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2017年7月

2017年7月26日 (水)

自由通りを往く・駒沢から雪が谷大塚まで

 玉川通りの駒沢公園前の交差点から「自由通り」が始まる。正式な名前は「都道426号線 上馬奥沢線」っていうんだが、なんかスタートとフィニッシュ地点が中途半端な感じがしませんか? ということで、歩いてみた。

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 自由通りの最初のエポックは当然、駒沢オリンピック公園なわけですね。つまり、7月19日のブログ「野沢通りはオリンピック通りだったんだ」の本来の行く先がここだったわけです。

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 で、自由通りは駒沢オリンピック公園を過ぎると駒沢通りと交差して……

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 目黒通りと交差すると……

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 自由が丘の駅前に着くわけなんだけれども……

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 その後、奥沢の駅を過ぎると、雪が谷大塚で中原街道にぶつかると、そこで突然終わってしまう。

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 なんか「都道」という割には中途半端な4km足らずの短い道なんだ。

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 何なんだろうなあ? 昔は環八の代わりに計画されたけれども、環八ができちゃったんでいらなくなった道路なんだろうか?

 ちょっとその成り立ちには興味があるじゃないですか。調べてみる価値はありそうだな。

EPSON RD1s VOIGTLANDER Color-Skopar 21mm f:4 @Yiyutori Ave. Setagaya, Meguro, Ota ©tsunoken

2017年7月25日 (火)

鉄砲洲稲荷と鉄砲洲富士

 東京メトロとJR京葉線の八丁堀駅を出ると目の前にあるのが「通称 八丁堀川」。「新川」とか「桜川」とも呼ぶそうなのだが、もともと長さが「八町」あった堀(運河)だったので八丁堀川と、普通呼ばれている。

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 下の写真、右側が八丁堀川に沿って走る「鉄砲洲通り」でかかっている橋が高橋と呼ばれた橋のようだ。

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「鉄砲洲」という地名は、別にそこで鉄砲を作っていたとか、徳川の鉄砲組が住んでいたとかいうことではなく、なんとなく鉄砲の形をした中州だったので「鉄砲洲」って、なんかちょっと拍子抜けしそうな名前の付け方だなあ。

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 で、その鉄砲洲通りを行くと、出てくるのが「鉄砲洲稲荷神社」であります。

『鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。
 それよりさかのぼる841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものです。
 その後、埋立てが進み現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称しました。室町時代の末期のことであります。
 徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築きました。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからです』

 というのがご由緒(鉄砲洲稲荷神社サイトより)。そういえばこの神社のある場所が「中央区湊一丁目」というのだ。

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 で、稲荷神社の境内にあるのが、富士塚であります。あまり大きくはないが、上まで登れる登山道があります(普段は登れません)。

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 そのまま鉄砲洲通りをまっすぐ行けば聖路加タワーがあって、その一部に浅野内匠頭邸跡があるんだけれども、赤穂浪士がこの鉄砲洲稲荷神社の前を通って行ったのか、新大橋通りを行ったのかの記録はないようだ。

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 まあ、永代橋を渡って左に折れると八丁堀から鉄砲洲通りに入るので、そうなると鉄砲洲通りを通ったということにはなるのだが、別に鉄砲洲稲荷で一休みしたというような記録はないようだ。

EPSON RD1s LEITZ Elmarit 28mm f:2.8 @Minato Chuoku ©tsunoken

2017年7月24日 (月)

大塚三業地は今?

 昔は大塚や駒込に三業地があった。

 って言ってもよくわからないだろうから説明すると、「三業」っていうのは「料亭」「待合」「芸者置屋」の三つの業種のことなんだが、この三つの業種が開業することを許された町を「三業地」といった。まあ、花街のことなんですね。

 今では神楽坂なんかが、まだそんな雰囲気が色濃く残っている。

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 で、大塚なんだけれども、山手線の南側、「ひょうたん島」というパチンコ屋さんの脇をはいった道が、いまでも「大塚三業通り」という表示が出ている。

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 この辺りから、巣鴨に向かって坂を上る手前くらいまでが「大塚三業地」で、今でも昔の名残のような料亭や、居酒屋なんかが並んでいる。

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 なんか玄関先からひょっこり芸者さんが出てきそうな雰囲気ですね。

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「見こしの松」はないけれども、「粋な黒塀」っていうのは、こういうつくりを言うのでしょうか。

 五代目坂東玉三郎もこうした料亭の息子として育ったんでしょうかね。

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 巣鴨に上っていく坂道にはラブホテルが並んでいます。さすがに、手前の方には料理屋さんが並んで、そこでしっぽりいった男女が、その奥のラブホテルに……、って算段ですね。

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 この二人も、実は次のカットで……。

 ただし、住所は大塚っていっても文京区の大塚ではなくて、豊島区の南大塚。これは駒込三業(こちらはもう跡形もなくなってしまっている)も同じで、住所的には文京区本駒込じゃなくて豊島区駒込。

 まあ、やっぱり文京区としては三業地は文京区にはふさわしくなってなもんで、許可しなかったんだろう。で、そこをついてちゃっこい豊島区が三業地を作っちゃった、ってな具合でしょうか。

EPSON RD1s LEITZ Elmarit 28mm f2.8 @Minami Otsuka Toshima ©tsunoken

2017年7月23日 (日)

プロぺ通り、ファルマン通り、飛行機新道って所沢はスゴい!

 所沢という街はあまり行ったことがなかった。

 埼玉県と言えば、中山道や奥羽街道(日光街道)がある県東部や川越あたりまでは、街道で宿場町はあるし、お城はあるしでよく行くのだが、所沢あたりはあまり歴史的な文物もないし、史跡もないというので、かなり無視していたんだけれども、行ってみて、改めてビックリした。

 何せ、所沢駅前から「プロぺ通り」でしょ。

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 で、ちょっと行くと「ファルマン通り」があって……

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「ビートルズも聴ける酒場 ひょっとこ」の前を曲がると「飛行機新道」だ。

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 あ、「ファルマン通り」というのは「1911年(明治44年)4月1日に日本初の航空機専用飛行場が埼玉県入間郡所沢町に完成、同月5日に徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機アンリ・ファルマン機が高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を行なった」という故事にちなんだ名前。

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 で、その三つの道をたどっていくと所沢航空記念公園があって、公園内や博物館には昔からのいろいろな飛行機が展示されているという訳。つまり、所沢市っていうのは飛行機の町なんだなあ。立川だけじゃなかったんだ。

 えっ? そんなの知ってたって? そうか、私が無知だったんだってことですね。

 ちなみにアンリ・ファルマン機で飛んだ徳川好敏大尉というのは、清水徳川家第8代当主で、フランスのファルマン飛行機学校で飛行術を学び、最後は飛行機で陸軍中将になった人。結構、明治以降も徳川さんて、いろいろ活躍していたのね。

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 で、所沢駅と反対側にある所沢航空公園駅の前には、全日空のYS11が飾ってあります。神通川の河川敷にある富山空港から羽田まで、昔よく乗った飛行機であります。結構、冬は揺れるんだこれが。

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EPSON RD1s LEITZ Elmarit 28mm f2.8 @Tokorozawa ©tsunoken

2017年7月22日 (土)

大暑残照

「大暑」というのはちょうど今頃。立秋までの時期で、暑中見舞いを出すのはこのころなのだそうだ。

 まあ、暑中見舞いなんて出さなくなってしまった私たちには、あまり関係ない季節の呼び方なんだけれども、でも、「大暑」という通り、大した暑さであることだけは昔から変わりはない。

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 まあ、暑かろうが寒かろうが、天気さえよければ写真を撮りに外に出ていろいろなところを歩いているのだが、まさしく「犬も歩けば棒に当たる」といった具合に、いろいろなことに出くわしたりもする。

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 で、いろいろ歩き回ったんだけれども、何にも出くわさなかった記録が今日のブログである。

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 ただただ、歩き回っただけで、大汗をかきつつ、何にも出くわさなかったのは、実は幸いなのである。

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 上西小百合の事件も、稲田朋美の事件も、松居一代の事件も、毎日毎日テレビで報道しているけれども、正直、それらはどうだってよい事件に過ぎない。別に、それらの事件の存在を知らなくても、私たちの生活に困るわけでも何でもないのだ。そういえば昔、豊田真由子っていう変なおばさんがいたなあ、ってな具合であります。

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 つまり(何が「つまり」だ?)、東京をただただ歩き回って、ただただ何にも出くわさなかったという 、それが実は事件だったりするんである。

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 まあ、そんな日もあるさ。

NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 & AF Nikkor 20mm f2 D @Several Place in Tokyo ©tsunoken

2017年7月21日 (金)

『東大卒貧困ワーカー』

 新潮社による「著者プロフィール」にはこうある。

『1956(昭和31)年生まれ。ノンフィクションライター。東京大学文学部卒業後、1980年毎日放送入社。アナウンサー、記者として勤務後、身内の介護のため退社。以後、派遣労働者として働きながら執筆活動に入る。著書に『中高年ブラック派遣』など』

