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2017年10月

2017年10月31日 (火)

『縮小ニッポンの衝撃』のなるほどなあ

 今年6月27日のブログ『未来の年表』で描かれている世界がマクロ的に「縮小ニッポン」をとらえたのに対し、同じ講談社現代新書の『縮小ニッポンの衝撃』は、まさしくNHKドキュメンタリーですね、見事なミクロ的視点からの証言集だ。

Photo 『縮小ニッポンの衝撃』(NHKスペシャル取材班〈大鐘良一・森田智子・花井利彦・田淵奈央・鈴木冬悠人・清水瑶平・植松由登/プロデューサー:天川恵美子・大鐘良一・高倉基也・小野寺広倫〉/講談社現代新書/2017年8月1日刊) 

 内容(章立て)は以下の通り:

プロローグ
第1章 東京を蝕む一極集中の未来 23区なのに消滅の危機(東京都・文京区)
第2章 破綻の街の撤退戦① 財政破綻した自治体の過酷なリストラ(北海道・夕張市)
第3章 破綻の街の撤退戦② 全国最年少市長が迫られた「究極の選択」(北海道・夕張市)
第4章 当たり前の公共サービスが受けられない! 住民自治組織に委ねられた「地域の未来」(島根県・雲南市)
第5章 地域社会崩壊集落が消えていく「農村撤退」という選択(島根県・益田市、京都府・京丹後市)
エピローグ 東京郊外で始まった「死の一極集中」(神奈川県・横須賀市)

 2006年に財政破綻に直面した北海道夕張市がある。夕張国際ファンタスティック映画祭なんかで有名な市なんだが、結局は炭鉱閉山の後の処理がちゃんとできていなかったための財政破綻なんだが、NHKの番組もそこからスタートしたのだった。

『「もしかしたら夕張の姿は、数十年の日本の未来図かもしれない……」
 NHK札幌放送局では、財政破綻当時から夕張市を継続的に取材してきた。破綻から10年を経たいま、行政や住民はどんな現実に直面し、格闘しているのか。今だからこそ顕在化してきた課題を徹底取材すれば、きっと夕張の特殊事情にとどまらず、日本全体へのヒントとなるはずだ。こう考え『NHKスペシャル 縮小ニッポンの衝撃』の企画はスタートした』

 というのがそもそものNHKの番組取材のきっかけだった。

 ところがその取材の過程でとんでもない情報が飛び込んでくる。

『日本有数のターミナル・池袋駅を有し、およそ29万人を抱える豊島区。人口は2000年以降、順調に増え続けている。ところが、3年前、民間の研究機関「日本創成会議」(座長・増田寛也元総務相)から驚きの発表が出された。「消滅可能性都市」のリストの中に、豊島区の名前が挙げられたのだ。まったく予想もしていなかった「消滅」の2文字に、区は大きなショックを受けた』

 その一番大きな要素は『豊島区は、25年以上にわたりほぼ毎年、「自然減」の状態が続いていたのである。他の自治体からの流入がなければ、とうの昔に人口減少が始まっていたのだ』。そしてさらに門田なのが『豊島区外から新たに転入してきた人の平均年収だ。その中の「20代の単身者」の欄に目を移すと、241万円とあった。2015年時点で、従来から区内に住み続けてきた同世代と比較すると、40万円以上も低いことが分かったのである』。

 そんな低年収の若者たちは当然ながら税負担の能力は低いし、多分非正規雇用の若者たちが多いだろう。で、当然そういう人たちが伴侶を見つけて結婚する可能性は低いし、ということは子供を作る可能性も低い。で、将来的には消滅可能都市になるっていう論法なのである。うーむ、それは確かにありそうな話だなあ。

 1920年に国勢調査を開始以来100年近い間増加を続けてきた日本の人口なんだが、2016年に発表された国勢調査(2015年)によると総人口は1億2709万人と、5年前の調査に比べて初めて減少に転じた年として、90万2667人の減少が確認されている。以降は、日本の総人口は(よほどの海外からの移住を受け入れない限り)順次減少していき、『未来の年表』によれば2053年には日本の人口は9,924人と一億人を切るそうだ。

 結局、我々はこれから先どうしたって縮小する日本と日本民族の前に立ち会わなければならない以上は、もはや覚悟を決めてかかるしかないのだろう。

『東京オリンピックから5年後にあたる2025年は、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる年である。この年以降、日本は5人に1人が75歳以上という超高齢社会に突入する。ニポンを支えてきた団塊の世代が医療や介護を受ける側にまわれるようになれば、消費は著しく減退するとともに、社会福祉費が増大し、国家財政が破綻の危機に瀕する。東京オリンピックは、縮小ニッポンがもたらす歪みが噴出し始める分水嶺となる。祝祭の先で私たちを待ち受けているのは、奈落の底へとつながる絶壁なのかもしれない。
 そうした厳しい状況の中で、私たちにできることは何か。それは、国も自治体も、そして私たち国民も、この過酷な現実をしっかり直視し、問題を先送りしないことしかない。その上で、これまで当たり前に思っていた行政サービスを諦めたり、自分たちの暮らす地域を縮めていくなど、一人ひとりが痛みを分かち合いながら、「撤退戦」に身を投じなければならないだろう。そこには地方と東京の差はない。私たちは、次の世代にこの日本をつないでいく責任を負う者として、縮小ニッポンの未来図と向き合う覚悟があるのか、今まさに問われているのである』

 撤退戦として戦うのか、あるいはいろいろな宗教的問題やら民族的問題を抱え込みながら海外からの移住を受け入れるのか、まあ、選択肢は二つに一つなんだから、問題の捉えかたは比較的単純だ。

 さあ、どうなんでしょうかね。

『縮小ニッポンの衝撃』(NHKスペシャル取材班〈大鐘良一・森田智子・花井利彦・田淵奈央・鈴木冬悠人・清水瑶平・植松由登/プロデューサー:天川恵美子・大鐘良一・高倉基也・小野寺広倫〉/講談社現代新書/2017年8月1日刊)

 本日、心臓手術を受けます。ICUに入ったりするんで、暫くはブログの更新はストップすると思いますが、いずれまた再開する際はTwitterやFaceBookでお知らせしますので、暫くお待ちください。

 では、行ってまいります……、なんちゃって、明日は更新しますので、ヨロシクね!

 

2017年10月30日 (月)

『鷲尾老人』って、一体誰なんだ?

 鷲尾老人(匿名)って、いったい誰なんだ? ってことが気になるんだけれども、もう一方で、別にそんなことを気にしてもしなくてもどうでもいいんじゃないの? っていう気分もある。まあ、有名人なら「ああ、あの人も好きなのねえ」ってな気分になるけれども、無名の人だったら、もうどうでもいいもんね、ということなんですね。

 まあ、どうしても知りたければ『週刊現代』に問い合わせれば、もしかすれば教えてくれるかもしれないが、でも結構「週現」も口が堅いんですね。多分、この写真資料提供の条件に「故人の特定はしないこと」なんて条項があるんだろう。遺族としては「ちょっとね」ってなところがあったのかもしれない。

「芸術家」ってなってるんだけれども、どんな類の芸術家なのかはわからない。まあ、多分絵描きさんじゃないかとは思っているんだろうけれども、「絵描きさん」って言っても、今風に言えば「イラストレーター」かな、日本画家とか洋画家っていうんじゃなくて、雑誌や書籍(小説)なんかの挿絵を描いていた、というような。

 で、そんな「芸術家」さんが「仕事の資料に」とかなんとか理屈をつけて、いろいろ購入した「資料」がたまりにたまって、いつしか「鷲尾老人コレクション」という名前で好事家たちの間で有名になった、というところなんだろうな。まあ、その時点では単なる「エッチな爺さんのお楽しみコレクション」みたいなものと認識されていたんだろうけれども。

Photo 『鷲尾老人コレクション』(週刊現代編集部編/講談社MOOK/2017年6月26日)

『鷲尾老人コレクション』の内容は以下の通り。

<目次>
第一章 これが鷲尾老人厳選コレクションだ!
第二章 初々しい女体をコレクション 「昭和」の日本女性
第三章 明治・大正のエロスをすべて見せます 「卵白写真」写真集
第四章 おおらかな昭和の性を描き切った 「昭和風俗秘画」傑作選
第五章 性の解放がここに 衝撃の輸入エロス「洋モノ」の世界
第六章 鷲尾コレクションの女性器

『某芸術家が人知れず蒐集してきた明治・大正・昭和の性風俗写真の数々を大公開。近代日本のエロスの歴史が凝縮された、ここでしか見られない新資料を多数掲載』っていう惹句は多少大げさではあるけれども、まあ、要は昔から「絵画→ヌード」という流れがあるというのと同様に、「写真→ヌード」という風に意識の流れがあるのは、男としての「哀しいサガ」なんだよなあ。と同時にそれがなければ男というものは「単なる生き物」以上の存在にはなれないわけなので、それまた大事なことでもあるのでしょうね。

 写真は現代ではヘアーは写っていても出版には問題はないのでいいのだが、さすがに女性器(まあ、男性器もそうですが)が写っていたりすると、媒体の性格によって捉えられ方が異なってくるので、そこは「黒墨」で覆われていたりする。でも、その写真が載っている章が「鷲尾コレクションの女性器」ってんだからこれまた皮肉ではありますね。まあ、『週刊現代』に掲載されたときには週刊誌っていう媒体の性格もあるし、多少は写真表現に制約がでるのも仕方ないのかもしれないが、単行本になったら、もうあまり気にしても意味はないののなあ。

 それだけ講談社も「お育ちの良い」会社になっちゃったのかしら。

 まあ、はっきり言って、別に騒ぎ立てるほどのヌード写真でもないのに、大げさに騒いで話題にしようって魂胆は大いに買えるんだが、問題は『鷲尾老人コレクション』なるものの、古色蒼然たる有様ではある。

『某芸術家が人知れず蒐集してきた明治・大正・昭和の性風俗写真の数々』って言ったって、その『某芸術家』が誰だかわからないのじゃ、ポイントは大いにずれるわけで、『某芸術家』って言っちゃった時点で、それが単なる「ヒヒ爺」だったかもしれないという可能性があるっていうことを、わかって使っているはずだよなあ『週刊現代』は。

 まあ、そんなことを考えながら、この古色蒼然たるヌード写真の一群を眺めているわけです。

『鷲尾老人コレクション』(週刊現代編集部編/講談社MOOK/2017年6月26日)

2017_10_30

 今日はいい天気。ただし、暑いのか、寒いのかが、病院にいると全く分からない。

2017年10月29日 (日)

踏切地蔵尊・下北沢

 今、大変貌しつつある下北沢である。

 まあ、ゴチャゴチャしている町は別に嫌いじゃないんだけれども、でも、あまり下北沢(「シモキタ」って言うのかな?)は、何故かあまり好きになれなくて来ていない。

「芝居好き」の街だからなのかなあ。と映画は好きだけれども、芝居はそんなに好きじゃないtsunokenは申しております。

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 前に下北沢について書いたのは、この新しい形の本屋「本屋 B&B」ができた時のはずだから、2012年のオープンの時以来、この町には来ていなかったのかなあ。もう、5年も来ていない……、なんてこともあるんだ。

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 で、今日のネタはそんなに最近の下北沢じゃなくて、もっともっと、ずっと昔からあったモノ…って言っていいのかな。

 南口商店街をずっと下がっていって、南のはずれ、北澤庚申堂がある交差点を右折して、坂をどんどん上がっていって、昔、小田急線の踏切があったところにそれは建っています。

