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2018年7月

2018年7月18日 (水)

ドナルド・キーン写真展が暑い

 いやあ、思わず「暑い」と書き間違えてしまった。正しくは「ドナルド・キーン写真展が熱い」ですね。

 といっても、勿論ドナルド・キーン氏がフォトグラファーであるわけはなく(まあ、広い世の中にはそんな名前の写真家がいてもおかしくはないが)、正しくは『ドナルド・キーンのまなざし 宮澤正明写真展ー』というタイトルなのだ。

 つまり宮澤正明氏によるドナルド・キーン氏の写真展が、旧古川庭園にある大谷美術館で開催中であるってことなのでした。

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 ドナルド・キーン氏と言えば、コロンビア大学名誉教授で日本及び日本文学の研究家であり、東京都名誉都民、北区名誉区民、新潟県柏崎市名誉市民、勲等は勲二等、2008年に文化勲章受章まで受賞、日本を愛するあまり日本国籍まで取得してしまったという日本フリークな人として有名な人だ。

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 そのドナルド・キーン氏が写真家の宮澤正明氏と知り合ったエピソードも、いかにも日本フリークなドナルド・キーン氏らしい。

『写真家・宮澤正明氏との出会いは、伊勢神宮にはじまる。2013年「第六十二回神宮式年遷宮」の写真集上梓の際に、コメントを依頼されたのが最初である。私は、日本に留学できた1953年に、終戦後初めて執り行われた「遷御の儀」に立ち会う機会を得て、今回2013年は実に4度目の列席であった。20年に一度の「遷御の儀」に4回も立ち会えたことは、誠に幸運と言うべきであろう。その遷宮行事を8年間にわたり撮影していたのが、写真家の宮澤正明氏だった。
 4たび遷宮に列席し、様々な風景や場面を脳裏に刻んできた。お能に譬えてもいいような、無駄や虚飾のない儀式の数々、そして、日本建築の原型とも言うべき建物群、それは、自分の記憶の中でしか再現できない、美しい場面である。しかし時には、前の席の人の動きに気をとられたり、間違って別の方向を見たりして、見逃してしまった光景もあるはずだ。そうした一瞬の美を見落とさずに、特別に美しいものを教えてくれるのが写真家の芸術である。この写真を撮影した宮澤正明氏も、そんな写真家の一人だ。普通の人は、そういう目を持っていない。
 宮澤氏が撮った写真の数々を眺めていくと、彼がいかに辛抱強く、いかに工夫を重ねて、一瞬の機会を捉えたかが、よくわかる。もちろん、遷宮の行事を8年にもわたって撮り続け、その人柄に信頼がよせられたからこそ、一般人には踏み込むことのできない領域まで、宮澤氏のカメラは入ることができたのだろう。
 宮澤氏と出会ってから、これも何かのご縁であろうか、私は幾度となく彼のカメラの前に立つことになった。旧古川庭園を見下ろす私の書斎で、お墓を構えた無量寺の桜の下で、馴染みの霜降銀座商店街で、さらには、新潟柏崎や英国の旅の道中でも、宮澤氏は私にカメラを向け、私は微笑みで返した。いや、ときには難しい顔もしたであろう。
 彼とのフォトセッションは、自分が被写体であることを自覚する間もなく、カメラという装置の介在を忘れ、宮澤正明とドナルド・キーンという存在同士が対峙する時間だった。それはまるで沈黙の対話のようでもあった。そんな時を重ねて、宮澤氏のアトリエにはおそらく幾万もの鬼怒鳴門(ドナルド・キーン)の喜怒哀楽が、保存されているに違いない。
 このたび私の写真展を、とてもなじみの深い旧古河庭園にある大谷美術館でやっていただくことになったようだ。果たして私の写真を観に来ていただく方がどのくらいいるのか私にはわからないが、少なくとも築100年となるジョサイア・コンドルの名建築だけでも観る価値はあると思う。
 この2年間、私の写真を撮っていただいた宮澤氏に感謝すると共に、写真展の成功を祈る気持ちでいっぱいである。私は先日96歳になった。これからも撮ってもらう機会があればお願いしようと考えている。

ドナルド・キーン
    2018年6月吉日』

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 実は、この写真展を見るまではドナルド・キーン氏が北区の住民であり、旧古河庭園のそばに書斎があったり、霜降銀座商店街なんてところまでを知っているなんて……、知らなかった。

 ということなので、別にドナルド・キーン氏が自分で撮った写真展じゃなくて、ドナルド・キーンしが写っている写真展である……、ってことをご承知の上旧古河庭園へ。

 写真展だけの入場は無料です。

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『<旧古川邸+庭園> 100周年記念 ドナルド・キーンのまなざし 宮澤正明写真展ー』は8月5日まで 旧古川邸・大谷美術館一階フロアにて開催中。

北区の公式サイトはコチラ

2018年7月17日 (火)

オールドレンズで呑川逍遥

 呑川については7月4日のブログ『世田谷奥沢の馬頭観音と新奥沢駅跡』で、大岡山の東京工業大学の前で暗渠から地上に出て、川となって東京湾に注いでいることを若干書いたんだが、まあ、その下流の地点がここJR蒲田駅から京浜急行蒲田駅までを流れているので、そこをブラブラした。

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 何ヵ所かにこうした「呑川緑道」なんて説明板はあるのだが、どうみてもどドブ川でしかない呑川の川岸のどこに緑道なんてものがあるのかが良く分からない。

 川岸に桜の木か何かを植えているので、それで緑道って言っているのかもしれないが、我々がイメージする「緑道」つまり「緑の並木道」っていうイメージからはちょっとかけ離れた普通のコンクリートの道が続くだけなんである。護岸もすべてコンクリート造りだし、その辺はいかにも大田区の川なんだけれども、まあ、あまり「緑道」っていうイメージからは遠いなあ。

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 地元には「呑川の会」なんていうのがあって、呑川をもっときれいな川にしようとか、いろいろ提案・実施をしているらしいんだが、う~ん、道まだ遠しってところでしょうか。

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 今ではドブ川みたいな呑川も昔は清流だったんだろう。現在蒲田小学校がある場所には菖蒲園があったらしくて、小学校の校庭に端っこにこんな菖蒲田がある。実は現在のJR蒲田駅はこの菖蒲園にくるお客さんたちのために作った駅らしいのだ。

 梅屋敷とか菖蒲園とか、結構、風流な場所だったんですね、昔の蒲田って。

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 で、京浜急行の高架線の下まで来るとあとの呑川は国道15号線、産業道路と交差して、環状八号線と並行しながら走って羽田空港のそばで東京湾に注いでいるわけです。

 勿論、ここまできちゃうと「緑道」なんてものはなくなってしまうんですがね。もう、沿線住民も居直っちゃってるのかな?

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 って、ここでUターンしてJR蒲田駅へ。

 呑川を清流に戻したいという沿線住民たちの気持ちはよくわかるんだが、実際にはまだまだ時間がかかりそうな雰囲気ですね。

 蒲田駅そばのウエダカメラにはまだ「Lord \6,800」が飾ってあります。う~ん、前から気になっていたカメラなんだよなあ。どうしよう……って、全然「逍遥」じゃないじゃんかよ。何のために蒲田まで行ったんだ?

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 昨日に引き続きマニュアルフォーカスの今日は24mmで撮影。昨日の50mmよりもっと短いレンズなので、ほとんどオートフォーカスみたいな感覚で撮影できる。ということは、広角系のオートフォーカスレンズって、あまり意味はないってこと?

