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2017年5月

2017年5月30日 (火)

文京区大塚仲町

 文京区大塚仲町……、不忍通りと春日通りの交差点を現在は文京区大塚三丁目の交差点と呼ぶその交差点を、昭和41年までは大塚仲町交差点と呼ばれていた。現在でも65歳以上の文京区民は「大塚仲町」と呼ぶ。

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 春日通りの大塚駅側が大塚上町で、茗荷谷駅側が大塚窪町で、その「仲の町」という意味でもあったようだ。

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 交差点の東北側には本傳寺という日蓮宗のちょっと大きなお寺があって、寺内には波切不動尊堂があるのがまず不思議。波切不動というのは不動明王だから真言宗。それが何故日蓮宗のお寺に? 更に境内にはお稲荷さんもあります。

 まずます「???」なお寺なんだけれども、まあ、古いお寺なのでいろいろあるんだろう……、って解釈放棄(?)

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 で、一番上の写真の正面の坂、つまり不忍通りをそのまま行った、下の写真の坂が「富士見坂」といって、昔は富士山が見えたらしい。何かのテレビ番組でやっていたんだが、銀座から移転してきた不二家の本社がこの坂の上にあり、その会議室からは今でも晴天の日には富士山が見えるそうだ。

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 その富士見坂を下り切ると護国寺の正面に出てくる。

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 こちらは真言宗豊山派の大本山なんだけれども、不動明王はいません。

 なんだか訳がわからなくなってくる。

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NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Otsuka Bunkyo ©tsunoken

2017年5月29日 (月)

ツアー・オブ・ジャパン・総合優勝はチーム右京オスカル・プジョル・ムニョス

 5月28日はツアー・オブ・ジャパン最終東京ステージが行われた。

 ツアー・オブ・ジャパン自体は5月21日の堺ステージに始まり、京都、美濃、いなべ、南信州、富士山、伊豆と連戦してきて、最終第8ステージが東京ステージというわけ。

 いつもの通り日比谷シティ前をスタートした一団は大井埠頭の周回コースへ向かう。

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 大井埠頭の周回コースはほとんどフラットなコースなので、ここで何か大きな逃げが決まるということはなく、大体、第6富士山ステージの結果が総合優勝になることが多い。

 今年もそんな感じで、富士山ステージで2位に1分40秒の差をつけたチーム右京のオスカル・プジョル・ムニョス(スペイン)が、2位に1分22秒差で総合1位を守って最終東京ステージにやってきた。

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 要はムニョスとしては、トップから1分22秒以内で最終ステージをフィニッシュすれば優勝ってこと。

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 ということで、ここ東京ステージでも11~13人位の逃げ集団が形成されたのだが、集団はこの逃げを容認。ただし、およそ30秒程度の差は保ったままだ。

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 勿論、集団上位にはリーダー(グリーン)ジャージを着たムニョスがしっかり位置し、それをチーム右京軍団ががっちりガード。

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 ステージ優勝はヨン・アンデル・インサウスティ・イラストルサ(バーレーン・メリダ/スペイン)だったが、オスカル・プジョル・ムニョスはしっかり差をキープして総合優勝をモノにした。

 う~ん、それにしても片山右京の「お遊びチーム」だと思っていたチーム右京が、いつの間にかこんなに上位常連のチームになったということ。まあ、それに従って、次第に日本人レーサーがいなくなったのは、ちょっと寂しい。

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 更に残念だったのは、バーレーン・メリダにはランプレ・メリダからそのまま移籍している新城幸也が所属しているのだが、今回のツアー・オブ・ジャパンには参加していないということ。

 まあ、いろいろ事情があるんだろうけれどもね。

NIKON Df SIGMA DG 150-500mm f5-6.3 APO HSM @Shimbashi Minato, Ohi Wharf Shinagawa ©tsunoken

2017年5月28日 (日)

『アマゾンジャパン「日販バックオーダー発注」停止の真意』

 出版界唯一の専門紙『新文化』5月25日版のトップ記事が『アマゾンジャパン「日販バックオーダー発注」停止の真意』というもの。

 リードにはこう書く。

『さきごろ、アマゾンジャパンが6月末日で、日販バックオーダー発注(日販非在庫商品を出版社から取り寄せる発注のこと)を取りやめると発表した。カートが落ち(在庫が切れ)て売り上げが減少することが懸念される出版社は、アマゾンジャパンとの直接取引を迫られており困惑気味である。日販はすぐに、大変遺憾であるとの見解を発表した』

 日経新聞5月2日付のこの記事に対応した内容なんだが。

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 一体、どういうことなのか、解説しよう。

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 記事はアマゾンジャパンの村井良二バイスプレジデントと、同社メディア事業本部・事業企画本部の種茂正彦本部長への聞き書きによって構成されている。

種茂 日販には毎週、この銘柄であれば安定した売上げがありますという数十万タイトルのリストを提供し、それに合わせた品揃えを要望してきました。しかし、日販と定めた引当率の目標からは10ポイント以上の開きがあります。売上上位数社の出版社を中心に、スタンダード発注(日販在庫商品を仕入れる発注のこと)の引当率改善とバックオーダー発注のリードタイム短縮にご尽力いただき、一定の効果がありました。いまも感謝しています。売上上位出版社の引当率は高水準です。
 しかし、一方で、中小規模の出版社のスタンダード発注の引当率は改善されず、当社の注文がどんどんバックオーダー発注にまわってしまう。結果、中小規模出版社の売上げの4割が、現在バックオーダー発注からの仕入れに依存してしまっています。つまり、スタンダード発注しても、中小規模出版社の商品はバックオーダー発注でしか仕入れることができない状態です。売上上位出版社であってもロングテール商品は、スタンダード発注をしても、VANステータス11番台(「在庫あり」、その他、22番「重版中」、33番「品切・重版未定」など)であっても、バックオーダー発注にまわされてしまう。
 売上上位出版社の取組みによって全体の引当率は改善されていますが、個別銘柄単位ではスタンダード発注で入荷されない状況です。
     ~
 3月下旬に日販が棚卸をされましたが、そこですぐに引当てられる在庫を一時的に絞ったのではないかと思います。結果、4月2日の週から引当率が急激に下がり、バックオーダー発注の注文が増えました。当然入荷が遅れ、欠品率が上がりました。
     ~
 長い連休や棚卸時にも一定水準の在庫を持ってほしい。売上が毀損したのは当社だけではなく出版社も同じです。スタンダード発注で引当てられないからバックーダー発注に力を入れて「納期を早くしましょう」という態勢になっていますが、当社は日販に在庫をきちんと持ってもらうことを希望してきました。
     ~
 取次各社が在庫情報を機動的に交わしながら在庫をかかえていくのは、難しいことかもしれません。それは当社にとっても困難なことですが、e託販売サービス(直接取引サービスの名称)は2008年から継続しており、ネットやパソコンが苦手な方にも使いやすい受発注業務や、在庫情報更新の環境を提供しております。
     ~
 売上上位50社のうち30社がなんらかの直接取引を開始しています。全国4000社あるといわれる出版社のうち、2000社以上はe託販売サービスの口座をもっています。
     ~
 方法は①取次会社の在庫を増やす、②直接取引の2択だと思います。日頃、出版社はどれくらいの注文がバックオーダー発注に回ってしまっているのかご存じないと思います。そこは客観的な数字を説明会で示していきます。皆さん驚かれています。
     ~
 今回の件が報道された後、SNSで『よくぞ言ってくれた』という書店員さんの書込みも見つけました。取寄せ注文については、書店現場もフラストレーションを抱えているようです。業界全体にバックオーダー問題があるのではないでしょうか。出版流通の新しいあり方を考えるタイミングだと思います』

 種茂氏の発言はおおむねこんなところ。

 要は、現在書店店頭で書籍を注文すると、書店員から「いつ頃入ってくるかは分からないので、入ったところで電話でお伝えします」という返事が返ってくる。実はこれは書店だけで通用するルールで、本来は小売店の店頭で受けた注文に対して、いつ頃その注文品が入荷するのかがはっきりしない商品に関しては受注しないというのが、書店業界以外のデフォルトだ。

 今回のアマゾンジャパンの考え方は、そんな他の業界ではありえない「出版業界の常識」に正面から挑戦する考え方であり、まあ、それだけ強気の発言ができるという、アマゾンジャパンの力の強さの現れであるとも言えるのだろう。

 5月25日のブログでも書いたように、日本の書籍・雑誌の取次という存在は、実は最早撃滅寸前のところまで追い込まれてきており、とにかく早いところ体質改善を行わない限り、崩壊するのも時間の問題となっているのだ。

 日販がアマゾンジャパンに対して「大変遺憾である」という返答をかえしたそうだが、最早そんなことを言っている場合じゃないことを、実は日販自身が感じているはずである。

 どんな形で、日本の出版流通制度が変わっていくのか、かなり要注意ではあります。

2017年5月27日 (土)

『アップル帝国の正体』は見えた。しかし……

 本書が発刊されたのは2013年のことである。

 アップルのカリスマ的指導者にして経営者であったスティーブ・ジョブズが亡くなって既に2年が過ぎて、それでもいまだにアップルは勝ち続けているのだろうか?

『アップルは、もうあのジョブズがいたころのアップルではないのではないか──。  それは、その取材で会う人会う人から痛感させられた普遍的な「共通項」だった』

『ジョブズのいなくなったアップルは、断トツ抜きん出た存在から徐々に、しかし確実に、「普通に良い」企業へと変貌しつつある。
 少しでもコストの安い商品が勝つことが常識だったIT・家電産業において、アップル製品が、高価でも若者が飛びつくような魅力を生みだせた理由は、流行に左右されることのない圧倒的に美しいデザインと、ガラスや金属などが醸す上質な素材感だった。
 そのデザインを実現させるために、アップルはアジアの国々に散らばるメーカーを丹念に調べ上げることを厭わなかった。時にはベンチャー企業や、地方の零細企業まで探し出し、妥協なきハードウェアを作り上げることへの執念を見せつけた。手を組んだメーカーの技術や生産能力、コスト構造も完全に調べ尽くして、コスト管理を徹底した』

 つまりそれは「いまやアップルは普通の企業になった」ということなのだろう。

「今、アップルには、自分のキャリアに箔をつけるために履歴書に『アップル』と書きたいような人がたくさん集まってきているんです」

 というような証言が現地アメリカでも言われているのである。

Photo 『アップル帝国の正体』(後藤直義・森川潤著/文藝春秋社/2013年7月20日刊)

 本書の構成は以下の通り。

プロローグ アップル帝国と日本の交叉点
第1章 アップルの「ものづくり」支配
第2章 家電量販店がひざまずくアップル
第3章 iPodは日本の音楽を殺したのか?
第4章 iPhone「依存症」携帯キャリアの桎梏
第5章 アップルが生んだ家電の共食い
第6章 アップル神話は永遠なのか
エピローグ アップルは日本を映し出す鏡

 アップルが特別な存在だったのはいつ頃のことだったのだろう?