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 ってことで、もうバレバレですね。そう、踏切地蔵尊というのがその場所にあるのだ。

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 下北沢駅は京王井の頭線との乗換駅でもあり、小田急線としてもかなり重要な駅なのだろう。まあ、だからあえて「再開発」という困難な方法を用いても駅を、更に駅前の街を、作り変える必要があったのだろう。

 ってことは、まだ小田急線が地下化していなかった頃のこの踏切は、かなりの「開かずの踏切」状態だったんだろうな。で、踏切事故が頻発した→事故にあった人の魂を慰め、同時に踏切事故が無くなるように→との願いから、この地元の篤志家たちがお地蔵さんを作った、という流れのようだ。

 踏切がなくなった今も、花やお酒を手向けられている、まあ、考えようによっては、哀しいお地蔵さんでもあります。

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 現在は地下化工事もかなり進んで来年には工事完了予定なんだが、工事が終わってもお地蔵さんは残るんだろうな。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f1:2.8 D @Shimokitazawa ©tsunoken

 

2017年10月28日 (土)

KONICA M-HEXANON レンズ・テストと業務連絡

 新たに仕入れたレンズ「KONICA M-HEXANON 50mm/f2」テスト撮影を10月20日の日本橋「寶田恵比寿神社祭り(べったら市)」にて行った。

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 なぜ、Mヘキサノンなのかと言えば、実は結構オッチョコチョイな話があって、ライカM6が欲しくなってM3を手放したときに、なんとなくM3と一緒にズミルックス50mm/f1.4も一緒に手放してしまったのですね。まあ、その頃はライカは35mmまででいい、それ以上の焦点距離は一眼レフに任せておけばよい、と考えていたんです。

 しかし、実際に再びライカを手にしたときに、なんか35mmまでだと物足りないっていう気がしました。で、中古カメラ屋さんにでかけてズミクロン50mm/f2を探しました。ズミルックスだとちょっと大きすぎてカメラとのバランスが良くないっていう気がして、更にf1.4なんて絞りはまず使いません。で、ズミクロン。

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 数年前まではズミクロンもズミルックスも、10万円も出せば結構いい状態のものが手に入ったんだけれども、実はカメラをデジタル化してから、次はレンズだってなもんで、レンズの高級化を始めたんですね、ライツ社は。で、ズミルックスの現行品やズミクロンの現行品は50万~100万円もするものがある。ああ、それだったら以前手放したズミルックスを手元に置いておけば良かったなあ、なんて考えたのも後の祭り。

 で、やむなく手に入れたのがコニカ M ヘキサノン 50mm/f2だというわけなんです。このM ヘキサノン、ズミクロン50mm/f2と同じくらいの大きさだし、レンズの明るさもf2あれば十分、ということでレンズテストに夕刻の寶田恵比寿祭りに出かけたというわけ。

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 まあ、これでVOIGTLANDER COLOR-SCOPAR 21mm/f4、LEITZ ELMARIT-M 28mm/f2.8、LEITZ CANADA SUMMICRON 35mm/f2、KONICA M-HEXANON 50mm/f2と、ライカ用標準~広角系フル・ラインナップになったので、ライカ用はもうOKであります。

 まあ、M3と併用していた時には気になっていたファインダー視野枠の小ささ(M3は50mmが最大、M&は28mmが最大)なんだけれども、まあ、慣れれば問題ないだろう。っていうか、やっぱりM6は基本的に35mmがメインになりそうな機材なので、50mmは臨時用ということでそんなに気にしても意味はない、ということですね。

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 で、最後に業務連絡です。

 今日から再び入院して、手術を受けることになりました。まあ、しばらくはブログも途絶え気味になるかもしれないけれども、PCは持って入院するつもりだし、実は多少は書き溜めていた分もあるので、即「ブログ中断」にはなりません。まあ、少し短かったり、写真があまり入っていなかったりの変化はあるでしょう。

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 毎日、私のブログを楽しみにしている読者の皆さんにはちょっとばかり「中途半端なお別れ」になりますが、また、退院してからの復活をお楽しみにしてください。

 それでは…

LEICA M6 KONICA M-HEXANON 50mm/f2 @Nihonbashi ©tsunoken

 

2017年10月27日 (金)

世田谷区赤堤って、どんなところ?

 昔、アニメのある音響監督(女性)と話をしていて、彼女が世田谷区の赤堤出身だということを自慢していたことがあった。

 赤堤と言えば、世田谷区の豪徳寺の隣町だし、結構「お嬢様」だったんだなあ。で、その「お嬢様」がなんでよりによってアニメの音響監督に? って、話がなったんだけれども、その先は覚えていない(ことにする)。

 で、考えてみれば豪徳寺あたりは世田谷城ネタで何度も行ったんだけれども、赤堤って行ったことがないなあ、ということで京王線下高井戸から歩いてみた。

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 日大文理学部(というよりも私にとってはアメフト日大フェニックスなんだけれども)の学生さんとは反対方向に降りて、世田谷線沿いに歩く。

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「公園通り」なんていう表示を見ると、「うん、さすがにお嬢様の街」ってな雰囲気なんだけれども……。

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 行っても行っても普通の商店街……

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 普通の住宅街が延々と続くんですなあ。

 別に「お嬢様」の街でもなんでもないじゃん!

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 なんて勝手に憤慨しながら歩いていたら、目の前に「赤松公園」が! すわっ! 「赤松城址公園」か? と、これまた勝手に盛り上がっていたんですがね。 

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「赤堤と松原の中間」なんで「赤松」公園なんだと……、えっ? えっ? えっ? なんと安易な世田谷区ぅ。

 まあ、世の中の大半は、こんな変哲もない「普通の町」だってことは知ってはいるんですがね。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f1:2.8 D @Akatsutsumi Setagaya ©tsunoken

2017年10月26日 (木)

昭和通り

 昭和通りというのは、上野駅の駅前で中央通りと分かれて、新橋交差点でアンダーパスから出て中央通りと合流する(行政的には三ノ輪の大関横丁からと、ちょっと長い)銀座中央通りの混雑を避けるためのバイパスとして作られた道である。

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 なので、銀座通り(中央通り)みたいな派手な商店とか、日本橋の三越、上野広小路の松坂屋などの大きな商業施設は少なく、オフィスビルやそんなオフィスのショールームなんかが並んでいる、ちょっと見には「地味」な通りである。

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 私は結構この「地味さ加減」が好きでよく歩いているんだけれども、あまり写真には撮らないなあ。

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 でも、この江戸橋沿いなんかは、日本橋と違って日本経済を裏から支えている金融業や商業の会社が多く、それなりの存在感があるビルが多い。

 更に、この江戸橋界隈の首都高速の曲線なんて、いくら見ていても飽きないんですね。う~ん、セクシ~。

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 ショールームも中央通りのようなユーザー向けではなくて、業者向けの展示や、ビジネスユースの展示物が多くみられる。これまた中央通りの派手な飾りつけじゃなくて、なかなかセクスィーな感じでいいんですね。

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 この昭和通りは関東大震災の復興事業として計画され、1928年(昭和3年)に完成した。だから「昭和通り」なんだな。と思ったのだが、じゃあ明治通りは明治時代に計画されてとか、できたとかあるのか、と思ったらそうではないらしい。

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 明治通りも関東大震災の復興事業として計画され、完成も昭和なんだが、まあ、多分近くに明治神宮があったから明治通りになった、っていうんでしょうね。

 まあ、別に道の名前なんてなんでもいいんだから「寶田恵比寿通り」でもよかったんですけれどもね。おお、これでブログにオチがついた。

 ああ、寶田恵比寿じゃ明治神宮ほど有名じゃないからダメか。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f1:2 D @Nihonbashi ©tsunoken

2017年10月25日 (水)

鴨川大山千枚田

 9月の初めに千葉県展の日本画部門を見に行った時、そこに展示されていた棚田の田植え風景の絵を見て初めて、ここ千葉県にある棚田のことを知った。それが「鴨川大山千枚田」なのであります。

「東京から一番近い棚田の里」というのが売り文句らしい。

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 しかし、棚田そのものは山がちのこの国では別に特に珍しいわけではなく、私がよく闘牛を見に行く、長岡の山古志村にも棚田は多く、山古志の名物は「棚田、錦鯉、牛の角突き」なんである。ただし、そこは東京からは遠い。

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 で、千葉県の鴨川なんだけれども…

『起伏が多く、平たんな土地が少ない南房総の山間部では、山の斜面を開墾し、地形を巧みに利用して、棚田が盛んに造成されました。県内最高峰の愛宕山(標高408m)から北西約2kmに位置する「鴨川大山千枚田」は、標高90~150mの斜面に大小様々な水田が、東西約600mの範囲に連なっています。その規模と景観はともに、市内に残る棚田の中でも最もよく保存されています』

 という通り、別に「大山千枚田」に含まれていない部分も、すべては棚田や棚田を改良した畑や果樹林などになっている。

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『平成9年に所有者、鴨川市民、市外在住者などによって「大山千枚田保存会」が結成され、この棚田の保存と活用への取り組みがスタートしました。平成11年には、農林水産省の「日本の棚田百選」に認定されています。(中略)指定名勝の範囲内では375枚の水田が耕作されていますが、今後はさらに、その範囲内にとどまらず、大山千枚田周辺の棚田と里山・集落を有機的な関連性をもつ文化的景観としてとらえ、それらを一体として保存活用するため、総合的な取り組みをすすめています』

 ということ、一番上の写真や下の棚田は、そんな375枚の田んぼのうちのいくつかなのであった。

 なお、山古志は「日本の棚田百選」には選ばれてはいません。

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 すぐそばには大山不動尊っていうのがあって、「高蔵山の中腹にある大山寺は、神亀元年(724年)に良弁僧正が開山したと伝えられています。「成田山新勝寺」「雨降山大山寺」と共に「関東三大不動」とされています」 っていうんだけど、そんなの聞いてないぞ。

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 ただし、大山千枚田の棚田を見てみると、畦にライトがついていて、ある時期には夜になるとそれに灯がともるようになっているそうだ。

 う~ん、別にいいんだけれども……、それってどうなの?