NIKON Df Ai NIKKOR 24mm f1:2.8 @Kamata ©tsunoken

2018年7月16日 (月)

旧レンズで、お暑うございます。

 毎日毎日、お暑うございます……、なあんてことを言ってしまっては広島や岡山の人には申し訳ないが、でも、そんなことを言っても、東京も暑いです。

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 で、暑い夏はどうやって過ごすのか? ってまあ、逆に一杯汗をかいてしまうってのが一つの方法でもあるんですね。本当「汗かいて、生きよう」ってなもんです。

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 で、ついでにデジタル一眼に旧レンズをつけて撮影行をするんです(なんでそれが暑い時の処方なにかがわからない)。

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 今回、ニコンDfに装着しているのは「Ai NIKKOR 50mm f1:1.4」という、アナログ・ニコンの時代の標準レンズっていうか、まあ、行ってみればニコンの基本レンズっていうわけですね。私は以前、同じNIKKORの「50mm f1:1.2」っていう、この「f1:1.4」に比較すると二回りぐらい大きいレンズを持っていたことがあるが、実は図体が大きいだけで別に写りは「f1:1.4」と変わりがないので、「まあ、いらねえな」ってな感じで売ってしまった。

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 で、久々のアナログ・ニコンなんだが、使ってみる感じは別にデジタルニコンとはあまり変わらない……、っていうかこの日は快晴なので基本的に絞りはf11かf16、だったら実はほとんどすべての画面に合焦できちゃうんですね。

 でも、面白いのは「機械はバカ」だから、オートフォーカスのレンズを装着していると、たとえ絞りをf16とか、それ以上にしてもちゃんと「ジッ」なんてレンズが鳴ってフォーカスを合わせようとしたり、撮影しよという対象があまり光の変化がない被写体だったりするとフォーカスが合わなくて撮影できなかったりするんですね。

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 ホントばかですね。別に、理論上合焦しなくても何の問題もなく写っちゃうんですけれどもね。

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 ってなことを証明しようとしてこんな撮影をしたわけではありません。でも、なんとなく暑くて、午前中はお盆で墓参りした後でちょっと疲れているし、あまりヤル気はない……、てなことでこんな写真になりました。

 デジタル一眼なのでマニュアル・フォーカスのレンズを装着してもフォーカス・エイドが働いているんだけれども、実際の撮影に当たってはそんなもの気にしないで、適当なピントで撮ってます。まあ、それでもこれくらいは写るってことで……、だからってどうなのよ。

 それで、テーマは何なのか? う~ん…………。

NIKON Df Ai NIKKOR 50mm f1:1.4 @Nishigahara Kita ©tsunoken

2018年7月15日 (日)

小津安二郎のライカ

 えー、ポイントは「小津安二郎監督作品 特設コーナー」じゃなくて、その右側に配置された小津安二郎の写真なんですね。

 多分、これは本番撮影じゃなくてロケハンの風景なんだと思うけれども……。

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 映画監督なので、当然フィルムの画角を見るためのディレクターズビューファインダー(というのが正式名称、「スコープ」とも言います)を右手に構えて覗いているんですが、問題は同時に左手に持っているスチールカメラなんです。勿論、この時代のモダンボーイですから、持っているカメラはライカ。形式はⅢCかⅢf、レンズはフード付き沈胴ズミクロン 50mm。ライカと映画には重要なつながりがあって、もともと、ムービーカメラを作っていたライカ。そのライカが映画カメラの露出を測るために映画の一コマ(実際には二コマなんだが)だけを撮影して、露出が適正かどうかを見るためのカメラを作ったんだけれど、それがそのままスチールカメラとして使えるのを発見した、というのがライカカメラの始まりだったのである。なので、ツァイスイコン・コンタックスでもいいけど、でも、映画屋はライカ。

 勿論、ライカ判カメラっていうのは普通の35mm判映画のフィルムをそのまま使うことによって始まったフィルムサイズなので、映画監督がライカを持っていると、「う~ん、やっぱり映画の端尺をライカに入れて撮っているのかな、なんて考えたりする愉しみがあったりするんである。それはコンタックスも同じなんだが……。

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 小津安二郎とスチールカメラの関係に関してはなかなか面白い本を見つけたので、今日はそれを紹介。

 本は映画史研究者の登重樹氏の『望郷の小津安二郎』(皓星社)。「第1部 小津安二郎の若き日々』の『第2章 青年』の中に「カメラとの出会い」という項があって、あまりページ数は多くはないが、なるほどという記述が見て取れる。

『小津自身の証言によれば、彼がはじめてカメラをいじったのは中学生時代の通称べス単、つまりアメリカのコダック社が一九一二(大正元)年に発売した、正式名称はVest Pocket KODAKという小型カメラだった。』

 ただし、このカメラは当時中学生の小津に買えるわけもなく、親友の持ち物を借りたものだったようだ。

『『カメラ毎日』昭和二十九(一九五四)年六月号誌上での小津の発言によれば、彼はその後ブロニーを経て、ライカのA型を手に入れたのが昭和五(一九三〇)年か六(一九三一)年頃で、海軍の遠洋航海の撮影でドイツ行くことになったカメラマンの茂原英雄に頼んで買ってきてもらっている。当時の価格は三百円。すでに監督に昇進していたとはいえ小津のその頃の月給は百十円だったので、決して安い買い物ではなかった。』

『小津は従軍中におよそ四千枚の写真を撮影し、仕事の参考にしようという魂胆で、帰還後にそれをスクラップブックに整理していたらしい。』

『『長屋紳士録』から『彼岸花』まで撮影助手として小津組についた川又昂が、『晩春』のクランク・インのとき、撮影中の作品の全カットを名刺判の写真に引き伸ばして保存することを小津から命じられた、というエピソードは、小津が写真に対して強い指向(嗜好)を持っていたことを物語る。』

『たとえば、丸之内のオフィス街を捉えた外景ショット、幾何学的な建物の列、煙突、茶の間に置かれた薬缶、書院の壷、並べられた樽など、比較的初期の頃から晩年に至るまで、小津のそうしたこだわりを示す絵画的、静止画的ショットを数多く見出すことが出来る。それらの絵画的ショット、静止画的ショットの中には、誰かの見た目ショットとは明らかに異なるとしか受け取られないようなアングルから撮られたショットもしばしば現れている。つまりそのショットは、あたかも前後のショットとはまるで無関係に、人称性を欠いた静物画のごとく空の光景だけがそこに浮かんでいる感じ、といった印象を見る者に与えることがある。そうしたショットが頻出するのも、もともと絵画の構図設計に並外れた素質を持ち中学生時代にカメラと出会った小津が、その後も一貫してカメラを愛好し続け、晩年に至るにつれて絵画や静止画への接近をどんどん強めていった、という観点からの再検証が必要と思われる。厚田雄春によれば、小津はロケハンにライカを持参し、気に入ったところをフィルムに収めていた。小津映画独特の静止画的ショットはライカで撮った写真を銀幕に拡大再現する行為だったともいえるのである。』

 小津安二郎は明治36年に東京は深川に生まれ、小学校は深川の小学校に通ったんだが、1913(大正2)年、三重県松阪市に移転、1916(大正5)年、宇治山田の中学校(旧制)に入学し、そこが小津の「映像生活」の始まりだったようだ。

 当時、三重県辺りでカメラを持っていたというのは、相当なお金持ちでなおかつ新しもの好きの好事家ということになるのだろう。その後は、カメラ名は分からないがブロニー判カメラを経てライカA型という変遷らしい。ベスト判(4×6.5cm)→ブローニー判(6×6、6×9cmなど)→ライカ判(35mm)というフィルム・フォーマットの変遷も面白いが、やっぱり行き着くところが35mmムービーフィルム・フォーマットっていうところが、如何にも映画屋さんっていう感じで面白い。逆に言ってしまえば、多分それはフィルムの粒子の性能向上とも関係するのであろう。しかし、そうだったらまったく映画のフィルムフォーマットと同じハーフサイズにまで行ってほしかったなあ、って当時はそんなカメラはなかったか。

 同時に、小津の頑固なまでのカメラアングルへのこだわりというものが、スチールカメラにおける絵画的表現と関連付けられて語っているのも面白い。

 確かに小津は撮影時に全ショット自らカメラを覗いて画角を確認してからリハーサル→本番という形で映画の撮影を行っていたらしい。普通こんなことをする監督は撮影部から嫌がられて、下手をすると「そんなに俺たちを信用できないんだったら、自分で撮影までやればいいじゃねえかよ」ってな感じで、カメラマンからサボタージュを受けてしまうだろう。しかし、それをされなかったのは、小津が松竹蒲田撮影所に入所した時の最初に配属されたのが撮影部だったということも影響しているのかもしれない。まあ、職人肌の撮影部の連中にとっては、「ああ、ちょっと面倒くさい、先輩監督だなあ」なんてところだったのでしょうね。

 同じタイプのフィルムを使うっていうことだけじゃなくても、映画(ムービーフィルム)と写真(スチールフォト)との関連性というものは考えられなければならないはずなんだが、どうも我が国の映画評論家でそうした技術的立場っていうか、趣味嗜好がある評論家はいない。日本の評論家って、結局、映画を見るのが好きなだけの映画フリークか映画史研究家という文科系人間ばっかりで、「写真家出身の映画評論家」といったような異色の人っていないんだなあ。したがって、映画というテクノロジーの塊のような映像表現ジャンルでありながら、そうした技術部分から切り込める評論家ってほとんどいない。

 デジタルシネマが当たり前になっている時代に、そうした技術分野でもって映画を語れる評論家がいないっていうのも、ちょっと問題なんじゃないか?

