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2016年5月 3日 (火)

『エロスと「わいせつ」のあいだ』を決めるものなんかはない

 もうネットでなんでも見られてしまう時代に刑法175条ってどうなんだろう。

(わいせつ物頒布等)
第175条
1 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役若しくは250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。

Photo 『エロスと「わいせつ」のあいだ 表現と規制の戦後攻防史』(園田寿・臺宏士著/朝日新書/2016年2月25日刊)

『猥褻の判定は、時代と社会によって変化する流動的なものである。ある時代には猥褻だと判断された作品も、時代が変われば芸術性や思想性などの価値が、猥褻性によって侵害される保護法益(善良な性的道義観念、善良な性的秩序)よりも大きいと判断されることはよくあることである』

『このような移ろいやすい抽象的なモノを刑罰で絶対的に保護しようとすることは、社会でもっとも強力な制裁である刑罰の使い方として妥当かどうかは問題だと思われる』

『事実上社会に流通しているものが、取り締まる側の判断で猥褻かどうかが決まり、それを検挙するかどうかについても、取り締まる側の裁量の余地が大きいものを犯罪とすることにも問題はある』

『現在では、インターネットが普及し、日本国内で明らかに違法とされる性情報にも容易に接することが可能となっている。1970年代に刑法の脱道徳化(道徳や美風を守ることは刑法の主たる任務ではないという思想)が強く主張されたことがあったが、18歳未満の者に対する「有害図書規制」(書店やレンタルビデオ店などで、性的に過激な図書やDVDなどを「区分陳列」したりすることによって、未成年者がそのような情報に接することを防ぐ制度)が、ほとんどの地域で機能している現状をふまえ、情報環境が劇的に変化している現代社会で、旧来通りの猥褻概念を維持し、適用することについて再検討すべき時期に来ているように思う』

『ネットではそれこそ露骨な描写のコンテンツが溢れているという現実が事実上、放置されている中で、漫画家のろくでなし子さんや、写真家の鷹野隆大さんの作品の展示が175条を根拠に、捜査当局によって逮捕・起訴されたり、撤去を求められたりするのはなぜなのだろうか』

『「わたしのアート作品は『猥褻』ではありません」。そう無罪を主張し、全面的に争うことにしたのである。これまでの著名な猥褻裁判の被告は男性ばかりだった。今回の裁判は被告だけでなく裁判長も、中心となる検察官も女性だ。こうした組み合わせは異例である。「アート作品か、わいせつ物か」をめぐり、裁判所がどのような判断を示すことになるのか』

『「女性器は自分の大事な体の一部に過ぎないものであるにもかかわらず、ここ日本においては蔑まれ、汚いものや恥ずかしいもの、いやらしいものとして扱われ、とてもおかしいと強く感じたからこそでした。生命が生まれでてくる場所であるならば、蔑んだり、いやらしい場所などとみなす事はとてもおかしい話です」
「わたしはなぜそんな風になってしまったかを考えました。その結果、女性器はまるで男性の愛玩物のように扱われているのが原因で、根底にあるのは女性差別であると思い至りました。そこでわたしの体であり、わたしの物であるはずの女性器を取り戻すため、女性器のアートを本気で活動するようになりました」』

『今後ですが、敵が国というラスボス(ラストボス、ゲームなどで最後の障害となるキャラクターを意味する)になってしまったので、国と戦うことも作品にしようと思っています』

 と語る漫画家・ろくでなし子さんの戦いは、フェミニズムの戦いでもある。

『全裸の男女を写真撮影した作品の一部に男性器が写り込んでいたことから、作品を県警保安課は刑法175条の「わいせつ物」と判断し、公然陳列に当たるとして口頭で指導したというものだ。これに対して、美術館は、鷹野さんと相談の上、作品の撤去には応じないこととし、男性器の部分を白い不織布やトレーシングペーパーで覆うことで見えなくする措置を取ることによって、展示の継続を選択した』

『警察権力というのはグロテスクですよね。本来は国民が一時的に権限を委譲しているだけじゃないですか。それなのに警察は全権を握って主体的に行動できるかのように振るまっています。権力を行使した警察官個人が特定されないのもよくありません。官僚には「無謬の原則」というのがあります。自分たちは〝機関〟にすぎないから過ちを犯しようがないし、従って個人として罪に問われることもないというものですが、実際には個人の裁量で動いている部分がかなりあるはずです』

『世の中にはたくさんの「正義」があります。そのたくさんの「正義」のうち、正しいものと間違ったものを行政機関(公権力)が定め、〝余計なもの〟を排除するのです。こうやって、顔の見えない官僚たちが薄暗い中から国民を監視する。もはや1人の独裁者が暴君として君臨する時代ではなく、「正義」を標榜する集団による、ソフト・ファシズムの時代が目前に来ているのを感じます』

 と語る写真家・鷹野隆大さんの戦いは、権力のグロテスクさとファシズムを暴く戦いでもある。

 いずれにせよそこで問われているものは「猥褻とは何か」という「猥褻の定義」なのだが、それは検察官にも裁判所にも答えることはできない。その「定義のない犯罪」で処罰されるわいせつ罪の犯人ってなんなのだろう。それも児童ポルノを除けば誰も被害者がいないにも関わらずだ。

 結局、証拠もないに等しい、被害者のいない「犯罪」ということは、「これは猥褻である/猥褻ではない」を決めるのは検察官の心証だけであり。裁判所の判断だけである。

 つまり、それは国家権力が、国家権力だけの判断で犯罪か否かを決めることができるという、まさしくファシズムにも等しい国家権力のありかたそのものである。

「わいせつ罪」という犯罪そのものが国家権力の横暴であり、まさにファシズムであるということなんだなあ。

『エロスと「わいせつ」のあいだ 表現と規制の戦後攻防史』(園田寿・臺宏士著/朝日新書/2016年2月25日刊)

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