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2016年7月27日 (水)

横浜市西区平沼商店街は横浜道

 横浜駅東口を出て西の方に向かって歩いていくと、新横浜通りの平沼一丁目交差点に出る。その新横浜通りの一本裏の道が平沼商店街である。

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 商店街といっても、もうかなりすがれっちまった商店街で、商店なんてほとんどなくなってしまっている。

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 商店街の長さも敷島橋というところから東海道線の線路まで数百メートルという規模なんである。

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 が、この平沼商店街、実は昔の街道「横浜道」の一部だったんですね。

Dsc_00082

 その証拠が平沼商店街の敷島橋から反対側、平沼商店街が終わる東海道線の脇にある横浜市の説明板。

『安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川県(横浜)の開港を翌年6月と定めました。
 しかし、ミナト横浜の町づくりは開港3か月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況でした。
 当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便だったため、幕府は、東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内)に至る「横浜道」と呼ばれる道路を開きました。
 この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路(現在の平沼商店街を縦断していました。平沼水天宮はこの道のほとりにありました。)を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼(現元平沼)、石崎(現敷島)の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものです。
 記録によると、当時の橋の幅員は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度の幅員だったと考えられます。工期は3か月の突貫工事で、橋材は欄干に杉を、杭に松を使用しました。
 新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、いまでは往時の面影をわずかにとどめるのみとなっています。
※当時、東海道と横浜(関内)とを連絡するには、保土ヶ谷から井土ヶ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。』

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 現在の平沼商店街の最寄り駅は、相鉄線の平沼橋駅となって、水天宮平沼神社(平沼という土地を埋め立てた保土ヶ谷宿の平沼氏にちなんで作られた)も平沼橋駅のそばにあるのだが。

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 しかし、実は京浜急行の平沼駅がまさしく平沼商店街の上にあったらしい、下の写真の右に張り出したところが平沼駅のプラットフォームだったところ。

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 第二次世界大戦の空襲で焼け落ちてしまって、そのまま再建はされていないようだ。まあ、確かに横浜駅を出てすぐのところだし、京浜急行側としては平沼駅を再建する必要性を感じていなかったんだろう。

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 横浜市の横浜道に関する説明板は東海道線の反対側にもあって、上の写真はその説明にも出てくる帷子川にかかる「元平沼橋」、右上が新横浜通りの平沼橋。

NIKON Df AF NIKKOR 28mm f1:2.8 @Hiranuma Yokohama Nishi (c)tsunoken

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