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カメラ・写真

2018年7月18日 (水)

ドナルド・キーン写真展が暑い

 いやあ、思わず「暑い」と書き間違えてしまった。正しくは「ドナルド・キーン写真展が熱い」ですね。

 といっても、勿論ドナルド・キーン氏がフォトグラファーであるわけはなく(まあ、広い世の中にはそんな名前の写真家がいてもおかしくはないが)、正しくは『ドナルド・キーンのまなざし 宮澤正明写真展ー』というタイトルなのだ。

 つまり宮澤正明氏によるドナルド・キーン氏の写真展が、旧古川庭園にある大谷美術館で開催中であるってことなのでした。

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 ドナルド・キーン氏と言えば、コロンビア大学名誉教授で日本及び日本文学の研究家であり、東京都名誉都民、北区名誉区民、新潟県柏崎市名誉市民、勲等は勲二等、2008年に文化勲章受章まで受賞、日本を愛するあまり日本国籍まで取得してしまったという日本フリークな人として有名な人だ。

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 そのドナルド・キーン氏が写真家の宮澤正明氏と知り合ったエピソードも、いかにも日本フリークなドナルド・キーン氏らしい。

『写真家・宮澤正明氏との出会いは、伊勢神宮にはじまる。2013年「第六十二回神宮式年遷宮」の写真集上梓の際に、コメントを依頼されたのが最初である。私は、日本に留学できた1953年に、終戦後初めて執り行われた「遷御の儀」に立ち会う機会を得て、今回2013年は実に4度目の列席であった。20年に一度の「遷御の儀」に4回も立ち会えたことは、誠に幸運と言うべきであろう。その遷宮行事を8年間にわたり撮影していたのが、写真家の宮澤正明氏だった。
 4たび遷宮に列席し、様々な風景や場面を脳裏に刻んできた。お能に譬えてもいいような、無駄や虚飾のない儀式の数々、そして、日本建築の原型とも言うべき建物群、それは、自分の記憶の中でしか再現できない、美しい場面である。しかし時には、前の席の人の動きに気をとられたり、間違って別の方向を見たりして、見逃してしまった光景もあるはずだ。そうした一瞬の美を見落とさずに、特別に美しいものを教えてくれるのが写真家の芸術である。この写真を撮影した宮澤正明氏も、そんな写真家の一人だ。普通の人は、そういう目を持っていない。
 宮澤氏が撮った写真の数々を眺めていくと、彼がいかに辛抱強く、いかに工夫を重ねて、一瞬の機会を捉えたかが、よくわかる。もちろん、遷宮の行事を8年にもわたって撮り続け、その人柄に信頼がよせられたからこそ、一般人には踏み込むことのできない領域まで、宮澤氏のカメラは入ることができたのだろう。
 宮澤氏と出会ってから、これも何かのご縁であろうか、私は幾度となく彼のカメラの前に立つことになった。旧古川庭園を見下ろす私の書斎で、お墓を構えた無量寺の桜の下で、馴染みの霜降銀座商店街で、さらには、新潟柏崎や英国の旅の道中でも、宮澤氏は私にカメラを向け、私は微笑みで返した。いや、ときには難しい顔もしたであろう。
 彼とのフォトセッションは、自分が被写体であることを自覚する間もなく、カメラという装置の介在を忘れ、宮澤正明とドナルド・キーンという存在同士が対峙する時間だった。それはまるで沈黙の対話のようでもあった。そんな時を重ねて、宮澤氏のアトリエにはおそらく幾万もの鬼怒鳴門(ドナルド・キーン)の喜怒哀楽が、保存されているに違いない。
 このたび私の写真展を、とてもなじみの深い旧古河庭園にある大谷美術館でやっていただくことになったようだ。果たして私の写真を観に来ていただく方がどのくらいいるのか私にはわからないが、少なくとも築100年となるジョサイア・コンドルの名建築だけでも観る価値はあると思う。
 この2年間、私の写真を撮っていただいた宮澤氏に感謝すると共に、写真展の成功を祈る気持ちでいっぱいである。私は先日96歳になった。これからも撮ってもらう機会があればお願いしようと考えている。

ドナルド・キーン
    2018年6月吉日』

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 実は、この写真展を見るまではドナルド・キーン氏が北区の住民であり、旧古河庭園のそばに書斎があったり、霜降銀座商店街なんてところまでを知っているなんて……、知らなかった。

 ということなので、別にドナルド・キーン氏が自分で撮った写真展じゃなくて、ドナルド・キーンしが写っている写真展である……、ってことをご承知の上旧古河庭園へ。

 写真展だけの入場は無料です。

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『<旧古川邸+庭園> 100周年記念 ドナルド・キーンのまなざし 宮澤正明写真展ー』は8月5日まで 旧古川邸・大谷美術館一階フロアにて開催中。

北区の公式サイトはコチラ

2018年7月16日 (月)

