フォト
無料ブログはココログ

Amazonウィジェット

  • Amazonおまかせリンク
  • おすすめウィジェット
  • Kindle

« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

2018年6月

2018年6月30日 (土)

『悪人か、ヒーローか』という設問は、やはり東洋的ではない

 東洋文庫ミュージアムで公開中の展示「悪人か、ヒーローか Villain or Hero」というのがなかなか面白い。

『誰が悪人といったのか。だれが英雄といったのか。

 歴史資料や創作物を見ていくと、当時の社会規範や支配体制の枠組みにおいて「悪」とされた人々が、一転してヒーローやヒロインとして魅力的に描かれている例が多々あります。一方、歴史上で大きなことを成し遂げた人物が、後世への教訓のために悪い例として語り継がれていることも少なくありません。本展では、多様な立場、視点によって「悪人」あるいは「ヒーロー」とされた古今東西さまざまな人物に関する記録を集め、彼らの虚像と実像に迫ります。』

 というのがその惹句。

Epsn49812

『一神教を掲げる西洋では、善と悪はいわば仇同士のようなもので、どちらかが負けるまで戦い続ける、といいます。中国では、陰と陽、善と悪といった両極の対立を一方では認めますが、しかしそれらの対立はしまいには調和にもたらされて一つになる、という考え方があります。』

Epsn49872

 東洋文庫なので、当然資料は文献学から始まる。

 で、「悪人」として挙げられた人たちと、その論拠となる本を挙げる。

●始皇帝……「史記 秦始皇本紀」「定監図説」

●劉邦と呂后……「史記 高祖本紀」「後漢書 光武帝紀」

●則天武后……「資治通鑑」「歴代君臣図像」

●徽宗皇帝……「宣和博古図録」「宣和遺事」

●鄭成功(国姓爺)……「明清軍談国生爺忠義伝」「アモイ近海図」

●蘇我入鹿……「日本書紀」「妹背山婦女庭訓」

●平清盛……「平家物語」「愚管抄」

●足利尊氏、楠木正成……「太平記」「大日本史」

●織田信長……「信長記」「読史余論」

●春日局……「老人雑記」「春日局」

●鼠小僧治郎吉……「鼠小紋春着雛形」

●スレイマン1世とヒュッレム・スルタン……「一般トルコ史」

●ナポレオン・ボナパルト……「ナポレオン・ボナパルトの生涯」「佛郎王歌」

 その他、引用書としては「三国志」「水滸伝」、「悪を裁く」としてその裁きの結果としての「流罪」「蟄居」「牢問」「土蜘蛛」「疫病」「大地震」などなど。

 まあ、こうした展示でありがたいのは、なんとなく展示を見ているだけで、その参考となった書まで読んだ気になれるところだろうか。

Epsn49822

 上に上げられた人々にしても、一方から見れば「悪人」かもしれないが、その反対側から見れば「ヒーロー」なわけだ。特に蘇我入鹿、平清盛、足利尊氏、楠木正成、織田信長なんて人たちも、すくなくとも政治にかかわった人たちは、当然、その政敵から見ればとんでもない悪人なんだが、逆から見れば善政をおこなった「立派な人たち」ってことになるんですね。

Epsn49882

 春日局にしても、元々、明智光秀の重臣だった人が父親で、それが巡り巡って徳川家に仕えることになったっていうのも、織田信長-明智光秀-羽柴秀吉-徳川家康という流れの中で翻弄された人生っていうことになるわけで、別に春日局自身の出世欲とかそんなものがあったのかどうかは分からない。

 それを「悪人」と「正義の人」に分ける二文法というのはいかにも西欧一神教の物事を単純にしか考えられない方法論によるものだろう。ロンドンタイムス通信員だったオーストラリア人、アーネスト・モリソンの蔵書をベースに作られた東洋文庫らしいっていえばそうなのだが、まあ、それも物事の見方のひとつとして見ることも面白いかもしれない。

Photo_2 『悪人か、ヒーローか 時空をこえる本の旅 19』(公益財団法人東洋文庫/2018年6月5日刊)

東洋文庫ミュージアム展示「悪人か、ヒーローか Villain ro Hero」は9月5日まで公開中

公式サイトはコチラ

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Hon-Komagome Bunkyo ©tsunoken

2018年6月29日 (金)

こういう日もあるんだ……っていうお話

 まあ、別にどうってこともない話なんだけれども、面白そうなのでネタにした……、っていうだけのことなんで……、スンマセン。

 月曜日6月25日のPolar Flowのデータなんだが、歩いた歩数が「9,999歩」、消費カロリーが「1,999Kcal」っていう、なんか妙に数字がそろったデータなんで、面白いので記録しておく。

Photo

 この日は都営地下鉄大江戸線に乗って清澄白河まで行って、清澄公園から深川1丁目、門前仲町などを歩いて、「深川:国威宣揚塔のある風景」というブログを書いた日。門前仲町から再び清澄白河まで戻ってきて、今度は都営新宿線に乗って帰って来た、っていう日。

Epsn47352

 まあ、いつもの大江戸散歩コースのひとつなんだが、なんだかねえ、なんであと1歩歩かなかったんだろう、なんであと1Kcal分動かなかったんだろう、ってのが気になります。

 実際には基本的にその日一日の歩いた歩数の合計は次の日(というか次の日の午前0時すぎ)にならないと分からないので、なかなか当日の夜中になって「あと1歩足りないから歩いておこう」という具合にはならないのである。

Epsn47052

 ブログテーマは「深川:国威宣揚塔のある風景」ってなんているんだけれども、それは結果としてつけたタイトルで、事前に考えていたタイトルは「大深川と小深川」といった類のものだった。

 私たちがいわゆる「深川」と名付けてイメージする「深川」と、実際に行政地名として使われている「深川」には大いなる違いがあって、その『いわゆる「深川」』を「大深川」、『政地名として使われている「深川」』を「小深川」と呼んで分けようとしたのだった。

 その辺のことは当日のブログに書いてあるので、そちらを読んでいただくとして、それがなんで「深川:国威宣揚塔のある風景」になっちゃったのかっていうことなんだけれども、まあ、町歩きをしているときに深川のいくつかの場所で見つけたんですね、この不思議な「国威宣揚塔」というものを。

で、ブログに載せたのは深川一丁目児童公園にあった「国威宣揚塔」だし、実はもう一つ見つけたのが、こちらは三好二丁目交差点にあった「国威掲揚塔」なのだった。

Epsn48402

 ブログタイトルを「大深川と小深川」という分かりやすいものにするよりは「国威宣揚塔」っていう、ちょっとなんだかわけのわからないものにするほうが、多少は人目を惹くだろうというのがタイトルをつけた理由。

 まあ、安易なタイトル付けだといえば、安易ではあります。

 とはいうものの、この日のページビューは365なので、まあ、普段と変わらないペース。

Epsn47032

 6月21日のページビュー1,386という瞬間風速みたいな数字はなんだったんだろう。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Kiyosumi Koto ©tsunoken

2018年6月28日 (木)

今日は上神明神社……だけじゃない

 もともと「神明神社」っていうのはひとつだったそうで、なぜそれが「上」と「下」に分かれたのかはよく分かってはいないらしい。

『創建に関しては明らかになっていないが、言い伝えによると鎌倉時代の文永八年(1271年)に北条重時の五男・時千代が、仏門に入り法圓上人となり、大森(現在の大田区)に厳正寺を開き、その家臣が蛇窪(現在の当地付近)に住み着いた。後の元亨2年(1333年)に厳正寺の僧侶が池の竜神へ雨乞いの祈願したところ、慈雨が降ってきたのでそれに感激した時千代の旧臣らが当地にも神社を勧進し祀ったというのが始まりであるという。
 その後、蛇窪村(江戸時代の当地の地名)が上蛇窪村と下蛇窪村に分かれた正保年間(1644年から1647年)に、天祖神社が上神明天祖神社と近隣の下神明天祖神社とに分かれたとされているのが有力な説であるが、その時期などに関しても確実な記録がない。』 (Wikipediaより)

 まあ、それぞれ「村社」を名乗っているのだから、村が分かれれば神社も分かれるっていうことなのかなあ、この辺は、神道には詳しくないので、私には分からない。

Epsn49192

 上の写真の提灯にも書かれている、そもそものこの地の名前「蛇窪」にもあるとおり、この神社は「白蛇神社」としても知られているんだが、その伝説はよくある通りの、村民をいじめていた白蛇が実は〇〇の生まれ変わりで……、って話で。

 で、ここの白蛇は見ると蛇というより竜のように見える。どこで「白竜」が「白蛇」になったんだろう。

Epsn49252

 で、三間通りを旗の台方面へ向かってさらに進み、国道一号線(第二京浜)を超えたところにあるのが、なんと「品川区立 源氏前小学校」なのであります。

 区立なのになんという典雅な名前? いやあ、源氏だから「典雅」というより「荒ぶる」でしょう、という声も聞こえそうだが、まあ、中世の話だ、大目に見ておきましょう。

 で、なんで「源氏前」なんだというと、昔、源頼義、義家父子がこの辺りに砦を作ったり、神社(天祖神社ではない)を作ったりしたという故事にちなんで、この地の人たちは、ここをそう呼んでいるらしい。多分、前九年の役で東北地方を舞台に戦いが起こった時のベースキャンプとしてこの地が選ばれたのだろう。多摩川の周辺にはそうした源氏の逸話が残っている場所が多い。

 まあ、中世は関東が蝦夷地への最前線だったんで、江戸や栃木などにはそうした地名がいくつも残っているんだな。

 正式な地名ではないものを学校の名前にしちゃうっていうのも、かなりな愛着があったんでしょうね「源氏前」って。ただし「源氏名」ではありません。

「源氏前」を、なんとなく「源氏名」と読み違えてしまった私が如何に「俗」だってことですね。う~ん、ちょっと恥ずかしいか。

Epsn49432

 近所には「源氏書房」なんていう古本屋さんや……

Epsn49402

 源氏前公園なんていう児童公園なんかもあります。

 まあ、この地域の人たちが如何に「源」という名に親しんでいたのかがよくわかります。ただし「平」に対する敵愾心はどうなのか……。どうなんだろうか? NHK大河ドラマ「平清盛」なんて、この地域の人たちは、多分見ないで無視していたんでしょうね。そうじゃなくっちゃあ……。そうじゃなくっちゃあ。

Epsn49452

 横須賀線が走る「上蛇窪架道橋」の名前の理由もわかりました。

Epsn49562

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Yotsuba Shinagawa ©tsunoken

2018年6月27日 (水)

下神明神社があるんだから……

 JR京浜東北線の大井町駅で降りて、東急大井町線に乗ると最初の駅が下神明である。

「神明」という地名にピンときた私は、「じゃあ、それなら神明神社(天祖神社)があるはず」と考えたんですね。

 まあ、大井町から下神明はごくそばだし、下神明駅前の駅前にあった、昔、広末涼子がポケベル(!)のコマーシャルで出演していた「タコ公園」も今やなくなってしまっているので、大井町駅からわざわざ大井町線に乗らずに、東急に沿って歩いていけばいいのです。すぐ着きます。

Epsn48802

 で、大井町駅から西、下神明から南の方へ進んでいくと、ほどなくして『鎮守 天祖神社』がある。

Epsn48642

 まあ、普通の日なのでとくに詣でる人はいないんだが、まあ、それなりの神社であることはよくわかる。よくある、街中のあまり詣でる人がいない、普通の神社ですね。上中里の平塚神社みたいな感じ。じゃあ、それならこの下神明神社も千葉氏とかの関係があるのかなあ。昔の館、あるいは砦だったりして。う~ん、場所は高台だし、その可能性は強いぞ……、ってのは次のテーマとして残しておこう。

 で、下神明はわかったんだが、わざわざ「下」という言い方をしているっていうことは「上」があるはずですよね。

 ということで、今度は「上神明神社」をたずねていくことにしたのであります。それは当然と言えば当然。普通に興味を持った、ということなのです。

Epsn48732

 で、下神明神社の前を走る「四間通り」という昔の商店街を歩いていくと、途中で「三間通り」という道との交差点に出る。何が「四間」で、何が「三間」なんだか、両方の道とも同じくらいの広さだし、よくわからないのだが、右折してその三間通りを進んでいくと、途中、横須賀線の西大井駅前を過ぎて、緩い上り坂を登っていきます。

 そうか、西大井の駅っていうのはまさしく谷底の駅なんだなあ。ってことは、この谷の両側の丘の上には砦があってもおかしくなないのか。

Epsn49512

 その道を進んでいくと右側に伊勢元という酒屋があるので、そこを右折すると……。

Epsn49482

 あるのです。「村社 天祖神社」が。

Epsn49162

 なるほど、これで「上神明」と「下神明」の両方の天祖神社の場所は分かった。

 で、上神明神社は「白蛇神社」として、白蛇が祀られている神社なんですね。う~ん、これは知らなかったなあ。

Epsn49232

 ということで、「白蛇神社」の由来とか、近所にある「結構、優雅な名前の小学校」の話は、「明日のココロだぁ~」

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Yotsuba Shinagawa ©tsunoken

2018年6月26日 (火)

