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映画

2017年4月25日 (火)

「ゴースト・イン・ザ・シェル」それは「Ghost in the Shell」なのか「攻殻機動隊」なのか

勿論、原作コミックがあって、先行する劇場版アニメがあって、テレビシリーズ、OVAシリーズ、もう一つ別の監督が作った劇場版がある本作であり、それらを比較することに何の意味もないことは分かっている。

 が、しかし、それら先行する映像がある以上は、見ていてどこかそれを比較したくなってしまうのだ。つまり、ヴィジュアルにおいて、ある種の映像はある種の映像を継ぐものであり、あるいは否定するものでもあるということ。

 ここでは先行する二つの劇場版、押井守版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」「イノセンス」そして、原作コミック「攻殻機動隊」を考察することにする。TVシリーズやOVAシリーズは(当然のことながら)草薙素子の「ゴースト」は所与のものとしてあり、それを巡っての考察よりも、むしろそれを所与のものとした「探偵あるいは警察シリーズ」だからだ。

 むしろ重要なのは「ゴースト」なんだからね。

3 『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊』(原作:志朗正宗/監督:ルパート・サンダース/脚本:ジェイミー・モス、ウィリアム・ウィーラー、アーレン・クルーガー/製作:アヴィ・アラッド、アリ・アラッド、スティーブン・ポール、マイケル・コスティガン/製作総指揮:ジェフリー・シルバー、藤村哲哉、野間省伸、石川光久/©2017PARAMOUNT PICTURES ALL RIGHT RESERVED/主演:スカーレット・ヨハンソン)

 押井守はプログラムに書く。

『デジタル技術を使って、実写を素材にしてアニメーション映画を作る。自分はその発想の一端は『AVALON アヴァロン』(01)で実践したのだけれど、『ゴースト・イン・ザ・シェル』ではそれを質・量ともに圧倒的な形で行っていました。その点で、ジェームズ・キャメロンの『アバター』(09)をはじめて観た時のインパクトも思い出しましたね。
 さらに驚かされたのがスカーレット・ヨハンソンの演技。自分の中で彼女の印象が完全に上書きされましたね。
 彼女の演技がよかったのは「全身義体」として演技をしていたところです。しかもそこに、義体である自分の身体に対する戸惑いも滲んでいて、それが全編を通じて一貫している。彼女の演技によって、このデジタルな映画に魂=ゴーストが宿っていました。ああいことができる役者は滅多にいません。
 こういうことに冒頭10分ぐらいで気づいた。だから、20年前のアニメーション映画のシークエンスのコピーをやっていようがいまいが、この映画の真価とはまったく関係ない――という気持ちで観終わりました。
 1995年に『GHOST IN THE SELL/攻殻機動隊』を監督した時に描こうとしたのは、決してサイバー社会の危険性などではありません。描きたかったのは「身体論」。人間はなぜ身体を再獲得する必要があるのか。「攻殻機動隊」という原作を通じてそこに迫ったのです。これは古典的といえば古典的なテーマだけれど、同時に普遍的でもあるテーマです』

 原作コミックにおいて「魂」「ゴースト」というものは、あらかじめ所与のものとして取り扱われている。つまり、それは連載物(毎週連載ではないが)としては当然の扱いで、いちいち毎週「ゴーストとは何か」「魂とは何か」について語っている場合ではない。取り敢えず「所与のもの」としての「魂」や「ゴースト」についての疑問はさておき、ポイントは「警察モン」としての体裁を如何にして作り、毎週毎週の読者を獲得していくのかということなのである。これはTVシリーズやOVAシリーズも同じ。まあ、「連載物」としての宿命だろう。

 その「魂」や「ゴースト」に真っ向から立ち向かっていったのが、押井守版「攻殻機動隊」、つまり『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』であり『インセンス』なんだろう。特に『イノセンス』では、そのテーマが、そちらのテーマが大きすぎて、少し消化不良を起こしていた向きもある。多分、それは「あらかじめ『所与』のものとして与えられていたテーマ『魂』や『ゴースト』を、原作からそのまま引き継いで、映画のテーマと使用した姿勢からくるものだ。

 一方、本作『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊』では、実は「少佐」が草薙素子になる前の姿を描いている。基本的に、映画の製作者は「原作を別の解釈」で映像化して見せたり、あるいは原作の続編(シークェル)として映画を製作するのだ。しかし、ルパート・サンダースとその製作チームはそうした映画製作とは全く異なった方法論で行ったのだった。

 つまり、それは原作の前編(プリクェル)、如何にしてその原作に至ったのか、というある種不遜な態度で原作と向かい合うという姿勢だ。つまり、「少佐」は母なる存在=オウレイ博士によって、別の記憶を植え付けられ「少佐」となり、公安9課の兵士となる。しかし、昔、彼女とともに反政府活動を行ったクゼと共に捕らえられ、クゼは失敗した実験の結果、身を隠し、密かに反逆の道を探っている。一方、「少佐」は同じく失敗に終わった「プロジェクト2571」の結果、別の女性の過去にまつわる「記憶」を植え付けられ、しかし、同時に少佐の真の過去にまつわる「鍵」だけを、密かに「少佐」に与えていたのだ。それが「クサナギモトコ」という「ゴースト」なのだ。

 つまりここで実写映画版『GHOST IN THE SELL』は実にプラグマチックに「ゴースト=魂」論や「ゴースト≠魂」論を乗り越えてしまったのだ。つまり、それはスカーレット・ヨハンソンという「実体を持った肉体」を獲得せしめてしまったことによる。押井が『1995年に『GHOST IN THE SELL/攻殻機動隊』を監督した時に描こうとしたのは、決してサイバー社会の危険性などではありません。描きたかったのは「身体論」。人間はなぜ身体を再獲得する必要があるのか。「攻殻機動隊」という原作を通じてそこに迫ったのです』とそこに書くとき、それは決して「実体としての身体」を持たないアニメーション表現において、如何にしてそれを描くのかということが大きなテーマとなり、、そkで発見したのが、映像を作るときには「どんな嘘でもついていい」ということである。

 したがって、やはり押井が言うように『20年前のアニメーション映画のシークエンスのコピーをやっていようがいまいが、この映画の真価とはまったく関係ない――という気持ちで観終わりました』という、ある種の実写映画版『GHOST IN THE SHELL』に対するアニメーション映画版『GHOST IN THE SHELL』の勝利宣言でもあり、更にその一方、原作ありきの映像表現において、そんなつまらない「本家争い」をしたって何の意味があるんだ。所詮、原作コミック『攻殻機動隊』と、アニメーション映画『GHOST IN THE SHERLL』と、実写映画版『ゴースト・イン・ザ・シェル』は別の作品であるのだからね。というようなことを言っているんだ、

 まあ、その辺がイギリス生まれの映像プラグマチスト、ルパート・サンダースには理解できないことなのかもしれない。

2017年1月31日 (火)

やがて哀しき『タンジェリン』、iPhoneで撮った映画

“タンジェリン”っていうのは、「みかん」とか「みかん色」ということ。つまり、「黄昏(たそがれ)色」っていうこなんだなあ。クリスマス・イブの午後から夜までの話が映画『タンジェリン』の話。そんな「黄昏色」に染まったようなお話なんですよ、ってのが監督及びプロデューサーからのメッセージ。

