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2018年4月

2018年4月30日 (月)

墨田区京島って、どこなんだろう?

 4月23日のブログ「スカイツリーのある本所吾妻橋」と同じ、スカイツリーのお膝元なんだが、本所吾妻橋とは反対側の曳舟駅方面にあるのが、墨田区京島である。

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 この京島って、東武亀戸線、四ツ目通り、明治通りに囲まれた、墨田区の中でもあまり大きな町じゃなくて、墨田区京島一丁目から三丁目まである。「京島」というとなんとなく優雅な感じのする町名なんだが、それも東京の「京」と、向島の「島」を合わせただけっていうのも、なんかあっさりしていて意味がなくって感じで、まああまり意味を込めた町名よりは、東京らしくていいのかもしれない。

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 東京大空襲の際に、幸いあまり被害を受けなかったらしいこの地区。その関係もあって昔の細い道や木造家屋なんかがたくさん残っており、逆に現在に至ってはそのための防災街作りなどに問題が出てしまっており、現在新しい区画整理に基づく道路拡張なんかも行われているようだが、まあ都市再開発っていうのは時間がかかってしまうもんだ。

 私の家のそばの不忍通りの拡張計画も、説明会から既に数年過ぎているんだが、多少用地の買収が終わっているだけで、拡張が完成するのは一体いつになるのやら、といった状態だ。

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 まあ、古くからの地権者も多そうな東京の下町である。

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 ということは、暫くはこの町辺りにも通わなければなあ、というところなんだが……

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 本所吾妻橋とか押上とか京島とか、結構この辺りにこだわっているtsunokenなんだが、なんでなんだ?

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 というかまあ、トライXで撮りたくなったっていうだけなんですけどね。で、じゃあどこに撮りに行こうかってことになって、京島ってことなんだけれども……。まあ、アナログで撮っても、デジタルで撮っても撮ってる写真には変わりはないってことで……。

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 要は、撮影者に進歩がないってことが証明されたわけです。

NIKON New FM2 NIKKOR 24mm f2.8 KODAK 400 TX @Kyojima Sumida ©tsunoken

2018年4月29日 (日)

東京周縁部を往く・新木場 夢の島

 4月4日のブログ「東京周縁部を往く・江東区潮見」で多少言い訳がましいことを書いたので、その罪滅ぼしではないけれども、そこで「こっちが本当の<周縁部>だよな」と書いた、新木場・夢の島へ。

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「新木場」というのは、当然、江東区の門前仲町の隣にある(あった)木場が手狭になり、またあまりにも東京の中心部になってしまったために、そちらは「木場公園」という形で残し、本当の「木場」をゴミでできた埋立地「夢の島」の海側(当時は)に移転したのが始まりだ。

 ということなので、駅前にはこんな丸太と鳶口のオブジェがあったり、駅前電話ボックスが木でできたりしている。まあ、その辺が「木場」らしいところでしょうか。

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 で、まあそんなものがあったり木材問屋とかいろいろな会社があるのは新木場駅の南側の若洲方面であって、北側は延々と広い公園「夢の島公園」があるだけである。

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 夢の島公園は中にある夢の島競技場に学生アメフトの応援で来たことがあるくらいで、あまり着た覚えはない場所だ。っていうか、なにしろ「夢の島」には「夢の島公園」と運動場とヨットハーバーくらいしかなくて、子供を連れてハイキングとかバーベキューとかという目的でもないと来ないもんなあ。

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 で、これまで知らなかったんだけれども、1954年3月1日にビキニ環礁で米軍の水爆実験で被曝した第五福竜丸が夢の島公園の一角に保存されていることだった。

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 更に、その第五福竜丸なんだが、当然ビキニ環礁で被曝したのちはすぐに廃船になったと思っていたら、その後も東京水産大学の練習船はやぶさ丸として活動し、1967年に廃船となり、夢の島の沖合の十五号埋め立て地、つまり現在の若洲に放置されてあったものを、夢の島公園へ移設して、保存したということにびっくりした。残留放射線とかはなかったんだろうか。

 現在ならすぐに廃船になるとことだったんだろうが、さすがに戦後すぐの頃の話、すぐに廃船ってのはもったいない、ってなもんで何度も使えるものは使うっていう感じだったんだろうな。

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 エンジンも別の船で使っていたものを、やはりそちらが廃船になったのち夢の島公園に移設されている。

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 ということで、「夢の島」が「島」である証拠、広々とした運河……、って元々は海だったんだけれどもね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Yumenoshima Koto ©tsunoken

2018年4月28日 (土)

『針穴のパリ』針穴写真機でとらえたパリの写真展

 神田明神脇のギャラリーgallery bauhausで4月25日から田所美恵子写真展「PARIS -Another Point of View- 針穴のパリ」が始まった。

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 針穴写真で撮影したパリの姿である。

「針穴写真」って言えば、昔の朝、雨戸の節穴を通して見た、内側のすりガラスに写った天地左右が逆になった外の風景のことを思い出す。まあ、今のサッシの窓になってしまってからは、そんなものは見なくなってしまったが、私の子供の頃の思い出としては、かなりしっかりとした思い出として残っている。

 長じてそれが「針穴写真」というものだったということは理解できたし、小学生の頃にそんなものを作った記憶はある。

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 そんな「針穴写真」が今、デジタルカメラの時代に、トイカメラ・ブームを経てリバイバルしているという話は聞いたが、それを自らの表現手段として取り入れている写真家がいるんだ、ってことには多少の驚きを感じる。

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 基本的に「長時間露出」が必要な針穴写真である。つまりそこには「町を写していても、動く被写体は写らない」という条件が重なる。「動くもの」つまり「人間」は淡い画像となって、存在感の薄さが、更に引き立つ。更に、写しているものにすべてフォーカスが合うので、基本的にソフトフォーカスなんだが全周にフォーカスがあるパンフォーカスである、という特徴がある。

 なので、すべての写真は基本的に静的な写真ばかりである。静かなパリ。

 我々が「パリの写真」という形で親しんできた写真の形式とは全く異なる「パリの写真」が、そこにはある。

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 普通のパリ写真とは異なった写真的経験を持つ写真展ではある。

 一度、見ておく価値はある。まあ、でも一度だけかな……。基本的には「ネタ一発」みたいなところもあるし、他の人がやっても「ああ、それは田所美恵子さんの真似でしょ」って言われちゃうもんなあ。何を撮っても……。

田所美恵子写真展「Paris Another Point of View 針穴のパリ」は6月16日までGallery Bauhausにて開催中。公式サイトはコチラ

20180425_1823 『針穴のパリ 田所美恵子写真集Photographie au Stenope par Mieko Tadokoro』(田所美恵子著/河出書房新社/2006年3月20日刊)

『針穴のパリ 田所美恵子写真集Photographie au Stenope par Mieko Tadokoro』(田所美恵子著/河出書房新社/2006年3月20日刊)

2018年4月27日 (金)

陽気な人々……って、誰のこと?

 ある日の浅草でのスナップ集。

 最近は浅草もマンションなんかが増えてきて、「浅草に住んでいる」人たちも多くなった。先年、北海道に里帰りした元同僚のK谷氏も以前は浅草の住民で、なかなか住み心地の良いマンションだったそうな。

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 でも、浅草に来る大半の人たちにとってみれば、やはり浅草は「ハレ」の場所であり、ハレの場所である以上は、多少のテンションの上昇がみられるはずである。

 こんな、雷門の門前でポーズを取っている結婚式直前のカップルなんかもいるし。

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 オクトパスという名前のデビルフィッシュに関するインタビューに目を白黒させている欧米人のカップルなんかもいる。

 まあ、人それぞれですね。

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 相変わらず、アジアからの観光客は団体旅行が多くて、個人旅行の多い欧米人とは異なるんだけれども、でも、基本的に「旅に出ている間は皆陽気」ってところは同じかもしれない。

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 まあ、それはそれでいつもの浅草風景なんだけれども、しかし、そんな浅草に何回来れば気が済むんだろう、っていうくらい浅草に来るのは私にとっては日常の風景、つまり「ケ」になってしまっているわけなんですね。

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 京都なんかと違って、昔の街並みを楽しむだけじゃなくて、現代の街づくりの面白さも味わえるっていうのが浅草の良さかもしれない。

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 そんな浅草に、今日もやってきてしまった……、ってわけですね。

 飽きもせず……、って要は一番陽気(暢気?)なのは私自身なのかもしれない。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Asakusa ©tsunoken

2018年4月26日 (木)

『新・日本の階級社会』で分析するだけじゃなくて、処方箋も欲しいなあ

 結局、「一億総中流」という言い方をされた戦後の高度成長期を過ぎて、バブルの崩壊、その後の「失われた20年」を経て、日本の「格差社会」は「階級(固定)社会」にまで発展(後退?)してしまったということなのだ。

 結局、「格差」というものは、まだまだ逆転可能な社会であり、社会における階級を上り詰めることも可能だったんだが、既に現代ではそれは不可能。「格差」は世代を超えて固定化してしまい、それが「超すに超えられぬ階級社会」になってしまったっていうことなんだなあ。

 問題はそれがヨーロッパ的な階級社会とは若干事情が異なり、例えば「親世代が裕福であれば、子供に良い教育を与えることができるし、その結果、子供の世代が裕福な生活をおくることができる」というようなものとして、元々はあったんだけれども、今やそれはひとの努力ではひっくり返すことができなくなってしまったという意味での『新・日本の階級社会』なんだ。

Rimg00022 『新・日本の階級社会』(橋本健二著/講談社現代新書/2018年2月1日刊)

 社会を類型化する場合にはどうしてもそこから漏れ落ちてくる中間的な存在が発生するんだが、まあ、それは類型化に伴う仕方のない考え方だということで、その類型化を受け入れることにする。

 いずれにせよその類型は以下の通り。ただし、これは20世紀までの話。

資本家階級 従業員規模が五人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業者

新中間階級 専門・管理・事務に従事する被雇用者(女性と非正規の事務を除外)

労働者階級 専門・管理・事務以外に従事する被雇用者(女性と非正規の事務を含める)

