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旅行・地域

2018年11月14日 (水)

横浜大口通り商店街

「横浜大口通りで通り魔」っていうニュースを聞いて、そういえば横浜の裏の方といえば東横線沿線は知っているんだが、横浜線っていうのは知らなかった、ましてや「大口駅」っていうのは、一度も降りたことはなかった……、ということなので行ってみた。

 まあ、通り魔犯人として捕まったのが70歳のジイサンだったってのは、ちょっと意外だったけれどもね。

 JR京浜東北線で横浜の一つ手前、東神奈川で横浜線に乗り換えてすぐ次の駅が大口駅。なんかもう、この駅舎を見ただけで「ローカル線!」って感じなんだけれども、町の雰囲気はそんな感じではありません。

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 そもそも「大口」って何なのか?

『大口とは「大きく口を開けた谷戸」のことであるという。当地周辺は谷戸が卓越しており、大口の位置はそれらの谷戸が西に枝分かれする根元の位置に当たる。駅の位置は大口谷戸の東の外に当たる。』(Wikipedia)

 じゃあ「谷戸」とは何か?

『谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られる。』(Wikipedia)

 ということで、例えば国分寺の殿ヶ谷戸庭園などが「谷戸」を使った地形に関する呼び名として有名だ。

 ってことで、大口駅を出てみれば、すぐそばに大口駅前公園っていうのがあるんだけれども、まさしくそこが「谷戸」の始まりなんですね。なんで、「大口を開けた谷戸の入り口」なんですね。

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 入り口から即登坂になってエッチラオッチラ上っていくと……

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 こんな名もなき祠なんてのが公園内にあります。一体、どんな神様が祀られているんだろう。

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 更に上っていくと坂道の頂上に出て、こんな眺めの良い場所に出るわけです。

 ここは尾根道なんだけれども、横浜のみなとの方が実によく見える、素晴らしい眺望です。

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 で、そこから降りてきたところが、11日夜から12日の未明にかけて女性が襲われた大口通商店街です。

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 JR横浜線大口駅前から京浜急行子安駅までをつなぐかなり大きな商店街で、そのためもあるのか、地元のCATVか何かが取材に来ていました。別に、通り魔事件の取材ではないようです。

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 で、大口通商店街で新発見! この「ペンギンカメラ」っていうのが大口通商店街に2店舗あって、その両方ともクラシックカメラ(って言っても国産フィルムカメラが多いです)を積極的に扱っています。黄金町の大貫カメラといい、このペンギンカメラといい、結構、クラシックカメラへの造詣に詳しい横浜市なのであった。

 あれっ? なんか話が違うほうっていうか、単純に私の趣味のほうにいってしまいましたねえ。ま、いいか。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR SKOPAR 21mm f4 @Oguchi Yokohama ©tsunoken

2018年11月13日 (火)

たまプラーザって、どんな街?

 基本的なことを言ってしまえば、東急電鉄の会社の基本線は「鉄道運営」ではなくて「周辺土地開発による鉄道利用客の増大」なのだった。

 まあ、それは間違ってはいないわけで、鉄道周辺の土地を開発して、そこに住む人、それらの開発物を訪ねる人を増やせば、必然的にその鉄道を利用する人が増えるっていうことなんですね。そのことにいち早く気付いたのが、「日本資本主義の父」と呼ばれている渋沢栄一であったし、その渋沢栄一が経営者として選んだのが、阪急電鉄や東宝を作った小林一三が推薦した、五島慶太だったってわけなんですね。

『東京急行電鉄の歴史は、渋沢栄一が理想的な住宅地の開発を目的に、1918年(大正7年)9月に設立、1922年(大正11年)6月から洗足田園都市の分譲を開始していた田園都市株式会社を始祖とし、その鉄道部門を同年9月に子会社として分離した目黒蒲田電鉄に始まる。会社分離後の翌1923年(大正12年)8月、多摩川台地区(後の田園調布地域)の分譲も開始し、目黒蒲田電鉄はそれらの交通を担った。つまり目黒蒲田電鉄は、田園都市株式会社と地権者が共同開発した分譲地を、その付加価値を高めるために、省線(現在のJR線)と結ぶ交通手段として設立されたのである。都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものであり、戦後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている。
 この開業に当たり、大阪の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者で鉄道経営の実績があり、既に 1921年(大正10年)6月から田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三は、その役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬと自身の代わりに鉄道省出身で未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した。』

