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2015年8月

2015年8月31日 (月)

薄っぺらーい家、ってのもあるもんだ

 本郷通りを東大本郷キャンパスに向かって歩いていくと、吉祥寺前をちょっと過ぎたところに、いつも気になる家がある。

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 なんなんでしょう? この「薄っぺらさ」は?

 ちょっと横にズレるとその「薄さ」がもっと強調される。

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 とは言うものの、横に回ってみて……

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 後ろまで行くと、別に薄っぺらいのは表通りに面した部分だけだということが分かって、ちょっと安心。

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 最近できた家なんだけれども、裏の方は普通の広さはあるんだろうけれども、本郷通りに面した部分だけが、前に古い家が建っていてすごく狭くなっている地形なんだなあ。そこでちょっと無理して玄関辺りだけが物凄く狭くなった家を作ったってことなのだろう。

 まあ、狭い東京で家を建てるということになると、こうした工夫もしなければならない、っていう典型的な例ではあります。う~ん、設計大変だったろうなあ。

 あ、勿論、「薄っぺらい家」とは言っても、別に住んでいる人が「薄っぺらい人」という意味ではないですよ。というか、こうした家を作った人の苦労が偲ばれます。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-85mm f/2.4-4 D IF @Honkomagome (c)tsunoken

2015年8月30日 (日)

曳舟川親水公園

 26日のブログで書いた葛飾区歴史と天文の博物館の前あたりから、JR常磐線の亀有駅のそばまで続いているのが「曳舟川親水公園」であります。

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 曳舟川というのは、このあたりの葛西用水や亀有用水の総称で、もともと農業用水として開墾されたのだったが、江戸時代後期あたりから、舟を川の両側から綱で引いて走らせたことから「曳舟」という呼び方をしたそうだ。

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 人や荷物を船で運ぶというアイデアは確かに荷車などよりは大量に運べるので、うまい考え方ではあったのだろう。

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 勿論、現在は車で陸上輸送をしてしまうので、そんなものは必要はないが、1964年の前の東京オリンピックのころまでは魚なんかも沢山いた川だったようだ。ただし、その後生活排水や工場排水などで川は汚染され、この葛飾区あたりだけが水質改善を行って、以前よりは規模は小さいが、区民の憩いの場、散策路などを目的とした親水公園として整備されている。

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 途中にはこんな形で子どもたちが水遊びができるような場所も作ってある。

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 曳舟川親水公園はこの「曳舟古上水橋」の碑のところで終わる。

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 碑についている写真を見ると、この写真を撮った昭和62年までは結構大きな川だったことがわかる。

うん、この広さなら確かに舟を浮かべることができる。

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 で、その碑に至るともはや亀有駅前であります。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-85mm f/2.8-4 D IF @Katsushika (c)tsunoken

2015年8月29日 (土)

『第一次世界大戦』というのは、なるほどそういう戦争だったのね

『国際連盟(国際連合)・国民国家・民主国家・福祉国家と並べれば、勃発から一〇〇年たった現在でも、第一次世界大戦期が現代国家・社会・文化の基本的枠組みの原点であり続けていることに納得がいくはずである。第一次世界大戦はなお歴史になっていないのである』

 と、著者の木村靖二氏が結論として書くように、まさに歴史はリニアにつながっており、現在の戦争の史実と、初めての「総力戦」として戦われた第一次世界大戦はひとつのつながりとして捉えないと理解されないのであろう。

 特に第一次世界大戦後に締結されたベルサイユ条約は、まさにその条約自体がナチス・ドイツの勃興の原因となっているし、サイクス・ピコの秘密協定なんていうフランス、イギリス、ロシアの間で結ばれた密約はまさにこの第一次世界大戦の中で結ばれたのであり、それが現在世界で大問題となっているイスラム国が生まれるきっかけでもあるのだ。

Photo 『第一次世界大戦』(木村靖二著/筑摩eブックス/2014年7月18日刊)

 戦史はまあいいとして、取り敢えずそのベルサイユ条約についての問題から見ていこう。

『大戦後のヴェルサイユ講和条約は、戦争責任をめぐる論争をさらに激化させた。戦勝国側が、ヴェルサイユ条約第二三一条で大戦は「ドイツとその同盟国の攻撃によって」引き起こされ、彼らこそが連合国が蒙った多大な損失に責任を負うべきだと断定して、賠償請求の根拠にしたからである』

『ドイツ側は、ヴェルサイユ条約が交渉もなしに一方的に押しつけられたものとして、その不当性を糾弾し、とりわけこの戦争責任(戦責)条項を強く非難した』

『西欧諸国側でも、ヴェルサイユ条約がドイツに過酷で、ドイツ国民がそれに反発したことにも、一九三三年のナチス・ドイツ成立の一因があるのではないか、との反省が強まり、ドイツ単独責任論の見直しが進められることになった。こうして一九三〇年代後半には、第一次大戦勃発に際し、特定国の責任を問うことはできないという合意が成立した』

『一九五〇年代末に、西ドイツのハンブルク大学歴史学教授フリッツ・フィッシャーの第一次大戦研究によって、「合意」は根本から揺らぐことになった。彼は当時東ドイツにあった旧ドイツ中央文書館所蔵の第一次大戦前・戦中のドイツ政府関係史料を克明に調査、検討し、ドイツ政府・軍部がサライェヴォ事件をドイツの世界強国実現の機会と見て、開戦に積極的役割をはたしたと主張した。第二次世界大戦の開戦責任がナチス・ドイツにあることは否定できなかったから、もしフィッシャー説が正しければ、ドイツは二〇世紀前半の二つの世界大戦の元凶ということになる』

『彼は、第一次大戦のドイツの戦争目的とナチス・ドイツの第二次大戦での戦争目的の連続性に注目し、ナチズムをドイツ史の例外と説明してきた保守派を批判して、ドイツ近現代史を見直すことに関心があり、第一次大戦史研究それ自体の新展開を意図したわけではなかった』

『戦後になって、戦時中の膨大な戦費とその返済が世界経済の構造を変化させるような、深刻な問題を内包していることが明らかになった。それが戦後のヴェルサイユ条約でのドイツに対する巨額な賠償要求に繫がり、一九二〇年代の国際関係の正常化に大きな障害になった』

『第一次大戦を近代史あるいは二〇世紀の歴史のなかでどう位置づけるか、はこれまで様々な観点から検討されてきた。大きな時代の括りでは、大戦が近代から現代への転換点になったということは現在広く認められている』

『第一に、大戦は列強体制が支配的であった国際関係を否定し、対等な国家から成る国際関係――その具体化が国際連盟である――に導いた』

『ヴェルサイユ条約をはじめとする戦後の一連の講和条約の第一部は国際連盟規約が掲げられている。大戦後の国際体制はヴェルサイユ体制とよばれるが、それは国際連盟と一体化した体制を目指したものであった。国際体制の転換は、同時に様々な次元での変動を伴った』

『第二に、国際社会の構成単位が、帝国から国民国家に移行したことが挙げられる』

『これは民族自決権が、国際社会の基本原理と認められたことの結果である』

『第三に、大戦は、国民国家に二つの重要な現代的内容を与えた。一つは公的領域・政治への国民参加である』

 つまり、第一次世界大戦において多くの国で「徴兵制」がとられ、国民の多くが戦争に参加するという「総力戦」という形に戦争が変化したということなのだ。

『国民を納得させるには「義務の平等には権利の平等を」という原則を承認するほかなかった。総力戦の民主化効果というと強い言い方になるが、国民参加型国家、大衆参加型社会への移行を推進したのは確かに大戦であった』

 第一次世界大戦の後、多くの国々で普通選挙が開始されたというのは、決して偶然の一致ではなくて、こうした必然性があったということがよくわかる。

『民主化と連動した国家の性格の変化の別の側面は、国民国家の福祉国家化、社会国家化である』

 とは言うものの、第一次世界大戦においては、まだまだ「軍事の政治に対する優位性」というのがあって、「戦争は軍人がするもの」という考え方が一般的であったようだ。既に第一次世界大戦に先立つこと200年、クラウゼビッツが喝破した『戦争が他の手段を以ってする政治の延長』であるという考え方は、当時の軍人だって知らない訳ではなかったはずなのに、結局、戦争を軍人の専権事項であるとする考え方がまかり通ってしまったのが、戦火を徒に拡大させることになってしまったという過程が、本書を読むとよくわかる。

 その意味では、ロシア革命によってレーニンやトロツキーらの「革命家=政治家」がドイツとの戦争を領導し、終戦にもってきたという功績は、なかなかに括目してみる必要があるかもしれない。つまり、「政治が戦争を領導した」っていう意味でね。

 とは言うものの、その結果生まれたソビエト連邦も既に無くなってしまったけどね。

『第一次世界大戦』(木村靖二著/筑摩eブックス/2014年7月18日刊)今はKindl版しかないようだ。

2015年8月28日 (金)

叩かれ女の正論

 まあ、確かに最近の香山リカさんは、結構「叩かれ女」なんだろうな。最近では小林よしのりとの「アイヌ」問題とかね。

 金慶珠さんというのは、最近はあまりテレビを見なくなってしまった、というか金さんがよく出ているらしい討論番組なんかを殆ど見なくなってしまったので、金慶珠さんという人は良く知らない。が、まあ香山さんが「おわりに」で書く通り「――なんて繊細でピュアでチャーミングな人なんだろう」ということですね。まあ、ちょっと「化粧濃いめ」だけれどもね。

 まあ、香山さんもチャーミングな人だけれども(でも本物の「香山リカ」ほどではないけれどもね)、まあ、こうしたチャーミングでセクシーな女性がどんどん論壇にも出てきて欲しい。

Photo 『叩かれ女の正論』(金慶珠、香山リカ著/イースト新書/2015年8月17日刊)

 とは言うものの、ネトウヨ諸君からは「サヨク」(と呼ばれているけれども、私に言わせれば「リベラル」に過ぎないんだけれどもなあ)だと認識されているらしい香山リカさんと、どちらかというと保守に属するようである金慶珠さんの対談本は、残念ながら双方の言っていることは片方から言うことに、もう一方は応えずに自分の考え方を言うだけというようなやり取りで、お互いの考えていることの接点をどこかに見つけるに至っていない、という残念な対談本なのでありました。

 例えば

『日本では一九九二年にバブルが崩壊しますよね。それまでは世界的に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされ、自国を「エコニミック・アニマル」と自嘲しつつも経済大国であることにアイデンティティを感じていた。でも、バブルが崩壊して、はたと気づくと世界はそれこそグローバル経済の時代。日本のありかたは時代遅れという空気になっている。次いで一九九七年に北海道拓殖銀行という北海道の老舗の銀行と山一證券が相次いで破たんします。それだけではなく、その翌年である一九九八年には、国内での自殺者が三万人を超えるんですね。私が子どもの頃は、日本は交通事故も自殺もだいたい年間一万人台と言われていました。それがその後どんどん増え、ついに三万の大台を突破してしまったんです』

『その二年前、九五年には、地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災という、都市型の大きなテロ・災害が起きています』

『こうして見ると、九〇年代というのは日本が自信喪失をする期間だったと思うんですよね。そこでなんとか誇りやプライドを取り戻したい。そのためにも他国を下に見て、自国を称揚するしかなかったのです』

 という香山氏の発言に続いて

『文脈は異なりますが、九〇年代は韓国にとっても大きな変化に見舞われた時代だったということです。あえてこういう言い方をしますが、日本におけるバブルの崩壊はいきなりストレートパンチでガーンと殴られたわけではなく、徐々に効いてくるジャブのような出来事だった。それがかえって大胆な政策転換のタイミングを逃し、長期的な景気低迷を招いたのかもしれません。
 ところが、同時期の韓国では、一九九七年のアジア通貨危機に見舞われて、いきなりデフォルトの危機に瀕します。まさにKO状態。仕方なしにIMF(国際通貨基金)から多額の借金をつくり、同時に企業閉鎖や統廃合が相次ぎ、社会全体が危機に直面することになります。
 そこで韓国が日本と違ったのは、さらなる成長主義やグローバリズムというものに社会を徹底的に合わせていったことです。そうしなければ「もはや生き残ることができない」という危機意識が社会のなかにあったと思います。「ぼんやりとした不安」ではなく、まさに「今そこにある危機」を目の当たりにした経験でした。興味深いのは、こうした危機意識が、韓国社会に新たなナショナリズムを生み出す原動力ともなった点です。「私たちは大丈夫、為せば成る!」といった自らの力を誇示する動きがあちらこちらで見受けられるようになりました。二〇〇二年W杯におけるあの異様なまでの盛り上がりは、そんな危機を乗り越えた者の「雄叫び」でもあったのです。
 その意味で韓国のナショナリズムはある意味でわかりやすく。国家主義・民族主義的な視座を明確に持っています。これに対し、日本のナショナリズムの視座というか、その主義主張の「主体」は明確に見えづらいと感じることがあります。「日本国籍」に一体化する国家主義でもなければ、「日本人」性を掲げるという民族主義でもない。そもそも「日本人」という概念自体も非常に曖昧なものです』

 と金氏は返すんだけれども、ふたりの語る「ナショナリズム」に論議のズレがあるように感じるのは私だけだろうか。

 問題はナショナリズムではないのである。むしろ「ナショナリズム」というよりは「排外主義」でしょ。「排外主義」に関する英語としては「ゼノフォビア」「ショーヴィニズム」「ジンゴイズム」 などの語がある。

