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2015年12月

2015年12月31日 (木)

2015・師走雑景

 去年の暮れのブログみたいにアメ横や築地なんて人混みには出かけなかったが、まあ、人が沢山いそうな場所には出かけちゃうんですね。

Dsc_00072@Sugamo

Dsc_00312@Itabashi

Dsc_00032@Kichijoji

Dsc_00072_2@Kichijoji

Dsc_00322@Honjo Azumabashi

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Dsc_00092@Shibuya

Dsc_00112@Shibuya

Dsc_00272@Shibuya

Dsc_00382@Shibuya

Dsc_00472@Hon Komagome

 ということで、今年の最後は手抜きブログでゴメン。

 でもこの撮影には3日かかってるんだけどね。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f/2.8 (c)tsunoken

2015年12月30日 (水)

『アンジェリカの微笑み』は2010年製作の60年前の映画

 見た動機が不純なんだよなあ、すみません。

Photo 『アンジェリカの微笑み(O Estranho Caso de Angelica)』(監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ)

 なにしろ12月24日のブログで名演小劇場に貼ってあったポスターの右下にある、ライカM3を構える男を見て面白そう、と見に来たのだった。

Dsc_00342

Photo_2 ←つまりこの男のこと。映画の主人公なんですけれどもね。

 映画のストーリーは、ある夜、若くして亡くなった富豪の娘の姿を撮影して欲しいと頼まれた主人公イザク(リカルド・トレパ〈監督の孫〉)が、ライカM3にズミクロン50mmを装着して邸宅に赴くと、奥の部屋に寝かされたその娘(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)の美しさに魅入られて、撮影しているうちに何故かその死んだはずの娘の目が開いて主人公に向かって微笑むのだ。

 写真を現像・焼き付けた写真を見ても、再びその娘は目を開いて微笑む。その内にベランダに降り立ったその娘と空を飛ぶ……夢をみるのだが、次第にそれが激しくなって来るようなのだ。まあ、娘は既に結婚をしていて、子供を妊娠もしていたらしいから、完全にそれはイザクの横恋慕というか妄想に過ぎないんだけれどもね。

 そんな完全なる妄想にうなされるイザク。それは当然である。何故なら死者と生者の間に恋愛はあってはならないこと。そして死者と恋愛に陥った生者は、必ず非業の死に至るのである。

 まるで落語の「野ざらし」だなと思ったら、さすが公式サイトの若尾文子さんは「牡丹灯篭」や「雨月物語」に例えている。う~ん、確かにその方が美しいでですね。美しい方は、感じ方も美しいんでしょうか。とは言うものの「牡丹灯篭」も「雨月物語」も怪談話であり、やはり死者との愛に陥った主人公は死に至るのであります。

 まあ、洋の東西を問わず、その辺は同じなんですね。日本とヨーロッパで死生観が違うと思っていたのだが、本当は同じだったってのが面白い。

 んが、私が気になったのはそんなところじゃなくて、果たしてこの映画、いつ頃の設定として製作されたんだろうかということ。

 ポスターにある通り、ライカM3で撮影しているという以上は年代設定は1954年以降の時期ということになる。脚本製作は1952年というから、脚本的にはライカ3fかM3で撮影するという設定になっているのだろう。まあ、当時としては最新鋭のカメラだからね。主人公はアマチュア・フォトグラファーだが、自分で現像・焼き付けなども行うカメラ・マニア。だったら、アマチュアでライカM3を持っていてもおかしくはない。

 それはよいのだが、街を走っているクルマをみるとどう見ても、映画が実製作された2010年としか考えられないのだ。えっ? 2010年だったら普通アサインメントの写真撮影は一眼レフでしょう。私だって個人の趣味で撮っている写真だったらライカM3を今でも時たま使うけれども、アサインメントだったら完全にデジイチだもんなあ。まあ、デジタルかアナログかは、その頃はまだ両方存在していた時期なので、どちらでも良いが、基本的には一眼レフである筈。ニコンDかFの「一桁シリーズ」かキャノンの「F一桁」かEOS1Dでしょ。それをライカM3で撮影ってよっぽどのカメラ・オタクか変わり者なんだなあ。

 さらに1950年代のライカで撮影っていうことになり、なおかつ自分で現像するとなると、基本的にはモノクロームの筈なんだが、彼が撮影した写真はすべてカラー。勿論、当時は既にカラーネガフィルムは存在したんだが、まだまだ感度的には厳しい時代で、夜の室内撮影でアベイラブルライトだけの撮影は普通はなかった筈だ。

 おまけにイザクの下宿先で同じ下宿人たちが話しているブラジルの橋梁開発の問題も、2010年のブラジルではあり得ない筈だ。何せ、ワールドカップやオリンピックをやっちゃおうという時代の国ですよ、2010年なら。そんな国のそんな時代に経済状態が良くないので、橋を作るのを辞めるなんてことがある訳はないでしょう。

 つまりはこういうことだったんでしょうね。1952年にシナリオ製作はした。しかし、なかなか、そのシナリオについて製作のGOサインは出なかった、というか製作費を出す会社はいなかった。で、以来60年映画は製作されなかった。なので2010年に脚本製作から60年以上過ぎてしまってからやっと製作にGOがでたのであるが、脚本家兼監督のマノエル・ド・オリヴェイラとしては、そのままオリジナルの脚本のまま、しかし製作費の関係もあるので設定は現代にして作っちゃったんだろう。

 え? でもそれはエンターテインメントの映画作家としてはやっちゃいけない方法論なんじゃないだろうか、とも思うんだけれどども、映画が文化として認められているヨーロッパでは構わないんだろうか?

 マノエル・ド・オリヴェイラ監督は1931年に「ドウロ河」という映画で監督生活をスタートして、その後、2014年に「レステルの老人」という作品を最後に亡くなったんだけれども、それまでに29作品を残している。ちなみに『アンジェリカの微笑み』はその26作品目であります。

 まあ、主人公がユダヤ人であるという点は、オリジナル・シナリオではもっと色濃く描かれていたんだろうし、脚本家マノエル・ド・オリヴェイラとしては、「第二次世界大戦におけるホロコーストの記憶が生々しく残され、ナチス・ドイツの迫害を逃れてポルトガルに移り住んだユダヤ青年である主人公のアイデンティティ」というものに注目していたんだろうな、ということはよくわかる。

 でもさあ、「文化」としてヨーロッパでは映画が見られてるのはよく分かってはいますが、今やヨーロッパだって「スターウォーズ」に観客殺到でしょう。要は、映画に関してはアメリカ(というかハリウッド)に席巻されちゃっているんだから、多少はハリウッド基準に合わせて時代設定なんかはちゃんと今の(2010年の)設定に合わせないといけないんじゃないだろうか。

 まあ、映画自体は面白かったんでいいんだけれども、要は日本にもよくある怪談話ですからね。しかし、映画の作りはもうちょっと考えて「ワールドスタンダード」にした方がいいんじゃないかと、ちょっと余計な言い方かもしれないが、感じたところではあります。

『アンジェリカの微笑み』はBunkamura ル・シネマ2で公開中。順次他劇場でも公開予定。

公式サイトはコチラ

2015年12月29日 (火)

『侠飯』と書いて、「おとこめし」と読む

 デキの悪い就活中の大学生が住む古いアパートにヤクザ(「柳刃」という名前なんだが、それ自体がおかしいよね)が転がり込んで、そのまま生活の場にしてしまうんだが、そのヤクザがやたら料理の腕もいいし、清潔好きで、だんだん主人公のデキの悪い学生が感化されて来るっていう設定がまず面白い。

『侠飯』とかいて「おとこめし」と読ませます。

Photo 『侠飯』(福澤徹三著/文春文庫/2015年2月20日刊)

 じゃあ、どんな料理と料理法が出てくるのかと、目次で拾っていくと……。

プロローグ――就活と抗争

 から始まって……。

1 オイルサーディンとカマボコとリンゴとネギでなにを作るか

 という第1章は、取り敢えず「デキの悪い大学生」=良太の家にあったものだけで作った例だ。で、以下はお約束。転がり込んできたヤクザが仕入れた材料で作った料理。勿論「ヤクザが仕入れた」のは食材だけではなくて、冷蔵庫からフライパン、電気釜などなど。勝手に通販で買い込んできている。まあ、この辺は「今っぽい小説」ですね。

2 チャーハンはパラパラじゃないほうが旨い
3 クリスマスイブにチキンはいらない
4 ゴミ袋とレンジで作る刑務所の飯
5 ステーキはA5ランクよりスーパ-の特売品
6 レトルトカレーがフライパンひとつで絶品になる
7 食べるもので性格が変わる
8 殴られた夜のソウルうどん
9 飯は冷やに限る
エピローグ――この世で一番旨い飯

 と繋がる。

『ヤクザたちとの奇妙な生活にストレスを感じる一方、食事の時間は楽しみになった。柳刃は朝晩キッチンに立って、こまめに料理を作る。
 毎回それを手伝わされるが、掃除とちがって苦にならない。特に高級な食材を使うわけでもないのに、柳刃が作ると、ひと味ちがった料理になる』

『ひとつだけ難をいえば酒の肴に近い料理が多いことで、日増しに酒の量が増えている。恐らく体重も増えているだろう』

『最近は、柳刃がネットで買った食材や調味料が続々と届く。酒も日本酒や焼酎やワインと数が増えたせいで、段ボール箱がキッチンから居間に進出しつつある』

『柳刃の料理に関するこだわりには、執念めいたものを感じる。いいかげんなものは食べたくないと柳刃はいったが、それだけではなく料理をすることで、なにかを発散しているように思えた』

 というのが、まあ、料理セクションなんだけれども。しかし、いつの間にかこの「デキの悪い大学生」がヤクザに感化され始めるんだなあ。

 就活に関して、

『「どこが舐めてるんですか。ぼくは真剣にやってるのに」
「真剣かどうかってのも、おまえの物差しだろうが」
「ぼくはぼくなんだから、ぼくの物差しでしか計れませんよ」
「いやちがう。おまえは勉強が嫌いなくせに大学生になった。そしていま、仕事が嫌いなくせに就職しようとしてる。いっぱしに自分の考えがあるつもりで、結局はまわりに流されてるだけだ」』

 なんて言葉をヤクザに言われてもなあ、という気分になりませんか。

 まあ、でも数か月間とは言え、ヤクザと同居し、そのヤクザに食わせてもらっているうちに、どこかその「ヤクザ」に感化されちゃった「デキの悪い大学生」も社会を知ることになるのだ。「ヤクザ」に教えられてね。

 小説のラストシーンは、以前、入社を断られた編集プロダクションへの二度目のアタック。

『新宿駅で電車をおりて、三丁目の路地を歩いた。
 アド・テイスティの辛島に電話したのは、きのうの夕方だった。
「また面接して欲しいってことじゃないんです。もう一度だけ、作品を見てください」
 そう切りだすと、辛島は電話口で、あはは、と笑って、
「きみ、おもしろいじゃん。あした持っておいで」
 このあいだ訪れたマンションに着いてエレベーターに乗った。
 エレベーターをおりて廊下を歩き、アド・テイスティの前に立った。
「おはようございますッ」
 良太は弾んだ声とともにドアを開けた。

 はてさて、良太のその後はどうなるのか? 編プロに入れるのかどうかは分かりませんが、多分、かれは「ヤクザ」の言葉のおかげで、今後の生きる指標は与えられたのではないかな。

 で、その「ヤクザ」の正体は? ……、それは「ネタバレ」になっちゃうんでここでは言いません。

 本を読んでね。

『侠飯』(福澤徹三著/文春文庫/2015年2月20日刊)

『侠飯2 ホット&スパイシー編』も出ている。設定は別。

2015年12月28日 (月)

2015年出版界10大ニュース

 今年もそんな時期になってきた、ということで。

『出版界唯一の専門紙 新文化 2015年 出版界10大ニュース』

 まあ、あんまり変わったことはないんだけれどもね。

 そんなことが、いけないことなんだろうなあ。どんどん、変わったことがなければいけないえすけどね。ところがあまり変わってはいない出版業界って何なのよ、ってことで……。

 ということで、今年の出版業界10大ニュースだそうです。

 まあ、しょうがないのかな。

10

①栗田出版販売が民事再生法を申請 大阪屋が支援、栗田再生へ

 まあ、日販、トーハンの二大取次による激しい帳合獲得競争のあおりですね。

 支援する大阪屋だって日販、トーハンに続く第3位と言われているが、2013年には経営不振となって、楽天、大日本印刷、KADOKAWA、講談社、集英社、小学館から出資を募って立て直しを図っている最中だ。続くは太洋社か? とも言われている。

 問題はシュリンクする一方の書店市場を食い荒らしている日販とトーハンがいまだにシェア争いをしている最中だということ。そのあおりが中小取次に及んでいるということで、取次の寡占状態は収まりそうもない。

 第4位の紀伊國屋書店の書店卸の件もそうだが、取引の多様性を阻む日販、トーハンの営業方針は変わらないだろうから、今後もこうした問題は起こり続けるだろう。

 基本的な問題は、流通の多様化しかないんだと思うんだけれども、まあこうした旧守派はなかなかそういう部分には手を付けないだろうから、どこかが火を点けなければならないんだろうな。

②又吉直樹の芥川賞248万部 「火花」、書籍市場を牽引

 確かに普段本を読まない人たちを書店に呼び込んだという又吉氏の功績は称えられるだろう。248万部ってのもすごいね。まあ、それほどの部数が売れる内容の本ではなかったと思うけれどもね。

 面白いのは、2016年に映像化されるというけれど、それが従来の映画会社やテレビ局じゃなくてNetflixだっていうところが、これまた現代的ですね。

③定期雑誌で需要喚起も低落 雑誌売上げ大幅減少

 出版科学研究所の調べでは、10月期までの10ヵ月間の累計雑誌推定販売金額は約1兆2780億円(前年比5.1%減)。年間で約1兆6064億円(同5.0%減)の2014年からさらに減少している。今夏、雑協、取協、日書連が行った「年間定期購読キャンペーン」では参加した2935店によって12万1109件の定期購読を獲得し、145万部相当の需要を掘り起こしたというけれども、そんなものでは雑誌の部数の伸びにはつながらなかったということだ。

 雑誌の発行部数は1997年の65億冊がピークだったが、2014年には26億冊にまで落ち込んでおり、2015年は更に下回るとみられる。まあ、これには打つ手はありませんね。もはや別の業態を考えなければならない状態だ。

④紀伊國屋書店が〝春樹本〟を買切り 書店卸し事業で注目集める

 スイッチ・パブリッシングが9月10日に発売した村上春樹『職業としての小説家』について、紀伊國屋書店が初版10万部のうち9万部を買切って、全国の書店や取次に流通した。出版社から書店が直接買い取って、取次会社に卸すこれまでにない事業が話題となった。

 まあ、村上春樹本だからということなのだろうけれども、「アマゾンジャパンへの対抗策」「書店マージンの向上」「取次会社の配本パターンに依存せず、返品率を改善する」などの、構造改革に着手したものであろう。

⑤海老名市立図書館、TRCとCCCが共同運営 選書などめぐり一時亀裂

 典型的な「役人の事業丸投げ」の例ですね。丸投げはダメでしょう丸投げは。

「運営を民間企業に任せる」というのはいいんだが、それは丸投げをするということではない。ちゃんとチェックをしないとね。

⑥元少年A手記、ヘイト本など波紋 出版の是非、表現の自由で論議

「出版の是非」と「表現の自由」は別の問題だ。

 元少年Aの『絶歌』などの犯罪者が匿名で書いた本や「嫌韓」「反中」などのヘイト本には「表現の自由」をはき違えているだけで、彼らに出版の自由を主張させる場所などない。

⑦カフェ複合の出店続く 取次のM&Aも相次ぐ

 昨日のオリオン書房ららぽーと立川立飛店もそうだけど、最近カフェを併設したり、小物雑貨を併売している書店は本当に増えている。言ってみれば、これまで本だけを売っていたというのが不思議であって、本との関連商品を販売するのは当たり前になってきている。高崎の文真堂の例もあるしね。

 それと取次の書店M&Aとはちょっと違う話で、それは単に規模を拡大して業界での生き残り競争に勝ちたいということなのでしょう。それが上手く行くかどうかは分からないけれども、まあ、多少の生き残り時期の延長にはなるだろうけれども……。

⑧書誌情報窓口・JPROが稼働 年内登録目標50万件達成

 まあ、書誌情報の登録というのは大事だが、こうした窓口を作らないと対応できない出版社が多いってのはどうしたもんだろうか。

⑨「改正著作権法」が施行 出版社、海賊版差止請求へ

 電子書籍にも出版権を拡張した「改正著作権法」が施行されたために、出版社が著作権者に代わって海賊版の差し止めを請求できるようになった、ということなんだが、それは電子書籍に出版権を拡張したという動きとは関係ないだろう。むしろ、出版社の姿勢の問題なんじゃないだろうか。

