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カメラ・写真

2018年10月24日 (水)

『木村伊兵衛パリ残像』今日から

 今日から「木村伊兵衛写真展 パリ残像」っていうのが始まるんだが……

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『「東京を発つときに、先輩、友人諸氏が、写真を撮ることよりもゆっくり世界を見てくるだけでいい勉強になるといって、私を慰めてくれた。
 パリに落ち着いてブレッソン氏に会うまでは本気で写真が撮れなかった。
 彼の写真はすべてが細かい神経と計算でレイアウトを考えている。
 写真は『レイアウトが大切だ』と何度も繰り返して説明をしてくれた……」 (『アサヒカメラ』1955年4月号より』

 という形で始まった木村伊兵衛氏のパリ行きだったらしい。

 1954年(昭和29年)の頃の渡欧である。まだまだ、敗戦国日本ではいろいろ渡航制限があった時期だし、外貨持ち出し制限なんかもあった時代。

 持って行ったのは、ライカがその前年に発表した新型カメラ「ライカM3」である。

 まあカメラはヨーロッパへの里帰りだからいいんだけれども、持って行った日本製のフィルムってのが、ドイツでは気になったんだろうなあ。

 当時の日本人カメラマン(その頃は「フォトグラファー」なんて呼び名はなかった)の持ち物は、多分、国産カメラに、裕福な人たちだけがライカやカール・ツァイスのレンズだけを装着して、「俺は他のカメラマンとは違うんだぜ」的な雰囲気を漂わせて、=「カメラマン」と称していた時代だったんではないかな。

 でも、そうした状況下での写真撮影なので、「街角のスナップ写真」なんて「何気ない写真」なんてものはなくて、決められた構図の上での「現実の復元」たる写真だったんでしょうね。

 ということで、この1954年の木村伊兵衛氏のパリ行きっていうのは、今の我々では到底想像できないくらいの、写欲をそそられる旅行だったんだろう。

4 ©Ihei Kimura

 要は、その写真の群像は基本的にすべて「スナップ写真」なんですね。おまけにその半数以上がカラーってところがすごいね。

 まあ、カラーっていうのは当時のフジフイルムが渡欧のスポンサーだったっていうところもあるんだけれども、まあ、結局フォトグラファーが写す写真って結局は、カラーだろうがモノクロだろうが、まあたいして変わりはしないってことでしょう。

 でも、やっぱり写真は(というか、こうなっちゃうに「アナログ写真は」)モノクロってって言っちゃってもいいでしょ。

 木村伊兵衛氏もその生涯の写真のほとんどはモノクロだった。いくつかのカラー写真が認められてはいるが、それは木村氏がアサインメントで撮った写真であって、自分の意志でもって撮影してきた(要は「金にならないで撮った」写真)写真は、でも常に飄々と「自分の好きな写真」を撮っていたらしき木村伊兵衛さんの姿ってのは、なんか、われわれ市井の素人写真家にとっての基本的な姿がそこにあるんですね。

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「粋なもんですねえ」

『木村伊兵衛パリ残像』は日本橋三越新館7階で開催中、公式サイトはコチラ

基本的には、この展覧会は写真をアートとして販売するのが目的なんで、まあ、それは承知してください。入場料を払うんで、別に気を使う必要はないと思いますけれどもね。

木村伊兵衛写真展『木村伊兵衛 パリ残像』は、11月5日まで、日本橋三越新館7階で開催中。

  木村伊兵衛著/朝日新聞出版/2014年12月19日刊

2018年10月15日 (月)

久々の「銀座で50mmスナップ」

 まあ、「久々……」と言っても銀座はしょっちゅう行っているし、スナップ撮影も年がら年中やっているわけです。つまり「久々の50mm」スナップっていうわけ。

 そういえば、ここのところニコンDfでもつけているレンズはほとんど20mmばっかりだし、たまには「標準50mm」でスナップをやらないと、目が広角レンズ慣れしちゃってちょっとおかしくなる、ってもんで久々に標準50mmを装着して銀座に行ったわけです。

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 と言っても、結局は同じ内容の写真なんですね。基本的に銀座のような場所に行くと「ヒューマンウォッチング」が基本です。

 広角や超広角レンズだと、どちらかというと「街の形」がメインで、そこにいる人がサブで構成する形になります。

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 銀座はとにかく人がたくさん歩いている町です。その人数やニューヨークの比ではない、多分世界で一番街歩きの人の人口密度が高い街ではないか。

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 なので、銀座に行くととにかく写真を撮りまくります。それもいつもの超広角レンズじゃないんで、写るものは人、人、人……なのであります。

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 と言っても、基本的には銀座一丁目から六丁目辺りまで。7~八丁目まで行くと、ウィークデイにはちょっと人の数は少なくなってきます。

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 まあ、それでも二往復もすると「もういいかな」っていう感じで撮影を終えます。

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 で、最後のこの写真。これも銀座なんだけれども、どこだかわかりますか?