『「ゼノフォビア」は、外国嫌いや、外来の人物や風習を嫌悪・排斥することを指す語であり、「攘夷」に近い意味合いである。通常、「排外主義」という場合にはこのゼノフォビアが同義語に充てられる。これに対し「ショーヴィニズム」は、外国の嫌悪と同時に自国の優越を強調する語で、「○○至上主義」「○○優越主義」に近い語である。また「ジンゴイズム」は、好戦的な排外・愛国主義を指す語で、戦争を辞さない姿勢を強調する』(Wikipediaより)

 つまり、問題はナショナリズムではなくて、排外主義的になってしまうナショナリズムについての考え方なはずなのであり、香山氏はそこを慎重に、まず「ナショナリズム」について語った後に在特会なんかの「排外主義」について語ろうとしていたものが、金氏によってそこは早急に、まず「排外主義」を「ナショナリズム」に繋げて語ろうとしてしまう。

 香山氏が「叩かれ女」だったり、「炎上キャラ」だったりするのは、基本的に彼女がメディアなどで話している「内容」についてなのだが、金氏の「叩かれ女」や「炎上キャラ」は、多分その「話し方」なんだろうな。

 このように、この対談本の殆どの会話がこうした「スレ違い」によって構成されているのであります。

『香山さんのように、社会のなかで求められる発言をするというのは、すごく大事なことです。一方で私のように「求められない発言」というのも、やっぱり社会にとっては必要だと思うんです。どんな社会にも、求められる役割と求められない役割がある。求められなかったとしても、結果としてそれが役立つ場合もあると信じるしかない』

『社会的役割が違っても、どちらからも発言し続けるということ。いずれにせよ、それが「叩かれ女の正論」でしょうね』

 って分かっているんだから、まあ、別に金氏も香山氏も「叩かれ女」であることに違和感は持っていないということがわかったんだから、いいじゃないか。

『叩かれ女の正論』(金慶珠、香山リカ著/イースト新書/2015年8月17日刊)

2015年8月27日 (木)

『ヒラリー・クリントン 運命の大統領』って、本当にそうだよな

 ヒラリー・クリントンが来年、次期アメリカ大統領になることは、まず、殆ど確定的だろう。民主党は既にヒラリー・クリントンを大統領候補にすることはほぼ内定だし、共和党は未だにドタバタしているうちに、ドナルド・トランプみたいなトンでもない候補者まで出没してしまう騒ぎになってしまってどうなることやら状態だ。

 しかし、1947年生まれのヒラリー・クリントンは来年当選し、大統領に就任する2017年1月には69歳になってしまう。ということなので、来年の大統領選は不退転の覚悟だろう。

Photo 『ヒラリー・クリントン 運命の大統領』(越智道雄著/朝日新書/2015年8月30日刊)

 夫のビル・クリントンが1946年生まれで、大統領に就任したのが1993年なので、その時46歳。アメリカのベビーブーマー最初の大統領なのだ。で、ヒラリーが大統領になると、多分、ベビーブーマー最後の大統領になる可能性が大だ。残念ながら、我が国でアメリカのベビーブーマーにあたる団塊の世代で首相になった人は鳩山由紀夫氏だけっていうのは……、全共闘で社会をぶっ壊した団塊の世代が、その後、自らが壊した社会を再生させようとしていないというのはどういうことなのだろうか。まあ、残念ながら我が団塊の世代にはそんな「社会意識」なんてものはないんだろな。

 ベトナム反戦運動に邁進したベビーブーマーたちから二人の大統領を生みだした(生みだそうとしている)アメリカの方が、まだ健全にも思えてくるから不思議だ。

 しかし、それにしても本書を読むと、まさにヒラリーは大統領になるために、生まれ、育てられてきたようだ。

『ヒラリーの父親ヒュー・ロダムは、第二次世界大戦中に新兵の訓練係軍曹だった』

『ヒューは自分の娘を男の新兵として鍛えた。高校時代ヒラリーがオールAの成績を持って帰っても、この「訓練係」は仁王のような顔をして、「ずいぶんと甘い学校だなあ」とくさしたという。常にハードルを高め続けたこの鍛え方について、ヒラリーは後年「私の性格だから効果があったけど、誰にでもきく手じゃなかったわね」と語った。
 ヒューは偏執的なまでの節約家で、真冬でも夜中には暖房を切った。また彼は、娘をシカゴのスラム街や自分がかつて働いていたペンシルヴェニアの炭鉱の坑道などに連れて行った。これは父親が息子に、人生への恐怖心を植え付けることでサバイバルへの衝動を高めて、一人前の男に育つよう目論む手法のひとつで、それほど珍しいわけではない』

『しかし、息子ならぬ娘を連れていったところがヒューの異常さであり、彼がヒラリーを男と見ていたことの証拠と言えるだろう』

“女性のアイヴィリーグ”のひとつ、マサチューセッツ州のウェルズリー大学に入学したヒラリーは『1年生時点で「学生共和党委員長」になり、次いで高校時代になり損ねた学生自治会長になって、学内食堂でのお祈りを寮の門限の廃止、黒人学生と黒人教員の増員などをめぐる大学側との折衝の陣頭に立つ』のだった。

『優秀な同窓の中にあって学業もそれ以外でも抜きんでていたヒラリーを見て、級友たちは、「私たちの生きている間に女性大統領をこの目で見られるなら、それはヒラリーだわ」と口にした』

 それが実現するのも、もうそれほど先のことではないだろう。

 ヒラリーはウェルズリー大学3年のとき、共和党下院のインターンシップに出されたわけだが、そこで出会ったのが最初の恋人、デーヴィッド・ルパートだったのだが、デーヴィッドには政治的野心がないというのが彼と別れる理由だったというのが面白い。

 一方、イェール大学ロースクールにヒラリーに1年遅れて入ってきたビル・クリントンは、初めから弁護士よりは政治家志望だった。初めからアーカンソー州知事を目指すと公言していたビル。アーカンソーの人口はわずか二百数十万人。そんな超田舎なら州知事も不可能ではない。当然、その経験を踏まえて大統領選に打って出るということも不可能ではないと、ビルやヒラリーが考えていたのかどうかは分からないが、しかし、そうとでも考えなければ、ビルはともかく、ヒラリーの都落ちは理解が出来ないだろう。

『ロースクールを卒業した後の1974年1月、ヒラリーはウォータゲート事件の弾劾調査委員会に加わった。彼女は検察側のデータ担当を引き受け、「ニクスン・テープ」の分析にかかわっており、中央政界への前途は洋々たるものがあった』

 とは言うものの、そこでいう「中央政界」というのはせいぜい上院止まりだろう。むしろ、田舎だろうが州知事の方が大統領に近い、と考えてビルをとったヒラリーの慧眼やいかにというところなのであるな。

 結局、1993年に46歳でアメリカ大統領になったビル・クリントンだが、経済政策においてアメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、現在に至るまでのアメリカの繁栄と、本来民主党とは相いれない筈の新自由主義経済を成功させた位がせいぜい彼の功績として記憶に残るだけで、むしろモニカ・ルインスキーとのセックス・スキャンダルの方が大方の人の記憶にあるところだろう。

 それ以降は、むしろヒラリーの上院議員としての活躍やら、オバマとの大統領選に敗れた後の国務長官としての活躍の方が目覚ましい。

『ヒラリーは夫の政権で喜々として医療保険制度改革に取り組んだときのように、また上院議員になりたて時代、ひたすら低姿勢で上院の内部に通暁していったように、あるいはまた、遠い昔、ひたむきな猛勉強ゆえに牛乳瓶底眼鏡をかけざるを得なくなったように、敏速に自分を「スーパースタッフ」に切り替え、大統領に仕えた。
「猛勉強少女」の本質は「猛烈長官」へと受け継がれ、在任中112ヵ国を歴訪し、その総飛行距離約100万マイル、これは歴代長官で最長距離となった。「ヴァーチャル時代にこそ、外交の当事者である国務長官本人が相手国に出向くことが不可欠だから」という理由だったが、結果的には恒常的な時差ぼけに悩まされた。手のひらに爪を立てて時差ぼけからさめようとした。すさまじいプロテスタントの労働倫理である』

 勿論、ヒラリー・クリントンが最初のアメリカ合衆国の女性大統領になったからといっても、中国、ロシア、中東などの国々との種々の課題や、大きな格差を抱える国内問題が解決するわけではない。

 しかし、このベビーブーマー世代の(多分)最後の大統領が女性だということは、さすがにベビーブーマーらしい時代の変え方だし、素敵なことではある。

 ただし、日本への要請はこれまでの大統領以上にきつくなるだろうな。まあ、それはアメリカが「世界の警察」の立場を辞めてしまった以上、しょうがないのだけれども。

 それを、今まで以上に日本に要求するのが、多分、ヒラリー・クリントン政権なんだと思う。

『ヒラリー・クリントン 運命の大統領』(越智道雄著/朝日新書/2015年8月30日刊)

2015年8月26日 (水)

葛西城(址公園と御殿山公園)

 京成電鉄を青砥駅で降りて、環七を亀有方面に向かって歩いていくと、水戸街道(国道六号線)との交差点の手前に「葛西城址公園」というのがある。

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「おっ、これは?」と思って公園に入っても、別に子供が遊ぶための広場とかトイレとか東屋なんてのがあるだけで、別にそこが「城址公園」であることを示すものは何もない。

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 環七を渡って反対側に行くと、そこには「御殿山公園」というのがある。

「青砥氏綱城跡」という碑があるが、こちらも城址公園というような「らしさ」はなくて「葛西城を偲ぶ」という碑がある程度。

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 ここの公園の解説板があって、「葛西城址公園」と「御殿山公園」の関係が分かるようになっている。

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 中川を天然の堀として作られた平城であることが分かった。

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 で、この環七のある辺りが本丸だったようなのだ。

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 要は、鎌倉鶴岡八幡宮の僧侶(昔は神仏習合)だった快元という人が書いた「快元僧都記」という書物に北条氏綱によって天文七年(1538年)に滅ぼされ、その後、北条氏の出城となったことは書かれているそうだが、そもそも誰がいつ作った城なのかというのは、今でも分かってはいないそうだ。

 まあ、多分、ちょっとした地方豪族だった誰かが、調子に乗って武士を名乗り、城を作ったんだけれども、そこは既に武士化して時間のたつ北条氏に簡単に打ち破られた、というところなんだろうなあ。

 北条が豊臣に敗れた後は、この地は江戸に転封となった、徳川のものとなり、その後江戸幕府の時代となると、初期の徳川将軍の鷹狩の為の屋敷となったそうなので、まあ、やはり戦略的な要衝ではなかったんだろう。

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 で、そういったことは、葛西城址公園から数キロ行ったところ(京成線お花茶屋駅)にある「葛飾区郷土と天文の博物館」の「常設展示:葛西城の時代」に詳しい。

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 環七造成の際に行った埋蔵文化財調査の様子やら、そこからの出土品なんかも展示されていて、結構勉強になります。

 埋蔵文化財調査といえば、わがマンションの建替えの時にもやったんだけど、まあ、ウチのマンションの場合は2週間程度の工事ストップですんだからよかったようなものの、多分、この環七工事の時は数か月にわたって工事がストップしたんだろうな。「発注元:文部科学省vs.受注先:東京都」なんだから、まあ両方ともお役人仕事でもって、のんびりやっていたんだろう。

 まあ、べつに都の予算でやったんだろうから、かまわないけれども、たいしたものが出てこなかったというところに、この葛飾城の「たいしたものじゃなかった」性が出ていて面白い。

「葛飾区郷土と天文の博物館」の公式サイトはコチラ

「天文の博物館」というだけあってプラネタリウムなんかもあるんだけれども、フランスの物理学者レオン・フーコーが1851年、パリのパンテオン寺院でこのような振り子で実験を行って、地球が自転していることを説明したことから「フーコーの振り子」と名付けられたのと同じ振り子があって、ちゃんと24時間を刻んでいるのもなかなか面白い。

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2015年8月25日 (火)

Windows 10 にアップデートした

 Windows 10へのアップグレードの予約をしていたら、昨日、ダウンロードの案内がきたので、早速アップデート。

 インストーラーを起動させると、最初にバックアップ用の外付けハードディスク(BUFFALO HD-LXU 3)のアンインストールの指示が出たので、アンインストール。

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「Windows 10の更新を構成しています」の表示が出て、それが100パーセントになると、一旦画面が真っ暗になって、次の「Windowsをアップグレードしています」という表示が出てくる。

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「ファイルのコピー」→「機能とドライバーをインストールしています」→「設定を構成しています」という表示が変わる度に再起動を繰り返し……

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 この画面が出てくるまで、最初から約2時間。「やっとだぜ」という感じで画面右下にあるアイコンをクリック。

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「しばらくお待ちください」

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「最後の処理をしています」ときて……

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「さあ始めましょう」となって、パスワードを入力すると……

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 Windows 10の起動に成功!

