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2018年11月

2018年11月30日 (金)

たびたびの伊勢佐木町

 うーん、どちらかというと横浜の大岡川の東岸よりは西岸の方が、昔から行ったことが多いかなあ、というのが事実だ。

 まあ、黄金町あたりの「ちょんの間」なんかは、それこそ昔話的に聞いていたわけで、横浜の盛り場と言えば、伊勢佐木町だったわけですね。

 でも、それは本当の横浜の盛り場を知っていたわけではなくて、伊勢佐木町は盛り場の中心だったんだけれども、それと同時に伊勢佐木町はキャバレーやクラブが中心で、女性が春を売るような営業はの裏側にある福富町通りに既に移っていたことを知ったのは、伊勢佐木町商店街がきれいになってからの後のことだった。

 黄金町はそれとはまた違った売春街だったらしい。

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 ってなことで、いまやすっかり(つまらなく)奇麗なショッピング通りになってしまった伊勢佐木町を歩くんだけれども、当然、そこは青江三奈さんが歌った「伊勢佐木町ブルース」はないわけですね、当たり前。

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 その伊勢佐木町通りを象徴するのが伊勢佐木町商店街の入り口のそばにある伊勢崎地蔵尊なのである。ただし、伊勢佐木町商店街の入り口がこの富士見川公園側なのか、あるいは関内駅方面なのかはわからないので、入り口か出口かはわからない。

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 伊勢佐木町商店街を少し行くと、そこから先は「イゼザキモール」という呼び方になって、まあ、いわゆる皆さんもよく知っている「伊勢佐木町」になるんですね。

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 店の入れ替わりはかなりあるようなイセザキモールだが、相変わらず人出が多いことには変わりはない。

 当然、そこを歩く人たちは、そこが昔はもうちょっと剣呑な場所で、あんまり普通の人が立ち入れるような場所ではなかった、という一般論は、まあ新宿の歌舞伎町みたいなもんだったんでしょう。

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 その歌舞伎町が「浄化政策」でもって、(建前上は)きれいになってしまっているのと同じような、「きれいな町」っていう感じがしてしょうがないのは、ホンの少しだけだけど、昔の伊勢佐木町を知っているからなのかなあ。

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 高野史枝さんのドキュメンタリー『厨房男子』を、関東で最初に上映した横浜シネマリンは、まだまだ健在です。

 次回上映はマイケル・ムーアの『華氏119』だ。これは「見ておかなければ」的な作品だなあ。ってことは、次回、横浜に来るのは12月ってことですかね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Isezakicho Yokohama ©tsunoken

2018年11月29日 (木)

大岡川を遡る

「大岡川を遡る」なんて言っても、別に大岡川の源流にまで迫るというわけではない。まあ、横浜の桜木町駅で降りて表通りを通らずに裏道だけ、更には途中から京浜急行に沿って、少しだけ歩いたっていうだけなのです。

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 勿論、出だしは野毛の飲食街なわけですね。

 なんか、地域紹介のためのボランティアの方でしょうか、そんな人たちがリーダーになった団体見物客がいくつか見えました。そうか、今や、野毛も観光スポットなんだなあ。まあ、確かに戦前戦後の文化人で野毛に通った人はいた、っていうかその頃はまだ伊勢佐木町じゃなくて野毛の方が繁華街・飲み屋街だったらしいんですね。

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 日ノ出町駅辺りから南太田駅あたりまで、京浜急行は大岡川と並行して走っています。勿論、基本的に京浜急行は概ねこの大岡川と並行して走っているんですが、この辺りは特に大岡川のすぐ脇を走っています……、だからってどうということはないのですが。

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 特に、日ノ出町駅から黄金町駅あたりまでは、ちょうど伊勢佐木町と大岡川をはさんで対岸という格好になるので、野毛も含んで繁華街・飲み屋街の隣の町ということで、青線(売春防止法施行以前の非公認売春街)だった場所なんですね。

 でも、この「青線=非公認売春街」って、変ですよね。「非公認」ではあるけれども、その当時、横浜市というか中区かな、はそういう「場所=売春街」があることは承知していて、でも法的には「そんな場所はない」っていう「タテマエ」なんですよね。

 まあ、日本中にこんな「赤線=堂々と売春ができる」と「青線=タテマエ上では売春はしていないということなんだけれども、実際には春を売っていた」がたくさんあったんだけれども、なんかなあ、本当に日本の役人って「言葉遣いでモノゴトの本質から離れる」っていう天才の集まりなんだよなあ、まったく東大卒ってやつらは。

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 ってことで、昔の売春宿兼一杯飲み屋みたいな、一棟に三軒位の店の入り口があって、二階が客を入れて春を売るスタイルの建物がいくつか残っています。

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 なんてものに目を奪われている間に南太田駅が近づいて来るんですが、もうそうなると普通のマンションなんかが出てきて、歩いていてもあまりも面白くない。

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 で、道慶地蔵尊があるあたりまで戻ってきて対岸に渡ります。

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 こっちにきちゃうと富士見川公園があって、つまりそこからはいつもの伊勢佐木町になっちゃいます。要は戦後の繁華街。第二次大戦後、米軍が着て「関内」って場所が今一度再認識された時代からの繁華街なんですよね。

 ああ、そうか。つまり野毛はそれ以前の日本人の文化人とかが来てた場所で、伊勢佐木町は、戦後の米軍人が栄えさせた街なのかもしれないなあ。

 それはまた明日のお話にします……、出来るか? まだ、書いていないのに。

EPSON R-D1s VOGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Noge, Hinodechou Yokohama ©tsunoken

2018年11月28日 (水)

変貌する街、渋谷

 代々木駅から明治神宮の裏、東京乗馬倶楽部脇を通って代々木公園経由で渋谷に至る。

 普通、渋谷に行くときは渋谷駅で降りるんだが、別に用事があって行くわけではないので、ちょっと遠回りしてみたというわけなのだ。でも、やっぱり、写真に撮りたくなるのは渋谷に行ってからですね。「写欲」をそそるものが渋谷にはやっぱり多いので、それはちょっと悔しいかな。

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 渋谷区役所と渋谷公会堂も来年1月には完成するらしいので、再び渋谷公会堂が若い人で一杯になる日も……、くるかなあ。

 なにしろ、文京区役所と文京公会堂が一緒になって文京シビックセンターになって、文京公会堂は文京シビックホールになったのはいいが、公会堂時代とシビックホール時代では周辺事情が異なってしまい、「8時だよ、全員集合!」みたいなテレビ番組もなくなっちゃって、文京シビックホールも今や予定を埋めるのに四苦八苦しているらしい。

 お役人の時間感覚と、マスコミの時間感覚では、天と地の違い位のものがあって、新しいホールが出来たって、その頃には使うほうではもうそれがいらなくなってしまうっていうという問題がある。

 まあ、既にイベント関係なんかの主催・共催者ではなくなってしまった私としては、面白がって眺めているだけですけれどもね。

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 それ以外の渋谷と言えば、やっぱり「Graffitiの街」というのが、私の渋谷という街に対するイメージだ。

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 それはビル建設業者なんかも、というかそれを指導しているデザイナーの指示なんだろうけれども、こんな『AKIRA』イラストを使用した建設現場外壁なんかを作っている。

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 しかし、未だに『AKIRA』なんですねえ。『SLAM DANK』とか『進撃の巨人』、『ONE PIECE』でもいいと思うんだけれども、何故か『AKIRA』なんですねえ。

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 ああそうか、『AKIRA』の舞台、国立競技場は渋谷区だったんだっけ? いやいや、新宿区でしょ。

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 ってのはどうでもいいんだけれども、渋谷でよく見かけるのが、この「Graffiti(落書き)」アート。

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「アート」のレベルに達していないものは、別に消しちゃってもいいけれども、見ていると結構、面白いものもある。そういうのを「ART」として認めて、街に残しておくっていうのも、実は渋谷区らしい街づくりなんではないでしょうかね。

「GRAFFITIの街、渋谷」なんてね……、結構、格好いい!

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER UTRLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shibuya ©tsunoken

2018年11月27日 (火)

今日は私のブログ記念日

「ブログはじめました。
世間ではTwitterとか言っている時代に……。
岡田会のHPはいずれ閉じます。」

 という書き出しでブログを始めたのが2009年11月27日のこと。

 それが昨日までで1,399,217ページヴュー(PV)という、9年間の数字としてはまあまあではないでしょうか。9年間でブログタイトル数は3,434タイトル。およそ140万PV。年平均タイトル本数としては381件。年間平均1,555PV、1日平均426PVということなので、とりあえず毎日400人くらいの人に私のブログを読んでいただいている。

 う~ん、これはなかなかだ!

 まあ、そこそこの「ミニコミ」ではありますね。昔の新宿西口地下広場で「私の詩集」を売っていた連中よりは上だぜ。(でも、今更そんな連中がいるのか?)

 ってな具合に「下を見れば下がある、上を見れば…」てな感じで、下ばかりを見ています。

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 同じ最初の日に書いた、最初のブログが……

「2009.11.27
イングロリアス・バスターズ
 今日、見てきました。
 要は、メラニー・ロラン扮するショシャナの、クリストフ・ヴァルスのハンス・ランダ大佐に対する復讐譚というだけの話なのだけれども、そこにゲッベルスやらゲーリングやらヒトラーら、ナチの親玉が全部登場してきて、それを利用したランダ大佐の企みが絡んでくる、という構造。
そうか、日本では考えられないが、ドイツではこういう合理的思考もあるんだという、発想。
 いやあ、なかなか面白く見させていただきました。
 って、ブラッド・ピットはどうだったって? まあ、タンティーノ映画ですから、ブラピもタランティーノ風になってしまい、なんか、トラボルタみたいな「のっぺり」した演技になってるんだよね。
 全体的には、タランティーノ節で面白いんだけど、これまでナチ映画はあったが、ここまでヒトラーを出してきて、殺しちゃうのはなかったんだよね。
 演技的にはクリストフ・ヴァルツに最高点。」

 というもの。そうか、最初は映画のことを書いていたんだな。次の日からは「M6ご臨終」「クラッシュボウル」「木村伊兵衛とアンリ・カルチェ=ブレッソン」「ブラインド・サイド(原作小説の方)」「土曜日は忙しい」などと続くわけで、まあ、今とあんまり傾向は変わっていないなあ。

 当初からの目標は、基本的に「一年間365日毎日新しいネタを書き続ける」ということ。やってみると結構大変ではあるけれども、なんとかなるな、という感じ。当初は、途中でネタ切れしてしまうのではないかと思っていたんだが、意外とブログ・ネタってそこいらじゅうに転がっているもんなんですね。勿論、毎日その気になって探さないといけないけれどもね。

 ただし……

 最近は……

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 とか……

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 とか……

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 などのわけの分からん写真に勝手なキャプションつけて、訳の分からんブログになってしまい、本の紹介する回数も減ってきてしまった。

 う~む、これはちょっと危険な傾向だな。もっともっと本を読み、映画を見てそれを紹介する。写真ブログはその中継ぎみたいな感じにしないとなあ……、なんて考えているんですが、雨の日や夜なんかに本は読んでいるんだが、なかなかブログに追いつかなくてなあ。

 まあ、ボチボチいろいろやっていきますんで、今後もご愛読よろしくお願いします。

 取り敢えず、来年からの目標は「一週間に一冊」本を紹介、「一週間に一作」映画を紹介なんだが……。

 これがなかなか……。

 取り敢えず、あと一年で10年っていう節目なんで、それまでは今と同様に続けると思うけれども、その先どうなるんでしょうかねえ……。

2018年11月26日 (月)

今年は三の酉

 今年の11月の酉の日は、1日と、13日、25日の三日である。三の酉がある年は火事が多いという言い伝えがあるが、それは酉の日が三日ある年は寒い冬になるので火事に注意っていう程度の意味だとか、お酉さまに行くと称して吉原で女遊びをするという亭主を敬遠するために言ったとか、などの説があるようだが、実際にはたいした意味はないらしい。

 私自身は二の酉の日に、地元、巣鴨の大鳥神社に詣でて来年の熊手は購入済みなので、三の酉の日には純粋に見物客となって、浅草の鷲神社に行ったのだった。

 ちょっと邪魔だったかしら。

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 浅草の鷲神社のお酉様は大変な人出で、クルマなんかで行ってみようものなら身動きできなくなってしまう、というのは一度経験済みなので、我が家のそばから浅草寿町行のバスで行ってきた。こういう時にバスって結構便利ですね。池袋東口発、浅草寿町行で、「竜泉」停留所で降ります。

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 同じ浅草でも浅草寺は毎日お祭りじゃないかと見まがうような人出だが、普段の鷲神社はほとんど訪れる人もいない寂しい神社なのだ。ところが年に2回か3回だけ、お酉さまの日だけはそれが嘘のような「物凄い」人出になる。

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 まあ、普段から鷲神社でも熊手を用意してくれれば、何も混雑した日に行かずに普通の日に詣でて熊手を頂戴して来ればいいので、そうしてくれたらなとも思うのだが、まあ、そうはいかずに、人ごみの中詣でるからこそ意味があるんだ、っていう人が多いんでしょうね。

「今日は酉の市の日」って言われないと、詣でる気にならないのかな。

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 いずれにせよ、酉の市に行ったら、鷲神社に詣でて、その後は熊手を買って、更に、その近所で行われる市に寄って、年越しの物などを買うというのが昔の酉の市の庶民の行動だったようだ。まあ、今はそんな「市」なんか行かないでも年がら年中、いいものを安売りする店はあるからね。

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 今は特に酉の市の周辺で別の市なんてのが立つってこともないんで、みんな屋台なんかの食べ物、飲み物なんぞを購入して、そこらでいただくっていう、「花より団子」状態になってお祭りを楽しむんですな。

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 ところで、上にも書いたんだが、浅草以外の「おおとりじんじゃ」は皆「大鳥神社」って書くんだけれども、浅草だけは「鷲神社」って書くのは何故だろう?

