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2015年9月11日 (金)

『タモリと戦後ニッポン』っていうほど持ち上げていいもんか?

 いくら「タモリ=森田一義氏」が1945年8月22日の生まれだからといって、そんな特定一個人に日本の戦後世界を投影させようというのはちょっと無理があるのではないだろうか。

 特にタモリというちょっと特異なところのある人物にそれを負わせようというのは、サブカル系のライターとしてそうしたことをやりたくなる気持ちは分からないではないが、それはまさに針小棒大をモットーとする平岡正明氏的なやり方ではある。

Photo_4 『タモリと戦後ニッポン』(近藤正高著/講談社現代新書/2015年9月1日刊)

 タモリの芸風が変化したのは確かに1982年の『笑っていいとも』が始まって、それまでの「深夜番組向けの大人のギャグ」や「密室芸」という芸風を一切シャットアウトした頃からであろう。

『誰もが疑問を抱くなかで『森田一義アワー 笑っていいとも!』は放送初日を迎えた。一九八二年一〇月四日正午、東京・新宿のスタジオアルタからの生放送でタモリは、髪型をトレードマークだった真ん中分けではなく七三に、衣装はアイビー調、サングラスもいつもより薄い色のものに替えて現れた。横澤彪いわく「森田一義」という新しいキャラクターをつくってやれば、昼向けの顔ができるとの狙いからだった。サブタイトルに「森田一義アワー」と掲げたのもそのためだ』

 という、それまでのタモリ・ファンを完全に裏切る形での芸風の変化ではあった。「四ヵ国語麻雀」「ハナモゲラ語」「中洲産業大学・タモリ教授」などの自ら仕掛けていった積極的な芸風は『笑っていいとも』ではずっかり影を潜め、完全な「受け」の形で笑いをとるといったスタイルへの変化がある。当時、伊武雅刀や小林克也の「スネークマンショー」やタモリの「今夜は最高」なんかの、どちらかというと「暗いネタ」を面白がっていた私が感じた「昼間のタモリ」の違和感は、当然、それまでのタモリを知っていた世代からは同様に違和感を持って受け止められたものだ。

『コラムニストの亀和田武が雑誌のコラムで、大衆の「知的スレッカラシと情緒面における冷感症的傾向」が加速度的に進行するなかで、毒舌とも知的とも言われたタモリのギャグはボルテージが急落したと喝破している』

 といった違和感は、同じくそれ以前のタモリを知っている者たちに共通するものだっただろう。

『日本の文化全般を支配していた「硬くて重いものが高級だという志向」をタモリはずっと批判し続けてきた。その虚飾がバブルの崩壊という一般的には歓迎しがたい事態によって吹き飛ばされたと語っているのが興味深い』

 それと同時に、日本人の(特に若者の)「笑い」に対する姿勢が変わってきた、という周囲の変化もあるのかも知れない。

『九五年以前は番組のオープニングから「テレフォンショッキング」のコーナーまでは基本的にタモリがひとりでこなし、レギュラー出演者は(いいとも青年隊やテレフォンアナウンサーなどをのぞけば)誰も顔を出さなかった。「テレフォンショッキング」の始まる時間も早かった。それが九五年一〇月から、オープニングに五分ほどのミニコーナーが始まる。当初こそ番組冒頭における「テレフォンショッキング」の地位はまだ保たれていたものの、二年半後の九八年春からはオープニングコーナーに本格的に時間が割かれるようになり、その構成は番組末期まで続いた。オープニングをタモリが独占しなくなったことは、「森田一義アワー」を冠した『いいとも!』のアイデンティティを揺るがす事態ともとれる』

『こうしたゲームコーナーの登場を、『いいとも!』の分岐点であったととらえる向きもある。 『いいとも!』に一時期参加していた放送作家の高橋秀樹は、本来ああいうゲームには、さんまやタモリを参加させてはいけないと批判している』

『ここから、『いいとも!』は笑わせるのではなく、タレントが一生懸命やって失敗するのを「笑われる」ような笑いへとシフトしていった』

 というよりも、それは『笑っていいとも』だけでなく、日本人の「笑い」が、それまでのコメディアンが「客を笑わせようと一生懸命ギャグを入れる」というスタイルから、タレントが失敗したり、司会のコメディアンは何かを「振る」だけで、後はひな壇芸人のリアクションだけで笑いをとるような形のテレビ番組が増えてきたという変化があるのではないだろうか。

 テレビの前の観客はタレントが何かをやって笑わせようというのではなく、失敗したリアクションを見て、そのタレントをバカにして笑ったり、タレント自らが大笑いするのをみて笑ったり、という私などの世代から見ると、その何が面白いのか分からないのに、笑っているという形に変化してきている。つまり、それが「笑わせる」から「笑われる」へ、という変化なのだろう。

『七〇年代半ばにデビューしたタモリはほとんど正体不明の存在としてテレビに突如現れた。その芸はマイナーで毒も多かったにもかかわらず、しだいに一般にも受け入れられてお茶の間の顔になっていく。こうした森繁とタモリの受容の違いは、高度経済成長による日本社会の変化に起因するのではないか』

『高度経済成長が日本社会にもたらしたあらゆる面での均質化・平均化は、タモリという異色のタレントが大衆に受け入れられる背景となっていることは間違いない。しがらみの多い日本の精神的風土を揶揄するタモリの芸風は、地縁や血縁に縛られた農村を忌避して都会に出てきた人々にも受け入れやすかっただろう。また文化人の思考模写などの初期の持ちネタは、高学歴化が進んでいなければ一般的には理解されないまま終わっていたはずだ』

 というのは多少は当たっていないではないが

『《タモリの出現はギャグの事件であったというばかりでなく、思想的事件だった》とは、平岡正明の『タモリだよ!』の一文だが、タモリが戦後ニッポンの思想史上にその名を刻むとするなら、やはりその観察眼であり、過剰な意味づけを拒むその姿勢によってであろう』

 というあたりまで行ってしまうと、何か平岡正明氏の術中に完全にハマっていますね。かといって別に私は平岡正明を別に批判しているわけではなくて、それはそれで平岡氏のスタイルだからいいのである。

 さておき、たしかにタモリという特異なタレントはそれなりの存在感を持って日本中に飛び出したけれども、それをもって「戦後の思想史上のその名を刻む」というのは、ちょっと持ち上げすぎではないだろうか。

「それほどのもんじゃないよ」

 というタモリ氏自身の言葉が聞こえてきそうである。

『タモリと戦後ニッポン』(近藤正高著/講談社現代新書/2015年9月1日刊)

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