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2018年5月20日 (日)

『アニメプロデューサーになろう』って? え?

『本書は「製作もわかる制作プロデューサー」育成のために』書かれた本であるそうだ。

 えっ? 「製作」と「制作」ってどう違うの? というのがそもそもの問題。だって、本来の映画製作の大本であるアメリカでは「プロデューサー」はプロデューサーでしかなく、その間に「製作」と「制作」なんて言い分け方なんてものはないのだ。っていうか「製作」と「制作」を分ける考え方が実は日本だけの考え方で、かなり特殊な考え方なんだということを知っておく必要があるだろう。

Photo 『アニメプロデューサーになろう! アニメ「製作」の仕組み』(福原慶匡著/星海社新書/2018年3月23日刊)

『アニメのプロデューサーといっても「製作」のプロデューサーと「制作」のプロデューサーでは、役割が違います。本書で私が増やしたいと考えているのは、両方のスキルを持ったプロデューサーです。
「製作」はアニメを「商品」としいて見る立場、「制作」はアニメを「作品」として見る立場です。「製作」は企画立案や制作費集め、配給、興行など(制作を含めた)の全工程をあらわすものであり、「制作」は作品を創造する実作業です。
 スタッフクレジットで言うと、「企画」が社長や役員のような方、「エクゼクティブプロデューサー」が「企画」に準ずる役職の方、このあたりの人がアニメセクションのトップか会社のトップの人であり、プロジェクトにハンコを押す人になります。そしてプロデューサーとクレジットされている人が実際に当該の作品において製作委員会会議にも出席し担当する人となります。』

『一方、制作側のプロデューサーは予算、スケジュール、スタッフの管理を行います。制作と呼ばれるセクションのトップが「アニメーションプロデューサー」と呼ばれます。』

 うーん、なんでこういう使い分けになるんだろう? って、勿論、私も製作委員会側の製作プロデユーサーの経験はあるんだが、じゃあ、製作プロデューサーはクリエイティブを理解しなくてもいいのかと言ってしまえば、少なくとも私はそうではなかった。勿論、クリエイティブは制作プロデューサーにまかせて、自分はビジネスのことだけを考えているというスタイルの製作プロデューサーもいる、っていうか製作委員会方式で作っている映画の場合の製作プロデューサーの場合、そうしたプロデューサーの方が多いっていうか、実は大半の製作プロデューサーなんてそんな「ビジネスマン」でしかない。当然、そういう人たちは制作予算の問題にまで入り込んで解決しようとはしないし、制作予算は制作発注契約書でもって決められているので、それ以上のことには言及しないという形で現場から逃げてしまう人たちが多い。それはそれで「仕事の分担」という意味では間違ってはいない。

 でも、そういう人たちが「プロデューサー」を名乗っていいのかという疑問がある。結局、「製作委員会方式」という日本独特の映画ビジネスのスタイルがそうさせているんだろう。単なる「製作委員会代表」あるいは「代表補佐」でしかない、クリエイティブなんかとは、それまでまったく関係がなかった人が、ある日突然プロデューサーになってクリエイター面をするという不思議な光景を私はよく見てきた。まあ、多分「プロデューサー」を名乗ったほうが対外的にメンツが立つってもんで、そうしてきているんだろうけれども、そろそろ日本でもプロデューサーはプロデューサーとしてクリエイティブにかかわるような状況にしていかなければならないのではないだろうか。勿論、「出資者側の担当者」もそれなりの肩書をつけなければいけないというのは分かるが、だからと言って「プロデューサー」って呼ばなくてもいいだろう。

『アメリカでは、映画の新人脚本家はいろいろな映画スタジオに脚本を送ります。それを製作プロデューサーの下でインターンに就いていたりするリーダー(Reader)と呼ばれる若い人たちが下読みをして「こんな脚本でした」というレポートをあげて、プロデューサーが気になったものがあれば読んでみて「面白いじゃん」となれば「映画化しよう」となっていきます。でも、日本のアニメ、映画、ドラマ界にはこういう仕組みがない。
 日本では、いわば、脚本を見る製作プロデューサーの役割を、出版業界のマンガ家と小説家、編集者が担っているかのような構造になっています。アニメプロデューサーに脚本をガンガン送る脚本家はあまりいない(し、送ったところで採用される見込みはきわめて薄い)代わりに、出版社に持ち込みをするマンガ家や、小説新人賞やウェブ小説サイトに投稿する作家は無数にいます。マンガにしても小説にしても、映像と比べると低コストで作品を発表できます。出版社がリスクを負って作品を世に出し、そこで市場原理にさらされて勝った作品を原作にしてアニメ化する、という構造になっています。これならそれなりに売れる(見込みが立つ)のは当然です。』

『ハリウッドでは文字で書かれた脚本から「これはこういうふうにするとおもしろいだろう」とイマジネーションしないといけない部分が大きいから、製作プロデューサーもクリエイティブセンスや経験が必要になります。』

 ではなぜ、日本では「製作委員会方式」というリスク分散(と同時に「責任分散」)方式の製作方法が取られ、ハリウッドでは一切そうした責任分散方式の方法をとらないのか。製作委員会方式という「責任のありかがよく分からない」やり方をやめれば、日本のプロデューサーももっとプロフェッショナルなプロデューサーになれるのになあ、と現役時代考えていた。

 その解決方法としてひとつ考えられるのが、ハリウッドで使われている「ネガティブピックアップ契約」なんだ。

「ネガティブピックアップ」というのは、映画の脚本に銀行が投資する方法なのである。プロデューサーがある脚本を探し当てて(あるいは脚本家に書かせて/脚本家が持ち込んで)、それをもとに映画を作ることを決めると、まず。メジャースタジオにその企画を売り込んで、メジャースタジオと「ネガティブピックアップ契約」を締結する。この、「ネガティブピックアップ契約」とは完成したフィルムの原版(ネガ)をメジャースタジオに収める代わりに、メジャースタジオは原版が納められると同時に、映画の製作費をプロデューサーに支払うという契約だ。ここまでは、まあ創造の通りの話なのだが、それから先が違う。プロデューサーはそのメジャースタジオと締結した「ネガティブピックアップ契約」を担保にして、銀行から融資を受け映画を製作するのだ。この辺が日本と大いに異なる点で、銀行は別に不動産を担保にしなくても、「映画が完成すればメジャースタジオが製作費を支払う」という契約書だけでもって、映画の製作費を融資するのである。

 この場合、当然銀行側でも脚本を読む力が必要になるわけで、そのための人間を雇ったり、臨時で頼んだりするのである。まあ、土地代なんて二束三文である代わりに、映画の脚本は莫大な富の源泉でもあるという、まさしくハリウッドらしい銀行の営業スタイルであったりするわけである。

 そういうことが日本でも可能であれば、「リスク分散と同時に責任分散」方式の変な「製作委員会」なんてものは無くなっていき、もっともっと日本映画が面白くなるんだけれどもなあ。

 もっともっとクリエイティブなものに対する投資を行っていかないで「クール・ジャパン」なんておこがましいことは言ってはいけないのだ。製作委員会のどこがクリエイティブなんだろうか、クールなんだろうか。

 てんで、問題になりませんな。

『アニメプロデューサーになろう! アニメ「製作」の仕組み』(福原慶匡著/星海社新書/2018年3月23日刊)

2018年5月15日 (火)

『10年後の仕事図鑑』の示すこと

 本書を目にして最初に想起したのは、2003年に村上龍氏が書いた『13歳のハローワーク』だった。ただし、同書は現在ある514の仕事について「〇〇が好き」という観点から紹介し、かなり具体的にそれらの仕事に就くための能力や経験などを語り、その時点での「将来の仕事」としてIT、環境ビジネス、バイオ産業、などを紹介している点で、まさしく「13歳の子供たち」に向かって「職業についての考え方」を語ったものだった。

