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写真・本

2018年9月11日 (火)

『岩波写真文庫』は写真の原初を思い起こさせてくれる

「復刻版 岩波写真文庫」には様々の復刻版があって、その復刻版自体も絶版になったりしていて、訳が分からなくなっている。

 取り敢えず著名人がセレクトした復刻版としては「森まゆみセレクション」「山田洋次セレクション」「川本三郎セレクション」がそれぞれ一種類づつ、「赤瀬川原平セレクション」が二種類出ていて、今日紹介する「田中長徳セレクション」と合わせて、5セレクション、6タイトルがある。

Photo 『復刻版 岩波写真文庫 田中長徳セレクション』(田中長徳・選/岩波書店)

 田中長徳セレクションは、「写眞」(1950年7月30日刊)、「レンズ」(1950年9月30日刊)、「本の話」(1953年11月15日刊)、「やきものの町-瀬戸-」(1955年10月25日刊)、「パリの素顔」(1956年7月25日刊)の5冊。

 各巻の関東には、選者の田中氏が「まえがき」にあたる「選者からのメッセージ」が掲載されており、巻末には森仁史による解説的な「写真文庫ひとくちばなし」が掲載されている。あとは、普通に「復刻版 岩波写真文庫」のままである。まあ、復刻版なんでそれは当たり前か。

「写眞」とか「レンズ」が前の方に来るのは、さすがに写真家だけはあるのだが、そうは言っても、「写眞」の前書きに記されているのは監修の名取洋之助と写真の木村伊兵衛の相克の話というのが面白い。

『本書が面白いのは、監修は名取洋之助、写真は木村伊兵衛とあることだ。その全部が全部ではないにせよ、スナップの名人の木村先生も仕事となれば、色々な写真を撮らなければならなかった。
    <中略>
 名取はドイツ仕込みの正統派の報道写真であるから、それに付ける説明文でその写真はどの方向のプロパガンダにも使えることを実際の写真とそのキャプションを何例か示して、ある写真を良い意味にも報道でき、逆に悪い意味でも報道できることを書き分けている。』(岩波写真文庫 8『写眞』より)

 というのは、まさしく私が現在言っていることそのものなのだ。まあ、木村伊兵衛氏のスナップ写真が何かの思想を物語っているのかと言えば、スナップ写真自体にはそれほどの意味はないはずなんだが、しかし、それに何らかのキャプションをつけることは可能であり、そのキャプション自体の方向性によっては写真が「何か」を物語っているようにも意味付けするようにできてしまうのだ。

 それはさておき……

『16頁に「実存主義スタイル」とキャプションが付いた、サンジェルマンあたりを行くパンツルックの女性と、ブルゾンの男性のスナップがある。今ならユニクロファッションで普通に見えるスタイルだが、その源流はここ巴里にあったのかと感心した。そう言えば論客のサルトルさんだって、当時はごく普通の背広を着ていたのだから』(岩波写真文庫 194『パリの素顔』より)

 という田中氏の書き方には笑ってしまいますね。

 田中氏が書いた部分のキャプションは……

『道路劇場

 ところで通りは確かに面白い。テラスでじっと見ているとあらゆる人間が通る。あらゆる人種が、あらゆるファッションが通る。あらゆる髪が、あらゆる鬚が通る。あらゆるハンド・バッグが、ズボンが、靴が通る。通る身になるとまた面白い(カフェのテラスの前だけは足が速まる)。あらゆる店が、あらゆる品の並べ方をしている。新聞雑誌屋、花屋、果物屋、富籤屋が大道でせわしげに人を呼ぶ。黙々として歩道に色チョークで絵を描いている男がいる。これもエコール・ド・パリの一画家か。思い出したように小銭が側の木箱の中に投げ込まれる。』

 というんだが、なんかこのキャプション自体が、なんか詩的じゃないですか?

 さらにこの本の田中氏の「選者からのメッセ―ジ」は

『これはパリというよりも巴里ですね。戦前の巴里は実に輝いていた。そして遠かった。なにしろ「仏蘭西ゆきたくても仏蘭西はあまりにも遠かった」のである。船で片道が四十日もかかるのだからこれは遠い。遠いからこそそこに価値が生まれた。戦前の小説などでは、仏蘭西文化の研究に熱き血を滾らす一青年が、手練手管を使ってお金持ちに援助をさせて、それが功を奏して、いざ! これから巴里に行くぞ! というところで終わっているのがある。実際に巴里に行くよりも、そのお膳立てだけで立派に小説になってしまうのである。それほどに巴里は遠かった。』

 というもの。

 そんな「遠い」巴里まで、現在は半日のフライトで到着してしまう。今や、パリやローマだろうがニュー・ヨークだろうが、ロンドンだって、ヘルシンキだって、別に「その気になれば、誰でも、すぐに」行けちゃう時代なのである。

 それでも、未だに人を惹き付ける魅力のあるパリってなんなんだろう。いやあ、またパリに行きたくなっちゃったなあ。もう何年ぐらい前だったんだろう、前回パリに行ってきたのは。

 まあ、「スナップの名人の木村先生」の先達に当たるアンリ=カルチエ・ブレッソンがいたパリなのだ。一方、その先達に追いつけ追い越せじゃないけど、いまの若い人たちにとってはパリよりはエキサイティングな街としてはニュー・ヨークなのかなあ。

 でも、考えてみるとそれって単なる「逃避願望」なんですね。

 なんか、今いる自分の町では撮るものもなくなった気がして、どこか他の町へ行きたくなるっていう、私が毎日行っている「逡巡」そのものなんですね。

 本当のスナップていうのは、アンリ=カルチエ・ブレッソンがやっていたような、「パリに住んで、パリの写真を撮り続ける」っていう、それこそ「スナップ写真の王道」なんでありますね。

 でも、私たちの至らなさ加減と言えば、「今の場所でいい写真が撮れない原因は、今の場所には撮るべきものはないからだ」と考えて、いろいろ撮影場所を変えてしまうところなんだなあ。

 その辺が「佃に住んで、佃周辺をばっかりを撮っている」っていう田中長徳氏の撮影スタイルに現れているのだろうか。

 とは言うものの、毎日毎日「今日はどこに撮影に行こうかな」なんて考えている私は何なんでしょうね。

 もうバカとしか言いようがないな。別に、「駒込周辺+東京都」でいいじゃん……、でもねえ。

『復刻版 岩波写真文庫 田中長徳セレクション』(田中長徳・選/岩波書店)

2018年9月10日 (月)

