉球国が日本に属しない、つまり領土ではない時期が長期にわたって存在していました。日本の統治時代は1879年から1945年まで、1972年から現在までの109年程度でしかありません。14世紀はじめに北山国、中山国、南山国という3つの国ができ、1429年に琉球国が統一されました。600年近く、琉球は日本国とは異なる国として存在していたのです。1609年に島津藩に侵略をうけ、それ以降、経済的に搾取されますが、王国体制は変容をとげながらも発展し、内政権、外交権を行使していました。「日本に属していた」のではありません』

『19世紀半ば、琉球は独立した王国であり、日本とアジア大陸との貿易に力を入れていた。1854年7月11日にマシュー・ペリー米提督が琉球との条約に署名した。他の欧州諸国も同じような貿易協定を結んだが、それは琉球の北方にある日本からの脅威を高める結果になった。1874年の終わりから、明治の日本帝国は琉球をより深く併合(incorporate)させ始めた。1875年に日本は琉球に駐屯部隊をおいた。1879年に日本政府は琉球を併合し(annexed)、琉球王国を廃絶させ、日本列島のなかの南の辺境として位置付けた』

『統治者の承認とは関係なく、琉球の国としての存在は歴史的事実であり、少なくともアメリカ、フランス、オランダ、中国は認めています。そのほか、かつて琉球国と外交関係を有し、貿易をした国々、韓国、北朝鮮、ベトナム、タイ、フィリピン、インドネシア、マレーシアなども琉球国の存在を認知するでしょう』

『明、清との朝貢冊封関係という外交的、経済的な対外関係を通じて、他のアジア諸国も琉球国を独立国として認め、外交文書を取り交わしました。中国との朝貢冊封関係への参入は、他のアジアの国々との外交と貿易を可能にしたのです。現在も残る『歴代宝案』という琉球国の膨大な外交文書を読めば、琉球が国であったことは明確です。明や清などの中国政府も、琉球を「外藩」として、朝鮮国、安南国(ベトナム)と同列の独自な国として認めていました。日本も遣隋使や遣唐使の時代、足利義満の時代は中国に朝貢しており、外藩の一つでした』

 ならば、そこは堂々と「琉球国」宣言を行うべきだろうし、本書の著者、松島泰勝氏らが発起人として設立しら琉球民族独立総合研究学会は、その設立趣意書に言う。

『琉球は日本から独立し、全ての軍事基地を撤去し、新しい琉球が世界中の国々や地域、民族と友好関係を築き、琉球民族が長年望んでいた平和と希望の島を自らの手でつくりあげる必要がある。・・・。琉球の独立が可能か否かを逡巡するのではなく、琉球の独立を前提とし、琉球の独立に関する研究、討論を行う。独立を実現するためには何が必要なのか、世界の植民地における独立の過程、独立前後の経済政策および政治・行政・国際関係の在り方、琉球民族に関する概念規定とアイデンティティ、琉球諸語の復興と言 語権の回復、アート、教育、ジェンダー、福祉、環境、マイノリティ差別、格差問題、在琉植民者の問題等、琉球独立に関する多角的および総合的な研究、討論を行い、それらを通して人材の育成を行う。 ・・・。学会の研究成果を踏まえて、国連の各種委員会、国際会議に参加し、琉球独立のための世界的な運動等も展開する』

 まあ、「政治活動」とは異なる部分から発した沖縄(琉球)独立運動というのは、多分、これが初めてではないだろうか。

『今、琉球は、「日本との一体化、格差是正」から「アジアとの連携強化」に軸足を移そうとしています。世界的に成長するアジアとの経済関係を深めたほうが、琉球が将来、経済自立できる可能性が広がることは明らかです。1970年代まで琉球よりも「経済レベルが低い」と思われた台湾や中国のほうが、はるかに力強く経済成長するようになりました』

 那覇空港という好立地のハブ空港をベースにした琉球経済圏というものを確立した方が、東南アジアにとっても、更に言ってしまうと日本にとっても、今後の発展に向けて良い歩みかもしれないのだ。

 まあ、問題は「米軍基地利権」のうまい汁を吸ってきた人たちが、これからどうするかっていうことだけで、それはたいした問題じゃないかもしれないのだ。

 だって、もともと沖縄(琉球)は日本じゃなかったんだから。

『琉球独立宣言 実現可能な五つの方法』(松島泰勝著/講談社文庫/2015年9月15日紙版刊・2015年10月1日電子版刊)

2017年5月12日 (金)

佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』って、別にめでたくないのは知っていますが

 考えてみたら佐藤愛子氏の作品はほとんど読んだことがなかった。

 勿論、佐藤氏が小説家の佐藤紅緑の娘で、お兄さんがサトウハチローだってことぐらいは知っているし、雑誌か何かでエッセイ位は読んだことがある。読んだけれども、なんか文句ばっかり言っているバアさんだなあ、何か保守的という印象しかなくて、その小説までは読んだことがない。直木賞受賞の出世作『戦いすんで日が暮れて』すら読んだことはなく、本書が最初で(おそらく最後の)佐藤愛子氏の本ということになる。

Photo 『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子著/小学館/2016年8月6日紙版刊・2016年8月19日電子版刊)

 私はまだ90歳になるまでは多少の時間はあるのだが、多分、別に90歳になったって別にめでたいこともないだろうし、単に死期が迫ってきているっていう位のことでしかない……、と勝手に思ってるんだが……。

『二十五歳で小説なるものを書き始めてから今年で六十七年になります。私の最後の長編小説「晩鐘」を書き上げたのは八十八歳の春でその時はもう頭も身体もスッカラカンになっていて、もうこれで何もかもおしまいという気持でした。今まで何十年も頑張ってきたのだから、この後はのんびりと老後を過せばいいと友人からもいわれ、自分もそう思っていました。
 ところがです。愈々「のんびり」の生活に入ってみると、これがどうも、なんだか気が抜けて楽しくないのです。仕事をしていた時は朝、眼が醒めるとすぐにその日にするべき仕事、会うべき人のことなどが頭に浮かび、
「さあ、やるぞ! 進軍!」
 といった気分でパッと飛び起きたものでした。しかし「のんびり」の毎日では、起きても別にすることもなし……という感じで、いつまでもベッドでモソモソしている。つまり気力が籠らないのです』

