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2015年7月

2015年7月31日 (金)

『戦後70年 昭和20年という年』という催し

 九段会館(現在は閉館)にある昭和館で、現在『戦後70年 昭和20年(1945)という年 ~空襲、終戦、そして復興~』という展示を開催中だ。

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 昭和20年(1945年)という節目の年を、「Ⅰ 空襲にさらされる日本」「Ⅱ 終戦 8月15日」「Ⅲ 混乱の中からの出発」という三つの側面から、写真、実物資料などを展示しているのだ。

 写真に絞って紹介すると「Ⅰ 空襲にさらされる日本」では、〈徴兵〉で「出征する学徒・静岡県天竜市二俣」、〈学校生活〉で「空襲の被害を受けた泰明国民学校(現・泰明小学校)」「空襲頭巾にもんぺ姿で避難訓練をする国民学校児童」、〈学童疎開〉で「母親に見送られて疎開先に出発する児童」「疎開先で勤労奉仕する学童」、〈勤労動員〉で「警報下の軍需工場で働く女子挺身隊員」「焼け跡で復興奉仕をする勤労動員の男女学徒」「地下の軍需工場で働く女子挺身隊員」、〈物資の欠乏〉では「焼け跡での乾パンの配給・東京」「焼け野原にカボチャの種をまく学徒・東京、日本橋」、〈東京の空襲〉で「3月10日の大空襲で罹災した人々・東京、浅草」「空襲を受け煙が立ち上がる・東京、数寄屋橋」「空襲を受けた吾妻橋付近」、〈全国の空襲被害〉では「ビルだけ残った神戸の国際道路」「海軍の燃料補給基地の爆撃・山口県徳山市(現・周南市)」、〈米軍沖縄上陸〉で「米軍による沖縄上陸」「幼子に缶詰を与える米兵・沖縄県」、〈国民義勇隊〉では「竹槍訓練をする女性たち・鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)」「空襲被害の復旧作業をする国民義勇隊の隊員たち・大阪市天王寺区下味原町」、〈広島・長崎原子爆弾の投下〉では「広島市上空の原爆キノコ雲・広島市」「原爆で焼けた立ち木・広島市」「あまりの惨状に涙を拭う・長崎市」「被爆した浦上天主堂・長崎市」。

「Ⅱ 終戦 8月15日」では、〈玉音放送〉で「「玉音放送」を聞く人びと・大阪市北区、曽根崎署前」「「玉音放送」で終戦を知らされた国民・靖国神社」「「玉音放送」を聞く農村家庭の人たち」「涙の皇居前広場」「「玉音放送」を聞く疎開児童」「「玉音放送」を聞く人びと」、〈人々がどのようにとらえたか ~手紙、日記に記された終戦〉では、作文や手紙、日記などの実物資料が沢山展示されており、〈終戦直後の混乱〉では「千葉陸軍戦車学校から没収された武器の積荷」「厚木飛行場に到着したダグラス・マッカーサー」という2点の写真。

「Ⅲ 混乱の中からの出発」では、〈焼け跡でのくらし〉として「炊事は野外の焼け跡で・東京」「終戦後の銀座の街並み」、〈GHQの進駐〉で「馬にのったMPを見る子どもたち・大阪」「子どもにお菓子をあげる水兵・横須賀」、このコーナーでの実物資料として面白いのは昭和20年10月3日発行で360万部を売上げ大ベストセラーになった『日米會話手帳』という本だ。〈授業再開〉では「青空教室」が、〈疎開児童の帰宅〉では「戦争が終わり疎開先から戻る児童たち」が、〈復員・引揚げ〉で「検査を受ける復員兵・長崎県」「朝鮮から復員した旧日本陸軍兵士・鹿児島県加治木市(現・姶良市)」「朝鮮から漁船で博多に着いた日本の民間人」、〈戦災孤児)では「孤児院のバザーで赤ん坊をあやすジーン・バヤオスキー中尉・東京」が、〈闇市〉では「アメヤ横丁・上野」「着物を品定めする米海軍の水兵たち・横浜市」、〈買い出し〉で「超満員の買出し列車」が、〈再生品〉では「放出された軍靴、軍服」、〈宝くじ〉で「第1回宝くじ抽選会・日本橋三越デパート」が、〈娯楽の復活〉では「映画「そよかぜ」のポスターを眺める米兵」「4年ぶりのアメリカ映画上映・日劇」が、〈生活の再建〉では「簡易住宅の展示場・新宿駅前」という写真が展示されている。

 さて、戦後71年目以降に向けてキナ臭くなってきた我が国だが、これまでの70年を、安倍晋三氏はどうやって位置づけるんだろうか。

 勿論、「未来志向」というのは悪いことではない。しかし、だからと言って過去を振り返り、反省すべき点は反省するという姿勢をなくしてはいけないのではないか。

 アメリカが「世界の警察」というスタンスをとれなくなってしまった以上、関係各国が「集団的自衛権」という考え方を持たなければいけないことは事実である。しかし、日本には……

『1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』

 という日本国憲法第九条が生きている以上は、まずは憲法改正をしなければならないでしょう。「解釈改憲」ってのは、要は「憲法解釈をネジ曲げる」ってことだから、立憲主義の本筋からすれば本来はやってはいけないことなのであります。まあ「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」ってのは、既にネジ曲げられているけどね。

 まず憲法改正からやらないといけないんじゃないか、というのが基本。勿論、一度決めた憲法を改正しちゃいけないなんてのも民主主義に反することなんだから、いくらでも変えていいんです。

 なので、安倍政権は、まず「憲法改正」をまず第一に主張して、で憲法改正になったら、集団的自衛権でも、国の交戦権でもいいから主張すべきなのだ。

 それを姑息な「解釈改憲」なんてことでやっているから、党内外から批判を浴びているのであります。

 ヘタをすると、もう公明党なんかも「集団的自衛権」なんて論議からは離れてしまうかもね。だって、公明党は基本的には「平和政党」として憲法第九条を信奉している党派なんですね。それを支えている創価学会だって、基本的には平和主義が基本の宗教団体だ。70年安保の時は、なんかよく分からない白いヘルメットを被って、反安保運動にに参加していたっていう事実もあるんですよ。

 まあ、正直「なんでこいつらが参加しているの?」ってな疑問を、当時は私たちは持ちましたがね。まあ、でも創価学会の若手信者としては、この国が軍国主義化していくのが怖かったんでしょうね。

 ということなんで、安倍晋三氏はここで、それこそ党内外の「改憲勢力」(それは自民党だけじゃなくて、民主党、公明党、維新の会他諸政党、共産党〈だって、共産党は自衛隊反対ではなかったんですよ、革命が起きればそれは人民の軍隊になるってことで〉まで)を糾合して、「改憲党」のようなものを作って、取り敢えず憲法第九条を改正し、その後、安保法制を整備すればいいのだ。

 多分、それまでの数年はアメリカも待ってくれるでしょう。

 まあ、やっぱり「手順を踏んで」っていうのが、民主主義の基本なんじゃないかな。うん、民主主義ってのは「手続主義」だからね。

 閑話休題

 同時に、2階では『戦後70年写真展 それぞれの終戦』というのが開催されており、こちらは昭和館の外の部分だ。

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『戦後70年 昭和20年(1945)という年 ~空襲、終戦、そして復興~』も『戦後70年写真展 それぞれの終戦』も入場無料。

『戦後70年 昭和20年(1945)という年 ~空襲、終戦、そして復興~』は8月30日まで、『戦後70年写真展 それぞれの終戦』は10月4日まで開催中だ。

 九段会館昭和記念館のサイトはコチラ

2015年7月30日 (木)

『その「Windows 10」へのアップグレード、ちょっと待った!!』って、へっ?

 昨日から「Windows 10」への「Windows 8」「Windows 8.1」「Windows 7」からのアップデートが始まった

 まあ、私もそんなにアーリーアダプターという程ではないが、今使っているHP Pavilion p6-2470も実はWindows 8 が出て結構早い時期に買ったもので、その使いづらいOSにはまいった経験がある。そこで早速Windows 8.1にアップグレードしたんだが、やっぱりWindows 7 の使い良さは知っているので(というか、ラップトップは未だにWindows 7 だ)、早めにWindows 10 へのアップグレードを使用かと思ったのだが、「ちょっと待った!」って言うのは、どう言う訳?

Windows_10 『その「Windows 10」へのアップグレード、ちょっと待った!! Windows 10を知りすぎた社畜インサイダーからの警鐘』(窓際ななめ著/窓際ななめ/2015年6月1日刊)

 だいたい、窓際ななめって誰?

『筆者はWindows 10 Technical Preview およびInsider Preview のすべてのビルドに触れている。ちなみにいわゆる一般入手できる範囲だけではなくWindows Insider Program 登録者が入手可能なビルドより少々先行したビルドや、結局お披露目されなかったビルドにも触れている(本物のインサイダーということだ)。

 また、様々なメーカーの様々なフォームファクターのPCを十数台並べて、新しいビルドが出るたびにすべてのPCにWindows 10 Technical Preview/Insider Preview を導入して検証を行うことを生業としている』

 って、ものすごくインサイダーではないですか。それも「社畜」ってことはマイクロソフトの社員? って、それってメチャクチャやばくないですか? 仮にマイクロソフトの社員じゃなくても、マイクロソフトから何らかの発注でもってPreview とかしてる会社だったら、多分、そこにはマイクロソフトとの守秘義務契約がある筈だし、それを破っちゃあダメでしょう。

 とは言うものの、よく読んでみると特別なことが書いてあるわけじゃない。つまり、今、シリコンバレーでもって普通に考えられている「リーンスタートアップ(Lean Startup)」という考え方に対するスタンスなのだな。

 つまり、『「顧客に試作品という名の未完成品」を提供して、顧客に問題を出してもらう、顧客の提案や意見を吸い上げて(悪いが発想というのはタダではないはずだ)商品に反映してしまおうというものだ』ということ。