NIKON Df AF Nikkor 35mm f1:2 D / 20mm f1:2.8 D @Hiratsuka Kamogawa ©tsunoken

 

2017年10月24日 (火)

レイモン・ドゥパルドン『さすらい』はどこか懐かしい感じのエッセイだ

 巻末に収められている「年譜」によれば「2000年 フランスのヨーロッパ写真美術館で初の大きな個展「回り道(Detours)」が開催される。『回り道(Detours)』と『さすらい(Frrance)』の2冊の写真集が出版される。この年のナダール賞を獲得」とあり、「2012年 彼が主役の映画『旅する写真家――レイモン・ドゥパルドンの愛したフランス(Journal de France)』をクローディーヌ・ルガレと共同監督、カンヌ国際映画祭のコンペ外作品部門で公式上映される。その後6月に劇場公開。同月、フランス・オランド大統領の公式ポートレートを撮影」となっている。

 最初はこの本と映画が「対」になっている作品なのかと思ったのだが、どうもそうではなく、写真集「さすらい」はそれまでのドゥパルドンの撮影行についての考え方の集大成であり、「旅する写真家」はその本をもとにしたエッセイ映画のようなもの、という考え方になるのではないだろうか。

Erance 『ERRANCE(さすらい)』(レイモン・ドゥパルドン著/青山勝・国津洋子訳/赤々舎/2017年9月1日刊)

 写真撮影者(カメラマン、フォトグラファーから一般カメラマンまで含んだすべての写真者)にとって「さすらい=流離いながら行く撮影行」というのは、ある種の自らの撮影スタイルの理想的な姿であるだろう。そうした理想的なスタイル「さすらい」への憧れに満ちていながら、しかし、現実的にはそれは「行方定めぬ『彷徨』(さまよい)という理想郷とははるかに遠い、誰かクライアントのいるアサインメントの仕事だったりする、その「理想と現実の乖離」といったものについて延々と語っているのが本書『さすらい』であり、その一方、既にかなりの部分で理想の形に近づきつつある「流離い=彷徨い」の姿を、昔の自分の姿と比較しながら語ったのが映画『旅する写真家』なのではないだろうか。 

Photo

『写真家というものは不満を抱きながら仕事をしている。1日に500枚の写真を撮ったとしても、それはたとえば、125分の1秒の500倍にしかならない。全部足してもおそらく2秒ほどにしかなからいだろう。
 写真には、24mmx36mmというフォーマットがある。これは途轍もなく優れたフォーマットで、非常に使いやすい。むしろ安直といえるほどだ。20x25cmという大判のフォーマットもある。こちらはまず対象を眺め、その都度フィルムを装填し、倒立した像を見なければならない。『さすらい』に関しては両者の中間を選んだ。8カット連続して撮れるカメラだ。このカメラでは、光が強くないとうまく撮れない。したがってこれは、強い光のもとでのさすらいである。さすらいは戸外でなされるものだと思うからだ。だが、いま振り返ってみるとき、私にはあの写真家につきものの不満が湧いてくるように思う。今度は24x36mmのライカと50mmのレンズを1本持って旅立ち、世界中を歩きまわろう。そんなことを思ったとしてもなんら不思議ではないだろう。だが、24x36mmであまりに安直な写真を撮りたいわけではない。また、お互いになんの関係もない人々を比較したいわけでもない。私が比較できるのは、ただひとつ、物事を見る私なりのやり方だけだった。いったい、アジアにいるとき、アフリカにいるとき、アメリカにいるときで、それぞれ私のものの見方(ルガール)に違いがあるのだろうか?アフリカに行ってはっきりわかったことがひとつあった。残念だが、私はアフリカ大陸をあまりに知りすぎている、ということだ……アフリカはこの旅の、このさすらいの被写体(シュジェ)にはならなかった』

 とドゥパルドンがこう書くからといって、職業的な写真家がそうである以上、私たちのようなアマチュア・カメラマンが被写体に迫れないことを正当化するつもりはない。撮影主体と被写体(客体)とが一致することなどありえない話なんだけれども、でも、どこかで自らの被写体である「人々」と、撮影者である自分との一体感を感じてしまう一瞬というものがあるということであり、しかし、アフリカ大陸ではそれが叶わなかったというのがドゥパルドンの経験だったということなんだろうか。

 この写真集の面白いところは、見開きページの右側に横書きでドゥパルドンの延々たるエッセイが書かれており、右ページには縦位置でモノクロ写真が並べてあるんだが、当然のように「右ページと左ページは、まったく関係のない関係にある」ということなのだ。約70葉の写真のうち125ページからの10ページが日本で撮影した写真である。

 電柱や電線がそこいらじゅうを走り回っているというのがドゥパルドンにとっての「日本の風景」なのかもしれないが、しかし、街は都心から始まって次第に電柱の姿が減ってきている。街から電柱が(ほぼ)消えた頃にドゥパルドンが再び来日して、そこに何を見るのかが楽しみではある。

 で、このエッセイ集とも写真集とも言えない(言える)本については、まだまだ語りつくせないものがたくさんありそうなので、これからも何度か取り上げていきたい。

 まあ、このフランスらしい『「延々たるエッセイ」風の小説』って、ああそうだ、ゴダールの映画なんだなあ。何故か懐かしい感じがするのは、そのせいか。

R11984922 RICHO GRD @Ikebukuro ©tsunoken

『ERRANCE(さすらい)』(レイモン・ドゥパルドン著/青山勝・国津洋子訳/赤々舎/2017年9月1日刊)

2017年10月23日 (月)

小人閑居して不善をなす

「小人閑居して不善をなす」と言っても、別に選挙でえらばれた国会議員の皆が皆「不善をなす」なんて言っているわけではありません。

 でも、衆院選の選挙結果を見ながら、ふとアタマに浮かんだのがこの言葉でした。

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 まあ、みなさん「変化を好まない人」が多いってことなんでしょうね。ヘタに政権が代わってしまって、その結果もたらされる社会の変化が怖い、っていうか嫌うっていう人たちなんでしょうか。私なんか、社会に大乱が起きることを期待しているんですけどね。まあ、これじゃあ起こりそうもないなあ、選挙じゃね。かと言って、革命を起こすほどの知力も体力もないので、せめて選挙に期待しているんだけれどね。

 そういえば「小人」に関する諺で言えば、「閑居にして不善をなす」以外にもあって。

「小人窮すれば斯に濫す」(思慮の浅い人は窮乏に安んずることができないから、窮迫すると、取り乱してしたい放題のことをする)

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「小人罪無し玉を懐いて罪あり」(小人とても初めから罪を犯そうとするわけではないが、身分不相応の財宝に接すると罪を犯すようになる)

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「小人の過つや必ず文る」(小人はあやまちがあっても改めようとしないで、あれこれつくろいかざろうとする)

 なんてのがあります(「広辞苑 第六版」より)。

 一方、「大人」については「大人大耳」(徳の高い人は細かなことをいちいち耳にとめない)とか「大人は赤子の心を失わず」(徳の高い人は、赤子のような純真な心を失わない)なんてのがあるんですが、うーん、こりゃあ「大人」になるのは難しそうだな。やっぱり大半の人は「小人」なんだ、ってことなんですね。

 っていうか、私らはみんな「小人」なんですもんね。

 で、そんな大半の人に向けて言ったのが「小人閑居にして不善をなす」って諺なんだ。その他にも「李下に冠を正さず」とか「瓜田に履を納れず」なんてのもある。

 まあ、こういった諺の意味をちゃんとお勉強してから国会議員になりましょうね、って言っても無理か。

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 みんなモリそばやカケそばが好きなのかなあ。

RICHO GRD @Tokyo several places ©tsunoken

2017年10月22日 (日)

JAZZ DEPARTMENT STOREって、何?

 昨日のブログの最後の写真を見て気付いたことありませんか?

 そう、駅のバナーに貼られた「JAZZデパート」っていう広告。まあ、池袋を起点にして動き回っている人にとってはどうということもなく、見落としてしまったかもしれませんけれども、何か変ですよね? 「Jazz Department Store」って、何を売ってるの?

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 ジャズのレコード? ってことじゃ当たり前すぎるし、そんなものはデパートのCD売り場に行けばいいんですもんね。

 じゃあ、「ジャズみたいな百貨店」ってことですかね? で、「ジャズみたいな百貨店」って何だろう? まあ、ジャズっていうのはクラシックやブルース、ロックなんかをなんでも融合(フュージョン)していって発展してきた音楽ジャンルなので、まあそんな「ジャズみたいになんでも扱って、その本体がなんだかわからなくなってしまっている百貨店」っていう意味なのか。

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 と、いろいろ考えたんだけれども、端的に言ってしまえば「デパートでジャズのライブやります」っていうことだったんですね。まあ、少しは「私たちはジャズみたいな百貨店を目指します」っていう、デパートの意気込みなんかを少しはあらわしているのかもしれない。うん、期待するのはそっちの方かな。

 ライブっていうことで言えば、10月23日には日野皓正クインテットの無料ライブをやったり、毎週末にはコンボや大学のビッグバンドジャズなんかの演奏もあったりするようだ。

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 が、しかし、「〽問題は今日の雨」ですね。

 屋上のライブ会場もこの雨ではあまりお客さんもきそうもありません。

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 基本的にライブハウスなんかで演奏されることの多いジャズなので、あまりオープンエアのところで聞いたことはない。っていうか、私自身はまったく経験がない。ジャズってのはジャズ喫茶なんかで聴くもんだ、って考えていましたからね。まあ、ニューポート・ジャズフェスティバルなんかに行けば、オープンエアでやってるけど、天候の安定しない日本では基本的にはジャズは家の中で聴くもの、っていうイメージが強いもんなあ。

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 はてさて、この「Jazz Deoartment Store」ってコンセプト的(意気込み的)には何となく理解はできないではないけれども、うまくいっているのかどうなのか。デパートのビジネスに強くない私には何とも判断できないが……、どうなんでしょうかねえ。

RICHO GRD @Ikebukuro ©tsunoken

2017年10月21日 (土)

秋の日の…ヴィオロンの…ため息の…

 撮影をしながらほっつき歩いている時に、突然、頭の中で聞こえた詩があった。

「秋の日の…ヴィオロンの…ため息の…」

 有名な、ポール・マリー・ヴェルレーヌの詩である。勿論、別にフランスの詩に詳しいわけではない、きわめて散文的な私が覚えているのは、上に書いた部分だけである。

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 雨の一日だった。「雨の日の…雨の日の…なんてことを口ずさんでいるうちに、「秋の日の…」となったに違いない。

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Les sanglots longs
Des violons
 De l'automne

 というのが、冒頭に掲げた部分の原語。この「Les sanglots longs」というのは「ため息」というよりは「死ぬ間際の喘ぎ」のようなものらしい。とすると、上田敏による詩的な翻訳は、それでいいのか? ということになる。

 ただし、それを自分で解決できるほどのフランス語の素養のない私としては、まあ、そのまま上田敏訳を読むわけである。

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 ところが、この有名な詩が第二次世界大戦を決した連合軍のノルマンジー上陸作戦の暗号として使われたらしいのだ。

『1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の際、フランス各地のレジスタンスに工作命令を出すための暗号として、「秋の歌」の冒頭が使われ、英国放送協会(BBC)のフランス語放送で流された。
 秋の日の ヴィオロンの ためいきの
 身にしみて ひたぶるに うら悲し
            (上田敏訳による)
実際には前半の「秋の日の…」と後半の「身にしみて…」の二つに分けて放送され、「秋の日の…」が近いうちに連合軍の大規模な上陸作戦があることを、「身にしみて…」が48時間以内に上陸作戦が行われることを意味していた。
「秋の日の...」は6月1日、2日、3日に流され、「身にしみて...」は6月5日午後9時15分から数回にわたって放送された』(Wikipedia)

 なあんてことを聞くと、途端にこの詩が散文的に聞こえてくるから不思議だ。

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 誰でも学校で習うポール・ヴェルレーヌの詩「Chanson d'automn」であるが、そんな使われ方をしていたなんて、きわめて散文的な印象を持つか、あるいはさすがにフランスは違うなあ、と思うのか。

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 どちらにせよ、さすがに学校で習ったことが突然思い出されてしまうっていうのも、教育の力なんだなあ。

RICHO GRD @Ikebukuro & Shinjuku ©tsunoken

2017年10月20日 (金)

旧・新橋ステイション

「〽汽笛一声新橋を~」でお馴染みの鉄道唱歌だが、そこで歌われている「新橋駅」が現在の新橋駅ではないことはご存知の通り。

 大正3年(1914年)に東京駅ができて横浜へ向かう東海道線の始発駅は東京駅となり、旧新橋駅は廃止、貨物専用の汐留駅となった。新橋駅は電車の烏森駅がそのまま名前を受け継ぎ新・新橋駅となる。