 そういえば、昔、ドイツのプログレッシブ・ロックのグループでキーボードを中心とした「タンジェリンドリーム」ってのがあったな。まあ、キーボード中心のロックと言えば『青い影』のプロコムハルムが有名だけれども、ギター中心のバンドに比べて何となくインテリ臭さを感じさせるキーボードベースのプログレッシブロックって好きだったな。

 という話とは何の関係もなく……

Photo 『タンジェリン』(監督・脚本・撮影・編集:ジョーン・ベイカー/共同脚本・共同プロデューサー:クリス・バーゴッチ/共同撮影・共同プロデューサー:ラディウム・チャン/プロデューサー:キャリー・コックス、マーカス・コックス、ダレン・ディーン、シーチン・ツォウ、フランチェスカ・シルベストリ/エグゼクティブ・プロデューサー:マーク・デュプラス、ジェイ・デュプラス)

 要はこの映画、フツーの(って言っちゃいけないのかな)男女関係を持てる人が全然登場しない映画なんだな。

 主人公のシンディ(キタナ・キキ・ロドリゲス)とアレクサンドラ(マイヤ・テイラー)はLGBTの娼婦(この場合「男娼」と言えばいいのか「女娼」と言えばいいのか、すみません)、で、シンディが28日間の拘置所拘留を終えて出てきたサンタモニカ・ブールバードの「ドーナツタイム」というドーナツ屋の会話から話が始まる。アレクサンドラが言わなくてもいいのにシンディの彼氏、麻薬の密売人兼女衒のチェスター(ジェームス・ランソン)がシンディが拘置中に別の「D」で始まる女と浮気したということを告げてしまってから、その、なんというか修羅場が始まっちゃうんだなあ。

 シンディは「D」で始まる女を探してサンタモニカ・ブールバードを走り回るわ、アレクサンドラはクリスマスイブの今晩のクラブで行うコンサートに客を誘うわ。そんな中で唯一マトモにお金を稼いでいるのはアルメニア人のタクシー運転手、ラズミック(カレン・カラグリアン)だ。カレンは家に妻と娘がいるこの地区では数少ない「ノーマル」な人間だ。クリスマスイブには義母や親戚を集めてパーティーを開催している。

 んが、このラズミックも実は我々とは(そうじゃない人には申し訳ないけれども)異なった性癖を持っていたんだなあ。

 タクシー運転手なので、仕事中に何をしても大丈夫ってことで、娼婦を買うこともあるんだけれども、で、買った娼婦が女じゃだめなんだ。だって、女にはペニスがついていないでしょ。つまり、かれは娼婦とセックスをしたり、ペニスをフェラチオして欲しいんじゃなくて、自分が娼婦のペニスをフェラチオしたかったんんだなあ、っていう倒錯(すみません)した世界。

 これが、せっかく買った女性の娼婦を降ろしてしまうシーンの撮影風景。

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 で、最後はすべての「モノゴトのハジマリ=ドーナツタイム」に、ラズミックと同じ別のアルメニア人のタクシー運転手を凋落してきたラズミックの義母まで参加して、シンディ、アレクサンドラ、チェスター、ラズミック、チェスター、チェスターと浮気していたとされる娼婦のダイナ(ミッキー・オハガン)、そしてラズミックの妻と子供まで参加した一大惨劇が繰り広げられる訳です。

 まあ、ここまでネタバレしていうこともないですが、ここまででネタバレはおしまい。まあ、結果は見えてるもんね。

Photo_2

 で、私が面白いと思ったのは、実はストーリーじゃなくて、その製作方法。

 実はこの映画、iPhone5sだけで撮ったそうなんですね。当然、シネスコ画面にするためのアナモフィックレンスは使っていますが、上の2枚の写真とか下の写真を見てください。

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 おいおい自転車に乗って移動撮影ってあるか?

 まあ、あっても十分いいんですけれどもね。監督のジョーン・ベイカー 、次回作は35mmフィルムで作るそうで、要は、「映画はどんなフォーマットで作るのが問題じゃない。映画の求めるフォーマットで作るのが大事なんだ」ってことなんでしょうね。

 昔、35mmベースで作っていたジャン=リュック・ゴダールが1968年のパリ革命の時には16mmのボリューを使っていたのには感動を覚えつつ、まだ学生の身であった私には「ボリュー(Beaulieu)」は高値の華だったんだよなあ。で、ボレックッスをなんとか買って、私は身辺雑記から始めたんですねえ。

ダメだこりゃ。

『タンジェリン』は渋谷イメージフォーラムで公開中。

 今後その他でも公開予定あり。

 公式サイトはこちら

2017年1月24日 (火)

『パリ、恋人たちの影』ヌーヴェル・バーグの残滓は何処へ?

 自分で浮気をしていながら、妻の浮気にはかなり強く当たるという、まあいかにもな夫ピエール(スタニスラス・メラール)と、数少ない浮気がダンナにばれて、結局は別れてしまう妻マノン(クロティルド・クロー)なんだが、結局は元のさやに収まるという、なんかあまりフランス映画らしくない展開が、ヌーベル・ヴァーグの次世代の旗手の作品っていうと、なんか不思議な感じがする。

Photo 『パリ、恋人たちの影(原題:L'OMBRE des FEMMES〈女の影〉)』(監督・脚本:フィリップ・ガレル/共同脚本:ジャン=クロード・カリエール/撮影:レナート・ベルタ/音楽:ジャン=ルイ・オベール)

 とにかくスタッフが豪華なんである。

 共同脚本のジャン=クロード・カリエールはルイス・ブニュエルの「小間使いの日記」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「欲望のあいまいな対象」、ジャン=リュック・ゴダールの「勝手に逃げろ/人生」、ルイ・マル「五月のミル」、大島渚「マックス、モン・アムール」などの作品に脚本家として参加してきている人だし、撮影のレナート・ベルトはゴダール「勝手に逃げろ/人生」、エリック・ロメール「満月の夜」、ルイ・マル「さよなら子供たち」や、その他アラン・レネなどとも組んできた人だし、音響のフランソワ・ミュジーはゴダールの「パッション」「ゴダールの探偵」「右側に気をつけろ」「ヌーヴェルバーグ」「新ドイツ零年」「ゴダールの決別「フォーエヴァー・モーツァルト」「愛の世紀」「アワーミュージック」「ゴダール・ソシアリズム」「カルメンという名の女」などを手掛けてきた人だ。

 もうこうなったらばりばりヌーヴェル・バーグの映画になるはずなんだが、あまりゴダール臭はしない。まあ、ヌーヴェル・バーグって言ってもジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーでは全然作風は異なるわけで、つまりヌーヴェル・バーグっていうのは映画誌『カイエ・デ・シネマ』に集まっていた評論家たちが、やがて自分たちも映画を作り始めたっていうだけで、何らかの映画の作風を表す言葉ではなかったということなのだ。

 ゴダールは「ガレルは息をするように映画を撮る」と言ったそうだが、ジャン=クロード・カリエールが脚本に参加しているとはいっても、あくまでも作品は監督のものである以上、作品コンセプトはフィリップ・ガレルのものであるし、作品に責任を負うのもガレルしかいないのだ。

 で、そのガレルが作り上げたストーリーは……。

 ドキュメンタリー映画を製作しているピエール、マノンはそんな夫を世間に認めさせたいと、自分は食堂でパートタイマーをしながら、自身もキャメラを回したりして夫のドキュメンタリー映画製作に協力している。