旧レンズで、お暑うございます。

 毎日毎日、お暑うございます……、なあんてことを言ってしまっては広島や岡山の人には申し訳ないが、でも、そんなことを言っても、東京も暑いです。

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 で、暑い夏はどうやって過ごすのか? ってまあ、逆に一杯汗をかいてしまうってのが一つの方法でもあるんですね。本当「汗かいて、生きよう」ってなもんです。

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 で、ついでにデジタル一眼に旧レンズをつけて撮影行をするんです(なんでそれが暑い時の処方なにかがわからない)。

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 今回、ニコンDfに装着しているのは「Ai NIKKOR 50mm f1:1.4」という、アナログ・ニコンの時代の標準レンズっていうか、まあ、行ってみればニコンの基本レンズっていうわけですね。私は以前、同じNIKKORの「50mm f1:1.2」っていう、この「f1:1.4」に比較すると二回りぐらい大きいレンズを持っていたことがあるが、実は図体が大きいだけで別に写りは「f1:1.4」と変わりがないので、「まあ、いらねえな」ってな感じで売ってしまった。

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 で、久々のアナログ・ニコンなんだが、使ってみる感じは別にデジタルニコンとはあまり変わらない……、っていうかこの日は快晴なので基本的に絞りはf11かf16、だったら実はほとんどすべての画面に合焦できちゃうんですね。

 でも、面白いのは「機械はバカ」だから、オートフォーカスのレンズを装着していると、たとえ絞りをf16とか、それ以上にしてもちゃんと「ジッ」なんてレンズが鳴ってフォーカスを合わせようとしたり、撮影しよという対象があまり光の変化がない被写体だったりするとフォーカスが合わなくて撮影できなかったりするんですね。

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 ホントばかですね。別に、理論上合焦しなくても何の問題もなく写っちゃうんですけれどもね。

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 ってなことを証明しようとしてこんな撮影をしたわけではありません。でも、なんとなく暑くて、午前中はお盆で墓参りした後でちょっと疲れているし、あまりヤル気はない……、てなことでこんな写真になりました。

 デジタル一眼なのでマニュアル・フォーカスのレンズを装着してもフォーカス・エイドが働いているんだけれども、実際の撮影に当たってはそんなもの気にしないで、適当なピントで撮ってます。まあ、それでもこれくらいは写るってことで……、だからってどうなのよ。

 それで、テーマは何なのか? う~ん…………。

NIKON Df Ai NIKKOR 50mm f1:1.4 @Nishigahara Kita ©tsunoken

2018年7月15日 (日)

小津安二郎のライカ

 えー、ポイントは「小津安二郎監督作品 特設コーナー」じゃなくて、その右側に配置された小津安二郎の写真なんですね。

 多分、これは本番撮影じゃなくてロケハンの風景なんだと思うけれども……。

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 映画監督なので、当然フィルムの画角を見るためのディレクターズビューファインダー(というのが正式名称、「スコープ」とも言います)を右手に構えて覗いているんですが、問題は同時に左手に持っているスチールカメラなんです。勿論、この時代のモダンボーイですから、持っているカメラはライカ。形式はⅢCかⅢf、レンズはフード付き沈胴ズミクロン 50mm。ライカと映画には重要なつながりがあって、もともと、ムービーカメラを作っていたライカ。そのライカが映画カメラの露出を測るために映画の一コマ(実際には二コマなんだが)だけを撮影して、露出が適正かどうかを見るためのカメラを作ったんだけれど、それがそのままスチールカメラとして使えるのを発見した、というのがライカカメラの始まりだったのである。なので、ツァイスイコン・コンタックスでもいいけど、でも、映画屋はライカ。

 勿論、ライカ判カメラっていうのは普通の35mm判映画のフィルムをそのまま使うことによって始まったフィルムサイズなので、映画監督がライカを持っていると、「う~ん、やっぱり映画の端尺をライカに入れて撮っているのかな、なんて考えたりする愉しみがあったりするんである。それはコンタックスも同じなんだが……。

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 小津安二郎とスチールカメラの関係に関してはなかなか面白い本を見つけたので、今日はそれを紹介。

 本は映画史研究者の登重樹氏の『望郷の小津安二郎』(皓星社)。「第1部 小津安二郎の若き日々』の『第2章 青年』の中に「カメラとの出会い」という項があって、あまりページ数は多くはないが、なるほどという記述が見て取れる。

『小津自身の証言によれば、彼がはじめてカメラをいじったのは中学生時代の通称べス単、つまりアメリカのコダック社が一九一二(大正元)年に発売した、正式名称はVest Pocket KODAKという小型カメラだった。』

 ただし、このカメラは当時中学生の小津に買えるわけもなく、親友の持ち物を借りたものだったようだ。

『『カメラ毎日』昭和二十九(一九五四)年六月号誌上での小津の発言によれば、彼はその後ブロニーを経て、ライカのA型を手に入れたのが昭和五(一九三〇)年か六(一九三一)年頃で、海軍の遠洋航海の撮影でドイツ行くことになったカメラマンの茂原英雄に頼んで買ってきてもらっている。当時の価格は三百円。すでに監督に昇進していたとはいえ小津のその頃の月給は百十円だったので、決して安い買い物ではなかった。』