 パソコン・ソフトだったら、以前はアルファ版を作って、そこで徹底的にテストを行い、その結果をベータ版に反映し、さらにそこでベータ版を徹底的にチェックして、その後、市場に出すという方法論を行い、それでも市場に出してからはユーザーがそれを使って問題点を指摘して、その結果、バージョンアップして、やっと「普通に普及するソフト」になるのだ。ゲーム・ソフトなんかは子供が使うということを考慮して、今でもそんな感じで開発しているらしい。

 本来ならば、新商品を市場に出すということは、取り敢えずその段階では「完璧」な商品として出さなければならないはずだ。ところがこのリーンスタートアップという考え方は、そうじゃなくて、取り敢えず商品としてこれで出してもいいかな、というレベルで市場に出してしまい、その後、ユーザーからの意見を取り入れて改良していけばいいでしょ、という考え方。

 コンピュータ・ソフトなんかはそれでもいいけど、最近はクルマの世界でもそうなっているようだ。アメリカの三大メジャーとか日本のメーカーはそんなことはしなくて、テストにテストを重ねて、何度もクルマを壊して、その結果、「これなら大丈夫」って感じで市場に出すのだが、テスラ・モータースなんかはどちらかというと、このコンピュータ・ソフトの会社の考え方に近いようで、結構、新車を発表してから後のアップデートが多いようだ。

 まあ、まだテスラとしては現状アーリーアダプターだけのユーザーが多いようなので、それでもいいという考え方なんだろうけれども、これが一般ユーザーがテスラのクルマを購入するようになったらどうするんだろうという気にはなる。

 閑話休題

 まあ、要は

『「Windows 10」はまさしくこの「リーンスタートアップ」的な考え方で開発を進めているOSであり、リリース直後にWindows 10 にアップデートしようものなら、それはあなたが「ベータテスター」になったに等しい』

 ということなんだ。

 まあ、OSのアップグレードにはよくある話。

 じゃあ、Windows 10 ってのはどういうOSなんだといえば

『Windows 8 の進化をみれば「Windows 10 リリース直後は未完成&不安定&多機能未実装&未成熟」であり、ここ最近の進化のスピードを見るに数か月後には「Windows 8 におけるWindows 8.1 相当のWindows 10 (つまり一つの完成形)」が登場し、また来年(2016年)には「Windows 10 の実力が堪能できる状態」になることが予想できるのだ』

 ということだそうだ。

 う~ん、凄いな。期待しちゃおうかな。

 ということなので、我が家のパソコンもWindows 10 にアップグレードするのは2016年まで待った方がいいのか。

 それにしても、Windows 10 がどういうOSなのかは知りたいので、PCショップに行って確かめよう。

『その「Windows 10」へのアップグレード、ちょっと待った!! Windows 10を知りすぎた社畜インサイダーからの警鐘』(窓際ななめ著/窓際ななめ/2015年6月1日刊)

2015年7月29日 (水)

新宿・牛込柳町・近藤勇出世の礎

 それは外苑東通りと大久保通りの交差点、牛込柳町(というのは旧称:現在は「市ヶ谷柳町」)の傍にあるという。

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 で、行ってみればちょうど交差点のところで工事中の看板があって「文化財発掘調査工事中」とある。これは今私が住むマンションの建て替えの時にも「旧・柳沢吉保邸」にあったマンションだったためにやったのと同じだな、ということでここかなと思ったのだが、そうではないらしい。

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 実は、その裏側の道をちょっと行ったところに、こんな狭い路地があって、その奥に肝心の「モノ」はあったのだ。

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 つまり、こここそは近藤勇が百姓の子から武士になるきっかけとした「試衛館」跡なのだった。

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 近藤勇は武蔵国多摩郡上石原村(現在の調布市野水:調布市野川公園のあたり)の百姓・宮川久次郎とみよの三男として天保5年(1834年)に生まれた。幼名は勝五郎。宮川家は百姓と言っても、苗字が許されているので、小作農ではなく、むしろ庄屋に近い家柄だったのだろう。でないと、「自分は武士になる」なんてところまでは考えつかないだろう。

 勝五郎は嘉永元年(1849年)、15歳にして江戸牛込にあった天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。翌、嘉永2年6月に免許皆伝になってしまうんだから、これは近藤勇が凄かったのか? あるいは……。

 まあ、天然理心流というのは比較的新しい剣術流派だったので、武士だけではなく、広く町人・農民にまで出かけて行って剣術を指南していたので、そのネットワークに近藤勇も乗ったのであろう。

 で、同年10月19日に天然理心流第三代目・近藤周助の養子となり、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗ったという。のちに正式に近藤家と養子縁組をし、島崎勇と名乗ったのちに、近藤勇と名乗ったという。つまり、ここで近藤勇がはじめて武士となったのである。安政5年(1858年)には日野の牛頭天王社の奉納額に「島崎勇藤原義武」と記しているというから、あれっ? いつの間にか「藤原家」になっちゃったのかなあ? ってなもんであるけれども、まあ、昔の武士は大体藤原姓を名乗ったみたいだから、まあ、これはいいか。

 万延元年(1860年)に御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女松井つねと結婚。

 翌年、府中大國魂神社で、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて正式に天然理心流第四代目宗家として、名を成したのである。

 ここまで来れば晴れて武士である。ただし、まだ主君はいないので、言ってみれば「浪人」と同じ身分だなあ。浪人というのは主君を持たない武士なので、実際には武士としては扱われない、「浪人」を「牢人」と書くこともあるのはそれが理由。まあ、浮浪者みたいな扱い。誰からも禄を食んでいない状態。

 文久3年(1863年)、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加を募り、近藤ら試衛館の8人はこれに参加することを決める。これが、後に新撰組となる動きの始まりだ。

 実は、この時の上洛の目的は朝廷に尊皇攘夷の志を建白するということであり、浪士組は取り敢えず徳川家茂が上洛した以上は既に無用ということで、江戸帰還を命じられた。しかし、浪士組は江戸帰還派と京都残留派に割れ、近藤や芹沢鴨らは京都に残留する。

 同年3月、二条城において京都守護職を務める会津藩主・松平容保は幕府老中から京都の治安維持のために浪士を差配するよう命じられ、近藤ら京都残留組が会津藩預かりとして、京都壬生寺に駐留する「壬生浪士組」となって、将軍在京中の市中警護を行うことになった。

 その壬生浪士組が「新撰組」となるのは、同年8月のことだった。ここで、やっと新撰組は武士として認められることとなったんのである。

 しかし、新撰組というのは、警察組織というよりはテロ組織に近かったんだけれども、当時の時代背景からは仕方なかったんだろうなあ。

 同じ百姓から武士になったというのであっても、豊臣秀吉の時代と、近藤勇の時代ではこれだけ違うという一例かも知れない。

 かたや天下人、かたや犯罪人だもんなあ。もっとも近藤勇を犯罪人に仕立て上げたのは薩長だけれどもね。それも政治の為せる業。

NIKON Df + Ai NIKKOR 24mm/F2.8 @Ushigome Yanagicho Shinjuku (c)tsunoken

2015年7月28日 (火)

思わず『火花』を買ってしまった

 普段は「○○賞受賞作」というのはまず手を出さないのだ。どうせ既に沢山の人が読んでいるだろうし、そんな本をいちいち紹介する必要はない、ってことで。

 ところが「文藝春秋BOOKSメールマガジン」で「芥川賞受賞作『火花』が電子書籍で発売中です。受賞作が本屋さんで見当たらない時、夜中に急に読みたくなった時、電子書籍で受賞作をお楽しみください」って書いてあるので、思わずポチしてしまった。

 う~ん、私の負け?

 ということで、第153回芥川龍之介賞受賞作、又吉直樹著『火花』だっ!

Photo 『火花』(又吉直樹著/文藝春秋/2015年6月20日刊【電子版】)

 ピース又吉がモデルらしい主人公のスパークスの徳永と、いろいろな先輩芸人からその造形をとったらしいあほんだらの神谷の話である。

『「申し遅れたのですが、スパークスの徳永です」とあらためて挨拶すると、その人は「あほんだらの神谷です」と名乗った』

『これが僕と神谷さんとの出会いだった。僕は二十歳だったから、この時、神谷さんは二十四歳のはずだった。僕は先輩と一緒にお酒を吞んだことがなく、どうすればいいのか全然わからなかったのだが、神谷さんも先輩や後輩と吞んだことが今までにないようだった』

『神谷さんは何度も、「ここは俺が奢る」と繰り返していたので、これは半分払えということなのだろうと思い、「払います」と言ったら、「阿呆か、芸人の世界では先輩が後輩に奢るのが当然なんや」と神谷さんは嬉しそうに言ったので、これが言ってみたかったのだなとわかった』

『ずっと、僕は先輩が欲しかった。様々な事務所の若手芸人が集うライブの楽屋などで、先輩と後輩という関係性を持つ芸人同士の楽しげな会話が羨ましかった。僕達には楽屋での居場所がなく、いつも廊下の隅や便所の前で目立たないように息を潜めていた』

 ということで付き合い始めた徳永と神谷だが、神谷が言う「漫才論」が面白い。というか、多少、訳が分からん。

『漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん』

『準備したものを定刻に来て発表する人間も偉いけど、自分が漫才師であることに気づかずに生まれてきて大人しく良質な野菜を売っている人間がいて、これがまず本物のボケやねん。ほんで、それに全部気づいている人間が一人で舞台に上がって、僕の相方ね自分が漫才師やいうこと忘れて生まれて来ましてね、阿呆やからいまだに気づかんと野菜売ってまんねん。なに野菜売っとんねん。っていうのが本物のツッコミやねん』

 うーん、なんか哲学的なようで、実は何も語っていない漫才論。結局、こいつ本当のアホちゃうんか? とでも言いたくなるような漫才論でありながら、なんとなく分かるような漫才論。これも漫才、あれも漫才……。

『「お前大学出てないんやったら、記憶力も悪いやろうし、俺のことすぐに忘れるやろ。せやから、俺のことを近くで見てな、俺の言動を書き残して、俺の伝記を作って欲しいねん」
「伝記ですか?」
「そや、それが書けたら免許皆伝や」』

 っていう台詞のやりとりもよく分からない。

 そして少しづつ売れ始めてきたスパークスだが、相方が漫才を辞めるということになって、徳永も漫才への道を諦めてしまう。そういうもんなんだろうか? 相方とそんな深い関係になっていたのなら、もう少し相方がこの小説に登場してくるだろうし、この程度の登場の仕方というのは、そんなに深い関係には思えないのだが……。

 で、あほんだらはたいして売れないまま、その芸風だけはどんどん前衛的になってしまい。ついには神谷は豊胸手術を受けて巨乳になってしまう(?)、えっ? 何で?