⑩軽減税率適用求め活発な動き 出版4団体が緊急声明も

 毎回消費税の引き上げが行われるとこういう動きが出てくるんだけれども、新聞社の動きと合わせて、「なんかなあ」という気分になる。

2015年12月27日 (日)

ららぽーと立川立飛に行ってきた

 9月30日のブログ「ららぽーと立川立飛のポイントはモノレール」で紹介したららぽーと立川立飛に実際行ってみた。

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 クルマで行って3階から店内にはいったので、気がつかなかったが。ららぽーと立川立飛の一番の特徴は多摩モノレールの駅に隣接しているので、2階に歩行者入り口がある。つまり2階から店内にはいるのが一般的だっていうこと。

Dsc_00372遠くに富士山が見えるいい天気

 まあオープンから既に半月過ぎているので、大分落ち着いた感じにはなっていましたね。

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 中の造りはこんな感じの、今の巨大ショッピングモールの定番の造りで、こうした回廊が3層4列並んでいる。以前はこんな感じにはビックリさせられたが、最近はもう慣れてしまった。

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 ヴィレッジバンガードがあるのだが、イオンじゃないのでイオンシネマはありません。ヴィレバンも単独です。

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 1階にオリオン書房がある。普通、書店は上の方のフロアに置かれるのだが、さすがに地元の老舗書店なのでららぽーとが気を遣ったのかな、とも考えたのだが、考えて見れば2階が中心フロアと考えれば、まあ1階にあってもおかしくないか。

 本棚珈琲というカフェが併設されていて、小物雑貨なんかも売っている。

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 WAKUWAKU HIROBAという地元産野菜の直売所があるのが立川らしい。

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 食品スーパーはblooming bloomyというちょっと聞いた事のないお店。で、よくみると「いなげや」が運営している。すぐそばにはいなげやの物凄く大きい倉庫があった。いなげやカードも使えます。

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 そういえばポスターはNHK「あさが来た」の波瑠さんです。

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 そりゃそうだ。ららぽーとは三井不動産だもんなあ。三井つながりということですね。

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f/2.8-4 D @Tachikawa (c)tsunoken

2015年12月26日 (土)

東京周縁部を往く・江戸川区鹿骨

 都営新宿線を篠崎駅で降りて西の方へ向かって歩くと柴又街道にぶつかる。それを越えると江戸川区鹿骨という町に至る。柴又街道と新中川に挟まれた場所で、住宅地と農地が適当にミックスしている。そうか、ここは小松菜の産地だったんだ。

 で、地名の読み方なんだけれども「鹿骨」と書いて「ししぼね」と読むのである。

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 この神社も「鹿見塚神社」というのだが「ししみづかじんじゃ」なのである。

 この鹿骨(ししぼね)という地名の由来は「奈良時代(8世紀)、藤原氏によって奈良の春日大社の創建に際し、常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れておよそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられており、その途中、鹿が死んだためこの地に葬った」というものだそうだ。

 神社の中には「鹿骨発祥の地 鹿見塚」という碑がある。

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 若い人に優しい区、江戸川区だけあって「鹿骨区民館」というのも立派だ。

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 鹿骨区民館から少し北上すると鹿島神社がある。当然、鹿島神宮の分社であり、鹿見塚神社と同じ由来書があった。

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 境内には「神鹿」の銅像も建っている。

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 で、面白いのは岩手県の遠野や花巻などのお祭りの際にこの鹿の被り物をして踊られる踊りがやはり「鹿踊り」(ししおどり)と呼ばれているのだ。
 東京などの獅子舞とは全然違うのだけれども、「しかおどり」じゃなくて「ししおどり」。

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 まあ、昔は猪や鹿などの食べておいしい動物やその肉を「しし」と呼んだそうで、そんな意味での「鹿踊り」(ししおどり)であり「鹿骨」(ししぼね)、つまり「しし」と言っても「獅子」とは関係ないのだが、なんか遠く岩手県と同じような呼び方をする町が東京にもある、というのが面白い。

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f/2.8-4 D @Shishibone Edogawa Ward

LEICA M3 M6 SUMMICRON 35mm SUMMILUX 50mm @Tono City (c)tsunoken

2015年12月25日 (金)

『天下統一』っていうよりも国際関係の変化のなさに驚く

 なるほどなあ、1600年の関ケ原の戦いこそが豊臣と徳川の「天下分け目の戦い」だというのが、普通の理解だと思っていたのだが、そうでもないようだ。

 つまり、豊臣と徳川の政治の連続性っていうものがあったんだ。

Photo 『天下統一 ――秀吉から家康へ』(黒島敏著/講談社現代新書/2015年12月1日刊)

 つまり

『一六〇〇年を転換点として強調しすぎる見方には少なくとも二つの弊害がある。一つには「天下分け目」に引きずられて家康外交と秀吉外交の差異ばかりが注目され、連続性を過小評価してしまうことだ。これは、秀吉をボスザルのように好戦的な政治家、家康を平和的なハト派の政治家と色分けし、対照的に理解するイメージにつながる。
 そしてもう一つは、一六〇〇年を転換点としてしまうと、一五九九年に起きた諸事象の意味合いを正しく捉えにくくしてしまう点にある』

『一連の騒動ののち、家康は伏見城西の丸に入った。かつて冊封使を迎えるはずだった伏見城は、地震で倒壊してからも普請が続けられ、秀吉の臨終の地となった。その城に家康が入ったことを「天下殿になられ候」(「多聞院」慶長四年閏三月十四日条)と記す史料があるように、秀吉の武威の象徴である伏見城を継承したことで、家康が天下人の地位をも継承したものと周囲では判断したのである』

『秀吉が、死ぬ直前に思い描いていた大名たちが連合して秀頼を支えていく体制は、大名連合から抜け出して天下人と見なされた家康によって、なし崩し的に形骸化されていく。表向きは秀頼を頂点とする豊臣の政治体制が維持されながら、実質では政権の実力者である家康が主導していく体制へと、すでに一五九九年のうちに移行していたということができるのだ([藤井二〇一一]ほか)』

『家康にとって関ヶ原とは、豊臣秀頼を頂点とする武家政治体制のもとで、「反逆」をなした「凶徒」を誅罰したにすぎず、これによって秀頼の地位を否定できたわけではなかった。つまりは家康も三成も、ともに豊臣家を奉じた勢力であり、名分としては、豊臣家に対抗することなど、この時点の家康には不可能だったのである([藤井二〇一一])。関ヶ原が豊臣という政治体制の改変を目指すものにはならなかったことが、後の家康にとってシガラミとなっていく』

『関ヶ原合戦の本質は、政権内部で家康を排斥したいグループと、天下人家康の地位を承認するグループとの分裂にあった』

『一六〇三年二月の将軍就任以後は、家康は秀頼に臣下の礼を取らなくなり、大名たちも家康のみに年頭の挨拶をするようになった。将軍職という名分を手に入れたことによって、家康は豊臣家の長老という立場から抜きん出て、独自の天下人となることができたわけだ([藤井二〇一一])』

『一六〇五年には将軍職が家康から秀忠へと譲られ、これにより将軍職は徳川家の世襲とすることが内外に示された。二代将軍の誕生は、後世の江戸幕府の歴史を知っている私たちからすると、徳川政権が安泰に継承されていった証左であるように思えるが、家康周辺には予断を許さない状況が続いていた』

『家康が将軍となった一六〇三年に秀頼は内大臣に、秀忠が将軍となった一六〇五年には右大臣へと、摂関家相当の昇進を順調に遂げている。 家康は、秀忠の娘千姫を秀頼に嫁がせて姻戚関係を結ぶとともに、一六一一年の後水尾天皇即位に合わせ京都二条城で秀頼と対面し、表向きは秀頼を臣従させることに成功する。これにより、秀頼が天下人となる可能性は潰えた。家康は歳月をかけて影響力を及ぼそうとし、対する豊臣方では折につけて抵抗する様子も見られたが、結果として妥協を余儀なくされていった。両者のパワーバランスは徳川優位に展開していくが、緊張は、大坂の陣で豊臣家が軍事的に自滅するまで続いていく』

 なるほどなあ、確かに関ケ原の戦いの後、家康は伏見城に入り豊臣秀頼の後見人になるわけで、そこで豊臣政権が倒されたわけではなく、実際に豊臣政権が倒されたのは、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣においてである。ただし、実際に徳川家康が実質的に権力を握ったのは、やはり関ヶ原の戦いの後伏見城に入ったことによるものだろう。

 なお、本書では秀吉と家康の政治の連続性を、その対外政策、特に対中国(当時は明)政策と対朝鮮政策、対琉球政策について述べているのだが、考えて見れば、中国に対してはなるべく刺激しないようにして、しかし、あまり近寄らないようにしつつ、朝鮮に対しては下に見て、秀吉の時代は攻め込んでみたり、臣下の立場を取らせたりしている訳なのだが、なんか、それって今でも同じじゃないんだろうか。

 結局、日本のそれらの国々に対する態度って昔から変わらなかったのだなあ。遣唐使、遣隋使の時代から、中国に対しては下手に出つつ、朝鮮に対しては上から目線でもって、時には蹂躙したりしている訳なのだ。秀吉の時代と明治・昭和の頃には対中国政策も積極策に出て攻め込んでみようとしたり、実質的に侵略してみたりしているが、それは多分その時その時の政治家の判断で積極策に出て見たり、消極策を取っているだけなのかも知れない。

 琉球に対しては完全に下に見る対応で、それは現在に至るも全く変わっていないところを見ると、なんか歴史の連続性だけじゃない、日本人の考え方に変化がない証左みたいである。民主党の鳩山政権時代には若干変化が見られたようだが、その後、自民党が政権に返り咲いてからは昔の通り、まるで現代の琉球処分みたいな扱い方だもんなあ。

 う~ん、日本人の本質って変化がないというものなのかなあ。

 まあ、それは考えて見ればフランスとドイツの関係や、ドイツと東ヨーロッパの関係、ドイツと南ヨーロッパの関係も、昔からあまり変わっている様子もないし、ロシアと周辺国の関係も歴史的に見るとあまり大きな変化は見えてこない。これも、レーニン時代にちょっと変化の兆しはあったんだけれども、スターリン時代になってまたもとのロシアと属国状態になってしまった。

 国と国の関係なんてそんなものなのだろうか。それが国民性っていうものなのだろうか。

 だとしたら、ちょっと残念でもある。

『天下統一 ――秀吉から家康へ』(黒島敏著/講談社現代新書/2015年12月1日刊)

2015年12月24日 (木)

『厨房男子』を上映している名演小劇場という映画館について

 ところで『厨房男子』を上映している、名演小劇場ってどんな劇場なんだろう。

 場所は名古屋市中区の錦通り、東山線栄駅と新栄駅のちょうど真ん中あたりにある。両方の駅からもちょっと遠い。それがちょっと残念。CBCからは近いんだけどもね。

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 もともと名古屋には名古屋演劇同好会(略称:名演)というのがあって、この名演が1972年1月9日、総工費8,500万円をかけて東区東桜に竣工したのが名演会館ビル。ビルの4階から5階には固定座席(150席)・補助席(50席)合わせて200席を持つ名演小劇場が入った、という演劇のための劇場だった。

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 それが1980年代以降には、上演する劇団の固定化、観客層の高齢化、相次ぐ公共ホールの建設、厳しい財政状況などの問題が生じた。
 で、2003年2月、名演小劇場は1スクリーン(サロン1)を有する映画館としてリニューアルオープンすることになった。

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 劇場時代、名演会館ビルの1階は喫茶店と事務所に使用されていたが、2004年には49席のスクリーン(サロン2)に改装された。名演小劇場はサロン1とサロン2の2スクリーン体制となり、またサロン1も改装されて座席数は105席に減少。この年から映画上映を興行の中心に据え、本格的な映画館として再出発を切った。

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 名古屋には名古屋シネマテークや、若松孝二がオーナーだったシネマスコーレなどのミニシアターがあるが、もともと演劇用だったとはいえそんなミニシアターの大先輩。

 現在の興行の中心は映画上映だが、年7回は演劇の公演を行っているそうだ。

 で、上から三番目の写真に写っている「アンジェリカの微笑み」っていう映画、なんかライカM3とそれを使って撮影しているフォトグラファーがポスター右下に写っている。面白そうだな見に行くか。

Photo

『厨房男子』はコッチだよ

2015年12月23日 (水)

『ラオスにいったい何があるというんですか?』

『日本からラオスのルアンプラバンの街に行く直行便はないので、どこかで飛行機を乗り継がなくてはならない。バンコックかハノイを中継地点にするのが一般的だ。僕の場合は途中ハノイで一泊したのだが、そのときヴェトナムの人に「どうしてまたラオスなんかに行くんですか?」と不審そうな顔で質問された。その言外には「ヴェトナムにない、いったい何がラオスにあるというんですか?」というニュアンスが読み取れた』

 というのがこの紀行集のタイトルの理由なんだが。その結果は……

『「ラオス(なんか)にいったい何があるんですか?」というヴェトナムの人の質問に対して僕は今のところ、まだ明確な答えを持たない。僕がラオスから持ち帰ったものといえば、ささやかな土産物のほかには、いくつかの光景の記憶だけだ。でもその風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている。そのときの心の震えが思い出せる』

 というもの。

 確かにある国のある場所に行ったからと言って、そこに何を見いだすのかなんてことは、予め分かっていることではないだろし、予め分かっていて、それを確認するための旅なんて、なんてつまらない旅なんだろう。

『「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である』

 うん、格好良い。良すぎる。

Photo_2 『ラオスにいったい何があるというんですか?』(村上春樹著/文藝春秋/2015年11月20日刊)

 行った場所を目次から拾うと以下の通り。

チャールズ河畔の小径 ボストン1
緑の苔と温泉のあるところ アイスランド
おいしいものが食べたい オレゴン州ポートランド メイン州ポートランド
懐かしいふたつの島で ミコノス島 スペッツェス島
もしタイムマシーンがあったなら ニューヨークのジャズ・クラブ
シベリウスとカウリスマキを訪ねて フィンランド
大いなるメコン川の畔で ルアンプラバン(ラオス)
野球と鯨とドーナッツ ボストン2
白い道と赤いワイン トスカナ(イタリア)
漱石からくまモンまで 熊本県 (日本)

 作家ならではの自分の書いたものと、長期滞在した場所の関係論がある。

『かつて住民の一人として日々の生活を送った場所を、しばしの歳月を経たあとに旅行者として訪れるのは、なかなか悪くないものだ。そこにはあなたの何年かぶんの人生が、切り取られて保存されている。潮の引いた砂浜についたひとつながりの足跡のように、くっきりと』

『僕が暮らしたのは実際には、ボストンとはチャールズ河を挟んだ向かい側にあるケンブリッジ市だが、この二つの市は生活圏としてはほとんどひとつだ』

 って、やっぱり格好良すぎ。

『当時僕らが暮らしていたユニットは、外から見る限りそのままだった。何ひとつ変わってはいない。19番のユニット。白い漆喰の壁と、青く塗られた柱。そこで僕は『ノルウェイの森』の最初の数章を書いた。とても寒かったことを記憶している。12月、クリスマスの少し前のことだった。部屋には小さな電気ストーブひとつしかなかった。分厚いセーターを着て、震えながら原稿を書いた。当時はまだワープロを使っていなかったから、大学ノートにボールペンでこりこりと字を書いていた』

『昔ながらの木造漁船を造る小さな造船所から、とんとんという木槌の響きが聞こえてくる。どことなく懐かしい音だ。規則正しい音がふと止み、それから少ししてまた聞こえる。そういうところはちっとも変わっていない。その木槌の音に耳を澄ませていると、二十四年前に心が戻っていく。当時の僕は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説を書き上げ、次の作品『ノルウェイの森』の執筆に取りかかることを考えている三十代半ばの作家だった。「若手作家」という部類にいちおう属していた』

『僕は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のフィンランドのシーンをすべて想像で書いてしまってから、このフィンランド取材に行きました。なんだか自分の足跡をひとつひとつたどるみたいに。そういう意味では興味深い旅でした』

『1980年代の後半に、断続的にではあるけれど二年か三年、ローマに住んだことがある。市内でアパートメントを借りて(少しでもましな環境を求めて、三軒ほど渡り歩いた)、そこで小説を書いていた。作家という職業のありがたい点はなんといっても、ペンと紙さえあれば世界中(だいたい)どこでも仕事ができることだ。パソコンもインターネットも携帯電話もフェデックスも、まだ一般的ではない時代だったから、日常的にいろいろと不便なことも多かった。郵便さえ満足に届かなかった。しかし不便さもいったん馴れてしまえば、そして「そういうものだ」と覚悟さえ決めてしまえば、まあそれなりに悪くないものだった。ローマで暮らしていると、日本は地球の裏側の、遥か遠い異国になってしまう。日本に残してきたいろんなものごとは、望遠鏡を逆さに覗いたときのように、小さく霞んでよく見えなくなってしまう。そういう土地で僕は集中して『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』という二冊の長編小説を書き、一冊分の短編小説を書いた』