 その後、昭和61年(1986年)になって汐留駅も使用しなくなり、正式に廃止となって、広大な汐留貨物駅は都市再開発の対象となって現在に至っているのはご存知の通り。江戸の中心部に近い汐留地区は江戸時代の遺構の大々的な発掘現場となった。赤穂浪士の引き上げで有名な仙台藩芝口上屋敷(浜屋敷)もここにあった。

 で、その発掘作業も終わり、平成15年(2003年)に、旧駅舎やプラットフォームの一部が再現されて旧新橋停車場として、再び我々の前にお目見えしたのはご存知の通り。

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 とは言うものの、旧駅舎は完全な昔の駅舎の再現ではなくて、あくまでも「イメージ」だし、プラットフォームも昔に比べれば大分短いようだ。

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 プラットフォーム脇には旧東海道線のレールの一部が再現されていて、「ゼロマイルポスト」も作られている。現在の東京駅にあるような「ゼロキロポスト」じゃなくて「マイルポスト」というのが、いかにもイギリスの鉄道をお手本にした日本の鉄道っていう雰囲気ですね。

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 中は鉄道歴史展示室になっていて、常設展示と企画展示がある。

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 企画展示は大宮の鉄道博物館から持ってきたものや、汐留界隈の郷土史などが随時展示されている。

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 C62のミニチュアが展示されています。よくある貨物専用のD51(デゴイチ)じゃなくて、特急列車用のC62(シロクニ)ってところがいいですね。

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 旧新橋停車場鉄道歴史展示室は無料で入れます。建物の中にはライオン・ビアホールがあります。鉄道展示物を見て、それをネタにビールで盛り上がるってのも、いいかもしれない。

NIKON Df AF Nikkor f1:2.8 D @Shimbashi ©tsunoken

2017年10月19日 (木)

矢口の渡しのそばに新田神社というのがあるんだが

 東急多摩川線の矢口渡の次の駅が武蔵新田駅である。

 私はこれを「むさししんでん」と読んで、どこかこの辺に新しく田んぼを開拓した人がいて、それにちなんでできた地名だと思っていた。が、そうではなく、新田義貞の子新田義興にちなんだ「新田神社(にったじんじゃ)」というのが駅のそばにあり、それ故に「武蔵新田(むさしにった)」という駅名になったのである。

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『正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました』

 という矢口の渡しにちなんだ昔話があるそうだ。

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 昨日の東八幡神社にある「矢口の渡し跡」には大田区が作った碑文がある。

『大田区文化財   矢口の渡し跡
 新田義興が, 矢口の渡しで 延文3年(1358)討死したといわれるころの渡し場は, 現在の新田神社付近であったと思われ, 多摩川は, 今より東へ大きく 迂回していたと考えられる。
 江戸時代に, 平賀源内により 戯作「神霊矢口渡」がつくられ, 歌舞伎に上演されるに至り, この渡しは有名になった。  渡し場は, 流路の変遷と共に, その位置をいくたびか変え, この付近になったのは, 江戸中期からであると考えられる。
 この渡しは, 区内最後の渡船場として 昭和24年(1949)まで存続した。
   昭和50年3月19日指定   大田区教育委員会』

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 つまり、元々の矢口の渡しはこの新田神社のそばにあったらしく、江戸中期になっていまの東八幡神社の場所に移ったらしい。

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 まあ東八幡神社も新田神社もそんなに離れていないので、当然、川の流れの変化とともに場所を移動するってこともあるだろう。

 それより何より面白いのは、この新田神社が「破魔矢」発祥の地らしいのである。

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『平賀源内の矢守
宝暦年間(1751年〜1764年)の末頃、『宝暦末より矢口新田社に参詣多し、社地に矢を売始、詣人求めて守りとす』との記述が見られ、義興の矢と称して門前の茶店で売られたものをヒントに、平賀源内が新たに魔除けとして考案したという。御塚の外には決して生えないという不思議な篠竹を用いて五色の紙で矢をつくり、新田家の旗印を付けた「矢守」は正月の名物となったという。参拝客は2本の矢を買って1本は神殿に供え、もう1本を持ち帰って魔除けにした。これは新田家伝来の「水破兵破」の二筋の矢に由来している。後にこの矢守が全国に拡がり「破魔矢」の元祖となったという』

 うーん、「土用のウナギ」といい、破魔矢といい、平賀源内さん、いろいろなところに顔を出す人だなあ。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f1:2 D @Yaguchi Ota ©tsunoken

2017年10月18日 (水)

「渡し」つながりではないけれど……

 昨日の「小堀の渡し」からのつながりではないけれども、今日は大田区にある「矢口の渡し」なのであります。う~ん、たまたまね。

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 蒲田駅から東急多摩川線に乗って最初の駅が「矢口渡」駅。「矢口渡」と書いて「矢口の渡し」と読みます。

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 矢口渡駅を出ると矢口渡商店街があり、それを南の方へ行くと……

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 途中、「放光地蔵尊」なんかを見ながら多摩川の土手に出る。

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 この放光地蔵は、第二次世界大戦の米軍の空襲で焼け野原になり、多くの死傷者を出したありさまを見て、この家に住む鈴木三郎氏という篤志家が、多くの人の死を悼んで昭和32年9月21日に建立したそうだ。

 確かに、ここ大田区は戦前より軍需工場やその下請け工場が林立していた地域なので、空襲の際にはいの一番に狙われたところなのだろう。

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 多摩川の土手に出るとすぐ右に東八幡神社という神社があり、その社頭に「矢口の渡し跡」の碑が建っている。

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 ちなみに地名の「矢口」というのは、江戸時代以前は京都が街道の起点だったので、古代は奥州街道が通っていた当地で、日本武尊が東征時に矢合わせ(開戦の合図として、敵陣に矢を打ち込むこと)を行ったという伝承に由来するそうだ。ということは、日本武尊と東北の蝦夷との戦いが、ここ多摩川であったということなのだろうか。

 で、今は東八幡神社のところに矢口の渡し跡があるんだが、どうも時代の変遷とともに場所がいろいろ移っていたそうだ。その話はまた明日。

 なお、江戸川にかかる「矢切の渡し」の「矢切」は、もっと後の戦国時代に命名されたらしい。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f1:2 D @Yaguchi Ota ©tsunoken

 

2017年10月17日 (火)

取手宿、その②本陣染野家住宅

 ということでやってきたJR常磐線取手駅東口方面。

 もうそこは取手市取手っていう地名の通り、まさしく取手旧市街。まず目に飛び込んできたのが、取手名産「奈良漬」の製造元と造り酒屋なのである。う~ん、まさに旧市街ですねえ。

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 電信柱を見れば、そこには誇らしく「本陣通り」の表示が。

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 で、すぐ脇を見れば、そこには「旧取手宿本陣染野家住宅 主屋・土蔵 附 表門」があります。といっても、基本的には金・土・日だけの内部公開なので、もし行こうという人がいたら要注意。

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 染野家は主屋、土蔵、表門などからなっていて、かなりの大きさだ。

 取手の名主であった染野家は第二代水戸藩主徳川光圀(つまり水戸黄門様ですね)から命ぜられ、取手宿の本陣として使われていたそうだ。つまり、宿場の本陣と言っても、別に宿屋とかじゃなくて、普通の家だったのだ。本陣、脇本陣は身分の高い武家が宿泊や休息の場として使っていたわけなので、それは宿屋ではなくてその土地の有力者の家が本陣を命じられて、差し出したわけなのだ。

 もともと水戸街道は取手を通っておらず、取手を通るようになったのは徳川光圀の時代からだったそうだ。で、江戸を過ぎて明治になってからも名主であった染野家は、明治初期には郵便局としても使われていたそうで、その名残の馬蹄形の窓口なんかもあるそうだ。

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 門の脇には説明書きと一緒に「幕末の頃の本陣屋敷図」があるのだが、随分大きな造りの建物だったことが分かる。

 正面からは中に入れないので、裏の駐車場の方へ上がってみると、屋敷の裏や土蔵の一部が少しだけ見られる。

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 で、染野家のそばの利根川の河原に「小堀の渡し(おおほりのわたし)」があるようなので行ってみる。しかし、なんとそれは昔の水戸街道の渡しではなくて、明治の末に南の方(現在の小堀地区)へ蛇行していた利根川の流れを直線的に作り変える工事を行い、その為に分断された小堀地区の人々を取手に運ぶために造られた、というのが小堀の渡しらしい。

 つまり、現在の「渡し舟」なんですね。柴又の「矢切の渡し」みたいなもんか。

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 なんか、「チャンチャン」ってオチがついているようですね。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2 D @Toride ©tsunoken

2017年10月16日 (月)

取手宿、その1。西口に出て、失敗編

 取手宿というのは水戸街道の宿場としては、千住・新宿・松戸・小金・我孫子・取手という具合に六つ目の宿場町ということになる。

 現在の水戸街道(国道6号線)は基本的にJR常磐線の西側に位置しているので、やはり取手駅を出てなんとなく西口の方に出る。

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 国道6号線に出ると「水戸70km」の案内標識がある。東京までが約40kmなので、取手市は茨城県といっても、どちらかというと東京圏に属していて、取手市の住民も自分は茨城県民というよりは「茨城都民」的な意識の方が強い地域なのである。

 もっとも、最近はつくばエキスプレスができて守谷市から秋葉原まで直行できてしまうようになったため、取手から守谷の方まで行く常総線への乗り換え客は減ってきて、以前よりは「茨城都民」的な意識は弱くなっているかもしれない。

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 で、そのまま駅前通りを西進していくと、あれっ? 取手競輪場に出てしまった。う~ん、旧市街に競輪場なんてあるはずもないなあ、と電信柱を見ると「取手市新町」という表示がある。

 ああ、そうか何となく駅を出て西の方にきてしまったのだが、むしろ逆の方なのかもしれないなあ、と利根川の土手の方に向かって左折して川沿いに東の方へ行くことにした。

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 まあ、しかし確かに駅前にはマンションなんかが多く建っていたりして、東京のベッドタウンだという雰囲気はあったんだけれども、なんかすごく閑散とした街並みなんだなあ。

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 なあんてことを考えながら利根川土手沿いの道を東へ進むのでした。

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 常磐線のガードをくぐると、果たしてそこは「取手市取手二丁目」。

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 そうか、取手は駅の東口が旧市街地だったんだな。

 ということで、取手宿については明日のブログにつながります。

 オソマツ……。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2 D @Toride ©tsunoken

2017年10月15日 (日)

『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか?』っていう理由はわかっているんだが、でもそれが問題なんだなあ

 西森マリーさんていう人は、よくある外国人と日本人のハーフでバイリンガル、それを利用したタレントという位の認識しかなかったのだが、いつの間にかジャーナリストとして結構キチンとした仕事もやっていたんだなあ。

『今回の選挙は、都会の消費者(多文化尊重、学歴重視のホワイトカラー)と、田舎や工業地帯の生産者(額に汗して働くことを美徳としている信心深く愛国的な人々)の戦いでもありました。グローバル経済で消費者は得をして豊かになり、生産者は被害を被って生活が苦しくなったので、この大統領選はまさしく階級闘争だったのです。
 ただ、階級闘争戦略を用いて勝ったのは、階級闘争をお家芸とする民主党のヒラリーではなく、共和党のトランプだったわけです』

『私は2000年はゴア、2004年はケリー、2008年はヒラリーを応援していた極左環境保護派ではありますが、テキサスに住んでいるため隣人は皆、保守的なクリスチャン。ボランティア先のアニマル・シェルターでもふれ合う人のほとんどが保守派で、知り合いのほぼ全員が銃を持っている、という超保守的な環境にどっぷり浸かっています。
 今回の大統領選本選で、私の周辺の人々は皆トランプを積極的に応援していました』