『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』岩波写真文庫が象徴するもの

「岩波写真文庫」って、今から考えると随分ユニークな叢書である。

「アサヒグラフ」などの大人向けグラフ誌でもないし、子供向けに世の中のいろいろな状況を教えてあげようという岩波らしい教養主義的な叢書なんだが、それをすべて写真で知らせようというのがその目的。

 まあ、当時はアナログフィルム写真という手段がニューメディアだったんだろうな。既に戦前からグラフジャーナリズムというものを手掛けていた名取洋之助が立ち上げた、新たなグラフジャーナリズムが「岩波写真文庫」っていうことなんだろうか。

『岩波写真文庫(いわなみしゃしんぶんこ)とは、岩波書店が1950年代に出版していたテーマ別写真集叢書(カラー写真は使われていない)。編集長は名取洋之助。1980年代以降度々復刻版が出されている。
B6判64頁で、1950年(昭和25年)から1958年(昭和33年)まで286巻が出版された。1冊100円。』

Photo 『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見』(赤瀬川原平著/岩波書店/2007年9月27日刊)

 その286巻のうち赤瀬川原平氏が自らの興味に従いセレクトして、それについて言及したのが本書である。岩波「世界」に2年間にわたって連載をし、そこで取り上げた叢書のタイトルは当然24あるわけで、言ってみればその後の「岩波写真文庫セレクション」という復刻版シリーズの「はしり」がこの本だといっていいだろう。

 本書で扱っているテーマ及び本のタイトルは以下の通り。

アメリカ人の生活を見る・岩波写真文庫5『アメリカ人』1950年6月10日/捕鯨船団ヤマトの時代・岩波写真文庫3『南氷洋の捕鯨』1950年6月10日/肖像からはじまった写真・岩波写真文庫8『写眞』1950年7月30日/電気がまだハダカだった・岩波写真文庫190『家庭の電気-実際知識-』1956年6月25日/日本人はなぜ野球が好きなのか・岩波写真文庫36『野球の科学-バッティング-』1951年7月10日/車が自動車だったころ・岩波写真文庫94『自動車の話』1953年9月30日/むかし見た明るい夢・岩波写真文庫65『ソヴェト連邦』1952年9月30日/黒々として神々しい巨大獣・岩波写真文庫21『汽車』1951年4月20日/靴ぴったり至上主義のころ・岩波写真文庫118『はきもの』1954年7月20日/芸術も前進の時代だった・岩波写真文庫78『近代藝術』1953年1月5日/不潔でも逞しかった蛔虫時代・岩波写真文庫44『蛔虫』1951年10月5日/日本列島初の同時多発フォト・岩波写真文庫183『日本-1955年10月8日-』1956年4月25日/交通巡査の立っていた東京・岩波写真文庫68『東京案内』1952年7月25日/電話番号の下に(呼)があった・岩波写真文庫34『電話』1951年6月30日/どこを写真に撮っても様になる・岩波写真文庫194『パリの素顔』1956年7月25日/産業革命を率いた王様。岩波写真文庫49『石炭』1951年11月25日/鉄と海が相手の職人魂・岩波写真文庫67『造船』1952年6月20日/真実の漏れ出る部分・岩波写真文庫13『心と顔』1951年2月20日/子供特派員の目の輝き・岩波写真文庫199『子供は見る』1956年9月25日/玉音放送を聞いて家路に・岩波写真文庫101『戦争と日本人―あるカメラマンの記録―』1953年8月15日/排気ガスの代わりに馬糞があった・岩波写真文庫48『馬』1951年12月1日/団塊世代が一年生だったころ・岩波写真文庫143『一年生―ある小学教師の記録―』1955年3月25日/塩分欠乏でへたり込んでいた・岩波写真文庫193『塩の話』/深山幽谷から色香まで・岩波写真文庫213『自然と心』1957年1月25日

 ちなみに、岩波写真文庫の第1号は『木綿』、第286号は『風土と生活形態―空から見た日本―』。それぞれの号数ごとのタイトルを追ってみるんだが、あまり前後の関連性はない。まあ、なんとなく企画会議で「次何やろうか」的な話し合いのうえでテーマを決めたんじゃないかな。

 1950年から1958年という岩波写真文庫の発刊時には、赤瀬川氏は13歳から21歳ということなので、もしかすると人生で一番感性が鍛えられる時期かもしれない、それなりに物心ついていた時期から大人になるまでの期間だったということになるので、まさにその時期に、それぞれの事象を体験しながら生きていた、ということで岩波写真文庫について語るっていうのには一番相応しいかもしれない。

 私は1951年生まれなので、当然ながら岩波写真文庫については発刊当時には知る由もなく、後にそれなりの年齢になってから、初めてその存在を知ることになった。しかし、そこに綴られていることについては、結構、私なんかでも知っていること、経験していることなんかも多くあった。まあ、その辺が、このシリーズが「団塊の世代」のオジサンたちに読まれて、なおかつ復刻版シリーズが出ている理由なんだろうな。

 まず最初に『アメリカ人の生活を見る・岩波写真文庫5『アメリカ人』1950年6月10日』が置かれているのもむべなるかなである。

『この写真文庫の始まりは一九五〇年の六月で、リストを見ると最初の五冊刊行に中に『アメリカ人』というのがある。
 まずはそうだろう。アメリカ、アメリカ人というのが、日本ではいちばん珍しいものだった。戦争で全力を尽くして敗けた相手。敗けてみれば相手は強大であり、その後は圧倒されるような近代文明が流れ込んでくる。日本の戦後はそれに憬れることから始まった。』

 要はあの、コーンパイプを口にして厚木飛行場でダグラスDC-3を降りてくる……、あるいはGHQに接収された第一生命ビルの中で、開襟シャツで(日本国民全部の父親である)モーニングという正装の日本天皇と並んで撮影された新聞写真に写されているダグラス・マッカーサーの姿に象徴されるものが「アメリカ」なのである。つまりそれは(体が、国が)「大きい」のと同時に(態度が、考え方が)「尊大である」というものがないまぜになって、しかし、日本は絶対にそれに勝てないだろうという諦念がそこにはある。

 その数年前までは日本が東亜の中心だったものが、戦争に敗けた途端、世界の中心はアメリカになってしまい、その歴史がその後70年続き、今、その歴史が終わろうとしている。

 そんな70年の日本の歴史の出発点がこの岩波写真文庫にはある。

 今、日本ではSNSのおかげで再び写真文化花盛りではあるけれども、しかし、それが民主主義というものにつながっている写真文化なのか、あるいは新たな「見えないファシズム」につながっている写真文化なのかは、未だ、誰も分からない。

『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見』(赤瀬川原平著/岩波書店/2007年9月27日刊)

