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« CEATECがますますジミになってきちゃった | トップページ | 『恋恋電影』って意味は分かるが、読みは分からない本 »

2015年10月10日 (土)

三島由紀夫割腹の現場を見る

 その日、1970年11月25日の朝(と言っても昼近く)、当時予備校の午後部に通っていた私はのんびりとした朝を過ごしていた。

 と、そこに臨時ニュースの声。

『三島由紀夫と称する男が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説をしている』

 と言うではないか。

『三島由紀夫と称する男は、陸上自衛隊東部方面総監部二階の総監室に、増田兼利東部方面総監を人質として立てこもり、自衛隊員に決起を呼びかけている』

 という続報が入ってきた。

Dsc_00192 現在の市ヶ谷記念館(昔の東部方面総監部の一部を移築したもの)

 その後、市ヶ谷方面が気にはなったが、御茶ノ水の予備校に登校したのだった。

Dsc_00502 東部総監室

 で、予備校が終わって御茶ノ水駅前で配られていた朝日新聞の号外を見て、私は戦慄を覚えた。

Dsc_00422 この写真の奥の方に三島と森田の首が置かれていた

 なんと、その号外の一面に東部総監室の床に置かれた三島由紀夫と森田必勝の首の写真が掲載されていたのである。

Dsc_00432 三島由紀夫の「関の孫六」によって傷つけられたドア

「うむむ、今の時代にこんなことをする人間がいるんだ」という思いであった。

Dsc_00472_2 このバルコニーで三島は演説をした

 勿論、その後の通常の朝日新聞にはそんな写真は掲載されることはなかったので、それは号外を見た者だけの特権ではあった。

 その陸上自衛隊東部方面総監部も防衛省が檜町から市ヶ谷に移ることになって、場所を移され、東京裁判が行われた講堂や旧陸軍大臣室(陸上自衛隊東部総監室)や便殿の間(天皇陛下の休憩室)などがある中心部分だけが以前のまま再建されたのだった。

 しかし、東京裁判は分からないではないが、何故、三島事件の現場が残されたのか。まあ、ちょうど玄関の上だからたまたま残されたという理由もあるだろうが、しかし、もしかしてそれが三島由紀夫じゃなくて赤軍派かなんかの左翼過激派だったら、多分そんな自衛隊にとって禍々しいものは残さなかっただろう。

 まあ、元々自衛隊とは親しかった三島氏だし、自衛隊員の中には三島氏の考え方に共鳴する部分もあったんだろうな。勿論、三島氏に同感の想いでも、そんなに簡単には三島氏と同じような行動はとれないような教育を、今の防衛大学校生及び自衛隊員は受けている。

 その辺が分からないところが三島氏の小児病的なところでもあるんだけれども、だからこそ、三島事件は三島由紀夫の芸術的結節点だなんて言われてしまうんだなあ。

 本人は決して芸術的結節点としてそんな行動は起こしていない、これは純粋に政治的活動として行ったんだ、というつもりだったんだろうけれどもね。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-85mm f/2.8-4 D IF @Ministry of Defence (c)tsunoken

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