 撮り方によって、こんな具合に撮れるんだ。

NIKON Df AF NIKKOR 50m f1.8 G @Ginza ©tsunoken

2018年10月13日 (土)

久々の「都写美」

 久しぶりの東京都写真美術館なんだけれども、なんかあまり緊張感がない。

 以前の石原都政の頃は、まだまだ石原氏にはほんの少しのアーチスト精神もあったようで、都写美に対してもいろいろ考えがあったようなのだが、まあ、写真は石原氏の本業じゃないし朋友の徳間康快氏も途中からいろいろ口を出し過ぎて、まあ、いろいろあった都写美なんであります。

 現在の小池都知事になってしまってからは、都知事自ら都写美について述べることはまったくなくなってしまい、っていうか、多分小池さんは芸術方面にはまったく興味がない人なんだな、ということがよくわかる。この人、カイロ大学に行って何をお勉強してきたんでしょうね。リベラルアーツとしての芸術に関する教養は全くない人のようです。

20181010

 で、まあ、とりあえず今回の展示会の企画概要から。

『TOP コレクションは、毎年 1 つの共通テーマで、東京都写真美術館のコレクションを紹介する展覧会シリーズです。今年は「たのしむ、まなぶ」をテーマに、34,000点を超える当館のコレクションの中から、鑑賞者の好奇心をか きたて、想像力をふくらませる魅力的な作品を紹介します。 TOPコレクション第2期は、「作品」という名の夢のかけらを手がかりに、新鮮な驚きのある作品体験へと皆様を誘 います。 この展覧会は、子供から大人まで、見たものや感じたことを自由に語りあって、作品の見方を深めていくこ とを目指しています。作品から読み取り、感じ取ることのできる数々の夢や想い、そして過去の記憶。想像力を働かせ、感覚をクリアにして、さまざまなイメージを体感してみてください。この展覧会では、美術作品の鑑賞アプ ローチとして近年注目される、対話鑑賞の方法を活用して、教育普及担当者の視点から作品選定と展覧 会構成を行いました。知識や経験にとらわれず、柔軟な視点でコレクション作品を捉え直すことを意図 した展覧会です。』

 わかりますかね。分からないでしょうね。私もこれを読んで、全然、展覧会の意図は見えません。要は、博物館とか美術館っていうのは、そこに所蔵しているものを国民に見せるためにあるのではなくて、要は(誰か知らんが)誰かが「欲しい!」って思ったものを集めるっていうだけで、その先には目標なんてものはない、っていうか「我が国はこれだけの財宝を持っているんだぞ、グワッハッハッハ」ってことを言いたいだけで成立している、帝国主義時代の名残みたいなもんですからね。

 別に、テーマなんて決めないで、今年はキュレーター○○氏のセレクト展、来年は別のキュレーター××氏のセレクションでもって、勝手にキューレーターの人の好みでもってやってくれたほうが、「既存の作品の写真展」としては、面白いと思うんだけれどもなあ。

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 取り敢えず、出品作を撮った写真家は以下の通り。

ジャック・アンリ・ラルティーグ、マーティン・ムンカッチ、名取洋之助、土門拳、植田正治、林ナツミ、ジュリア・マーガレット・キャメロン、井上孝治、長野重一、牛腸茂雄、桑原甲子雄、蔵真墨、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ロバート・フランク、ジョセフ・クーデルカ、レイ・K.メッツカー、ロベール・ドアノー、山田實、荒木経惟、本城直季、渡辺義雄、ニコラス・ニクソン、ナダール、エリオット・アーウィット、ウィリアム・H.マムラー、W.ユージン・スミス、井手傳次郎、ギャリー・ウィノグランド、マーティン・パー、中山岩太、岩合徳光、フェリーチェ・ベアト、ダイアン・アーバス、瑛九、恩地孝四郎、竹村嘉夫、坂本万七、入江泰吉、今道子、岩宮武二、篠山紀信、ハロルド・ユージン・エジャートン、石田尚志、濱谷浩、木村伊兵衛、川内倫子、川田喜久治、宮崎学、山崎博、緑川洋一 (順不同)

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 そういことなんで、木村伊兵衛氏の有名な秋田の写真とか、ロベール・ドアノーの「市庁舎前のキス」なんてのもあります。

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 でも、どうだって言うんですかね。

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 もうちょっと「緊張感」をもって、都写美の皆さんもお仕事をしたほうがいいんじゃないか、なんて余計なことを考えてしまった写真展ではありました。

 まあ、単なる「財産管理人」じゃないんだからね。

 なんか、もう「露骨に」っていうか……。

 再び、撮影禁止になっちゃったし……。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Yebisu ©tsunoken

2018年9月29日 (土)

田中長徳写真展「ハノイ‐ディエンビエンフー 2018」・変わらぬ写真スタイル

 作品展だ、散策会の下見だと、ここ1週間ばかり社友会関係の用事で振り回されていたために、公開1週間後になって、神田明神脇のGallery Bauhausで行われている『田中長徳写真展 HAN-DIN ハノイ-ディエンビエンフー2018』をやっと見に行けた。