 まあ、『2000年はゴア、2004年はケリー、2008年はヒラリー』が『極左』ってところにはちょっと引っかかってしまうが、要は2016年のアメリカ大統領選は「都会の民主派と田舎の保守派」の争いで、結局「田舎の保守派」が勝ったっていうことなんだな。それはいいけれど、その結果はどうなったんだろう。

 まあ、後出しジャンケンと言えばいえるんだけれども、実はそれは大統領選以前から分かっていたことでもあるんだ。

Photo 『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか? アメリカを蝕むリベラル・エリートの真実』(西森マリー著/星海社新書/2017年2月24日刊)

 ところでアメリカ人のパスポート所持率って知っていますか? これがなんと30%なんだそうだ。要は、国民の70%は海外に対して「行く気もないし、興味もない」っていう人たち。まあ、これについては日本人だって23%しかパスポートを持っていないんだから、あまり偉そうなことは言えないんだけれども、まあ、太平洋を挟んで両側の国の国民は海外への興味を持っていないってことなんだなあ。

 それは何故か? まずアメリカ人ってたかだかプロ野球のアメリカ選手権を「ワールドシリーズ」って名付けちゃうほど、「アメリカ=ワールド」だと思っている人が多い国民なのだ。更に言ってしまうと、それは「世界はアメリカとそうじゃない国」しかないと思っている人たちが多い。もっと言ってしまうと「世界中の人たちは英語(米語)を話していて、それ以外の言語はない」と思っている人たちがほとんどだってこと。つまり「世界一の田舎者」がアメリカ人の実像だってことなんだ。「アメリカ以外の世界のことを知ろうとしないアメリカ人」がものすごく多い国がアメリカなんだな。って、実際ヨーロッパから追い出されたように新天地を求めてアメリカ大陸にやってきて、アメリカ合衆国という新たな国を作った人たちの末裔が、何故、このように内向きになってしまったのか。まあ、それが一番不思議って言えば不思議なんだが。

『民主党派の人々は「そもそも金持ちは、何か悪いことをして小市民から搾取して金持ちになったに違いない」と信じています。ですから、金持ちには思い切り資産税をかけてやろうと思うわけです。
 一方、共和党派の人々は、「誰でも努力して一生懸命働き、絶好のチャンスに巡り会えれば金持ちになれる」と立身出世のアメリカン・ドリームを信じています。ゆえに、「もし自分が金持ちになったときには、せっかくがんばって働いて貯めた資産を子どもに残してあげたい」と思っているので、資産税に反対しているのです。
 富を憎む民主党がトランプを憎み、「富は勤労の成果・努力に対する褒美」と解釈している共和党派(特に福音派キリスト教徒)が大富豪のトランプを受け入れた、ということもいえるでしょう』

 というんだけれども、だとしたらそんな共和党派の人たちって、もはや「フロンティア」がなくなってしまい、それは「アメリカン・ドリーム」の終焉だってことに気付いていないのかもしれない。いつまでたっても「フロンティア」があるわけではなく、それは西海岸にまで開発の手が及んで以来消滅したんだが、それが同時に「アメリカン・ドリーム」の終焉だったということに気付いていない人たちがいるっていうことに気付かされたのが、実はドナルド・トランプの勝利だったのだ。

 既に「アメリカはもはや世界の警察ではない」とオバマが言ってから、「世界に冠たるアメリカ」なんてものは誰も信じなくなっている。勿論、それはアメリカ人自身がそれを自覚しているはずなんだけれども……。

 問題は、こうした「よその国に興味を持っていない」国民は戦争に走りやすいってことなんだ。外国のことをより知っていれば、そうした国と戦争を起こせば自分の国がどうなるかってことに考えが及ぶんだけれども、そうでない人々は簡単に「あの国はけしからん、つぶせ」ってなっちゃうんだなあ。まあ、日本にも「嫌韓」だとか「嫌中」だとかって、訳の分かっていない人はたくさんいるけどね。

『民主党派はアメリカは世界の中の一つの国にすぎず、アメリカ人は世界市民の一員で、アメリカ政府はアメリカ国民に対しても世界の国々の人々に対しても、金持ちに重税を掛けて富の再配分を行う義務があると思っています。
 共和党派、およびブルーカラーの民主党派は、アメリカは世界一ずばらしい自由な国で、均等に与えられた機会をうまく利用できれば大成功を収められると信じています。
 そして彼らは、世界一の偉大な国としてのアメリカの地位を守るためには、強い軍隊が必要だと思っています。
 彼らは戦争が好きなわけではありません。
 単に世界最強の軍隊を持っていたいだけなのです。
 圧倒的な軍事力があれば、他の国やテロリストたちは米軍から攻撃・報復されることを恐れて、はなっから戦争やテロなどを起こしはしないだろうということです。
 オオカミは自分が負けることが分かっているのでライオンにたてついたりしない、というのと同じです』

 まあ、ここにきてもやはりアメリカ人の夜郎自大な考え方が見えていますね。「Great America Again」とか「America First」とかのトランプ氏が言っている夜郎自大な言い方は、もはや世界のどこの国の首脳も口にしなくなっている(まあ、お隣の国の労働党委員長は別ですけれどもね)。

 アメリカの無知な庶民にとっては「Great America Again」とか「America First」っていう言葉は心地よく聞こえる言葉なのかもしれないが、傍の国の人間からすれば、それは危うい言葉であるわけだし、その裏に、「世界が見えていない同士の戦争」って言葉が張り付いているのだ。

 まあ、アメリカの庶民からしてみれば、アメリカが北朝鮮とかイランと戦争でも起こして初めて、自分たちの選択が間違っていたことに気付くんだろうけれども、その頃には、世界中で他の国を巻き込んで戦争が起きているってことを、アメリカ国民は知るべきだろうな。

『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか? アメリカを蝕むリベラル・エリートの真実』(西森マリー著/星海社新書/2017年2月24日刊)

2017年10月14日 (土)

雨の日は写真展を見に行こう

 まあ、別に雨だから見に行ったわけではないが、たまにはそんな気分もいいだろう、ということで東京都写真美術館まで『長島由里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。』という写真展を見に行った。

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 長島由里枝氏と言えば、家族と一緒に撮影したセルフ・ヌードでデビューし、そしてそれが有名になったおかげで、「長島由里枝=セルフ・ヌード」というイメージで世間的には捉えられていた時期が長かった。

 とは言うものの、やはりセルフ・ポートレイトなんかが多い写真家であることは確かで、こうした「撮ることと、撮られることが一致した写真」っていうものが分からない私には、どこかそれは難解な写真なんじゃないかと勝手に思っている部分がある。

 まあ、実際には難解でもなんでもなくて、まあ普通にカメラを持って、何かを撮ろうとしたら、そこに自分の裸があった、っていうくらいのものなのかもしれない。

 それが「自撮り」写真がなくなってくるのが、アメリカに行って撮影を始めてからなのはなぜなのだろうか。

 その自撮り写真がなくなってきたな、と思ったら子どもができて、妊娠、出産を経て再び多くみられるようになる。

 もしかすると、それは「男が見る性の対象としての女の裸」というものが一方にあって、もう一方にその対極としての「ただの自分の裸」というものが「女には」あるのかもしれない。

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 そういう意味では、彼女のデビュー作となった「家族と一緒に撮影したセルフ・ヌード」というものに、何かの意味を見つけられるかもしれない。通常の男と女の間にはア・プリオリな関係以上に、そこには「性」の問題がからんでくる。それが「家族」となってしまうと、例えば親子の関係の中では、一切「性」という問題はからまなくなってくるのではないだろうか。勿論、「父と母」の関係の中には明確に「性」の問題はあるし、その結果としての「親子」ということはあるんだが、でも親子の間では「性」の関係は一切なくなる。

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 別に「女」だからといって、殊更に「性」の問題を俎上にあげる気はないのだけれども、すぐにそちらのほうに考えが及んでしまうというのも、まあ、私がまだまだ修行ができていないということなのかもしれないなあ。

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NIKON Df AF Nikkor 20mm f/2.8 D @Yebisu ©tsunoken

2017年10月13日 (金)

大塚はこの近辺一番の繁華街だった

 今でこそ豊島区一番の繁華街と言えば池袋なんだが、昔は大塚や巣鴨の方が大きな繁華街だった。

 分岐点になったのは、当時まで環状線になっていかなった山手線を田端から延伸するにあたって目白に直接行くのが困難だったために、途中に池袋駅を作ったのが、というのが池袋があれだけ大きな副都心になったきっかけ。

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 元々は、この大塚天祖神社を中心に商店街が発達して、その周辺に飲み屋さんなんかがたくさんできたってのがはじまり。

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 昔は(といっても私が知っている程度の昔だが)、この周辺の南大塚あたりにもクラブやパブなんかがいくつもあって、池袋で飲んだ仕上げに大塚に来たりしたものだ。

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 大塚駅も今や立派になっちゃったけど、昔はねえ……。ただし、ここは文京区の大塚とは全然別の場所で、豊島区南大塚・北大塚というのが正しい呼び名。文京区の大塚はここよりかなり南西の方へ行った場所です。

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 南大塚の文京区寄りには大塚公園なんていう「ラジオ体操発祥の地」で有名な公園があるが、この公園、この辺りには珍しく元々は大名の下屋敷じゃなかった公園だ。

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「東京で一番入りにくい居酒屋」(私も入ったことがない)として有名な「江戸一」も、まだまだ健在です。

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NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2 D @Minami Otsuka ©tsunoken

2017年10月12日 (木)

「竹ノ塚」と「谷塚」では、大いに違う

 東武伊勢崎線に乗って北千住から六つ目の駅が谷塚駅。お隣の竹ノ塚と名前が似ているので、なんとなく近しい場所なのかなと考えてしまうのだが、全然違うんですね。

 かたや「東京都足立区竹ノ塚」、もう一方は「埼玉県草加市谷塚」って具合に、実はもう全然違う場所なんだなあ。

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 谷塚駅を出て東の方に進むと旧日光街道に出ます。

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 で、そこにあるのが富士浅間神社、天保13年(1842年)の創建。天保年間と言えば水野忠邦の「天保の改革」で有名で、「緊縮財政」「贅沢禁止」「言論統制」で有名で、高野長英や渡辺崋山などの弾圧で有知られた時代。そういったこともあって、大塩平八郎の乱や甲斐国の百姓一揆なんかがあった時代ですね。

 まあ、あまり明るい時代ではなかった。そんな時代背景と富士浅間神社の創建も関係があったのかしら。

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 富士浅間神社なので、境内には小御嶽神社・瀬崎の富士塚なんてのがある。それこそ富士浅間神社の創建と同じころなのかなあと調べてみれば、これが大正5年(1916年)に造られたらしい。大正5年と言えば、日本が日露戦争の勝利で持って妙な自信を持っちゃって、これからブイブイ世界へ乗り出そうなんてことを考え始めた時期である。

 天保年間とは大分事情が違うようですが……。まあ、失敗の始まりってことでは同じか。

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 で、これが毛長川にかかる水神橋で、画面奥が東京都足立区竹ノ塚、手前が埼玉県草加市谷塚です。

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 これが草加市だっていう証拠……、っていうほどのものじゃないか。

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 まあ、たいしたネタじゃないなあ。

 明日はもう少し精進します……、できるかな?

NIKON Df AF Nikkor 28mm f/2.8 @Yatsuka Souka ©tsunoken

2017年10月11日 (水)

京王線調布駅が大変貌!

