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2015年12月 3日 (木)

『偽りの明治維新』で新たに暴かれたものはなかったけれども

 結局「正史」なんてものは勝者の歴史にすぎないわけで、それが「正しい歴史」かどうかをなんら証明するものではないのだ。

Photo 『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』(星亮一著/だいわ文庫/2008年1月15日刊)

 本書に書かれている大方のエピソードは既に知っているものばかりだ。なので最終章「屈折の明治」が一番面白い。

 なかでも『京都守護職始末』関係の記事が一番面白い。

『京都守護職始末』に書かれたいたエピソード、

『徳川慶喜と松平容保を朝敵と決めつけた討幕の密勅について、偽造のからくりを暴露した。それは正親町三条実愛公の証言だった。

問 薩長に賜った綸旨は何人の起草か。
答 玉松操の起草だ。
問 筆者は何人か。
答 薩摩は余が書いた。長州は中御門が書いた。このことは自分ら三人と岩倉具視のほか誰もしらない。

 この密勅はまったくの捏造だったのである』

 その『京都守護職始末』を編纂するにあたって、会津から転封を命じられた、新制斗南藩の大参事、山川浩はその後貴族院の議員となる。

『会津の正義を実証せんと山川が手に入れた確実な史料があった。孝明天皇の宸翰である。薩長がいかに会津を非難しようとも、松平容保こそもっとも信頼すべき人間だとした孝明天皇の宸翰は、薩長に打撃を与えること確実だった。
 貴族院の論客の一人、三浦梧楼は長州の出身である。山川と気が合い、藩閥政治には批判的だった。山川が三浦に宸翰のことを離すと、
「まさか」
 としばし沈黙し、信じようとしなかった。それではと主君から宸翰を借り受け、三浦に見せた。それは孝明天皇が御所に発砲した長州藩の暴挙に怒り、それを撃退した京都守護職、松平容保の忠節を称えたものであった。一読した三浦は見る見る顔面蒼白になり、
「山川どの、これは、いましばらくは公にいたさぬようお願いできぬか。これが出れば、伊藤博文総理も困ることになる。容保公にはまことに気の毒であった。このとおりだ」
 と山川に頭を下げ、深く溜め息をついた。この宸翰は長州の野望を鋭く突いており、孝明天皇は長州こそ朝敵だと糾弾していたのである。ところが孝明天皇が崩御するや、形成は逆転、明治天皇を玉と頂く長州が官軍となり、会津は朝敵に蹴落とされた。
 これそ歴史の欺瞞だった。明治維新は日本の近代化という美名にかくれた権力闘争であった。三浦があえて公表せぬよう山川に求めたのは、明治政府の権威が失墜することを恐れたからだった。それは日本の国体の崩壊につながりかねない、三浦はそう考えた』

『明治二六(1893)の秋、主君容保の病状が悪化した。容保はもともと蒲柳である。京都守護職時代は一年にわたって病床にあり、一時は危ないとまでいわれたが、若松に戻ってからは体調をとり戻し、山川らとともに、あの籠城戦を戦った。
 山川は日に二度、三度と容保を見舞った。容保はそのたびに、錦の布に包んだ竹筒をとり出し、そのなかにしまい込んだ孝明天皇の信任状、宸翰を見せ、
「山川、これを世に出してくれ」
 と何度も訴えた。山川は主君の想いを知るにつけ、一日も早く会津戊辰戦争史の編纂を進めなければ決意を新たにした』

 という「戊辰戦争」とは何か。

『慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いから、上野戦争、越後戦争、会津戊辰戦争と続き、明治二年(1869)五月の箱館戦争で終了する内戦である。会津は鳥羽伏見の戦いから長州や薩摩(鹿児島県)と敵対し、会津戊辰戦争で敗れるまでけっして屈しなかった』

『会津人のこだわりはいくつかある。一つは会津戊辰戦争における官軍という名の薩長軍の残虐行為である。
 錦旗、天皇の旗をかかげて会津に攻め込んだ官軍の実態は、帝の軍隊にほど遠いものだった。分捕り部隊が存在し、薩摩、長州が競って土蔵を封印し、略奪の限りをつくした。女性も分捕りの対象となった』

『二つは過酷な戦後処理である。戦死者の埋葬を許さなかった。戦死者の遺体は犬に食われ、烏につつかれた。さらにすべての財産は没収され、会津藩士とその家族惟一万数千人は、陸奥の下北半島に流罪となった』

『それにもまして会津人を苦しめたのは、朝敵、逆賊という汚名だった。幕末、会津藩主は京都守護職として京都にいた。孝明天皇から絶大な信頼を受け、御所に攻め込んだ長州勢を撃退、孝明天皇から宸翰(天皇直筆の文書)を受けとった。このとき攻め込んだ長州は朝敵である。
 それがいつの間にか逆になっていた。歴史のからくりである。会津藩を信頼した孝明天皇が奇怪な死をどげてから、幕末政治は逆転した。薩長が京都を制圧し、会津は京都から追われた。
 そして会津戊辰戦争が起こり、会津藩は玉砕した』

 とにかくそうしたごまかしの朝廷とのやりとり、会津藩への苛烈な処理などが、未だ続く会津・長州のいさかいの始まりなのである。

『平成一九年(2007)、会津と長州について新しい動きがいくつか出た。山口県出身の安倍晋三が総理在任中に会津若松市を訪れ、会津戊申戦争に関して「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあった』

 というけれど、所詮、発言が軽いことで有名な安倍晋三である。この時も、この安倍発言についての会津側の評価はいたって低かったようだ。

 結局、そんなことを言ったって、表面的な言葉だけでは、会津の人々の心を捉えることはできない。

 未だに、会津に行って「あの戦争」のことを聞くと、第二次世界大戦ではなくて、会津戊辰戦争なのである。

 明治維新が近代市民革命だったのかどうか、という論議がある。革命である以上、そこには流血の惨事があることはやむを得ない。勿論、革命のような一側面があるにせよ、結局それは武士同士の権力闘争として戦われたわけで、庶民の立場からすれば、十全な市民革命とは言えないだろう。であるならば、なおさらその戦いに武士以外の階級の財産を毀損する必然性はないだろう。

 そうしたことも含めて、会津藩士の末裔は長州のやり方を批判し非難し続けるのである。

 まあ、まさしく「勝てば官軍」を地で行った長州にそんなことを言ってもどこ吹く風だろうし、今更、資本主義に対する反革命が起きて封建主義が復活する可能性はゼロですけどね。

『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』(星亮一著/だいわ文庫/2008年1月15日刊)

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コメント

えーすみません。最後の方だけ、すこし分かりやすく加筆しました。

面白く読んでいましたが、最後のまとめの意味がよく分かりませんでした。長州、会津と資本主義の関係は、さていかに。

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