 1976年にスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックのふたりのスティーブによって生まれたアップル・コンピュータ。1985年にジョブズが追放されて1997年に復帰するまでは、マイクロソフトとは異なるOSを提供する、まさしくコンピュータ・メーカーだった。それも、自社工場でそれを製造することを第一義とした。

 それが変わったのが2001年のiPodであり、2007年のiPhoneであり、そしてまさしく正しい意味でのハンドヘルド・コンピュータであるiPadの登場だろう。

 つまりそれ以降のアップルは

『そして、巨大な自社工場を自前で抱えてこそ一流のメーカーなのだ、という固定概念を大胆にも捨てた。本社(だけ)は米国にありながら、世界中から部品を取り寄せて、それをコストの安い中国の巨大な工場群で組み立てた』

 というビジネスモデルを持った企業に変貌したのである。当然、日本の企業だって世界を相手にしなければ戦えない。戦えない以上は、そこにアップルという巨大なエコシステムを持った企業があれば、それとは付き合わざるを得ない。付き合う以上は、そんなグローバル・システムの中での戦いを余儀なくさせられる。そんな戦いを余儀なくされれば、当然そこには優勝劣敗のカンニバリズムが待ち構えているのであって、そこで自らが生き延びる方法を否でも模索し続けなければならなくなるのだ。そこで自ら新しい結論を見出せなければ、その企業は歴史から消えざるを得ないという資本主義の論理が待っているだけだ。

 問題は結構単純なんだ。グローバリズムっていうのは、ごく単純な資本の論理であるにすぎない。

 アップルもiPad、iPhone、iPodを生み出す前は「ちょっとイカしたコンピュータを作る会社」として、一部のマニア受けするメーカーでしかなかった。当時、OSはマイクロソフトがWindowsを提供し始めて、Mac OSも優勝劣敗の中でもがき苦しんでいたのである。現在の(いや「ちょっと前の」か)独り勝ち状態では決してなかった。つまりそんなグローバル経済戦争の中でアップルももがいていたのである。そのアップルがその後、一人勝ち状態になり、それまでお手本としていたソニーなどの日本メーカーを逆に飲み込んでしまってきたのもご存知の通りである。

『アップルの真の強みは、本来は、数字やデータなどの計算式では測ることのできない、市場が想定できないイノベーションの力にあったはずだ。しかし現実には、13年夏にも発表される新製品の投入を待たずして、こうした策が発表されたことが何よりも神通力の喪失を裏付けているのではないだろうか。 「アップルはもはや普通の会社になってしまった」  業界ではこうした声が当たり前のように語られるようになった』

 そのアップルにしてもジョブズ亡き後はこんな様子である。じゃあ、それに対抗して日本のメーカーが再興するのだろうか。

『この帝国(アップル:引用者注)を取材しながら、その支配力の根源にあると感じたものがある。
 それは次々と登場する新しい製造技術からソフトウェアの新潮流まで、貪欲に吸収しつづけることで、世界中をカバーする素晴らしい情報ネットワークを築いていることだ。  これは一つの「インテリジェンス(知性)」と言ってもいいかもしれない。
 その欠落こそが、日本の家電メーカーがめまぐるしく移りゆく家電・IT産業やビジネスのルールチェンジについていけず、凋落の道を辿っている理由ではないか』

 まあ、結局は日本のメーカーはいち早くアップル化現象を経験してきて、その結果を自らの再興に生かすことができないでいる。である以上は、いまや中国や韓国のメーカーに勝つ方法は既にない、ってことになるんだろうか?

『アップル帝国の正体』(後藤直義・森川潤著/文藝春秋社/2013年7月20日刊)

2017年5月26日 (金)

東京いい道、しぶい道

 ああそうか、泉麻人氏って「街歩きブームの先駆者」だったのか、知らなかった。といっても、もともと下落合っていう微妙な場所で生まれ育った泉氏ならではの視点がいろいろ見つけられて面白い。

Photo_2 『東京いい道、しぶい道』(泉麻人著/中公新書ラクレ/2017年4月10日刊)

 取り敢えず、どんな「いい道、しぶい道」があるのか、更にその中で私が辿ったことがある道はどれだけあるのか、目次から拾ってみよう(赤・太字で書いてあるのが、私が辿ったことがある道)。

Ⅰ 城北エリア
1 怪人オブジェの古道…尾久本町通り(前編) 2 尾久三業の仄かな面影…尾久本町通り(後編) 3 鬼子母神裏のクネクネ川道…雑司ヶ谷 弦巻通り 4 お化け煙突が見えた商店街…千住 いろは通り 5 ライオン看板の見える参詣道…西新井 関原通り 6 二又交番脇の裏街道…トキワ荘通り・千川通り 7 23区最北の銀ぶら…志茂銀座 8 キデンキの迷宮へ…柳原千草通り 9 巣鴨に江戸橋あり…江戸橋通り 10 昔のブクロ、ここにあり…池袋トキワ通り

Ⅱ 城東エリア
11 神鹿としめ飾りの里…鹿骨街道 12 影向の松と相撲寺…篠崎街道 13 水神前から浅間前…亀戸中央通り・水神通り 14 四ツ木の灸とハチミツ…渋江商店街 15 スカイツリーの裏町へ…十間橋通り・橘橋通り 16 谷根千境角蛇行散歩…へび道・よみせ通り

Ⅲ 城南エリア
17 シナノキ並ぶ銀座の間道…並木通り 18 高野聖と火の見やぐら…三田聖坂・二本榎通り 19 新幹線から見えるコアな道…西大井 のんき通り 20 黒い温泉街道…蒲田本町通り 21 文士も歩いた馬込の尾根道…仲通り・馬込三本松通り 22 龍子の屋敷から池上梅園へ…池上道(旧池上街道) 23 大森の海苔ノリ街道…三原通り・するがや通り 24 水止舞見物記…するがや通り・羽田道 25 目黒銀座の奥の細道…蛇崩・伊勢脇通り

Ⅳ 城西エリア
26 幻のオリンピックの面影…野沢通り 27 渋谷区の鳥頭地帯…幡ヶ谷 六号通り・不動通り 28 南中野のクネクネ街道…川島通り・玉石垣の道 29 阿佐ヶ谷からバスに乗って…旧早稲田通り(前編) 30 豊島氏の山と練馬アメダス…旧早稲田通り(後編) 31 ウルトラの道を往く(1)…旧東宝ビルド通り・祖師谷通り 32 ウルトラの道を往く(2)…祖師谷通り・千歳通り 33 世田谷線ゆるカフェ参道…松陰神社通り 34 西部のお屋敷町歩き…荻窪 荻外荘通り

Ⅴ 多摩エリア
35 新緑の三鷹ケヤキ道…人見街道(前編) 36 野川べりの水車小屋…人見街道(後編) 37 多摩の隠れ里・小野路へ…鎌倉街道・小野路宿通り(前編) 38 多摩の隠れ里・小野路へ…鎌倉街道・小野路宿通り(後編) 39 ヘー、こんな街道があるのだ…鈴木街道

 全部で39の道が紹介されているわけであるが、その内私が歩いたことのある道が21ある。これが多いのか少ないのかは分からない。が、こうしてみるとさすがに城北エリアや城東エリアは多いのに比べて、城南エリアが少なく、城西エリアはまあまあ、多摩エリアは広すぎて……、というところだろうか。

 城北・城東なんかは元々の「私のエリア」だったのに、まだ歩いたことのない道があるってことはちょっとショックだった。「雑司ヶ谷 弦巻通り」「志茂銀座」「柳原千草通り」「池袋トキワ通り」に「渋江商店街」か。今からでも遅くはない、すぐに歩いてみよう……、ったって、今日からは学生時代の悪友との福島行きだし、帰ってきてすぐはツアー・オブ・ジャパンの最終、東京ステージがある日なんで(人によっては日本ダービーなんでしょうが)行きたくても行けない。となると余計に行きたくなるってもんなんだが、まあこれは仕方がない。順次歩いてみようと思います。

 まあ、でも結構いろいろ歩いているでしょ。まだ未踏の道では、「新幹線から見えるコアな道…西大井 のんき通り」とか、「多摩の隠れ里・小野路へ…鎌倉街道・小野路宿通り」なんかも今すぐにでも歩いてみたい道ではあるなあ。

 まだまだ、東京にもいろいろ歩いてみたい道があるってことを教えてもらった。

 うん、いい本だ。

『東京いい道、しぶい道』(泉麻人著/中公新書ラクレ/2017年4月10日刊)

2017年5月25日 (木)

『フリマアプリで新刊も販売 メルカリ、トーハンと組む』って、そんなに記事にするほどのものかな?

 一昨日の日経新聞のタイトルが『フリマアプリで新刊も販売 メルカリ、トーハンと組む』というものなんだが、「まあそこまで来てるんだよなあ」という印象と、もう一方で「そんなの当たり前じゃん。いままでよくもまあ『取次制度』が生きていたもんだよなあ」という印象がないまぜになった感じだ。

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 まあ記事自体はそんな大したものではない。

『新刊の書籍をフリマアプリで購入できるようになる。メルカリ(東京・港)は漫画など新刊書籍販売で出版取次大手のトーハンと組み、今夏にも提供を始める。フリマアプリは通常、中古品を売買するが、利用者にとっては好きな作家の本なら新刊で、試しに読みたい本は安い中古でといった具合に購入時の選択肢が増えそうだ。
 メルカリの子会社ソウゾウ(東京・港)が5月に始めた、書籍やCDなどに特化したフリマアプリ「メルカリ カウル」で新刊本を取り扱う。通常は個人間で中古本などを取引するが、加えてアプリ運営会社が新刊を販売する。
 購入された新刊本の配送は、トーハンが外部の宅配業者に委託し、同社の物流拠点から利用者の自宅などに配送するルートを検討している。在庫がない場合は出版社から取り寄せる』

 その結果

『アマゾンジャパン(東京・目黒)などのネット通販が台頭するなか、取次大手も従来の書店を経由するルート以外での販路拡大を模索している』

 ということであり、それへの対応策っていうことなんだが。

『出版市場は1990年代をピークに減少を続けており、トーハンの2016年3月期の売上高は5年前に比べて1割ほど落ち込んだ。ネットで書籍を注文し、店頭で受け取る通販サイトを拡充するなど、支援策を積極的に実施してきたが書店の減少に歯止めはかからない。書籍の流通量を確保するため、新たな取引先を開拓する必要性に迫られていた。
 メルカリは主力アプリで国内4500万件のダウンロードがあり、ユーザーに姉妹版の利用も促していく。利用者数が多いだけでなく、10代や20代といった若者のアプリの利用も多い。書籍販売で手を組めば、普段書店を訪れない人も含め幅広い層と接点を持てるとみられる』

 というとところなんだが、じゃあ今後どうやって書店は生き抜ければいいのか、っていうと。

『出版業界では「出版社―取次―書店」という既存の流通構造が大きく変わろうとしている。ネット通販大手のアマゾンは取次会社や書店を通さず、出版社から本を仕入れ、消費者に販売する直接取引を推進している。
 アマゾンの倉庫に書籍を集めることで注文を受けてすぐに届けられるようにする。同社は6月末に取次大手の日本出版販売(日販)の一部取引を打ち切る方針を示している。ネットを通じて新刊の書籍を売る企業が増えると、既存の書店や取次業界に影響が出そうだ』

 う~ん、これじゃあ全然解決策にはなっていないじゃないか。

 ポイントは『出版業界では「出版社―取次―書店」という既存の流通構造が大きく変わろうとしている』っていうこと。

 実は日本における「出版社→取次→書店→読者」っていう書籍や雑誌の販売ルートって、なんだか昔からある確固たる流通ルートだと思っている人が多いんだが、実はそうじゃなくて、戦前の言論統制の結果生まれた一時しのぎでできた制度が戦後まで生き延びていたっていうだけのことなのである。

『日本出版配給が創立される以前、出版取次は四大雑誌取次(東京堂・東海堂・北隆館・大東館)の他、書籍取次や中小取次も合わせ全国に200社以上が存在していた。
 1940年(昭和15年)、日本政府は情報局指導の下、日本出版文化協会(文協)及び洋紙共販株式会社を創立して出版物の統制を行うようになった。次いで1941年(昭和16年)5月5日、全国の出版物取次業者240社あまりを強制的に統合した一元的配給会社として「日本出版配給株式会社」が設立された。資本金は1000万円。商工省及び情報局の指導監督、日本出版文化協会の配給指導の下、「日本文化の建設、国防国家の確立」をモットーに、出版社(文協会員)が発行する全書籍雑誌の一元的配給を担った』(Wikipedeiaより)というのが実際のところ。東京堂は現在神保町にある東京堂書店がその前身だ。