 こんなことを私も書いてみたい。

 このブログにもたまに紀行文みたいなものも書くんだけれども、それに紐づけされた小説を持っている訳じゃない。勿論、その小説に作家が住んでいる場所についての情報が記されているわけではない。しかし、読者がその場所に行って、「ああ、村上春樹はここで『ノルウェイの森』を書いたんだってことを知ることは、読者のその旅を豊かなものにするだろう。

 旅はそこに行って、その場所の情報を得るばかりではない。その場所とは何の関係もない情報を得ることも旅の愉しみである。我々が旅に行く時に旅のガイドブックではない、関係ない小説を必ず本を持って行くのも、多分、後から「ああ、あの旅の時に読んだ本だ」ということで、旅を豊かにする「モノ」であることを我々は知っているからなんだ。

 ただ単なる「時間つぶし」ではない。

『ラオスにいったい何があるというんですか?』(村上春樹著/文藝春秋/2015年11月20日刊

2015年12月22日 (火)

『厨房男子』は楽しいドキュメンタリー

 巷では『SW』の話題で満載だが……。

 私の友人の高野史枝氏の映画『厨房男子』が19日から名古屋でジミーに公開されている。えっ? 公開規模小さすぎるって? まあ、それはもともと地味なドキュメンタリーなんだから仕方がない。

 しかし、こんな楽しいドキュメンタリーって、あってもいいんだろうか? って、自分もジャンルは違うが、学生の頃に「楽しいドキュメンタリーがあってもいいんじゃないか」ということで企画したことがあったことを思い出した。

Photo 『厨房男子』(企画・製作・監督   高野史枝/撮影:城間典子/製作進行:欧陽蔚怡/写真:岡村靖子・上水哲也・佐治秀保/タイトル文字:キムホノ/ロゴ製作:安達一輝(あだちデザイン製作所)/HP・チラシ製作:大池香奈子/製作協力:「自由空間」兼松春実・「イーストの会」浅野由美子・映画ゼミ ・ミューいしがせ(石ヶ瀬会館)/copyright@厨房男子を作る会)

 高野さんは名古屋市緑区出身。愛知大学卒業後、講談社出版販売㈱名古屋支店に入社し、同時にシナリオ教室などに通いラジオ脚本やテレビ番組の構成作家などを会社員と並行して始める。会社員から独立後は放送作家やフリーライターとして本格的に活動を開始。フリーライターの仕事としてはグルメライターを主にこなし著書多数。当然、自分デブ化。その他、いくつかのメディアで映画評などを連載し、最近では東海ラジオや中日放送などでレギュラー出演中。

 といったところが彼女の紹介。講談社出版販売在社中に私と知り合いになったのだが、私が東京に転勤になってからは、毎年年賀状のやり取りをするというお付き合いだった。そんな彼女から「映画を作るのでカンパしてください」という手紙がきたのが今年の夏ごろか。10月には東京で最終編集作業をやっていたので、その現場を覗いて若干映像も見てきた。そんな映画『厨房男子』が完成し、12月19日から名古屋は名演小劇場で公開されたので、見てきたというところ。

 映画は8人と2グループの「厨房男子」をオムニバスで観察、それぞれのお互いに異なる厨房男子事情を描いている。う~ん、まったく異なるんだよな。

 まずは「フレンチは手間ヒマかかる」という高野裕夫氏。名前の通り監督の高野氏のご主人。あれっ? テレビの音響効果マンじゃなかったのかな? と思ったのだがその通り。その裕夫氏がいつの間にかフランス料理のケータリングシェフになっていたのだ。が、しかし朝の3時に起きてお昼の支度って時間かけ過ぎじゃない? 面白いのはいちいち計量の度に電卓が出てくるところ。まあ、元音効マンとしては、何でもキチンとしていなければ満足できない……って、ところでしょうか。まあ、小さなモノ(音)を一つづつ積み上げていくっていのが、フランス料理と音響の仕事の共通点なのかな。まあ、そんな技術者らしいシェフってのも面白いかもね。

 続いては「単身赴任でも大丈夫」なゴルフ場取締役社長の近藤清氏。鈴蘭高原カントリークラブは東海ラジオの経営。ということで元ラジオマンの近藤氏の第二の職場がゴルフ場ということ。ゴルフ場に隣接する別荘で単身赴任の近藤氏は庭で山菜を摘んで天ぷらを作り、一杯やるという優雅な暮らしを楽しんでいる。

「農園の風をそのまま食べる」寺園風氏は名古屋の出身だが、わざわざ三重県の農業高校を卒業して農家になっちゃった人。無農薬栽培で作った我が畑からのものばかりで食卓を飾る。まだ27歳の彼は一児のパパである。まあ、とにかく採ったモノは天ぷらか? って感じでしょうか。

 民放アナウンサーの宮田和音氏はカレーに絶対の自信がある。が、しかしそれはフリー・アナウンサーの妻の作戦でもあった。つまり、初めてカレーを作った宮田氏の腕前を褒めることで、以降はカレーは宮田氏が作ることになってしまった、というので「進化するパパカレー」。どう進化したのかというと、最初の頃はひき肉ばかりのカレーだったのが、娘が「塊の肉の入ったカレーが食べたい」と言うのを聞いて、次からはリブロース・カレーになったりとか。それで、その後も次々にリクエストが出る度に、カレーは進化。ということになってしまったようなのだ。現在は東京にいる娘の家には、パパのカレー・レシピがあって、時々、そのレシピでカレーを作って、友達に振る舞っているとのこと。

「パンの三銃士」は読んで字の如し、女性の個人宅パン教室にかよう男3人のお話し。しかし、パン焼くだけでも「厨房男子」なのかなあ。

 代表作「性別が、ない!」で知られるギャグ漫画家・新井祥氏のアシスタントうさきこう氏はゲイ。住み込みアシスタントのうさき氏が料理担当ということで、「美しき料理人、金目鯛をさばく」ということで、金目鯛のアクアパッツァを作る。しかし、ゲイでも「厨房男子」なんだろうか、というのがちょっと疑問。確かに医学的には「男子」なのかもしれないけれどもね。

 書家でコピーライター、編集者の墨拙氏は、数年前に母親と妹を亡くし、妻とも離婚してひとり暮らし。午後早くから始める夕食(というか食事は一日にこれだけみたい)は延々8時間は続くという。「料理はすべて酒の肴」で10種類以上、ほとんどが野菜プラス肉一皿。8時間かけて食事というか一人酒。その後8時間眠り。翌朝起きて、午前中に数時間仕事というところなんだろう。まあ、なんか殆ど死んでいるような時間が流れる。墨拙氏の家から見えている隣の家の屋根越しに見える空も、なんか「死んでいる」んだなあ。

 設計事務所勤務の大澤新平氏こそはチラシに登場する(上の写真の真ん中の)人であります。NPO法人の理事を務めるパートナーが2~3ヶ月に一回自宅で女子会を催すときの料理担当を務める。で「女子会全力サポート」。特にパーティー料理っていう訳ではないけれども、特に種類が豊富。女子会終了後の後片付けは女子の担当。女子会終了後の満足そうな大澤氏。「いやあ、最近モテちゃって」だそうだ。うん、この人はまだまだ生臭い。

 高野裕樹氏とは読んで字の如し、監督の高野史枝氏と音効マン裕夫氏のご子息。共働きの高野夫妻(というか史枝氏)は、息子が自分で料理ができるような男にしたい、ということで幼いころから「マイ包丁」を持たせたそうな。で「36歳、料理歴は30年」って凄いな。そのおかげで大学生時代も留学時代も外食は一切なし、だったそうだ。とにかく30年の料理歴は凄い。手際の良さなんてものじゃない。その料理のスピードたるや帰りの新幹線のぞみ号並だ、って比喩がおかしい?

 で、最後が怒涛のコロッケ作り編。愛知県大府市には石ヶ瀬会館(ミューいしがせ)というのがあって、「男女共同参画社会を目指して”集まる” ”学ぶ” ”語り合う”交流・交歓の場」 になっており、そこに「メンズカレッジ&男楽会」というのがあって、そこの料理教室で腕を磨いたシニア男性たちが約3000個のコロッケを作って、大府市のお祭りで売ろうというのだ。題して「定年後の男子45人が怒涛のコロッケつくり」。まあ、約3000個って半端じゃない量であります。玉ねぎだって涙無しじゃあ刻めません。

 というのが映画の内容紹介。

 まあ、ちょっと散漫な印象もあるけれども、そこは高野氏は計算済みなんだろうな。多少、散漫な印象を持たれたっていい、むしろ楽しそうに料理にいそしむ「厨房男子」ってこんなにいるんだぞ、っていうことを言いたかったんだろう。そう、実はこんな映画にならくても、料理・調理を楽しんでいる男っていっぱいいるんです。まあ、後片付けをするかどうかで、カミさんからはいろいろな評価を頂くんですけれどもね。

 考えて見ればこれからは「男女共同参画社会」を目指そうというんだから、男だって、子供を産むことは無理だけど、厨房に立つ位のことはできて当たり前の社会になって行かなければいけないんだろうな。

 この映画では、まだ、しかし、言ってみればそんな前期状態の男の料理の様ではある。つまり、まだまだ「アタマから入る料理」だってこと。女性が料理するような時の「当たり前感」があるのは、高野裕樹氏位のもので、まだまだかな。

 まあ、「料理は哲学だ」って言っちゃえば、そんな前期状態の言い訳にはなるんだけれどもね。

 問題は、自分で料理をした後に後片付けをするかどうかだな。

Dsc_00103企画・製作・監督の高野史枝さんです。ちなみに、パンフレットの黄色い〇は「〇○焼き」だそうです。

映画『厨房男子』は12月19日から、名古屋市中区名演小劇場で公開中。

 東京で公開されるのはいつごろになるんだろうか。楽しみだな。

公式サイトはコチラ(あるいはこのブログの右下に公式サイトへのリンクがありますので、それをポチしてください)

2015年12月21日 (月)

名古屋、行ったところ、見たもの

 実は12月19日から名古屋の名演小劇場というところで、10月11日のブログで紹介した高野史枝さんのドキュメンタリー『厨房男子』が公開になり、早速見に行ってきたんだが、映画の紹介は明日にして、取り敢えず今日は私が1979年から1984年まで、4年半ほど過ごした名古屋という街を紹介。

 まあ、名古屋と言えばテレビ塔ですね(笑)。まあ、行ったことはないですが。

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 そのテレビ塔があるのが名古屋市中区栄というところ。そこから市営地下鉄東山線に乗って20分ほどのところにある駅が一社(いっしゃ)駅といって、そこが私が在名時代に住んでいたところ。

 住所的には、名古屋市名東区高社(なごやしめいとうくたかやしろ)というところ。

「名東区」という名前の通り、名古屋市の一番東にある区で、ちょっと車で走れば東名高速の名古屋インターがあり、そこを過ぎればもう瀬戸市という場所。まあ東京で言えば練馬区みたいなもんだ。

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 下の写真の道をちょいと行けば、もう東名高速であります。

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 で、その一社駅から10分ほど歩いたところにあるのが、この「高社ハイツ」という、私が以前住んでいたマンションがまだあった! もう30年も過ぎているんだけれどもね。私が住んでいた頃は2DKで35,000円/月の家賃だったが、現在は6万円ほどのようだ。30年ほど経っていろことを考えれば、お買い得?

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 ただし、30年ほど前までの名東区は「名古屋で唯一名古屋弁が聞こえてこない街」と言われるくらい、「よそ者」が多い街だったんだけれども、マンションの前を通ったら名古屋ナンバーの車ばっかりで、だんだん名東区も名古屋になって来た、ってこと?

 で、一社から三つ先が終点の藤が丘。ここは名古屋万博のときにできた「リニモ」という電車との乗換駅になったので、多少は町の雰囲気は変わったかな? う~ん、あまり変わっていないかな。

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 で、一社駅から中心部に戻って、栄駅の一つ手前「新栄駅」で下りて、中部日本放送(CBC)脇の道を南下します。

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 CBC脇の飲み屋さん街を行くと……、しかし、なんかみんな韓国飲食店になっているなあなんて感じで歩いています。

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 このマンションのあったあたりが、昔講談社名古屋支社、講談社出版販売名古屋支店、キングレコード名古屋支社があったビルの場所。今は全然面影はない。

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 で、講談社名古屋支社から「空港線」(昔そんな名前はあったかなあ?)という道を瓦町交差点を渡ったすぐ傍が「女子大小路」という名古屋一の繁華街というか飲み屋街があったところ。

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 しかし、それも今は昔。こんな公園になっている。もう女子大小路はないんですね。

 まあ、30年ひと昔なんてそんなものでしょう。

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f/2.8-4 D @Nagoya City (c)tsunoken

2015年12月20日 (日)

文京区の木

 文京区の木は「いちょう(銀杏)」、ちなみに文京区の花は「つつじ」、なあんてことを書いてのっけから失礼します。

 何故か、文京シビックセンター前の礫川公園には銀杏が植わっていないのだ。文京区立の公園なのに、何故だ?!

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 でも、確かに文京区には銀杏が多い。

 これは護国寺の境内。

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 大塚警察前から筑波大付属に上がる坂、「付属横坂」っていうなんか面白くない名前の坂だけど、そこにもちゃんと銀杏並木が。

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 坂を上がった上の春日通りには(文京区のメインストリートにもかかわらず)銀杏並木はないけれど、途中の竹早高校の庭にはちゃんと銀杏が植わっています。

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 まあ、ここ本郷通りはまさしく銀杏の絨毯。我が家は本郷通りからは少し離れているけれども、ベランダには銀杏の枯れ葉が舞い降りてきます。

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 本郷通り沿いの吉祥寺にも銀杏。

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 旧中山道も本郷追分から白山までは銀杏並木じゃないけれども、東洋大学の前から白山通りとの合流点までは銀杏並木。

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 でも、やっぱり大学と銀杏って言ったら、ここか。

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NIKON Df AF NIKKOR 28-85mm f/2.8-4 D @Bunkyo Ward (c)tsunoken

2015年12月19日 (土)

『日本は本当に戦争をする国になるのか?』戦争をする国にはならないだろうが「戦争をしてもいい国」にはなるだろう。

 池上彰氏の解説は本当に分かりやすい。分かりやすいんだけれども、そんなに分かりやすく解説しちゃっていいの? という気分にもさせられる。

 世の中、もうちょっと複雑なんじゃないだろうか?