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 ま、年の瀬も迫った行事の始まり始まりってところですかね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Senzoku Taito ©tsunoken

2018年11月25日 (日)

昔、洲崎遊郭っていうのがあった

 東京メトロ東西線を木場駅で降りて、三つ目通りと永代通りとの交差点を少しだけ東陽町方面へ行くと右側に狭い路地があって、その先に鉄でできた小さな橋「新田橋」がある。

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 橋を渡ると袂にあるのが洲崎神社である。洲崎弁天ともいう。

 このあたり、現在では木場とか東陽町とかと名付けられているんだけれども、もともとは「洲崎」という地名だった。江戸の昔にはこの地域はまだ海だったところで、江戸湾の島にあった神社が洲崎弁天で、それゆえには「浮き弁天」と呼ばれていたらしい。

 まあ、「洲崎」っていう町名自体も埋立地を意味するんですけれどもね。というか江東区の深川自体が、かなりの地域「埋立地」なんですね。そこに人を住まわせ、運河を張り巡らせ、木場とか、魚市場を形作ったっていうのが、徳川幕府の江戸経営のひとつ。

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 その洲崎神社から西洲崎橋を渡ると、現在は東陽町一丁目と名付けられている一帯なんだけれども、実はここが昔「洲崎遊郭」と言われていた場所なんですね。

 地域としては木場公園から永代通りを超えて洲崎川(現在は暗渠になっていて、洲崎川緑道公園になっている)を超えた部分の、東西南北約1km位の狭い地域(下の地図で色付けされている部分が東陽町一丁目)。

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 それ以前に、文京区の根津神社のそばに根津遊郭というのがあったんだけれども、東京帝国大学が作られることになって、学校のそばに風紀紊乱であるってな理由で、明治21年(1888)に洲崎に移され、その後、売春防止法が施行された昭和33年(1958)まで、「洲崎パラダイス」という名前で栄えていた遊郭というか赤線地帯だったそうだ。

 まあ、浅草(浅草寺、三社神社)といい、根津神社といい、男ってやつは「信仰にかこつけて女遊びをしていた」って、まあ、ダメな人種なんですね。

 その名残がこの「東洋弁天商店街」で、昔の洲崎パラダイス時代の建物をそのまま使っているお店なんかもあるらしい。

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 売春防止法施行の後は、例えば浅草の吉原みたいにソープランド(ソープランドの経営者は場所をソープ嬢に貸して、客とソープ嬢は「自由恋愛だ、という屁理屈で法網を逃れた)として生き残ることはせずに、普通の町になってしまったようだ。

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 なので、上の写真の道は「大門通り」という、吉原にもあるような名前の道なんだけれども、別にその先にソープランドがあったりするわけではなく、「大門」もないし、道の名前だけが昔を偲ばせるだけのことである。

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 裏の道も、中・小規模なマンションや集合住宅があるだけで、「なんとなくソレを示すような家」ってのもない。

 まあ、今の洲崎一帯は恐ろしい位に普通の生活の町なのでありました。

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 で、これはどうでもいいんだけれども、こうした「上はマンション、下は銭湯」っていう形式の賃貸マンションっていうのを、下町ではよく見かけるんだけれども、こういうマンションって、それぞれの部屋に風呂はついているのかしら、いないのかしら。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Toyocho ©tsunoken

2018年11月24日 (土)

Just Walking in Gotanda

 ちょっと小雨気味なので "Jsut Walking in the Rain" じゃないけど、"Just Walking in Gotanda" とシャレてみた。

 なんで五反田なんだって言われてしまうと、理由はありません、返す言葉は何にもないんだけれどもね。

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 五反田駅周辺は山手線の南北で分かれてしまう。

 北側は由緒ある武家屋敷跡の邸宅街、外国大使館、大学、大規模病院などがあり、 通称「島津山」「池田山」「御殿山」などと呼ばれる高級住宅街が広がっている。南側は現在は繁華街とオフィス街が混在している地区になる。

 要は山の上の方に武家屋敷跡の山の手地区があって、目黒川から南の地域が、昔は工場地帯があったり、下町の繁華街が広がっていた。まあ、ここにもあった「山の手」と「下町」の関係論なのですね。

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 その一つの象徴といっていいものが、この旧海喜館旅館なのかもしれない。

 現在は閉鎖されてしまった海喜館は、以前はここ五反田や大崎あたりの工場などを相手にしていた人たちが長期逗留をしていた旅館だったらしい。海喜館旅館を舞台にした地面師詐欺事件のことを題材にしてブログを書いたのは今年の2月4日のことだったんだが、まあ、その時はまだ積水ハウスが騙されたっていうだけの段階だったんだ。最近になってやっと犯人グループが解明されてきたというのはご同慶の至り。

 ただ、詐欺事件っていうのは騙したほうも騙されたほうも悪いっていう側面もあるので、まあ、なんとも言えないですね。

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 でまあ、五反田も山手通りに近い部分は、今やビルの建設ラッシュで、山手通りもきれいになっているし、今後ますます発展していくんだろうけれども、少し行って目黒不動あたりにまで足をのばすと、いろいろな事情も垣間見られてくる。

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 でこんな(上)閉鎖された店とか、あんな(下)もう放ったままにされている民家なんかも目立ってくる。

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 微妙な違いなんだけれども、それでもJRの駅、私鉄の駅、などの違いや、その他いろいろの細かい立地の違いなんかが、再開発にいろいろ作用してくるようだ。

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 五反田のサラリーマン諸氏も、「ボーッと生きてんじゃネーヨッ」って言われないようにね。

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 あ、それ私が言われそうな言葉だな。だって、毎日「ボーッと」歩いてますんで。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Nishi Gotanda ©tsunoken

2018年11月23日 (金)

千葉に近いのに棄てられた街? 東金

 20日の記事の流れで東金市まで行ってきた。

 昔、高校の教科書採択活動で行っていた頃には東金市というのは千葉から裏山を越えてすぐという感じの街だった。あまり大きな街ではなかったけれども、それなりの存在感のある街だったような記憶がある。

 ところが今回、電車で行って見たらこんなに遠いところ、こんなにスゴイ「田舎」とは思わなかった。なにしろ、千葉から外房線で大網駅まで行って、そこで東金線という単線に乗り換えなければならなかったとは……、こんなに田舎だったのかなあ。

 なんせ、東金駅ってこんな感じの駅なんですね。

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 で、その東金駅を出てみれば、まさしく「死んだ街」が駅前に展開しているのだった。

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 取り敢えず、目指すところは左上の方の八鶴湖と東金城址だ、と言ったってそこに東金城址なんかは残っていないのは知っている。

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 駅から数分で八鶴湖に着いてしまう。東金市の中心部にそれはあるのだった。周囲は房総丘陵の外れにある低い山に囲まれた「谷戸地形」。

『その昔 谷池(ヤツ)と謂う 谷はヤチ(谷地)に通じアイヌ語で草深い湿地の意なり
 慶長十八年(一六一三)家康公 東金御殿(現東金高校)を造営されるに、その「御殿前池」として弁天島等を設け整備される。
 面積は約一万一〇〇〇〇坪(三万六三〇〇〇平方メートル)周囲一〇町(約一〇〇〇メートル)
 天保年間、幕末の尊王家、梁川星嚴その弟子遠山雲如ら詩人、学者盛んに湖に遊ぶ
 雲如その詩句の中に八鶴湖と称し天下に紹介される

          東金市観光協会』

 という説明文が示されている八鶴湖、つまりこの湖自体は人造湖なんですね。もともとは小さな池だったんだけれども、徳川家康が池を拡げて、城を作ったそうだ。

 で、その湖の隣、写真で見ると左上のほうに昔の東金城(東金御殿)、現千葉県立東金高校があります。

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 東金高校の前まで行って見ると「御成街道」という木札が立っていて、江戸からこの先の九十九里まで、江戸徳川家が鷹狩に来た道だったことがわかります。つまり、東金城というのは、戦や藩の経営のための城ではなくて、将軍が鷹狩りのために使った別荘だったんですね。なので、実際には「東金城」ではなく「東金御殿」と呼んだらしい。

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 湖畔には「八鶴亭」という旅館があって、いまでも営業をしているようだ。

『八鶴亭の建物は、明治創業の旅館八鶴館のもので、現在は所有者が変わり料亭を営んでいます。八鶴湖畔に面する本館は1階に60畳の大広間や玄関、2階に宿泊室を配し、各部屋の意匠を凝らしています。本館東側に接続する本館は木造3階建で棟が最も高く、さらに東側に宿泊棟が続き、棟高や屋根形式が異なる3棟が八鶴湖の景観に彩を添えています。背面には渡り廊下を介して浴室棟と、石造風外壁と赤瓦が印象的なビリヤード棟が建っています。平成21年5月に国の登録有形文化財に登録されました。』

 というご案内。徳川家康とは関係ない。

 現在も営業中ってところがすごい。しかし、こんな寂しい町の旅館って、泊まる人はいるんだろうか。現在は、広間を使った結婚披露宴などの宴会なんかがもっぱらの使い道らしい。

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 私がたまに訪れていた40年ほど前には、東金市には東金多田屋という千葉県の大手の書店からのれん分けした書店が、それなりに盛んに営業していたんだが……

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 もうその面影はいずこ、という感じの街になってしまっている。

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 もう、棄てられた街になってしまったのだろうか。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Togane ©tsunoken

2018年11月22日 (木)

大井品川ゼームス坂

 JR京浜東北線を大井町で降りると、普段は品川区役所のある西口に出て、西大井正面へ向かって「光学通り」を通って、ニコンの研究所を目指すことが多いのだが、この日は駅の東側へ出た。

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 西口は阪急などが大きなショッピングセンターやホテルなどを作っており、イトーヨーカドーなどもあるのだが、東口はヤマダ電機が大きな店舗を構えているくらいで、あとは小さな飲食店が多い、いわゆる「駅前商店街」を形成している。

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 商店街の裏は勿論飲み屋街がこれまた展開していて、この辺を見るといかにも品川、大井から蒲田辺りまで続く町工場をに働く人たちがたくさんいた町の駅前っていう感じがプンプンするのだ。

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 で、駅前商店街(大井銀座ショッピング・ロード)を少し行くと三差路があって、その先にあるのが、ここ「ゼームス坂通り」という道なのだ。

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 ゼームス坂通り自体は今ではそれほど急な坂道ではないのだが、品川区のホームページによれば、昔はかなり急な坂だったようだ。

『JR大井町駅から第一京浜(国道15号線)に出る道にあるこの坂は、もと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていて、非常に急な坂でした。明治時代、この坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修しました。それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになりました。
 J.M.ゼームス(1839~1908)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治5年(1872)に海軍省に入って、測量調査や航海術の指導を行いました。生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあります。』

 すごいなあ、個人の財産でもって公共の道を直しちゃったんだ。よっぽどの財力だったんだなあ。

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 それだけ財力もある人だったら、その昔ゼームス氏が住んでいた屋敷なんかが残っているのではないかを付近を探してみたんだが、なかなか見つからない。