 当然そんな言論統制組織は戦後に解体されて、そこから大阪屋(1949年(昭和24年)9月6日設立)、日本出版販売(1949年(昭和24年)9月10日設立)、トーハン(1949年(昭和24年)9月19日設立)、日教販(1949年(昭和24年)9月20日設立)、中央社(1949年(昭和24年)10月7日設立)、栗田出版販売などが分離独立し、それに太洋社などを加えた七大取次の時代が大分続いていたのだが、次第にトーハンと日販の寡占体制になって行き、唯一特異な分野を扱っている日教販だけが別で、あとはほぼトーハンと日販に糾合されてしまっている、というのが日本の出版販売業界の現状なのである。

 まあ、言ってみれば、元々は日本中で勝手にいろいろな会社が雑誌や書籍の取次業をやっていたのが、戦前の言論統制の頃に日本で一社だけの独占業種になってしまい、その結果が戦後の日本においても、多少形を変えて生き残ってしまった、というのがちょっと前までの日本の出版販売業であり、実はこんな歪な業界は日本の出版業界だけの特殊性だったのである。

 講談社も何度か「取次制度」「書店制度」の殻を破ろうとしていろいろと試行錯誤をしてきた経験があるが、その都度、取次(取協)や書店(日書連)の反対に会って頓挫してきた。

 基本的に「取次業」なんてものがある国はない。要は力のある書店が一括で書籍を仕入れて自分のところの支店をベースに販売しているというのが普通の(国の)書店であり、地方の小さな書店だけが、卸売業者を通じで本を仕入れているというのが普通の(国の)出版販売業界なのである。

 そこに1998年にアマゾンジャパンが参入してきて、当初はトーハンから、次に大阪屋から書籍を仕入れるようになって、それが最近は直接出版社から書籍を仕入れるようになるところまで実力をつけてきた、っていうのが現状なのである。

 つまり「取次」っていう特殊会社が出版流通を牛耳っていたという、これまでの形の方が実は世界標準でいうとおかしいのであり、むしろアマゾンジャパンのおかげで「出版流通が当たり前の姿、本来あったデフォルトの世界になってきた」といってもおかしくない。それを『出版業界では「出版社―取次―書店」という既存の流通構造が大きく変わろうとしている』という言い方で表するってことは、あたかも『これまでの「出版社―取次―書店」という既存の流通機構』が正しい姿であり、アマゾンジャパンの存在は、そんな「正しい書籍の流通機構を壊している」という見方をしているんだろう。

 というかそんな『「出版社―取次―書店」という既存の流通機構』の中でぬくぬくと育ってきた日本の出版社や書店を守りたいがための記事か? とも受け止められてしまう。

 日経新聞がなんでそんな既存の出版社や書店を守らなければいけない立場なんだろう。むしろ、そんな「しがらみ」のない新しい社会の中で出版物を流通させるべくじゃないか、という立場から記事にすべきじゃないかとも思うんだが。

 如何?

2017年5月24日 (水)

初夏と初冬のルーティーン。でも「増し締め」はしません。

 車に乗っていると(と言っても私だけ?)毎年、初夏と初冬のルーティーン・ワークがある。

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 要はスタッドレスタイヤとサマータイヤの履き替えなんだが、話は2009年の11月にさかのぼる。その年の11月3日に新装なった山古志闘牛場のお披露目があったんだが、それを見に行こうと思って東京から車で行ったんですね。

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 ところが、えっ? 新潟県の山古志はまさかの雪? ってなもんで闘牛場まで数キロ手前でやむなく引き返してきたという経験がある。

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 以来、毎年11月になると早くもスタッドレスを用意して、後は新潟地方の天気予報を気にしながらいつ頃交換しようかな、てなもんである。

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 春は、毎年5月3日に初場所があるので、それまではまだ途中で雪があるかもしれないのでスタッドレス、それが済むとサマータイヤに交換って決めているのであります。

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 う~ん、ちょっと面倒くさいけれど、まあ、安全にこしたことはないので、毎年そんなルーティーン・ワークを行っている。

 まあ、それも以前なら自分でタイヤ交換位はやったんだが、その辺をサービスショップ任せにしているってところが、年をとった証拠かなあ。

 サービスで聴いたんだが、今は「増し締め」なんてやらないらしい。まあ、適正締め付けトルクってのがあって、その通りに締め付けておけば「増し締め」なんてしなくてもいいそうだ。昔はタイヤ交換した後は30~50km位走ったら「増し締め」をするようにって、教習所で教わったんだけれどもね。まあ、いまやホィールもアルミだから、あまりきつく締めてしまうと、ホィール自体にも無理がかかってしまうのかな。

RICHO GRD Ⅲ @Nishikata Bunkyo ©tsunoken

2017年5月23日 (火)

駒込・ご近所界隈

 この日は午後からマンションの管理組合総会があるので、あまり遠出はできなくて、ご近所のいつもの散歩コース「駒込周辺編」でございます。

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 駒込といっても文京区の駒込(本駒込)は下の一枚だけで、あとはみんな豊島区の駒込であります。

Dsc_00102 @Honkomagome Bunkyo

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 本郷通りをJR駒込駅前からそのまま旧古河庭園の方へ行くと坂を降りたところに、霜降橋交差点というのがある。昔、藍染川という川があって、そこに霜降橋という橋が架かっていたから着いた名前が霜降橋交差点というわけ。

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 藍染川は石神井川の支流で、不忍池にそそいでいた。現在の谷中よみせ通りやその先の「へび道」が藍染川が暗渠になった跡。

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 なので、当然、霜降橋の方まで降りてしまうと、その後は急な坂を上って駒込か巣鴨へあがっていくことになる。

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 まあ、ちょうどよい散歩コースではありますね。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Komagome Toshima ©tsunoken

2017年5月22日 (月)

三鷹、昨今

 三鷹と言えば、私としては「ああ、アキラスタジオね」ってことになるんだが……、それも既に今から30年も前の話だ。

 で、三鷹の駅から三鷹中央通りも、今や両側がマンションばっかりになってしまっており、30年前の様相とは大分異にしている。

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 でも、いまやなきアキラスタジオが二階に入っていた都民生協(いまは「コープみらい」って言うらしい)もまだ健在で、本来は二階も店舗らしかったらしいのだが、アキラスタジオの後にも店舗は復活せず、未だにどこかの事務所やスタジオが入っているらしい。今は「アトリエ コットンハウス Aya」というのが入っているらしいんだが、なんだかよく分からない。

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 まあ、その他唯一昔の面影があるのが禅林寺っていう、森鴎外や太宰治のお墓があるお寺と、その前にある床屋さんぐらいなものか。

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 で、三鷹中央通りの裏側にまわってみても、もう完全にこんな住宅街になってしまっていて、昔を偲ばせるものはない……、て思っていたら。

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 いやあ、どこか開発から取り残された一角があって、特にこの「ハルピン」っていう中華屋さん。30~40年ほど前に多かった中国の帰国子女が始めたお店で、餃子がおいしい店だったという記憶があるが、う~ん、いまでも残っていたか。

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 で、裏通りを三鷹駅の方まで来ると、アトラス三鷹レジデンスっていう新しいマンションがあるんだが、それについてはいずれまたお話をするとしよう。

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 ちょっと気にかかっていたマンションなんだ。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Renjaku Mitaka ©tsunoken

2017年5月21日 (日)

固定焦点レンズとズームレンズ

 この組み合わせ「ニコンDFAFニッコール 20mm f2.8 D」というのが、私の最近では一番多いカメラとレンズの組み合わせ。

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 どちらかと言うと広角レンズを使うほうが多いのだが、35mm、28mm、24mmと使っているうちに、結局一番スッキリする組み合わせが20mmということに、いつの間にかなってしまった。さすがに20mmになると、かなりの広角効果(ヒキ効果)のある写真が撮れます。

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Dsc_00162NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Azabu-Juban Minato ©tsunoken

 勿論、望遠系も持っているのだが、そちらは50mm、85mmで止まっている。まあ、それ以上になるとちょっと特殊なレンズという感じになってしまうなあ。

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Dsc_00672NIKON Df AF Nikkor 85mm f1.8 @Roppongi Minato ©tsunoken

 ということで、現在私が常用しているニッコール・レンズが、下の写真左上から時計回りに20mm、28mm、35mm、85mm、50mmの固定焦点のレンズ。この他には24-85mmの標準ズームと、スポーツ用のシグマ150-500mm望遠ズームがあるんだが、私にとってそれはあくまでも特殊用途のレンズであります。

 これ以外にもカミさんのニコンD7000用の18-105mm、70-300mmも持っているが、主に使っているのはカミさんなんで、私は使っていない。

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 まあ、基本的に標準ズームはあらかじめロケハンができないときのための、サブレンズっていう感じでしょうか。基本はあくまでも固定焦点のレンズ。なんでか? う~ん、今のズームレンズは性能がいいので、別に写り方が良くないってことはないんだけれどもね。まあ、基本的に、私の中に「ズームレンズは、レンズを決められない優柔不断のレンズだ」と考えているところがあるのかもしれない。まあ、昔の考え方ですがね。

 で、まあそんなことやっているから、一眼レフメーカーの思うツボで、レンズ資産をどんどん増やしていちゃうんだなあ。

2017年5月20日 (土)

武蔵松山城のはずが……

 東松山市に城跡があるというので東上線のTJライナー(に使う電車)で行ってきた。

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 行ってきたんだが、そこは東松山市ではなくて、東松山の駅から市役所を通り過ぎて、真っ直ぐ歩いて行って、吉野川を渡った吉見町の方だった。

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 吉野川を渡る橋を越えると「吉見百穴 吉見町 武蔵松山城」という案内が出てくる。吉野川を天然の要害として、吉見百穴の前にある山の上が武蔵松山城祉であります。埼玉県によくある「川と山」を組み合わせた「平山城」ですね。

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 道路沿いに塩船観音というのがあって、そこから城へ登って行けるようだ。

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 が、お堂の裏に上がってみると、こんな感じで登山道なんかも整備されていないままである。ちょっと普通の靴では上がりづらいなということで、今回はお城の下までということにしておこう。

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 お城の前には説明版がある。

『この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。
 市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸よ南西から北東に向かって一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原形を失ってしまった。
 城史は、古代にさかのぼるとも言われるが、一般的には鎌倉時代期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永二十三年(1416年)ごろの上田上野介説などがある。しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、太田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
 この城が天下に知られたのは、今から四、五百年前の天文年間から永禄年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。のち豊臣勢に攻められ、天正十八年(1590年)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広一万石の居城となったが、松平家が慶長六年(1601年)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。

 平成十年三月  吉見町・埼玉県』

 よし、今度はちゃんと城に登れる靴を履いてこよう。

 で、実は東上線の東松山の駅を降りた時になんか既視感を感じたんだなあ。前に来たことがあるぞ……。

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 で、帰りに駅前の商店街の方へ行ってみたら、ああ、そうか、何年か前にオリンパスペンFTを買いに来た大正堂写真店があるところだったんだ。

 ショウウィンドウを覗いたら、またまた欲しくなっちゃうカメラがあるなあ。

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 う~ん、マズい、マズい。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Higashi-matsuyama ©tsunoken

2017年5月19日 (金)

