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2015年8月20日 (木)

『わたしの土地から大地へ』そうか、セバスチャン・サルガドはロバート・キャパなんだ

 昨日のブログでちょこっと紹介したセバスチャン・サルガドの自伝本について、今日は書きます。ま、実際には多くの部分で映画とはダブるんだけれども、本は本なりの書き方もあって、それはそれで興味深い。

Photo 『わたしの土地から大地へ』(セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク著/中野勉訳/河出書房新社/2015年7月30日刊)

 自伝ののっけからの文章。

『待つのがいやなら、写真家にはなれない。ある日、イサベラ島に到着する。ガラパゴスの。アルセドという名前のとても見事な火山の隣にある島。二〇〇四年のことだ。ここに巨大なカメがいた、ものすごい図体で、少なくとも二百キロはあって、象亀(ガラパゴス)諸島というのはこの連中にちなんだ名前だ。わたしが近づこうとすると、立ち去ってしまう、歩くのは速くはないけれど、写真は撮れなかった。そこで考えた。心の中でこうつぶやいた――人間を撮るとき、集団のなかにいきなり無名のまま割って入ったりはしない、毎回誰かになかだちを頼む。次にみんなに自己紹介をして、意図を説明して、話し合って、そうしてすこしずつ顔見知りになっていく。それと同じで、うまく写真を撮るには、カメと顔見知りになるしかないんだ、ということを理解した。向こうの波長に合わせていく必要があるんだ、と。そこで自分をカメにした。しゃがみこんで、手と膝を地面について、カメと同じ背丈で歩きはじめた。するともう逃げなくなった。そしてカメが歩くのをやめたときには、わたしのほうは後退運動をした。こっちに向かってくるので、わたしのほうは後ずさりした。少し待って、わたしから近づいた、ちょっとだけ、そーっと。カメがわたしのほうにまた一歩進んできたので、すぐに数歩うしろへ下がった。するとわたしのほうに来て、じっと見つめてもおとなしくしていた。これで撮影することができるようになった。こうやってカメにアプローチするのにまる一日かかった。わたしはおまえの領分を尊重しいるんだ、ということをわかってもらうのにまる一日かかった』

 多分、これがセバスチャン・サルガドのすべてにおける撮影方法なんだろう。

 サルガドは、このガラパゴスのカメを撮影した「GENESIS」以前・以降にもいくつかの写真集を出版している。「Sahel」「Other Americas」「セバスティアン・サルガード写真集 人間の大地 労働」「EXODUS」などなど。日本の荒木経惟氏や森山大道氏に比べればホンちょっとでしかないが、それは写真というものにたいする日本とヨーロッパの考え方の違いがあって、どうしようもないものなのだ。「写真展」というものは「写真を見るための展示会」であると捉え、写真展を見た後に、せいぜい写真家に対するオマージュとして写真集を買う、日本の写真展の一部の観客と、「写真展」は「写真を絵画と同じように考えて購入するための展示会」と捉え、写真展を見た後には、そのなかのいくつかの写真のプリントを購入する欧米の写真展の多くの観客との違いが彼我にはある。

 まあ、それはどちらがどうという問題ではなくて、「写真」というものに対する日本と欧米の考え方の違いなのだから、どうしようもない。元々、絵画を補助するものとして発展してきたヨーロッパの写真文化と、ジャーナリズムのひとつとして発展してきた日本の写真文化の違いなのである。ということなので、日本のフォトグラファーはとにかく写真集を多産して印税を稼がないと、次の写真活動ができなくなってしまうのに対して、欧米のフォトグラファーは数年かけて取材をし、それをまた数年かけて展覧会を開催してプリントを作って生活しつつ、次の取材の種にしていくという、その違い。

 まあ、どちらの方が正しい、どちらの方が写真家としては生きやすいかという問題は差し置いて、それが彼我における写真家の「あり方」の違いなんだから、これはどうしようもない。

 それはさておき、冒頭に引用したセバスチャン・サルガドの文章。これが総てにおけるサルガドの取材方法なんだろう。取材対象に対して自分の立場を説明して、被写体からは基本的な合意を取り付けて、それで被写体の内面に迫る写真を「撮らせてもらう」という方法論。

「GENESIS」以前の、人間を対象として撮影し続けてきた、数々の写真集においても、それは同様の方法で撮影してきたようで、基本的には撮影対象になる人たちに対し、その撮影意図、撮影方法、発表のやり方などを理解してもらい、決してパパラッチ的な方法で、「覗き見撮影」はしないという撮影方法の堅持。それはすがすがしいけれども、実は一番難しい方法でもあるのだ。

 基本的に、セバスチャン・サルガドは「虐げられている人たち」「差別を受けている人たち」「搾取をされている人たち」に寄り添って、彼らの姿を写し撮り、それを芸術とまでいわれているような方法で写真として作り上げ、発表し、買い取ってもらっている。その写真は素晴らしい、美しい、力強い、健気である、そして可愛い。まるで、演出して作ったもののようにすら見えるのである。でも、そこには「ドキュメンタリーである」という裏付けがあるので、写真を見た人には感動を与え、プリントを購入しようと考えるのである。そのプリントを購入することで、被写体となった人びとに対する何らかのカンパにもなると考えて……。

 当然、そこには被写体に対する批判的な眼はない。なので、被写体たる彼らも安心して、サルガドのカメラ・アイに向き合えるのであろう。

 しかし、その一方で、そんな人たちを「虐げている人たち」「搾取をしている人たち」「差別をしている人たち」にだって、彼らには彼らなりの理由がある筈だ。でも、彼らに対して同じように中に入り込んだ撮影取材をしたいと願ったら、多分、それは拒絶されるだろう。彼らは、自らが社会の中で孤立していることを、ある種。自覚しているからだ。自分たちの存在が、決して社会からは受け入れられていないことを知っている。つまり、彼らに向かっての眼は、どうやっても批判的にならざるを得ない。なので、基本的に彼らの取材に対するスタンスは「NO」なのである。

 結局、そした人たちへの取材や写真撮影ということになってしまうと、それは「勝手に撮る」「勝手に発表する」ということにしかならない。数少ない例が森達也によるオウム真理教を亜s使ったドキュメンタリー「A」「A2」くらいなんだろうか。これは、オウム真理教に許可を取って内部に入り込み、それでいてなおかつオウム真理教に対して批判的な眼を向けてきた、唯一のメディアではないだろうか。

 これが、講談社の製作にならなかったのは、ただただ私の不徳の致すところなんだけれども、まあ、森さんにとっては、そこでもう講談社とのつながりができても、結局、自社ので映像制作を辞めてしまった講談社であってみれば、それもむべなるかなではある。

 って、なんか全然別の方向に話が行っちゃったけど、取り敢えず言えるのは、セバスチャン・サルガドの取材方法ってのは、基本的には王道です、ってことなんだろうな。

 そこにはブラジル出身でありながらも、フランスに(結局は)亡命しなければならなかったという、ボヘミアンな立場があったからなのかなあ。

 このボヘミアンな立場ってことで思い起こされるのは、やっぱりロバート・キャパだもんなあ。

 で、次は、この本に書かれている「カメラのこと」についてであります。<オタク・カメラ>の私にとっては、こっちの方が面白い?

『わたしの土地から大地へ』(セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク著/中野勉訳/河出書房新社/2015年7月30日刊)

Photo_2

映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』の公式サイトはコチラ

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