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 最初の画面が出てくる。まあ、Windows 8からWindows 8.1に変わって、初めからこの画面が出るようにはなっていたんだが、まあ、これが当然ですよね。

 Windows 10の使い勝手などについては、いずれまたご報告しますが、何か、グラフィックがちょっとペナペナな感じがしているのは、私だけでしょうか。

2015年8月24日 (月)

保育園義務教育化

 高校まで義務教育にしろって論議が出ている中での『保育園義務教育化』である。しかし、もしかして高校義務教育化よりはこちらの論議の方が意味があるかもしれない。

 ということで、私は『保育園義務教育化』に賛成票を投じます。

Photo 『保育園義務教育化』(古市憲寿著/小学館eBooks/2015年7月10日刊)

 まずは、いつもの通り読書メモから。

『日本には今、二つの大きな社会問題がある。少子化と労働力不足だ。
 そんな時代に子どもを産んで(少子化解消の貢献)、なおかつ働きたいと思ってくれる(労働力不足に貢献)お母さんは、本来なら国が表彰してもいいくらいの存在だ。
 それなのに現実に起きていることは完全に真逆。労働力不足と少子化解消に貢献しているはずの親たちは、地獄の保育園探しに苦しみ、苦肉の策として「一時離婚」という案をひねり出すと炎上する』

『出産・育児費用。なかなか見つからない保育園。不足している育児支援の仕組み。子育てのしにくい労働環境。「お母さん」に対して異様に厳しい社会の目線……。
 子どもを減らしたい国の政策だったら、惚れ惚れしちゃうくらいに完璧だ。
 社会の制度も雰囲気も、笑ってしまうくらい子どもを持つ家族に厳しい。子育てに疲弊している親は僕の知人だけでも数え切れない』

 なので、いっそのこと

『いっそ保育園を義務教育にして無料にしてしまえば、誰もが気軽に、安心して子どもを産めるようになるのではないだろうか。 「義務教育」ということになれば、国も本気で保育園を整備するから待機児童問題もなくなるだろうし、保育園があることが約束されていれば「うっかり」子どもを産んでしまいやすくなる。 「義務教育」だと、子どもを保育園に預けることに、後ろめたさを感じることもなくなる。「国が義務っていうから仕方なく保育園に行かせてるんだよね」と「国」を理由に堂々と言い訳ができるようになるからだ』

 ということになるんだなあ。

 それには「非認知能力」というのが関係するのだそうだ。

『社会性があるとか、意欲的であるとか、忍耐力があるとか、すぐに立ち直る力があるとか、広い意味で生きていくために必要な「能力」のことを、経済学者や心理学者たちは「非認知能力」と呼ぶ。
 ペリー幼稚園プログラムによって高まったのは、IQや学力テストで測れるような「学力」ではなく、子どもたちの「非認知能力」だったのだ』

『乳幼児期の教育が子どもの「非認知能力」を高め、それが「人生の成功」において非常に重要なこと。これを学問的に証明し、ノーベル経済学賞を受賞したのが、シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授である』

『確かに、この社会、「学力」だけでは生きていけない。むしろ「やり抜く力」や「意欲」や「根気がある」といった「非認知能力」が重要になる局面は多い。
 ヘックマン教授らの研究によれば、人生における「成功」は筆記試験で計れるような「賢さ」よりも、この「非認知能力」が重要になることがわかっている』

『実は保育園や学校に行く意味は、「学力」以上に、この「非認知能力」を磨くことにある』

 つまり、それが「保育園義務教育化」なのだそうだ。

『恵まれた家に生まれた人が英才教育を受けること自体は否定しない。だけど、僕はそれよりも「社会全体のレベル」を上げたほうがいいと思っている。それが「保育園義務教育化」というアイディアなのだ』

『なぜ多くの人が保育園に通ったほうがいいかというと、それは社会にとって「効率の良い投資」だからだ』

『保育園などの就学前教育を充実させたほうが、社会全体がトクをすることになる。なぜなら、この章で見てきた通り、いい保育園に通った子どもたちは、大人になってから失業率や犯罪率が低く、生活保護を受給する割合も低いからだ』

 うむ、なるほどなあ。

『まず女性が働きやすく、子どもを産みやすい環境を整えれば出生率が上がる。育児休暇や保育施設の拡充などがこれに当たる。出生率が上がれば世代間格差のバランスも改善する』

『女性が育児期間中も働けば、その分税収が増える。女性がキャリアを中断しないで働いてくれれば、その分生涯所得も世帯所得も上昇する。課税基盤が安定する。
 さらに、たくさんの子どもを持つ共働き世帯が増えれば、新規産業と雇用が創出される。保育園やベビーシッターはもちろん、託児サービス付きのレストラン、遊園地など「子ども」向けのサービスが多く生まれて、経済も潤う』

『それよりも、自分も働いて男女共働きになれば、世帯の生涯賃金は確実に上がる(もちろん、そのためには男性が育児・家事を積極的に関わるのが必須だ)』

 う~ん、いいことばっかりじゃないか。

 こうなったら、高校まで義務教育化して「イジメ」なんかの対象年齢を上にあげるよりは、いっそのこと保育園を義務教育化してしまったほうが、よっぽどためになるのだろう。

 結局、中学のイジメが問題になるのは、それが義務教育であり、その学校を辞めることができない(本当は辞められるんだけれども)ことが原因になったしまっているのであり、だったら、高校まで義務教育化してしまったら、その「イジメ期間」が伸びるだけだということなのだろう。

「非認知能力」を高めれば、そんなイジメにあっていた時の自分の処し方(要はそんなイヤな学校は辞めるってことなんだけれども)も理解できるようになるだろう。

 むしろ、保育園を義務教育化して、お母さんたちを働きやすくして、待機児童ゼロを目指すほうが、社会経済的にも、政治的にも、安定プラス成長できる方法論なのかも知れない。

 保育園と幼稚園の違いなんてものも、厚生労働省と文部科学省の単なる縄張り争いなんだから、総理大臣が「そんなバカなこと辞めろ!」と一喝すればいいのである。

 その結果、待機児童なんてものがゼロになれば、万々歳であります。

『保育園義務教育化』(古市憲寿著/小学館eBooks/2015年7月10日刊)

2015年8月23日 (日)

小金城趾・大谷口歴史公園

 JR常磐線松戸駅と北小金駅の間に展開していたのが「小金城(大谷口城)」という中世からの城だった。

 まあ、中世以降の歴史を見ると、その中心的な流れは中京・近畿の地域にあるので、どうしても関東の城というのは無視されがちなんだが、どっこい、実際には関東にも平氏の流れの武士(っていうか、まだ豪族みたいなもんか)がいて、それなりに城を構えていたんだなあ。

 で、小金城は現在は「大谷口歴史公園」として城域の一部が再現されて残されている。

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 小金城は平家の流れである千葉氏の家老原家の重臣であった高城氏の居城であったそうだ。と言っても中世の世の中にはまだ「武士」という身分は確立されておらず、まあ、その土地の豪族の一つだったんだろう。

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 とは言うものの、小高い丘の上に作られた小金城には障子堀とか……

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 畝堀とかの空堀が作られていたり……

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 土塁もあって、取り敢えず古利根川、江戸川、印旛沼などの天然の要害にも守られていた、戦のための砦でもあったようだ。「大谷口」という地名もそんな川のほとりというような意味の地名だ。

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 で、土塁に囲まれたこの場所が本丸だったのだろうか。

 ただし、現在は周囲は完全に住宅地になってしまい、城跡を思わせるようなものはまったくない。

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 流山鉄道流山線小金城址駅から大谷口歴史公園に至る途中には、大谷口馬屋敷緑地なんていうのもあって、ここも城域であったことがわかる。

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 小金城の碑の隣にある城域の航空写真を見ると、左上が現在いる小金城趾で、右下がJR常磐線北小金の駅であり、昔の小金城の城域はかなり広かったことがわかる。

 つまり、小金城は単なる戦のための砦ではなくて、高城氏が普段から生活していた居城だったということ。それもかなり広いということは、それなりに高城氏というのも力を持っていた豪族だったんだろう。

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 で、小金城趾から少し歩くとJR常磐線北小金駅に到着するが、そこは旧水戸街道の小金宿であり……

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 玉屋という旅籠が残されていたりする。この小金宿はJR常磐線ができる前までは、小金城のすぐ傍まで連なっていたそうだ。まあ、上の城域の写真を見るとそれが分かりますがね。

 まあ、水戸街道が整備されたのは江戸時代に入ってからですけどね。

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 しかし、知らなかったなあ。マツモトキヨシの1号店が北小金だったなんてね。全然、関係ない話なんだけれども。

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NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Oyaguchi & Kogane Matsudo (c)tsunoken

2015年8月22日 (土)

『わたしの土地から大地へ』書評カメラオタク・バージョン「サルガドよお前もか」

 8月20日の『私の土地から大地へ』書評シリアス・バージョンから、今日はついに『わたしの土地から大地へ』書評カメラオタク・バージョンへ移行します。

 まあ、セバスチャン・サルガドがカメラマンである以上、こういう読み方をする人もいるってことで……

Photo 『私の土地から大地へ』(セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク著/中野勉訳/河出書房新社/2015年7月30日刊)

 元々経済学徒だったセバスチャン・サルガドがカメラを手にしたのは、妻のレリアが建築学科で勉強していて、建物を撮る用にカメラを買う必要があったからなのだった。ジュネーブはヨーロッパのなかでも写真機材が一番安く手に入る街だったそうで、早速、サルガド夫妻も2CVでジュネーブに行った。

『彼女はペンタックスSPⅡと、レンズはタクマー50mmF1.4を買うことにした。わたしたちは写真についてはまるで無知だったんだけれど、たちまちこりゃすばらしいと思った。マントネに戻って、ふたりの最初のイメージを撮った。わたしが説明書を読んで、二日後にはまたジュネーブに行って新しいレンズを24mmと200mm、ふたつ買った。こうして写真がわたしの人生に入ってくることになった。パリに戻ってから、大学都市の部屋に自分用の小さなラボを設置した』

 ふ~ん、自分用のラボを作ってしまう程の気の入れようだったとは、よっぽど写真というメディアが気に入ったということなのだろうな。その後すぐにサルガドは写真のルポを始めるようになるのだ。一眼レフに24mm(28mmでもいいが)、50mm、200mmのレンズの組み合わせは定番だ。ペンタックスSPⅡはねじ込み式のレンズを使ったペンタックスSのシリーズの最終型で、この後はバヨネット式のK型へと進化する。つまりは、森山大道氏が使っていたペンタックスS2の後継機なのであります。つまり、セバスチャン・サルガドは森山大道のフォロワーなのか?

『私が撮ったイメージのなかで、CCFD(カトリック飢餓対策・開発員会:引用者注)がすごく気に入ったのがひとつあった。女性が頭の上に壺を載せて木の横に立っているのを逆光で捉えたものだ。CCFDはこれをポスターに刷って、「大地はみなのもの」キャンペーンの写真にすることにした。そんなわけでわたしの写真はフランス中の教会や会館や、いろんなところのCFDTの集会所にはりだされた。いくらぐらい謝礼を請求したらいいものやらわからなかった。CCFDが額を決めるのを手伝ってくれて、当時としては破格の報酬をもらうことになった。小さいアパルトマンぐらいなら買えるほどの金額だったが、レリアとふたりで、機材に投資したほうがいいねということになった。必要なライカをかたっぱしから買って、高性能の回転式光沢機と、プロ用引き伸ばし機を買った。この辺はいまでも使っている』

 この時代のライカは既にM型に移行しているはずなので、多分、50mm及び望遠系用にM3を、広角系用にM2かMPだろう。よくセバスチャン・サルガドの撮影シーンに出てくる写真ではMPとかM6を構えている写真が多いのだが、そうした機材のひとつだろう。「回転式光沢機」というのがよくわからないが、多分これは露出計のことだろう。「プロ用引き伸ばし機」とはフォコマートのこと。これは現在でも多くの写真家が使っている機材だ。

『わたしの場合、何よりもまず写真機材。カメラ、それから、フィルムを大事に並べておく小型ケースも長いあいだ大事だった』

 とここまではアナログ時代のフォトグラファーの考え方。これがデジタル時代になると一変するんだなあ。

『「GENESIS」をやっている最中に、銀板からデジタルに移った。革命だ』

『9.11が起きて写真家の生活は大きく揺さぶられた。空港にたくさんセキュリティゲートが設置されて、フィルムを持って旅行するのは地獄になった。フィルムは三、四回X線を通すと、グレーの諧調がやられてしまう。ルポを進めていくにつれて、空港での管理体制がどんどん強化されていった。出発の一週間前になると。ジャックとわたしはカリカリしはじめるようになった。わたしは困難な条件のもとで世界の果てまで出かけていって、こういうイメージを持って帰ってくる心づもりなわけだけど、同時に、自分のフィルムがどうしたってダメになることもわかっている。出かけるときはいつも小型ケースにフィルムを六百本詰めて、手荷物にして客室内に自分で持ち込んでいた。検査の係官と何度言い争うはめになったことか』

『キャノンが自社の最上位機種であるEOS-1D Mark Ⅲを貸してくれた。結果はたいへんすぐれたもので、これならいけるということを自分の目で確認した。問題点は、撮った写真のアーカイヴをどうやってハードディスクに保存するかということだった。ほとんど二年かけて、フィリップや、うち〔アマゾナス・イメージズ〕の焼き付け担当のヴァレリー・ユーとオリヴィエ・ジャマン、それからデュポン・ラボといっしょに、あれこれ格闘した。ようやく、デジタルファイルから四×五判の白黒ネガを作るのに成功した。このネガの画質は非常によかった。だからひきつづきデジタルで撮影して銀でプリントした。そんなわけでデジタル画像をどう保存するかという問題は迂回することができた』