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 公式サイトの田中長徳氏の声明にはこうある。

『南北ベトナムが統一されたのは1975年だった。当時ウィーンに住んでいた私は号外等で知って感激したのである。
初めてハノイの地を踏んだのは2000年の4月だった。中国広州の白雲空港からハノイに飛行した。漢字の表記でハノイが河内ということを知ったのはその時であった。
初めて乗るベトナム航空で興味深げに機内誌を見ていた。私にサービスをしてくれるキャビン・アテンダントさんがその機内誌の表紙に出ている人なのである。これは確認しておかなければならないと思って聞いたらまさにそうであった。こういう嬉しい偶然は忘れない。
今は日本の資本で新しい空港になったが当時は社会主義国の典型的な空港で、ビジネスクラスの旅客は軍用ジープみたいのに乗せられて、プライオリティーで旅券検査があった。

2000年の4月にハノイからボロボロのハイエースに乗ってホーチミンシティーを目指したのである。これは面白いロードムービー並みの体験だった。
その年の12月にまたハノイを訪れた。この時には帰りはホーチミン経由であって、ラウンジで偶然に沢木耕太郎さんに遭遇していろいろな話をすることができた。
沢木さんは自分の深夜特急バックパッカー時代にはインドシナに入れなかったので、今回何十年ぶりにこちらにきたがここはバイクが多いですねと言った。
私は沢木さんよりも半年年長なので先輩風を吹かせて、沢木さんが本当のベトナムを知りたいならハノイにおいでなさいと言った。その言葉を守ったわけでもあるまいが、沢木さんは翌年だったか 国道1号線を北上せよと言う素晴らしいドキュメントを出されている。

今年2018は全部で4回ベトナムに行った。ポイントはなかなか行く機会のないディエンビエンフーを見ることであった。飛行機の連絡が悪いので、かなり旅慣れている人でもこのインドシナ戦争の聖地にはなかなか行けないのである。

ホーチミンがなくなったのが1969年だから49年目。まず死後50年と言ってよいであろう。6年前にハノイに行ったとき、私は表敬訪問としてホーチミンさんのエンバーミングに対面した。厳重な監視であって停止することが許されなかったが、ホーチミン廟を出たら私のメガネは一度に曇って何も見えなくなった。感激の涙と言うわけではない。建物の内部はそれほど冷房が効いていたのである。

余談になるが持参のカメラはライカM3の軍用モデルである。激戦地を記録するためには軍用ライカでなければならない。もっとも時代は10年以上ずれているが。』

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 田中氏の写真展と言えば、基本的に1970年代に夫人に拉致されて、それまで勤務していた日本デザインセンターを退職し、フリーランスとして訪れたウィーンの写真や、その頃のチェコやドイツなどヨーロッパの写真が多かった。

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 今回は言ってみれば「新作」ばかりの写真展なのだが、その撮影スタイルはウィーン時代とは全く異なるところはなく、同じように街を見つめ、そこに生活している人たちを見つめ、切り取っている。

 カメラはオリーブ色の軍用ライカM3、レンズは各種持って行ったようだが、多くはフォクトレンダー・ウルトラ・ワイド-ヘリアー12mmという超広角レンズで捉えたものが多く見受けられる。そのうちいくつかはノーファインダーで撮った写真のようだ。

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 相変わらず、それらの写真は「ムムムッ」と唸るような写真じゃないけど、写る人たちの息遣いが聞こえてくるような写真ばかりだ。更に言ってしまうと、人が写っていない写真が大かったウィーンの写真群に比較して、とにかく写っている人の多さはハンパではない。その辺が、「既に成長を遂げ死んでいるような街=ウィーン」と、「たった今、成長を遂げつつある街=ハノイ&ディエンビエンフー」との違いなんだろう。

VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm @Yushima ©tsunoken
田中長徳氏と同じレンズです。でも出来はまあ、天才とヘボの違いでしょうかね。

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『田中長徳写真展 HAN-DIN ハノイ-ディエンビエンフー 2018』はgallery bauhausで11月17日まで開催中。

gallery baugausの公式サイトはコチラ

2018年9月 9日 (日)

オリンパス・ペンFTで天祖神社祭礼を撮る

 昨日と今日は駒込天祖神社のお祭りが行われている。毎年、二日間のどちらかが雨になるというジンクスは今年は外れたようで、両日とも晴れで暑い中で祭りが行われた。

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 ので、もののついでに昨日書いたオリンパス・ペンFTでお祭りの様子をレポート……と言っても、昨日の午前中に行われた子ども神輿と山車の宮入は、ちょっと別の目的があってフルサイズのデジカメで撮影し、午後の様子をオリンパス・ペンで撮影した。

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 でもって、下の写真が「いかにもハーフ・サイズで撮りました」という写真。

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 35mmライカ・サイズで撮るとこんな感じのヒトコマになるんですね。ちょうど真ん中が何も写っていない部分になります。これはこれで面白い写真になるなあ。

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 勿論、これはカメラを縦位置にして撮影して、ヒトコマごとに分ければ普通の横位置の写真になるわけです。

 こんな具合にね。

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 プリントした場合はこうした形でプリントされてたんだけれども、今はそんなサービスをしてくれるラボはありません。というか、今はマシン・ラボなんで、マシンにハーフ・サイズの設定はなくなってしまっているのだ。当然、デジカメのフォーサーズシステムは、基本的に普通の横長サイズで撮影されるので、プリントサービスは普通にされるわけです。

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 下の写真は35mmフルサイズのデジタルで撮影しているので、当然、ハーフサイズのフィルムでは若干品質は落ちるわけですが、まあ、そんなに気にするほどではない。というか、両方ともウェブ用に画質を落としてあるので、あまり参考にはならない。

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 まあ、それは趣味の問題ですね。

 今でも十分使える「ハーフ・サイズ」なのでありました。

 しかし、この「縦位置・二枚組写真」っていうのも面白いな。ちょっとハマりそうな気がしてきた。モノクロでやると結構面白いかもしれないなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f2.8-4 D/OLYMPUS PEN-FT F.ZUIKO Auto-S 38mm f1.8 @Komagome ©tsunoken

2018年9月 8日 (土)

オリンパスは元々「フォーサーズシステム」のメーカーだったんだ!