Photo『日本は本当に戦争をする国になるのか?』(池上彰著/SB新書/2015年12月15日刊)

 2013年9月10日 オバマ米大統領はシリア問題に関する10日のテレビ演説で、「米国は世界の警察官ではないとの考えに同意する」と述べ、米国の歴代政権が担ってきた世界の安全保障に責任を負う役割は担わない考えを明確にした。

 つまりアメリカは最早世界の紛争すべてに係わるような警察官ではなくて、アメリカの存亡に係わることだけをする、普通の国家になるんだっていうこと。それはアメリカ国内の厭戦気分が増大したということと同時に、アメリカが世界の紛争すべてに係われるような国力も失っているということの表明でもあるのだ。

 ということは、アメリカの同盟国は自分の国は自分で守らなければいけないということと同時に、アメリカの同盟国と同じ同盟に入っている国の紛争にも自国が係わなければいけないということ。つまり、自分の国は憲法で「交戦権は認められてはいない」ので、隣の同盟国で他国と戦闘状態になってもウチの国は知らないよということはできない、ということなのである。それはいずれ自国の自衛権の問題になるからね。

 2013年のオバマ発言でもって、日本も「個別的自衛権」だけじゃなくて「集団的自衛権」にも踏み出すことになることは、予め分かっていたことなのだ。本当はだからこその憲法9条の改正だったんじゃないだろうか。

『2015年夏の国会内外での論戦は、日本の防衛とはどうあるべきか、憲法をどう扱うべきか、私たちが深く考える機会を与えてくれました。
 ただし、その論戦は、集団的自衛権が認められるかどうかという憲法論議と、日本の防衛はどうあるべきかという安全保障論議とが同時に展開されたため、一般の人たちに極めて理解しにくいものとなりました』

 っていう、まさしくその点なんだよなあ。本当は「憲法第9条をどうするか」ということであり、「憲法第9条をどう解釈するか」ってことじゃなかったんだけれどもなあ。

『今回の安保関連法をめぐる議論で一番大きな問題は、関連法に反対の人と賛成の人との間で、まったく議論が嚙み合わなかったという点でしょう』

『賛成の人たちが協調していたのは東アジア情勢の変化です』

『中国や北朝鮮などが日本にとって脅威になっている。それに対応して自衛隊の活動範囲を広げる必要があるのではないか。とりわけアメリカとの関係をさらに緊密化することで、アメリカが日本を助けてくれることになる。だからこの安保関連法は日本への攻撃に対する抑止力になるのだ、という考え方です』

『そもそも「集団的自衛権の行使が憲法の解釈として認められるのか、あるいは違反しているのか」という問題と「日本を取り巻く東アジア情勢が緊迫している。さあ、どうするのか」という問題は、切り離して別々に考えるべき問題です』

『東アジア情勢が変わってきて日本にとって脅威が増している。だからアメリカとの関係をさらに強化しなければいけない、というのであれば、「では憲法を変えましょう」という方向へ話を進めるべきなのです』

『今回、集団的自衛権を認めるめるべきだと言っている人たちの中には、憲法改正はすぐにできそうにないから、それなら解釈を変えてしまおうという、御都合主義的な発想に走った人たちがいたのです』

『憲法学者から批判が出たのは「憲法改正には、まず国民の理解を得たうえで、国民投票を経るなどの手続きを要し、かなりの労力と時間がかかるのは確かだ。しかし、解釈を変えるだけなら、政府の判断だけで憲法を変えてしまうに等しく、民主主義国にあるまじきことである」という点です』

『東アジア情勢が緊迫し、日本にとっての危機が高まっているというのであれば、それを国民に訴え、「憲法改正が必要だ」と粘り強く言うべきだったのに、政府はそういう道を選びませんでした。解釈を変えることで手っ取り早く何とかしてしまおうという焦りが、安倍内閣にはあったのではないかと思われます』

 勿論、今回の安保法案に反対の人たちもいるんだが、問題はそんな人たちにもある。

『一方、「安保法案は憲法違反だ」と言う反対派の人たちも、「では、今の東アジア情勢についてはどうするのか」という議論については、はっきりしません』

『「安保法案は憲法違反である」という前提から出発して、「憲法違反だから憲法を変えよう」と言うのか、それとも「今の憲法を守って集団的自衛権の行使は認めない」とするのか。後者の場合、さらに一歩踏み込んで、日本を取り巻く情勢についてはどうするのか。これまで通りの対応でいいのか、もし対応を変えるとしたら、具体的にどうしたらいいのか。そういったことを、きちんと議論する必要があったのではないでしょうか』

 ふむふむ、村上さんの説法は本当に分かりやすい。

 が、しかし、問題はそこからなのだ。

 結局、自民・公明の与党は「憲法」なんてどうにでも解釈できるものなのだという、「思考停止」状態になってしまって、これからは数で野党を上回れば自分たちは何でもできるという、まさしくファシズム政体と同じ状態になってきている。ただ、ファシズムと違うのは憲法自体はまだ生きているので、そんな独裁主義ではあっても選挙という国民の審判を受け入れなければならないという点である。

『自民党はすでに憲法改正草案を発表し、安倍首相も憲法改正を悲願としていますが、憲法9条の条文を変えなくても、憲法解釈を変えたことでほとんど目的を達してしまいました。解釈変更によって実質的に憲法を変えたのと同じ効果が得られたということです。これを解釈改憲と言います。これだけやればもう十分だということで、憲法改正の動きはむしろ遠ざかるのではないか、という指摘が出ています』

 まあ、そうは言っても「日本が戦争をする国」になるのかは、その時になっては国民の大多数が反対するから難しいだろうが、少なくとも「戦争をしてもいい国」になったのは事実。明治の「大日本国憲法」だって、「戦争をしてもいい国」ではあったけれども「戦争をする国」という規定はなかった。当たり前のことだが、そんなことは国の最高の法規で認める訳はないのだ。

 問題は、その時の最高権力者がどういう判断をするのかということ。

 安倍晋三氏が「今、すぐに戦争をする」という判断をするということは100%あり得ないが、今後の政権担当者がどんな判断をするのかということはわからない。

 本書のタイトル『日本は本当に戦争をする国になるのか?』に対する答えは、イエスであるけれども、それは同時に「日本が世界で普通に発言できる国」になったということでもある。

 問題は為政者がそれを「どう使って」「どういう判断をするのか」ということではないのか。それは当然国民がどう判断するかということだ。

 

『日本は本当に戦争をする国になるのか?』(池上彰著/SB新書/2015年12月15日刊)

2015年12月18日 (金)

新宿六景……別に意味はない……そこに意味がある

 え、別に何か意味のある写真ではない。

Dsc_00032

 単なる新宿のストレートスナップにすぎない。

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 街を歩きながらなんとなく撮った写真。

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 特にこれらの写真はJR新宿駅付近を歩いて撮っただけ。

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 でも、そうやって撮った写真を並べると、何か意味があるような気がするでしょう。

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 それが間違い。全然意味のない写真。

Dsc_00152

 でも新宿ってどこかモノクロームの街なんだよね。

Dsc_00242

 あまりにも色が毒々しいほどに豊富でありすぎる、ってのがその理由。

 つまり、意味を無化するために、モノクロームを選択したくなるのだ。

 そうすると「意味のない写真」が見事に出来上がる。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f/2.8 D @Shinjuku (c)tsunoken

2015年12月17日 (木)

『ニッポンAV最尖端』って、結構前衛的なんですね

 AV(アダルトビデオ)なんて、この「ネットでエロ動画見放題」の時代にまだあったんだ。

 それだけじゃなくて『83年に発売されたAVカタログ「月刊TVガイド ビデオコレクション臨時増刊 アダルト・ビデオ3000」(東京ニュース通信社)には成人映画のビデオ化も含め、14のジャンルに分けた索引がつけられている。(①ビデオマガジン②ポルノフィルム③ナマ撮り④ハウ・トゥー⑤SM&スカトロ⑥オナニー⑦キャンパスギャル⑧セーラー服ギャル⑨人妻・愛人・OL・マントル嬢⑩ロリータ⑪レズ・ホモ&ゲイ⑫レイプ⑬ドキュメント⑭アブノーマル)』なんて様々なジャンルがあったんだなあ。

Av_2 『ニッポンAV最尖端 欲望が生むクールジャパン』(藤木TDC著/文春文庫/2015年12月20日刊)

 といって、別にAVに詳しい訳ではないので、まず最初に「すこし長めのあとがき」に記された、「ニッポンAV最尖端」の歴史から見てみよう。

『80年代初頭に生まれたAVはこれまで3回、ブームのピークを迎えている。  第1のピークは82年から84年にかけて。ホームビデオの普及期であり、ビデオデッキという新商品を手にした庶民は、自宅で見られる成人向け動画=AVをこぞって手に入れようとした』

 フムフム

『第2のピークは87年から90年頃である。レンタル店の普及やデッキの廉価化で視聴環境が大衆化し、帝王・村西とおるの登場でAVの認知度が高まりソフトが充実した時代だ』

 なるほどねえ

『その後91~92年頃からAV業界は低迷の時期に入る。メーカーが増加し、商品価格のダンピング競争が始まって利幅は次第に薄くなった。ビデオカメラが小型高性能になり、誰でも簡単にハメ撮りAVが撮れる時代になると監督やスタッフの専門的職能の必要が薄れ、作品性の乏しいAVが作られるようになった。また倒産したメーカーから無修整テープが流出し、裏市場に有名女優の無修整ビデオが出回り、マニアはAV=表ビデオよりも裏ビデオに殺到する』

 とはいうものの

『同じ時期、雑誌や写真集ではヘア解禁(というか警察の容認)という画期的出来事があったが、AVの表現規制を独占的に担っていた日本ビデオ倫理協会(ビデ倫)はしばらくの間その解禁を認めず、視聴者はAVを時代遅れと感じ始める』

 そりゃそうだ

『ビデ倫に加盟しないヘア解禁派のセル専門AVが登場するのもこの時期だ』

 う~ん

『低迷期が長く続いたAV界に復活の兆しが見えたのは2000年を過ぎる頃だった。レンタルビデオとは別にセルAVのマーケットが確立したのである』

 なるほど

『だがAV業界は05年以降、新たなブームのピークを作ることができず、現在まで長くなだらかに市場の収縮が続く不況の中にある』

 それは残念ですね

『ただ、この10年間でAV女優の容姿のレベルは格段に上がった。それはAV以外の産業の不況と連動しているといわれる。つまり、かつてはファッションモデルやレースクイーン、やや格落ちしても銀座や六本木の水商売で生計を立てられた女性たちが職場を失い、やむを得ぬ気持ちでAV界へ集まって来るようになったのだ』

 うんうん、それはいいんだけれどもね

『ところが同じようにAVを買うユーザー側も不景気のまっただ中にあり、豪勢に大人買いできる富裕層は少なくなっている』

 そうだよね

『新作AVは1タイトル1000本売れれば大ヒット、500本でも黒字になる原価設定だが、そのペイラインすらなかなか超えられないと、中小のメーカーは嘆いている』

 ま、結局そういうことなんだよなあ。

『売れない中小メーカーの敵は大手メーカーだけでなく、無修整で見られる裏DVDやネットの動画配信も強力な商売がたきといえる』

 ネットでは見放題だもんなあ。ただし、AVみたいな「変化球」はなくて、まんまセックスの有り様を見せる、というのがネットのエロ。つまり、日本のAVができなかったからこその変化球はそこにはない。

 というのが日本のAV35年の歴史である。

しかし、考えようによってはよくもまあ35年も持ったもんだとも思える。「BUKKAKEビデオ」に始まって「自力走行バイブロボット」「シーメールビデオ」「地球の辺境を目指すAV」「格闘技ポルノ」「微乳ポルノ」などなど、そのアイデアには笑ってしまうが、それでもそれらを考え出す人たちは、それぞれ真剣な「売り物は何か」を考えた結果だと思えば、そこには日本人特有の生真面目さというのが窺い知れる。

 勿論、1980年代に生まれた当初のVHSは30分しか再生することができなかったという「新しいメディアの弱点」と「直接的な性交描写ができない日本の法制度」という二つの理由が、そんな百花繚乱なジャンルを生み出したわけであるが、それにしてもである。

『21世紀が近づくと、ロシア・東欧の状況はドラスティックに変わった。一党独裁の社会主義から資本主義、自由商業主義へイデオロギーの180度の転換が起きたのだ。ソビエト共産党の呪縛から解放された東欧の国々は当初、政治体制の民主化・自由化と引き換えに深刻な経済破綻を受け入れねばならなかったが、そうした国家の危機につけこんだのがアメリカと日本の巨大ポルノ産業だった。
 ソビエト共産党の呪縛から解放された東欧の国々は当初、政治体制の民主化・自由化と引き換えに深刻な経済破綻を受け入れねばならなかったが、そうした国家の危機につけこんだのがアメリカと日本の巨大ポルノ産業だった。
 東欧諸国の人民は貧しかったが、そこには世界でもっとも美しいといわれるスラヴ民族の女性たちがいた。困窮したロシアや東欧の少女たちは価値の高い外貨と引き換えに、積極的に裸体と性交をさらすことを受け入れた。東欧諸国が自由主義先進国のポルノ基地となるのは時間の問題だった。まずはアメリカのポルノメーカーが素人女優を発掘し、ポルノビデオに出演させて売り出した。日本のAV界も、もちろんそれに倣った』

 なんていうところは、やはりAVだとは言っても世界の歴史とは不可分にあるということなんだなあ。というか、モザイクという決定的に「エロ」でないものを取り入れなければならない日本のAVは必然的に表現の極北を往かなければならないということなんだろうなあ。

 そういう意味では、もしかしたら「ニッポンAV最尖端」とは、映画やテレビなどの他の映像媒体ではあり得ない、前衛的な表現を常に取り入れなければ生きていけない映像なのかもしれない。

 そんな前衛的な映像媒体が、単純に男女のセックスのありさまをただ単に描いただけのネットの動画に負けてしまったことは、ちょっとは残念なところではある。

『ニッポンAV最尖端 欲望が生むクールジャパン』(藤木TDC著/文春文庫/2015年12月20日刊)本書は2011年8月8日コアマガジンから刊行された『アダルトビデオ最尖端~身体と性欲の革命史~』を改題したものなので、データが少し古いです。

2015年12月16日 (水)

DAIDO in COLOR

 昨日から原宿のコープオリンピア裏のマンション・神宮ハイツにある、アートスペースAMというところで森山大道氏の珍しいカラー写真ばっかりの写真展「DAIDO in COLOR」という催しが始まった。

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 森山大道氏と言えば、その圧倒的な物量のモノクロームの「アレ・ブレ・ボケ」で有名だが、写真誌などのアサインメントでカラーも撮影していたのだ。

「モノクロームは、プリントで操作をしたり粒子を荒らしたりできるが、カラーではできないし、考えていないんです。カラーでは、ニッポンの東京の俗っぽい場所や生々しい色を撮っている。単純にいうと、モノクロームには、象性、象徴性、抽象性があるけれど、カラーには、ポップでクリアーでジャンク、いい意味でペラペラな感じがあるね。より心情的なモノクローム、より通俗的なカラー。自分の中にも両方があるわけだから、どちらも自分。分けることはできないんだよ」(公式サイトより)

 という森山氏だが、しかし、カラーでも森山氏が撮影すると、なんか靄がかかったりしたり、荒々しく毒々しい色になったりしている。まあ、そこがやはり森山氏の森山氏らしいところなんだけれども。

 まあ、カラーネガ/ポジに関しては、あまり手を入れることはできないだろう。でも、それをプリントにする段階で結構手はいれられるんだけれどもね。でも、写真家であまりそれをしている人はいない。要は、モノクロは写真家の表現だからいろいろと手を入れる。しかし、カラーはカメラの要素なんだから、手を入れない、ってことなんだろうかな。

 もっとも、モノクロームの方が「色」という大事な情報を削ぎ落してしまっているだけに、モノゴトの本質というのが見えて来るような気がするのは錯覚だろうか。逆に言えば、カラーはその圧倒的な情報量でもって我々に迫ってくるわけで、その分、本質からは遠く離れて、まさしく「ペラペラな感じ」になってしまうのだ。我々が見えている世界は、実はそのように見えているようではなくて、見えていないものを見なければいけないんだ、というように。そのようにモノクロームの世界は教えてくれるようだ。

 さらにアサインメントであるからか女性のヌードも散見できるのだが、それらのヌードを見ると、何故か森山氏の横須賀写真での画面の手前から奥の方へ逃げるかのように去って行く少女の写真を思い起こしてしまう。

「現在は、ストリートスナップはほとんどデジタルカメラを使っているのですが、当時も今も、相変わらず同じものに興味がわき、視線が向かうんです。視界がとらえようとする欲望の対象が、まったく変わらない。車や建物時代や風景がどんなに変わったとしても、街には必ず人がいる。人と街との混沌とした関係は変わっていないんですよ。実にリアルで面白い。カメラを持って街に出れば、そのときの僕の体内のセンサーのありようで、いろいろなものを撮るわけだけれど、どの時代にも、街には、コメディやエレジーやドラマ…すべてが包括されている。街は、ステージでありミュージアムでありスタジアムであり、興味がつきないね」(公式サイトより)

 まあ、カメラがどうの、レンズがどうのなんて言っているようでは、到底、森山写真には近づけないだろう。プロであればどんな機材でも即座に使いこなして撮影できなければならないわけで、森山氏のようにコンパクトカメラ一本ですべての写真を撮れるようでないとダメなんだなあ。う~ん、ニコンのフルフレームがどうのなんて言ってるようじゃ、まあフォトグラファーじゃなくてカメラマンなんだよな、所詮は……スミマセン。

 しかし、昨日は初日でまだまだ準備中という感じだったので、もう少ししたら再度でかけよう。昨日とその時で、どんなふうに写真の見え方が変わるのか。

 アートスペースAMがある神宮ハイツはごく普通のマンションなので、前を通り過ごしてしまいがちだ。コープオリンピア裏のこんなマンションが神宮ハイツ。入り口は2階なのでワンフロア上がるとアートスペースAMがある。

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 アートスペースAMの入り口もこんな感じでごく普通のマンションの専有スペースの入り口という感じ。

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Daidoincolor

「DAIDO in COKOR」は来年の1月30日までアートスペースAMにて開催。

アートスペースAMの公式サイトはコチラ

NIKON Df AF NIOOKOR 20mm f/2.8 D @Omotesandou Shibuya (c)tsunoken

 って言ってるところでフォトグラファー失格だってことはわかっているんですけれどもね。」

2015年12月15日 (火)

新井宿、赤山城址

 先日紹介した「安行」のそばに「新井宿」という場所がある。

「宿」というのなら、それは岩槻街道(日光御成道)の宿場町かなと思ったのだが、その近辺の岩槻街道の宿場は「川口宿」「鳩ケ谷宿」というのがあって、岩槻街道の旧道を行って鳩ケ谷支庁(旧鳩ケ谷市役所)を過ぎたところなどは、まさしく昔の宿場町という風情だ。