 う~ん、まあ、定年後の生活なんて、そんなもんです。

『そんなこんなで隔週ならば、という条件で書くことになったのですが、タイトルの「九十歳。何がめでたい」はその時、閃めいたものです。ヤケクソが籠っています。
 そうしてこの隔週連載が始まって何週間か過ぎたある日、気がついたら、錆びついた私の脳細胞は(若い頃のようにはいかないにしても)いくらか動き始め、私は老人性ウツ病から抜け出ていたのでした』

『人間は「のんびりしよう」なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてよくわかりました』

 まあ、「余生」なんですね。90歳になってはじめてやってきた余生。普通の人なら60歳とか65歳になってやってくる余生が、佐藤氏の場合は作家という定年のない職業を手掛けてしまったために、そんな年齢ではやってこずに90歳になって初めて「余生」というものに出会ってしまったというわけなんだ。

 佐藤氏は自ら書く。

『私は新聞の「人生相談」の愛讀者である。僅かな字数の中に時代とそこに生きる人々の人生が垣間見え、また回答者の回答にもその人の人となり、価値観、生きて来た軌跡のようなものがそこはかとなく窺われて興味深い』

 基本的にこの人は新聞情報がまず第一の情報源なんだなあ、と思っていたら……

『三月二十三日、テレビ朝日で「橋下×羽鳥の新番組始めます!」を見た。橋下徹といえば何年前になるか、テレビのバラエティ番組で軽いノリでふざけていた黄色いサングラスの若手弁護士だったのが、突然大阪府知事になり大阪市長になり、大阪の行政のドロ沼を引っ搔き廻していいたいことをいい、したいことをして日本中の注目の的になって何年か、そのうち政治というものに失望したのか、飽きたのか、そのへんの事情は私なんぞにわかるわけがないが、この度再転身して民間人に戻り、弁護士業を再開するのかテレビタレントになるのか、一擧一動が人の目を惹く人物である』

 とか……

『ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんが、息子さんの「ニンテンドー3DS」を真っ二つに折って壊した。平日のゲームは禁止という決りを九歳の息子さんが破ったからだという。  その顚末を高嶋さんが新聞のコラムに書いたところ、忽ちネット上で大炎上した』

 といった具合に、新聞から情報源がテレビに移動してきたみたいだ。う~ん、ますますダメな情報源(メディア)に近づいていくなあ。

『当節は人が顔を合せると「この頃のテレビはつまらないねえ」といい合うのが挨拶代りになっているが、それはどうやら制作にたずさわる人たち(構成作家? プロデューサー? ディレクター?)の「視聴者は他愛のないことを喜ぶ」という思い込みのためだろうと私は考える。
 例えば「中国の脅威への心構え」とか「マスメディアへの注文」とか「アメリカ大統領選への感想」少し砕けて「トランプというおっさんをどう思うか」でもいい。ヘソピアスやバスタオルの洗濯回数よりは中身が濃いと思うのだが、この国の大衆はそういうことに関心がない愚民である、と思いこんでいるかのようだ。失礼じゃないか』

「失礼じゃないか」と佐藤氏が怒っても、それは仕方のないことで、実際テレビの視聴者なんてそういう「クダラナイ」ことが大好きで、せっかく何かタメになるようなことをテレビで語っても、最早、皆そんなものには聞く耳持たないで、無視、無視。面白がるのはネットに上げて皆で炎上できるようなネタなんですね。

 最早、テレビの二次情報しか流通していないネットの世界では、何かものの役に立つような情報はほとんど流れてこずに、まあ、クダらないどうでもいいような話しか流れてこないのだ。

まさしく『ウェブはバカと暇人のもの』『今ウェブは退化中ですが、何か?』『ウェブを炎上させるイタい人たち』『ネットのバカ』という中川淳一郎氏が書く世界の情報の元は、みんなテレビなんですね。

 つまりテレビから情報を得ようとしないで、テレビは単なるニュース媒体としてのみ付き合えばいいということなんだけれども……、まあお年寄りにとって一番の情報収集の元が「テレビ」になってしまうんですね。

 あの佐藤愛子氏をもそうであったか、なんて別に慨嘆はしていませんがね。

 あまりいいことではありません。

「テレビはあくまでも二次情報」「ということは、基本的に『なくてもいい情報』」ということを肝に銘じておくことですね。

『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子著/小学館/2016年8月6日紙版刊・2016年8月19日電子版刊)

2017年5月 3日 (水)

『不動産投資の始め方』

『ごく普通の会社員が不動産投資に踏み出している。年金減額など将来不安が背景にあるが、不本意な人事異動や降格をきっかけに勤め先への収入依存リスクを肌身に感じ、副業感覚で始める人も多い』

 というのは実際だろう。確かに「会社に依存して生きる」ということができなくなっている社会である以上は、会社からの給与以外の収入の途を作っておかないと、それこそ「いざ」というときの自分の道の選択に困るということになってしまう。

 企業の方も「従業員に対する生活保障」としての給与が保証できなくなった以上は、従業員に対する「副業禁止」なんて偉そうなことも言えなくなって、「おおいに自分で稼いでください。ただし自己責任でね」という方向に変わってきている。

Photo 『不動産投資の始め方』(週刊東洋経済eビジネス新書 No.197/2016年10月22日本誌刊/2017年3月6日電子版刊)