『現場にはコンピューターもハードディスクも持っていかない。写真を撮るときはファインダーしか見ない。それまでずっとやってきたのと同じ方法だ。アマゾナスにメモリーカードを持って帰ってくると、コンタクトシートをインクジェット紙に印刷して、それをルーペで眺める。昔とまったく同じ。それからアドリアン・ブイヨンが13×18cmのプルーフプリントをつくる。わたしはフランソワーズ・ピファールとふたりで最初のセレクションをして、ラボとの連絡担当のマルシア・マリアノが調整して、ヴァレリーとオリヴィアが24×30cm判でプリントする。フィルムからデジタルに移っても、支持体しか変わっていないわけだ。わたしの言語は同じ。ただし大きく違うのは、プリントの質が格段によくなってということだ』

 う~ん、ということはアナログからデジタルになったとはいえ、仕事の方法としては、まったくアナログのまんまということですね。単にカメラがアナログからデジタルになっただけで、フィルムの現像という部分がなくなっただけで、最終的にも銀でプリントするんだったら、そいうことだ。

 まあ、それは当然と言えば当然であろう。「写真を撮影する」という行為自体は、アナログであれデジタルであれ、結局は同じ行為である。撮影されている側にはアナログ、デジタルの違いなどない。

 とは言うものの、これを映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』を見ると、ちょっと「えええっ? サルガドよお前もか」となるシーンがあるのだ。

『写真を撮るときはファインダーしか見ない。それまでずっとやってきたのと同じ方法だ』なんてほざいているんだけれども、そこにはデジタル・カメラで撮影した時に、カメラマンなら必ずやる「撮影直後に撮影カットをカメラのモニターで確認する」っていう行為を、セバスチャン・サルガドがやっているシーンがしっかり写っていたりして。

 まあ、やっぱり彼も人の子。撮影直後には自分の撮った写真が気になる訳ですね。この部分だけ、ちゃんと「デジカメ」してるってのが、面白いですね。

『私の土地から大地へ』(セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク著/中野勉訳/河出書房新社/2015年7月30日刊)

映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』の公式サイトはコチラ

2015年8月21日 (金)

ここでもやっていた中古カメラ展・知らなかったよぉ

 一昨日のこと、JR駒込駅前のハヤシ商事という中古カメラ屋さんが店を閉めていたので、「ああ、まだ夏休みかな」と思って店に近づいていくと、下のような告知ポスターが貼ってあって、こちらの方に出店しているので、その間はお休みしています、とのことだった。

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 ええっ? 中古カメラ展って言えば、2月頃に銀座松屋でやる「世界の中古カメラ市」、5月~6月に東急東横店と、10月に有楽町交通会館でやる「世界の中古カメラフェア」という、輸入カメラ協会(I.C.A)が主宰する中古カメラ展ばっかりだと、私は思っていたのだが、新宿高島屋でやる「新宿クラシックカメラ博」というのは初耳だった。

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 ということで、早速、昨日新宿タイムズスクエアにある新宿高島屋へ行ってきたのであります。

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 11階の催物会場でやっていた「第7回 新宿クラシクカメラ博」は主催が写真機商振興会で、I.C.Aの催しがごく一部神奈川県の中古カメラ店が入っているだけで、ほとんどが東京の中古カメラ屋さんが出店しているのに比較して、こちら「新宿クラシックカメラ博」は東京以外にも、名古屋、福岡、大阪、仙台、埼玉、神戸、前橋など、かなり広い地域の中古カメラ屋さんが参加している。

 中でもビックリしたのは、オーストリアはウィーンの中古カメラ屋さん「ライカショップ」までもが参加している。このライカショップは田中長徳氏の『田中長徳写真集 写真機店 プラハ、ウィーン、フランクフルト』という写真集で「ライカハウス」として紹介されている店なのだ。

 うわぁ、凄いなあ。

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 巨大な一眼レフなんかの参考展示もすごいし……

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 ポスター掲載商品なんてコーナーもあって、I.C.A主催の中古カメラ展とはまた一味違った中古カメラ展ではありました。

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 しかし、こうして各デパートで中古カメラ展をやるっていうのは、それだけ中古カメラには集客性があるってことなんだろうか。

 まあ、確かに中古カメラなんかに興味を持っているのは中高年の富裕層であることは間違いないが、しかし、だからといってそのカメラ・マニアたちがデパートの他の売り場に行くなんてことは100パーセント考えられませんけれどもね。

第7回 新宿クラシックカメラ博は8月24日(月)まで

写真機商振興会の公式サイトはコチラ

『田中長徳写真集 写真機店 プラハ、ウィーン、フランクフルト』(田中長徳著/アルファベータ/1996年5月15日刊)

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2015年8月20日 (木)

『わたしの土地から大地へ』そうか、セバスチャン・サルガドはロバート・キャパなんだ

 昨日のブログでちょこっと紹介したセバスチャン・サルガドの自伝本について、今日は書きます。ま、実際には多くの部分で映画とはダブるんだけれども、本は本なりの書き方もあって、それはそれで興味深い。

Photo 『わたしの土地から大地へ』(セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク著/中野勉訳/河出書房新社/2015年7月30日刊)

 自伝ののっけからの文章。

『待つのがいやなら、写真家にはなれない。ある日、イサベラ島に到着する。ガラパゴスの。アルセドという名前のとても見事な火山の隣にある島。二〇〇四年のことだ。ここに巨大なカメがいた、ものすごい図体で、少なくとも二百キロはあって、象亀(ガラパゴス)諸島というのはこの連中にちなんだ名前だ。わたしが近づこうとすると、立ち去ってしまう、歩くのは速くはないけれど、写真は撮れなかった。そこで考えた。心の中でこうつぶやいた――人間を撮るとき、集団のなかにいきなり無名のまま割って入ったりはしない、毎回誰かになかだちを頼む。次にみんなに自己紹介をして、意図を説明して、話し合って、そうしてすこしずつ顔見知りになっていく。それと同じで、うまく写真を撮るには、カメと顔見知りになるしかないんだ、ということを理解した。向こうの波長に合わせていく必要があるんだ、と。そこで自分をカメにした。しゃがみこんで、手と膝を地面について、カメと同じ背丈で歩きはじめた。するともう逃げなくなった。そしてカメが歩くのをやめたときには、わたしのほうは後退運動をした。こっちに向かってくるので、わたしのほうは後ずさりした。少し待って、わたしから近づいた、ちょっとだけ、そーっと。カメがわたしのほうにまた一歩進んできたので、すぐに数歩うしろへ下がった。するとわたしのほうに来て、じっと見つめてもおとなしくしていた。これで撮影することができるようになった。こうやってカメにアプローチするのにまる一日かかった。わたしはおまえの領分を尊重しいるんだ、ということをわかってもらうのにまる一日かかった』

 多分、これがセバスチャン・サルガドのすべてにおける撮影方法なんだろう。

 サルガドは、このガラパゴスのカメを撮影した「GENESIS」以前・以降にもいくつかの写真集を出版している。「Sahel」「Other Americas」「セバスティアン・サルガード写真集 人間の大地 労働」「EXODUS」などなど。日本の荒木経惟氏や森山大道氏に比べればホンちょっとでしかないが、それは写真というものにたいする日本とヨーロッパの考え方の違いがあって、どうしようもないものなのだ。「写真展」というものは「写真を見るための展示会」であると捉え、写真展を見た後に、せいぜい写真家に対するオマージュとして写真集を買う、日本の写真展の一部の観客と、「写真展」は「写真を絵画と同じように考えて購入するための展示会」と捉え、写真展を見た後には、そのなかのいくつかの写真のプリントを購入する欧米の写真展の多くの観客との違いが彼我にはある。

 まあ、それはどちらがどうという問題ではなくて、「写真」というものに対する日本と欧米の考え方の違いなのだから、どうしようもない。元々、絵画を補助するものとして発展してきたヨーロッパの写真文化と、ジャーナリズムのひとつとして発展してきた日本の写真文化の違いなのである。ということなので、日本のフォトグラファーはとにかく写真集を多産して印税を稼がないと、次の写真活動ができなくなってしまうのに対して、欧米のフォトグラファーは数年かけて取材をし、それをまた数年かけて展覧会を開催してプリントを作って生活しつつ、次の取材の種にしていくという、その違い。

 まあ、どちらの方が正しい、どちらの方が写真家としては生きやすいかという問題は差し置いて、それが彼我における写真家の「あり方」の違いなんだから、これはどうしようもない。

 それはさておき、冒頭に引用したセバスチャン・サルガドの文章。これが総てにおけるサルガドの取材方法なんだろう。取材対象に対して自分の立場を説明して、被写体からは基本的な合意を取り付けて、それで被写体の内面に迫る写真を「撮らせてもらう」という方法論。

「GENESIS」以前の、人間を対象として撮影し続けてきた、数々の写真集においても、それは同様の方法で撮影してきたようで、基本的には撮影対象になる人たちに対し、その撮影意図、撮影方法、発表のやり方などを理解してもらい、決してパパラッチ的な方法で、「覗き見撮影」はしないという撮影方法の堅持。それはすがすがしいけれども、実は一番難しい方法でもあるのだ。

 基本的に、セバスチャン・サルガドは「虐げられている人たち」「差別を受けている人たち」「搾取をされている人たち」に寄り添って、彼らの姿を写し撮り、それを芸術とまでいわれているような方法で写真として作り上げ、発表し、買い取ってもらっている。その写真は素晴らしい、美しい、力強い、健気である、そして可愛い。まるで、演出して作ったもののようにすら見えるのである。でも、そこには「ドキュメンタリーである」という裏付けがあるので、写真を見た人には感動を与え、プリントを購入しようと考えるのである。そのプリントを購入することで、被写体となった人びとに対する何らかのカンパにもなると考えて……。

 当然、そこには被写体に対する批判的な眼はない。なので、被写体たる彼らも安心して、サルガドのカメラ・アイに向き合えるのであろう。

 しかし、その一方で、そんな人たちを「虐げている人たち」「搾取をしている人たち」「差別をしている人たち」にだって、彼らには彼らなりの理由がある筈だ。でも、彼らに対して同じように中に入り込んだ撮影取材をしたいと願ったら、多分、それは拒絶されるだろう。彼らは、自らが社会の中で孤立していることを、ある種。自覚しているからだ。自分たちの存在が、決して社会からは受け入れられていないことを知っている。つまり、彼らに向かっての眼は、どうやっても批判的にならざるを得ない。なので、基本的に彼らの取材に対するスタンスは「NO」なのである。

 結局、そした人たちへの取材や写真撮影ということになってしまうと、それは「勝手に撮る」「勝手に発表する」ということにしかならない。数少ない例が森達也によるオウム真理教を亜s使ったドキュメンタリー「A」「A2」くらいなんだろうか。これは、オウム真理教に許可を取って内部に入り込み、それでいてなおかつオウム真理教に対して批判的な眼を向けてきた、唯一のメディアではないだろうか。

 これが、講談社の製作にならなかったのは、ただただ私の不徳の致すところなんだけれども、まあ、森さんにとっては、そこでもう講談社とのつながりができても、結局、自社ので映像制作を辞めてしまった講談社であってみれば、それもむべなるかなではある。

 って、なんか全然別の方向に話が行っちゃったけど、取り敢えず言えるのは、セバスチャン・サルガドの取材方法ってのは、基本的には王道です、ってことなんだろうな。

 そこにはブラジル出身でありながらも、フランスに(結局は)亡命しなければならなかったという、ボヘミアンな立場があったからなのかなあ。

 このボヘミアンな立場ってことで思い起こされるのは、やっぱりロバート・キャパだもんなあ。

 で、次は、この本に書かれている「カメラのこと」についてであります。<オタク・カメラ>の私にとっては、こっちの方が面白い?

