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« 浦安中古車街道を往く | トップページ | 東京大学WARRIORS、勝てたけど、今のままでいいのか? »

2017年10月 7日 (土)

市川市行徳は宿場町だったんだろうか

 さて、気を取り直して行徳街道を浦安から行徳目指して進みます。

 と、右手に見えてくるのが「御経塚(おきょうづか)」。

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『この御経塚は新井寺の四世慈潭和尚が、村民を悪疫や水害から救うため、蛤の殻に経文を書き写して塚を造り、自ら火定(念願達成のため火中に身を投じて死ぬこと)した所と伝えています。
 もともと、この地域は江戸川が形成したデルタ地帯であるため、毎年のように津波や洪水等の災害を受けました。しかし、先人達はこのような苦難を克服して、地域の開発に当たってきたのです。

  平成十五年十月
             市川市教育委員会』

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 うん、この手の「洪水等の災害」に関わる遺構は、この辺りには結構あります。まあ、旧江戸川の河口地域だから、それは仕方のないこと。

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 こちらは「おかね塚」。

 むかし、吉原の女郎だった「おかね」さんが、年季が明けたら添い遂げようと約束した行徳塩田の男に、年季明けになって一緒になろうとして行徳まで来たんだが、結局その男に捨てられ、亡くなってしまった。それを悼んで、周辺の人たちがこの共同墓地に建てたのがおかね塚。それにまつわる怪談噺、まあ、「この辺りを羽振りのよさそうな格好で歩いている男を見ると化けて出てくる」っていうよくある話もあるんだが……。

 まあ、それだけの話。

 それだけの話って言えば、この「田中幸之助翁・誕生の地」の祠と田中翁の銅像。田中幸之助さんってどういう人かと言えば、まあ東京メトロ東西線の誘致に力を尽くした人で、地元の名士ってやつですね。

 それ以上は、特になし。

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 で、最後は押切稲荷神社であります。

 行徳の駅からまっすぐに言った道沿いにあるんだけれども、その大通りは神社の裏。参道入り口は、その大通りの一発裏通りにあります。

 まあ、昔の宗教施設なんかではよくあること。神様の向かう方向(というか、要は神様の向き)をそんな簡単に変えちゃあいけないものね。

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『当押切の地に鎮守する迄の間、種々な経緯が有り今から凡そ三百五拾有余年前に鎮座したが度々の津波等により本殿等が破壊し、御尊体、葛飾の里鎌田邑の長寿院預けられており、押切稲荷神社総代が御尊体が空虚なるのを日夜遺憾に思い、大正二年十一月四日長寿院に返還を申し入れし、鎌田村議の結果、大正二年十二月十九日早朝返還が相成り氏子総代一同御船にてお迎えし本殿へ無事安置し現在に至る。』

 というのが由緒書きにある。

Dsc_00502

 まあ、浦安から行徳までの途中にはあまりなくて、行徳の中心部に近づくと、こうしたいろいろな遺構があるってのは、やっぱりこの辺りが浦安から行徳の中心部だったってのがよくわかる。

 近くには「伊勢宿」という町があるくらいだから、多分、行徳からの塩を運んだ道や、成田街道なんかの宿場町が、この辺だったのかもしれない。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2 D @Gyotoku Ichikawa ©tsunoken

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