『小津は従軍中におよそ四千枚の写真を撮影し、仕事の参考にしようという魂胆で、帰還後にそれをスクラップブックに整理していたらしい。』

『『長屋紳士録』から『彼岸花』まで撮影助手として小津組についた川又昂が、『晩春』のクランク・インのとき、撮影中の作品の全カットを名刺判の写真に引き伸ばして保存することを小津から命じられた、というエピソードは、小津が写真に対して強い指向(嗜好)を持っていたことを物語る。』

『たとえば、丸之内のオフィス街を捉えた外景ショット、幾何学的な建物の列、煙突、茶の間に置かれた薬缶、書院の壷、並べられた樽など、比較的初期の頃から晩年に至るまで、小津のそうしたこだわりを示す絵画的、静止画的ショットを数多く見出すことが出来る。それらの絵画的ショット、静止画的ショットの中には、誰かの見た目ショットとは明らかに異なるとしか受け取られないようなアングルから撮られたショットもしばしば現れている。つまりそのショットは、あたかも前後のショットとはまるで無関係に、人称性を欠いた静物画のごとく空の光景だけがそこに浮かんでいる感じ、といった印象を見る者に与えることがある。そうしたショットが頻出するのも、もともと絵画の構図設計に並外れた素質を持ち中学生時代にカメラと出会った小津が、その後も一貫してカメラを愛好し続け、晩年に至るにつれて絵画や静止画への接近をどんどん強めていった、という観点からの再検証が必要と思われる。厚田雄春によれば、小津はロケハンにライカを持参し、気に入ったところをフィルムに収めていた。小津映画独特の静止画的ショットはライカで撮った写真を銀幕に拡大再現する行為だったともいえるのである。』

 小津安二郎は明治36年に東京は深川に生まれ、小学校は深川の小学校に通ったんだが、1913(大正2)年、三重県松阪市に移転、1916(大正5)年、宇治山田の中学校(旧制)に入学し、そこが小津の「映像生活」の始まりだったようだ。

 当時、三重県辺りでカメラを持っていたというのは、相当なお金持ちでなおかつ新しもの好きの好事家ということになるのだろう。その後は、カメラ名は分からないがブロニー判カメラを経てライカA型という変遷らしい。ベスト判(4×6.5cm)→ブローニー判(6×6、6×9cmなど)→ライカ判(35mm)というフィルム・フォーマットの変遷も面白いが、やっぱり行き着くところが35mmムービーフィルム・フォーマットっていうところが、如何にも映画屋さんっていう感じで面白い。逆に言ってしまえば、多分それはフィルムの粒子の性能向上とも関係するのであろう。しかし、そうだったらまったく映画のフィルムフォーマットと同じハーフサイズにまで行ってほしかったなあ、って当時はそんなカメラはなかったか。

 同時に、小津の頑固なまでのカメラアングルへのこだわりというものが、スチールカメラにおける絵画的表現と関連付けられて語っているのも面白い。

 確かに小津は撮影時に全ショット自らカメラを覗いて画角を確認してからリハーサル→本番という形で映画の撮影を行っていたらしい。普通こんなことをする監督は撮影部から嫌がられて、下手をすると「そんなに俺たちを信用できないんだったら、自分で撮影までやればいいじゃねえかよ」ってな感じで、カメラマンからサボタージュを受けてしまうだろう。しかし、それをされなかったのは、小津が松竹蒲田撮影所に入所した時の最初に配属されたのが撮影部だったということも影響しているのかもしれない。まあ、職人肌の撮影部の連中にとっては、「ああ、ちょっと面倒くさい、先輩監督だなあ」なんてところだったのでしょうね。

 同じタイプのフィルムを使うっていうことだけじゃなくても、映画(ムービーフィルム)と写真(スチールフォト)との関連性というものは考えられなければならないはずなんだが、どうも我が国の映画評論家でそうした技術的立場っていうか、趣味嗜好がある評論家はいない。日本の評論家って、結局、映画を見るのが好きなだけの映画フリークか映画史研究家という文科系人間ばっかりで、「写真家出身の映画評論家」といったような異色の人っていないんだなあ。したがって、映画というテクノロジーの塊のような映像表現ジャンルでありながら、そうした技術部分から切り込める評論家ってほとんどいない。

 デジタルシネマが当たり前になっている時代に、そうした技術分野でもって映画を語れる評論家がいないっていうのも、ちょっと問題なんじゃないか?

