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2015年12月25日 (金)

『天下統一』っていうよりも国際関係の変化のなさに驚く

 なるほどなあ、1600年の関ケ原の戦いこそが豊臣と徳川の「天下分け目の戦い」だというのが、普通の理解だと思っていたのだが、そうでもないようだ。

 つまり、豊臣と徳川の政治の連続性っていうものがあったんだ。

Photo 『天下統一 ――秀吉から家康へ』(黒島敏著/講談社現代新書/2015年12月1日刊)

 つまり

『一六〇〇年を転換点として強調しすぎる見方には少なくとも二つの弊害がある。一つには「天下分け目」に引きずられて家康外交と秀吉外交の差異ばかりが注目され、連続性を過小評価してしまうことだ。これは、秀吉をボスザルのように好戦的な政治家、家康を平和的なハト派の政治家と色分けし、対照的に理解するイメージにつながる。
 そしてもう一つは、一六〇〇年を転換点としてしまうと、一五九九年に起きた諸事象の意味合いを正しく捉えにくくしてしまう点にある』

『一連の騒動ののち、家康は伏見城西の丸に入った。かつて冊封使を迎えるはずだった伏見城は、地震で倒壊してからも普請が続けられ、秀吉の臨終の地となった。その城に家康が入ったことを「天下殿になられ候」(「多聞院」慶長四年閏三月十四日条)と記す史料があるように、秀吉の武威の象徴である伏見城を継承したことで、家康が天下人の地位をも継承したものと周囲では判断したのである』

『秀吉が、死ぬ直前に思い描いていた大名たちが連合して秀頼を支えていく体制は、大名連合から抜け出して天下人と見なされた家康によって、なし崩し的に形骸化されていく。表向きは秀頼を頂点とする豊臣の政治体制が維持されながら、実質では政権の実力者である家康が主導していく体制へと、すでに一五九九年のうちに移行していたということができるのだ([藤井二〇一一]ほか)』

『家康にとって関ヶ原とは、豊臣秀頼を頂点とする武家政治体制のもとで、「反逆」をなした「凶徒」を誅罰したにすぎず、これによって秀頼の地位を否定できたわけではなかった。つまりは家康も三成も、ともに豊臣家を奉じた勢力であり、名分としては、豊臣家に対抗することなど、この時点の家康には不可能だったのである([藤井二〇一一])。関ヶ原が豊臣という政治体制の改変を目指すものにはならなかったことが、後の家康にとってシガラミとなっていく』

『関ヶ原合戦の本質は、政権内部で家康を排斥したいグループと、天下人家康の地位を承認するグループとの分裂にあった』

『一六〇三年二月の将軍就任以後は、家康は秀頼に臣下の礼を取らなくなり、大名たちも家康のみに年頭の挨拶をするようになった。将軍職という名分を手に入れたことによって、家康は豊臣家の長老という立場から抜きん出て、独自の天下人となることができたわけだ([藤井二〇一一])』

『一六〇五年には将軍職が家康から秀忠へと譲られ、これにより将軍職は徳川家の世襲とすることが内外に示された。二代将軍の誕生は、後世の江戸幕府の歴史を知っている私たちからすると、徳川政権が安泰に継承されていった証左であるように思えるが、家康周辺には予断を許さない状況が続いていた』

『家康が将軍となった一六〇三年に秀頼は内大臣に、秀忠が将軍となった一六〇五年には右大臣へと、摂関家相当の昇進を順調に遂げている。 家康は、秀忠の娘千姫を秀頼に嫁がせて姻戚関係を結ぶとともに、一六一一年の後水尾天皇即位に合わせ京都二条城で秀頼と対面し、表向きは秀頼を臣従させることに成功する。これにより、秀頼が天下人となる可能性は潰えた。家康は歳月をかけて影響力を及ぼそうとし、対する豊臣方では折につけて抵抗する様子も見られたが、結果として妥協を余儀なくされていった。両者のパワーバランスは徳川優位に展開していくが、緊張は、大坂の陣で豊臣家が軍事的に自滅するまで続いていく』

 なるほどなあ、確かに関ケ原の戦いの後、家康は伏見城に入り豊臣秀頼の後見人になるわけで、そこで豊臣政権が倒されたわけではなく、実際に豊臣政権が倒されたのは、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣においてである。ただし、実際に徳川家康が実質的に権力を握ったのは、やはり関ヶ原の戦いの後伏見城に入ったことによるものだろう。

 なお、本書では秀吉と家康の政治の連続性を、その対外政策、特に対中国(当時は明)政策と対朝鮮政策、対琉球政策について述べているのだが、考えて見れば、中国に対してはなるべく刺激しないようにして、しかし、あまり近寄らないようにしつつ、朝鮮に対しては下に見て、秀吉の時代は攻め込んでみたり、臣下の立場を取らせたりしている訳なのだが、なんか、それって今でも同じじゃないんだろうか。

 結局、日本のそれらの国々に対する態度って昔から変わらなかったのだなあ。遣唐使、遣隋使の時代から、中国に対しては下手に出つつ、朝鮮に対しては上から目線でもって、時には蹂躙したりしている訳なのだ。秀吉の時代と明治・昭和の頃には対中国政策も積極策に出て攻め込んでみようとしたり、実質的に侵略してみたりしているが、それは多分その時その時の政治家の判断で積極策に出て見たり、消極策を取っているだけなのかも知れない。

 琉球に対しては完全に下に見る対応で、それは現在に至るも全く変わっていないところを見ると、なんか歴史の連続性だけじゃない、日本人の考え方に変化がない証左みたいである。民主党の鳩山政権時代には若干変化が見られたようだが、その後、自民党が政権に返り咲いてからは昔の通り、まるで現代の琉球処分みたいな扱い方だもんなあ。

 う~ん、日本人の本質って変化がないというものなのかなあ。

 まあ、それは考えて見ればフランスとドイツの関係や、ドイツと東ヨーロッパの関係、ドイツと南ヨーロッパの関係も、昔からあまり変わっている様子もないし、ロシアと周辺国の関係も歴史的に見るとあまり大きな変化は見えてこない。これも、レーニン時代にちょっと変化の兆しはあったんだけれども、スターリン時代になってまたもとのロシアと属国状態になってしまった。

 国と国の関係なんてそんなものなのだろうか。それが国民性っていうものなのだろうか。

 だとしたら、ちょっと残念でもある。

『天下統一 ――秀吉から家康へ』(黒島敏著/講談社現代新書/2015年12月1日刊)

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