東京周縁部を往く・町田旧街道

 町田市を東京周縁部って言っちゃうと、何か文句が出てしまいそうだけれども、実はここもちゃんと東京都なんですね。西の方で多摩市とも繋がっていて飛び地でもありません。まあ、小田急線で来ると途中が神奈川県なので、そんな錯覚もおきてくるんだけれどもね。

 で、この町田市っていうのは実はかなり重要な場所だったのだ。

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 小田急町田駅の駅前には「絹乃道 此方 はちお〃じ 此方 よこはま」という碑とともに説明版がある。

『絹の道

 黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政六年(1859)に横浜が開港されると 日本から欧米諸国への輸出品の花形になった”生糸”は 主産地である長野・山梨や八王子から 町田を通って横浜へ運搬されました。
 新編風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは東西文化の交流を果たした中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
 そして原町田は 商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として 生糸をはじめ諸物資の集散地となり 繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
 この碑は歴史と伝統を受け継ぐ 原町田商人の証として 原町田誕生四百年を記念し 一番街商店会が建立しました。

 昭和五十六年十二月吉日』

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 ということで、小田急町田駅前に展開する現在の町田一番街商店街が「二・六の市」の中心として、旧町田街道の中の重要な町となったのだ。

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 旧町田街道は、南に1.5kmほど行くと、三塚というところで現在の町田街道に合流する。

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 合流地点の裏側(JR横浜線を挟んで反対側)には町田天満宮がある。結構、大きな神社で、多分、昔はこのあたりが町田の中心だったんだろうね。

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 小田急線の踏切を挟んで反対側にでると、そこは栄通りと名を変えて……

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 3kmあたり北上すると、今度は滝の沢で現在の町田街道と合流。

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 まあ、たかだか4~5kmの「旧町田街道」なんだけれども、東京都でありながら、東京からは離れている場所は、ちょっとした旅気分が楽しめる街ではある。

NIKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Machida ©tsunoken

2017年5月18日 (木)

やっと出てきた、真っ当な『琉球独立宣言』

 う~ん、いよいよ本命「琉球独立宣言」って感じですかね。

 実は、こうしたナショナリズムをベースにした考え方をしないと、解決するべきものも解決しないのかもしれないのだ。

Photo 『琉球独立宣言 実現可能な五つの方法』(松島泰勝著/講談社文庫/2015年9月15日紙版刊・2015年10月1日電子版刊)

 1970年頃の学生運動華やかなりしころの「沖縄問題」への左翼各派の主張って「沖縄奪還」とか「沖縄解放」という言い方で、そこには「沖縄を日本から独立させよ」という主張はなかったように思う。まあ、勿論、新左翼だって結局は日本国内の政党なわけで、その日本の政党が「沖縄独立論」を言うはずもないし、当然、その下部組織でもある各新左翼政党の沖縄支部(ってのがあったのかどうかはあやしいのだが)がそんな主張をするわけはなかったんだろう。でも、そんな新左翼の活動と共にしていながら、私の心の奥底では「いやあ、真の沖縄解放は『沖縄独立』でしょう」と考えて、太田竜、平岡正明、竹中労らのいわゆる「新左翼三バカトリオ」らの主張した「アイヌ独立」や「琉球独立」が正しいと考えていたんだが、そんな考え方は「ナショナリズムである」ということで、新左翼各党派からは退けられていたんだなあ。

 しかし、ナショナリズムをベースにしないインターナショナリズムっていうのは、コスモポリタニズム以外にはあり得ないだろうし、コスモポリタニズムではナショナリズムを相克することはできない。結局、インターナショナリズムというのはナショナリズムをベースにせざるを得ないわけで、その一番悪い例がソヴィエト連邦だっていうことなんだろう。結局はナショナリズムを相克できるインターナショナリズムもあり得ないということになってしまう。

 もし、ナショナリズムを相克するインターナショナリズムというのは、多少暴力的ながらもグローバリズムしかないのだろうし、インターナショナリズムに基づいた社会主義が実現せずに、むしろ結果としてグローバル資本主義が勝ち残っている現状を見るにつけ、結局はインターナショナリズムはグローバリズムには勝てなかったという現実しか見えないのである。

 であるならば、ここは堂々とナショナリズムをベースにして「琉球独立宣言」なのである。むしろ、その先にこそ国際的な平和主義の世界・時代がやってくるかもしれないのだ。

『つまり、「琉球」は、かつて国であったことを想起させる言葉なのです。琉球文化圏とは奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島などの歴史や文化を共有する文化圏です。この場合「琉球」は奄美諸島も含みます。しかし、1609年の島津藩の琉球侵略以後、奄美諸島は琉球国から切り離されて島津藩の直轄領になりました。1609年以後の時期において、本文中で使用される「琉球」は沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島を指しています』

『歴史的事実として過去に琉球国が日本に属しない、つまり領土ではない時期が長期にわたって存在していました。日本の統治時代は1879年から1945年まで、1972年から現在までの109年程度でしかありません。14世紀はじめに北山国、中山国、南山国という3つの国ができ、1429年に琉球国が統一されました。600年近く、琉球は日本国とは異なる国として存在していたのです。1609年に島津藩に侵略をうけ、それ以降、経済的に搾取されますが、王国体制は変容をとげながらも発展し、内政権、外交権を行使していました。「日本に属していた」のではありません』

『19世紀半ば、琉球は独立した王国であり、日本とアジア大陸との貿易に力を入れていた。1854年7月11日にマシュー・ペリー米提督が琉球との条約に署名した。他の欧州諸国も同じような貿易協定を結んだが、それは琉球の北方にある日本からの脅威を高める結果になった。1874年の終わりから、明治の日本帝国は琉球をより深く併合(incorporate)させ始めた。1875年に日本は琉球に駐屯部隊をおいた。1879年に日本政府は琉球を併合し(annexed)、琉球王国を廃絶させ、日本列島のなかの南の辺境として位置付けた』

『統治者の承認とは関係なく、琉球の国としての存在は歴史的事実であり、少なくともアメリカ、フランス、オランダ、中国は認めています。そのほか、かつて琉球国と外交関係を有し、貿易をした国々、韓国、北朝鮮、ベトナム、タイ、フィリピン、インドネシア、マレーシアなども琉球国の存在を認知するでしょう』

『明、清との朝貢冊封関係という外交的、経済的な対外関係を通じて、他のアジア諸国も琉球国を独立国として認め、外交文書を取り交わしました。中国との朝貢冊封関係への参入は、他のアジアの国々との外交と貿易を可能にしたのです。現在も残る『歴代宝案』という琉球国の膨大な外交文書を読めば、琉球が国であったことは明確です。明や清などの中国政府も、琉球を「外藩」として、朝鮮国、安南国(ベトナム)と同列の独自な国として認めていました。日本も遣隋使や遣唐使の時代、足利義満の時代は中国に朝貢しており、外藩の一つでした』

 ならば、そこは堂々と「琉球国」宣言を行うべきだろうし、本書の著者、松島泰勝氏らが発起人として設立しら琉球民族独立総合研究学会は、その設立趣意書に言う。

『琉球は日本から独立し、全ての軍事基地を撤去し、新しい琉球が世界中の国々や地域、民族と友好関係を築き、琉球民族が長年望んでいた平和と希望の島を自らの手でつくりあげる必要がある。・・・。琉球の独立が可能か否かを逡巡するのではなく、琉球の独立を前提とし、琉球の独立に関する研究、討論を行う。独立を実現するためには何が必要なのか、世界の植民地における独立の過程、独立前後の経済政策および政治・行政・国際関係の在り方、琉球民族に関する概念規定とアイデンティティ、琉球諸語の復興と言 語権の回復、アート、教育、ジェンダー、福祉、環境、マイノリティ差別、格差問題、在琉植民者の問題等、琉球独立に関する多角的および総合的な研究、討論を行い、それらを通して人材の育成を行う。 ・・・。学会の研究成果を踏まえて、国連の各種委員会、国際会議に参加し、琉球独立のための世界的な運動等も展開する』

 まあ、「政治活動」とは異なる部分から発した沖縄(琉球)独立運動というのは、多分、これが初めてではないだろうか。

『今、琉球は、「日本との一体化、格差是正」から「アジアとの連携強化」に軸足を移そうとしています。世界的に成長するアジアとの経済関係を深めたほうが、琉球が将来、経済自立できる可能性が広がることは明らかです。1970年代まで琉球よりも「経済レベルが低い」と思われた台湾や中国のほうが、はるかに力強く経済成長するようになりました』

 那覇空港という好立地のハブ空港をベースにした琉球経済圏というものを確立した方が、東南アジアにとっても、更に言ってしまうと日本にとっても、今後の発展に向けて良い歩みかもしれないのだ。

 まあ、問題は「米軍基地利権」のうまい汁を吸ってきた人たちが、これからどうするかっていうことだけで、それはたいした問題じゃないかもしれないのだ。

 だって、もともと沖縄(琉球)は日本じゃなかったんだから。

『琉球独立宣言 実現可能な五つの方法』(松島泰勝著/講談社文庫/2015年9月15日紙版刊・2015年10月1日電子版刊)

2017年5月17日 (水)

高崎線籠原駅……う~ん、地味な駅。という以外に……

 高崎線籠原駅って、熊谷からひとつだけ先の駅で、篭原以北は15両編成に対応できていない駅があるため、多くの15両編成の高崎線は、ここ籠原駅で前5両を切り離さなければならない、という結構重要な駅ではあるんだけれども……、なんか地味な駅だなあ。

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 熊谷駅と籠原駅の間には熊谷貨物ターミナル駅という貨物専用の駅があるんで、やっぱりそれなりに重要な駅なはずなんだけれども、でも、駅の存在自体が地味。

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 う~ん、駅前もなんか昭和30年代を思い出させる駅前通りだなあ。

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 更に、籠原駅の階段脇(というか、誰も入れない裏側)にはひっそりと篭原駅の説明版が、これまた地味に建てられているんだが、多分、これじゃあ読まれない?

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 なので、代読しましょう。

『篭原駅開設七十周年記念<高崎線は日本最初の私鉄として日本鉄道株式会社により明治十六年七月二十八日上野熊谷間が開通し即日熊谷駅が営業開始当時は上野熊谷駅間は一日二往復の運転であった。翌年明治十七年五月一日高崎まで延長になり同年六月二十五日熊谷高崎間の開通式が熊谷にて挙行され畏くも明治天皇には日本最初の私鉄開通式に熊谷駅御着親しくもその模様を天覧された。その后明治三十九年私鉄から省線へと改められ官営となった。当時日本最初の私鉄高崎線を選定された理由には安政年日本開港以来横浜港に於て生糸の一手貿易が行われた為め特に武州(北埼玉)上州(群馬)の養蚕地帯の生糸繭の生産が大きく生糸の安全迅速な輸送急務の為であった。当駅は明治四十二年十月開場であるが明治三十八年当地大正寺住職岡田契意氏中心になり近郷有志森田金次郎清水新七石丸春奄北爪茂重郎権田愛三栗原畄三郎氏等に図り大正寺に於て会合協議を重ね地元民の絶大な協力を得現在地に開場となりました。惟うに計画は交通の便殖産工業発達増進を図るにありたるも先住地元民の賢明なる百年の計を勘案されました事は今日の地域発展の礎となりました。吾々子孫住民は忘れる事なく先代の遺業に心をあらたに敬意を表したいものです。 沿革を誌し開設七十周年を記念す。
    昭和五十四年十月吉日 篭原駅開場七十周年記念事業 実行委員会』

 う~ん、これを読んでも高崎線の開業経緯はわかるんだけれども、肝心の籠原駅の開業経緯が分からない。おまけに、昭和54年に書かれた文章の割には、見事に句読点がなくて、判読するのにちょっと手間がかかる。