 って、「小津安二郎のライカ」っていうテーマからはちょっと離れちゃったけれども……。

『望郷の小津安二郎』(登重樹著/皓星社/2017年8月20日刊)

2018年7月 6日 (金)

『NIKON F 展』が昨日から始まったんだが……

 昨日(7月5日)から、目黒区祐天寺のギャラリー「Paper Pool」で、共同写真展「Ex. F vol.2」というのが始まったというので見に行ったんだが……。なんか、ギャラリーが見つからなかったんだよね。

 東横線の祐天寺駅前と言えば、私にとって大きな存在はこの「王様書房」なんですね。

「何が王様なのか?」と言えば、実は店主という社長というか、まあ親爺さんが「王様」みたいな人なんですね。お客さんに対してはそうじゃないと思うんだけれども、我々出版社の人間に対してはまさしく「王様」みたいな対応をするっていう、まあ、ある意味で、実に正しい人なんです。

 ちょっと前までは東京都の書店組合の重鎮だった。見た目は飄々とした人物なんだけれども、交渉者としてはなかなかの人ではありました。

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 で、その王様書房の前を過ぎてほんの数分行くと左側に1階が店舗になっているマンションがあるんだけれども、見えてる部分の奥の方、駐車場のサインがある場所の手前が「ギリギリカフェ」というイタリアレストランが入っているビルの2階にあるのがPaper Pool。

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 実はこのPaper Pool 「 gallery, darkroom and Cafe Bar 」っていうだけあって、まあ「darkroom」に関しては営業時間はあまり関係ないんだろうけれども、「gallery」と「Cafe Bar」は、まあね、店員が来ないと開けないってもんで、基本的に「木曜日:18:00~22:30/金曜日:18:00~22:30/土曜日:15:00~22:30/日曜日:12:00~18:00」っていうパターンで営業を行っているらしい。

 つまり、私は写真展初日に行ったんだけれども、普段のビヘイビュアとして初日の午後に見に行こうとしたら、とんでもない、まだまだ開店までには時間があった、ってことなのでした。

 なので、下の二枚の写真は私が撮ったんじゃなくて、Paper Pool サイトから持ってきた写真。まあ、上の写真がそのPaper Pool の内部なんだけれども、こんな感じでウィスキーなんかの舐めながら自分の写真を見るっていう格好の、まあ、他人よりは、写真を撮った自分自身が自己満足できる酒場なんだな。

 まあ、それは当然、自分で(ここの暗室で)モノクロ・ネガから感光紙にプリントして、出来上がったプリントを(この店に自分で飾って)見ながら、スコッチかバーボンを舐めるっていう流れで楽しむのが、ここの店で一番上質な楽しみ方なんだろう。

 いまやアナログ・モノクロフィルムで撮影しても、プリントはデジタルっていうのが普通になってしまっている。なんて言っている私も、作品をプリントして発表する場合は、すべてデジタルだもんなあ。それを「露光」しても、まだどうなっているかは分からない「印画紙」を、現像液に浸しているうちに見えてくる画像。それを見ながらちょうどよいタイミングで定着させ、水洗いして仕上げるのがアナログプリントだ。

 う~ん、そうやって写真と格闘すると、終わった後はちょいと一杯やりたくなるんだろう。

 で、バー・タイムなんですね。わかるわかる。

Paper_pool

 ここに出品している皆さんがみんな、ここの暗室で焼き付け(プリント)を行ったのかは知らないけれども、作品出品しているのは以下の人たち。

『Ex. F vol.2』

◎前期(7月5日~15日)
赤山シュウ/伊藤一宏/大村竜也/荻野学/伽賀隆吾/加藤輝和/小林幹幸/近藤仁/土屋利昭/檜林洋介/柊サナカ/マエダトシヤス/松下大介/Chikashige Yukiya/Douchi Kuniyuki/Kiwako Uchino

◎後期(7月10日~29日)
相磯征正/青山史子/赤城耕一/足立和愛/一色卓丸/内村コースケ/大村祐里子/大沼秀麗/河田力也/真かずい/寺西朋美/森山敬互/森悦克/山内均/与呉鋭機/Akihito Tasiro

 赤城耕一氏が入ってるってことは、要はこれは赤城耕一一党の集まりだってことなのか。う~む、それはそれで楽しそうだな。

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 作品展のタイトルは『Ex. F vol.2』。つまり、ニコンのF、F2、F3で撮った写真だけの作品展ってこと。つまり、私の場合はアナログニコンとしてはF4とNew FM2しか所有していないので、出品資格はないってことですね。ニコンF、F2、F3ってことは、要はオートフォーカスが導入される前のフラッグシップ・ニコンっていうこと。う~ん、でもニコンF3にはF3AFっていうオートフォーカス機構を持った発展形のカメラとAFレンズがあったんだけれどもなあ、それは無視ですかね。

 営業時間は分かったので、今度もう一度行ってみよう。

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 祐天寺の駅から学芸大学方面へ進むと、こんな「五本木庚申塔群」なんて遺構もあるんだ刈れども……、それは別の機会に……。

2018年7月 2日 (月)