 勿論、本書はそんな子供たちに向けた本ではないのだから、もうちょっと辛辣に「これからなくなる職業(あるいは減る職業)」と「生まれる職業(あるいは伸びる職業)」について語ったものなのだけれども、基本的に言ってしまうと、実はそれは具体的に「これっ」と言えるわけではないし、言っても意味はない、ということも同時に語っている。

 要は、人間は社会の変化に対して、特に現在の変化に対してどういう心構えでいればいいのかということを語っているのだ。

10 『10年後の仕事図鑑』(落合陽一・堀江貴文著/SBクリテイティブ/2018年4月13日紙版刊・2018年5月1日電子版刊)

 まず本書の基本スタンスを書くと……

『「AIが仕事を奪う」という事実に対し、否定的な反応を示すか肯定的な反応を示すか。しかし、はっきりいうが、「AIによる職の代替=不幸」のロジックを持つ人間は、自分の価値をAIと同じレベルに下落させてしまっている点で、ダサい。
 仕事を奪われ「価値を失うこと」を恐れる前に、なぜAIを使いこなし「価値を生み出す」視座を持てないのだろうか。
「価値を失う」ことに目がいくタイプの人間は、常に「使われる側」として搾取される状態にいることに気づかなければならない。AIが古い社会システムを刷新していけば、今、世の中の人が思っているような”会社”のありようは失われていく。
 時代に合わせ、常に変化し続けられることが、これからの時代を生き抜く必須条件になる。』

 つまり、今話題のAIと人間の「労働」に関するものなのだが、だいたいそうした主題の設定自体が間違っているのだ。昔、産業革命の時には「機械が人間の労働機会を奪う」といって、ラッダイト運動なんかが起こったわけなのだが、現在それと同じことが、一般サラリーマンとAIとの間で起こっているわけだ。

 でも、そんな設定は簡単なこと。

『「人間対機械」の役割の最適化は簡単だ。検討する材料になるのは「コスト」でしかない。つまり、機械が行ったほうがコストが安いのであれば機会に任せればいいのだ。もちろん、手技による付加価値のようなものは保証されるはずだ。』

 で、その結果面白いのは、AIによって仕事が奪われる最初の人間として「経営者」をあげていることだ。

『僕が考える、経営者の仕事は2つ。「組織にビジョンを語ること」と「組織を管理すること」だ。ビジョンを語り、人間をモチベートすることは「今のところ」AIにはできない。そのため、ビジョンを語れる経営者は代替不可能である。しかし、管理することならAIにもできる。むしろ、これは人間よりもはるかにAIが得意とする領域だ。これはクラウド型の会社管理ツールに顕著に現れている。
 トヨタのように「自律分散型」で個々が最適化された働き方ができている組織なら、ビジョンを語る以外に経営者の仕事はない。管理しかできない経営者に高い給料を支払う必要はなく、寸分の狂いもなく的確な管理を行うAIが1台あればよい。その点、トヨタは選択と集中では語れないスケールの大きな経営を行っている。
 次になくなるとしたら、定型的な仕事のため低コストで、かつ携わっている人が多い仕事だ。具体例として、一般事務全般が挙げられる。どの会社においても必要不可欠な仕事ではあるが、特殊な能力がなくてもできる仕事ではあるため、採用コストも、給料の水準も高いとはいえない。こういったものはクラウド化されやすいのだ。
 ただし、日本には、事務仕事をする人材が多くいるため、全体でみれば「事務職」に支払われるコストは大きい。総合的にみてコスト高であるから、先ほどの経営者と同様に、AIに代替される職業の代表格となる。もしくはAIとともに働くことが一般的になるはずだ。』

 基本的に「定型化」した労働はAIとかいう以前に、「あいまい」なところを持つ人間が担当するよりは、「原則に忠実」な機械がやったほうが効率がよいってこと。これが、もう少し発展した形でAIにしても、これを「効率的な機械」であると捉えれば、同じくAIがやったほうが効率的に運ぶ仕事もかなり多く見えてくるってことなんだろう。

 特にAIの基本は人間が教え込んだ学習内容にプラスして、その後の機械学習でもって「解」に至る道を自らさがすのであるが、その結果はせいぜい「最適解」に至るだけであって、もともと「解」のない命題に対しては、答えを出せないのである。ところが、そんな「解」のない命題に対して、どこからか似たような命題を探し出してきて「解」を出してしまうのが人間の素晴らしさなのである。勿論、その「解」が正しい「解」なのか、間違った「解」なのかは、すぐには分からない。長い時間を重ねて、結果として正しいか間違っていたのかがわかるだけなのである。でも、そんな「解」を出せる人間って、やっぱり素晴らしい生き物だ。

 つまり、「AI社会」って言っても、別に怖がることはないし、むしろ生産的な仕事はどんどんAIやマシンに任せてしまって、人間はもっとクリエイティブな仕事をしましょうってことなんだな。あ、そうか非生産的な仕事でもいいんだ、このブログみたいにね。

 それじゃあ、そんなクリエイティブな生活って何なんだろう。

『SNS上でアウトプットすることは非常によい訓練になる上に、より知識を深めることができる。最近では、SNSやネット記事を見て情報収集するだけの「情報メタボ」が非常に多い。得た情報をSNS上でアウトプットし、多くの人の意見を取り入れることで、より多角的な視座を手に入れることができる。「インプット」と「アウトプット」、両方のバランスがとれているとき、人は格段に成長できるのだ。』

 っていうこと。

 つまり、様々な方法で社会的に発信できるようになった現代。この機会を逃す手はないわけで、それこそ様々な方法でアウトプットをして、時には「炎上」もしてみて、それを自分の良い経験として取り込めば、それこそその体験は自分の身になりこそすれ、毒にはならないはずだ。まあ、仮に毒になったとしても、その経験自体は後になってみればよい経験として、貴方の中に残るはずだ。

 ってなことなので、まあAI、AIって騒がず、恐れず、むしろAIを利用して、その結果余った自分の時間を、自らのアウトプットをする時間として使いましょう。

 ラッダイト運動が結果としてまったく後向きで世の中の役に立っていなかったという状況を見る通り、AIなどのテクノロジーの進展に対して後ろ向きになってしまっても何の役にも立たないってこと。

 むしろ、その結果出来てしまった自分自身のための時間をどう過ごすのか、それが重要なテーマなのだ。

『10年後の仕事図鑑』(落合陽一・堀江貴文著/SBクリテイティブ/2018年4月13日紙版刊・2018年5月1日電子版刊)

2018年5月 5日 (土)

『カメラはじめます!』って言うほどの問題じゃないんだけどね

 なるほど、デジタル一眼の時代になってくると、我々が「写真のお勉強」をした時代とはだいぶ違ってくるんだな。

 なにせ50数年前に写真のお勉強をした頃は、要は「写真はピントと絞りとシャッタースピードで決まる!」だけだったもんな。とにかく「ピントはシャープに」「絞りは被写体のボケをコントロール」「シャッタースピードは被写体の動き(ブレともいう)をコントロール」というのが「覚えることは3つだけ! カメラのコツ」だったんだが、今の「3つだけ!」は違うようだ。

Photo 『カメラはじめます!』(こいしゆうか著・鈴木知子監修/サンクチュアリ出版/2018年1月20日刊)