 んじゃあ、早速、私も不動産投資を……って考えても、どんな形での不動産投資が一番サラリーマンでも可能であり、ラクできるのかというのが大きな問題なんだなあ。

 実は私もサラリーマンの副業としては不動産投資っていうのは一番向いているんじゃないかとは考えている。株式投資やFXなんかをやってみたら、そりゃいつか紙くずになってしまうんじゃないかという不安につきまとわれながら、毎日の市況に注目していなければならない。それがデイトレードなんかになってしまっては、日がな一日パソコンに張り付いて、1円上がった、1円下がったでもって細かい売り買いをしなければならず、それでは完全にサラリーマンの副業とは言えなくなってしまう。

 そこへいくと不動産投資は

『不動産の実物投資は、ほかの投資対象と比べると高利回りなのが特徴だ。預金や国債は言うまでもなく、同じく不動産に投資するJ-REIT(不動産投資信託)と比較しても利回りは高い。しかも物件価格・賃料の値動きが穏やかなので、インカムゲインを主体に長期で資産形成していく手段として秀でていることも、会社員の関心を引く一因だ』

『株価の動きで儲けが大きく変わる株式と異なり、家賃収益は非常に安定している。東京都心なら家賃はこの20年でおそらく1割も下がっていない。入居があるかぎり価格下落局面でもインカムゲインを得られる。塩漬けという概念があまりない。
 しかも高利回りだ。以前よりもだいぶ下がったが、それでも不動産と同程度以上の利回りが安定して取れる国内の金融商品は少ない。価格も平成バブルの崩壊後は株と比べ乱高下が基本的にない。急な上昇がない代わりに急な下落もないので、安定投資をするイメージだ。
 何よりも不動産は現物があるというのが大きいと思う。株のように紙クズになることはない 』

 などなど、いいことだらけ……、だと思ったら大間違い。やはり不動産投資にもやっていい不動産投資と、やってはいけない不動産投資があるのだ。

 問題は「表面利回り」と「実質利回り」というやつ。

「表面利回り」は年間の家賃収入の総額を物件価格で割り戻した数字。「実質利回り」は年間の家賃収入から諸経費(管理費や固定資産税など)を差し引いたものを、物件価格に購入時の諸経費(登録免許税など)を足したもので割った数字。つまり「表面利回り」というのは、いかにもそれが収益であるように見えるけれども、実際にサラリーマン大家さんが手取りで受け取るのは、「実質利回り」の方。で、この実質利回りの諸経費の中に「銀行ローンの返済金」が入ってくると、これが結構「手取り押し下げ要因」になるってことなんだなあ。

『一棟所有のメリットは、1回の投資で複数戸を所有できることだ。管理費・修繕積立金制度がなく自分でコントロールが可能なこともある。
 何より一棟所有がよいのは土地の持ち分が大きいことだ』

『区分のメリットは、立地・環境がいい物件が多い点』

 なので、こんな形で始めるのもいいのかもしれない。

『慎重な人は、区分の現金買いから始めるのがいい。500万円くらいで利回り10%の物件を買い、1年ぐらい様子を見る』

 ただまあ、それは「表面利回り」に騙されないで、キチンと「実質利回り」でもってプラスが出る方法が見つかれば別に怖いことではない。

 だからと言って……

『一棟丸ごとへの投資に比べると少ない手元資金で始められる、区分マンション投資。中でも新築ワンルームの区分投資は、不動産業者のセミナーやこうした勧誘電話を通じて知った不動産業者を通じて行うケースが多い』

 そんな新築ワンルームマンションの多くは……

『理由は高い販売価格にある。特に電話勧誘で売るタイプの業者は、自分たちが得る利益分を価格に多く上乗せしているためかなり割高なのだ。
 中古物件を主に扱う別の業者の営業員に聞くと「彼ら販売会社の利益として400万円は上乗せされている」と明かされた。割高な分、ローン借入額と月々の返済額も多くなり、キャッシュフローが圧迫されてしまうのだ』

 ということなので、以上をまとめると……

〇区分マンション投資をできれば自己資金だけで始める
〇できればワンルームマンションではなくて、2~3LDKのマンションが良い
〇場所は、山手線管内のできれば駅のそば

 実は以上の条件は、私が不動産投資をした際の条件なのだ。

 たまたまそれまで住んでいたマンションを、ある事情で移らなければならなくなり、じゃあそこを売るよりは貸して副業を始めるのがいいんじゃないかという考え方からだったんだが、実にそれは当たりましたね。

 山手線管内の駅そばというのは、やはり入居者が決まりやすい条件だし、3LDKというのもなかなか入居者が見つからないで大変という部分がある反面、家賃の滞納とか、比較的長期の賃貸となるというメリットもある。

 まあ、取り敢えず借金して始めちゃうと大変なんで、はじめは小さいかもしれないけれども、自己資金で初めてみる、ってことですかね。一人息子と一人娘の結婚なんて例があったら、是非ともご検討を。

『不動産投資の始め方』(週刊東洋経済eビジネス新書 No.197/2016年10月22日本誌刊/2017年3月6日電子版刊)

2017年5月 2日 (火)

『フランスはどう少子化を克服したか』で見ても、とてもかなわないこと

 4月18日のブログ『結婚と家族のこれから』で「フランスや北欧って、どうやってその辺の問題を解決してるんだろう。 うん、次に読む本のタイトルが見えてきたぞ」なんて書いて、その結果読んだ本なんだが、う~ん、こうなると益々日本における「少子化の問題」やら「保育園落ちた、日本死ね」の問題の解決は難しくなることがよくわかって、ちょっと困ってしまう。

Photo_2 『フランスはどう少子化を克服したか』(高崎順子著/新潮社新書/2016年10月21日刊)

『フランスでは毎年9月、その年に満3歳を迎える子供、つまり2歳9ヶ月から3歳8ヶ月の子供たちが一斉に、「保育学校」に入学します。ここはフランス国内のすべての子供が入学できる週4日半・3年制の学校です。日本の文部科学省に相当する国家教育・高等教育・研究省(以下、国家教育省)の管轄で、義務教育ではないものの教育費は無料、2015年時点の入学率はほぼ100%となっています。数少ない例外は病気の子や、親の教育方針で義務教育までは学校に行かない、という子たち』