そもそも……、なんだってんだよ

 私が写真を始めたのは、小学校5年生の頃だったと思う。通っていた小学校に「写真クラブ」というのができた時に、興味を持ったのが切っ掛けだったのではないだろうか。

 多分、新たに赴任してきた教師がたまたま写真マニアで、自分で現像焼き付けなんかをやっていた人だったのではないだろうか。まあ、当時はモノクロ写真を自分で現像をする人は多くて、別に珍しいことではなかった。

 勿論、その写真クラブも自分で撮影してきたフィルムを、自分で現像して、自分で焼き付けて……、てな具合にすべて自分でやるっていう、当時としては当たり前の存在であったわけである。写真は撮ればそのまま画像になっちゃって、加工もできるし、そのままネットで送ることもできるっていう時代ではなかったんですね。まさしく「写真の黎明期」に立ち会っていたようなものです。勿論、既に「写真術」が完成されてから既に100年以上たっているんですけれどもね。

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「写真クラブ」に入ったと言っても、私自身がそれまでカメラに触ったことはほとんどなかったと言ってよいだろう。多分、叔父のカメラを少しばかりいじったことがある程度だったんではないだろうか。

 なので、写真クラブに入るためにカメラを買ったわけであるのだが、当然、大人が使うようなカメラを買ってもらうわけにはいかなく、しょっちゅう出入りしていた模型屋さんの店頭にあったカメラ、つまりほとんど今でいう「トイカメラ」みたいなものであるけれども、見た目はいかにもライカ風の、でも絞りは「大」と「小」、シャッタースピードは「普通のシャッタースピード」と「バルブ」しかないような、完璧な「オモチャ」のカメラではあった。

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 友人に八百屋の娘がいて、その子が多分親父のカメラを持ち出したんだろうけれども、生意気にも一眼レフのペトリV6なんかを撮影に持ってきたのには、結構嫉妬を覚えたものだった。

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 それでも当時既にフジフイルムの技術力はすごかったんだろう、そんなカメラであっても光の方向などをキチンと設計すれば、結構、ちゃんと写ったのである。当時は、ネオパンSSが出て、いよいよ写真フィルムもISO100が標準になった頃だった。現在のデジタルカメラのラティテュードは相当なものがあって、ほとんどリバーサルフィルムと変わらないほどにはなっているが、当時、既にモノクロ・ネガフィルムでは現在のデジタルカメラと同等以上のラティテュードを獲得していたのである。

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 そんなオモチャみたいなカメラで私は何を撮影していたのかと言えば、それがマトモな風景写真ばっかりじゃなくて、むしろ血道をあげていたのは「特撮」なのであった。

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 例えば、二重露光でもって、本来は見えないはずのものをいかにも撮影しました的な映像を作ろうとしたり、窓ガラスにUFOなんかのイラストを貼り付けて、それをバックの風景と一緒に撮って、「UFO写真の撮影に成功!」なんて大嘘をついていたりしていた。

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 その後、中学後半や高校生になってからは映画にのめり込み始めるんだが、そのきっかけっていうのがクロード・ルルーシュの『男と女』という映画のプログラムにルルーシュの自画像が載っていたんだが、要はそれはルルーシュが自らカメフレックスを手持ちでかかえて映画を撮影している場面なのだった。「うわっ。映画監督って自分でカメラを構えたりするんだ。カッコイイ。」っていうものなんだが、それは後日分かったんだけれども、そのスチールは、あくまでもリハーサルのときにカメラアングルを確認するためにやっていただけで、実は本番撮影はちゃんとカメラオペレーターが撮影していたのであります。当たり前だよね。監督が自分で撮影までやっちゃったら、撮影現場全体を見ることができなくなってしまう。

 で、結局、私にとっては「写真はモノクロ」というのが原点だったし、映画を見始めたのもハリウッドじゃなくてヌーベルバーグやシネマヴェリテだったので、これまたモノクロ映画が多かった、っていのもあるんだろう。

 ということなので……。何故か、モノクロ写真って落ち着けるんですね。

 って、なんだそんなことを言いたくて、延々と駄法螺を吹いていたっていうわけですね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 ©tsunoken

2018年6月 1日 (金)

キヤノン、フィルムカメラ販売終了

 今日は「写真の日」なので……

5月31日の日経新聞から『キヤノン、フィルムカメラ販売終了』を紹介。

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『キヤノンは30日、フィルムカメラの販売を終了すると発表した。デジタルカメラの普及で販売数量が減少していたためで、約80年間続いたフィルムカメラ販売の歴史に幕を閉じる。既に2010年に生産は終えており、今後は修理に対応する。
 フィルム一眼レフカメラの旗艦機種「EOS―1v」の販売終了を自社のウエブサイトで告知した。プロ向けの高級機種で、2000年に販売を始めた。販売終了後は部品在庫がある場合に限り、25年10月31日まで修理期間を延長する。
 キヤノンは1936年キヤノン、フィルムカメラ販売終了に初めて35ミリフィルムカメラを発売した。2000年代からデジタルカメラへの移行がすすみ、カメラメーカーの撤退が続いた。主要メーカーではニコンが販売を続けている。』

