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2017年5月20日 (土)

武蔵松山城のはずが……

 東松山市に城跡があるというので東上線のTJライナー(に使う電車)で行ってきた。

Dsc_00022

 行ってきたんだが、そこは東松山市ではなくて、東松山の駅から市役所を通り過ぎて、真っ直ぐ歩いて行って、吉野川を渡った吉見町の方だった。

Dsc_00222

 吉野川を渡る橋を越えると「吉見百穴 吉見町 武蔵松山城」という案内が出てくる。吉野川を天然の要害として、吉見百穴の前にある山の上が武蔵松山城祉であります。埼玉県によくある「川と山」を組み合わせた「平山城」ですね。

Dsc_00242

 道路沿いに塩船観音というのがあって、そこから城へ登って行けるようだ。

Dsc_00302

 が、お堂の裏に上がってみると、こんな感じで登山道なんかも整備されていないままである。ちょっと普通の靴では上がりづらいなということで、今回はお城の下までということにしておこう。

Dsc_00402

 お城の前には説明版がある。

『この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。
 市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸よ南西から北東に向かって一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原形を失ってしまった。
 城史は、古代にさかのぼるとも言われるが、一般的には鎌倉時代期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永二十三年(1416年)ごろの上田上野介説などがある。しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、太田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
 この城が天下に知られたのは、今から四、五百年前の天文年間から永禄年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。のち豊臣勢に攻められ、天正十八年(1590年)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広一万石の居城となったが、松平家が慶長六年(1601年)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。

 平成十年三月  吉見町・埼玉県』

 よし、今度はちゃんと城に登れる靴を履いてこよう。

 で、実は東上線の東松山の駅を降りた時になんか既視感を感じたんだなあ。前に来たことがあるぞ……。

Dsc_00112

 で、帰りに駅前の商店街の方へ行ってみたら、ああ、そうか、何年か前にオリンパスペンFTを買いに来た大正堂写真店があるところだったんだ。

 ショウウィンドウを覗いたら、またまた欲しくなっちゃうカメラがあるなあ。

Dsc_00102

 う~ん、マズい、マズい。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Higashi-matsuyama ©tsunoken

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