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 で、埼玉高速鉄道の新井宿駅の方へ行くと、もう完全に町外れで宿場町という感じではない。

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 で、そんな新井宿駅前の道を少し行くと「赤山城址入口」という碑が立っている。

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 中へ入って見ると、赤山城跡(赤山陣屋跡)の碑と説明書きがある。

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『赤山陣屋は、関東郡代伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つで、寛永6年(1629年)頃伊奈家3代忠治によって創建されたものである』

 ということだ。つまり戦の為の城というよりは郡役所という位置づけ。

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 それでも周囲には堀や土塁が築かれており、基本的に当時は、多少は戦にも備えている、という形を整えていなければけないという、こともあったのかも知れない。

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 ただし、そんな堀の周囲は完全に農地や竹藪に覆われていて、往時を偲ばせるものは入り口のそばの日枝神社くらいだろうか。

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 それでも現在の地図に重ね合わせて作ってある「赤山陣屋配置図」を見ると、本丸、二の丸、出丸など配した、かなり大きい城域であることがわかる。

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 ところでこの新井宿の南東側には、東京都足立区西新井(西新井大師があるところ)というところがある。新井宿のそばにも西新井宿という場所があるのだが、この足立区の西新井と西新井宿の関係がどうなっているんだろう。

 これについてはあまり資料がないんですね。元々は武蔵國北足立郡足立村であって、同じ村だったんだとおもうんですけれどもね。 これは調べて見る価値はあるなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f/2.8 D @Arai-shuku Kawaguchi (c)tsunoken

 

2015年12月14日 (月)

『がちナショナリズム』の見えない恐ろしさについて

 いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが変わってきているというのだ。

『いわゆるネトウヨと称されている人は、居場所も出番もなく経済的にも困窮している人、つまり社会的な底辺層が多いと言われることも多かった。その中でも、とりわけ“しんどい若者”の憂さ晴らしが路上のヘイトデモという構図だ』

 と言われていたものが、最近ではそうじゃなくなってきているそうなのだ。

『「ネトウヨの中心は“低学歴ニート”ではなく、大都市在住の三〇代~四〇代ミドルクラス」と分析している』

 というのだ、えっ? えっ? えっ? それはどういうことだ。

Photo_2 『がちナショナリズム――「愛国者」たちの不安の正体』(香山リカ著/ちくま新書/2015年12月10日刊)

『おそらくミドルクラスよりさらに富裕層に近い、外資系ネトウヨ、開業医ネトウヨなども基本的にはこの「ナショナリズム―新自由主義者」スペクトラムに位置づけられるのだろう。しかし、彼らがより“新しい”のは、彼らは愛国心の持ち主というレベルを超えた先鋭的な人種差別主義者や国粋主義者であり、それと同時に「お金儲けってそんなに悪い事ですか?」的な拝金主義者、いわゆる新自由主義者であるということだ。つまり、ナショナリズムか新自由主義のどちらかにより傾いているのではなく、どちらの張りもマックスに振りきれているのだ。
 さらに、彼らハイクラス・ネトウヨに見られる第三の特徴は、その高学歴からは考えられないことだが、反知性主義であるということだ。先ほども述べたように、彼らは明らかに無知な“従来型ネトウヨ”の下劣な発言もためらうことなく拡散する。例えば「あの反日学者の本名は朴念仁」などという噴飯モノのつぶやきを、なぜ「国際学会でニースから帰国、早くもフランス料理が恋しくて成田から三ッ星レストランに直行」というドクターがリツイートするのか』

『いずれにしても、「ナショナリズム」「新自由主義」「反知性主義」の三題噺のオチは、悪夢のような悲惨なものになるだろう。なぜこうなった。いつこうなった。過去を振る変えることじたい、今は「後ろ向き」と言って嫌われるようになったが、ここでもう一度だけ考えてみよう。何も五〇年、一〇〇年の昔を想像する必要はない。ほんの十数年、時間をさかのぼるだけで見えてくるものがある』

 ということで十数年、時間を遡ると、そこには日韓ワールドカップがあった。

『日韓ワールドカップを契機とした若者の「ぷちナショナリズム」、新自由主義的な小泉政権時代に不安を抱えた個人の「〈癒し〉としてのナショナリズム気分」が、現実的な権力を持つ政党の理念と合体し、ひとつの大きな水脈を作り始めた。それが二〇〇五年以降だった、と言えるのではないだろうか』

 それが

『「普通」の軸がすこしずつ保守的な方へ、とずれていった。そしてネットによりそのゆがみがさらに増大し、いつのまにか「〈癒し〉としてのナショナリズム気分」は、激しい自己肯定を促し、ついには他国を貶めることで自国の誇と自信を確保しようとする排外主義にまでその足を踏み出してしまったのである』

 つまり日韓ワールドカップの時には20代の若者だった人たちが、「ぷちナショナリズム」に目覚め、その気分の良さに親しみ、その人たちが十数年過ぎて「大都市在住の三〇代~四〇代ミドルクラス」のネトウヨに成長し、「在特会」に代表されるような排外主義にまで至るような「外れたナショナリズム」にまで行ってしまったんだろうか。

『先に「ニッポン大好き」「ニッポンがんばれ」といった屈託ない、無邪気な“ニッポンびいき”に「愛国心」という核が与えられた、と述べたが、実はそらは正確な表現ではない。正確に説明すると、その核は「他国の軽蔑、排除ではじめて成り立つ愛国心」となる。ここでいう他国とは、とくに中国、韓国、北朝鮮といった東アジア諸国を指す』

『日本人なら日本語が話せる、日本人なら安倍政権を支持する、日本人なら愛国心がある、日本人なら中国や韓国が嫌い……。彼らにとってこのことは、遺伝子レベルでプログラムされた、しごく当然のことに思えるのだろう』

『そして、この人たちに対しては、いくら「生まれつきの愛国心」とか「血やDNAに刻まれたナショナリズム」などというものはない、と説明しても、「それがサヨクの洗脳だ」といっさい聴く耳を持ってもらえないことは言うまでもない。
 そうなるとこれはもう「ぷちナショナリズム」どころの話でも、「偏狭なナショナリズム」ですらなく、ある意味の「神話的ナショナリズム」、もっと言えば「妄想ナショナリズム」として言えないものである』

 その結果として

『安倍首相や閣僚たちは、第二次政権以降、有権者たちからの期待と熱狂に祭り上げられ、「傲慢症候群」と呼ばれる状態に陥っていると考えている』

「傲慢症候群」とは「権力の座にある者に起きる特有の人格の変化」であり、例えば「謙虚だった同僚が首相を始めとする要職につくと次第に尊大になり、「聞き役」だったはずがいつの間にかいっさい人の話を聞かずに自分の功績やビジョンを一方的に話しまくるとようになる」というような症例があるそうだ。

 つまり、最近の阿部首相の発言によくある「(憲法解釈の)最高の責任者は私です」「国民から選ばれた内閣総理大臣が最高指揮官である」といった発言は、本来は国家権力の外側にあって、国家権力が暴走をするのを留める歯止めという、本来の憲法のあり方におおいに矛盾する発言なのである。ところが、こうした安倍首相の発を批判する発言をする論者たちの前に、ネトウヨ諸君は立ち止まって、「首相には発言の自由がある」「安倍首相を批判するなんてもってのほかだ」などのいう悪罵を書き込むんだなあ。

 そりゃあ、ネトウヨ諸君がどんなことをネットに書き込むのはそれはネトウヨ諸君自身の責任において自由だ。しかし、それは安倍首相への批判者においても、同様に自由でなければいけない。そうすることによって、初めて発言の自由、思想の自由というものが保障される。

 一方、政治家には「発言の自由」はない。政治家にはその属する政党があり、その綱領には自ずとその政党に属する議員の行動に対する規範があるのだ。その綱領に許された範囲でしか発言や行動の自由はない。いやならば、その政党を離れるだけである。

 つまり、政治家は公人である以上、それなりに行動、発言には制限が付されるということなのだ。その辺をはき違えて理解するとトンでもない未来が待っているのである。つまりは、それがまさしく「言論弾圧」だってことさ。

 つまり、それがファシズムなのではないか、というのが本書の論考であります。

『ドイツでナチスを支持していた人たちも、当時は「私はファシズムにかかわっている」という自覚はなかったはずだ。石田勇治氏の『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書・二〇一五年)には、とくにナチスの初期には国民はヒトラーを「平和主義者」だと思って支持していた、という衝撃の事実が史料とともに記されていた。人が「あれはファシズムだった。私はそうとも知らずに支持していた」と気づくのは、いつもすべてのできごとが終わってからなのである』

 つまり、「私はファシストではない」と考えているネトウヨのあなたたち。あなたたちはすでにファシストなのかもしれないということを自覚しなければいけない……、ってことなんだよな。

 まあ、自覚的なファシストにこんなことを言っても無駄だとは思うけれどもね。

『がちナショナリズム――「愛国者」たちの不安の正体』(香山リカ著/ちくま新書/2015年12月10日刊)

2015年12月13日 (日)

貴方は「パンターニ派」?、それとも「アームストロング派」?

 自転車好きの連中には「ランス・アームストロング派」というのと「マルコ・パンターニ派」という二大派閥があるのだ。というか、「あったのだが」という方が相応しいか。

Photo 『パンターニ/海賊と呼ばれたサイクリスト(THE ACCIDENTAL DEATH OF CYCLIST)』(監督:ジェイムズ・エルスキン/出演:マルコ・パンターニ、パオロ・パンターニ、トニーナ・パンターニ他)

「ランス・アームストロング派」とは、彼が癌から復帰して、厳しいトレーニングを重ねて、遂にツール・ド・フランスで七連覇を成し得て、なおかつ自転車選手として現役の間はドーピング検査にもすべて通ったというところから、自転車に対しては真面目派、慎重派、ツールのみに照準を当てて他のレースは捨てたというところから、競技に対してはストイック、というスタイルを好む。

 一方「マルコ・パンターニ派」とは、ヒルクライムになると途端にアタックする自転車スタイルやスキンヘッドの異様なスタイルから瞬発派、1999年、ジロ・ディ・イタリア中にドーピングがバレて最終ステージを残して途中棄権しなければならなかった競技への向かい方などから、ラテン的な享楽派、などといったスタイルを好む。

 で、結局どうなったのかと言えば、ランス・アームストロングは引退後、ドーピングがバレてツール七連覇の記録は抹消ということになり、今やどうしているのか?

 一方、マルコ・パンターニは1998年のジロ・ディ・イタリア、ツール・ド・フランスの同一年二大ツール制覇(「ダブル・ツール」という)の時はドーピングがバレていないので、いまだにダブル・ツールの記録は残っている。とは言うものの、パンターニは2004年リミニの小さなホテルでコカインの大量摂取という「自殺」なのか「自死」なのか、はたまた「他殺」なのか分からない謎の死を遂げてしまう。

 ちなみに、ダブル・ツール達成者はパンターニの前には6人いて、ファウスト・コッピ(1949年、1952年)、ジャック・アンティクル(1964年)、エディ・メルクス(1970年、1972年、1974年)、ベルナール・イノー(1982年、1985年)、ステファン・ロッシュ(1987年)、ミゲル・インデュライン(1992年、1993年)ときて、1998年のマルコ・パンターニと続く。更に、ランス・アームストロングはジロ・ディ・イタリアとツール・ド・フランスの間の期間が短いため、ツールを優先しジロには出ていない。この辺が、二人の天才の運命を分けてしまったんだけれどもね。

 基本的に、ランス・アームストロング派は、自転車競技に薬物ドーピングやEPOなどの、自分の力以上に何かに頼ることに対して批判的だ。つまり「自転車競技はクリーンでなくてはならない」と考える人達。一方、マルコ・パンターニ派は、自転車競技の過酷さから、ある程度のドーピングなどは(本当はあっちゃいけないことはわかっているんだけれども)「必要悪であるとも考えなければならない」と考える人達。とは言うものの、ランスのツール・ド・フランス七連覇記録抹消で、実は日本における「ランス・アームストロング派」という人達は消滅しちゃったんだ。

 ポール・キメイジが著書『ラフ・ライド』で書いた言葉。

『ビジネスのモラルはなく、自転車競技はビジネスになった。テレビ会社が小切手を手に入り込み、企業の販売部員と莫大なスポンサー料がぴったりとそのあとに続いた。今はすべてが金次第だ。同じことをしてもテレビに映れば大きく見える。おかげで自転車は人も羨む地位を手に入れた。プロスポーツにモラルはなく、アマチュアスポーツは存在しなくなって久しい。金、金、金。テレビスポーツはビッグビジネスとなり、レースを組織してポケットを膨らませる人は多い。彼らはドーピングスキャンダルを忌み嫌う。悪い評判が立つと、人気が陰り、スポンサーが逃げだすからだ。
 噂は不愉快きわまりない情報源だ。事実は歪曲されることが多い。だが、火のないところに煙は立たない。ぼくはこれまで胸が悪くなるような腐敗の噂をいくつも耳にしてきた。チャンピオンにどんな薬物を摂ってもよしとしたレース主催者の話、検査機関に決して届かなかった尿のサンプルの話……。無節操に利益を追求する人々は、白状するより隠すことに魅力を感じる。だが、潔く白状しないことによって、われわれは罪のない人をだまし、犠牲者を次々と吐き出している。
 ありがたいことに、このようなことはテレビ画面には映らない。卑劣な行為や取引や不愉快な話もそうだ。チャンピオンは拍手喝采を受けて当然だし、応援される権利もある。彼らが悪いわけではない。むしろかれらはわれわれの助けを必要としている。ぼくは黙っているべきだろうか。いや、そんなことはできない。それこそ沈黙の掟で利益を得る人々の思うつぼなのだから。彼らは、われわれが恐れて手を出さないこと、敬服するが異議を唱えないことを望んでいる。ところが、このぼくは異議を唱えている。こんなに美しいスポーツに対して……。』

 結局、途中の休日2日を挟んで23日間、トータル3,500kmを走る三大ツール(ジロ・ディ・イタリア、ツール・ド・フランス、ヴェルタ・ア・エスパーニャ)という競技の過酷さが、そんなドーピング・スキャンダルの元となっているのだ。ほとんど、毎日マラソンと同じようなエネルギーを消費しながら、三週間に亘って戦うレース。なので、毎日のレースの前半は皆三味線を弾きながら走っている。ただ単にプロトンの中での位置取りだけで、その日のレースの殆どを過ごし、最後の一時間程度だけが本当のレースだという三大ツール。最後のスプリント・ポイントとか、ヒルクライム区間だけが本当のレースという三大ツール。しかし、そのレース前半の位置取りこそが、その後の本当のレースにとって重要だという三大ツール。そして、そんなレース前半の位置取りレースだけが自分にとっての本当のレースだというアベレージ・レーサーにとっては、途中、体調が悪くなってしまって棄権をしてもいいエースと違って、とにかく23日間すべてを走りきりをしなければならないのである。とにかく、23日間走りきってフィニッシュしなければ彼らの存在価値はない。

 勿論、ランスやパンターニのようなエースにとってもドーピングは、ここ一番のスプリントあるいはヒルクライムの為には、ある意味では欠かせないものでなあるのだろうが、むしろ途中棄権をしてもいいエースという存在以上に、アベレージ・レーサーにとっては途中棄権ができない以上、ドーピングはそれ以上に重要な要素となってくるのである。三大ツールというものがいまやメディア・ビジネスの中での巨人である以上、最早、それをなくすことは不可能だろう。ということは、このスポーツが今後ともドーピングという問題とは不可分になるスポーツであると言えるだろう。

 スポーツというのは今はビジネスである。アマチュアスポーツであっても、今やビジネスと切り離しては考えられない状況になってきている。プロであれアマチュアであれ、競技の継続性を考えると、そこはビジネスと結びつかなければやっていけない状況なのである。正月の「箱根駅伝」しかりである。

 ランス・アームストロングとマリオ・パンターニという二人の天才を分けてしまったドーピングという問題。しかし、パンターニの場合は、それ以上に「イタリアにおける自転車競技の賭博化」という問題があったということが、この映画でも語られる。

 1999年のジロ・ディ・イタリアにおけるドーピング問題は、まさしくこの年から施行された「ジロ・ディ・イタリアTOTO」なんだなあ。そのためには必要以上にドーピングには神経質にならなければならない事情が、イタリア政府側にはあった。そのための犠牲のカナリヤにパンターニは当たってしまったのである。

 なんともなあな状況ではあるのだが、ドーピングというのは、本当はあってはならないものではある。が、しかし、競技の過酷性から考えると、やはり「仕方がないのかな」という問題でもある。

 かといって、三大ツールがなくなってしまったら、自転車競技への関心は完全になくなってしまうだろうから、UCIとしては大きな問題だ。

 今後とも、UCIとしては、こうした三大ツールとドーピング問題との綱渡りを続けて行くんだろうなあ。

 ところでこの映画、ドキュメンタリーなんだけれども、一種の再現ドキュメンタリーの部分があって、そこにでてくるパンターニのそっくりさんが、本当にそっくりなんでビックリ、という部分も楽しめる映画であります。

映画『パンターニ』は新宿シネマカリテにて公開中。今後、地方展開も。

公式サイトはコチラ

2015年12月12日 (土)

『23区格差』ってそういうことだったんだなあ

「東京の一人勝ち」という状況は最早当たり前である訳だが、当然そんな東京の中でも格差はある訳で、しかし、そんな格差を如何にして縮めるか、逆転するかといった競争がある訳で、そんな激しい競争を行っているからこそ、またまた「東京の一人勝ち」が進行していくんだなあ。

23 『23区格差』(池田利道著/中公新書ラクレ/2015年11月10日刊)

『序章 多極化する23区に生まれる「格差」』『第1章 23区常識の「ウソ」』『第2章 ニーズで読み解く23区格差』『第3章 年収・学歴・職業が非凡な区、平凡な区』ときて『第4章 23区の通信簿』『最終章 住んでいい区・よくない区を見極める方法』という構成なんだが、まず初めに『第4章 23区の通信簿』に飛んでしまいます。

 何故って、そのランク付けが意外だったのである。

まず「Aクラス 1、新宿区 2、渋谷区 3、品川区 4、港区 5、世田谷区 6、目黒区」はまあ、分からないではない。次に「Bクラス 7、中野区 8、千代田区 9、中央区 10、練馬区 11、杉並区 12、江戸川区」で、えっ? となる。「Cクラス 13、葛飾区 14、台東区 15、豊島区 16、大田区 17、板橋区」なんでなんで? 「Dクラス 18、墨田区 19、文京区 20、足立区 21、江東区 22、荒川区 23、北区」なんである。

 我が文京区は、まあAクラスは無理でもせめてBクラスには入っていると思ったのに、何でDクラスなんだろう?