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 その代わりに見つけたのが、この「高村千恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)」という説明板なんだが、こに書かれている「70m先を右に上がる」という指示通りに歩いていくと、その手前左側のマンションの敷地の入り口に「ゼームス屋敷跡」という石碑が建っている。

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 ゼームス氏の関連と言えばそれだけ。

 実にあっさりとしたもんだ。

「粋なもんですねえ」(©木村伊兵衛)

EPSON R-D1s LEITZ ELMARIT 28mm f2.8 @Ohi Shinagawa ©tsunoken

2018年11月21日 (水)

西東京市の不思議な地名

 だいたい西東京市という名前自体が変である。確かに「東京の西のほうにある町」だから西東京市なんだけれども、いかにも「今になっていい加減に作った市の名前」っていう感じだ。まるで歴史性ってものを感じさせないんですね。

 とはいうものの、もともとあった田無市と保谷市の合併論を当初は両市とも断ったんだけれども、結局合併しなければならなくなったために、じゃあ、どんな名前の市にしようかとなて、結局、旧田無市も旧保谷市も、出来れば自分の町の名前を残したい、相手の名前の市になってしまっては、自分の市が併合されてしたっみたいでカッコ悪いから嫌だ、ってのが「西東京市」という、なんともみっともない名前の市になったってのが、西東京市成立のお話。

 まったく、何を考えているんでしょうね。実につまらない「市名成立のお話」なんだけれども、で、その西東京市にある西武池袋線の駅、ひばりヶ丘駅を降りて少し行くと、もっと分からないものに出くわすことになる。

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 それがこの「谷戸商店街」っていう表示なんですね。

 ひばりヶ丘駅の南口を出ると、駅前から南の方へ伸びている道がまさしく「谷戸商店街」なんですね。

 本来、「谷戸」地形っていうのは、丘陵地にある川などで浸食された地域で、その部分だけ両側の丘陵から掘り下げられた谷の地形をさす。ここ、西東京市の「谷戸」地域は西武池袋線のひばりヶ丘を北の頂点とする三角形になっていて、南の端は東京大学の農学部実験農園になっている辺りだ。

 つまり、ここらあたりの多摩丘陵には白子川とか黒目川、石神井川なんかはあるんだけれども、川の周辺には小さな谷はあるとはいうものの、それほど大きな谷を作るような川ではない。町の周辺を見渡しても、いわゆる谷戸市域にあるような坂道が見当たらないのだ。

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 でも、その谷戸商店街をどんどん進んでいくと、谷戸一丁目の交差点というのがあって、西東京市の谷戸という地名はそこで終わるんだけれども、そのすぐそばに谷戸小学校や「せせらぎ公園」「西東京いこいの森公園」なんて緑地もあって、そこがなにか「谷戸」の地域の由来をしるきっかけになるのかな、と考えて行ってみた。

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「せせらぎ公園」の入り口に「谷戸の歴史と田無の由来」と題する説明板がある。

『【田無発祥の地「谷戸」】
 田無発祥の地は、年代は明らかではありませんが、水の便に恵まれていた谷戸地域であると推定されています。
 かつて、この地には、稲荷社や白山社、弁天社、田無山総持寺の前身である西光寺がありました。田無神社は尉殿権現社として宮山(現在の市立田無第二中学校敷地内)に建立されていました。
 確かな記録としては、小田原城に拠点をおいた後北条家の文献「小田原衆所領帳」の中に「田無」の名がみられ、これにより室町時代の田無は、戦国大名の支配下にあったということがわかります。』

 という、なんだか「谷戸」の説明なのか、「田無」の説明なのかわからない説明板なのでありました。一体、何をもって「水の便に恵まれていた谷戸地域である」って推定できるんでしょうかね?

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 いずれにせよ、「谷戸」という地域名であるにもかかわらず、谷間はないし……

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 で、多分この辺りはや陸稲はあったかもしれないが、水田はなかったので、やっぱり谷間の水田っていうのもないしなあ。

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 なんでここが「谷戸」なんだろう?

 よくわからないなあ。

 もしかしたら、東大農学部実験農場に入ると、その秘密がわかるのかなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLAMDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Nishi Tokyo ©tsunoken

2018年11月20日 (火)

調子に乗って、銚子まで行く

「調子に乗って、銚子まで行く」っていうのは、まさしく「オヤジギャグ」でしかないんだけれども、でも、それ以外に「何故、銚子なのか」ってことに対する答えはないのだった。

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 銚子ってのは、同じ千葉県でもこれほど遠いのかっていうくらい、遠い場所である。

 同じ千葉県でも常磐線沿線とか千葉市、木更津市などまでの地域や成田空港あたりの千葉県と、それ以外の千葉県は、そこがほとんど同じ県とは思えないくらいに違った場所なのだ。千葉市までは、まあ、東京の延長線上の都会があったりするんだけれども、そこから先は「都会」などというものにはまったく縁のない、まさしく「田舎」なんです。

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 で、その田舎のもっともっと先の「超田舎」っていう場所が、まさしく関東の地の果て、太平洋に面した漁港である銚子市なんですね。でも、銚子漁港はそんな「田舎の漁港」どころではないくらい大きな漁港なんです。

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 銚子市と言えばその銚子漁港と、ヤマサ醤油とヒゲタ醤油で持っているっていうことは、皆さんご存知の通りの町なのですね。

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 ところが、銚子漁港やヤマサ醤油、ヒゲタ醤油は相変わらず地元の産業としては大きな存在であるはずなんだけれども、数十年ぶりに行って見たら、なんか町に元気がないんですね。

 漁港の裏の道が昔はメインストリートでいろいろな商店や、スナック、飲み屋なんかが並んでいたのだが、その道が広がったようでその分、そうした「曖昧な店」がなくなってしまっている。

 私にとっての銚子市は、サラリーマンになって、当時は高校の教科書採択活動なんてものがあって、千葉県の東半分を担当することになった私の最初の担当地だったってことと、その後、一般書店の茨城県を担当した際にも、仲良くなった銚子市の対岸の茨城県〇〇町の〇〇〇書店の親父と、はるばる銚子まで酒を呑んだり、〇〇〇遊びをしにきたり……なんていう街だったのだ。

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 まあ、そのぐらい賑やかな町ではあったんですね。昔は銚子漁港も今以上に栄えていたんだろうか。

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 それがなんかとっても静かな街になってしまったようだ。知らなかった……。

 といっても、当然、若者はどこかに行って若さを発散しているだろうから、この町のどこかにそんな場所があるんだろう。

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 う~ん、最近は、ちょっと銚子そのものじゃなくて、座頭市への興味でもって、銚子の隣町の飯岡の助五郎とか、笹川の繁蔵なんかの方に気をとられているうちに、銚子そのものがだいぶ様変わりしてしまったというテイタラクですね。

 もうちょっと、昔知っていた町にも興味を持ち続けなければいけないなあ。

NIKON Df NIKKOR 24mm f2.8 @Choshi ©tsunoken

2018年11月19日 (月)

木村伊兵衛師匠の跡を追って

 11月16日のブログ「本郷森川町って、どこだ?」で、書いた通り、私の写真は基本的には「町のスナップ」ってことは、やはり「スナップ写真の達人」である故木村伊兵衛氏に近づこうとしながら決して近づくことができない、深い淵の向こう側とこちら側にあるということを、いやっというほど知らされることが、それこそ、毎日のようにある。

Epsn00362 @本郷森川町

 木村伊兵衛氏は1901年台東区下谷に生まれ、1924年に台湾から帰省し日暮里で写真館を開業し、以降、日暮里に住み続け1974年に亡くなった。

 その間、1940年から数年、沖縄や中国の旧満州辺りを取材したのと、1954年にパリに行った時を除いて、殆どが日本国内で撮影行を行ってきている。

 もっとも、旧満州って言ったって、その当時は日本の植民地状態だったので、それは外国に行ったという感覚ではなかっただろう。

 勿論、写真家として日本全土にその撮影範囲は広がっているんだろうが、基本的に私が感じることが出来る木村伊兵衛の写真と言えば、東京の銀座から東半分、つまり下町に生きる人たちの写真なのである。

Epsn00522 @東大構内

 下町に生まれ、下町に育ち、そのまま下町で一生を過ごした木村伊兵衛氏にとって、下町でシャッターを切るっていう行為は、そのまま自分が生きている証であると同時に、その自分を生かしてくれている東京の下町というところに対するオマージュでもあるのだろう。

Epsn00732 @有楽町

 そんな意味では、下町ならぬ「場末」育ちの私が写真を撮るときに、下町出身の木村伊兵衛氏の「町を見る姿勢」にあこがれ、それを自分の写真でも取り込みたいと考えても不思議はないだろう。なんてのは、私の三百代言なんだけれども……。

Epsn01012 @有楽町

 でも、写真っていうのは、昔は「露出とシャッタースピードをコントロールして、フォーカスを如何にキチンと合わせるか」という「技術論」の世界だったんだけれども、今や、それらの計算はすべてカメラがやってくれて、単にカメラマンのセンスだけが問題になってしまっている。で、結局、私の写真も、そのセンスはどうなのかっていうことになってしまうと……。

 まあ、その辺は私の写真と木村伊兵衛氏の写真を比べてみれば、如実にわかるんですね。

 くやしいけれど。

EPSON R-D1s LEITZ SUMMICRON 35mm f2 @Hongo Morikawacho, Tokyo University & Yurakucho ©tsunoken

 上の写真には木村伊兵衛氏の写真に元ネタがあります。

 知りたい方は、以下の本を……

『木村伊兵衛 昭和を写す 2 よみがえる都市』(木村伊兵衛著/ちくま文庫/1995年5月24日刊)
 それ以外の木村伊兵衛氏の日本を写した決定版はこちらを……

『木村伊兵衛 昭和を写す 全4巻セット』

2018年11月18日 (日)

『スッキリ中国論』でスッキリしたこと

 まあ、これはビジネスの問題だけじゃなくて、いろいろな局面でもって見られる日本人の思考法と中国人の思考法の違いなんでしょう。

 それは長い間に培われたお互いの歴史の違いから来るもんなんだから仕方がない。要は、「あっちが違う」「そっちがおかしい」という問題ではなくて、要は「文化の違い」なんだからね。それぞれ相手の国に行ってビジネスをしようと思ったら、それぞれ"When in Rome, do as the Romans do. " なんだけれど。

 まあ、それができない中国人の中華思想ってのもあるのかもしれない。

"When in Roma, do as the Chinise do."というか"Everywhere, we can do as our behavior."なんですね。これはどうしようもない。

 まあ、"When in Beijin, do as Beijinese do."で長いこと生きてきた中国人なんだから、それを今更変えろって言ってもむりだろう。まあ、それを前提に「東の果ての国=日本」の人間は生きていかなければならないってことでしょう。

Photo 『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦著/日経BP社/2018年10月10日電子版刊・2018年10月22日紙版刊)

 基本的な問題としては

『「スジ」で考える日本人
「量」で考える中国人』

 ってのがあるらしい。

『「そんな話はスジが通らない」「スジを通せ」などと言うように、「規則」「ルール」「道徳的規範」など、「こうするべきだ」という、いわば「べき論」のことと思ってもらえばいい。
 日本人、日本社会はこの「べき論」が好きで、とにかく「話にスジが通っているか」を重視する。逆に言うと、スジが通っていれば損得勘定は二の次、みたいな部分もある。
 一方、中国人的判断の基礎となる「量」とは何かと言えば、「これだけある」という「現実」である。「ない袖は振れない」という言い方が日本語にはあるが、現実に「袖」という物体がなければ、振りたくても振ることができない。いくら「袖を振るべきだ」とスジ論を言っても、まさに「ないものは振れない」のである。
 つまり、ここで言う「量」とは、「あるべきか、あるべきでないか」はともかくとして、「あるのか、ないのか」「どれだけあるのか」という現実を示している。』

『日本は中国に比べて「べき論」が前に出やすく、中国社会では日本に比べて「具体的な量の大小による判断」が優先される、ということだ。』

 ということで、基本的なことを言ってしまえば、お互いの違いを相互に認め合って、お互いが理解できるビジネススタイルを指向して進めばいいんだ、ってことなんですけれども、でも、それが何故か出来ないんですねえ。で、文化摩擦が起きてしまう。