『「神谷さん、あのね、神谷さんはね、何も悪気ないと思います。ずっと一緒にいたから僕はそれを知ってます。神谷さんは、おっさんが巨乳やったら面白いくらいの感覚やったと思うんです。でもね、世の中にはね、性の問題とか社会の中でのジェンダーの問題で悩んでる人が沢山いてはるんです。そういう人が、その状態の神谷さん見たらどう思います?」
 僕は自分の口から出た、真っ当すぎる言葉に自分で驚いた。
「すまん。俺な、もう何年も徳永以外の人に面白いって言われてないねん。だからな、そいつらにも、面白いって言われたかってん。徳永が言うてくれたから、諦めんとこうと思ってん。自分が面白いと思うとこでやめんとな、その質を落とさずに皆に伝わるやり方を自分なりに模索しててん。その、やり方がわからへんかってん。ほんで、いつの間にか俺、巨乳になっててん。今では、ほんまに後悔してる。ほんま、ごめん」』

『僕は芸人を辞めて、取りあえずは二軒の居酒屋で休みなく働き生計を立てた。相方は大阪の実家に帰り、携帯ショップに就職が決まったようだった。神谷さんとは時々、連絡を取った。神谷さんの伝記のために書き溜めたノートは二十冊を超えていた。その半分以上は自分やスパークスや恋愛に纏わることだった。この中から、神谷さんを神谷さんたらしめる逸話だけを集めれば、もしかしたら伝記になるかもしれない』

 結局、真面目なだけが取り柄なんだなあ。この徳永っていう男は。

『神谷さんは、窓の外から僕に向かって、「おい、とんでもない漫才思いついたぞ」と言って、全裸のまま垂直に何度も飛び跳ね美しい乳房を揺らし続けている』

 っていう方が、やっぱりシュールだなあ。

 この人は、「本当の阿呆」なのかも知れない。

『火花』(又吉直樹著/文藝春秋/2015年6月20日刊【電子版】紙版は2015年3月15日刊)

2015年7月27日 (月)

『テロルと映画』の不可能性について

 四方田氏は『もし歴史が個人の悲嘆を乗り越え、社会全体が服すべき哀悼をなしとげることであるとするならば、映画はテロリスムの廃棄を目的として、哀悼的想起の相のもとに世界を認識するメディアでなければならない。それは具体的にいうならば映像を事後性、つまり重要な事件が過ぎ去ってしまって自分たちが残響の中にいるという認識のもとに提示し、寛容と若いの物語を演出することである。だが、最終的にはテロリズムの根底に横たわるスペクタクル的な要素を映画の内側から完璧に排除することである』と書くのだが、果たしてそれは可能なことなのだろうか。

 つまり、その少し前で四方田氏自身が『一つは、テロリスムが人間に向かって何かを訴えるときには、つねに映像メディアを媒介とし、スペクタクルの形態をとるという事実である』と書き、『もう一つ忘れてはならないのは、後になってテロ事件を想起する場合における障害である。テロリスムの印象がつねに映像によって大きく影響され、固定されてしまうため、人は現実に生起した事件と映像の間に境界線を引くことができなくなり、虚構の映像をしばしば事件の真実だと記憶してしまうのだ』と書いている。

 この二つの文章は、同時に書かれた四方田氏にようる本書の「まえがき」なのである。ところが、この二つの文章には矛盾がある。

Photo 『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(四方田犬彦著/中公新書/2015年6月15日刊)

 四方田氏がハリウッドの典型的なテロリズムの描き方として『ダイ・ハード』シリーズを上げている。

『こうした勧善懲悪のアクション映画では、ほとんどの場合、テロリストは外部からアメリカを襲撃する悪の権化である。かれらは卑劣にして冷酷であり、グロテスクな狂気に苛まれながら秩序を破壊してまわる野蛮人である。その意味で彼らはハリウッド映画の物語秩序のなかにあって、獰猛な「インディアン」や冷酷非情なナチス将校、不気味な共産主義者のスパイ、世界の辺境から到来する怪獣や怪人範例的な関係にあり、そのもっとも新しいバージョンであるとみなすことができる』

 であるとするならば

『スピルバーグはあたかも9・11のすべての原因は、その29年前に生じたミュンヘン事件であるかのように、『ミュンヘン』の物語を進めている。今日まで続くテロルの応酬は、そもそも「黒い九月」に元凶がある。それが引き金となって憎悪が憎悪を、復讐が復讐を呼び、ついに同時多発テロの大惨事を招いたという論理である。
 そこには、そのはるか以前にシオニストがイスラエル国家を強引に樹立し、パレスチナ人に大きな受難を与えたという物語は、意図的に隠蔽されている』

 と書こうが、そんなことはハリウッド映画としては当然のことではないか。『これは鮫や空飛ぶ円盤が出現したからすべての大混乱が生じたという、『ジョーズ』や『未知との遭遇』以来のスピルバーグ映画と何ら変わらない』と批判するのだが、それはハリウッド映画としては当たり前の表現であり、なおかつ「シオニストがイスラエル国家を強引に樹立し」という事実は、ユダヤ人・スティーブン・スピルバーグとしては触れてはならないタブーなのである。

 第4章以降のルイス・ブニュエル、若松孝二、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、マルコ・ベッキオら、テロリズムを単なる外部からの攻撃という見方をせずに、スペイン、日本、ドイツ、イタリアという、まさしくテロリズムの渦中にいた時期を過ごした国の作家らしく、テロリズムと正面から向き合い、テロリズムとは何かを徹底して追求していった作品群を分析していく方法論は良いのだが、同時に彼らが描いてきたのは、「そうは言っても、テロリズムはなくならないだろう」という結論にたいして鈍感な四方田氏自身を露呈してしまっている。

『それでは今後、映画がテロリスムの廃棄のためになしうることは何だろうか。本書で取り上げた監督たちの真摯にして困難に満ちた試みを踏まえた上で、三つの可能性を提示しておきたい。
 一つは映像を事後性(Nachtraglichkeit)そのものの現れとして差し出すことである。二番目は、フィルムの内側で和解と寛容の物語を提示することで、観客のメロドラマ的な創造力に訴えることである。
 三番目は、テロリスムがスペクタクル性を求めてやまないシステムである以上、同じくスペクタクルを旨とする映画がそれを拒否し、まったく異なった方向、スペクタクルを回避し廃絶へと向かう方向を採択することである』

 と言う具合に結論づけるのであるが、しかし、それは「映画が視覚に訴える、つまりスペクタクルなメディアである」という大前提を拒否した態度とは言えないだろうか。

『それは映画からスペクタクルの魅惑を排除することである。言葉を換えて表現するならば、観客を魅了し、その視覚的欲望を喚起させると同時に満足させる魅惑なるものを、完璧なまでに追放してしまうことである』

 という三番目の方法論でもって作られた映画を誰が楽しむというのだろう。

 畢竟、映画と言うものは基本的にスペクタクルにできており、そのスペクタクル性を一番発揮できるのがテロリズム表現であるとするならば、それは映画の表現としては抜き差しがたくある表現形式である筈だ。ハリウッド的な「外部からの侵略者」であれ、日本映画の「時代劇的な復讐の物語」であれ、それらは映画のスペクタクル性をもっとも有効に表現できるからこそ、映画として成り立っている訳で、それを抜きにして映画を語ることはできない。

 大体が、映画でもってテロリズムを廃絶させることなどはできないのだし、そんなことを考えるのは、現実の政治に対する映画側からの不遜な挑戦、思いあがりにすぎない。

 結局、この地球上からテロリズムをなくすことは、多分、人間の存在をなくすことと同じことなのではないだろうか。これはある意味で悲しい現実ではあるけれども、しかし、人間が存在し、彼らの政治的・経済的価値観が、お互いにズレている以上は、その解決策としてテロリズムがあるのは、決して否定できないことではあるし、その一つのテロリズムが憎しみの連鎖となって継続していくことは、いくらそれを否定しようが、しかし、なくすことは不可能である。

 ましてや単なる表現形式のひとつでしかない映画がそれができると考えることは、まずもって不可能なのである。

 残念ではあるが……。

 映画は「お花畑」ではないのである。 

『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(四方田犬彦著/中公新書/2015年6月15日刊)

2015年7月26日 (日)

文京・小石川・こんにゃくゑんま

 本郷菊坂を降りてきて白山通り(国道17号線)を突っ切り、千川通りとぶつかったところにある丁字路の正面にあるのが「こんにゃくゑんま」である。

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 本当は「常光山源覚寺」という浄土宗のお寺なんだけれども、実際には「こんにゃくえんま」の方が通り名として知られている。

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 門から入っていっても、正面には本堂じゃなくて「閻魔堂」が鎮座している。

 なんで「蒟蒻閻魔」なのかと言えば、「宝暦年間(1751年~1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王に日々眼病治癒を祈願していたそうな。
 ある晩、老婆の夢に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。
 その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしに自身の好物であるこんにゃくを絶って、ずっと閻魔大王に供え続けたという」、その故事にならって「こんにゃく閻魔」「身代わり閻魔」という名前で人々の信仰を集めているという。

 実際、閻魔堂の前には沢山のこんにゃくが、いまでも供えられている。

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 で、どんな閻魔大王なのか覗こうと思ったのだが、反射するガラスに阻まれて中がよく見えない。写真に撮っても写るのは私のアホ面だけである。

 やむなく、ここはネット上から拾ってくる。この辺が今の時代は便利だなあ。

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 確かに、閻魔大王の右目が濁って見える。これが閻魔大王が右目を老婆にあげた後なのだとか。

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 その他にも、自分の治したい部分にあたるところに塩をつけるとご利益があるという「塩地蔵」(と言っても、もうどこが地蔵の体なのかは分からなくなっているけれどもね)や。