 ということでスタートした東急電鉄の、ある種の理想像がこの「たまプラーザ」ではないのだろうか。

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 田園調布はそれなり成功した田園都市開発の事例かもしれない、しかし、それは(結果としては)あくまでも高級住宅地の開発ということでしかなかった。

 本来の田園都市はそんな一部のエリートのための都市ではなくて、一般大衆が普通に住める田園都市なのである、と東急の人たちは考えたんではなかろうか。

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 その結果が、「東急田園都市線」という路線の名付けであり、そのシンボルとしての「たまプラーザ」という駅、および駅周辺の街の開発なのだろう。

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 当然、「たまプラーザ駅」の基本は「たまプラーザ団地」という大規模マンションなんですね。

『たまプラーザ団地は47棟から成る大規模なマンションで、東急田園都市線のたまプラーザ駅から徒歩5~11分の横浜市青葉区美しが丘1丁目にあります。1968年3月に竣工したたまプラーザ団地は、事業主が日本住宅公団により建設されました。たまプラーザ団地の総戸数は1254戸で、間取りは50㎡台~60㎡台の2LDK~3LDKがメインとDINKSやファミリー向けのプランニングです。広大な敷地に4~5階建ての低・中層棟がゆったりと配棟されています。また敷地内には木々に覆われた広い遊歩道が設けられており、東急百貨店たまプラーザ店3階に直結されています。周辺は低層住宅で構成された閑静な住宅街で、豊かな自然に囲まれ、幼稚園、小学校、中学校が近く子育てや教育にも相応しい環境です。また最寄りのたまプラーザ駅のショッピング施設も魅力です。』(たまプラーザ団地HPより)

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 なるほどなあ、それは分かるけれども、基本的に住居っていうのはその人の、その時期のライフスタイルに合わせて変えていけるのが理想なんだけれども、でも個人で持ってしまった居宅っていうのは、なかなか買い替えるっていうのもできないのだけれども。

 でも、このぐらいのマンションだと自分の住居を売って、どこか他所に行ってまた別の住まいを楽しむっていうのも、一つの行き方としてあるのかなあ。

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 つまり、団地なんだけれども、それぞれの家が所有権を持っている分譲式のマンションと同じ方式の団地なんだってのがわかる。

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 まあ、その程度の「軽い気持ちで持っているマンション」であるならば、逆に「軽い気持ちで売っちゃえばいいや」ということで、不動産の個人移動というのも増えるのかもしれない。

 要は、不動産価格が高すぎるので、売る方も買うほうも身構えちゃうっていうのが、現在の不動産市場の不活性化の理由なんじゃないかと思うんだが。まあ、土地代が高すぎるんですね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Aoba Yokohama ©tsunoken

2018年11月12日 (月)

流山街道にはコンビニなんてものはないのだ

 千葉県の流山市というと、今ではつくばエキスプレスの駅のある「流山おおたかの森」をイメージしがちなんだけれども、もともとの流山市の中心は流山電鉄流山線の終点、流山のはずだし、流山一丁目がこの駅のところにあり、流山市役所も駅のすぐわきにあるんです。

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 流山電鉄は2016年に開業して、既に100念以上経っているそれなりに由緒のある鉄道なんだけれども、なにしろJR常磐線各駅停車の馬橋駅で乗り換えてたったの5駅、途中小金城址駅だけで上りと下りの入れ違いができる単線っていう、いやあ、東京のすぐそばにある路線とは信じられない「とんでもローカル」な電車なんですね。

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 で、そのローカル線に走っているのが、昔、西武線で走っていた全面二枚ガラス、三扉の懐かしい電車なんですね。いやあ、西武線の昔の電車って伊豆急でもみたことがあるけれども、こんな近くで見られるとはなあ。まあ、私の「鉄分」はたいしたことはないので、その程度ですけれどもね。