 結論を言ってしまえば。

『新しいビジネスを立ち上げるのは「量」の得意技だが、それを収益化し、顧客に愛される存在に育て、ブランド化するまで持っていくことは、「スジ」の方に強みがある。中国版シェア自転車の事例が示すように、「量」の思考だけでは継続的な事業に育てていくのは難しい。
  翻って考えれば、このあたりに日本企業の中国での勝機(商機)があるのかもしれない。派手な「投資」話をぶち上げて右から左に売り抜ける商売は日本人の得意とするところではないが、利幅は薄くとも、社会に役立つ仕事を根気よく、丹念に継続し、しぶとく改善して利益をあげていくという「仕事」は、日本人の 能くするところである。
「スジ」と「量」の発想を理解し、その両者をいかに使い分けるか。そこにわれわれ日本人が、中国人や中国社会と付き合うためのカギがある。』

『新しいビジネスを立ち上げるのは「量」の得意技だが、それを収益化し、顧客に愛される存在に育て、ブランド化するまで持っていくことは、「スジ」の方に強みがある。中国版シェア自転車の事例が示すように、「量」の思考だけでは継続的な事業に育てていくのは難しい。
  翻って考えれば、このあたりに日本企業の中国での勝機(商機)があるのかもしれない。派手な「投資」話をぶち上げて右から左に売り抜ける商売は日本人の得意とするところではないが、利幅は薄くとも、社会に役立つ仕事を根気よく、丹念に継続し、しぶとく改善して利益をあげていくという「仕事」は、日本人の 能くするところである。
  「スジ」と「量」の発想を理解し、その両者をいかに使い分けるか。そこにわれわれ日本人が、中国人や中国社会と付き合うためのカギがある。』

 う~ん、なるほどなあ。

 まあ、別にビジネスを行うのに相手とお互いに信頼感を持つ必要はない。別に、緊張関係になったとしても、ビジネスを行うことはできるのだろう。つまり、お互いが信頼関係になることと、ビジネス関係は、なんの関係もないことなのだ。

 なので、お互い戦争関係になっても、ビジネスは別に行うことはできる。要は「ビジネスで戦争をする」ということでいいのだ。

 まあ、それは高度なテクニックが必要であることは間違いないのだけれども、そんな関係論をヨーロッパ(EU)の人たちは遥か昔から行ってきたし、中国もやっぱり行ってきているのだ。まあ、それが地政学っていうものだろう。

「地続き」ってのがその辺のキーワード。

 そこへ行くと、歴史的に考えて、高度な交渉テクニックを持ち合わせていないのが、日本とアメリカだけなのかもしれない。片方は他の国と地続きではないし、もう一つは歴史的に新しすぎるし……。

 ということで、我々が中国人に対して持っている「何故?」については分かったんだけれども、じゃあ、どうやれば我々日本人が中国人に勝る交渉術とか営業力を持てるのかと言えば……、ちょっとわからないなあ。

 まあ、中国に関して「スッキリ」したのはここまでですね。もうちょっと「スッキリ」したかったんだけれどもなあ。

 ああ、そうかそこから先は「自分で考えろ!」ってことなんですね。

  『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦著/日経BP社/2018年10月10日電子版刊・2018年10月22日紙版刊)

2018年11月17日 (土)

東京メトロ丸の内線の「盲腸」

 東京メトロ丸の内線を中野坂上駅で方南町行きに乗り換える。この中野坂上から方南町へ行く路線って「丸の内線方南町支線」というそうで、駅は「中野新橋」「中野富士見町」「方南町」だけの路線を3両編成の電車が走っているだけの丸の内線の盲腸みたいな短い路線なのである。

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 ということで、中野坂上駅で乗り換えて、次の中野新橋駅で降りる。すぐそばには神田川に架かった「中野新橋」があるんだが、別に、その辺りが港区の新橋みたいな、中野の花街だったってことはなかったようだ。

 もともと「新橋」というだけの名前の橋だった。丸ノ内線の駅がそれをとって「新橋」にしようと思ったんだけれども、山手線に「新橋」駅があるので、それとの混同を避けるために「中野新橋」という名前になったという。で、今度は橋をかけ替える時に、橋名も「中野新橋」にしちゃったという、なんだか<あっちゃ・こっちゃ>の、ややこしい関係があったようだ。

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 で、中野新橋駅から方南町へ向かって歩いていき、中野富士見町あたりに差し掛かると「I'm Chicken (私は腰抜けなんです)」っていう名前の鶏料理屋さんなんかあるんだが、もしかして小川直也の店(?)……、ではなかったようなので、一言文句を……「I'm Chicken」じゃなくて「I'm a Chicken」でしょ、普通アメリカ人ならこういう文法ミスははしないんだけれどもなあ。

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 で、更に先まで行くとありました、ありました。

 神田川と善福寺川が合流する地点のすぐそばです。

「東京メトロ中野車両基地」

 ここが丸の内線の車両基地であると共に、修理工場でもあります。ついでに銀座線の車両修理なんかもここでやっているようだ。

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 おおっ、来年の2月から運転を開始する予定の東京メトロ2000系がいますねえ。

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 ということで、この方南町支線が何故あるのかという「盲腸の理由」はわかりました。

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 ってなことで、安心して方南町まで行ったんですが、脇を走っている神田川に「角田橋(つのだばし)」というのを発見。

 まあ、私とは何の関係もないんですけれどもね。

NIKON Df NIKKOR 50mm f1.4 @Yayoicho Nakano ©tsunoken

2018年11月16日 (金)

本郷森川町って、どこだ?

 本郷の東大正門前の道を入って行ってちょっと行くと、裏通りには珍しいちょっと広い五叉路がある。東大正門前の本郷郵便局のななめ裏側にあたる地域だ。

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 この地域を昔は本郷森川町と呼んだ。

『1872年(明治5年)に岡崎藩主本多氏の屋敷と先手組(さきてぐみ)屋敷を併せて森川町としたものという。先手組頭は森川金右衛門という人物で、中山道の警備に当たったが、与力がたいてい森川氏の親族だったため、「森川宿」と呼ばれたのだという。中山道に於ける馬建場(うまたてば)、すなわち人馬の休むところだった。』(文京区の旧町名説明板より)

 という、まあ普通の本郷の裏街なんですね。

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 なんでこんなことを書いているのかと言えば、あの木村伊兵衛氏の有名な写真のひとつに、まさしくこの地を撮影した「本郷森川町」という作品があるからなのだ。

Photo_3 「本郷森川町」©木村伊兵衛

 木村氏がこの写真を撮影したのが昭和28年(1953年)なので既に65年の歳月が過ぎている訳なので、勿論、町には当時の面影なんてものはない。

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 本郷森川町は1965年に廃止され、文京区弥生1丁目、西片2丁目と本郷6丁目・7丁目に変わってしまった。

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 しかし、面白いのは「町には当時の面影なんてものはない」んだけれども、道の作りは昔のまんま残っているんですね。

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 ということなので、木村氏の写真ではポイントになっていた画面左側の「交番」は消防団の倉庫になっているし、右側の「歯科医院」はマンションになっているんだけれども、そこに行けばかなりの確率で、「ああ、ここがあの写真の場所か」というのがわかるってことになっているんです。

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 文京区ってのも、奥が深いっていうのか、あるいは変化がない、っていうのか……。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Hongo & Hon Komagome ©tsunoken

『木村伊兵衛 昭和を写す2 よみがえる都市』(木村伊兵衛著/ちくま文庫/1995年5月24日刊)

2018年11月15日 (木)

今年も Inter BEE 2018 がやってきた!

 昨日からInter BEE 2018が始まった。

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Inter BEE 2018(国際放送機器展)って、何なんだ?

Inter BEEとは
 歴史と実績に裏づけされた、日本随一の音と映像と通信のプロフェッショナル展として、コンテンツビジネスにかかわる最新のイノベーションが国内外から一堂に会する国際展示会です。
 デジタル・トランスフォーメーション時代におけるメディア産業の新たなユーザエクスペリエンスを提示する展示会として、「コンテンツ」を中核に位置づけ、コンテンツを「つくる(制作)」「おくる(伝送)」「うける(体験)」の技術要素を網羅した「メディア総合イベント」に変容することを目指し、開催いたします。
 Inter BEEは、プロフェッショナルのニーズに応え、国内外のマーケットを視野に入れつつ、業界情報を着実にターゲットへ発信し、出展者と来場者の皆様にとって、効果的で有意義な情報交流やビジネス創出の場をご提供してまいります。』

 というのが開催概要。

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 もともと、映画機器の展示会っていうのはなかったので、この「国際放送機器展」が映像制作に関する一大展示会だったんだけれども、最早、テレビ映像に関する4K・8Kは当たり前の時代に入っちゃって、いまや「フィルム映像による映画」なんてものは、一部の好事家の監督ぐらいにしか許されていなくて、基本的に「映画」も「テレビ」も同じデジタル方式の映像処理が当たり前になってしまっている。「テレビで放送するのか、映画として劇場で上映するのか」っていうのは、単なるフォーマットの問題でしかなくなっているのだ。

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 そうなると、上二葉の写真にあるBLACK MGICA DSIGNなんかが幅を利かせてくるんですね。まあ、日本のテレビ放送の世界ではいまだにSONYや池上通信機あたりのカメラがメインのようなんだけれども、放送局以外のプロダクションや映画制作会社・映像制作会社のレベルでは、この会社のCANONのIOSなんかを使った映画製作システムが、最早、当たり前になってきているんですね。

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 ってことを言いながら、しかし、実はテレビも映画も「光」をつかっている映像表現である以上、ライティングとカメラを支える・動かすシステムがしっかりしていなければ、4K・8Kテレビカメラだってまともに映像を作ることはできない。

 まあ、この辺はまだまだアナログの世界なんですね……、っていうか、最終的なことを言ってしまえば、光は究極のアナログ媒体ですからね。結局、カメラに対してその光の入り口は、アナログ機材(ライティング・レンズ・エキップメント)に支えられた、デジタル(処理をした)表現でしかない。

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 ということで、そうかデジタル時代になっても、まだまだライカ・レンズなんだなあ。凄いっ! っていうか、ライカのデジタル・ムービーカメラ用のレンズがあることは知らなかった。まあ、でも考えてみればライカはもともとムービーカメラや顕微鏡のレンズを作っていた会社なのであった。それはそうか。

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 で、実は最後にこれが一番映像づくりにとっては大事なことなんですね。もう、アナログ以前。

 コンテンツの質を上げるのは、決してデジタル技術ではない。出演者は人間、スタッフも人間、であるならばその「人間」たちが「ロケ弁」に満足するかどうかが、決め手なんです。

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 この「超アナログ」な「ロケ弁」が「デジタル映像の質」を決めるっていうのは、面白いですね。

 まあ、この辺がスタッフの本音。以前、実写ドラマ映画を制作した時に、製作費が緊迫しちゃってロケ弁をケチったプロデューサーに対するスタッフの不満たらたらを聞いたことがあるのでね。あ、それは私の映画ではないですよ。

Inter BEE 2018は11月16日まで幕張メッセで開催中。

入場には事前登録が必要です。事前登録はInter BEE 2018のオフィシャルサイトより

2018年11月14日 (水)

横浜大口通り商店街

「横浜大口通りで通り魔」っていうニュースを聞いて、そういえば横浜の裏の方といえば東横線沿線は知っているんだが、横浜線っていうのは知らなかった、ましてや「大口駅」っていうのは、一度も降りたことはなかった……、ということなので行ってみた。

 まあ、通り魔犯人として捕まったのが70歳のジイサンだったってのは、ちょっと意外だったけれどもね。

 JR京浜東北線で横浜の一つ手前、東神奈川で横浜線に乗り換えてすぐ次の駅が大口駅。なんかもう、この駅舎を見ただけで「ローカル線!」って感じなんだけれども、町の雰囲気はそんな感じではありません。

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 そもそも「大口」って何なのか?

『大口とは「大きく口を開けた谷戸」のことであるという。当地周辺は谷戸が卓越しており、大口の位置はそれらの谷戸が西に枝分かれする根元の位置に当たる。駅の位置は大口谷戸の東の外に当たる。』(Wikipedia)

 じゃあ「谷戸」とは何か?

『谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られる。』(Wikipedia)

 ということで、例えば国分寺の殿ヶ谷戸庭園などが「谷戸」を使った地形に関する呼び名として有名だ。

 ってことで、大口駅を出てみれば、すぐそばに大口駅前公園っていうのがあるんだけれども、まさしくそこが「谷戸」の始まりなんですね。なんで、「大口を開けた谷戸の入り口」なんですね。

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 入り口から即登坂になってエッチラオッチラ上っていくと……

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 こんな名もなき祠なんてのが公園内にあります。一体、どんな神様が祀られているんだろう。

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 更に上っていくと坂道の頂上に出て、こんな眺めの良い場所に出るわけです。

 ここは尾根道なんだけれども、横浜のみなとの方が実によく見える、素晴らしい眺望です。

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 で、そこから降りてきたところが、11日夜から12日の未明にかけて女性が襲われた大口通商店街です。

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 JR横浜線大口駅前から京浜急行子安駅までをつなぐかなり大きな商店街で、そのためもあるのか、地元のCATVか何かが取材に来ていました。別に、通り魔事件の取材ではないようです。

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 で、大口通商店街で新発見! この「ペンギンカメラ」っていうのが大口通商店街に2店舗あって、その両方ともクラシックカメラ(って言っても国産フィルムカメラが多いです)を積極的に扱っています。黄金町の大貫カメラといい、このペンギンカメラといい、結構、クラシックカメラへの造詣に詳しい横浜市なのであった。

 あれっ? なんか話が違うほうっていうか、単純に私の趣味のほうにいってしまいましたねえ。ま、いいか。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR SKOPAR 21mm f4 @Oguchi Yokohama ©tsunoken

2018年11月13日 (火)

たまプラーザって、どんな街?

 基本的なことを言ってしまえば、東急電鉄の会社の基本線は「鉄道運営」ではなくて「周辺土地開発による鉄道利用客の増大」なのだった。

 まあ、それは間違ってはいないわけで、鉄道周辺の土地を開発して、そこに住む人、それらの開発物を訪ねる人を増やせば、必然的にその鉄道を利用する人が増えるっていうことなんですね。そのことにいち早く気付いたのが、「日本資本主義の父」と呼ばれている渋沢栄一であったし、その渋沢栄一が経営者として選んだのが、阪急電鉄や東宝を作った小林一三が推薦した、五島慶太だったってわけなんですね。

『東京急行電鉄の歴史は、渋沢栄一が理想的な住宅地の開発を目的に、1918年(大正7年)9月に設立、1922年(大正11年)6月から洗足田園都市の分譲を開始していた田園都市株式会社を始祖とし、その鉄道部門を同年9月に子会社として分離した目黒蒲田電鉄に始まる。会社分離後の翌1923年(大正12年)8月、多摩川台地区(後の田園調布地域)の分譲も開始し、目黒蒲田電鉄はそれらの交通を担った。つまり目黒蒲田電鉄は、田園都市株式会社と地権者が共同開発した分譲地を、その付加価値を高めるために、省線(現在のJR線)と結ぶ交通手段として設立されたのである。都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものであり、戦後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている。
 この開業に当たり、大阪の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者で鉄道経営の実績があり、既に 1921年(大正10年)6月から田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三は、その役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬと自身の代わりに鉄道省出身で未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した。』

 ということでスタートした東急電鉄の、ある種の理想像がこの「たまプラーザ」ではないのだろうか。

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 田園調布はそれなり成功した田園都市開発の事例かもしれない、しかし、それは(結果としては)あくまでも高級住宅地の開発ということでしかなかった。

 本来の田園都市はそんな一部のエリートのための都市ではなくて、一般大衆が普通に住める田園都市なのである、と東急の人たちは考えたんではなかろうか。

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 その結果が、「東急田園都市線」という路線の名付けであり、そのシンボルとしての「たまプラーザ」という駅、および駅周辺の街の開発なのだろう。

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 当然、「たまプラーザ駅」の基本は「たまプラーザ団地」という大規模マンションなんですね。

『たまプラーザ団地は47棟から成る大規模なマンションで、東急田園都市線のたまプラーザ駅から徒歩5~11分の横浜市青葉区美しが丘1丁目にあります。1968年3月に竣工したたまプラーザ団地は、事業主が日本住宅公団により建設されました。たまプラーザ団地の総戸数は1254戸で、間取りは50㎡台~60㎡台の2LDK~3LDKがメインとDINKSやファミリー向けのプランニングです。広大な敷地に4~5階建ての低・中層棟がゆったりと配棟されています。また敷地内には木々に覆われた広い遊歩道が設けられており、東急百貨店たまプラーザ店3階に直結されています。周辺は低層住宅で構成された閑静な住宅街で、豊かな自然に囲まれ、幼稚園、小学校、中学校が近く子育てや教育にも相応しい環境です。また最寄りのたまプラーザ駅のショッピング施設も魅力です。』(たまプラーザ団地HPより)

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 なるほどなあ、それは分かるけれども、基本的に住居っていうのはその人の、その時期のライフスタイルに合わせて変えていけるのが理想なんだけれども、でも個人で持ってしまった居宅っていうのは、なかなか買い替えるっていうのもできないのだけれども。

 でも、このぐらいのマンションだと自分の住居を売って、どこか他所に行ってまた別の住まいを楽しむっていうのも、一つの行き方としてあるのかなあ。

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 つまり、団地なんだけれども、それぞれの家が所有権を持っている分譲式のマンションと同じ方式の団地なんだってのがわかる。

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 まあ、その程度の「軽い気持ちで持っているマンション」であるならば、逆に「軽い気持ちで売っちゃえばいいや」ということで、不動産の個人移動というのも増えるのかもしれない。

 要は、不動産価格が高すぎるので、売る方も買うほうも身構えちゃうっていうのが、現在の不動産市場の不活性化の理由なんじゃないかと思うんだが。まあ、土地代が高すぎるんですね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Aoba Yokohama ©tsunoken

2018年11月12日 (月)

流山街道にはコンビニなんてものはないのだ

 千葉県の流山市というと、今ではつくばエキスプレスの駅のある「流山おおたかの森」をイメージしがちなんだけれども、もともとの流山市の中心は流山電鉄流山線の終点、流山のはずだし、流山一丁目がこの駅のところにあり、流山市役所も駅のすぐわきにあるんです。

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 流山電鉄は2016年に開業して、既に100念以上経っているそれなりに由緒のある鉄道なんだけれども、なにしろJR常磐線各駅停車の馬橋駅で乗り換えてたったの5駅、途中小金城址駅だけで上りと下りの入れ違いができる単線っていう、いやあ、東京のすぐそばにある路線とは信じられない「とんでもローカル」な電車なんですね。

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 で、そのローカル線に走っているのが、昔、西武線で走っていた全面二枚ガラス、三扉の懐かしい電車なんですね。いやあ、西武線の昔の電車って伊豆急でもみたことがあるけれども、こんな近くで見られるとはなあ。まあ、私の「鉄分」はたいしたことはないので、その程度ですけれどもね。

 で、実は流山って「白みりん」発祥の地らしいのだ。つまり「万上味醂」っていうキッコーマンのみりんブランドが元々は流山で初めて作られ、今でもキッコーマン流山工場で作られているらしい。

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 で、この「富士フイルムのフィルムの箱」っていうお宝みたいな看板がある「流山街道」を横切って流山鉄道流山駅へ繋がるキッコーマンの引き込み線があったらしい場所が、今でもちょっと広い道路になって残っている。

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 ただし、この流山街道って昔はなかった道のようであって、そのひとつふたつ裏の江戸川に近い方にある(現在は)裏道が昔の本通りだったようだ。

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 さすがに昔の本通りだったらしくて、造り酒屋とか昔の商家が残っている……残しているのかは分からないが、まあ、とりあえず昔を偲ばせる遺構とはなっている。

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 なかには、こんな近藤勇陣屋跡なんてのがあって、要は薩長軍に抵抗した新選組の残党が最後に抵抗した陣屋で、ここで近藤は自首し、そのご板橋駅前でもって殺されたわけだ。

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 意外なところに意外な建物が、っていう流山紀行だったんだけれども、いやあ、現在の流山街道、上の写真屋さんの脇の道には、イトーヨーカドーなんてスーパーはあるけれども、じゃあセブンイレブンはあるのかよって言っちゃえば、本当に前後数キロ、セブンイレブンどころか、コンビニなんてものは一切ないのだ。いやいやいや、普通どんな道にもコンビニはあるでしょ、ってのが今や私たちの常識なんだけれども……う~ん、そんなに交通量が少ないのかなあ。

VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Nagareyama ©tsunoken

2018年11月11日 (日)

銀座みゆき通り・考

 日本中いろいろな場所に「みゆき通り」という名前の通りがあるらしい。

 まあ、このみゆき通りのすぐそばの皇居から東京駅に至る「行幸通り」も「みゆきどおり」という読み方もするそうで、まあ、「みゆきどおり」という名前の通りは日本中のいたるところにあるらしい。

「天皇(御)(み)が行幸(幸)(ゆき)に際して通行したことを記念して命名されている。」というのが、その通りの命名の理由らしいから、まあ、日本中にそんな名前の通りがあってもおかしくはない。

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 でも、私にとっての「みゆき通り」は、やっぱりこの中央区銀座5丁目と6丁目の間にある道「銀座みゆき通り」のことなんだなあ。道の名前の由来は知らない。

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 とはいうものの、それは今現在「みゆき通り」と名付けられている通り全体ではなくて、基本的に現在ライカショップがある外堀通りのあたりから、銀座通りのちょっと先あたりまでなんですね。

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 なので、こんな銀座通りを越して昭和通りを越したところにある旧日産本社なんてのは、実はもう築地であって、銀座ではない。つまり、この辺まで「みゆき通り」の看板はあるけれども、そこはみゆき通りじゃないっていう感じでしょうか。

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 つまりみゆき通りっていえば、要は昔「平凡パンチ」が取り上げた「みゆき族」がいた場所ってことなんですね。

「みゆき族」ってなんじゃいな。

『みゆき族(みゆきぞく)とは、既成の秩序にとらわれず、自由な考え方や行動を示す青年達の類型のひとつである。1964年(昭和39年)頃に東京・銀座のみゆき通り近辺にたむろしていたことからのそのように命名された。独自のファッション文化やストリートカルチャーを日本に流行させた。
 男性はアイビールックを崩し、バミューダショーツやつんつるてんのコットンパンツといった出で立ちでVANか「JUN」の紙袋や頭陀袋を小脇に抱え、女性は白いブラウスに踵の低いぺったんこの靴、ロングスカート、リボンベルトを後ろ手に締め、頭に三角折りしたスカーフや首にネッカチーフを巻き、そして男性同様に紙袋やズダ袋を抱え、特に何の目的もなくただ銀座みゆき通りをぶらぶらと闊歩することが流行した、こうしてみゆき通りと周辺に集う若者達のことをみゆき族と呼ぶようになった。
 このブームは1964年4月28日創刊の週刊誌「平凡パンチ」のアイビーの知名度を上げることに一役かった。彼らが地方からも集まった目的は、買い物のほか、同じ服の趣味の仲間を見つけてつるんだり、互いの趣味を競い合ったり、通りで異性と出会ったりすることだった。1960年代末に若者文化の中心が新宿に移る以前は、上京した若者が目指す場所は銀座であり、みゆき通りにはVANの大きな店舗があったことから若者はその周辺に集まってぶらぶらと歩いたりグループを組んでショーウィンドーの横に立ったりするようになった。』(Wikipedia)

 っていう当時の「(単なる)風俗」ですね。「族」なんて名付けるほどの、「別の価値観を持った存在」なんかじゃなかったんですね。

 まあ、かっこだけ、カッコだけ。彼らの中から何らかの新しい価値観を生み出すような行動や、新しい芸術・クリエイティビティなんてものは、全然生まれなかった。

 同世代でいろいろなものを生み出した人は沢山いるんだが、すくなくとも「みゆき族」からは、なにも生み出してはいない。

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 まあVANがみゆき通りに店を出していた関係で、その周辺にVANなんかを着た連中が集まったっていうだけで、1~2年でなくなっちゃったブームなんですけれどもね。その辺がVANの限界だったんでしょうね。VANは文化だったけれども、VANを買っただけのみゆき族は単なる消費者。単なる「仇花」。

 多分、まさしく団塊の世代しかしらない、というか当時「平凡パンチ」を読んでいた人しか知らない現象であり風俗だと思いますよ。

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「おれはみゆき族だった」っていうことを声高に言う人もいないし、みゆき族ファッションなんてのもまったく残っていません。