 こちらもどうぞ。この他にも、「山田洋次コレクション」とか「森まゆみコレクション」とか、「川本三郎コレクション」などの復刻版があります。「田中長徳コレクション」にかんしては明日のブログで。

『岩波写真文庫 田中長徳セレクション』

2018年9月 3日 (月)

『町の残像』が残すもの

 なぎら健壱氏の「日本カメラ」連載のフォトエッセイの単行本である(現在は「ジグザグな日々」というタイトルで継続中)。

 しかし、なぎら氏自身、自分が「何の人」なんだか分からなくなっているのではないか。フォークミュージシャンであり、旅するタレントであり、写真家であり、エッセイストでもありという、まあ、いってみれば私たちの理想の生き方でもある。

 なんせ、普通の人なら「趣味」であるものが、すべて自分の職業になっているんだもんなあ。羨ましい。

Photo 『町の残像』(なぎら健壱著/日本カメラ社/2017年3月20日刊)

 本の中に使用しているカメラを紹介しているコーナーがいくつかある。

『町の残像的カメラ遍歴』

「その1」
シグマ SD15/シグマ DP1 Merrill/オリンパス STYLUS XZ-10/ライカ M9-P/オリンパス OM-D E-M5/ソニー Cyber-shot DCS-RX 100

「その2」
ニコン Df/オリンパス PEN E-P5/シグマ dp1 Quatro/リコー GR/オリンパス OM-D E-M1/ソニー Cyber-shot DSC-RX1

「その3」
オリンパス PEN-F/フジフィルム X-Pro2/シグマ sd Quattro/オリンパス OM-D E-M5 Mark Ⅱ/ニコン NIKON 1 J5/シグマ dp0 Quattro

 とまあ、18台のカメラがズラッと並んでいるんだが、ちょっと待てよ、なぎら氏は1952年生まれ、ということは私より1歳年下。ならば、当然写真生活の初めはフィルムカメラのはずである。ならば、上記のデジタルカメラ軍団の前に何台あるかが分からないが、フィルムカメラ軍団があるはずで、それらを入れると何台になるんだろう。

 しかしまあ、見事なカメラ・グルマンぶりではある。グルメじゃなくてグルマンね。もっとも、上記のカメラ群は雑誌の連載用に使ったカメラなので、すべてデジタル。まあ、今はデジタルカメラの方が雑誌的には受け入れやすい方式なのでしょうがない。むしろ、上記のカメラ群に行きつくまでのなぎら氏のカメラ遍歴ってどういったものなのか、なんてことが気になってしまうんだが、どうだろうか。

 なぎら氏はもともとは木挽町(歌舞伎座の辺り)の生まれで、金町で育った人だ。つまり、今風にいうところの「江戸っ子」だ。だから「私」を「あたし」という。これはいわゆる「下町弁」である。いいね。

 で、じゃあ東京の下町ってどうなんだろう、というと。

『葛飾区に立石という町がある。京成電車がはしり、三つ先の駅が寅さんで有名なあの柴又である。寅さんか、はたまたこち亀の影響か、葛飾は下町と呼ばれるようになったが、葛飾は本来下町ではない。東京の東部の外れに位置し、かつては在郷であった。しかし、本来の下町が下町色を失った今、その風情を残している場所が下町とは無縁であっても、下町と呼ばれるようになってしまったのである。
 下町とは御城下町のことである。もっとも江戸の場合、これを「ごじょうかまち」と呼ばず、「おしろしたまち」と読んだ。つまり、お城から見下ろす場所、江戸城の東側の低地を下町と称したのである。』

 といって、いわゆる「下町風情」がどんどん失われてゆく東京の「下町」を、しかし、嘆いている気持ちはないのだ、それは一種の「やむを得ないこと」なのである。

『ここにあるものは記録ではない。記録になりえたとしても、記録ではない。言ってみれば記憶である。または残像でもある。自分の記憶であるとともに、みなさんの記憶であってもいただきたい。好いものが失われる。それをなくすなということを声高にするつもりなど毛頭ない。なくなるにはそれなりの理由があるからと知っているつもりである。また、そこを掘り下げるほど野暮だとは思っていない。』

 見慣れた風景が失われていくことは、勿論、寂しいことではある。しかし、だからといってその風景が失われることに対する抗いをするつもりはない。何故か。それが実はその町が進化してその果てのことだからなのである。

 勿論、そこで町の変化が終わるわけではない。その後も、ますます進化して、新しくできた景観もまたその役割を終えると、その景観は失われるのである。

 それが町というものの宿命である、というのが東京の下町育ちの考え方なんだろう。

 私も同様に街の変貌は仕方のないことであり、それを防ごうとしても、それは意味のないことであると考えている。というか、まあ、それはたんなる「抗い」にすぎないことなのである。

 で、実はこの辺の考え方が「下町風」なんですね。「万物流転」というのは仏教の考え方なんだが、そんな生き方を延々としてきたのが庶民の世界であり、ようは下町の生き方なのである。

『町の残像』というタイトル通り、本書は失われてゆく街の姿を捉えているのだが、それを「詠嘆」とともに写し撮っているのではなく、かといって「必然」として写し撮っているのでもなく、たんに「移ろいゆくもの」として淡々と写し撮っている姿に共感できる。

『写真展『街の記憶・建物の記憶』にこんなコメントを添えた。
「古いものは淘汰される運命にある。それらを失うということは、歴史や文化、人の暮らしまでをも一緒に持っていってしまうことになる。(中略)しかし東京にはまだ、その運命から外れたものがいたるところに潜んでいる。そこに眼を向けたい、いや、そこに眼を向けなければならない。東京が完全に東京らしさを失う前に……」』

 しかし、「東京らしさを失った」街も、実はそこにあるのはやはり東京なのである。常に変わっていくことが東京らしさであり、そこに住まう私たちはそうした変化自体が東京である、ということを受け入れて生きていかなければならないのだ。

『町の残像』(なぎら健壱著/日本カメラ社/2017年3月20日刊)

2018年7月 8日 (日)

『ツァイス紀行』の「ニューヨーク体験」……いいなあ、こういうの

『実は、今回のニューヨークの撮影は、話題の新カメラ「ツァイスイコン」による写真集というのが当初の計画であった。テストのカメラが間に合わないという事情で、ツァイスZMレンズでの撮影ということになった。ただし、ツァイスイコンは前回のフォトエキスポに展示品(実働品)があったし、2004年のエプソンR-D1の立ち上げの時には、私は無理を言って、その試作品を借り出している。今回、テスト機が借りられなかったのは、大胆な予想をすればそこには「大幅な手直し」があるのかも知れない。一番、分かりやすい生産者側の手直しというのはカメラの名前がかわることである。つまりツァイスイコンではなく「コンタックス〇型」として登場することだ。』