 ところが、残念ながら本書のどこを読んでも「東大卒」の話は出てこない。勿論、「貧困ワーカー」のルポだから、貧困にあえいでいる労働者の話はいくらでも出てきているのだが、そうじゃなくて、やはりこの『東大卒貧困ワーカー』というタイトルから読者が期待するのは、「東大出ても正規社員じゃなければこんなもんよ」という、著者自身が経験した実態なんだろう。勿論、書かれているのは中沢氏自身が経験した「貧困ワーカー」の実態なんだろうが、それが「東大卒」じゃないと経験できない仕事のやり方の実態ではなくて、別に東大卒じゃなくても、MARCHじゃなかろうが大卒じゃなかろうが、ごく普通の「中年貧困ワーカーの実態」なんだなあ。だったら、別にそれは何も『東大卒貧困ワーカー』というタイトルをつけなくても別に何の問題もないわけで、「いやいやそれじゃあ誰も読まないよ」という意味でそうしたタイトルをつけるのはわからないではないが、そんなら「東大卒ならではの、貧困ワーカーぶり」というものについて書かなければ、『東大卒貧困ワーカー』というタイトルをつける意味はない。

 う~ん、そんな意味ではこの新潮社の担当編集者の、意識的な読者に対する裏切りっていうものがあるのか、あるいは、企画当初は「東大卒ならではの話」を書いてもらう予定だったのに、全然そうじゃない内容になってしまったときに、「中沢さん、この内容じゃ『東大卒貧困ワーカー』っていうタイトルを付けられないじゃないですか。全面的に書き直しね」というひとことが言えなかったのか、のどちらかではあるのだろう。

 いずれにせよ、ちょっとこれは「詐欺的タイトル」の典型ではありますなあ。「東大卒」の人が書いたのは事実だけど、「東大卒貧困ワーカー」の話は、自分の体験だけでしかない。もうちょっと「一般論としての東大卒貧困ワーカー」について書かないとね。

Photo 『東大卒貧困ワーカー』(中沢彰吾著/新潮新書/2017年6月23日刊)

 勿論、別に書いてあることが間違っているわけではない。現状における日本の労働市場の特異さは言うまでもない。

『世界で日本にしかない特異な習慣で、労働市場の流動性を低下させ、学生を萎縮させて自由意思を阻害し、熟考する時間が足りず企業と労働者のミスマッチを引き起こしやすい。企業側のアンフェアなフライングに青田刈り、学生の意向を無視した囲い込みに内定切り、学生側の大量の内定辞退。全員横並びでスタートさせ不本意な結果に終わった学生に無用な挫折感、敗北感を植えつける等々、新卒正社員のうち3分の1が入社後3年以内にやめてしまうのは、よく考えずに決めたことによるミスマッチが原因と指摘されている。それが当たり前になっている異常さを放置すべきではないだろう』

 というのは当たり前の指摘。

『現代の新卒学生の3分の1は3年以内に離職し、フリーターや派遣になる人もいるから、セミナーや職業訓練、転職先の紹介、人材派遣などで卒業後も何度もビジネスの対象になりうる。また、職業紹介以外での余禄も大きい。不動産、車、金融、結婚、旅行、スポーツ、グルメ、美容、ファッション、メディア等々多様な生活関連ビジネスの各分野の子会社を用意して、ダイレクトメールで営業できる。ビジネスの対象を若者に絞ると、極めて効率良く多角的に利益を上げられるのだ。それも長期に亘って』

 結局、それらの原因は大学卒のサラリーマンの採用方法が「新卒一括採用」に偏っているからに他ならない。結局、新卒学生の3分の1は自分が勤めている企業と自分自身のミスマッチに気が付いて、サラリーマンをやめる。ところが、採用の二次市場がないために、結局彼は非正規労働者として働くしかなく、その結果、ある部分の人たちは「貧困ワーカー」となってしまう。結局、「セミナーや職業訓練、転職先の紹介、人材派遣」は、働く人のためにあるのではなく、企業としていかに収益を上げるかのための「(求職者という名前の)お客さん」のためにあるのだ。

 で、非正規のワーカーになってしまう。ところが、その非正規ワーカーにはもっと大きな問題があるのだ。

『通商白書2016によれば、製造業以外の業種の労働生産性を比較すると、概ね米国51、ドイツ45に対し日本は27。特にサービス業の生産性が低い』

『非正規は元々政財界の目論みでは、労働ヒエラルキーの底辺を構成し、必要に応じて便利に使えることが大事で、能力は期待されていない。その格付けがあるからか、非正規職場では次のような退廃的な三段論法が定着している。
「利益を上げるために低賃金非正規を調達した→非正規は能力が高くない→効率が悪くても、あいつらは非正規だから仕方がない」』

 非正規だからいくらでも換えがきく。いくらでも換えがきくので、給料を上げる必要がない。給料を上げる必要がないから、労働コストは上がらない。んじゃあ、その方式でいこう。労働生産性なんて初めから望んではいないのだ。

『使う側がそう思ってくれているのだから、非正規は結果にこだわらずのんびりできる。生産性は向上せずむしろ低下していく。たまに非正規がやる気を出して「このやり方はおかしい」などと注意すると「めんどくせえこと言うな」と追い出されてしまう。優越的な立場を与えられた人はその立場にこだわりがちで、非正規から意見されることをひどく嫌う』

 まあ、それが現状ではあるし、その傾向がそうやすやすとは変わるとは思えない。まあ、「正規・非正規」っていう分かれ方から、「向上心のある人・向上心のない人」っていう風に分かれるだけなんだけれどもね。

 と言うことなので、日本でも少しづつ状況は変わりつつあるようで、企業側も経験者を正規労働者として採用しようという動きも出てきてはいるようだ。勿論、経験者を正規労働者として雇用するということは、当然そこには人によって選別するということが行われなければならないし、実際そうなっているのだろう。

 つまり、仕事ができる経験者は、より高い収入を得ることができるし、「出世」という道も考えられている。その一方、仕事ができない奴は、いくらでも代替ができる「便利な労働者」として切り捨てられて、結局「貧困ワーカー」にならざるを得ないのだ。まあ、欧米は以前からそのような労働市場が成立していたし、少なくとも日本のような横並びの就職っていうものはなかったはずだ。

 それは少なくとも、これからの日本の労働市場が進んでいく道だろうし、前に戻すことができない道でもある。

 じゃあ、そこで「高学歴貧困ワーカー」がいなくなるかどうか……、これがいなくはならないのだ。ポイントは「仕事ができるか、できないか」だからね。

 それが厳然たる事実。

『東大卒貧困ワーカー』(中沢彰吾著/新潮新書/2017年6月23日刊)

2017年7月20日 (木)

『限りなく透明に近いブルー』の時代から遠く離れて

「米軍ハウス」というのは、第二次世界大戦後、進駐してきた米軍の軍人たちが住むために民間人が建てた住宅のことで、横田基地のある福生とか、ジョンソン基地のあった入間とか、調布なんかに多く見られた一戸建ての「アメリカ風の」住居のことだ。

 当時は、まだ基地内の軍人用の住宅が整備されていなくて、そんな住宅が米軍基地の周辺に多く見られた。

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 ベトナム戦争の頃になると、基地内の軍人用住宅も整備されてきて、基地外の米軍ハウスにも日本人が多く住むようになったのである。

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『僕の部屋は酸っぱい匂いで充ちている。テーブルの上にいつ切ったのか思い出せないパイナップルがあって、匂いはそこから出ていた。
 切り口が黒ずんで完全に腐れ、皿にはドロドロした汁が溜まっている。
 ヘロインを打つ準備をしているオキナワは、鼻の頭にびっしりと汗を掻いている。それを見て、リリーが言った通り本当に蒸し暑い夜だと思った。湿ったベッドの上で重くなっているはずの体を揺すりながら、ねえ暑くない? きょうとても暑いわ、リリーはそう言い続けた。
「ねえリュウ、このヘロインいくらした?」
 ドアーズのレコードを革のバッグから取り出しながらレイ子が聞く。十ドルだと答えると、へえ、沖縄より安いや、とオキナワが大声をあげた。オキナワは注射針の先端をライターで炙っている。アルコールで湿した脱脂綿で拭いて消毒してから息を吹き入れ穴が詰まっていないかテストする』

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『限りなく透明に近いブルー』で描かれた、そんな米軍ハウスの中の模様も、いまや昔話になってきている。

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 残り少ない米軍ハウスも、いまやコミュニティスペースになってしまっていて、昔『限りなく透明に近いブルー』で読んだ観光客が出入りする家になってしまった。

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『カズオがニコマートにストロボをつけてケイを写す。ストロボの閃きに床にグッタリと横になっていたモコが顔をあげた。あら、カズオあんた止してよ、断りなしに写真撮らないでよ。これでもあたいギャラ取ってるプロなのよ』

 っていうニコマートみたいに、ニコンDfでもってモノクロモード、更に60年代風にハイコントラストで撮ってみた福生の風景なんだけれども、どうだろうか?