 今やデジタルカメラもフルサイズの時代だ。

 がしかし、「フルサイズ」って何だってことを気にしなければならないだろう。「フルサイズ=35mmフィルムカメラの画面と同じサイズの撮像素子」ということだったら、それは別にフルサイズでも何でもない。本当のフルサイズっていうのならば、エイト・バイ・テンなどの35mmの「ライカ・サイズ」以上に大きな撮影画面をもったカメラが昔からあったわけだし、ライカがライカ・サイズを始めた時は、「あんなに小さな画面でマトモな写真が撮れるわけはない」といわれたのである。

Photo 『時を超えるカメラ』(松本賢著/枻文庫/2005年7月30日刊)

 ということは、別に35mmライカ・サイズがフルサイズでも何でもないし、別の「フィルム=撮像素子」のサイズでも実用上なんの問題もなければ、それが使用サイズでいいわけだ。編集者というか発注者が「このサイズで撮ってね」っていうのが、編集者というか発注者にとっての「フルサイズ」なわけで、それをフォトグラファー側から「これはフルサイズです」というのは、まあ言ってみれば越権行為なわけだ。

 ということなのだが、35mmフィルムカメラ時代から、そうした「フルサイズ信仰」のなかったメーカーがあったんですね。

 それがオリンパス光学工業(現・オリンパス)という会社。

 早い時期から35mmライカ・サイズのフィルムを使いながら、ライカ・サイズの半分の大きさの画面で撮影しようというカメラ「ハーフ・サイズ」カメラを開発していたのである。オリンパスがオリンパス・ペンSでもってハーフサイズ・カメラを発表したのが1959年、最も長命だったペンEEが1961年であった。このカメラ自体はアマチュアカメラマン向けに開発されて、高度成長経済の始まりの時期に子供の成長記録などを写真でおさめておきたい親のために爆発的に売れたのである。同時に、子供の側からも修学旅行カメラとして、親から借りて使った一番多かったカメラでもあった。そういう意味では、日本人の記憶に一番残っているカメラなのかもしれない。

 この当時、オリンパス・ペンEEを使って精力的に仕事をしていたのが、民俗学者の宮本常一である。宮本氏自身はアマチュアカメラマンだと自認していたのかもしれないが、その撮影した写真は後に再評価されて、その後は「写真家=宮本常一」として認められたというか、写真が民俗学の方法として確立されたのが、この時期なのかもしれない。まあ、現在はビデオになって同じように使われているけれどもね。

 で、そのオリンパス光学工業がアサヒペンタックスやニコン、キャノンに続いて市場に問うたのが、お得意の「ハーフ・サイズ」の一眼レフ「オリンパス・ペンF」だったのである。1963年のことだった。ペンFはその後進化して1966年にTTL測光を備えたペンFTに進化した。

 実はこのオリンパス・ペンFTが、その後のデジタル時代の「マイクロフォーサーズ」の先行例だったのだ。まあ、デジタルになってしまえば、フルサイズだろうがマイクロフォーサーズだろうがAPS-Cサイズだろうが、実は関係ないんですね。

 本書は、1958年生まれの写真家MazKen(本名:松本賢)氏が、カメラとの出会いから、写真家として活動したのち、いわゆる「アサインメントの写真」が嫌になってしまい、現在に至るまでの遍歴がベースになっている本である。そして、その中で今やクラシック・カメラともなってしまった「オリンパス・ペンFT」と出会い。それをいかに愛するようになったのか、ということを述べた本なのである。

 オリンパス・ペンFTの一番のチャームポイントは「スタイリッシュ」ってこと。一眼レフなんだけれども、ペンタプリズムの三角形がないんですね。

 で、オリンパスはOMシリーズのころはフルサイズ(って当たり前なんだけれども、あえてそういう呼び方をここではします)なんだけれども、他社の一眼レフよりは一回り小さな一眼レフを発売する会社であった。

 問題は、そのオリンパスがデジタルカメラのOM-Dを発表した時、2012年のことなのであります。マイクロフォーサーズっていう小型の撮像素子を備えた一眼レフなんだけれども、問題はそのスタイルなんだなあ。オリンパスOM-Dはミラーレス一眼なんだけれども、何故かその軍艦部には「ペンタプリズム風」の三角形が乗っかっているんですね。

「あれっ? オリンパスって昔、ペンタプリズムを使わない一眼レフを作っていたんじゃないの? それが何でミラーレスでペンタプリズム風の三角形が乗った一眼レフを造っちゃうの?」

 はっきり言って、カメラのスタイルとして一番優れているのはM型ライカなんですね。軍艦部は基本的に横は真っすぐ、それがカッコイイ。一眼レフの三角形は、まあそこにペンタプリズム&ファインダーを置くしかないんで、そこに置いたわけ。それは機械構造的に最適値だったから、それはしょうがない。じゃあ、なんで別にペンタプリズムを使わないデジカメで、なおかつマイクロフォーサーズっていう小さい撮像素子を使ったカメラで、三角形を頭の上に置かなければならなかったのか?