旧中間階級 従業先規模が五人未満の経営者・役員・自営業者・家族従業員

 この四階級のうち「労働者階級」というものが正規雇用者と非正規雇用者に分かれて、その非正規雇用者が「アンダークラス」という新しい労働者像を作り出したというのだ。つまりこの「非正規労働者」とは「雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。きわだった特徴は『男性で有配偶者が少なく、女性で理死別者が多い』『とくに男性アンダークラスは、強い不満をもち、自分の境遇に不仕合せを感じながら生きている』、つまり『アンダークラスは、所得水準、生活水準が極端に低く、一般的な意味での家族を形成・維持することからも排除され、多くの不満をもつ、現代社会の最下層階級である』でありながら、じゃ労働組合への加入率は『13.8%と低いが、これまで労働組合の組織対象としてみなされることの少なかった非正規労働者のことだから、意外に低くないという見方もできる。実際、この比率は2005年SSM調査では3.7%だったから、大幅に上昇している』という部分には、多少この「アンダークラス」への希望が見えてくるようなのだが、果たしてそうだろうか。

『資本家階級、新中間階級、正規労働者では、所得再配分には消極的で排外主義的傾向の強い「格差容認排外主義」の立場をとる人がもっとも多く、それぞれ40.6%、37.8%、36.9%を占める。
 ところがアンダークラスでは、所得再配分に積極的でかつ排外主義的傾向の強い「格差是正排外主義」が34.2%と、もっとも多くなっているのである。』

『格差是正の要求と排外主義が、アンダークラスにおいてだけ、強く結びついているということである。貧しい人々が所得再配分による格差の是正を求める一方で、外国人の流入を警戒し、戦争責任を問う中国人や韓国人の主張に反発する。アンダークラスには、このような立場をとる人が多いらしいのである。追い詰められたアンダークラスの内部に、ファシズムの基盤が芽生え始めているといっては言いすぎだろうか。
 2017年10月の衆議院選挙では、小池百合子東京都知事が率いる「希望の党」が注目を集めたが、その政策には、上の集計結果から見て興味深い点があった。「希望の党」は、公認候補となることを希望する候補者に、集団的自衛権の行使を可能にした安保法制の受け入れや、外国人への参政権付与に反対することを盛り込んだ政策協定へのサインを要求した。そして選挙では、九条を含む憲法改正の検討を公約とした。まさに排外主義、軍備重視である。
 ところが公約には同時に、正社員化の促進やベーシック・インカムの導入など、格差の縮小と所得再配分のための政策も盛り込まれていた。つまり、排外主義・軍備重視と所得再配分が結びつけられていたのである。おそらく、このことに気がついた有権者は多くなかっただろうし、結果的に広い支持を得ることもできなかったが、今後の新しい政党のありかたとして、前例を示すことになったと言える。』

 下級労働者の支持がドイツにおいてナチスの台頭を許したということは以前からも言われてはいたことだ。また、孤立主義や排外主義がこうしたファシズムの温床になることはよく知られている。今更、日本が戦前に戻ってファシズムへの道を歩むことは考えづらいが、しかし、アタマでは「ファシズムはよくない」ということを理解していても、結果として「名前を変えたファシズム」になってしまうと、「それを批判する立場になるほどの教育を受けているんだろうか、アンダークラスは」ってな気分にもなってしまう。勿論、アンダークラスだからといってそうした差別的批判の対象にされてよいものではないということは分かってはいるんだが、「本当に大丈夫だよね?」

『新・日本の階級社会』(橋本健二著/講談社現代新書/2018年2月1日刊)

2018年4月25日 (水)

横浜寿町

 JR関内駅を横浜球場がある方向と逆の方にでて大通りを渡るとそこが寿町である。

 横浜寿町は東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並ぶ日本の三大寄せ場として、かつては有名な場所だった。「寄せ場」とは、かつてドヤ街などと呼ばれた日雇い労働者が住み、仕事を探していた場所の呼び方だった。

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 山谷や釜ヶ崎が一番賑やかだったのは戦後の高度成長前期、建設ラッシュ華やかなりし時代、まだ建設現場が現在ほど機械化されておらず人手に頼っていた時代である。同じことがここ横浜寿町でも見当たっていて、主に港湾労働者が多かった寿町も、荷揚げの労働もほとんど人手に頼っていた頃が一番賑やかだったらしい。

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 それが建設現場が機械化されクレーン技術を持っていない労働者は仕事がどんどんなくなってきて、更に労働者の高齢化もあって、今や山谷も釜ヶ崎も「労務者の街」ではなくなってしまった。同じことが寿町でも見られて、もはや港湾の荷揚げ作業はすべてクレーン作業になってしまって、いわゆる「肉体労働としての荷揚げ人夫」というものは存在しなくなってしまった。

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 以前は仕事にあぶれた若い日雇いたちが昼間っから酒を飲んで暴れたりして、結構剣呑な町だったんだが、現在はこの町を歩いているのは年寄りばっかりである。

 簡易宿泊所なども順次長期宿泊用の宿泊料の安いホテルや、外国人観光客向けのホテルに衣替えしたりして、街からも次第にお年寄りの姿は減っては来ている。

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 とはいうものの、いまだに以前の寿町のイメージを引きづっている場所はかなりあるし、やはりこの町に住んでいる人たちは、若い時は港湾労働者だったっていう感じの人が多い。まあ、今や年金で生活している人はまだいいほうで、かなりのパーセンテージで生活保護受給者なんだろう。

 町を歩いている人たちは、なんかそんな感じの人たちだ。

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 横浜市としてはそんな寿町を山谷みたいに外国人観光客がたくさん来る町にしたいようなのでが、まだまだ完璧にはそれは行われていないようで、まだ、ちょっと中途半端な感じがしないでもない。

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 横浜という一大観光地を抱えているんだから、もうちょっと何とかならないのかな、という気もするんだが。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Kotobukicho Yokohama ©tsunoken

2018年4月24日 (火)

初めっからLost……栗橋へ

 4月10日に「Lostする愉しみ」なんて書いた舌の根も乾かないうちに、本当にLostしてしまった。

 というか、初めっから乗る電車の路線を間違えてしまったのであります。

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 実は加須市役所方面へ行こうと思っていたんだけれども、だったら本来は東武伊勢崎線に乗っていかなければいけないところを、間違えてJR宇都宮線に乗ってしまい、「らき☆すた」でお馴染みの東鷲宮の次が加須かなと思っていたら栗橋に行ってしまったっていうテイタラク。

 まあ、栗橋から東武線に乗って東武動物公園まで戻って伊勢崎線に乗り換えるっていう方法はあるんだけれども、そこまではやる気なし。

 以前にも、日光街道(奥羽街道)栗橋宿や栗橋の渡しについて書いたことがあるし、その時は利根川の橋を渡って古河側まで行き、古河から帰って来たという経験がある。でも、今回はそれが目的ではないので、そこまでもやる気はなし。

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 栗橋と言えば、源義経の妾、静御前の終焉の地として有名である。

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 駅のすぐそばには静御前のお墓もあるし、静御前にちなんだお菓子や酒なんかもある。

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 でもイマイチ本気じゃないんだなあ。もうちょっと静御前で町が盛り上がってもよさそうなもんなんだけれども、特に駅前にそんなお土産屋さんなんかもないし、上の写真の通り駅前は日曜日だったってことも関係しているのかもしれないが、とにかく「閑散」としていて、誰も歩いていない。う~ん、栗橋の市民(久喜市の市民ですね)も、そこまではやる気もない?

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 まあ、おかげで栗橋の八坂神社とかお寺の経蔵院、宝治池とか王将旅館なんてものの場所は分かったんだけれども、別に由緒のある建造物などでもなくてガッカリ。

 もうちょっと、静御前で盛り上げて観光客を呼び込んでもいいんじゃないか、と勝手に思っているんだけれども、それはあくまでも部外者の勝手な思い込みでしかないのかもね。

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 ということで消化不良なまま帰るのもなんなんで、トライXを買って帰った……、って、なんか関係があるのかな。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Kurihashi Kuki ©tsunoken

2018年4月23日 (月)

東京スカイツリーのある本所吾妻橋

 押上から本所吾妻橋界隈というのは東京スカイツリーができて一番変わった場所だろう。それまでは浅草の陰に隠れてちょっと地味な、問屋や町工場なんかがあった場所だった。それが、いまや一大観光地となってしまって、浅草から皆歩いて本所吾妻橋までやってくる。

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『東京都墨田区の西部、本所地域内に位置する。墨田区役所の所在地である。北で北十間川を挟んで対岸に向島、東で業平、南で東駒形、西で隅田川を挟んで対岸に台東区花川戸および雷門と隣接する。』

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『地区北辺を北十間川、東辺を大横川と接する。また、西辺を接する隅田川水上を以て江東区-台東区境を成す。区役所のある西側に吾妻橋一丁目、中央に吾妻橋二丁目、東側に吾妻橋三丁目が並ぶ。』(以上、カッコ内Wikipediaより)

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 という程度の説明ですべては語りつくしてしまうくらいの地味な場所だった。

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 それが東京スカイツリー(東京スカイツリータウンを含む)については、Wikipediaでも何十倍もの説明がされているほどの内容になっている。

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 まあ、そうは言っても東京スカイツリー以外は、相変わらずの地味な町なんですけれどもねえ。

 所詮、浅草の隣町。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Oshiage Honjo Asakusa ©tsunoken

2018年4月22日 (日)

さよならネオパン100ACROSS:銀座編

『「さよならネオパン100 ACROSS」って言ったって別にたいしたことじゃなくて、たまたま家にネオパン100が数本残っていたので、いい機会だから撮影をしておこうというだけのこと。』の続き。今日は「いつもの銀座」編。

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 横浜のみなとみらいや赤レンガ倉庫のほうではない西区役所辺りと違って、「銀座は人が多い!」って当たり前のことを言っています。