『新装版 限りなく透明に近いブルー』(村上龍著/講談社文庫/2009年4月15日刊)

2017年7月19日 (水)

野沢通りはオリンピック通りだったんだ

 東横線の代官山駅を降りて、旧山手通りを道玄坂方面へ向かって歩くと左側に西郷山公園という山がある。元々は西郷従道の別荘だったそうだが、我が家にとって薩長は仇敵なので、ここは無視。

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 西郷山公園からその下の道に降りてくると、青葉台から降りてくる道に出る。

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 その道が、今日歩く野沢通りなのです。目黒区なのに何故「野沢?」という疑問が出てきて当然なのだが。その種明かしはもうちょっとお読みください。

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 青葉台からズンズン降りてくると、現在の山手通りと交差するんだが、この辺りは目黒川の流域なので一番地盤が低い。で、山手通りを過ぎると再び上り坂となり、また下る。

 で、この下り坂に名前がついているらしく道路わきに説明がついている。

『半兵衛坂 江戸時代、この辺りに清水半兵衛を代々名乗る旧家があったため、半兵衛坂と呼ぶようになった。尚、この道路は昭和十五年の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称「オリンピック道路」とも呼ばれている』

 なるほど、1940年に予定されていた東京オリンピックは駒沢公園がメインスタジアムだったので、そこへ至る道として「野沢通り」という名前の通りができて、現在もそれを使っているんだな。それで「何故、目黒区で野沢通り?」の謎が解けた。

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 で、野沢通りをもうちょっと行くと、一昨日のブログで書いた「蛇崩」の交差点に至るんだけれども、なぜかその先に行くと「野沢通り」は「五本木通り」に名前を変えてしまい、それも途中から道が右に折れて、野沢通りの方は東横線に阻まれて立ち消えてしまい、祐天寺の駅前にでてしまう。

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 まあ、そういうことか。つまり、野沢通りは蛇崩の交差点の先まで来たところで、日中戦争を理由に国際的にもオリンピックの日本開催への批判も出てきて、国内的にも反対論が続出して、結局、オリンピックは開催返上、オリンピック通りもいらなくなっちゃった、ってことらしい。

 で、名前だけが残ったのね。

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 ということで、祐天寺の駅前の本屋さんで文庫本を買って、東横線の人となったのであります。ところで、この本屋さん「王様書房」っていうのが店の名前なんだけれども、「お客さんが王様」というのが本来の意味らしいんだけれども、実は親父さんが「王様みたいな人」なんですね。本当の話。

 んで、これまた泉麻人氏の『東京いい道、しぶい道』の「Ⅳ 城西エリア 26 幻のオリンピックの面影…野沢通り」を踏破。

 う~ん、結構使えるなあ。この本。

『東京いい道、しぶい道』(泉麻人著/中公新書ラクレ/2017年4月10日刊)

NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Nozawa Tori Ave. Meguro ©tsunoken

2017年7月18日 (火)

三軒茶屋ってどの三軒?

 国道246号線・玉川通り(大山街道)と世田谷通り(旧大山通り)の追分にあるのが三軒茶屋なわけだが、当然、現在もその三軒の茶屋が残っているはずもない……、って思ったら、実は一つだけ残っていたのである。

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 それが玉川通りと茶沢通りの交差点そばにある「田中屋陶苑」という陶器店。お茶屋さんではないが、茶器は売っている店である。

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 あと二軒の内の一軒は、このちょうど追分のところにあった信楽(石橋楼→茶寮イシバシと名を変えて営業)だったが昭和20年に閉店。

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 追分の裏側にできている「エコー仲見世」という商店街あたりに何かモニュメントでもないかと探したんだが、まったくなし。まあ、そんなもんでしょう。

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 もう一つ、玉川通り沿いにあった角屋は明治時代に閉店して、三軒茶屋の裏道になる商店街の入り口あたりがその場所だったらしいが、こちらも、何の痕跡もない。

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 まあ、街ってのはそうやって入れ替わってくるものだと言ってしまえばその通りなんだけれども、三軒茶屋でなくなっちゃった話をもう一つ。

 三軒茶屋の交差点そばに甲文堂っていう本屋さんがあった。東京都書店組合の重鎮でもあった世田谷の老舗書店だったんだが、自分の店のすぐそばに文教堂書店というチェーン店が出店してしまったために店舗経営をあきらめ、外商と学校関係だけの納入という具合に経営方針を変えてしまった。まあ、それでもやっていけるほどに、それまで手広く経営を行っていたということなんだけれども、当時は文教堂書店も日の出の勢いで、結構、周囲の昔からの書店との間で軋轢を伴いながらの出店攻勢ではあった。

 が、店舗経営をあきらめてしまった社長の息子の代になってやはり店舗経営をしたくなったのだろう、上の写真の商店街の中に新店舗を開いて経営を始めたんですね。で、最近行ってみたら、結局、そちらの店舗も閉店してしまい、玉川通りに面したビルの裏側で、以前と同じように甲文堂文具店として外商と学校関係の納入という商売に戻ったようだ。

 お店の栄枯盛衰って言っちゃえばその通りなんだけれども、まあ、そうやって「町の本屋さん」はなくなっていくわけですね。

 で、問題はそんなことやりながら出店した文教堂書店も退店しちゃったっていうこと。つまり、三軒茶屋には今や新刊書店がなくなってしまったってことなんだなあ。

 こりゃあ、ちょっとマズいか? ってKindleでばっかり本を読んでいる奴が言うことでもないか。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Sankenchaya Setagaya ©tsunoken

 

2017年7月17日 (月)

蛇崩・伊勢脇通り・中目黒

 東横線中目黒駅を降りて、駅前の巨大な中目黒ゲートタウンというビルの脇から伸びている目黒銀座は芝居を観に何回か来たことがある。

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 基本的にはちょっと古い感じの昔からの商店街っていう感じの商店街なんだけれども、たまに目新しい店があったり、ギャラリーがあったり、演劇の小劇場があったりして、結構。文化的要素の高い街としてなかなか好感度の持てる商店街である。

 その目黒銀座の正しい名前が「蛇崩・伊勢脇通り」という名前だとは、何度も通っていたくせに知らなかった。通りのちょっと奥にある天祖神社が伊勢神宮祭神、天照大神を祭っていることから、境内を俗に「お伊勢の森」といったところからきている。で、「お伊勢の森」の脇だから「伊勢脇通り」。でも、もう一つの「蛇崩」というちょっとおどろおどろしい名前の意味が分からない。

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 で、その目黒銀座も数百メートルほどで突き当りに出てしまい、右へ曲がると東横線のガードをくぐる。

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 で、くぐった先も「蛇崩・伊勢脇通り」という名前は続いている。途中、「蛇崩川支流緑道」なんてのがあったりして……、え?

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 道はついに「蛇崩下橋」なんて橋を渡るんだが、川は無くて暗渠になっている。

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 つまり「蛇崩川」という名前の川が昔あって、「大水で崖が崩れた際にそこから大蛇が出てきた」とか、「蛇崩川は、かつては谷も深く大変な暴れ川で、蛇行して流れる水の勢いで川の両岸が浸食され、土砂崩れが多く見られ、その凄まじい様相に『蛇崩』の文字を当てたのではないか」などなど、その「蛇崩」というおどろおどろしい名前の由来は諸説あるらしいのだが、要は品川用水の分流で目黒川に注いだのが蛇崩川という川の名前らしい。

 だとしたら、そんなにおどろおどろしい名前にしなくてもよかったのになあ。

 というところで、泉麻人氏の『東京いい道、しぶい道』の「Ⅲ 城南エリア 目黒銀座の奥の細道…蛇崩・伊勢脇通り」を征服。

『東京いい道、しぶい道』(泉麻人著/中公新書ラクレ/2017年4月10日刊)

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Kami MeguroMeguro ©tsunoken

2017年7月16日 (日)

「中原街道」って、本当は「街道」じゃないのにね

「中原街道」というのは「街道」という名前はついているのだが、別に徳川家康が作った日本橋を起点とする五街道とは何の関係もない。

 たしかに、「中原街道」という名前が付けられたのは徳川家康の時代なのだが、実はそれ以前からあった武蔵国と相模国を結ぶメインの通りだったというだけのことなんだ。東海道ができた当初は東海道の裏街道的な位置づけがされていたようだが、別に、それ以降は東海道の裏街道でもなく、まあ、武蔵国と相模国を結ぶもう一つのメインストリートというくくりの道だったようなのである。

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 現在の中原街道と旧中原街道の追分道が武蔵小杉の一番大きなパルム商店街の出口のところにある。左が旧中原街道、右が現在の中原街道、でそのまま中原街道を右折すると戸越銀座商店街になる。

 旧中原街道はここから1km足らずの長さしかないが、何となく昔の街並みのイメージが残されている道ではあります。

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 この追分道のそばにあるのが「平塚橋の碑」。玉川上水から引かれた品川用水というのがあって、品川宿の方まで流れていたようだ。現在は暗渠になっていて下水道などに使われているらしく、記念碑があるだけだ。