 現在のデジイチにおける「覚えることは3つだけ!」は、その前にデジタル一眼の「3つの撮影モード」ってのがあって、その中の「こだわりモード」というのがある。

①おまかせオートモード 設定はカメラに全部お任せ
②こだわりオートモード 設定の一部を自分で決められる
  ・P(プログラムオートモード)「色」や「明るさ」を決められる
    さらにこれらに加えて…
  ・A・AV(絞り優先モード)「ボケ具合」を決められる
  ・S・Tv(シャッタースピード優先モード)動くものに応じて「シャッタースピード」を決められる
③マニュアルモード 設定を全部自分で決める

 というのがあって、漫画の主人公はこれまで「おまかせモード」だけで撮影して、なかなか自分のイメージ通りの写真が撮れないことに悩んでいたんだけれども、そこで「おまかせオートモード」で撮っていたものを、「こだわりオートモード」で撮ることをおススメするのである。まあ、その辺がすべては「マニュアルモード」しかなかった我々が写真を学んだ頃と、基本的にカメラ側ですべてを操作してくれるデジイチ時代との違いなんだな。

 で、その「こだわりオートモード」で覚えることは3つだけってことなのだ。

その1 ボケ具合を変えられる!!
 要はレンズのF値を変えてボケ具合を変えようってことなんだけれども、それがA(Av)モード、つまり絞り優先モードで撮影した際の特徴ですね。

その2 明るさも変えられる!
 露出補正のことであります。だいたい普通のデジイチの場合は+1から+3位まで(普通はその間をさらに三段階くらいには調整できる)。

その3 色を変えられる!
 ホワイトバランスのことなんだなあ、これが。でもまあ、「光の状況によって、カメラが認識できる色は異なるため、青っぽくしたいか、赤っぽくしたいかで、色をコントロールできる」ってことだけだったら、それはカメラ側で行うよりは、撮影後Photoshopか何かの画像編集ソフトでやっちゃったほうが安心できるんだけれどもなあ。

 本当のことを言っちゃうと、「明るさも変えられる」ってのもPhotoshopで可能であります。最初の「ボケ具合」だけはカメラ側でコントロールしなければならないのだが。つまり実は『「ピントはシャープに」「絞りは被写体のボケをコントロール」「シャッタースピードは被写体の動き(ブレともいう)をコントロール」』というカメラ側でコントロールしなければならない要素は、昔と変わっておらず、それ以外の要素だけが「デジイチで行える3つだけの覚えること」なんだけれども、まあ、基本的にパソコンは使わない設定の漫画なんで、まあ、そういう「3つだけのこと」になるんだなあ。ただし、「ピントはシャープに」ということだけは、今のデジイチだったらカメラマンよりは高性能だ。

 実はRAWで撮っておけばもっといくらでも画像を変化させることは可能なんだが、まあ、JPEGで撮っても相当程度には変化させることは可能だ。つまり、アナログ時代からデジタル時代になって、それだけ「やれること」は幅広くなったんだけれども、「やれることの幅が広がる」ってことは、更に表現のフィールドを上げなければならないってことでもある。

 でもまあ、それだけカメラ任せにしても写真が撮れちゃうってことは、問題はその撮影者のセンスの問題になってしまうんだなあ。で、すべてはカメラマンのセンスの問題っていうことになってしまうと……、そこで話は終わってしまう。

 デジタル時代になっていろいろな表現のテクニックはどんどん上がっては来たけれども、問題はそれを使って表現をする人間の能力がなかなかそこに追いついていかないってことなんだなあ。

 まあ、あとはどんどんいろいろなものを撮って経験とセンスを積むことでしかない、ってことなんだろうなあ。で、最後はセンスの問題ってこと。

 要は『ハッと感じたら、グッと寄って、バチバチ撮れ!』(by 篠山紀信)ってことなんですね。

 で、話はおしまい。

『カメラはじめます!』(こいしゆうか著・鈴木知子監修/サンクチュアリ出版/2018年1月20日刊)Kindle版が出ていたんだ!

2018年4月26日 (木)

『新・日本の階級社会』で分析するだけじゃなくて、処方箋も欲しいなあ

 結局、「一億総中流」という言い方をされた戦後の高度成長期を過ぎて、バブルの崩壊、その後の「失われた20年」を経て、日本の「格差社会」は「階級(固定)社会」にまで発展(後退?)してしまったということなのだ。

 結局、「格差」というものは、まだまだ逆転可能な社会であり、社会における階級を上り詰めることも可能だったんだが、既に現代ではそれは不可能。「格差」は世代を超えて固定化してしまい、それが「超すに超えられぬ階級社会」になってしまったっていうことなんだなあ。

 問題はそれがヨーロッパ的な階級社会とは若干事情が異なり、例えば「親世代が裕福であれば、子供に良い教育を与えることができるし、その結果、子供の世代が裕福な生活をおくることができる」というようなものとして、元々はあったんだけれども、今やそれはひとの努力ではひっくり返すことができなくなってしまったという意味での『新・日本の階級社会』なんだ。

Rimg00022 『新・日本の階級社会』(橋本健二著/講談社現代新書/2018年2月1日刊)

 社会を類型化する場合にはどうしてもそこから漏れ落ちてくる中間的な存在が発生するんだが、まあ、それは類型化に伴う仕方のない考え方だということで、その類型化を受け入れることにする。

 いずれにせよその類型は以下の通り。ただし、これは20世紀までの話。

資本家階級 従業員規模が五人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業者

新中間階級 専門・管理・事務に従事する被雇用者(女性と非正規の事務を除外)

労働者階級 専門・管理・事務以外に従事する被雇用者(女性と非正規の事務を含める)

旧中間階級 従業先規模が五人未満の経営者・役員・自営業者・家族従業員

 この四階級のうち「労働者階級」というものが正規雇用者と非正規雇用者に分かれて、その非正規雇用者が「アンダークラス」という新しい労働者像を作り出したというのだ。つまりこの「非正規労働者」とは「雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。きわだった特徴は『男性で有配偶者が少なく、女性で理死別者が多い』『とくに男性アンダークラスは、強い不満をもち、自分の境遇に不仕合せを感じながら生きている』、つまり『アンダークラスは、所得水準、生活水準が極端に低く、一般的な意味での家族を形成・維持することからも排除され、多くの不満をもつ、現代社会の最下層階級である』でありながら、じゃ労働組合への加入率は『13.8%と低いが、これまで労働組合の組織対象としてみなされることの少なかった非正規労働者のことだから、意外に低くないという見方もできる。実際、この比率は2005年SSM調査では3.7%だったから、大幅に上昇している』という部分には、多少この「アンダークラス」への希望が見えてくるようなのだが、果たしてそうだろうか。

『資本家階級、新中間階級、正規労働者では、所得再配分には消極的で排外主義的傾向の強い「格差容認排外主義」の立場をとる人がもっとも多く、それぞれ40.6%、37.8%、36.9%を占める。
 ところがアンダークラスでは、所得再配分に積極的でかつ排外主義的傾向の強い「格差是正排外主義」が34.2%と、もっとも多くなっているのである。』

『格差是正の要求と排外主義が、アンダークラスにおいてだけ、強く結びついているということである。貧しい人々が所得再配分による格差の是正を求める一方で、外国人の流入を警戒し、戦争責任を問う中国人や韓国人の主張に反発する。アンダークラスには、このような立場をとる人が多いらしいのである。追い詰められたアンダークラスの内部に、ファシズムの基盤が芽生え始めているといっては言いすぎだろうか。
 2017年10月の衆議院選挙では、小池百合子東京都知事が率いる「希望の党」が注目を集めたが、その政策には、上の集計結果から見て興味深い点があった。「希望の党」は、公認候補となることを希望する候補者に、集団的自衛権の行使を可能にした安保法制の受け入れや、外国人への参政権付与に反対することを盛り込んだ政策協定へのサインを要求した。そして選挙では、九条を含む憲法改正の検討を公約とした。まさに排外主義、軍備重視である。
 ところが公約には同時に、正社員化の促進やベーシック・インカムの導入など、格差の縮小と所得再配分のための政策も盛り込まれていた。つまり、排外主義・軍備重視と所得再配分が結びつけられていたのである。おそらく、このことに気がついた有権者は多くなかっただろうし、結果的に広い支持を得ることもできなかったが、今後の新しい政党のありかたとして、前例を示すことになったと言える。』