 問題はそうじゃなくて使っているレンズのこと。横浜の方は28mmエルマリートで撮影しているんだけれども、こちらは50mmヘキサノンで撮っているっていうこと。なんで銀座の方が人が多いし、街も広い。ならここは広角レンズでしょ、っていうところなんだけれども、何故か銀座に行ってしまうと標準レンズか準望遠レンズで撮ってしまうんだなあ。

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 まあ、その街には街にあったレンズっていうものがあって、なんとなく「ある街に行った時にはあるサイズの決まったレンズを使ってしまう」っていう傾向があるんですね。

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 銀座に行って撮影するっていうのは、基本的に「ヒューマンウォッチング」をしたい、という気持ちがあって、そのために50mmか85mmレンズを使ってしまうんだ。

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 ということで、銀座で撮影するということになると、まず「人」を見てしまうんですね。それだけ気になる人が多いのが銀座っていうことになるんだ。でも、それは渋谷や新宿に行っても同じことだと思うんだけれども、何故か銀座だけは別、っていう意識がある。何故だかは分からない。

 まあ、銀座が明治以来の「日本の盛り場」「ハレの場所」っていうことがあるのかもしれない。ニューヨークで言えば 5th Ave. だし、パリなら Les Champ E'lysees でしょ。で、東京は Ginza ってわけで。

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 ということで、今回は銀座を50mmで撮影したスナップ写真っていうこと。

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 で、たまたま家に残っていたネオパン100ということなので、それで「さよなら」撮影ということになったんですが、別にネオパン100だけが常用モノクロフィルムじゃなかったし富士フィルムだったらISO400のネオパン400 PRESTも常用フィルムであったことも事実。

 つまり、ネオパン100SSで始めた写真生活だったんだけれども、その後はコダックトライXやネオパン400などのISO400のフィルムが常用になったので、実は私の目の感覚はISO400の方がどちらかというとデフォルトになっていて、ISO400の方が周囲の明るさと絞り・シャッタースピードの感覚としてはすっきりする。それこそ露出計を使わないで撮影する場合にはISO400の感覚でいけばほぼ露出計を使わなくてもモノクロなら撮影ができるくらいには、「感度慣れ」(っていう言葉があるのかどうかはわからないが)しているっていうことなんだ。

 なので、私にとってはネオパン400PRESTが出荷ストップしてからはトライXを使うのが当たり前になっていたので、別に困らないのであります。フィルムを出しているのだからコダックのラボならトライXの現像はずっとやってくれるのだろうし、まあ、その昔は自家現像なんかもやっていたこともあったので、それほど困らないということもある。

 ということなので「さよならネオパン100ACROSS」だけれども、でもふつうに「よろしくトライX」なのであります。ネオパン100ACROSSの滑らかさもいいけれども、トライXの荒々しさも写真としては買えないものではない……、といっても別にブログに上げるためにリサイズしてしまったら何の関係もないけれどもね。

 ということで、最後のネオパン100ACROSSの撮影は銀座なのでした。

LEICA M6 KONICA M-HEXANON 50mm f2 @Ginza ©tsunoken

2018年4月21日 (土)

さよならネオパン100ACROS:横浜西区編

「さよならネオパン100 ACROSS」って言ったって別にたいしたことじゃなくて、たまたま家にネオパン100が数本残っていたので、いい機会だから撮影をしておこうというだけのこと。

 じゃあ、なんで横浜それも西区ってわざわざ行くんだ?

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 横浜市西区っていうと、横浜駅を中心にした区域で、三ツ沢から野毛山、みなとみらいあたりまでを含む横浜市の中心部分なのだ。現在ではみなとみらい辺りが中心なのかなとも思えるんだが、さにあらず。

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 横浜市西区役所は、相鉄線の西横浜駅と京浜急行の戸部駅の間にある、つまりかなり地味な場所である。「西横浜」とか「戸部」って初めて聞く人は多いでしょ。

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 人によって「横浜」という名前から受けるイメージは異なる。

 みなとみらいのそれこそ未来的な街並みをイメージする人もいれば、中華街の雑多なイメージ、野毛山の上(野毛山動物園や高級住宅地)と野毛山の下の黄金町(元青線地帯)の距離や差異をイメージする人、伊勢佐木町から関内へかけての賑やかなイメージ、一方で青葉区や緑区あたりの実は裏側に「金妻」的なドロドロしたものを秘めた閑静な住宅地をイメージする人などなど、人それぞれに「横浜」のイメージは異なるんだけれども、さらに「横浜市西区」って言っても、それこそ「イメージできない」っていう人から、それぞれのイメージの中で勝手に作り上げた「横浜」のイメージを当てはめて、それで事足りてしまう人もいる。

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 横浜市というと元々の神奈川だった場所である山がちの場所と、東海道より東南の海に近い低い場所と二つの典型がある。

 本来は山がちな場所というのが昔の横浜市の典型なんだけれども、横浜をあまり知らない人にとっては、横浜というのは海のそばの街というイメージなのだ。

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 で、横浜市西区や中区というのが、それらの双方の場所を同じ区内に抱えているという意味では横浜を代表する街なのかもしれないな、というのが本日のテーマ。

 なので、誰も知らない横浜であり、誰でもがどこかで見たことがある風景としての横浜、それでいて実はどこの普通の町と変わらない横浜の風景というものを探していくと、横浜市西区の戸部、平沼橋、西横浜というあたりがその典型。

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 まあ、誰が見ても「ここは横浜!」っていうのを避ける私の写真というテーマに従って横浜を撮るとこういう場所を選ぶ、っていうことなんですね。

LEICA M6 LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Yokohama ©tsunoken

2018年4月20日 (金)

ガード下の靴磨き

「ガード下の靴磨き」というのは、宮川哲夫・作詞、利根一郎・作曲、宮城まり子・歌で昭和31年に発表されたヒット曲だ。どこのガード下なのかは歌詞にはないが、多分、有楽町か上野あたりだろう。つまり、その頃「ガード下」というと、山手線の有楽町から新橋辺りまでと、上野から御徒町辺りまでが有名なガード下だったっていうわけ。駒込から品川までの山手線西側はまさしく「山の手」を走る路線なんで、あまりガードというものはない。やはり田端から品川までの海側の低地あたりがガードの場所なんだなあ。

 ただし、新橋から先は高架じゃなくなってくるので、ガード下はありません。

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 で「ガード下」というと一番にイメージするのが、有楽町から新橋にかけての部分だろう。明治43年(1910年)、日本で3番目に古いJR有楽町駅から新橋駅をつなぐ高架線が完成したことに端を発し、日比谷側の赤煉瓦アーチ型ガードの正式名称は「第一有楽町架道橋」と名付けられた。

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 有楽町駅前や上野駅前なんかに「ガード下の靴磨き」をやっている人はいたんだが、私が見ていたのは、歌のような「ガード下の靴磨きの少年」じゃなくて、「ガード下の靴磨きのおじさん」だった。少年がそのまま靴磨きをしつつ歳をとったのか、あるいは少年とは別のおじさんが靴磨きを始めたのかは知らないが、いずれにせよ、私が物心ついたころには、少年は小中学校に行くのが普通だった時代ではあったんだなあ。

 少しづつ「戦後」ではなくなってきた時代のことであります。経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したのが昭和31年なんだが、それに水をぶっかけるような歌が「ガード下の靴磨き」だったんだなあ。いやいや、昔の流行歌関係者の反骨精神ってのもたいしたもんだ。

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 いまや「靴磨き」なんて、実際にそれを商売にしている人たちじゃなくて、靴クリームのメーカーの人が商品のプロモーションのためにやっているのが普通で、今でも実際にそんな人たちがたまに有楽町の交通会館前で靴磨きをしているのは見たことがある。

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 靴磨きはいなくなったけれども、相変わらず残っている、っていうか新しくできたものも含めて、相変わらずあるのが飲食店なんだ。まあ、屋根というか天井は既にあるので、場所を借りた店側は周囲の囲いだけ作れば店ができてしまうというお手軽さもあって、一時期はかなりの数の飲み屋さんが東京駅から新橋までのガード下に出来てきて、一種の「ガード下飲み屋文化圏」みたいなものまでが出来上がっていた。

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 ただ、現在はそんな「ガード下の飲み屋さん」も次第に姿を消して、現在はその半分以上の場所が耐震補強工事を行っている。

 まあ、確かにできてから100年以上にわたって毎日毎日上を電車が走り、関東大震災にも耐えた建造物ではある。なかなか、こんなに長いこといろいろな人に親しまれている「飲み屋街」ってのも、世界にあまり例を見ないのではないか?

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 全面的に耐震補強が終わった後のガード下がどうなるのだろうか。

 まあ、あまり期待できるような「雑多な店の集合」という感じにはならないだろうなあ。皆さんが行きやすい店になるっていうのは基本的には悪いことではないが、それでは「オヤジ」にはあまり魅力がない。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shimbashi Yurakucho ©tsunoken

2018年4月19日 (木)

絵画のような写真画像が撮れた

 ある晩の恵比寿ガーデンプレイス38階からの夜景である。

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 撮影はRICHO GRDⅢで640pixelで撮影して、そのままブログにUP。

 通常は3MBか4MB位の大きさ(横3000pixel~5000pixel)で撮影して、ブログにUPする際に430KBか110KB(横1280pixel~640pixel)にリサイズして載せることが多い。

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 通常の撮影方法とは異なるため、どんな画像ができるのかを想像しながら撮影したのだが、見事な「絵画的な写真画像」になっていることに感心、感心。

 適当に手ブレを起こしているために写真画像としては画質の低下が見られて、あたかもSF映画のストーリーボードのような手描きの絵のようなイメージになっている。

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 そうか、予め情報量を抑えておいて撮影することによって、かえって手描きのような「情報量が規制された画像」みたいなイメージになるんだなあ。これは面白い現象だ。

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 撮影はRICHO GRDⅢで行ったんだが、別にRICHO GRDではなくても撮影時に情報量を減らして撮影することは可能なので、別のカメラでも使える技ではある。

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 しかし、通常のサイズで撮影してブログ用にリサイズしただけじゃあこんな画像にはならないし、不思議だなあ。

