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« 『マンションは学区で選びなさい』という提言はまったくその通りなんだけれども | トップページ | アジェをそんなに勝手に解釈していいものなのだろうか »

2017年12月10日 (日)

久々の日光街道北千住宿

 薬局から薬が入ったとの連絡が入り、それを取りに行った帰路、駒込病院前から北千住駅行きのバスに乗って久々の北千住であります。

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 北千住と言えば、当然それは日光街道千住宿である。

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 で、その旧日光街道千住宿(現在は「宿場町通り」と名付けられている)を南の方へ少し行くと、こんな広場があり「千住宿問屋場・貫目改所跡」という足立区教育委員会の説明版が立っている。

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『旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所がおかれていました。
 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州街道内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州街道千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲をしめしています。』

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 もう一つ、北千住と言えば梅沢富美男なんであります。元々、梅沢氏が売り出したのが北千住にあった梅沢富三男劇場なんだけれども、現在はそれがシアター1010(「せんじゅう」と読む)になったって訳ね。いまでも「おひねり」なんかがいっぱい飛んでくるんだろうなあ。

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NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 @Kita Senju Adachi ©tsunoken

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