 で、実は流山って「白みりん」発祥の地らしいのだ。つまり「万上味醂」っていうキッコーマンのみりんブランドが元々は流山で初めて作られ、今でもキッコーマン流山工場で作られているらしい。

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 で、この「富士フイルムのフィルムの箱」っていうお宝みたいな看板がある「流山街道」を横切って流山鉄道流山駅へ繋がるキッコーマンの引き込み線があったらしい場所が、今でもちょっと広い道路になって残っている。

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 ただし、この流山街道って昔はなかった道のようであって、そのひとつふたつ裏の江戸川に近い方にある(現在は)裏道が昔の本通りだったようだ。

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 さすがに昔の本通りだったらしくて、造り酒屋とか昔の商家が残っている……残しているのかは分からないが、まあ、とりあえず昔を偲ばせる遺構とはなっている。

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 なかには、こんな近藤勇陣屋跡なんてのがあって、要は薩長軍に抵抗した新選組の残党が最後に抵抗した陣屋で、ここで近藤は自首し、そのご板橋駅前でもって殺されたわけだ。

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 意外なところに意外な建物が、っていう流山紀行だったんだけれども、いやあ、現在の流山街道、上の写真屋さんの脇の道には、イトーヨーカドーなんてスーパーはあるけれども、じゃあセブンイレブンはあるのかよって言っちゃえば、本当に前後数キロ、セブンイレブンどころか、コンビニなんてものは一切ないのだ。いやいやいや、普通どんな道にもコンビニはあるでしょ、ってのが今や私たちの常識なんだけれども……う~ん、そんなに交通量が少ないのかなあ。

VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Nagareyama ©tsunoken

2018年11月11日 (日)

銀座みゆき通り・考

 日本中いろいろな場所に「みゆき通り」という名前の通りがあるらしい。

 まあ、このみゆき通りのすぐそばの皇居から東京駅に至る「行幸通り」も「みゆきどおり」という読み方もするそうで、まあ、「みゆきどおり」という名前の通りは日本中のいたるところにあるらしい。

「天皇(御)(み)が行幸(幸)(ゆき)に際して通行したことを記念して命名されている。」というのが、その通りの命名の理由らしいから、まあ、日本中にそんな名前の通りがあってもおかしくはない。

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 でも、私にとっての「みゆき通り」は、やっぱりこの中央区銀座5丁目と6丁目の間にある道「銀座みゆき通り」のことなんだなあ。道の名前の由来は知らない。

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 とはいうものの、それは今現在「みゆき通り」と名付けられている通り全体ではなくて、基本的に現在ライカショップがある外堀通りのあたりから、銀座通りのちょっと先あたりまでなんですね。

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 なので、こんな銀座通りを越して昭和通りを越したところにある旧日産本社なんてのは、実はもう築地であって、銀座ではない。つまり、この辺まで「みゆき通り」の看板はあるけれども、そこはみゆき通りじゃないっていう感じでしょうか。

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 つまりみゆき通りっていえば、要は昔「平凡パンチ」が取り上げた「みゆき族」がいた場所ってことなんですね。

「みゆき族」ってなんじゃいな。

『みゆき族(みゆきぞく)とは、既成の秩序にとらわれず、自由な考え方や行動を示す青年達の類型のひとつである。1964年(昭和39年)頃に東京・銀座のみゆき通り近辺にたむろしていたことからのそのように命名された。独自のファッション文化やストリートカルチャーを日本に流行させた。
 男性はアイビールックを崩し、バミューダショーツやつんつるてんのコットンパンツといった出で立ちでVANか「JUN」の紙袋や頭陀袋を小脇に抱え、女性は白いブラウスに踵の低いぺったんこの靴、ロングスカート、リボンベルトを後ろ手に締め、頭に三角折りしたスカーフや首にネッカチーフを巻き、そして男性同様に紙袋やズダ袋を抱え、特に何の目的もなくただ銀座みゆき通りをぶらぶらと闊歩することが流行した、こうしてみゆき通りと周辺に集う若者達のことをみゆき族と呼ぶようになった。
 このブームは1964年4月28日創刊の週刊誌「平凡パンチ」のアイビーの知名度を上げることに一役かった。彼らが地方からも集まった目的は、買い物のほか、同じ服の趣味の仲間を見つけてつるんだり、互いの趣味を競い合ったり、通りで異性と出会ったりすることだった。1960年代末に若者文化の中心が新宿に移る以前は、上京した若者が目指す場所は銀座であり、みゆき通りにはVANの大きな店舗があったことから若者はその周辺に集まってぶらぶらと歩いたりグループを組んでショーウィンドーの横に立ったりするようになった。』(Wikipedia)

