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2017年4月25日 (火)

「ゴースト・イン・ザ・シェル」それは「Ghost in the Shell」なのか「攻殻機動隊」なのか

勿論、原作コミックがあって、先行する劇場版アニメがあって、テレビシリーズ、OVAシリーズ、もう一つ別の監督が作った劇場版がある本作であり、それらを比較することに何の意味もないことは分かっている。

 が、しかし、それら先行する映像がある以上は、見ていてどこかそれを比較したくなってしまうのだ。つまり、ヴィジュアルにおいて、ある種の映像はある種の映像を継ぐものであり、あるいは否定するものでもあるということ。

 ここでは先行する二つの劇場版、押井守版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」「イノセンス」そして、原作コミック「攻殻機動隊」を考察することにする。TVシリーズやOVAシリーズは(当然のことながら)草薙素子の「ゴースト」は所与のものとしてあり、それを巡っての考察よりも、むしろそれを所与のものとした「探偵あるいは警察シリーズ」だからだ。

 むしろ重要なのは「ゴースト」なんだからね。

3 『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊』(原作:志朗正宗/監督:ルパート・サンダース/脚本:ジェイミー・モス、ウィリアム・ウィーラー、アーレン・クルーガー/製作:アヴィ・アラッド、アリ・アラッド、スティーブン・ポール、マイケル・コスティガン/製作総指揮:ジェフリー・シルバー、藤村哲哉、野間省伸、石川光久/©2017PARAMOUNT PICTURES ALL RIGHT RESERVED/主演:スカーレット・ヨハンソン)

 押井守はプログラムに書く。

『デジタル技術を使って、実写を素材にしてアニメーション映画を作る。自分はその発想の一端は『AVALON アヴァロン』(01)で実践したのだけれど、『ゴースト・イン・ザ・シェル』ではそれを質・量ともに圧倒的な形で行っていました。その点で、ジェームズ・キャメロンの『アバター』(09)をはじめて観た時のインパクトも思い出しましたね。
 さらに驚かされたのがスカーレット・ヨハンソンの演技。自分の中で彼女の印象が完全に上書きされましたね。
 彼女の演技がよかったのは「全身義体」として演技をしていたところです。しかもそこに、義体である自分の身体に対する戸惑いも滲んでいて、それが全編を通じて一貫している。彼女の演技によって、このデジタルな映画に魂=ゴーストが宿っていました。ああいことができる役者は滅多にいません。
 こういうことに冒頭10分ぐらいで気づいた。だから、20年前のアニメーション映画のシークエンスのコピーをやっていようがいまいが、この映画の真価とはまったく関係ない――という気持ちで観終わりました。
 1995年に『GHOST IN THE SELL/攻殻機動隊』を監督した時に描こうとしたのは、決してサイバー社会の危険性などではありません。描きたかったのは「身体論」。人間はなぜ身体を再獲得する必要があるのか。「攻殻機動隊」という原作を通じてそこに迫ったのです。これは古典的といえば古典的なテーマだけれど、同時に普遍的でもあるテーマです』

 原作コミックにおいて「魂」「ゴースト」というものは、あらかじめ所与のものとして取り扱われている。つまり、それは連載物(毎週連載ではないが)としては当然の扱いで、いちいち毎週「ゴーストとは何か」「魂とは何か」について語っている場合ではない。取り敢えず「所与のもの」としての「魂」や「ゴースト」についての疑問はさておき、ポイントは「警察モン」としての体裁を如何にして作り、毎週毎週の読者を獲得していくのかということなのである。これはTVシリーズやOVAシリーズも同じ。まあ、「連載物」としての宿命だろう。

 その「魂」や「ゴースト」に真っ向から立ち向かっていったのが、押井守版「攻殻機動隊」、つまり『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』であり『インセンス』なんだろう。特に『イノセンス』では、そのテーマが、そちらのテーマが大きすぎて、少し消化不良を起こしていた向きもある。多分、それは「あらかじめ『所与』のものとして与えられていたテーマ『魂』や『ゴースト』を、原作からそのまま引き継いで、映画のテーマと使用した姿勢からくるものだ。

 一方、本作『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊』では、実は「少佐」が草薙素子になる前の姿を描いている。基本的に、映画の製作者は「原作を別の解釈」で映像化して見せたり、あるいは原作の続編(シークェル)として映画を製作するのだ。しかし、ルパート・サンダースとその製作チームはそうした映画製作とは全く異なった方法論で行ったのだった。

 つまり、それは原作の前編(プリクェル)、如何にしてその原作に至ったのか、というある種不遜な態度で原作と向かい合うという姿勢だ。つまり、「少佐」は母なる存在=オウレイ博士によって、別の記憶を植え付けられ「少佐」となり、公安9課の兵士となる。しかし、昔、彼女とともに反政府活動を行ったクゼと共に捕らえられ、クゼは失敗した実験の結果、身を隠し、密かに反逆の道を探っている。一方、「少佐」は同じく失敗に終わった「プロジェクト2571」の結果、別の女性の過去にまつわる「記憶」を植え付けられ、しかし、同時に少佐の真の過去にまつわる「鍵」だけを、密かに「少佐」に与えていたのだ。それが「クサナギモトコ」という「ゴースト」なのだ。

 つまりここで実写映画版『GHOST IN THE SELL』は実にプラグマチックに「ゴースト=魂」論や「ゴースト≠魂」論を乗り越えてしまったのだ。つまり、それはスカーレット・ヨハンソンという「実体を持った肉体」を獲得せしめてしまったことによる。押井が『1995年に『GHOST IN THE SELL/攻殻機動隊』を監督した時に描こうとしたのは、決してサイバー社会の危険性などではありません。描きたかったのは「身体論」。人間はなぜ身体を再獲得する必要があるのか。「攻殻機動隊」という原作を通じてそこに迫ったのです』とそこに書くとき、それは決して「実体としての身体」を持たないアニメーション表現において、如何にしてそれを描くのかということが大きなテーマとなり、、そkで発見したのが、映像を作るときには「どんな嘘でもついていい」ということである。

 したがって、やはり押井が言うように『20年前のアニメーション映画のシークエンスのコピーをやっていようがいまいが、この映画の真価とはまったく関係ない――という気持ちで観終わりました』という、ある種の実写映画版『GHOST IN THE SHELL』に対するアニメーション映画版『GHOST IN THE SHELL』の勝利宣言でもあり、更にその一方、原作ありきの映像表現において、そんなつまらない「本家争い」をしたって何の意味があるんだ。所詮、原作コミック『攻殻機動隊』と、アニメーション映画『GHOST IN THE SHERLL』と、実写映画版『ゴースト・イン・ザ・シェル』は別の作品であるのだからね。というようなことを言っているんだ、

 まあ、その辺がイギリス生まれの映像プラグマチスト、ルパート・サンダースには理解できないことなのかもしれない。

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