 というのは残念ながら当たっていなくて、まあ、田中氏にはその(コシナ製)ツァイスイコンの「大胆な手直し」の理由は分かっていて、そこは「大人の事情」で文章にはしなかったんだろう。

 まあ、そういう理由で「Carl Zeiss ZM Lens X Zeiss Icon」じゃなくて「Carl Zeiss ZM Lens X Leica」ということになったんだろうな。ちょっと残念な……、でも「写真はカメラで撮るんじゃない。レンズで撮るんだ」という、日々私が言っていることを、田中氏が実践しているっていうわけ。

Photo 『ツァイス紀行 Carl Zeiss ZM Lens X Leica in New York』(田中長徳著/枻文庫/2006年1月30日刊)

 ということで本書のまず最初に「ニューヨーク行のカメラとレンズたち」という紹介がある。

 カメラはライカM3、ライカM3オリーブ、ライカMD、ライカM2、コシナ・ベッサR3A、レンズはカールツァイスビオゴン28mmF2.8、カールツァイスビオゴン25mmF2.8、カールツァイスビオゴン21mmF2.8、カールツァイスビオゴン35mmF2.8、田中光学・タナー50mmF2、ニッコール135mmF3.5(ライカスクリューマウント)というラインナップ。要は、レンジファインダーカメラっていうのは広角用のカメラだってことですね。

Photo ©Chotoku Tanaka

 ただし、ニューヨークで購入した中古レンズなんかもあるし、本を読み進めるとエプソンR-D1で撮影に行くシーンなんかがあるのだが、もしかしたらそれはコシナ・ベッサR3Aの間違いかななんていう風にも思えてしまう。エプソンR-D1だと撮像素子がAPS-Cなので同じレンズを使っていても画角が変わってしまうので、ちょっとした注意が必要だ。写真家が撮影旅行の途中でそんな自ら間違いを犯すような機材選択を行うのだろうか。勿論、35mmカメラと6X6(あるいは6X7や6X9)などフォーマットの異なるカメラを同時に扱うということはあるだろう。ただし、それは明確にフォーマットが異なるということが前提になっているカメラの使い分けであるので、35mmとそれに近いフォーマットだとちょっと勘違いをしかねないという気がするのだが、どうなんだろうか。まあ、単なるシロートの余計なお世話であるのかもしれない。

 結局、コシナはカールツァイスのカメラとか、コシナ・ベッサも現在は製造していない。その裏側にどんな事情があるのかは私なんかの素人の知るところではないが、フォクトレンダーやカールツァイスのレンズは今でも製造しているんだから、別にカールツァイスとの会社同士の関係は別に悪くはなってはいないのだろう。だったらコシナ・ベッサも引き続き作ってくれればいいのに……、っていうのはウソで、本当はエプソンR-D1の後継機で、35mmフルサイズのレンジファインダー・デジタル(つまりR-Dですね)を出してくれればいいのにね、ってことなんだけれども……。

 本書は2005年4月12日から4月27日まで、カールツァイスの(ワイド)レンズでもってニューヨークを切り取るという企画でニューヨークを訪れた撮影行をまとめたものである。面白いのは「Manhattan Diary」というタイトルで4月12日から18日まで毎日つづられている日記が、何故か4月19日から26日までが欠落して4月27日になる全部で9つと、もう一つは、田中氏が1982年から1年間、そして1989年、1997年、2005年に訪れたニューヨークの思い出と、今回の訪NYなどをともに語るエッセイの部分に分かれていること。それが適当な配分で一冊の本の中に配分されているのだ。

 つまり、読む側としては、まずマンハッタン・ダイアリーでもって、文章と文章の間に掲載されている写真を見るわけだが、その次には通常のエッセイを読みながら、もう一度、同じ写真を見ることになる。

 えっ? そういう読み方はしない? う~ん、そうなのかなあ。しかし、私にとっては、やはり本を読むときの興味の持ち方からすると、まずダイアリーでもって、だいたいどんなニューヨーク行だったのかをつかんで、そののちにじっくりエッセイを読もうという気になるのだ。で、結果として写真を二度見るということになるのだ。いやあ、これはじっくり写真を見るのには結構使える方法なのだなあ。なんかこういう「分割した本の構成」というものを「写真集+エッセイ集」ではとっていただけると、読者としては「二度楽しめる」ってなもんで、コストパフォーマンスが上がりそうだなあ。

 しかし、数回、短期間滞在したというだけの私の乏しいニューヨーク体験では、じゃあ、本書を読んでニューヨークの実像(ったってそれはそれで私の体験ということでしかない)と、田中氏の見てきたニューヨークというものの、違う点と同じ点を見比べるなんてことはできはしない。更に、私の体験では、田中氏のようにWTCのツインタワーがあった頃と、なくなってしまったちょっと前と、7つもののWTCビルを再建建築中の現在などを比較することはできない。

 ただ、深夜仕事を終え、タクシーで帰宅する途中でWTCビルへのイスラム教徒の特攻を知り、その映像を見た時のショックだけは残っている。太平洋戦争中に生まれていた人たちにとっては当たり前のような風景であるかも知れなかった、「自らの国・都市が戦場になる恐ろしさ」というものを、私がいるのは別にニューヨークからはるか離れた東京なんだが、何故か戦慄を感じながら、そのニュースを見ていた。イスラムの人たちにとっては当たり前の「自分の町がよその国から攻撃を受けて戦場になる」体験を、生まれて初めて体験するニューヨーカーのショックぶりというものが、何故か共有できたような気がしたのだった。

 そんなニューヨーク体験をヴァーチャルで持てるかもしれないというのが、ニューヨークの(撮影者がだれであれ)写真集ではある。様々な写真家が出しているニューヨーク写真だが、そのなかの十分存在感のある一冊にはなっているのかなあ。

 というか、まあ、私はツインタワー亡き後のニューヨークは行ってないんだったなあ。久しぶりにニューヨーク行ってのもいいなあ。っていう、ニューヨークとかパリとかロンドンとかミュンヘンとかの「都会の写真」は私にとっては、まさしく「旅情を誘う写真」なんだなあ。

 まあ、モノクロでなかったのがちょっと残念なんだけれどもね。

『ツァイス紀行 Carl Zeiss ZM Lens X Leica in New York』(田中長徳著/枻文庫/2006年1月30日刊)

 

☆現在は新刊は手に入らないので、古本で買うか、枻文庫のサイトから電子版(PC、iPhone、Android それぞれあり。Kindle版はなし)で。

2018年6月11日 (月)

