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2016年6月19日 (日)

東京周縁部を往く・市川関所跡と国府台城

 京成本線国府台駅のそばに市川関所跡がある。

Dsc_00122

 国道14号線(千葉街道)の市川橋のたもとの土手の上に矢印が。

Dsc_00022

 で、ちょっと行くと「市川関所跡」がある。

Dsc_00042

 説明板に曰く。

『江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。 奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌氏の宗長が、その時の紀行文『東路の津登(つと)』のなかで、市川に渡(わたり)があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場が設けられた。古くから渡があり、市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村一対で1つの関所として定められていた。 そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。 幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、2~3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方(おせきしょつきとせんのむらかた)」とも呼ばれた。
 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869年)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運航は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている』

Dsc_00082

 そこから少し上流側に移動すると、そこは国府台城址なのだそうだ。

 ただし、こんな川っぺりに城があった筈はない。

Dsc_00152

 多分、和洋女子大学や千葉商科大学がある河岸段丘上にあったと考える方が普通だろう。

Dsc_00432

 つまり、もう一つの説の真間山弘法寺に城域があったと考える方が、その寺の広さから言っても、納得できる。

Dsc_00222

 城から見下ろす市川の街。

Dsc_00292

 更に江戸川も見下ろせて、この川が天然の濠であったのだろう。

Dsc_00372

 という具合に納得。

NKON Df AF-S NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Kounodai Ichikawa (c)tsunoken

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