「開戦の頃、18歳だった。友達を巻き込んで逮捕され彼の母には恨まれた……」

 と話す元レジスタンスの闘士を取材しているピエールとマノン。

「難しい作品になりそうだ」というピエール。どうも製作作業は難航しそうだ。っていうか、どうまとめたらいいのかわからなくなってしまったようなんだな。

 そんなある日、スタジオでフィルム保存係で研修中のエリザベット(レナ・ボーガム)と出会ったピエールは、その日のうちにエリザベットと意気投合、エリザベットの部屋でベッドイン。ピエールは打ち明ける……。

「言っとくが、妻がいる」「だと思ってた」と、二人は体を重ねる。

 妻がいると知りながらピエールと関係を続けるエリザベットだが、こっそりピエールとマノンが住むアパートを探しに来て、仲睦まじそうに話す二人の姿を見る。

 そんなエリザベットが、ある日、偶然立ち寄ったカフェでマノンと浮気相手の男がいるのを目撃する。そして、また別の日にも……。

 そのことをピエールに告げるエリザベット。

 自分がエリザベットと浮気をしていることを棚に上げて、マノンを叱責するピエール。

 激しい言い合いを経て、マノンはピエールの家を出ていく。その後、ピエールもエリザベットとは疎遠になり……元レジスタンス闘士の言葉も「ウソ」だったということが分かり、映画の製作も頓挫してしまったようだ。

 数年たち、元レジスタンス闘士が亡くなり、その葬儀に参列することで再び出会う二人。映画はどうなってしまうのだろうか。

 その時に、マノンの口から出た言葉……。

「いっそ、あれはウソだった。私たちは騙されていた。ということでもって、映画を製作すれば」

 その言葉で、再び彼らが映画製作を再開するのか、再び共同生活を再開するのか。まあ、多分そうなることを予感させて映画は終わる。

 映画の冒頭、ピエールが街中でバゲットを咀嚼するシーンが長く続く。そして映画の半ばで、マノンとマノンの母親がやはりバゲット(サンド?)をやたら食べているするシーン。そして、ピエールがマノンが出ていったたった一人の部屋でスプーンで(即席?)パスタを食べているシーン。

 この三つのシーンが実はこの映画では大事なシーンなのではないだろうか。「食べること」つまりそれは「生きること」。なので、やっぱり人間はどんな状況になってしまっていても「食べること」でもって、「生きてしまう」ってことなんだなあ。

 で、生きている以上は、それはピエールにとっては「映画を製作すること」なんだろうし、マノンにとっては「そんな夫を支えること」なのかもしれない。

 ただし、最後の葬儀が行われている教会の前で、再び出会ったことを祝福するように抱き合うピエールとマノンを見ていると、まだまだこの夫婦には山あり谷ありの人生が待っているんだろうなあ、とも思えてしまうのだ。

 まさしくそれがフィリップ・ガレルの歩んできた人生なんだろうし、これからも映画製作という現場を歩き続ける以上、避けて通れない人生なんだあ。

 1948年生まれのフィリップ・ガレル、1968年の「パリ五月革命」のときは20歳という、バリバリの「団塊の世代」(日本風の言い方をすればね)、ゴダールが16mmのボリューカメラで「五月革命」を取っていた時に、まさしくその被写体にいたかもしれない人物だ。

 それが、今やフランス映画の大家となって作った映画が『パリ、恋人たちの影』であるならば、その「恋人たちの影(原題に沿って言えば「女の影」)」がどのように結実するのかを我々は見届けなければならないだろう。

 ピエールとマノンが作っていたドキュメンタリー映画がどんな映画になっていたのか、実に気になる。果たしてそれは完成したんだろうか?

『パリ、恋人たちの影』は渋谷シアターイメージフォラムで公開中。その他の劇場でも順次公開予定。公式サイトはコチラ

2017年1月11日 (水)

『疾風スプリンター』はお腹一杯の自転車レース映画だ

 自転車レースチームのエースとアシスト選手の葛藤と友情だけでも1本の映画は作れる。ドーピングでチームを追われた選手の復活劇だけでも1本の映画は作れる。勿論、二人のアシスト選手が一人の彼女を巡って競争と闘争を繰り広げるだけでも1本の映画は作れる。

 なのに、この三要素が全部入っている映画なんて、なんてことだ。これが香港映画のサービス精神ってものなのか? ただし、その分ロードレースに関するマニアックな部分は削がれてしまうんだよね。どちらかというと所詮日本における自転車ロードレースなんてマニアだけの世界なんだから、もっともっとマニアックに作ってもらいたかった、という私の望みは叶わなかったのだ。

 まあ、それを言っちゃあ「UCIアジアサーキット」を「ICCアジアサーキット」って言ってしまっているところからそうなんだけれどもね。

Photo_2『疾風スプリンター(TO THE FORCE)』(ダンテ・ラム:監督・脚本)

 できれば、『茄子 アンダルシアの夏』の続編『茄子 スーツケースを持った渡り鳥』みたいなリアルな世界を期待した方がバカだったのか。『スーツケースを持った渡り鳥』は、毎年ヨーロッパ・シーズンが終わって宇都宮で開催されるジャパンカップ・サイクルロードレースはUCI(国際自転車連盟)のアジアツアーの1レースでヨーロッパの一流チームが参加するレースなんだけれども、当然、参加選手の中には翌年の契約がまだされていない選手も多く、その悲喜こもごもを描いた傑作アニメーションなのである。

 UCIのアジアツアーとはジャパンカップサイクルロードレース(1.HC)、ツール・ド・ランカウイ、ツアー・オブ・チンハイレイク、ツアー・オブ・ハイナン(各2.HC)というUCIのHors Class(最高峰)の4レース。UCIコンチネンタルサーキットのひとつのジャンルでもある。

 実際、ジャパンカップのレース後にチームジャージーを売る選手なんかもいて、「ああ、それはそれで大変なんだな」って感じる‟実際の”場面にも遭遇することがあるのだ。

 日本の自転車レースとしては、ツアー・オブ・ジャパンとかツール・ド・北海道などのステージレースの他に、Jツアーというプロ(&セミプロ)の年間を通してのシリーズがあったりしている。台湾でも、ツール・ド・台湾とかもあるので、台湾ツアーなんかのシリーズ戦もあるんだろう。つまりプロ(&セミプロ)のレースシリーズなんだけれども、この映画の主人公2人、ナウ・ミン(エディ・ポン)やチウ・ティエン(ショーン・ドウ)も、アシスト選手としてプロ契約をしているけれども、海辺のバーでアルバイトをしながらレースを戦っているところを見ると、まだセミプロ選手なんだろうな。

 ところで、台湾は今や世界最大の自転車生産国なのだ。

 勿論、ジャイアントというメーカーの存在が大きく、今やツール・ド・フランスなどにも自分のチームを送り込んでいるが、元々はヨーロッパの自転車メーカーのOEMから始めたメーカーなんだ。ヨーロッパの自転車メーカーは、最上級のクラスの自転車やカーボン・バイクは自社生産をしているが、それ以下のクラスのバイクはほとんどが台湾からOEM供給を受けている、自転車メーカーならぬ自転車ブランドなのだ。

 私が乗っているビアンキというイタリアのブランドも、現在はカーボンバイクと値段が高くてもいい最上級クラスのバイク以外は、やはり台湾からのOEM供給で成り立っている。

 この映画でも登場するメリダという自転車も、ジャイアントに次ぐ台湾のメーカーである。設計はヨーロッパでやっているようだが、製造は台湾。つまり、UCIワールドチームというヨーロッパの最上級チームであるランプレ・メリダの下にあるチームが、この物語の主人公たちが所属する「チーム・レディエント(TEAM RADIENT)」という訳。