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 小石川七福神のひとつ、毘沙門天や、お百度石なんてものもあるのだが。

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 肝心の本堂の存在感の薄いお寺ではありました。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Koishikawa Bunkyo (c)tsunoken

2015年7月25日 (土)

文京・本駒込・駒込名主屋敷

 今日から、また普通のカラー写真に戻ります。もともとデジタルカメラなのでカラーで撮るのが当たり前なんだけれども、その当たり前がやりたくなくてしばらくモノクロで撮っていたんだが、それにも飽きた、というかまあ普通に撮ろうかなということで。

 ただし、フィルムカメラの場合は未だに基本はモノクロなので、またまたモノクロに戻ることもあるかもしれないし、モノクロのどちらかと言うとコントラストの強い写真が好きなので、その適性値が見えたら、またまたデジタル・モノクロに戻るかなということで、取り敢えずはカラーに戻ります。

 文京区本駒込三丁目の天祖神社のそばに「駒込名主屋敷」というのがある。

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「大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。
 現存のものは享保2年(1717)築と伝えられる。一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関がある。
 町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われた」

 というのが文京区の説明。東京都の史跡・旧跡のひとつになっている。

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 ところが、現在も高木家の末裔が住んでいるので、公開されてはおらず、中に入ってはいけない。

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 しかし、作られてから300年も経つこの家。

 門構えなんかも立派なものだが……

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 メンテナンスなんかも大変だろうなあ。

 とてもじゃないが、私なんかは住む気にはなりませんなあ。

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 おまけに門の脇には碑なんかも立てられちゃって、うるさいだろうし……。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Hon Komagome Bunkyo (c)tsunoken

2015年7月24日 (金)

台東・竜泉・飛不動

 昨日の「樋口一葉記念館」と鷲神社とのちょうど中間の場所に「飛不動」という別名で呼ばれているお寺がある。

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「飛び」という言葉と「不動」という言葉の乖離が面白くて、どんなお寺だろうかと覗いてきた。

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 お寺の名前は「龍光山三高寺正寶院」という天台宗のお寺。本尊は当然、不動明王。

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 なんでも、昔、このお寺の住職が奈良県大峰山に本尊を安置して修行をしていたところ、一夜にして本尊がこの地に飛び帰りご利益を授けられたところから「飛不動尊」と呼ばれるようになった、ということが縁起書に書かれている。

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「飛不動尊」というくらいなので、古くより旅人の守り本尊として旅先まで飛んできてくれる「空飛ぶお不動さま」、また病魔や災難等を飛ばしてくれる「厄飛ばしのお不動さま」として信仰されてきたそうな。

 近代に入ってからは、航空機の発達と空飛ぶお不動さまが結びつき、航空関係に携わる人や、海外旅行などで飛行機を利用する人たちが、航空安全と道中安泰、旅行安泰を願って参拝しているそうだ。

 また、航空安全はすなわち“落ちない”ということで、受験合格の祈願で参拝する人たちも多くなって来ているようだ。

 飛不動尊の由来から、空の交通安全と道中安泰を特に祈願したお守り「飛行護」や、「よく飛びますように」と願う人たちのために「ゴルフ安全護」なども授与してくれる。

 近年では、小惑星探査機「はやぶさ」の無事帰還というご利益でも有名だそうで、宇宙に関わる職業の人や愛好家の人々の参拝も多く、さまざまな分野で広く信仰されているというのだけど、本当かなあ。

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 こちらはすぐそばにある吉原神社。

 当然、神様は当然女性の「弁財天」。花魁や赤線の女性たちの(最近ではソープ嬢もかなあ)守り神であります。特に、この吉原神社の吉原観音像は、関東大震災の火災でも大門を閉められて逃げられなくなった赤線嬢たちの多くが弁天池で溺れて亡くなったことを悼み、大正15年に建てられたそうだ。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Ryusen Taito (c)tsunoken

2015年7月23日 (木)

台東・樋口一葉記念館

  池袋東口発・浅草寿町行きのバスに乗って、終点のちょっと手前「竜泉」で降りると、樋口一葉記念館がある。樋口一葉旧居跡に建てられたそうな。

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 前の空間には「樋口一葉 たけくらべ記念碑」なんてものまである。

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 あれっ? 樋口一葉旧居跡って言ったら、本郷菊坂でしょ、と思うのだが。

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 こちら本郷菊坂にも樋口一葉旧居跡というのがあって、この井戸の前の家が樋口一葉が住んでいた家なのだそうだ(勿論、現在は別の家になっている)。

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 菊坂に出れば一葉が通っていた「旧伊勢屋質店」がまだ残っている。残っているだけで、現在は営業はしていませんが。

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 で、調べてみたら、樋口一葉が本郷菊坂に住んでいたのは明治23年(1890年)から明治25年(1892年)まで。

 その後、明治26年(1893年)7月に下谷龍泉寺町に引っ越してきて、この地で荒物・雑貨・駄菓子などを扱う店を構えていたそうだ。ここが台東区の樋口一葉記念館の場所。ただし、商売は上手く行かなかったようで、翌明治27年(1894年)5月には、再び本郷丸山福山町(現在の西片)へ引っ越している。「暗夜」「大つごもり」「たけくらべ」などはこの本郷丸山福山町在住時に書かれたもの。

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 龍華寺僧侶の息子・信如と、ゆくゆくは遊女になる運命を持つ少女・美登利との淡い初恋を描いた「たけくらべ」は、竜泉時代の記憶をもとに書かれたものなのだろう。たった10ヵ月だけの滞在の割には、結構詳しく観察していたんだな。

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 竜泉から道ひとつ隔てれば、そこは台東区千束、つまり「吉原」なのであります。

 このクソ暑いのにもかかわらず、真昼間っからソープに通う人がいるのにクリビツテンギョウではありました。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Ryusen & Senzoku Taito, Hongo Bunkyo (c)tsunoken

2015年7月22日 (水)

『ウザい相手をサラリとかわす技術』と言っている清水克彦さん自身がウザいんですけど、何か?

『筆者が全編を通じておすすめしたいのは、「つかず離れず」という姿勢である。言うなれば、適度な距離を保つということだ』

 という言い方自体が、なんかウザいんだよなあ。

Photo 『ウザい相手をさらりとかわす技術 今日から人間関係が必ず上向く!』(清水克彦著/SB新書/2013年11月9日刊)

 清水氏が言う「ウザい人」とは……

『・おせっかいでありがた迷惑な人

・会うたびに嫌味や皮肉を言う人

・妙になれなれしい人

・小さな権力を振りかざし、上下関係を作る人

・何でも知っているふりをしたり、必要以上に難しい言葉を使う人

・身勝手でコントロールしにくい人

・口先だけで、いざというとき逃げてばかりの人

・ネガティブ志向で、他人の批判やうわさ話が多い人

・見た目、言動、服装などが下品な人』

 ということなのだが、それに対して

『ウザい人間にもさまざまなタイプがあるが、話すことすら億劫に感じられる相手であっても、最低限の人間関係として「つかず離れず」のスタンスで臨めば、ビジネスに必要な最低限の交流ができる』

 というスタンスそのものが、逆に私なんかには「ウザく」思えてきてしまうのだ。何故か? 実はそんな「つかず離れず」の関係になれないからこそ「ウザい」相手との関係ができる訳で、そんな「つかず離れず」の関係になれるのなら、そんな「ウザい」相手だって、「ウザく」ならないのであります。

『マズメディアの世界は、押しが強い人間が多い組織なので、他業界に比べ、人間同士のハレーションが起きやすい。「自己主張せず組織のためによかれ」と思って動けば「優柔不断」「リーダーシップがない」と言われ、「自信がある企画なので通そう」と動けば、「独善的」「自分勝手」「スタンドプレーが多すぎ」という悪評が立ったりもする。
 言ってしまえば、「ウザい!」と思うことが頻繁に身の回りで起きる職場ということになるが、そんな世界で30年近く生きてきて思うのは、どう振る舞っても敵はできるということだ』

 って、分かってるじゃん。だったら、そんな相手に対しては無視すればいいだけのことで、その結果「自分が他人からどう思われようと関係ない」って感じで過ごせばいいってだけのこと。

『「何をしたって、何を言ったって、ほめてくれる人もいれば、陰でけなす人もいる」
 これくらい達観して、職場などでの人間関係はラフに考えるべきだ』

 と、清水氏だって分かっているのにね。

 ところが、清水氏が言う『相手の趣味に合わせないリスクヘッジ法』ってすごいんですよ。

『・ゴルフ=「私、ずっと野球ばかりやってきたので、ゴルフはまったく興味がないのです。あれは、ボールを遠くに飛ばして、早く穴に入れたら勝ちでしたっけ?」

・カラオケ=「カラオケですか? ○○さんの前で歌ってご不興を買うようなことだけはできませんので、それだけはご勘弁ください」

・エスニック料理=ごめんなさい。私、パクチー(香菜)の匂いだけは全然ダメで、即死しそうになりますから。中華とか寿司とか他のお店にしませんか?」』

 なんて言い方でこちらの提案に答えて来るような奴がいたら、それこそ「何てウザい野郎なんだ」ってことになりません?

 確かに、現在はSNSの発達なんかもあって、コミュニケーションが多角化している。私のブログなんかも「炎上」こそしないけれども(というか炎上するほど多くの人が読んでいる訳ではないのだが)、タマにコメントなんかで絡んでくる人がいたりする。まあ、私なんかはそれこそ「絡んできてくれて、アリガトー」位のスタンスで臨んでいるので何とも思わないが、それが嫌なら清水氏の言うように……

「・相手の気持ちや行動を変えようとせず、まずあなた自身の感情や行動を変えよう!

・何を言われようと、SNSでどんな書き込みをされようと受け流す鈍感さを持て!

・どんな相手にも良い部分はあるので、全否定せず、学ぶべき点は学べ!

・人間関係は「つかず離れず」を基本とし、相手のニーズに合わせて濃淡を決めよう!』

 ということになるんだが、別にそんなことを清水氏に言われなくたって分かっているんだ。って、ここまで考えてきたら、やっと私にも分かった!