 まあ、一眼レフのスタイルっていうものになんか「基本的な形」があるような気がして、そんなスタイルにしちゃったんじゃないかな。

 で、その後、紆余曲折してオリンパスEPシリーズの本命としてオリンパスPEN-Fが発表されたのが2016年。テレビ番組「ぶらり途中下車の旅」でなぎら健壱氏が見慣れないカメラをもっているのに気が付いた私は、慌てていろいろ調べて、それがオリンパスPEN-Fというカメラだということを知ったのでありました。

 いやあ、これこそオリンパス・ペンFTの後継デジタルカメラだなあ。一眼レフなんだけれどもペンタプリズム部分がないんですね。スタイリッシュだなあ。いいなあ、ということで、私は現在使っているニコンDfやエプソンR-D1sの次のデジカメはオリンパスPEN-FかライカM10かな、なんて夢想をしているんですがね。

 どうなることやら。

 で、これが現在私がたまに使っているオリンパス・ペンFT。なかなかスタイリッシュな一眼レフでしょう。見た目、レンジファインダーカメラみたいなんだけれども、ファインダーの対物レンズがないです。それが一眼レフの証。光学系ファインダーでもペンタプリズムを使わないで、ダハプリズムを使うと、ちょっと複雑な機構になるけれども、こんなスタイルの一眼レフが作れるんですね。

 まあ、50年も前のクラシック・カメラなんで、TTLまかせにしないで、単体露出計も使った方がいいかもしれませんけれども。

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『時を超えるカメラ』(松本賢著/枻文庫/2005年7月30日刊)

2018年8月22日 (水)

駄カメラ写真展って、何だ?

「駄カメラ」って何だ? 

 あまり聞き覚えのない言葉だなあ。私のようなヘボで腰抜けのカメラマンのことなのかなあ。あ、それは「駄カメラ」じゃなくて「駄写真」か。

 ということで、「駄カメラ写真展」っていうものが開催中ということなので、日本橋小伝馬町のギャラリーまで見に行った。

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 実は「駄カメラ写真協会」っていうのがあるそうで、そこのサイトに掲げられている文章を、まず紹介。

『駄カメラ写真協会とは
 任意団体「駄カメラ写真協会(DA CAMERA PHOTO ASSOCIATION)」は、駄菓子のように懐かしく、気軽に買える廉価なフィルムカメラを「駄カメラ」と呼び、敬意と愛を込めて使うことによって銀塩写真の維持普及に貢献し、会員のみならず銀塩写真愛好者相互の親睦を深めるための活動を行うことを目的として、「いい大人が本気で遊ぶ」をモットーに2018年4月1日に発足しました。
 毎年、「駄カメラ写真協会展」、「駄カメラ写真公募展」、路上の宴会等々を主宰し、「いかに面白いことをやって、みんなで大笑いするか」に全力をあげています。』

 要は、3,000円以下で買えるカメラ(当然、銀塩カメラになります)でもって写真を撮ろうっていう協会で、会長が「ぶらり途中下車の旅」でお馴染み、俳優の石井正則氏、最高顧問が赤城耕一氏、名誉会長が田中長徳氏っていう、まあ、お遊びなのか、マトモなのかが良く分からない協会なのです。まあ、赤城耕一氏が絡んでいるっていうことなので、7月6日のブログで書いた「NIKON F 展」の流れの一党なのかもしれない。

2駄カメラ写真協会のサイトはコチラ

 3,000円以下で買えるカメラといっても、最初に売り出した時のお値段が3,000円っていうことではなくて、とりあえず「私が3,000円以下で手に入れたたカメラ」っていうこと。上のサイト写真みたいなね。

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 でも、写真の表現っていうのは、カメラの値段じゃなくて、撮った人のセンスの問題なのだ、っていうこともよくわかる写真展ではある。問題は「とりあえず『撮る』、で撮った写真を堂々と『人に見せる』」っていうこと。上手い下手は関係ない!