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 まあ、一軒だけ残されている蔵造りの家くらいが、なんとなく時代を感じさせる程度で……。

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NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 @Kagohara Sta. Kumagaya ©tsunoken

2017年5月16日 (火)

YEBISUのSNOBBISMが妙に好き

 恵比寿という街……、とうより恵比寿ガーデンプレイスっていう人工の町のスノビズムが妙に好きで困っているんだ。

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 恵比寿ガーデンプレイスっていうのは、1994年に、もともと恵比寿にあった(というかヱビスビールの工場があったので名付けられた恵比寿という街)サッポロビール(ヱビスビール)の工場と本社跡に、オフィスビル、デパート、レストランや集合住宅、美術館などを総合開発して、新しい街「恵比寿ガーデンプレイス」として売り出したのがスタート。

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 まあ、当時はそうした街そのものを総合開発するモデルケースはなかったので、皆が注視するなかでのスタートだったんだけれども。

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 まあ、結局は渋谷区、目黒区という立地の良さや比較的外国人の(欧米人の)住人が多い場所だったということもあって、なんか結構スノッブな街になっていったのだった。

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 まあ、私はここに東京都写真美術館があるということで、比較的来ることが多いんだが。

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 まあ、なんとなくその「生活感の無さ」みたいなのが好きなんだなあ。

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 生活感がないっていうことは、住んでいる人たちがよっぽど生活感がない人たちなのか、あるいはあまり住んでいる人がいないのか……

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 まあ、ガーデンプレイス以外の恵比寿の街は、それなりに生活感もあって、それはそれで好きなんですけれどもね。

 スノッブな街だなあ。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Yebisu Shibuya ©tsunoken

2017年5月15日 (月)

ふたつの『さっちん』

 最近は電子書籍ばっかりになってしまって書店に行かなくなってしまったと思われている私なのだが、決してそんなことはない。最近どんな本が出版されているのかを見るのに書店ほど便利な場所はないので、結構書店には足を運んでいる。

 が、考えてみれば新書やノンフィクションなどの書架・平積みは見ているが、そういえば、写真集関係の棚は、東京都写真美術館のミュージアムショップなどに行くことはあっても、書店ではあまり見なくなっているなあ。いかんいかん、ということなのでこの『さっちん』2017年2月28日刊というのが出たのは知らなかった。

 たまたま、最近、池袋の三省堂に行って見つけたのである。

Photo 『さっちん』(荒木経惟著/河出書房新社/2017年2月28日刊)

 荒木経惟氏は1964年(昭和39年) - 写真集「さっちん」にて、第1回太陽賞受賞によって世に出て、まさしく彗星のようにデビューしたフォトグラファーである。その1964年に刊行された『太陽』の復刻版(というか雑誌版の復刻書籍)が今年、出たのだ。

『東京オリンピックのあった1964年に、平凡社の第1回「太陽賞」を受賞して、受賞作を雑誌にグラビアで載せるって言われたんだけど、当時グラビア印刷はネガで入稿だとかで、紙焼きじゃなくてネガを編集部に渡した。そうしたらそれっきり、返ってこない』(平凡社版『さっちん』「あとがき」より)

 ということなので、私たちは「荒木経惟氏は平凡社「太陽賞」受賞でデビュー」ということは知っていたけれども、肝心の「さっちん」オリジナル版は見たことがないのだ。

 以前、唯一観たことがあるのが新潮社フォトミュゼ版「さっちん」だけなのだ。

『太陽賞に応募したとき、ネガを渡したんだけど帰ってこない。だからこの本は受賞の作品そのものではない。いやー、でも応募してない分の方が乱暴で元気だね。画面からはみ出てる。木村伊兵衛っていう人はなかなかな目利きでさ、太陽賞とったときに「このままいくと、紙芝居になっちゃう」って言ってるんだよね。正しい。おれもそう思う。というのはね、20点から30点でまとめろっていうコンテストなのよ。そうするとどうしても、1枚に要素がいっぱいはいっていないと、いっぱい語れないわけだよ。だから、選びがその方向になっちゃう。100枚くらいだったらさ、ここはこう息抜くなんてできるじゃない』(新潮社フォトミュゼ版『さっちん』「のぶちんが「さっちん」を語る――あとがきにかえて」より)

 ということなので、新潮社フォトミュゼ版『さっちん』の奥付ページには……

『本書は、千葉大学在学中の約一年間(1962年頃)に撮影された作品です。「アパートの子供たち」と題された膨大なネガ・フィルム、および、荒木氏自製のスクラップ・アルバム「さっちんとマー坊」の中から1964年・第1回太陽賞受賞作「さっちん」の写真を一部含み再編集しました』

 という但し書きが載っている。

 つまり、本来の「さっちん」に収録すべき材料はすべて新潮社フォトミュゼ版に収録されていて、その中から太陽賞として選ばれた作品群が平凡社版に掲載されているっていうことなのか。

 まあ、両者を比較してみると、確かにすべての要素は新潮社フォトミュゼ版に含まれていて、言ってみれば、そのエッセンスとして<さっちん>だけに拘って編集されたものが平凡社版らしいってことになる。

 まあ、同じ値段(税別1600円)なので、どちらを手に入れるかは読者の指向次第。

 コストパフォーマンスで見るなら新潮社フォトミュゼ版だし、太陽賞の考え方を見たいのであれば平凡社版でということになるのだろう。

 私のように両方買って見比べる必要は……、まったくありません。

Photo 『さっちん』(荒木経惟著/新潮社フォトミュゼ/2004年11月20日刊)

『さっちん』(荒木経惟著/河出書房新社/2017年2月28日刊)

『さっちん』(荒木経惟著/新潮社フォトミュゼ/2004年11月20日刊)

2017年5月14日 (日)

横浜の続き・山手だけどドルフィンには行かない

 横浜山手に行くためには、車で行くのでない限りはJR横浜線の山手駅か根岸駅で降りて、坂道をエッチラコッチラ登っていくしかないのであります。

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 まあ、その辺に山の上の人たちの「私たち下界の人たちと違うのよ」ってな、一種の「矜持」が働いてるのかな。だから、別に不便でも困らないっていうか。

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 で、山手駅から坂道を上がって、一番上がったところにあるのが横浜聖光学院で、この学校沿いに歩いていくと、旧横浜競馬場跡に至り、「山手のドルフィン」の前を通って、根岸駅へ下りていくんだが、今日はそっちへ行かない。

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 尾根沿いにずっと歩いていくと、NTTの横浜倶楽部なんてのがある。何なんでしょうかね。

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 もうちょっと行くと、今度は「YC & AC通り」なんてのがあります。「YC & AC」って何だ? 「横浜カントリー&アスレチッククラブ(英: Yokohama Country & Athletic Club, YC & AC)は、神奈川県横浜市中区にある会員制のスポーツクラブ」で、もともとは日本人は入れないクラブだったそうだ。

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 う~ん、そうか横浜のセレブは元々外国人であり、そんな外国人と普通に付き合っていた日本人ってことなのか。

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 江戸の山の手と言えば、基本的に武家屋敷であり武家がセレブの基本なんだけれども、横浜とはそこが違うところなんだなあ。まあ、京都に行けばそのこセレブはお公家さんで、侍なんて用心棒みたいなもんだしなあ。

 いろいろなところで、その地区のセレブってのも違うようで。

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 ってなこと言っている間に山の上の端っこにある横浜国立大学付属小学校の前にでてしまう。

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 そこから「ふぞく坂」という急坂を下りると、元の山手駅前に再び出てしまいます。

NIKON Df Af Nikkor 50mm f1.8G @Yamate Yokohama ©tsunoen

 

 

2017年5月13日 (土)

東白楽から反町・横浜まで

 以前、神奈川大学がどの辺にあるのか知りたくて、東横線の白楽から山沿いに歩いて東白楽まで歩いたことがある。

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 じゃあ、その東白楽から先はどうなっているのか? というのがテーマで歩いてみたのだが……

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 実はホンの少し歩いただけで次の反町駅についてしまった。

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 というか、東白楽からJRの東神奈川までが思ったよりも近く、更に東神奈川のホンのちょっと先が反町だったっていうわけ。

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 東横線の反町駅は山がちのところにあるのだが、一方、JRの方の反町は昔の海沿い、旧東海道あたりまで反町なんだなあ。もうすぐ行くと青木橋で、そこを真っ直ぐ行っても、左に曲がってもすぐに横浜駅。

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 まあ、さすがに私鉄の駅は駅間が短いんだなあ、と改めて認識させられたのでした。

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 広いと思っていた横浜だったんだが、意外と狭いところなんだ。

 というのは横浜駅周辺だけの話なんだけれどもね。

NKON Df AF Nikkor 35mm f2 D @Tanmachi Yokohama ©tsunoken

2017年5月12日 (金)

佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』って、別にめでたくないのは知っていますが

 考えてみたら佐藤愛子氏の作品はほとんど読んだことがなかった。

 勿論、佐藤氏が小説家の佐藤紅緑の娘で、お兄さんがサトウハチローだってことぐらいは知っているし、雑誌か何かでエッセイ位は読んだことがある。読んだけれども、なんか文句ばっかり言っているバアさんだなあ、何か保守的という印象しかなくて、その小説までは読んだことがない。直木賞受賞の出世作『戦いすんで日が暮れて』すら読んだことはなく、本書が最初で(おそらく最後の)佐藤愛子氏の本ということになる。

Photo 『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子著/小学館/2016年8月6日紙版刊・2016年8月19日電子版刊)

 私はまだ90歳になるまでは多少の時間はあるのだが、多分、別に90歳になったって別にめでたいこともないだろうし、単に死期が迫ってきているっていう位のことでしかない……、と勝手に思ってるんだが……。

『二十五歳で小説なるものを書き始めてから今年で六十七年になります。私の最後の長編小説「晩鐘」を書き上げたのは八十八歳の春でその時はもう頭も身体もスッカラカンになっていて、もうこれで何もかもおしまいという気持でした。今まで何十年も頑張ってきたのだから、この後はのんびりと老後を過せばいいと友人からもいわれ、自分もそう思っていました。
 ところがです。愈々「のんびり」の生活に入ってみると、これがどうも、なんだか気が抜けて楽しくないのです。仕事をしていた時は朝、眼が醒めるとすぐにその日にするべき仕事、会うべき人のことなどが頭に浮かび、
「さあ、やるぞ! 進軍!」
 といった気分でパッと飛び起きたものでした。しかし「のんびり」の毎日では、起きても別にすることもなし……という感じで、いつまでもベッドでモソモソしている。つまり気力が籠らないのです』

 う~ん、まあ、定年後の生活なんて、そんなもんです。

『そんなこんなで隔週ならば、という条件で書くことになったのですが、タイトルの「九十歳。何がめでたい」はその時、閃めいたものです。ヤケクソが籠っています。
 そうしてこの隔週連載が始まって何週間か過ぎたある日、気がついたら、錆びついた私の脳細胞は(若い頃のようにはいかないにしても)いくらか動き始め、私は老人性ウツ病から抜け出ていたのでした』

『人間は「のんびりしよう」なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてよくわかりました』

 まあ、「余生」なんですね。90歳になってはじめてやってきた余生。普通の人なら60歳とか65歳になってやってくる余生が、佐藤氏の場合は作家という定年のない職業を手掛けてしまったために、そんな年齢ではやってこずに90歳になって初めて「余生」というものに出会ってしまったというわけなんだ。

 佐藤氏は自ら書く。

『私は新聞の「人生相談」の愛讀者である。僅かな字数の中に時代とそこに生きる人々の人生が垣間見え、また回答者の回答にもその人の人となり、価値観、生きて来た軌跡のようなものがそこはかとなく窺われて興味深い』