 4月8日に書いた『富士フイルム、モノクロフィルムの生産中止』に次ぐちょっと残念なニュースではあるけれども、まあ、それも仕方がないだろう、特にキャノンというメーカーではね。

 結局、キャノンのフィルム一眼レフはこのフラッグシップ機EOS-1vしかなくて、入門機的なカメラはなかった、というかもともとキャノンには入門機はなかった……、それが今回の決定になったんだろうな。

 私はいわゆる「ニコン党」で、これまで使用してきた一眼レフはすべてニコンだけだった。多分、その理由は「ニコンには入門機のシリーズがあった」ということと「レンズのマウントが今でもニコン一眼レフではどれでも使える」っていうことだったんじゃないだろうか。

 一方、キャノンは初めからローエンド機はなくてハイエンド機のみ、レンズマウントはその使用目的に合わせてどんどん変更してきた。まあ、これは機械メーカーとしては正解なんだけれども、単なる機械メーカーじゃなくて写真家というちょっと気難しい人たちをユーザーに抱えるタイプのメーカーとしては、ちょっと「?」な雰囲気を感じさせてきたのも否めない。

 また、キャノンのフィルムハイエンド機EOS-1vに対するニコンはF6という機材があるが、残念ながらキャノンにはニコンFMシリーズに対応するローエンド機がなかったというのも、ちょっと残念なところだ。

 ニコンの入門機は現在はコシナ製のOEM機ニコンFM10があるが、その大本は1977年のニコンFM、その後1982年にFM2になり、1984年にはニューFM2、2001年にFM3となって、FM10に至るっていう歴史がある。私は今でも時々このニューFM2でもって撮影をしているんだが、ファインダー内部にある「+/-」指標でもって露出調整をするっていうシンプルな方法は昔のままで、結構現在でも使いやすい。まあ、普段デジイチの自動露出・自動焦点でばっかり撮影していると、ときたまそんなマニュアル機でもってリハビリしたくなる。

 つまり、キャノンの場合、こうした「マニュアル機でもってリハビリ」というのができないのである。しかし、こうしたリハビリができるっていうのは、写真を続けていくのにはかなり有効なんだなあ。つまり、フォーカスを合わせたり、露出を調整するっていう作業を時たまやるっていうことで、焦点の感覚とか、露出の感覚なんかを研ぎ澄ませることができるのである。そのベースがあるかないかで、実はデジカメで撮った写真を自分なりにどう評価するのかってことに関係するんだって思うんだけれどもなあ。

 ニコンの場合、こうした「フィルム・ローエンド機→フィルム・ハイエンド機」、「コンパクト・デジタル→デジイチ・ハイエンド機」の二路線があって、それぞれが機能しているんだが、結局、キャノンはその流れがデジタルカメラだけになってしまったというわけ。

「キャノン党」の人たちはそんなリハビリをどんな方法で行ってきたんだろう。例えば、フィルム・ライカでリハビリとか……、かなあ。

 基本的に、写真の基本はひとつなんだろう。つまり、外の光を暗箱の中で処理をするっていうだけで、その媒体が化学フィルムなのか、デジタル感材なのかっていう違いだけで……。

 なので、デジイチであってもニコンFM2がデジタル化されたみたいな「マニュアル・デジタルカメラ」みたいなのが出てくるといいんだがなあ、なんてのを現在勝手に夢想している私です。まあ、EPSON R-D1sの一眼レフ版ですね。あそうか、ニコンDfでもってそんなマニュアルカメラみたいなダイヤル操作はできるし、ニコンの場合は問題ないんですね。

2018年5月30日 (水)

写真は嘘をつく……っていうお話

「そうか! 草加があったんだ!」って、超クーダラナイ語呂合わせで話を始めようと思ったんだが、あまりにもクダラなすぎて話が持ちそうにもないのでやめた。

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 で、今日は「写真は嘘をつく」というお話をしたいと考える。

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 まあ、だいたい「写真=真を写す」という言葉がそもそもの間違いの始まりなのだ。「写真」は真を写すものではなくて、目の前にある事象をそのまま写し取り、それを他の場所にいる人々に見せるっていうだけのものにすぎない。

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 遠く離れた場所でその「写真」を見る人は、当然、その写真とともに、写真に添えられた「解説(キャプション)」も一緒に読むことになる。

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 当然、読者はそのキャプションに引っ張られて「写真」を見ることになる。そうなると、その写真付きレポートで重要になるのは、実際にはそのキャプションのほうになってしまって、「写真」はそのキャプションを再確認するためのエビデンスにすぎないということになってしまう。

 以前、荒木経惟氏がデート付きのカメラで『写真時代』などで作品を発表していた頃、実はその日付をかなり変えて撮影し、まさしく「偽写真」を作っていたということがある。それも、ひとつの「写真は嘘をつく」という一例。

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 沢田教一氏の「安全への逃避」とか、フィン・コン・ウト氏の「戦争の恐怖」などといったピューリッツァー賞写真なんかは十分写真が物語っているじゃないか、と言う人もいる。

 しかし、彼らの写真もそうしたタイトルがついているからこその「写真の意味」であって、それらのタイトルがついていなければ、同じような「写真としての意味合い」を持てたかどうかは難しいだろう。

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 その対極にあるのが「写真がつく嘘」なのであって、そうした「真実だと思ったら、実は嘘でした」的な写真はいくらでもある。

 ということで、上の写真にもちゃんと嘘が仕込んであります。

 さあ、どれでしょう?

