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2017年12月

2017年12月31日 (日)

本年もご愛読、ありがとうございます

 本年も「tsunokenのブログ」ご愛読していただき、ありがとうございます。

Photo です

 今年は1月に受けた定期健診で「無痛性心筋梗塞」というのが発見されて、主治医から紹介されて日本医大付属病院に通うことになった。

 というのが今年のケチのつき始め。というか結局このことが、今年一年間を支配しちゃったんですね。

 4月に3日、6月に13日入院して、カテーテル治療を行ったんだが、結局、血管の石灰化が思った以上に進行していて、二度ともカテーテル治療はあきらめる結果となった。特に二度目は出血も多くて、一時的には消えゆく意識の下で「血圧50、22」という看護師の声を聴いたときは、「ああ、人間って死ぬときは、こんなことを聞きながら死んでいくのかな」なんて、自ら「死」というものを意識した経験だった。その後のことは覚えていないのだが、でもそれはちょっと大袈裟で、結果として死ぬことにはならなくて、今、こうしてブログを書いているっていうわけです。

 結局、カテーテル治療はあきらめて、半年後、冠動脈バイパス手術を行うことになり、10月28日から11月20日まで、24日間入院して術後を済ませたんだけれども、その間、20日間以上ブログの更新をせずにいて、読者の皆様には心配をかけてしまった。まあ、日本医大はバイパス手術で実績を持っている大学なんで、本当は初めからバイパス手術をやりたかったんじゃないかなあ。

 でも、その間も毎日200~300ほどのページビューがあって、まあ多分、皆さん「今日は更新しているかな?」という興味で取り敢えずポチってしまったというところなのだろう。

 いやいやいや、「tsunokenのブログ」読者の皆さんには、大変ご心配をおかけしてしまって……………。

 まあ、今年のブログの総括は来年の1月1日のブログで行いますので、そこで今年一年間の状況を見てください。

 三週間の入院っていうのは、実際に体験してみるとかなり長い入院生活だったのかなあ、と退院した今は思っています。

 体重が10kg位落ちた。

 落ちたのはいいんだけれども、問題は贅肉が落ちて体重が落ちたんじゃなくて、筋肉が落ちて体重が落ちたっていうこと。とにかく、手術後七日間はICUでベッドに寝た切り生活。ICUから一般病棟に移った後も、なるべく歩こうとは思っていても、結局は病院の病棟フロアの中と、検査で他の階に動くだけっていう生活で、まあ、それ以前から比べるとほとんど「歩いていない」状態だった。なので、太腿を見ると筋肉が落ちて皮膚がたるんだ状態になっており、かなりの筋肉が落ちているのが見ていてもよくわかる状態。

 退院してから「どんどん歩きなさい」という医師の勧めに応じて、毎日歩こうとしているのだが、他の人と比較してもうゆっくりとしか歩けない、沢山歩けない、という状況で、「毎日一万歩」という、入院以前の一日の目標をカバーしようとすると、本当に疲れてしまうっていう状況だった。

 まあ、とにかく「一日一万歩」なんです。

 まあ、現在はかなり旧に復したような様子はあるが、まだまだ完ぺきではない。「リハビリ日記」は終わったが、まだまだリハビリ生活は続いているような状態なんですね。

 まあ、今は以前の通り、またまたブログのほうは「一日一本」というペースでUPしていきますので、来年もご愛読の程、よろしくお願い申し上げます。

0001370436001 で、にバトンタッチです。

 しかし、荻野目洋子ちゃんは相変わらずですねえ。「バリバリ伝説」で歩惟役をやったときはまだ17歳。「ダンシング・ヒーロー」が大ヒットする半年ほど前でした。まあ、アフレコ時にはいろいろあったけれども、それは墓場まで持っていこう。

 

 

2017年12月30日 (土)

85mmで街撮りスナップ in 横浜

「85mmで街撮りスナップ」のシリースは昨年の11月30日に谷中の夕焼けだんだん・よみせ通りで始めて、浅草、銀座、巣鴨、麻布とやって、今年に入って1月22日の新宿、3月20日の横浜とやって、なんとなくその後はやめてしまっていた。

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 昨日、久々に85mmレンズを引っ張り出してきて、いざ横浜へでかけたんですね。

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 まあ、私の街撮りスナップってのは、どこに行っても、何を撮っても同じで、まあ、興味は「人」なんですね。

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 昨日は御用納めも終わって、長距離列車は家族連れで満員だったけれども、そうじゃない人たちは、まあ盛り場に、観光地などにでかけるわけですね。

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 んで、そういう人たちにカメラを向けるんだけれども、最近は「肖像権」だなんだと五月蠅い人が多くなってきた。人目につく盛り場に自ら出てきて「肖像権」もへったくれもないと思うんだが、ああ、面倒くさい!

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 なんか最近は浅草の仲見世でも店員にカメラを向けると「撮らないでください」なんて言われることがある。「だったら、店員を店先に立たせるな!」って言いたくなる。

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 まあ、それはいいとして、今年の最後のスナップ・ショットではありました。

 来年もよいお年をお迎えください。

 あ、明日もブログ更新ありますよ。写真じゃないけど。

NIKON Df AF Nikkor 85mm f1.8 @Kannai Naka Yokohama ©tsunoken

2017年12月29日 (金)

そして浦和へ

 昨日の『首都圏格差』でもってこんな書かれ方をした浦和に行った。

『埼玉県の県都・浦和は、特に他県民から過小評価されることが多い街だった。駅の規模や駅前の様子は、大宮のほうが圧倒的に県都に相応しい規模だからである。

 旧浦和市民がわが街の誇りとしてきたものは、この行政(埼玉の県庁所在地は浦和:引用者注)、教育、サッカーの3つである。それらがなければ、全国的知名度で圧倒的に劣る大宮と(埼玉県の県庁所在地を大宮と思っている他県民は多い)、何かにつけて張り合うことはできなかったはず』

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 確かに浦和と言えば、今はサッカー浦和レッドダイアモンズという名門チームの本拠地で、大宮アルディージャよりもずっと全国区だね。まあ、「Japanese Only」はいただけなかったけどね。学校も埼玉県立浦和高校って言えば、埼玉県のナンバーワン・パブリックハイスクールだ。

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『 それに加えてよく聞くのが、高額所得者の多さである。現在の浦和区には、岸町や高砂、常盤と古くからの高級住宅街が点在している。しかも高級住宅街を含む学区には、進学率が高くブランド化した小学校があり、教育熱心な高所得層の流入が絶えることがない』

 うむむ、なかなか侮れないさいたま市浦和区なのである。

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 なんてことを聞くと、「うん、浦和もいいなあ」なんて思えてくるんだが、この浦和という町は元々旧中山道の宿場町として有名なところで、日本橋から25km位の距離なんで、実際に旅立ちの一泊目として使った町だったのかもしれない。

 なので、それなりに宿場町としての規模も大きくなる。お隣の大宮は宿場町っていうよりは、武蔵国一宮である氷川神社の鳥居前町(神社の場合の門前町の意)というイメージの町だもんなあ。

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 この奥にある玉蔵院というお寺のそばが浦和宿本陣があったところ。まあ、ちょっとズレてはいるんだけれども。

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 で、ちょっと先には二日・七日・十二日・十七日・二十二日・二十七日の二と七の日に市場が立った「浦和宿二・七市場」があります。

 古い歴史と、新しい生き方と両方を体験できる町なんですね。浦和っていうところは。

Fujifilm X10 Fujinon 7.1-28.4mm f2-2.8 @Urawa ©tsunoken

2017年12月28日 (木)

『首都圏格差』って…、もうちょっと食傷気味

 多分、『東京は世界1バブル化する!』(浅井隆+DKTリアルエステート著/第二海援隊/2014年8月12日刊)という本に、私が今住んでいるマンションの写真が掲載されているというので、買って読んだのがきっかけなのかもしれない。その後、自分の家がある文京区ってどんな感じなんだろうかという興味から、東京のいろいろな場所の地価動向・地価格差についての本はかなり読んだんだが、もうすでに食傷気味になっている。

 で、そのついでに『首都圏格差』なんだが、もうちょっとこのテの本には飽きた、多分、この本がその最後になるだろう。しばらくは、地価などに関する本については触れないでいこう。

Photo 『首都圏格差 1都3県・主要都市の本当の実力』(首都圏生活研究会著/メディアソフト/2017年8月15日刊)

 まあ、首都圏全体を総記している第1章については特別なことはない。「人口格差」「教育格差」「治安格差」所得格差」「健康・医療格差」などについて、首都圏の各都県及び自治体について書いてあるんだが、まあ、予想通りっていうか、「まあ、そうだよな」ってなことが書いてあるので、ここでは第2章以下の地区ごとに分かれた部分を紹介してみよう。

第2章:東京(山手線圏外)
 「住みたい街」として評判な街の本当の姿 吉祥寺
 タワーマンションが林立する再開発地 豊洲
 プチセレブが闊歩する新興高級住宅地 二子玉川
 人口爆発に悩む「オタクの聖地」 中野
 どっしり落ち着いた住宅地 荻窪
 米軍から勝ち取った土地を利用して発展! 立川
 大型施設の出店ラッシュで絶好調だけど…… 八王子
 ちょっとコワいイメージは払拭できない!? 町田
 抜群の都心アクセスと超充実の商店街 赤羽
 東西駅前の大開発が見せた底力 北千住
 変貌を遂げ注目度上昇中の下町 蒲田