 って、「小津安二郎のライカ」っていうテーマからはちょっと離れちゃったけれども……。

『望郷の小津安二郎』(登重樹著/皓星社/2017年8月20日刊)

2018年7月14日 (土)

東大峠 ©tsunoken

「東大峠」って言ったって、別にそんな名前の峠があるわけではないし、私が勝手につけただけの名前だ。

 場所は本郷通りと言問通りが交差する本郷弥生の交差点の東大がある方とは反対側の交差点の南と北の両方にある。つまり言問通りを挟んだ形になっていて、まるで一対の飾り物みたいな感じだ。

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 以前は木を植えてあったような気もしないではないのだが、それを抜いた後に再び木を植えずに、緑地帯の真ん中に石段が置かれていて、その高さが20センチ位の高さがあるんだけれども、言問通りの両側に同じような感じで置かれていて、何かのモニュメントなんかとも思ったのだが、別に説明板なんかはないし、「何のための石段なんだろう」というわけなので、勝手に私はこれは「峠道」に違いないと決めつけて、場所が場所なので「東大峠」と命名したわけだ。

 多分、世界で一番高低差の少ない峠道だろう。

 ここを通るときは、よく「峠越え(笑)」をして越えていくのである。

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 っていうだけで、別に他にネタはないし、いろいろネット上を調べてみたんだけれども、この本郷弥生の交差点に触れた記事はあるんだけれども、この一対の石畳の坂道(!)に触れた文章にはついには出会わなかった。

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 つまり、この「東大峠」というのは、私だけの命名であり、他の誰もいないので、以後皆さんこの峠について話を触れる場合には「©tsunoken」をつけてください。な~あんてね。別に著作権を主張するような写真じゃないしね。

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 う~む、ブログネタも夏枯れ気味だなあ。

 私の脳ミソも沸騰気味なんだろうか?

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f:1:4 @Hongo ©tsunoken

2018年7月13日 (金)

宮原照夫氏、逝く

 私のサラリーマン時代の上司でもあった宮原照夫氏が亡くなった。

 享年80歳。

 宮原氏は高卒で講談社に入社し、『少年倶楽部』編集部に配属、1959年に『週刊少年マガジン』創刊スタッフとして参加。ちばてつや氏の担当編集者として「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」などを連載、梶原一騎氏の担当として「巨人の星」「あしたのジョー」などを連載し、その後、『週刊少年マガジン』の編集長となった。

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 1980年に『週刊ヤングマガジン』を立ち上げ、大友克洋氏の「AKIRA」連載のきっかけを作り、その後、マルチメディア事業局長となって、私の上司となったわけです。立場的には「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」などのアニメ制作のエクゼクティブ・プロデューサーなどを務めたなどがあるが、私の直接の上司ではなかったけれども、まあ、いろいろ話はさせてもらった。

 いかにも長野県出身者らしい生真面目さがあり、「へぇ~、こんな真面目な人がマンガ雑誌なんかの編集をやっているんだ!」と思ったりして、まあ、東京モノのイイ加減な私とは必ずしも息があったわけではないが、映像制作の先達として私を遇してもらって、いろいろ「映像ビジネス」の話をした記憶がある。

 講談社を辞めた後は子会社の株式会社コミックス代表取締役、相談役などを歴任し、2004年に退社し、その後は悠々自適の生活を送っていたらしい。

 引退してからは自転車に凝ってみたりして、結構元気に暮らしていたらしいのだが、それ以上のことは知らなかった。

 80歳っていう年齢は、まだまだ十分元気に生きていてもよさそうなものだけれども、まあ、寿命っていうものなんだろうなあ。

 春に亡くなった由利耕一氏とともにコミックス「AKIRA」にかかわった人たちが順々にいなくなってしまう。そうか、もうアニメーション映画「AKIRA」を作ってからすでに30余年は過ぎているのだ。まあ、そんな感じで亡くなっていくんだろうな。次は〇〇さん、次は〇〇さん……ってい感じで、順々に亡くなっていくんだろう。

 まあ、それも人生……、俺はどの辺の順番でいなくなるんだろう。

 合掌

『実録! 少年マガジン編集奮闘記』(宮原照夫著/講談社/2005年刊)

2018年7月12日 (木)

暑い日は武蔵野日陰散歩

 災害に見舞われた中国地方の方々には申し訳ないが、暑い日々が続いている東京である。あまりの暑さに出かけるのも億劫になりがちだが、こうした暑い日は逆に外に積極的に出かけて汗を精一杯かいちゃったほうが気持ちがいい。

 とはいうものの、やはり日向は避けたいということもあるので、今日は玉川上水沿線の日蔭道を歩いて武蔵野散歩と洒落てみようじゃないか、ってなところです。

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 玉川上水は羽村市に取水口を設けて、新宿御苑脇の四谷大木戸まで、全長43kmの開渠水路のこと。江戸市中に入った上水は地中を木樋などの管でつなげてところどころに井戸でもって地上に上げることによって水道の役目を果たしていた。玉川上水は西東京市と武蔵野市の境目辺りで千川上水を分流し、千川上水は六義園や小石川後楽園などへも流れていた、まあ、江戸の一大水道事業だったわけですね。

 なので、本来であれば武蔵関で青梅街道から分かれる五日市街道に沿って流れる玉川上水なので、その辺から歩いてもいいのだが、それでは長すぎるし、おまけに五日市街道沿いの交通量の多い道を歩くことになるので、今回は西武多摩湖線の一橋学園駅で降りて、西武国分寺線の鷹の台までの玉川上水左岸を歩く。

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 一橋学園駅は旧高等商業学校の予科があった場所で、昔は小平学園駅と一橋大学駅があった。結局、それぞれの駅が近すぎたために一橋学園という名前の駅になったんだが、つまりこれは「一橋大学のための駅」っていうことではなくて、「小平学園」と「一橋大学」が一緒になった駅なので、それを合わせた駅名ってことなのだ。

 この「小平学園」っていうのは、西武鉄道がこの地に学校を誘致して学園都市として開発しようとしたところからこの名前をつけたらしいんだが、結局、小平学園には学校は来ず、お隣の一橋大学駅の方に大学が来てしまったっていうことらしい。まあ、一橋大学が来たんだからいいか、ってところですね。

 地名にはいまだに「学園」っていう名前がついているのは、まあ、大泉学園と同じ。

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 この辺りの玉川上水の脇道は、川から見て右岸が途中まで五日市街道、左岸が遊歩道になっていて、さすがにウィークデイの五日市街道はトラックなどの往来も多く、歩くのは木陰になる左岸の方である。

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 実は右岸の五日市街道は、私が上石神井に住んでいた頃の自転車トレーニングコースで、上石神井から武蔵関の先で五日市街道に入り拝島まで行き、拝島から先はそのまま武蔵五日市まで行くか、北上して青梅方面へ行くかというコースを走っていた。

 まあ、武蔵五日市とか青梅の先は上り坂になるので、あまりその先へは行かず、その辺で一休みした後はスゴスゴ帰って来たわけです。

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 一橋学園から数キロ行けば津田塾大学があって小平中央公園に至ります。

 この小平中央公園って築山なんかがあって、「えっ? この築山ってもしかしたら本丸跡? もしかしたらここは昔の城?」という期待を抱かせるのだったが、残念ながら城跡ではなくて、まったく新しく作った公園らしい。

 う~ん、ちょっと残念!

