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2015年7月27日 (月)

『テロルと映画』の不可能性について

 四方田氏は『もし歴史が個人の悲嘆を乗り越え、社会全体が服すべき哀悼をなしとげることであるとするならば、映画はテロリスムの廃棄を目的として、哀悼的想起の相のもとに世界を認識するメディアでなければならない。それは具体的にいうならば映像を事後性、つまり重要な事件が過ぎ去ってしまって自分たちが残響の中にいるという認識のもとに提示し、寛容と若いの物語を演出することである。だが、最終的にはテロリズムの根底に横たわるスペクタクル的な要素を映画の内側から完璧に排除することである』と書くのだが、果たしてそれは可能なことなのだろうか。

 つまり、その少し前で四方田氏自身が『一つは、テロリスムが人間に向かって何かを訴えるときには、つねに映像メディアを媒介とし、スペクタクルの形態をとるという事実である』と書き、『もう一つ忘れてはならないのは、後になってテロ事件を想起する場合における障害である。テロリスムの印象がつねに映像によって大きく影響され、固定されてしまうため、人は現実に生起した事件と映像の間に境界線を引くことができなくなり、虚構の映像をしばしば事件の真実だと記憶してしまうのだ』と書いている。

 この二つの文章は、同時に書かれた四方田氏にようる本書の「まえがき」なのである。ところが、この二つの文章には矛盾がある。

Photo 『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(四方田犬彦著/中公新書/2015年6月15日刊)

 四方田氏がハリウッドの典型的なテロリズムの描き方として『ダイ・ハード』シリーズを上げている。

『こうした勧善懲悪のアクション映画では、ほとんどの場合、テロリストは外部からアメリカを襲撃する悪の権化である。かれらは卑劣にして冷酷であり、グロテスクな狂気に苛まれながら秩序を破壊してまわる野蛮人である。その意味で彼らはハリウッド映画の物語秩序のなかにあって、獰猛な「インディアン」や冷酷非情なナチス将校、不気味な共産主義者のスパイ、世界の辺境から到来する怪獣や怪人範例的な関係にあり、そのもっとも新しいバージョンであるとみなすことができる』

 であるとするならば

『スピルバーグはあたかも9・11のすべての原因は、その29年前に生じたミュンヘン事件であるかのように、『ミュンヘン』の物語を進めている。今日まで続くテロルの応酬は、そもそも「黒い九月」に元凶がある。それが引き金となって憎悪が憎悪を、復讐が復讐を呼び、ついに同時多発テロの大惨事を招いたという論理である。
 そこには、そのはるか以前にシオニストがイスラエル国家を強引に樹立し、パレスチナ人に大きな受難を与えたという物語は、意図的に隠蔽されている』

 と書こうが、そんなことはハリウッド映画としては当然のことではないか。『これは鮫や空飛ぶ円盤が出現したからすべての大混乱が生じたという、『ジョーズ』や『未知との遭遇』以来のスピルバーグ映画と何ら変わらない』と批判するのだが、それはハリウッド映画としては当たり前の表現であり、なおかつ「シオニストがイスラエル国家を強引に樹立し」という事実は、ユダヤ人・スティーブン・スピルバーグとしては触れてはならないタブーなのである。

 第4章以降のルイス・ブニュエル、若松孝二、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、マルコ・ベッキオら、テロリズムを単なる外部からの攻撃という見方をせずに、スペイン、日本、ドイツ、イタリアという、まさしくテロリズムの渦中にいた時期を過ごした国の作家らしく、テロリズムと正面から向き合い、テロリズムとは何かを徹底して追求していった作品群を分析していく方法論は良いのだが、同時に彼らが描いてきたのは、「そうは言っても、テロリズムはなくならないだろう」という結論にたいして鈍感な四方田氏自身を露呈してしまっている。

『それでは今後、映画がテロリスムの廃棄のためになしうることは何だろうか。本書で取り上げた監督たちの真摯にして困難に満ちた試みを踏まえた上で、三つの可能性を提示しておきたい。
 一つは映像を事後性(Nachtraglichkeit)そのものの現れとして差し出すことである。二番目は、フィルムの内側で和解と寛容の物語を提示することで、観客のメロドラマ的な創造力に訴えることである。
 三番目は、テロリスムがスペクタクル性を求めてやまないシステムである以上、同じくスペクタクルを旨とする映画がそれを拒否し、まったく異なった方向、スペクタクルを回避し廃絶へと向かう方向を採択することである』

 と言う具合に結論づけるのであるが、しかし、それは「映画が視覚に訴える、つまりスペクタクルなメディアである」という大前提を拒否した態度とは言えないだろうか。

『それは映画からスペクタクルの魅惑を排除することである。言葉を換えて表現するならば、観客を魅了し、その視覚的欲望を喚起させると同時に満足させる魅惑なるものを、完璧なまでに追放してしまうことである』

 という三番目の方法論でもって作られた映画を誰が楽しむというのだろう。

 畢竟、映画と言うものは基本的にスペクタクルにできており、そのスペクタクル性を一番発揮できるのがテロリズム表現であるとするならば、それは映画の表現としては抜き差しがたくある表現形式である筈だ。ハリウッド的な「外部からの侵略者」であれ、日本映画の「時代劇的な復讐の物語」であれ、それらは映画のスペクタクル性をもっとも有効に表現できるからこそ、映画として成り立っている訳で、それを抜きにして映画を語ることはできない。

 大体が、映画でもってテロリズムを廃絶させることなどはできないのだし、そんなことを考えるのは、現実の政治に対する映画側からの不遜な挑戦、思いあがりにすぎない。

 結局、この地球上からテロリズムをなくすことは、多分、人間の存在をなくすことと同じことなのではないだろうか。これはある意味で悲しい現実ではあるけれども、しかし、人間が存在し、彼らの政治的・経済的価値観が、お互いにズレている以上は、その解決策としてテロリズムがあるのは、決して否定できないことではあるし、その一つのテロリズムが憎しみの連鎖となって継続していくことは、いくらそれを否定しようが、しかし、なくすことは不可能である。

 ましてや単なる表現形式のひとつでしかない映画がそれができると考えることは、まずもって不可能なのである。

 残念ではあるが……。

 映画は「お花畑」ではないのである。 

『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(四方田犬彦著/中公新書/2015年6月15日刊)

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