第3章:神奈川
 巨大都市の間で時代とともに変化する街 川崎
 タワーマンション乱立の憧れの街 武蔵小杉
 丘陵を境界線とした「超」が付くほどの格差地域 横浜・山手
 終の棲家の青葉区と一過性の都筑区
 横浜・北部 たまプラーザ・あざみ野・青葉台
 一大ベッドタウンを有する港南区と昔ながらの南区
 横浜・南部 上大岡・港南台
 何もなかった田園地帯が平成になって大変貌! 海老名
 都心へのアクセス抜群の巨大ベッドタウン都市 相模原
 住みたい街にも支持される超人気観光地 鎌倉
 積極的に街づくりを進める湘南の拠点 藤沢

第4章:千葉
 暮らしやすさの面で完成度が高い街 船橋
 「デイズニーリゾートの城下町」の異名を持つ 浦安
 緑地を保全する新しい21世紀型のベッドタウン 流山
 東京に隣接している隣町感覚の下町が発展 松戸
 人口が安定して増え続けるニューファミリー向け都市 柏
 市川駅・本八幡駅の再開発で元気に! 市川
 文教都市として評価されファミリー層の人口増加 習志野
 千葉ニュータウン中央駅に集約される町 印西
 国際空港を擁し、経済・産業構造が大発展 成田
 昔ながらの街並みから最先端のベイシティまで 千葉
 バブル崩壊で低迷もアクアライン効果で復活 木更津

第5章:埼玉
 浦和の街はブランド小学校と高級住宅地でもつ!? 浦和
 関東圏で最上級に路線充実する大宮駅のお膝元 大宮
 浦和と大宮の真ん中という意味では「中央」だけど!? さいたま 中央区周辺
 一級の観光地ながら生活の利便性も備えた街 川越
 東京の大ベッドタウンにして西武の拠点 所沢
 何でも揃う巨大モールから激安店まで! 越谷
 ブルーカラーの街から小綺麗なファミリーの街に 川口
 利便性が広く浸透していない東武の穴場 草加
 ファミリーが注目するエリア 上尾
 ベッドタウンというより地方都市然とした人気アニメの聖地 春日部
 車があれば日常生活は快適! 熊谷

 うーん、なんかなあ、このサブタイトルを見ただけで、ほとんどどんなことが書いてあるのかが分かってしまうっていう、っていうのがスゴいでしょ。

 まあ、それだけこれまで出版されたいろいろな街を取り上げた「地域本」「地域格差本」「沿線格差本」などがあるっていうことなんだよな。そのかなりの数を読んできてしまうと、なんか既に何が書いてあるかが事前に分かってしまって、新たに「よーし、この本を読み倒してしまおう」っていう気分にならないんだよなあ。

 なので、今回は本書を紹介しただけで、特に内容には触れない。というか、これまで私が紹介してきた「地域本」を読んでれば、この目次を見ただけで既に何が書いてあるかが分かってしまうのである。

 なんか、面白くないなあ。

 まあ、それだけのこと。

『首都圏格差 1都3県・主要都市の本当の実力』(首都圏生活研究会著/メディアソフト/2017年8月15日刊)

2017年12月27日 (水)

犬を連れて歩く婦人

『犬を連れて歩く婦人』なんていうタイトルをつけると、いかにも「泰西名画」風のタイトルにも思えるが、でも、こんな写真じゃ「犬が嫌がるのを無理やり歩かそうとしている婦人」になってしまって、全然「泰西名画」じゃなくなってしまう。

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 ちなみにコトバンクでもって「泰西名画」を調べたら、関連キーワードで「額縁ショー」なんてのが出てきた。

「額縁ショー」って何なんだ? 『泰西名画を模した額縁式の舞台セットの中に上半身裸体の女性をポーズをとって立たせたもの。ストリップショーの元祖。昭和22年(1947)1月東京新宿帝都座の「名画アルバム」が始まり』というものだそうだ。ストリップは見に行ったことはあるが、「額縁ショー」なんてのは見たことはなかった。なんでも、終戦当時は踊り子が動いちゃうと「公然猥褻」になってしまうので、まるで「泰西名画」の額縁みたいに全然動かない踊り子を配して、数秒間だけ幕を開けて踊り子の裸をみせたそうだ。

 う~ん、当時の大人の男って純情だったんですね。

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 で、そうじゃなくて、私が「泰西名画」って言ってるのは、モネ、ドラクロワ、ルノワールなんかの印象派の絵のことなんですけれどもね。

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 そんな風な絵の中で、婦人が犬を連れて散歩をしているっていうのは、如何にも印象派風の絵の題材としてありそうじゃないですか。

 ただそれだけのことだったんだけれども、「犬とご婦人」が目に入ったんでカメラを構えたら、突然犬が歩くことを拒否し始めちゃって、オバさんが何とか歩かせようと思って無理やり引っ張っている、っていうショットになったんであります。まあ、犬の心は人間には分かりませんからね。

 いやあ、まさに偶然の一枚ではあります。

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 そこへ行くと、こうした公園で普通に犬と散歩している様子ってのはね……。

Fujifilm X10 Fujinon 7.1-28.4mm f2-2.8 @Roppongi Azabu Juban Minato ©tsunoken

 

2017年12月26日 (火)

ってことで、今日は江古田へ行こう

 昨日の続き……ってことで、今日は江古田へ行こう……なのだ。結構、安易な発想

 当然、江古田と言えば日大藝術学部なんだが……、実は西武池袋線の反対側、千川通りの方に行くと武蔵大学があって、まあ、基本的には江古田は学生の町ではあるんだけれども、日大藝術学部の町ではない。

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 長徳氏たちが日大校歌を歌いながらデモをして向かった浅間神社は江古田駅の北口の真ん前にある。 浅間神社なので、当然ながら富士塚があって富士講の行事も行われているそうだ。

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 実は私は江古田周辺に住んだことはないが、学生時代に日本テレビ報道部でアルバイトをしている時に、同じバイト仲間で日大藝術学部の奴がいて、そいつの下宿先に夜中に酔っぱらって泊ったことがある。夜間のアルバイトなんで最終担当が「今日の出来事(現在の「ニュースZERO」にあたる)」なので、毎日仕事が終わるのは深夜1時頃で、四谷辺りで飲んでから帰ります。

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 もうなにせ40年近く前のことなんであまり詳しくは覚えていないんだが、下宿というよりは個人経営の木造アパート(当然、風呂なし)で、下宿ではないので夜中に帰っても大家と顔を合わせることはない。

 まあ、今はそんなアパートもなくなっているんだろうな。

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 で、面白かったのは、当時、日大藝術学部には入学試験で親の面接があったということ。その友人は九州出身なんでご苦労さんなことに、親御さんがわざわざ東京まで来て面接を行ったそうだ。「何で?」という質問に実に簡単な答え「四年間学費を払うことができるかの確認」なんだそうだ。

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 今はそんな親の面接なんてものはないそうだが、如何にも「お坊ちゃまの行く大学」って感じの話しで面白かったことだけは覚えている。だからこそ「日大校歌を歌いながらデモをして向かった浅間神社」なんだよなあ。大学生なのに「インターナショナル」も知らないのかよ、ってね。

FUJIFILM X10 Fujinon 7.1-28.4mm f2-2.8 @Ekoda Nerima ©tsunoken

2017年12月25日 (月)

田中長徳氏の連載が始まった

 しばらくカメラ雑誌を読んでいなかった。

 と、思ったらいつの間にかカメラ雑誌ってマイナー雑誌になっていたんですね。私の家のそばにある文教堂に行ったのだが、『日本カメラ』は置いてなかったのであります。

 女子カメラ系の雑誌は増えているので、カメラ雑誌(写真雑誌)そのものは増えているんだが、昔からのカメラ雑誌は読者を失っていたんだなあ。まあ、「インスタ映え」するような写真をどうやって撮るかみたいな特集には需要はあるだろうが、カメラのメカニズムなんかにはいまのカメラ人種はあまり興味なんかないんだろう。

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 で、なんでいまさら『日本カメラ』なんだって言えば、田中長徳氏の連載記事『TODAY TOKYO 1964-2020』が2018年1月号から始まったのだ。

 第1回の今号は「練馬区旭丘」、西武池袋線江古田駅前、つまり日大藝術学部があった駅の周辺のどこかである。で、今回のサブタイトルは「日大闘争で 我々は日大の校歌を歌いながら デモンストレーションをした」。というサブタイトルで、1966年の駅前写真と、同じ場所(多分)の2017年の写真が掲載されている。

『日大から江古田駅までの道は本当に細い。学生で溢れかえっていた。集会をする場所もないのである。仕方なく駅のすぐそばの浅間神社で集会をした。そこに行くまでに歌ったのはインターナショナルではなかった。なんと日大の校歌を歌いながらデモンストレーションをしたのであった』

 という文面を見るとなんかすごい牧歌的な風景を想像するんだが、既にそのころ高校生だった私たちは、インターどころかワルシャワ労働歌だって歌っていたんだ。つまり、日大藝術学部の学生さんたちの政治オンチぶりがよく出ている一文であると捉えておくべきだろう。まあ、そこで政治オンチだろうがなんだろうが、その後の人生には一切関係ないんですけれどもね。

 写真に関する記事は『1966年のショットはこうして見ていると通行人に味わいがある。2017年のショットは人物が路上から完全に消えている。つまらない時代になったものである』で終わっている。

 まあ、撮影した時間によっては人通りもいろいろ変わるのであるから、それも仕方ないだろう。江古田駅前はいまでも夕方頃になると結構人手も多い場所なんですけれどもね。

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 連載開始を記念してか、「口絵 Photographs」で田中長徳氏の「WEIN 1973・2016」が掲載されている。

『1973年5月から1980年11月までオーストリアのウィーンに住んでいた。正確に7年と半年であった。約3000日に足りない日数だ。家人が小学校高学年の頃にヨーロッパに留学したいと思って、結婚相手を拉致して向こうに行こうという犯行の動機があったそうだ。だから被害者は私1人で充分だ。
 家人はあちらの音楽大学を卒業したが、私は町歩きが面白いのでついつい足掛け8年の長逗留になってしまった。その記憶をたどって最近出かけて撮影した写真と40数年前の写真を合わせてみた』

 というのがその「口絵ノート」

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 なぎら健壱氏の連載も始まったし、面白そうなので『日本カメラ』定期購読しようかしら。『銘機礼賛』以来、十数年ぶりだなあ。

2017年12月24日 (日)

おっとどっこい、駒込だぜぃ

 久しぶりにフジフィルムX10を持ち出して近所をウロついてみた。で「おっとどっこい、駒込だぜぃ」なわけなんですけれども、何で「おっとどっこい」なんだ? まあ、タイトルにはまったく意味はなかったですね。う~ん、ついに文章まで「出たとこ勝負」になってしまったのか?