 基本的にこの人は新聞情報がまず第一の情報源なんだなあ、と思っていたら……

『三月二十三日、テレビ朝日で「橋下×羽鳥の新番組始めます!」を見た。橋下徹といえば何年前になるか、テレビのバラエティ番組で軽いノリでふざけていた黄色いサングラスの若手弁護士だったのが、突然大阪府知事になり大阪市長になり、大阪の行政のドロ沼を引っ搔き廻していいたいことをいい、したいことをして日本中の注目の的になって何年か、そのうち政治というものに失望したのか、飽きたのか、そのへんの事情は私なんぞにわかるわけがないが、この度再転身して民間人に戻り、弁護士業を再開するのかテレビタレントになるのか、一擧一動が人の目を惹く人物である』

 とか……

『ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんが、息子さんの「ニンテンドー3DS」を真っ二つに折って壊した。平日のゲームは禁止という決りを九歳の息子さんが破ったからだという。  その顚末を高嶋さんが新聞のコラムに書いたところ、忽ちネット上で大炎上した』

 といった具合に、新聞から情報源がテレビに移動してきたみたいだ。う~ん、ますますダメな情報源(メディア)に近づいていくなあ。

『当節は人が顔を合せると「この頃のテレビはつまらないねえ」といい合うのが挨拶代りになっているが、それはどうやら制作にたずさわる人たち(構成作家? プロデューサー? ディレクター?)の「視聴者は他愛のないことを喜ぶ」という思い込みのためだろうと私は考える。
 例えば「中国の脅威への心構え」とか「マスメディアへの注文」とか「アメリカ大統領選への感想」少し砕けて「トランプというおっさんをどう思うか」でもいい。ヘソピアスやバスタオルの洗濯回数よりは中身が濃いと思うのだが、この国の大衆はそういうことに関心がない愚民である、と思いこんでいるかのようだ。失礼じゃないか』

「失礼じゃないか」と佐藤氏が怒っても、それは仕方のないことで、実際テレビの視聴者なんてそういう「クダラナイ」ことが大好きで、せっかく何かタメになるようなことをテレビで語っても、最早、皆そんなものには聞く耳持たないで、無視、無視。面白がるのはネットに上げて皆で炎上できるようなネタなんですね。

 最早、テレビの二次情報しか流通していないネットの世界では、何かものの役に立つような情報はほとんど流れてこずに、まあ、クダらないどうでもいいような話しか流れてこないのだ。

まさしく『ウェブはバカと暇人のもの』『今ウェブは退化中ですが、何か?』『ウェブを炎上させるイタい人たち』『ネットのバカ』という中川淳一郎氏が書く世界の情報の元は、みんなテレビなんですね。

 つまりテレビから情報を得ようとしないで、テレビは単なるニュース媒体としてのみ付き合えばいいということなんだけれども……、まあお年寄りにとって一番の情報収集の元が「テレビ」になってしまうんですね。

 あの佐藤愛子氏をもそうであったか、なんて別に慨嘆はしていませんがね。

 あまりいいことではありません。

「テレビはあくまでも二次情報」「ということは、基本的に『なくてもいい情報』」ということを肝に銘じておくことですね。

『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子著/小学館/2016年8月6日紙版刊・2016年8月19日電子版刊)

2017年5月11日 (木)

ニコンのこれまでの100年より、これからの100年の方が気になる

 ニコン(旧・日本光学)は、1917年(大正6年)7月 - 光学兵器の国産化を目的として、東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所の反射鏡部門を統合し、岩崎小彌太の個人出資により「日本光學工業株式會社(日本光学工業株式会社)」として設立された、まあ国策会社だったわけだ。軍艦に搭載される大砲の測距儀を作っていたのがレンジファインダー・カメラの基。

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 それが戦後になって平和産業として立ち直るために、その光学技術を生かしてレンズメーカー、カメラメーカーへと変貌し、現在では世界最高峰のカメラを含む光学メーカーになっているわけである。まあ、ディビッド・ダンカンのおかげ、っていう部分もあるけれどもね。

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 そんなニコンの創立100周年を記念して開催されている「ニコンミュージアム ニコン創立100周年企画展 第2回 カメラ試作機~開発者たちの思い」が、品川のニコン本社にあるニコンミュージアムで開催中だ。

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 その後のニコンの発展の基となったニコンF、最上級機で初めて電子シャッターを搭載したニコンF3、レンジファインダーカメラ・ニコンSPにTTL方式の露出計を搭載したニコンSPXなんかの試作機が展示されている。普通は新型機の開発が終わると、試作機は壊されてしまうので、ここに展示されている試作機は、数少ない貴重品ってことなんだろうなあ。

 気になったのはニコンSPXで、もしそれがが実用化されたらライカM3を超える当時最新型のレンジファインダー・カメラになったと思う。でも、その変わり世界を征服した、ニコンの一眼レフの歴史は逆に生まれなかったかもしれない。

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 もうひとつ面白かったのは、ニコンが中判カメラを試作していたってこと。ニコンと言えばライカ判フィルムのカメラというイメージだったんだが、まあ、まだフィルムの解像度が低かった時代には、プロ用カメラメーカーとしえては中判カメラも視野に入れなければいけなかったものと思われる。

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 が、まあ、それらの過去100年の栄光はもういい。むしろこれからの100年はどうなるんだろう。ハイエンド一眼レフばかり作っているわけにはいかない総合カメラメーカーとしては、そのラインナップにコンパクトデジタルも入れなければならない。しかし、今やそのコンデジ市場はスマートフォン搭載のカメラにまったくかなわない状況になってしまい、今期ニコンは赤字に陥ってしまっている。

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 新しいカメラ市場か、あるいはカメラに代わる市場が何なのか? それが問題だ!

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 ニコンミュージアムのお土産は、定番の「Nikonようかん」だ。 それは問題じゃない!

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Nikon Museum Shinagawa ©tsunoken

2017年5月10日 (水)

東武亀戸線は昔は東武線の本線だった

 ということで、今日は以前の通りの「虫瞰図」的写真です。おまけにモノクロです。

 いや、単に私がモノクロ写真が好きなだけですけれどもね。でも、モノクロ写真って「色彩」っていう情報が一つ無なくなっているだけで、カラー写真とはまったく別の写真になっていると思いませんか?

 で、本日のテーマ「東武亀戸線は昔は支線じゃなかった、本線だった」です。

 東武スカイツリーラインの曳舟駅と、JR総武線の亀戸駅を結んでいる東武亀戸線は、現在は全長たかだか4kmの東武線の支線なんだが、実は東武線の本線だった時代がある、っていう話は知っていましたか?

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 1904年(明治37年)東武線の亀戸ー曳舟間が開通すると、総武鉄道(現・JR東日本総武本線)亀戸 - 両国橋(現・両国)間への直通運転を開始し、同日開業した両国橋駅に乗り入れた。これにより、東武鉄道の吾妻橋 - 曳舟間は廃止され、亀戸 - 曳舟間が本線格の扱いとなった、ということなのだ。

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 その後、乗り入れていた総武鉄道の国有化を機に、ターミナルを吾妻橋駅に戻すことになり、1908年(明治41年)3月に吾妻橋 - 曳舟間が貨物線として再開。1910年(明治43年)3月に吾妻橋駅を浅草駅と改称して、同区間の旅客営業を再開すると、亀戸 - 曳舟間は支線となったのだった。

 いろいろな歴史があるんですね。

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 歴史と言えば、私の両親とも実家がこの曳舟・押上あたりにあって、今から50年以上も前の事、東武鉄道から突然私の家に手紙が来て、なんでもこの東武亀戸線の敷地の一部に私の知らない実家の一部が重なっていて、それを処理したいという主旨の手紙だったので、何らかの処理をした覚えがある。う~ん、そんなことばっかり調べて処理する部署が大東武鉄道にはあるんだな、ということを感慨深げに覚えた記憶がある。

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 ちょうど曳舟から小村井(おむらい)駅の辺りまでは、東武線と周囲のゴチャゴチャした民家がすぐに軒を並べている状態で、まあ、そんな感じの家のひとつだったんだろう。

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 小村井から亀戸寄りの東あずま駅、亀戸水神駅あたりは広い丸八通りが脇を走っていて、線路の周囲も広くなっている。

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 で、亀戸水神を降りればすぐにあるのが、亀戸水神宮である。亀戸天神ではない。多分、この周辺のお百姓さんたちが、中川の水害を防ぐために奉った神社なんだろう。天神様とはまったく由来の異なる庶民的な信仰を集めた神様なのだ。

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 亀戸水神を過ぎれば、すぐに亀戸駅に着く。昔はここから総武線に乗り入れていたんだな。

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NIKON Df AF Nikkor 28mm f2.8 D @Kyojima Sumida, Kameido Koto ©tsnoken

2017年5月 9日 (火)

東京鳥瞰図的ビュー

 ちょっと前、5月のある日、外に出かけた私は何気なく山手線に乗って浜松町まで出かけた。まあ、SUICAになってからというもの、電車に乗ってから行き先を決める、っていうやりかたが増えていかんなあ。

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 まあ、浜松町周辺、芝大門増上寺あたりとか、あるいは羽田空港あたりまで行って、適当なブログネタを探そうか、なんて浅はかな考えで行ったんだけれども、さすがに浅はかだったようで、浜松町で突然の土砂降りの雨。

 傘も持ってないし、シャツは半袖で寒いし、なあ。

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 で、そういえば浜松町の国際貿易センタービルの展望台って上がったことがないなあ、ってなもんで早速方針変更。

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 う~ん、こうやって高い場所から見る東京ってのも、普段はあまり目にはしていない風景だ。

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 っていうか、普段はこうした「鳥瞰図」的な風景よりは、地べたから見上げた「虫瞰図」的な画像ばっかり撮影しているもんなあ。

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 たまには、こうして上から見下ろしてみるっていうのも悪くはない。

 だからと言って、それで「世界が我が物になる」なんて気分には絶対にならないけれどもね。と言うよりも、そんな程度で世界を支配した気分になる人物ってもしいたとすれば、よっぽどのおっちょこちょいでしかないんだろうけれどもね。

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 ねえ、虫よ。君にはどんな風に世界が見えているのかなあ。

 教えて欲しい。

NIKON DF AF Nikkor 50mm f1.8 G @Hamamatsuchou Minato ©tsunoken

2017年5月 8日 (月)

う~ん、やっぱりパントばかりじゃ勝てないよね

 春のXリーグ公式戦、パールボウル・トーナメントBブロックはIBMビッグブルー、東京ガス・クリエイターズ、BULLSフットボールクラブの3チームで争われる。既にIBMに敗れているBULLS、これから2戦を戦う東京ガスということで、両チームともこの一戦がブロック2位を掛けた一戦になるというわけでいや応でも盛り上がるはずの一戦が昨日行われた。

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 BUULSのキックオフで始まった試合は第1クォーター(Q)最初のタッチダウン(TD)こそ防いだBULLSだったが、その後第1Q残り8分29秒でフィールドゴール(FG)を決められ、まず3点献上。

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 その後、BULLSが4thダウンでやむなくパントをしたその球を東京ガスがなんと、パントリターンTDという大技を決めて、第1Q2TD1FGの17点とされる。

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 その後、第2Qは東京ガス2TD、BULLS1TD、第3Q東京ガス1TDとなり、第4Q開始までに38対7という大量得点差となってしまう。

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 その間、BULLSにいいところがなかったと言えばそうではなく、まあそこそこ頑張っていたんだが、問題はパス攻撃が全然通らなかったことと、ラン攻撃も中央突破ばっかりなので距離が伸びず、結局、パントでシリーズを終える展開になってしまったことが多かった。