 そうだったんだ。

 こんな本を読まなければよかったんだ!

 バカですね。

『ウザい相手をさらりとかわす技術 今日から人間関係が必ず上向く!』(清水克彦著/SB新書/2013年11月9日刊)

2015年7月21日 (火)

リブロ池袋店が閉店

 リブロ池袋店が7月20日で閉店になるというので行ってきた。

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 別に売り上げが低迷してきて閉店というのではなくて、それは親会社の事情という、よくわからない、というか分かりすぎる「大人の事情」なのであります。

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 つまり、現在そごう・西武百貨店はセブン&アイホールディングスの傘下に入っており、セブン&アイホールディングスの代表取締役会長CEOは鈴木敏文という人。この人、中央大学経済学部卒という私の先輩なんだが、大卒後、マスコミ入社に失敗し、取次の東京出版販売株式会社(現在のトーハン)に入社、そこの取締役にまでなったところで当時のイトーヨーカ堂に入社して、セブンイレブンを起こして大成功。現在はセブン&アイホールディングスの会長であると同時に、トーハンの取締役副会長でもある。

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 一方の、リブロは元々は西武百貨店の書籍売り場からスタートしたんだが、その後、西武ブックセンターとして独立、パルコブックセンターと経営統合してリブロになって、「よむよむ」何かとも合併して、現在は中規模の書籍チェーン店になっている。

 西武ブックセンターの頃は、セゾングループの統帥・堤清二氏の影響もあって、詩に力を入れていて、特に「詩だけの書店内書店」なんかを展開していた時期もあった。

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 その後、セゾングループの低迷などからトーハンのライバルである日販傘下に入り、現在に至っている。

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 当然、トーハンの鈴木敏文氏にとっては、そんなリブロの存在は面白くはなく、とはいっても優良テナントのリブロを追い出すわけにはいかない。

 というところで、めでたく今年の7月20日でテナント契約が切れるので、契約更新はしないということになって、リブロ池袋店は閉店ということになったという訳さ。

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 で、リブロ池袋店の後には、現在、西武百貨店がセブン&アイホールディングス傘下になった時に、LOFT9階にオープンした三省堂が居抜きで入るそうだ。

 まあ、ジュンク堂や東武百貨店に入っている旭屋書店が別にリブロの閉店を喜んでいるわけではなく、競争はそのまま三省堂に相手が代わったというだけのこと。

 まあ、クラブオン・カードもそのまま使えるということなので、別に我々にとって何か変化があるという訳でもない。

 という、なんか気が抜けるような閉店騒ぎではありました。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @LIBRO Ikebukuro (c)tsunoken

2015年7月20日 (月)

『衆 1968夏』団塊批判としてはちょっと物足りない

 堂場瞬一作品と聞いて、「おおっ、警察ものか」と思って読んだら、出てくる警察関係者は元機動隊員の森博夫のみ。つまり、これは1968年生まれの堂場瞬一=麗山市の無所属市議会議員石川正による、元麗山大学全共闘にして石川の大学時代の教師=鹿野道夫に対する、つまりは「氷河期世代」による「団塊世代」への世代論的批判の書というわけなのだな。

1968『衆 1968 夏』(堂場瞬一著/文春文庫/2015年7月10日刊)

 何故、この本を買ったのか? 他でもない、「カバーの写真が良かったから」なのであります。つまりカバー写真にあるのは「コダック・シグネット35 エクター44mm/F3.5付き」なのであります。つまり、これって「マイ・バースデイ(本当はバースイヤー)コダック」1951年製(多分)なのである。「バースデイ・ライカ」という言葉はあるが「バースデイ・コダック」という言葉があるのかどうかは知らない。つまり「自分が生まれた年に製造されたライカ(だから、本当は「バースイヤー・ライカ」)を手に入れることがライカ・ファンの夢」という考え方があるからなのだが、だからと言って「バースデイ・コダック」があるのかは分からないし、型番が分からなければ本当にバースデイなのかは分からないし、ライカの場合が型番が分かれば製造年はすぐにわかるようになっているが、コダックでもそうなのかどうかは分からない。ただし、こうした写真の場合は、多分コダックの資料から持ってきているだろうから、ということになればそれは発売開始した年にカタログ用に撮った写真だろうから、1951年製なのである。

 というのは一種の推理の基本。ということで、やっと推理小説のところに話が戻ってくるのであります。

 お話しは、東京出身の主人公、元革青協麗山支部執行委員にして元麗山大学全共闘初期局次長鹿野道夫が、東京の大学の教授職を定年退職し、麗山大学が新たに設立した地域政治研究所所長として赴任するところから始まる。鹿野の目的はなんだったのか。彼は、1968年の麗山大学闘争の際に、機動隊とのもみ合いの中で亡くなった高校生、石川智英の本当の死因を確かめたいという目的を持って麗山市にやってきたのである。

『結局彼がどうして死んだのかは、未だに分からない。それじゃ、あまりにもひどくないか? その時、間違いなく警察は適当に捜査して、途中で打ち切っている。自分たちの犯罪が表沙汰になるのが怖かったんだよ。あれは警察がやったことなんだ』

 というのが鹿野の考え方。鹿野は市民オンブズマンから無所属の市議になった、鹿野の東京の大学における教え子の石川正に協力を依頼するが断られる。この時に、亡くなった高校生石川智英と同姓であることに気づけばよかったんだけれども、「石川姓」が多い麗山市という感覚だけで、実は石川正は石川智英とは歳の離れた兄弟であるということには気づかない。まあ、この辺も石川正にとっては「団塊の世代の身勝手さ」という受け止め方になるのかも知れない。

 一方、石川正は同じ市議で与党会派に属する板橋から相談を受ける。石川と板橋は同じ麗山南高校の先輩後輩の関係で、板橋が麗山南高校の校内で麻薬の取引が行われているらしい、という情報を石川に入れ、元新聞記者である石川にその調査への協力を依頼するのだ。

 石川がそのドラッグ事件を調べているうちに、その線上に浮かび上がってきた人物が実川という、元革青協の理論面・行動面でのリーダーであり、麗山大事件の後、内ゲバ事件で逮捕され長らく刑務所に服役し、40歳を過ぎて服役してきた後は麗山市で塾講師をしている男だった。「塾講師→麗山南高校生」という繋がりは確かにある。

 ところがこの実川と会った鹿野は実川から意外な事実を知らされる。

『あの高校生を殺したのは、お前だ』

 という実川の言葉。

『俺は、あの高校生もお前も見える位置にいた。だから、お前が石を投げるのも、石が高校生の頭を直撃する場面も、しっかり見ていた。間違いなく、お前が投げた石が彼の頭に当たったんだよ。あの高校生はすぐにその場に倒れて、衝突に巻きこまれた。石が頭に当たらなければ、倒れずに踏ん張って、死ぬようなことはなかっただろうな。俺は何とか石を拾って、逮捕される直前に花壇の中に隠しておいたんだよ。後でそれを回収したんだ』

『新革青協の事件で逮捕されて、服役している間も、ずっと信頼できる人間のところへ預けておいた。もう血の跡は見えなくなってるけど、最近の技術は進んでるからな。あの青年の血液が検出できれば、凶器だという証拠になるだろう。お前の指紋もついてるんじゃないか』

『その石を俺が持っている限り、お前は俺に縛られる。証拠なんだ。黙っていて欲しければ、俺に金を払え。取り敢えず百万だ』

 と鹿野を脅す実川。

 結局、それは石川の行動で失敗に終わり、実川は麗山市から出て行き、鹿野とも一生会わないことを約束される。

 鹿野は大学に辞表を提出し、日本で築き上げた物を全て捨て去り、残りの人生をアメリカで暮らすことにしたという。

 しかし、それはどういうことなのだろうか。

『あまりにも唐突な彼の行動をどう理解していいのか、さっぱり分からない。だはこれは、彼の得意技なのだろうと、皮肉に思った。機動隊との衝突で何人もの逮捕者が出て、人が死んだら、翌日からは運動とはまったく関係ない顔をして、普通の学生に戻る――四十年以上前にやったことを、また繰り返しているだけなのだ』

 とまあ、取り散らかしてそのままトンズラする団塊の世代に対して批判的ではあるのだが、それはまあ、麗山市議会の70歳議員牧田の言うような『勢いだけで突っ走って、結果がどうあろうがそれは気にしないっていうかさ。子どもが玩具で遊んでいるようなもので、遊んでいる間は夢中なんだけど、絶対にそこがちょっと残念。

 もっともっと、団塊の世代の罪深さに入っていかないというのは、やはり団塊の世代とは生まれ年が40年も違うって言うことがあるのかも知れないなあ。

 取り敢えず、我々にしなければいけないことは彼らの(結局は既得権益を守るためでしかない)「シルバー・デモクラシーをぶっ潰す」ということなんだけれども、それはどこまで可能なんだろうか。

『衆 1968 夏』(堂場瞬一著/文春文庫/2015年7月10日刊)

2015年7月19日 (日)

アジア文化会館

 昔、理化学研究所があった場所にUR賃貸マンションとオフィス棟、ショッピング棟が混在する「文京グリーンコート」があるのだが、その文京グリーンコートのすぐ裏に公益財団法人アジア学生文化協会が運営するアジア文化会館というのがある。

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 アジア文化会館自体は、中国、ベトナム、タイ、韓国、フィリピン、インドネシアなどから日本に来た留学生の宿舎になっている。ひと月の家賃30,000円から50,000円位で暮らせるので、留学生の出身国の水準からするとちょっと高いかもしれないが、日本の家賃相場からするとかなりリーズナブルと言えるだろう。

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 その隣にはABK学館日本語学校というのがある。留学生たちの日本語レベルを日本の大学に入学できる水準まで上げようとする学校だ。

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 で、アジア文化会館の掲示板を見ると……、

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 日本語ボランティアを募集している。

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 外国人に日本語で日本の文化や情報を伝えたり、日本語習得の手伝いをしたり、というのがそのボランティア活動の内容だ。毎週火曜日と木曜日の夜に行われているようだ。