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 中原街道を少し下ると(えっえー、西に行くんだから上るのかなあ)旗の台の駅の方へ別れる追分がまた現れる。別に表示もなにもないのだが、ここも旧中原街道なんだろうか。

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 同じような追分道がやはり何ヵ所か中原街道にはあるんだが、それらが旧中原街道なのか、あるいはごく普通の分かれ道なのかはよくわからない。

 ただ、現代になって作られた分かれ道だったら、普通は十字路の交差点になっているはずなので、何らかの形で昔の追分道だったんだろうなあ。

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 ということで洗足池に出るのであります。

 昔の落語の小咄でこの「洗足池」と上野の「千束」と間違えて四苦八苦するタクシーの運転手っていうネタがあったのだが、誰の噺だったのかも覚えていない。私が小学生くらいの頃だったのでよく覚えていないのだが、考えてみればこの「洗足池」がある場所も現在は「大田区南千束・北千束」なので、どちらの「せんぞく」なのかを間違えるというのは、まあ、本物のタクシーの運転手さんだったら間違えないよね。

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NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Nakahara-kaido Ave. Shinhagawa Ota ©tsunoken

 

2017年7月15日 (土)

『男たちが見た小池百合子という女』「都民ファーストの会」なんてものにダマされちゃいけないよ

『文藝春秋 2017年8月号』のカバーストーリーは『安倍首相が自民党を劣化させた』という記事なんだが、もはやそんなことは良くわかっていることなので、あまり興味はない。むしろ、興味をもって読んだのが『男たちが見た小池百合子という女』という石井妙子さんの記事だ。

 東京都議選は戦前の予想通り小池百合子率いる都民ファーストの会の圧勝に終わったわけなんだけれども、じゃあ、それは何が勝利のカギだったのかというと、実は何にもハッキリしていない。築地市場を豊洲に移転させるのかどうかという問題についても、結局は都議選公示ギリギリになって「市場は豊洲へ移転させる。しかし、築地もブランドとして守る」という玉虫色の結論(?!)を提示しただけで、実は都知事になって一年間の間には何も進展していないのと同じことなのだ。

 都知事というのは、確かに政治家の側面も持っている人物ではあるけれども、一方で行政官でもあるのだ。確かに、政治家としての小池都知事の活動は目立っていたのかもしれないが、行政官としては、実は何もやっていないのと同じなのだ。「ふるい都議会を、新しく」っていうのが今年の都議選の都民ファーストの会のキャッチフレーズなんだが、都議会のどこが古くて、どこを新しくするのかっていうのは、実は選挙戦中には全く触れておらず、それはこれからの課題ってことになってしまうと、「何だそれは、じゃあ何も言っていないのと同じじゃないか」ということになってしまう。

 確かに、勢いで都知事になってしまったけれども、じゃあ、都知事としての都政に対するビジョンとしては、実はこれから考えるっていうんじゃ、もう遅いんだなあ。既に、都知事に就任して一年たってるんですよ。

Photo_2 『文藝春秋 2017年8月号』

 石井妙子氏は『新潮45』1月号で小池百合子とその父親の関係を描いた『小池百合子研究 父の業を背負いて』という記事を書いているが、本稿はその延長線上にある、「小池百合子と権力者の関係論」を書いたものだ。サブタイトルは「小沢一郎、細川護熙、守屋元次官ら12人の証言」。

 では、その12人とはどんな人物たちなのか。

 まず登場するのが、日経新聞出身で当時はテレビ東京取締役報道局長の立場にあった池内正人氏。とにかく小池百合子を新番組「ワールドビジネスサテライト」の初代キャスターに据えて、その後の小池百合子の華麗なる歴史というか、男性遍歴の元を作った人だ。

 次が日本新党を立ち上げて小池百合子をイメージキャラクターに起用した、細川護熙。

 日本新党に社民連から合流した江田五月『細川さんの輝きが失われて、ぐらつき始めた時、彼女はもう連立を組む新生党の小沢一郎さんに近づいていた。気を見るに敏だなあ、と感じた記憶があります』。

『新進党は二百人を超える大野党として好スタートを切ったものの羽田孜と小沢一郎の対立が深刻化し、やがて内紛となる。江田や細川は羽田につき、小池は小沢についた。新進党の解党後は、小沢とともに自由党に参加。
 この時、行動をともにした同僚に西村眞吾がいる。新進党、自由党で一緒に過ごした西村は「やくざ世界でいえば、『姐さん』のようなポジション」だったと小池を語る』

『小沢一郎の側近中の側近、自由党時代には参議院議員も務めた「小沢の懐刀」平野貞夫が振り返る。
「自由党は自民党と連立しましたが、連立を続けるべきか、あるいは袂を分かつべきかで、党内の意見が分かれた。小池さんも僕も、リベラルな保守政党として、自民党とは一緒にならずにやるべきだと思っていた。小池さんは『自民党に合流しないで踏ん張りましょうよ』と言ってね。小沢も感激していた。ところが、そんな小池さんに公明党を通じて自民党が『応援するから自由党を出ろ』と揺さぶりをかけてきた。でも、小池さんを信じていたから小沢は特に対策はしなかったんです」
 自民党なんかとくっついてはダメだと主張する急先鋒だった小池が、離反するとは考えられなかったと平野はいう。
「でも、いよいよ小池さんが怪しい、抜けそうだと情報が入ったので、私は小沢に『小池さんに電話して残るように説得してくれ』と頼んだ。それで小沢が小池さんに連絡をして、『自由党で比例第一位にするから残ってくれ』と引き留めたんです。ところが、その時、小池さんがなんて言ったか。『比例第一位といっても自由党から当選者が出ると思ってるんですか』って。どうして、そんなに薄情なことが言えるのか。慄然とした』

『小泉は郵政民営化法案に反対する自民党議員の選挙区に、それぞれ「刺客」を送り込む。この時、真っ先に手をあげて自ら刺客第一号になると宣言したのが小池だった。
 小池は自民党の実力者、小林興起のいる東京十区に降り立った。小林らには「抵抗勢力」というレッテルが張られ、連日、ワイドショーは小林と小池の対立構造を報道し続けた』

『小池さんは小泉さんに気に入られて、すぐに環境大臣になった。でも、それだけでは満足しないで大臣なのに自分の選挙区をあっさり捨てて、刺客に立候補した。どうしてそこまで小泉さんにゴマをすったのか。選挙の時も『私は環境大臣で忙しくて、郵政民営化なんて勉強するヒマはなかった』と堂々と言っていた。それなら、なぜ手をあげてまで刺客になるのか。それは主義主張がないからで、ただの遊泳術だ』

 小池百合子は第一次安倍内閣で防衛大臣になる。

『守屋武昌元事務次官は今、口にする。
「小池さんは防衛大臣になる前、小泉政権下、環境大臣と兼務で沖縄及び北方対策担当大臣をしていた。その時から、沖縄問題に大きく関与してきた。小池さんには沖縄問題を解決して名を挙げたい、という強烈な欲が感じられました。また、沖縄財界の一部の人たちと繋がっていて、そこで聞かされる話を鵜呑みにしていた。
 小池さんは『あなたたちが主張しているV字型滑走路案はやめて、辺野古の沖合を埋め立てる案にしたほうがいい。沖縄の財界もそれを望んでいる』と言いました。環境大臣をやっていた人が海を埋め立てればいいと簡単に言うのが不思議でした。
 V字型滑走路案というのは米軍基地内を中心に滑走路を作るという案で、これならサンゴ礁への影響を最小限にできる。一方、沖合埋立案は、環境を破壊します。環境派を敵に回すわけにはいかない。しかし、埋立案のほうが公共事業としては、地元の業者を潤すことになるので、沖縄財界は盛んにゆさぶりをかけていたんです。こういった複雑な事情を小池さんは、十分に理解していなかった。国防に対する知識は、それまでの歴代の大臣と比べて失礼ですが、低かった」』

 まあ、やっぱり最後は小沢一郎だろうなあ。

『都議選は勝つでしょう。彼女がくまなく回って応援演説すれば。では、勝ってどうするのか。そここで何をするのか。そこからはじめて彼女に、本当の評価が都民から下されることになる。だから、これからが大変なんです』

『築地移転の方針を示した三日後の二十三日、公示日を迎え都議選が本格的にスタートした。選挙を仕切るのは小池百合子の「腹心」「参謀」と言われる、元都議の野田数である。都議時代には尖閣列島購入計画を熱烈に支持し、大日本帝国憲法復活請願を都議会に出したことでも知られる。小池とこの野田によって「都民ファーストの会」の候補者は選定された。候補者たちは小池をひたすら仰ぎ見て、その考えに追従すると表明している』

 って、なんだこりゃ。

 ビジョンなき「都民ファーストの会」を率いる小池百合子に、世界的な予算を使っている大都市、東京を任せるって……、大丈夫か?

『文藝春秋 2017年8月号』

2017年7月14日 (金)

豊田真由子事務所は店じまい?