深川:国威宣揚塔のある風景

 江戸深川って言えば江戸下町の代表格なんだけれども、じゃあ下町のどこからどこまでが「深川」なんだっていうと、実はあまり認識されてはいない。

 イメージとしては清澄庭園の北、小名木川あたりから東は木場、南は越中島の手前位までが「深川」なんだが、現実の行政区域としての「江東区深川」っていうのは結構狭い場所なんだ。

Epsn47442

 地域的には北が清澄庭園の南、運河の橋を渡った先から、西は清澄庭園と清澄公園の境の道、東は富岡八幡宮の脇を走っている道。南は首都高9号線という、これまた昔は運河があった場所、という地域に深川一丁目と二丁目がある。

 深川二中なんていう区立の中学校があるんだけれども、所在地は江東区冬木。そんな名前の「深川なんとやら」が周囲にたくさんあるのが「深川」なんだ。う~ん、自分が住んでいる町には「深川」の名前をつけるのは嫌がっている割には、めぼしい建物には「深川」をつけたがるというアンビバレンツ。

Epsn47702

 深川祭りが行われる門前仲町は、実を言うと深川じゃないんですね、現在は。地名としては門前仲町だからまあいいんだろうけれども、元々は、この門前仲町が深川の中心地だったんです。

 火付盗賊改・長谷川平蔵が主役のご存知「鬼平犯科帳」も主な舞台は、この現在の門前仲町あたりを深川としてとらえている。

Epsn47772

 清澄庭園・清澄公園あたりは当然清澄。深川不動のあたりは門前仲町、富岡八幡宮のあたりは富岡と、まあ、それぞれ自分の都合のいい名前を町名としてつけているんだが、う~ん、なんかそうなると「深川」という昔からあった町の名前を消してでも新しい名前をつける意味って何かあるんだろうか

Epsn47902

 まあ、町の名前なんかはそれぞれそこに住んでいる人たちが自分の都合のいいように名前をつけるんだし、それで問題はないんだけれども、私たちがイメージしている「大深川」と、それとは別に実際の町の名前としての「小深川」があるっていうことを知っておくことが、その町を訪れる際の事前知識としては必要だってことなのであります。

 まあ、それは別に深川だけじゃない。

Epsn48082

 で、その深川に今でもいくつか残っているのが「国威宣揚塔」なんであります。

Epsn47572

 まあ、戦前の日本ではこんな国旗掲揚塔を作って、毎日朝にここに日本国旗を掲揚して国民意識を植え付けようっていう算段だったんだろうけれども、その位に戦前の日本では日本国民の国民意識っていうのは低かったんだろうか。

 明治維新からまだ数十年という頃では、まだまだ庶民の意識としては「国民」っていうよりは「(藩の)領民」という意識の方が強かったのかもしれない。で、そんな日本国民に対して国民意識を根付かせるために、こんな「(日の丸という)国旗を掲揚する国威宣揚塔」なんてものを作ったんだろうな。

 まあ、こんなものは米軍が東京を空襲するときのいい目標になるだけだけどね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Fukgawa Monzennakacho Koto ©tsunoken

2018年6月25日 (月)

東京周縁部を往く・赤塚氷川神社の富士塚

 え~、詳しいことは、とりあえず今年の3月28日のブログをお読みください。今日のブログはその続編というか、後付け。そのブログ自体がその前の2014年12月5日のブログに端を発しているんですけれどもね。

 まあ、そんなことから考えると、2009年11月27日から始めたこのブログも結構続いているんだなという感慨は、多少はある。まあ、でもまだ10年以上も続いているわけではないので、まだまだ続けるつもりでもいるし、今や、ほとんど私の撮った写真の発表媒体であるこのブログは、まあ大事にはしたいなとは考えている。

 当初は「記事がメイン」「写真は付属物」的な考え方だったんだけれども、最近は「写真がメイン」みたいな感じにはなっているなあ。

 私自身は「自分は物書き」という意識でもって、学生時代からの映画評論の時代からずっと文章を書いてきたんだけれども、同時に自分自身の理想像として「フィルム・ジャーナリスト」という一面を求めてきていたので、その両方の「中途半端」な連合体っていうのが、もしかしたら今の私なのかもしれない。「フィルム・ジャーナリスト」っていうのは16mmや35mmの動画(映画)のことであり、基本的にはそうした動画で伝えるジャーナリズムっていうものにとっては、「文字」は「映像」の付属物であると考えていたんだ。

 ただし、最近のブログは、ほとんどが写真のレポートがメインで、活字は言ってみればそのキャプションでしかない、ってのが事実かな。

「主従逆転」なんだけれども、まあ、それもいいか。

Epsn45992

 ってなことで、やむなくとりあえずは赤塚氷川神社に行っておかなければなあ、ということで東武東上線成増駅に降り立ったわけです。

 ただし、成増駅って言っても、これまで降りてきているのは光が丘がある西口の方ばっかりで、東口は『課長 島耕作』の映画化の相談で、何度か訪ねた弘兼憲史氏の仕事場が成増駅の東口方面にあったので行っただけだった。私個人は弘兼夫人の柴門ふみさんのファンだったので、柴門さんに会えるかなという期待で行ったんだけれども、会えませんでした。残念!

Epsn46152

 まあ、それはいいとして、成増駅から赤塚氷川神社はそれほど遠くもなくて、まあ、道に迷いながら歩いても30分もあればついてしまう。

 要は「宮前公園」が目標なんですな。当たり前だけど。

Epsn46212

 赤塚氷川神社は、ご想像の通り赤塚(つまり、赤塚城址とか東京大仏とかの)城主だった千葉介自胤が武蔵一之宮氷川神社から勧請して作られたらしいというのが伝説らしい。

Epsn46362

 で、面白いのは神社の門の脇にある「富士塚」なんですね。

 富士神社じゃないので手前に小さな祠があるだけなんだけれども、その後ろには富士塚とか登坂路とかがちゃんとあります。

 まあ、昔の人にとっては「氷川様」だろうが「富士山」だろうが、信仰(要は「自分が助かりたいっ」っていう?)の対象はいくらあってもいいってことなんでしょうね。

 いかにも「八百万の神」を信じた日本人らしい。なにしろ、「へっついの神様(幽霊)」なんて、「かまど」にまで神様がいると考えていた日本人だもんなあ。

Epsn46302

 で、問題は赤塚氷川神社から急な坂を下りて、なおかつ向こう側に見える山の上が赤塚城址なんですね。時間的には数分で上り下りできる距離ではあるんだけれども……。

Epsn46442

 向こうから(赤塚城址側から)きてもいい、こちら(赤塚氷川神社)から行ってもいいんだけれども、いずれにせよ山登りと山下りのアップダウンは避けることはできないわけで、「んじゃあ、どうすりゃいいんじゃ?」ってな問題があるんですね。

 年寄りにそれをさせちゃあまずいんじゃないか? ってのが、私の結論。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Akatsuka Itabashi ©tsunoken

2018年6月24日 (日)

横浜中区野毛本通りは伊勢佐木町の入り口

 JR横浜線の桜木町駅を降りて、西進。井土ヶ谷とか上大岡の方へ進む平戸桜木道路を少し進むと京浜急行の黄金町駅前へでる。

 黄金町の少し手前、野毛山動物園から降りてくる道と平戸桜木道路との交差点が野毛の交差点である。

Epsn44682

 交差点のそばに多分横浜で一番大きい中古カメラ店「大貫カメラ」があって、桜木町で降りると必ず寄るんだけれども、その大貫カメラがある場所のそばの野毛交差点を大岡川方面へ進む道が野毛本通である。

Epsn00153

 そのまままっすぐ進むと大岡川を超えた辺りが吉田町で、すぐに伊勢佐木町に至る。伊勢佐木町に近いからというわけではないけれども、野毛の町も飲み屋街・繁華街として相当な賑わいを呈している。

Epsn44912

『戦前も伊勢佐木町が繁華街として中心でした。桜木町がターミナルだった為に、野毛を通って多くの人が行き来していましたが、戦後伊勢佐木町も駐留軍に接収されたりで、まして焼け野原で繁華街としては出遅れました。野毛は接収されることがありませんでしたから、焼け野原に戸板1枚の上に品物を置いて売ったのが始まりで、1年も経たないうちに「野毛に行けば、何でも揃う」という街になりました。桜木町駅(旧横浜駅)付近の桜川沿いには、カストリ横丁、又くじら横丁、クスブリ横丁などと飲みや街もでき全国から人が集まって来ました。
 書店と露店が向かい合っており、露店は朝設置し、夕方(毎日)撤収で、お客様は昼間まるでトンネルの中を通って商店を見ている感じでした。』(「野毛本通り」サイトより)

Epsn44702

 なるほどなあ、昔は現在の桜木町駅が横浜駅だったわけで、その横浜駅を降りて一番の繁華街である伊勢佐木町へ至る道が野毛本通りだったわけなんだ。

 ただし、今では本屋さんなんてものはなくて、ほとんどが飲食店(というか昼間はやっていない飲み屋さん)になっている。で、そんな昔の雰囲気が残っているのが、この大岡川沿いの長屋風の飲み屋街だろうか。いやあ、なんとも見事な長屋ではあります。

Epsn44932

 もうひとつ面白いのは一枚目の写真もそうなんだが、舗道の敷石に描かれているレリーフである。

 山下公園に近い舗道にも「いかにも横浜」な絵が描かれた敷石が数多くあるんだが、ここ野毛ではやはり「いかにも野毛」っていう感じのレリーフで面白い。

Epsn44712

 山下公園に対抗しているのかな。

Epsn44722

EPSON R-D1s LEITZ CANADA SUMMICRON 35mm f2 & LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Noge Yokohama ©tsunoken

2018年6月23日 (土)

大森ベルポート=初芝電産???

 JR大森駅から京浜急行大森海岸駅へ行く途中の左側に大森ベルポートというビルがある。名前の通り元々はいすゞ自動車の本社があったビルで、現在はいすゞのビルだけじゃなくて貸しビルもやっていて様々な会社も入っている。

 ということなので、初芝電機産業の本社もこのビルにはいているんだ……、ってなわけはないよね。だって初芝電産って大阪の門真市にあるんでしょ、なんて夢のないことを言ってはいけない。

 つまり、『課長 島耕作』の実写映画版、つまりトシちゃん(田原俊彦)が課長島耕作役を演じて、一部の原作ファンから顰蹙を大いに買った『課長 島耕作』が務める初芝電産の本社がこの「大森ベルポート」にあったという設定で撮影されたんだ。

 大森ベルポートにはまだ富士通の傘下に入っていなかった、まだパソコン通信のNifty- Serve時代のニフティ(現在は家電販売のノジマ傘下)がこのビルに入っていて、映画の撮影にも協力してもらっている。ただし、オフィス内の場面は幕張の幕張テクノガーデン(MTG)にあるプラスのオフィスを使って撮影したんだ。

Epsn44282

 で、下の写真が初芝電産の玄関であります。映画版ではトシちゃん演じる島耕作と、森口瑤子演じる鳥海赫子が出会った場所でもあります。残念ながら大森ベルポートは、この玄関シーンだけ。ニフティも協力はしてもらったけれども、オフィスの撮影はやってない。

 この設定は原作ではなかった設定で、映画用に作った設定なんですね。まあ、長いこと続いている原作を一時間半位の映画にしちゃうんで、結構いろいろなところで無理のある設定は必要になるんですね、映画って。

Epsn44382

 んで、それだけ変えちゃうんであれば、配給公開は東宝系なので、いっそのこと『トシちゃんの平成版無責任男、課長島耕作』にしちゃったらどうなんだ、ってのが製作担当の角田研の考え方だったんだけれども、それは原作者がNGだということで、なんか中途半端な映画になっちゃったなあ、というのが私のこの映画に関しての思いなのである。

 いやあ、結局島耕作っていろんな女とヤりまくって、結果オーライのかなりC調(古っ!)な男なんで、それって考えようによっては「無責任男」そのものなんだけれども、弘兼憲史氏としては島耕作ってもっと真面目な男だという捉え方なんですね。う~む、分からん。

Epsn44502

 それにしても、現在ではこんな風なオフィス兼商用ビルなんてのは当たり前になってしまっているんだが、当時はあまりそういうのはなくて、オフィスビルはオフィスのみ、商業ビルはお店だけっていうのが普通のビルだったんだから、当時としては新しい発想の貸しビルだったんだろうなあ。

Epsn44482

 ビルの周囲も、映画の撮影をしていた当時は大きな駐車場なんかもあって、結構広々としていた記憶があるんだけれども、最近になって行ってみると、周囲もかなりビル街になってしまっていて、大森駅周辺はオフィス街になっているんですね。

 映画の撮影をしていた頃はもうちょっと普通の家なんかが多かったような気がしたんだけれどもね。普通の家が多かったんで、スーパーマーケットなんかも建ち始めていたっていう感じだったんでしょうかね。

Epsn44192

 ってことで、キネカ大森は今でも健在です。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Omori ©tsunoken

2018年6月22日 (金)

水郷佐原は何で持つ?