 面白そうだなあ。それでアジアの人たちと付き合いができて、その国に行った時などに観光案内でもしてもらえば、二重にラッキーだ。

 今度、覗いて見ようかな。

RICHO GRDⅢ @ASIA BUNKA KAIKAN (c)tsunoken

2015年7月18日 (土)

さんぽみち総合研究所株式会社

 本郷通りを歩いていると、根津神社や日本医大に降りて行く道との分岐点になる向ヶ丘一丁目の交差点のそばに「さんぽみち総合研究所㈱」という不思議な名前の会社がある。

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『さんぽみち総合研究所は、人が歩くみちを通じて都市のにぎわいづくりや地域の活性化に取り組む会社です。
 遊歩道やポケットパークの設計、案内板のデザイン、歩行者用の地図・ガイドブックの制作など、人が安全に楽しく歩くための空間づくり(調査研究部)と、ウォーキング旅行の企画と実地やウォーキング大会の開催支援(旅行事業部)を主な業務としています』

 ということがホームページの最初に書いてある。

「調査研究部」の事業としては、「都市や地域を多角的に調査し、地域の個性を生かし魅力をのばす計画策定につなげます」として、道路・公園関連調査、社会調査・観光調査、歩行空間の計画・設計、企画編集・出版という四本柱があるようだ。

「旅行事業部」としては「ウォーキング大会参加ツアー(社団法人日本ウォーキング協会と共同実施)をはじめ、ウォーキング旅行の企画と実施、ウォーキングイベントの開催支援を主な業務としています。(副商号:e-旅専科、東京都知事登録旅行業第2-5365号)」というお仕事。

 う~ん、会社の名前も不思議だが、業務内容もなんか不思議な感じだなあ。

「東日本大震災が起きてから、既成の価値観が変わりつつあります。23年前に会社を設立した時にも「時代が変化」しつつあると考えました。当時の変化とは日本人の新たな価値観として、高度経済成長を達成したのちの生活の場面でより快適な環境(アメニティ)を求めるというものでした。以下は設立当時のパンフレットに書いたものです。

「みち」を通して人々の生活と環境を、だれもが満足のいく快適なものに変えていくことをめざします。人の目の高さで街を見直すこと、人が歩くことの権利を保障する空間を創造すること、奥行きのある地域文化や歴史を大切にし、住む人のアイデンティティを生み出すこと、「みち」を通行するだけのものから、人と街と文化と歴史そして自然とが調和する重要な公共資源として見直し新たな価値を付加することが私たちの仕事…

 その後の低経済成長時代にあって、「失われた何々」ということが言われながらも、根底では革新は無いながらの合理性・効率性や利便性への追求は怠りなくおこなわれてきたと言えます。都市インフラの最たる道路整備も、営々と延長・新設・改良や拡幅等が行われ技術の高度化とともに進化してきています。
 近年の気候変動がもたらすか酷ともいえる気象現象に耐えうる都市を目指して、全国の都心部は急速に様変わりしつつあります。同時に、町の基本である街路の形状も変わるなど、培われた伝統や歴史を切り捨てざるを得ないところも生まれています。今日では予想される大災害からいかに被害を少なくとどめられるか(減災)が、前提になっています。それもまた、私たちが作る歴史の一つの形、道路の進化ということなのでしょう。人々の多様な生活の場面で、これまでにない経験を受け入れることを求められるようになっています。しかも地域ごとにその問題は異なります。
 だからこそ、技術の高度化とともに新たな知恵で乗り越える価値があります。20数年前に目指したことから、さらに公共空間としての道路の重要性が増しています。これまでに整備され進化してきた公共空間を多様な生活の場面とオーバーラップさせ、だれもがより安全で安心して快適に利用できる公共空間としての道路のさらなる進化と有効活用のために、私たちは知恵と汗を絞ります」

 というのが「さんぽみち総合研究所株式会社 代表取締役 山崎みどり」さんのごあいさつ。

 う~ん、ますますよく分からなくなってきたぞ。

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 これは単なる私の「さんぽみち」。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Hongodori Ave. (c)tsunoken

2015年7月17日 (金)

『男しか行けない場所に女が行ってきました』

『男しか行けない場所』っていうのは、ようはフーゾクである。

 そんな「男しか行けない場所」を取材しレポート漫画をエロ雑誌に描いてきたのが、本書の著者、田房永子氏なのである。

 勿論、書いてきた媒体が「エロ雑誌」である以上、実際の取材通りのことを書いてはいけないのである。

『「男しか見ない」「男のための」エロ本。本当に思ったことは書けない。「エロ本の中の女」はとにかく「かわいくて若くて恥じらいがあって、だけどちょっぴりエッチなことに興味がある」という性質でなければいけなかった』

 なので

『本書では、私が見た、見たけれどエロ本には書けなかった風俗店やAVやエロ本、その他「男しか行けない場所」について書き記していく。「男たちの欲望」を女としてどのように捉えるのか、みなさんと考えることができたらうれしい』

 という本なので、何かスケベな目的で本書を読むと、失敗するのであります。

 つまり、わたしがそうだった、ってことなんだけれどもね。

Photo 『男しか行けない場所に女が行ってきました』(田房永子著/イースト・プレス/2015年6月18日刊)

 で、本書に出てくる「男しか行けない場所」とは、以下の通り。

風俗だからって超絶テクニックを受けられるわけではない 人妻アロマオイルマッサージ

男は本当に「種を残したい生き物:なのか ドール専門風俗店

当たりそうで当たらないおっぱいを楽しむ 密着型理髪店

女のプライドとやさしさの表現「笑顔でパカパカ」に感涙 ストリップ劇場

おじいちゃんたちの憩いの場 ピンク映画館

床から吹き上がる風でスカートがめくれ上がる パンチラ喫茶

体験取材できないコンプレックスと向き合う オナニークラブ

女も行けるが男のための場所 メイドキャバクラ

セックスする前から、女の演技ははじまっている AV撮影

性的興奮と恐怖が2秒ごとにやってくる DVD個室鑑賞

女の子がビーフストロガノフを食べ出す 竜宮城風ガールズバー

男たちは何を求めて風俗へ行くのか おっぱいパブ

 ということで、後は「男のための場所で誘う男たち」「男しか行けない場所で働く女たち」「エロ本を作る男たちと私等々について書いているんだが、実は読んでいて一番面白かったし、「ふんふん、なるほどなあ」と頷けたのが、「第5章 実は男しか行けない場所」のこれまた最終節「“お母ちゃん”にはこう見える AKB48の風俗っぽさ」なのでありました。

 勿論、ここにも取材はかけている訳ですね。

『秋葉原のAKB劇場の客席には、電車の座席みたいなひとり分のスペースが分かるように色がついている長い椅子が置かれていて、隣の人とピッタリくっついて座る。お客さんは単独で来ている男性がほとんどだが、3割近くは女性だった』

 という具合。で

『ウォークマンでアイドルソングを聴きつつ雑居ビルの一室で女の子の写真を選んでパンツを買う1990年代のブルセラ要素が20年の時をかけて淘汰され、2010年代は、制服姿の女の子自身がパンツを見せながらアイドルソングを歌うという合理的な展開となった。それがAKB48だ。私はそう思った』

 なるほど、慧眼ではありますな。

『AKB48には、年に一度の「総選挙」によってキャバクラ的要素も含まれる。客の人気投票で順位を決め、上位の者はステージ上で泣きじゃくりながら、「夢は必ず叶う」という演説をしてファンへ感謝の意を述べる。他のアイドルに比べてこの「夢語りと涙と感謝」の点が異質であり、人気の秘訣と思えた。
 女子どもの目を盗んでひっそりとあった「男しか行けない場所」が“表沙汰”になる時。「男の欲望」そのものをエンターテインメントとして表現することを成立させる時。そこには「夢語り」という目的、「涙」という理由、「感謝」という正当さが必要不可欠であるということを、AKB48に証明されたような気がした』

『「今、自分磨きのためにしていること」をひとりずつ言っていたのだが、「私はレポーターになりたいので」とか「スポーツ番組に出られる人になりたいので」とか、「本当の夢」を語っている。風俗嬢に取材すると「借金を返すために働いている」とか「看護師になりたいから勉強している」とか言う。なんかそれと同じ感がして、「AKBって風俗っぽい」という印象が一気に噴きあがった』

 とは言うものの、大島優子を見ているうちに、何故かこの気持ちは変わってきてしまうようなのだ。

『実際のAKBファンは、AKBの女の子たちに“食われている”顔をしていた。ブルセラ女子高生とおやじではなく、されるがままの童貞男と寛大な手ほどきをする風俗嬢、というほうが近かった。というか、そのものだった。
 ちゃんと曲を聴こうとしても、男になった自分が風俗店に行って、大島優子を指名している風景がなぜか脳裏に浮かんでくる。本当に不思議だが、どうしてもどうしても浮かんでしまう』

『「優しいおばあちゃん」が女子高生みたいな制服を着て、元気に飛び跳ねて恋心を歌う。それは、男が作り出した男のためのサービスだけど、大島優子みたいな、男たちが想定したものを遥かに上回るほどの「優しくて気の利くおばあちゃん」を徹底して提供できる人がいると、作り手も観客も一気に食われてしまって、他のメンバーも揃って「AKBというグループで働いている人」を超えてしまう。観客がいるから歌っているのか、歌っているのを見させてもらっているのかなんだか分からなくなる。だから、観客は静寂してステージを見つめることになる』

『90年代のブルセラ文化が変な風に進化して生まれた気味の悪い団体」というAKB48への個人的な印象は160度変わった。帰りにAKB48の写真が入ったグッズを買わざるを得なかった。もし、AKB48のメンバーがMCで、自分たちの置かれている状況を女として分析するようなおしゃべりを披露していたら、私はAKB狂いになっていたと思う。だけど、AKBがMCでそんな話をすることは永久にない。それだけが180度へ届かない理由だった』

 って、当たり前でしょう。そうなっちゃったらAKBも風俗嬢も「女として同じだった」っていうことになってしまう。

 それはAKBファンの童貞男の夢を破っちゃうもんね。

『男しか行けない場所に女が行ってきました』(田房永子著/イースト・プレス/2015年6月18日刊)