 っていう当時の「(単なる)風俗」ですね。「族」なんて名付けるほどの、「別の価値観を持った存在」なんかじゃなかったんですね。

 まあ、かっこだけ、カッコだけ。彼らの中から何らかの新しい価値観を生み出すような行動や、新しい芸術・クリエイティビティなんてものは、全然生まれなかった。

 同世代でいろいろなものを生み出した人は沢山いるんだが、すくなくとも「みゆき族」からは、なにも生み出してはいない。

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 まあVANがみゆき通りに店を出していた関係で、その周辺にVANなんかを着た連中が集まったっていうだけで、1~2年でなくなっちゃったブームなんですけれどもね。その辺がVANの限界だったんでしょうね。VANは文化だったけれども、VANを買っただけのみゆき族は単なる消費者。単なる「仇花」。

 多分、まさしく団塊の世代しかしらない、というか当時「平凡パンチ」を読んでいた人しか知らない現象であり風俗だと思いますよ。

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「おれはみゆき族だった」っていうことを声高に言う人もいないし、みゆき族ファッションなんてのもまったく残っていません。

 団塊の一つ下の世代から見れば、それが「団塊の世代の限界じゃなかったの?」っていう反駁になるんですけれどもね。

 結局、団塊の世代の反体制運動って単なる「風俗」だったんですよ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR SKOPAR 21mm f4 @Ginza ©tsunoken

2018年11月10日 (土)

広尾を歩く

 渋谷駅前から日赤医療センター行のバスに乗る。まあ、それが「坂道を上がらないですむ、広尾への行き方」なんですね。

 そう、ここ広尾はお隣の麻布と同じく、「坂の上と下の町」なんです。

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 坂の上には東京女学館とか、日本赤十字病院なんかがあって、つまりそれは江戸時代の堀田備中守の藩邸などがあった場所をそのまま明治政府が接収しちゃって、そうした「一見公共事業」みたいな「関係者枠」でもって、お下げ渡しをしちゃったんですね。

「えっ? それって、汚職じゃない?」なんて言ってはいけません。そんなの「当たり前」の時代だったんですね。

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 日赤の隣にある聖心女子大学は久邇宮邸だったところをお下げ渡ししたんだけれども、実は、この久邇宮邸も元々は堀田備中守の屋敷だったらしい。

 え~、一体堀田備中守ってどんな権勢をふるっていたお殿様なんだよ、って調べてみたんだけれども、特別何か大きなことを成し遂げた大名ではないらしい。ってことは、まあ江戸中期に普通に(親から受け継いで)権力を持ってしまい、普通にそれを(自ら意識しないで)使ってしまい、そのまま幕末までいってしまった凡庸な江戸幕府のお殿様ってことなんだ。実は、堀田備中守が何かやったっていう記録はあまりないそうで、まあ、徳川三百年の歴史の中には、そんな凡庸な老中もいたんだろうし、一方、井伊直弼みたいな人もいたってことでしょう。

 う~ん、まあ、生まれが良ければすべてよしの時代だから、そんな凡庸なお殿様でも幕府でそれなりの立場になっちゃったんでしょうね。落語「目黒のサンマ」のモデルになったお殿様だったりして。その位しかエピソードがないというか……。

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 で、広尾の聖心女子大学の前を通り過ぎて坂を下がっていくと、聖心女子大学の裏門に至るんです。

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 この裏門は、ほとんど坂の下。つまり「下の町=下町」です。

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 そう、まさにそこには「下町の商店街」が展開しているんですね。

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 これって、麻布の愛育病院や麻布高校がある仙台坂上と、坂下の麻布十番とおんなじ関係。

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 まさしく、「山の手」と「下町」ってのがどういう関係論にあったのかがよくわかる風景なんですね。実はこれが「山の手と下町」の本当の関係。うーん、千代田区辺りだとちょっと判りづらいですけれどもね。