 団塊の一つ下の世代から見れば、それが「団塊の世代の限界じゃなかったの?」っていう反駁になるんですけれどもね。

 結局、団塊の世代の反体制運動って単なる「風俗」だったんですよ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR SKOPAR 21mm f4 @Ginza ©tsunoken

2018年11月10日 (土)

広尾を歩く

 渋谷駅前から日赤医療センター行のバスに乗る。まあ、それが「坂道を上がらないですむ、広尾への行き方」なんですね。

 そう、ここ広尾はお隣の麻布と同じく、「坂の上と下の町」なんです。

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 坂の上には東京女学館とか、日本赤十字病院なんかがあって、つまりそれは江戸時代の堀田備中守の藩邸などがあった場所をそのまま明治政府が接収しちゃって、そうした「一見公共事業」みたいな「関係者枠」でもって、お下げ渡しをしちゃったんですね。

「えっ? それって、汚職じゃない?」なんて言ってはいけません。そんなの「当たり前」の時代だったんですね。

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 日赤の隣にある聖心女子大学は久邇宮邸だったところをお下げ渡ししたんだけれども、実は、この久邇宮邸も元々は堀田備中守の屋敷だったらしい。

 え~、一体堀田備中守ってどんな権勢をふるっていたお殿様なんだよ、って調べてみたんだけれども、特別何か大きなことを成し遂げた大名ではないらしい。ってことは、まあ江戸中期に普通に(親から受け継いで)権力を持ってしまい、普通にそれを(自ら意識しないで)使ってしまい、そのまま幕末までいってしまった凡庸な江戸幕府のお殿様ってことなんだ。実は、堀田備中守が何かやったっていう記録はあまりないそうで、まあ、徳川三百年の歴史の中には、そんな凡庸な老中もいたんだろうし、一方、井伊直弼みたいな人もいたってことでしょう。

 う~ん、まあ、生まれが良ければすべてよしの時代だから、そんな凡庸なお殿様でも幕府でそれなりの立場になっちゃったんでしょうね。落語「目黒のサンマ」のモデルになったお殿様だったりして。その位しかエピソードがないというか……。

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 で、広尾の聖心女子大学の前を通り過ぎて坂を下がっていくと、聖心女子大学の裏門に至るんです。

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 この裏門は、ほとんど坂の下。つまり「下の町=下町」です。

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 そう、まさにそこには「下町の商店街」が展開しているんですね。

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 これって、麻布の愛育病院や麻布高校がある仙台坂上と、坂下の麻布十番とおんなじ関係。

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 まさしく、「山の手」と「下町」ってのがどういう関係論にあったのかがよくわかる風景なんですね。実はこれが「山の手と下町」の本当の関係。うーん、千代田区辺りだとちょっと判りづらいですけれどもね。

 うーん、それにしても広尾の下町商店街も、以前に比べるとかなりオシャレになってきているなあ。前はもっともっと如何にも「下町」って感じの商店街だったんですけれどもね。

「下町は進化する」

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER 12mm f5.6 @Hiroo ©tsunoken

2018年11月 9日 (金)

「佃製作所がいっぱい」の「ものづくりパートナフォーラム」に行ってきた

 2015年11月12日のブログ『「ものづくりパートナーフォーラム2015」には佃製作所がいっぱい』で書いた「ものづくりパートナーフォーラム 2018」が昨日と今日、青山の「TEPIA エキビジションホール」で開催されているので、早速、行ってきた。

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 もう3年も経ってしまったんだな、という感慨と共に秩父宮ラグビー場となりにあるTEPIA先端技術館まで行ってきたんだが、結局、2015年の時には、私みたいなシロートが見てもよく分からないので、ソフトバンクPEPPAR君の分解展示とかAKIRAバイクみたな電動バイクなどのシロートでもわかる展示を紹介したわけなのだが、さて、今年はどうか。

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 基本的に『本イベントは原則として「製品企画、技術企画、デザイン、研究開発、設計、生産技術、製造、検査・品質管理、購買・調達」など、発注側としてデザインや開発・設計・試作・加工・製造の外注・アウトソーシングを行う立場の方に参加を限定させていただいております。それ以外の方がご入場をいただいた場合、係の者が退出をお願いいたしますのでご了承ください。』とプログラムに書いてある通り、技術系の専門家のためのイベントなんだけれども、別に私のようなシロートが参加して、バシャバシャ写真を撮っても、別に「退出をお願い」されることもない、まあ、ちょっとユルい技術プレゼンテーションの場なんだろう。

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 基本的には金属加工とか塑性などの、大手企業からの下請けで見本製作やとりあえずどんなものになるのかを確認するための試作などを請ける企業のプレゼンテーションだ。

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 こんなエンジンの試作品や……

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 カメラの筐体なんかを試作したり、製造したりしているメーカーが集まっている。

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 まあ、そんな意味では私みたいなシロートが見ても、何にも分からないのだが、ただし、ハイテクっていってもIT関連じゃないので、「作っているものが目に見える」ので、何となく「何を作っているのか」は分かる。

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 そんな意味でも、文科系だけれども多少は理工系に興味があれば、なんとか理解できる展示が多い。

 要は「機械ですよ、キカイ」う~ん、分かりやすくていいなあ。

 まあ、そんなユルい気持ちで見ていれば、それはそれなりで楽しめる展示ではあります。まあ、出展メーカーにとっては毒にも薬にもならないド・シロートではあります。あいや、毒に成る可能性ありか……。

 スミマセン。

「ものづくりパートナーフォーラム in 東京 2018」は11月9日、今日まで。

公式サイトはコチラ

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Jingu Gaien ©tsunoken

2018年11月 8日 (木)

築地場外市場はまだまだ頑張っています

 10月11日に築地卸売市場が豊洲に完全移転したことはご存知の通りなんだが、別に移転したのは場内だけで場外市場はまだ築地に残っているっていうアナウンスはあったはずなんだけれどもなあ……

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 ところが、新聞記事を読んでビックリ。

場外の店、客遠のく 「なくなった」観光客ら誤解  「日経電子版」2018/11/6付
 旧築地市場に隣接し、市場関係者や観光客でにぎわってきた商店街「築地場外市場」(東京都中央区)の飲食店や商店は、市場移転後も営業を続けている。しかし「築地はもうなくなった」という誤解もあり、客足は大幅に減っているという。

 場外市場で卵焼きを販売する「丸武」社長の伊藤光男さんは「以前と比べてお客さんは2割程度。『この調子ならやめようか』と言っている店も多い」と声を落とす。
 場外市場は築地市場で働く人や、市場に鮮魚を仕入れに来る料理人ら「プロ」を相手に発展。数百の商店、飲食店が並び、市場観光に訪れる訪日外国人らにも人気のスポットとなっていた。
 しかし市場移転後はインターネットの交流サイト(SNS)で「もう築地はないんでしょ?」「全部移転したのかと」といった投稿も。ある商店主は「『築地はなくなった』と思っているのか、観光客もぐっと減った」と嘆く。』

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 ということなので、実際に築地に行ってみたんだが、ウィークデイであったためなのかどうなのか分からないが、まあ、何となく以前の築地場外に比べると人出は少ないなあ。

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 もっとゴチャゴチャして全然前に進めなかった感じだったんだけれども、昨日はまあそんなに歩きにくくはなかった。

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「築地魚河岸」という商業施設を新設したり、築地場外市場を売り込もうという中央区や場外市場の組合の努力はあるんだけれども……

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 まあ、場内の移転に伴って閉めてしまった店も多く、まあ確かにちょっと寂しくはなってはいる。

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 しかし、皆さんマスコミの情報を信じていなくて、SNSの(根拠のない)「噂話」ばっかり信じている人たちが多いんだなあ、って感じがまさにするんですね。

 まあ、それだけマスゴミ情報っていうのが信じられなくなってしまったのか、あるいはそもそもマスコミ情報に触れなくなってしまったのか。

 真実を知りたいのなら、まずとりあえずはマスコミ情報を取り入れて、それを別の方法で検証するっていうのが本来なんだけれども、それをもしないでSNS関係の噂話だけを信じちゃうんだなあ。

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 築地場外は今でもちゃんと営業しているんですよ。皆さん、築地場外市場はまだまだ頑張っています。安心して場外市場に行きましょう。

 当然、豊洲で仕入れた魚が直築地に来ています。橋を一つ渡るだけなんですもんね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR SKOPAR 21mm f4 @Tsukiji ©tsunoken

2018年11月 7日 (水)

『なぜ倒産』を読んで、かえってホッとした

 起業というのはそれぞれの起業理由があってできるもの、同時に倒産っていうのもそれぞれの理由があっておこるもの、と考えていたんだが、実はそうではないらしい。

『成功はいくつかの要因の組み合わせですが、失敗は究極的には1つの判断ミスによるもの。例えるなら、成功とはブロックを地道に高く積み上げることであり、失敗とはブロックの山のどこか一カ所に異常な力が加わることで一気に崩れるイメージです。成功の要因と違って、失敗は原因を特定できる分、ダイレクトに役立つのです。』

 ということだそうなのだ。

 本書は23社の経営破綻について、3つのケースに分けて詳述している。

 一つは「急成長には落とし穴がある」、二つ目には「ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道」、そして三つ目には「リスク管理の甘さはいつでも命取りになる」というものだそうだ。

Photo 『なぜ倒産 23社の破綻に学ぶ失敗の法則』(日経トップリーダー編集部/日経BP社/2018年7月16日刊)

 まず第一「急成長には落とし穴がある」

 遠藤商事・ホールディングス [飲食チェーン運営]
90秒で調理できる仕組みを考案し、ナポリ風本格ピザのチェーン店を80店超展開した。しかし、急成長に人材育成が追い付かず、収益力は伸び悩んだ。出店のための借り入れが膨らんだ結果、追加融資が難しくなり、資金繰りが滞った。

 グルメン [物流受託、食品卸売り、スーパー経営]
物流業務を一括受託する「3PL」で成長。食品卸売り、スーパーにも注力していた。トップに事業創造の力はあったが収支管理が甘く、実態は赤字続きだった。スーパー業界の再編に巻き込まれて大口顧客を失い、自力再建の道が途絶えた。

 みらい [植物工場の開発販売]
「未来の農業」と期待がかかる植物工場。この先頭を走っていた会社が破綻した。技術力に一定の評価はあったが、組織拡大で経営力の乏しさが露呈した格好に。工場のオペレーションもままならず、大赤字を出し、資金がショートした。

 ヒラカワコーポレーション [寝具・寝装品などの製造販売]
節電ブームを追い風に冷感寝具をヒットさせ、工場新設や本社移転などに投資した。その回収のために売り上げ維持を図り、利益の薄い商品に注力した。”2匹目のドジョウ”を狙った新商品も当たらず、資金繰りに行き詰った。

 エプコット [海外映画、ドラマDVDなどの制作・販売]
海外映画やドラマなどの版権を買い付け、DVDを制作して販売していた。韓流ブームに乗り、大手と競って高額で韓国ドラマの買い付けに動いた。ブームの終焉とともに業績不振に陥り、復活できなかった。

 長崎出版 [書籍出版]
ユニークな絵本がベストセラーになり、急成長した出版社。大ヒット作に頼る事業構造を変えようと、出版以外の事業に次々投資するも裏目に出る。幹部の離反から主力商品の出版権を失い、命運が尽きた。

 エルビー技術工業 [カーペット清掃用粘着テープなどの製造・販売]
カーペット清掃用粘着テープなどで一定の技術力があった。業績を拡大したものの、攻めの設備投資が裏目に出て資金繰り難に陥った。円安に伴う原材料代の高騰が追い打ちをかけ、挽回できなかった。

 二つ目は「ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道」

 平和堂貿易 [宝飾品・腕時計の輸入販売]
100万円以上する光学宝飾品の輸入販売会社として、高い知名度を誇っていた。高額商品市場が縮む中でも、百貨店頼みの売り方を最後まで変えなかった。若手社員が相次いで退職、企業改革の力を失い、自己破産に至った。

 鈴萬工業 [配管材料、機械工具の卸]
静岡県で配管材料・機械工具卸の老舗として名を馳せた。県内に営業拠点を絞って大手食品、化学メーカーと信頼関係を築いた。リーマン・ショック後、受注単価の下落と内部の確執で再建が難しくなった。

 東京もち [切り餅などの製造]
切り餅を主軸にフルーツゼリーや和菓子の製造も手掛けていた。大手に対抗して年商の約1.5倍の大型投資で新工場を建てたが、「空振り」に終わった。後継者を不慮の事故で亡くし、事業継続への意欲をさがれたことも打撃となった。