 そういえば、ここのところシリアスフォトもスナップも全てニコンDfでもって撮影をしていた。でも、ときどきそれが大きすぎて邪魔になることが最近気になって来た。。

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 そんなときはRICHO GRDⅡあたりを使っていたんだが、そういえばFUJIFILM X10っていうのがあったんだ、というのを思い出した。

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 何故、フジフィルムX10をあまり使わなくなったのか? う~ん、そのいかにもコンデジっていう大きさや、やっぱり使い勝手がコンデジっていう感じがちょっと気に食わないって言うか、なんか疎遠になっていたな。

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 で、少し気分を変えてX10にデジタル・ライカに使うような、フィルムの巻き上げレバーみたいに親指をかける「サムレスト」をつけてみたり、レリーズボタンにつける「ソフトレリーズ」を追加したり、いままでどのカメラでも使ったことのない皮ケースをつけてみた。

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 う~ん、なかなかいいなあ。もともとデジタルカメラの割にはアナログっぽいデザインのX10なので、こうしたレトロな雰囲気のアクセサリーはよく似合う。なんかその気になってきたなあ。って、私も単純な男だな。

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 う~ん、これでシリアスフォトはニコンDf、エプソンRD1-s、ライカM6、でスナップ・シューティングはX10にまかせるっていう使い分けはできそうだ。

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 問題は、私の方に「シリアスフォト」と「ストリート・スナップ」の区別がつかない、どう違うのか分からない、っていうことなんですがね。う~ん、そちらの方が問題か。

Fujifilm X10 Fujinon 7.1-28.4mm(35mm換算:28-112mm) f2-2.8 @Komagome Sugamo Toshima ©tsunoken

2017年12月23日 (土)

この先車の通り抜け出来ません

 本郷通りを歩いていて、ちょっとわき道に入ろうとすると、こんな看板に出くわすことになる。

「この先 車の通り抜け出来ません」

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 まあ、それだけ本郷通り(日光御成道)の裏通りって、昔のままの家や道が残っていて、車が通るどころか、人が歩く際にもちょっと体を斜めにしないと通れないなんて場所があるんですね。

 本郷通りっていうのは武蔵野丘陵の東の端にある本郷台地の東の尾根上にあって、谷根千のある不忍通りに向かって急峻な坂道が多い場所。同時に旧中山道(旧白山通り)は、その本郷台地の西の端にあり、本郷追分から巣鴨にかけては日光御成道と旧中山道の二つの大通りに挟まれた場所で、昔から住宅が多い場所だった。

 当然、この「昔から」っていうのは、区画整理なんてものには縁のなかった時代だから、まあ勝手に家を建ててしまったわけなんだ。で、「この先 車の通り抜け出来ません」ってなっちゃうわけなんだなあ。

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 上の菊坂あたりは、まだ本郷台地の尾根道が日光御成道しかなない場所なんで、そんな狭い道ばっかりで、おまけに車が通れない急坂の道なので裏通りを通ってもなんだか位置関係や、上と下の関係が分からなくなってくるような場所が多い。

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 池袋も武蔵野丘陵上の町ではあるが、本郷台地みたいな痩せ尾根じゃなくてかなり広い台地だったので、後から後から開発の手を入れることができた場所なのである。で、昔からのものや家並みが沢山残っている文京区と、どんどん新しくなってしまった豊島区(と言っても池袋周辺、変わっていない場所もある)の違いがあるんですね。

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 で、何を言いたいのかと言えば、単に日本医大付属病院から東大農学部を通って、本郷菊坂を下りて文京区役所までで、それぞれ用をたし、丸ノ内線で池袋まで行ったってのを、何となく、如何にも「意味がある行為」であるように見せかけただけ。

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 まあ、あまり意味のあるブログではなかったですね……。「反省」

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 ここまでお付き合いいただいたブログ読者の皆様……、ご苦労様でした。

NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 @Nishikata & Hon Komagome Bunkyo, Ikebukuro Toshima ©tsunoken

2017年12月22日 (金)

「投げ込み寺」(浄閑寺)から浅草へ

「あれっ? 「ジョイフル三ノ輪」については何も書かなかったなあ」なんてそらっとぼけたことを書いて、次の日なのでありますが、一体この男(って私のことか)何を撮りたくて、街をうろついているんだ。ってな顔をしてますね、この都鳥は。

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 ジョイフル三ノ輪から日光街道を渡って反対側にあるのが、吉原女郎の投げ込み寺として有名な浄閑寺である。

 境内には「新吉原総霊塔」というのがあって、関東大震災で亡くなった遊女たちと一緒に、まさしく「菰ひとつで投げ込まれた亡くなった遊女」たちも一緒にまつられている。

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「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と言われているその浄閑寺の門前には、フォトグラファー荒木経惟氏の実家であった下駄屋があったんだが、今はない。

 で、その浄閑寺の前の今は狭い道になっている部分が、昔は山谷堀と呼ばれる川があって、隅田川から吉原へ通う猪牙舟(ちょきぶね)が通っていた川だったが、現在は暗渠になっていて、吉原大門からちょっと先の、隅田川側だけが公園となって残されている。

 その山谷堀公園の脇にあるのが、我が家の菩提寺、慶養寺なのであります。

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『浅草・今戸の慶養寺の門前に、〔嶋屋〕という料理屋がある。
 表構えは大きくないが、奥行きが深く、裏手は大川(隅田川)にのぞんでいて舟着きもあるし、気のきいた料理を出すので、秋山小兵衛も贔屓にしていた。
 秋になると、あぶらの乗った沙魚を酒と生醤油でさっと煮つけたものなどを出して、小兵衛をよろこばせる。
 だが、いまは秋ではない。
 この年の、梅雨の晴れ間の或る夜のことだが、嶋屋から座敷女中に見送られて外へ出てきた客が、今戸橋の北詰を右へ曲がった。
 右手は慶養寺の土塀、左手は山谷堀である。
 この客は中年の侍で、総髪も手入れがゆきとどいているし、夏羽織と袴をつけた風采も立派なものであった。』

 故・池波正太郎氏の『剣客商売』13巻『波紋』から『敵』の書き出しである。

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 池波正太郎氏の小説に出て来るお寺が菩提寺ってのも、粋なもんですね(©木村伊兵衛)。って、別にそれだけのことで、粋ではないか。

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NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Minowa Arakawa, Asakusa Taito ©tsunoken

2017年12月21日 (木)

ジョイフル三ノ輪商店街

 ここのところ、田中長徳氏の本『東京ニコン日記』をふたたび、みたび読んでいる。

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 新書版730ページにわたって掲載されているのは、そのほとんどが田中氏が1969年から1970年にかけて、ニコンFとライカM2で、さらにそのほとんどはニッコール21mmか35mm、28mmで撮影した東京の写真だ。

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 1947年生まれの田中氏にとっては1969年という年は、大学(日大藝術学部写真学科)を卒業して、日本デザインセンターに入社した年だ。超一流のクリエイティブハウスに入社して(多分)鼻高々になっていた長徳青年を迎えたのは単なるカメラアシスタントとしての単純労働の日々だった。まあ、大学を出て自分も「いっぱし」だと誤解した大卒生を襲うのが、昔からそんな「下積み生活」なのだ。

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 そんなデスペレートな毎日の仕事を忘れるように、長徳青年は(多分)毎週末には街に飛び出し、「何でも撮ってやろう」とばかり東京の街を撮影し続ける。

 ただし、東京の写真といっても、田中氏が生まれた文京区音羽界隈や銀座などに限定されている。遠出して撮影しているのは、仕事でロケなどに出かけた際の空き時間に撮影したショットが多い。つまり、この頃の「週末」とは日曜日だけの時代であるので、さほど遠出ができなかったんじゃないだろうか。で、いつも行きなれた場所をちょっと違った視点から見てみる、というような写真になっているのである。

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 実はその撮影姿勢っていうのは、同じ田中氏の写真集『ウィーンとライカの日々』にも通底するものであり、実はその後の田中氏の写真にもすべて通底する「なにものをもない写真」なんである。

 まあ、コンテンポラリー写真の一種と解釈する人もいるだろうが、別にそういうジャンル分けはあまり意味のあることではなくて、写真というものが「何か意味を持っていなければならない」と考える人にとっては、とんでもない写真なのかもしれないが、結局、「写真自身は意味を持っていない」ということ、「何かその写真に意味があるように考えるのは、後付けで写真を見た者が意味を勝手に付与しているだけ」だからなのである。

 そういう意味では、この田中氏の二つの写真集『ウィーンとライカの日々』『東京ニコン日記』は、そんな「意味を持たない写真」を狙っている私にとってはバイブルなのである。

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 まあ、新書版730ページという厚みも、まさに「バイブル」サイズであります。