 当然、このチームで好成績を上げればランプレ・メリダに行けるってことになれば、皆このチームのエースを狙うっていうことになるんだろう。時にはエースも出し抜いて勝ちに行くってこともある。

 まあ、その辺からチームは壊れていくんだけれども、この映画では上記のアシスト選手二人とエースのチョン・ジオン(チェ・シウォン)の3人は、そんな立場争いでチームが瓦解する前に、資金難でチーム運営が立ちいかなくなり、3人はそれぞれ別のチームに移籍となり、それぞれがそれぞれのチームのエースとして競い合うというお話。

 まあ、そこにアマチュア女子選手ホアン・シーヤオ(ワン・ルオダン)が絡んできて、ナウ・ミンとチウ・ティエンの恋の鞘当てなんかが発生するというお決まりの流れ。

 チウ・ティエンのドーピング騒動とか、ナウ・ミンのチームメイト(アシスト選手)への暴行事件とかがあって、チーム・レディエントが再結成されると3人はレディエントに戻って再び戦うことになるという、いかにも香港映画らしい「お約束」のストーリー。ただし、今度はエースとアシストの関係は微妙となり、最後は元エースのチョン・ジオンはナウ・ミンを勝たせるように働くことになる。

 まあ、この辺は両方とも含めて、お約束ですね。「誰にもわかりやすい自転車ロードレース映画」としてはね。

 で、映画のプログラムに疋田智さんが『では、日本人は?』と謎かけをして『いる。謎の強豪選手「松山有祐(Yusuke Matsuyama)」だ。彼が映画のどこで出てきて、どう活躍するか、それはもう「観てのお楽しみ」としかいえない。ぐふふ(←謎の笑い)』って書いているんだけれども、そんなの簡単じゃん。

 映画のクロージング・タイトルバックで出演者が練習をしている場面とか、映画の本編で採用されなかった画面がいろいろ使われているんだけれども、その中にナウ・ミンが最後にランプレ・メリダに採用されて練習をしているところに登場する、ランプレ・メリダ(2017年からはバーレーン・メリダ所属)の新城幸也選手でしょ。えっ? あれっ? これってネタバレ?

 まあ、いいじゃない、新城は今年はランプレ・メリダを離れてしまうんだから。

 2017年からはランプレ・メリダは中国がスポンサーになって、中国初のUCIワールドチームになるわけで、それに対抗してバーレーン・メリダはゼネラル・マネージャーにランプレ・メリダのチームマネージャーとして働いていた南アフリカのブレント・コープランドが就任することになった。ワールドチームとしてのライセンスがどちらになるかは、まだわからないが、少なくとも契約している選手を見ると、ヴィンチェンツィオ・ニーバリとかホアキン・ロドリゲスとかビッグネームをそろえているバーレーンの方がUCIワールドチームになるでしょうね。

 まあ、あとは中国政府がどんな横槍を入れるかってことですけれどもね(中国は入れそうですね。同時にUCIとしては台湾メーカーの存在もあるから、多分中国の要求も受け入れちゃうかも)。

 この結果、イタリア所属のUCIワールド・チームはなくなってしまうわけで、この辺にもイタリア経済の苦境というものが見えてくる。

 劇場にはランプレのロードバイクが飾られています。ただし、最高クラスじゃなくて6000と4000。その辺がちょっと残念。まあ、まあそれがレディエントのチームバイクなのか。

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映画『疾風スプリンター』は新宿武蔵野館他で公開中。公式サイトはコチラ

2017年1月 9日 (月)

『マイルス・アヘッド』はなかなかよくできている伝記映画なんだが

 映画『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』という邦題はちょっとなあ、という感じがする。『MILES AHEAD』は原題通りなのでいいのだが「空白の5年間」というのが、ちょっといただけない。

3 『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』(ドン・チードル:監督・脚本・製作・主演/スティーブン・ベーグルマン:共同脚本/音楽:マイルス・デイヴィス・ロバート・グラスパー)

 メインの出演者は勿論マイルス・デイヴィス(ドン・チードル)、「ローリング・ストーン」誌のライター、デイブ・ブレイデン(ユアン・マクレガー)、マイルスの妻フランシス・テイラー(エマヤツィィ・コーリナルディ)、音楽プロデューサー、ハーパー(マイケル・スタールバーグ)と、ハーパが連れてきた若手のトランペッター、ジュニア(キース・スタンフィールド)といったところ。

『マイルス・アヘッド』というタイトルは、ビバップ、クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、フュージョンなど、演奏スタイルを変貌させてきた「常に前を向いて音楽を変遷させてきたマイルス」という意味なんだろう。そのマイルスが1975年から長期の休みに入り、1980年カムバックするまでの5年間に何があったのだろう、というのが「空白の5年間」という意味なんだが、実はそんなにたいしたことはなかったらしい。

 ただまあ、それでは映画にならないので、その5年間の間にリハーサル・テープを盗まれたり、盗まれたテープを取り戻すためにマイルスとデイブがニューヨークの街中でカーチェイスを繰り広げたり、賭けボクシングの会場に殴り込みをかけ、次第に幻覚を見ながら大暴れをするというシーンを作ったんだろう。

 で、取り戻したテープを再生させると、そこに収録されていたのはマイルスのトランペットではなく、マイルス自身が弾いていることは確かだが、オルガンの音色が細々と鳴っているのであった。マイルスは5年間の間にトランペットを演奏できなくなってしまっており、それはそれで、世間に知られてしまったら大スキャンダルになってしまうので、テープを取り戻さなければならない理由ではあるのだが、そのテープを聴きながら音楽として再生させるのが、テープを盗んだジュニアだったっていう話。

 マイルス自身、チャーリー・パーカーのバンドにいたころは「ジュニア」と呼ばれていて、マイルスはそれを嫌っていたという話は聞いたことがある。つまりジュニアはマイルスの若いころの姿を体現したキャラクターなんだろう。まあ、たかだか5年間の演奏休止でもって、若いころからトランペットを演奏していた音楽家がトランペットの吹き方を忘れてしまうなんてことは、多分ないんだろうけれども、その辺はちょっと脚色に難ありかな。

 カムバックしてからのマイルスはトランペットだけではなくシンセサイザーも演奏していたそうだから、まあオルガンを弾くってのもあながち嘘ではないかもしれないが、まあ、ちょっとね。

 映画のラストの復帰後のマイルスのシーンは実にゴージャス。トランペット:ドン・チードル、キーボード:ハービー・ハンコック、テナーサックス&ソプラノサックス:ウェイン・ショーター、ギター:ゲイリー・クラーク、ベース:エスペランサ・スポルディング、ドラムス:アントニオ・サンチェスというもので、「ワッツ・ロング・ウィズ・ザット」というロバート・グラスパーが作曲し、「マイルスが今もし生きていて、上記の豪華メンバーと共演したらどうなるか?」という想定の下に作られた映像だ。その他のシーンのマイルス・デイヴィスの演奏シーンは確かに演じているのはドン・チードルだが、音はマイルスのレコードから引いている。しかし、このシーンだけはドン・チードルがトランンペットを演奏しており、音もそのままドン・チードルの音らしい。

『この映画のために毎日練習した。今も吹いているよ。上手に吹く中学3年生くらいのレベルにはなった』

 というんだから大したもんじゃないか。

 まあ、ドン・チードル自身はあまりマイルスには似ていないが、まあ、それはご愛嬌。

『マイルス・アヘッド』はTOHOシネマズシャンテ他にて公開中。公式サイトはコチラ

2016年9月 6日 (火)