 そうなんだよな。自分で撮った写真を人に見せないで自分だけのために秘蔵しておくなんてのはもったいない。写真っていうのは人に見せてなんぼのもんじゃいってところなので、堂々と人に見せて恥ずかしい思いをするっていうことが大事なんだよな。

 だからといって田中長徳氏みたいに「撮影したカメラはソ連製の35ミリレンジファインダカメラキエフです。レンズがついて5000円位ですから本体はまず3000円位と言ってよろしい。」っていうのはちょっとズルみたいな気がするっていうのはなぜだろう。だってキエフってソ連製のコンタックスなんですよ、コンタックス。超高級カメラ(のコピー)なんですよ、っていう気分が少しある。長徳氏はウィーンで買ったので邦貨3000円かもしれないが、今、日本で買えば10,000以上はします。まあ、でもそれで撮った写真が超高級か超駄作かどうかは関係ないんだからいいのか。

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 メイン会場のRoonee 247 fine artsでは駄カメラ協会のグループ展をやっていて、そのそばのアイアイエーギャラリーでは、同じ駄カメラ公募展を同時開催している。

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 まあ、「駄カメラ」ではあるけれども「駄写真」ではないというところがポイントなんだなあ。それぞれ傑作ぞろいです(見方によっては)。

駄カメラ写真展は8月26日まで開催中。案内はコチラ

 こんな本も出ています、

『駄カメラ大百科』(石井正則著/徳間書店/2018年7月21日刊)

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f1:5.6 @Kodenmacho ©tsunoken

2018年7月18日 (水)

ドナルド・キーン写真展が暑い

 いやあ、思わず「暑い」と書き間違えてしまった。正しくは「ドナルド・キーン写真展が熱い」ですね。

 といっても、勿論ドナルド・キーン氏がフォトグラファーであるわけはなく(まあ、広い世の中にはそんな名前の写真家がいてもおかしくはないが)、正しくは『ドナルド・キーンのまなざし 宮澤正明写真展ー』というタイトルなのだ。

 つまり宮澤正明氏によるドナルド・キーン氏の写真展が、旧古川庭園にある大谷美術館で開催中であるってことなのでした。

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 ドナルド・キーン氏と言えば、コロンビア大学名誉教授で日本及び日本文学の研究家であり、東京都名誉都民、北区名誉区民、新潟県柏崎市名誉市民、勲等は勲二等、2008年に文化勲章受章まで受賞、日本を愛するあまり日本国籍まで取得してしまったという日本フリークな人として有名な人だ。

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 そのドナルド・キーン氏が写真家の宮澤正明氏と知り合ったエピソードも、いかにも日本フリークなドナルド・キーン氏らしい。

『写真家・宮澤正明氏との出会いは、伊勢神宮にはじまる。2013年「第六十二回神宮式年遷宮」の写真集上梓の際に、コメントを依頼されたのが最初である。私は、日本に留学できた1953年に、終戦後初めて執り行われた「遷御の儀」に立ち会う機会を得て、今回2013年は実に4度目の列席であった。20年に一度の「遷御の儀」に4回も立ち会えたことは、誠に幸運と言うべきであろう。その遷宮行事を8年間にわたり撮影していたのが、写真家の宮澤正明氏だった。
 4たび遷宮に列席し、様々な風景や場面を脳裏に刻んできた。お能に譬えてもいいような、無駄や虚飾のない儀式の数々、そして、日本建築の原型とも言うべき建物群、それは、自分の記憶の中でしか再現できない、美しい場面である。しかし時には、前の席の人の動きに気をとられたり、間違って別の方向を見たりして、見逃してしまった光景もあるはずだ。そうした一瞬の美を見落とさずに、特別に美しいものを教えてくれるのが写真家の芸術である。この写真を撮影した宮澤正明氏も、そんな写真家の一人だ。普通の人は、そういう目を持っていない。
 宮澤氏が撮った写真の数々を眺めていくと、彼がいかに辛抱強く、いかに工夫を重ねて、一瞬の機会を捉えたかが、よくわかる。もちろん、遷宮の行事を8年にもわたって撮り続け、その人柄に信頼がよせられたからこそ、一般人には踏み込むことのできない領域まで、宮澤氏のカメラは入ることができたのだろう。
 宮澤氏と出会ってから、これも何かのご縁であろうか、私は幾度となく彼のカメラの前に立つことになった。旧古川庭園を見下ろす私の書斎で、お墓を構えた無量寺の桜の下で、馴染みの霜降銀座商店街で、さらには、新潟柏崎や英国の旅の道中でも、宮澤氏は私にカメラを向け、私は微笑みで返した。いや、ときには難しい顔もしたであろう。
 彼とのフォトセッションは、自分が被写体であることを自覚する間もなく、カメラという装置の介在を忘れ、宮澤正明とドナルド・キーンという存在同士が対峙する時間だった。それはまるで沈黙の対話のようでもあった。そんな時を重ねて、宮澤氏のアトリエにはおそらく幾万もの鬼怒鳴門(ドナルド・キーン)の喜怒哀楽が、保存されているに違いない。
 このたび私の写真展を、とてもなじみの深い旧古河庭園にある大谷美術館でやっていただくことになったようだ。果たして私の写真を観に来ていただく方がどのくらいいるのか私にはわからないが、少なくとも築100年となるジョサイア・コンドルの名建築だけでも観る価値はあると思う。
 この2年間、私の写真を撮っていただいた宮澤氏に感謝すると共に、写真展の成功を祈る気持ちでいっぱいである。私は先日96歳になった。これからも撮ってもらう機会があればお願いしようと考えている。

ドナルド・キーン
    2018年6月吉日』

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 実は、この写真展を見るまではドナルド・キーン氏が北区の住民であり、旧古河庭園のそばに書斎があったり、霜降銀座商店街なんてところまでを知っているなんて……、知らなかった。