『朝8時半から夕方16時まで、3歳クラスはお昼寝がありますが、4歳からはそれもなくなって、生徒たちは読み書きの初歩や数字、体の動かし方、色の見分け方などを学びます。教える先生はもちろん、国家教員免状の保有者です。
 3歳から全入の学校があるということは、3歳児以上の「待機児童」はこの国には存在しないことも意味します』

 で、その結果

『フランスは過去10年、合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の平均数)を2.0前後で維持し、「少子化対策に成功した国」と言われています。週35時間労働制で働く父親・母親が家庭で過ごせる時間を増やしながら、多角的なサポートを強化して、いつしか西欧でも指折りの「子供が産める国・育てられる国」になりました』

 ということはよく知っているんだが、そのバックボーンの深さと言うか、歴史というものについては、完全に「彼我の違い」というものをどうあっても意識せざるを得ない。また、同時にそれは「民主主義」というものの社会での根付き方の違いとでもいうべきもののようである。

 まず、その歴史を見てみると……

『保育学校の歴史は1770年から記載されています。その起源は「紡績の学校」。紡績業の盛んだったヴォージュ地方で、工房で働く母親を持った児童たちを、司教オベルランが集めて面倒を見た場所でした。その後もカトリック教会と個人の慈善家が、放置された子供たちの世話をしてきましたが、その動きはあくまで単発にとどまっていました
 組織化されるに至った大きなきっかけは、隣の英国・スコットランド地方の工業地帯で1810年に作られた「インファント・スクール」です』

『この噂を聞きつけたのが、パリの富裕層の婦人たち。ロンドンに視察に飛び、教会の支援を得て設立委員会を立ち上げ、ロンドン方式を真似た定員80名の「保護室」を1826年、パリ中心部のバック通りに開設しました』

『その後様々な制度化が進められ、対象年齢の児童がほぼ全入となったのは、1958年』

『フランス教育制度の中でも評価の高い保育学校ですが、その始まりは篤志家たちの熱意でした。
 子供たちのために」という個人のシンプルな熱意から発した小さな学校が、支持を受けて全国に広がり、国がその価値を認めることで、万人の権利となったのです。
 このダイナミックな過程は、とてもフランス的なように感じられます。フランス革命の昔から、国を変えるのは一人一人の思いであると、この国の人たちは信じています』

 つまり、基本的には産業革命のときにそれは始まって、以降、女性が社会の中でどうやって活躍できるのかをずっと考えてきた世界なんだなあ。一方わが国では、産業革命の結果(といってもそれ自体が明治になってからなのだが)「女工」というものの存在が始まったものの、彼女たちを如何に社会のくびきから解放するかというよりは、結局「女工哀史」という悲しい文学作品だけを生み出したのみであって、それをきっかけに社会を変えていこうとする動きはできなかったわけだ。

 もうひとつは妊娠というものに対する考え方、というか妊娠した母親の権利の問題に関する違いかもしれない。

『それでも一つ確かなのは、この国でお産の形を決めるのは、産む女性たちだということ。麻酔で痛みを軽減するか、自然のままに産むか。そのどちらも強制されるのではなく、自分の意思で選べる。「お腹を痛めない」権利は誰にでもある。「お腹を痛めるか否か」は出産の形の選択であって、「子供を産むか産まないか」の判断とは、別の次元にあるのです』

『妊娠にまつわる表現にはこんなものもあります。「妊娠は病気ではない」。 「だから特別扱いする必要は無い」という意味と、「病気のように治せないのだから、いたわるべき」という相反する意味で使われていますが、フランスの場合は完全に後者です。妊娠が確定したときから医療面でのサポートはかなり手厚く与えられ、平均的なケアを受ける限り、「妊婦は医療費ゼロ負担」が基本。それは産む先が公立病院でも私立病院でも変わりません』

『このシステムは「妊娠は病気でない」ため、保険がきかない日本とは大きく異なります。日本でも自治体が発行する妊婦健診クーポンの綴りや、健康保険による一時金支払いなどがありますが、毎回の健診では基本的に支払いが必須です』

『医療費無料は子供たちも同じで、退院1週間目の初回小児科健診を含む、6歳までの20回の健診、2歳までに4回、そのあと6歳までに3回の発達診断、1歳までに3種類の法定感染症のワクチン、のすべてが保険でカバーされます(前記以外の13種類の義務・推奨ワクチンは自己負担35%)』

『誰がどうやって、この医療保険を維持するお金を払っているのでしょうか。
 ざっくり結論を言ってしまうと、その担い手は民間企業と世帯です。フランスの医療保険は社会保障制度の一環で、その運営費は老年保険、医療保険(疾病、出産、傷害、死亡、職業病)、家族手当、住宅支援基金、労災保険と取りまとめて管理されています』

 で、結局は『フランスでは毎年9月、その年に満3歳を迎える子供、つまり2歳9ヶ月から3歳8ヶ月の子供たちが一斉に、「保育学校」に入学します。ここはフランス国内のすべての子供が入学できる週4日半・3年制の学校です。日本の文部科学省に相当する国家教育・高等教育・研究省(以下、国家教育省)の管轄で、義務教育ではないものの教育費は無料、2015年時点の入学率はほぼ100%となっています。数少ない例外は病気の子や、親の教育方針で義務教育までは学校に行かない、という子たち』なんだから、こりゃ誰でも安心して子供を産むことができるし、同時に仕事をいったん休んでもすぐに復帰できる状況が作られているわけだ。

 はたして日本でこうした制度が落ち着くまでには何年かかるんだろう。

『フランスはどう少子化を克服したか』(高崎順子著/新潮社新書/2016年10月21日刊)

2017年4月29日 (土)

『すべての教育は「洗脳」である』は典型的な「G人材のための、G人材による、G人材の人」の書なんだなあ

 う~ん、そりゃ『すべての教育は「洗脳」である』っていう論はよくわかるし、私もそう思う。しかし、それを久留米大学付設高校出身で東京大学文学部中退ののホリエモンが言ったって、全然説得力ないもんなあ。