映画『後妻業の女』は、もう一つの『後妻業』だ

 私が以前の付き合いの結果として、今でも受信している映像ソフト協会のメルマガの記事。

『comScoreが、2016年7月のデジタルメディア消費時間の50%がスマートフォンのアプリ利用に占められたと発表 したそうです。タブレットのアプリ利用時間も加えると全体の59%になるそうです。これはPCの利用時間も含めて6割近くがアプリ利用となっているということですので、既にデジタルメディアの中心がウェブではなくなっているということですね。Googleが、検索アプリや地図アプリをリリースしていたのも、こういった時代を予測していたからなのでしょうね。
 最も利用されているアプリのランキングでは、FacebookとFacebook Messengerが1位2位を占め、YouTubeが3位となっています。これにGoogleのアプリが続いています。
 このランキングの新顔として、注目されているのはやはり「Pokemon Go」のようです。日本では、早くも飽きられたという声もありますが、「相棒ポケモン」機能の追 加など利用者離れの防止にも努めていくようですね』

 そうか、そうなると最早「Web 2.0」の時代は終わって、いまさらパソコンを使って情報発信をするっていうのは時代遅れっていうことなんだろうか。

 しかし、自ら情報発信をするっていうのがWeb 2.0じゃなかったんだろうか。タブレットやスマホで情報を受けて、短い文章だけで返していくっていうのは、なんか時代が前に戻ってしまうような気がするんだがなあ。

 というのはいいとして、「脚本&監督」の鶴橋康夫っていうと、私にとっては忘れられないのが、作家の故・野沢尚氏なんだなあ。

Photo 『後妻業の女』(黒川博行:原作/鶴橋康夫:脚本&監督/制作:東宝映画・ROBOT/製作:東宝・毎日放送・朝日放送・関西テレビ放送・読売テレビ放送・電通・WOWOW・文藝春秋社・朝日新聞・日本出版販売・GYAO・ROBOT・時事通信社)

 野沢氏と私が組んだのは、まだ野沢氏がシナリオライターだったころに作った映画『課長 島耕作』(ええ、ええ。あのトシちゃんとトヨエツが共演した、噴飯ものの『課長 島耕作』ですよ)だったのだが、あのころから野沢氏は「自分は鶴橋学校の生徒だ」を自称していて、「今度鶴橋さんの作品を書くんですよ」と、楽しそうに話をしていたことを思い出す。

 そんな鶴橋康夫という人は、中央大学法学部を出て読売テレビに入社して、一貫してドラマ畑で仕事をしてきた人。ただし、最初は中央大学法学部出身者らしく新聞記者志望だったそうだ。しかし、先輩の新聞記者からはテレビへ行けと勧められて読売テレビに入社。そのまま東京制作部でドラマ畑へ配属となり、最後までドラマディレクターを担当していた。

 まあ、先輩の新聞記者は鶴橋氏のどこの才能に「こいつドラマ屋や」っていうのを見ていたのか知らないが、読売新聞系の会社に入ってドラマを作るというのは、結果としていい選択肢だったんだろう。つまり、読売新聞は伝統的に社会部が独立して強い会社で、というか政治部は基本的に正力松太郎だから完全に自民党右派とツルんでいる状態だから、基本的に記者が勝手な動きはできない構造になっているのに比して、社会部は結構勝手に動ける態勢になっている会社なんです。

 で、そんな読売テレビで鶴橋氏は次第に本領を発揮して、どんどん「社会派ドラマ」の傑作をモノしていくわけなのだ。

 1982年、芸術選奨新人賞(放送部門)受賞、他1980年代にはギャラクシー賞も受賞。2005年、『砦なき者』により芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2007年、紫綬褒章受章。2013年、旭日小綬章受章とまあ、とにかく賞の数は限りなく多い。で、その鶴橋氏が76歳にして手掛けたのが「後妻業」ってわけだ。

 勿論、原作として黒川博行氏の小説がある以上は、それと同じモチーフは持っている。というか「後妻業」について書かれた小説はこれしかないもんね。

 しかし、小説は読み終わるまで4時間以上はかかるという代物。当然、映画として2時間ほどの尺に収めるためにはいろいろ切り取らねばならない。

 小説版ではもうちょっと出番の多かった武内小夜子(大竹しのぶ)の何番目かの被害者、中瀬耕造(津川雅彦)の次女・中瀬朋美(尾野真千子)の友人の弁護士・守屋達朗(松尾諭)なんだが、映画版では興信所の本多(永瀬正敏)の紹介者っていうだけの立場になって、以降話は朋美と本多だけの関係で進んでいく。つまり、小説版では当初本多は守屋に使われている立場だったんだけれども、その内、「これは金になる」と踏んで柏木亨(豊川悦司)との直接交渉に進んでいくという構造になっていくのだった。しかし、映画版では朋美と本多だけの関係で、つまり単純に話は「金」だけになっていく。あくまでも弁護士を間に立てて進む小説版の「スジを通し、そしてそれを金の話に持っていく」っていう方向にはならないのだ。

 うーむ、これはうまい方法だなあ。しかし、ディテールにこだわる漫画家だとそうはいかないんだよなあ。まあ、小説と映画は違うっていうことを知っている小説家だからなあ。私も、こんなに物わかりのいい原作者と仕事をしてればなあ、なんて今更嘆き節を言っても意味はないなあ。

 で、小説版と映画版の一番の違い。

 なんと、小説版では弟の博司に殺されてしまう小夜子なんだが、映画版では殺してしまったというのは息子の博司(風間俊介)の誤解で、なんと深夜の巡回するパトカーの前で小夜子の息が吹き返してしまうんだ。トランクに積み込もうとしていた小夜子の死体を詰め込んでいたスーツケース。後ろから来た深夜巡回のパトカーに止められてしまう。これは危機一髪、という表情の柏木。

 が、いつの間にかコロコロ転がりだすスーツケース。

 これは怪しいと睨んだ警察官がスーツケースのキーを押すと……、なんとそこには普通に微笑んでいる小夜子が立ち上がる。

「えーっ? うっそー!」

 って小説版の読者からしてみれば考えるんだが、まあ、それはそれで映画のラストを飾るのにはふさわしい。

 本物の遺言書を手にして喜ぶ朋美とともに、多分柏木からの3000万円も受け取っただろう本多の前を、相変わらず「後妻業」に励む小夜子と柏木の乗った船が通り過ぎる。

 う~ん、映画のラストシーンはこんな感じじゃないとね、と鶴橋氏が言っているようだ。

 こりゃ、続編ができるなって、「東宝の島ちゃんや」って島耕作を自称している、島谷能成社長の言葉が聞こえてきた。まあ、京大出のコテコテの関西人やからねえ。

 で、鶴橋康夫氏って新潟の出身だったのね。てっきり名前から大阪の鶴橋(焼肉屋さんが多い大阪のコリアンタウン)出身だったと思っていた私はバカでした。

映画『後妻業の女』はTOHOシネマズ日劇ほか、全国公開中

公式サイトはコチラ

原作評の方もヨロシクね

2016年7月30日 (土)

『疑惑のチャンピオン』っていうタイトルにはちょっと違和感があるんだなあ

 7月2日のツール・ド・フランス開幕日と同じ日に日本で公開された映画なんだけれども、24日にツールが終了してしまったので、それに合わせて今週末で公開を終える劇場が多いことにちょっと残念。