「この、ハゲーーー!」ですっかりお馴染みになった埼玉四区選出の豊田真由子衆議院議員なのでありますが、その後、病院に雲隠れしちゃって消息は明らかではない。

 で、新座市にあるとよた真由子事務所に行ってみたら、なんかビル工事をしているみたい。というか、どうも事務所を店じまいしようとしているのかなあ。

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 以前はこんな感じで自身のカラーである「ピンク」を基調にしたデザインの事務所だったんですがねえ。

Photo_3©Google

 事務所は東武東上線の志木駅南口を出て500mm位の至近距離にあり、周辺は昔農家だったらしき広い敷地の屋敷や、マンション、一戸建てなどの「住宅地+畑」という場所に建っている。

 まあ、埼玉四区っていう選挙区自体が朝霞市、志木市、和光市、新座市っていう、まさしく典型的な「埼玉都民」が住んでいる場所で、あんまり住民の「埼玉県民だという自己意識がいかにも低そう」な地域ではあります。

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 豊田さん自身も、「桜陰中高→東大法学部」ってところまではよかったんだけれども、その後が厚労省っていうちょっとマイナーな役所に入ってしまい、本来ならその上昇志向に従って財務省とか外務省なんかの花形役所に入りたかったのが、それが叶わず、代わりに代議士になったんだだろうなあという経歴を見ると、如何にも秘書を顎で使う上から目線の人だったんだろうなあ、という、その後の「この、ハゲーーー!」に至る道程がなんか理解できるわけなんですね。

 選挙区も本来なら東京都にしたかったのかもしれない。それがダ・埼玉県っていう「都落ち」感覚もあったのかもしれない。

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 志木駅っていうのは南口を出れば立教大学新座キャンパス(及び立教新座高校・中学)、北口を出れば慶応大学志木キャンパス(慶応志木高校)があり、ある意味では文教地区であるし、落ち着いた街ではある。バースデーカードの日にちを間違えたくらいのことで文句を言う選挙民もいないようなおとなしい街なのだが、まあ許せなかったんでしょうねえ「上から目線」の人にしてみれば。

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 しかし、それにしても都議選の応援演説で「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」なんて問題発言をした責任もとろうとしない稲田朋美防衛相といい、病院に雲隠れしたままのこの豊田代議士といい、なんかナメられてるんじゃないの、東武東上線沿線選挙民って。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Niiza ©tsunoken

2017年7月13日 (木)

『不寛容社会』でも、いいじゃないか

 九州では大変な天気が続いているんだが、その一方、東京では好天気が続いている。まあ、ちょっと暑すぎるけれどもね。

 どうもそのせいか、毎日外に出て写真散歩をしているにはいいんだが、その分、本について書く機会が減ってきてしまっていて、いかんなあと思ってはいます。まあ、読んでいることは読んでいるんだが、どうしてもね、こう暑いと本を読むのも多少は億劫にもなってくるのも事実。

 と、言い訳しつつもとりあえず「本について書く」のであります。しかし、いつになったらこの「本について書く」ブログが掲載されるんだろう。

 ということで久々の「本について書くブログ(でも「書評じゃない」)であります。

 別にいいじゃないの、「不寛容社会」だってさ、ってことであります。

Photo 『不寛容社会』(谷本真由美著/ワニブックスPLUS新書/2017年4月25日刊)

 まあ、メイロマ(谷本真由美)さんの日本人叩きも時には面白いんだけれども、時によくある「外国に在住の日本人が陥りがちな、上から目線の日本人叩き(でも、それって自分を叩いてるのと同じなんですけれども)」になってしまっているところは、ちょっと残念だ。

 だって……

『なぜ日本人は見ず知らずの人を叩かずにいられないのでしょうか?
 なぜ日本人はこんなに不寛容になってしまったのでしょうか?
 なぜ海外では芸能人の不倫がトップニュースにならないのでしょうか?
 なぜ日本人は些細な事で正義感を発揮しようとするのでしょうか?
 日本人は集団ヒステリーなのでしょうか?』

 って、今や別に日本だけの状況じゃなくって、世界中がそんな感じになってません? 問題は「ネット社会」ってことでしょう。

 要は「ネットの匿名性」の中にみんな逃げ込んで、そんな匿名性の中、つまり自分だけは安全地帯に身を置いて、他人を誹謗中傷するっていう傾向は、今や決して日本だけの特徴ではなくなってきている。

 勿論、メイロマさんもそんなに西欧礼賛じゃなくて、外国にもある「他人叩き」の例を挙げている。

『私の欧州での生活感からすると、他人を叩く傾向は、南下するほど激しくなり、北上するほど薄くなっていくようです』

『つまり、南下するほど社会における伝統的な役割を重視する人が多くなり、工業化社会というよりも、工業化以前の農村的価値観を色濃く残しているともいえます。男尊女卑もひどくなり、他人に興味がある人が多くなるため、人の行動に対してあれこれ言いたがる人が増えるのでしょう。
 その代表的な国の一つは私がかつて住んでいたイタリアです』

『イタリアからそれほど遠くないスペインも、案外「他人叩き」が好きな傾向があります』

『スペインの強固な同調圧力は日常生活の中にも存在します。
 例えば日本でもお馴染みのサービス残業。欧州では定時上がりが当たり前な国が多い中、スペインには付き合い残業という日本のような「サービス残業」が存在するのです』

『スペイン人の同調圧力の根底には、同じ集団に所属する人とお互いを深く知るような機会がないと寂しい、ダラダラ一緒に過ごしたい……そういった思いもあるわけです。
 さらに面白いのは、スペイン人は日本人の私ですらもこうしたダラダラした「だべり」に誘ってくれて、午前様になってベロベロになるまで一緒に飲んだりすることです』

 これらは南ヨーロッパの特徴なのだろうか。じゃあ、北欧と南欧でどこが違うのか?

『個人主義が徹底していて「他人叩き」にまったく興味がない北米や欧州北部は「階層」と「階級」を強く意識している社会です』

『「階級」(英語では「class」といいます)は歴史的、文化的なもの。「階層」(英語では「social stratum」といいます)は職業や収入などの格差によるものです。昔と違って、現代では「階級」の移動は難しくても「階層」の移動は可能なことがあります』

『より良い教育を受けた人ほど上層階層に移動することが可能なわけです。
 高校教育や大学教育が無償、もしくはアメリカやイギリスに比べたらかなり安いノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ドイツは、たしかに階層移動が容易になってきています』

『アメリカは親が貧乏だと「階層」を移動しにくい社会なのです』

『両親の財力は、より豊かな生活環境や教育環境を整えるだけではなく、子どもが様々なことに挑戦する機会を与え、お金のことを心配しなくても良いという安心感も与えます。お金が保険の役割も果たしていたのです』

『個人主義的な国ほど階層移動には財力がモノをいうようになっています。そして、それがさらに顕著なのが、個人主義社会で他人には構わない傾向の強いアメリカなのです。
 繰り返しますが、アメリカ人は自分は他の「階層」には移動できない=他人と自分は根本的に違う、と最初から思っているので、欧州以上に他人にはことさら無関心。日本人のように「他人叩き」にも時間を使いません』

 そういうことか。

 つまり「階級社会」「階層社会」であるところのアメリカや中北欧は、当然ながら社会における同調圧力が低い、というか階級や階層が違えばそれは「別の種類の人間」なんだから、彼らが何をしようが自分には関係ない、関係ないことには興味はない、なのでそこで「他人叩き」をする意味がまったくなくなってしまうのだ。

 ということは、その逆で、日本ではそんな「階級制度」や「階層意識」というものが薄いので、そこに同調圧力が生じてきて、「自分と違うことをやっている人を叩く(それもネットで匿名で)」っていうことになるんだな。

 っていうことは、まだ日本の社会のほうがそんな平等性の中で生きているんだから、まだマシ? っていう考え方もある。

 まあ、多少、世の中生きにくい部分はあるけれども、そんな平等社会のほうがいいという考え方もあるんだ。

『不寛容社会』(谷本真由美著/ワニブックスPLUS新書/2017年4月25日刊)

2017年7月11日 (火)

NIKKORを世界的にしたカメラマン

 品川にあるニコン・ミュージアムで『世紀の記憶 デビッド・ダグラス・ダンカン』という展示を9月30日まで開催中だ。

 なぜ、ニコン・ミュージアムでデビッド・ダグラス・ダンカンなのかという理由は既に多くの方々がご存知の話かもしれない。

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 ダグラス・ダンカンとニコンといえばもう誰でも知っているストーリーだろう。

 1950年にアメリカのライフ誌から派遣されてきたダンカンと、同じライフの契約カメラマンであった三木淳がコーヒーを飲んでいたとき、戯れに三木がライカにニッコール85mmでダンカンを撮影した。翌日、その三木が撮影したダンカンの写真の紙焼き(8X10・六つ切り)をダンカンに見せたところ、そのあまりの鮮明さに驚いたダンカンが、ニコンを紹介してくれと頼み、三木がニコンの社長の長岡鉄雄を紹介し、その優秀さを認めたダンカンはさっそくその場で数本のニッコール・レンズを買い求めたという。