 結局、堀江氏だって東大に入るまでは「普通に学校のお勉強を頑張っちゃった」クチでしょう。そんなひとが『すべての教育は「洗脳」である』って言ったって、あんただってそんな「洗脳」を受け入れていたんじゃないかよ、ってなもんですな。

Photo 『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』(堀江貴文著/2017年3月20日紙版刊・2017年3月17日電子版刊)

 インターネットによって「国民国家」という概念はなくなったというのが堀江氏の見解だ。

『もう、「国民国家」というフィクションは力を持っていない。「国家」はなくなりつつある。早晩、僕らがイメージしていたような形の国家は消滅するだろう』

『もちろん、まだ「国」という枠組みは残っている。国家(税金による富の再分配)という機能は今後も残るだろう。だが、それを支える「国民」、そして国民国家という概念はもはやファンタジーにすぎない。というより、そもそも想像上の産物なのだから化けの皮がはがれたと言うべきか。
 今や「国民」を作るための洗脳装置は不要になった。これから人類は、「国」から解き放たれた、真に自由な「民」になるのだ』

『時代に合った良質なフィクションは、人々に「居場所」を提供してくれる。かつてはそれが、「国家」「企業」「学校」だったのかもしれない。人々は、自分がその共同体の一員だと信じることで、自分の居場所を実感し、アイデンティティを育むことができた。
 しかし、インターネットによって国家の壁が取り払われた現在、人々の居場所はもっと違うところにある』

『N幻想(国民国家幻想:引用者注)がなくなり、誰もが共有する「幸せの正解」がなくなった現在、人は国民ではない「民」の一人として、自分だけの幸せを探し、生き方を探し、働き方を探さなければならない。それは、画一的な「学校」で教えられるものではないというのが僕の意見だ』

『国民国家(N)という幻想が崩壊する。それは別に、世界中の人間がいきなり「地球人」として新しい枠組みの中で生きるようになる、という意味ではない。
 今後人々は、生まれた国や地域に関係なく、生き方、考え方、働き方の面において大きく二つの方向に分かれていくだろう。
 一つは、世界規模――〝グローバル〟を行動範囲とする「G人材」。
 そしてもう一つは、地元――〝ローカル〟に根づく「L人材」である』

「国民国家」という幻想はなくなりつつある、というのは事実だろう。しかし、一方で国民国家側からはそれへの大きな巻き返しもあるのも事実であり、まあ、しばらくはそんな国民国家側と「国民国家は幻想である」と主張する側のせめぎあいが行われるはずだ。「国民国家に代わる新たな社会体制」が整うまでは、そんなせめぎあいが続くだろうし、その時に備えての「G人材」と「L人材」という考え方の浸透という風に考えないと、今はっきり「G人材」「L人材」に分けて、「皆、G人材を目指そうよ」ってやってもうまくはいかないだろう。

『L人材が好むコンテンツを見れば、その嗜好性は明らかだ。『ONE PIECE』のメインキャラクターたちは、常に仲間のために死に物狂いで戦い、涙する。ジャニーズやAKB48、EXILEといったアイドル歌手が売りにしているのも、歌というよりはむしろグループメンバー間の絆や、ファンとの連帯感の方だ』

 とは言うものの、そんな「L人材」の生活を支えているのは実は「G人材」が生み出した富であるということはあまり知られていない。

『「大都市よりも、地方都市の方が快適だ」と言う人は多い。確かに地方は家賃が安く、駐車場代もかからない。少し車を飛ばせば、大型商業施設にたどり着ける。そこに行けばなんでも揃うし、遊ぶ手段にも事欠かない。
  ただ、こうした〝楽園〟の維持費となっているのは、その地方自体の税収ではなく、地方交付税交付金だ。つまり、大都市圏で働く高所得層の納めた税金が地方に回っているからこそ、地方の居心地の良さは守られているのである。
 そして今後、少子高齢化による税収の先細りは避けられない』

 というのは事実だが、じゃあ一体「L人材」はどうやって生きていけばいいんだろう。世の中には「G人材」と「L人材」に分かれていくと言いながら、しかし、それぞれの生き方について言及しないのは、ちょっと片落ちなのではないだろうか。

 勿論、堀江氏自身は典型的な「G人材」なんだからそのままを生きていけばいい。しかし、世の中には堀江氏と同房だった長野刑務所の受刑者たちみたいな、典型的な「L人材」がいる訳である。

『たとえば、僕もかつてはぶら下げていた「東大生ブランド」。いまだに「やっぱり大学に行くなら東大でしょうか」などと聞いてくる人がいるが、僕にはまったく理解できない。もちろん僕の答えは、「大学なんて全部無意味!」だ』

『僕が10代だった頃、「東大生ブランド」の価値はそれなりに高かった。つまり、コスパが良かったのだ。頭の固い両親も「東大に入るなら」と上京を許してくれたし、ヒッチハイクをしても「東大生なら信用できる」と車に乗せてもらえた。起業した時も、「現役東大生が起業!」とマスコミにもてはやされた。
 では、今はどうだろう? 「東大生」なんて、もはや珍しくもなんともない。珍しかったのは、大学進学率が1~2割しかなかったような時代、あるいは東大生が民間(特にベンチャー)に少なかった時代の話だ』

 というのはすべて事実ではあるにしても、でも、未だに世の中にはそんな「東大生ブランド」という神話が生きている部分もあるんだ。そんなブランドを信じている人たちに向かって「そんな神話は捨てろよ」って言ったって、「そんなバカな」と言われるだけがオチなのである。

 堀江氏がそんな「L人材」に向けて、それを脱出する方法を提示して初めて。というか、そもそも「L人材」が自分でそんな方法を見つけられるはずもないので、その人たちに堀江氏自らその方法論を提示して初めて、本書の結論が言えるのではないだろうか。