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 で、この小平中央公園のすぐ脇が鷹の台の駅。

 1時間から1時間半くらいの行程なので、誰でも気楽に歩ける散歩コースです。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f1:4 @Kodaira ©tsunoken

2018年7月11日 (水)

JPXよりは兜神社だし、小網神社の銭洗いだよなあ

 一昨日はK談社のOB会である社友会の「名所散策と飲酒座談会」があって、その『東京証券取引所見学&兜町界隈街歩き』っていう催しがあってそれに参加したんだが……。

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 主催者の方には申し訳ないけれども、正直言ってこの企画自体には興味が全くわかなかったんですね。何故か? って、この辺はしょっちゅう歩いて回っている場所なんですよね。

 まあ、いろいろあって、そんなもんで、今回も参加したんだけれども、でもねえ、兜町でしょ。

 JPXの中には入れたっててのはいいんだけれどもねえ。実はそのことで何かがわかることっていったら何もないんですね。

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 まあ、以前はこうした「(昔の)場立ち」があって、じゃあ、場立ちを見ていれば株の動きがわかるのかっていうと、……本当は全然そうじゃなくて、結局は相場の動きがわかるのは証券会社の表示なんですね。そう、場立ちを見ても雰囲気だけで別に意味はない、ってことなんですね。

 なので、今こそまさに、JPXで、つまりは「現在は単なるコンピュータの掲示画面」を見るだけなんだけれども、何がこれが面白いの? ってなもんですね。家のコンピュータでも同じ情報を得ることが普通に出来ちゃう時代に、まあ、対メディア向けの画面造りのためのことをやって意味があるのかな、ってな問題もあるんだろうけれども、まあ、その位の意味しかないんだろうな、こんなディスプレイは。

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 ってなもんで、面白いのは「疑似証券取引ゲーム」ができるブースがあるんですね。

 でもねえ、「ゲーム」は「ゲーム」なんですよね。自分のお金を使っているわけではない。

 株取引は実際に自分でお金を賭けてやんないと意味はないわけだと私は思う。先に「賭けて」という言葉を使った通り、まあ株取引は「ギャンブル」なんですね。えー、JPXは「株は賭けじゃない」って言っていますけれども、私ははっきり言います。

「株は賭け(ギャンブル)です」

 でも、ギャンブルには絶対勝てる方式があるんですね。それはなにか……

「賭けるのは本命だけ」

 なんですよ。そう「一発逆転」なんてものを狙っちゃいけないってのがギャンブルの基本。

「あんまり儲からないんじゃないかよ」

 ってご意見もあるでしょうが、でも1万円だけを賭けて、1円儲けたあなたと1000万円をかけたAさんとでは、当たった場合の実入りでいれば、1000倍の違いがあるってことですよね。

 まあ、単なるそういうことだけ。

 なので、私としてはそういうほうじゃなくて、小網神社で銭洗いをしたり……

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 JPXの受付で(なんと本来売っているのは自動販売機)もって「兜神社」のお守りを買ったんだけれども、どうなんだろうか。

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 まあ、儲けるのも、損をするのも、本人の器量だといってしまえばその通り。

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 所詮、「結果」なんですよね「結果」

 バカみたい。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f1:5.6 @Chuo ©tsunoken

2018年7月10日 (火)

ラクロス、レギュラーシーズン開始!

 早くもラクロス秋季リーグ戦がスタートした……、と言っても実は既に6月の終わりにはスタートして、だいたい10月ごろにはレギュラーシーズンが終了し、ポストシーズンが始まって、12月にすべてのスケジュールが終了というのが例年の流れ。

 ちょっと秋季リーグ戦というと早いような気がするが、逆に全日本選手権からの逆算するスケジュールからするの、このスタートの早さというのも、まあ、仕方がないのかな。

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 私が応援しているのが、この東社会人リーグのチャンピオンリーグ2部のデサフィーオというチームなんだが、この「東社会人リーグのチャンピオンリーグ2部」って名前は立派なんだけれども、所属チームはというと「アドバンス・ハングロース」「ラガマフィンズ」「東京ラクロスクラブ」とデサフィーオの4チームだけ。

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 で、その4チームが2試合ずつ行って全体の優劣を決めて、ポストシーズンゲームに入る。面白いのはポストシーズンの結果次第では2部でも全日本選手権に出られる(あくまでも「理論的には」ですけれどもね)ということ。

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 どうせそうなら、ここは東京六大学野球や東都大学野球みたいな、各チーム先に2勝したほうに勝ち点が付くという方法にすれば、試合数も増えて選手的には面白いんじゃないかとも思うんだけれども、どうなんだろうか。

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 ともあれ、とりあえず既に秋季リーグのシーズンは既に開始して、私が推しているデサフィーオも、6月30日、初戦の対ラガマフィンズ戦は15対6で圧勝、しかし、7月7日の対東京ラクロスクラブ戦は5対6で惜敗という微妙な状況。

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 まあ、所詮は社会人ラクロスなんて、大人の日曜日の早朝野球みたいなもんで、多分、参加している人たちの楽しみと言えば、試合が終わった後の「反省会」と称する宴会で、いろいろゲームの内容をネタに飲酒をするってなもんでしょ。

 そんな意味では、若干とも悲壮感を漂わせていた学生ラクロスの時代とは我々の受け取め方も異なるってわけで、まあ、それもいいのかなあ。

 まあ、親としては別にあまり応援しなくてもよくなったので、ラクですけれどもね。

NIKON Df AF NIKKOR 80-200mm f1:2.8 ED @Edogawa ©tsunoken

2018年7月 9日 (月)

休日の兜町から築地へ

 平日はビジネスマンでごった返しているであろう街を休日の閑散とした雰囲気を味わいながら歩くのは悪くはない。

 とは言うものの、丸の内辺りはショッピング街にもなってしまっていて、休日は休日としての街歩きをしている人が多くて、「休日の閑散とした雰囲気」を味わうというわけにはいかない。で、昨日は茅場町から兜町、築地周辺を歩いてみた。

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 兜町周辺は本当に閑散としていて、ウィークデイの人出の限りなんかは想像できないほどだ。山王日枝神社なんかもあるんだが、まったく人影は見えなくて、ただただ宮司さんなんかが暇を持て余している。

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 実はこの東京証券取引所の前から築地方面へ行く道は「平成通り」っていうんだが、当然この道は平成以前からあったわけで、何故、道の名前だけが平成なのかが良く分からない。

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 途中、八丁堀辺りにはnichido contemporary artというのがあって、日動画廊の現代美術専門の画廊らしい。「ほ~、こんなものが……」っていうのは、なかなか普段は気が付かないもので、さすがに休日の閑散として街歩きならではある。

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 街歩きの終り頃になると築地に出るんだが、そこにはご存知電通ビルがある。が、すでに電通本社は汐留に移ってしまっており、この電通ビルには電通テックなどの電通の子会社が入っていたようだが、それらも既に退去してしまい、もうすぐ解体して新しいビルに衣替えするらしい。

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 私が現役サラリーマン時代は「築地に行く」と言えば、それは「電通に行く」ってなもんで、メディアで仕事をしている立場としては、それはそれは大きな存在だったんだ。

 電通がブラックだのなんだのって話があるんだけれども、別に昔から電通の人やマスコミの人間の働きかたが違っていたわけではない。ではなんで、昔は心を病む人とか、自殺しちゃう人なんかが出てなかったのか? まあ、これは想像するに、要は結構みんな「手を抜くべきところは手を抜いていた」んでしょうね。

 一見「モーレツ」なようでいるんだが、実はそうでもない。それが本当の電通マンの姿だったんだ。まあ、自殺しちゃった電通レディの人は、ものすごく真面目な人だったんでしょうね。「手の抜き方」を知らないっていうか、「手を抜くのが嫌い」だったのか、いずれにせよ「そんな姿を人に見せるわけにはいかない」って感じで頑張っちゃったんじゃないでしょうか。

 でも、私が知っている電通マンが普通の電通マンじゃなかったらごめんなさいなんだが、「なんでぇ、『電通鬼十則』ったって、こんなもん?」って感じで『電通裏十則』ってのがあったんですね。

『電通鬼十則
1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。』

『電通裏十則
1)仕事は自ら創るな。みんなでつぶされる。
2)仕事は先手先手と働きかけていくな。疲れるだけだ。
3)大きな仕事と取り組むな。大きな仕事は己に責任ばかりふりかかる。
4)難しい仕事を狙うな。これを成し遂げようとしても誰も助けてくれない。
5)取り組んだらすぐ放せ。馬鹿にされても放せ、火傷をする前に…。
6)周囲を引きずり回すな。引きずっている間に、いつの間にか皆の鼻つまみ者になる。
7)計画を持つな。長期の計画を持つと、怒りと苛立ちと、そして空しい失望と倦怠が生まれる。
8)自信を持つな。自信を持つから君の仕事は煙たがられ嫌がられ、そしてついには誰からも相手にされなくなる。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って、一分の真実も語ってはならぬ。ゴマスリとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。』

 ってね。まあ、この『裏十則』が電通マンの本当の姿なんですよ。少なくとも私の知っている限りは。じゃなきゃ、みんな擦り切れちゃうよ。

 その電通ビルももうなくなるのか。これは一つの感慨だな。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f1:5.6 @Kayabacho Shintomicho Hachobori & Tsukiji Chuo ©tsunoken

2018年7月 8日 (日)