 先週水曜日(6月13日)には、とりあえず潮来へ行こうとうことで家を出たんだが、潮来駅前からあやめ祭りに行く人たちのあまりの人出になんか気を削がれてしまい、元々、潮来のついでに予定していた佐原へ行った。

 う~ん、あんなにゾロゾロ一杯人が歩いていて、それであやめを見て何か面白いんだろうか? ってまあ、六義園の前に住んでいて言うことではないか。でも、私たちは六義園が人出でいっぱいになるときなんかは行かないもんね。やっぱり庭園ってのは、ひっそりしているときに行くもんですね。なんで、みんなそんなに人出で混んでいるときにわざわざ人ごみの中に行って、ゾロゾロ行列を組んで、たいして見られない花を見にいくんだろう。少しずらせば、あまり人出がない時のあやめなんかもゆっくり見られるのにね。

Img0502

 で、佐原であります。

 佐原はもう何度も来ている。「水郷の町」って言っても、べつに佐原の町の中に水路が巡らされているわけではない。小野川という小さな川が一本流れているだけである。が、同時にその川が町の歴史を形作っていったというのもある。

 町は川の両側に沿って発展してきている。

Img0082

 JR成田線の佐原の駅から少し歩くと小野川のたもとに出るわけなんだけれども、そこまで行くとやっぱりこの町は水路の発展とともに栄えてきた町なんだっていうことがわかる。そういう意味では「水郷」なんだろう。

Img0262

 佐原という町は香取神社とともにある町で、現在は香取市に入っているが、元々は佐原市として香取市とは別の町だった。ただし、成田や香取神社から利根川に出るための町として重要拠点だったし、銚子の手前の町として、佐原は利根川水運にとってはかなり重要な拠点だったと思われる。

Img0462

 その佐原に日本地図作成で有名な伊能忠敬が婿入りしてやってきたのは宝暦12年(1762年)、忠敬18歳の時だった。伊能家の家督を継いだ忠敬は名主として土地改良工事などで力を尽くし、寛政6年(1794年)50歳で隠居すると、翌年江戸に行き、測量技術などを学んだそうだ。

 いやあ、伊能忠敬といえば日本地図で有名なんだけれども、その仕事自体が完璧に「余生」の中で行われたっていうところがすごい。

Img0472

 伊能忠敬が日本地図作成の旅、それは蝦夷地の地図作成という名目で始められたんだけれども、その旅に出発したのは寛政12年(1800年)55歳の時だった。

 伊能忠敬の日本地図が完成したのは忠敬死去の1818年まで18年に及ぶ。

Img0612

 いやまあ、「人間五十年」と言われた時代、確かに50歳で隠居するのは分かるんだが、この伊能忠敬といい、徳川慶喜といい、なんか隠居してからの活躍が目立つってのも、なんともはや凄まじいものがあるなあ。

 のんびりブログなんて書いている場合じゃないぞ……、ってなもんか。

 っていうか、さすがにフルサイズ35mm(って、当たり前か)にウルトラ ワイド ヘリアー 12mmレンズはやりすぎだったなあ。

LEICA M6 VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 KODAK 400 TX @Sawara Katori ©tsunoken

2018年6月21日 (木)

『学歴フィルター』なんかぶっ飛ばせ!

「学歴フィルター」っていうと、どこか「悪いこと」のように言われているんだが、そんなに悪いことなのかなあというのが私の考え方で、問題は「リクナビ」や「マイナビ」なんかで「誰でもエントリーできる」っていうのが一種の「幻想」を学生たちに持たせてしまい、その結果「裏切られた」なんていう思い違いの批判が出てしまっている、というのがその問題の真相のように思えるんだ。

 何しろ、私たちが就活(なんて言葉もなかった時代だ)をしていた頃なんて「指定校制度」なんてのがあって、初めから「その会社を受けることができるかどうか」が大学によって分けられていた時代だったのだ。そんな立場から見ると「まさしく就活は幻想」、学歴フィルターがあるのは企業側からの「安全弁」であり、そのことに学生が気づかされるのがちょっと遅くなってしまっただけ、ってな具合に思えるんだがなあ。

Photo_2 『学歴フィルター』(福島直樹著/小学館eBooks/2018年6月6日電子版刊)

 ところで「学歴フィルター」ってどんな具合に使われているんだろう。

『・上位大学……入試選抜度、偏差値の高い大学。東大、京大、そのほかの旧帝大、一橋、東工大、及び国公立大、早慶上智、ICU、東京理科大、GMARCH(学習院、青学、立教、中央、法政)、関関同立(関西、関西学院、同志社、立命館)など。

・中堅大学……入試選抜度、偏差値が中位レベルの大学。日東駒専(日大、東洋、駒澤、専修)、産近甲龍(京都産業、近畿、甲南、龍谷)、大東亜帝国(大東文化、東海、亜細亜、帝京、国士舘)など。

・低選抜大学……入試選抜度が低く、偏差値が 40 前後、あるいはそれ以下の大学。時折メディアで話題になる、定員割れで受験生すべてが合格する大学、つまりボーダーフリー(Fランク大学)もここに位置する。』

 なるほど、じゃあ、そんな学歴フィルターってどんな企業が使っているんだろうと思ってみると、意外と予想通りではない。

『大手総合商社や大手マスコミ、大手金融、大手メーカーなどの人気企業の事務系総合職は、熱意のある就活生が集中しハイレベルな競争が繰り広げられている。そんな状況もあり、中堅、低選抜大学の学生の中には最初から諦めて避ける人も少なくない。反対に、中小企業では受けに来る上位大学の学生が極端に少ない。
 その点、大手企業の子会社には上位大学から低選抜大学まで満遍なく学生が受けに来る。上位大学の学生は大手企業の冠に惹かれ、中堅大学、低選抜大学の学生も、あくまで子会社であり大手企業本体ではないので気後れしないからだ。このように幅広く学生が集まる企業において、学歴重視で採用しようとすれば、大手企業以上に学歴フィルターを使う動機が強く生じるのだ。』

 うーん、そうか。結局、学歴フィルターってのは上位企業だろうが下位企業だろうが、関係なくそれぞれの企業で使っている考え方なんだな。

『いまやセミナーや会社説明会はインターネットで申し込む時代だ。企業がインターネット上で学歴フィルターを使うとき、具体的に何をどう操作しているのだろうか。
 人気企業は学生を募集するにあたって、「リクナビ」、「マイナビ」、「キャリタス」など複数の就職ナビを使うことが多い。それぞれの管理画面で応募してきた学生の情報を管理するのは面倒であり、漏れやダブりなどのリスクもある。
 そのため複数の就職ナビを1か所で管理できるソフトウェアがいくつかの企業から提供されている。仮にこれを「Sシステム」と呼ぼう。
 この「Sシステム」を使って学歴フィルターが操作される。

・会社説明会の受け付けにおいて、上位大学60名、中堅大学30名、低選抜大学10名(合計100名)といった具合に、あらかじめ受け付け可能数(枠)を設定する。さらに細かく、東大20名、一橋15名、早稲田50名、慶應50名というように大学ごとに設定することも可能だ。
・就職ナビ自体に「Sシステム」の一部機能を持つものもあり、会社説明会の告知画面を大学や大学群ごとに変えることもできる。告知画面に「早稲田大学の皆さんへ」というような特別感を演出した表現やコンテンツを入れ、好感度を上げて人気企業ランキングで投票してもらおうとする企業もある。
・上位大学→中堅大学→低選抜大学という順番で、時期をずらしてセミナーの案内メールを送る。申し込みは先着順のため、自然とセミナー参加者は上位大学の学生が多くなる。学歴フィルターを使用しなくとも、一般的にセミナーは上位大学の学生が多く参加する(その点、確かに上位大学の学生には熱意がある)。それでも企業が学歴フィルターを使う理由は、万が一、中堅、低選抜大学からの申し込みが多かった場合に備えているものと思われる。中堅、低選抜大学の学生で枠が埋まり、結果的に上位大学の参加者が減る事態を人事は何としても避けたいのだ。
・上位大学生にのみリクルーター面談の案内メールを送り、メールに記載されている申し込み画面のURLにアクセスしてもらい、予約してもらう。』

 っていう、結構、面倒な作業を企業側も行っているんだなあ。まあ、それだけ企業側も「学歴フィルターを使っている」という形でネットで炎上することを避けようってのだろう。実際には学歴フィルターを使いまくっているんだが、それがばれて炎上し企業イメージを損なうことを嫌うんだろう。まあ、企業イメージっていうのは、対象が就活生だけではなくて、一般社会におけるその企業のイメージにつながってくるので、それなりに慎重にならざるを得ない。

 じゃあ、本当に学歴フィルターっていうのはそんなに厳密に使われているんだろうか、っていうとそうではないみたいだ。

『学歴フィルターや学歴差別を乗り越えることは可能だ。実際、私は今まで多数のそのような中堅大学、低選抜大学の就活生を見てきた。上位大学ほどの比率ではないにせよ、事実として中堅大学、低選抜大学から人気企業に内定しているのだ。』

『学歴フィルターで排除され、会社説明会(セミナー)に参加できない場合はどうすればいいのだろうか。簡単である。行けばいいのだ。
「行く? どこにですか?」
 学生はそう疑問に感じるかもしれない。行き先はもちろんセミナー会場だ。たとえWEBの申し込み画面で「満席」と表示されていようと、アポなしで行くのである。人事に怒られるのではないか、などと心配する必要はない。きちんと対応すれば怒られない。
「申し訳ございません。予約はないのですが御社への思いが強く、なんとしても参加させていただきたいと考えて来てしまいました。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。立ち見で結構ですので参加させていただけるよう、ご検討くださいませ」』

 なるほどなあ、企業だって別に大学みたいに「自分の学校の教育レベルについていける人間を学生として採る」んじゃなくて、要は「ヤル気」と「状況に応じた態度がとれる常識人」であれば問題はないわけで、その人がその企業にどれだけ貢献できるかは、いずれにせよ入社してから数年経たなければ分からないのだ。だとしたら、面白そうだからこんな奴でも採ってみようかってな気分にもなろうってもんだ。

 まあ、要は大学入試でも合格してしまったらそこでおしまいなのではなくて、大学でどんな勉強・研究をするのかが大事なのである。それと同じ、というかそれ以上に企業に就職するっていうことは、それこそ「職に就く」ことが大事なのではなくて、その会社で「何をするのか」ということが大事なのだ。

「学歴フィルターがある」の「ない」のってことより大事なのは、「貴方がその企業に入って何をしようとしているのか」ということなんだなあ。つまり、それが明確にあるのであれば、それを企業側に伝えることでもって「学歴フィルター」なんてものは簡単に突破できるんだっていうことを、大学生には知ってもらいたいもんだ。

 たかだか「学歴フィルター」なんてもにのにぶち当たって、それでもって人生を諦めてしまうっていうだけで、貴方は負け犬の人生を送ることになるのだ。

『学歴フィルター』(福島直樹著/小学館eBooks/2018年6月6日電子版刊)

2018年6月20日 (水)

東京周縁部を往く・やっぱり西新井 梅島か

 先週木曜日に現像に出したフィルムを受け取りに池袋まで行ってきた。

 その後は東京の南の方へ行こうかと考えていたんだけれども、何故かビックカメラの前にあるバス停から西新井駅行きに乗ってしまった。まあ、その辺、以前からよく知っている西新井方面なので、行った先で「ロストする」という楽しみはないが、まあ、たまにはそれもいいだろう、ってことですね。

Epsn00202

 終点は西新井駅前。東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の駅であります。

 駅前というか駅周辺は元々日清紡の工場があったところで、そこを大々的に再開発してマンション&ショッピング街として作った街なので、昔日の「西新井」というイメージはなく、まあ「今の街」になっている訳であります。まあ、「西新井新世界」ですね。

 でもね、そこから一歩別の道の方へ入ってしまうと、例えば昔からある「関原通り」なんてところに入ってしまうと、それこそラビリンス。まあ、要は昔からの「場末の商店街」ってもんが今でも残っているんですなあ。

 いやあ、いい感じ。

 でもって、昔の足立区関原三丁目(私が小さい頃は本木町といった)が、その昔のラビリンスのど真ん中だとすると、そんなど真ん中から私は(学校群制度でもって東京都が勝手に決めた)行きたくもない都立足立高校に毎日通ったわけです。

 最初は電車で通ったんだが、梅島で降りても、五反野で降りても中途半端な場所に高校があったので、最後はあるいて通った。今日の写真はそのコース沿いに歩いて撮った写真なのであります。

Epsn00272

 その当時からすると途中の景色は、もうめちゃくちゃなくらい変わっています。まあ、今から50年も前の話だ。変わらなければおかしい、っていうか基本的に「町は変わっていくべきだ」という考え方をしている私としては、久々に行った昔の思い出の町が、過去のままだったらそれはそれで感動するかもしれないが、その一方、その「変わらなさ加減」に相当に苛立つだろう。

 ということで、「変わらない関原」と「変わっていく西新井」の双方を見てきたわけなんだけれども、そう言いながら、地図を見て、自分が歩いているところを見て、自分の居場所を確認するのは、結局、神社とかお寺とか学校なんですね。要は、「昔から場所が変わっていないから」っていうこと。

Epsn00562

 で、昔から場所が変わっていなかったのは、足立区立第四中学校。昔「下町の学習院」なんて言われて、北野武氏がわざわざ越境入学したという足立四中なんですね。

 まあ、その結果として進学した高校が足立高校だってところが、まあ微妙っていうか、何のための四中なんだっていうか。でも、明治大学工学部だからいいのか。

Epsn00502

 で、東武スカイツリーライン梅島駅前から日光街道(国道4号線)に出る辺りにあったのが、ペトリカメラの工場なのでした。現在はマンションになっている。

 ペトリカメラって、カメラメーカーとしては二流で、メインの製品は距離計連動式のレンズシャッターカメラっていう二流メーカーならではのものと同時に、ペトリV6なんていう一眼レフなんかも作っていた、何を目指しているのかがよく分からない変な会社でもあった。