『その時にこそ、今までの思い込みが幻想であったことを痛感できるだろう。
 そして、「誰かに力を貸してもらわないと自分は変われない」という自己否定のブレーキが、単なる洗脳の結果だったことを実感するはずだ。
 学校、そして会社という幻想から自由になれた時、あなたの「脱洗脳」は完了する。洗脳が解けたあとの清々しい世界をもしもあなたが体感できたなら、著者としてそれに勝る喜びはない』

 とね。

『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』(堀江貴文著/2017年3月20日紙版刊・2017年3月17日電子版刊)

2017年4月21日 (金)

『夫のちんぽが入らない』って、そんな

 昨日のブログ"TOKYO STADIUM : IT’s ALL THAT's LEFT OF ANCIENT WARRIROS DREAMS."「東京スタジアム:兵どもが夢の跡」のTwitter訳が「東京スタジアム: すべての厥古代 WARRIROS 夢の左側です。http://bit.ly/2pC3kU8 」だそうだ。ふふん、面白いな。

 で『夫のちんぽが入らない』問題なんだが……。

 もっと物理的な問題なのかと思ったら、そうではないようだ。でも、深刻。

Photo 『夫のちんぽが入らない』(こだま著/扶桑社/2017年2月8日紙版刊・2017年4月25日電子版刊)

『私と彼は、セックスをすることができなかった。
 ちんぽが入らなかった。
「なんでだろう」
「なんで入らないんでしょう」
 私たちは困り果て、力なく笑った。もう笑うしかない。 「きょうは、もうやめておこう。次はちゃんとできるはずだから」
「すみません」
「謝らなくていいよ。俺も初めての人とするのは初めてだから」
 その言葉の意味するところをすぐには理解できなかった。 処女だと思われているのだ。初めての人。このうまくいかなさは、初めての人間特有のものだと思われたのだろう』

 でも、彼女は処女ではなかった。

『高校二年の夏休みに一度だけ経験があった。
 その行為は、ただ恥ずかしくて痛いだけで、決していいものではなかった。頭の中が真っ白で、何も考えられなかった。血が大量に出た。恥ずかしいうえに知らない人ベッドまで汚してしまい、どうしていいかわからなかった。一刻も早くこの場を立ち去りたい。終了するや否や制服を身に着け、擦り切れた股を両手で押さえ、その人の家をあとにした。
 童貞を捨てるとか処女を捨てるというけれど、私の経験は文字通り「捨てた」ものだった。いらないものだ。知らない人だから恥ずかしい思いをいつまでも引きずらなくていい。これでよかったのだと言い聞かせた。その男子高校生とは二度と会うことはなかった。
あのときの投げやりな気持ちはどうあれ、一年前は確かにちんぽが入ったのだ。一度きりだが、入っている』

『彼はこれまで付き合ってきた相手や風俗の人には問題なく入ったという。こんな現象は初めてだと言われ、ますますおそろしくなってしまった。「ふつうではない」と言われているような気がした』

 その後、彼と結婚してから後の事。

『すべてが終わったあと、汗まみれの「おじさん」が板をへし折るゴリラのように私をぎゅうと強く抱きしめて言った。
「君は大丈夫、全然大丈夫」
 入ってしまった。
 血は一滴も出なかった。
 私はまったく好意のない「おじさん」と、まったく問題なく事を終えてしまった』

 行きずりの男とは普通にセックスができるのだ。

『男の人と会い、しようと言われたら、した。精神が病んでゆくにつれ、「私はメールをくれた全員とちゃんとヤらなければいけない」という義務感のような、強迫観念のようなものに取り憑かれ、ひとつひとつ地道にこなしていくようになった。
 ずっとまともにセックスができなかったのに、学級が崩壊したことでセックスに依存するようになるなんて、どうかしていた。まともにできるようになったからといって、その行為を好きになったわけではなかった。しなければいけない、という思いに強く囚われていた。誰でもいいので「君は全然大丈夫」と言ってもらいたかった』

 それが愛する夫とだけはできないって、どういうことなんだろう。

 結果

『三十六歳にして、どうやら閉経した。
 二十代や三十代で月経がこなくなることを早発閉経というらしい。医師には、持病の自己免疫疾患が関係しているのではないかと言われた』

『信じたくないが三十八歳になってしまった。
 これは野生のゴリラの寿命に匹敵するらしい。
 私は持病をこじらせて手足が奇妙な角度にひん曲がり、夫はパニック障害で通院を続けている。お互いなかなかの人生だ』

 うーん、まあ夫婦の形っていろいろあるわけだし、その中には私なんかの思いも及ばない世界があったりするんだろうなあ。

 私みたいな素人が考えてもまったく理解ができない理由で「ちんぽが入らない」夫婦関係を送る人がいるのかもしれない。

『ちんぽが入らない人と交際して二十年が経つ。もうセックスをしなくていい。ちんぽが入るか入らないか、こだわらなくていい。子供を産もうとしなくていい。誰とも比べなくていい。張り合わなくていい。自分の好きなように生きていい。私たちには私たちの夫婦のかたちがある。少しずつだけれど、まだ迷うこともあるけれど、長いあいだ囚われていた考えから解放されるようになった』

 子供がいない夫婦っていうのは世の中にあまたいる。子供を作りたくて毎日励んでいても、全然できない夫婦もこれまた世の中にあまたいる。その中のごく少数の例として「夫のちんぽがはいらない」妻っていう人がいるのかもしれない。

 多分それは人間以外の哺乳動物には見られない現象なのかもしれない。肉体的な問題もあるかもしれないし、精神的なもんだなのかもしれない。

 いずれにせよ、私たちは「そんな夫婦も世の中にはいるんだ」ってことを承知していなければならない、っていうことなんだろうな。

『夫のちんぽが入らない』(こだま著/扶桑社/2017年2月8日紙版刊・2017年4月25日電子版刊)

2017年4月18日 (火)