デビッド・ダグラス・ダンカン逝く

「ライフ」誌のカメラマンとして知られ、第二次世界大戦の降伏文書調印のミズーリ号艦上で署名の写真で有名な、朝鮮戦争やベトナム戦争の戦争写真で知られるデビッド・ダグラス・ダンカンが、南フランスの病院で逝去した。享年は102歳だったそうだ。

Rimg00032 『Photo Nomad デビッド・ダグラス・ダンカン写真集』(デビッド・ダグラス・ダンカン著/求龍堂/2003年12月6日刊)

 デビッド・ダグラス・ダンカンと言えば、日本のニコンを世界のニコンにした大立役者として知られている。

『ライフの報道カメラマンであった三木淳が、1950年のある日、敗戦後の日本を紹介するためにライフから派遣されてきたデイビット・ダンカン(David Douglas Duncan)とコーヒーを飲んでいた。三木は戯れに自分のライカ3Cに、友人が持っていたニッコール85mmF2をつけてダンカンを写した。ダンカンは「Oh Japanese Sonnar?」と笑っていたが、その時はそれほど関心を示さなかった。ところが翌日、引き伸ばして彼に見せると、ダンカンはびっくりした。これがあの時のニッコールかと信じられない風であった。

 三木はダンカンを連れて大井の日本光学をたずねた。出迎えた長岡正男社長は、投影検査室へ彼らを案内して、数本のニッコールレンズでチャートを投影して、解像度、収差などを確認させた。その優秀な値を目の当たりにして、ダンカンはびっくり、さらに自分のライツのレンズも試したが、ニッコールの数値がそれを上回ったのには信じられないという風情であった。彼はその場で数本のニッコールを買い求めた。

 そんなことがあってすぐ、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。東京のタイム・ライフ支社は大忙しになった。カメラマン達は、朝鮮戦線で撮った写真を東京へ持ち帰り、三木達がそれを引き伸ばして、電送でニューヨークの本社に送る。1日の時差があるから、当日のニューヨークタイムス朝刊の1面を飾るのである。もちろんライフのクレジットを付けて。

 タイム・ライフ本社から問い合わせがきた。このレンズはいつものレンズとは違って大変シャープだ。一体何を使っているのだと。ダンカンは日本のニッコールだと返信した。ニューヨークタイムスが12月10日号でそれを大々的に報じて、ニッコールは一躍世界の舞台に躍り出た。ニコン神話の始まりである。この時ダンカンはライカ3Cにニッコールを付けて撮ったのだが、彼に続くカメラマン達は争ってニコンSとニッコールを買い求め、さらに評判を確固たるものにしていく。

 それまでは「安かろう、悪かろう」と言われたMade in Japanだったが、これを契機にそのイメージはがらっと変貌し、世界に冠たるMade in Japanとして羽ばたくのである。物作り日本の原点がここにある。』(「クラシックカメラ銘々伝」より)

Photo

 ニコンは当然のことながらダンカンへの謝辞を含めて以下のような弔辞をサイトにUPした。

デビッド・ダグラス・ダンカン氏のご逝去の報に接して
2018年6月8日
この度の訃報に接し、痛惜の念に堪えません。
ダンカン氏は1916年生まれ。アメリカの報道写真の第一人者であり、従軍写真家として太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争などを撮影、その作品はニューヨーク・タイムズ紙、ライフ誌などに発表されました。 またピカソの肖像写真の撮影でも知られています。
1950年、ライフ誌の写真家として来日した折、NIKKORレンズの高い性能を見いだし、ニコンが世界に認められるきっかけを生み出した、ニコンにとっての大恩人です。
その後も報道写真家として活躍するダンカン氏とニコンは、長きに亘って絆を深めてまいりました。ここにあらためて、享年102歳のダンカン氏が世界のジャーナリズムに与えた多大な貢献を称えるとともに、互いに一世紀以上を生き抜いてきた盟友として、心からのご冥福をお祈りいたします。』

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 まあ、我々のような素人カメラマンからすれば、「戦争フォトグラファー=デビッド・ダグラス・ダンカン」は余りにも偉大な存在で何も言うことはできないが、その一方では、「なあに、生まれた時代が良かっただけなのではないか。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争という、まさしくフォトグラフィックな対象に恵まれた時期に生を受けたからこそなんだ」という思いもある。

 いやいや今でもアジアや中東では戦火は絶えない、戦争カメラマンになる方法はいくらでもある、というけれども別に戦争カメラマンを本人が目指すということもないだろう。むしろ、気が付いたら戦争カメラマンになっていたというのが実際のところ。今でも、戦争の姿を求めて赴いているフォトグラファーは、たしかに多くいるんだろうかれども、そんな有様を日常的に見ていると、もしかすると戦争自体が日常的な姿に見えてしまうようになるのかもしれない。まあ、そうなってしまうと戦争ジャンキーなんだが、そこに至る少し前で自分を抑えている人たちが、いわゆる「戦争カメラマン」なのだろうなあ。

 1930年代の若い頃、(今では)大型の乾板カメラを構えるダンカンの姿に始まって、1940年代に戦争カメラマンとしての生活をスタートしてからのライカやローライフレックスを構えたスタイルから、最後はライカのコンデジX2を構えているダンカンという、なんかコンパクトカメラの歴史そのものみたいな写真集ではある。

 最後は愛犬トールの写真、「もう一度、グッドバイ。トール。君のポートレイトは今でもお気に入りだ。」

『Photo Nomad デビッド・ダグラス・ダンカン写真集』(デビッド・ダグラス・ダンカン著/求龍堂/2003年12月6日刊)

2018年4月 9日 (月)

『ロシアカメラの世界』の危険な魅力

 家の近所の中古カメラ屋さん「ハヤシ商事」で500円で買った本。Amazonで見たら稀観本扱いで2,580円~43,594円もする。たかだか64ページのブックレットにこのお値段って、凄いことになっているなあ。

Rimg00152『ロシアカメラの世界 隠れた人気の秘密』(山本省三著/企画・編集:ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会/東洋書店/2004年2月20日刊)

 だいたい、ユーラシア研究所って何なんだ?

