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« 『遅読家のための読書術』というよりも、読書ブログを書きましょう | トップページ | 今年は浅草神社で三社祭 »

2016年5月15日 (日)

南千住・石濱城

 今年、2月16日のブログ『台東区の七福神③浅草名所七福神』で紹介した石濱神社(石浜神社)を再び紹介します。

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 ただし、今日は「石濱神社は実は石濱城だった」っていうお話。

 石濱神社の場所は明治通りの隅田川の脇。白髭橋西詰のすぐそば。

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 神社の門の脇に荒川区教育委員会が作成した説明版がある。

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『石浜城址(石浜神社)
 石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573~1591)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。
 石浜神社は、聖武天皇の時代・神亀元年(724)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の祓(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838)刊行の『東都歳事記』の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。』

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 元々、最初に幕府に正式に城主として認められたのは千葉自胤の時代なのだが……

『千葉自胤は、室町時代中期から戦国時代前期の武将。武蔵千葉氏第2代当主(室町幕府からは千葉氏当主と認められた)。
 享徳の乱で古河公方足利成氏に与した重臣原胤房と同族の馬加康胤に伯父の胤直、従兄の胤宣、父の胤賢ら一族を殺され、兄の実胤と共に下総八幡荘市河城へと逃れた。室町幕府8代将軍足利義政が派遣した同族の奉公衆東常縁の支援を得たが、成氏が派遣した簗田持助に敗れ、康正2年(1456年)1月19日に市河城も陥落、武蔵へと逃れた。同年、常縁が馬加康胤・胤持父子を討ち取り、原胤房も逃亡した。
 一方、兄実胤は石浜城(現在の台東区橋場)主、自胤は赤塚城(現在の板橋区赤塚)主となり、康正3年(1457年)4月には外戚である扇谷上杉家の家宰太田道灌が江戸城を築城するなど古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的に逼迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。
 その後兄が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった』(Wikipedia)

 という、ちょっと情けない理由で城主となった由。その後、下総では千葉孝胤が勢力をつけて下総をおさえて千葉氏本流を名乗ると、もう武蔵千葉氏は落ちぶれてしまう。

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 そのせいか宝井馬琴の『南総里見八犬伝』では、部下の馬加大記常武に権力を握られてしまう「暗愚な武将」として描かれている。

 石濱城の場所については、やはり『台東区の七福神③浅草名所七福神』で紹介した待乳山聖天という説もあり、そちらは周囲より高台になっているというのがその理由なんだが、でもあの面積では城にはならないだろう。なので、この地に平城として作られたというのが正解のようだ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f1:2.8 D @Minami Senju, Arakawa (c)tsunoen

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