『ツァイス紀行』の「ニューヨーク体験」……いいなあ、こういうの

『実は、今回のニューヨークの撮影は、話題の新カメラ「ツァイスイコン」による写真集というのが当初の計画であった。テストのカメラが間に合わないという事情で、ツァイスZMレンズでの撮影ということになった。ただし、ツァイスイコンは前回のフォトエキスポに展示品(実働品)があったし、2004年のエプソンR-D1の立ち上げの時には、私は無理を言って、その試作品を借り出している。今回、テスト機が借りられなかったのは、大胆な予想をすればそこには「大幅な手直し」があるのかも知れない。一番、分かりやすい生産者側の手直しというのはカメラの名前がかわることである。つまりツァイスイコンではなく「コンタックス〇型」として登場することだ。』

 というのは残念ながら当たっていなくて、まあ、田中氏にはその(コシナ製)ツァイスイコンの「大胆な手直し」の理由は分かっていて、そこは「大人の事情」で文章にはしなかったんだろう。

 まあ、そういう理由で「Carl Zeiss ZM Lens X Zeiss Icon」じゃなくて「Carl Zeiss ZM Lens X Leica」ということになったんだろうな。ちょっと残念な……、でも「写真はカメラで撮るんじゃない。レンズで撮るんだ」という、日々私が言っていることを、田中氏が実践しているっていうわけ。

Photo 『ツァイス紀行 Carl Zeiss ZM Lens X Leica in New York』(田中長徳著/枻文庫/2006年1月30日刊)

 ということで本書のまず最初に「ニューヨーク行のカメラとレンズたち」という紹介がある。

 カメラはライカM3、ライカM3オリーブ、ライカMD、ライカM2、コシナ・ベッサR3A、レンズはカールツァイスビオゴン28mmF2.8、カールツァイスビオゴン25mmF2.8、カールツァイスビオゴン21mmF2.8、カールツァイスビオゴン35mmF2.8、田中光学・タナー50mmF2、ニッコール135mmF3.5(ライカスクリューマウント)というラインナップ。要は、レンジファインダーカメラっていうのは広角用のカメラだってことですね。

Photo ©Chotoku Tanaka

 ただし、ニューヨークで購入した中古レンズなんかもあるし、本を読み進めるとエプソンR-D1で撮影に行くシーンなんかがあるのだが、もしかしたらそれはコシナ・ベッサR3Aの間違いかななんていう風にも思えてしまう。エプソンR-D1だと撮像素子がAPS-Cなので同じレンズを使っていても画角が変わってしまうので、ちょっとした注意が必要だ。写真家が撮影旅行の途中でそんな自ら間違いを犯すような機材選択を行うのだろうか。勿論、35mmカメラと6X6(あるいは6X7や6X9)などフォーマットの異なるカメラを同時に扱うということはあるだろう。ただし、それは明確にフォーマットが異なるということが前提になっているカメラの使い分けであるので、35mmとそれに近いフォーマットだとちょっと勘違いをしかねないという気がするのだが、どうなんだろうか。まあ、単なるシロートの余計なお世話であるのかもしれない。

 結局、コシナはカールツァイスのカメラとか、コシナ・ベッサも現在は製造していない。その裏側にどんな事情があるのかは私なんかの素人の知るところではないが、フォクトレンダーやカールツァイスのレンズは今でも製造しているんだから、別にカールツァイスとの会社同士の関係は別に悪くはなってはいないのだろう。だったらコシナ・ベッサも引き続き作ってくれればいいのに……、っていうのはウソで、本当はエプソンR-D1の後継機で、35mmフルサイズのレンジファインダー・デジタル(つまりR-Dですね)を出してくれればいいのにね、ってことなんだけれども……。

 本書は2005年4月12日から4月27日まで、カールツァイスの(ワイド)レンズでもってニューヨークを切り取るという企画でニューヨークを訪れた撮影行をまとめたものである。面白いのは「Manhattan Diary」というタイトルで4月12日から18日まで毎日つづられている日記が、何故か4月19日から26日までが欠落して4月27日になる全部で9つと、もう一つは、田中氏が1982年から1年間、そして1989年、1997年、2005年に訪れたニューヨークの思い出と、今回の訪NYなどをともに語るエッセイの部分に分かれていること。それが適当な配分で一冊の本の中に配分されているのだ。

 つまり、読む側としては、まずマンハッタン・ダイアリーでもって、文章と文章の間に掲載されている写真を見るわけだが、その次には通常のエッセイを読みながら、もう一度、同じ写真を見ることになる。

 えっ? そういう読み方はしない? う~ん、そうなのかなあ。しかし、私にとっては、やはり本を読むときの興味の持ち方からすると、まずダイアリーでもって、だいたいどんなニューヨーク行だったのかをつかんで、そののちにじっくりエッセイを読もうという気になるのだ。で、結果として写真を二度見るということになるのだ。いやあ、これはじっくり写真を見るのには結構使える方法なのだなあ。なんかこういう「分割した本の構成」というものを「写真集+エッセイ集」ではとっていただけると、読者としては「二度楽しめる」ってなもんで、コストパフォーマンスが上がりそうだなあ。

 しかし、数回、短期間滞在したというだけの私の乏しいニューヨーク体験では、じゃあ、本書を読んでニューヨークの実像(ったってそれはそれで私の体験ということでしかない)と、田中氏の見てきたニューヨークというものの、違う点と同じ点を見比べるなんてことはできはしない。更に、私の体験では、田中氏のようにWTCのツインタワーがあった頃と、なくなってしまったちょっと前と、7つもののWTCビルを再建建築中の現在などを比較することはできない。

 ただ、深夜仕事を終え、タクシーで帰宅する途中でWTCビルへのイスラム教徒の特攻を知り、その映像を見た時のショックだけは残っている。太平洋戦争中に生まれていた人たちにとっては当たり前のような風景であるかも知れなかった、「自らの国・都市が戦場になる恐ろしさ」というものを、私がいるのは別にニューヨークからはるか離れた東京なんだが、何故か戦慄を感じながら、そのニュースを見ていた。イスラムの人たちにとっては当たり前の「自分の町がよその国から攻撃を受けて戦場になる」体験を、生まれて初めて体験するニューヨーカーのショックぶりというものが、何故か共有できたような気がしたのだった。

 そんなニューヨーク体験をヴァーチャルで持てるかもしれないというのが、ニューヨークの(撮影者がだれであれ)写真集ではある。様々な写真家が出しているニューヨーク写真だが、そのなかの十分存在感のある一冊にはなっているのかなあ。

 というか、まあ、私はツインタワー亡き後のニューヨークは行ってないんだったなあ。久しぶりにニューヨーク行ってのもいいなあ。っていう、ニューヨークとかパリとかロンドンとかミュンヘンとかの「都会の写真」は私にとっては、まさしく「旅情を誘う写真」なんだなあ。

 まあ、モノクロでなかったのがちょっと残念なんだけれどもね。

『ツァイス紀行 Carl Zeiss ZM Lens X Leica in New York』(田中長徳著/枻文庫/2006年1月30日刊)

 

☆現在は新刊は手に入らないので、古本で買うか、枻文庫のサイトから電子版(PC、iPhone、Android それぞれあり。Kindle版はなし)で。

2018年7月 7日 (土)

今年も『ツール・ド・フランス(=寝不足)』の季節が始まった!

 いやあ、サッカーのワールドカップ・ロシア大会なんだけれども、日本はベスト16で終わったわけだけれども、よかったよかった。

 なあんて書くと袋叩きにあってしまいそうだけれども、自転車ファンにとっては、まあ、そんなところなんですね。

 なんでって? 昨日のチームプレゼンテーションに始まって、いよいよ今晩から7月29日まで、途中16日と23日の休息日を挟んで21日間、世界最大のスポーツ『ツール・ド・フランス』が始まるんですよう。

 いつもの年はもうちょっと早めに始まるんだけれども、やはりそこはサッカー・ワールドカップに遠慮して、少し時期を遅らせています。謙虚でしょう! え、違うでしょ! 単にテレビの視聴率の関係でしょ! って。まあ、それもありますね。

 もう、今晩から寝不足の三週間になるわけで、そんな意味ではサッカーの方が早く終わってくれて、よかったよかったってなわけなんですね。ご苦労さん西野監督。

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 ということで、昨日のチームプレゼンテーションをJ SPORTSでご覧になった人はご存知の通りなんだけれども、参加はワールドチーム18、プロフェッショナルコンチネンタルチーム4チームという、全22チームというスタイル。ワールドチームはUCI(国際自転車連盟)が認定するワールドチームからの選抜だし、プロコンはワールドチームからワンランク下なんだけれども、基本的に主催国チームを尊重して選ばれるフランスのチームだ。