 あれっ? 「ジョイフル三ノ輪」については何も書かなかったなあ。都電荒川線三ノ輪橋駅前のアーケード商店街なんですけどね。

NIKON Df AF Nikkor 35mm 2 D @Minami Senju Arakawa ©tsunoken

『東京ニコン日記』(田中長徳著/アルファベータ/1998年6月1日刊)
『ウィーンとライカの日々』(田中長徳著/日本カメラ社/1996年8月20日刊)

2017年12月20日 (水)

『江戸前 通の歳時記』う~ん、イキなもんですねえ。

 意外なところに池波正太郎氏の秘密を解くカギがあったのだった。

 まあ、結局は食べ物にまつわる話なんですけれどもね。

Photo 『江戸前 通の歳時記』(池波正太郎著/集英社e文庫/2017年5月31日電子版刊・3月25日底本刊)

『私は、ためておいた小遣いで〔東京市区分地図〕というのを本屋から買って来た。たぶん、五十銭ほどだったろう。一円はしなかったとおぼえている。
 余談になるが、この地図を買ってから、私の大きなたのしみが増えた。東京という都会が、これほどに大きく、変化に富んでいるものとは知らなかったので、小遣いをためては市電に乗って、たとえば麴町のあたりから皇居周辺を歩きまわるとか、九段の靖国神社へ行くとか、神田の本屋街へ出かけるとか……それが映画見物と共に、何よりのたのしみになった。

いまだにおぼえているのは、この地図を買ってから先ず第一に出かけたのは、芝・高輪の泉岳寺だった。
 いうまでもなく、この寺には赤穂浪士四十七名の墓がある。それを見たいとおもったのは、芝居や映画などで観た〔忠臣蔵〕が頭にしみこんでいたからだろう。当時の市電は東京市中のどこへでも乗り換えて七銭で行けたわけだが、それにしても泉岳寺へ行ったときは、私にとって大旅行だった。
 それから、また、堀部安兵衛が十八番斬りをやったという〔高田の馬場〕へ出かけたが、そこの陸軍の射撃場にびっくりしただけで、むかしの高田の馬場が何処にあったのか、さっぱりわからぬままに帰って来た。江戸時代の馬場跡をたしかめたのは、つい、十五年ほど前に、堀部安兵衛の一生を小説に書いたときである。

 さて……』

 という書き出しで、深川から永代橋の手前を北へ曲がり、ってことは赤穂浪士休息の地である「ちくま味噌」の前を通り、仙台掘りをこえ、小名木川へかかる高橋をわたって本所へ出るわけだが……、そこからなんともなく……

『その高橋をわたった右側に、何やら芝居の舞台に出て来るような瓦屋根の、表構えの店があるのに気づいた。
 見ると、これが〔どぜう屋〕である。
 店の名は〔伊せ喜〕で、夏などは入れ込みに押しつめた人びとが汗をかきかき、泥鰌鍋をつついている。
(ははあ、ここにもどぜう屋があるな……)
 と、おもった』

 という具合に、なんとなく自然に小説世界の方へ入っていく。なにやら、読んでいる自分がその小説世界の中にいるような気分にさせるのが、池波正太郎マジックとでもいうようなものだ。

 最後に、池波氏らしい「鮨」に関する記述を二つばかり引用。

『鮨屋へ行ったときは シャリだなんて言わないで、 普通に 「ゴハン」と言えば いいんですよ。

 飯のことをシャリとか、箸のことをオテモトとか、醬油のことをムラサキとか、あるいはお茶のことをアガリとか、そういうことを言われたら、昔の本当の鮨屋だったらいやな顔をしたものです。それは鮨屋仲間の隠語なんだからね。お客が使うことはない。

一度、好物の鮨をつまむことだけでも、人間というものは苦しみを乗り切って行けるものなのだ。
 つきつめて行くと、人間の〔幸福〕とは、このようなものでしかないのである』

 う~ん、いちいち言う言葉が身にしみるんだよなあ。

 それ以外の食べものに関する言葉としてはこんなのもある。

『そばを食べるときに、 食べにくかったら、まず 真ん中から取っていけば いい。そうすればうまく どんどん取れるんだよ。

 てんぷら屋に行くときは 腹をすかして行って、親の 敵にでも会ったように 揚げるそばからかぶりつく ようにして食べていかなきゃ。

 肉とねぎ以外は、ぼくは入れない。というのは、しらたきなんか入れると水が出ちゃうから狂っちゃうんだよ、割下の加減が。豆腐だって相当水が出るし、それはねぎだって水分があるわけだが、まあ、ねぎだったら合うから。ねぎは斜めに切らないでブツ切りにする、いいねぎだったら。そして鍋の中に縦に並べるわけよ。そうすると、ねぎというのは巻いてるから、その隙間から熱が上がってきて、やわらかくなるしね。だから、ねぎはあんまり長く切らないわけだ。立てて並べやすいようにね。横に寝かせたらなかなか火が通らないよ、ねぎというのは。

うすい肉を薄切りにして、こういうふうにやるのがまあ、一番ぜいたくなすきやきじゃないかな。』

 最後はビールの飲み方です。

『コップに三分の一くらい注いで、 それを飲みほしては入れ、 飲みほしては入れして飲むのが ビールの本当のうまい 飲み方なんですよ。』

 まあ、粋なもんですねえ(©木村伊兵衛)。

Dsc_00752 NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Senzoku Taito ©tsunoken

『江戸前 通の歳時記』(池波正太郎著/集英社e文庫/2017年5月31日電子版刊・3月25日底本刊)

2017年12月19日 (火)

銀座のチンクェチェント

「な~んて言って、実は開催日を間違えて銀座に写真展を見に行ってしまったということをごまかしているんです」って書いたのが12月15日。

 昨日はちゃんと調べて行ってきました「La 500 : piccola grandiosa Fiat 500 生誕60周年記念 加納 満 写真展」へ。

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 フィアットの500(イタリア語で「チンクェチェント」と言う)は、元々は1936年に製造開始された初代モデルがあってそれはトポリーノという愛称で呼ばれた。で、今回の写真展のきっかけとなったチンクェチェントは二代目モデルの愛称で、1957年に発表されたFIAT NUOVA 500のことである。現行モデルではない。

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 日本では「ルパン三世」の愛車として有名で、『当初ルパンはメルセデス・ベンツSSKに乗っていたものの、設定変更や作画の都合から当時の作画監督であった大塚康生の愛車でもあった同車が選定され、初期シリーズ後半以降は頻繁に登場するようになった。特に有名なのは劇場版「カリオストロの城」で登場するクリームイエローの個体で、現行の500では日本国内限定で同色を模した特別仕様車がたびたび登場するなど、「ルパン三世」が本車の認知に影響していることが垣間見える』(Wikipedia)

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『1957年に発表されたイタリアの小さな名車『フィアット500』の60周年だった今年を締めくくる写真展を開催する。タイトルは「小さくて偉大な500」という意味だ。
 イタリアの自動車メーカーであるフィアットが作った500という小型車は、その優れたエンジニアリングとパッケージ、可愛らしいデザインと低価格でイタリアの戦後モータリゼーションと高度経済成長期をベースから支えたクルマである。その人気はイタリアにとどまらず世界中にファンを持ち、日本でも人気アニメの主人公の愛車として登場しており、人種や世代を問わず幅広く愛されている。
 展示される作品はすべてイタリアで撮影されており、大小様々な街で500のある日常風景がとらえられている。そこからはイタリア人たちの人生も垣間見えるだろう。彼らの多くは500で運転を学び、500で青春を駆け回り、500で家族を作り守ってきたのであり、500とはまさにイタリアの国民的自動車なのである』

 というのが本写真展の主旨。確かに、日本の町で見るチンクェチェントも可愛いけれども、やっぱりイタリアの町で、それも結構狭い道を右往左往する姿にはシビれる。

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 でも、そんなチンクェチェントもアバルトの手にかかると、とんでもないレーサーになってしまう。オーバーヒートを防ぐため、リアエンジンのカバーを開けたままにして固定されたチンクェチェントがちょこまかちょこまか走る姿もなかなかチャーミングではある。ただし、日本で私たちが見ているフィアット・アバルト仕様は基本「なんちゃって」なんですけれどもね。

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 で、写真展が開催されているBacement GINZAってのがどこかっていうと、銀座三丁目にあるPloom Shop銀座店っていう、JTのショールームの地下だったんですね。最初、ちょっとうろたえます。

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写真展『La 500 : piccola grandiosa』は12月29日まで。

開催概要はコチラ

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Ginza Chuo ©tsunoken

2017年12月18日 (月)

実はユージン・スミスは、あまり好きなフォトグラファーではない

 東京都写真美術館で「アジェのインスピレーション」と同時に開催されているのが、『生誕100年 ユージン・スミス写真展』である。

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 ユージン・スミスっていうと水俣病の取材で日本では一挙に有名になった写真家なんだけれども、水俣病に出会うまでのユージン・スミスって、特別何か優れたところのある写真家だったんだろうか、っていう疑問がある。

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W. Eugene Smith, Hitachi, Japan, 1962. Photograph by Kozo Amano.

