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2017年1月26日 (木)

『その後の慶喜』っていうより、その「余生」の過ごし方だよなあ

 でも凄いですよね、天保8年(1837年)に生まれ、徳川15代将軍として大政奉還をしたのが、慶應3年(1867年)、徳川慶喜30歳の時。で、大正7年(1913年)に亡くなったというのだから御年76歳、実に46年間の間、徳川慶喜としては「余生」だったんだなあ。

 61歳で定年となり現在65歳という私なんか、まだまだ余生は4年間。こりゃあ徳川慶喜に見習っていろいろなことに挑戦しなければ、ってな感じになりますな。

Photo 『その後の慶喜』(家近良樹著/ちくま文庫/2017年1月10日刊)

 で、「余生」ということになると、「趣味」ということになるのだが。

『明治五年の正月一日より始まる「家扶日記」からは、謹慎が解かれてから二、三年経過した段階の慶喜が、驚くほど多彩な趣味の世界に入りびたっていたことが判明する。明治五年中だけをとってみても、銃猟・鷹狩・囲碁・投網、それに鵜飼いまでもやっている。ついで同六年以降の日記を見ていくと、謡や能・小鼓・洋画・刺繍・将棋等が新たに加わる、また、時に鰻釣りも城内(いまの駿府公園)の濠でやっている。真に幅が広く活発な趣味の世界であった。なかでも壮年時代の慶喜が熱中したのは、銃砲(西洋銃)による猟と鷹狩と投網であった。狩猟の範囲は近村から安倍川尻にまで及び、清水湊での投網には明治初年当時静岡ではまだめずらしかった人力車ででかけた。そして、最盛期には連日のように外出し、日が落ちるまで邸には帰らなかった』

『ことに写真は本格的で、本職の写真師の指導を受けつつ近村遠地の風景はもちろん、家族や女中おも被写体にした。それに飽きると生け花まで撮ったというからよほど好きだったのか』

『また、前田氏が紹介する明治二〇年二月五日付の『静岡大務新聞』によると、慶喜は、「昨今自転車を好」み、「日々運動のため洋服を着用して市中を乗り回」していた(これはおそらく明治十年代に彼が乗っていた「鉄輪の自転車」のことであろう)。そして静岡には、「いまだ適当な自転車」が「無」かったので、「一両三百円にて東京へ発(注)したという。しかもsれは、慶喜用のみならず、厚・博のふたり分もふくめてであった(『慶喜邸を訪れた人々』百二〇頁)。もし新聞が伝える値段が正確だとすれば、自転車だけでも計九百円もの大金を支出したことになる』

『(三遊亭)円朝の来邸を聞かされた慶喜は、「久々にて(円朝が)出頭の事に付、講談御聞き遊ばさるべき思し召しにて、滞岡日数および興行時間等御尋置きあい成たし」との「御沙汰」を側近の者に伝える。すなわちひらたく言えば、円朝の講談を聞きたいので、興行日程や時間を知らせろ、そひて都合をつけろとの要望であった。慶喜は慶喜で、一期一会ともいってよい初度の接見で、円朝の人柄や噺ぶりに心惹かれるものがあったのだろう』

 そして再び東京に引っ越したのちは巣鴨、小日向へと移り。

『また、これは、なんとも微笑ましいかぎりであるが、大正元年の終盤に自動車を手に入れた慶喜が、息子(慶久)とふたり、自動車に夢中になっている姿である』

『それはさえとき、大正元年の一一月一六日に「自家用乗用自動車」の「使用届および自動車運転士免許証下付願」を警察署に提出した慶喜は、認可されると、すぐに息子の慶久を二人で翌々日の一一月一八日自動車に同乗して、田安邸と千駄ヶ谷の家達邸に喪中の挨拶に訪れている。そして、同月二一日に今度は警視庁に「自動車の件で出頭」したあと、二三日に自動車でやはり華頂宮邸を訪問し、帰途、病院に入院中の娘(国子)を訪ねた。
 さらに一二月四日と一一日には自動車に乗って参内し、ついで同月一九日には神奈川県の国府津(今の小田原市国府津)に出かけるため、自動車で新橋駅へと向かった(晩年の数年間、慶喜は厳冬期を迎えると、避寒を目的に大層気に入った神津の大鳥冨士太郎(父は大鳥圭介)男爵所有の別荘に行った)』

 銃猟・鷹狩・囲碁・投網・鵜飼い・謡や能・小鼓・洋画・刺繍・将棋・鰻釣り・写真・講談・自転車・自動車とまあ、何種類の趣味を持っていたんだろう。写真・自転車・自動車・牛の角突きそれとブログなんていう私の趣味なんて足元にも及ばない多彩さであります。

 勿論、大政奉還をおこなった将軍としては、一切、政治には関わらないどころか、政治にかかわる発言すらも自ら禁じているっていうのは、一種の男の矜持ではあるのだろう。当然、大政奉還に関しては、それに反対していた武士も数多くいたわけで、そうした武士に対して政治にかかわる発言をしてしまったら、反撥もあったろうし、あるいは武士たちの明治政府に対する反乱のもとになっていたかもしれない。

 更に、そうした多彩な趣味を行うことが可能になったほどに、徳川家の財政が豊かだったということも考えられる。まあ、それは当然幕府の主だったわけでそれなりに財政は大きかったはずである。明治政府によって取り潰されたとはいえ、そこはそれそんな目にあっても、まだ財政は豊かだったんだなあ。

 まあ、それはいいとして徳川慶喜の趣味になくて、私の趣味にある「ブログ」ってどうなんだろう。パソコンなんてなかった時代だったわけなので、慶喜がブログなんてものは知らなかったのは当然なんだが。「仮に」もしあったとしたら、自分の趣味をブログにUPしたんだろうか。

 まあ、やらなかっただろうなあ。もしやったとしたら、やはり自分の趣味の世界だけじゃなくて、何らかの政治的発言もしたくなっちゃうだろうし、それでは矜持を破ってしまうことになる。

 まあ、ブログなんて所詮は「ごまめの歯ぎしり」。私みたいな「名もない庶民」がやるのが一番だってこと。

 えっ? じゃあアメリカの大統領がやるTwitterって何なの? って? っへ?

Dsc_00012巣鴨駅の傍にはこんな「徳川慶喜屋敷跡地」の碑が立っています。

『その後の慶喜』(家近良樹著/ちくま文庫/2017年1月10日刊)

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