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Soka ©tsunoken

2018年5月28日 (月)

JPS展に思うところ

 5月19日から東京都写真美術館でJPS展が行われていることを一週間忘れてしまっていたので、昨日、慌てて見に行った。

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 JPS展というのは公益社団法人日本写真家協会(Japan Professional Photographers Society)が主催する公募展で、毎年一回結果を発表する機会を東京都写真美術館(5/19-6/3)、名古屋市民ギャラリー(6/19-6/24)、京都市美術館別館(7/10-7/15)でもっている。

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 ただし、どうもこの「公募展」っていうのは、私の感覚には合わないようで、要は何を基準に作品を選んでいるのかがよく分からないっていうことなんだなあ。

「アサヒカメラ」や「日本カメラ」なんかのフォトコンテストにも応募したことがあるけれども、これまた何を基準にして選んでいるのかが分からない。まあ、選者の写真家の感性にふれた写真が選ばれているんだろうなあ、なんて考えて選者の人が撮った写真を見て、それと同じような写真を応募したことがあるんだが、当然、そんな下心は選者のひとにはバレてしまうので、選ばれることはない。

 ということで、写真雑誌のコンテストで掲載になったことは当然ないし、なので今でもどんな写真が選ばれるのかも分からないままだ。

 公募展っていうのも、その延長線上にあるもので、公募展の入賞作の展示会に行っても、なにを基準にしてそれらの作品が選ばれたのかが、私にはまったく分からない。

 これが個人の(プロ、アマ問わず)作品展だと、その一連の出品作を見ていれば、何となくその写真家の求めているテーマっていうのが理解できて、納得できる作品展になったりするんだが、いろいろな写真家がそれぞれ独自のテーマで撮っている写真を連続して見せられても、それらが意味するものは何なのかが全く分からないのだ。

 なので、一時期盛んに応募していた写真雑誌のフォトコンテストにはまったく興味がなくなってしまった。同時に、JPS展などの公募展にもあまり足を運ばなくなってしまったのだった。で、公募展で現在でも見に行くのは、このJPS展くらいのものになってしまった。

 その代わり、私の写真を発表するメディアは、この「tsunokenのブログ」と、年一回のK談社社友会の作品展になってしまっていて、まあ、ブログでの発表で少なからず留飲を下げているっていうようなわけです。

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 心ある人がJPS展に応募することは別に何とも思わないので、とりあえず毎年見には行っているんだが、正直、それだけ。

 応募総数1,841名/6,104点、入賞269名/491点という入賞者の皆さんには「良かったね」と言って差し上げたいが、実はこの公募展で面白かったのは審査員たちが出品したポートフォリオで、それらはさすがにその写真家たちが普段からどんな写真を撮っているのかがわかっているので、作品のテーマなどもわかって面白かったのであります。

 まあ、結局写真って写真だけじゃあ何もわからなくて、結局、その写真にどんなキャプションがつけられているかでもって、写真の意味も大きく変わってしまうのだ。

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 まあ、そうは言っても「上手な写真」がどういうものなのかを知るためには、公募展発表会に行くのも悪くはない。ただし、だからといって「何故、その写真が選ばれたのか」は分かりませんがね。

 JPS展に関する東京都写真美術館のサイトはコチラ

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 普段、広角は20mmばっかり使ってるので、久しぶりに28mmを使って撮影すると、「なんかあまり広角っぽくないなあ」ってな気分になります。

NIKON Df AF NIKKOR 28mm f2.8 D @Yebisu Shibuya ©tsunoken

 

2018年5月13日 (日)

『内藤正敏 異界出現』

 内藤正敏の写真展『内藤正敏 異界出現』が、東京都者品美術館で昨日から始まった。

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 内藤正敏と言えば「婆バクハツ!」の青森恐山のイタコの婆さんたちや、「遠野物語」などのモノクロ写真の一群を思い浮かべるんだけれども、同じモノクロでも「新宿」などの都市の下積みの人たちを撮影した写真群なんかもあったんだな。

2018051232 ©Masatoshi Naito

 とはいうものの、私たちにとって内藤正敏といえば、先の「婆バクハツ!」や「遠野物語」以外には、「日本の即身仏」「出羽三山」などの、東北地方に題をとった作品が多いという印象があって、その辺が、逆に私なんかの三流写真家(写真家と名乗るのもおこがましい)にとって、<そうか、写真の原点は東北にあるのか>なんて短略して考えて、自ら遠野祭りなんかを撮りに行ったり、河童淵なんかを撮りに行ったりするんだな(したんだな)。