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 そんなことがあってすぐ勃発した朝鮮戦争に従軍することになったダンカン。当然、彼のライカにはニッコール・レンズが装着されていて、彼が撮影した朝鮮戦争の映像の鮮明さに驚いたライフ誌のスタッフが問い合わせたところ、それが日本のニッコールというレンズだとわかって大騒ぎとなり、ライフはそれをも記事にした。

 それがニッコール神話の始まりで、その後世界中のカメラマンがニコンSにニッコール・レンズを装着して、様々な戦場に飛び立ったということは有名な話だ。

 以降、ベトナム戦争あたりまでは35mmと50mmはライカM3、135~200mmはニコンFにそれぞれ装着して取材に走り回ったという話はいくらあっても足りないくらいだ。

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 そんなダンカンが使用したライカにつけた50mmと135mm、それに200mmを装着したニコンF(と同型レンズ)がこれ。まあ、本物じゃないのはちょっと残念だけど、まあ仕方ないか。

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 現在でも我々の手に入るのがこの『Photo Nomad』というディビッド・ダグラス・ダンカンの写真集である。

 表紙のような戦争写真ばかりじゃないけれども、ダンカンの若いころからの写真の集大成なので、ちょっと値段は高いが、買っておいて損はしない。

 写真はアナログなのかデジタルなのかといった些末な問題は関係ない、ということがよくわかる写真集だ。

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『Photo Nomad ディビッド・ダグラス・ダンカン写真集』(ディビッド・ダグラス・ダンカン著/求龍堂/2003年12月6日刊)

2017年7月10日 (月)

品川インターシティでフリーマーケット

 品川駅港南口駅前にある品川インターシティは、基本的にはオフィスビルの集合体である。

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 でも、その地階から1階・2階はオフィスで働く人たちのためのコンビネンスストアとか飲食店とかが入っている。

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 で、誰か頭のいい人が考えたんだろうなあ。日曜日は基本的にオフィス部分は休み、でも飲食店はやっているので、その前の通路部分にはエアコンが動いている。

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 じゃあ、その通路部分でフリーマーケットを開いちゃえば、夏でも暑くない環境で開催できる。ってなもんですね。

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 で、何やら日曜日の品川インターシティで何やらうごめく人たちがいるなあ、と思っていたらフリーマーケットを開催していたのだった。

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 品川駅港南口の駅前広場ではよくイベントなんかを開催しているが、品川インターシティでフリーマーケットを開催しているのは初めて見た。

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 しかし、この場所だとエアコン代なんかも含まれてしまい、出店料はちょっと高そう。出店者の皆さん、ちゃんとペイしてるのかな……、なんて想像しつつも、別に出店内容には興味がないのでありました。

 う~ん、これなら巣鴨のお地蔵さんの縁日の方が選択肢は多いかな。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Shinagawa Intercity Minato ©tsunoken

 

2017年7月 9日 (日)

久しぶりの高校野球

 我が息子の母校、立教池袋高校が夏の高校野球東東京大会の開会式後の神宮球場第一試合のくじを引いたというので見に行った。相手は九段中等教育学校。まあ、簡単に勝てる相手ですね。

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 考えてみれば息子が神宮の第一試合に出て、強豪・青山学院付属高校相手に、同輩の選手と二人でタイムリー・ヒットを打ちまくったのが高校一年生の時。あの時は、三年生に斉藤隼といういいピッチャーがいて、まあ、そのおかげで一年生の活躍の場もできて勝てたんだけれども、言ってみればそれが息子のピークだったのかもしれない。その後の、高校野球東京都予選ではいいところなく、結局、息子も大学に進学してからは野球を捨て、ラクロスに転向してしまった。

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 なんていう昔話はいいとして、小池都知事の始球式に始まったゲームは、立教池袋が小幡の先発。結構、速球派の本格的投手だ。

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 九段が川上投手の先発で始まったんだけれども、この川上投手、やたら四球が多いんですね。で、四球で塁に出ると、高校野球はお約束のバント作戦。するとこの投手、それを気にしてバント警戒の投球をするもんだから、次の打者まで四球になっちゃうっていう展開。

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 1回裏ノーアウト満塁でこりゃあ大量得点でコールドか? なんて思ったんだが、立教池袋の攻撃もちょっとオソマツ。お約束の犠牲打でとりあえず1点先取したが、1回はこの1点止まり。そんな感じの攻撃が続いて、当初は5回コールドか? とも思われたんだけれども……、全然そうならず……。

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 なんとか8回裏でやはり満塁とした後、タイムリーでやっと7対0コールド。

 しかし、ヒットが立教4・九段1、エラーが立教0・九段2、四球が立教1・九段15、ってこりゃどう見ても立教池袋が勝ったんじゃなくて、九段が勝手に負けたっていう試合だよね。

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 う~ん、こりゃあ立教池袋の次戦は神宮第二球場で、都立の強豪・文京高校なんだが……、苦戦しそうだなあ。

 まあ、神宮でよく知ってる学校の試合が見られて、勝てたんだから、まあ、いいか。

NIKON D 7000 AF-S Nikkor 70-300mm f4.5-5.6 G @Jingu Stadium ©tsunoken

2017年7月 8日 (土)

周辺光量の低下はレンズの味?

 ニコンDfを修理に出しているので、ここのところエプソンRD1sで撮影することが多い。

 というか、まあたまにはレンジファインダーで撮るのもいいんだが、ライカだとフィルム現像をしなければならないので、それが面倒でデジタルでレンジファインダーというとエプソンRD1sになってしまう、ということなのだ。う~ん、デジタル・ライカも欲しいなあ。

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 ライカだと普通に使っている広角レンズはエルマリート28mmあたりまでが普通なんだけれども、エプソンだとAPS-Cサイズの撮像素子なので、28mmレンズだと35mmと同じくらいの画面サイズになってしまう。

 で、エプソンでよく使うのが、このフォクトレンダー・カラースコパー21mm f4なんだが……、このレンズって周辺光量の落ちがすごいんですね。

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 フォクトレンダー・カラースコパー21mmってレンズが「6群8枚構成」という対称型になっているので、特にこの周辺光量の落ちが激しいレンズではある。

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 なので、こうやって並べると、どこか「昔の写真」っぽく見えてくるのであります。まあ、確かに最近のレンズでこうした周辺光量の落ち方が大きいレンズはあまり見ないものなあ。

 最近のレンズはコンピュータを使って設計するんで、あまりこんな周辺光量の落ちが激しいレンズってのはない……、ってことは、このカラースコパーって、そういう効果を狙って設計したんだろうか。

 う~む、フォクトレンダーのレンズ設計技師って、そんなに趣味に走っちゃう人たちだったんだ。

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 まあ、でもそれはそれで撮影対象によっては、どこか懐かしさを感じさせる写真になっていいんじゃないでしょうか。

 勿論、「今」を見せる写真や、報道系にはこんなレンズは使えないが、風景写真になると、どこかレトロな感じがして、面白い効果のある写真になる。

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 ということは、これはこれで「レンズの味」っていうやつなのかなあ。

 ライカマニアの間ではそうした「レンズの味」談義が多く語られていて、それはそれで百家争鳴なんだけれども、これまであまりそうしたことには興味がなかった。

 でもこうやって自分で撮ってみて、そんな「レンズの味」のするレンズで撮った写真を見ると、う~ん、なんかそんな「レンズの味」談義を、私もやりたくなってしまうのだ。

 でも、デジタル・ライカ欲しいな。

EPSON RD1s VOIGTRANDER COLOR-SCOPER 21mm f4 @Yokohama ©tsunoken

2017年7月 7日 (金)

昔は甲州街道は小仏峠を通った

 国道20号線の高尾駅前を過ぎて道が左へカーブするあたりで、道はJR中央線と交差する。

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 そのJRとの立体交差を過ぎるとじきに「西浅川」という交差点に出る。ここをまっすぐ行くと京王線の高尾山口駅前を過ぎて大垂水峠に入り、右折すると小仏峠に至る。

 小仏峠は昔は甲斐と武蔵を結ぶ甲州街道の要所として小仏関所が置かれていた。

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 その小仏関所が1616年(元和2年)に駒木野に移されて、現在も京王バスの駒木野停留所の前に関所跡が残されている。

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『小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条市の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された』(八王子市教育委員会)

 という説明版がある。

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 関所の面積などはそれほど大きなものではなかったようなのだが、関所と一緒に「甲州街道駒木野宿」という宿場もあったようで、まあ、たぶんそれは「明け六つから暮れ六つまで」という関所の開所時間に合わせて、それに間に合わなかった人のための小さな宿場のようであったのだろう。

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 小仏峠は勾配が急で車道化が困難であったため、1888年(明治21年)に当時の国道16号(現在の国道20号)は大垂水峠を経由するルートへ変更された。

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 ということで、この小仏峠へ至る道も、この小仏関所跡を過ぎて裏高尾を過ぎて小仏峠まで行くと、既に道も舗装されていないハイカーたちが通る道になってしまっている。

 中央高速の小仏トンネルは、この小仏峠の下を走っているわけですね。まあ、昔の甲州街道がどうなっていたのかを知るいい機会かもしれないけれどもね。

NIKON D7000 AF-S Nikkor 18-105mm f3.5-5.6 G @Komagino Hachioji ©tsunoen

 

2017年7月 6日 (木)

「犬も歩けば棒に当たる」的発見…でも横浜なら珍しくもないのか

 ツール・ド・フランス第4ステージではラストスプリントでのマーク・カヴェンディッシュへの走路妨害でペーター・サガンが失格となってしまった。これまでゴールスプリントでの競い合いには比較的緩やかだったツールだったんだが、最近は厳しくなったんだろうか。いずれにせよ、今年のツールは二人のスーパースターをこれで失ってしまった。

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 ということとは関係なく、九州地方は停滞する梅雨前線による大雨で大変なことになっているが、こちら東京・横浜地方は台風一過の好天気、っていうか暑い(!)