 実は、今日はこれを言いたかったんだよな。

 ペトリカメラの工場は私が高校生のころまでは稼働していた。で、時代は「革命」の時代だったんですね。1960年代から70年代の話。

 1977年に労働争議が原因でペトリカメラは倒産(っていうか経営者が情熱がなくなって経営を辞めた)、でもその後、労働組合の手によって会社は再建、っていうか組合が運営する形でもって会社経営を始めたんだけれども、労働組合って「個人」で責任を負うという体制じゃないんで、結局、ペトリカメラ自体が、完全に倒産してしまったんですね。

「っていうか」まさしく「強者どもの夢の跡」ってことなのかなあ。「っていうか」

Epsn00532

 その後、その残滓を買うような人は出なくて……、そのまま。「っていうか」

 まあ、そうやって歴史から姿を消してしまう企業もあるってことですね。

 本当に、ムチャクチャになって、何にも形を残さなくなって、「無くなっちゃう企業」ってのもあるんですね。

(合掌)

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER 12mm f5.6 @Sekibara Umejima Adachi ©tsunoken

2018年6月19日 (火)

「BULL!」な週末

 6月16日はXリーグ、春の公式戦パールボウルの東日本交流戦という名の実質ドベ決定戦。Aグループ第3位明治安田PentaOceanパイレーツ対Bグループ第3位BULLSフットボールクラブの試合は21対9でパイレーツ、Cグループ第3位の電通クラブキャタピラース対Dグループ第3位のアサヒビールシルバースターは13対10でシルバースターが勝って、、ABグループとCDグループの最下位が決定したんだけれども、じゃあBULLSと電通のどっちが弱いのかという、東日本最弱チーム選びは行わないというのはXリーグの親心というのか、あまり物事ははっきりさせないほうが良いという日本的解決方法なのかは知らないが、まあ、そんな情けない結果ではありました。ので、BULLS応援団の私としては土曜日のゲームレポートは割愛して、トヨタのル・マン優勝という話題を取り上げた。

 で、昨日は今年初めての長岡は山古志牛の角突き(闘牛=BULL FIGHTING)観戦に行ったので、まあ、ここはBULLつながりということでブログをお読みください。

 大阪の地震のことに関してはいずれ書くとして……。

Dsc_00372

 毎年、越後の牛の角突きは5月のゴールデンウィークの時に初場所が行われ、今年は5月3日に小千谷、5月4・5日に5山古志で闘牛が開催された。が、どうにもこのゴールデンウィークの時は関越高速道路が超ラッシュになって、行きも帰りも時間が読めないということもあって、今年は5月の観戦はあきらめた。

 で、今年に入って山古志闘牛としては四場所目になる6月17日の開催に出かけたんだが、さすがに5月の初場所に比べると牛たちも相撲に慣れてきたようで、5月場所ではなんとなくまだ本気になれなかった牛たちも少しはその気になって闘ってくれているようだった。

 まあ、その辺が5月より6月場所を見てよかったと思える点かな。

Dsc_00252

 と思ったら、会場受付に金髪のお嬢さんが……。日本語も流ちょうな人で、随分長く山古志にいるのかもしれない。

 以前、私の大学時代の悪友たちで行っているラドリオ会の旅行で赤城温泉に行ったときに、その温泉旅館でクロアチアから日本に来ている女子留学生がインターンで働いているのに出会ったことがある。そんな感じで上の金髪のお嬢さんも長岡に滞在して民俗学の研究でもやっている人なのかもしれない。あまりお話ができなかったのは残念だったが、まあいいさ、また山古志に行ったら会えるからね。その時に聞いてもいいだろう。

Dsc_00582

 ということで闘牛なのだが、相変わらずの山古志闘牛ブログのブログ主にして、山古志闘牛の勢子長「あっちゃん」の名調子でもって牛の角突き開始。

Dsc_01372

 三歳四歳の若い牛たちの、鼻綱をつけたままの闘いから17歳の超高齢牛と11歳の盛りの牛との闘いまで全15番。さすがに6月に入って今年の闘いにも慣れてきているので、初めっからかなり激しい闘いの連続で、結構楽しめる戦いが多かった。

Dsc_01662

 次は小千谷の牛の角突きなんだけれども、いつ行こうかな。まあ、今年はあと15回の場所開催がある。

 これからは以前みたいに年間5~6場所は見に行かないけれども、最低でも山古志、小千谷それぞれ一回以上は行こうと考えている。

Dsc_01442

 まあ、次は暑い夏を避けて、秋口かな。

NIKON Df  AF NIKKOR 80-200mm f2.8 ED @Yamakoshi Nagaoka ©tsunoken

2018年6月18日 (月)

TOYOTA GAZOO RACINGル・マン初優勝! の意味

 ハッキリ言って、私はトヨタ・ファンではない。持っていた、乃至、持っているクルマに関しても、これまでトヨタ車は一切ない。

 何故か? う~ん、一言では言えないんだけれども、なんか「トヨタの全能感とか、それでいて完璧な『日本の会社」感」みたいなのが嫌いだったんだろうなあ。

 トヨタに対する(対していた)ニッサンのモットーは「技術の日産」で、その日産が技術を注いで成し遂げたのがサファリラリーだった。世界ラリー選手権じゃなくてサファリラリー。つまり、その当時、日本のクルマファンにとってはラリーだろうが、スポーツカーだろうが、勿論、F1なんかは問題外。まだまだ、世界水準に達していない日本のモータリゼーションでは、世界ラリー選手権の中の特に一番特殊だったサファリラリーだって、そこで優勝すれば「相当なもんだ」ったわけなんですね。

 その当時、トヨタは海外レースには目を向けず、国内の日本グランプリを頂点とするレースに地道をあげていた。まあ、まだまだ海外マーケットに目を向ける時代ではないという判断だったんだろうけれども、一方、日産や三菱は海外レースにも通用するようなマシン開発を、(会社全体ではなかったけれども)社内有志が携わる形で行っていた。結局、その程度の規模では世界のメーカーチームに対抗することはできずに、一方、日本国内ではトヨタが圧倒する形でモータースポーツは動いていたのだった。

「う~ん、そんな海外で通用するものじゃなくて、日本国内だけでしか通用しないモータースポーツやってて、何の意味があるの?」

 というのが、当時のモータースポーツファンたる私の本音だった。それでいて「お客様のご要望にすべてこたえるトヨタ」的な全能感が、本当に嫌いだった。当時、人気だったヤマハ製のツインカム2T-Gエンジンを搭載したカローラ・レビン、スプリンター・トレノ、セリカGTなんかがラリー屋さんの中では人気だったんだけれども、へそ曲がりの私は、シングルカムの日産車でどうやって戦うかってことに夢中だった。

 まあ、だからと言ってトヨタ車に勝つには、私のド下手な腕前じゃ、まず問題外だったんですけれどもね。

Df5uaqfx4aafhlx

 そんなトヨタが変わったのは、やはり創業者の家系の豊田章男氏が社長になってからではないだろうか。

 2009年にトヨタの社長に就任した豊田章男氏は、まあさすがにお坊ちゃんだけあってまずなにをやったかというと、自動車レースだったんですね。

 勿論、豊田章男氏がレースで勝てるはずはない。ポイントは「自動車メーカーにとってレース活動は、企業文化として大事にしないといけない」という点に気づいたというところではないだろうか。トヨタが一時期チームトヨタヨーロッパー(TTE)でもって世界ラリー選手権に参加していた時期だとか、ホンダが負けても負けてもF1に参加し続けるっていうことも、モータスポーツの文化としての重要性や、メーカーとしてそうした「文化」に携わることの重要性を感じていたからなのではないだろうか。その辺の感じを日本にあるトヨタ本社は実はあまり認めていなかったんですね。実際、モータースポーツなんて単なる「金食い虫」でしかなく、その結果が直接セールスに繋がっているわけでもない、というのは「モータースポーツの文化としての重要性と、そうした文化をメーカーが内部に持つ必要性」を理解できないメーカー本社の考え方なんだったんじゃないか。

 その辺が豊田章男氏が社長になって、TOYOTA GAZOO RACINGを始めてから変わった来たように見える。「別に、勝って・製品の販売促進になる」からモータスポーツをやるんではなくて、それは自動車で稼いでいる自動車メーカーだから、そうした「文化」に触れている必要があるんだ、という考え方。

 勿論、トヨタがル・マンに参加したのは豊田章男氏が社長になってからではない。1987年にトヨタ・チーム・トムス名義で参加した時が、トヨタがル・マンに直接的・間接的にかかわるようになった最初だ。それから30年、いろいろなチーム名を使いながらワークス、セミワークス活動でル・マンに参加してきたトヨタである。

 今年は、ポルシェがワークス参加がなかったからとはいえ、とりあえずはワンツーフィニッシュという結果には、とりあえず「おめでとうございます」と言っておこう。

 仮にライバルがいなかったからとはいえ、それでも30年間続けて参加してきた結果がワンツーフニッシュなんだと思えば、それはそれでめでたいことではある。

 ル・マンは世界耐久選手権(WEC)の一戦にしかすぎないけれども、でも、やっぱりル・マンはル・マンなんだ。当然、来年のル・マンに向けて再びポルシェが復活することもあるだろうし、その他のヨーロッパやアメリカのメーカーだって、手をこまねいているわけではないだろう。

 チャンピオンになることよりも、チャンピオンの座を守ることの方がずっと難しいという。その意味では、トヨタにとって既に来年のル・マンに向けての作業が始まっているんだろう。

 来年は、トヨタはどんなマシンでもってル・マンに挑むんだろう。

2018年6月17日 (日)

GM、新CFOに39歳のインド出身女性

 実は今日は別のネタで書くはずだったんだけれども、Xリーグ2018パールボウルの東日本交流戦という名の、要は「ドベ決定戦」が昨日行われたんですね。で、東日本のXリーグ4ブロックのうち、Aブロック最下位の明治安田パイレーツと、Bブロック最下位のBULLSフットボールクラブの試合。まあ、BULLSとしては今シーズン初のタッチダウン、初のフィールドゴールということで、この春シーズンはすべて無得点だったのに比べれば、とりあえず得点出来たただけでもめっけもんってなもんなんだろうが、でもねえ、見ている方としては、まあ、あまり盛り上がらないわけです。

 ということなので、昨日撮影してきた写真は封印! 試合レポートも封印! ということにして、別ネタを書きます。

 一昨日の日経新聞に載っていた記事がコレ。

『GM、新CFOに39歳のインド出身女性
2018/6/14 3:44

【シリコンバレー=白石武志】米ゼネラル・モーターズ(GM)は13日、ディビア・スリヤデバラ副社長=写真=が9月1日付で最高財務責任者(CFO)に昇格すると発表した。インド出身の39歳で、GMがCFO職に女性を起用するのは初めて。メアリー・バーラ最高経営責任者(CEO)とともにモビリティ(移動)サービス企業への変革を指揮する。

Photo

 スリヤデバラ氏はインドのマドラス大学を卒業後、米GM、新CFOに39歳のインド出身女性ハーバード大学で経営学修士号(MBA)を取得した。2005年にGMに入社してからは財務部門を歩み、17年の独子会社オペルの売却や、今年5月に発表したソフトバンク・ビジョン・ファンドによるGMの自動運転技術開発子会社への出資などで重要な役割を果たしたという。  現CFOのチャック・スティーブンス氏は退任後、19年3月まで顧問として残る。GMでは現社長のダン・アマン氏が11年に38歳でCFOに就任した例がある。』

 今や女性がCEOや社長になっても誰も驚かないアメリカの企業なんだけれども、GMのようなアメリカを代表する重厚長大産業で「インド出身」の「若い女性」がCFOになったっていうニュースは、さすがに先進の国アメリカらしいっていうか、なんかそんな気持ちになる。

 トランプ氏が大統領になって、なんか以前の男性社会に回帰するような気がしていたアメリカで、なおかつGMのような旧来の産業でもってこうした先進的な改革が行われるっていうところがアメリカの力強さなのかもしれない。

 日本のトヨタとかパナソニックで、こうした東南アジア出身で、日本の大学に学んだ若い女性が社長になるなんてことが、今現在予想ができるだろうか。まあ、ここ10~20年ではないでしょうね。

 この辺がアメリカと日本の相互間での社会の先進性の違いなのだ。今や重厚長大産業の塊みたいに見えて、一部のIT関連以外はもはや滅びてしまうのではないかと考えられていたアメリカの基幹産業でもこうした新しい動きが見えているというのは、さすがにアメリカ企業の先進性っていうのが今でも残っているんだっていう認識を新たにさせる。

 GMはCEOもメアリー・バーラという女性だし、もともと企業集団だったGMとしてはフォードのような「創業家」といったような意識も低いんだろう。そんなこともあっての結果として、CEO、CFOが女性ということになったのだろう。

 はたして日本の企業でここまで思い切って(っていうほどじゃないんだけれどもね、実は)人事改革ができる企業はどこまであるんだろうか。っていうか、まあ、いまだに「女性取締役が何パーセントいるか」なんてことが話題になる国なので、当分、こうした大変革は無理だろうなあ。で、その無理な時間が続けば続くほど、日本はダメになるっていう構図なんだろうなあ。