『結婚と家族のこれから』

 う~ん、なんか単純なようでいて、実はなかなか入り組んで、難しい問題なのかもしれないなあ。

Photo 『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』(筒井淳也著/光文社新書/2016年6月20日紙版刊・2016年7月8日電子版刊)

『「男女がともに相手を好きになり、合意の上で親密な仲になる。関係がうまくいかなければ、別れる。好きな相手ができたら、女性でも積極的に男性に求愛する」
 このような関係のあり方は、いかにも現代的な恋愛や結婚のあり方です。
「男女ともに財産の所有権を持つ」
 これもいまでは当たり前のことでしょう。
 いきなりこのようなことを書いたのには、わけがあります。実は、これらは日本の古代社会の男女関係のあり方なのです』

『結論からいえば、家父長制的な家族、父系の直系家族は、日本では10世紀くらいから徐々に浸透していった制度なのです』

『「男性は外で働き、女性は家庭で家事や育児をする」
 これも、しばしば伝統的家族の特徴として考えられていて、いまとなっては古臭いと感じる結婚生活のあり方でしょう。いまや、共働き夫婦は当たり前です。このような古風な夫婦生活のあり方は、昔の映画のなかにしかないのでは、と考えたくなります。
 しかし、社会学者の間で「性別分業」といわれているこの夫婦のあり方は、極めて「モダン」なものなのです。つまり、私たちの社会が近代化するまであまり見られなかったものだ、ということです』

『少し乱暴に単純化していうと、日本における家族や結婚のかたちは、古代の男女平等に近いかたちから、中世と近世(江戸時代)と近代(第二次世界大戦の終戦まで)の非常に長い男性優位の時代を経て、再び男女平等に近づいている、ということができます』

 とはいうものの、現代の家庭の作り方と徹底して違うのは、ここである。

『男性も女性も同時に複数の相手と親しい仲になることがあって、「誰かと付き合っているときは他の人と付き合ってはならない」という強い規範はありませんでした。これを「対偶婚」といいます』

 つまり「家」という概念がなかった頃のお話である。男女は好き勝手に出会って、好き勝手に性生活を営むという生き方。

『「妻問婚」といわれる日本古代の結婚生活の方式も、このつながりで理解できます。妻問婚とは、昼間は自分の家にいる配偶者の男性が、夜に妻の住居を訪ねるという方式の結婚生活です』

 結局、女性は母になることによって「家」に繋がってしまい、その結果、女性は「家」と「家族」を抱えていかなくてはならないようになる。結果として、それは女性の男性に対する従属という形になってしまうのだ。

『しかし、「家」の成立から近代初期まで続く「家族」は、個人をそれを通じて保護するというよりは、どちらかといえば女性を男性に従属させ、子どもを作るという営みをそこに縛り付けるための仕組みに近かったようです。そしてその代わりに、男性は家族を守る責任を負うことになります』

 それがやっと解放される時がきたというのであろうか。

『「産む性」としての女性が抱えている様々な問題は、もはや家族、特にジェンダー家族によって解決される必要がない、ということになります。子どもを生み、育てる女性が頼るのは、特定の男性、つまり夫ではなく、社会全体でもよい、という主張です』

 まあ、フランスや北欧なんかの女性政策なんかの例ですね。結果としてそれが少子化を防ぐことになったという。

 しかし、これは『取り敢えず「性」の問題と、「心」の問題を別においている論」であるのかもしれない。

 で、その視点を加えると。

『近代化にともなって、人々はある特定の恋愛のかたちを理想として考えるようになりました。それは、「一人の人と恋に落ちて、その人と結婚し、一生添い遂げる」という生き方です。このような恋愛のかたちを「ロマンティック・ラブ」といいます』

『「好きな人と付き合って、結婚して、醒めたら別れる」というのは日本の古代社会でも見られた恋愛のかたちですが、現代社会でも、個々人が自分の経済基盤を確保していれば、短い付き合いを繰り返すことは可能です。ここで、これからの恋愛では、こういったアド・ホックな付き合いが増えるのだろうか、という問いが出てきます。この問いに答えを直接出すことは難しいのですが、同棲や離婚・再婚が増加していることは、ロマンティック・ラブの終焉の傍証になっているかもしれません』

 実はこの引用、本書冒頭の(問題提起)部分と、結論を勝手に結びつけただけなんだけれども、なんか簡単にリンクしちゃう。ってことは、もしかするとこの当初の設問は、実は簡単に結論が出てしまう問題であって、ということはそうそう簡単には解決しない問題なのかもしれない。

『リベラリズムとは、生存や承認など、基本的な人権については政府が率先して保障し、また経済の領域でも不公正な取引を排除することを目指す立場です。そのかわりに、第三章でも触れたように、私的な領域、つまり友人関係や恋愛関係、そして家族関係については消極的にしか介入しない、という立場でもあります。つまり、公的な領域と私的な領域に線引きをし、公的領域では公正さを保障するが、私的領域は個々人の自由に任せる、ということです』

 ということは、ある種「私的領域」に属する「男女の関係論」に、政治が踏み込めない領域があって、それがある以上は政府は最終的な男女関係については決定権はもてないってことなんですね。

 フランスや北欧って、どうやってその辺の問題を解決してるんだろう。

 うん、次に読む本のタイトルが見えてきたぞ。

『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』(筒井淳也著/光文社新書/2016年6月20日紙版刊・2016年7月8日電子版刊)

2017年4月16日 (日)

『テレビじゃ言えない』って言ったってなあ

 ビートたけし氏が『テレビじゃ言えない』なんて言ってはいけないのだ。

 今や「テレビ(お笑い)界の帝王」として君臨しているビートたけし氏なんだから、もちょっとテレビの世界に風穴を穿つことを実行すべきなんだけれどもね。勿論、テレビにおける編成権はテレビ局が持っていて、単なる「一出演者」がどうにかできることではないのは知っている。でも、何とかビートたけし氏にはそこに風穴を開けて欲しいのだ。