『わたしの土地から大地へ』(セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク著/中野勉訳/河出書房新社/2015年7月30日刊)

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映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』の公式サイトはコチラ

2015年8月19日 (水)

セバスチャン・サルガドのドキュメンタリーって、どういう意味があるんだろう

 ヴィム・ベンダーズがセバスチャン・サルガドに関して作ったドキュメンタリー映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』が渋谷Bunkamuraル・シネマで公開中だ。

Photo_2 『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(原題:The Salt of the Earth/地の塩)』(監督:ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド)

 まあ、映画はサルガドの伝記みたいな映画なのでそれはいいとして、シリアス・フォトグラファーに関するドキュメンタリー・フィルムを、そのフォトグラファーの撮影したイメージを使って作るということは、どういうことなんだろうか。

 つまり、その映画の映像に多く出てくるのは、その対象であるはずのフォトグラファーが撮影したイメージ(映像)が数多く出てくるはずだ。つまり、その映画に写される映像は、はたして映像作家のものなのか、あるいはその対象としているフォトグラファーのものなのか、はなはだ怪しくなってくる。

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 勿論、フォトグラファーの映像は、その展覧会や写真集によって編集されるわけで、その編集されたものが、そのフォトグラファーの作品としての意味をなすものになるわけである。つまり、セバスチャン・サルガドで言えば「SAHEL(サヘル)」や「Workers(人間の大地 労働)」や「Genesis(ジェネシス)」などといった(我々にとっては)写真集として提示されるものが、そのフォトグラファーとしての表現であり、作品である。

 つまり、このドキュメンタリー・フィルムはヴィム・ヴェンダースとジュリアーノ・リベイロ・サルガドによって編集された、もう一つのセバスチャン・サルガドの写真集だと考えて見ればいいのか。

Photo_2(c)Sebastiao Salgado

 勿論、サルガドの写真集の傑作と言えば、上にあるような、人々の行いを批判的に捉えた数多くの写真が上げられる。それは、当然シリアス・フォトグラファーとしての矜持であり、しかし、同時に生活の糧でもある。

 それと同時に、当然セバスチャン・サルガドと妻のレリアによって編集された写真集は、その時点々々での基本的なまとまりの中で作られている訳で、その時点でのセバスチャン・サルガドの考え方が表明されたものと考えていいだろう。

 その後、ヴィム・ヴェンダースとジュリアーノ・リベイロ・サルガドによって編集し直されたセバスチャン・サルガドの写真の内容はどうなんだろう。

 それは当然、ヴィム・ヴェンダースとジュリアーノ・リベイロ・サルガドによって俯瞰的に見直されたセバスチャン・サルガドの写真に対する批評的再編の筈である。

 そこで残念なことは、結局、写真集というものは、その写真集を作った時点々々での、フォトグラファーの考え方を見せているものであるのに対して、俯瞰的に見直された写真集の批評的再編は、そうしたその時点々々での批評性は持てずに、そのフォトグラファーの人生的な評価と共にあるということなのだ。つまり、そのフォトグラファーがその写真集を発表した時点々々での問題意識は共有できずに、それらを後に再編した「お行儀の良い」写真集にしかならないということなのだろう。

 従って、ヴィム・ベンダースのセバスチャン・サルガドへ向けたオマージュも、決してオマージュを超えた批評性を持てずに、単なるオマージュに過ぎない映像になってしまっている、ということなのだった。

 勿論、セバスチャン・サルガドへ向けたオマージュが、それであってはいけないということではないが、残念ながらそこにはヴィム・ベンダースならではの視点は欠けてはいないだろうか、ということなのである。

 そこが、ちょっとこのドキュメンタリー・フィルムの残念なところかな。

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 ところで、セバスチャン・サルガドと言えば、ライカM4とかM6でのモノクロ撮影が基本なのかと思っていたら、この映画の中でのセバスチャン・サルガドはキャノンEOSでのデジタル撮影の場面しか出てこない。

 んじゃあ、別にモノクロ写真に拘らなくてもいいじゃん、というのが私の発想で、同時にニコンDfでのモノクロ写真に拘っている私と、セバスチャン・サルガドとの違いって何なのだろう、と考えさせられた。

 勿論、フォトグラファーとしてのカメラ・アイ(というかカメラ・センスのあるなし)の違いは分かってはいますがね。しかし、デジタルでもってモノクロ写真を追い求めるってところは同じじゃん、とも思ったりして。

 まあ、それについてはいずれ書きます。

 ヴィム・ヴェンダースの映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』の公式サイトはコチラ

『わたしの土地から大地へ』映画の公開に合わせるようにして出版されたセバスチャン・サルガドの自伝。こちらについては改めて書きます。

2015年8月18日 (火)

豊島五丁目団地

 8月14日のブログ「『童夢』と川口芝園団地」で書いた「豊島五丁目団地」ってのはどうなんだ、ということでご紹介。

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 豊島五丁目といっても豊島区ではなく、北区のJRおよび東京メトロ王寺駅から東南に行って、隅田川が大きく湾曲した先にある。

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 14階建て12棟、総戸数約5,000戸(住民数は15,000人以上?)の巨大な団地だ。

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 元々、昭和44年(1969年)までは日産化学工業王子工場があったところで、昔、西新井駅から王子を通って池袋東口まで行くバスに乗って、豊島五丁目のあたりまで来ると何やら薬品の匂いがして閉口した記憶がある。

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 その工場が袖ヶ浦に移転して、その後、当地は日本住宅公団が購入し、昭和47年(1972年)から昭和48年(1973年)にかけて巨大な団地が作られたのでありました。

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 墨田川の堤防の側から団地を見ても、その巨大さが分かるかもしれない。当時の日本は(というか東京は)高度経済成長のど真ん中で、東京に集中する住民の為にどんどんこんな巨大な団地を作らなければならなかったのである。

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 高層棟はツインコリダー型といって、中央に吹き抜けができていて、その両側に廊下が並んでいる形式の大型住宅で、三棟がV字型のスタイルになっている。

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 王寺駅からはバスで10分、歩くと30分くらいかかってしまうために、自転車、バイクは必須であり、駐輪場と自転車、バイクの数はハンパじゃない。

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 団地の中には区立の保育園や児童館なんかがいくつかあって、小さな子どもがいる家庭にとっては有り難い。すぐ傍には小学校や中学校もあって、多分、団地の子どもたちは皆その小中学校に通うんだろう。

 まさに日本の(東京の)高度成長期の象徴とも言える巨大団地だ。

 URの賃貸住宅なので、適度に住民の新陳代謝もあるようで、年寄りばかりが目立つという感じもなく、若い家族もいたりしているようだ。

 ただし、こうした巨大団地ってこれからの少子高齢化時代にはどうなっちゃうんでしょうかね。川口芝園団地みたいに外国人にも開けた団地にする、っていう手はありそうな気がするけどなあ。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @5 Toshima Kita (c)tsunoken

2015年8月17日 (月)

スピード読書術

 読書に「術」なんてものがあるとは知らなかった。

 まあ、確かに「速く読める」っていうのは、同時に「沢山読める」ってことにつながるわけで、だからといって「ビジネス力が高まる」かどうかは別問題ですけれどもね。ただし、本を読みなれてくると自然に本を読むのが速くなるっていうのはあって、まあ、文字ひとつひとつを読むんじゃなくて、何となく文節などをひとかたまりに読んで行けるようになる、というのはある。

 だからといって、それは「速読法」とか「速読術」みたいなもんじゃなくて、単に「本を読むことになれた」というだけのこと。

 例えば「フォト・リーディング」みたいな速読法は全然違う方向からのアプローチみたいなのだ。ただし、試したことはない。というか、わたし自身はあまり速読法というものを信じていない、と言うことなのかも知れない。

Photo速読・多読でビジネス力が高まる! スピード読書術』(宇都出雅巳著/東洋経済新報社/2008年7月3日刊)

『本を読む訓練といってすぐに思い浮かぶのが「速読法」でしょう。
 書店にいけばズラリと「速読」に関する本が並んでいます。速読法を教えるセミナーやワークショップも数多くあります。新聞には速読の通信講座の広告が掲載され、「一冊を10分で読める!」という活字が躍っていたりします。
 一方で、「速読なんて眉唾だ」「速読しても浅い読みにしかならない」という批判もよく聞かれます。さて実際にはどうなのでしょう?
 結論からいうと、訓練をすれば本を読むスピードは速くなります、私自身、20年以上にわたってさまざまな速読法を学び、実践してきた体験から断言できますが、足を鍛えれば走るのが早くなるのと同じように、眼(正確には意識ですが)を鍛えれば、読むスピードは速くなります』

 ということなのだそうだ。じゃあ、そんな速読に辿りつける方法は?

『まずは「集中力訓練」。読書に限らずスポーツでも思考作業でもなんでもそうですが、集中していないと速く読めません。まずはこの集中力訓練から入るところが多いようです』

『こうした集中力訓練を土台にして行われるのが「視点移動訓練」。速く走るためには足を鍛えるのが必要不可欠なように、速く読むためには眼を鍛えます』

『そして最後の訓練が「理解力訓練」。これは文字として認識された情報を処理し、理解する速さ・深さを高めるものです。これについては、各速読法によってさまざまな種類があります』

 でも、結論的な大前提として……

『「まえがき」には著者がその本を書くきっかけ、書く目的、この本で考えてみたい問いなどが書かれていることがほとんどです。つまり、著者の問題意識を効率的に理解できる箇所なのです』

『そして「あとがき」は文字通り、著者が本文をほぼ書き終わった後に書くものですから、著者も本全体を俯瞰したうえでの文章になっています。このため、まえがきで紹介されていたような問いに対するひとまずの答え・結論や、その本を書くことでさらに明らかになった問題意識が簡潔に説明されています』

 となって……

『本には全体構造を把握するために便利なものがあります。それは目次です』

『こうやって、目次を見て語ることで、この本についてのあなたの脳の回路ができはじめます。言葉と言葉がつながりはじめたり、わからなかったところには、「これは何だろう?」と好奇心が動きはじめたりします、パソコンでいえば、それぞれの章のフォルダが頭の中に作られはじめ、新しい情報を行け入れる器ができてくるのです』

 という部分を読んでしまうと、それは速読法でもなんでもなくて、単に本屋さんの店頭で面白そうなタイトルの本を見つけた時の、その本を買うべきか買わないべきかの判断をどうやってつけるか、という問題なのだった。

 つまり、これは私がやっている、書店店頭で本を見つけた時に、まず「まえがき」を読んで、次に「あとがき」を読んで、目次をみて、どこか面白そうなページがあったらそこを読んでみる、という方法論のまんまなのであります。

 で、そうやっておおむね本の概要が分かっている本は、べつに速読法に頼らなくても、短ければ一時間位で読めてしまい、それでいて、本の内容はちゃんと頭に入っていて、こうしてブログを一本書けるってわけ。

 基本的なことを言ってしまえば、まずその本に書かれている基本的なテーマを掴んでいて、できれば結論の一部でもわかっていて、さらにその本の構成がわかってしまえば、あとは本の実際の内容はかなり飛ばし読みでも大丈夫。ところどころに出てくるキーワード的な文章を押さえておけば、その本の内容を理解したことになるわけなのですね。

 なんだ、私も速読法の方法論の一部は理解していたわけなのですね。これまで速読法に興味は持ったけれども、単に「シートに書かれた<点>を左から右へ、右上から左下へ、上から下へ、右下から左上へ」という「眼の移動訓練」だの、なんか本に書かれている内容とはなんの関係もない、嘘くさいトレーニングを課す「速読法トレーニング」が苦手で、結局、常にドロップアウトしてきた私なんだが、結局は、もともと私がやっていた方法論が、速読法の基本の大前提になるというのなら、なんの問題もない。

 要は、普通に本屋さんの店頭で本を選ぶ時に、やるべきことをキチンとやっていれば、ほぼほぼ速読法の一部はできているってことなのである。

 それこそ、それだけの「読み」でもって、ブログを一本書けちゃわないこともないってくらい。あ、勿論このブログはちゃんと精読した上で書いていますよ。

 まあ、過去にはそんな経緯で書いたブログもあるってことで、それが「いつの・何について」かいたブログなのかは、ご勘弁ご勘弁。

 でも、そうやって書いたブログでも、書かれている内容については、ちゃんと自信はもっています。

 エヘン

速読・多読でビジネス力が高まる! スピード読書術』(宇都出雅巳著/東洋経済新報社/2008年7月3日刊)

2015年8月16日 (日)

靖国神社、8月15日のコスプレ・ミリオタも下火か?……それとも?

 8月14日の阿部首相戦後70年談話も、取り敢えずの四つのキーワード「植民地的支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」は入っていたものの、なんか安倍晋三氏らしい言葉がないなあという印象だった。まあ、安保法制を今国会で取りまとめなければならない阿部氏としてみれば、この談話問題でモメたくなかった、というのがその本音だったんだろう。まあ、そんな意味ではあまり面白い展開にならずに残念だった、と言っておこう。

 で、翌8月15日はいつもの「終戦記念日(なんで敗戦記念日じゃないのか)」であり、靖国神社が一年で一番混雑する(いろんな意味でね)日ではあった。

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 なんで私が毎年終戦記念日に靖国神社に行くのか? 別に明治維新からこちらの日本の英霊を敬っているからではない。

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 そう、単にコスプレをしたミリオタが面白いから見に行くだけなのでありました(この売国奴! と呼ばれても何とも思いませんから)。

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 なんでマネキンに従軍看護婦なんだか、これもよく分からない。

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 軍服に千人針って、だいたいあんたら千人針の意味が分かっているのかい? というか、この人たちって別に戦争や平和について真面目に考えたことなんかないんだろう。まあ、単純に「軍服かっこいい」ってだけのね。本当のミリオタなら、実際に自衛隊に入って本物の小銃を撃ってるはずだ。

 多分、この人たちって、結局戦争になったら一番最初に逃げちゃう人たちなんだろうなあ。

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 とは言うものの、今年はあまりコスプレのミリオタの姿があまり見えなかった。いつもの年だと、この中庭には航空兵とか従軍看護婦とか、陸軍の服を着たミリオタがうじゃうじゃいるんだが、今年は中庭にはまったく姿が見えないのだ。

 うーん、これは靖国神社側の規制が入ったのかな……、とも考えたのだが。

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 もしかして、午前中は錦織圭のテニスの試合を見ていて、靖国神社入りが午後になってしまったからかも、ということに気が付いた。

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 なので、いつもの8月15日の靖国神社周辺でよくある、午後になって次第に飽きてきた右翼と警察の小競り合いが早くも始まっているし……

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 それを見ている、歩道橋上のヤジ馬の皆さんの姿とか……、私もヒマですね。

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 本当は、こちらの「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」の方が、本来の第二次世界大戦で亡くなった人たちの、宗教とは関係のない墓地なんだがなあ。靖国神社からは1キロも離れていないのだが、靖国神社に行って、こちらにも行く人はほとんどいない。

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 不思議ですね。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Kudan Chiyoda (c)tsunoken

2015年8月15日 (土)