 普段、アミノバイタルフィールドに行くときは基本的にクルマで行ってしまうので、実はあまり興味がなかった。

 しかし、後述する通りいろいろ縁のあった京王線調布駅である。地下化した話は知っていたし、地下化した調布駅は(各駅停車への乗り換えで)利用したことは何度もあるし、まだビルができる前の地下化した調布駅を利用したことだってある。

 んが、そんな調布駅の駅ビルができたなんて話は、実は失念しておりました。先日、アミノにアメフトを見に行った時に調布駅の上に「トリエ京王調布」なんてビルができているのを知らなかったショックは大きく、早速、行ってきたのであります。

 当然のことながら、地上に線路が走っていた時の場所がビルができる場所、ってことで、布田駅方面がA館。成城石井などのショッピング・ゾーンです。

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 で、駅前広場の部分はそのまま駅前広場として使って、西調布方面にはB館がある。こちらはビックカメラがキーテナントで、その他、カフェなどがある。

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 面白いのがイオン・シネマが入っているC館。京王線は調布駅で八王子や高尾に行く本線と、橋本や多摩センターに行く相模原線に分かれるんだが、その分かれた線路の通りに西調布駅方面へ行くまっすぐな部分と、左の京王多摩川駅方面へ行く左にカーブした部分が両方ともビルの形に生かされている。

 しかし、「イオンはないけど、イオンシネマだけある」ってのも珍しい風景だ。どういう駆け引きが京王電鉄とイオンにあったんだろう。

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 で、駅前にある「CINEMA TOWN CHOFU」のモニュメント。

 調布と言えば東京現像所には何度通ったことか……ってくらい、数えきれないほど通った場所。それ以外にも、東映化学工業(現・東映ラボテック)、日活撮影所(ここも通ったなあ)や角川映画撮影所(昔は大映撮影所といった)などの映画関連施設があった街である。そういえば、石原プロモーションも調布に事務所があった時期があったんだ。

 ところがそんな調布なんだが映画館がなかった。ずっと大昔はあったんだろうが、私が調布に通うようになった頃には既に映画館はなかった。調布パルコができた頃は、そこに映画館ができるのではないかと期待させたんだが、残念ながらできず。

 やっと数十年経って、イオンシネマができたって訳。まあ、なんにせよ、やっぱり「CINEMA TOWN」には映画館は欲しいですよね。シネコンでも。

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 で、面白いのが駅南口方面から北口方面を望むと、A館とB館の間があいているので、北口のパルコなんかもちゃんと見える。南口からは見えないようにしようなんてことはしないんだなあ。

 う~ん、結構余裕かましてくれていますね、京王電鉄。

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NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Chofu ©tsunoken

2017年10月10日 (火)

『マンガで読む「応仁の乱」』を読んでみたんだが

 テレビで「今度の総選挙は関ケ原の戦いのような天下分け目の戦いっていうよりは、応仁の乱みたいな相乱れた戦いになる」って田崎史郎氏が言っていたその日に、本屋さんに行ったらこの本が平積みしてあったので、思わず取り上げたって訳なんだが……。

 本日、公示です。

『ぐだぐだな展開、ヒーロー不在。勃発から550年を経て、いよいよ残念な「地味すぎる大乱」を漫画界の巨匠はこう描いた!』

 って腰巻がイイネ!

 ただ、なんで「マンガ版」なんだろうか?

Photo_3 『マンガ日本の歴史22 王法・仏法の破滅――応仁の乱』(石ノ森章太郎著/中公文庫/1997年12月18日刊)

 で、どこが応仁の乱なのか? というか応仁の乱って、一体どんな戦争だったんだろうか?

『応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した』(Wikipedia)っていうのが、まあ一般的な応仁の乱の解説なんだが、じゃあ、要は今日告示される総選挙は、自民党か希望の党かっていう天下分け目の戦いではなくて、これから数年続くであろうこれから各党会派入り乱れての戦いの前哨戦っていうことなんだろうか。

 まあ、そのほうがありそうだな。

 という前に、取り敢えず「応仁の乱」って何だったのか、をマンガで振り返ってみることに。まあ、あまり日本史は得意でなかったってのもあるんだが。

『第六代将軍足利義教の専制は有力守護を淘汰し、西暦1449年(宝徳元年)義政が一四歳で将軍位に就いた頃は、有力守護の勢力均衡の上に成り立っていた<宿老政治>は機能麻痺に陥り、側近政治が擡頭した…。』

『畠山家では西暦1454年(享徳三年)八月弥三郎が家督となったが、翌年三月に持国が没すると、将軍義政は義就に弥三郎を攻めさせ家督を継がせ領国を安堵した…。』

『……四年後(長禄三年)、弥三郎が急死し、畠山家の内訌は収まったかに見えたが、弥三郎派はその弟の政長を擁立した…。』

『……将軍義政は20歳に成長 日野富子を室に迎えていた。』

『…幕政の乱れは、自ら重臣会議を主宰した将軍義政の生母・日野(裏松)重子をはじめ、世人から<三魔>と恐れられた乳人・今参局、有馬持家(奉公衆)、烏丸資任<公卿>らの側近の政務への容喙からもたらされた。』

『義政は一転して政長に畠山家の家督を認め、河内国に走った義就を追討させた。』

『……畠山義就は嶽山城に立て籠もり、畠山政長や山名宗全(持豊)など幕府の大軍を相手に二年余に亘り孤軍奮戦した。』

『十四歳から三〇歳まで、義政は将軍職につくづく疲れていた。引退を考えた義政は嗣子がなかったため、弟の浄土寺義尋(義視)を後嗣として還俗させた(寛正五年=西暦1464年12月2日。』

『…だが、翌西暦1465年(寛正六年)一一月二三日、正室日野富子が男児(後の義尚)を産む。わが子を将軍にと願う富子と義視の間に冷たい対立が生じていた。』

『打ち続く飢饉、悪政、守護大名の内訌と党派抗争、渦巻く民衆の不満…。
 それらが絡み合い、なによりも山城守護職の人事を軸に、<応仁の乱>は目前に迫っていた。』

 というのが「応仁の乱」前史。

 こうして義就と細川勝元を総大将とする戦いが都で始まって、それから一〇数年にわたり京を舞台にして戦いを繰り広げたのが「応仁の乱」。その後、守護職の統治力不足から、各地に国一揆が起こったのだが、それを抑えた細川政元が将軍職を傀儡化し、天皇をも実態を抜いてしまい、各地の守護大名たちが実力で領国を統治する戦国大名の時代になったのが、「応仁の乱」。

 つまり、応仁の乱とは、その後の戦国時代の幕開けを意味するということなんだなあ。

 つまり、現在圧倒的な力を持っている自民党も、希望の党の台頭に手を焼き、一方、自らの党内にも希望の党に与する裏切り者の台頭に悩まされる。じゃあ、希望の党の方はどうなんだといえば、それはそれで所詮2017年総選挙に勝つまでの、単なる表向きの合従連衡、選挙が終われば、終わったで責任の擦り付け合いやら、当選すればしたで、当選しちまえば関係ないとばかり脱党、離党はひきも切らないありさまで、何のために希望の党を結成したのか、言い出しっぺの小池百合子氏自身が訳も分からなくなってしまう。

 とはいうものの、小池百合子氏自身はなかなかしたたかに政界を生き抜くすべを心得ていそうなので、やがて織田信長が出てくるまでは生き残るかもしれない。

 一方、安倍晋三氏は残念ながら小池百合子氏ほどにはしたたかではない「お坊ちゃん」なところがある人だから、どこかでこの政局を投げ出してしまうのではないかという恐れこそあれ、最後までこの「応仁の乱」を生き抜くのかどうかは見えてこない。というか、多分健康上の理由でもって、ふたたび政治を投げ出してしまうという予想がする。

 で、結局その「漁夫の利」を得るのは小泉進次郎じゃないかと考えるんだが、どうだろうか。って、それじゃあ小泉進次郎が織田信長ってこと?

「自民党をぶっ潰す」なんて威勢の良いことを言って、総理大臣になり、郵政解散でもって選挙を生き抜いた父親に倣って、意外とこのプリンスの時代が早くやってきそうな気がするなあ。

 ってことで、この総選挙を応仁の乱にたとえた田崎さん。これでいいんでしょうかね。

『マンガ日本の歴史22 王法・仏法の破滅――応仁の乱』(石ノ森章太郎著/中公文庫/1997年12月18日刊)

2017年10月 9日 (月)

馬込……駒込

 そういえば都営地下鉄浅草線も戸越駅までは乗ったことがあるが、そこから先は乗ったことがないなあ、ということで終点の西馬込まで乗ってみた。

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 どんなところだろうと期待して行ってみたんだが……

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 よく国道1号線を走っていると左手に高架線が走っていて池上本門寺の看板があるところを通るんだが、「なんだあそこかあ」って感じでした。

 左手の高架線が高架線じゃなくて都営浅草線の車庫だっていうことだけは新発見だったんだが、夏前に池上本門寺は行っているので、今回はそこは素通りして、その周辺をいろいろ歩き回ってきた。

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 で、ふと感じたんだが、私の家のある場所が文京区本駒込、ご近所が豊島区駒込(もともとは一緒だった)でここが大田区馬込ってなんか名前が似ているなあ。

 江戸の北の端っこが「駒込」で、南のはずれが「馬込」ってわけですね。

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「駒込」の地名の由来は、『日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際に味方の軍勢を見て、「駒込みたり」といったことに由来する説がある。他にも、「駒」は馬、「込」は多く群がっていることを意味し、原野に馬が群がっていたことに由来する説などがある』(『「駒込」の地名の由来 | 雑学ネタ帳』より)っていうのがあって、要は馬がたくさんいたってことらしい。

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 じゃあ「馬込」は? 『駒込、牛込と同じように山手台地上の牧場としての利用が地名の由来という。宇治川の先陣争いの梶原景季(かじわらかげすえ)の愛馬磨墨(するすみ)の塚が環七通りの臼田(うすだ)坂にある』(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)というのがあるので、まあ駒込も馬込も、その由来は似たり寄ったり。

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 江戸の北の入口と南の入口の双方にそうした「馬(=軍馬)」にまつわる由来があったというのが、まあ、昨日の収穫かな。要は江戸の警護のひとつだったんだろう。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f/2.8 D @Magome Ota ©tsunoken

2017年10月 8日 (日)

東京大学WARRIORS、勝てたけど、今のままでいいのか?

