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2016年4月28日 (木)

『はたらかないで、たらふく食べたい』という「思想」

「はたらないで、たらふく食べたい」という発想は、さすがに大杉栄の研究者である栗原氏ならではの発想ではあるけれども、実は大杉自身だっていろいろ本を書いて「働いて」いたわけだし、「はたらないで、たらふく食べたい」という思想は、アナーキズムよりはやっぱり「ニート」の発想じゃないかしら。

 まあ「ニート」を「高等遊民」といってもいいのかもしれないが、そのためには、他人に迷惑をかけない程度に、「実家が裕福」じゃないといけないのである。

Photo 『はたらかないで、たらふく食べたい』―「生の負債」からの解放宣言』(栗原康著/合同会社タバブックス/2015年9月10日電子版刊)

 まあ、「はたらかないで、たらふく食べる」っていうのは、まさしく定年退職者の私の生活なわけだけれども、ただ、それは30~40年働いてきた結果なのであって、実際は「(最初から)はたらかないで」いたわけではない。

 また「高等遊民」という考え方もあるが、それは『高等遊民とは、明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと』(Wikipedia)ということで、出光佐三が出光興産の前身の会社を興した時に金を出した日田重太郎なる人物がまさしくこの高等遊民の代表みたいな人だったらしいが、やはり実家は相当の資産家らしく、そうした人たちは何も仕事をしなくても収入があったわけで、いわゆる「ニート」ではなかったようだ。つまり、金融資産を持っていて「お金がお金を稼ぐ」という状況にいるわけで、誰か他人に寄生して生きているわけではなく、ということは決してそれは「はたらかない」わけではないのである。

 う~ん、でもこういう人たちって「読書などをして過ごしている」のはいいんだけれども、そのアウトプットはどうしたんだろう。本とかは書いたのだろうか? 人間って、インプットだけでは満足できなくて、結局「アウトプット」をしないとダメな生き物なんだけれどもなあ。例えば、私のブログみたいにさ。

『はたらかないで、たらふく食べたい』と言っている栗原康氏自身だって、東北芸術工科大学非常勤講師をやったり、『大杉栄伝』やら『現代暴力論』や本書を出版したりして印税を稼いでいたりして「はたらいて」いるのであります。

 つまり『はたらかないで、たらふく食べたい』というのは栗原氏の「生活」ではなくて「思想」だってことなんだ。

『わたしは親孝行だ 』

『わたしが外出をするのは、週二日か三日、アルバイトをするときだけだ。老いた両親にとっては、これほどこころづよいことはないだろう。家の収入は、ほとんどが親の年金』

『わたしは三五歳で年金生活者。親の年金のおかげで生きていられる。年金、だいじ。そうおもっていたのだが、すこしまえに親から衝撃の事実をしらされてがくぜんとしてしまった』

『子どもが低収入で国民年金をしはらうことができなかったとしても、子どもが親と同居していたならば、国は世帯主、つまり親から年金を強制徴収することができるようになったというのである』

 と書くのは一種の露悪趣味。いかにも自分は仕事をしないでブラブラしているという様子を見せているのだが、それはあくまでも「思想」なのであって「生活」ではないのだ。

 この「思想と生活の乖離」というのは日本というか資本主義社会独特の生き方であって、日本や資本主義社会においては共産主義者であっても、社会主義者であってもアナーキストであっても、結局は資本主義的に「とりあえずは」生きなかければならないという現実主義がある。まあ、共産主義や社会主義、アナーキズムのコミューンを作るという考え方はなくはないが、しかし、そんなコミューンであっても周囲の社会とのつながりを作らなければならない以上、そこには資本主義的なつながりが必要になるだろう。

『わたしはいま三五歳。独身で実家暮らし、フリーターである。大学院を博士課程まででたものの、その後、定職につくこともなく、大学や塾で非常勤講師をしてきた。もちろん、これでは食っていくこともできず、というか年収が八〇万円ほどしかないので、両親の年金に寄生して生きている。しかも、これでもかなりよくなったほうで、ちょっとまえまではいくらさがしても非常勤の仕事さえみつからず、五年間くらいだったろうか、ほとんど毎日、朝から晩まで部屋にひきこもっていた時期もあった。つきあっていたコと婚約をして、わたしは家事ができますとか、やすい本しか買わないのでカネはかからないとか、けっこうマジでかたったこともある。やっぱり結果は撃沈だ』

 まさしく以前やっていた月9ドラマ『デート』の世界ですな。

 ドラマは『三五歳、ニート、実家暮らし。小説をよんだり、アニメをみたりするのが大好きで、それ以外のことはやりたくない。だから、ずっと部屋にひきこもって、母親に寄生して食べている。本人の意識では、こういう生きかたはふつうにあっていいものであり、明治時代のはたらかない文学青年がそうよばれていたように、高等遊民とよばれるべきである』

 まあ、この「高等遊民」の解釈にはちょっと無理があるけれども、要は杏が主演のドラマだったわけでしょ。じゃあ、それは女の立場から見たニートの見方のドラマなんだよね。

 というストーリー。

『わたしは高等遊民だ、はたらきたくない、やりたいことしかやりたくない、母親のかわりに寄生できる相手がほしいんだ、わたしは本代と月一回の床屋代しかカネがかからないので、そんなにご迷惑はおかけしません、いちおう家事はやります』女の子とデートで話す。結果は撃沈だ。そりゃそうだよな。

『わたしは大学でアナキズムを研究してきた。とくに、大杉栄という日本のアナキストを研究している。大杉がいっていることは、ひとことでいうと、やりたいことしかやりたくないということだ。文字どおりの意味である。そして、これをいまの資本主義社会にあてはめると、はたらかないで、たらふく食べたいということだ』

 ね、やっぱり「生活」じゃなくて「思想」でしょ。

『労働だけだったら負債はつよくはない。たとえ、仕事がうまくいかなくても逃げがきくからだ。これはあくまでカネのためにやっていることだ、自分の人格や個性とはかかわりがない、他の仕事だっていいんだ、いやになったらいつだってやめてやると』

 そりゃそうだ、いやな職場やいやな仕事だったらやめればいいのだ。ただし、その時のためには「少しばかりの貯え」も必要なんだなあ。だって、だれもが「親の年金」に頼るわけにはいかないからねぇ。

『はたらかないで、たらふく食べたい』―「生の負債」からの解放宣言』(栗原康著/合同会社タバブックス/2015年9月10日電子版刊)

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