 もう、いい加減に「男社会」っていうクダラナイものはやめましょうよ。

2018年6月16日 (土)

東京周縁部を往く・成増飛行場滑走路

 練馬区に光が丘団地ができて入居が開始したのは1983年のことだった。

Dsc_00022

 広大なアパート群で、出来た当初は「こんなに同じような建物ばっかりで、酔っぱらって夜中に家に帰って来た時に、自分が住んでいる建物がどこにあるのかわかなくなってしまうのでは?」なんて心配(?)もしたんだけれども、まあ、高島平団地だって松原団地だって同じようなものなんだから、まあ、それは杞憂ってもので、皆家を間違わないで帰れたらしい。

Dsc_00102

 で、この光が丘団地と隣にある光が丘公園って、もともとは飛行場だったっていうのは、今やあまり知られていない。

 下の写真にある団地の中心街のまっすぐなプロムナードが、実は「帝国陸軍成増飛行場」の滑走路だったんである。

Dsc_00192

 そもそものきっかけは太平洋戦争中のドーリットル中佐を隊長とする、米空母発のB25による東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を対象とした、それこそ「特攻的な空襲」があった。それに慌てた日本政府は首都空襲に対抗するための基地として成増飛行場を整備し、首都を爆撃するB29への特攻作戦を始めた。

 下の写真は、戦後米軍に接収されて「グラントハイツ」となり米空軍の家族たちが住む、居住区となった。私は「グランドハイツ」だと思っていたが、第18代アメリカ大統領のグラント将軍にちなんで命名されたらしく、「グラントハイツ」が正しい名前だと知ったのはつい最近のこと。

Photo

 写真の真ん中にある広くて真っすぐな土地が、もともと成増飛行場の滑走路だったところ。上の方は光が丘公園になっているのでいまや滑走路の跡形もないが、下の方がプロムナードになっている。

Dsc_00202

 1973年にグラントハイツがアメリカから返還になり、当時の東竜太郎都知事はすべてを居住区とする構想だったが、その後の美濃部都政になり北半分を公園とするように変更。その結果、居住人口は当初70,000人を想定していたんだが、実際にはその半分になってしまったらしい。

 団地ができて既に35年。町を歩くと高齢者の姿が目立っている。賃貸住宅の方は少しづつ入れ替えもあるようだが、出来て当初からの高齢化した居住者対策が現在の喫緊の課題のようだ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Hikarigaoka Nerima ©tsunoken

2018年6月15日 (金)

戸越には「文庫の森」ってのもあったのだ

 東急大井町線で戸越公園まで行って「文庫の森」まで行ってきた。

 まあ、なんとなく「文庫」って言葉にひかれて興味を持ったんだけれども、実はこの「文庫の森」、一年前に書いた『戸越公園というか肥後熊本細川屋敷』と同じ、明治になって三井家が所有していた、「戸越公園」の一部だったんだ。

Dsc_00292

 要は、朝起きた時の思いつきでもって、その日の取材先を決めて、なおかつ行った先では行き当たりばったりで撮影をしている、っていうことの悪い癖がでてしまった、っていうわけなんですね。

Dsc_00342

 上の戸越公園の記事の一部か、あるいは次の日の記事としてこの「文庫の森」のことを書けばよかったのに、なんてまあ無駄なことをやってしまったんだろう。まあ、何をおいても基本的には予備取材をキチンとやって、今日の取材先の周辺には何があるのかを確かめてから、撮影行を始めればいいのにね。

Dsc_00362

 この戸越公園は、江戸時代に熊本藩主。細川家の下屋敷があったところだったんだけれども、その後、所有者が松江藩や出羽上山藩などを経て、明治維新後は久松伯爵、吉井幸蔵伯爵、彫刻家の堀田瑞詳などの所有を経て、1890年に三井家に移り、1932年に三井家から当時の荏原町に庭園部分が寄付されて東京市立戸越公園となった。

Dsc_00372

 で、この「文庫の森」も、東京、京都、大阪、松阪の各地に散在していた三井家史料を収集、整理するとともに、「三井家史」の編纂を目的に作られたものなのだが、その後、国文学研究資料館として使われるようになったという、戸越公園一帯の一部だったんだ。

Dsc_00202

 まあ、要は東京の東や北の方にやたら所有地が多くて、その大半を東京市などに寄付しまくってきた三菱の岩崎家みたいな存在が、東京の南の方、荏原地域の三井家ってわけなのか。

Dsc_00222

 昔は第一書庫と第二書庫があったらしいのだが、現在残っているのは第二書庫の方だけ。でも、当時は珍しい鉄筋コンクリート製の建物は、関東大震災や第二次世界大戦の空襲にも耐えた頑丈な建物だったそうだ。

Dsc_00392

 あれっ? でも、東京の北の方、目白にある日本女子大も三井家の土地だったんだよなあ。う~ん、一体。当時の財閥って、どれだけの財産を持っていたんだろう。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Togoshi Shinagawa ©tsunoken

2018年6月14日 (木)

清水は清水市だったほうが良かったんじゃないか?

 静岡から清水へは静鉄に乗って、新静岡駅から新清水駅まで行く。

 この静鉄ってのは典型的なローカル線なんだけれども、なかなか「いかにもローカル!」っていう情緒に溢れている電車でいい雰囲気だ。

Epsn00012

 おまけに新静岡といい、新清水といい、それぞれのJRの駅からの適当な距離が良い。まあ、考えようによってはJR駅と直結の方が良いのでは? とも思うのだが、敢えてそうしなかったところに静鉄側の何か「意思」というものを感じさせるのである。

「おれはJRの付録じゃねえぞっ」的なね。

 その辺は「清水の次郎長」と「ちびまる子ちゃん」の清水みたいで、いいぞ! ってなもんなんだったんだけれども……。

Epsn00392

 で、かなり立派になったJR清水駅なんだが、問題の清水駅前がどうにもならない。

Epsn00352_2

 要は人が歩いていないアーケード街なんだなあ。駅前が立派になって、大きなビルなんかもできたんだが、大半はマンションで(多分)静岡市の葵区あたりに通う人が住んでいるだけだし、その分、とにかく町を歩く人がどんどん少なくなってきているんだ。

 これって何故? まるで前橋じゃん、ってところですね。

Epsn00202

 問題は2003年の平成の大合併でもって、当時の清水市が静岡市に併合されてしまい、静岡市清水区になってしまったこと。元々の静岡市だった静岡市葵区、静岡の郊外だった静岡市駿河区と並列する「静岡の一部」になってしまったことではないか。

Epsn00152

 元々、大都市静岡市にはかなわないけれども、小糸製作所っていうクルマのシールドビームの一大メーカーを抱えているし、清水エスパルスのスポンサーである鈴与倉庫グループ(いまや航空会社まで持ってます)なんかを抱える静岡県の大きな港町だった清水市が、何故、静岡市の一部になってしまったのかはよく分からないが、そもそもその判断が清水市を弱体化させたことだけは間違いない。

 清水は静岡の一部分、住宅街ではないのだ。もっと清水市として自立する道を歩まなければならなかったんではないか。

Epsn00052

 なので、今や昔の清水の中央街である清水銀座もほれこの通り。

Epsn00062

 昨日も触れた戸田書店の本店ですら、もはや店を閉めてしまったじゃないか。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shimizu Shizuoka ©tsunoken

2018年6月13日 (水)

静岡呉服町の老舗書店は何処へ?

 ということで静岡市葵区呉服町なんだが、なんか昔とはだいぶ様相が変化しているのだった。そりゃそうだよな、以前よく行っていたのは今から何年も前のことであり、もはや昔の静岡市呉服町商店街じゃないもんなあ。

Epsn00572

 2010年4月1日のブログに『地方都市によくある「シャッター通り」なんてのは静岡には関係なく、とにかく静岡の人たちは町に出ることを「呉服町に行く」という言葉であらわすように、呉服町商店街は静岡の人たちに愛されている商店街のようである』なんて書いたり、2013年7月20日のブログで静岡の人な流れの変化について書いたんだけれども、たしかに呉服町の人出は変わらないのだけれども、どこか人の動きが変わっているような気がする。

Epsn00332

 呉服町商店街で本屋さんと言えば老舗の「谷島屋」と「江崎書店」だったんだが、いまやその双方とも呉服町にはない。

Epsn00472

 谷島屋はゲームセンターになっているし、江崎書店はドラッグストアになっている。

Epsn00352

 両方とも店そのものがなくなってしまったわけではなくて、まあそれらの店は売り上げが下がったからとかという理由で閉店してしまっただけで、本店や外商部などはこの店舗の裏の方で営業していたり、移転して営業していたり、ってことのようだ。

 つまり静岡の人たちが「呉服町へ本を買いに行く」っていう行動をとらなくなってしまったってことなんだろうなあ。つまり、本っていうのは「何かのついでに買うもの」で、わざわざ本を買いに町の中心まで出ていかなくなってしまったのかもしれない。

Epsn00222

 唯一残っているのが、静岡市美術館が入っている静岡駅前にある静岡で一番高い葵タワーに出店している戸田書店だけになってしまった。ただし、ここは呉服町からの並びではあるが呉服町商店街ではない。

 ということで、今や静岡市葵区呉服町商店街には一軒の本屋さんもないってことになってしまった。だからどうなんだ、って、今やすっかり電子書籍派になってしまった私が言うことではないが。

Epsn00072

 静岡駅ビル「パルシェ」に入っているのも江崎書店だったのが、いつの間にか谷島屋になってしまった。

 まあ、谷島屋は静岡で一番大きい書店チェーンだし、本店も浜松なのであまり気にはならないが、江崎書店がちょっと心配だなあ。もっとも、江崎氏そのものは新聞店とかいろいろなビジネスをやっている人なので、そちらの方はあまり気にはしていないがね。従業員はどうするのかね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shizuoka ©tsunoken

2018年6月12日 (火)

駿府城と静岡市

 何年振りかで静岡へ行った。

 町自体の造りとか雰囲気は、昔私がよく行っていた頃からはあまり変わっていないのだが、その町を構成する店のあり方なんかは随分変わっている。というレポートの前に、とりあえず静岡という街についてのご紹介。

Epsn00142

 静岡駿府城と言えば徳川家康が将軍職を二代将軍秀忠に譲ってからは、ここ駿府城に住んで「大御所政治」を行った場所として知られるが、元々は今川氏の館があったところ。勿論、今川氏が治めていた頃はまだ天守などはなく、今川館と呼ばれていた。

 もともと若い頃に今川に人質として囚われていた家康なんだが、長じて再びそこに住むということは、それだけ今川捕虜時代をそれほど嫌ではなかったということなんだろうか。天守や二重の堀ができたのは家康がこの城を手に入れてからのことであった。

 ところが徳川歴代将軍は別に駿府には興味がなかったようで、徳川の(元)将軍が再び駿府に入ったのは、十五代慶喜が明治二年に大政奉還をやって自ら政治の表舞台から身を退いて、「長い長い余生」に入ってからのことであった。

 薩長の芋侍が始めた藩閥政治は、まだまだたかだか150年だが、徳川幕府の時代は300年も続いたんだぞ、というのが静岡市民と江戸町民の誇りか(?)。その最後の名残が静岡駅前にある。

 下の写真の「料亭 浮月楼」が、徳川慶喜が駿府に蟄居していたときの屋敷で、現在は慶喜が住んでいた頃に比べると随分狭くなっているが、料亭の座敷やレストラン、バーなど、今でも静岡の高級社交場として存在しているのはサスが。

 その後、慶喜は静岡からも追われ、東京の巣鴨や小日向に移り住んだのは有名な話。

Epsn00192

 で、静岡一番の商店街と言えば「呉服町」であります。

『呉服町は江戸時代の交通の大動脈「東海道」に面しており、多くの人が行き交う「賑わいの場」、「交流の場」でありました。東海道は、七間町を通り札の辻で高札を見てから呉服町四丁目に入り、六丁目まで進んだ後、伝馬町方向へと曲がるコースがとられていましたが、最初は、七間町ではなく、本通りを通って呉服町一丁目へと入るコースがとられていたようです。その時代から、呉服町は東海道沿いの駿府の中心商店街だったのです。』(静岡市の説明板より)

 いまから10年ほど前までは、この呉服町商店街が日本でも有数の人出を誇る商店街だったんだが……。というお話の続きは明日のココロだぁっ!