 下級労働者の支持がドイツにおいてナチスの台頭を許したということは以前からも言われてはいたことだ。また、孤立主義や排外主義がこうしたファシズムの温床になることはよく知られている。今更、日本が戦前に戻ってファシズムへの道を歩むことは考えづらいが、しかし、アタマでは「ファシズムはよくない」ということを理解していても、結果として「名前を変えたファシズム」になってしまうと、「それを批判する立場になるほどの教育を受けているんだろうか、アンダークラスは」ってな気分にもなってしまう。勿論、アンダークラスだからといってそうした差別的批判の対象にされてよいものではないということは分かってはいるんだが、「本当に大丈夫だよね?」

『新・日本の階級社会』(橋本健二著/講談社現代新書/2018年2月1日刊)

2018年3月23日 (金)

『文藝春秋オピニオン2018年の論点』雑誌を電子で読むという体験

 昨年末に刊行された『文藝春秋オピニオン2018年の論点100』というムックの特集記事が、『文藝春秋オピニオン2018年の論点100 SELECTION』として電子版で切り売りされている。

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 切り売りされているのは……

『見開き2ページで日本の課題がわかる! 最重要テーマに最速アクセスの頼れる決定版

自民一強「2017年体制」改憲論議はどこまで進むか
北朝鮮の脅威に立ち向かうには
AIが新しい産業革命を引き起こす
離脱者続出トランプ政権の命運
習近平「強国」戦略の悪夢
天皇退位「代替わり」で何が起こるか』

 などなど8本程度の特集記事。で、そのうち『社会人の教養は人、本、旅』と『米中覇権争い』の二つを「切り買い」して読んだ。

 雑誌というものを私たちはよく買うんだが、しかし、その雑誌の記事全部に目を通すということは、基本的にありえない。まあ、気になる特集記事なんかがあると、その雑誌を買い、その特集記事を読んだ後は、なんとなく気になった記事だけを読んで、あとは捨てる、っていうのが普通の雑誌の読み方だ。

 なので、駅の売店などで買った週刊誌などを、そのまま全部持っていても邪魔になるだけなので、電車の中でビリビリ破いて読みたいところだけを残し、残りは全部捨てるっていう読み方を。私は一時やっていた頃があった。でもこういうことをやっていると、「アイツ何やってんだ」的な見方を周囲の人がしているのはよくわかるんですね。要は「変な奴」扱いだ。

 実は、その読み方っていうのはある人がやっている方法で、そのことをある本で読んで、「なるほど、そういう読み方ってあるんだ」と思って真似をしていただけなんだけれども、なんか電車の中で変人扱いされるのもなんなんで、その後はやめたんだけれども、でも、その雑誌の読み方って今でも有効だとは考えている。

 で、電子版ということで、特集記事の切り売りができるっていうのは、「なるほど!」的な発見だったわけなんですね。まあ、一種の「効率的な雑誌の読み方」ってわけです。

 電子版だったら、本を作るための製造費とか、最低の単価を決める必要はないわけで、別に効率の良いページ数のあり方とか、定価のつけ方っていうのは別に関係ない。当然、全部買ったほうが割安なのは分かるんだが、だからといって読みたくもない記事を一緒に持って歩くというのは効率面からいって決して良いわけではない。

 なるほどこりゃいい読み方だ。ほかの雑誌もこういう読み方ができればいいのだがなあ。

 ということで、まず『社会人の教養は人、本、旅』なんだが、要はこういうこと。

『人、本、旅で知識を蓄えたら、忘れないうちにアウトプットするといいでしょう。家族でも友人でもいいから、とにかく誰かに話して聞かせる。他人に話すと、「このエピソードはウケたな」とか「ここは退屈なのか」とか、相手の表情から反応を読み取ることができます。そういう刺激が、自分の考えをまとめ、記憶するのにも役立ちます。
 話して聞かせる相手がいなければ、ブログなどで文章にまとめてネットで公開するのがいいでしょう。日記をつけるよりも、何でもいいから、他人に向けて発信することをおすすめします。』

 ということ。

 人に会う、本を読む、旅に出るっていうことで、いろいろな体験を積むことは大事なんだけれども、しかし、それ以上に大事なのは、それらの体験を「アウトプット」すること。アウトプットすることで、本当にそれらの体験や知識があなたの身につくっていうことなんだなあ。この辺は私も同意することで、まあ、このブログなんかもそのために書いているっていうか、皆さんにお付き合いいただいているようなわけです。

 もうひとつ、『米中覇権争い』については、まずアメリカの歴史から学びます。

『そもそも歴史的にみても、アメリカという国は初めから一体的な強大な国として出来たわけではありません。まず北部には、イギリスから逃れた清教徒(ピューリタン)、すなわち理想主義的なキリスト教原理主義者が入植します。そして、ほぼ同時期に、南部にはプランテーション経営を行う、現実主義的で重商主義的な植民地主義者たちが入植してくる。大きくいえば、この二つの勢力のせめぎあいがアメリカの歴史の根底にあるといってといっていい。』

『興味深いのは、これまでは独立戦争、南北戦争といった歴史の大きな節目では、つねに普遍主義を掲げる北部が勝利を収めてきたことです。もしも南部が勝ち続けてきたら、まったく別のアメリカになっていたはずです。これは単なる「歴史のIF」ではありません。今後、トランプのような大統領を選び続けたら、そうなる危険性は十分にあるのです』

『アメリカは今も資源豊富で広大な国土に、世界中のあらゆる分野のクリエイターたちが集まり、世界一過酷な競争を繰り返している国です。その勝者たちが世界一の経済・技術大国を牽引するのです。多くの敗北者が存在しますが、国家としてのダイナミズムには圧倒的なものがあります。そして先進国では珍しく、若年労働人口が増加しています。こうした国は世界でも他にありません』

『もし中国が強引にアメリカに覇権争いを挑めば、最悪の場合、「第二次太平洋戦争」を引き起こす可能性もあるのです』

               

『今後アメリカには、自らが抱える、普遍主義と内向き志向の振り子の振れ幅を見極めつつ、中国といかに向き合うかという舵取りが迫られるでしょう。中国が、国際社会における普遍的な価値を受け入れるような枠組みを築くことが、アメリカのリーダーシップに求められます』

 ということで、アメリカに学ぶという点があるのならば、それはアメリカという国の成り立ちと、その歴史だということなんですね。

 で、多分、この読書経験(といっても雑誌の特集っていう程度なんで、たいしたことはない)をも、やっぱりアウトプットが大事なんですよってことなんでしょう。

「人、本、旅、歴史」って、現役引退した身にとってはすべて「体験、勉強」可能な世界だ。

 せいぜい、私もそんな体験や勉強をしていきましょう。

2018年3月10日 (土)

『定年バカ』

 いやあよく言ってくれました。本当に世の中はバカばっかりでねえ。とりあえず本書に書かれているバカは以下の通り。

「お金に焦るバカ」「生きがいバカ」「『生き生き』定年バカ」「健康バカ」「社交バカ」「定年不安バカ」「未練バカ」「旧職の地位にしがみつくバカ」「まだモテると思ってるバカ」「『終わった人』のつづき───ムフフのバカ男」「まだ『現役』といいたがるバカ」「終活バカ」「棺桶体験をするバカ」「社会と『つながり』たがるバカ」