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 まあ、多分現在のデジタルカメラでは設定をオートにしてしまうと、カメラの方で勝手に失敗作を撮らないような設定にしてしまうので、こんな画像にはならないのだろう。つまり、デジタルカメラではあっても、設定は基本的にマニュアルでもって撮影するってことが、面白みを持った写真になったりするんだ。勿論、それはあくまでも「なったりする」という程度のことで、それがうまくいくかどうかはその時次第だし、そんなマニュアル撮影の結果がどうなるのかは、撮影時にはまったく予想ができないんですけれどもね。

 まあ、この辺はアナログカメラもデジタルカメラも、基本は変わらないってことですね。

RICHO GRDⅢ @Yebisu ©tsunoken

2018年4月18日 (水)

東京周縁部を往く・ちょうマイナー柳瀬川史跡深訪

 東武東上線柳瀬川駅といえば志木駅のひとつ先なので、こりゃ「東京周縁」じゃないだろうと思われるところだが、流れている柳瀬川自体の水源は東京都瑞穂町で、この柳瀬駅の先で新河岸川と合流して、いずれそれは荒川放水路と一緒になるという点では、やっぱり柳瀬川も「東京周縁部」と言えるのではないか、ということで柳瀬川駅に降り立った。

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 柳瀬川駅の東口側はいかにも新しく都市計画で作られた街らしく、公園やマンションなどが規則正しく立ち並んでおり、その中心に小学校と中学校があるという計画都市ならではの町づくりであある。ということはあまり期待するものはないだろうなあ、との思いで歩きだしたんだが、そうした計画都市的な部分と旧来の町との境目に行くといろいろ出てくるんですね。

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 マンションの横の細い細ーい道を通って裏側に回ってみると、小さな祠がある。そばに近寄ってみると「大塚大六天神社 此の大六天神社は安政六年道中安全の守護神として建立され……」という説明書きが。

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 そのちょっと先は小さな公園になっていて「鎌倉街道跡」の説明版がある。3月28日のブログ「東上線下赤塚から赤塚城址へ」で書いた「鎌倉古道」の一端がここにもあり、小さな公園の中にその一部が残されている。

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 そのまま東上線の踏切を渡って行くと、こんな同じ場所に二つの神社がある場所も。左の奥の小さな祠が稲荷神社で右側が神明神社。神明神社(天祖神社)といえば、我が家のそばにも立派な神社がある。

『伊勢の皇大神宮を分祀した神社。一般に皇大神宮を分祀したものを神明社と呼び、全国で一万五千社を数えるといわれています。
 この神社は、元和二年(1616)に山本家が伊勢信仰のため創建したもので、その後文化文政期(十九世紀初頭)に尾崎家が宅地と社を買い受け、明治九年には字大塚へ委譲しましたが、昭和五年頃まで尾崎家で祭典を行っていました。
 その後、大正初期の東武鉄道路線工事により、現在地に移設され祀られています。
      平成七年一月三十日 志木市教育委員会』

 ってことは、一緒の場所にあるお稲荷さんの方が元々あった神社なのか。

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 その他、大塚延命地蔵とか、小さな大野神社とか、結構、探すといろいろ出てくるんだなあ。

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 結構、町というか村というか、その歴史も調べてみればいろいろあるのである。。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Yanasegawa Shiki ©tsunoken

2018年4月17日 (火)

四谷「しんみち通り」今昔

 四谷しんみち通りというのは、JR四ツ谷駅四谷口を出ると目の前にある、たかだか100m位の短い道のことなんだが、そこだけ周囲とはあまり関係のない「飲み屋街」なのである。まあ、周囲にも飲み屋はあるんだけれども、飲み屋街ではない。

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 麹町や市ヶ谷方面にはあまりこんな飲食店街がない四谷周辺では数少ない飲み屋街。まあ、小型新橋とでも呼ぶような小さな横丁ではある。

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 ここに私が昔日本テレビの報道部でアルバイトをしていた頃によく行く店、当時は「スナック」なんて呼ばれている類の店なんだが、「酔族館」という店があった。

 一晩中、朝までやっていた店で、深夜1時頃に夜の最終ニュースと、朝のニュースの仕込みが終わった日テレのアルバイト学生たちがよく屯していたのであります。勿論、深夜帰宅なのでタクシーチケットは出るんだが、まあ、たまには飲みたい日もあるじゃないですか。社員の人たちの奢りでお酒を頂く夜もあったりしたんだが、その場合は麹町の日テレそばの飲み屋なんかで飲んでおり、そうじゃなくてアルバイト学生だけで飲みに行くときはだいたいこの「しんみち通り」に行くわけだった。というかそこしかなかったわけだ。

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 アルバイト学生同士で何を喋っていたのかは、今では全く思い出せない。仕事のやり方やバイト代なんかに対する不満を愚痴るなんてこともあったんだろうけれども、大半は多分他愛もないことをグダグダ、ヘロヘロ喋っていたんだろうなあ。

 まだ学生のくせに、ほとんどサラリーマンと同じような酒の飲み方をしていた訳でございます。いやいや、なんたる時間の無駄遣い!

 スナックなのでママやホステスなんかのお姉さんもいたんでしょうが、それについての思い出もない。ただ、「行って」「くだらないことを喋って」「朝の始発電車で家に帰った」記憶しかない。ウムム、なんという時間の無駄遣い……っていうよりは、なんたるお金の無駄遣い!

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 今から考えてみると、そのバイト代をしっかり貯めておけば、大学の卒業旅行で海外なんかにも確実に行けるはずだったろう。その位のバイト代はもらっていたはずだ。

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 他のバイトに比べれば決して高いバイト代ではなかったけれども、マスコミの最先端で働けるという充実感と、もしかしたらこれで就職の際のコネにもなるかもという思いで、皆仕事をしていたように思う。更に、それにかけて深夜バイトの一種なんで、お金を貯めようと思えばいくらでも貯まったはずなんだよなあ。

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 結局、オイルショックでもってテレビ局には就職できなかったけれども、まあそのバイト歴もあって出版社には就職できたし(多分)、その後、出版社の中で映像部門で仕事をするきっかけにはなったんだろうなあ。

 なあんてことを「カメラ買います。アローカメラ」と「我楽多屋」に四谷荒木町までいく道すがら思い出していたわけでございます。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA-WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Yotsuya ©tsunoken

2018年4月16日 (月)

キューポラのない街:川口点描

『キューポラのある街』は1964年の日活映画で浦山桐郎の監督、吉永小百合と浜田光夫の主演の作品である。

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 キューポラとは何かを説明しようにも、私も詳しいことは知らない。要は、鉄を溶かすための溶鉱炉の一種で、効率的に高温度の鉄を作るのに適していた方法だということである。

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 で、「鋳物の町」を標榜していた川口市ではキューポラというのが象徴的な存在であった。映画『キューポラのある街』も、別に鋳物工場が舞台になった話ではなくて、キューポラや鋳物工場などに代表される、いわゆる場末の貧しい工場地帯における若い二人の恋物語っていうだけのことなんだが、まあ、その象徴としての「キューポラ」だったわけですね。

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 しかし、1964年って今から50年以上も前の話。その頃から吉永小百合がデビューしていたんだなってことに感動を覚えるし、当時はかわいいお嬢さんだったってことは皆認めてはいたんだが、別に「美人」っていう評価は聞いたことがなかった。

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 その吉永小百合がいまだに数年に一度は映画の主演を務め、なおかつその美しさには更に磨きがかかっているということの方に、むしろかなりの感動を覚えることではある。

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 勿論、現在の川口市は「鋳物の町」ではなくて、どちらかと言えば完全なベッドタウン。人々が「住む町」であり「買い物の町」になっているわけで、鋳物工場なんて探してもどこにもないし、キューポラもJR川口駅の駅前にモニュメントとして飾ってあるだけである。

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 川口駅前の「キューポラ」とか「働く歓び」の銅像も、なんかなあ、今の川口市民にとっては、あまりリアリティのあるテーマでもなくなってきている。

 でも、「街の歴史」として、ずっと残っているんだろうな。

NIKON Df AF NIKKOR 35mm f2 D & AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Kawaguchi ©tsunoken

2018年4月15日 (日)

相模国分寺は相模国府にはなかった

 小田急小田原線、相模鉄道、JR相模線の三路線が集結しているのが海老名駅。

 この海老名駅のそばに相模国分寺があった。

 海老名駅の前に展開しているのが、いかにもという名前の「ビナウォーク」というショッピングモール併設の公園というかモール附設の広場。で、その広場のドン突きにあるのが東宝シネマであり、その裏の方をちょっと上っていくと、相模国分寺跡がある。

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 かなり大きな国分寺で、東京の国分寺にある武蔵国分寺跡と同じような大きさがある。

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 本堂跡、七重の塔の土台石や僧堂跡など、かなり大きなお寺だったということが、その遺跡の大きさからうかがい知ることができる。

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 国分寺とは『741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院』であり、『国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった』(いずれもWikipediaより)というのだが、確かに武蔵国分寺は国分寺市にあり、武蔵国府は現在の府中市に置かれており、両者の場所は近い場所にある。

 それに比較すると、相模国府の場所はまだ特定されていなくて、一番海老名に近いところでは茅ケ崎だったり、大磯とか小田原などがあげられているようだ。私などは、京都に一番近くて大きな街であり、要衝でもある小田原辺りが相模国府としては一番相応しいように思えるのだが、だとしたら小田原の近辺などに国分寺がおかれてもおかしくないはずで、なぜ海老名なのかがわからない。まあ、ギリギリ茅ケ崎が海老名には近いのかなあ。

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 上の写真は国分寺七重の塔の土台石。なかなか大きな塔だったというのがわかる。が、当然、七重の塔そのものは復元されていません。

 が、先に記したビナウォークにその3分の1のレプリカが飾ってある。

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 まあ、だからどうだって言うわけではないが、まあ、モニュメントがあって良かったね、っていう程度のものです。スミマセン。

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 で、海老名と言えば、今はイオンになってしまったが、その昔「ワーナーマイカル海老名」というショッピングモールができて、その中に「ワーナーマイカルシネマズ海老名」という、日本で最初のシネマコンプレックスができたことで有名。

 シネマコンプレックスがどんなものかは、既にアメリカのシネコンを見ていた私にとっては分かっていたんだが、日本でそれがどんな形で始まったのかを見に来ようとしたんだが、ちょっと遠いんで来られず、今回初めて来てみたっていうわけ。

 まあ、まだイオンができる前のショッピングモールなので、今のイオンみたいな回廊式の造りじゃなくて、普通の四角いビルの中を区切って作っている感じになっている。なんか昔懐かしい感じがしたんだが、出来たばっかりの頃に見に来てればもうちょっと違った感想を持ったんでしょうけれどもね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Ebina ©tsunoken

2018年4月14日 (土)

「十二月田」って、何と読むのかわかりますか?