 うーん、それにしても広尾の下町商店街も、以前に比べるとかなりオシャレになってきているなあ。前はもっともっと如何にも「下町」って感じの商店街だったんですけれどもね。

「下町は進化する」

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER 12mm f5.6 @Hiroo ©tsunoken

2018年11月 8日 (木)

築地場外市場はまだまだ頑張っています

 10月11日に築地卸売市場が豊洲に完全移転したことはご存知の通りなんだが、別に移転したのは場内だけで場外市場はまだ築地に残っているっていうアナウンスはあったはずなんだけれどもなあ……

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 ところが、新聞記事を読んでビックリ。

場外の店、客遠のく 「なくなった」観光客ら誤解  「日経電子版」2018/11/6付
 旧築地市場に隣接し、市場関係者や観光客でにぎわってきた商店街「築地場外市場」(東京都中央区)の飲食店や商店は、市場移転後も営業を続けている。しかし「築地はもうなくなった」という誤解もあり、客足は大幅に減っているという。

 場外市場で卵焼きを販売する「丸武」社長の伊藤光男さんは「以前と比べてお客さんは2割程度。『この調子ならやめようか』と言っている店も多い」と声を落とす。
 場外市場は築地市場で働く人や、市場に鮮魚を仕入れに来る料理人ら「プロ」を相手に発展。数百の商店、飲食店が並び、市場観光に訪れる訪日外国人らにも人気のスポットとなっていた。
 しかし市場移転後はインターネットの交流サイト(SNS)で「もう築地はないんでしょ?」「全部移転したのかと」といった投稿も。ある商店主は「『築地はなくなった』と思っているのか、観光客もぐっと減った」と嘆く。』

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 ということなので、実際に築地に行ってみたんだが、ウィークデイであったためなのかどうなのか分からないが、まあ、何となく以前の築地場外に比べると人出は少ないなあ。

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 もっとゴチャゴチャして全然前に進めなかった感じだったんだけれども、昨日はまあそんなに歩きにくくはなかった。

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「築地魚河岸」という商業施設を新設したり、築地場外市場を売り込もうという中央区や場外市場の組合の努力はあるんだけれども……

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 まあ、場内の移転に伴って閉めてしまった店も多く、まあ確かにちょっと寂しくはなってはいる。

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 しかし、皆さんマスコミの情報を信じていなくて、SNSの(根拠のない)「噂話」ばっかり信じている人たちが多いんだなあ、って感じがまさにするんですね。

 まあ、それだけマスゴミ情報っていうのが信じられなくなってしまったのか、あるいはそもそもマスコミ情報に触れなくなってしまったのか。

 真実を知りたいのなら、まずとりあえずはマスコミ情報を取り入れて、それを別の方法で検証するっていうのが本来なんだけれども、それをもしないでSNS関係の噂話だけを信じちゃうんだなあ。

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 築地場外は今でもちゃんと営業しているんですよ。皆さん、築地場外市場はまだまだ頑張っています。安心して場外市場に行きましょう。

 当然、豊洲で仕入れた魚が直築地に来ています。橋を一つ渡るだけなんですもんね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR SKOPAR 21mm f4 @Tsukiji ©tsunoken

2018年11月 5日 (月)

TOKYO DEEP : 渋谷のんべい横丁はどうなっちゃうのか?

 東急東横線の変貌にばっかり目が行ってしまって、何となく見過ごしてしまっていたのが、原宿と渋谷の間にある宮下公園の工事なのであった。

 宮下公園というのはJRの線路と明治通りを挟んで反対側の高台に梨本宮邸があったので、その下だから「宮下」らしいんだが、実はこの公園、1階が駐車場で2階が公園っていう、珍しい構造の公園だったのですね。

 たしか、一時期ナイキが命名権を買って、ナイキ・パークとかいうスポーツ公園になっていたような記憶がある。

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 で、その宮下公園が再整備されることになり、駐車場は2~3層になって、公園の一番原宿寄りはホテルになるらしい。

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 えっ? ってことは、公園のすぐ裏にあった「のんべい横丁」はどうなっちゃうんだろう、もうなくなっていたりして……。