 まあ、意味は分かるんですがね……。日本じゃサイクルロードレースはせいぜいJ SportとかNHK BSで放送する程度の番組でしかないので、ツールと同時に映画の公開も終わってしまうんですね。

 ところがヨーロッパではサイクルロードレースはサッカーの次くらいに人気のあるスポーツだし、だからこそドーピングなんて問題が大きく取り上げられる。「サイクルロードレースとドーピング」っていうのは、日本で「力士のタニマチがヤクザだった」っていうのと同じくらいに大きな問題になってしまうんですな。

 ところが日本じゃサイクルロードレースなんて実にマイナーなスポーツでしかないので、ドーピングが問題になるほどの盛り上がりはないし、だいたいドーピングをしてまで勝ちたいという選手もいないんだ。日本のサイクルロードレースのあるチームのスポンサーになっている梅丹本舗っていう会社の製品にドーピングに使われるモノが含まれていたっていうのが、今年話題になったんだが、多分知っている人はまずいないんじゃないかな。

 このサイクルロードレースに対する社会の扱いの規模の彼我の違いをまず理解していないと、この映画に対する評価も違ってくる。

Photo 『疑惑のチャンピオン "THE PROGRAM"』(STUDIO CANAL・WORKING TITLE /原案:ディビット・ウォルシュ "Seven Deadly Sons : My Pursuit of Lance Armstrong"/脚本:ジョン・ホッジ/監督:スティヴン・フリアーズ/主演:ベン・フォレスト〈ランス・アームストロング〉、ジェシー・プレテンス〈フロイド・ランディス〉)

 ということで、私はまず『疑惑のチャンピオン』っていう邦題から、「なんかなあ」感があるのだ。

 原題は「THE PROGRAM」、つまりドーピングということ自体が、既にサイクルロードレース・チームではチームのプログラムとして組み込まれているっていうことを表しているんだが、邦題の「疑惑のチャンピオン」ってなってしまうと、まるでランス・アームストロングだけがドーピングに手を出しているみたいになってしまう。根本の問題はサイクルロードレース自体がドーピングと大きな関係のあるスポーツだってことなんだ。

 だいたい、ランス・アームストロングが真っ黒けのケだっていうことは皆知っていたんだが、なんとかそれをうまくすり抜けてきたっていうだけのこと。ガンからの生還者っていう病み上がりが、過酷な三週間にわたる三大ツールに復帰してきて、なおかつ七連覇しちゃうっていうこと自体が、充分ドーピングを疑われても仕方のないことなんだ。

 ガンになるまでは、もともとアイアンマン・レースをやっていたランスなので、自転車選手としては余計な筋肉が体についていたのが、ガンになったおかげでその筋肉が全部落ちちゃって、今度は自転車トレーニングだけして復帰したので、登りにも強い選手になったというのが、「ランス神話」なんだけれども、まあ、別の理由もあったというわけで……。

 更にランスがアメリカ人だっていうこともフランス人にとっては目の敵ではあったようだ。つまり、サイクルロードレースっていうヨーロッパ発祥のスポーツに新大陸の人間が出てきて勝ってしまうっていうこと自体がヨーロッパ人にとっては許せないこと。それもフランス人最大の誇りであるツール・ド・フランス七連覇ですよ七連覇。一回ぐらいの優勝だったら許してくれるんだが、七連覇もされちゃったらフランス人のメンツが立たない。なので、ランスのドーピング疑惑も一番最初はフランスで立ち上がった。あまりにも強すぎたアメリカ人がフランス人の嫌米心理に火を点けてしまったのだ。

 しかし、選手の間からはドーピングが話題になることはない。つまり誰かのドーピングをあげつらってしまったら、次は自分が標的になってしまうのだ。要は、過去一度もドーピングに手を出したことがない選手はいないっていうことなんだろう。

 なので、だいたいドーピングの調査は「違法薬物」っていうことで警察がまず手をつけて、その結果薬物が出てくると、UCI(国際自転車連盟)やWADA(世界アンチドーピング機構)に提訴するっていう順番。映画の冒頭で出てくる「フェスティナ事件」がそれ。

 ただし、UCIはどちらかというと選手に立場が近い。つまり、ドーピング調査で選手がどんどんクロになってしまっては、観客が注目する選手が出場できなくなってしまって、サイクルロードレースっていう興業がおこなえなくなってしまう。そうなってしまえばUCIの存在そのものにも関わってくる問題なので、UCIとしてはちょっと腰が引けてきてしまうのだ。

 WADAにしたって、別に自分たちの組織は警察権を持っているわけではないし、強制力は持っていないので、とりあえずUCIにゲタを預けちゃうわけですね。で、UCIは上のような感じなので力は出さない。

 ランスのドーピング告発も結局フロイド・ランディスが行って、USADA(アメリカ・アンチドーピング機構)が、まあランスは引退しちゃったんでまあいいかなってなもんで、それじゃあって状況証拠を徹底して集めて、UCIに提訴し、UCIもいやいや認めざるを得なくなってしまった、というのが真実だろう。

 この映画で初めて知ったことは、ランスがUCIにワイロを出していたっていうこと。ランス自身は現役選手時代500回を超すドーピング検査をおこなってきて、そのすべてに「シロ」判定が出ていたんだが、そのウラにはそんな事実があったんですね。まあ、それじゃあ何度ドーピング検査を行っても「シロ」判定しか出ないわけだ。

 まあ、どうでもよいことなんだけれども、エンディング・クレジットのテキサス・ユニットの中でアレックス・キンタナっていうカメラ・オペレーターだかなんだかを発見したのには笑えた。キンタナですよキンタナ。

 ランスのドーピングの問題に関しては、当ブログでも過去何度か触れているのでそちらもご参照ください。

2010年7月8日「今度はランディスがアームストロングを…何を今更昔のことを掘り起こすのか?」

2012年6月15日「ランス・アームストロング氏のドーピング違反の正式判定」

2012年7月3日「『ランス・アームストロング氏のドーピング違反の正式判定』に対する批判に応える

映画『疑惑のチャンピオン』は丸の内ピカデリー他で公開中。

公式サイトはコチラ

 コチラもご参考に。まあ、サイクルロードレースとドーピングの深いつながりが読んでとれます。

2016年4月24日 (日)

『厨房男子』いよいよ横浜で公開! 初日に行ってきた!

 映画『厨房男子』が4月23日から横浜シネマリンで公開された。

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『厨房男子』(企画・製作・監督:高野史枝/撮影:城間典子/製作進行:欧陽蔚怡/写真:岡村靖子・上水哲也・佐治秀保/タイトル文字:キムホノ/ロゴ製作:安達一輝(あだちデザイン製作所)/HP・チラシ製作:大池香奈子/製作協力:「自由空間」兼松春実・「イーストの会」浅野由美子・映画ゼミ ・ミューいしがせ(石ヶ瀬会館)/copyright@厨房男子を作る会)

 それを記念して、昨年12月22日のブログを再録して、再度映画を紹介します。

 結構、面白いよ。「厨房男子」じゃない私が見ても面白いんだから、もしブログ読者で「厨房男子」がいたら、必見!

