フォト
無料ブログはココログ

Amazonウィジェット

  • Amazonおまかせリンク
  • おすすめウィジェット
  • Kindle

« 「遠足」に参加して分かったこと | トップページ | 『偽りの明治維新』で新たに暴かれたものはなかったけれども »

2015年12月 2日 (水)

『さようなら』と簡単に別れられないのが(人間の)人生だ

 アンドロイドと人間の共演(あるいは共生)ってものがどんな形になるのだろうか、というのが興味の映画であります。

2 『さようなら』(原作:平田オリザ/脚本・監督:深田晃司/アンドロイドアドバイザー:石黒浩/製作:深田晃司、ブライアリー・ロング他/ファントムフィルム)

 舞台は近未来の日本、原子力発電所のいくつかで放射能漏れがあって、国際的な協力のもとに日本在住者は国外へ「難民」として移送されることになった。そんな移送の順番を待つだけの日々。主人公のターニャ(ブライアリー・ロング)は、昔父親が買ってくれたアンドロイドのレオナ(ジェミノイドF)と2人(?)だけで、町からかなり離れた郊外で暮らしている。

 会うのは、時折訪ねて来る恋人(新井浩之)や世話好きの女性の友人(村田牧子)くらいのもので、もともと病弱なターニャにとってレオナは数少ないターニャの「話し友だち」であり、ターニャが出歩きたくない時にはレオナが買い物にも出かけている。

 本当に「静かな映画」である。殆どのシーンは「ワンシーン・ワンカット」で捉えられていて、なおかつカメラは動かない。体調があまりよくない状態で見ていると、この映画はほとんど「眠りの映画」のように、眠ってしまうのではないだろうか。人によって違うだろうが、私は昔、アラン・レネ監督、アラン・ロブ=グリエ脚本のモノクロ作品『去年マリエンバードで』を見た時のことを思い出した。この映画は私の眠りのリズムに合っていたようで、何度見ても同じように眠ってしまい、なおかつその時の眠っている中で見る映画『去年マリエンバードで』はカラー作品なのであった。

 今回は若干風邪気味ではあったものの、それほど体調がすぐれないということでもなかったんだけれども、かなり眠りに落ちてしまう傾向はあった。この「静かな映画」も私の眠りのリズムに合っていたんだろうか。

 そんな「静かな映画」も少しづつだがスートーリーは進展する。

 恋人から結婚を提案されるターニャ。それは結婚すれば一緒の順番で同じ国へ移送されるということが理由だったのだけれども、何となく返事を躊躇するターニャ。アパルトヘイトがあった南アフリカの出身であるターニャにとって、よその国へ難民として移住することに対しての抵抗が若干あったのではないか。南アフリカでアパルトヘイトで差別されていた黒人が、アパルトヘイトがなくなった時に、黒人から白人への逆差別の現場を見てきていたことからくる、どことなく自らに至る恐怖があったのかも知れない。そんなうちに、恋人が家族と一緒に移送されてしまった連絡を受け取る。

「私は多分最後の移送順になるだろう」というターニャの女性の友人。昔、子供を殺したことがあるというのがその理由だ。別れた夫や、その友人が殺した弟の兄との面会をする友人だが、何となくぎくしゃくした再会。その内、夏祭りで燃え盛る炎の中に飛び込んで自らの命を絶つ友人。

 なにもかも、この国は「崩壊」へと進んでいる。

 体調の優れぬターニャも次第に家を出なくなり、引きこもりの日々を送って行くようになる。たまに訪ねて来る恋人も、ターニャを外に導いてくれる友人もいなくなってしまった。

 アンドロイドのレオナも、ターニャが知らない世界中の「詩」を教えてくれるけれども、言ってみればそれは「Wikipedia」的な知識の集大成にしかすぎない。艱難辛苦して覚えた「詩」ではなく、世界の集合知としての「詩」の知識でしかない訳で、それはそれであまり「知識の重み」を感じさせるものではない。

 次第に、生きていることの実感を覚えることなくなって来てしまっているターニャ。

 裸で家から出ることもなく、毎日、家の窓から外を眺めるだけの生活になっていくターニャ。

 その内に、ソファに裸のままで横になり、レオナに「私が眠るまで詩を謳って欲しい」と願うターニャ。

 自分が相手をしている「人間」の生体反応を感じることができるのか、できないのかは分からないが、いつしか「詩を謳う」ことをやめるレオナ。

 その内に「むくろ」となったターニャは、やがて白蝋化し、その内またさらに白骨化してしまうターニャ。まあ、この辺のVFXは上手くやったもんだとしか言いようはないが、どこか恐ろしさというよりは神々しさの方が上にたつ。

 レオナはどうしたんだろうか。

「死」というものを知らないアンドロイド。まあ「知識」としては知っているんだろうけれども、自分の身に起こる事態としての「死」はしらないだろう。彼ら(彼女ら)が知っている「死」は、人間によって破壊された場合の自らの至る行く末だけなのだ。

 家から生体反応がなくなってしまったことを(多分)発見したレオナは、家を出て、誰もいない道を(電動車椅子)でもって走って行く、走って行く、走って行く……、そしてやがて車椅子から投げ出されたレオナは、それでも匍匐前進でもって前へ、前へ、前へ……。

 どこへ行くんだろうか。

 というところで、ちょっと興ざめなお話しを。

 多分、この匍匐前進をするシーンはアンドロイドじゃないだろう。人間がアンドロイドの格好をして演じているんではないだろうか、ということだ。

 石黒氏が開発しているアンドロイドは、人とコミュケーションをとるためのアンドロイドであって、自走式のロボット開発は行っていない筈だ。つまり、電動車椅子を動かすことも石黒氏のアンドロイドではないだろうし、ましてや匍匐前進するなんてね……。

 まあ、そんな興ざめするお話はしなくても、ちゃんとこの映画は「人とアンドロイドの共演は可能か」という問いには、取り敢えずこの映画の時間の中だけでは答えているので何の問題もない。

 こうやって見てくると、「死」というものを前提として、それから逆算する形でしか自分の「人生」を考えるしかない「人間」と、「死」というものはなく、むしろ技術開発の中で「旧技術」だからという理由で「改廃」されてしまうアンドロイドの間には、人と人の間のような友情とか愛情とかが成立するんだろうか、というところに行きつく。

 これから先、技術の進歩がある訳で、人間とまったく見分けのつかないアンドロイドができる可能性はある訳で、そんな時に、人とアンドロイドはどうやって共生していくんだろうな。

 まあ、最早私には関係ない事柄だけれどもね。

 生殖能力もないし。

映画『さようなら』は現在、新宿武蔵野館で公開中。今後、全国各地で公開予定。

公式サイトはコチラ

« 「遠足」に参加して分かったこと | トップページ | 『偽りの明治維新』で新たに暴かれたものはなかったけれども »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/549500/62787615

この記事へのトラックバック一覧です: 『さようなら』と簡単に別れられないのが(人間の)人生だ:

« 「遠足」に参加して分かったこと | トップページ | 『偽りの明治維新』で新たに暴かれたものはなかったけれども »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

PEN PEN チョートクカメラ日記

自転車フォトグラファー 砂田弓弦

シュクレはお留守番

アローカメラ&我楽多屋

まだ東京で消耗してるの?