 って気持ちで、渋谷ビックカメラの裏手の方へ行ったら、いやいや、まだちゃんとありました。「のんべい横丁」の提灯も下がって、「まんま闇市」といった風情の昔とは雰囲気は変わったけれども、横丁自体は不変。

 ただし、店の表側だけは新しくなっています。裏側は昔のまんまなんだけれどもね。

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 渋谷であまり飲んだことはなかったので、実はこののんべい横丁で飲んだことはなかった。渋谷に行くたびに横丁の前を通ったり、宮下公園へ抜けるのにのんべい横丁を通って行ったり、一度、夜に行って見ようってずっと考えていて、でも行ったことはなかった。まあ、昼間ののんべい横丁はたびたび通ったんだが、夜には行ったことがなかったんですね。

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 とは言うものの、こんなちっぽけな飲み屋横丁だもんなあ、いずれは後継者問題なんかもからんで経営者が少なくなり、跡継ぎのない店が増えて、自然消滅ってこともあるかもしれないなあ。

 そんなになる前に一度行っておかねばの娘だ。

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 なんせ「昭和の遺構」だもんなあ。

 もうすぐ平成も終わってしまうっていう時期ですからね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shibuya ©tsunoken

2018年11月 4日 (日)

TOKYO DEEP : ニュー大崎ビル

 JR大崎駅の東口はゲートシティ大崎を中心とした高層オフィスビル群が有名であるけれども、ちょっと遅れて開発が進められた西口方面もシンクパークタワーとかソニーシティ大崎などの高層ビルが出来て、「工場の街=大崎」からかなり変化をしている。ところが、唯一昔から変化をしていないのが大崎駅西口前にあるニュー大崎ビルなんである。

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 まあ、ビルの外観もかなりレトロではあるけれども、中はもっとレトロ。

1・2階が商店街なんだけれども、エスカレーターもないし、なんかビル全体も暗いんですね。中に入っているお店も、実際にはいろいろ代替わりはしているんだろうけれども、なんとなく「昭和」を感じさせる、今や「遺構」なんてことを言われそうな雰囲気なんです。

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 1階の商店街は基本的に食事を供する場所、っていうか早い話が「飲み屋」。

 まあ、大崎が工場街だった頃の名残なんですね。

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 でも、こんなビル、っていうか例えば新橋駅前のニュー新橋ビルっていう、まさしく昭和の遺構みたいなビルにも、現在でも続々サラリーマンのお父さんたちが入っていくのと同様に、ここ、ニュー大崎ビルにも、多分会社帰りのサラリーマン氏がちょいと立ち寄りなんかをするんでしょうね。

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 まあ、その辺が、未だ完全フリー化されていない日本サラリーマンに支持されている、そう、昔の飲み屋街なんであります。

 考えてみれば馬鹿ですねえ、会社での不満は会社でしか解決できないはずなんだけれども、なんで仕事帰りの飲み屋で解決しようと考えるんだろうか。

 そんな、「昭和の働き方」をしているサラリーマン氏が、未だ多いのかなあ。

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 なあんてことを考えると、まだまだこのニュー大崎ビルってのも、生きていけそうな気がするんだけれども、問題はこのビルって裏側がニュー大崎マンションっていう、地上9階建ての大きな分譲マンションなのであります。

 このビルが出来たのは昭和53年。マンションに関する新耐震基準ができたのが昭和56年なんだから、当然、このマンションは旧耐震基準でもって作られたマンションなんですね。

 ウチのマンションもまさしくその問題で、「耐震補強」か「建て替え」かでもっていろいろな話し合いがあって、結局、「建て替え」をするということになったのだけれども、その結果には皆さん満足しているようだ。

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 ということで、当然、このマンションも「耐震補強」か「建て替え」かという問題が起こっているんだろうけれども、20数戸だけの我がマンションと、多分100戸以上あるニュー大崎マンションでは事情が異なるので、まあ、はっきり言ってまとまらないでしょうね。どうなっちゃうのかな。

