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2016年5月13日 (金)

文京区小日向・切支丹屋敷跡

 文京区小日向あたりを歩いていると、いかにも武家屋敷の跡地だという遺構などにもぶち当たる。

 ここ「小日向一丁目東遺跡」もそのひとつで、縄文時代の遺跡から、江戸時代には寛永十八年(1641年)に井上筑後守政重が下屋敷として拝領し、その後、正保三年(1646年)に築後守が宗門改役となったことにより、この地には切支丹御用屋敷となった、と説明版にはある。その遺構も残っていたそうだ。現在はマンションになってしまっているが。

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 で、その説明版から振り返ると「都旧跡 切支丹屋敷跡」という碑と、簡単な説明版がある。

Dsc_00222

 説明版には

『キリシタン屋敷は正保三年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されていました。
 最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保九年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政四年(1792)に屋敷は廃止されました』

 とある。「転びバテレン」とは改宗した宣教師のこと。

Dsc_00232_2

 シドッティとはジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティのことで、1708年(宝永5年)8月、鎖国下の日本へ出発するシドッティのためだけに建造された船に乗り、日本に向けて出発した。10月、髪を月代に剃り、和服に大小二本差しという侍の姿に変装して屋久島に上陸した。島の百姓に見つかり、言葉が通じないことで怪しまれ、ほどなく役人に捕らえられて長崎へと送られたらしい。そりゃそうだよね。いくら月代に和服、大小二本差しったって、碧眼の侍なんかがいるわけないもんね。

 1709年(宝永6年)江戸に護送され、時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石から直接、尋問を受けた。白石はシドッティの人格と学識に感銘を受け、敬意を持って接した。シドッティも白石の学識を理解して信頼し、2人は多くの学問的対話を行った。特にシドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。

 新井白石はシドッティとの対話から得た知識をまとめ、『西洋紀聞』と『采覧異言』を著した。

Dsc_00252

 切支丹屋敷跡に上ってくる「切支丹坂」なんだが、同じ切支丹坂を名乗る坂がいくつもあって、どの坂が本当の切支丹坂なのかはわからないというミステリー。

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NIKON Df AF-F NIKKOR 50mm f1:1.8 G @Kohinata, Bunkyo (c)tsunoken

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