 う~ん、しかしもっとバカはたくさんいそうだぞ。

20180305_0045 『定年バカ』(勢古浩爾著/SB新書/2017年11月15日紙版刊・2017年12月1日電子版刊)

 ポイントは日本国民のなかで一番「マッス」になっている「団塊の世代」がこれから高齢化を迎えて、日本経済がトンでもない状況になることを受けての考え方なんだが、なんだ、結局はこれまで戦後の歴史のなかで常にマーケティングの対象となっていた「団塊の世代」向けのいろいろな本が出ているってことでしょう。

『2025年問題がささやかれています。25年は、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる年です。日本は急速な高齢者が問題でした。しかし25年以降は、2200万人、4人に1人が75歳以上という超高齢社会が到来します。これまで国を支えてきた団塊の世代が給付を受ける側に回るため、医療、介護、福祉サービスへの需要が高まり、社会保障財政のバランスが崩れる、とも指摘されています。
 一九四七~四九年(広くは五一年)生まれは、団塊の世代と呼ばれます。約七百万人(広くは一千万人超)と人口も多く、消費文化や、都市化などを経験した戦後を象徴する世代です。
●まずは2015年
 団塊の世代はまず、一五年に六十五歳以上、前期高齢者になります。これは二〇二五年問題前の「二〇一五年問題」ともいわれています。この後、二五年に向け、急速に高齢化が進んでいきます。
 二五年には、団塊の世代が七十五歳以上となるため、一〇年に11・1%だった七十五歳以上人口の割合は、二五年には18・1%に上昇します。
 二五年を境に、七十五歳以上人口は二千二百万人超で高止まりします。現役世代(十五~六十四歳)が減少するため、六〇年には四人に一人が七十五歳以上という超高齢社会になります。このため、一〇年には現役世代五・八人で七十五歳以上一人を支えていたのが、二五年には三・三人、六〇年には一・九人で支えることになります。
●医療・介護リスク  高齢になれば、疾病などにかかるリスクも高まります。生涯医療費の推移を見ると、七十五~七十九歳でピークを迎えます。また、七十歳以降に生涯の医療費の約半分がかかることが分かります。
 介護はどうでしょうか。要介護(要支援)になるリスクは七十五歳から上昇し、八十五~八十九歳では、半数が要介護の認定を受けています。
 また、認知症高齢者も二五年には四百七十万人になる、と推計されています。
 しかも、七十五歳以上の一人暮らしの高齢者数は、男女ともに増え続けます。二五年には二百九十万人、特に女性では四人に一人が一人暮らしの状態です。
●給付とのバランスは
 社会保障と税の一体改革時の推計では、一二年度と二五年度(改革後)の給付費を対国内総生産(GDP)で見ると、年金は11・2%から9・9%に下落します。一方、医療は7・3%から8・9%へ上昇。介護は1・8%から3・2%へほぼ倍増する見込みです。介護・医療の負担と給付が大きな問題であることが分かります。
 このため、高齢者の保険料負担を見ても、後期高齢者医療は月五千四百円から六千五百円へ上昇します。また、介護では月約五千円が八千二百円にもなります。介護保険料は月五千円が負担の限界ともいわれ、深刻な問題です。
 高齢世代だけでなく、現役世代の負担も重くなります。そこで、消費税率の引き上げのほか、高所得の高齢者への社会保障や税での負担増を進めています。
 しかし、増税と給付削減は、若年世代ほど負担が重くなり、高齢者になったときには給付が十分ではないという結果にもなりかねません。
 二〇二五年問題は、単年で終わる話ではありません。団塊の世代が六十五歳以上になる一五年、四人に一人が七十五歳以上の超高齢社会が到来する二五年。それぞれの節目になる年に向け、社会保障をどのようにするのか?』(「東京新聞Web」より)

 という問題が2015年の日本には待ち構えていて、要は「早いとこ団塊の世代は死んでくれよ」とは言えないので、それについての対策が愁眉の話題となっているんだが、出版業界としてはそんなことよりも、そんなマッスのマーケットに向けて「おいおい、お前らノホホンとしていたら大変なことになっちゃうぞ。そうならないために『あれをしておけ』『これをしておけ』」っていう本を沢山出版して団塊の世代を脅かすんだけれども、残念ながらそんな世の中のトレンドに一番弱い団塊の世代が、結構それに影響されて「あれをしなけりゃ」「これもやっておかなければ」って右往左往する様を見て、団塊の世代の一番下あたりに属する著者の勢古氏が、「なに今頃あわててるんだ、バカめ!」って言っている本なのですね。

 以上で、本の紹介は終わり……、って言っちゃうと元も子もないので、以下少し私の考え方も述べておく。

「定年バカ」のなかでも一番面倒なのが「旧職の地位にしがみつくバカ」「まだモテると思ってるバカ」「『終わった人』のつづき───ムフフのバカ男」「まだ『現役』といいたがるバカ」などだろう。

『世間には会社のタテ社会の価値観をそのまま私的関係にまでもちこむ輩がいるが。「定年退職後も、その序列感覚と決別できず、地域社会に持ち込む人がいます」。氏が「マンションの管理組合の役員をしていたときに、その「典型のような人」がいた。「大手企業の常務まで務めたという人」だが、「組合の集まりに顔を出しても、『おれが、おれが』と場をやたら仕切りたがる」。こんな男がうっとうしいのだ』

『その「おれが、おれが」男は、そのくせ「実際の業務や活動にちっとも汗をかこうとしない」。だから「協調性にも欠けるし、他の人の意向や言い分を聞きながら意見をひとつの方向へまとめていくという、本来のリーダーシップに求められる器量にも不足している。地縁や私的つながりにおいて、もっとも役に立たず、もっとも面倒で、もっとも敬遠されるのが、このタイプです』(前出『定年をするあなたへ』)

 うーん、そういうバカがいるんだ。

 幸い、私はそんなバカとは会っていないので、これまで迷惑を受けたことはないが、世の中にはいるんですね。

『地位や役職(や組織名)を自分だと思い込んでいる人間は存在する。そのへんの娘でも、アイドルや女優と呼ばれてちやほやされると、いつの間にかその気になって傲慢な人間になってしまうのはめずらしいことではない』

 結局、そんな肩書とか人に命令する権利なんてものは、彼が属する組織内だけでしか通用しないものなのだっていうことが分かっていない「バカ」なんである。別に、ひとは貴方の人間性や能力に対して、それを認めているわけではなくて、単なる組織上の「地位」だけにひれ伏しているということなんですね。つまり、自分の属する組織内だけの関係論を、その組織から離れてしまっても通用すると思っている「バカ」。

 実はこういう「バカ」が一番多いんだけれども、結局それはそんな組織内だけの仕事や付き合いに終始して定年まで仕事をしていた、っていうだけの「世間知らず」の成れの果てなんだ。

 まあ、(現役の)皆さん、そういうバカにだけはならないようにしましょうね。

『定年バカ』(勢古浩爾著/SB新書/2017年11月15日紙版刊・2017年12月1日電子版刊)

2018年3月 3日 (土)

『バブル入社組の憂鬱』ってもなあ、特別なことではないんだがなあ

 基本的なことを言ってしまうと、私はこうした「世代論」でもって輪切りにする考え方はあまり賛成できない。

 できないんだが、この歳になってしまうと、世代論的な割り切り方がなんかしっくりくるんだなあ。つまり、それって歳をとってきたための劣化なんだろうか、あるいは、やはり世代論っていうのはそれほど間違った方法論なのではないということなのだろうか。

 ということで、読んでみた本がコレ。

Rimg00032 『バブル入社組の憂鬱』(相原孝夫著/日経プレミアシリーズ/2017年12月8日刊)

 では、その世代論で輪切りにした第二次大戦後に生まれた世代はどうなっているのか?