『映画は8人と2グループの「厨房男子」をオムニバスで観察、それぞれのお互いに異なる厨房男子事情を描いている。う~ん、まったく異なるんだよな。

 まずは「フレンチは手間ヒマかかる」という高野裕夫氏。名前の通り監督の高野氏のご主人。あれっ? テレビの音響効果マンじゃなかったのかな? と思ったのだがその通り。その裕夫氏がいつの間にかフランス料理のケータリングシェフになっていたのだ。が、しかし朝の3時に起きてお昼の支度って時間かけ過ぎじゃない? 面白いのはいちいち計量の度に電卓が出てくるところ。まあ、元音効マンとしては、何でもキチンとしていなければ満足できない……って、ところでしょうか。まあ、小さなモノ(音)を一つづつ積み上げていくっていのが、フランス料理と音響の仕事の共通点なのかな。まあ、そんな技術者らしいシェフってのも面白いかもね。

 続いては「単身赴任でも大丈夫」なゴルフ場取締役社長の近藤清氏。鈴蘭高原カントリークラブは東海ラジオの経営。ということで元ラジオマンの近藤氏の第二の職場がゴルフ場ということ。ゴルフ場に隣接する別荘で単身赴任の近藤氏は庭で山菜を摘んで天ぷらを作り、一杯やるという優雅な暮らしを楽しんでいる。

「農園の風をそのまま食べる」寺園風氏は名古屋の出身だが、わざわざ三重県の農業高校を卒業して農家になっちゃった人。無農薬栽培で作った我が畑からのものばかりで食卓を飾る。まだ27歳の彼は一児のパパである。まあ、とにかく採ったモノは天ぷらか? って感じでしょうか。

 民放アナウンサーの宮田和音氏はカレーに絶対の自信がある。が、しかしそれはフリー・アナウンサーの妻の作戦でもあった。つまり、初めてカレーを作った宮田氏の腕前を褒めることで、以降はカレーは宮田氏が作ることになってしまった、というので「進化するパパカレー」。どう進化したのかというと、最初の頃はひき肉ばかりのカレーだったのが、娘が「塊の肉の入ったカレーが食べたい」と言うのを聞いて、次からはリブロース・カレーになったりとか。それで、その後も次々にリクエストが出る度に、カレーは進化。ということになってしまったようなのだ。現在は東京にいる娘の家には、パパのカレー・レシピがあって、時々、そのレシピでカレーを作って、友達に振る舞っているとのこと。

「パンの三銃士」は読んで字の如し、女性の個人宅パン教室にかよう男3人のお話し。しかし、パン焼くだけでも「厨房男子」なのかなあ。

 代表作「性別が、ない!」で知られるギャグ漫画家・新井祥氏のアシスタントうさきこう氏はゲイ。住み込みアシスタントのうさき氏が料理担当ということで、「美しき料理人、金目鯛をさばく」ということで、金目鯛のアクアパッツァを作る。しかし、ゲイでも「厨房男子」なんだろうか、というのがちょっと疑問。確かに医学的には「男子」なのかもしれないけれどもね。

 書家でコピーライター、編集者の墨拙氏は、数年前に母親と妹を亡くし、妻とも離婚してひとり暮らし。午後早くから始める夕食(というか食事は一日にこれだけみたい)は延々8時間は続くという。「料理はすべて酒の肴」で10種類以上、ほとんどが野菜プラス肉一皿。8時間かけて食事というか一人酒。その後8時間眠り。翌朝起きて、午前中に数時間仕事というところなんだろう。まあ、なんか殆ど死んでいるような時間が流れる。墨拙氏の家から見えている隣の家の屋根越しに見える空も、なんか「死んでいる」んだなあ。

 設計事務所勤務の大澤新平氏こそはチラシに登場する(上の写真の真ん中の)人であります。NPO法人の理事を務めるパートナーが2~3ヶ月に一回自宅で女子会を催すときの料理担当を務める。で「女子会全力サポート」。特にパーティー料理っていう訳ではないけれども、特に種類が豊富。女子会終了後の後片付けは女子の担当。女子会終了後の満足そうな大澤氏。「いやあ、最近モテちゃって」だそうだ。うん、この人はまだまだ生臭い。

 高野裕樹氏とは読んで字の如し、監督の高野史枝氏と音効マン裕夫氏のご子息。共働きの高野夫妻(というか史枝氏)は、息子が自分で料理ができるような男にしたい、ということで幼いころから「マイ包丁」を持たせたそうな。で「36歳、料理歴は30年」って凄いな。そのおかげで大学生時代も留学時代も外食は一切なし、だったそうだ。とにかく30年の料理歴は凄い。手際の良さなんてものじゃない。その料理のスピードたるや帰りの新幹線のぞみ号並だ、って比喩がおかしい?

 で、最後が怒涛のコロッケ作り編。愛知県大府市には石ヶ瀬会館(ミューいしがせ)というのがあって、「男女共同参画社会を目指して”集まる” ”学ぶ” ”語り合う”交流・交歓の場」 になっており、そこに「メンズカレッジ&男楽会」というのがあって、そこの料理教室で腕を磨いたシニア男性たちが約3000個のコロッケを作って、大府市のお祭りで売ろうというのだ。題して「定年後の男子45人が怒涛のコロッケつくり」。まあ、約3000個って半端じゃない量であります。玉ねぎだって涙無しじゃあ刻めません。

 考えて見ればこれからは「男女共同参画社会」を目指そうというんだから、男だって、子供を産むことは無理だけど、厨房に立つ位のことはできて当たり前の社会になって行かなければいけないんだろうな。

 この映画では、まだ、しかし、言ってみればそんな前期状態の男の料理の様ではある。つまり、まだまだ「アタマから入る料理」だってこと。女性が料理するような時の「当たり前感」があるのは、高野裕樹氏位のもので、まだまだかな。』

 う~ん、ちょっと手抜きブログでした。ゴメン。明日からはちゃんと更新するからね。

 映画は横浜シネマリンで4月23日から3週間、朝10時30分からのモーニング上映1回。

 横浜シネマリンのサイトはコチラ

『厨房男子』のサイトはコチラ

Dsc_00112_2 舞台挨拶する高野監督

2016_04_23 横浜シネマリン

NIKON Df AF MIKKOR 24-85mm f1:2.8-4 D @Yokohama, Kanagawa (c)tsunoken

2016年4月22日 (金)

『厨房男子』首都圏でいよいよ明日公開!

 昨年12月22日のブログで書いた、高野史枝渾身のドキュメンタリーフィルム(笑)『厨房男子』がいよいよ首都圏で明日4月23日から公開される!

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『厨房男子』(企画・製作・監督:高野史枝/撮影:城間典子/製作進行:欧陽蔚怡/写真:岡村靖子・上水哲也・佐治秀保/タイトル文字:キムホノ/ロゴ製作:安達一輝(あだちデザイン製作所)/HP・チラシ製作:大池香奈子/製作協力:「自由空間」兼松春実・「イーストの会」浅野由美子・映画ゼミ ・ミューいしがせ(石ヶ瀬会館)/copyright@厨房男子を作る会)

 上映は横浜シネマリン(横浜市中区長者町6-95)で4月23日(土)から3週間、朝10時からのモーニング上映1回。

 4月23日の初日、上映終了後に監督(高野史枝)舞台挨拶の予定あり。

 名古屋では12月19日から1月15日までの5週間で観客動員1,600人というから、この種のドキュメンタリーとしては好成績だろう。小屋主としては『「大ヒット」とは言えないまでも、「ヒット」と言っていいよ……』というところだったそうだ。ということで、そこそこ期待していい「楽しいドキュメンタリーフィルム」であることは保証します。

 横浜以降も順次公開は決まっているようで……

大阪 シネヌーヴォ

宝塚 シネピピア(7月2日~)

神戸 元町映画館

京都 京都みなみ会館 

 といったところがラインナップされているらしい。

 ただし、東京のポレポレ東中野とかシアターイメージフォーラムとかではまだ予定がないみたいだ。なんかその方向で動いてみようかな。

 首都圏といっても東京じゃないところがイマイチだけれども、でもJR京浜東北線(横浜線)の関内駅からもすぐそばの横浜シネマリンなので、東京からもすぐ行けるところだし、とりあえず早めに見たい人は横浜へGO! であります。

 とりあえず私は明日見に行きます。

横浜シネマリンのサイトはコチラ

『厨房男子』のサイトはコチラ

Photo_2

2016年2月25日 (木)

観察映画『牡蠣工場』は「猫に始まり猫に終わる」不思議な映画なんだ

「コネなし議員」のつぎは「ネコ映画」ですって、アレ?