 吉田 [服飾雑貨卸]
下町のベルト工場から、カタログギフト向けの服飾雑貨卸に進出して成長した。冠婚葬祭ギフトの需要が落ち込む市場の変化に対応できず、業績が低迷。独自規格の商品販売で挽回を狙ったが、不渡りを出し事業継続を断念した。

 アートスポーツ [スポーツ用品店運営]
ピーク時は売上高が65億円を超えた創業50年のスポーツ用品店運営会社。テニスや自転車のブームが去り、売り上げが低迷するようになると、ランニングブームを狙った出店の負債が重荷となり、資金がショートした。

 テラマチ [機械部品の製造]
国内屈指の機械保有台数を誇った部品メーカーが破綻した。一貫生産で培った技術力には定評があり、「はやぶさ2」の搭載装置の開発にも関わった。だが、小ロット化などの変化に対応できず、起死回生を狙った中国事業でも失敗した。

 大山豆腐 [豆腐・納豆などの製造]
自動車整備から豆腐製造に参入した創業者の前社長。豆腐、納豆、油揚げ、さらには豆腐レストランまで事業を拡大した。それぞれの事業への思い入れが強く、領域を絞り込めず、赤字を積み重ねた。

 キッズコーポレーション [イベントの企画制作、運営]
大手広告代理店などからイベントの企画制作、運営を受注していた。2005年の「愛・地球博」で日本館を手掛けるなど、実績があった。リーマン・ショックや東日本大震災で受注が減る中、対応が後手に回った。

 装いの道 [着物教室の運営、呉服・和装用品の販売]
着物教室としてトップクラスの知名度を誇り、50年以上の実績があった。教室の講師や生徒、卒業生を増やしつつ、教材や呉服などを売る手法で伸びた。呉服市場の縮小やライバルの台頭が進む中、有効な対抗策を打ち出せなかった。

 ジュネビビアン [女性向けフォーマルドレスの製造・販売]
結婚式やパーティーなどで女性が着るフォーマルドレスの専業メーカーだった。名の通った百貨店の大半に販路を持ち、デザイン力で定評があった。式典のカジュアル化に伴うドレスの需要減と百貨店の衰退で、ニッチ戦略が崩れた。

 そして三つ目が「リスク管理の甘さはいつでも命取りになる」

 ホンマ・マシナリー [大型工作機械の製造]
造船、鉄道、原子力発電向けの大型工作機械メーカー。大型機械に執着して、景気の波や天災などに大きく翻弄され続けた。再生ファンドの支援を得たものの、新興国の債権回収に失敗した。

 美巧 [財布など袋物の製造販売]
香港やベトナムの工場で委託製造したブランドものの財布や袋物を輸入して販売。売り上げが伸び悩む中、融資を受け続けるために粉飾決算に手を染める。本社売却・従業員削減などのリストラや粉飾の事実公表も奏功しなかった。

 イイダ [精密板金、機械組み立て]
複写機大手の1次下請けとしてユニット組み立てなどを受注し、成長を続けた。ところが、発注元の海外シフトや生産体制見直しで受注が激減。次の柱を育てられず、資金繰りが続かなくなった。

 アルベリ [和洋菓子の製造・販売]
90年以上の歴史を持つ老舗の菓子メーカー。赤字続きの会社を継いだ娘婿社長は、試行錯誤の末にOEMの受注を拡大した。しかし、大口の需要に対応しきれず売り上げが激減。新規開拓するも追いつかず、力尽きた。

 プレスコ [化粧品の製造・販売]
化粧品のOEMを手掛けていた。容器やラベル印刷、品質管理など一括で製造を請け負い、大手メーカーから生産を受注するなど、一定の信用力があった。しかし、生産や営業現場の混乱が起き、業績が急落した。

 ユタカ電機製作所 [電源装置の製造]
創業70周年を迎えた電源装置メーカーが、突如、民事再生法の適用を申し立てた。創業者の手を離れた後、親会社は2度変わり、あるベンチャー企業の傘下に入る。だが、このベンチャーが事業を停止。その余波で、老舗企業は破綻した。

 うむむ、こうして見るとまさしく死屍累々。

 創業時はイケイケどんどんでやれるし、最初の頃はその勢いだけでもやっていけるんだろうけれども、跡継ぎの代になると創業者の意識は当然持てないわけで、そうなると創業者はあまり気にしなかった、「金融、財務」などをかなり意識しなければならなくなる。

 企業経営っていうものは、結局は「お金」の問題で、それをどうやって回していくんだっていうことでしょう。

 まあ、難しい問題だって言えばそうなんだけれども、でも、どこかで創業時の意識を変えなければならないっていうことなんだろうなあ。

 私は経営者じゃなくてよかったって思う瞬間が、この本を読むとある

 まあ、私はこんな創業会社の跡継ぎじゃなかったんで(っていうより、フツーのサラリーマンじゃんかよ!)よかったってことなんですかね。

『なぜ倒産 23社の破綻に学ぶ失敗の法則』(日経トップリーダー編集部/日経BP社/2018年7月16日刊)

2018年11月 6日 (火)

『下町ロケット』のシンボル『桂川精螺』が変貌

テレビドラマ『下町ロケット』第2弾も好調なようで、ブログの方も2015年11月1日のブログ『下町ロケットを旅する』の第2弾です。

 今回は東急多摩川線、鵜ノ木駅で下車して、環八と並行して走っている多摩堤通りを矢口へ向かって歩きます。

 この鵜ノ木駅は下の息子が高校野球をやっていた時に、多摩川の河川敷に球場を持っている高校と練習試合をした時などによく来たところ。

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 まあ、だいたい鵜ノ木から次の新丸子あたりの河川敷が試合の場所なんだったんだけれども、新丸子の多摩川沿いにはキャノンの東京工場があって、なんとなくキャノンも最初は大田区の町工場からスタートしたんだろうなあ、なんて思いにふけっていた場所でもある。

 下の写真の道をまっすぐ行くと、右側にキャノンがある。

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 で、そのまま多摩堤通りを更に進むと、大田区矢口に至り、ありました、『下町ロケット』の佃製作所のロケ場所になった桂川精螺製作所です。

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 ただし、前に『下町ロケット』で取材に来た時と異なり、工場の象徴であった「桂川精螺」と書かれた鉄塔がなくなっている。

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 あわててググってみたら……

『<ねじニュース>
「金属産業新聞 2018年3月18日」

桂川精螺、ビル型の新本社工場が完成
 桂川精螺製作所(東京都大田区、石井昌景社長)は、建て替え工事を進めていた本社工場を1月30日に竣工させた。塑性加工の研究開発を核とした拠点で、一部生産も担う都市型ビル工場として稼動を開始する。
 新本社工場は一昨年末より工事を進めていたもので、鉄骨5階建て構造、建坪は約500坪、延床面積は約6000㎡となる。1階は圧造、3階はトリーマと転造(一部圧造)、4階は切削・治工具とフロア別に加工設備を配置。2階(中2階)はレンタル工場として他企業に貸し出す。最上階は事務所とした。』

 という記事が。

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 現在は、静岡県の掛川市や中国上海に製造拠点をおいて、本社工場は研究開発がメインになっているようだ。

 現在の本社社屋脇が以前は工場だったんだけれども、そこは既に更地になっていて、大規模なアパートができるようだ。

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 しかし、上記の『金属産業新聞』には<ねじニュース>とか<ばねニュース>っていうサイトがあることにはびっくり。まあ、「ねじ業界」「ばね業界」ってのがあって、そこの業界紙があるっていうのは、まあ考えてみればその通りなんだけれども、「ねじ業界」「ばね業界」ってものがあるんだってことにね。

 いやあ、東京は奥深いなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Kami Maruko, Yaguchi Ota ©tsunoken

『下町ロケット ゴースト』(池井戸潤著/小学館/2018年7月25日電子版刊・2018年7月20日紙版刊)

『下町ロケット ヤタガラス』(池井戸潤著/小学館/2018年10月3日電子版刊・2018年9月28日紙版刊)

2018年11月 5日 (月)

TOKYO DEEP : 渋谷のんべい横丁はどうなっちゃうのか?

 東急東横線の変貌にばっかり目が行ってしまって、何となく見過ごしてしまっていたのが、原宿と渋谷の間にある宮下公園の工事なのであった。

 宮下公園というのはJRの線路と明治通りを挟んで反対側の高台に梨本宮邸があったので、その下だから「宮下」らしいんだが、実はこの公園、1階が駐車場で2階が公園っていう、珍しい構造の公園だったのですね。

 たしか、一時期ナイキが命名権を買って、ナイキ・パークとかいうスポーツ公園になっていたような記憶がある。

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 で、その宮下公園が再整備されることになり、駐車場は2~3層になって、公園の一番原宿寄りはホテルになるらしい。

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 えっ? ってことは、公園のすぐ裏にあった「のんべい横丁」はどうなっちゃうんだろう、もうなくなっていたりして……。

 って気持ちで、渋谷ビックカメラの裏手の方へ行ったら、いやいや、まだちゃんとありました。「のんべい横丁」の提灯も下がって、「まんま闇市」といった風情の昔とは雰囲気は変わったけれども、横丁自体は不変。

 ただし、店の表側だけは新しくなっています。裏側は昔のまんまなんだけれどもね。

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 渋谷であまり飲んだことはなかったので、実はこののんべい横丁で飲んだことはなかった。渋谷に行くたびに横丁の前を通ったり、宮下公園へ抜けるのにのんべい横丁を通って行ったり、一度、夜に行って見ようってずっと考えていて、でも行ったことはなかった。まあ、昼間ののんべい横丁はたびたび通ったんだが、夜には行ったことがなかったんですね。

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 とは言うものの、こんなちっぽけな飲み屋横丁だもんなあ、いずれは後継者問題なんかもからんで経営者が少なくなり、跡継ぎのない店が増えて、自然消滅ってこともあるかもしれないなあ。

 そんなになる前に一度行っておかねばの娘だ。

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 なんせ「昭和の遺構」だもんなあ。

 もうすぐ平成も終わってしまうっていう時期ですからね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shibuya ©tsunoken

2018年11月 4日 (日)

TOKYO DEEP : ニュー大崎ビル

 JR大崎駅の東口はゲートシティ大崎を中心とした高層オフィスビル群が有名であるけれども、ちょっと遅れて開発が進められた西口方面もシンクパークタワーとかソニーシティ大崎などの高層ビルが出来て、「工場の街=大崎」からかなり変化をしている。ところが、唯一昔から変化をしていないのが大崎駅西口前にあるニュー大崎ビルなんである。

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 まあ、ビルの外観もかなりレトロではあるけれども、中はもっとレトロ。

1・2階が商店街なんだけれども、エスカレーターもないし、なんかビル全体も暗いんですね。中に入っているお店も、実際にはいろいろ代替わりはしているんだろうけれども、なんとなく「昭和」を感じさせる、今や「遺構」なんてことを言われそうな雰囲気なんです。

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 1階の商店街は基本的に食事を供する場所、っていうか早い話が「飲み屋」。

 まあ、大崎が工場街だった頃の名残なんですね。

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 でも、こんなビル、っていうか例えば新橋駅前のニュー新橋ビルっていう、まさしく昭和の遺構みたいなビルにも、現在でも続々サラリーマンのお父さんたちが入っていくのと同様に、ここ、ニュー大崎ビルにも、多分会社帰りのサラリーマン氏がちょいと立ち寄りなんかをするんでしょうね。

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 まあ、その辺が、未だ完全フリー化されていない日本サラリーマンに支持されている、そう、昔の飲み屋街なんであります。

 考えてみれば馬鹿ですねえ、会社での不満は会社でしか解決できないはずなんだけれども、なんで仕事帰りの飲み屋で解決しようと考えるんだろうか。

 そんな、「昭和の働き方」をしているサラリーマン氏が、未だ多いのかなあ。

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 なあんてことを考えると、まだまだこのニュー大崎ビルってのも、生きていけそうな気がするんだけれども、問題はこのビルって裏側がニュー大崎マンションっていう、地上9階建ての大きな分譲マンションなのであります。

 このビルが出来たのは昭和53年。マンションに関する新耐震基準ができたのが昭和56年なんだから、当然、このマンションは旧耐震基準でもって作られたマンションなんですね。