『山の手は、江戸時代には大名屋敷をはじめとした高級武家地という、ある種の閉ざされた世界だった。これが明治・大正の時代に、住宅地へと姿を変える。
 その中心は港区と文京区。だから、この両区を取り巻いて走る電車を山手線という。昭和になると、山の手も拡大を始める。主要なベクトルは、下町とは180度異なる南西方向。こうして渋谷区南西部から目黒区、世田谷区、杉並区南部などを中心とした、今日の山の手エリアが形成されて行った』

 というのだから、元祖山の手(多分それは文京区西片エリアと白山、本駒込あたり)が中心の文京区は当然、上位クラスに入ると思っていた。

 ところが、申し訳ないが墨田、足立、江東、荒川、北と同じレベルのDクラス?

 何故なんだろう。

 で、Dクラスの文京区に関する記述。

『東の端は根津・千駄木の谷。これに続くのが本郷の丘。区のほぼ中央に指ヶ谷・千川の谷。後楽園はこの谷の入り口部分にあたるから、地下鉄丸ノ内線が地上に顔を出る。西側には小石川・目白の丘が広がり、南側の神田川沿いは平川の谷となる。丘と谷を結ぶ坂の数は113とも、120を超えるともいわれる。
 丘の上の象徴は大学だ。そもそも文京区の名前自体が「ふみのみやこ」、つまり「学問の府」という意味からつけられている。区内に本部をおく大学は12校にのぼり、千代田区の14校に次いで多い。うち国立大学は、東京大学、東京医科歯科大学、お茶の水女子大学の3校。23区内に本部をおく7校の半数近くが文京区に集まっている。筑波大学の前身である東京教育大学も、かつては文京区に本部をおいていた。
 区内居住者に占める大学生の割合は6.2%。区民の16人に1人が大学生という計算になる。
 この割合はもちろん23区最高で、23区平均(3.1%)の2倍を示す。学生だけでなく研究者も多く、就業者千人に対する研究者の割合は8.7人(23区内平均2.5人)。これまた圧倒的な第1位である。
 昨今、大学発ベンチャーが盛んだが、「本郷ブランド」の名もある医療機器製造業の集積は、大学との関係の中から生まれた産業の代表例といえるだろう。医療用機械器具・医療用品製造業の出荷額は、23区全体の3割近くを文京区が占めている。
 丘の上を象徴するもうひとつの存在はお屋敷だ。白山、西片、本駒込、目白などには、閑静という言葉を通り越した風格あるお屋敷街が広がっている』

 っていう文京区がなんでDクラス? なんか、もう充分Aクラスでしょ。

 まあ、近年数多く見られるマンション建設がその人口増の理由であり、最近人口増があるってのが、多分、Dクラスになったという理由なのかなあ。

 文京区の人口増に寄与したマンションの建設というのは、基本的に幹線道路沿い、不忍通り、白山通り、本郷通り、春日通り沿いに、高さ規制が緩んで中層マンションが出来てきたことによるものだろう。

 ただし、このマンション増はあまり文京区の人口増には寄与していないようだ。つまり、今私が済んでいるマンションも、それまでの平均住民年齢は多分65~75歳だったのが、建替えなって、新しい住民が増えたことによって20歳位は平均年齢は下がってきており、年寄りばっかりがいたマンションに子供たちの声が聞こえるようなマンションになって喜んでいたものが、しかし、そのマンションに引っ越してきた人達の前住居地を聞いてみたら、やはり同じ文京区が多いのだった。

 つまり、文京区の賃貸マンションに住んでいた人たちが、やはり同じ文京区で分譲マンションができたので、そこに移り住んできたという人たちが多いようなのだ。つまり、文京区ってのは、山の手と下町が混在していて結構住みやすい町なので、一度住んでしまうと、あまりその区からは出たくなくなってしまう街。つまり、人口動態的には「新陳代謝のない街」なのかもしれない。その辺がDクラスな区なのかな。まあ、同じDクラスの区に「墨田、足立、江東、荒川、北」という、いわばヤンキー度(ジモティが多い場所)が高い場所があるというのもそれと同じ理由かもしれない。

 っていうことは、本当は文京区っていい街じゃん。

 定住するにはいい街ってことは、逆に言えば「区から出て行ったり、入って来たり」という人が少ないという意味では「新陳代謝のない街」なんだけれども、その「新陳代謝のない街」というものを逆に使えばいい方法もあるかも知れない。もっとも、「新陳代謝のある街」をこれから生き生きとなる街、と捉える人たちにとっては、マイナスなんだよな。で、文京区はDランク。

 じゃあ、Dランクでもいいってこともあるわけですね。

「新陳代謝がない街=人口高齢化が進む街」なんだけれども、だったら、そうした高齢者が住みやすい街というものを目指したらいいのである。

「町中、ジジィやババアがいる街=文京区」ってのも、あるかもしれない。問題、そんな「ジジィやババア」の知恵が活かせる場所があれば一番いいんだけれどもね。

『23区格差』(池田利道著/中公新書ラクレ/2015年11月10日刊)電子版が出るのはちょっと先になりそうだ。

2015年12月11日 (金)

『エコプロダクツ2015』って、言ってみればテーマがないのと同じなんだよなあ

 去年までトヨタカップって言っていた「FIFAクラブチームワールドカップ2015」が昨日から始まったが、「エコプロダクツ2015」も昨日から東京ビッグサイトで始まった、って何の関係もないか。

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 まあ、とにかく「エコ」な取り組みをしている企業や地方公共団体、学校なんかも「何でも参加OK」というとにかく大風呂敷を広げたイベントなので、まあ、トッ散らかっているというか、何がポイントのイベントなのかがよく分からない。

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 なので、上の写真のようなメーカーから、流通業……

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 化粧品会社だって「エコ」をやっていれば参加OKなんだもんなあ。

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 でも、やっぱり私の興味はクルマメーカーに行ってしまうんですね。

 上のトヨタMIRAIはENEOSのブースにあったモデルで、トヨタブースではカットアウェイモデルが展示されていた。プリウスと同じくらいのボディサイズかなと思っていたら、結構大きくて、マークXと同じくらいのサイズ。それに載っているパワーユニットの小ささからすれば、かなり居住性は良くなる筈だ。これは友人のH川氏の家にMIRAIが届いたら、即、チェックだな。

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 ホンダもトヨタと同じく燃料で走るCLARITYを展示。ってことになると、三菱自動車やMAZDA、SUBARUのPHEVはちょっと見劣りしてしまいますね。

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 おおっ! 工学院大学の究極のエコカー、ソーラーカーレースに出たクルマがブリジストンブースに! カッコイイなあ。普通のソーラーカーっていうと、戦闘機のキャノピーみたいな運転席があるのが普通なんだけれども、これはそれがない。ボディ上面はツルンとした形状なのであります。当然、その分空気抵抗は少ない。当然、運転席は厳しい(多分、寝そべって運転)。であります。

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 いやいやいやいや、出てきましたねえ。『バック・トウ・ザ・フューチャー』のデロリアンであります。ゴミを燃やして走る究極のエコカー……。でも、そうか「ゴミを燃やす」のだから、その排気ガスはどうするの?

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 とまあ、クルマ産業に興味があるもんだから、そっちばっかり見てきましたが。

 勿論、それだけではなくてこんな地方公共団体や……

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 ん? なんで全農? なんてのもあったり。

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 なんで「太鼓の達人」がエコなのよ……なんてツッコミはなしね。

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 最後は「エコプロダクツ」でもって、一番「エコ」じゃない人たちです。ああ、スイマセン、「吸います」ってな写真です。しかし、東京ビッグサイト、「喫煙場所拡大中」って、それだけ煙草吸いが多いんですかなあ。

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「エコプロダクツ2015」は12月12日まで開催中。

公式サイトはコチラ。事前登録をしておくと入りやすいです。

NIKON Df AF NIKKOR 24-85mm f/2.8-4 D IF @Tokyo Big Sight (c)tsunoken

2015年12月10日 (木)

『木村伊兵衛のパリ』って、あれ?

 三省堂池袋本店開店のご祝儀で買った本なのだが、なんかどこかで見たことがある写真ばっかりだなあと思っていたら、やっぱりそれは「ポケット版」ということで、オリジナル版を既に知っていたんだなあ。

Dscf70083 『木村伊兵衛のパリ ポケット版』(監修:田沼武能/著者:木村伊兵衛/朝日新聞出版/2014年12月30日刊)

 ということで、いくつか木村写真をピックアップ。

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 木村氏はニコンSとライカM3を持って、フジ・ネガカラーでもって1954年と1955年にパリを撮影している。多分レンズは50mmオンリー。

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 写しだされている人々の服装を見れば、いかにも1950年代のパリだが、実は街並みは現在でもあまり変わっていないに違いない。

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 そんな古い街並みが残されているのがパリの良さであり、常に変わっていくのが東京の良さである。

 パリも新市街の方へ行くと昔とは大分変っているのだろうが、まだまだ旧市街は昔の面影を残しているのだろう。

 あの、ジャン=リュック・ゴダールが『勝手にしやがれ』で活写したパリのイメージである。

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 子供たちも昔の子供たちと現在の子供たちでは変わっている筈だが……。

「粋なもんじゃないですか」

『木村伊兵衛のパリ ポケット版』(監修:田沼武能/著者:木村伊兵衛/朝日新聞出版/2014年12月30日刊)

オリジナル版はこちら

2015年12月 9日 (水)

『お盛んすぎる 江戸の男と女』は素人に限る

『お盛んすぎる 江戸の男と女』というから、それは玄人女のことかと思ったら、そうではないようなのですね。

『こと性に関するかぎり、素人のほうが大胆かつ野放図といってもよい面があった。というのは、玄人にはそれなりに遊里の掟があったが、素人にはそんな制約はなく、いわば淫欲のおもむくままだったからだ。
 結婚前の娘が男とセックスを謳歌するのはごく当たり前のことだったし、庶民のみならず武士の妻にも密通は多かった。武家屋敷では「不義密通はお家のご法度」など、どこ吹く風といおうか。
 性技(セックスのテクニック)に関しても、現代の男女がおこなっていることは江戸の男女もしていた。いや、現代以上かもしれない。これは本文であきらかにしていくが、性への欲望は江戸の男女のほうが現代人よりもはるかに大きかったし、しかも臆面もなく享楽していたからである』

 本書では江戸の性生活を大きく素人と玄人に分けて書いてあるが、そんなわけで主に素人の性生活の方が面白そうだ。

Photo 『お盛んすぎる 江戸の男と女』(永井義男著/朝日新書/2012年12月31日刊)

 で、その『一、素人の部』には何が書いてあるか。

『第一章 奔放な恋人たち (一)女は十五、六歳で性体験/(二)セックスを謳歌/(三)したがる男、応じる女/(四)性に飢えていた奥女中/(五)避妊をせずにしていた/(六)女医者は堕胎の専門/(七)心中の悲劇も/第二章 旺盛な夫婦 (一)夫婦の房事は官能的/(二)武士は結婚の日に対面/(三)庶民の結婚は気楽/(四)セックスレスとは無縁/(五)ませていた子供/(六)子供の性の悲劇も/第三章 密通はありふれたこと (一)密通は穏便に解決/(二)武士の密通は隠蔽/(三)庶民の密通はあっけらかん/(四)奉公人を誘惑/(五)夜這いは、し放題/(六)場所はどこでも/(七)貞節を守った処女妻/第四章 性技は百花繚乱 (一)着物を着たままの性行為/(二)季節限定の性技/(三)湯ぼぼ酒まら/(四)ごく普通だった口淫/(五)秘技と性具、媚薬/(六)変態、なんでもあり』

 という具合。それに比べると『二、玄人の部』は『第一章 おおらかに女郎買い』『第二章 遊里のいろいろ、その仕組み』『第三章 玄人のセックス、その値段』『第四章 遊里の掟と暗黒』という具合に、まあセックスそのものよりも、セックス(女郎買い)にまつわる周辺のことが書いてある。ので、ここでは『一、素人の部』からご紹介。

『春本『艶紫娯拾余帖』(天保期)に、当時の初夜の模様が書かれている――。
 天下晴れての新枕というのが婚礼の夜の床入なり。これを初床または水揚、俗には新鉢といい、手入らずのあらともいう。昔は知らず、いまどきの女の子に十五、六まで男の肌知らぬ娘もなけれど、表向きはどこまでも初めてのつもりなり』

『若いふたりはつい先日、初体験をした。その後、ふたりはセックスに夢中になった。しかも、女は感じるようになってきたではないか。男はそんな女の反応がうれしいが、いっぽうで疑念も生じる。書入れのなかの、ふたりの会話の一部を示そう――。
「おめえはいつぞや、初めてだと言ったが、本当か」
「本当にもなんにも、ついぞかわいいと思った人はほかにはないものを。無理ばっかりお言いだよ」
「まだ痛えか」
「いいえ」
 これまで感じるどころか、挿入のたびに痛いと言っていた。それで男が問いかけたのだが、女の「いいえ」という言葉少なな答えがなんともいじらしく、ほほえましい。
 いまでは男の指で陰部をくじられていると、こみあげてくる快感で思わず淫声を発しそうになる。女が歯で襦袢の襟を嚙みしめているのは、よがり声を抑えるためだった』

『もうひとつ、春本『絵本小町引』(享和二年)に描かれた、昼間の逢引の様子を紹介しよう。男は前髪があるので元服前、女も同じく十五歳くらいであろう――。
 男が秘部をしきりにながめようとするのを、女は恥ずかしがった。
「こうしては、いっそ恥ずかしゅうございます。あれさ、見てはいや、あれさ、見ちゃ、
どうもいや」
「見たとって減りゃあしめえし、いいわな。たとえどのような恥ずかしいこともかまわず打ち解けてするが信実というものだよ。恥ずかしがるうちが、まだ実が薄い」』

「見たとって減りゃしめえし」なんて、今でも男がよく使うフレーズで面白い。まあ、昔から男の考えることなんて変わりゃあしねえ、ってもんですね。

『破瓜(初体験)の情景が春本『花以嘉多』(天保八年)に描かれている――。
 男はようようのことで女を料理屋「山の藤」の二階座敷に連れ込んだ。さっそく口説きにかかる。
「コレサ、おめえはどうも野暮を言う子だ。マア、じっとしていなと言うのに。きょう、山の藤へ連れて来たのも大概、承知していながら」
「ナニ、おっ母さんに知れると悪い」
「知れたら連れて逃げるぶんだ。サア、もっとこっちへ寄んな。コレサ、また股座をつぼめるヨ。なぜ、そんなにいやがるだろう」
「それでも、なんだか怖いものを」
「アア」
「入れてみようか」
「どうとも」
 女は十五歳くらいだろうか。予期はしていても、いざとなると処女だけに恥ずかしさと恐怖が先に立つ。そんな女を男が強引に押し切り、破瓜に持ち込む』