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 で、そんな中、暑い横浜を横浜駅からみなとみらい、山下公園へと歩いていつものカフェで喉を潤そうかとしたんだが、改装中で入れない。う~ん、こりゃ困ったということで、とりあえず中華街方面へ歩いたんですね。

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 ところが中華街は食事をする店ばっかりで、軽くお茶をしようなんて店はないんだなあ、ってのは元々知ってはいたんだが、じゃあ、なぜ中華街に向かったのかが謎。

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 で、中華街をでて横浜公園へ渡る信号があるんだけれども、そのすぐわきに気になるお店が。

 なんかアメリカンスタイルのダイニングバーみたいなのがあって、店を覗くと何やら古いアメリカンングッズやらレコードやらジュークボックスなんかがあるじゃないですか。

 おまけに真昼間っからやっているんですね。店の雰囲気は完全に「夜」なんですけどね。

 って、ことでそりゃ気になるもん、入りました。真昼間っから。だって、開いてるんだもん。

 お店の名前は「フラッシュバック カフェ」。う~ん、本当に1970年代頃のアメリカにフラッシュバックしたみたいなお店なんですね。

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 店の中には1970年代のアメリカン・ロックのゴールド・ディスクが20枚以上飾ってある。

 店でかかっているレコード(DVD)もイーグルスとかそんなのばっかり。まあ、オーナーの趣味で集めたアメリカングッズ。たくさんあるゴールド・デイスクもオーナーがアメリカで修業中に知り合いの音楽関係者から内緒で買った本物だそうです。なんでも「全部売ればポルシェが何台か買える」くらいの金額だそうです。そりゃあ、スゴい!

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 う~ん、こりゃあ面白い店を知ったなあ。

 っていうか、そんな店って横浜じゃ普通にあるの?

EPSON RD1s VOIGTLANDER COLOR-SCOPAR 21mm f4 @Kannai Yokohama ©tsunoken

2017年7月 5日 (水)

池上道・本門寺通りを制覇

 そういえば、東急池上線には何度も乗っているんだが、肝心の池上本門寺には行ったことがないなあ、おまけに泉麻人氏の『東京いい道、しぶい道』に載っていた「龍子の屋敷から池上梅園へ…池上道(旧池上街道)」というのも通っていないので、とりあえず東急池上線池上駅まで行った。

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 駅前から出ている「本門寺通り」というのが本門寺の参道のようなんだが、普通のお寺の参道らしき川魚料理屋なんかがなくて、「えっ? ここが参道?」って感じなんだけれども……

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 呑川河畔の「萬屋酒店」あたりになると、やっとお寺の参道らしくなってくる。

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 んで、総門があって……

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「此教難持坂(しきょうなんじさか)」という石段を登れば……

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 境内であります。

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 泉氏はこちらのルートではなく、下の写真の本門寺の脇の道を上がってきたらしい。

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 まあ、それはそれで趣のある道ではありますね。

EPSON R-D1s VOIGTLANDER COLOR-SCOPAR 21mm f4 @Honmonji Temple Ikegami Ota ©tsunoken

2017年7月 4日 (火)

東武伊勢崎線赤羽延伸計画

 ツール・ド・フランスが始まって毎日寝不足のtsunokenです。

 前にも書いたことがあるような気もするんだけれども、5月10日のブログ「東武亀戸線は昔は東武本線だった」に引き続き、再び東武線ネタです。

 今回は東武伊勢崎線には赤羽延伸計画があったって話。

 その残滓が東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)西新井駅から出ている盲腸のような(要は「いらない」っていう意味)、東武大師線なのであります。

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 東武大師線は西新井駅から大師前(西新井大師前)までの900mほどのごく短い線。まあ、乗客は西新井大師周辺に住んでいる人と、西新井大師への参詣客のみ……、っていうか西新井大師周辺に住んでいる人も、場所によっては西新井駅へ直接行ってしまうっていうくらいの短い路線。乗客が沢山乗るのは西新井大師の初詣の時くらいなもん。

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 二両連結の一編成だけで、運転手さんは一駅動かすと運転台を往復するという面倒くささ。改札口も西新井駅のみにあって、大師前駅にはありません。

 たぶん、駅員さんもいないんだろうなあ。

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 そもそもなんでこんな盲腸みたいな「いらない」路線ができたのか?

『第二次世界大戦前には西新井駅 - 東上本線上板橋駅間を結ぶ西板線の計画があった。ほぼ現在の環七通りに沿って途中に大師前、鹿浜、神谷、板橋上宿(いずれも仮称)の各駅が計画され、このうち1922年(大正11年)11月に西新井 - 大師前 - 鹿浜間のみの工事施工申請をし用地買収や設計にとりかかった。
 だが、申請と免許の間に起きた関東大震災による既存路線の被災復旧を優先したことや、当時建設中だった荒川の堤防などの護岸整備が完成しておらず架橋の設計ができないことや、荒川と隅田川(旧荒川)を跨ぐ橋梁の建設費用の問題や、予定地の町関係者からの経路変更要求への対応画策などでもたついているうちに大正末期から昭和初期にかけて路線予定地が急速に市街地化し、「建設費が高額となり、採算の見込みがない」との理由で鹿浜 - 上板橋間の起業を廃止した。後に大師前 - 鹿浜間も同様の理由で起業廃止を申請、免許を取り消された』(Wikipedia)

 という次第。

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 まあ、やっぱり東武鉄道としては、もともと別の会社の路線であった東上線と、本線である伊勢崎線・日光線を繋げようという意思はあった。意思はあったけど、上記のような理由でできなくなってしまううちに、「まあ、繋がなくてもいいや」ってなことになってしまったんですね。

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 まあ、ご都合主義って言っちゃあご都合主義なんだが、普通の会社の経営方針なんてそんなもんでしょ。

 勿論、西新井から上板橋まで繋がって、おまけにその途中かなにかに京浜東北線(当時は東北線か)の赤羽駅が来れば、その利便性はものすごく上昇するだろうし、東武鉄道としても、周辺の地価も上がって大儲けってな図式もあったんだろうけれども、まあ、時代が許さなかったって言う不幸なんだろうなあ。

 会社の経営なんてものは、そんな予測できない状況にしょっちゅう囲まれているわけで、その一つのお話、っていうところでしょうかね。

EPSON R-D1s LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Nishiarai Adachi ©tsunoken

2017年7月 3日 (月)

東京都議選の日は、六義公園で文京プレイパークぐうちょきパラダイス

 昨日は東京都議選の投票日だったわけだが、そんな都議選に関係ない子どもたちはこちらへどうぞ、ってなもんで六義園となりの六義公園では「文京プレイパーク」というのが開催された。

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「プレイパーク」とは何か? 『冒険遊び場(=プレーパーク)の始まりは、1943年、第二次世界大戦中のデンマーク。造園家ソーレンセン教授が「ガラクタのころがっている空き地や資材置き場で子どもたちが大喜びで遊んでいる」と造った「エンドラップ廃材遊び場」』というのがそもそもの始まりで、大戦直後、イギリスの造園家アレン卿夫人は、ロンドンの爆撃跡地に冒険遊び場をつくり、世論を喚起して、冒険遊び場運動を隆盛させました1950~70年代には、スウェーデン、スイス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、オーストラリアにも広がり、現在ヨーロッパ全体では、約1,000カ所の冒険遊び場があるという。

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『日本では、1970年代半ばにアレン卿夫人の著書『都市の遊び場』が翻訳・紹介され、1979年、世田谷区の大村ご夫妻が呼びかけ人となって、地域住民と行政が協力して≪冒険遊び場≫『羽根木プレーパーク』が誕生。その後、日本全国に広がり、遊び場づくりを真剣に考え始めた大人達のコミュニケーションの輪は、様々な住み良い地域を自分たちで考える力と協働し、広まっています』