 以前はワールド18、プロコン3の21チームだったんだが、何年か前から22チームの編成になった。

 その見返りっていうわけではないのだろうけれども、各チームの参加選手が昨年までの1チーム9名から1チーム8名に減らされることになった。

 9人から8人にメンバーを減らされて何が変わるんだろう、なんて我々素人は考えるんだけれども、トップチームとして見れば、かなり作戦に変更を要求されるらしい。スプリンター、クロノマン、クライマー、パンチャー、ルーラーというそれぞれの選手の脚質をどうやって組み合わせるかっていうときに「ああ、もう一人枠があれば」ってな感じらしいのだ。

 まあ、その辺も含めて、各チームの作戦を読むのもツール序盤の楽しみ方だろう。今年はプロローグはなしで、第一ステージからマスドスタートのロードレースになるのもわかりやすくていい。

 出場するのはワールドチームは以下の通り。

AG2R La Mondiale (アジェドゥゼル・ラ・モンディアル)
Astana (アスタナ)
Bahrain-Merida (バーレーン・メリダ)
BMC Racing (ビー・エム・シー・レーシング)
Bora-Hansgrohe (ボラ・ハンスグローエ)
Groupama-FDJ (グルパマ・エフデジュー)
Lotto-Soudal (ロット・ソーダル)
Mitchelton-Scott (ミシェルトン・スコット)
Movistar (モビスター)
Quick-Step Floors (クイックステップ・フロアーズ)
Dimenshon Date (ディメンション・データ)
EF Education First-Drapacu (イーエフ・エデュケーション・ファースト・ドラパック)
Katusha-Alpecin (カチューシャ・アルペシン)
Lotto NL Jumbo (ロット・エヌエル・ユンボ)
Sky (スカイ)
Sunweb (サンウェブ)
Trek Segafredo (トレック・セガフレード)
UAE Emirates (ユーエーイー・エミレーツ)

 これに挑戦するプロコンチームは以下の通り。

Cofidis (コフィディス)
Direct Energie (デイレクト・エネルジー)
Fortuneo-Samsic (フォルトゥネオ・サシック)
Wanty-Group Gobert (ワンティ・グループ・ゴベール)

 まあ、さすがにツール・ド・フランスだけあって、結構豪華なチームが揃っている。ただし、私たち日本人にとってはちょっと残念なのが、日本人選手のエントリーがないことだ。

 トレックはエントリーしているんだけれども、別府史之の出場はなし。バーレーン・メリダも新城幸也はツァー・オブ・ジャパンの怪我が完全に治っていないということで出場は見合わせ。

 ということなので、J SPORTSの中継でも、どこに別府がいるのかな、どこに新城が映っているんだ! なんてテレビ画面を探す必要はないのであります。まあ、そういう意味では、誰が勝ってもいい、みたいな気分で見ていれば、途中で寝ちゃっても、まあ別に損した気にもならないか、ってな。ツール・ド・フランスなのであります。

 今年は。

 日本とフランスの時差は7時間なので、基本的に日本時間の夕方スタート、深夜フィニッシュというスケジュールで行われるレース。、まあ、サッカー・ワールドカップほどじゃないけれども、夜更かしにはなります。おまけにそれが三週間続くんだからね。

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 とりあえず、今日の第一ステージは午後5時35分から、完全生中継で行われるようだが、第二ステージからは午後9時頃から、前半ハイライト、後半生中継といういつものスタイルで中継をします。

 いやあ、今日から毎年恒例、寝不足の7月の始まりだ!

Photo ©tsunoken

2018年7月 6日 (金)

『NIKON F 展』が昨日から始まったんだが……

 昨日(7月5日)から、目黒区祐天寺のギャラリー「Paper Pool」で、共同写真展「Ex. F vol.2」というのが始まったというので見に行ったんだが……。なんか、ギャラリーが見つからなかったんだよね。

 東横線の祐天寺駅前と言えば、私にとって大きな存在はこの「王様書房」なんですね。

「何が王様なのか?」と言えば、実は店主という社長というか、まあ親爺さんが「王様」みたいな人なんですね。お客さんに対してはそうじゃないと思うんだけれども、我々出版社の人間に対してはまさしく「王様」みたいな対応をするっていう、まあ、ある意味で、実に正しい人なんです。

 ちょっと前までは東京都の書店組合の重鎮だった。見た目は飄々とした人物なんだけれども、交渉者としてはなかなかの人ではありました。

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 で、その王様書房の前を過ぎてほんの数分行くと左側に1階が店舗になっているマンションがあるんだけれども、見えてる部分の奥の方、駐車場のサインがある場所の手前が「ギリギリカフェ」というイタリアレストランが入っているビルの2階にあるのがPaper Pool。

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 実はこのPaper Pool 「 gallery, darkroom and Cafe Bar 」っていうだけあって、まあ「darkroom」に関しては営業時間はあまり関係ないんだろうけれども、「gallery」と「Cafe Bar」は、まあね、店員が来ないと開けないってもんで、基本的に「木曜日:18:00~22:30/金曜日:18:00~22:30/土曜日:15:00~22:30/日曜日:12:00~18:00」っていうパターンで営業を行っているらしい。

 つまり、私は写真展初日に行ったんだけれども、普段のビヘイビュアとして初日の午後に見に行こうとしたら、とんでもない、まだまだ開店までには時間があった、ってことなのでした。

 なので、下の二枚の写真は私が撮ったんじゃなくて、Paper Pool サイトから持ってきた写真。まあ、上の写真がそのPaper Pool の内部なんだけれども、こんな感じでウィスキーなんかの舐めながら自分の写真を見るっていう格好の、まあ、他人よりは、写真を撮った自分自身が自己満足できる酒場なんだな。

 まあ、それは当然、自分で(ここの暗室で)モノクロ・ネガから感光紙にプリントして、出来上がったプリントを(この店に自分で飾って)見ながら、スコッチかバーボンを舐めるっていう流れで楽しむのが、ここの店で一番上質な楽しみ方なんだろう。

 いまやアナログ・モノクロフィルムで撮影しても、プリントはデジタルっていうのが普通になってしまっている。なんて言っている私も、作品をプリントして発表する場合は、すべてデジタルだもんなあ。それを「露光」しても、まだどうなっているかは分からない「印画紙」を、現像液に浸しているうちに見えてくる画像。それを見ながらちょうどよいタイミングで定着させ、水洗いして仕上げるのがアナログプリントだ。

 う~ん、そうやって写真と格闘すると、終わった後はちょいと一杯やりたくなるんだろう。

 で、バー・タイムなんですね。わかるわかる。

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 ここに出品している皆さんがみんな、ここの暗室で焼き付け(プリント)を行ったのかは知らないけれども、作品出品しているのは以下の人たち。

『Ex. F vol.2』

◎前期(7月5日~15日)
赤山シュウ/伊藤一宏/大村竜也/荻野学/伽賀隆吾/加藤輝和/小林幹幸/近藤仁/土屋利昭/檜林洋介/柊サナカ/マエダトシヤス/松下大介/Chikashige Yukiya/Douchi Kuniyuki/Kiwako Uchino

◎後期(7月10日~29日)
相磯征正/青山史子/赤城耕一/足立和愛/一色卓丸/内村コースケ/大村祐里子/大沼秀麗/河田力也/真かずい/寺西朋美/森山敬互/森悦克/山内均/与呉鋭機/Akihito Tasiro

 赤城耕一氏が入ってるってことは、要はこれは赤城耕一一党の集まりだってことなのか。う~む、それはそれで楽しそうだな。

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 作品展のタイトルは『Ex. F vol.2』。つまり、ニコンのF、F2、F3で撮った写真だけの作品展ってこと。つまり、私の場合はアナログニコンとしてはF4とNew FM2しか所有していないので、出品資格はないってことですね。ニコンF、F2、F3ってことは、要はオートフォーカスが導入される前のフラッグシップ・ニコンっていうこと。う~ん、でもニコンF3にはF3AFっていうオートフォーカス機構を持った発展形のカメラとAFレンズがあったんだけれどもなあ、それは無視ですかね。

 営業時間は分かったので、今度もう一度行ってみよう。

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 祐天寺の駅から学芸大学方面へ進むと、こんな「五本木庚申塔群」なんて遺構もあるんだ刈れども……、それは別の機会に……。

2018年7月 5日 (木)