「ナニ、おっ母さんに知れると悪い」 「知れたら連れて逃げるぶんだ」なんてのも同じ。「連れて逃げる」なんて甲斐性もないくせに、女の子の前では精一杯偉ぶって、要は速いとこその娘とヤりたいだけなあんだよなあ。まったく、もう。

『江戸の人々、とくに男は夫婦の閨房を描いた春画に官能をたかぶらせ、買い求めていたことになろう。需要があったからこそ絵師も手がけた』

『ふたつのことがいえよう。
 ひとつは、夫婦は安定した男女関係であり、いっしょに生活する期間も長い。世の中にはさまざまな男女の組み合わせがあるにしても、回数からするかぎり夫婦の性交がもっとも多いのではなかろうか。そう考えると、夫婦の房事が描かれるのは少しも不思議ではない。江戸の春画は性の実態をきちんと反映しているといえよう。
 もうひとつは、江戸では夫婦の房事が充分に官能的であり、猥褻感に満ちていると考えられていたことである。わざわざ春画に描かれたことからもそれはあきらかであろう』

 うーん、江戸時代のセックス描写は素人に限るか。それは言えそうだな。

『お盛んすぎる 江戸の男と女』(永井義男著/朝日新書/2012年12月31日刊)

2015年12月 8日 (火)

1日遅れの安行

 川口市の安行地区は土地がそのようなものに向いている、ということと東京の近郊ということで、園芸農業が盛んに行われている。

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 同じ埼玉県でも東側の低地は水田が多いのだが、ここ安行は安行台地と呼ばれ、水田よりは畑や園芸が盛んで、造園業なども多い。

 そんな、安行で植木栽培が盛んに行われるようになったのは今から390年ほど前だそうだ。つまり江戸時代の初期あたりなのだろうか。

 街として大きなものになりつつある江戸に向けた園芸ってわけなのだな。それだけ江戸は裕福だったという訳。

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 その安行の中心にあるのが、ここ「川口緑化センター 樹里安」であります。

 我が家からは下道走っても1時間位で着くので、よく利用したものだ。

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 外の会場はこんな庭木や盆栽が多く展示販売されており……

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 屋内会場では、今はシクラメンとか観葉植物の苗なんかが売られている。

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「道の駅 川口・あんぎょう」も併設されており、以前はサイクリングの途中によく寄ったものだ。

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 川口緑化センター 樹里安の前には安行植物取引所があって、こちらは卸売りをするところ。

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 ところで、何故「1日遅れ」なんでしょうかね?
 それは内緒。

「川口緑化センター 樹里安」の公式サイトはコチラ

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f/2.8 D @Angyo Kawaguchi (c)tsunoken

2015年12月 7日 (月)

銀座・京橋の冬

 ここ数年、銀座・京橋界隈の冬の夜が凄いことになっている。

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 12月3日には東京駅前のビルでちょっとした会議があって、その前に銀座で買い物をしていたのだが、そのついでにいろいろとスナップ。

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 以前は、銀座通りのお店の裏には普通の会社が入ったビルなんかがあり、それなりに銀座通りもビジネスマンの街でもあったのだが、最近はブランドショップが並んで、オフィスビルは品川方面の方とかに行ってしまっている。

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 で、銀座・京橋界隈は完全に「お買い物の街」。

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 で、過剰なほどのイルミネーションなわけですね。

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 もう、まるで原宿界隈みたい……。

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 ということで、こんな可愛いらしい彼女の幸せを祈って一枚パシャ。何の関係もないけどね。

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Fujifilm X10 @Ginza & Kyobashi (c)tsunoken

2015年12月 6日 (日)

三省堂池袋本店、本日オープン

 今年、7月21日のブログにも書いたように、「オトナの事情」で閉店したリブロに代わって、三省堂池袋本店が今日オープンする。

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 なので、昨日行った段階ではリブロでもメインだった、食品館から書籍館への通路の店舗は、今日のオープン目指して突貫工事中だった。

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 で、既に11月下旬にオープンしている書籍館の方をご紹介。

 まず、地下は児童書・木製玩具/サービスカウンター/電子書籍カウンターなどがある。

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 1階は生活実用/旅行・地図など。このフロアもそうだが、それぞれのフロアで書籍だけじゃなくて雑貨も売っている複合型の店舗になっている。

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 2階が学参/語学・辞書/洋書/法律・経済/資格・就職など。

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 3階がアート/文学/人文書/教育・保育。

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 ただし、このフロアの文学書の一部は新規にできる地下の店舗に移動になるのではないか。

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 4階が医学書・看護書/理工学書/コンピュータなどの他……

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 イベントスペースなんかもある。

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 ということで、池袋は再びジュンク堂、旭屋とリブロに代わって三省堂の三大店舗競合状態に戻ったわけだ。

 で、ご祝儀という訳じゃないが、3階で『木村伊兵衛のパリ ポケット版』を購入。

Dscf70082 『木村伊兵衛のパリ ポケット版』(監修:田沼武能/著者:木村伊兵衛/朝日新聞出版/2014年12月30日)

 あれ? この本、前に買ったことがあるような……

Fujifilm X10 @Ikebukuro (c)tsunoken

2015年12月 5日 (土)

『男性漂流』よりも読みたいもの

『男はつらいらしい』の著者のそれに次ぐ本だとなれば、またまた「生きるのがつらい」男たちの話が並んでいるんだなあ。

Photo 『男性漂流 男たちは何におびえているか』(奥田祥子著/講談社+α新書/2015年3月1日刊)

 各章の章題ごとに、それと冒頭の「こわい」文章を並べると以下の通り。

第一章 結婚がこわい
『「結婚したくて相手探しに頑張っているのに、今のところ結婚できない」ならまだしも、「『婚活』さえもしていないのか!」という「婚活」圧力が、結婚したいのにできない中年男性たちを脅えさせている』
『結婚について、「たまたましていないだけ」と言い張っていた男たちに「できない」自覚を促した効果はあったかもしれないが、こうした社会からの強力なプレッシャーが「できない」からの脱却をますます阻んでいるようの思えてならないのだが』

第二章 育児がこわい
『育児にいそしむ男性たちに、「イケメン」を一文字入れ替えた「イクメン」という名称が与えられ、注目を集めている。「育児を楽しむ、恰好いい男」を意味するらしい』
『男性が子育てに積極的に関わることは、女性の出産後の就労継続率を高め、少子化対策につながるという見解にも、確かに一理ある。だが一方で。実際に存在するのはごく少数にもかかわらず、「イクメン」が脚光を浴びれば浴びるほど、それが男性たちにとって精神的圧迫となり、自らを追い詰めているケースが少なくないのである』

第三章 介護がこわい
『家族の介護は女性が担うという時代は、今は昔。親や妻を介護する男性が増えている。それも、女性たちを補助する関わり方ではなく、他に代わってくれる人がいない、中心的に介護を行う「ケアメン」が』
『少子・高齢化、晩婚・非婚化が急速に進行する社会において、独身の息子が親を介護するケースは想像以上に広がっているのである。
 中年のシングル男性介護者は、自身が苦手とする家事や親の世話への戸惑いだけでなく。身近に苦難を理解、共感してくれる人がいないことから孤立しやすく、さらに問題を深刻化させている』

第四章 老いがこわい
『かつては女性の〝専売特許〟だったアンチエイジングだが、今では男性でも老いをこわがり、性機能の復活や薄毛の改善、筋肉の増強など、若返りに走る者が増えている。
「男にも更年期がある」と泌尿器科の医師を中心に診断、治療が始められてから十年余り。中年男性の不定愁訴的な心身の不調に「男性更年期障害」という病名がついたことで、原因も治療法も分からず思い悩んでいた人たちが安堵した反面、近年は実際には正常か「障害」か、不確かな人が自らそうであると訴えて医療機関を受診し、ホルモン補充療法や勃起不全(ED)治療薬の処方を受けて下半身を過剰に強化する事態にまでなっているのだ』

第五章 仕事がこわい
『もはや会社が社員の雇用を、まして生活までをも守ってくれる時代ではない。そんなことはとうに分かっている。だが、家族を養ってゆかねばならない。妻はというと、夫の収入が増え続けてゆく明るい未来などないことをすでに悟っており、ただ一家が路頭に迷うことのないよう「辞めさせられないでね」と迫ってくる。そんな会社と家庭の板挟みに苦しみながら、今日も仕事に打ち込む中年男性は少なくないのではないだろうか』
『正社員リストラのターゲットとされ、転職も難しく、苦境に立たされているのが、中年の男たちなのである。中間管理職として部下を査定することに頭を痛めながら自身の実績も思うように上げられずに心を病み、自主退職に追い込まれる者もいれば、正社員への道を閉ざされたまま思い煩い、怒りの矛先を同じ非正規雇用の女性に向けてしまう者もいる』

 こんな感じで「こわい」話を並べてみると、そのうち「饅頭こわい」なんてタイトルが出てきそうだけれども、まあ、これまで男性としては基本的に無視しても普通に生きてこられたものが、最近ではそうも行かなくなってきてしまっている、ということなんだなあ。

 以前ならば、結婚するかしないかは男女とも自由であったし、女性だって単身で子供を産んだって別に誰にも非難はされなかった(まあ一部では非難する人もいたけどね。でも、それはしょうがないじゃん)。「イクメン」問題は、多分1997年に改正になった男女雇用機会均等法あたりから広がった考え方で、仕事のやり方も男女の差別がなくなったんだから、家事や育児だって男女平等になるべきだということなのだろう。

 介護に関してはちょっと別の問題が出てきて、要は介護施設が足りないというところにきて、仕事がこわいという問題でも出てきている、非正規社員などの問題と複雑に絡んできている。育児と同様、介護も男性が参加しろという考え方に、仕事がなくなってしまった男性が、親の年金に頼りながら介護をするという「引きこもり型介護」なんて問題が出てきている。

「仕事がこわい」については、考え方の問題であり、別に「嫌なら仕事辞めちゃえば、それでも結構食っていくことはできるんだよ」というアドバイスで済んでしまう。

 まあ、この五つの「こわい」話の中では「老いがこわい」だけは別で、年をとって勃起もしなくなって寂しいというだけのことであり、普通に年寄りは年をとって行くもんだと開き直ればいいのである。

 で、取り敢えず本書で取り扱っている五つの「こわい」に共通して言えるのは「社会の同調圧力」ということなのだろう。

 結婚適齢期(って古い言葉だなあ)になったら結婚をして、子供が生まれたら妻と一緒になって子育てをし、親が介護が必要になったら夫婦で介護をし、適当に若返りながら、仕事に関しては普通に出世をして定年まで勤め上げるという、平凡な一生が人として一番幸せなのだ、という「同調圧力」だ。

 でも、そんな「人と同じ人生」を歩んでも、そのどこが面白いんだろうか。そんな一生を平凡に進めて、平凡に終わらせたところで、何が楽しいんだろう。勿論、平凡な一生だって、その生の一瞬一瞬は皆努力をしながら生きているということはある。そんな「平凡な人生」そのものに対する反対論が出てきてしまっているのである。

 しかし、たまたま、その「平凡」から外れてしまうことだってあるでしょう。その時に、「もう自分の一生は外れたままの人生になってしまう」と嘆くのではなくて、逆にその「外れた人生もまた自分の人生なんだ」と楽しみながら生きて行くというこのも、大事なんじゃないだろうか。

 というか、むしろ私として読みたいのは「男はつらいよ」ではなくて、「49歳、独身、母親の介護中」の奥田祥子さん自身のお話しなんだなあ。

 多分、「つらい男」たちの話よりも「女だってつらいのよ」という、奥田さんの自分語りの方が面白く読めるのではないだろうか……、と思うのだが。

『男性漂流 男たちは何におびえているか』(奥田祥子著/講談社+α新書/2015年3月1日刊)

2015年12月 4日 (金)

ラジオ体操発祥の地

 東京メトロ丸の内線の新大塚駅のそば、都立大塚病院の脇に大塚公園というのがある。春日通りを新大塚から大塚三丁目の交差点に向かって行くと左側。

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 なんでも「露檀(ろだん)」というのがあるイタリア・ルネサンス式庭園なのだという。

 下の写真、中央に写っているバルコニーみたいに出っ張っている所が露檀。イタリアではその下の丸いところが浅いトンネルになっているそうだ。

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 で、公園の中を歩いていると「ラジオ体操発祥の地」という看板がある。

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 えっ? ラジオ体操ってNHKのラジオでやっているから「ラジオ体操」なんであって、その「発祥の地」ってのがあるとしたら、それはNHKのスタジオなんじゃないだろうか、なんて考えて早速、ググッて見るとこうあった。

『1923年に保険事業に関する調査のため訪米した逓信省の猪熊貞治簡易保険局監督課長がメトロポリタン生命保険会社のラジオ体操の企画を知り、1925年7月に『逓信協会雑誌』で紹介した。猪熊は1927年8月、簡易保険局の会議において昭和天皇即位を祝う事業としてラジオ体操を提案。1928年5月24日に簡易保険局、日本生命保険会社協会、日本放送協会の三者が体操の考案を文部省に委嘱した。文部省では体育課長の北豊吉を委員長とし、体育研究所技師の大谷武一などを委員として検討を重ね、10月29日に「国民保健体操」の名称で発表、同年11月1日7:00に天皇の御大典記念事業の一環として東京中央放送局で放送を開始した』

 ね、やっぱりラジオ体操はラジオで放送したのが始まりでしょ。つまりNHKのスタジオがラジオ体操の発祥の地なのでは、ということなのだが。

 つまり、それは「ラジオ体操発祥の地」ではなくて、夏休みなんかにやる「ラジオ体操の会、発祥の地」のことだったのだ。

『ラジオ体操会は、1930年7月21日に神田万世橋署の面高巡査が、子供達が夏休みを楽しく過ごせる様にと千代田区神田佐久間町の佐久間公園で「早起きラジオ体操会」を実施したことが起源と言われ、同公園にはそれに因んだ記念碑が建てられている。同じ頃佐久間公園に程近い神田和泉町の宮川広場で実施された「全国ラジオ体操会」が起源と言う説もあるが、両者ともお互いが発祥の地であることを認め合っている。また文京区の大塚公園が発祥という説もあり、同公園内に発祥の地と記された体操する少年の銅像がある』

 ということ。

 しかし、本当の発祥の地はどこなんだろう。

 まあ、皆がみんな「我こそは発祥の地なり」って競って、それぞれ参加者を沢山集めたいんだろうから、どちらが「発祥の地」でもいいけれど、本当はどこなんだろう。

 気になるなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f/2.8 D @Otsuka Bunkyo (c)tsunoken

2015年12月 3日 (木)

『偽りの明治維新』で新たに暴かれたものはなかったけれども

 結局「正史」なんてものは勝者の歴史にすぎないわけで、それが「正しい歴史」かどうかをなんら証明するものではないのだ。

Photo 『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』(星亮一著/だいわ文庫/2008年1月15日刊)

 本書に書かれている大方のエピソードは既に知っているものばかりだ。なので最終章「屈折の明治」が一番面白い。

 なかでも『京都守護職始末』関係の記事が一番面白い。

『京都守護職始末』に書かれたいたエピソード、

『徳川慶喜と松平容保を朝敵と決めつけた討幕の密勅について、偽造のからくりを暴露した。それは正親町三条実愛公の証言だった。

問 薩長に賜った綸旨は何人の起草か。
答 玉松操の起草だ。
問 筆者は何人か。
答 薩摩は余が書いた。長州は中御門が書いた。このことは自分ら三人と岩倉具視のほか誰もしらない。

 この密勅はまったくの捏造だったのである』

 その『京都守護職始末』を編纂するにあたって、会津から転封を命じられた、新制斗南藩の大参事、山川浩はその後貴族院の議員となる。

『会津の正義を実証せんと山川が手に入れた確実な史料があった。孝明天皇の宸翰である。薩長がいかに会津を非難しようとも、松平容保こそもっとも信頼すべき人間だとした孝明天皇の宸翰は、薩長に打撃を与えること確実だった。
 貴族院の論客の一人、三浦梧楼は長州の出身である。山川と気が合い、藩閥政治には批判的だった。山川が三浦に宸翰のことを離すと、
「まさか」
 としばし沈黙し、信じようとしなかった。それではと主君から宸翰を借り受け、三浦に見せた。それは孝明天皇が御所に発砲した長州藩の暴挙に怒り、それを撃退した京都守護職、松平容保の忠節を称えたものであった。一読した三浦は見る見る顔面蒼白になり、
「山川どの、これは、いましばらくは公にいたさぬようお願いできぬか。これが出れば、伊藤博文総理も困ることになる。容保公にはまことに気の毒であった。このとおりだ」
 と山川に頭を下げ、深く溜め息をついた。この宸翰は長州の野望を鋭く突いており、孝明天皇は長州こそ朝敵だと糾弾していたのである。ところが孝明天皇が崩御するや、形成は逆転、明治天皇を玉と頂く長州が官軍となり、会津は朝敵に蹴落とされた。
 これそ歴史の欺瞞だった。明治維新は日本の近代化という美名にかくれた権力闘争であった。三浦があえて公表せぬよう山川に求めたのは、明治政府の権威が失墜することを恐れたからだった。それは日本の国体の崩壊につながりかねない、三浦はそう考えた』