 想田和弘監督の「観察映画」第六弾『牡蠣工場』は白猫のどアップに始まり、ラストシーンも白猫に終わる不思議な映画なのだった。

 白猫は「シロ」と呼ばれているが、本当は「ミルク」という猫だそうだ。首輪が付いているのでノラ猫ではないようだ。

Photo_2 『牡蠣工場』(製作:柏木規与子/監督・撮影・録音・編集:想田和弘)

 舞台は岡山県瀬戸内市牛窓という小さな町。

『西は岡山市、北は邑久町、東と南は瀬戸内海に面している。特に観光業に力をいれており、「日本のエーゲ海」と称している。 また、岡山県有数のマッシュルームの生産地であり、香川県小豆島とならび日本二大オリーブ産地の一つでもある』
『町名の由来:神功皇后が三韓征伐の道中、この地で塵輪鬼(じんりんき=頭が八つの大牛怪物)に襲われたが弓で射殺。皇后が新羅からの帰途、成仏出来なかった塵輪鬼が牛鬼になって再度来襲、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ倒した。この場所を牛転(うしまろび)といい、訛って牛窓になったという。牛窓界隈には、伝説にまつわる浮かぶ島や神社等がある。
 牛窓には、前島・黄島・黒島・青島などの島々が瀬戸内海に浮かんでいる。定かではないが、この牛鬼が滅びた後にこれらの島々に化けたとの言い伝え(伝説)がある。頭は黄島、胴体の前は前島、胴体の後ろは青島、お尻の部分は黒島に化けたと地元では伝えられている』
『主な産業は、農業、漁業、観光業。特に、マッシュルーム、オリーブ、カキの生産が盛んである』

 というのが牛窓という町のWikipediaでの紹介。人工はおよそ7,500人という小さな町だ。本当に小さな町。

 そんな小さな町に、宮城県南三陸町から家業の牡蠣工場が東日本大震災で壊滅的な打撃を受けて、移り住んできた一家がいる。

「やりかたは南三陸と牛窓では同じ牡蠣と言っても全然違う」

 というその人だが、たまにやって来て工場を手伝う、サラリーマンをやっている平野牡蠣作業所の息子が後を継がないというので、その人が後継ぎとなることになった。

 毎朝早く沖合の牡蠣いかだに養殖の牡蠣を上げに行き、大きなカゴ三つを上げると港に戻ってくる。カゴからクレーンで牡蠣を工場に入れると、中で剥き子が牡蠣を剥く。時間は午前7時から午後4時まで、一日中牡蠣を剥く。ひたすら単調な作業、ひたすら単調な作業、ひたすら単調な作業……。

「若い人で牡蠣をやろうとする人はいないのですか?」

 という監督の質問には、はっきりと

「いない、だって3Kだから」

 と答える。

 工場周辺にはお年寄りの姿が多く目につく。

 60数歳の老牡蠣漁民は、幸い息子が後継ぎになってくれるようだが、65歳までは息子に財産(ったって、牡蠣漁船と牡蠣工場位なもの)を継がせると「贈与税」がかかってしまうので、何としてでも65歳までは働くそうだ。体も辛くなっているので、65歳になったらすべての財産を息子に継がせて、自分は年金で悠々自適をするのだろうか。

 でも、この人、今64歳の私から見ても、私よりずっと年上に見えてしまう。何なんだろうか、都会でサラリーマンをしてきた上っ面の年輪の積み重ねよりも、田舎で実業をしてきた重みみたいなものがあるんだろうか。う~ん、よく分からないなあ。

 牡蠣の町、牛窓にはかつて二十軒の牡蠣工場があったそうだが、今は六つの牡蠣工場があるのみ、そこで働く剥き子の大半は地元の女性である。ほとんどがお婆ちゃん。また、その内のいくつかの工場では中国人が働いている。もたないで短期間で帰ってしまう者もいる。そうなると渡航費用や研修費が借金となってしまう。それでももたないで帰ってしまうそうなのだ。やっぱり、そんなにキツい仕事なのかな。

 平野牡蠣作業所にも二人の中国人がやってくることになる。そのためにプレハブの小屋を買う。62万円。やってくる中国人はいい人なんだろうか。長期間持つんだろうか。

 やがて中国人二人がやってくる。

 来た時だけは通訳の女性が一緒にいるので、なんとなくコミュニケーションはとれる。

 通訳が帰ってしまうと、あとは「中国語会話」の本だけが頼りだ。

 電気釜の使い方が分からない中国人に、手ぶり身ぶりで教える。牡蠣を食べたことのない中国人に牡蠣を茹でて食べさせる。それも身ぶり手ぶりである。最初は牡蠣を開いて身を取りだすことも出来ない。大変だな、こうしたコミュニケーションって。少しは中国人も日本語を話せる(でも理解はしていない)のが救いか。

 翌朝は中国人を乗せて牡蠣漁にでる。牡蠣筏から三つのカゴにいっぱいの牡蠣を入れて港に帰ってくる。でも、元々船乗りではない彼らは、「もやい結び」を知らない。それを教えながらクレーン作業をする。当然、牡蠣カゴの場所が変わればもやいを解いて、船を動かし再びもやいを結ばなければならない。でも、それも分からない。

 そうやって少しづつ「船の仕事」を教えて行きながら、いつまでいてくれるのか分からない中国人に仕事を教えなければならない。

 彼らが訪日した本当の目的や、いつまでいるのかといったことはわからない。でも、今は牡蠣漁と牡蠣工場の仲間として教えなければならないことは多い。

 そんな日常が普通に流れている。

 と、まあそんな映画が『牡蠣工場』である。まさに「日常」……。

 あっ、そうか! 映画冒頭の白猫「シロ」と、最後の白猫「シロ」は想田監督の姿を変えた形なのかも知れない。

 やたら人の家に上がりたくなる白猫も、想田監督も同じじゃないか。やたら人の家に上がり込んだり、親しくしたりする想田監督である。それはまるであの白猫みたいに、多少は人が嫌がっていても、でも、親しくなってしまって入り込んでしまう、想田監督の方法論と一緒だ。

 うーむ、そうかそうだったんだ。

 あの、冒頭で出てくる白猫と、ラストシーンで人の家に上がり込んでしまう白猫は、まるで想田監督が「観察映画」と呼んでいるドキュメンタリー映画の手法とまったく同じで、そうやって想田監督は人の家の中に入って行ったんだろうなあ。

映画『牡蠣工場』はシアターイメージフォーラム他で公開中

公式サイトはコチラ

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