 まあ、知っているのはこんな何台もカメラを持って取材行をしている姿位のもので、それはまあプロが使えるズームレンズがない時代だったので、やむなく何台もの焦点距離のレンズをつけたカメラを複数台同時に持って取材にあたるというのが当時では当然だったという位のもの。まあ、この写真のユージン・スミスみたいに9台も持っている極端な人はあまりいないが、ベトナム戦争当時は、135mmか200mmを装着したニコンFと、50mmとメガネ付き35mmのライカM3という3台持ちが普通だったわけで、ユージン・スミスの9台持ちってのは、単にそれが少し大げさになったってなもんでしょ。

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 ユージン・スミスが水俣病と出会うまでの写真家生活の大半は戦争写真家だったわけで、それはつまりアメリカという「戦勝国からの視点」に立ったルポルタージュだったってことなんだ。勿論、それは「ライフ」というアメリカの雑誌に掲載するための写真を撮っていたからということなんで、考えてみれば当たり前ということなんだけれども、その「ライフ」のフォトエッセイというスタイル自身が、私には問題があるように思えてしまう。

 つまり、フォトエッセイというスタイル自身が、読者に対して写真家個人の思い入れのようなものがあるように見せていながら、実はそれは戦争を遂行するアメリカ国家の立場を体現しているのである。フォトグラファーのエッセイというようなスタイルをとってはいるが、実はそれは戦勝国のプロパガンダだったっていうわけ。まあ、フォトグラファーという個人の立場でもって国家の意思をオブラートに包んでしまうわけだ。

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 そうした写真をずっと何の疑問もなしに撮ってきたカメラマンが、何故、突然、水俣病に出会うや否や平気で「反公害派」になれてしまうんだろうか。

 その辺がよく分からないのだ。

 下の本を読んでもね。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Yebisu Garden Place ©tsunoken

『ユージン・スミス―水俣に捧げた写真家の1100日』(山口由美著/小学館/2013年4月1日刊)

2017年12月17日 (日)

一日遅れの義士祭(?)

 一昨日は会社のOB会が主催する散歩の会で『赤穂義士引き上げの道を辿る』という企画があり、それに参加してきた。

 なあんて他人事のように書いたんだが、もともとその企画の言い出しっぺは私で、本当は私が道案内役をやらなければならなかったのだ。それが10月末の入院・手術ということになり、体力的にちょっと自信がなかったので、今回は「単に参加するだけ」の側に回ることになった。

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 で、本当の討ち入りの日は「義士祭」と呼ばれて、12月14日の午前中に行われるのだ。で、その日は混むだろうから翌日の15日に我々は行くんですね。

 っていうんだけれども、でも、もともと赤穂義士が討ち入りを挙行した元禄15年12月14日っていうのは新暦では1703年1月30日だったわけで、だからこその雪景色だったんですね。新暦の12月14日では雪どころか、今年はまあよかったけど、年によっては「まだ秋」ってな感じの年もあるんだよね。

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 まあ、それはいいとして、全部歩くとなると十数キロの行程になるので、そこはちょっとお年寄りには踏破は難しかろうと、途中ショートカットを入れた。

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 両国の吉良邸から一の橋を渡って松尾芭蕉の家があったとされる芭蕉稲荷神社を過ぎ、義士一行が一休みし、甘酒の振舞いを受けた「ちくま味噌」を過ぎると永代橋を渡る。でも、この辺がちょっと剣が峰かなと私は考え、そこからバスに乗って茅場町~築地を地下鉄日比谷線という提案をしたのだが、それは却下。結局、両国から八丁堀まで歩くという長丁場とはあいなったのであります。両国から永代橋までがかなりあるので、それ以上歩かせるのは……と、気にしたんだが……。

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 でも、まあ皆さんなかなか健脚で、結局、途中脱落者はなく、みな八丁堀までは完歩。八丁堀から築地まで地下鉄日比谷線を一駅だけ乗る(!)、というちょっと訳の分からない行程ではあったのですが、築地本願寺までは皆さん無事到着!

 で、築地からは日比谷線、で一駅だけ乗って都営浅草線で泉岳寺までって、これまたあまり意図がよく見えない行程で終了。

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 いやあ、皆さんお年の割には元気で、元気で、これなら医療費もあまりかからないで済むかもしれない、なんてね。

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 う~ん、しかしなんでデジカメではモノクロで、アナログではカラーなんだろう?

LEICA M6 Elmarit 28mm f2.8 @Sumida Koto Chuo Minato ©tsunoken

2017年12月16日 (土)

高円寺純情商店街

 以前、2011年8月29日のブログで「阿波踊りの朝に思ふこと」という文章を書いたことがある。そこで高円寺純情商店街についてホンの少しだけ書いた。

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「高円寺純情商店街」っていうのは、もともとねじめ正一の小説のタイトルで、ねじめ自身の子どもの頃の経験をもとに小説化したものなんである。

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 で、もともとは「高円寺銀座商店街」という名前の商店街だったんだけれども、小説が当たっちゃったもんだから、小説に合わせて「高円寺純情商店街」っていう風に変えちゃったんであります。

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 まあ、その辺の柔軟さは買えないところではないのだが、一体、どれほどの人(というか「商店主」)が小説版「高円寺純情商店街」を読んでいるのかは、大いなる疑問だ。

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 実は、純粋な「高円寺純情商店街」は上の二枚目の写真までで終わってしまい、四枚目からは庚申通り商店街って電柱には書いてある。

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 勿論、庚申通りっていうくらいだから、途中には庚申塚があって、道行く人たちはそれにお参りしながら歩いているのだ(?)。

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 で、ここ早稲田通りに出てしまうと「高円寺純情商店街」は終わり。

 まあ、商店街としては、ごく普通の下町の商店街なんで、ちょっと賑やかな。でも、この中央線沿線には、お隣の阿佐ヶ谷パール商店街など、結構大きな商店街が多いんですけれどもね。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Koenji Suginami ©tsunoken

2017年12月15日 (金)

モノクロ写真は楽しい

 モノクロ写真が好きである。

 っていうよりも、私が初めて写真というものを学んだ小学5年生の頃、1960年代前半っていう時代は、実はカラー写真自身がまだ珍しくて、特にスナップなんかではモノクロが普通だった時代だ。

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 富士ネオパンSSっていう、ASA100(現代のISO100にあたる)のモノクロフィルムが一般的なフィルムで、小学5年生の私も、そんなフィルムで撮影・現像・焼き付けという基本を教わった。っていうのも昔は小学校の先生が写真マニアだったわけではなく、普通に写真をやっている人なら、ほとんどの人は現像・焼き付けは自分でやっていた、という時代だったのである。コダックもトライXがまだISO100だったか、まだまだISO400なんて時代ではなかった。

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 いやあ、まさに温故知新。今どき、自分で現像なんてやる人はいないもんねえ。まあ、逆に焼き付けはパソコンのプリンターを使って自分でやる人は増えたのかもしれないが。

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 アナログ写真の世界では、表現がカラーなのか、モノクロなのかはフィルムで決定される。現代のようなデジタル時代になってしまうと、撮影時にもモノクロモードで撮るかカラーモードで撮るか選択できるし、それ以降の作業ではごく当たり前にそれらの選択をしながら、撮影者は作品作りを行うわけだ。

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 で、私は基本的にはモノクロ写真が好きなので、当然、撮影時にモノクロモードで撮ってしまう。カラーを使うのは、説明的な画像表現が必要な時だけだ。

「色あい」という、実はまことにややこしい条件を入れずに、モノクロで、つまり光の濃淡だけで撮影するという行為が、実に快く体に響いてくるのだ。

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 な~んて言って、実は開催日を間違えて銀座に写真展を見に行ってしまったということをごまかしているんです。

 下の写真がその証拠。

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NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Ginza Chuo ©tsunoken

2017年12月14日 (木)

阿佐ヶ谷アニメストリートの今

 2014年6月9日のブログでオープンしたばっかりの阿佐ヶ谷アニメストリートについて、若干の希望を込めて書いたんだが、その後、どうなったのかが気になっていた。

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 以前のブログでは以下の通り書かせてもらった。

『で、今年3月29日にオープンした「阿佐ヶ谷アニメストリート」はなんとか応援したいんだけれども、どうも、直接的にアニメと関連のあるショップがないんだなあ。これじゃアニメーターも来ないよなあ。という気分にさせられてしまうのだ。
 街のコンセプトとしては
『阿佐ヶ谷駅のある杉並区は以前からアニメ制作会社が多い都内有数の“アニメを生む街”。
 この阿佐ヶ谷でアニメの作り手とアニメファンであるユーザーが交流できるスポット「阿佐ヶ谷アニメストリート」が誕生しました。
 作る人と観る人が集える場所として新たな交流を生み、新人クリエイターの創出に繋がる新しい施設です。
 次世代の担い手が求められているアニメ業界の更なる活力のきっかけとして、高架下がまたひとつ生まれ変わります』
 というのだが、なんか「商売主導」「行政主導」で作られた街は、やはりそれだけでしかなく、本当にアニメーターが来たくなるような街にしないと、それを取り巻く人たちも来ないような街になってしまうような気がする。
 もう、一工夫必要だな。』

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 その辺の危惧は当たったようで、閉店している店もあるようだし、閉店までしていなくても開店時間を減らして営業している店もかなりあるようだ。

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 まあ、マッドハウスも今や阿佐ヶ谷にはないし、それ以外の小さなアニメ制作会社も次第にもっと郊外の近隣都市に移ってしまっている。

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 阿佐ヶ谷をアニメタウン化して集客に結びつけようという杉並区の考え方は分からないでもないが、だったらもっと産業としてのアニメ会社を振興する策を行政として講じなければならないだろう。

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 なんか、今のままだと他の町でもよくあるような、たまたまアニメブームがあったから、それに乗って振興策を講じたのはいいけれども、結局、ブームが終わっちゃうともうおしまい、っていうこれまでいろいろの町がやってきた失敗の上塗りだけになってしまいそうだな。

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NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Asagaya Suginami ©tsunoken

2017年12月13日 (水)