 久しぶりに関東学生アメリカンフットボールのリーグ戦を見に行った。BIG 8 の東京大学WARRIORS対一橋大学CRIMSONの試合である。

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 戦評に入る前に現在の関東学生リーグの状況を若干お話しすると、「甲子園ボウル出場を目指す」と言える1部リーグTOP 8 は上から早稲田大学・慶應義塾大学・法政大学・日本大学・中央大学・立教大学・明治大学・日本体育大学という順番になっているんだが、シーズン前半のこの時期は、基本的に上のチームと下のチームの対戦になるので、上の4チームは基本的に4勝までは順当に勝って、その後、上4チームで星のつぶし合いになるというのが例年のパターンだ。ところが今年はちょっと異変が生じている。早大と日大の3戦全勝はわかるんだが、慶大が明治と日体大に負けて1勝2敗、法政が中大に負けて2勝1敗と、ちょっと変な感じなのだ。

 そこへ行くと同じ1部でもBIG 8 の方はまあ順当で、東京大学・横浜国立大学・駒澤大学・国士舘大学の上4チームはそろって2勝0敗、東京学芸大学・一橋大学・東海大学・桜美林大学の下4チームが0勝2敗という感じで順当なので、うまくすると今シーズン終了後のTOP 8 とBIG 8 の入れ替え戦に出て勝利すると、来期のTOP 8 の試合が活性化してくる可能性がある。

 そんな意味でも、昨日の試合は来期の東大WARRIORSを占う大事な試合でもあったのだ。

 以下のシーンは東大のタッチダウン(TD)シーンをすべて捉えたものなんだが、実は第1クォーター(Q)は東大のTDはゼロ、まあ一橋もフィールドゴール(FG)1本だけなのでまあいいが、東大レシーブで開始した試合でこのありさまはちょっといただけない。

 最初のTDは第2Q残り3分12秒、その前のTDがアウトオブバンズとして無効になったあと、ランニングバック(RB)#32樋山がねじ込んだTD。

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 第3Qでは残り6分20秒でワイドレシーバー(WR)#15古賀のTD。

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 下の2シーンはやはりRB#32樋山の第4Q残り5分19秒と2分59秒の2TD。

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 試合の結果は一橋大を第1QのFG1本だけに抑えて27対3という、結果だけ見れば楽勝なんだけれども、いろいろと課題は大きいだろう。

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 まず、第1Qの無得点というのはいただけない。TDに持ち込めそうなシーンはいくつもあったんだけれども、残念ながらそうならなかったのはなぜか? 更に、今までの年でもそうだったのだが、ランプレイでは前進できるのだが、パスプレイが相変わらず弱いという弱点は、今年も踏襲している。なにしろ4TDのうち3TDはRBのTDなんだもんなあ。

 TOP 8 との入れ替え戦の相手は多分今年も立教と日体大になりそうだが、両チームともパスプレイが結構上手なチーム。というか、ランプレイとパスプレイをうまく組み合わせ、相手を翻弄するような試合を展開しないと、TOP 8 が相手の試合になってしまうと勝つことは難しくなるだろう。

 せっかく活性化しそうなTOP 8 である。今年上がれば来年どうなるか分からなくなって、おもしろいことにもなりそうだ。もしかすると、本当に「甲子園ボウルを目指す」と言えるかもしれない来シーズン。その為には「パスプレイをもっと上手くなる」っていうのが条件かな。

NIKON Df SIGMA DG 150-500mm f/5-6.3 APO HSM @Amino Vital Field Chofu ©tsunoken

2017年10月 7日 (土)

市川市行徳は宿場町だったんだろうか

 さて、気を取り直して行徳街道を浦安から行徳目指して進みます。

 と、右手に見えてくるのが「御経塚(おきょうづか)」。

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『この御経塚は新井寺の四世慈潭和尚が、村民を悪疫や水害から救うため、蛤の殻に経文を書き写して塚を造り、自ら火定(念願達成のため火中に身を投じて死ぬこと)した所と伝えています。
 もともと、この地域は江戸川が形成したデルタ地帯であるため、毎年のように津波や洪水等の災害を受けました。しかし、先人達はこのような苦難を克服して、地域の開発に当たってきたのです。

  平成十五年十月
             市川市教育委員会』

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 うん、この手の「洪水等の災害」に関わる遺構は、この辺りには結構あります。まあ、旧江戸川の河口地域だから、それは仕方のないこと。

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 こちらは「おかね塚」。

 むかし、吉原の女郎だった「おかね」さんが、年季が明けたら添い遂げようと約束した行徳塩田の男に、年季明けになって一緒になろうとして行徳まで来たんだが、結局その男に捨てられ、亡くなってしまった。それを悼んで、周辺の人たちがこの共同墓地に建てたのがおかね塚。それにまつわる怪談噺、まあ、「この辺りを羽振りのよさそうな格好で歩いている男を見ると化けて出てくる」っていうよくある話もあるんだが……。

 まあ、それだけの話。

 それだけの話って言えば、この「田中幸之助翁・誕生の地」の祠と田中翁の銅像。田中幸之助さんってどういう人かと言えば、まあ東京メトロ東西線の誘致に力を尽くした人で、地元の名士ってやつですね。

 それ以上は、特になし。

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 で、最後は押切稲荷神社であります。

 行徳の駅からまっすぐに言った道沿いにあるんだけれども、その大通りは神社の裏。参道入り口は、その大通りの一発裏通りにあります。

 まあ、昔の宗教施設なんかではよくあること。神様の向かう方向(というか、要は神様の向き)をそんな簡単に変えちゃあいけないものね。

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『当押切の地に鎮守する迄の間、種々な経緯が有り今から凡そ三百五拾有余年前に鎮座したが度々の津波等により本殿等が破壊し、御尊体、葛飾の里鎌田邑の長寿院預けられており、押切稲荷神社総代が御尊体が空虚なるのを日夜遺憾に思い、大正二年十一月四日長寿院に返還を申し入れし、鎌田村議の結果、大正二年十二月十九日早朝返還が相成り氏子総代一同御船にてお迎えし本殿へ無事安置し現在に至る。』

 というのが由緒書きにある。

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 まあ、浦安から行徳までの途中にはあまりなくて、行徳の中心部に近づくと、こうしたいろいろな遺構があるってのは、やっぱりこの辺りが浦安から行徳の中心部だったってのがよくわかる。

 近くには「伊勢宿」という町があるくらいだから、多分、行徳からの塩を運んだ道や、成田街道なんかの宿場町が、この辺だったのかもしれない。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2 D @Gyotoku Ichikawa ©tsunoken

2017年10月 6日 (金)

浦安中古車街道を往く

 東京メトロ東西線浦安駅で降りて街歩き。

 っていうと、大体いつもは猫実(「ねこざね」と読みます。「ねこみ」じゃないよ。ちなみに「猫実工業大学」という名前の学校はありません)や堀江など、旧浦安町役場跡とか清瀧神社の方へ行って、境川沿いの旧家などがある方を歩くことが多いんだが、今回はそうじゃなくて駅を後にして逆方向へ、行徳方面へ向かって歩く。

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 昔の行徳街道、行徳バイパスなんて呼ばれているが、正しくは千葉県道6号市川浦安線。といっても、実際には途中に何もなくて結構退屈する道なのであります。目立つ建物は下の浦安魚市場と宇田川徳雄商店くらいなもの。

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 この宇田川徳雄商店の闌れっぷりは、それはたいしたもんなんだけれども、一軒だけじゃあ面白くないなあ。

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 で、あと目立つのは自動車の中古車屋さんがやたら多いこと。更にその中古車を改造するためのパーツ屋さんなんかも多い。

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 販売している中古車の中には結構改造車なんかも多くて、う~ん、浦安の人の好みってものが分かってきますね。

 つまり「中古車で購入→改造して乗る」っていうことなんでしょうね。

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 以前は『中古車店が多く他に目立つ店舗が少なかったため、マスコミで『中古車の秋葉原』と紹介されていた』(Wikipedia)なんてこともあったそうだ。

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 ただし、この浦安中古車街道も南行徳あたりで終わり、あとは周囲は住宅ばっかりの道路が続いている。

 それが多少変化するのが、行徳駅あたりまで行ってから。

 それについては、また明日書きます。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2 D @Urayasu & Ichikawa ©tsunoken

2017年10月 5日 (木)

沢庵和尚の墓

 品川の新馬場駅のそばに萬松山東海寺という臨済宗のお寺がある。

 なんとそこに「沢庵和尚の墓」っていうのがあるそうだ。えっ? 沢庵和尚って言えば宮本武蔵の師匠でしょ。宮本武蔵って言えば岡山県美作の出身なので、なんでその師匠のお墓が東京(江戸)に? ってなるんだけれども……。

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 実は「沢庵和尚が宮本武蔵の宗教上の師匠」っていうのは、吉川英治が作ったフィクションだったんですね。

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 まあ、そんな歴史上のフィクション(ウソ)っていうのは、歴史ものにはつきもので、NHKの大河ドラマなんてウソばっかり。じゃあ、そんな大河ドラマは見ないかって言っちゃうと、ちゃんと見るんですね。

 つまり、「ドラマを面白くするためのウソはいくらついてもいい」っていうのが、歴史ものの基本であって、「ウソはいかん」なんて野暮なことを言っちゃいけないんです。井伊直虎が女だったなんてのも、実は何の証拠もないんですね。

 まあ、バレバレのウソはダメですけれども。

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 萬松山東海寺は、寛永16年(1639年) 徳川家光が但馬国出石の沢庵宗彭を初代住職として招聘して創建したお寺。

 その沢庵和尚は柳生宗矩と親しく付き合っていたそうで、その宗矩の求めに応じ、「剣禅一味(剣禅一如)の境地を説いた」とあるので、その辺の考え方が吉川英治描くところの宮本武蔵の生き方と一致する部分があり、「武蔵と沢庵和尚」というフィクションを作ったのではないだろうか。

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 その沢庵和尚の有名な言葉「夢」にちなんだ碑が、和尚の墓の後ろに建てられている。

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 肝心の沢庵和尚の墓なんだが、現在は東海寺の境内ではなくて、東海道線(京浜東北線)と東海道新幹線に挟まれた東海寺大山墓地というところにある。

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 まあ、昔は広大な敷地を持っていた東海寺なので、今の大山墓地も昔は境内の中だったんだろう。東海寺に隣接する高級賃貸マンション・タワーコート北品川の一階にある高輪一帯の古地図から見ると、昔は御殿山のすぐそばまである、かなり広大な敷地だったことが分かる。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Kita Shinagawa ©tsunoken

2017年10月 4日 (水)

今年もCEATECの秋がやってきた!

 今年も秋のイベント・シーズンがやってきた……、って実は先週のゲームショーが最初なんだが、最近のゲームショーのノリについていけなくなったtsunokenは、やっぱり秋のイベントの最初はCEATECなんだなあ。昔の「エレショー」の時から行っているし。

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 今年はなんでも「Society 5.0」だそうで、まあヴァーチャルとリアルの世界をどうやって繋いでいくのかっていうのがテーマだそうなんだが、IoTとどう違うんだってのがよくわからないSociety 5.0ってもんに、どのメーカーも苦労しているようだ。

 で、こちらはそんなことは関係なく「時代や今やEV(電気自動車)の時代だっ」ってことに、勝手にテーマを決めてCEATECを見ていくわけです。

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 なんかアメリカのテスラに一歩先んじられていると思われているEVの世界なんだけれども、実は日本は世界に先駆けているEVの国なんですね。ただ、表現が下手だから(それともハイブリッド・カー優先でということで、EVに後ろ向きのトヨタに遠慮して?)、なんかEVでもアメリカに先んじられているように、我々が思っているだけで、実は世界に先駆けてEV研究・開発が行われているのが我が国なのであります。

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 数年前のCEATECにニッサン、ホンダ、トヨタが大挙して登場したときはちょっとびっくりしたけれども、その時のニッサンのテーマが自動運転だった。

 今回はどれだけ「電気だけ」でクルマを動かせられるかというのがテーマで、二つ上の写真のnichiconなんて蓄電池の会社だけあって、テーマは「太陽光だけで動く自動車」っていうことでニッサンLEAFを参考出品して売り込んでおります。

 まあ、確かに電気だけで動くクルマを作っちゃえば、それは再生可能エネルギーだけで動くわけで、化石燃料とはオサラバできるってわけで、うーん、そうなるとリニアに動く電気モーターではガソリンエンジンの加速性が味わえない、云々なんて贅沢(ゴタクとも言います)は言ってられなくなっちゃうなあ。

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 で、まあこういったフォーミュラEに行き着いちゃうわけですね。

 まあ、あれあはれで面白いんだけれどもね。

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 とこうなると、ホンダやパナソニックなんかが出てきても、「何を出すんでしょ?」ってな感じにもなっちゃうなあ。どーすんだろ。

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CEATEC JAPAN 2017 は9月6日まで幕張メッセで開催中。

入場は事前登録をしておいたほうがラクです。事前登録はコチラのサイトから。

NIKON Df AF Nikkor 28mm f/2.8 @Makuhari Messe ©tsunoken

2017年10月 3日 (火)

新馬場……って?