『品川台場土取場跡』というのは、もうなくなっていた

 京浜急行の北品川駅の前にあるのが、芸能人を数多く輩出していることで有名な品川女学院。その品川女学院の脇の道を上がっていくとあるはずなんだけれどもなあ。

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 品川女学院の脇の道というのが、この「御殿山通り」という道。読んで字のごとし、品川女学院から御殿山方面へ上がっていく坂道があり、そのまま品川女学院の脇を通り過ぎると、東海道新幹線、横須賀線、東海道線、山手線、京浜東北線という東京の大動脈とでも言うべき路線の跨線橋があるのだけれども、実はそこまで行ってしまうと、行き過ぎ。

 で、そこから戻ってきて品川女学院の本校舎と裏手の校舎の間の道と御殿山通りとの交差点辺りにあるはずなんだけれどもなあ。「品川台場土取場跡」っていうのが、Google マップでは……。

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 下の写真の辺りがそこ。しかし、周辺を見回しても、碑だとか説明板だとかっていうものも何もない。う~ん、これじゃあGoogleマップが正しいのか間違っているのかが検証できないじゃないか。まあ、別に検証なんてしなくてもいいけど。

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 御殿山の説明板にはこうある。

『御殿山は、長禄年間に太田道灌の館があったと伝えられています。また、江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと言われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢庵和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文前頃から吉野桜が植えられ、江戸百景の一つに数えられるほどの花見の名所となり、享保6年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客でにぎわったそうですが、嘉永6年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が掘削され昔の面影は失われました。江戸末期には英国公使館が建てられ、文久2年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。』

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 確かに、この大きさの山ならば東京湾のお台場を作るくらいはできそうだが、結局、当初第八台場まで築造する予定だったんだが、結局、御殿山のふもとに第四の台場を作って全部で七つ、海の上には六つ作っておしまいになってしまった。

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 まあ、結局は品川女学院の脇だけじゃなくて、御殿山全体がお台場のために土砂を採取したのであって、海に近い、品川女学院あたりで船に積み込んで東京湾に運び出したってことなんだろうなあ。

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 で、実はここ数日はニコンDfに28mmや35mmのレンズで撮影をしている。これまで通常は20mmがデフォルトだったんだが、やはり一眼レフだったらきっちりとしたフレーミングもできるし、本来的にはあまり「超広角レンズ」向きではないのかな。

 ということなので、21mmより短い超広角レンズはレンジファインダーカメラて適当なフレーミングで撮影して、28mm以上の「普通のレンズ」は一眼レフっていう使い分けをしたほうがよさそうだ。

NIKON Df AF NIKKOR 35mm f2 D @Goten-yama Shinagawa ©tsunoken

2018年7月 4日 (水)

世田谷奥沢の馬頭観音と新奥沢駅跡

 暑い日は外を出歩きもっと暑くなっちゃおう、ってなもんで午前中に千駄木で用をすましたのちは、そのまま東京メトロ南北線に乗って大岡山まで。

 大岡山と言えば当然東京工業大学の話をしなければならないわけだが、残念ながら今のところその持ち合わせがないので、東工大はスルーして、中原街道まで出てきたわけです。

 大岡山駅前には東工大と逆の方向に、如何にも地域にそぐわない感じの下町風の商店街があって、それはそれで面白そうなのだが、それは別の機会に譲って、今日は東工大の前を進んで中原街道へでて、洗足池方面とは逆に川崎方面へ進むと、自由通りの最後に出るので、そこを北進して奥沢駅方面へ向かいます。

 自由通りと中原街道の交差点付近には、それまで暗渠の下を走ってきた呑川が、東工大を過ぎたあたりで再び地上に出て、そのまま蒲田方面へ進むわけです。昔はここまででも結構広い川だったらしい呑川なんだけれども、現在はそれほど広い川ではなくて、蒲田駅あたりからかなり広い川になる。

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 で、自由通りを深沢駅方面へ「登る」。まあ、この辺は多摩丘陵の一番外れの部分で、様々な崖線があって、要はそこを上ったり下りたりする道がとても多い。

 で、その上り下りの多い地形から、この地域が古くから住宅地として発展してきた、という背景もあるのだ。つまり、土地の低い場所は池や公園にして、住まいは高台の上に置くという考え方ですね。このあたり「高台と低地の境目」を走っている、東急の目黒線や池上線周辺などの沿線を歩いてみると、その「境い目」ってのがなんとなく見えてくるってのも面白い。

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 で、自由通りを奥沢方面へ進んでいくと最初に出くわすのが、東玉川にある馬頭観音なのである。

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 馬頭観音自体は別に「馬」とは関係ない観音様のひとつなんだけれども、まあ、なまじ「馬頭」なんて名前がついちゃったんで、結局「馬の神様」みたいになってしまったんですね。

『「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。
 近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。特に、このような例は中馬街道などで見られる。』(Wikipedia)

 ほら、こんなところで「中原街道」が。現在はお屋敷町のひとつに数えられている奥沢だけれども、まあ、昔は結構「田舎」だったんですね。

 で、田舎と言えば、それとは関係なく、下の写真ってなんだかわかりますか? 4台駐車しているクルマの右側にある碑なんですけれどもね。まあ、分かんないか。

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 実は「新奥沢駅跡」っていう碑なんですよ。

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 東急目黒線の前身の東急目蒲線の前身の目黒蒲田電鉄っていう会社があって、そこが新深沢線という路線を作って、「雪が谷(現在の雪が谷大塚)-諏訪分-新奥沢」っていう超ローカルな電車を走らせたらしい。

 結局、諏訪分駅を利用する田園調布学園の生徒ぐらいしか利用者がいない電車で、じきに東京急行に吸収されてしまい、新深沢線は廃止、目黒蒲田電鉄は多摩川園(現・多摩川)駅経由の東急目蒲線になったっていうわけ。まあ、実はそんな単純に「新深沢線」が「目蒲線」になってていうわけじゃない、経緯があるんだけれども、それはまたいずれ。

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「山の手」と思っていた世田谷区深沢近辺なんだけれども、いやいや、さすがに「町に歴史あり」なんですね。

NIKON Df AF NIKKOR 28mm f2.8 D @Higashi Tamagawa & Okusawa ©tsunoken

2018年7月 3日 (火)

「松原団地」がいつの間にか「獨協大学前」に

 東武伊勢崎線の松原団地駅は1962年に開業した、東武伊勢崎線としては一番新しい駅ではないだろうか。その松原団地駅が昨年名称変更をして「獨協大学前(草加松原)」となった。

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 松原というのは国指定の名勝地『おくのほそ道の風景に旧日光街道の松並木「草加松原」』の松原ということで有名なんだが、だからといって松原団地駅が名称変更になったという話は聞いたことがなかった。

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 草加市に「松原団地」ができたのは1962年のことで、獨協大学がこの地に開学したのが1964年だから、団地の建設よりは遅い。ということで一足早く団地名が駅名になってしまったっていうわけ。

 それが老朽化のために建て替えの話が出たのが2003年のこと。2005年から再開発に着手し、その後、分譲したりデベロッパーに販売した場所を除き、大半はコンフォール松原というUR賃貸住宅となったのである。

 で、もはや「団地の町」ではないし、草加市や東武鉄道としても「団地の町」よりは「学園都市」として街を売り込んだほうがよかろうということで、獨協大学駅に名称変更、更に国指定の名勝地である松並木も入れちまえってことで、括弧つきで「草加松原」を入れたのであります。ま、ちょっと欲張り?