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『日本のプレーパークの成り立ちの特徴は、「地域住民、とりわけ子育て中の親達が、公園の管理者である自治体や所有者に働きかけ,多くが運営母体としてNPO法人を立ち上げ、運営する」という点です』

 ということで、文京区でも「文京プレイパークぐうちょきパラダイス」というNPO法人が運営するプレーパーク構想があって、文京区に対して『公園では禁止されている 木のぼり、水遊び、たき火、穴掘り、秘密基地づくりなどの遊びを、子どもたちに取り戻すために、“公園の禁止事項の一部が取り除かれた遊び場=プレーパーク”への理解を求めています』という要望を出して運営しているらしい。

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『(1)公園の禁止事項の一部が取り除かれた遊び場=プレーパークの実現
 文京区の子どもたちが、心と体がよく動く外遊びを通して、より健康に、より人間性豊かに、より考え,より学び合う力を培えるように 現時点では公園、将来的には、廃・休校などを、子どもたちの自ら育つ力に相応した環境へと、地域の方々と共に創り、増やし、守ること。
(2)子どもたちが、プレーリーダーを中心とした地域の人々の賢くおおらかな見守りの中で、遊びに遊び、人間としてたくましくしなやかに育つこと
(3)プレーパークが、「子どもたちが遊んで育つ」喜びと楽しさを,赤ちゃん、幼児、小学生、中学生、高校生、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんが共感し合う、未来への希望の場になること』

 というのが文京プレイパークぐうちょきパラダイスのモットーのようである。

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 で、私の投票は予定通り「死に票」になりました。惜しかったな、200票差。

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EPSON RD1s LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Rikugi Park ©tsunoken

2017年7月 2日 (日)

時の止まったような「新宿西口」

 6月28日にニコンDfのマルチセレクターの調子が悪いので新宿のニコン・サービスセンターに持ち込み修理をお願いしに行った。

 新宿の西口には上記のニコン・サービスセンターやニコン・サロンがあるのでたまには行くんだが、「ああ、そう言えば」という感じで気にしていなかったことに気づかされた。

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 新宿西口は1965年に淀橋浄水場が廃止されてから「副都心開発」が60~70年にかけて行われており、京王プラザ、住友三角ビル、三井ビルなどができて、その仕上げに東京都庁ができたような感じだろうか。

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 小田急や京王などの電鉄系デパートもこの時期、相次いでオープンしたんだけれども、1967年にそれまで小田急デパートだったところが、小田急本店ができた関係で別館のハルクになって、現在はビックカメラなんかが入っている。

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 で、この小田急ハルクの一階に入っている喫茶店が「ピース」という、なぜかタバコの「ピース」と同じようなマークの喫茶店なんだが、確かこの喫茶店、以前の小田急デパートの時からあったんじゃないだろうか。

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 いまどきの「カフェ」ではなく、まさしく「喫茶店」に相応しく、未だに飲み物などは店員がサービスしてくれるし、いまどき正々堂々と「全席喫煙可」という営業をやっているのだ。勿論、「ここは禁煙席はないの?」というお客さんが来たら、平気で「禁煙席はありません!」なんて言って入店を断ってしまうのだ。

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 同じ新宿の東口の方は何となく「今風」に次第に変化してきてはいるんだが、1966年に地下駐車場ができてからの新宿西口は、そのまま当時の雰囲気を残しているんだなあ。同じ新宿でどうしてこうも違うんだろう。

 そういえば、「副都心開発」のころの新宿西口は、なんかそれ自体が時代の先端を行っているような感じがしたんだが、それが出来上がってしまうと進化を止めて、却って昔のままで残ったりするんだろうか。

 なんか街の進化っていうのも、人間の進化みたいで面白いなあ。

RICHO GRD2 @Nishi Shinjuku ©tsunoken

2017年7月 1日 (土)

『多動日記』

「多動」というのは『多動性(落ち着きがない、つねに動き回る)という基本的な性格のことであり。
【行動の特徴】
・自分の好きなことは集中して取り組むが、それ以外のことは途中で投げ出し、別のことを始める
・遊びをころころ変える
・外出すると動き回って、親の目の届かないところに行ってしまう
・1か所にじっとしていることが苦手
・イスに座っていても、身体や手足の一部を動かす』

という、これまでは病気の一種だと思われていて、いわゆる「ADHD」『注意欠如・多動性障害(ちゅういけつじょ・たどうせいしょうがい、英: attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性(過活動)、不注意(注意障害)、衝動性を症状の特徴とする神経発達症もしくは行動障害である』(Wikipedia)という、一種の精神疾患だと思われていた。

Photo 『多動日記(一) 「健康と平和」-欧州編-』(高城剛著/高城未来研究所 電子版未来文庫/2017年6月2日刊)

 確かに「多動」ではあるなあ。目次から拾ってみるとこうだ。

AUGUST
8月18日 イスタンブール/8月20日 ザグレブからパグ島/8月22日 チューリッヒからサルディニア/8月24日 コルシカ島からトゥーロン/8月26日 ポロクロール/8月27日 マルセイユ/8月28日 マルセイユからアテネ/8月29日 アテネ/8月30日 ケファロニアからザキントス

SEPTEMBER
9月1日 ザキントスからアテネ/9月3日 アテネからコルフ/9月4日 コルフからアテネ/9月6日 ナクソスからミロス/9月8日 ミロスからアテネ/9月10日 アスティパレアからアテネ アテネからローマ/9月12日 ローマからナポリ/9月13日 ナポリ/9月14日 ナポリからロンドン/9月15日 ロンドン/9月16日 バルセロナ/9月17日 イビサ/9月18日 イビサからアムステルダム/9月22日 キプロス/9月24日 ロンドン/9月26日 ベルリン/9月28日 パリ/9月30日 バルセロナ

OCTOBER
10月1日 ロンドン/10月2日 プラハ/10月6日 タリン/10月10日 ブリュッセル/10月15日 バルセロナから東京へ

 高城氏は自身のブログに2016年を振り返ってこう書く。

『今年は、例年にも増して忙しい一年だった。
珍しく渡航した国を数えてみると、一年間に訪れたのは71カ国。
その内、米国や中国など、別都市に複数回訪れている国も多く、延べで数えたら年間渡航100カ国は超えているだろう』

 たしかに旅行した先はむちゃくちゃ多いわけであるのだ、というか旅が常態化してしまった場合は、それを「旅行」というのが正しいのかどうなのかはよくわからない。旅をするのが日常であるならば、それは旅をするのが普通の生活であり、普通の人のように「旅という非日常を楽しむ」ということはないのだから、その旅自体が普通の生活であり、だとするとその旅自体に普通にストレスなんかが生じてきたりするのかなあ。

 また、確かにいろいろなところへ数「多く」、移「動」しているということでは「多動」ではあるけれども、それは堀江貴文氏がいうような、基本的な性格である、ADHD的な「多動」とはどうも違うようだ。

 ところで「高城剛」とはそもそも何者であるのか?

 私たちが高城剛という名前を知ったのは、CGやらアニメーションを使っていろいろな映像や空間表現をして「ハイパーメディアクリエイター」なんて訳のわからん「肩書」を名乗り、いつの間にか(それこそ「ザッツ・オールド」な)東映アニメーションの社外重役なんかをやったり、いつの間にか沢尻エリカと結婚し、そしていつの間にか離婚をした訳の分からん男、というイメージである。

 高城氏のブログから拾うとこんな感じである。

『LIFE PCKING2.1、黒猫は空飛ぶロボットの夢をみるか?、素敵な星の旅行ガイド-Nextraveler-、人生を変える南の島々、2035年の世界、白本、黒本、青本、魂の再起動、身体の再起動、サヴァイブ南国日本、世界はすでに破綻しているのか? スーパーフード、モノを捨てよ、世界へ出よう、人口18万人の街が、なぜ美食世界一になれたのか? オーガニック革命、サバイバル時代の健康術、時代を生きる力、私の名前は高城剛、住所不定、職業不明』

 高城氏の言葉……

『アイデア(の質、量)は移動距離に比例する』

 というのは少しはわかる。常に移動し続けることによって人間は外界からの刺激を受け続ける。そうした刺激が「アイデアの質や量」になるってことなんだろう。ただそれは、決して具体的に「A地点からB地点に移動する」っていうことだけではなく、そうした地理的な移動だけでない、精神的な移動だったり、日常生活の移動だったりというのもあるはずである。

本書のように移動する街から街へ、次々に現れる事象を書き綴っていると、それはどうしても「旅の途上で考えたもの」以上のものにはなってこない。たぶん、そうした「旅の途上で考えたもの」を修正し、まとめ上げたものが実は後々別の書籍となって表れるのかもしれないが……、たぶん、その時には私も先に行っているので、そんな書籍が出版されているのに気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。

 私は、別に「高城剛ウォッチャー」じゃないのだ。

 いつか、再び高城氏の本と出合った時に、別の「高城論」というか、本書『多動日記』のまとめが書けるのかもしれない。

『多動日記(一) 「健康と平和」-欧州編-』(高城剛著/高城未来研究所 電子版未来文庫/2017年6月2日刊)

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