 でも、結局私が撮った遠野地方の写真なんて、所詮旅行者のスナップに過ぎず、やはりどうせ撮影するなら長期的にその場所に滞在して、人々と触れ合わなければ、本当の写真は撮れないんだ。

 結局、私なんかが撮影に行く場所といったら、結局は誰か有名な写真家が行って撮影した場所ばっかりなんだというのが底の浅さ。それは高名な作家が撮った写真の再確認をしているだけ。

 まあ、その辺が私がマトモな写真家じゃなくて、単なる定年退職者の手すさびにすぎない写真マニアでしかないってことの証左なんだろうけれども。遠野にしても、秋田ぼんでんにしても、山古志牛の角突きにしても……だ。

Photo_3 ©Msatoshi Naito

 本写真展で展示されている写真は、すでに写真集などで見てきて知っている写真ばかりである。でも、それでもオリジナルプリントを見に行こうというのは、なぜなんだろう。

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「写真=作品」論には立たない私なんだが、とはいうものの、どこかでそんな立場を認めてしまう考え方もあるんだろうか。

 あるいは、写真集でみた作品を一度オリジナルプリントでみることでもって、写真集掲載の写真の確認をしようというのだろうか。

「内藤正敏 異界出現」は7月16日まで東京都写真美術館にて開催中。

公式サイトはコチラ

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ebisu ©tsunoken

『日本の写真家 38 内藤正敏』(内藤正敏著/岩波書店/1998年2月25日刊)

2018年5月 9日 (水)

「FUJIFILM Imaging Plaza」丸の内にオープン

 ゴールデンウィーク初日の4月28日(土)、馬場先門にある明治生命館に隣接して建てられている明治安田生命本社ビル「MY PLAZA」の3階に富士フイルムのショールーム「FUJIFILM Imaging Plaza」がオープンした。

 富士フイルムホールディングスといえば、六本木ミッドタウンの本社にフジフイルムスクエアがあるし、銀座1丁目にはクリエイト銀座がある。それらとこの新しいショールームとどう違うのか。気になったので見に行った。

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 まあ、六本木のフジフイルムスクエアは「写真の富士フイルム」以外の化粧品なんかのPRもやっていて、精密化学メーカーとしての富士フイルムをアピールする場なので、こちらの丸の内では「写真・カメラ」メーカーとしての富士フイルムをアピールしようというのか、基本的に展示しているのはカメラ関係だけである。

 ただし、聞いてみたところ、フィルム現像などのサービスは行っていないそうで、そちらは銀座のクリエイト銀座でということで、この辺、次第にアナログ・フィルムの世界から遠ざかっていく富士フイルムの象徴が、この富士フィルム・イメージングプラザなのかなとも思える。

 ギャラリー「FUJIFILM Imaging Plaza Gallery」もあるんだが、クリエイト銀座のような一般向けの貸しギャラリーではなくて、基本的に富士フイルム側で作った企画展だけなのは六本木と同じ。

 まあ、その二点で丸の内と銀座の棲み分けをしているのかもしれない。

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 オープン記念展は『写真・X・そして私』という写真展で、様々な写真家がフジフイルムXシリーズ/GFXシリーズで撮った作品を展示している。

2 ©Herbie Yamaguchi

 ハービー山口氏は相変わらず、いつもの「なにげないモノクロ写真」を展示している。

『私にとって富士フイルムのカメラというと「フジペット」というカメラを思い出す。1957年に写真ファン層を拡げようと「初心者や女性でも気軽に写真撮影を楽しめる」というコンセプトで発売されたカメラだ。熱心な写真愛好家であった私の父は当時7歳だった私と、2歳年上の兄に写真の楽しさを伝えようとこの「フジペット」を買ってくれた。当時の販売価格は1950円であった。私は兄との共有カメラである「フジペット」を夢中で構えファインダーを覗いた。そこには仲良く寄り添う40代だった両親が、東京大田区の自宅の庭で、秋の日差しを浴びてにこやかに笑っている姿があった。今思えばそれが私の写真家活動の始まりであった。富士フイルムの名前は当時のネオパンのフィルムや、中学や高校の写真部の暗室にあった引き伸ばし機「フジB」など、写真家を目指す私の身近に常に存在していた。あれから61年が経った今、私の手元には[X-Pro 2]と[X-H 1]がある。画像の美しさは私が述べるまでもない。さらにシャッターダイヤルや絞りの操作性。静かで包み込む心地良いシャッター音、これは写真を撮ることを熟知した人のコンセプトが隅々に活かされていて、大きな魅力になっている。』

 いいなあ、こういう写真を撮りたいなあ。

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 MY PLAZAには東京都がやっている「TOKYO創業ステーション」というのがあって、中小企業のスタートアップについでのいろいろな相談に乗ってくれるようだ。

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 丸の内近辺にお越しの際は、脚休めにどうぞ。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Marunouchi ©tsunoken

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