深川・昨日の富岡八幡宮

 ということで深川は富岡八幡宮に行ってきた。

 って、何が「ということ」なのかは分からないが、まあよくある「野次馬根性」ってやつですけどね。それだけ。

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 門前の伊能忠敬さんも泣いています、って書こうと思ったんだけれども、まあ伊能さん自身は富岡八幡とはあまり関係はなく、門前仲町に住んでいたっていうだけのこと。

 ポイントはこっちだよなあ。門を入って右側にあるのが「大関力士碑」、本殿の裏には「横綱力士碑」もあります。

 これは昔はここ富岡八幡は勧進相撲の場所だったってところから発している。後に両国の回向院で行われるようにもなったんだが、大本は富岡八幡。で、なんで神社の表が「大関力士碑」で裏が「横綱力士碑」なんだって言えば、元々大相撲っていうのは大関が最高位で、横綱という位ができたのは後からっていうことだからだ。

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 それもあるが、やはり大事なのはお祭りだ。来年の初詣や深川祭りはどうなっちゃうんでしょうねえ。別名「水かけ祭り」っていう大規模なお祭りだ。

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 今年のお祭りの奉納者がすごい。鹿島神宮、大洗磯前神社、東京大神宮、日枝神社、東郷神社、湯島天満宮、大宮八幡宮、芝大神宮、亀戸香取神社、亀戸天神社、猿江神社、深川神明宮、富賀岡八幡宮、亀戸浅間神社、吉原神社、上神明天祖神社、息神社ってところが最初に並んでいるんですねえ。

 初詣もねえ、撮影している私に話しかけてきた夫人は「やっぱりねえ、ケチがついちゃったわよねえ」なんて言ってました。

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 裏の家には、まだ規制線が張られていました。

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 えっ? そりゃ深川に行ったら「深川飯」ですよねえ。これは深川不動尊の門前にある門前茶屋のちょっとお上品な「あさり蒸籠めし」ですが。う~ん、これで熱燗二合でも欲しかったですけれどもね。

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NIKON Df AF Nikkor 50mm f1.8 G & iPhone @Tomioka Koto ©tsunoken

2017年12月12日 (火)

横浜は暖かい……と聞いて来てみれば

 昨日の横浜は暖かいっていうのが、一昨日の天気予報だった。

 ので、それなら行ってみようかってな感じで、昔はこちらが横浜駅だった桜木町まで行ってきたと思いねえ。

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 桜木町が横浜駅だったってことは、ここ野毛の繁華街は横浜駅の駅裏の飲み屋街って感じだったのかしら。

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 まあ、野毛の飲み屋街を過ぎて大岡川を渡ればもうすぐそこは伊勢佐木町。横浜最大の繁華街なんですね。それからすれば、桜木町、関内あたりが昔からの横浜の中心地だったんでしょうね。

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 まあ、考えてみれば横浜駅前って、なんか整備されすぎていますね。特に、東口なんかは国道15号線が目の前にあるっていうことを割り引いても、整備されすぎ。

 西口だって、高島屋とジョイナス裏あたりでも、そんなに小さな独立店ってないもんね。

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 で、行ってみたら本当に暖かかったのかよ、ってことなんだけれども、いやあ結構風が強くてあまり暖かくはなかったですね。

 だからといって天気予報に怒るってことはしません。というか、天気予報はあくまでも予報。というか予想っていうか、要は「予め報せます」ってだけのもんでしょ。

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 晴れりゃ晴れたで「ラッキー」てなもんで写真撮影ができるし、雨が降れば降ったで雨降り写真を撮りゃいいじゃないかよ。

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 イキなもんですねえ(©木村伊兵衛)

NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Yokohama ©tsunoken

2017年12月11日 (月)

アジェをそんなに勝手に解釈していいものなのだろうか

 東京都写真美術館で同時開催されている写真展の一つが「アジェのインスピレーション 引きつがれる精神」というもので、当然、アジェの作品群が展示されているんだが、同時にベレニス・アボット、ウォーカー・エヴァンス、リー・フリードランダー、森山大道、荒木経惟、深瀬昌久、清野賀子の作品群も展示されている。なんか、それがイマイチ私には理解できないんだなあ。

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 アジェはもともと純粋な写真家ではなかった。というか、アジェの生きていた19世紀末から20世紀初頭の時期は「純粋に写真を芸術として鑑賞する」という時代ではなく、あくまでも絵画のための参考資料でしかなかった。

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『モンパルナスには多くの芸術家が住んでいた。アジェはアパートのドアに手書きの「芸術家の資料(documents pour artistes)」という看板を掲げ,芸術家に写真を売る生活をはじめる。画家に成ろうとしていたとき,多くの芸術家が作品の資料となる写真を求めていることを知ったためだ。ともあれ,アジェは生活のために写真をはじめた』(Wikipedia)

 という時代ではあったのだ。

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 勿論、アジェの写真にリアリズムを超える「モノ」を見つけて評価したシュールレアリスト、マン・レイによる紹介というものはあったのだが、しかし、その写真の撮影意図はあくまでも「絵画のための参考資料」でしかなかったはずだ。

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 アジェの写真集も、撮影当時に発表されたものは以下の通り。

『アジェは41歳のときから30年間に約8000枚の写真を残した。アジェは自分の気持ちのおもむくまま写真を撮ったのではない。パリ市歴史図書館などの購入者がおり,テーマを決めて計画的に撮影している。アジェ自身が作成したアルバムは次の7つがある。
1.パリの生活と仕事 146枚 1898年 ~ 1900年
2.パリの乗り物 57枚 1910年
3.パリの屋内:芸術的,絵画的そして中産階級の 54枚 1910年
4.パリの仕事,店そしてショーウィンドウ 59枚 1912年
5.古きパリの看板,そして古い店 58枚 1913年
6.パリを囲む城壁跡 56枚 1913年
7.パリの旧軍用地帯の住人の様子とその典型 62枚 1913年~1914年』

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「街の写真」というのは、誰もが通る写真の基本である。しかし、ウジェーヌ・アジェの写真と、ウォーカー・エヴァンスなどの幾分かでもジャーナリスティックな写真との共通性というものが、私には見えない。まあ、もしあるとすれば、リー・フリードランダーや森山大道のような「コンポラ写真的な」(森山大道をコンポラ写真のジャンルに入れるのは抵抗がある人がいるとは思うが)写真がある程度なのかもしれない。

 まあ、写真なんて何物をも語らない芸術表現であるから、それをどう解釈しようが、それはあくまでも「観察者」の特権でしかないが、なんかちょっと違うなあ、とは私は思い続けるのであった。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Yebisu Garden Place ©tsunoken

『Paris 1857-1927 Eugene Atget』(Eugene Atget/TASCHEN)

2017年12月10日 (日)

久々の日光街道北千住宿

 薬局から薬が入ったとの連絡が入り、それを取りに行った帰路、駒込病院前から北千住駅行きのバスに乗って久々の北千住であります。

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 北千住と言えば、当然それは日光街道千住宿である。

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 で、その旧日光街道千住宿(現在は「宿場町通り」と名付けられている)を南の方へ少し行くと、こんな広場があり「千住宿問屋場・貫目改所跡」という足立区教育委員会の説明版が立っている。

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『旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所がおかれていました。
 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州街道内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州街道千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲をしめしています。』

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 もう一つ、北千住と言えば梅沢富美男なんであります。元々、梅沢氏が売り出したのが北千住にあった梅沢富三男劇場なんだけれども、現在はそれがシアター1010(「せんじゅう」と読む)になったって訳ね。いまでも「おひねり」なんかがいっぱい飛んでくるんだろうなあ。

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NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 @Kita Senju Adachi ©tsunoken

2017年12月 9日 (土)

『マンションは学区で選びなさい』という提言はまったくその通りなんだけれども

 まあ、このテの「マンションはこの地域を買いなさい」「(首都圏の)こんな場所のマンションは買ってはいけない」的な本はこれまでもいくらでも出版されていた。

 で、その種の本の新手が『マンションは学区で選びなさい』ってわけ。つまり、マンションを買うときは、『公立小学校、中学校の中でも「優良」と思われている学校の学区から選びなさい』っていうこと。まあ、私立の小中学校や私立高校なら別に住んでる場所は関係ないわけで、まあ、せいぜい「学校に通いやすいかどうか」っていうレベルなんだけれども、公立小中学校だと「学区」っていう問題があるんだなあ。

 ただし、じゃあそれで選ばれた場所っていうのが、実は私立高校にも通うのが便利なところだったっていうのが、まあ、皮肉なんだけれどもね。

Photo_2『マンションは学区で選びなさい』(沖有人著/小学館eBooks/2017年10月6日電子版刊・2017年10月3日紙版刊)

『短大・大学卒業者が住民の35%を超えるのは、東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・京都府・兵庫県・奈良県・広島県の8都府県のみ』

『札幌市・仙台市・名古屋市・広島市・福岡市はその中心地ほど学歴が高い。東京から福岡を結ぶ線の近隣は高くなっており、都内でも都心寄りのほうが高くなりがちである』

『千代田・中央・港の都心3区に加えて、東京大学がある文京区、都下(東京都のうち、23区を除いた市町村のこと)で最も教育熱心な武蔵野市がトップ5を形成する。
 都内の受験進学率上位3区(千代田区・中央区・文京区)においては44%台であることから、この2倍に当たるおよそ9割が受験していてもおかしくないことになる。そのくらい現代における中学受験の割合は増えている』

 で、その中学受験に関していうと……

『難関中学校でも、少子化によって同学年のライバル数が減少し、入学しやすくなってきている。これは受験中学校の受け入れ人数が過去30年の間、約1・5万人と変わらなかったことから、小学校の卒業者数が減るほど受験進学率が上がっているという逆相関関係が成り立つためだ。受験中学校の学校数や受け入れ人数は大きく変わっていないので、入学できる門は開かれてきており、それならば中学受験をして進学をさせようと考えるのも無理はない』