【団塊の世代】(1940年代後半生まれ)
 第二次世界大戦が終わった直後には、どこの国でも「ベビーブーマー」が誕生し、一つの世代を形成することになる。日本においては、団塊の世代がそれに当たる。  世代としての人口が飛び抜けて多かったため、雇用や消費、教育など、日本の社会全体の動向や変化に大きな影響を与えてきた。すでに引退した世代であるが、〝世代〟という言葉が盛んに使われるようになったきっかけとなったのも、この団塊である。』

『【新人類世代】(1950年代後半~60年代前半生まれ)
「新人類」という言葉を生み出したのは、学者で評論家の栗本慎一郎である。当時の若者を「従来とは異なった感性や価値観、行動規範を持っている」として命名したものである。』

『現在、50代半ばから60歳を少し超えるあたりを指し、そろそろ定年が近づいている世代である。現在、企業経営を担っている人たちの多くがこの世代である。学生運動が下火になった時期に成人を迎え、政治的無関心が広まった時代の若者たち(=しらけ世代)を挟んで、登場したのが新人類だ。』

【バブル世代】(1960年代後半生まれ)
 バブルを経験した人たちの中で、20代にバブルを謳歌した世代だけが、後に「バブル世代」と呼ばれることになった。現在50歳前後であり、会社の中で管理職層の多くを占める世代である。』

 企業では、新しいことをやる機運が旺盛だった。新人となったバブル世代は、下働きをすることなく「新規事業開発室」などに配属され、若い発想を活かした新規ビジネスへの挑戦を求められた。豊かな発想力を持つ優秀な企画マンが数多く誕生したのも事実だが、好景気を背景に企業の決裁が緩くなり、若手の提案も通りやすく、勘違いする若者も多かった。』

『その後1990年代に突入すると、バブル経済は崩壊し、長い低迷期である「失われた10年」に突入する。』

【氷河期世代(団塊ジュニア)】(1970年代生まれ)
 バブル経済崩壊後の就職氷河期の時代に新規学卒者となった世代である。1970年代の生まれがこの「氷河期世代」に当たる。団塊世代の子どもに当たる世代なので「団塊ジュニア世代」とも言われる。』

【ゆとり世代】(1980年代後半~2000年代前半生まれ)

『現在の新入社員世代は、〝デジタルネイティブ世代〟と言われる、物心がつく頃にはインターネットが当たり前だった世代である。バブルが崩壊した後に生まれた人たちだ。
 彼らが生まれた頃、1993年は郵政省がインターネットの商用利用を許可し、翌94年には「Yahoo!」がサービスを開始した。つまり、日本でもインターネットの浸透が本格化した頃から人生を歩んできた世代が社会人になってきたのだ。氷河期世代からしても、この世代は異邦人に違いない。氷河期世代が入社時から経験してきた変化を、生まれた時点から経験しているのである。]』

『好景気を知らない以上、不景気や不況についても、彼らははっきりとは認識できない。好景気を知っている人間なら、バブル崩壊以降、日本の社会はずっと不景気なままだと考える。
 しかし、バブルを知らない若者にとっては、ポストバブルの経済・社会状況こそが常態であり、それを不景気とは認識していない。そこから、彼らの堅実で、前向きな考え方につながってくる。』

『好景気が訪れることを予期しているのなら、それに乗ろうと待ち構える受け身の気持ちが生まれる。しかし、体験もイメージもない彼らは、好景気の波に乗ることなど期待せず、自分の人生はすべて自分の力でなんとかしなければならないと考える。彼らにとっては、それ以外に未来を切り開いていく手立てはない。堅実にしっかりと自分の世界をつくり上げていくしかないというのが、彼らの考え方なのである。』

 なるほどなあ、そうかバブル世代っていうのは1960年代後半の生まれっていうことは、現在は50代半ば、40代を過ぎて上に上がる者とそのまま役職定年を迎える者、あるいは(そういうものがあるのなら)子会社に片道出向になるものなどの「その後の人生」を決めなければならない時期でもあるんだ。

 でも、だからってそれが何なんだろう。別に自分の人生は「会社」だけに囚われているわけじゃなくて、いろいろな人生の選択肢ってものがあるはずなんだから、それぞれがそれなりの「その後の」人生を選べばいいってだけのことである。というか、こんな話、団塊の世代が50~60代を迎える時にもあったなあ。ということは、それは「世代論」で区切られた問題じゃなくて、単なる「そういう年齢になった」ってことなんでしょっ。

 会社は基本的にピラミッド社会だ。つまり、年齢が上がるにつれてその人がつけるポストの数は減ってくるわけで、三十代までは同期入社の仲間たちは同じように出世するんだけれども、四十代になってくればそのポストに見合わなかった人たちがリストラされるっていうだけのこと。まあ、この場合の「リストラ」っていうのは「斬首」っていう意味じゃなくて、ポストに弾き出された人が順々に押し出されて行って、それぞれの会社の中に居場所がなくなって出向になったり、前の場所に戻されたり、そのまま居座わされたりするだけのことじゃないか。

 ちょうど今のバブル世代がその年齢になったっていうことだけで、別にそれに対する手当を会社がするつもりはさらさらないだろうし、必要もない。職場でも別に彼らに気を使う必要はない。まあ、問題は彼ら自身がそういった自分の周囲の変化に対してどうやって対処するのか、というだけのことである。

 ってことは、やはり「世代論」っていうのは、あまり効果を持った考え方ではなくて、なんとなく世代論で括ってしまえば、その世代に属する自分自身を納得させられるってだけのこと。

 まあ、次は「氷河期世代の憂鬱」ってのが出てきて、その次は「ゆとり世代の憂鬱」ってのが出てきて、「自分たちは好んで氷河期世代(あるいはゆとり世代)に生まれてきたんじゃない」なんて嘆き節を唄うんでしょうね。

 う~ん、やっぱり世代論っていうのは、あまり意味を持った考え方ではないのだと思う。

『バブル入社組の憂鬱』(相原孝夫著/日経プレミアシリーズ/2017年12月8日刊)

2018年2月25日 (日)

講談社の決算発表に思うこと

 11月が決算年度の講談社が昨年の決算と役員人事を発表した。

 下の記事は業界紙『新文化』からの引用。まあ、基本的には講談社が出したプレスリリースを写したものである。

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講談社、増収減益決算 電子・版権収入が全体の30%超に

 2月20日、東京・文京区の本社で株主総会および取締役会を行い、第79期(H28.12.1~同29.11.30)決算と役員人事を発表した。売上高は1179億5700万円(前年比0.6%増)、営業利益は約19億円(同37.2%減)、経常利益は約43億円(同15.3%減)。当期純利益は17億4800万円(同35.6%減)。野間省伸社長によると、電子や版権ビジネスなど、「事業収入」の占有率が売上高の30%を超えて第2の柱になりつつあるという。
 役員人事は、取締役の峰岸延也、古川公平、渡瀬昌彦の取締役3氏が常務に昇任。吉羽治氏が取締役に新任。森武文副社長は取締役相談役に、鈴木哲常務は退任して顧問に就いた。』

 出版業界全体がシュリンクしている状況の中で「増収減益」とはいえ経常利益、純利益ともに黒字決算はまあ致し方ないのかもしれないが、以下の日経新聞1月25日付の記事はもうちょっと書いてあるので、そちらを基本に読んでみたい。