 先日の芝川を歩いた時に、帰りの川口駅行きのバスで通った、ちょっと読み方の分からない不思議な停留所があったので、ん? なんだこれは? ということで、昨日もう一度確認しようと行ってきた。

 読み方の分からない停留所っていうのは下の写真。「十二月田中学校」(じゅうにがつだちゅうがっこう?)

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 JR川口駅を降りて東の向かって歩くと、国道122号線(日光御成道・岩槻街道)に出る。埼玉高速鉄道川口元郷駅のちょっと北にあったこんな地名表示板「十二月田」。

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 なんと読むのか? 当然「じゅうにがつだ」ではなくて「しわすだ」と読むのです。

 まあ、言われてみればその通りで、「十二月」だから「しわす」なんだよなってなところなんですが、なんで「しわす」が「十二月」なんだ? 「師走」じゃないのか? という疑問が湧いてきて当然なのであります。

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「しわす」の語源については「わからない」というのが正解で、「年の瀬で坊さんが忙しく働いているさま」というのは俗言らしい。

 日本国語大辞典によれば、以下の九つの語源が考えられるとのことだ。

『①経をあげるために師僧が東西を馳せ走る月であるところから、シハセ(師馳)の義〔奥義抄・名語記・あい(あいは土へんに蓋)嚢鈔〕。
②四季の果てる月であるところから、シハツ(四極)月の意〔志不可起・和爾雅・日本釈名〕。
③トシハツル(歳極・年果・歳終)の義〔東雅・語意考・類聚名物考・和語私臆鈔・黄昏随筆・古今要覧稿・和訓栞〕。
④ナシハツルツキ(成終月)の略転〔紫門和語類集〕。
⑤農事が終わり、調貢の新穀をシネハツル(歛果)月であるところから〔兎園小説外集〕。
⑥稲のない田のさまをいうシヒアスの約。シは発声の助語。ヒアスは干令残の義〔嚶々筆語〕。
⑦シヲヘオサメヅキ(為竟収月)の義〔日本語原学=林甕臣〕。
⑧セハシの義〔万葉代匠記〕。
⑨シバシ(暫)の月の義〔遠碧軒記〕。』

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 いずれにせよ、現在は川口市末広一丁目のこの地の昔の呼び名は「十二月田(しわすだ)」だったっていうこと。

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 十二月田には十二月田神社や十二月田小学校、十二月田中学校などがあり、川口市としては昔の地名を大切に残そうとしている様子が伺える、

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 十二月田小学校の塀に十二月田の由来が書いてある。

『昔、冬の十二月(しわす)に田の神のお使いのキツネたちが、杉の葉を植えて田植えの真似をしたという、言い伝えから生まれた地名』

 民俗学者、柳田国男によればキツネは神の眷属だったという考え方が昔はあったようで、上記の言い伝えもキツネたちがその年の豊作を祈って現れたらしい、という見方があるようだ。

NIKON Df AF NIKKOR 35mm f2 D & AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Kawaguchi ©tsunoken

2018年4月13日 (金)

群馬県大泉町の意外だったこと

 群馬県の大泉町といえばブラジルやペルーの日系人が多い町だという認識があって、多分町に行けばいろいろな南米人向けの施設なんかがあるんだろうな、なんて考えていたんだが、実はそうではなくて大泉町のシンボルと言えるのは、実は小泉城跡(城之内公園)だった。

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 小泉城(富岡城)は、延徳元年(1486年)富岡主税介直光が縄張りにしたことに始まり、以後富岡氏六代、約100年余りの居城として栄え、富岡氏が小田原北条氏の傘下に入ってから作られたものらしい。

 当然、豊臣氏の小田原攻めでもって北条氏は滅んでしまったので廃城、それ以降は空城になっていたらしい。徳川の配下の大名も別に使わなかったってことですね。

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 外堀と内堀、そして多くの土塁などが巡らされている大きな城なのだが、平城なのであまり砦としては適していない。その代わり居城としてはかなり立派な城である。

 なんで、こんな立派な城を徳川配下の大名が使わなかったのかなあ。それがちょっと不思議。

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 城内(公園内)には町内の別のところにあった古墳や、昭和20年4月4日の米軍B28爆撃機の空襲で亡くなった人々の冥福をいのる黎明地蔵などが移設されており、それなりに町の財産にはなっているようだ。

 昭和20年の米軍空襲は、当時存在した中島飛行機小泉製作所に対するもので、お隣の太田市に本社があった、ゼロ戦を製造していた中島飛行機製作所(現在のスバル)に対する攻撃と一緒に空襲にあったものである。

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 町を走る電車としては東武小泉線が走っていて、町内には東小泉駅、小泉町駅、西小泉駅(終点)があるんだが、どの駅前に行っても駅前商店街のようなものはない。スーパーマーケットのような大規模店はあるんだが、街を彩る商店街などがないのはちょっと寂しい。

 まあ、スバルやパナソニック(旧三洋電機)で働く人たちは皆クルマ通勤だろうから、あまり近いところのお店ってものにはこだわらないのかもしれない。

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 バンコ・ド・ブラジルの太田支店もなくなっちゃったし、すでに南米からの労働者も少なくなっているんだろうか。

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 上の写真や下の写真などが数少ない「外国人の町」らしいものなんだけれども、最近は南米などよりはアジアからの労働者が増えているようだ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Oizumi ©tsunoken

2018年4月12日 (木)

松戸市二十世紀が丘という地名

 北総線北国分の駅から松戸市中心部に向かって進んでいくと「松戸市二十世紀が丘」という、町の名前としてはちょっと風変わりな名前の町がある。

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「二十世紀が丘」をつける町は美野里町、丸山町、萩町、梨元町、中松町、戸山町、柿の木町の7町があり、それぞれの町の頭に「二十世紀が丘」がつく。

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 一体なぜこんな風変わりな町名を付けたんだろう。

「二十世紀が丘」の「二十世紀」とは、果物の梨の品種名。

『青梨系の代表品種で、一般的な唯一の青梨。1888年(明治21年)に千葉県大橋村(現在の松戸市)で、当時13歳の松戸覚之助が、親類宅のゴミ捨て場に生えていたものを発見した。松戸は「新太白」と名付けたが、1898年(明治31年)に渡瀬寅次郎によって、来たる新世紀(20世紀)における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに命名された』というのがWikipediaの説明。

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 その場所が今の二十世紀が丘あたりだったので、その一帯に「二十世紀が丘」という名前を通常の町名に加えて付けたらしい。その本家本元の場所が後に「二十世紀が丘梨元町」と名付けられ、その町には「二十世紀公園」というのがあって、覚之助少年の業績を称えた記念碑などもある。

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 確かに「ふなっしー」なんてゆるキャラもある位なので、千葉県は梨の産地だっていうのは分かるんだけれども、現在千葉県で栽培されている梨は幸水や豊水が主で、二十世紀梨は作られていないそうだ。

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 現在、二十世紀梨を作っているのは主に鳥取県で、鳥取県産の梨のおよそ8割が二十世紀だそうだ。

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 なぜそうなっちゃうのかは知らないが、とりあえず地名にだけは二十世紀が残っているっていうわけ。

 それにしても、そうか「来たる新世紀(20世紀)における代表的品種になるであろうとの観測と願望」が「二十世紀」という名前の由来だったんだな。実際の20世紀の頃には別に何にも感じてはいなかったけれども、21世紀になってしまうと「そうなんだよなあ、20世紀っていう時代があったんだ」的な感傷に浸ってしまいかねない自分がいる。逆に、21世紀生まれの人たちにとっては「20世紀ってどんな時代だったの?」的な感じになってしまうんだろう。

 20世紀FOXは21世紀FOXの傘下に入ってしまうっていう訳の分からないことになってしまったし。いやあ、歳はとってみるもんですね。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA-WIDE HELIAR 12mm f5.6 @20 Century Town Matsudo ©tsunoken

2018年4月11日 (水)

熱海、なう

「熱海、なう」って何のヒネリもない、身も蓋もないタイトルだが、もともと身も蓋もない理由で行ったんだから、まあ、仕方がないか。

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 たまたま横浜辺りまで行こうかと上野駅で乗った上野東京ラインの電車が、たまたま熱海行きだったっていうのが、熱海に行った理由なんだが。なんの理由にもなっていない。

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 熱海駅は駅ビルもできて、駅前はだいぶ変わってしまっていて、以前は駅前いっぱいに広がっていた干物売りの露店もなくなってしまった。実際には網代あたりの漁港で上がったあじなんかを干物にして売っていたんだが、いかにも「海のそばです! 熱海前です!」っていうような主張をしていた干物売りがなくなってしまったのはちょっと残念だ。でも、もしかするとあれは無許可営業だったのかもしれないな。

 戦後のドサクサに紛れて無許可で営業始め、その後は既得権ってな感じで営業をしていたものが、駅前再開発を理由に立ち退きを迫られるっていう、よくある風景ですね。

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 でもまあ、駅前から海岸通りのそばまで行ってみれば……

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 う~ん、昔ながらの「熱海!」っていう感じの店なんかがまだ残っている。

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 スマートボールなんて、今やどこに行っても見つからないですね。

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「〇〇銀座」なんていう商店街も、今どき残っているのは全国で「熱海銀座」くらいのもんですよ、「熱海銀座」くらいね。もうどこにも見ないもんな。