 ということなので、別にドナルド・キーン氏が自分で撮った写真展じゃなくて、ドナルド・キーンしが写っている写真展である……、ってことをご承知の上旧古河庭園へ。

 写真展だけの入場は無料です。

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『<旧古川邸+庭園> 100周年記念 ドナルド・キーンのまなざし 宮澤正明写真展ー』は8月5日まで 旧古川邸・大谷美術館一階フロアにて開催中。

北区の公式サイトはコチラ

2018年7月16日 (月)

旧レンズで、お暑うございます。

 毎日毎日、お暑うございます……、なあんてことを言ってしまっては広島や岡山の人には申し訳ないが、でも、そんなことを言っても、東京も暑いです。

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 で、暑い夏はどうやって過ごすのか? ってまあ、逆に一杯汗をかいてしまうってのが一つの方法でもあるんですね。本当「汗かいて、生きよう」ってなもんです。

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 で、ついでにデジタル一眼に旧レンズをつけて撮影行をするんです(なんでそれが暑い時の処方なにかがわからない)。

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 今回、ニコンDfに装着しているのは「Ai NIKKOR 50mm f1:1.4」という、アナログ・ニコンの時代の標準レンズっていうか、まあ、行ってみればニコンの基本レンズっていうわけですね。私は以前、同じNIKKORの「50mm f1:1.2」っていう、この「f1:1.4」に比較すると二回りぐらい大きいレンズを持っていたことがあるが、実は図体が大きいだけで別に写りは「f1:1.4」と変わりがないので、「まあ、いらねえな」ってな感じで売ってしまった。

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 で、久々のアナログ・ニコンなんだが、使ってみる感じは別にデジタルニコンとはあまり変わらない……、っていうかこの日は快晴なので基本的に絞りはf11かf16、だったら実はほとんどすべての画面に合焦できちゃうんですね。

 でも、面白いのは「機械はバカ」だから、オートフォーカスのレンズを装着していると、たとえ絞りをf16とか、それ以上にしてもちゃんと「ジッ」なんてレンズが鳴ってフォーカスを合わせようとしたり、撮影しよという対象があまり光の変化がない被写体だったりするとフォーカスが合わなくて撮影できなかったりするんですね。

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 ホントばかですね。別に、理論上合焦しなくても何の問題もなく写っちゃうんですけれどもね。

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 ってなことを証明しようとしてこんな撮影をしたわけではありません。でも、なんとなく暑くて、午前中はお盆で墓参りした後でちょっと疲れているし、あまりヤル気はない……、てなことでこんな写真になりました。

 デジタル一眼なのでマニュアル・フォーカスのレンズを装着してもフォーカス・エイドが働いているんだけれども、実際の撮影に当たってはそんなもの気にしないで、適当なピントで撮ってます。まあ、それでもこれくらいは写るってことで……、だからってどうなのよ。

 それで、テーマは何なのか? う~ん…………。

NIKON Df Ai NIKKOR 50mm f1:1.4 @Nishigahara Kita ©tsunoken

2018年7月15日 (日)

小津安二郎のライカ

 えー、ポイントは「小津安二郎監督作品 特設コーナー」じゃなくて、その右側に配置された小津安二郎の写真なんですね。

 多分、これは本番撮影じゃなくてロケハンの風景なんだと思うけれども……。

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 映画監督なので、当然フィルムの画角を見るためのディレクターズビューファインダー(というのが正式名称、「スコープ」とも言います)を右手に構えて覗いているんですが、問題は同時に左手に持っているスチールカメラなんです。勿論、この時代のモダンボーイですから、持っているカメラはライカ。形式はⅢCかⅢf、レンズはフード付き沈胴ズミクロン 50mm。ライカと映画には重要なつながりがあって、もともと、ムービーカメラを作っていたライカ。そのライカが映画カメラの露出を測るために映画の一コマ(実際には二コマなんだが)だけを撮影して、露出が適正かどうかを見るためのカメラを作ったんだけれど、それがそのままスチールカメラとして使えるのを発見した、というのがライカカメラの始まりだったのである。なので、ツァイスイコン・コンタックスでもいいけど、でも、映画屋はライカ。

 勿論、ライカ判カメラっていうのは普通の35mm判映画のフィルムをそのまま使うことによって始まったフィルムサイズなので、映画監督がライカを持っていると、「う~ん、やっぱり映画の端尺をライカに入れて撮っているのかな、なんて考えたりする愉しみがあったりするんである。それはコンタックスも同じなんだが……。

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 小津安二郎とスチールカメラの関係に関してはなかなか面白い本を見つけたので、今日はそれを紹介。

 本は映画史研究者の登重樹氏の『望郷の小津安二郎』(皓星社)。「第1部 小津安二郎の若き日々』の『第2章 青年』の中に「カメラとの出会い」という項があって、あまりページ数は多くはないが、なるほどという記述が見て取れる。

『小津自身の証言によれば、彼がはじめてカメラをいじったのは中学生時代の通称べス単、つまりアメリカのコダック社が一九一二(大正元)年に発売した、正式名称はVest Pocket KODAKという小型カメラだった。』