北区中央公園・王子野戦病院・東京第一陸軍造兵廠

「戦争の遺構を訪ねて」というシリーズがあるわけではないですが……。

 北区王子(実際の住所は十条台一丁目)には、戦前・戦中まで東京第一陸軍造幣廠があった。っていうか、このあたりから赤羽台までは被服廠とか、とにかく軍関係の施設がたくさんあったわけなのだ。

 で、その場所が戦後には米軍に接収され、王子の造兵廠は米軍地図局が接収し、王子キャンプとなったが、その後、あまり時間をおかずに閉鎖されたままになっていた。

 それが一躍脚光を浴びたのが、1968年にその場所に米軍のベトナム戦争の野戦病院が作られることになったからだ。この野戦病院に関しては1968年2月から1969年11月まで、三派全学連や市民グループの反対運動が盛んに繰り広げられていて、まあ、言ってみれば反代々木系の学生運動と市民グループの運動が短い蜜月状態だった時期でもあった。

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 上の写真が東京第一陸軍造幣廠の建物。現在は白く塗り直されているが、元々は茶色の建物だった。

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 王子キャンプは1971年に北区に返還され、この地に残る軍事施設は陸上自衛隊の十条駐屯地だけになった。この十条駐屯地も基本的には補給廠なので、戦争の香りはまったくない平和な雰囲気の駐屯地である。

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 で、返還を受けた北区は、その場所を北区中央公園として、先の東京第一陸軍造幣廠の建物も白く塗り直して北区中央公園文化センターとして、生涯学習の場として再生することにした。

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 北区中央公園は、いわゆる公園としての緑地空間や……

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 こうしたスポーツ施設なんかが出来ている。

 場所は違うのだが、同じ中央公園管轄内にある北区中央図書館がこちら。

 昔の陸軍造幣廠の赤レンガ造りの建物を一部残して、北区民からは「赤レンガ図書館」と呼ばれている。

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 勿論、公園のすぐわきは自衛隊の基地であります。

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 まあ、それがメインの施設なんだから、しょうがないよね。

 これも「戦争の遺構」ですね。第二次世界大戦かベトナム戦争かは別として。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Jujodai Kita (c)tsunoken

2015年8月14日 (金)

『童夢』と川口芝園団地

 大友克洋氏が漫画『童夢』を描いた時に舞台にした「川口芝園団地」へ行ってきた。

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 なんで、今更芝園団地? っていうのも、実は私は『童夢』が出版されてすぐに読んだんだけれども、その時は、これは北区にある豊島五丁目団地がモデルだろうと思って読んでいたのであります。

 まあ、それくらい、人が何かを読むときには、その読んだ人の思い込みでもって読んだ内容を判断しているということ。そう、つまり当時私は「川口芝園団地」の存在を知らなかったのである。

 ただ、考えてみれば、大友氏が『童夢』を描いた頃は、大友氏は浦和に住んでいたはずなので、それは芝園団地は知っていても豊島五丁目団地は知らないわな。一方、それを読んだ私の方は、当時マンモス団地と言えば豊島五丁目団地っていうくらい刷り込みが入っていたので、大友氏がどこ住んでいるのかとは関係なく、豊島五丁目団地だと思って読んでいたのであります。

 ということで、JR京浜東北線蕨駅を西口に降りてすぐのところにある旧日本住宅公団(現・都市再生機構UR)川口芝園団地へ行ってきたのだった。

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 なるほど、こちらも豊島五丁目団地にはちょっと負けるが、それなりのマンモス団地であるのはまちがいない。

 特に、漫画で描かれた特徴ある建物の建て方が、実際に行って見るとよくわかる。

 特にこのJR(京浜東北線、宇都宮線、高崎線)側にある1号棟、2号棟、3号棟は連棟式になっていて、微妙な変化をしながら繋がっている。

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 つまりそれは、連棟式にすることで遮音をし、JRの電車の騒音を団地の中にまで届かないようにしようという考え方なんだなあ。

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 中庭の方へ入って見ると、いろいろな公共スペースがあって、子どもたちが安心して遊べるような作りになっている。

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 外の学校法人の経営のようだけれども幼稚園が団地内に作ってあるっていうのは、如何にも団地設立当初の若い親たちが入居した時のことを考えていた、というのがよくわかる。

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 さらに団地内に公民館があるっていうのも、いかにも「公団住宅」という感じですね。

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 とはいうものの、近年、そんな幼稚園で育った子どもたちも独立してしまい、団地に残る人たちは、それこそ『童夢』のチョウさんのような独居老人ばかりになってしまっているようだし、退去した住民の後に入ってくるのは中国人をはじめとした外国人が多いようだ。

 現在、2400世帯、約5000人が住む芝園団地も、その内2000人ほどが外国人だそうだ。確かに、蕨駅からは近いし、敷金なし、礼金なしというUR賃貸住宅のシステムは、1980年代から1990年代にかけて留学生・就学生として来日したニュー・カマーズ(新華僑)にとってはいい生活条件なのだろう。

 各種の張り紙も、日本語、英語、中国語で書かれている。

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 管理事務所のある15号棟も、こうした外国人対策もあって大変だろう。

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 とは言うものの、めったやたらモノを捨てる銀座の中国人に比較すれば、芝園団地の中国人はおとなしいようで、っていうか自分が住むところを汚して平気な人間はいないのであって、それは中国人だって同じだということがよくわかった。

『童夢』(大友克洋著/双葉社/1982年6月28日刊)

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Shibazono Apartment Kawaguchi (c)tsunoken

2015年8月13日 (木)

裏原宿っていうか、キャットストリートっていうか

 原宿表参道にある、昔ビクターエンタテインメントが入居していた原宿ピアザビルの脇から、表参道とは交差している道が、いわゆる「裏原宿」あるいは「キャットストリート」と呼ばれている道だ。

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 この道、表参道のブティックやカフェなどとは違って、どちらかというと「低価格」が売りのお店が多いんですね。

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 そういう意味では、竹下通りの延長線なのかなあ。

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 それはいいとして、どうもこの道ってやたらクネクネしてません?

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 クネクネ、クニャクニャ……。

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 何故かと言うと、それはこの道の正式名称が語っています。

「旧渋谷川遊歩道路」というのがその正式名称。つまり、旧東横線の渋谷駅脇から地上に姿をあらわして天現寺橋まで流れている渋谷川の、その上流がこの道なんですね。

 前回の1964年東京オリンピックの年に暗渠化されて、人が歩ける道になったというわけ。

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 なので、クネクネ、クニャクニャしている訳。

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 で、この道は明治通りの裏道的に宮下公園の方まで暗渠として続いており……

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 東横線の渋谷駅のところで表に姿をあらわすわけです。なんで、渋谷駅で姿を表すのかは知らない。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Jingumae Shibuya モノクロモードで撮影 (c)tsunoken

2015年8月12日 (水)

京橋にもあった「骨董通り」

 南青山骨董通りのことを調べていたら、「日本橋・京橋美術骨董通り」というのが引っかかって来た。

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 この、八重洲通りと鍛冶橋通り、昭和通りと中央通りに四方を挟まれた京橋一丁目と二丁目がその場所だ。なので、「骨董通り」というよりは「骨董街」(?)かなあ。

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 では、いざ行って見ましょうか。

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 京橋一丁目と二丁目というのだけれども、京橋一丁目は大きなビルが出来てしまい、あまり美術骨董屋さんは見当たらない。

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 で、どんどん鍛冶橋通りの方へ向かって進んでいくと、京橋二丁目になってとたんに美術商、ギャラリーなどが増えてくる。

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 ここもそうだし、あそこもそうだし……

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 中には二軒三軒と軒を並べている場所もあったりする。

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 戦前にこの地域に進出した企業などの応接室に飾る古美術や骨董のニーズが高まって、この近辺に多くの古美術商や骨董屋さんが店を開くことになったそうだ。

 まあ、そういえば昔の会社って応接間に必ず何かが飾ってあったもんな。それ用だったっわけね。まあ、あまり美術的価値感がなくてもいいから、ちょっと「ミテクレ」を気にするってやつか。

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 確かに、この近辺を歩いているとギャラリー(画廊や写真画廊など)が目に付くなあとは思っていたのだが、そうかこうした古美術商なんかがそのギャラリーの元だったんだなあ、と気が付いた。

 春と秋には「骨董祭り」というものも開催されているそうだ。今度の秋の骨董祭りは覗いて見ようかしら。「ミテクレ」ってやつを。

「日本橋・京橋美術骨董通り」を紹介する中央区観光協会のサイトはコチラ

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Kyobashi Chuo (c)tsunoken

2015年8月11日 (火)

『「日本」を捨てよ』ってそういう意味だったの?

『「日本」を捨てよ』って言っても、「日本」という国を捨てろっていうことではなくて、「日本という国」の概念を捨てて、新しい概念を獲得しようっていうことなんだな。

 まあ、私なんかは「日本という国」を捨ててもいいとは考えているんだが……。

Photo 『「日本」を捨てよ』(苫米地英人著/コグニティブリサーチラボ/2015年3月15日刊)

 例によって、読書メモから……

『閉塞感を感じ、自分の国に不信感を抱いている日本人は、なぜ政府に対して暴動も起こさず、デモ活動もせず、黙って言いなりになっているのか? ――本書の問題意識はここから出発しています』

『考えても答えが出ないから自分の意見はもてず、「政治家や官僚がちゃんと考えてくれないと困る」と文句ばかりが増える。まともな議論がなされないまま、いつのまにか閣議や国会で何かしらの結論が出され、その後一週間ほどは「議論が尽くされていない」と批判が新聞に載るが、じきにその問題は忘れ去られていく……』

 まあ、日本の民主主義ってせいぜいそんなものなのだろう。

『いわゆる多数決による議決だけで意思決定をするとしたら、民主主義はたんなる「多数派による独裁」でしかありません。国会にせよ、裁判にせよ、株主総会にせよ、議決にいたるまでに十分にディベートが行われ、十分な情報が議論の場で提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです』

 それが本当の民主主義なんだろうけれども、結局、日本の政党は「党議拘束」をかけてしまい、政治家個人がものを考えることを禁止してしまう。政党の議員はせいぜい採決の時に、自分の党に反対だったら欠席する程度の抵抗しかしない。この辺が、自分は共和党員だが今回の政策に関しては民主党に賛成しようという自由がある、アメリカの連邦議会の考え方を、我が国も見習うべきところだろう。そのためには、両論の持ち主が徹底したディベートをして、意見を交わすべきなのだが、日本の場合はそんなことをすると「空気を読め!」なんていう下らない発想が前面に出てしまい、ディベートが成立しなくなってしまう。

「徹底したディベート主義」は「徹底した民主主義」の前提条件である。そんな意味では、日本の民主主義は単なる「手続き民主主義」であり、初めから結果の見えている「多数派による独裁」でしかない。

 苫米地氏はそんな日本人のメンタリティを支えているのは「儒教思想」だと言っている。

『儒教思想は、近代民主主義社会の大原則であるフェアネスと真っ向から対立するのです』

『当然、儒教思想に洗脳され、ディベートが機能せず、情状酌量が横行する日本社会にもフェアネスは存在しないことになります』

 そんな儒教思想が蔓延する日本という社会だからこそ、いわゆる「ネット右翼」という存在もあるのだろう。

『こうした自己肯定欲求が噴出する背景には、経済的・社会的に弱い立場にある人々の憤懣があるのでしょう。あるいは、本書でこれまで指摘してきたような、日本の社会構造のなかで可能性を阻まれている人々の絶望感が原因なのかもしれません。いずれにせよ、心を病んだ人々の防衛本能の発露と言ってもいいと思います。 そのため、ネット右翼のなかには、オフ会やデモを通じて恋人ができると、「これからは日本じゃなくて彼女を守ります」などと平然と言い放って、運動から引退してしま若者もいるとか。微笑ましい話ですが、これなども一見、愛国心から発したと見られる運動が、じつは若者の承認欲求の問題にすぎないことを物語るエピソードです』

『ネット右翼の問題は愛国心の高まりというよりも、若い世代の居場所探しの問題、メンタルヘルスの問題と考えるべきこと。「自殺者が増えている」「うつ病の患者が増え、SSRIなど抗うつ剤の処方が年々異常な伸びを示している」といった問題と同列に語られ、対処されるのが適当でしょう』

 こうした行き詰まりの社会における対処法として、苫米地氏は、しかし、もっとも日本には向いていない方法論を提示するんだなあ。

『さて、信仰における無教会派的な思想が政治思想として現れたのが、「無政府主義」(アナーキズム)だと私は理解しています。 無政府主義は、十九世紀フランスの思想家プルードンに始まり、マルクスと争ったロシアのバクーニンらによって革命思想として練り上げられていきました。その主張の中心は、政府や国家、教会など、あらゆる権威の否定です』

『政府、さらには国家まで否定する無政府主義の思想も、基本的には同じであることがわかると思います。特定の人間たちの組織である政府が、それ以外の人間たちを支配するからアンフェアになる。だから政府などぶっつぶせ、という思想なのです』

『私はここに、日本人が自由な可能性を勝ち取るための道があると思っています』

 というのは確かではあるが、じゃあ、日本人がそんな「個」、それも徹底した「個」の立場に立って物事を考えることは可能なのだろうか?