『明治二六(1893)の秋、主君容保の病状が悪化した。容保はもともと蒲柳である。京都守護職時代は一年にわたって病床にあり、一時は危ないとまでいわれたが、若松に戻ってからは体調をとり戻し、山川らとともに、あの籠城戦を戦った。
 山川は日に二度、三度と容保を見舞った。容保はそのたびに、錦の布に包んだ竹筒をとり出し、そのなかにしまい込んだ孝明天皇の信任状、宸翰を見せ、
「山川、これを世に出してくれ」
 と何度も訴えた。山川は主君の想いを知るにつけ、一日も早く会津戊辰戦争史の編纂を進めなければ決意を新たにした』

 という「戊辰戦争」とは何か。

『慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いから、上野戦争、越後戦争、会津戊辰戦争と続き、明治二年(1869)五月の箱館戦争で終了する内戦である。会津は鳥羽伏見の戦いから長州や薩摩(鹿児島県)と敵対し、会津戊辰戦争で敗れるまでけっして屈しなかった』

『会津人のこだわりはいくつかある。一つは会津戊辰戦争における官軍という名の薩長軍の残虐行為である。
 錦旗、天皇の旗をかかげて会津に攻め込んだ官軍の実態は、帝の軍隊にほど遠いものだった。分捕り部隊が存在し、薩摩、長州が競って土蔵を封印し、略奪の限りをつくした。女性も分捕りの対象となった』

『二つは過酷な戦後処理である。戦死者の埋葬を許さなかった。戦死者の遺体は犬に食われ、烏につつかれた。さらにすべての財産は没収され、会津藩士とその家族惟一万数千人は、陸奥の下北半島に流罪となった』

『それにもまして会津人を苦しめたのは、朝敵、逆賊という汚名だった。幕末、会津藩主は京都守護職として京都にいた。孝明天皇から絶大な信頼を受け、御所に攻め込んだ長州勢を撃退、孝明天皇から宸翰(天皇直筆の文書)を受けとった。このとき攻め込んだ長州は朝敵である。
 それがいつの間にか逆になっていた。歴史のからくりである。会津藩を信頼した孝明天皇が奇怪な死をどげてから、幕末政治は逆転した。薩長が京都を制圧し、会津は京都から追われた。
 そして会津戊辰戦争が起こり、会津藩は玉砕した』

 とにかくそうしたごまかしの朝廷とのやりとり、会津藩への苛烈な処理などが、未だ続く会津・長州のいさかいの始まりなのである。

『平成一九年(2007)、会津と長州について新しい動きがいくつか出た。山口県出身の安倍晋三が総理在任中に会津若松市を訪れ、会津戊申戦争に関して「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあった』

 というけれど、所詮、発言が軽いことで有名な安倍晋三である。この時も、この安倍発言についての会津側の評価はいたって低かったようだ。

 結局、そんなことを言ったって、表面的な言葉だけでは、会津の人々の心を捉えることはできない。

 未だに、会津に行って「あの戦争」のことを聞くと、第二次世界大戦ではなくて、会津戊辰戦争なのである。

 明治維新が近代市民革命だったのかどうか、という論議がある。革命である以上、そこには流血の惨事があることはやむを得ない。勿論、革命のような一側面があるにせよ、結局それは武士同士の権力闘争として戦われたわけで、庶民の立場からすれば、十全な市民革命とは言えないだろう。であるならば、なおさらその戦いに武士以外の階級の財産を毀損する必然性はないだろう。

 そうしたことも含めて、会津藩士の末裔は長州のやり方を批判し非難し続けるのである。

 まあ、まさしく「勝てば官軍」を地で行った長州にそんなことを言ってもどこ吹く風だろうし、今更、資本主義に対する反革命が起きて封建主義が復活する可能性はゼロですけどね。

『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』(星亮一著/だいわ文庫/2008年1月15日刊)

2015年12月 2日 (水)

『さようなら』と簡単に別れられないのが(人間の)人生だ

 アンドロイドと人間の共演(あるいは共生)ってものがどんな形になるのだろうか、というのが興味の映画であります。

2 『さようなら』(原作:平田オリザ/脚本・監督:深田晃司/アンドロイドアドバイザー:石黒浩/製作:深田晃司、ブライアリー・ロング他/ファントムフィルム)

 舞台は近未来の日本、原子力発電所のいくつかで放射能漏れがあって、国際的な協力のもとに日本在住者は国外へ「難民」として移送されることになった。そんな移送の順番を待つだけの日々。主人公のターニャ(ブライアリー・ロング)は、昔父親が買ってくれたアンドロイドのレオナ(ジェミノイドF)と2人(?)だけで、町からかなり離れた郊外で暮らしている。

 会うのは、時折訪ねて来る恋人(新井浩之)や世話好きの女性の友人(村田牧子)くらいのもので、もともと病弱なターニャにとってレオナは数少ないターニャの「話し友だち」であり、ターニャが出歩きたくない時にはレオナが買い物にも出かけている。

 本当に「静かな映画」である。殆どのシーンは「ワンシーン・ワンカット」で捉えられていて、なおかつカメラは動かない。体調があまりよくない状態で見ていると、この映画はほとんど「眠りの映画」のように、眠ってしまうのではないだろうか。人によって違うだろうが、私は昔、アラン・レネ監督、アラン・ロブ=グリエ脚本のモノクロ作品『去年マリエンバードで』を見た時のことを思い出した。この映画は私の眠りのリズムに合っていたようで、何度見ても同じように眠ってしまい、なおかつその時の眠っている中で見る映画『去年マリエンバードで』はカラー作品なのであった。

 今回は若干風邪気味ではあったものの、それほど体調がすぐれないということでもなかったんだけれども、かなり眠りに落ちてしまう傾向はあった。この「静かな映画」も私の眠りのリズムに合っていたんだろうか。

 そんな「静かな映画」も少しづつだがスートーリーは進展する。

 恋人から結婚を提案されるターニャ。それは結婚すれば一緒の順番で同じ国へ移送されるということが理由だったのだけれども、何となく返事を躊躇するターニャ。アパルトヘイトがあった南アフリカの出身であるターニャにとって、よその国へ難民として移住することに対しての抵抗が若干あったのではないか。南アフリカでアパルトヘイトで差別されていた黒人が、アパルトヘイトがなくなった時に、黒人から白人への逆差別の現場を見てきていたことからくる、どことなく自らに至る恐怖があったのかも知れない。そんなうちに、恋人が家族と一緒に移送されてしまった連絡を受け取る。

「私は多分最後の移送順になるだろう」というターニャの女性の友人。昔、子供を殺したことがあるというのがその理由だ。別れた夫や、その友人が殺した弟の兄との面会をする友人だが、何となくぎくしゃくした再会。その内、夏祭りで燃え盛る炎の中に飛び込んで自らの命を絶つ友人。

 なにもかも、この国は「崩壊」へと進んでいる。

 体調の優れぬターニャも次第に家を出なくなり、引きこもりの日々を送って行くようになる。たまに訪ねて来る恋人も、ターニャを外に導いてくれる友人もいなくなってしまった。

 アンドロイドのレオナも、ターニャが知らない世界中の「詩」を教えてくれるけれども、言ってみればそれは「Wikipedia」的な知識の集大成にしかすぎない。艱難辛苦して覚えた「詩」ではなく、世界の集合知としての「詩」の知識でしかない訳で、それはそれであまり「知識の重み」を感じさせるものではない。

 次第に、生きていることの実感を覚えることなくなって来てしまっているターニャ。

 裸で家から出ることもなく、毎日、家の窓から外を眺めるだけの生活になっていくターニャ。

 その内に、ソファに裸のままで横になり、レオナに「私が眠るまで詩を謳って欲しい」と願うターニャ。

 自分が相手をしている「人間」の生体反応を感じることができるのか、できないのかは分からないが、いつしか「詩を謳う」ことをやめるレオナ。

 その内に「むくろ」となったターニャは、やがて白蝋化し、その内またさらに白骨化してしまうターニャ。まあ、この辺のVFXは上手くやったもんだとしか言いようはないが、どこか恐ろしさというよりは神々しさの方が上にたつ。

 レオナはどうしたんだろうか。

「死」というものを知らないアンドロイド。まあ「知識」としては知っているんだろうけれども、自分の身に起こる事態としての「死」はしらないだろう。彼ら(彼女ら)が知っている「死」は、人間によって破壊された場合の自らの至る行く末だけなのだ。

 家から生体反応がなくなってしまったことを(多分)発見したレオナは、家を出て、誰もいない道を(電動車椅子)でもって走って行く、走って行く、走って行く……、そしてやがて車椅子から投げ出されたレオナは、それでも匍匐前進でもって前へ、前へ、前へ……。

 どこへ行くんだろうか。

 というところで、ちょっと興ざめなお話しを。

 多分、この匍匐前進をするシーンはアンドロイドじゃないだろう。人間がアンドロイドの格好をして演じているんではないだろうか、ということだ。

 石黒氏が開発しているアンドロイドは、人とコミュケーションをとるためのアンドロイドであって、自走式のロボット開発は行っていない筈だ。つまり、電動車椅子を動かすことも石黒氏のアンドロイドではないだろうし、ましてや匍匐前進するなんてね……。

 まあ、そんな興ざめするお話はしなくても、ちゃんとこの映画は「人とアンドロイドの共演は可能か」という問いには、取り敢えずこの映画の時間の中だけでは答えているので何の問題もない。

 こうやって見てくると、「死」というものを前提として、それから逆算する形でしか自分の「人生」を考えるしかない「人間」と、「死」というものはなく、むしろ技術開発の中で「旧技術」だからという理由で「改廃」されてしまうアンドロイドの間には、人と人の間のような友情とか愛情とかが成立するんだろうか、というところに行きつく。

 これから先、技術の進歩がある訳で、人間とまったく見分けのつかないアンドロイドができる可能性はある訳で、そんな時に、人とアンドロイドはどうやって共生していくんだろうな。

 まあ、最早私には関係ない事柄だけれどもね。

 生殖能力もないし。

映画『さようなら』は現在、新宿武蔵野館で公開中。今後、全国各地で公開予定。

公式サイトはコチラ

2015年12月 1日 (火)

「遠足」に参加して分かったこと

 いやはや、12月ですねえ。って、別に「師」じゃないんで走り出さないですけどね。最早。

1.大和郷会とは何か?

 昨日のブログで書いた大和郷会(やまとむらかい)とは、正式名称を「一般社団法人大和郷会」と言って、実は、文京区本駒込六丁目の殆どの部分と豊島区巣鴨一丁目の一部分を含む、町会の名称なのであります。

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 元々は六義園を含めた本駒込六丁目一帯は、明治11年に岩崎彌太郎が買収し、六義園を岩崎家の別邸としたことから始まる。

 大正10年頃になって岩崎彌太郎の息子で岩崎家三代目当主の岩崎久彌が、東京市の発展のために、六義園は煉瓦塀をめぐらせ保存しつつ、野草の生えるままにまかせておいた外側の土地を、都市工学の権威、佐野利器氏に設計を委ね、宅地として分譲したのが大和郷の始まり。大田区の田園調布よりも一年前の話。その土地の新地主が大正11年に一種の住民組合として「大和村」を結成。大正14年に内務省の認可を受けて社団法人大和郷会が発足することとなった。ただし、認可に当たって「村という字では他の町村の村との間違いが出るから名前を変えろ」と言われて「大和村」から「大和郷」となった。その後、昭和4年には大和郷幼稚園が創立。現在でも全国的に珍しい「法人格を持った町会=大和郷会」(通常の町会は任意団体)と「幼稚園を持った町会」となったのでありました。現在は幼稚園は学校法人大和郷学園の経営となっているが、実態は一般社団法人大和郷会の下部組織なので、昔とは変わらない。

 この大和郷会、現在は「リサイクル・環境活動」や、「スポーツ活動」「文化的事業」など、活発に活動を行っている。「スポーツ部活動」としてハイキング、気功、健美躁、ヨガ、フラダンス、ウォーキング、ゴルフ、社交ダンスなどのサークルがあり、「文化部活動」としてはバス見学会、講演会、コーラス部、自然観察会、ブリッジ同好会などがある。その他大和郷幼稚園を使って幼児教室として体操教室、えんぴつクラブ、アトリエ(絵画・造形教室)なんてのもやっていたりして、結構、活発にコミュニティ活動を行っている町会なのである。まあ、大和郷幼稚園があるというのがその同心円の中心なんだろう。小さい子供が沢山いるっていうのが、オールドの人間には、それだけで楽しくなるのだ。

 昨日書いたハイキングも、この大和郷スポーツ部の活動のひとつ。

 ちなみに大和郷では六十代はまだまだ若手なんだそうです。

2.「平地を歩く筋肉と、山道(坂道)を歩く筋肉は違う」ということ

 東京23区は武蔵野台地と河川に浸食された低地の組み合わせで、結構坂道が多い。そんな東京の町を私は毎日一万歩を目標に歩いている。とは言っても、それは殆ど舗装され整備されたところであるし、足への負担は軽い。まあ、高低差もせいぜい20~30mだしね。

 一昨日、数十年ぶりに山道(ったって「遠足」程度ですが)を歩いてみて、「平地を歩く筋肉と、山道を歩く筋肉は違う」ということを再確認した。

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 上りでは太もも(大腿四頭筋)の筋肉を使うし、下りではふくらはぎとは反対側の脛の前の筋肉(前脛骨筋)を使っている……というより、それらの筋肉がかなり疲れた。翌朝に筋肉痛になるかと思ったが、それほどではないので取り敢えず一安心。しかし、太腿四頭筋やハムストリングスは自転車でもって鍛えられるのは経験的に知っているが、前脛骨筋の鍛え方は分からない。自転車のペダル引き上げ運動(スポーツサイクルはペダルと靴が一体化しているので、引き上げ時にも力は使える)でも鍛えられるのかなあ。あ、それはふくらはぎの筋肉か。

 学生の頃、一時期千代田区や港区などのビルに、不動産広告チラシをポスティングするアルバイトをやって、毎日30~40kmほど歩いていたことがあった。その際は、毎日それだけ歩くとやはり筋肉は鍛えられるんだなあと感じたことがあった。現在みたいに毎日平地を一万歩(7~8km)位じゃあ筋肉は鍛えられないんだ、というのが現在の心境。

 まあ、取り敢えず今月からは週末の観戦イベントがなくなるので、まあ、取り敢えずは自転車再開だな。

3.2本ポールは上りよりも下りで効く

 元・山男のY川氏に言わせれば「トレッキングポールは下りしか使わないんだからT 型の一本ポールで充分」というのが、ポール購入相談の際の返事だった。

 とは言うものの、T 型ポールはなんかジジイが街中で使っている「杖」みたいで嫌だな、と感じたので、スキーのストックみたいな感じのI 型二本ポールにした。

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 使ってみて感じたことは、「トレッキングポールは上りよりも下りできく」ということだった。

「ポールを使ってみると二本足で歩くよりも四本足で歩いた方がラク」というのが、ネットで調べたトレッキングポールのメリットだったんだが、実は上りではそれほどメリットは感じられなかった。つまり基本的には自分の足が一番の頼りなので、その力をポールに分散することはあまりできない。やっぱり自分の足で上るんだよね。

 ところが下りでは「おおっ、そうか!」って感じなのでありました。

 つまり重い荷物を背中に背負っているので、バランスを崩しやすい下りでは、そのバランス制御に二本ポールが使いやすいんですよね。大きな段差で下りる所なんかは、二本のポールを狙い定めたところにまず突いて、それでエイヤッって感じで下りると転ばなくてすむのであります。つまり三点支持ですね。

 まあ、これは上りでも同じで、やはりバランスをとるのに二本ポールは向いているという訳で、それはスキーのストックと同じ原理。スキーストックも別にストック無しじゃあ滑れないのかと言えば、そんなことはなくて、でもストックがある方がバランスがとりやすくていいでしょ、ってなもんで。

 なるほどなあ、トレッキングポールって上りをアシストするんじゃなくて、重い荷物を背負って上り下りをする登山には、バランスがとりやすくなりますよ的なギアなんだな。

 ということで、一昨日の「遠足」の総括でした。

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