 他人事なんで、私としてはどうでも良いんだが、だんだん少なくなっていく昭和の遺構の一つにはなるのかな。そう意味では「ちょっと残念」でも「ちょっと安心」なんだが、まあ、街は時代と共に変わっていくという法則に合わせれば、それもやむなきことなんでしょうね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Osaki ©tsunoken

2018年11月 3日 (土)

久しぶりの名古屋

 名古屋行きのフィルム現像が上がって来たので、早速UP。

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 動物園関係は一昨日のブログで載せたので、今日はあまり動物園っぽくない写真がメインになります。

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 今から40年近く前になるのだが、私が名古屋市民(って、実は名古屋に住民登録はしていなかったので、本当の意味では名古屋市民ではなかったんですが)だった頃があったんだけれども、その約三年間、実は一度も東山動物園に行ったことはなかった。

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 ただし、東山動物園には行ったことはなかったんだけれども、東山にはよく行っていた。

 つまりそれは、当時は東山の周辺も今みたいな住宅地にはなっていなくて、完全に裏山状態だった。なので、当時の東山の裏山は舗装林道みたいな感じの峠道が結構張り巡らせられていた。

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 まだまだ、東山はまさしく「名古屋の東側の山」っていうことで、その辺りから「名古屋の郊外」が始まるっていうような山だったんですね。

 私が住んでいたのが地下鉄東山線の東山公園駅の二つ先の一社という駅だったので、車通勤していた私は、まあ、夜な夜な東山の裏側を走り回っていたっていうわけです。

 当時はNDC東京というニッサン系のクラブに入って、ラリー仕様のニッサン・バイオレットPA10に乗っていたということもあって、結構、山の中でクルマを振り回して走るのが好きだったんです。ドリフトなんかをしちゃってね。まあ、今だから言える話なんですけれども。「イニシャルD」なんかが始まるずっと前です。

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 そういう意味では、今から40年近く前まではまだ名古屋も現在ほどの大都市じゃなかったのかもしれない。あ、勿論当時から大都市ではありましたが、現在ほどにはっていう意味です。

 当時の愛知県の人口はほぼ600万人、名古屋市が210万人、現在はそれぞれ750万人と230万人なので、当時でも既に世界に冠たる大都市ではあった。でも、当時すでに1000万人を超えていた東京から移り住んだので、やっぱり名古屋は田舎だなあという感覚はあった。

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 さらに「大きな田舎」と呼ばれており、今もそう呼ばれている名古屋である。

 人口が200万人といえば確かな大都市なんだけれども、なんとなく名古屋の人の地味さとか、町の造り、つまり盛り場が栄しかないとか、名古屋城を模した天守閣を作っちゃった名古屋市役所や愛知県庁なんかが偉そうに建っているなんてところが、「結局、名古屋って田舎なのね」って呼ばれていて、今でもそう呼ばれているのだ。

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 ただし、名古屋の町の大きさというものには結構気に入っている部分もあって、東京の茫洋たる大きさには少し辟易していたことなどもあり、名古屋に移り住んじゃおうかななんて考えていた時期もあった。

 まあ、でもたまに東京に帰ってくるとホッとするなんてこともあるので、結局名古屋には定住することなく済んでしまったのでありました。

 結局、東京生まれの私としては、東京以外の都市には住めないのですね。

LEICA M6 KONICA M-HEXANON 50mm f2 & LEICA ELMARIT 28mm f2.8 @Nagoya ©tsunoken

2018年11月 1日 (木)

シャバーニと味噌煮込みうどん、そしてひつまぶし……三題噺です?

 一昨日・昨日は名古屋に行ったんだけれども、何故名古屋に行ったのか?

 きっかけはテレビニュースで「イケメンゴリラとして知られたニシローランドゴリラのシャバーニ一家が、隣に引っ越してきたチンパンジー一家から砂をかけられるなどの嫌がらせをされていて、大変」っていう情報を目にして、何故か突然「名古屋に行こう」ってなっちゃったんですね。まあ、私もカミさんもヒマっていうか……何というか。

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 で、実際に行って見れば、別にシャバーニ一家と、チンパンジー一家とは別にそれぞれ勝手に暮らしている感じで、まあ、普通に暮らしているんですね。もう慣れちゃったのかな。

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 それ以外にもフクロテナガザルなんてのがいて、喉のすぐそばにある大きな袋を膨らませて大きな声を出すテナガザルなんてのがいたんだが、なんでそんなことまで知っているの? っていう我が奥さんの知識なのでありました。

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 まあ、基本的には何故か動物園好きで、色々な場所の動物園に行っている娘から得た情報だったらしいんですがね。動物園のどこが面白いんだろう?