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 以前の団体頼みの熱海温泉街から変わって、いまはファミリーとか小グループを相手にした営業が主体の熱海。最近は再びお客さんも戻ってきて、これからオリンピック需要なんかも見込めそうで、以前、客の減少に悩む熱海でアニメフェスティバルを出来ないか、なんて相談を持ち掛けられたのがウソみたいな感じだ。

 そのころまた来て熱海銀座がどうなっているのかを見届けよう。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA-WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Atami ©tsunoken

2018年4月10日 (火)

東京周縁部を往く:新芝川・たまにはLostする愉しみ

 日暮里舎人ライナーを舎人公園で降りてとにかく西に向かって歩いていくと、足立区から川口市領家に入ったところで渡るのが新芝川である。

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 芝川・新芝川は上尾市とか桶川市あたりから流れてくる自然の川なのだが、大宮市の東側にある「見沼田んぼ」の脇を過ぎて足立区まで行くと、荒川を走るサイクリストのオアシスである都市農業公園のところで荒川放水路に合流する、農業用水路でもあった。

 現在は田んぼもなくなってしまったので、普通の川というだけのこと。

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『さいたま市東部に存在した沼地である見沼に注ぎ、見沼から流れ出て荒川に注いでいた川が芝川の原形である。
 なお、江戸時代のはじめに、関東郡代の伊奈忠次によって溜井(ため池)に改修されていた見沼が、1728年(享保13年)に干拓されて見沼田んぼになると、排水路として見沼田んぼの最も低いところが開削されて、現在の芝川の河道がつくられた。さらにその下流も改修されて、芝川は江戸と干拓地を繋ぐ通船路としても用いられた。』(Wikipedia)

 上の写真のちょっと上流に行くと左側に荒川マリーナというのがあるのだが、その辺りから荒川放水路との合流点あたりまでが足立区と川口市の境目。

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 荒川放水路に続きこちらも土手の上はサイクリングロードとして整備されており、自転車が走りやすい道になっている。

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 ところでこの日、持っていたiPhoneのパスワードを忘れてしまい、Google Mapが使えなくなってしまった。

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 自分が今どこにいて、どこに向かって歩いているのかが分からなくなってしまう、久々の体験をしたわけだ。"I lost my way."というわけだ。

 昔はそんなことは当たり前で、そんなことは言っても結局日本は地続き、どこかに出るだろうという感じで歩いていたんだが、久々にそんな感じで歩くことになった。まあ、街中の地図ボードやバス停なんかを頼りに、おおよその見当をつけて歩くんだが、都内はそれで済むんだけれども、自分の知らない土地ではその見当もつけられない。

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 まあ、そんなことはごく普通のことで、むしろGoogle Mapに頼っていた最近の街歩き自体が変な体験だったんだなあ。そんな意味では、久々に「動物的勘」を働かせて歩いてみることになって、これはこれで以前の感覚を少しだけ取り戻したような気がする。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPER 21mm f4

2018年4月 9日 (月)

『ロシアカメラの世界』の危険な魅力

 家の近所の中古カメラ屋さん「ハヤシ商事」で500円で買った本。Amazonで見たら稀観本扱いで2,580円~43,594円もする。たかだか64ページのブックレットにこのお値段って、凄いことになっているなあ。

Rimg00152『ロシアカメラの世界 隠れた人気の秘密』(山本省三著/企画・編集:ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会/東洋書店/2004年2月20日刊)

 だいたい、ユーラシア研究所って何なんだ?

『1989年1月、総合的なソ連研究を目的とした民間の研究所としてソビエト研究所が設立されました。当時、ソ連ではペレストロイによる改革が進行中で、日本でも日ソ関係の好転のためにその改革に期待をかける人々が少なくありませんでした。しかし、ソ連再建をめざしたペレストロイカの行き着いた先は、皮肉にもソ連崩壊でした。
 1993年、研究所はユーラシア研究所と改称し、主としてロシアをはじめ旧ソ連を構成していたユーラシア諸国についての研究と学術交流を引き続き行うとともに、「日本国民とユーラシア諸国民との相互理解と友好の発展」という観点から、ユーラシア諸国に関する正確な知識の普及に努めています。
 この地域についての情報がまだまだ断片的で限られた分野のものにとどまりがちななかで、今回のブックレット刊行は、ロシア・ユーラシア諸国に関する多面的な情報を提供するだけではなく、日本ではあまり知られていないこの地域の広くて深い世界を楽しんでいただくことをも目的としています。読者のみなさんが、このブックレットをつうじてユーラシア諸国の隠れた魅力を発見してくだされば、と願っております。
 21世紀は、アジア・太平洋の平和的環境を恒常化し、日本とロシア・ユーラシア諸国の共生の条件を作り出す時代となるでしょう。その意味でも2000年にこのブックレットを発刊する意味は大きいと自負しています。
        ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会』

 というのがユーラシア研究所による、ブックレット刊行宣言であります。ところが東洋書店は2016年に倒産してしまい、その事業は例の「トバシ記事」で有名な『サイゾー』の発行元である株式会社サイゾーが引き継いで東洋書店新社として継承しているのだが、東洋書店時代の本については引き継いでおらず、この「ユーラシア・ブックレット」もサイゾーとしては扱っていない。なので、稀観本扱いなんだが、刊行当初(各600円)より安い値段で中古カメラ屋さんで売っているんでは、まあ古本屋さんも困ってしまうだろうが、買うほうにとってみれば同じ本が安く買えるんであれば、こんなにいいことはない。

 ユーラシア・ブックレットは全部で60巻あり、そのほとんどがロシア・ユーラシアの芸術・文化・経済・科学技術などを扱った「真面目な本」なんだが、何故かその60巻目だけが「ロシアカメラの世界」っていう、趣味丸出しの本になっているのが面白い。

 扱っているカメラは以下の通り。

「レニングラード、キエフ、ガリゾント、フェド、ゾルキー、キエフ中判」などといった、ドイツのライカやコンタックス(カール・ツァイス)、スェーデンのハッセルブラッドなどといったコピーカメラからLOMOが作っている最近のトイ・カメラまで、まあ広範囲にではないが、ロシアカメラ入門者用にはこれで必要最低限の知識はつくだろう。

 勿論、「写真は写真機ではなくレンズで撮る」以上は、そのレンズについて触れなければならないわけで、オリジナルとコピー・レンズの撮影比較が付いているのは親切。まずコンタックス用の「ゾナー5cm f2.0 vs. ユピテル-8M」、ライカLマウント用の「エルマー50mm vs. インダスター22」、ハッセル・コピーのキエフ88用の「アルスタット30mm f3.5」、中望遠の「ユピテル-9 85mm f2.0 vs. ゾナー85mm f2.0」。その他、スメナ8M、ルービテル166Uなどといった、私が知らないカメラやレンズの話もある。

 そもそも山本省三氏がなぜロシアカメラ・フェチになってしまったのか。もともと山本氏はヤマハに在職していたのだが、希望退職制度に応じて同社を退職。

『新しい私の職場はソビエト連邦との国交が回復した昭和三十年初期に革新系国会議員H代議士がソ連との文化の架け橋として機能する音楽輸入商社をと設立したのが起源で、その後、業容の変化はあったが、現在も旧ソ連圏から音楽メディアを輸入し、販売している会社である。

 カメラが生涯の趣味である、と自負する筆者がロシア関連の仕事をしていて、ロシアカメラから目をそむけていられるはずも無い。なぜならソビエトのカメラはその起源をドイツの技術を模倣することに始まり。大祖国防衛戦争勝利により工作機械も部材もまた技術者までも接収、生産を開始した経過があり、ツァイス直伝のレンズ群、コンタックス直伝のキエフボディー等、カールツァイスの技術がしっかりと受け継がれているのだから……。
 Y社に勤務する間にロシアカメラに、触手を動かさなかったといえばうそになる。カメラ評論で活躍されている田中長徳先生の本の中で絶賛されていたその武骨ともいえる、たたずまいのカメラはスプリングモーターでフィルム巻き上げとシャッターチャージを同時にセットする優れもので、本に掲載された写真と説明文に魅了され、米国の通販専門業者M・S氏から3台を購入したことがある。写真仲間に自慢したい気持ちと、まだ見ぬ恋人に逢いたい気持ちが購入を決意させたわけである。カメラ名はレニングラード、いずれも立派な革ケース付きである。
 レンズ付きで1台3万5000円くらいだったと記憶しているが、相場よりかなり高く買わされたようだ。』

 う~む、ここにも田中長徳氏の犠牲者(?)がいたわけであるな。

 まあ、でもその結果、「ユーラシア・ブックレット」としては異質の本書を書き上げたわけであるから、少しはその投資にたいする実入りはあったのではないか、とも思えるし、「いやいや、投資額に見合う実入りなんて当然のことながらあり得ない」とも思える。

 後は、この本を書いた山本氏の自己満足が如何ほどのものかと想像しながら、本書を読み進めるだけである。

『ロシアカメラの世界 隠れた人気の秘密』(山本省三著/企画・編集:ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会/東洋書店/2004年2月20日刊)

『ロシアカメラがむせぶ夜は―チョートクの赤色カメラ中毒者の作り方』(田中長徳著/グリーンアロー出版社/1999/12) ……こうなるともうビョーキです。当然、著者の田中氏はちゃんとビョーキをビジネスにしているのだから何の問題もないわけだ。

2018年4月 8日 (日)

富士フィルム、モノクロフィルムの生産中止

 富士フィルムホールディングスの中核的子会社、富士フイルムイメージングシステムズ株式会社の社告。

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『黒白フィルムおよび黒白印画紙 販売終了のご案内
                          2018年4月6日
                         富士フイルムイメージングシステムズ株式会社
 日ごろより富士フイルム製品をご愛用賜り、誠にありがとうございます。
 富士フイルムイメージングシステムズ株式会社(社長:西村 亨)は、長年ご愛用いただきました黒白フィルムおよび黒白印画紙につきまして、生産効率の向上や経費節減など懸命なコスト吸収につとめてきましたが、需要の継続的な減少により安定的な供給が困難となりましたので、販売を終了させていただきます。
 誠に勝手ではございますが、事情をご賢察の上、ご容赦賜りますようお願い申し上げます。
 今後とも、富士フイルム製品に変わらぬご愛顧を賜りますよう、お願い申し上げます。』