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 第4Qになってやっと歯車が回り始めたBULLS。2連続TDでもって合計21点まで挽回するものの、合計得点41対21という結果で、Bブロック3位が決定した。

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 う~ん、まあ、プロではないし、結構年寄りも多いBULLSプレイヤーはまあお楽しみでアメリカンフットボールを愉しめればいいのだろうけれども、ファンとしてはちょっと情けないなあ。

 次は6月17日のAブロック3位、警視庁イーグルスとの3位同士の交流戦だ。

 まあ、最終戦くらいは何とか勝利で飾ってほしいものであります。

NIKON Df SIGMA DG 150-500mm APO HSM @Fujitsu Kawasaki Staduim Kawasaki ©tsunoken

 

2017年5月 7日 (日)

河合継之助と山本五十六

 5月4日は闘牛は小千谷だけでいいという、同行のY川氏やT山さんのために、午前中は長岡市内を案内することにした。

 まず最初に行ったのが「長岡城址」(笑)であります。何故、(笑)なのかはいずれ謎解きをしますが、そんな「長岡城址見物」(大笑)の後は、長岡が生んだ二大英雄、河合継之助と山本五十六のそれぞれ記念館に行ってきました。

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 司馬遼太郎の小説「峠」で有名な河合継之助ですが、河合継之助と言えば「小千谷談判」ですね。徳川慶喜が密かに江戸へ帰順したのを知った、河合継之助は急ぎ長岡に帰り、戦支度と同時に、いかにして新政府軍と戦わないで済ませるかという方法を考えたのでした。

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 が、結局そのための交渉はわずか30分で決裂。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戊辰戦争へと突入するわけです。この交渉が後に言う「小千谷談判」で、結局、長岡藩は敗れるわけです。新兵器ガトリング砲をもってしても、新政府軍の勢いは止められなかったわけですね。河合継之助はそれを知っていた。

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 まあ、同じようなことが山本五十六の逸話にもあって、当初、日米開戦にはその圧倒的な戦力の差を知っていた山本五十六は反対していた。

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 しかしまあ、連合艦隊総司令官になってしまうと、そうそう反対ばかりしているわけにはいきません。

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 で、真珠湾攻撃はアメリカになんと言われようとも「奇襲作戦」で戦争のコントロール権を奪って、そのままミッドウェー海戦まで勢いでいってしまい、その直後にソ連に仲裁に入ってもらい日米和平というイメージを持っていたそう。

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 つまり、河合継之助と山本五十六は共通する戦略「短い勝ち戦を戦って、早期に和平へと持っていく」を持っていたということになる。

 この辺が長岡の人たちが河合継之助と山本五十六を郷土の英雄と讃える理由なんだろうなあ。

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 河合継之助記念館と山本五十六記念館はすぐそばにあり、山本五十六の傍の山本五十六記念公園には山本五十六の生家が復元されています。

NIKON Df AF Nikkor 24-85mm f2.8-4 D @Nagaoka ©tsunoken

2017年5月 6日 (土)

今更ながら「牛の角突き」って、何なんだろう?

 そういえば、いつごろから牛の角突きを見るようになったんだろう。

 ということで、以前書いたブログを読んでみた。と、2010年5月4日と5日のブログで、今年と同じ、5月3日の小千谷闘牛、5月4日山古志闘牛の両初場所について書いてある。

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 実はその5月4日の山古志闘牛の部分で、その前の年の11月3日に山古志闘牛場のお披露目の話が載っており、それまで山古志闘牛場の改装期間中は何回か虫亀闘牛場で行われた山古志闘牛を見に行ってて、なおかつ小千谷闘牛はこの日に初めて行ったようなことを書いてある。

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 ってことは私が越後の闘牛をはじめて観たのは2009年のいつかってことまでは分かった。

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 その後も、毎年新潟まで闘牛を見に行く度にブログにUPしていることはよく分かったんだが、いつの間にかわからなくなってしまったことが、「何故、私は闘牛を見続けているんだろうか」ってこと。

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「南総里見八犬伝」は闘牛を見るずっと以前に、小学生向けにダイジェストしたもので読ん覚えはある。が、そこに「越後二十村郷の牛の角突き」が書いてあることを知ったのは、むしろ闘牛を見始めてからのことだ。というかもしかしたら子供向けにカットされていたのかも知れない。

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「牛のぶつかり合い」に感動したんだろうか? というよりも、草食動物の牛同士がこんなに激しいぶつかり合いをすることが不思議でならなかった、という覚えはある。

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 そうか、越後の闘牛を見始めてから今でもつきまとっている疑問が「牛たちよ、お前たちは何故闘うのか?」っていうことだったんだなあ。

 それが牛の角突きを見続けている理由だったんだ。

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 それについての結論はいまだに見つかってはいない。

NIKON Df SIGMA DG 150-500mm f5-6.3 APO HSM @Yamakoshi Nagaoka ©tsunoken

2017年5月 5日 (金)

5月3・4・5日は牛の角突き初場所

「5月3・4・5日は越後牛の角突きの初場所だ」という書き出しで昨日のブログはスタートするはずだった。

 ところが、それが出来なくなってしまったのは、旅先にSDカードリーダーを持っていくのを忘れたというテイタラクの結果なのだった。

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 普段使っている家のパソコンにはSDカードリーダーが内蔵されているので、何となくそのままにして旅に出てしまったのだ。

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 ところが旅先に持って行っているLENOVO ThinkPad X121eには、当然SDカードリーダーが内蔵されていないので、旅に出るときはいつもSDカードリーダーを持参していくのが常なのだが、それを忘れてしまった。

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 牛の角突き自体は、5月3日が小千谷、5月4日・5日が長岡山古志と毎年決まっていて、春先になると、いよいよ闘牛の季節だなと準備を始めるのが常だったのだが……

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 今年は若干気の弛みからか、それを怠ってしまったのだ。

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 で、取り敢えず昨日は書き溜めていた分のブログからUPして……

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 今日、帰京してから慌てて書いているという次第。

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 まあ、牛の角突きについて詳しいことは明日からのブログをご期待いただくことにして……

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 取り敢えず、「まだ春」って感じの映像からご覧ください。

NIKON DF SIGMA DG 150-500 f5-6.3 APO HSM @Odiya & Yamakoshi Nagaoka ©tsunoken

2017年5月 4日 (木)

ベル&ハウエル ダブル・エイト 134

 昨日と今日は、小千谷闘牛と山古志闘牛の初場所で長岡に来ています。ブログにUPは5月5日のブログで……。とりあえずは行く前に書いた分で。何故かって? ある機材を忘れちゃったんですね、これが。う~む、痛恨のミス!

 えー、、今日は「世の中のクソの役にも8ミリも立たない」ブログなんです。単なる私の趣味。っていつもそうじゃないかよ、ってことは言わないの。

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 前にも書いたことがあるけれども、駒込駅前の「カメラのハヤシ商事」がここのところ表の左側のショーケースの上半分が8ミリ専用になっている。

 その8ミリ専用のショーケースで前から狙っていたのがこれ、「BELL & HOWELL 134」 なんであります。 この広角・標準・望遠の3本ターレットの8ミリって、要は16mmの「BELL & HOWELL FILMO 70DR」の8ミリ版なんですね。存在感がデカい。

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 私が学生時代にアルバイトをしていた日本テレビの報道部では、基本的にそのベル&ハウエル フィルモ70DRとアリフレックス16ST、それに出始めのキャノン・スクーピック16がサイレントの基本で、それとオーリコン16が同時録音撮影専用という感じで使っていた。当時はまだ「ベータ・カム」なんてものは登場以前で、ニュース取材の最前線は16mmサイレントのカメラだったんですね。

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 そんなわけで、私自身は会社のフィルモとかアリ16を「おもちゃ」にして遊んでいたのだが、同時にボレックスH-16という16mmカメラを個人で持っていて「現象学的なドキュメンタリーの試み」(なんのこっちゃ)なんていうタイトルの映画を作ってみたり、メーカー名は忘れたが、ダブル8やエルモのスーパー8でいろいろ撮影をしながら、「自分でも映画を作りたい」願望を一時的に抑えていたりしていたのであります。

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 で、巡り巡って巡り会えたこの「BELL & HOWLL 134」なんですね。レンズは「TAYLOR & HOBSON 0.5 inch F1.7/SEPITAL 1.5 inch f1.8/PELTAL 6.5mm f1.75」で、みればきれいだし、カメラ内部もキレイだし、ゼンマイも完全に大丈夫、OK! 完動品!

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 皮ケースだってミンクオイルでちょっと磨いてあげれば、こんな感じでしっかりしている。

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 まあ、一番大きな問題は「ダブル8」のフィルムを、日本では今やどこでも作っていないし、現像もしてくれないってことなんだよなあ、日本では。う~ん、これが残念!

 まあ、アメリカあたりでは今でも酔狂にダブル8のフィルム製造・現像をやっているところもあるらしいので、それを根気よく探すか。

 取り敢えず、6月10日の田中長徳氏の古稀のお祝いパーティーに持っていって「ダブルエイトの8ミリカメラをドアストッパーにしない市民の会」にでも入門させてもらおうかな。

2017年5月 3日 (水)

『不動産投資の始め方』

『ごく普通の会社員が不動産投資に踏み出している。年金減額など将来不安が背景にあるが、不本意な人事異動や降格をきっかけに勤め先への収入依存リスクを肌身に感じ、副業感覚で始める人も多い』

 というのは実際だろう。確かに「会社に依存して生きる」ということができなくなっている社会である以上は、会社からの給与以外の収入の途を作っておかないと、それこそ「いざ」というときの自分の道の選択に困るということになってしまう。

 企業の方も「従業員に対する生活保障」としての給与が保証できなくなった以上は、従業員に対する「副業禁止」なんて偉そうなことも言えなくなって、「おおいに自分で稼いでください。ただし自己責任でね」という方向に変わってきている。

Photo 『不動産投資の始め方』(週刊東洋経済eビジネス新書 No.197/2016年10月22日本誌刊/2017年3月6日電子版刊)

 んじゃあ、早速、私も不動産投資を……って考えても、どんな形での不動産投資が一番サラリーマンでも可能であり、ラクできるのかというのが大きな問題なんだなあ。

 実は私もサラリーマンの副業としては不動産投資っていうのは一番向いているんじゃないかとは考えている。株式投資やFXなんかをやってみたら、そりゃいつか紙くずになってしまうんじゃないかという不安につきまとわれながら、毎日の市況に注目していなければならない。それがデイトレードなんかになってしまっては、日がな一日パソコンに張り付いて、1円上がった、1円下がったでもって細かい売り買いをしなければならず、それでは完全にサラリーマンの副業とは言えなくなってしまう。

 そこへいくと不動産投資は

『不動産の実物投資は、ほかの投資対象と比べると高利回りなのが特徴だ。預金や国債は言うまでもなく、同じく不動産に投資するJ-REIT(不動産投資信託)と比較しても利回りは高い。しかも物件価格・賃料の値動きが穏やかなので、インカムゲインを主体に長期で資産形成していく手段として秀でていることも、会社員の関心を引く一因だ』

『株価の動きで儲けが大きく変わる株式と異なり、家賃収益は非常に安定している。東京都心なら家賃はこの20年でおそらく1割も下がっていない。入居があるかぎり価格下落局面でもインカムゲインを得られる。塩漬けという概念があまりない。
 しかも高利回りだ。以前よりもだいぶ下がったが、それでも不動産と同程度以上の利回りが安定して取れる国内の金融商品は少ない。価格も平成バブルの崩壊後は株と比べ乱高下が基本的にない。急な上昇がない代わりに急な下落もないので、安定投資をするイメージだ。
 何よりも不動産は現物があるというのが大きいと思う。株のように紙クズになることはない 』