Photo 『テレビじゃ言えない』(ビートたけし著/小学館eBooks/2017年2月6日紙版刊・2017年2月7日電子版刊)

 ということなので、大半の部分は無視して『第1章●テレビじゃ言えない「危ないニッポン」 ニッポンは「一億総活躍社会」どころか 「一億総自主規制社会」だ』についてのみ触れます。

『何が「一億総活躍社会」だ。オイラはそもそも、この頃のニッポンは「一億総自主規制社会」だと思ってる。最近は、別に犯罪行為をやったわけでもないタレントがスキャンダルで叩かれて、世間から「一発退場」になってしまう。『ゲスの極み乙女。』のボーカルと不倫騒動を起こしたベッキーも、それまで「超」がつく人気者だったのにテレビから一瞬にして姿を消してしまった』

『結局、こういう「右にならえ」の一斉外しという対応は、企業側が「コンプライアンス」だの「モラル」だのいくら言い訳したって、つまるところは「トラブル回避のための自主規制」でしかない。要はCMスポンサーに降りられたり、「何でアイツを使ってるんだ」と世間から袋叩きに遭うのがイヤなだけなんだから。それって、クラスでのイジメを見て見ぬフリしてる気弱な中学生と変わらない考え方だ。タレントを早々に降ろして「リスク回避できた」みたいに胸を張るのは、何か違和感があるんだよな』

 っていうのはテレビの世界にも蔓延している「事なかれ主義」ってもんでしょ。別に一般社会が訳の分からん「コンプライアンス」なんて言葉を持ち出して「事なかれ主義」に陥るのは仕方のないことなんだけれども、マスメディアがそこに陥ってはいけないんでしょう。そこの原因は何なのかに切り込んで話して欲しかったな。せっかく『テレビじゃ言えない』なんだから。

『まァ、オイラに言わせりゃ、「何を言ってやがるんだか」って感じだよ。テレビなんて、昔から「事実を曲げてばかり」なんだから。オイラが何か危ないことを言おうとすると、いつもすぐにカットされちまう』

『その一件はともかく「真実を報じるのがテレビ」なんて認識は間違いで、「真実をオブラートに包んでしまうのがテレビ」ってのが本当のところなんだよな』

 う~ん、今はもっと壊滅的な状況なんじゃないだろうか。

『テレビがいかに規制だらけで不自由かってことは話したけど、一方で「ネットは規制がなく自由で素晴らしい」って論調も間違ってる。そもそもテレビががんじがらめの自主規制を強めたのはネットの影響が大きいだろう』

 まあ、「炎上」を恐れるってやつですかね。

『昔はバカなヤツが自分のバカさを拡散する方法なんてなくて、「近所にヤバいヤツがいるから近づくな」程度で済んだ。だけど、今や誰もがスマホから自分のバカさをワンタッチでアピールできる。だからやることがエスカレートするし、迷惑をかけられる対象も広がっちまう』

『「ネットで調べれば何でもわかる」と考えるヤツは、 「そこに書かれていないもっと深い世界」に思いが至らない』

『IT起業家は、いわば現代の戦国大名だよな。「流行のスマホを手に入れたぜ」「最新のアプリをダウンロードしたよ」なんて喜んでるヤツラは、そういう「儲かる仕組み」を作ってるヤツラに、いいようにカネを巻き上げられてるってことに気がついてないんだよ』

 18歳選挙権についてこう話しているのは、なかなか好感が持てる。

『最近の若い人たちは、オイラの若い頃と比べて「素直すぎる」って気がしちゃう』

『もしかしたら、18歳選挙権ってのも権力にとってものすごく利用しやすい好都合なものかもしれない。深く考えず、雰囲気だけでブームに踊らされるってのは、よくよく考えりゃ怖いってことに気がついたほうがいい』

 ただし、18歳に選挙権を与えるのだって、それでも18歳を少年法で守るっていう矛盾には若者は気付くべきなんだよな。

『「18歳に選挙権」なら、10代を少年法で守る必要はない。 若者は大人たちの「ガキ扱い」に怒るのがスジだ』

『政治家や権力がなぜ若い世代に選挙権を広げたかというと、それは単に「都合が良かった」からだ。別に「10代に政治への興味を持ってもらうため」でも「若者の声を政治に反映させるため」でもない。そう主張してたとしても、単なる建前だよ。実際は、「知識がなくて浅はかだから、選挙権をやっておけばこっちの思うとおりに操れる」ぐらいに思われているだけ。都合のいい票田と見なされたんだよ』

 タモリについて述べている部分が面白い。

『ちょっと前までやって人気だった『ヨルタモリ』(フジテレビ系)とか、すでにNHKの看板になっている『ブラタモリ』なんてのは、あの人のやりたいことを全部やってる気がするね。「遊び」の部分というか、歳を取った余裕がすごくいい方向に出てる』

『最近じゃ、いろんな人がタモリのことを論じているようだけど、一言で言えば、この人っていうのは「白米のようなタレント」なんだよな。オカズが毎日どんなものに変わっても、結局は欲しくなる「変わらなさ」を持ってるってことでさ』

『だけどタモリってのは、元々は「オカズ」的なタレントでね。あの人が世に出た頃の「4か国語麻雀」とか寺山修司の物真似とか、『今夜は最高!』でやってたこととか、まさに異色の雰囲気でさ』

 ふ~ん、してみるとビートたけしはどんなタレントなんだろう。タモリの場合は「日本食における白米」の立場、つまり「お米(主食)があってオカズがある」って関係なんだけれども、やはりビートたけしの場合は「肉(主食)があって野菜(オカズ)がある」っていう、欧米食的な意味での主食なんだろうなあ。

 そしていまでもその主食の場にいるってことなんだろう。

 しかし、それも疲れますね。そろそろ、本人もオカズになりたいって考えているのかもしれないなあ。

『テレビじゃ言えない』(ビートたけし著/小学館eBooks/2017年2月6日紙版刊・2017年2月7日電子版刊)

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