Epsn00592

 しかしまあ、お役人の考え方って昔から全然変わっていないんだなあ、という証拠。

Epsn00602

 別に駿府城の中に県庁を作らなくてもいいでしょ。

Epsn00702

 まあ、外堀と内堀の間で、天守閣なんかがあった場所ではないというところが唯一の救いなんだが、結局権力者なんてものはバカなもんで、結局。昔の権威にすがっちゃうんだなあ。

Epsn00782

 あ、上の写真は別に意味はありません。静岡雙葉学園の御堂です。実は、この学校も内堀と外堀の間にあるっていう意味では、東京は四谷雙葉学園と同じなんですね。さすがに姉妹校。って、何を言ってるんだろうね。

Epsn00672

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Shizuoka ©tsunoken

2018年6月11日 (月)

デビッド・ダグラス・ダンカン逝く

「ライフ」誌のカメラマンとして知られ、第二次世界大戦の降伏文書調印のミズーリ号艦上で署名の写真で有名な、朝鮮戦争やベトナム戦争の戦争写真で知られるデビッド・ダグラス・ダンカンが、南フランスの病院で逝去した。享年は102歳だったそうだ。

Rimg00032 『Photo Nomad デビッド・ダグラス・ダンカン写真集』(デビッド・ダグラス・ダンカン著/求龍堂/2003年12月6日刊)

 デビッド・ダグラス・ダンカンと言えば、日本のニコンを世界のニコンにした大立役者として知られている。

『ライフの報道カメラマンであった三木淳が、1950年のある日、敗戦後の日本を紹介するためにライフから派遣されてきたデイビット・ダンカン(David Douglas Duncan)とコーヒーを飲んでいた。三木は戯れに自分のライカ3Cに、友人が持っていたニッコール85mmF2をつけてダンカンを写した。ダンカンは「Oh Japanese Sonnar?」と笑っていたが、その時はそれほど関心を示さなかった。ところが翌日、引き伸ばして彼に見せると、ダンカンはびっくりした。これがあの時のニッコールかと信じられない風であった。

 三木はダンカンを連れて大井の日本光学をたずねた。出迎えた長岡正男社長は、投影検査室へ彼らを案内して、数本のニッコールレンズでチャートを投影して、解像度、収差などを確認させた。その優秀な値を目の当たりにして、ダンカンはびっくり、さらに自分のライツのレンズも試したが、ニッコールの数値がそれを上回ったのには信じられないという風情であった。彼はその場で数本のニッコールを買い求めた。

 そんなことがあってすぐ、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。東京のタイム・ライフ支社は大忙しになった。カメラマン達は、朝鮮戦線で撮った写真を東京へ持ち帰り、三木達がそれを引き伸ばして、電送でニューヨークの本社に送る。1日の時差があるから、当日のニューヨークタイムス朝刊の1面を飾るのである。もちろんライフのクレジットを付けて。

 タイム・ライフ本社から問い合わせがきた。このレンズはいつものレンズとは違って大変シャープだ。一体何を使っているのだと。ダンカンは日本のニッコールだと返信した。ニューヨークタイムスが12月10日号でそれを大々的に報じて、ニッコールは一躍世界の舞台に躍り出た。ニコン神話の始まりである。この時ダンカンはライカ3Cにニッコールを付けて撮ったのだが、彼に続くカメラマン達は争ってニコンSとニッコールを買い求め、さらに評判を確固たるものにしていく。

 それまでは「安かろう、悪かろう」と言われたMade in Japanだったが、これを契機にそのイメージはがらっと変貌し、世界に冠たるMade in Japanとして羽ばたくのである。物作り日本の原点がここにある。』(「クラシックカメラ銘々伝」より)

Photo

 ニコンは当然のことながらダンカンへの謝辞を含めて以下のような弔辞をサイトにUPした。

デビッド・ダグラス・ダンカン氏のご逝去の報に接して
2018年6月8日
この度の訃報に接し、痛惜の念に堪えません。
ダンカン氏は1916年生まれ。アメリカの報道写真の第一人者であり、従軍写真家として太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争などを撮影、その作品はニューヨーク・タイムズ紙、ライフ誌などに発表されました。 またピカソの肖像写真の撮影でも知られています。
1950年、ライフ誌の写真家として来日した折、NIKKORレンズの高い性能を見いだし、ニコンが世界に認められるきっかけを生み出した、ニコンにとっての大恩人です。
その後も報道写真家として活躍するダンカン氏とニコンは、長きに亘って絆を深めてまいりました。ここにあらためて、享年102歳のダンカン氏が世界のジャーナリズムに与えた多大な貢献を称えるとともに、互いに一世紀以上を生き抜いてきた盟友として、心からのご冥福をお祈りいたします。』

Photo_2

 まあ、我々のような素人カメラマンからすれば、「戦争フォトグラファー=デビッド・ダグラス・ダンカン」は余りにも偉大な存在で何も言うことはできないが、その一方では、「なあに、生まれた時代が良かっただけなのではないか。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争という、まさしくフォトグラフィックな対象に恵まれた時期に生を受けたからこそなんだ」という思いもある。

 いやいや今でもアジアや中東では戦火は絶えない、戦争カメラマンになる方法はいくらでもある、というけれども別に戦争カメラマンを本人が目指すということもないだろう。むしろ、気が付いたら戦争カメラマンになっていたというのが実際のところ。今でも、戦争の姿を求めて赴いているフォトグラファーは、たしかに多くいるんだろうかれども、そんな有様を日常的に見ていると、もしかすると戦争自体が日常的な姿に見えてしまうようになるのかもしれない。まあ、そうなってしまうと戦争ジャンキーなんだが、そこに至る少し前で自分を抑えている人たちが、いわゆる「戦争カメラマン」なのだろうなあ。

 1930年代の若い頃、(今では)大型の乾板カメラを構えるダンカンの姿に始まって、1940年代に戦争カメラマンとしての生活をスタートしてからのライカやローライフレックスを構えたスタイルから、最後はライカのコンデジX2を構えているダンカンという、なんかコンパクトカメラの歴史そのものみたいな写真集ではある。

 最後は愛犬トールの写真、「もう一度、グッドバイ。トール。君のポートレイトは今でもお気に入りだ。」

『Photo Nomad デビッド・ダグラス・ダンカン写真集』(デビッド・ダグラス・ダンカン著/求龍堂/2003年12月6日刊)

2018年6月10日 (日)

船橋じゃなくて西船橋、山野浅間神社

 久々のカラーです。別に意味はありません。たまにはね……、っていうだけのこと。

 で、何故、船橋じゃなくて西船橋なのだろうか。船橋はもちろん船橋市の中心地で、船橋にはJR総武線(快速・緩行)、東武野田線(アーバンパークライン)、京成本線の三つの路線の駅があり、既に街として大きく発展をしている。そこに東京メトロ東西線などが乗り入れるスペースがなかったため、お隣の駅、西船橋に白羽の矢が立ったわけなんだ(ろう)けれども、その結果、西船橋はJR総武線(緩行線のみ)、JR武蔵野線(京葉線)、東京メトロ東西線、東葉高速鉄道が乗り入れ、更に駅の外には京成本線の西船駅があり、結構、それなりに大きな乗換駅になったのである。これだけの路線が乗り入れている駅も首都圏では珍しい。

 ところが、それだけの路線が乗り入れている割には駅前は実に寂しいまんまなんですね。メインの北口の駅前にしてこの程度だし、南口なんて駅前にはほとんど何もない。

 昔は「西船橋」っていえば、京葉道路の西船橋インターチェンジそばのラブホテル街が有名だったんだけれども、それは駅のそばではない。駅のそばにもラブホテルはあるんだが、まあ、あまり目立ってはいない。

 まさしく、単純な「乗換駅」ってことなんでしょうか。つまり、駅で降りる人たちは、駅の外に出ないで、そのまま別の路線に乗っちゃうってことで……。

Dsc_00022

 で、駅から北へ上がって(というか本当に少し標高が上がっている)千葉街道(国道14号線)の方へ上がってそこを船橋方面へ歩いてみる。JR線が走っている場所からすこし標高を上がった部分に千葉街道が走っており、そこからまた少し標高が上がったところが、街の中心部だ。

 つまり、現在の千葉街道あたりが、品川あたりの旧東海道と同じく、海岸線の街道で、そこからまた少し上がったところに町があったんだろう。

Dsc_00232

 で、千葉街道を京成線の海神駅方面へいくと途中に出てくるのが「山野浅間神社」である。う~ん、やっぱり京成線の方が、昔の町に近い方を走っているのかなあ。何せ近いのは「海神」です。「ポセイドン」です。海の神様です。あれ? なんで「山野神社」なんだろう。

Dsc_00412

 入り口の山門があるのだが、そこからどんどん坂を上がっていく感じで、その頂上に達すると本殿がある。

 浅間神社なので当然富士塚があり、やはり富士講やら、山開きなどの一連の富士神社らしい行事があるようだ。

Dsc_00272

 で、この山野浅間神社の一番の特徴っていうか、「売り物」(とは謳っていないが)が神社本堂を背にした光景なのである。

Dsc_00442

 まあ、今となっては見ることはできないが、実はこの本殿へ至る途中の坂から、遠く江戸湾(東京湾)を挟んで富士山が見えたそうな。

Dsc_00572

 今は途中にビルなどが建ってしまっていて、富士山などは望むべくもないが、標高30メートルほどあって、目の前がすぐに江戸湾、でその先にも大きな家などない時代、まあ、富士山が見えてもおかしくはないことを想像させる。

 まあ、現代でもお正月あたりの晴れた日にそんなことがあってもいいとは思うんだけれどもね。

 とりあえず「山野神社」と「海神」の関係には、また今度の取材で調べます、っていう他ないかな。    近いんだよな……。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Funabashi ©tsunoken

2018年6月 9日 (土)

鳩ケ谷宿と鳩ケ谷駅は少し離れている

 鳩ケ谷は、川口宿(川口市の中心部)と大門宿(さいたま市の浦和美園付近)に挟まれた日光御成道の三番目の宿場町だった。

 日光御成道というのは徳川将軍が家康を祀った日光東照宮を詣でる際に使った道で、本郷追分で中山道から分かれて、岩淵、川口、鳩ケ谷、大門、岩槻(岩槻城)、幸手と通って、幸手から先は日光街道に合流した。

Epsn00662

 東京メトロ南北線は赤羽岩淵から先は埼玉高速鉄道になって浦和美園まで行くんだが、当然その道筋は現在の道、つまり岩槻街道(国道122号線)の下を走っていて、昔の日光御成道の下は走ってはいない。

 まあ、それは当たり前ですね。そんな昔の街道筋の下を掘ったら何が出てくるか分からない、そのたびごとに工事は中止ですからね。

Epsn00622

 で、埼玉高速鉄道鳩ケ谷駅から鳩ケ谷宿のあった場所に行くには少し歩かなければならない。

 といっても、駅を出て少し北へ行くと「見沼遊歩道」という、見沼用水の脇の道を歩くことになる。ちょうどこの用水路脇が台地と低地の境になっていて、すぐに場所がわかるのはありがたい。で、この昔からの用水に沿って歩けば、いやでも昔の遺構なんかにぶつかるわけです。

Epsn00722_2

 で、ほんのちょっと見沼遊歩道を東へ歩くとすぐに日光御成道にかかる吹上橋のたもとに着く。

Epsn00752

 橋を渡るとちゃんと「一里塚跡」があります。日光御成道、最初の一里塚は中山道の最初の一里塚と同じで、本郷追分の高崎屋の前、二番目が飛鳥山の手前の西ヶ原一里塚。ただし、本物の一里塚は日光御成道の場合、岩槻宿の先の幸手に近いところまで行かないとありません。あとは碑だけ。

Epsn00912

 で、坂を少し上ると坂の途中に鳩ケ谷宿跡が。ただし、本当の宿場跡はもう少し坂を上がった場所です。

Epsn00832

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Hatogaya Kawaguchi ©tsunoken

2018年6月 8日 (金)

赤羽岩淵

 別に、東京メトロ南北線シリーズのつもりはないんだけれども、何故か一昨日は浦和美園だし、明日は下手をすると鳩ケ谷だし、なんか私の家のそばでテーマをこなしているようなテイタラク。

 ウ~ム、何とかセネガル。

Epsn00102

 しかし、赤羽は面白い町なのだ。

 と言っても東口の方ね。西口はもともとは商店街じゃなくて、赤羽台へ上がる住宅地の入り口だったし、ちょっと十条方面へ行くと、まさしく武蔵野丘陵の一番東の端っこという河岸段丘のありさまがよく見える町なのだ。

Epsn00082

 で、一番面白いのが「赤羽1番街」。「一番街」じゃなくて「1番街」。

Epsn00162

 もう、真昼間っから飲み屋は開いているし、おまけに「センベロ」(©なかじまらも:千円でベロベロに酔っぱらえる)と言われているくらい、酒が安い。というか「そこで飲む酒が安い!」

Epsn00192

 カメラを向けても誰も嫌がらない……、ってそうか、既に酔っぱらっているので、レンズが自分の方に向かっているのにも気が付かない、ってわけなのか。

Epsn00432

 う~ん、開けっぴろげでいいなあ。暢気な赤羽。

Epsn00252

 まさに「赤羽バカ祭り」の街ですね。

 勿論、ここは下町どころの話じゃない、まさしく北千住と同じ「場末」です。

 場末の良さですね。そんな場所が我が家のそばにあることは、う~む、悪くはない。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER ULTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Akabane ©tsunoken

2018年6月 7日 (木)

池袋・燦々

 池袋に「燦々亭」っていう焼肉屋さんがあるからというわけではないのだが、何故か「池袋」と「燦々」っていう言葉が結びついて頭にこびりついている。この日は雨交じりの天気で、いかにも「お日さま、燦々」ではないってのにね。

 何故だか分からないのだが、「まあ、いいさ」とばかりにブログのタイトルにしちゃうという安易さは何なんだ?