 今日は(って、「今日も」か)小ネタです。

 品川から京浜急行各駅停車に乗って北品川の駅を過ぎると、次の駅が新馬場であります。

 下の写真が新馬場北口。

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 で、駅の反対側に出てもそこは新馬場南口。

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 って考えれば別にそれは普通なんだけれども、昔はこの目黒川を挟んで、北の品川方面が北番場、南の青物横丁方面が南番場っていう別の駅だったんだ。

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 っていうことで、今はこの駅は目黒川の上にホームがあって、川の北側と南側に改札口がある新馬場っていう駅になったんだが、そう、昔はこの駅は南と北に分かれていた。

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 例えば、多摩川を挟んで川崎駅と六郷土手駅や、荒川を挟んだ東武伊勢崎線の北千住駅と小菅駅など川の両岸に駅があるケースは多いんだけれども、両方とも広い川と河原があるので、それぞれの駅の間隔は一キロ以上ある。しかし、ここ新馬場駅だと、なんせ挟んでいる川が目黒川なんで、二つの駅の間隔は数十メートル。北番場の駅のホームの南端から南番場の駅のホームはほんの目の前にあったのである。

 まあ、今でも新馬場駅の南側のホームに立つと青物横丁の駅のホームがすぐそばにみえるけれども、それよりもっと近くに、北番場と南番場の駅はあったわけなのである。もう目の前に次の駅があった。

 まあ、バスの停留所で「〇〇橋北詰」「〇〇橋南詰」っていうのがたまにあるけれども、まあ、そんな感じで昔の私鉄の駅はあったんですね。要は、その場所周辺の商店街の思惑なんてのがあったりして。

 まあ、その辺が「駅の場所はここに定める」っていう感じで「お上からの指令」で作った省線電車(今のJR)との違いなわけだ。

 そんな北番場・南番場の両駅がなくなって新馬場になったのは1976年だそうである。

 つまり、私がサラリーマンになる前には、まだ北番場、南番場があったわけなんだなあ。つまり、運転免許証の更新なんかで鮫洲まで行っていた時期は、まだまだその両番場駅があったんですね。うん、確かにあった。それがいつの間にか新馬場っていう一つの駅になってしまったんだ。

 う~む、時代は着実に変化しているわけですね。

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NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2 D @Shinagawa ©tsunoken

2017年10月 2日 (月)

『第一次世界大戦 忘れられた戦争』って、本当に忘れられた戦争なんだろうか

 そうだったんだ。

「講談社学術文庫」っていうのは、以前に出版された学術書の中から、文庫版で出しても面白そうなものを再出版するというジャンルの本であり、本書も1985年に社会思想社から「現代教養文庫」として出版されたものの再刊だったんだ。

 なので、本書を現代における社会・歴史評論書として読んではいけないわけで、むしろ評価の定まった学術書として読むべきであり、今回私がとったようなドジでマヌケな本の読み方をしちゃいけないってことなんだ。

 つまり、何がドジでマヌケかと言えば、何となく最近書かれた歴史評論書として読んでしまったのだが、読む進めるうちになんか違うなあ、なんか現代評論じゃなくて歴史の事実を並べているだけだなあ、と思った時にはすでに遅く、本書を歴史評論として読んでしまっていた、ってことなんでした。

2 『第一次世界大戦 忘れられた戦争』(山上正太郎著/講談社学術文庫/2016年12月1日刊)

 とは言うものの、読み進めていくうちに、まあ、それでももう一度歴史、それも現代史を再読するのもいいなあ、と考えつつ、しかし、あまり現代における各国の関係論とは異なっていないとうのが気にかかった。

 要は「世界は西ヨーロッパを中心に回っている」という厳然たる事実なのである。

 まず本書の「はしがき」に書く。

『イギリスの歴史家、A・J・P・テイラーはその著『第一次世界大戦』のなかで、次のような意味のことを述べている。
 もしナポレオン・ボナパルトが一九一七年初めに生き返ったとしても、彼の時代とあまり変わらないヨーロッパ列強が、規模こそ大きいものの、同じような戦争をしている情勢にさして驚くこともあるまい、しかし一七年の末に生き返ったならば、彼は一方で、ボリシェヴィズムとその政権の成立に、一方で、ヨーロッパ外の一大強国、アメリカ合衆国の進出に驚き、当惑することであろうと。
 この機智に溢れる歴史家は続いて、一九一七年に古い意味でのヨーロッパ史は終わった、世界史が始まった、それはレーニンとウィルソンの年であり、現代世界誕生の、現代人出現の劇的な時機である、とまで書いている。』

 そして最後の項「さらば、ロイド・ジョージ」では

『ロイド・ジョージが属した自由党はそれ自体も分裂し、旧来の保守党と戦後、台頭した労働党との間にあって勢いを失っていった。かれは議席こそ保ったが、再び政権を握ることもなく、閣僚の地位に就くこともなかった。
 のみならずロイド・ジョージは自らも成立に関係したヴェルサイユ体制、ワシントン体制がドイツや日本などによって打破されてゆく現実を、まのあたりにしなければならず、また、彼も参画した国際連盟は国際秩序の混乱に対して、充分な機能を発揮すべくもなかった。パリ講和会議で解決できなかった諸国の植民地主義は、民族運動の波を高めた。世界大国アメリカ合衆国の登場、そのヨーロッパ経済への影響力、さらにソヴィエト連邦の不気味な発展は、有為にして少壮気鋭の政治家ロイド・ジョージが満喫したに相違ない「古き良きヨーロッパ」の影をますます薄めていった。政治上の活動で報いられなかった彼は、三〇年代、大戦や講和会議に関する回顧録の執筆に名を残すのみであった。』

 とまあ、歴史の連続性について書くのであった。その最後は

『二度の大戦において、英独の妥協的講話はありえなかった。前の大戦ではイギリスはアメリカの援助をもって、ドイツに対する勝利を得た。後の大戦ではイギリスはアメリカと、さらにソ連の助力によってドイツに対する勝利を得た。そして米ソ対立の「冷戦」である。
 ロイド・ジョージのおそらくは長すぎた政治上の生涯をよそに、大英帝国の面影は色あせ、「古き良きヨーロッパ」は在りし日の想い出となった』

 とまとめるのであるが、しかし、その後の時代における戦争の在り方を見ると、結局は第二次世界大戦は日本とドイツの敗戦という象徴的な出来事はあったとはいえ、それ以外の問題に関しては、何ら解決はあり得ず、いまだに民族主義と植民地問題の解決は遠く、「帝国」を名乗っていない「企業帝国」をバックにした帝国主義はさらに強化され、それこそ昔の宗教戦争が再び世界を覆っている。

 大体が、国際連盟はその常任理事国であった日本が脱退して、それが第二次世界大戦の引き金の一つになったわけだし、そう考えると自ら作った国際連合を後ろ向きにしか捉えることのできない政権がアメリカに登場してきたりして、もはや、その存在自体が危うくなってきたりしている。そうなると結局はEUあたりのような「独仏連合」が再び力をつけてきて、なんかまたまた世界の中心が西ヨーロッパに戻っていきそうな雰囲気であります。

 そんな、EUを脱退して孤立主義に移行しようとするイギリスと、国際連盟に後ろ向きのアメリカって、要はアングロサクソンの「世界後ろ向き外交姿勢」があって、ロシア帝国とモンゴル帝国のごとき中国が世界に覇権を求めようという動きは、なんだ単に第一次世界大戦前のヨーロッパを中心とした世界体制でしかない。

 アメリカはしきりに北朝鮮イビリをしているけれども、そんなものにはビクともしない朝鮮っていう構図は当たり前であるし、大体が朝鮮半島の国内問題である朝鮮戦争に対して、アメリカが直接乗り出してきたって勝てるわけがないのは、ベトナム戦争で随分勉強してきたはずのアメリカなんだが、まあ、アメリカ人の学習能力の低さなんだろうなあ。

 クルド人やスペインのカタルニア独立投票なんてのも、世界を動かしているもののひとつなんだろうけれども。

 まあ、そんなこんなのすべての世界の動きの中心がドイツやフランスを軸にして動いているんだなあ。って考えると、なんか国際政治ってものが見えてくるっていうか、なんかむなしくなってきますね。

 ましてや「コップの中の嵐」をしょっちゅうやっている極東の国にいると特にね。

 まあ、現代世界の歴史をもう一度お勉強しましょうっていう風に考えた時には、オススメ本ではありますが、だとしたら山川出版社あたりの「世界史」教科書なんかの方が読みやすくていいかもしれない。

『第一次世界大戦 忘れられた戦争』(山上正太郎著/講談社学術文庫/2016年12月1日刊)

2017年10月 1日 (日)

ブルズ、敵地で一敗地に塗れる

 昨日は大阪は万博記念公園内にあるアメフト専用球場(って言っても、アミノバイタルフィールドより狭いのが残念!)エキスポフラッシュフィールドで、BULLS FOOTBALL CLUB(以下、「ブルズ」)、とCLUB HAWK EYE(以下、「ホークアイ」)の試合が行われた。

 本来はセントラル・ディビジョンに所属するブルズと、ウェスト・ディビジョンに所属するホークアイがレギュラーシーズンで対戦することはあり得ないんだけれども、多少はディビジョン間の交流があったほうが面白いというXリーグ事務局の考え方もあってか、年に何試合か、こうしたディビジョンの枠を超えた取り組みがあったるするのがXリーグの面白いところだ。

 ということで、取り敢えず最初はブルズのキックオフ、ホークアイのレシーブで始まった試合だったが、両者とも決め手を欠く攻撃で、第1クォーター(Q)は0対0で折り返す。

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 今回目立ったのはブルズ#21菊池駿介で、いつもはディフェンダーなんだが、今回はラン攻撃に大いに参加し、ちょっと目立っていた。

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 とはいうものの、第2Q残り8分12秒、ホークアイに先制タッチダウン(TD)を奪われ、0対7に。

 第3Q残り6分58秒、ブルズはフィールドゴール(FG)を決めて、3対7に。

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 今回はブルズの守備陣もよく守り、インターセプトなんかも何度か見せてくれた。

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 第4Q残り1分51秒にはブルズ待望のTD。しかし、トライフォーポイントが決まらず、9対7。問題はここでトライフォーポイントが決まらなかったことにすべてが集約されてしまうことになってしまった。

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 つまり第4Q残り1分11秒、ホークアイのFGが決まって、9対10に。

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 結局、そうなればホークアイ側はニーダウンで時間を進めて、そのまま勝利という方程式。

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 つまり、トライフォーポイントのあるなしが試合の勝敗を決めるっていうシビアな結果になったわけである。あそこでトライフォーポイントが決まっていれば、タイブレークでまだまだ勝負はつかなかったんだけどなあ。なあんて、言ってもそれは後の祭り。

 まあ、地味ではあっても、一つづつ、一つづつ点数を稼いでいくしかないんだなあ。

NIKON Df SIGMA DG 150-500mm f/5-6.3 APO HSM @EXPO FLASH FIELD ©tsunoken

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