 ただし、このカメラは当時中学生の小津に買えるわけもなく、親友の持ち物を借りたものだったようだ。

『『カメラ毎日』昭和二十九(一九五四)年六月号誌上での小津の発言によれば、彼はその後ブロニーを経て、ライカのA型を手に入れたのが昭和五(一九三〇)年か六(一九三一)年頃で、海軍の遠洋航海の撮影でドイツ行くことになったカメラマンの茂原英雄に頼んで買ってきてもらっている。当時の価格は三百円。すでに監督に昇進していたとはいえ小津のその頃の月給は百十円だったので、決して安い買い物ではなかった。』

『小津は従軍中におよそ四千枚の写真を撮影し、仕事の参考にしようという魂胆で、帰還後にそれをスクラップブックに整理していたらしい。』

『『長屋紳士録』から『彼岸花』まで撮影助手として小津組についた川又昂が、『晩春』のクランク・インのとき、撮影中の作品の全カットを名刺判の写真に引き伸ばして保存することを小津から命じられた、というエピソードは、小津が写真に対して強い指向(嗜好)を持っていたことを物語る。』

『たとえば、丸之内のオフィス街を捉えた外景ショット、幾何学的な建物の列、煙突、茶の間に置かれた薬缶、書院の壷、並べられた樽など、比較的初期の頃から晩年に至るまで、小津のそうしたこだわりを示す絵画的、静止画的ショットを数多く見出すことが出来る。それらの絵画的ショット、静止画的ショットの中には、誰かの見た目ショットとは明らかに異なるとしか受け取られないようなアングルから撮られたショットもしばしば現れている。つまりそのショットは、あたかも前後のショットとはまるで無関係に、人称性を欠いた静物画のごとく空の光景だけがそこに浮かんでいる感じ、といった印象を見る者に与えることがある。そうしたショットが頻出するのも、もともと絵画の構図設計に並外れた素質を持ち中学生時代にカメラと出会った小津が、その後も一貫してカメラを愛好し続け、晩年に至るにつれて絵画や静止画への接近をどんどん強めていった、という観点からの再検証が必要と思われる。厚田雄春によれば、小津はロケハンにライカを持参し、気に入ったところをフィルムに収めていた。小津映画独特の静止画的ショットはライカで撮った写真を銀幕に拡大再現する行為だったともいえるのである。』

 小津安二郎は明治36年に東京は深川に生まれ、小学校は深川の小学校に通ったんだが、1913(大正2)年、三重県松阪市に移転、1916(大正5)年、宇治山田の中学校(旧制)に入学し、そこが小津の「映像生活」の始まりだったようだ。

 当時、三重県辺りでカメラを持っていたというのは、相当なお金持ちでなおかつ新しもの好きの好事家ということになるのだろう。その後は、カメラ名は分からないがブロニー判カメラを経てライカA型という変遷らしい。ベスト判(4×6.5cm)→ブローニー判(6×6、6×9cmなど)→ライカ判(35mm)というフィルム・フォーマットの変遷も面白いが、やっぱり行き着くところが35mmムービーフィルム・フォーマットっていうところが、如何にも映画屋さんっていう感じで面白い。逆に言ってしまえば、多分それはフィルムの粒子の性能向上とも関係するのであろう。しかし、そうだったらまったく映画のフィルムフォーマットと同じハーフサイズにまで行ってほしかったなあ、って当時はそんなカメラはなかったか。

 同時に、小津の頑固なまでのカメラアングルへのこだわりというものが、スチールカメラにおける絵画的表現と関連付けられて語っているのも面白い。

 確かに小津は撮影時に全ショット自らカメラを覗いて画角を確認してからリハーサル→本番という形で映画の撮影を行っていたらしい。普通こんなことをする監督は撮影部から嫌がられて、下手をすると「そんなに俺たちを信用できないんだったら、自分で撮影までやればいいじゃねえかよ」ってな感じで、カメラマンからサボタージュを受けてしまうだろう。しかし、それをされなかったのは、小津が松竹蒲田撮影所に入所した時の最初に配属されたのが撮影部だったということも影響しているのかもしれない。まあ、職人肌の撮影部の連中にとっては、「ああ、ちょっと面倒くさい、先輩監督だなあ」なんてところだったのでしょうね。

 同じタイプのフィルムを使うっていうことだけじゃなくても、映画(ムービーフィルム)と写真(スチールフォト)との関連性というものは考えられなければならないはずなんだが、どうも我が国の映画評論家でそうした技術的立場っていうか、趣味嗜好がある評論家はいない。日本の評論家って、結局、映画を見るのが好きなだけの映画フリークか映画史研究家という文科系人間ばっかりで、「写真家出身の映画評論家」といったような異色の人っていないんだなあ。したがって、映画というテクノロジーの塊のような映像表現ジャンルでありながら、そうした技術部分から切り込める評論家ってほとんどいない。

 デジタルシネマが当たり前になっている時代に、そうした技術分野でもって映画を語れる評論家がいないっていうのも、ちょっと問題なんじゃないか?

 って、「小津安二郎のライカ」っていうテーマからはちょっと離れちゃったけれども……。

『望郷の小津安二郎』(登重樹著/皓星社/2017年8月20日刊)

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