 ということは、中学受験のためには小学校だということになるわけで……

『不動産のセールストークで「○○小学校学区内」と謳うのは実際に効果的なのである。捨て看板に限らず、チラシでもインターネット上の広告でもこの学区情報は真っ先に使われることが多い』

『小学校受験が狭き門でその後の進学がままならない状況と、前述した通り、高校受験組は最終学歴である大学受験にとって厳しい状況がある。これらを勘案すると、中学受験に適した公立小学校を選び、中高一貫教育を受けて大学受験するという選択肢が最もバランスの取れた選択肢と考えることもできる』

 という流れになるんだなあ。

『人気公立小学校には2つの典型的なパターンが存在する。  1つは昔からの由緒正しい高級住宅街に所在するケースである。

 もう1つは、先に述べたつくば市のような事例である。

 以前から住んでいる旧住民がほとんどいないところに、新しい街が都市計画されて出現するケースである。例として、東京都の豊洲・光が丘、千葉県の海浜幕張・新浦安、神奈川県横浜のみなとみらいや港北ニュータウンなどが挙げられる』

 で、一つの例の『昔からの由緒正しい高級住宅街に所在するケース』で言うと。

『街が高齢化して定年世代が増えてくると、学区別世帯年収も子育て世代の教育水準を正確に表さなくなることがある。
 文京区の例がわかりやすい。文京区では必ずしも学区年収の高い小学校が人気校とは限らない。実際に学区年収だけで見ると、人気公立小学校とされている「3S1K(誠之小、千駄木小、昭和小、窪町小)」はランクインしていない。これは、高級住宅地の居住者が定年を迎え、収入が減っていることが要因として考えられる。
 文京区では学区を優先しながらも、学校選択制を導入し、抽選での受け入れをしている』

『中学校別に見ると、前頁図版22のA列(人気度)の1位は第六中で、この学区と誠之小の学区がほぼ同じことから、その人気のほどがうかがえる』

『1位は第六中、2位文林中、3位音羽中になる。2位の文林中は1学年1クラスで人気度が最下位なことから参考にならないが、3位の音羽中は人気度が2位で受験進学割合も3位なので、人気の公立中と考えていいだろう』

 なるほどなあ、文京区で小学校って言えば「3S1K」だとばっかり思っていたんだが、どうも最近はその傾向も少しづつ変わっては来ているんだなあ。

『文京区は「3S1K(誠之小、千駄木小、昭和小、窪町小)」が名門校だが、そのエリアは、敷地面積が大きく、世帯数が少ないのと、リタイアしている世帯が多いために年収では上位に顔を出していない』

 ということのようですね。

 自宅購入で含み益を出すには7つの法則があるそうだ。

『【法則1】買うのに適したタイミングがある
【法則2】単価の高いエリアは底堅い
【法則3】駅からのアクセスはいいに限る
【法則4】大規模マンションは得をする
【法則5】タワーはランドマーク性に価値がある
【法則6】面積は小さいほど損をする
【法則7】適正価格以下で買う』

 って言うんだが……う~ん、まあ当たり前と言えば、当たり前のことなんだが、なかなかその辺の見極めがね……。

 まあ、でも取り敢えず「公立小学校の学区で選ぶ」っていうのは正解だとは思います。

『マンションは学区で選びなさい』(沖有人著/小学館eBooks/2017年10月6日電子版刊・2017年10月3日紙版刊)

2017年12月 8日 (金)

都電が好きだ

 都電が好きであります。

 勿論、この荒川線(東京さくらトラム<プフッ>)も早稲田から三ノ輪橋まで全線乗っている。何度も。

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 というか私が子どもの頃は、まだまだ都電も元気に東京の街を走り回っていたんだ。

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 それが「モータリゼーションの邪魔だ!」とかなんとか言われて、道路の邪魔もの扱いされてなくなっていったのが1968年から1972年頃までのこと。まあ、これも東京オリンピックの影響だったんだろうなあ。

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 唯一、荒川線だけが熊野前から小台間、王子駅前から飛鳥山間のみが一般道とダブる区間であり、その他は専用軌道なので、あまり自動車交通への影響は少ないだろうということで、東京都の文化史の一つとして残されることになったのだ。

 でも、本当は「路面電車でこその都電」の魅力なんですけどね。

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 でも、この都電の通過する場所っていうのが結構雰囲気のいい場所だったりするんで、私も巣鴨新田あたりの家を買おうとしたことがあった。「会社までの通勤手段が都電です」ってのも、結構恰好いいでしょ。今どきそんな奴ァいないって。

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 でも、結局はそこは買わずに、駒込の庚申塚駅に続く道のそばに買ったんですけどね。

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 でも、最盛期の都電って、こんなに路線があったんだ。まさしく「庶民の足」だったんですね。

RICHO GRDⅡ @Mukouhara Otsuka Sugamo Toshima ©tsunoken

2017年12月 7日 (木)

tsunokenのリハビリ日記:リハビリ日記も今日でおしまい

 昨日は退院後最初の日本医大心臓血管外科の検診だった。

 冠動脈バイパス手術の結果が良好なのは入院当時からおおよそ分かってはいたが、退院して二週間ちょっとの最初の検診でも結果は良好で術後の状況はかなり良いという結果ではありました。

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 ということなので、もうこの「tsunokenのリハビリ日記」は終了し、明日からは普通の「tsunokenのブログ」に戻ります……って、じゃあ今までの「リハビリ日記」ってどこが「リハビリ日記」で、これからのどこが普通の「tsunokenのブログ」なんだって言えば……、う~ん、それは結局変わらなかったりして。

 まあ、ただし昨日までのブログは最後にいちいちその日に歩いた歩数を書いていた、ってところが「リハビリ日記」だったってことなので、これからは特別なことでもない限りは、歩数は書きません。

 ただし、まあやっていることは今までとは変わらないし、相変わらず1日1万歩っていう目標は目標として今後とも堅持します。

 あとは、もうちょっと早く歩けるようにならないとね。息切れもしないようになればいいな。

 そうしないと……(と話は後半にかかる)。

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 まあ、この根津神社の風景もこれまでは病院の窓からいくらでも見られたし、というか見飽きるほど見たんだが、これからはもう少し間を置きながら見ることになるんだろう。

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 で、前半の続き。

 ところで、以前9月21日のブログで「おいでませ山口館」っていうのを書いたんだが、実はもしそれが順調に進んだら年明け1月15日には山口まで取材に行くつもりだったんだが、手術のおかげで結局行けそうもないということになった。

「おいでませ山口館」に隠されたテーマ(大袈裟!)は、山口県山口市阿東地福(あとう じふく)というところで毎年小正月に行われている「地福のトイトイ」という行事の取材だったのだ。うん、結構面白そうな行事なんだなあ。

 9月の時点では、何とか来年の小正月にその取材を行いたいと考え、山口市や同じく山口市の阿東地域交流センター地福会館なんかにも連絡を取ろうとしたんだが、山口市の方はなんとか連絡はとれたんだが、肝心の地福会館からはなんの連絡もない状態で、宙ぶらりんのままに現在に至っている。

 まあ、幸いというか、なんというか、こんな手術上がりの体になってしまったので来年正月の取材はあきらめて、再来年に再挑戦ということにした。それまで再度、地元への連絡方法を探らなければならないし、来年は夏のうちに一度地福にも行ってみようかと考えている。実は地福への行き方を調べたら、これが飛行機は使えず、新幹線と山口線を使って6時間以上かかるって具合に遠いんだなあ。ちょっとお気軽に予備取材って訳にはいかないのは分かりました。

 まあ、その前に再度・再々度、何度でも地福と連絡をとって、なんとか取材にこぎつけようと考えている。

 お楽しみに……。

 えっ? 来年のことを言うと、鬼が笑うって? 関係ないよ。そんなもの。

RICHO GRDⅡ @Sendagi Nedu Bunkyo ©tsunoken

2017年12月 6日 (水)

tsunokenのリハビリ日記:西新井大師の手前の胡録神社

 西新井大師へ行くつもりで、日暮里舎人ライナーを江北駅で降りると、真ん前にあるのがここ胡録神社であります。

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 西新井大師前から江北橋へ抜ける道と、日暮里舎人ライナーができた新しい道「尾久橋通り」の交差点が江北四丁目交差点。そのすぐ脇にあるのが高野(こうや)胡録神社ってわけなんだけれども、尾久橋通りができるまでは気が付かなかったなあ、この神社。

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『胡録神社は、永禄四年八月川中島合戦の折、上杉の家臣高田嘉左衛門なる者戦に敗れ、計らずも集いたる十二名の同志と、関東に厄難を逃れて落ちのび、当地の汐入に高田、竹内、杉本等数名と永住の地と定めて土着し、村落生活の安寧を祈願するため、守護神として永禄四年九月十九日、面足尊・惶根尊の両神を一祠に奉齋崇敬されたと伝えられます。
 当社は古くは大六天と称したが明治二年太政官達により、神仏分離がされた際、往時武士が矢を支える武具を胡録と申した事と、また、当地汐入の生業として盛んであった胡粉作りの胡の字と大六天の六にあやかり、御社号を胡録神社と改称されました』

 というのが南千住の汐入胡録神社の縁起。つまり、ここ高野胡録神社はその分社ってことなんだろうか。

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『鳥居に掛けられている竜の注連縄は、1914(大正3)年に建築された旧本殿の棟木につけられていた漆喰の竜の代わりとして、50年ほど前から作られるようになりました。竜は雨乞いの神で、村の守り神でもありました』