『1989年1月、総合的なソ連研究を目的とした民間の研究所としてソビエト研究所が設立されました。当時、ソ連ではペレストロイによる改革が進行中で、日本でも日ソ関係の好転のためにその改革に期待をかける人々が少なくありませんでした。しかし、ソ連再建をめざしたペレストロイカの行き着いた先は、皮肉にもソ連崩壊でした。
 1993年、研究所はユーラシア研究所と改称し、主としてロシアをはじめ旧ソ連を構成していたユーラシア諸国についての研究と学術交流を引き続き行うとともに、「日本国民とユーラシア諸国民との相互理解と友好の発展」という観点から、ユーラシア諸国に関する正確な知識の普及に努めています。
 この地域についての情報がまだまだ断片的で限られた分野のものにとどまりがちななかで、今回のブックレット刊行は、ロシア・ユーラシア諸国に関する多面的な情報を提供するだけではなく、日本ではあまり知られていないこの地域の広くて深い世界を楽しんでいただくことをも目的としています。読者のみなさんが、このブックレットをつうじてユーラシア諸国の隠れた魅力を発見してくだされば、と願っております。
 21世紀は、アジア・太平洋の平和的環境を恒常化し、日本とロシア・ユーラシア諸国の共生の条件を作り出す時代となるでしょう。その意味でも2000年にこのブックレットを発刊する意味は大きいと自負しています。
        ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会』

 というのがユーラシア研究所による、ブックレット刊行宣言であります。ところが東洋書店は2016年に倒産してしまい、その事業は例の「トバシ記事」で有名な『サイゾー』の発行元である株式会社サイゾーが引き継いで東洋書店新社として継承しているのだが、東洋書店時代の本については引き継いでおらず、この「ユーラシア・ブックレット」もサイゾーとしては扱っていない。なので、稀観本扱いなんだが、刊行当初(各600円)より安い値段で中古カメラ屋さんで売っているんでは、まあ古本屋さんも困ってしまうだろうが、買うほうにとってみれば同じ本が安く買えるんであれば、こんなにいいことはない。

 ユーラシア・ブックレットは全部で60巻あり、そのほとんどがロシア・ユーラシアの芸術・文化・経済・科学技術などを扱った「真面目な本」なんだが、何故かその60巻目だけが「ロシアカメラの世界」っていう、趣味丸出しの本になっているのが面白い。

 扱っているカメラは以下の通り。

「レニングラード、キエフ、ガリゾント、フェド、ゾルキー、キエフ中判」などといった、ドイツのライカやコンタックス(カール・ツァイス)、スェーデンのハッセルブラッドなどといったコピーカメラからLOMOが作っている最近のトイ・カメラまで、まあ広範囲にではないが、ロシアカメラ入門者用にはこれで必要最低限の知識はつくだろう。

 勿論、「写真は写真機ではなくレンズで撮る」以上は、そのレンズについて触れなければならないわけで、オリジナルとコピー・レンズの撮影比較が付いているのは親切。まずコンタックス用の「ゾナー5cm f2.0 vs. ユピテル-8M」、ライカLマウント用の「エルマー50mm vs. インダスター22」、ハッセル・コピーのキエフ88用の「アルスタット30mm f3.5」、中望遠の「ユピテル-9 85mm f2.0 vs. ゾナー85mm f2.0」。その他、スメナ8M、ルービテル166Uなどといった、私が知らないカメラやレンズの話もある。

 そもそも山本省三氏がなぜロシアカメラ・フェチになってしまったのか。もともと山本氏はヤマハに在職していたのだが、希望退職制度に応じて同社を退職。

『新しい私の職場はソビエト連邦との国交が回復した昭和三十年初期に革新系国会議員H代議士がソ連との文化の架け橋として機能する音楽輸入商社をと設立したのが起源で、その後、業容の変化はあったが、現在も旧ソ連圏から音楽メディアを輸入し、販売している会社である。

 カメラが生涯の趣味である、と自負する筆者がロシア関連の仕事をしていて、ロシアカメラから目をそむけていられるはずも無い。なぜならソビエトのカメラはその起源をドイツの技術を模倣することに始まり。大祖国防衛戦争勝利により工作機械も部材もまた技術者までも接収、生産を開始した経過があり、ツァイス直伝のレンズ群、コンタックス直伝のキエフボディー等、カールツァイスの技術がしっかりと受け継がれているのだから……。
 Y社に勤務する間にロシアカメラに、触手を動かさなかったといえばうそになる。カメラ評論で活躍されている田中長徳先生の本の中で絶賛されていたその武骨ともいえる、たたずまいのカメラはスプリングモーターでフィルム巻き上げとシャッターチャージを同時にセットする優れもので、本に掲載された写真と説明文に魅了され、米国の通販専門業者M・S氏から3台を購入したことがある。写真仲間に自慢したい気持ちと、まだ見ぬ恋人に逢いたい気持ちが購入を決意させたわけである。カメラ名はレニングラード、いずれも立派な革ケース付きである。
 レンズ付きで1台3万5000円くらいだったと記憶しているが、相場よりかなり高く買わされたようだ。』

 う~む、ここにも田中長徳氏の犠牲者(?)がいたわけであるな。

 まあ、でもその結果、「ユーラシア・ブックレット」としては異質の本書を書き上げたわけであるから、少しはその投資にたいする実入りはあったのではないか、とも思えるし、「いやいや、投資額に見合う実入りなんて当然のことながらあり得ない」とも思える。

 後は、この本を書いた山本氏の自己満足が如何ほどのものかと想像しながら、本書を読み進めるだけである。

『ロシアカメラの世界 隠れた人気の秘密』(山本省三著/企画・編集:ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会/東洋書店/2004年2月20日刊)

『ロシアカメラがむせぶ夜は―チョートクの赤色カメラ中毒者の作り方』(田中長徳著/グリーンアロー出版社/1999/12) ……こうなるともうビョーキです。当然、著者の田中氏はちゃんとビョーキをビジネスにしているのだから何の問題もないわけだ。

2018年3月18日 (日)

『1968 新宿』

Rimg00053 『渡辺眸写真集 1968 新宿』(渡辺眸著/街から舎/2014年8月30日刊)

 1942年生まれの渡辺眸氏は1968年の学生運動をメインで担った「団塊の世代」よりは少し前の世代になる。どちらかというと大学院生として東大全共闘委員長になった山本義隆に近い立場ということになるのだろう。

Rimg0006 ©Hitomi Watanabe

『これらの写真群は1967年からボチボチ撮りはじめた。
メディアでフォークゲリラと呼ばれた集会が機動隊によって排除され、
新宿西口「広場」が「通路」になった1969 年頃までの写真が中心だが、なかでも1968 年に撮ったフィルムが最も多かった。

当時、ある編集者にはじめて連れて行かれたのが新宿御苑近くのユニコンという酒場だ。
それからは、モダンジャズを聴かせるビザール、トレビ、木馬やDIG、
いまも健在なDUG やピットインを梯子してまわった。
花園神社での唐十郎の紅テント、ATG のアヴァギャルド映画、
歩行者天国が出来る前の路上のハプニング(パフォーマンス)……。
アンダーグランドという言葉にも新宿で出会い、らりってるフーテン達に遭遇したのもこの頃である。
渋谷や下北沢、吉祥寺ではなく、新宿が文化だった。