 つまり、今年の10月をもって現在富士フィルムから発売されている唯一のモノクロフィルム「ネオパン100 ACROSS」の販売を中止、更にモノクロ用印画紙フジブロWPを今年の10月から2020年3月にかけて販売を中止するということ。つまり、これで富士フィルムはモノクロフィルムからは完全撤退。残すフィルムはカラーリバーサルとカラーネガのみとなる。

 富士フィルムのモノクロフィルムといえば、ネオパンSSが一番最初に使ったフィルムだった。私が写真を始めた小学生高学年の頃、当時手に入るフィルムといえばこの富士ネオパンSS位のもので、コダックなどはちょっと高根の花だったように記憶している。勿論、カラーフィルムなんかもなかなか手に入らない時代でもあったのだ。

 その後、後発だったネオパン400 PRESTやネオパン1600 SuperPRESTの方が先に販売中止となり、今や富士のモノクロフィルムはISO100のネオパン100 ACROSSだけになったしまったので、いずれかはACROSSも販売中止になるとは思っていたんだが、実際に販売中止が発表になってみると、ちょっと寂しいかな。

 まあ、現在はコダックのトライXやT-MAX、アグファ、イルフォード、ローライなどのモノクロフィルムはまだ手に入るし、しばらくはコダックが作り続けるようなので、特に困ったことにはならない。とはいうものの、やっぱりネオパンSSで写真を撮り始めた自分としては、その後を引き継いだネオパン100 ACROSSがなくなってしまうというのは、ちょっと残念。

 そうやって物事がどんどんデジタル化していって、アナログなものはどんどんアナクロになっていくというのも世の中の趨勢なんだから、これは残念がってみても始まらない。デジタルカメラの時代(っていうか、富士フィルム自体が今やアナログカメラは出していないもんなあ)になったからと言って、多分アナログフィルムはなくならないだろうし、モノクロフィルムもなくならないだろう。つまり、そこには「表現」というものが横たわっている以上、絶対どこかの誰かがアナログなものを残すはずなんだ。

 ということなので、残念がっていないで、とりあえず富士フィルムホールディングスの本社までモノクロ写真(デジタルだけど)を撮りに行って来たら、「時代を語る林忠彦の仕事」という特別展が開催中だった。

『作家・太宰治や坂口安吾の肖像写真で知られる写真家・林忠彦は、戦後間もない銀座から再出発し、カストリ雑誌ブームの時流に乗って、一躍、人気写真家となりました。第二次世界大戦から高度経済成長へ、そしてバブル景気へと移り変わる激動の昭和時代、世相をとらえたスナップから文化人のポートレート、日本文化の真髄を追い求めた風景写真まで、林はありとあらゆるものをフィルムに写し込んでいきました。復興していく日本のエネルギーを原動力に、凄まじい勢いですべてを撮り尽くした林の仕事ぶりは、まさに「昭和が生んだ怪物」と呼ぶにふさわしいものです』

 というのがその惹句で、その公式サイトはコチラ

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Photo©林忠彦

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EPSON R-D1s LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Roppongi Azabu ©tsunoken

2018年4月 7日 (土)

ラドリオでやらないラドリオ会って?

 昨日は学生時代からの悪友4人で食事会。別名「ラドリオ会」といって、それは神保町の喫茶店ラドリオにたむろしていた4人だったんで、言い出しっぺのY川氏が名付けたものだった。

 で、そのラドリオ会なんだが、今でもラドリオによく通っているY川氏が特別に話をつけて、喫茶店であるにもかかわらず、特別に料理を作らせてラドリオにて開催していたものなのであります。

 それぞれ年に2回の温泉旅行と喫茶店ラドリオでの飲み会がラドリオ会の活動のすべて。

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 ところが、そのY川氏がかわいがっていた店長がラドリオを辞めてしまって故郷に帰ってしまったので、特別に料理を作ってもらえる人がいなくなってしまった。ということで飲み会の方の「ラドリオ会」なんだけれども「ラドリオ」で開催することができなくなってしまったのだ。

 なので、同じ神保町であるがラドリオならぬ「三幸園という中華料理店で行うラドリオ会」ということに相成ってしまったのだった。んんん???

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 まあ、旨いものが食えて、美味しいお酒が飲めれば場所はどこでもいいのか。

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 しかし、三幸園って言えば、白山通りに面したこの本店しか知らなかったんだけれども、神保町だけで5店もあったんだ。中華料理の店だけじゃなくて、ビストロとかバーとか、いろいろあるようだ。

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 だがまあ、中華料理というと餃子と回鍋肉、麻婆豆腐に紹興酒くらいしか知らない私にとっては、確かにこうした中華料理店、それも広東料理とか北京料理、四川料理、上海料理なんて専門的に分かれるよりは、一般的な「中華料理」の店って便利なのかもしれない。

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 まあ、でも結局はラドリオに行かなければラドリオ会じゃないわけで、ラドリオに行って、ウィスキーなんかを飲んで帰って来たわけなんです。

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NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Jimbocho Chiyoda ©tsunoken

2018年4月 6日 (金)

芝浜の舞台

 毎年新年の箱根駅伝の通り道として有名な、日比谷通りと国道15号線が合流するあたりに三菱自動車工業の本社が入る第一田町ビルがあるのだが、その地が昔の薩摩藩蔵屋敷があった場所。勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城を決めた場所だ。

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 同時にその場所は、落語の有名な噺『芝浜』の舞台になった場所でもある。

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『熊という肴屋、呑んだくれで手がつけられない。女房は度々異見をし、ある朝早く買い出しにやる。時間を間違えて余り早過ぎて出たが、引き返すのも面倒だと、熊は芝浜まで行くと、図らず百両入った皮財布を拾ったので直ぐ家へ引返し、この金があれば稼がずとも宜いと、太っ腹に成り、夜が明けたら友達を呼んで祝い酒を飲もうと言いながら、残り酒をを呷って寝た。いよいよ夜が明け渡ると、女房がゆり起し、遅くなったから買い出しに出て呉れという。熊は夜中に拾った金があるから稼がずと宜いというと女房は、金を拾ったなどと、夫は夢でも見たのだろうと打消して、買出しにやる。熊は夫から酒を断ち。丸二年神妙に稼いで、身代も相応に成ったがその大三十日の夜、女房は百両の財布を出して見せ、あの時夢にして了ったのは、もしその金を遣えば罪人となるからなのだ。家主と相談して、お上へ届けて置いたが、一年経って落とし主が出ぬというので、拾い主へ下げ渡されたのだと話す。熊は夫を聞いて涙を流して喜ぶ。女房は、この位辛抱したからもう可かろうからと願を解いてお酒でも飲んだら何うか、という。
「いや酒はよそう、この金がまた夢に成るといけない」』(<芝浜>『新編 落語の落 1』より)

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 建物の裏側に回ってみると「御穂鹿嶋神社』という神社がある。元々、「御穂神社」と「鹿嶋神社」という二つの神社だったんだが、平成16年(2004年)に合併して、平成18年に現在の地に建立されたそうだ。

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 神社があるくらいだから、多分この土地まではまだ海ではなかったんだろう。それらしい碑が「雑魚場跡」という碑。それこそ「芝海老」というのはこの地で水揚げされた海老らしい。つまり、芝浜あたりは江戸前の小魚などを扱う、昔の魚市場があった場所なのだ。

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 で、この碑のあったあたりで熊さんは百両入りの皮財布を拾ったんだろうな。しかし、十両位なら分からないでもないが、百両も入った財布なんて当時あったんだろうか。一両が10万円とすると1000万円にもなる金額である。それが一年経っても落とし主が現れないっていうのは、相当ヤバいお金なのかもしれない。

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「芝浜」というのは人情噺の一種で、上手い噺家が演じるとなんともはや曰く言い難い味が出てくるんですなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA-WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Shiba Minato ©tsunoken

2018年4月 5日 (木)

東京周縁部を往く・江東区潮見:カトリック潮見教会

 昨日書いた江東区潮見二丁目にあるのがカトリック潮見教会。この教会が一般的には「蟻の町教会」と呼ばれているそうだ。

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「蟻の町」とは何なのか。

「蟻の町」とは昔隅田川の言問橋のたもとにあった、昔の呼び方で言えば「バタヤ部落」という、廃品回収業で生計を立てていた人たちの、生活の場であり仕事の場であった場所のことである、

 この蟻の町に修道士であるゼノ・ゼブロフスキーと北原怜子という二人のキリスト者がいた。ゼノ神父と北原玲子は蟻の町にやってきて孤児の面倒を見たり、人々の生活の世話などをしていた。

 蟻の町の課題として、戦後の混乱期に東京都の土地を勝手に占有していたため、強制立ち退きをされるリスクがあった。そのため、蟻の町を仕切っていた元ヤクザの小澤求や、法律事務所でアルバイトをしながら後に『蟻の町のマリア』を執筆することになる松居桃楼は孤児救済者として知られた修道士であるゼノ・ゼブロフスキーと蟻の町の奉仕に尽力していた北原怜子に協力を依頼し、クリスマスの開催と翌年の聖堂建築を行ったという。

 それが蟻の町教会の前身。

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 その後、東京都が指定した立ち退きの後の代替地が江東区深川8号埋立地だった。敷地面積は16000㎡で、旧蟻の町の10倍であった。代替地への移転なので、当然そのための土地代が必要であったが、東京都の条件は「敷地代1500万円で5年間分割」という蟻の町の要求通りの破格の条件であったという。

 東京都の担当者としても、戦後の歴史からしても蟻の町の存在の必然性は認めざるを得ない状態だっただろうし、ゼノ神父や北原玲子の存在も知っていたらしい。

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 1960年(昭和35年)6月4日に蟻の町は隅田公園一角より東京都江東区深川8号埋立地へ移転した。新蟻の町には公衆浴場、児童公園、保育室などの福利厚生施設も建設されるなど、恵まれた社会環境が整備された。蟻の町教会はカトリック枝川教会となって小教区に認められ、現在はカトリック潮見教会と名称を変更している。