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 でも、午前中の動物園なんて、基本的には夜行性が多い動物のいる場所としては展示に向いていなくて、実は、動物のほとんどは寝ているんですね。まあ、昼間に動き回ったら途端に他の動物に見つかってしまって、下手をすれば食べられちゃうんだから、こんなトラみたいに凛々しい姿を見られる動物は、昼間にはあまりお目にかかれないんですね。うん、なんかいつも寝てばっかりいるライオンよりはトラの方が百獣の王として相応しいと思うんだがなあ。タイガーマスクにそっくりだし……、えっ?

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 っていうことで名古屋が終わってしまっては面白くない。

 で、名古屋で何がしたいのかと聞いてみれば「東山動物園に行きたい」というのは既にご紹介したのだが、その他には「ひつまぶしが食べたい」「味噌煮込みうどんを食べたい」「あんこトーストというものを食べてみたい」というのがあって、それを全部こなすとなると一日では無理、ということで、今回の名古屋行きとなったのであります。

 つまり一日目は、朝東京を立って朝のうちに名古屋につき、そのまま東山動物園へ。その後、中心地である栄に戻って、まず昼食で「山本屋の味噌煮込みうどん」。

 昼に味噌煮込みうどんを食べちゃうと、江戸の小さい胃の人間には夜は食べられなくなっちゃうんで、まあそのまま夜は軽く……ですね。

 二日目は、まずホテルでは朝食はとらずにチェックアウトして、「イノダ・コーヒー店でモーニングサービスのあんこトースト」。その後は名古屋城などを見学して、最後は「竹葉亭のひつまぶし」を食べて帰って来たっていうわけです。

 まあ、昔一時的に名古屋住民だった私としては、「味噌煮込みうどん」は最後まで好きになれないうどんの食べ方だった。だって、たんなる鍋焼きうどんでしょ、おまけにそれの食後にご飯を鍋に入れて食うなんて、基本的に「炭水化物過多の農民食」なんですね。なので、農業から切り離された江戸・東京の市民からすれば「そんな体が重くなっちまうものなんかは食えねえよ」ってなところなんですね。

 あんこトーストもまあ、似たようなもんですな。トーストをなんでそんなにお菓子みたいにしちゃうのかなあってなことで、まあ、東京人にはよくわからない食べ物ではあります。

 最後は「ひつまぶし」なんだけれども、確かにこれだけはもしかしたら一番おいしい鰻の蒲焼の食べ方かもしれない。昔、江戸落語の名人、六代目三遊亭圓生が名古屋公演に行ったときにはじめてこの「ひつまぶし」を食べて、まさしく「一度でいいから、こうやって鰻を食べたかった」って感激して、泣いて言ったとか言わないとか。

 東京で、こんなに鰻とご飯をごちゃごちゃに混ぜて、おまけに最後にはお茶漬けにして食べたら一発で「粋じゃないねえ」って言われちゃうんですよね。東京を代表する噺家としては、そんなことはできません。ってねえ、「粋」ってのも、それを通すとなると、結構辛いこともあるんですよね。

 でも、お米のごはんって、実はいろいろな具を混ぜれば混ぜるほどおいしんですよね。まあ、カレーライスやビビンバみたいに、「ご飯と混ぜて食べる」ものはアジアにはいっぱいある訳で、基本的にそれが「米」の基本的な食べ方なんじゃないかなあ、なんて思ったりしています。

 江戸っ子の潔癖性よりは、名古屋っ子の実質性の勝ちっていうところでしょうかね。

 これで「名古屋での使命=三題」はすべて終了。

 お後が宜しいようで……。

Dsc_01542

 で、この三階建て低層アパートは、何なのかな?

NIKON D7000 AF NIKKOR 18-105mm f3.5-5.6 G ED @Nagoya ©tsunotomo

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