そんな日々が続くある夜、新宿周辺が群衆で大混乱になっているのに出くわした。
「10.21 国際反戦デー」だ。デモ隊にもみくちゃにされながら、
情報として知っていただけのベトナム戦争がもたらすものを、私は全身で体験したのだった。

1968 年の新宿に、時代が集約されていた。 ……H.W.』

 と書く渡辺氏だが、写真集の構成でもわかるように、新宿フォークゲリラや10.21 国際反戦デーなどの当時の学生(を含む若者)の反乱に出会ったのは、写真を撮り始めて「やがて」の時期だったようだ。

Rimg0004 ©Hitomi Watanabe

 そんなわけなので、学生反乱を捉えた写真は、私からすると、どちらかというと凡庸な学生運動の写真のように見える。

Rimg0002 ©Hitomi Watanabe

 むしろ、それに至る中央線ホームの行き先表示板とか、ペトリカメラ(!)の看板、出来たばっかりの小田急や京王百貨店の写真の方に、私は惹かれる。

Rimg0003_2 ©Hitomi Watanabe

『渡辺眸写真集 1968 新宿』(渡辺眸著/街から舎/2014年8月30日刊)

2018年1月28日 (日)

『ロバート・キャパ写真集』だけじゃ見えないこと

 ロバート・キャパって、戦争写真とかそうじゃなくても、多分、世界で一番名前を知られたフォトグラファーなんだろう。本書も昨年12月15日の刊行で、既に今年の1月15日で第2刷だもんなあ。ICPやマグナム・フォトにとっては一番の貢献者に違いない。

 私も、本書の刊行は最初から知っていたし、多分、掲載されている写真はもう既に知っている写真ばっかりだろうという思いから、当初は購入を渋っていたんだが、結局買ってしまったんだ。

『ロバート・キャパが撮影した約7万点のネガから、236点を精選して収録。岩波文庫初の写真集』って言ったって、その236点のほとんどは私も既にみたものだし、すでに様々なロバート・キャパの写真集は持っており、その中に掲載されている写真ばっかりなんだけれども、でも、買ってしまった。岩波書店の勝ち!

 なんでなんだろうなあ。

Photo 『ロバート・キャパ写真集』(ICP ロバート・キャパ・アーカイブ/岩波文庫/2017年12月15日刊)

 キャパが「世界最高の戦争写真家」と呼ばれるようになったのは、スペイン内戦での「崩れ落ちる共和国軍兵士」がきっかけであることはよく知られている。しかし、同時にロバート・キャパ(当時はまだアンドレ・フリードマン)が写真家として知られるようになったのは、「1932年11月27日 コペンハーゲンで大学生を相手にロシア革命について講演するレオン・トロツキー」の写真である。1932年なので小型カメラで撮ったのなら多分ライカⅠ型を使ったんではないかと思えるんだろうが、そのカメラについて触れている書物はない。

 キャパの名前を世界的に有名にしたのは、「1944年6月6日(Dデイ) ノルマンディー、オマハビーチ」だろう。多分、『ちょっとピンボケ(Slightly out of Focus)』という、キャパ自身による多分に自分を大きく見せるための記述に満ちた自伝と共に有名になった写真である。これはコンタックスで撮影している記録がある。

 実はこの写真についてあまり触れることはないのだが、実は戦争写真としてはあり得ないアングルで撮影している写真なのである。

Rimg00012 上陸するアメリカ軍部隊(第一波攻撃) オマハ・ビーチ、ノルマンディ沿岸、フランス、1944年6月6日(Dデイ) ©Robart Capa

 普通戦争写真というか、戦闘場面の写真というのは兵士の背中から撮影するのが普通である。その他のキャパの戦闘場面を撮影した写真もそうだし、キャパ以外のフォトグラファーの第二次世界大戦からベトナム戦争、つい最近の様々な戦闘の写真も皆そうなんだが、すべて兵士の後ろ姿が撮影されていて、その向こうに戦闘場面が展開しているというのが、普通の戦争写真なんだ。それは何故かと言えば、武器を持たないカメラマンを最前線に置くわけにはいかないという最前線部隊の発想からだからだ。だから、戦闘場面の写真には必ず兵士の後ろ姿が写っていて、彼の肩越しに最前線が展開している。

 キャパのその他の写真もそうだ。1654年5月25日のキャパが地雷を踏んで死亡する寸前のインドシナ戦争の写真まで、すべてのキャパの戦闘場面の写真も、すべてそうだ。

 ところが、例のオマハ・ビーチの写真の数点は上掲のモノ以外でも兵士の顔が写っている。それは何故なんだろう。

 ドンくさい兵士がいて、部隊から遅れに遅れて、ついにはカメラマンからも遅れてしまったという、かなり兵士としては恥ずかしい写真なんだろうか。あるいはどこか別の日の上陸訓練か何かを撮った写真なのか。

 なあんて、どうでもよいことを考えてしまうのは、もう既に何冊もロバート・キャパの写真集を持っているからなのかなあ。

『ロバート・キャパ写真集』(ICP ロバート・キャパ・アーカイブ/岩波文庫/2017年12月15日刊)

 キャパ研究にはこちらがオススメ。沢木耕太郎氏はリチャード・ウィランはあまりお好きではないようだが。

『ロバート・キャパ 決定版』(リチャード・ウィラン、ロバート・キャパ/ファイドン/2004年11月刊)

 こちらもオススメ。ただし、こちらは古本屋で探さないとみつかりそうもない。

Photo『ロバート・キャパ』(ベルナール・ルブラン、ミシェル・ルフェーブル著/太田左絵子訳/原書房/2012年9月10日刊)

2018年1月26日 (金)

LEICAで撮っても、RICHO GRDで撮っても、撮れる写真は同じだというところがイイ!