 ウチのマンションもまさしくその問題で、「耐震補強」か「建て替え」かでもっていろいろな話し合いがあって、結局、「建て替え」をするということになったのだけれども、その結果には皆さん満足しているようだ。

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 ということで、当然、このマンションも「耐震補強」か「建て替え」かという問題が起こっているんだろうけれども、20数戸だけの我がマンションと、多分100戸以上あるニュー大崎マンションでは事情が異なるので、まあ、はっきり言ってまとまらないでしょうね。どうなっちゃうのかな。

 他人事なんで、私としてはどうでも良いんだが、だんだん少なくなっていく昭和の遺構の一つにはなるのかな。そう意味では「ちょっと残念」でも「ちょっと安心」なんだが、まあ、街は時代と共に変わっていくという法則に合わせれば、それもやむなきことなんでしょうね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Osaki ©tsunoken

2018年11月 3日 (土)

久しぶりの名古屋

 名古屋行きのフィルム現像が上がって来たので、早速UP。

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 動物園関係は一昨日のブログで載せたので、今日はあまり動物園っぽくない写真がメインになります。

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 今から40年近く前になるのだが、私が名古屋市民(って、実は名古屋に住民登録はしていなかったので、本当の意味では名古屋市民ではなかったんですが)だった頃があったんだけれども、その約三年間、実は一度も東山動物園に行ったことはなかった。

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 ただし、東山動物園には行ったことはなかったんだけれども、東山にはよく行っていた。

 つまりそれは、当時は東山の周辺も今みたいな住宅地にはなっていなくて、完全に裏山状態だった。なので、当時の東山の裏山は舗装林道みたいな感じの峠道が結構張り巡らせられていた。

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 まだまだ、東山はまさしく「名古屋の東側の山」っていうことで、その辺りから「名古屋の郊外」が始まるっていうような山だったんですね。

 私が住んでいたのが地下鉄東山線の東山公園駅の二つ先の一社という駅だったので、車通勤していた私は、まあ、夜な夜な東山の裏側を走り回っていたっていうわけです。

 当時はNDC東京というニッサン系のクラブに入って、ラリー仕様のニッサン・バイオレットPA10に乗っていたということもあって、結構、山の中でクルマを振り回して走るのが好きだったんです。ドリフトなんかをしちゃってね。まあ、今だから言える話なんですけれども。「イニシャルD」なんかが始まるずっと前です。

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 そういう意味では、今から40年近く前まではまだ名古屋も現在ほどの大都市じゃなかったのかもしれない。あ、勿論当時から大都市ではありましたが、現在ほどにはっていう意味です。

 当時の愛知県の人口はほぼ600万人、名古屋市が210万人、現在はそれぞれ750万人と230万人なので、当時でも既に世界に冠たる大都市ではあった。でも、当時すでに1000万人を超えていた東京から移り住んだので、やっぱり名古屋は田舎だなあという感覚はあった。

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 さらに「大きな田舎」と呼ばれており、今もそう呼ばれている名古屋である。

 人口が200万人といえば確かな大都市なんだけれども、なんとなく名古屋の人の地味さとか、町の造り、つまり盛り場が栄しかないとか、名古屋城を模した天守閣を作っちゃった名古屋市役所や愛知県庁なんかが偉そうに建っているなんてところが、「結局、名古屋って田舎なのね」って呼ばれていて、今でもそう呼ばれているのだ。

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 ただし、名古屋の町の大きさというものには結構気に入っている部分もあって、東京の茫洋たる大きさには少し辟易していたことなどもあり、名古屋に移り住んじゃおうかななんて考えていた時期もあった。

 まあ、でもたまに東京に帰ってくるとホッとするなんてこともあるので、結局名古屋には定住することなく済んでしまったのでありました。

 結局、東京生まれの私としては、東京以外の都市には住めないのですね。

LEICA M6 KONICA M-HEXANON 50mm f2 & LEICA ELMARIT 28mm f2.8 @Nagoya ©tsunoken

2018年11月 2日 (金)

「千の技術博」ってのもすごいな

 上野の国立科学博物館に久しぶりに行った。って、以前に行ったのは多分小学生の頃だった筈なので、多分、今から50~60年くらい前のことではないだろうか。

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 なんで行ったのか、っていう理由は簡単で、「ミルバーンの電気自動車」ってのと「マツダコスモスポーツ」がお隣に展示されているっていうことなんですね。

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 電気自動車っていうと最近の技術だと思われがちなんだけれども、実はガソリンやディーゼルなんかの内燃機関エンジンより実は先に開発されていた自動車エンジンだったんですね。

 かのトーマス・エジソンも1900年代初頭には電気自動車を企画製作していたようだし、展示されているミルバーンっていう電気自動車もヤナセ(!)が1917年輸入していたらしい。

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 結局それが排斥されてしまったのは、結局、T型フォードとのコストパフォーマンスの競争に浮敗れたっていうことなんですね。当時、電気を作るっていうことには大変な人力がかかるっていうこと、電気を貯める電池の時間がとにかく短かったってことなんですね。それに比べると、ガソリンスタンドを作る方が、電気スタンドを作るよりもずっとコストパフォーマンスがよかったってことなんでしょうね。

 結局、技術革新は経済の前には勝てないっていうことなんでしょうか。

 そのもう一つの例といえるのが、このマツダコスモスポーツなんですよね。

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 ものすごいスペックを可能にしたロータリーエンジンなんだけれども、結局、燃費競争などで大手の会社の攻勢に敗けてしまい、勝てなかった。まあ、そうは言いながららもまだまだロータリーエンジンのメーカーとして頑張っているのは凄いことだと思うし、広島カープも含め「広島頑張れ!」ってところでしょうかね。

 で、光学機械の分野では、ニコンのFとF3のNASA EDITIONがある訳だよなあ。結局、日本が世界に誇る光学機器メーカーって言えば、ニコンになっちゃうですね。キャノンとかオリンパスとかもあるんだけれども、まあ、第二次世界大戦の国策会社っていう立ち位置ってのが大事なんでしょうかね。

 まあ、私は「ニコン党」「ライカ党」なんで、別に文句はないんですがね。

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 もう、とにかく「技術立国」であった日本なんだから何でもありです。

 おお。PC8001とPC8201じゃないですか。私はこのころはMac派だったのでNECのパソコンは知らなかったが、名前だけは知っていたっていうのが、このPC9800ですよね。ホリエモンもこれでパソコンを勉強したみたいだし。

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 ということで、明治時代の日本の物理学者・電気工学者である志田林三郎氏の予測した未来ってのがあって。

「電線を用いず数里の河海を隔て、自在に通信又は通話し得るの節も来るべし」
「音声伝達の法益進み、例えば大阪長崎は言うに及ばず、上海香港等の如き数百里外の地に於て演ずる所の唱歌音楽等、坐ながら東京に於て聴聞するの快楽に遭遇するも応に近きに在るべし」
「陸に電気鉄道、海に電気船舶の使用いよいよ増加し、鉄道列車、水路船舶に黒煙白気を見ざる時節も亦期して待つべし」
「電気又は磁気の作用に依りて、光を遠隔の地に輸送し遠隔の地に在る人と自在に相見るを得る方法の発見を望むも、敢て夢中の想像にあらざるべし」

 とのことである。

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 その、なにが実現して、なにができなかった(多分、それはない?)のか。それは何故なのか、を考えることが、またまた新たなテクノロジーにつながる方向なんだろうなあ。

 まあ、それは成長神話でしょ、って言われたらそのなんだけれども、それは「今の時代に生きている」以上は、しょうがないじゃないかよ。

「千の技術博」は来年3月3日まで国立科学博物館で開催中。公式サイトはコチラ

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ueno ©tsunoken

2018年11月 1日 (木)

シャバーニと味噌煮込みうどん、そしてひつまぶし……三題噺です?

 一昨日・昨日は名古屋に行ったんだけれども、何故名古屋に行ったのか?

 きっかけはテレビニュースで「イケメンゴリラとして知られたニシローランドゴリラのシャバーニ一家が、隣に引っ越してきたチンパンジー一家から砂をかけられるなどの嫌がらせをされていて、大変」っていう情報を目にして、何故か突然「名古屋に行こう」ってなっちゃったんですね。まあ、私もカミさんもヒマっていうか……何というか。

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 で、実際に行って見れば、別にシャバーニ一家と、チンパンジー一家とは別にそれぞれ勝手に暮らしている感じで、まあ、普通に暮らしているんですね。もう慣れちゃったのかな。

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 それ以外にもフクロテナガザルなんてのがいて、喉のすぐそばにある大きな袋を膨らませて大きな声を出すテナガザルなんてのがいたんだが、なんでそんなことまで知っているの? っていう我が奥さんの知識なのでありました。

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 まあ、基本的には何故か動物園好きで、色々な場所の動物園に行っている娘から得た情報だったらしいんですがね。動物園のどこが面白いんだろう?

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 でも、午前中の動物園なんて、基本的には夜行性が多い動物のいる場所としては展示に向いていなくて、実は、動物のほとんどは寝ているんですね。まあ、昼間に動き回ったら途端に他の動物に見つかってしまって、下手をすれば食べられちゃうんだから、こんなトラみたいに凛々しい姿を見られる動物は、昼間にはあまりお目にかかれないんですね。うん、なんかいつも寝てばっかりいるライオンよりはトラの方が百獣の王として相応しいと思うんだがなあ。タイガーマスクにそっくりだし……、えっ?

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 っていうことで名古屋が終わってしまっては面白くない。

 で、名古屋で何がしたいのかと聞いてみれば「東山動物園に行きたい」というのは既にご紹介したのだが、その他には「ひつまぶしが食べたい」「味噌煮込みうどんを食べたい」「あんこトーストというものを食べてみたい」というのがあって、それを全部こなすとなると一日では無理、ということで、今回の名古屋行きとなったのであります。

 つまり一日目は、朝東京を立って朝のうちに名古屋につき、そのまま東山動物園へ。その後、中心地である栄に戻って、まず昼食で「山本屋の味噌煮込みうどん」。

 昼に味噌煮込みうどんを食べちゃうと、江戸の小さい胃の人間には夜は食べられなくなっちゃうんで、まあそのまま夜は軽く……ですね。

 二日目は、まずホテルでは朝食はとらずにチェックアウトして、「イノダ・コーヒー店でモーニングサービスのあんこトースト」。その後は名古屋城などを見学して、最後は「竹葉亭のひつまぶし」を食べて帰って来たっていうわけです。

 まあ、昔一時的に名古屋住民だった私としては、「味噌煮込みうどん」は最後まで好きになれないうどんの食べ方だった。だって、たんなる鍋焼きうどんでしょ、おまけにそれの食後にご飯を鍋に入れて食うなんて、基本的に「炭水化物過多の農民食」なんですね。なので、農業から切り離された江戸・東京の市民からすれば「そんな体が重くなっちまうものなんかは食えねえよ」ってなところなんですね。

 あんこトーストもまあ、似たようなもんですな。トーストをなんでそんなにお菓子みたいにしちゃうのかなあってなことで、まあ、東京人にはよくわからない食べ物ではあります。

 最後は「ひつまぶし」なんだけれども、確かにこれだけはもしかしたら一番おいしい鰻の蒲焼の食べ方かもしれない。昔、江戸落語の名人、六代目三遊亭圓生が名古屋公演に行ったときにはじめてこの「ひつまぶし」を食べて、まさしく「一度でいいから、こうやって鰻を食べたかった」って感激して、泣いて言ったとか言わないとか。

 東京で、こんなに鰻とご飯をごちゃごちゃに混ぜて、おまけに最後にはお茶漬けにして食べたら一発で「粋じゃないねえ」って言われちゃうんですよね。東京を代表する噺家としては、そんなことはできません。ってねえ、「粋」ってのも、それを通すとなると、結構辛いこともあるんですよね。

 でも、お米のごはんって、実はいろいろな具を混ぜれば混ぜるほどおいしんですよね。まあ、カレーライスやビビンバみたいに、「ご飯と混ぜて食べる」ものはアジアにはいっぱいある訳で、基本的にそれが「米」の基本的な食べ方なんじゃないかなあ、なんて思ったりしています。

 江戸っ子の潔癖性よりは、名古屋っ子の実質性の勝ちっていうところでしょうかね。

 これで「名古屋での使命=三題」はすべて終了。

 お後が宜しいようで……。

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 で、この三階建て低層アパートは、何なのかな?

NIKON D7000 AF NIKKOR 18-105mm f3.5-5.6 G ED @Nagoya ©tsunotomo

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