 まあ、それもブログ、これもブログ。馬鹿々々しかったら読まないだけだもんね、って言われておしまい。

Dsc_00022

 しかし、池袋に行っても表通りのデパートとかショッピングに行かないで、裏通りの飲み屋街にばかり目がうつってしまうのはなぜだろう。

Dsc_00032

 表通りで行くのはビックカメラのカメラ館とパソコン館、東急ハンズくらいのもので、ああ、あとはジュンク堂の一番上の写真集コーナーと1階の新刊コーナー位のものだ。サンシャイン60なんてのも、最近は行かなくなってしまったなあ。

Dsc_00142

 で、定点観測的に行くのが昔の飲み屋街だけなんだが……。

 東口に行って美久仁小路も栄町通りも、いまや風前の灯。店もだいぶ歯抜けが目立ってきてしまっているもんなあ。

Dsc_00172

 というか、今やこんな裏通りの飲み屋なんかに通う人はいなくなっちゃったんですね。若者はもっと明朗会計の「ちゃんとした」飲み屋(居酒屋っていうんですか?)に行って、普通に飲み過ぎないようにしてお酒をのんでます。

 いまや、「酔っ払い」ってのは「みっともないオヤジ」の代名詞なのだ。

Dsc_00092

 もはや池袋もノスタルジーだけで生きていく街になってしまったんだろうか。

Dsc_00112

 そんなことを考えている私もノスタルジーだけで生きている? う~ん、そんなつもりはないんだけれどもなあ

Dsc_00192

 ちょっと人生に疲れた私がいる……。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ikebukuro ©tsunoken

2018年6月 6日 (水)

半端ない「最果て感」浦和美園

 東京メトロ南北線と相互乗り入れしている埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線の終点が浦和美園である。

 来るたびに毎回思うんだが、その半端ない最果て感なのであります。

Epsn00022

 最初に行ったのはいつのことは忘れてしまっているが、その時の衝撃っていうか、地下鉄から地上に降り立った瞬間に感じさせた「ここはどこだ!」という感覚が、実は今でもこの駅で降りると再現されるのである。

Epsn00112

 南北線に乗るのは駒込駅なので、まだ街中だ。そのまま地下鉄に乗っているので車窓の風景などは目に入らない。目に入らないので、なんとなくまだ街中を走っている感覚が残っている。おまけに「地下鉄は街中の乗り物」という思い込みが、私の中にはある。

Epsn00142

 ところが終点の浦和美園で降りると「ドッカーン」というくらいに「何もない駅前」が、ただただ広がっているのである。それが一つの衝撃。

 実際にはさいたま市の浦和とか大宮なんかとはほど近い場所にあるはずの浦和美園なんだけれども、「う~ん、大宮も浦和も、駅周辺部から離れちゃうとこんなに田舎なんだ」ってことに気づかされるのである。横浜市営地下鉄のグリーンラインとかブルーラインとかに乗った時にも、同じような感覚があったことを思い出す。

Epsn00152

 初めて浦和美園で降りたのはイオンに入っていた未来屋書店に取材で来たときだったので、今から何年前になるのだろう。多分、まだ浦和美園駅ができてそれほど時間がたっていない頃ではないだろうか。その頃からもう既に何年もたっているので、少しは家も建ってきたり、マンションなんかもかなり出来てきているはずなんだけれども、まだまだ続く「最果て感」なんだなあ。

Epsn00322

 道を歩いていると、こんないかにも「鉄ちゃん」な歯医者さんなんかが目立って目立って。

Epsn00332

 うーん、まだまだ開発途上なのかもしれないが、じゃあ、いつになったら開発が終わるんだろうか。

Epsn00362

 なんか永久に来ないような気がしてきた。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Urawa ©tsunoken

2018年6月 5日 (火)

そういう生き方があったか! の『農業バイト、3万人』

 そうか、こういう方法もあるんだなという話題が日経新聞に掲載されていた。

漂泊のバイト3万人 細る農村の助っ人に
2018/6/3 15:38

 日本の農業に思わぬところから助っ人が現れた。都会での生活になじめず、将来に惑う20代、30代が全国の農村を渡り歩く。様々な事情を抱えながら人手不足の現場を支える「農業バイト」の数は3万人とも言われる。(山田薫)

2880e79f41722c0a7afc4b3a497e0faa_t

 切り開かれた山間に、背丈ほどの樹木が列になって約800本並んでいる。愛媛県の最南端、愛南町にある松本洋さん(56)のミカン畑。1.2ヘクタールの廃園を買い取って造成し、特産の河内晩柑(ばんかん)の苗木を植えてから20年になる。
 枝切り、防虫、施肥に摘花……。営農は年間を通じて切れ目がない。収穫期の3月に採れる果実の量は約60トン。農機具は使えず、家族とパート7~8人の人力が頼りだ。
 松本さんの2人の娘は県外に出た。毎年頼んでいた地元のパートは70歳近くなって昨年引退した。「まわりの農家もみんな後継者不在と働き手不足に悩んどる」。今年の収穫を終え、枝切りなどの手入れを前にハローワークに求人を出したが応募はゼロ。窮地を救ったのが日本全国を渡り歩く農業アルバイトだ。
 広井崇さん(37)もその1人。沖縄の離島で砂糖の袋詰め作業を終えた3月から愛媛県宇和島市内の寮に入り、松本さんの畑に毎日通っていた。
 初夏のように暑くなった4月のある日、広井さんは刈った枝を集めたり出荷を手伝ったりする作業に汗を流していた。「馬力があって意欲もある。お世辞ではなく来年も来てほしい」。松本さんの言葉に照れて笑った。
 三重県出身の広井さんは大卒後に自動車部品工場に就職したが、パワハラに遭い1年足らずで退職。将来の展望を見失い、20代をバイトや派遣社員で食いつないだ。
 転機は5年前。バイト仲間に紹介された新茶の収穫で農業のおもしろさを知り、長野のレタス畑や沖縄のサトウキビ工場などを転々とする生活に。大半は時給1千円以下だが「いろんな土地や人に出会えて前向きになれた」。4月末からは京都の新茶収穫に移った。
 宇和島市のバイト寮の個室は6畳。食事は自炊で、寮費は無料だ。常時10人前後が生活している。入れ替わりも激しく、これまでに160人以上が足跡を残した。
 1月に入寮した川島健蔵さん(34)は東京の簡易宿泊所で働いていたが、忙しい生活に違和感が強まり、農業バイトに転じた。北海道のジャガイモ農家や愛媛県内のミカン農家を回り、宇和島市に。「ヘビメタ好きの仲間がいないことだけが残念」。4年暮らした東京のアパートを解約し、移住を考え始めた。
働くミカン畑はそれぞれ違う。朝は農家の迎えで三々五々出勤。夕方、仕事が終わり、寮に戻ってからは酒を交えて次の「職場」の情報を交換しあう。広井さんは各地で出会った農業バイトたちを「農業に本気なのは2割で、8割は訳ありかリゾートバイト気分。稼いだら数カ月海外で過ごす人も多い」。寮を預かるJAえひめ南の清家嗣雄さん(48)も「20~30代の旅人が多いね」とうなずいた。
たちは都市へ向かい、農村は衰退した。今、その子供世代が農村に漂着し、自分の可能性を広げていた。

66163c6f90478fd6a9707a80c5884c1f__2

■30年で農家6割減
 日本の農家は毎年6万戸ずつ減っている。農林水産省によると、国内で生産物を販売する農家は2015年に132万戸。30年前の4割だ。高齢化や担い手不足が深刻化するなか、全国を渡り歩く農業アルバイトは貴重な戦力になっている。
 JAにしうわ(愛媛県八幡浜市)は16年から、JAふらの(北海道富良野市)やJAおきなわ(那覇市)と農業バイトを季節ごとに紹介する仕組みを始めた。秋にミカンを収穫し、冬を沖縄、春から夏を北海道で過ごせば、1年を通じて働き続けてもらえる。
 農業の求人情報に特化したサイト「第一次産業ネット」の登録者数は現在、約6万人。運営するライフラボ(東京・港)によると毎月1000人規模で増えている。JAにしうわの担当者は、こうした季節労働の農業バイトが「全国に3万~3万5千人いるのではないか」と推計している。』

 う~ん、なるほどなあ。

 まあ、考えてみれば一年中あくせくしながら都会で働いているっていうのは、実は体には悪いことなんだろう。もともと、自然の中で生きてきたホモサピエンスであるのだから、むしろ自然のままに任せて季節ごとに生き方を変えてもいいんだ、と考えるとこうした「農業バイト」も、一つの人間の生き方としては十分あることなのかもしれない。

「アリとキリギリス」ではないけれども、今やアリのような生活は嫌われている時代である。というか、本当はそのアリだって季節ごとに違う生活をしていて、一年中同じようにアクセク働いているわけじゃない。むしろ、キリギリスと同じように季節ごとにアクセク働く時期と、のんびり寝て暮らしている時期があるわけで、ただ単に、キリギリスみたいに音楽を奏でるということがないだけなのだ。

秋にミカンを収穫し、冬を沖縄、春から夏を北海道で過ごせば、1年を通じて働き続けてもらえる」っていう生き方も面白いかもしれない。まあ、「ヘビメタ好きの仲間がいないことだけが残念」っていうけれども、もしどうしてもっていうのなら、そんな田舎でもできる音楽活動でもってヘビメタを始めてもいいし、逆に田舎暮らしの中で自分の中に芽生える音楽性に気づいて、別のジャンルの音楽に興味を持つようになるかもしれない。

 まあ、すくなくとも「パワハラ」にあって神経をすり減らしながら生きていくよりは、好きかどうかは分からないが、植物という自ら主張することのない生き物を相手に暮らしている方がよっぽどストレスはないだろう。

 勿論、第一次産業に携わる人よりも第三次産業に携わる人が多いほうが日本の産業売上にとってはありがたいことなのかもしれないが、だったらそういう産業には外国からでもいいから労働者をどんどん受け入れて、日本人は自分の身の丈に合った仕事を選んで生活すればいいのじゃないだろうか。

 もともと、産業規模は小さくなるばかりの農業である。縮小しながらでも、そこに入っていこうという若者がいるんだから、それはそれで受け入れて、少しでも縮小スピードを抑えるっていうのもアリなのかもしれない。

 まあ、だからといって、それでもって日本の農業問題がすべて解決するっていうわけではないことは、分かってはいますがね。

 少なくとも、小さい農地にしがみついて、年老いてからも無理やり農業を続けるよりは、とりあえず農作業は若い人に任せて、自分は悠々自適な生活を送るってのも、お年寄りの農家の人たちにとってはいいことなんじゃないだろうか。

2018年6月 4日 (月)

北総鉄道 松飛台 八柱霊園

 え~、何のヒネリもないタイトルでスミマセン。

 首都圏でも高い運賃で有名な北総鉄道に「松飛台」という駅がある。

Dsc_00052

 まあ、「松飛台」の「松」は松戸の松でしょう、「台」は多分北総台地の「台」だ。で、分からなかったのが「飛」なのだった。何が「飛」なのか? もしかしたら「飛行機」の「飛」なのかな? なんて考えて現地に行ったのだった。

Dsc_00082

 調べてみると『現在、松戸市の松飛台にある自衛隊敷地は、かつての松戸陸軍飛行場であり、その前身は1940年(昭和15年)3月に民間の操縦士や整備員を養成する目的で設立された逓信省中央航空機乗員養成所(松戸航空機高等乗員養成所)の飛行場である。通称は、「松戸飛行場」である。民間航空機乗員として、大空での仕事を目指し、多くの若者が希望に燃えて入所した。』(Wikipedia)という解説がある。

Dsc_00172

 その後、松戸飛行場は太平洋戦争の進行とともに陸軍の所属となり、松戸陸軍飛行場として帝都防空の任に当たったのだったが、敗戦となり、現在は陸上自衛隊の松戸駐屯地となって、飛行場はなくなってしまった。

 その一部が、マブチモーターの本社であり、八柱霊園なのだった。

 そういえば、昔、マブチモーター社長宅放火殺人事件というのがあって、その現場が松戸市常盤平だというので随分地味な場所に住んでいる社長だなと思ったのだが、そうか、会社がすぐそばにあったんだな。

Dsc_00242

 で、その松戸飛行場の滑走路部分がどうも八柱霊園になったらしい。なので、これだけ広大でまっ平な敷地があったんだろうな。いかにももと滑走路。

 とにかく広い霊園で、私の菩提寺の墓場なんてこの広さに比べれば、「猫の額」どころか、「蚤の額」ほどもない狭さである。

 ご主人様のお墓の隣にはこんなペットのためのお墓があるっていうのも、まあ、宗教と関係のない霊園らしいって言えば、霊園らしい。

Dsc_00252

 しかし、この広さ。おまけに適度なアップダウンもあって自転車のクリテリウム・コースなんかにはぴったりだし、一般公道じゃないので警察への道路使用許可もいらない。

Dsc_00282

 毎回、行田市や神宮外苑のコースづくりで苦労している学連に、一度話をしてみようかしら。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Matsudo ©tsunoken

2018年6月 3日 (日)