2015年7月16日 (木)

『改造』の時代、改造社書店の時代

 昔『改造』という雑誌があった。

 結構、漸進的というか過激な雑誌だったようだ。

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『第一次世界大戦後の1919年(大正8年)、山本実彦が社長を務める改造社から刊行された。主に労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、初期アナキストの佐藤春夫、キリスト教社会主義者の賀川豊彦、マルクス主義者の河上肇、山川均などの論文を掲載した。小説では幸田露伴『運命』、谷崎潤一郎『卍』、志賀直哉『暗夜行路』の連載などがある。また改造誌上にて当代を代表する谷崎潤一郎と芥川龍之介の文豪同士の「小説の筋の芸術性」をめぐる文学的論争が繰り広げられ文壇問わず注目される展開となった。先行する総合雑誌として『中央公論』があったが、より知に対して急進的な路線を掲げ、文学面でも単なる文芸誌以上の内容の重厚さを見せる『改造』が支持されることになり、より売上を伸ばす結果となった。
 第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、掲載した論文が共産主義的であるとして弾圧を受け(横浜事件)、1944年(昭和19年)に廃刊となる。第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に復刊するが、経営は思わしくなく52年山本の死去により急速に衰え、労働争議の末1955年(昭和30年)に廃刊』(Wikipediaより)

 また『改造社は、1927年(昭和2年)、世間を一世風靡した「円本」の先駆けとなった『現代日本文学全集』全63巻を刊行し、それまで経済的に困窮していた作家たちの生活は、それによって大いに潤うこととなった』(同じくWikipediaより)とあるが、円本とは一冊一円で買えた全集類の総称で、当時の日本庶民の読書欲を育て、日本の出版社の力を整え、作家たちをうるおした。

 1923年(大正12年)の関東大震災の影響で倒産寸前だった改造社の社長山本実彦が、一冊一円、薄利多売、全巻予約制、月一冊配本の『日本文学全集』の刊行に社運を賭け、自己資金も持たぬ自転車操業的企画だったのだが、期待をはるかに上回る23万の応募者の予約金23万円が出版資金となり、改造社は見事復活したのだった。

「円本」という呼び方は当時、東京と大阪の域内すべて一円で運航していたタクシー「円タク」から派生したものらしい。しかし、当時は一冊一円とはいっても、けっして「安い本」という訳ではない、がそれでも当時は「安く知識が得られる」という風にとらえられていたのだから、当時の「普通の本」が如何に高かったのかということがわかる。

 当時、新しい働き方をしていた「サラリーマン」向けに「円本」を出したという訳。当時のサラリーマンの給与からすると一円は月給の2%位らしいから、現代なら4000円から6000円位になる訳で、現代の状況から考えると、決して「安い」という訳ではなかったのだが、それでも当時の本の値段からすれば安かったということなんだろう。

 その後、「円本」は大ブームとなり、改造社の『現代日本文学全集』の後、『世界文学全集』全57巻(新潮社)、『世界大思想全集』全126巻(春秋社)、『明治大正文学全集』全60巻(春陽堂)、『日本戯曲全集』全50巻(春陽堂)、『現代大衆文学全集』全40巻(平凡社)、『世界美術全集』全36巻(平凡社)、『新興文学全集』全24巻(平凡社)、『近代劇全集』全43巻(第一書房)、『日本児童文庫』全76巻(アルス)、『小学生全集』全88巻(興文社)、『マルクス・エンゲルス全集』全20巻(改造社)などの「円本」が輩出した。その後、円本ブームは1930年頃には終息したが、書籍の大量出版・販売の基礎がこの時できたと考えられる。

 岩波文庫の創刊も結局、この円本ブームがきっかけだったらしい。

 現在、改造社は出版はおこなっておらず、改造社書店として書籍販売業だけを行っていて、関東・中部地方などに小さな店を16店舗持っている。昔はホテルへの出店が多く、帝国ホテルにも改造社書店が出店していたが、最近は駅ビルへの出店が多いようだ。

Dsc_00342こちらは改造社書店銀座店。元々の改造社があったビルであるが、現在は1階の店舗だけが開いている。

 で、何で改造社なんだと言うと……。

 昔、講談社のすぐ傍に講談社の社員がよく行っていた小さなバーがあったんだが、そこのママが改造社(書店じゃなくて出版社の方)の社長のお嬢さん(と言ってももう婆さんだったけれどもね)だったという話を思い出したからなのであった。

 ただ、それだけ……オチはありません。

 あしからず……。

2015年7月15日 (水)

『ウェブニュース 一億総バカ時代』っていう言い方は分からなくはないが、ステマやってる人からは言われたくない

 三田ゾーマとは何者か? 『都内の某ニュースサイトで働いて5年目の“中の人”、30代。これまで多くのニュースサイトの記事作りに関わってきたが、その中で数々の「ステマ」広告作りにも手を染める。「日本のニュースサイトの中でも俺ほどステマに関わってきた奴はいない」と思っている』というのがこの本の著者プロフィールなんだが……。

 なんか、泥棒が泥棒に入られた家の人にこんこんと説教しているみたいだなあ。

Photo 『ウェブニュース 一億総バカ時代』(三田ゾーマ著/双葉新書/2015年5月24日刊)

『「裏取り」という言葉がある。新聞記者やテレビ局の報道に携わる人間は、媒体に嘘や誤った情報が掲載されてしまわないように、その情報が本当かどうかを検証する作業を行う。これを裏取りと呼ぶが、ウェブニュースでこの裏取りが行われているかどうかは、正直“媒体による”という状況だ。
 媒体によるというのは、ウェブニュースの運営母体が新聞社であったり、テレビ局である場合も多いからだ。その場合は結果的に裏取りが行われた情報が掲載されることになるが、例えば数人で運営しているような小さな媒体であれば、裏を取らずに記事を掲載することは当然あり得る。それどころかソーシャル・ネットワーキング・サービスなどで流布されるデマ情報を“報道”と称して掲載している場合も……。
 ここまで読んで、あなたは驚いたかもしれない。「免許もいらない、誰が書いたかも分からない。裏も取っていない情報を掲載している媒体を“ニュース”サイトと呼んでいるの?」おっしゃる通り。
 テレビ局を開設し、そこにニュースを流そうと思ったら、あるいは新聞を発行し全国に流通させようと思ったら、いずれにせと莫大な資金と時間が必要である。しかし、インターネットはその特性上、世界中からアクセスできる媒体を誰もが安価に持ててしまう。現代においては、情報発信したい人や団体がニュース媒体を名乗り、情報発信することは、そこまでハードルが高いことではないのである。
 ニュース媒体を持てば広告収入が得られて金が儲かる。だから酷い媒体になるとどんな記事でも・誰が書いたものでも構わないから掲載して人々のアクセスを集めようとする。その記事は何の専門性もないアルバイトが書いたものかもしれないし、どこかからコピペされ一部だけを書き換えたような“盗作”かもしれない。
 いわゆる“報道”との違いが分かっていただけただろうか。しかし、ウェブニュースではそんなこと当たり前のことだ。「うちは違う! しっかりとして編集者と記者で作られたニュースサイトだ」と反論する「中の人」もいるであろう。確かに、前述したような酷い媒体は一部かもしれない。しかしそんな屑のようなニュースが、あなたが作ったまっとうな“報道”と同等なものとして流通しているのは確かだ。
 そして、そんな屑を“報道だ”とありがたがって読んでいるとすれば? 曖昧な発信元の情報に踊らされ、根拠の薄い発表を信用し拡散する人が増えていく。“バカ”の一丁上がりである』

 って、そんなにニュースサイトの記事を信じている人がいるんだろうかなあ?

 まあ、2チャンネルの住人とか、ネトウヨのみなさんたちはそんな人がいそうだけれどもね。ネット上のたいして根拠のないニュースだけに踊らされて、「だから韓国は」「だから中国は」なんて大騒ぎして、よせばいいのにそれを拡散して、なんか自分がいいことをしているつもりになっている人たちは、結局ネット上で収束しているつまらない人たちだ。

 ステマ(ステルス・マーケティング)と言えば、「食べログ」や「アメブロ」が最近では有名だが、まあ、大体ウェブ上でどこかの店やら商品を褒めていたら、基本的にそれはステマだと考えて間違いはない。というか、そんな人の意見に動かされちゃいけないのだ、ということを基本に生きていけばいいのである。

 現代は「情報社会」と呼ばれている。しかし、そんなネット上の情報なんてものはほとんど意味のない情報であり、情報は「実体」のない、単なる「情報」でしかないのであります。

「実体」とは何か? それは自分の体験であり、経験である。そうやって自分で体験したものを頼りにして生きていけばいいのである。勿論、自分の体験なんてものでは社会全体を理解したことにはならない。しかし、社会全体を理解したからといって何になるのだろう。それよりは、もっと自分の経験や体験でもって得たものの方が大切なのではないだろうか。

 ところが、現代人は自分が体験したことでもないものに動かされすぎるのではないだろうか。多分、そこには日本人の横並び意識とか、人と同じことをしていないと不安になる意識なんてものがあるのかも知れない。そこで、他の人がどんなことをしているのか、どんなものにどんな感じをもっているのか、自分もそれに倣わなければ不安になってしまう意識というものが働いているのであろう。

 しかし、そんなものはつい最近出てきた考え方でしかなく、ちょっと前までは他人が何を考えているか、何を感じているか、なんてことには関係なくみんな生きてきていたのである。他人は他人、自分は違うという生き方を我々日本人もしてきたのである。

『本書の読者の中に消費者庁の関係者の方がおられたら、まずは大手ウェブニュースの関係者を呼び出してステマの状況を詳しく聞いた後に、インターネット上のニュースを規制するためのガイドラインを早急に作成することを強くおすすめする』

 と三田ゾーマ氏は「おわりに」で書くのであるが、これはあまりおススメできないなあ。なんでそんなに国の規制に期待するんだろう。そんなことをするくらいなら、その前にニュースサイトの関係者が集まって、自主規制する道を探した方がいいのではないだろうか。

『あなたたちニュースサイトが“バカ”だと決めつけ、これまで散々騙してきたユーザーが、いつか世に大量に流布するステマ記事の存在に気づいたらどうなるだろうか? きっと。ユーザーはあなたたちのことを「匿名の掲示板と一緒」程度のくだらない・質の低い報道機関だと見下すようになるだろう。そう、今度はあなたたちが“バカ”にされる番なのだ』

 まあ

『まあ、これまで大量のステマを制作し、どの記事がステマなのか・どの企業がステマしているのかを指摘できる立場にありながら、生活のためにそれをしない私も同じく“バカ”の共犯であることは間違いないが……』

 という位に自覚的なのは許せるが。

 まあ、しかしやっぱりこれって「泥棒が泥棒に入られた家の人にこんこんと説教している」って姿だよなあ。

『ウェブニュース 一億総バカ時代』(三田ゾーマ著/双葉新書/2015年5月24日刊)って、こういう本こそ電子版でしょ。ダメねぇ、双葉社って……。

2015年7月14日 (火)

ツール・ド・フランス、いよいよ第2週目、山岳ステージが始まる!