『日本カメラ』2月号が出た。

 で、実は私は長いこと『日本カメラ』は「にほんかめら」だと思っていて、つい最近になって「にっぽんかめら」だっていうのを知った。既に30年近くこの雑誌は読んでいたんだけれども、田中長徳氏の連載がこの1月号から始まるというので、いろいろ『日本カメラ』読者のFacebookなんかを読んでいたら、「にっぽんかめら」とか「ぽんかめ」なんて呼んでいることを知ったというようなわけ。

 元々、田中長徳氏の名作『銘機礼賛』から『日本カメラ』を読み始めた私としては、自分なりに結構長い読者だと思っていたんだけれども、その私にして『日本カメラ=にほんかめら』だと思っていたんだから、なんなんだろう。

Photo_2

 で、今回読み始めたのも、田中長徳氏がこの1月号から「TODAY TOKYO 1964-2020」という連載を始めたからなんだが、要は1964年以降当時田中氏17歳の田中氏が、それから数年の間に撮った写真と現代の東京の定点観測的な写真を撮影して比較しながら、それをネタにいろいろ語るっていう趣向なのである。で今回は「千代田区神田カルチェラタン 1968→2017」っていう訳。

 2017年の写真はその神田駿河台から駿河台下へ至る道路の写真で、当時は、明治大学、中央大学のシマだったところだ。で、1968年の写真は同じところに革マル派が作ったバリーケードの前の写真なんだが、そんなところに革マルのバリケードなんて、あったったけ? って、まあ、別にどうということはない。

「機動隊の手段の中に追い込まれ フィルムを出せと言われた。私はフィルムを守った」

 という中見出しがついているんだが、要は馬鹿な話で、バリケードの全景を撮影しようとして後ろへ下がっていたら機動隊に近づきすぎてしまい、機動隊に引きずり込まれて、写真を出せと強要されたが、フィルムを出さなかった、っていう話。

 まあ、フィルムを出さなかったってところは褒めなければいけないんだろうけれども、別にフィルムを出しても機動隊はフィルムをパトローネから出して露光させちゃうっていう位の事だったんだろう。別に警察に持ち帰って現像し、学生の容疑者を特定しようなんてことは考えていなかったと思う。

 まあ、機動隊なんてその程度のモノですよ。公安じゃないからね。

Photo

 で、当然、1968年に撮影した写真と2017年に撮影した写真が掲載されているんだけれども、1968年の方は「Leica M2+Hexar 50/3.5+TriX」となっていて、2017年の方は「Richo GR Digital」となっている。つまり片方は今から50~60年まえのアナログカメラであり付いているのは50mmの標準レンズ、もう一方はつい最近のカメラでついているのは多分28mmの広角レンズっていうわけ。両方ともモノクロ。

 どう違うかって言えば、当然のことながらバリケードを作っている1968年の方が雰囲気は剣呑である。どこかのオッサンがフラフラ横断歩道を歩いている2017年の写真とは、まったく置かれている状況が異なる。

 がしかし、二つの写真を分けているものはそれだけでしかない。せいぜい、写っている「革マル」の旗ぐらいなもんだろう。それ以外で二つの写真を分かつものは、トライX50mmで撮影したがゆえに、それなりの合焦点以外のボケかたが大きい1968年の写真と、方や28mm(フル35mm規格換算)デジタルで撮影した2017年の写真の、合焦点以外でのボケ具合くらいなもので、基本的に両者は「同じ写真」と言ってよい。

 それでも1968年には1968年の、2017年には2017年の「雰囲気」が写されているのが写真の不思議だ。その辺はウジェーヌ・アジェのパリの写真も同じである。

Photo_3

 田中氏と同じ月に連載が始まったなぎら健壱氏の「ジグザグな日々」、今月は北千住の荒川河原です。

2018年1月11日 (木)

『東京轍』って、確かに「轍」ではあるが…

 田中聡子の写真集『東京轍(とうきょう わだち)』である。

 田中聡子っていう名前の写真家は知らないし、この本の存在も知らなかった。ポイントは田中聡子は田中長徳氏の弟子であるらしい。田中長徳氏の『銘機礼賛』を国会図書館で読んでファンになり、偽ライカ愛好会のメンバーになったらしい。

 確かに、左開きのこの本を左に開いていくと、そこにはいかにも田中長徳風な、ちょっと古い東京の下町の風景が、その街を歩く人と共に映し出されている。

 まさに『東京轍』なのであります。

Photo 『東京轍』(田中聡子著/冬青社/2017年10月26日刊)

 ところが裏表紙の方からは右開きになるわけで、そちらを見ると、まず裏表紙に早くもお総菜屋さんあたりの店先でくつろく田中長徳氏が写っていて、右開きのページをめくるたびに田中氏が登場、最後(本の真ん中あたり)の方になって、暗室の田中氏、バスに乗る田中氏、でラストがホロゴン・レンズを装着したビューファインダー付きのライカM3を持っている田中長徳氏が写っている。ホロゴン・レンズについては(最初の)『銘機礼賛』168ページ「リスボンでホロゴン」に詳しい。

Photo_2

 う~む、そういう形で「田中長徳の弟子」を名乗るのか、ふーん。ってな感じなのだが、そのホロゴン・ライカの写真の裏が田中氏の文章である。

『雑誌の取材などでドイツはケルンによく行ったあたしである。
 大聖堂からちょっと奥に入ったところに道が深くえぐられて長い溝が石畳についている箇所がある。その説明によるとこれはローマ帝国の辺境であった大昔のケルンに馬車が行き交ってできた轍の跡なのだそうである。

 つまり長い人類の歴史の時間が石畳に轍として記憶されているのだ。ヨーロッパに比較して日本を考えるならば明治維新後以後のスクラップ&ビルドの光景では、道に轍ができるはずもない。2020東京五輪で大変貌の東京』

 まあ、別に写真家が昔を懐かしんでそれを残しておこうという意図で写真集を作るというのはよくある方法だ。「○○区の昭和」的な写真集は、それはそれで存在の意味と言うものはあるのだろうけれども、写真家が写真家の名前を残してそうした偉業を成し遂げるっていうのは、あまり感心しない。

 問題は、田中聡子がそんな「昔を偲ぼう」という意図で『東京轍』を残したのであれば、ちょっとそれはいただけないのだが

『田中聡子の東京の轍を撮影したショットを見ていると、その視線は過去に向かっている。ただここで言う過去に向かっている視線は決して昭和を懐かしむとか、江戸情緒が素晴らしいとか言うレベルの低さではない。

 ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を電子書籍で携えてパリに滞在している私である。ベンヤミンの数世紀前のパリの記録の断片を見ていて東京轍のことを思い出した。
 激変する東京の風景、その路面に轍の凹みを作ることが許されないのなら、カメラを引きずって写真の中に東京の轍を刻むという方法は時間の流れに対して有効な反撃のように思われる』

 願わくば、「ケルンの大聖堂からちょっと奥に入ったところにある長い溝」のように、『東京轍』も同じように数世紀にわたって、長い間残されて人々の記憶の中に生きていけばいいとは思うのだが。

『東京轍』(田中聡子著/冬青社/2017年10月26日刊)

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