出版取次、苦境一段と 日販、出版社に物流費転嫁 トーハンは経営陣刷新

 6月2日の日経新聞『出版取次、苦境一段と 日販、出版社に物流費転嫁 トーハンは経営陣刷新』から引用。

『出版取次、苦境一段と 日販、出版社に物流費転嫁 トーハンは経営陣刷新 2018/6/2付

 本を配送する取次会社が岐路に立っている。採算が低い書籍事業を長年放置したことが響いており、物流費の高騰なども追い打ちをかけている。業界2位のトーハンは経営陣を刷新する方針を固め、創業以来初の赤字となる最大手の日本出版販売(日販)は出版社に26年ぶりで上昇した物流コストの一部を転嫁する。ただ構造的な問題を抱えるだけに解決は難しい。
 トーハンは社長の藤井武彦氏が退任し、副社長の近藤敏貴氏が6月下旬に社長に就く。近藤氏は営業畑が長く書店の利益率の改善を推し進めるほか、経営課題である物流の効率化に取り組む。出版社との条件見直し交渉にも力を入れる。
 日販は2018年初から取引額が多い上位100社の出版社と条件の見直し交渉に着手した。出版社は雑誌1冊あたり、価格に0.55%を乗じた金額を「運賃協力金」として支払っている。日販は0.85%への引き上げを打診し、4月までの決着を目指したが、交渉は難航した。

Epsn00022

 ある大手出版社の社長は「取次の自助努力の余地がまだ大きい」として日販の打診を拒否。中堅出版社の社長は半額の負担に応じたほか、書籍の取引も日販に有利な条件に変更した。「年に1000万円以上のコスト増につながるが、致し方ない」
 値上げを打診する背景には、物流コストの上昇がある。日販は書籍の配送を委託する物流事業者の半数にあたる16社から、この1年間に値上げや撤退の申し入れを受けた。日販の雑誌の物流コストは5年間で3割も上昇した。ほかの取次会社もこうした経営課題を抱え、日販を含む取次大手4社は26年ぶりに出版社に物流コストの負担増を打診している。
 取次会社の苦境を象徴するのは、日販の18年3月期の単独決算だ。本業の営業損失が5億6100万円と、1949年の創業以来初の営業赤字となった。雑誌は5億円の黒字を確保したが、利益水準は5年間で6分の1に縮小。25億円の損失を計上した書籍を支えきれなかった。
 日販の平林彰社長は「雑誌に依存した取次業は誇張ではなく崩壊の危機にある。書籍は30年以上赤字が続き、事業として成立していない」と警鐘を鳴らす。
 小口配送が多いコンビニとの取引も業績を圧迫する。配送する書籍は減る一方、配送先の増加に伴い輸送効率が悪化。コンビニ事業は15年から採算割れの状況が続き赤字額は拡大し続けている。
 取次会社なしに書店に書籍を届ける物流網は維持できない。年間8万点近くもの新刊が発売され、その7割を日販とトーハンが全国の1万2000の書店に届ける。
 物流コストの上昇は続く可能性があり、取次会社は出版社に本の定価の引き上げを強く促している。一般的には出版社・取次・書店の取り分は、書籍の定価の7割・1割弱・2割強と固定され定価が上がれば書店を含む3者の取り分が増えるという見立てだ。
 トーハンの藤井社長は「書籍の定価は最低賃金より伸びていない。出版社は勇気ある決断をしてほしい」、日販の平林社長も「国際的に比較しても日本の書籍の定価は低い」と、業界の会合で出版社に呼び掛けている。ある大手出版社の幹部は「単価が高い単行本の定価を積極的に引き上げ、安価な文庫の値上げも検討したい」と話す。』

 という記事なんだが、まあ、トーハンと日販は、これまで中央社、大阪屋、栗田、太洋社などの倒産、業務提携を経て、いまや完全な二強体制を敷き、さあこれからは出版社との交渉だってことで、出版社に雑誌の流通コストの転嫁を求めて交渉に乗り出した、ってところなんだろうけれども、まあ、多分これは大手出版社からの抵抗にあって実現は難しいだろう。

 取次はこれまで単なる書籍・雑誌の「出版社→書店への取次業=配送業の中抜き業者」ではないということで、「いまや取次ではない、販売業だ」と言ってきたんだけれども、実はのその実態はやっぱり「取次」でしかないことを露呈してきたんだなあ。

 実は、大手出版社としては既に自社の中にマーケティングデータをもって雑誌や書籍の販売戦略を策定してきていたし、大手出版社としては別に取次に取次以上の役割は求めていないという状況が次第に当たり前になってきつつある。つまり大手出版社にとっては取次は別に「販売会社」ではなくて、「取次業」以上のものは求めていないし、黙って俺の会社の雑誌や書籍を配送することに専念すればいいんだというのが本音。

 更に言ってしまえば、取次が「自分たちがいればこそ、全国の書店に雑誌や書籍を配送できる」と言っていることも、別に「そこまでしなくてもいいよ」というのが大手出版社の考え方でもある。つまり、出版社が置かれているような熾烈な競合状態に、取次や書店が置かれることに何の躊躇もいるだろうか、ということなのだ。ダメな書店も取次も潰れるところは潰れても結構という考え方だ。

 大手出版社側は結構これまでも自主流通雑誌などの出版を試みてきた。しかし、その度に取次は書店(日書連)なんかを動員して「書店を潰そうという大手出版社の策動は許さない」なんて運動を起こして、出版社のそうした動きを潰してきたんだ。しかし、いまや出版社と読者はダイレクトに結びついてきている状況だ。つまり、そこで許される流通コストはまさしく「物流」だけのコストでしかなく、それ以上のマーケティングコストなんかはいらないのである。

 だとしたら、もっともっと書籍雑誌の物流コストは下げられるというのが大手出版社の立場であって、取次各社の物流コストアップの要請を受け入れる素地などありはしない。

 まあ、さまざまな業界で再編・再々編が言われている最近の考え方からすれば、出版取次業というのももはや出版業界における存在価値は失ってきているのかもしれない。

 まあ、書籍やコミックに関していってしまえば、今や電子書籍や電子コミックが当たり前になってしまっている時代だ。紙の雑誌もどんどん流通量が減ってきている状況の中で、いまやどうすればその流通量を増やすことなんてできるんだろうか。

 そんな状況下での日販、トーハンの物流費アップ提案なんて、到底出版社としては受け入れられる状況にはないだろう。

 今や、出版社・書店も業態変化による生き残り戦略が求められている時代だ。おなじことが取次業にも言えるのではないだろうか。

 

2018年6月 2日 (土)

東京周縁部を往く・新川崎・鹿島田

 昨日から経団連の企業の採用面接が始まって、電車に乗っていてもひっつめ髪でリクルートスーツの可愛いお嬢さんたちの姿が目に付く。まあ、ほとんどの皆さんは内定か内々定をすでに貰っているんでしょうがね。えっ? 男もいたって? う~ん、目につかなかったなあ。っていうか、男は目に入りません。

 で、今日の本題。

 JR横須賀線の新川崎駅には過去に一度だけ行ったことがある。

 昔、アニメーション映画『AKIRA』を製作しているとき、共同出資者の毎日放送東京支社にいたE氏の父上で、今はない某紡績・化粧品・食品関係の大会社の役員をやっていた方のお葬式があって、その時初めて「新川崎」という駅に降りたのだった。

Epsn00052

 その頃は、当然、武蔵小杉なんて工場街のままだったし、新川崎だってこんな大きなビルやタワーマンションなんてものはなかった。

 駅を降りて、とにかく閑静な住宅街をひたすら進んでいったような思い出はあるんだが、何処をどう曲がっていったのかなんてことは全く覚えていない。とにかく、住宅地が延々と続いていた記憶だけがある。

Epsn00192

 駅からしばらく歩くと鹿島大神とその幼稚園があった。あれっ? なんか見覚えがあるぞ。

Epsn00142_2

 鎌倉時代現在の鹿島田あたりに開墾に入った人々が今日関東地方で広く知れ渡った鹿島神宮から勧請して創建されたと伝えられているのが鹿島大神。 やがて開墾が進み水田ができあがるとこれを村の鎮守鹿島大神に寄進した。のちに鹿島田の水田……こうしていつのまにか「鹿島田」という地名が生まれたと言われている。

Epsn00272

 そういえば、このあたりの地名は「鹿島田」という地名が付いている。

Epsn00262

 なんてことを考えながら歩いていると、いつの間にかJR南武線の鹿島田駅に出てしまった。

Epsn00632

 どうも地図で見ると、新川崎駅と鹿島田駅、東横線の日吉駅ってそれぞれそんなに離れていなかったんだ。鹿島田は初めてだったけれども、日吉駅には何度も来ていたんだなあ。

 そうか、だからおぼっちゃま君のE氏が下から慶應義塾に行ったんだな。しかし、う~ん、こんなに近かったとは……。

 と言ったからって、じゃあこれから度々来ようなんてことは思わないでしょうねえ。

 何せ、何にもなさすぎる。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER ULTRA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Kawasaki ©tsunoken

2018年6月 1日 (金)

キヤノン、フィルムカメラ販売終了

 今日は「写真の日」なので……

5月31日の日経新聞から『キヤノン、フィルムカメラ販売終了』を紹介。

Canon_eos1v

『キヤノンは30日、フィルムカメラの販売を終了すると発表した。デジタルカメラの普及で販売数量が減少していたためで、約80年間続いたフィルムカメラ販売の歴史に幕を閉じる。既に2010年に生産は終えており、今後は修理に対応する。
 フィルム一眼レフカメラの旗艦機種「EOS―1v」の販売終了を自社のウエブサイトで告知した。プロ向けの高級機種で、2000年に販売を始めた。販売終了後は部品在庫がある場合に限り、25年10月31日まで修理期間を延長する。
 キヤノンは1936年キヤノン、フィルムカメラ販売終了に初めて35ミリフィルムカメラを発売した。2000年代からデジタルカメラへの移行がすすみ、カメラメーカーの撤退が続いた。主要メーカーではニコンが販売を続けている。』

 4月8日に書いた『富士フイルム、モノクロフィルムの生産中止』に次ぐちょっと残念なニュースではあるけれども、まあ、それも仕方がないだろう、特にキャノンというメーカーではね。

 結局、キャノンのフィルム一眼レフはこのフラッグシップ機EOS-1vしかなくて、入門機的なカメラはなかった、というかもともとキャノンには入門機はなかった……、それが今回の決定になったんだろうな。

 私はいわゆる「ニコン党」で、これまで使用してきた一眼レフはすべてニコンだけだった。多分、その理由は「ニコンには入門機のシリーズがあった」ということと「レンズのマウントが今でもニコン一眼レフではどれでも使える」っていうことだったんじゃないだろうか。

 一方、キャノンは初めからローエンド機はなくてハイエンド機のみ、レンズマウントはその使用目的に合わせてどんどん変更してきた。まあ、これは機械メーカーとしては正解なんだけれども、単なる機械メーカーじゃなくて写真家というちょっと気難しい人たちをユーザーに抱えるタイプのメーカーとしては、ちょっと「?」な雰囲気を感じさせてきたのも否めない。

 また、キャノンのフィルムハイエンド機EOS-1vに対するニコンはF6という機材があるが、残念ながらキャノンにはニコンFMシリーズに対応するローエンド機がなかったというのも、ちょっと残念なところだ。

 ニコンの入門機は現在はコシナ製のOEM機ニコンFM10があるが、その大本は1977年のニコンFM、その後1982年にFM2になり、1984年にはニューFM2、2001年にFM3となって、FM10に至るっていう歴史がある。私は今でも時々このニューFM2でもって撮影をしているんだが、ファインダー内部にある「+/-」指標でもって露出調整をするっていうシンプルな方法は昔のままで、結構現在でも使いやすい。まあ、普段デジイチの自動露出・自動焦点でばっかり撮影していると、ときたまそんなマニュアル機でもってリハビリしたくなる。

 つまり、キャノンの場合、こうした「マニュアル機でもってリハビリ」というのができないのである。しかし、こうしたリハビリができるっていうのは、写真を続けていくのにはかなり有効なんだなあ。つまり、フォーカスを合わせたり、露出を調整するっていう作業を時たまやるっていうことで、焦点の感覚とか、露出の感覚なんかを研ぎ澄ませることができるのである。そのベースがあるかないかで、実はデジカメで撮った写真を自分なりにどう評価するのかってことに関係するんだって思うんだけれどもなあ。

 ニコンの場合、こうした「フィルム・ローエンド機→フィルム・ハイエンド機」、「コンパクト・デジタル→デジイチ・ハイエンド機」の二路線があって、それぞれが機能しているんだが、結局、キャノンはその流れがデジタルカメラだけになってしまったというわけ。

「キャノン党」の人たちはそんなリハビリをどんな方法で行ってきたんだろう。例えば、フィルム・ライカでリハビリとか……、かなあ。

 基本的に、写真の基本はひとつなんだろう。つまり、外の光を暗箱の中で処理をするっていうだけで、その媒体が化学フィルムなのか、デジタル感材なのかっていう違いだけで……。

 なので、デジイチであってもニコンFM2がデジタル化されたみたいな「マニュアル・デジタルカメラ」みたいなのが出てくるといいんだがなあ、なんてのを現在勝手に夢想している私です。まあ、EPSON R-D1sの一眼レフ版ですね。あそうか、ニコンDfでもってそんなマニュアルカメラみたいなダイヤル操作はできるし、ニコンの場合は問題ないんですね。

« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

PEN PEN チョートクカメラ日記

自転車フォトグラファー 砂田弓弦

シュクレはお留守番

アローカメラ&我楽多屋

まだ東京で消耗してるの?