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2015年11月11日 (水)

『京都ぎらい』って書いているけれども、実は京都が好きなんだよなあ

 この本は「京都洛外」で育ち、現在も「洛外」に住んでいる筆者の、「洛中」人に対する批判の書である。

Photo 『京都ぎらい』(井上章一著/朝日新書/2015年9月25日刊)

 で「洛中」ってなんだ。『洛中(らくちゅう)とは、平安京の京域内のこと。平安京を「洛陽」と呼んだことから派生した言葉で、その示す範囲は時代ごとに違いがある。また、公・官・民、それぞれの立場からも認識の違いがみられる。洛中に対して、洛中に続く外縁地域を洛外と呼んだ』(Wikipedia)とあるんだが、じゃあ具体的にはどうなんだと言えば……

Photo_2

 ということらしい。まあ、狭いですな。平安京ってのもすごいが、江戸だって「本郷もかねやすまでは江戸のうち」って本郷三丁目交差点までしか江戸として認めないって考え方もあるんだから、まあ、江戸以上に古い町の京都だもん、それはしょうがないよね。

 でも、その「洛中」の人が「洛外」の者を蔑んだ目で見るのが、「パンツが見える」「ぼくたち、Hを勉強しています」「性の用語集」でお馴染みの性風俗研究家、井上章一氏には許されないんだなあ(えっ? 建築史家だったの?)。

『「君、どこの子や」
 たずねられた私は、こたえている。
「嵯峨からきました。釈迦堂と二尊院の、ちょうどあいだあたりです」
 この応答に、杉本氏はなつかしいと言う。嵯峨のどこが、どう想い出深いのか。杉本氏は、こう私につげた。
「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」』

 プッ。最高ですね、このエピソード。

 でも、これが井上氏には許されない。

『行政上、京都市にはいっていても、洛中の人々からは、京都とみなされない地域がある。街をとりまく周辺部、いわゆる洛外の地は、京都あつかいをされてこなかった。私をはぐくんでくれた嵯峨も、京都をかこむ西郊に位置している。ひらたく言えば、田舎だとされてきた地域のひとつなのである』

『この街は、洛外の人間による批判的な言論を、封じてきた。それだけ、洛中的な価値観が、大きくのさばる街だったのだ、と』

『嵯峨でそだち、今は宇治でくらしている私に、京都人としての自覚はない。私は自分のことを、京都ではよそもの、京都流に言えば「よそさん」だと思っている。洛中のつどいへ顔をだす場合でも、一種の居留民としてのぞんできた』

『京都の町衆は、しばしば日本人のよそさんを、外国人なみにとらえてきた。たとえば、東京や大阪の資本がささえる店を、しばしば「外資系」だと、彼らは陰で言う。とりわけ、ぱっと見が京都風の町屋カフェなどを、この言葉であげつらうことは多い。
「でも、あの店、外資系やで」 』

『私が京都人をなじりたく思うのは、私に差別意識をうえつけた点である。彼らは、嵯峨をはじめとする洛外を、田舎だ僻地だとあざけった。そして私に、洛中が中心となる地理上の序列意識を、すりこんでいる。おかげで、私は亀岡や城陽を見下す、おろかな人間になってしまった。京都的な差別連鎖のはしっこに、いつのまにかすえつけられたのである』

 まあ、結局「差別は差別を生みだし続ける」っていうことで、差別された者は自分より下と思える者たちを差別し、そこで差別された者はもっと下の者たちを見いだして差別するっていう構造なんだよなあ。こうした差別の連鎖を止めるためには、結局、どこかでその「自分より下と思える人間たちを差別しない」ということを始めなければならないんだけれども、でも、結局井上氏はそんな差別の連関の中に入ってしまっている。

『京都をうるわしく語る素材の多くは、洛中とかかわる事例であったと思う。たとえば、西陣織、友禅染、祇園祭、平安京以来の千年をこえる歴史などである。私の地元である嵯峨の話などは、あまり聞かされなかったような気がする』

『祇園祭は洛中の、町衆がいとなむ祭であり、嵯峨の田舎者なんかはかかわれない。お前たちがくらす洛外と洛中のあいだには、深くて暗い溝がある。肝に銘じておけ、というように』

 うわっはっはあ。いやあ見事な僻み根性ですなあ。こうなると、それは批判というよりは、完全に僻み根性で恨みつらみを書いているとしか思えない。

『いずれにせよ、こういうメディア人の京都びいきを、私はいぶかしく思っている。いや、めいわくだという気持ちさえ、いだかないわけではない。あなたたちが京都に、そうやっておもねるから、洛中の人々もつけあがるんじゃあないか』

『洛外が見下される一因は、東京メディアが京都をおだてることにもあるんだ、と』

 というメディア批判は当たっていることは当たっている。しかし、メディアの京都びいきっていうのは、別にメディアの人が京都(洛中)が好きだからという訳ではなくて、単に「京都特集」が売れるからなのであります。勿論、そんな京都びいきの読者が多いのだって、元々はメディアが京都特集を滅多矢鱈やったからではないか、と言われてしまえばその通りなんだけれども。

『私は大阪や東京あたりにいくと、しばしば京都人としてあしらわれる。自分は嵯峨そだちの宇治在住者であり、京都人といっしょにされるのは心外である。いくら、そう言いかえしても、京都人といういやなレッテルをはられることになりやすい。
 そして、どうやら、ほんとうに私は京都人らしくうつりだしているようである。人は対抗心をいだく相手に、似かよいやすくなると、よく言われる。その轍を、私もまたふみだしているということか』

 ま、結局そういうことなんですよね。

 もう井上氏も自分が「京都人」と呼ばれることには(多少の違和感を覚えつつも)結構気分良くなっているんじゃないだろうか。

 あの「千年の都」の京都に……、囚われちゃってるなあ。

『京都ぎらい』(井上章一著/朝日新書/2015年9月25日刊)

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