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 駅のそばのマンション群の一角には「草加松原団地三町稲荷神社」というのがひっそりと建っている。特に神社の由来書などはないのだが、神社わきの石碑に「土地寄贈」として「日本住宅公団」「飛島土木」の名前が記されている。そうか日本住宅公団が企画して飛島建設(「飛島土木」というは飛島建設の旧称)が造った団地なんだな、というのがわかる。

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 この小さな神社も、多分、以前は田んぼの真ん中にある小さな祠だったんだろう。それを残しておくのが如何にも日本ですね。

 マンション群の外れには「松原団地記念公園」というのもある。

『この公園名の由来となった「松原団地」は、1961(昭和36)年12月から1964年(昭和39)年にかけて、当時の日本住宅公団が建設した団地で、かつての広大な水田地帯に、敷地面積54ヘクタール、324棟5926戸が建設されました。1962(昭和37)年12月から入居が開始され、建設当時は「東洋一のマンモス団地」と呼ばれ、正式名称は、草加松原にちなみ「草加松原団地」とされました。
 入居開始から40余年がたち、建物の老朽化や住宅需要の多様化に対応して居住水準の向上を図るため、独立行政法人都市再生機構と市が協力し、安全・快適な住宅市街地整備を進める中で、同機構では、2005(平成17)年5月から建替事業に着手しました。団地名についても、「草加松原団地」から「コンフォール松原」に変わりました。
 市では、この建替に合わせてこの公園を整備し、かつての松原団地を記念して公園名を「松原団地記念公園」と命名しました。』

 というのが、この公園の説明書き。

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 で、松原団地(じゃなくて「コンフォール松原」か)の向かいにある川(名前は分からない。東京と埼玉の間を流れる毛長川や綾瀬川の支流)の向こうが獨協大学です。ちゃんとあります。

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 確かに、駅から降りてくる人を見ていると、若い人の大半は獨協大学の学生のようだし、まあ、「獨協大学前」の方が今ではしっくりくるかなあ。

 昔、東武線沿線に住んでいた身としては、やっぱり「松原団地」の方が通じやすいんですけれどもね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Soka ©tsunoken

2018年7月 2日 (月)

そもそも……、なんだってんだよ

 私が写真を始めたのは、小学校5年生の頃だったと思う。通っていた小学校に「写真クラブ」というのができた時に、興味を持ったのが切っ掛けだったのではないだろうか。

 多分、新たに赴任してきた教師がたまたま写真マニアで、自分で現像焼き付けなんかをやっていた人だったのではないだろうか。まあ、当時はモノクロ写真を自分で現像をする人は多くて、別に珍しいことではなかった。

 勿論、その写真クラブも自分で撮影してきたフィルムを、自分で現像して、自分で焼き付けて……、てな具合にすべて自分でやるっていう、当時としては当たり前の存在であったわけである。写真は撮ればそのまま画像になっちゃって、加工もできるし、そのままネットで送ることもできるっていう時代ではなかったんですね。まさしく「写真の黎明期」に立ち会っていたようなものです。勿論、既に「写真術」が完成されてから既に100年以上たっているんですけれどもね。

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「写真クラブ」に入ったと言っても、私自身がそれまでカメラに触ったことはほとんどなかったと言ってよいだろう。多分、叔父のカメラを少しばかりいじったことがある程度だったんではないだろうか。

 なので、写真クラブに入るためにカメラを買ったわけであるのだが、当然、大人が使うようなカメラを買ってもらうわけにはいかなく、しょっちゅう出入りしていた模型屋さんの店頭にあったカメラ、つまりほとんど今でいう「トイカメラ」みたいなものであるけれども、見た目はいかにもライカ風の、でも絞りは「大」と「小」、シャッタースピードは「普通のシャッタースピード」と「バルブ」しかないような、完璧な「オモチャ」のカメラではあった。

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 友人に八百屋の娘がいて、その子が多分親父のカメラを持ち出したんだろうけれども、生意気にも一眼レフのペトリV6なんかを撮影に持ってきたのには、結構嫉妬を覚えたものだった。

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 それでも当時既にフジフイルムの技術力はすごかったんだろう、そんなカメラであっても光の方向などをキチンと設計すれば、結構、ちゃんと写ったのである。当時は、ネオパンSSが出て、いよいよ写真フィルムもISO100が標準になった頃だった。現在のデジタルカメラのラティテュードは相当なものがあって、ほとんどリバーサルフィルムと変わらないほどにはなっているが、当時、既にモノクロ・ネガフィルムでは現在のデジタルカメラと同等以上のラティテュードを獲得していたのである。

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 そんなオモチャみたいなカメラで私は何を撮影していたのかと言えば、それがマトモな風景写真ばっかりじゃなくて、むしろ血道をあげていたのは「特撮」なのであった。

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 例えば、二重露光でもって、本来は見えないはずのものをいかにも撮影しました的な映像を作ろうとしたり、窓ガラスにUFOなんかのイラストを貼り付けて、それをバックの風景と一緒に撮って、「UFO写真の撮影に成功!」なんて大嘘をついていたりしていた。

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 その後、中学後半や高校生になってからは映画にのめり込み始めるんだが、そのきっかけっていうのがクロード・ルルーシュの『男と女』という映画のプログラムにルルーシュの自画像が載っていたんだが、要はそれはルルーシュが自らカメフレックスを手持ちでかかえて映画を撮影している場面なのだった。「うわっ。映画監督って自分でカメラを構えたりするんだ。カッコイイ。」っていうものなんだが、それは後日分かったんだけれども、そのスチールは、あくまでもリハーサルのときにカメラアングルを確認するためにやっていただけで、実は本番撮影はちゃんとカメラオペレーターが撮影していたのであります。当たり前だよね。監督が自分で撮影までやっちゃったら、撮影現場全体を見ることができなくなってしまう。

 で、結局、私にとっては「写真はモノクロ」というのが原点だったし、映画を見始めたのもハリウッドじゃなくてヌーベルバーグやシネマヴェリテだったので、これまたモノクロ映画が多かった、っていのもあるんだろう。

 ということなので……。何故か、モノクロ写真って落ち着けるんですね。

 って、なんだそんなことを言いたくて、延々と駄法螺を吹いていたっていうわけですね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 ©tsunoken

2018年7月 1日 (日)

東京周縁部を往く・狛江市野川緑地公園

 狛江市については2015年10月25日に「狛江古墳群を往く、はずだったんだけれどもなあ」で一度書いたことがある。基本的には国分寺崖線に沿って流れていた野川が多摩川へ注ぐのが世田谷辺りで調布市、狛江市というのがその沿線のはずだったんだけれども、今は野川は狛江市を流れてはいない。それは何故か? というのが本日のテーマ。

 別に、狛江市だけがなんで都下なのに電話局番(03)なんだ、っていう話ではありません。たまたま、世田谷の電話局(当時はNTTじゃなくて「電電公社」の時代ですからね)の管轄の問題だけで、たまたま狛江市が「世田谷のついでに(03)になっちゃった、っていうだけなんですね。

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 それはいいとして……

 小田急線狛江駅を降りて市役所方面へ進むと道のわきにあるのが「駄倉橋跡」という碑と狛江市の説明板。つまり、この辺りには六郷用水というのが流れていて、そこにかかっていた橋が駄倉橋というわけ。うん、やっぱりこの辺を川が流れていたんだな。

 駄倉橋跡のすぐそばのマンションの一角に「駄倉塚古墳」というのがあるんだが、今回は古墳巡りではないので、とりあえずオミット。というか入れないので、無視。

 で、狛江市役所まで行って、その脇を通っていくと、その先から始まっているのが「野川緑道公園」なんですね。、

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 ほら、あったでしょう。野川の痕跡が。

 実は、野川というのは昔は調布市から狛江市を通って世田谷の方へ流れていて、その後、多摩川に注いでいたのである。六郷用水というのは、この野川から分かれた川で、この一帯、野川以外にも野川の支流のような感じで多くの川が流れていたらしい。

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 野川は昔は「大川」と呼ばれていて、夏などは子供たちの水遊び場になっていたらしい。ただし、その後の治水問題や川の汚染問題などで川が整理されることになってしまい、旧野川は廃止され、現在も流れている野川を新たに掘削して、そちらに川を流すようにしたのだ

 で、その痕跡として狛江市に野川緑道公園を整備したのである。現在の野川も沿線に遊歩道などが整備されて、周辺の人々の散歩道として、あるいはサイクリングロードとして利用者が多いが、まあ、その原点というか何というか、ってな感じの道なんですね、野川緑道公園は。撮影したのはウィークデイのお昼ごろなのであまり人はあるいていないが、週末などになると、かなりの人が歩くんだろうな。

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 途中に100mごとに里程標(100mで里程標っていうのかどうかは分からないが)が置いてあったり、こんな昔の野川にかかっていた橋の名残なんかが残されていたりしている。

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 里程標もそろそろ2,000m位かなというところに小足立八幡神社というのがある。昔はこの辺りは小足立村と呼ばれていたそうで、その村社がこの八幡様だったそうだ。

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 で、小足立八幡神社からほどなく野川緑道公園は、対岸に神代団地を構える小金橋のたもとに出てくると、野川緑道公園は終了。つまり、ここから先は昔の野川と合流(?)するっていうことなのである。橋の手前の方が新たに掘削された現在の野川で、橋の向こう側が昔からの野川、っていうことなんだろうな。

 野川緑道公園の下を暗渠で旧野川が流れているのか、あるいは完全に埋め立ててしまったのかは分からなかったが、いずれにせよ、昔の川の痕跡だけは見つかったので、とりあえず取れ高OKかな。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Komae ©tsunoken

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