 それでなくても「空気を読め!」である。『閉塞感を感じ、自分の国に不信感を抱いている日本人』だが、『政府に対して暴動も起こさず、デモ活動もせず、黙って言いなりになっている』日本人なのである。

 まあ、だからこそ敢えて、一番日本人が取り組むのが難しい方法を提案するのかも知れない。

『日本が抱える問題について考えるとき、日本の具体的現象を考察の対象にしようとします。優秀でまじめな人ほど、日本の政治、日本の経済、日本の文化、なかでも戦後の政治、バブル期以降の経済、企業の文化……と、いっそう具体的な分析を進めていくことでしょう』

 しかし、だからこそ……

『日本の諸問題を考えるときに、「日本」という枠よりも抽象度の高い思考を心がけると、どうなるでしょうか。「日本」にとどまらず「アジア」、さらには「世界」まで思考を広げる。たんに比較するのではなく、大きな視野で物事をとらえるようにする』

 というのだが……。

 そういえば昨日(8月10日)の日経新聞に、ソ連崩壊を予言した『最後の転落』、アメリカが衰退期に入ったと指摘した『帝国以後』などのベストセラーを出した、フランスの人口学者エマニュエル・トッド氏のインタビューが載っていたが、その中で「人口減の日本は移民を受け入れるかどうか議論しています」という記者の問いかけに対して。

『移民受け入れは不可欠だが、複雑な問題だ。朝鮮半島出身者が日本社会に溶け込む難しさは誰もが知っている。2度目の明治維新さながらの国民意識の転換が必要だ』

 と答えているのが印象的だった。

 つまり、そのくらいの意識の転換がないと、日本人は日本を抽象化できないってことなんだなあ」。

『「日本」を捨てよ』(苫米地英人著/コグニティブリサーチラボ/2015年3月15日刊)

2015年8月10日 (月)

「キラー通り」っていう言語感覚って、どうよ?

 外苑西通りのビクター・スタジオ前の仙寿院交差点から……

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 青山通りと交差する青山ベルコモンズ前を過ぎて……

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 青山墓地までの部分は「キラー通り」と呼ばれている。

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 もはや住民が退去して新国立競技場の一部になることが決まっている都営青山北町アパートの前の地味な道が、なんで「キラー通り」なのかと言えば。

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 周辺には結構オシャレな飲食店とか、ギャラリーなんかがあるので、そこに訪れた女の子たちが男どもにナンパされて食べられちゃうからだ、と以前の私は考えていた……。

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 ところが違うんですなあ。

 実は昨日のブログで登場したコシノ・ジュンコ氏が1970年にこの通りに店を開店することになった時に、店の案内状にこの名前を書いたところから、この「キラー通り」が世間に広まることになったそうだ。

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 なんでも「この道が青山墓地に面していることから、死に関連して悪ノリでキラーと名づけた」というのだが。

 まあ、この辺がこの当時の日本人の外国語感覚だったんだろうな。なんで「墓地=殺人者」になるんだ? 「墓地」ならCEMETERY(セメトリー)でしょ。いくら「悪ノリ」だとはいえ、「墓地=殺人者」は最低の例えでしょ、というか英語への無知をさらけ出したファッション・デザイナーとして最低の評価を与えられるところなのだが、それもなかったというところが、当時の日本人の英語感覚の欠如としか言いようは無い。

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 ああ、ここは「あの人のお父さんのお店」ですね。

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 ということで、何故その名前がついたのか、未だによくわからない「キラー通り」から、お送りしました。

『完全リメイク版 キラー通り殺人事件 志垣警部+和久井刑事』(吉村達也著/講談社文庫/2002年3月15日刊)

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 モノクロモードで撮影 @Jingumae Shibuya Aoyama Minato (c)tsunoken

2015年8月 9日 (日)

南青山骨董通り

 青山通りの南青山五丁目交差点と六本木通りの高樹町交差点を結ぶ通りは、正式には「高樹町通り」なんだけれども、「骨董通り」として知られている。

 なんでも、古美術鑑定家の中島誠之助氏が名付け親だそうだ。そういえば中島氏の著書に『南青山骨董通り』っていうのがあるなあ。

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 通りの途中に小原流会館や……

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 根津美術館なんかがある関係で、美術骨董品を扱うお店が集まるようになってのがその理由。

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 確かに、こんな古民蓺店や……

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 あんな美術品店やら……

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 おおっと、なんかスゴい美術骨董品店なんかが軒を連ねている。

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 距離としては1キロ位の短い道なんだけれども、なんか充実しているなあ。

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 で、高樹町交差点までくるとコシノ・ジュンコ・オフィスなんかがあります。

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 で、このコシノ・ジュンコさんは明日のブログでも登場します。結構、トンでもない理由でね。
『南青山骨董通り』(中島誠之助著/中公文庫/1995年12月刊)

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 ピクチャーコントロール→モノクロームで撮影
@Minami Aoyama Minato (c)tsunoken 

2015年8月 8日 (土)

『年収は「住むところ」で決まる』って、何だそういうことか

 原題は「THE NEW GEOGRAPHY OF JOBS」(新しい仕事の地理)というのだけれども、邦題になってしまうと『年収は「住むところ」で決まる』となるんだなあ。確かに、意味的にまったく異なってしまっているわけではないが……、プレジデント社もなかなかジャーナリスティックですね。

 しかし、学歴とかで決まるっていうんだったら分かりやすいんだけれども、そうじゃなくて「住むところ」で決まる、ってのは初耳だなあ。

 まあ、一種の「トリクルダウン」っていう考え方に近いのかなあ。

Photo 『年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学』(エンリコ・モレッティ著/池村千秋訳/プレジデント社/2014年4月23日刊)

 取り敢えず、読書メモから……

『ある土地に大学卒業者が多くなれば、その土地の経済のあり方が根本から変わり、住民が就くことができる職の種類と、全業種の労働者の生産性に好影響が及ぶ。最終的に、そういう土地では、高度な技能をもっている働き手だけでなく、技能が乏しい働き手の給料も上がっていくのだ』

『科学者やソフトウェアエンジニア、数学者の雇用が増えれば、地域のサービス業に対するニーズが高まる。その結果、タクシー運転手や家政婦、大工、ベビーシッター、美容師、医師、弁護士、犬の散歩人、心理療法士の雇用も増える。地域レベルのサービス業で働く人たちは、ハイテク企業の社員たちが暮らす地域に集まり、その人たちの個人的なニーズに応えていくのである。』

『職務経験、教育レベル、IQ(知能指数)の違いを考慮に入れて比較をおこなっても、年収の格差は同じように存在する。要するに、働き手の資質自体にはあまり大きな違いがない。違うのは、その人が働いている地域の経済のあり方、とくにその地域の高技能の働き手の数なのだ』

『教育レベルの高い住民が多いと、地域経済のあり方が根本から変わる。住民が就くことのできる仕事の種類が増え、労働者全体の生産性も向上する。その結果、高学歴の働き手だけでなく、学歴の低い人の給料も高くなる』

『教育レベルの格差は、給料の格差と直結している。最上位の頭脳集積地の大卒者たちは、年収が七万~八万ドルに達する場合もある。これは、最下位グループの都市で働く大卒者の約一・五倍だ』

『シリコンバレーの中心に位置するサンノゼは、マーセドに比べて大卒者の割合が四倍以上、大卒者の年収が一・四倍、高卒者の年収が二・三倍に達している』

『ボストンは、大卒者の割合がフリントの四倍で、イノベーションと金融が経済の牽引役になっている。一方のフリントは、アメリカでことのほか人的資本の蓄積が乏しい都市で、いまだに古いタイプの製造業、とくに自動車製造業に依存している。ボストンの大卒者の年収は、平均して七万五一七三ドル。フリントの一・七倍あまりに達している』

『ボストンの高卒労働者の平均年収は六万二四二三ドル。これは、フリントの大卒者の平均の一・四倍だ。サンノゼの高卒者の平均年収は六万八〇〇九ドル。最下位グループの都市の大卒者に比べて一~二万ドル多いケースも珍しくない。都市間の格差があまりに大きく、学歴による格差を飲み込んでいるのである。ここから浮き彫りになるのは、アメリカにおける賃金格差が社会階層よりも地理的要因によって決まっているということだ』

『アメリカはいま「三つのアメリカ」に分岐しつつある。表1にあるような頭脳集積地では、教育レベルの高い働き手もそうでない働き手も高い給料を得ている。その対極に、表2に載っているような地域がある。働き手の教育レベルが低く、労働市場が地盤沈下を起こしている土地だ。そして、この両者の中間に、まだいずれの方向に歩んでいくかがはっきりしない都市が多数ある』

『大卒者の割合が多い都市ほど、高卒者の給料が高い』

『都市の大卒者人口が増えることの経済的効果はきわめて大きい。大卒者の割合が一〇%増えると、その都市で働く高卒者の年収は七%増えるのだ』

 なるほどなあ、これは「トリクルダウン理論」とはまたちょっと違う現象のようだ。

 高学歴者が集まって作っている街に住んでいる人たちは、自分たちの仕事が忙しい分、サービス業に頼る部分が増えてくる。ということは、そんなサービス業に携わる低学歴の人たちの仕事が増え、その結果、そんな低学歴の人たちの収入も増える、っていう三段論法なんだが、しかし、そんなにうまく行くんだろうか。

 つまり、そんな低学歴の人たちが住む場所は、やはり高学歴の人たちが住む場所とは異なってくるんじゃないだろうか。つまり、まず高学歴の人たちが住む場所の不動産費用は高額だろうし、その結果、生活費だって上がってくる。でも、低学歴の人たちの収入が他のところよりも若干高いとはいえ、やはり負担増にはなるわけで、結局、同じ都市の中にも「高学歴層が住む地域」と「低学歴層が住む地域」と言う具合に二分はされそうだ。

 ただ、まあそうはいっても、例えば東京に住むのと、前橋や宇都宮に住むのでは、やはり「住む場所によって年収は異なる」ということにはなるだろう。つまり、東京でサービスを提供する会社は、やはりそれなりに高い収入を約束しなければ労働者を雇うことはできないだろうし、ということは、当然その会社がお客さんに請求するサービスの値段も高くなる。で、その高いサービス対価を支払えるのも、東京で高い収入を得ている高学歴の人たちじゃないと無理、という訳なのだな。

 勿論、同じサービスを地方都市で受けた場合の対価は低くなるだろうし、ということは、そのサービスを提供する労働者の収入も少なくなるって訳だ。

 なあんだ、そういうことか。

 って、実はそうじゃない部分がこの本では重要なんだけれども、『年収は「住むところ」で決まる』というタイトルにだけこだわって読むと、まあ、そういうことになる訳です。

 で、そのことはいずれ書くこととして、キーワードは『私たちの仕事の環境と社会の基本的骨格は、グローバル化とローカル化という、二一世紀の二つの潮流によって根本から様変わりしようとしている』ってことね。

『年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学』(エンリコ・モレッティ著/池村千秋訳/プレジデント社/2014年4月23日刊)

2015年8月 7日 (金)

高田城と春日山城

 上越市には大きな城跡が二つあります。

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 ひとつは上越市高田の中心地にある「高田城」。高田城は、徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた、高田藩庁の為の城。つまり、戦をするための城ではないので当然平城だし、天守閣もなかったという。

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  現在も新潟県上越地域振興局なんていうお役所が城の中にある、なんていうのは如何にもお役人根性だなあ。まあ、このお役所に用事があって高田まで出かけたんだけれどもね。

 明治以降、旧陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。現在は、陸上自衛隊高田駐屯地が置かれている。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。

 まあ、用があったのは自衛隊方面じゃないですよ。

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 一方、妙高はねうまライン(旧・信越線)の高田駅の隣が春日山駅。そのそばにあるのが、代々長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる「春日山城」であります。

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 こちらは完全に戦のための砦なので山城。

 うわっ、階段。と思ったんだけれども、山城の中腹、春日山神社がある辺りまではクルマで登れるんです。

 ただし、登ったのはそこまで。勿論、山頂の本丸まで行く気になれば行けたんですけれども、今回はまったくその気はなし(「心」と「体」の準備もなし)なので、クルマで上がれるところまで。う~ん、この辺が「衰え」ってやつですかね。

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 中腹にはNHK大河ドラマ「天と地と」の際に作られた上杉謙信公の銅像がある。

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 同じところから見た直江津の町。さすがに中腹からでもかなり見晴はいい。

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 で、山を下りたところにある「上越市埋蔵文化センター」では「謙信公と春日山城展」が開催されている。

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 う~ん、やっぱり越後の人にとっては、徳川家の倅よりは上杉謙信公なんだなあ。

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2015年8月 6日 (木)

目黒銀座商店街

 JR目黒駅前にあるのは「権之助坂商店街」じゃあ「目黒銀座商店街」はどこにあるのか、と言えば、東急東横線と駒澤通りに挟まれたところにある。一番街から五番街まであるが、四番街から五番街までは、東横線のガードをくぐって反対側に出る。

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 三番街を歩いてみると「シアターα」なんてのがあるので劇場かとおもって近寄ってみたら花屋さんだった。

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「金座中目黒」なんて名前なので貴金属のお店なのかと思ったらそうでなかったり、「楽屋」なんて名前のカフェがあったり、いろいろ面白そうな町ではあるな。

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 あっ、この「イマイスポーツ」というのは、以前、男の子供たちを連れてきたことがある。確か、ここにしかないというのでわざわざ来たはずなんだけれども、何を買いに来たのかは覚えてないなあ。

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 マンションの玄関に置かれていた「布袋様」って、何なんだろう?