止まらぬ出版不況 17年7%減 雑誌で顕著、11%減
 電子は伸びる

 出版業界の調査研究機関である出版科学研究所(東京・新宿)は25日、2017年の市場規模を発表した。紙の出版物の推定販売金額は16年比7%減の1兆3701億円で、13年連続のマイナスとなった。一方で、スマートフォン(スマホ)やインターネットで楽しむ電子の出版物は16%増の2215億円となり、紙と電子を合わせた出版全体の市場は4%減の1兆5916億円だった。
 内訳をみると、紙の雑誌の落ち込みが著しかった。11%減の6548億円で、2桁の下げは初となる。週刊誌、定期誌、それぞれ9%減だった』

 とにかく売り上げが毎年落ち込んでいる出版業界なので、その中での「増収」っていうのは、まあ、結構なことですねというところなのだろう。

 講談社の決算に関する日経新聞の記事では……

『デジタル分野の売上高は9割を占める漫画の販売が好調で、42%増の249億円と大きく伸びた。書籍の売上高である176億円を大幅に上回る。都内で決算説明会を開いた講談社の野間省伸社長は20日、「電子書籍や版権収入が成長した。体質改善を積極的に行う」と強調した。
 ただ、漫画の単行本と漫画雑誌を合わせた売上高は10%減の411億円にとどまった。出版市場が縮小する中、業界では単独で黒字を確保できる雑誌が減少しているというのが共通の見方だ。
 講談社の週刊誌「週刊現代」や月刊誌なども単独では赤字だとみられ、年間に数十億円の利益を稼ぎ出す漫画頼みの構図が強まっている。ただ、漫画を無断掲載する海賊版サイトの影響が徐々に出始めており、月額の被害額が数億円にも達するとの指摘もある。』

 となっている。

 出版科学研究所のデータっていうのは、あくまでも「紙の出版物」だけの統計数字なので、今や電子出版が当たり前になってしまった時代のデータとしてはまったく使えるデータではない。つまり、出版科学研究所のデータ自体が各出版社から出てくる資料だけをもとにしていて、なおかつその出版社の大半が紙の出版をやっている出版社ばかりなので、実体としての「コンテンツ産業としての出版社」という実情を反映していないというのが一番の問題。つまり、「コンテンツ産業としての出版業界」に対応する業界研究所っていうのはいまだになくて、いまだに「紙の本を1冊売ってなんぼの収入」という太古からの数値をもとにしている、なんか今やまったく使えない業界研究所なんだな、これが。

 講談社にしても「電子書籍や版権収入が成長した」というときの「電子書籍」というのは、実はかなりの割合で「漫画コンテンツ」なのだ。いまや、漫画はスマホで読むという時代になってきており、その結果「漫画を無断掲載する海賊版サイトの影響」が云々されるという状況になってきている。

 だからこその「増収減益」っていう決算なんだけれども、それがなかったら赤字決算になっていたわけで、その意味では、講談社が早い時期から電子出版と出版物のコンテンツ化に乗り出していた結果が現在の状況につながっていると考えることは重要だろう。

 今や「出版業界」っていうのはなくて、紙も出すけれども、電子や別のコンテンツも出す「情報産業としての出版コンテンツ業界」と「紙だけにこだわる出版業界」に分かれているのである。

「出版は不況だ」というのであるならば、この二つの典型的に分かれた業界を別々にとらえて、それぞれについて語らなければならないのだろう。

 では、こうして二つの典型的な産業形態に分けて、「出版業界」は先がなくて、「出版コンテンツ業界」ばかりがうまくいくのかっていうのであれば、決してそんなことはないので、「出版業界」の皆さん、ご安心を。ただし、その場合は、まずとことんまでシュリンクする出版業界というものに付き合わなければならないだろう。「情報産業」的な部分は完全にそぎ落とした結果としての「出版業界」になってしまえば、そこからは「紙の出版物」にたいしてフェティッシュな好意を持つ人たちによって、いわゆる「出版業界」は守られて生きていくことができるだろう。その場合の「出版業界」は、「情報」とか「コンテンツ」っていうものとは一切かかわりのない、まあ純粋な本の世界のことである。

 勿論、そんな「出版業界」というものは、社会の話題性などというものとは一切かかわりがないし、映像化されて大きく稼げるっていう世界とは、ほぼ関係のない世界になるのだろう。

 で、そちらは「情報産業としての出版コンテンツ業界」に任せるっていうことになるだろう。で、そちらの「情報産業としての出版コンテンツ業界」が、現在の出版業界に代わって世の中のトレンドとか、流行とかっていうものと付き合っていくことになるんだろう。

 まあ、そんな「出版業界」の終焉と「情報産業としての出版コンテンツ業界」と「紙だけにこだわる出版業界」の誕生を、近い将来の状況として想像するのだ。まあ、もはや後者は「産業」という名前には値しない業界になっているんだろうけれども。

2018年2月15日 (木)

『偽ライカ同盟入門』で再確認

 何故か、すでに知っていたからなのか、出版された時には読んでいなかったんだなあ。でも、読んでみると、私も「偽ライカ同盟現代派」の資格は持っているわけだ。とううことで、ひと安心。

 つまり……

『【偽ライカ同盟現代派】
一台のライカを所有。
一台の偽ライカまたは「らいか」を所有。
一台のノートパソコンを所有。
一台のフィルムスキャナーを所有。』

 っていう条件はすべて満たしているもんなあ。

Photo 『偽ライカ同盟入門』(田中長徳著/原書房/2005年4月1日刊)4月1日刊って言ったって、別に冗談ではありません。

「ライカ同盟」っていうのが、赤瀬川源平氏、高梨豊氏、秋山祐徳太子氏の三氏によって作られているのは知っていたし、まあ半分は冗談で作られた同盟であることは知っていたんだが、それに対抗するように「偽ライカ同盟」がなぜ作られたのかは、その理由は知らなかった。っていうより、現代の日本で田中長徳氏以上にライカを語れる人がいることが信じられなかったんだが、まあ、こちらも冗談で作られた「偽ライカ」あるいは「らいか」を愛でる人たちが勝手に作ったんだってことで、まあ、そんなもんでしょう。

 で、偽ライカ同盟によって認定された偽ライカの一覧が『八 偽ライカ列伝 図鑑六十機種 反物質主義としての「お買い物ガイド」』として載っているので、とりあえずそこから抜き書き。

『コメッタ/FS1/フェド戦前モデル/フェド2/レニングラード/キエフⅡ/キエフ5/ゾルキー・フェド各モデル/上海/紅旗/リード/フォカ/モメッタ/デユフレックス/オペマ/ニコンS/ニコンS2/ニコンS3/ニコンS4/ニコンS3M/ニコンSP/レオタックスエリート/レオタックスG/タナックⅡc/タナックV3/ニッカ3/ニッカⅢL/キャノンⅣSB/キャノン7/ガンマ/アーガスC3/オリンパスワイド/オリンパスワイドS/エレットラ/カロワイド/ウェルミーワイド/マミヤワイド/マミヤマガジン35/ベッサR/安原一式/リコーGR1/リコーGR21/コンタックスT/コンタックスⅠ/コンタフレックスTLR/コンタックスⅡ/コンタックスⅡa/(ミラーアップした)ニコンF/(ミラーアップした)ミノルタSR1/アルパアルネア7/プラクチナ/コーワSW/カロT85 カロT100/カードン/カスカ1/カスカ2/エプソンR-D1(デジタルカメラ)/ベッサR3/ツアイス・イコン/ヘキサーRF/コンタックスG2』

 うーん、すごいなあ。つまりこれって総て田中長徳氏が実際に使ってみての評価であり、かなりの数のカメラは田中長徳氏が実際に「持っていた」カメラなんだなあ。さすがに写真家ならぬ「写真機家」田中長徳ならではの実績というか、放蕩三昧といえようか。普通の写真家だったらここまではカメラ道楽はしてないもんなあ。