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 まあ、この辺りは昔は一面の田んぼだったんで、雨乞いの意味は分からないでもないんだが、所詮、戦に負けてきて落ち延びた侍が作った神社でしょ、なんかご利益薄そう……なんて罰当たりのことは言ってはいけない。

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 ここから西新井大師までは、もうすぐそばです。

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 本当は、江北駅の次が「西新井大師西」っていう、面白い名前の駅があって、西新井大師に行くのならそっちから行ったほうが近いんですけどね。

 ってことで、西新井大師から西新井駅まで歩いて、トータルおよそ8,000歩。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Nishiarai Adachi ©tsunoken

2017年12月 5日 (火)

tsunokenのリハビリ日記:本郷通りで1万歩

 ちょっと真面目に、一体どのくらい歩くと1万歩になるかというところを、ご近所の道で披露します。

 本郷通りを私の家の最寄交差点である上富士交差点からスタートすると、およそ5,000歩で東大前までやってきます。

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 そのまま本郷通りを進むと、本郷二丁目でお茶の水(駿河台下)方面へ行く方向と、秋葉原方面へ行く方に分かれるので、そのまま秋葉原(神田明神)方面へ進みます。

 で、神田明神の少し手前、湯島聖堂で右折をするのが本郷通りの正しい進み方。で、右折してそのまま行くと聖橋を渡ります。

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 聖橋を過ぎると道は一挙に下り坂になって、ニコライ堂の脇を通り……

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 昔の中央大学正門前(現在は三井住友海上)を過ぎると、下り坂は終わって靖国通りとの交差点、小川町にでます。

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 小川町からなおもまっすぐ行くと神田橋に出ます。

 この神田橋までが本郷通り、ここから先は日比谷通りになります。

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 で、この神田橋まででおよそ1万歩弱。あとはそこから大手町駅にでるか、東京駅に出るかすると、まあ1万歩は越えますね。

 というような距離を毎日毎日歩いているんだが、本当にこれがリハビリになっているんだろうか。別に、普通に歩いているだけなんだけれども……。

 歩いてみて気が付いたこと。

「歩くのが遅い!」

 以前なら、もっと普通に街ゆく人と同じか、あるいは速いスピードで歩いていたんだが、なんか歩いていると、どんどん人に抜かれていかれたり、遅れてしまっているんだよね。

 まあ、それをもっと人並みに、あるいは人より速く歩けるようになるまでは、基本的にリハビリなんだろうなあ。

 もうちょっと、頑張ろうっと!

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Hongo Bunkyo ©tsunoken

 

2017年12月 4日 (月)

tsunokenのリハビリ日記:厳島神社は弁天様?

 武蔵小山の駅で降りると、普段はパルム商店街を東に中原街道、戸越銀座方面へ向かって歩くんだが。昨日は南下して、つまり東急目黒線に沿って(と言ってもこの地域は地下化しているのですが)西小山・洗足方面へ歩き始める。

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 駅の近くこそさすがに武蔵小山商店街だけあって大きなアーケードが続くのであるが、すぐにアーケードもない普通の商店街になって、その商店街も西小山が近づくと住宅街になってしまう。

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 住宅街を少し行くと……

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 何やらそんな住宅街の一角に森のような場所が出てくる。

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 角を曲がると「弁天神社」の文字があって、中へ入ると弁天橋があって(つまり池があって)それを渡ると、「厳島神社」という扁額が据えられている。

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 ふーん、厳島神社か……、なんて考えていたんだが、あれっ? 表には「弁天神社」って書いてあるじゃん。何で?

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 スサノオとアマテラスの三女が市杵島姫命(イチキシマヒメ)と言って、後の時代の神仏習合においては本地垂迹では弁才天に比定され、同神とされた、というもので、広島の厳島神社にも祭られているらしい。う~ん、行ったことないもんで、分からないなあ。

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 ふ~ん、そういうこともあるんだって感心したんだが、普通の弁天様って池の真ん中の島にあるんだが、ここは島じゃなくて対岸になっちゃうんだなあ。神社の社の裏は隣と地続きになっている。

 う~ん、こういうこともあるんだ……って時点で6,000歩。こちらも結構難しいもんだ。

NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 @Koyama Shinagawa ©tsunoken

2017年12月 3日 (日)

tsunokenのリハビリ日記:何もないまま御徒町、浅草

 何の考えもないままに、都バスの早稲田-上野松坂屋行きに乗る。まあ、家からの最寄停留所だからというだけのことなんですけどね。

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 降りたところは上野松坂屋前終点。要は御徒町なんです。

 別に御徒町に用事があったわけではない。以前、御徒町から浅草まで行こうとして、途中でやめたことがあるので、まあ、今日は行ってみようかな……、と。

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 御徒町から厩橋までは春日通りを通っていく。基本的に、この辺りのこの道は問屋さんが多くて、ということは土曜日はお休みのビルが多い。人通りも少なくて、白鷗高校の生徒さんぐらいしか歩いていないんだな。

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 まあ、浅草まで着けば、そこはいつもの浅草。人ごみでいっぱいの浅草風景なんだけれども、それ自体は別に普通の風景なのであまり写欲が湧く題材ではない。

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 そこはサラっと流して、伝通院通りの早田カメラをちょいと写したらおしまい。

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 そうそうに観音様の経済からはオサラバして、吉原大門から南千住までバスで帰ってきました。

 まあ、歩くために歩いたってな感じの一日ではありました。約1万歩。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Okachimachi Asakusa Taito ©tsunoken

 

2017年12月 2日 (土)

tsunokenのリハビリ日記:12月1日は「フチ子の日」だぞ

「〽落ち葉の舞散る停車場は~」ってな毎日ですが、池袋駅の地下コンコースから直接エスカレーターで7階まで上がっちゃえば、そこはパルコミュージアム、『あなただけのフチ子』を開催中なのだ。全然、落ち葉はないし、寒くはありません。

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 2012年7月、何の前触れもなく突然登場した『コップのフチの天使「コップのフチ子」』は、あれよあれよという間に大ヒット。発売後、1週間で10万個以上を出荷するも、即完売。追加生産も追いつかず、オークションにて超プレミアム価格にて売り買いされるほど、日本中を熱狂させました。

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 そのフチ子さんの展示会が昨日12月1日から、池袋パルコ本館7階、パルコミュージアムで開催中だ。

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 シリーズ累計1,500種類あるフチ子さんは当然のことながら、原作者である漫画家タナカ・カツキ氏によるフチ子さんのラフデザインから、特大フチ子さんまで展示。フチ子ファン(そんなのいるのか?)を満足させる展示になっている。

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 いやあ、懐かしいねえ。このコップのフチを登ってくるフチ子さんです。

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 で、最後はガチャガチャでお好みのフチ子さんが出てくるまで頑張ってね。

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 ジャイアンツ・フチ子さんなんてのがあったんだ。知らなかったなあ。

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「あなただけのフチ子展」は池袋パルコ本館7階、パルコミュージアムにて12月18日まで開催中。

公式サイトはコチラ

NIKON Df AF Nikkor 24-85mm 1:2.8-4 D @PARCO Ikebukuro Toshima ©tsunoken

 あっ、リハビリとは何の関係もなかった。

2017年12月 1日 (金)

tsunokenのリハビリ日記:11月30日は三の酉だったんだけど

 朝食を摂るとそのまま一度寝てしまうという悪い癖が最近ついてしまった。

 まあ、朝ご飯を食べて、食事をしたので眠くなってしまって、そのままうとうと二度寝っていうのが、いやあ実に快適なんですね。

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 でも、そのまま寝続けてしまうと、結局、午前中は何もできなくなる、っていうか出かけられなくなってしまうんですね。

 午前中から出かけることができれば、午後早い時間にはとうに1万歩は歩いちゃうし、もうちょっといろいろなところにも出かけられるんですが、ねちゃうと結局、遠くには出かけられなくなってしまうし、1万歩歩くと夕方になってしまう。

 う~ん、これはマズい循環だな……ってことは分かってはいるんだが……結局は朝ご飯を食べると寝ちゃうんですね。いやあ、気持ちいいのなんのって。

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 昨日は午後2時30分より日本医大の循環器内科の検診があったので、まあ、お昼前まで軽く寝て、午後出かけたんだけれども、結局、日本医大に出かけただけに終わってしまった。

 まあ、循環器内科の検診なんで、血圧測定と聴診器を当てた検診だけという、まあ、簡単な検診なので、もうちょっと時間がかからないとは思っていたんだが、そこは病院の受診なんで、そこそこ時間はかかります。

 手術後の本当の検診は12月6日の心臓外科の検診なんだが、まあ、それまでは病院に行ってもあまり状況に変化はない。つまり、病院に行く日だって、別に他のことをやってもいいんだけれどもね……。

Dsc_00683 NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 @Sugamo Otori Jinja Shrine ©tsunoken November 30, 2016

 ってことなので、本当は行くつもりだった巣鴨の鳳神社で行われた、30日の三の酉なんだが、結局は行けずに終わってしまった。病院から帰ってきたら行こうかと考えていたんだが、結局、家に帰ってきてからは外出する気にならず、三の酉にはいかなかったんであります。

 だめですね、こりゃ。

 やっぱり午前中から外出しなければいけないっていう教訓ではありました。まあ、もっともお酉さまは午前中からはやっていないけれどもね。

 う~ん、その辺が悩ましい。

 で、結局、昨日歩いたのは8,000歩足らず、とこれまた目標も達成せず、ダメダメな一日ではありました。

 今日は、午前中から出かけるゾ……と。

 デキルカナ?

RICHO GRDⅡ@NIPPON MEDICAL SCHOOL HOSPITAL Sendagi Bunkyo ©tsunoken

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