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 若くして亡くなった北原玲子は『蟻の町のマリア』のモデルとして世の中に知られ、映画になったりもしたのだが、その北原玲子の像と蟻の町教会について書かれた碑が、カトリック潮見教会の庭には立っている。

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 隣には日本カトリック中央協議会が運営する日本カトリック会館がある。

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 カトリック潮見教会自体はそれほど格式の高い教会ではないが、それなりに日本のカトリックにおいても重要な存在ではあるのだ。

 潮見の町の片隅にひっそりと建っているカトリック潮見教会。特に見るべきものも北原玲子の像くらいしかないが、一度、そのひっそりぶりを見に行くのも、心が落ち着いていいかもしれない。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shiomi Koto ©tsunoken

2018年4月 4日 (水)

東京周縁部を往く・江東区潮見

 江東区潮見を「東京周縁部」と呼んでいいのかどうかについてはちょっと怪しい。すぐ隣が夢の島だし若洲なんかもある。夢の島や若洲が「東京周縁部」というのは、まさしくその通りなのだが、潮見はその一つ内側ということになる。

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 しかし、江東区潮見となったのは1968年(昭和43年)に江東区に編入されてからの話で、それまでは東京都の番外地で8号埋立地と呼ばれていた、人口島だったのだ。

 その後もしばらくの間は交通手段としてはバス便しかなく、まさしく「孤島」、「陸の孤島」じゃなくて、読んで字の如く「孤島」そのものの町であり、下町らしい小さな工場が立ち並ぶ工場地帯だった。貨物路線だったJR京葉線が旅客を運ぶようになって潮見駅ができたのは1990年(平成2年)。多分その頃から人が住み始めた、っていうか宅地としての開発が進められるようになったんだろう。

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 今はそれなりに住宅やアパート、マンションなんかも見えるし、ホテルの開業、建設も盛んなようだ。なにしろ京葉線で東京駅まで3駅、数分という便利さなのだ。

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 というか、東京ど真ん中の東京駅からたった数分で周縁部まで辿り着いてしまうっていうのが、東京東部の面白いところで、一方、東京西部は1時間以上かかるっていう、東京中心部の東への偏りっぷりっていうのが、これまた面白い。

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 運河を挟んで対岸は江東区枝川。まあ、運河って言ったって、当然この場所は昔は海だったわけで、川というよりは海である。味わったわけではないが、多分味はしょっぱい?

 太田道灌の江戸城築城に始まり、徳川家康が江戸城主になってからは江戸城拡張の際の残土を使って、佃島を作ったり、今の銀座辺りの埋め立て工事をはじめ、深川周辺などに埋立地を拡張。

 その後、明治に至り、昭和までにかけては東京の「ゴミ」を埋め立てに使い、どんどん東へ伸びてきた東京。とりあえず、その最先端が夢の島、新木場、若洲っていうあたり。その辺のダイナミズムはスゴイと言うほかはないんだが、それにしても1,000万都民の出すゴミの量ってのが半端じゃない。

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 そのたびごとに「東京周縁部」が広がっていくっていうのは、このブログのネタ的にはありがたいんだけれども、本当にどこまで広がっていくんでしょうかね。

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 面白いのは潮見のランドマークになっている潮見一丁目アパートなんだが、タワーマンションならぬタワー都営住宅なんで、ベランダに布団が干してあるっていうところがご愛嬌。周辺住民から文句は出ないんでしょうか? って、そうか周辺住民なんていないんだ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Shiomi Koto ©tsunoken

2018年4月 3日 (火)

巣鴨雑景からの……

 3月25日のブログで書いた「寸景」とは違って、「雑景」というのは銃器用語や軍事用語からの派生語ではなく、写真用語っていうのかなあ、まあ、「いろいろな景色」っていうだけのことなんだけれどもね。

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 ただし、3月25日のブログではAPS-Cサイズの撮像素子を持つEPSON R-D1sにVOIGHTLANDER URTLA-WIDE HELIAR 12mmを装着して撮影したんだが、今回はフルサイズの撮像素子を持つライカM6(っていうか、フィルムは撮像素子じゃないし、35mmフィルムは35mmフィルムなので、当たり前の話をしているだけ)に装着して撮影。ただし、横浜中華街の時のような仰角撮影はあまりやっていない。

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 まあ、普通に水平アングルで撮影している限りは、ごく普通の超広角レンズでしかない。それはいいんだが、本当に撮影時点ではもっと近づいているような気がしていたのに、現像済みのフィルムを見ると、う~ん、なんかすごく引いた絵になっている。

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 とはいうものの、それなりに面白い写真になっているということもある。

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 その一方で、やっぱりかなり腰が引けている感じのする絵にもなっているなあ。

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 写真を撮る以上はもっと被写体に近づかなきゃね。

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 なにせ『ハッと感じたら、グッと寄って、バチバチ撮れ!』ってのが、篠山紀信氏の主張だもんね。

LEICA M6 VOIGHTLANDER URTLA-WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Sugamo ©tsunoken

2018年4月 2日 (月)

目黒・茶屋坂:目黒のさんま

 JR恵比寿駅を恵比寿ガーデンプレイスの方の出口を出てアメリカ橋を渡ると、恵比寿南の交差点を目黒川、山手通り方面へ降りていく坂道がある。

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 その坂道を少し降りて左側に目黒台スカイマンションというのがあり、その前から二又に分かれて、その一方がかなり急な坂道を降りていくところがある。

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 滑り止め舗装がしてあるほどの旧坂なんだが、その坂を右に曲がって降りた先に目黒区教育委員会が作った碑がある。

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『茶屋ヶ坂 江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている』

 というのがその文章なんだが、どうもその「爺々が茶屋」の親爺が、あの落語の「目黒のさんま」の爺さんのモデルだったっていう話があるんだ。

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 だとすると、落語では「あるお大名」ということで済ませている「あるお大名」って、それじゃあ徳川家光とか、その後の将軍ってことなのか?

 そんなのありかぁ?

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 三代将軍徳川家光は鷹狩りや江戸詰めの大名屋敷なんかを突然訪れるれるのが好きだったという話があり、富士山がよく見える目黒川の手前の坂道には鷹狩りでよく行ったというのは分かるんだが。

 そんなところでさんまの塩焼きなんかを食べたんだろうか?

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 まあ、将軍様だったら料理係がさんまの油をしっかり抜いてお吸い物にしてしまった、っていうその後の話はいかにもありそうな話ではあるが、という前に、将軍が如何に我儘だといっても、そんな訳の分からんところでさんまの塩焼きなんかを食わせないだろう。そんなことをさせてしまったら部下は切腹もんですよ。

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 こりゃあ、一度ちゃんと調べてみる必要があるなあ。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA-WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Mita Meguro ©tsunoken

2018年4月 1日 (日)

神保町「いもや」閉店

「いもやが閉店」って言ったって、「いもや? 何それ?」っていう人は多いはずだ。

 日大や明治大、そして昔の中央大生にとってみれば(あっ、スマンスマン専修大もいましたね)、「えっ? あの『いもや』が?」ってな話題ではあるのだ。

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 いもやっていうのは、神田神保町に60年前からある天ぷら屋でありとんかつ屋なのである。かなり最近まで、天丼一杯500円(現在は600円)なんてコストパフォーマンスの良い店として知られており、上記の学生たちやサラリーマンなどから親しまれていた店だ。

Epsn00062 私がよく行っていたのは、表通りのほうじゃなくて。こちらの店。

『いもやは、昭和34年来の約60年に亘って、皆様にご愛顧いただきましたが、3月31日を持ちまして閉店することとなりました。いもや店主』という書き物と一緒に閉店するのは神保町2丁目にある『天丼・いもや』と『とんかつ・いもや』の2店舗。

 要は元々あったお店の直営店のみが閉店ということで、直営店の元従業員が独立・開業した神保町1丁目の『天ぷら・いもや』、東京・東神田の『とんかつ・いもや』、栃木市藤岡町の『とんかつ・いもや』、青森県弘前市の『天ぷら・いもや』といった暖簾分けの4店舗は残るということなので、どうしてもいもやの味を味わいたい人は栃木藤岡でも青森弘前でも行ってください。どこにあるのかは知らん。

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 学生のころから「いもやって言う店があるぜ」的な広まり方で知られてきて、サラリーマンになってからも、仕事で神保町辺りに行ったときは結構ここで昼飯を食べて会社に戻ってきたりしていた。なにせ、500円ですよ、500円。500円硬貨ができる前から500円、ワンコインだったんです(? って変だな)。

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 そんないもやがなんで閉店? っていうことなんだが、要は単純な話。周辺のチェーン店とは競争にならなくなってしまったし、経営者も高齢化してしまい、もう無理ができなくなってしまった、っていうことなのだ。

 まあ、場所も白山通りの一等地だし、もし自分の土地建物だったら、もう人に貸すだけで左うちわで生活ができる場所だし、年齢的にも年金が十分もらえる年齢なので、もはや無理して店を経営する必要はなくなってしまった、っていうこと。

 毎度おなじみの、今日明日閉店だっていうと突然行列を作る客たちが相変わらず行列なんだが、だったらもっと早くから行列を作って店が閉店できないようにしろよ。今頃になって「いやあ、惜しい店がなくなって残念」とか「これでもって、また昭和の思い出の一つがなくなってしまう」なんて知ったかぶりを言うんじゃないよ。

 まあ、このいもやの跡地にもすぐに新しい店ができるだろうし、そんな店ができてしまえば、みんないもやのことなんかは忘れてしまうんだろう。まあ、店の盛衰、街の盛衰なんてものはそんなもんよ。

 これでまた昭和の思い出がなくなってしまう、なんて知ったかぶりのことを言う気はまったくありません。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER ULTRA-WIDE HELIAR 12mm f5.6 @Jinbocho ©tsunoken

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