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 商店街からちょっと脇に入ったところにある「馬頭観音」。

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 どうもこの馬頭観音が目黒銀座の中心みたいだ。

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 で、第六天社というお社に出ると、目黒銀座商店街は山手通りにぶつかって終わる。

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 面白そうな商店街なので、今度はちょっと探訪に来ようかな。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Meguro Ginza Meguro (c)tsunoken

2015年8月 5日 (水)

近衛師団司令部庁舎・日本の一番長い日・高射砲台座

 北の丸公園の一番皇居に近いところにあるのが、旧・近衛師団司令部庁舎。

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 現在は、東京国立近代美術館工芸館として昭和52年(1977年)に生まれ変わったのだが、それまではまるで忘れ去られた廃墟のように、東京のど真ん中に建っていたのだった。

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 陸軍近衛師団というのは天皇に仕える軍隊として、日本陸軍の一番のエリートの軍隊だった。

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 そのエリート軍隊が起こしたのが「宮城事件」である。

『1945年(昭和20年)8月10日未明にポツダム宣言受諾が決まり、それを天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせることが決まった。
 8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが近衛第1師団長森赳中将へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。
 拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。
 間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの叛乱を知り、叛乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる』(Wikipediaより)

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 半藤一利氏の作品『日本の一番長い日』である。

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 が、今回はそれがテーマじゃなくて、この旧・近衛師団司令部庁舎の前の首都高を跨ぐ橋を渡ると内堀と皇居に挟まれた土手があるので、それを上がって行く。

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 と、そこには七台の高射砲台座があるんだなあ。

 これは知らなかった。ここにもあった、戦争の遺構であります。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Kudan Chiyoda (c)tsunoken

2015年8月 4日 (火)

『逆転の仕事論』っていつも堀江貴文が言ってたこと、ってだけね

 堀江貴文氏とのつきあいのある八人の生き方から、堀江氏が見つけた共通項を示したのが本書である。

Photo_2あえて、レールから外れる。 逆転の仕事論』(堀江貴文著/双葉社/2015年6月2日刊)

 その八人の人々の成功ポイントが以下の通りなのだが……。

書道家 武田双雲
ココがポイント!
❶2歳児の精神のままに大人になる
❷NTTを辞め、書道家の道に進む  
❸どこにも属さない「無敵」の存在でい続ける

コルク 佐渡島庸平
ココがポイント!
❶南アフリカで育ち、仕事の核を見つける  
❷講談社でヒット作を量産する
❸出版界の新しいカタチを作るため㈱コルクを立ち上げる

kawaii 増田セバスチャン
ココがポイント!
❶絵に自信があるが夢止まり  
❷2年間、引きこもりになる
❸原風景をルーツに〝Kawaii〟を生み出す

ロンドンブーツ1号2号 田村淳
ココがポイント!
❶ルールを常に疑う  
❷物議を醸す番組を作る
❸TVの枠を超えた面白さを模索する

ユーチューバー HIKAKIN
ココがポイント!
❶ヒューマンビートボックスにハマる  
❷ユーチューブに出会い、スーパーの店員を辞める
❸日本トップのユーチューバーとなる

BAN x KARA 小田吉男

ココがポイント!
❶学校で教えられる常識が理解できず社会との折り合いに苦労する  
❷使命感でやる仕事に限界を感じる
❸楽しさを追求していくことが自然と様々なビジネスに繋がる

ULTRA JAPAN 小橋賢児
ココがポイント!
❶子役として着実にステップアップする  
❷役者の世界での自分に違和感を感じ事務所を辞める
❸カタチにこだわらず、多くのエンターテインメントを世に送り出す

FREEex 岡田斗司夫
ココがポイント!
❶常識から外れることを躊躇わない  
❷会社のあり方を逆にする
❸炎上しながらも、家族のあり方を変えることに挑む

 結局、そこから堀江氏が見つけたメソッドとは

『 《逆転の仕事論が提示する5のメソッド》  
・目標からの逆算はせず、今だけに集中する。
・常識にとらわれず、まっさらな目で見る。  
・遊びと仕事の境目をなくす。
・皮膚感覚で違和感を感じる仕事は捨てる
・失敗を恐れず、ひとつの場所に固執しない。』

 ということ。

 ポイントは、やはり遊びと仕事の境目をなくして、目標志向はせずに現在だけに集中するってことかな。

 サラリーマンをやっていると、それは絶対にできない思考方法なのである。基本的にサラリーマンはその年、その月、その日の数値目標があって仕事をしなければならないし、やはり仕事は遊びではないということなのだ。それは佐渡島がいた講談社という比較的自由な職場にいても同じではあるし、武田氏のようなNTTなんかにいたらそれはもっと厳しく追及されるところであろう。

 堀江氏もそうだが、初めから自分一人で仕事を始めたり、最初から起業しちゃった人たちは、それこそ遊びの延長線上に仕事があったりして、本人としては遊んでいたつもりが、気がついたらいつの間にか、それが仕事になってしまっていた、ということなんかもあるだろう。HIKAKINや岡田斗司夫なんかは典型的なそれだ。

「起業する」とは言っても、新たに会社を興して何か仕事をする、って言う緊張的な感覚よりは、何か楽しいことをやっていたら、いつの間にかそれが仕事を作り出して、いつの間にかそれがお金になって、いつの間にか「成功者」と呼ばれたりする。そんな時代になったんだなあ。

 勿論、それでやりすぎちゃうと、「大人」たちからバッシングを受けて、「有罪!」なんてこともあったりするが、まあ、それも経験だよって割り切っていけばどんなことでもできる。

 そういう点では「グローバリゼーション」というのも悪くはない。

「起業」の枠を取っ払ったという意味ではね。

あえて、レールから外れる。 逆転の仕事論』(堀江貴文著/双葉社/2015年6月2日刊)

2015年8月 3日 (月)

佃島・住吉神社例祭・獅子頭・八角神輿

 実は一昨日、楽フェスの後、クルマで豊洲から月島に回って思い出した。

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 あれっ? 今日って佃島の住吉神社のお祭りじゃなかったっけ! じゃあ。佃島にクルマで入ることはできないよ。ってことで……。

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 それも、今年は3年に1度の例大祭だったのだった。ああ、大失敗!

 ということで、昨日暑い中改めて電車でエッチラオッチラ行ってきたと思いねえ。

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 相変わらず、神社の参道は各家が玄関を開放して臨時の神酒所になっている。

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 ここ、佃島住吉神社の名物は「獅子頭の宮出し」(中央区無形文化財)だ。各所に獅子頭が供えられている。

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 いつもは神輿庫に納められている大神輿も年に一度の御開帳。

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 家々の軒下には「住吉神社」の提灯が下げられていかにも下町のお祭りという雰囲気だ。

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 佃囃子に乗せられながら通りの向こうを見ると、何やら人だかりが……。

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 おお、これも佃島住吉神社名物の八角神輿をトラックで移動させている。

 そう、普通は四角い神輿なのだが、ここ住吉神社には八角神輿と天保八角神輿というのがあって、それが住吉神社が持っている神輿。普通の町会の神輿は四角い神輿であります。

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 無事、渡御を終えた八角神輿を神社に返すために運んでいるのだった。

 そうか、今はこうやって神輿を運ぶんだ。

NIKON Df  + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Tsukidajima Chuo (c)tsunoken

2015年8月 2日 (日)

「楽フェス」って、何だ?

 昨日から8月5日まで、東京ビッグサイトで「楽フェス」が開催されている。

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「楽フェス」って何だ?

「楽フェス」とは、およそ4万店と言われる楽天市場の出店者の中から300店舗ほどのお店がブースを出す、いわば楽天版コミケというか、まあリアル店舗のお祭りみたいなものだ。

「まち楽エリア」「ビューティーエリア」「キッズ・ベビーエリア」「ライフスタイルエリア」「うまいもの大会」「グルメエリア」「ファッションエリア」などにエリア分けされて、それぞれのお店が競い合う。

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 勿論、楽天Edyとか、koboとか、楽天レシピとか、Viberなんかの楽天のサービスのプレゼンも行われているのだが。

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 結局、大半のお客さんは「うまいもの大会」で何かを食べるというのが一番多かったような気がする。

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「楽フェス」って何だ? と思った方はコチラをクリック。

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「楽フェス」は東京ビッグサイト東4ホール、東2ホールにて、8月5日まで開催中。入場無料。

「楽フェス」の公式の公式サイトはコチラ

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Tokyo Big Sight (c)tsunoken

2015年8月 1日 (土)

『こんにちは、母さん』というお芝居

 久しぶりに芝居を観た。

 もう数十年ぶりかもししれない。

Photo 『こんにちは、母さん』(作:永井愛/演出:杉本孝司/出演:三浦てるみ、飯塚弘貴、野澤遵宜 ほか)

 なんで芝居を観る気になったのかというと、K談社で私の元上司だった人が、定年後CMタレントになったという話を聞いて、「へぇ~、変わった人がいるもんだなあ」と思っていた。その方とつい先日お会いした際にいろいろ聞いてみたんだが、なんでも明治座が主宰する俳優養成所に入り、そこを卒業したのち明治座系の事務所に登録となって、CMなどに出るようになったという。

 で、「最近、芝居をやります」というので、昨日、見てきたのがこの芝居、という次第。

 もともとは、2001年に新国立劇場で上演された劇作家・永井愛のオリジナル作品で、第一回朝日舞台芸術賞、第九回読売演劇大賞最優秀作品賞をそれぞれ受賞した作品。NHKでドラマ化もされている。永井愛は私と同年代の劇作家で演出家。

 最初の新国立劇場のパンフレットでは……

には恋人が来た。息子にはリストラが来た。
       人はそれぞれの「記憶」を背負って「今」を生きています。相手を知るということは、その人が持つさまざまな「記憶」を知るということなのかもしれません。しかし母の「記憶」を実は息子が知らなかったりというように、身近な人の記憶にはかえって触れぬままでいることが多いようです。

「私の母は本当はどんな人間なのだろうか?」東京の下町を舞台に、母と息子と母の恋人の三人が、それぞれ独自の記憶と時代を背負った人間として初めて対峙し、互いに再発見していく物語を人気劇作家・永井愛が笑いと涙満載に描きます。

 作・演出を担当する永井愛は劇団二兎社を主宰、近年では文化庁芸術祭大賞、紀伊國屋演劇賞個人賞などを次々と受賞、常に高い評価と注目を集めています。人間同士の対話の中から劇的な力が立ち上がってくる演劇の王道を行く骨太さと、笑いに満ちた軽やかさが同居した作品は絶大な人気を得ています。

 さらに今回は望みうる限りのキャストが結集しました。永井作品初登場の加藤治子、杉浦直樹、平田満。永井作品には欠かせない大西多摩恵、田岡美也子、橘雪子、酒向芳、小山萌子。熟練したキャストによる新たな永井ワールドの誕生です。2001年早春、最高の話題作にご期待ください。

のがたり
 代々足袋職人の実家に馴染めず、会社人間として生きてきた神崎昭夫(平田満/平田満/飯塚弘貴)は、リストラ担当の総務部副部長として神経をすり減らす日々。加えて家では妻から離婚を迫られている。

 人生に戸惑いを覚えた昭夫がたどり着いた先は、母の福江(加藤治子/加藤治子/三浦てるみ)が一人住む東京・下町の我が家だった。だが久しぶりの母の家での出来事は傷心の昭夫を驚かすことばかり。見知らぬ人が出入りし、元気な中国人の女の子が家の中を飛び回っている。福江も以前の姿からは想像もつかぬ艶やかなファッションに身を包み、カルチャースクールやボランティアに参加し、イキイキとして楽しそうだ。しかも福江には恋人らしき男・荻生直文(杉浦直樹/児玉清/野澤遵宜)の存在が。

 積極的に「生」を受け入れようとする元気な70代の母とその恋人、二人の生き方に戸惑いと発見を繰り返しながら、自分自身の人生をもう一度模索しようとあがく40代の息子。

 ひょんなことから、この三人の奇妙な共同生活がスタートする―。福江、直文、昭夫と彼らを取り巻く下町の元気な人々の日常生活を通しながら、「人生を正直に生き直そう」とする人々の姿が、生と死を深く交錯させながら描かれていきます。』(2001年、新国立劇場での初演時の資料から。出演者は「初演時のもの/NHK版/今回のもの」)

 というもの。

 しかし、芝居におけるリアリティってなんなのだろう。映画に関して言えば、それは役者が演じているのではあるが、しかし、あくまでもそれは役者が演じているということを前提にしながら、それを無視するというリアリティの持ち方だ。役者の存在感とドラマにおける役名の存在感は別のものとして観られるし製作もされる。役者の存在感が理会されるのは、その映画が完成し、スクリーンで上映され、その後になって、その映画について考えをおよぼした時に感じられるものだ。

 ところが、芝居に関しては、既に目の前に生身の役者がいるわけで、それは言ってみればリアリティの塊であるほかないはずなのだけれども、その役者は実は自分とは別の人格を演じている訳だ。

 ここに、映画と芝居という、似て非なるものの存在がある。

 どちらが好きかというのは、あまり意味のある問いではなく、ただただ、双方が等しくある、ということだけを確認すればよいのである。

『こんにちは、母さん』は8月2日まで、Woody Theatre 中目黒にて

Woody Theatre 中目黒の告知サイトはコチラ

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