 などなど、いいことだらけ……、だと思ったら大間違い。やはり不動産投資にもやっていい不動産投資と、やってはいけない不動産投資があるのだ。

 問題は「表面利回り」と「実質利回り」というやつ。

「表面利回り」は年間の家賃収入の総額を物件価格で割り戻した数字。「実質利回り」は年間の家賃収入から諸経費(管理費や固定資産税など)を差し引いたものを、物件価格に購入時の諸経費(登録免許税など)を足したもので割った数字。つまり「表面利回り」というのは、いかにもそれが収益であるように見えるけれども、実際にサラリーマン大家さんが手取りで受け取るのは、「実質利回り」の方。で、この実質利回りの諸経費の中に「銀行ローンの返済金」が入ってくると、これが結構「手取り押し下げ要因」になるってことなんだなあ。

『一棟所有のメリットは、1回の投資で複数戸を所有できることだ。管理費・修繕積立金制度がなく自分でコントロールが可能なこともある。
 何より一棟所有がよいのは土地の持ち分が大きいことだ』

『区分のメリットは、立地・環境がいい物件が多い点』

 なので、こんな形で始めるのもいいのかもしれない。

『慎重な人は、区分の現金買いから始めるのがいい。500万円くらいで利回り10%の物件を買い、1年ぐらい様子を見る』

 ただまあ、それは「表面利回り」に騙されないで、キチンと「実質利回り」でもってプラスが出る方法が見つかれば別に怖いことではない。

 だからと言って……

『一棟丸ごとへの投資に比べると少ない手元資金で始められる、区分マンション投資。中でも新築ワンルームの区分投資は、不動産業者のセミナーやこうした勧誘電話を通じて知った不動産業者を通じて行うケースが多い』

 そんな新築ワンルームマンションの多くは……

『理由は高い販売価格にある。特に電話勧誘で売るタイプの業者は、自分たちが得る利益分を価格に多く上乗せしているためかなり割高なのだ。
 中古物件を主に扱う別の業者の営業員に聞くと「彼ら販売会社の利益として400万円は上乗せされている」と明かされた。割高な分、ローン借入額と月々の返済額も多くなり、キャッシュフローが圧迫されてしまうのだ』

 ということなので、以上をまとめると……

〇区分マンション投資をできれば自己資金だけで始める
〇できればワンルームマンションではなくて、2~3LDKのマンションが良い
〇場所は、山手線管内のできれば駅のそば

 実は以上の条件は、私が不動産投資をした際の条件なのだ。

 たまたまそれまで住んでいたマンションを、ある事情で移らなければならなくなり、じゃあそこを売るよりは貸して副業を始めるのがいいんじゃないかという考え方からだったんだが、実にそれは当たりましたね。

 山手線管内の駅そばというのは、やはり入居者が決まりやすい条件だし、3LDKというのもなかなか入居者が見つからないで大変という部分がある反面、家賃の滞納とか、比較的長期の賃貸となるというメリットもある。

 まあ、取り敢えず借金して始めちゃうと大変なんで、はじめは小さいかもしれないけれども、自己資金で初めてみる、ってことですかね。一人息子と一人娘の結婚なんて例があったら、是非ともご検討を。

『不動産投資の始め方』(週刊東洋経済eビジネス新書 No.197/2016年10月22日本誌刊/2017年3月6日電子版刊)

2017年5月 2日 (火)

『フランスはどう少子化を克服したか』で見ても、とてもかなわないこと

 4月18日のブログ『結婚と家族のこれから』で「フランスや北欧って、どうやってその辺の問題を解決してるんだろう。 うん、次に読む本のタイトルが見えてきたぞ」なんて書いて、その結果読んだ本なんだが、う~ん、こうなると益々日本における「少子化の問題」やら「保育園落ちた、日本死ね」の問題の解決は難しくなることがよくわかって、ちょっと困ってしまう。

Photo_2 『フランスはどう少子化を克服したか』(高崎順子著/新潮社新書/2016年10月21日刊)

『フランスでは毎年9月、その年に満3歳を迎える子供、つまり2歳9ヶ月から3歳8ヶ月の子供たちが一斉に、「保育学校」に入学します。ここはフランス国内のすべての子供が入学できる週4日半・3年制の学校です。日本の文部科学省に相当する国家教育・高等教育・研究省(以下、国家教育省)の管轄で、義務教育ではないものの教育費は無料、2015年時点の入学率はほぼ100%となっています。数少ない例外は病気の子や、親の教育方針で義務教育までは学校に行かない、という子たち』

『朝8時半から夕方16時まで、3歳クラスはお昼寝がありますが、4歳からはそれもなくなって、生徒たちは読み書きの初歩や数字、体の動かし方、色の見分け方などを学びます。教える先生はもちろん、国家教員免状の保有者です。
 3歳から全入の学校があるということは、3歳児以上の「待機児童」はこの国には存在しないことも意味します』

 で、その結果

『フランスは過去10年、合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の平均数)を2.0前後で維持し、「少子化対策に成功した国」と言われています。週35時間労働制で働く父親・母親が家庭で過ごせる時間を増やしながら、多角的なサポートを強化して、いつしか西欧でも指折りの「子供が産める国・育てられる国」になりました』

 ということはよく知っているんだが、そのバックボーンの深さと言うか、歴史というものについては、完全に「彼我の違い」というものをどうあっても意識せざるを得ない。また、同時にそれは「民主主義」というものの社会での根付き方の違いとでもいうべきもののようである。

 まず、その歴史を見てみると……

『保育学校の歴史は1770年から記載されています。その起源は「紡績の学校」。紡績業の盛んだったヴォージュ地方で、工房で働く母親を持った児童たちを、司教オベルランが集めて面倒を見た場所でした。その後もカトリック教会と個人の慈善家が、放置された子供たちの世話をしてきましたが、その動きはあくまで単発にとどまっていました
 組織化されるに至った大きなきっかけは、隣の英国・スコットランド地方の工業地帯で1810年に作られた「インファント・スクール」です』

『この噂を聞きつけたのが、パリの富裕層の婦人たち。ロンドンに視察に飛び、教会の支援を得て設立委員会を立ち上げ、ロンドン方式を真似た定員80名の「保護室」を1826年、パリ中心部のバック通りに開設しました』

『その後様々な制度化が進められ、対象年齢の児童がほぼ全入となったのは、1958年』

『フランス教育制度の中でも評価の高い保育学校ですが、その始まりは篤志家たちの熱意でした。
 子供たちのために」という個人のシンプルな熱意から発した小さな学校が、支持を受けて全国に広がり、国がその価値を認めることで、万人の権利となったのです。
 このダイナミックな過程は、とてもフランス的なように感じられます。フランス革命の昔から、国を変えるのは一人一人の思いであると、この国の人たちは信じています』

 つまり、基本的には産業革命のときにそれは始まって、以降、女性が社会の中でどうやって活躍できるのかをずっと考えてきた世界なんだなあ。一方わが国では、産業革命の結果(といってもそれ自体が明治になってからなのだが)「女工」というものの存在が始まったものの、彼女たちを如何に社会のくびきから解放するかというよりは、結局「女工哀史」という悲しい文学作品だけを生み出したのみであって、それをきっかけに社会を変えていこうとする動きはできなかったわけだ。

 もうひとつは妊娠というものに対する考え方、というか妊娠した母親の権利の問題に関する違いかもしれない。

『それでも一つ確かなのは、この国でお産の形を決めるのは、産む女性たちだということ。麻酔で痛みを軽減するか、自然のままに産むか。そのどちらも強制されるのではなく、自分の意思で選べる。「お腹を痛めない」権利は誰にでもある。「お腹を痛めるか否か」は出産の形の選択であって、「子供を産むか産まないか」の判断とは、別の次元にあるのです』

『妊娠にまつわる表現にはこんなものもあります。「妊娠は病気ではない」。 「だから特別扱いする必要は無い」という意味と、「病気のように治せないのだから、いたわるべき」という相反する意味で使われていますが、フランスの場合は完全に後者です。妊娠が確定したときから医療面でのサポートはかなり手厚く与えられ、平均的なケアを受ける限り、「妊婦は医療費ゼロ負担」が基本。それは産む先が公立病院でも私立病院でも変わりません』

『このシステムは「妊娠は病気でない」ため、保険がきかない日本とは大きく異なります。日本でも自治体が発行する妊婦健診クーポンの綴りや、健康保険による一時金支払いなどがありますが、毎回の健診では基本的に支払いが必須です』

『医療費無料は子供たちも同じで、退院1週間目の初回小児科健診を含む、6歳までの20回の健診、2歳までに4回、そのあと6歳までに3回の発達診断、1歳までに3種類の法定感染症のワクチン、のすべてが保険でカバーされます(前記以外の13種類の義務・推奨ワクチンは自己負担35%)』

『誰がどうやって、この医療保険を維持するお金を払っているのでしょうか。
 ざっくり結論を言ってしまうと、その担い手は民間企業と世帯です。フランスの医療保険は社会保障制度の一環で、その運営費は老年保険、医療保険(疾病、出産、傷害、死亡、職業病)、家族手当、住宅支援基金、労災保険と取りまとめて管理されています』

 で、結局は『フランスでは毎年9月、その年に満3歳を迎える子供、つまり2歳9ヶ月から3歳8ヶ月の子供たちが一斉に、「保育学校」に入学します。ここはフランス国内のすべての子供が入学できる週4日半・3年制の学校です。日本の文部科学省に相当する国家教育・高等教育・研究省(以下、国家教育省)の管轄で、義務教育ではないものの教育費は無料、2015年時点の入学率はほぼ100%となっています。数少ない例外は病気の子や、親の教育方針で義務教育までは学校に行かない、という子たち』なんだから、こりゃ誰でも安心して子供を産むことができるし、同時に仕事をいったん休んでもすぐに復帰できる状況が作られているわけだ。

 はたして日本でこうした制度が落ち着くまでには何年かかるんだろう。

『フランスはどう少子化を克服したか』(高崎順子著/新潮社新書/2016年10月21日刊)

2017年5月 1日 (月)

尾久駅、そして尾久三業

 上野駅から東北本線(高崎線、宇都宮線)に乗ると日暮里辺りから斜め右に折れて、次の駅は尾久駅である。

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 尾久駅は京浜東北線の上中里駅と操車場を挟んで東側にあるんだが、その上中里駅と京葉線の越中島駅と、この尾久駅がJR東日本の東京都区内の最少利用客数を争っているそうだ。

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 まあ、確かに駅前の明治通りを見てもあまり交通量は多くなくて、何となく「さびれてる町」って感じでしょうか。

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 ところが、その明治通りを少し田端方面へ行くと「右 西新井大師道 約六十三丁 左 王子稲荷道 約二十七丁」という道標がある。

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 で、西新井方面へ行ってみると「小台銀座」という名前と一緒に、下の方に「旧小台通り」っていう案内が出ている。

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 歩いてみると、いかにも昔の道らしくぐにゃぐにゃ折れ曲がっていて、飲み屋さんやスナックなんかが多い。ってことは、ここが大正時代にラジウム温泉が出て、「尾久三業」と呼ばれた地域なんだろうか。

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「尾久三業」と言えば「安倍定」さんで有名なところだ。

 今となっては安倍定さんが安倍定事件を起こした場所を特定することはできないが、まあ、そんな時代と事件が、こうした街にあったんだ、ってだけでも感慨深いものがありますな。

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 荒川区の西尾久二丁目から四丁目のあたり。まあ、今ではまったく当時の名残はありませんけれどもね。

NIKON Df AF Nikkor 20mm f2.8 D @Ogu Arakawa ©tsunoken

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