 ニコンがS、S2、S3、S4、S3M、SP、Fというレンジファインダー時代から一眼レフの時代を切り開いた機種まですべてそろっているっていうのが、まあ、いかにも日本の写真家だなあっていうことではあるんだけれども、それと同時に、戦後のカメラシーンっていうものが、一眼レフ、レンジファインダー双方とも、ライカを除けば完全に日本のカメラメーカーが席巻していたんだってことがよくわかる。なんせ、フォクトレンダー、ツアイス・イコン、コンタックスという「精密機械という分野では世界に冠たる」ドイツのメーカーのカメラを日本の長野県のメーカーが作っていたんですよ。まあ、日本における長野県という場所が、ヨーロッパにおけるオーストリアやドイツの田舎なんかと地理的には同じような状況にあったということなんだろうか、なんかその辺は面白い状況ではある。

 まあ、さすがにここまで並べられてしまうと、その中で私が持っていたことがあるカメラっていうことになってしまえばコンタックスT、コンタックスⅡaに露出計を付けた(でも動かなかった)コンタックスⅢa、エプソンR-D1sくらいしかないんだが、まあ、そこにおける「偽ライカ」的なもの、「らいか」的なものの意味はよくわかる。

 つまりそれは「レンジファインダー機が実はカメラの理想である」ってことなんだ。

 どういうことかって言えば、一眼レフ方式のほうがレンズを通して見える画像がそのまま写真の画像になってしまうというのが、実は大間違いだってことなんであります。レンズを通して見えている画像は、いかにも写真画像そのものに見えるのであるが、実はそうではないということは撮影したフィルムを現像してみるとよくわかる。

「あれっ? 俺ってこんなものを撮ったのかなあ」

 なんて、自分の撮影した画像であるはずのものが、実は自分が確認した画像ではないっていうことに気が付くんですね。

 そこへいくと、レンジファインダーのカメラって、レンズが切り取る写真画像の周囲の画像までもがファインダーで確認できるんです。まあ、それだけファインダーとしては、写真画像にたいして「いいかげん」なわけですが、その「いいかげん」状態が、実は写真家を正常な心もちに安定させる理由でもあるんですね。

 そうです。一眼レフのファインダー画像を信じちゃいけない、ってことなんですね。

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PSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SCOPAR 21mm f4 @Yokohama ©tsunoken

『偽ライカ同盟入門』(田中長徳著/原書房/2005年4月1日刊)

2018年2月 3日 (土)

『仮想通貨に「信頼」は成立するのか』って? 成立するわけないじゃん

 今話題になっているのが、仮想通貨「NEM」ですね。

Nem

 ところで、この「仮想通貨」って何なんだろう。

 仮想通貨に対して「法定通貨」という言葉がある。

 法定通貨は発行体である政府や日本銀行などの、国の銀行などの信用に基づき価値が変動するのに対し、仮想通貨はプログラムの信用および投資家の需要と供給によって価値が変動しする。つまり、法定通貨は国や中央銀行が発行して、価値の保証をするのに比べて、仮想通貨はインターネットのプログラムが発行して、基本的には価値の保証をするのは仮想通貨をやり取りする双方の需要と供給によって保証されるっていうか、誰も保証しないシステムなんだ。

 法定通貨の価値を守るために国や中央銀行はいろいろ為替のやりとりをしたり、通貨の発行量を調整したりして、国の経済を守ろうとする。言ってみれば、それが国を国としてなさしめている証明でもあるからだ。従って、一つの国の中で、法定通貨以外の通貨が流通することは、その国の価値観を根底から覆すことになり、それは一種の革命と同じ意味を持つ。

 偽札づくりが重罪になるというのも、それが国の価値観を根底から揺るがす大犯罪だということからきている。

「通貨偽造罪
第百四十八条 行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2 偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項同様とする。
第百四十九条 行使の目的で、日本国内に流通している外国の貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、二年以上の有期懲役に処する」

 中国では仮想通貨は国家が認めていないし、仮想通貨を使ったり流通させるのは大罪になっている。

 それが日本では仮想通貨はなんで罰せられないのだろうか。

Photo 『仮想通貨に「信頼」は成立するのか』(岡田仁志著/ダイヤモンド社/2018年1月12日刊)本書は「DIAMONDOハーバード・ビジネス・レビュー」2017年8月号の論文を一部加筆、修正の上、電子書籍化したもののため、紙版の出版はありません。

 まあ、最初はそれが国際取引の際の決済通貨としてのみ使われ、なおかつそれほごく一部だけでしか使われていなかったからだろう。つまり、政府や日銀はそれを見逃していたんですね。それだけ「円」に自信を持っていたというか。

 ところが、2014年にマウントゴックスが事件化して、「被害者」というものが登場してしまい、国は慌てて対策を講じてきたんだが、今回コインチェックなんかの問題が出てきて、その対策だけでは間に合わなくなってしまったのであります。

 まさしく『仮想通貨に「信頼」は成立するのか』という問題なんだけれども……

『これまでの貨幣は物理的な媒体を有しており、媒体としての様式美を理解することが容易であった。これに対して、分散型仮想通貨における媒体とは、抽象的なブロックチェーンに記載された情報であり、言わば形而上の価値としての金銭的データが、同じく形而上的な存在としてのブロックチェーン上に存在するような構造となっている。このことが、分散型仮想通貨を貨幣として受け入れることを容易ならざるものにしている。
 限られたコミュニティの範囲内においては、分散型仮想通貨を無条件に受領するという約束が成立している。そこに属する人々は、分散型仮想通貨の様式美に信頼を置き、ブロックチェーンと呼ばれる台帳に金銭的価値が化体する将来を見通しているかもしれない。しかしながら、分散型仮想通貨が貨幣としての信頼を得る状態というのは、社会的な約束としてブロックチェーンに価値が化体したと扱われる状態を指す。現状においては少なくとも、そのような兆しは見られないと考えるのが自然であろうか。』

『分散型仮想通貨に特有の不可解な構造は、形而上学的な概念が生活に入り込んできた稀有な事例である。それが特定の企業が提供するサービスであれば、我々は主体の信用を基準に判断すれば足りる。しかし、社会システムとして主体を持たないサービスが登場した時、我々はその信頼を判断するための新しい尺度を持たなければならない。 分散型仮想通貨の登場は、我々に対する次世代からの挑戦状なのかもしれない。』

 という具合に本書では結論付けている。

 まあ、仮想通貨は「現状では信頼に値する存在ではない」という見方もできるわけだ。で、あとは海外送金でもする必要のない一般の人は投機の対象にでもするしかないということなのだろう。

 じゃあ、投機として仮想通貨とどう付き合えばいいのか? う~ん、あまり短期の投機はせずにいるほうが本当はいいんだが……。つまり、それは株式投資と同じっていう意味でね。

「下がったら買い、上がったら売りっ」てやつである。下がったら、みんな慌てて売りに走る、売りに走るから、どんどん下がる。なのでそこは「買い」。上がったら、みんな「もっと上がるだろう」と持ち続ける、持ち続けるから、持ち続ける間はそれ以上あまり上がらない。なのでそこは「売り」なんですね。これは仮想通貨も株式も同じなんですね。

 取り敢えず、仮想通貨なんかは信頼しないで、取り敢えず投資ですね。

『仮想通貨に「信頼」は成立するのか』(岡田仁志著/ダイヤモンド社/2018年1月12日刊)本書は「DIAMONDOハーバード・ビジネス・レビュー」2017年8月号の論文を一部加筆、修正の上、電子書籍化したもののため、紙版の出版はありません。

 仮想通貨についてはもう一度、今度はちゃんと書きます。テキストは上の野口悠紀雄さんの本。

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