 オランダ、ベルギーとユイの壁はあったけれども、基本的に平坦ステージなおかつパヴェを走ってきたツール・ド・フランスも第2週目に入って、いよいよフランスとスペイン国境にあるピレネー山脈への山岳ステージに入ってきた。

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 基本的にツール・ド・フランスは(というか三大ツールは)山岳ステージが勝負を決める(私は大嫌いだけれどもね)。

 これからアルベルト・コンタドール(ティンコフ・サクソ/スペイン)やアレハンドロ・バルベルデ(モヴィスター/スペイン)がどれだけ順位を上げてくるか、コンタドールのダブル・ツールは実現するかというところが興味の焦点だが、おっと忘れてはいけない、南アフリカのプロ・コンチネンタル・チーム、エムティエム・クベカのダニエル・テレイハイマロノ(エリトリア)が現在は山岳賞ジャージーのマイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュを着ている。

 この選手も上りには強そうだから、あまり無視はできないな。

 さあ、いよいよ本格的なレースが始まったツール・ド・フランスだ。

 ツール・ド・フランス見るならJ SPORTSだ。

 って、これが正しいステマなんだよな。

代田橋の沖縄タウン

 京王線代田橋駅で下車して国道20号線を渡った先に和泉明店街という小さな商店街があるのだが、この和泉明店街が「沖縄タウン」として商店街の売り込みをしようとしているのだ。

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 ホームページを見ると商店街の総延長380メートルと書いているけれども、メインの通りは100メートルほどの小さな商店街。

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 商店街の入り口近くにある片桐酒店にはオリオンビールやら泡盛の古酒なんかが置いてあって雰囲気を醸し出している。

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 ちょっと行くと首里製麺なんてソーキそばを出すお店が現れてきてだんだんその気にさせてくる。

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 で、ここが「めんそ~れ大都市場」というちょっとディープな沖縄タウンの中心地。

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「沖縄酒場」「とぅるるんてん」「てぃんさぐ花」なんてのがあって、まさにその雰囲気は沖縄。

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 まあ、本当は夜に来ないとその本当の雰囲気は分からないのだろうが。

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 まあ、周辺にできたスーパーマーケットやディスカウントストアによって寂れてしまった商店街の活性化策として、沖縄とゆかりの深い人たちが住んでいたり、沖縄料理の店がたまたま多かったりしたので、だったらそれを商店街の「売り」にしてしまおうと、平成17年3月「沖縄タウン」としてしまえ、というのがそもそもの始まり。

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 やっぱり、夜に来ないとその魅力は分からないのかも知れない。今度は、夜に来よう。

NIKON Df + Ai NIKKOR 50mm/F1.4 @Daitabashi Suginami (c)tsunoken

2015年7月13日 (月)

チョートク・トークショー「フォトメンタリー」

 神田明神脇のギャラリー・バウハウスで『田中長徳写真展「WEIN ZWEI GRAMM LICHT 1973-1980」』が開催中だと書いたのは6月21日のブログだが、そのギャラリー・バウハウスで一昨日、田中長徳氏のトーク・ショーが行われたので、歩いて行ってきた。

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 神田明神辺りは我が家からは徒歩圏内だ。というか、大体、神田、御茶ノ水、神保町、飯田橋辺りは大体徒歩圏内、ということで我が家は下町歩きには便利なところにあるんだなあ。

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 それはいいとして、田中長徳氏である。

 田中長徳氏は写真が上手だっていうのは、プロフェッショナルなフォトグラファーなんだから、当たり前であるが、それ以上に田中氏の博覧強記ぶりと縦横無尽な話しぶりは、既に何度か田中氏のトークイベントに参加しているので、知っている。

 で一昨日は何を話したのかというと…………、あまり覚えていない…………、というかいつもの通り、話はあっちへ飛び、こっちへ飛びという具合に替わっていくという、いつものチョートク節なので、全体として何を話しているのかということをまとめることができないのだ。それぞれの断片は覚えているんだけれどもね。

 ポイントは「フォトメンタリー(PHOTOMENTARY)」ということ、つまり現在田中氏はニコンのフォトメンタリーのアンバサダーを務めているということで、今回のトーク・ショーもニコンとのタイアップイベントだったのだ。

「フォトメンタリー」とは、ニコンが主宰する一種のSNSで、メンバーはGoogle+に登録して、自分が撮った写真をそこに投稿できるというサービス。フォトメンタリーに投稿する写真には何の制限も、規定もなく、ただただ自分が撮って気に入った写真を投稿すればよいのだ。

 それは広告などの商業写真ではないし、報道写真でもなく、ごくごく普通の人が、普通に撮った写真なのだ。ということは、田中氏がアサインメントで撮った写真ではなくて、今回の写真展でもそうだし、これまで田中氏が写真集として出版してきた本なんかの写真もそうなんだけれども、特にテーマも決めずに街歩きをしながら、その時その時でシャッターを切った写真っていうことなんだ。

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 それって、普通の人(普通のフォトグラファー)が、普通に撮った写真ってことでしょ。そこには、プロ・アマっていう境目はなくて、それぞれが撮った写真があるだけだ。

 なので、フォトメンタリーって言うのは、普通のアマチュア(でもプロでもいいんだが)写真家が撮った写真をどんどんSNSにアップしちゃって、「えっ? これって意外といい!」なんて写真を選んじゃおうっていう考え方なんだ。つまり、写真家の特権性と言うものを認めない考え方、というか写真なんか撮ってから、その結果その写真がいいか悪いかを決めるものであって、ということは「写真は芸術」ではないってことなのであります。

「写真は結果」だけであって、何かを狙って撮影するものではない(それはアサインメントの写真だけ)ということ。

 その結果、アマチュア(と称される人)とかプロフェッショナル(と称される人)との境目がない表現(それも ? )ということになって、もうどんな人でもフォトグラファーを自称できる時代になってしまっいるっていうことなんだ。

 で、私も名刺に「Writer & Photographer」って肩書に書いてあるんだけれどもね。

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 最後は、アメリカ最初のホワイトハウス専属カメラマンだったヨウイチ・ロバート・オカモトの話。まあ、ヨウイチ・オカモトのカメラの構え方がカッコイイってだけの話なんだけれどもね。でも、それだけで15分持たしてしまうってのも……すごいね。

 もう、チョートクさん。フォトグラファーじゃなくて、「カメラ芸人」でも生きていけるんじゃないか。

 って、そんなつもりはないでしょうけれどもね。

NIKON Df + 24-50mm/F3.3-4.5 @Kanda (c)tsunoken

2015年7月12日 (日)

『こうして、世界は終わる』んじゃなくて、中華帝国の支配下になるんだよな。それが嫌だから「こうして、世界は終わる」なんだろうか?

ツール・ド・フランスも前半3分の1は平地のレースで、それはそれスプリンターの勝負で面白いんだけれども、タイム差がつかないから、その部分では面白くない。これからピレネーやアルプスの山岳レースになると面白くなるんだろうな。

 ということとは何の関係もなく、今日のブログは始まります。

 邦題は「世界は終わる」なんだが、違うんだよなあ。原題は"The Collapse of Western Civilization"、「西洋文明の終焉」。つまり、欧米中心の西洋文明社会が2093年に終わって、中国が「第二次中華人民共和国(あるいは「新共産主義中国」)」として世界の中心に躍り出るって話を、2393年の中国の歴史研究家が語るというスタイル。

 すべての問題は、エネルギー革命と化石燃料、「炭素燃焼複合体」と「海面上昇予想否定法案」にあり、そのもとになっているのが新自由主義だというのである。

Photo『こうして、世界は終わる――すべてわかっているのに止められないこれだけの理由』(ナオミ・オレスケス、エリック・M・コンウェイ著/渡会圭子訳/ダイヤモンド社/2015年6月25日刊)

 既に崩壊の予兆は2009年に始まっていたのだ。

『2009年は西洋世界が自分たちを救う“最後にして最大のチャンス”と考えられていた。
 国連気候変動枠組条約が作成されて以来、危険な気候変動を阻止するための拘束力を持つ国際法への同意を目指し、15回目の会議がデンマークのコペンハーゲンで開かれたのだ。
 その2年前、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)に係わった科学者たちが、人間の行動が地球温暖化の原因となっているということは“疑う余地はない”と明言していたし、世論調査でも大半の人が(操縦しにくいアメリカ人でさえ)何らかの策を講じることを容認すると答えていた。
 しかし会議の少し前から、IPCCの結論の根拠となった研究を行った科学者らに対し、疑義を呈する大規模なキャンペーンが繰り広げられた。
 このキャンペーンに資金提供していたのは、主に化石燃料会社だ。
 当時、そうした会社の年間収益は、ほとんどの国のGDPを超えていた。
 温暖化防止の運動への公的支援は消滅した。
 アメリカ大統領でさえ、前向きな取り組みはできないと感じていた』

 って言うんだタラ、それは1968年のローマクラブの警鐘だってそうだったんだけれどもね。

『2010年、記録破りの夏の暑さで、ロシアでは5万人が死に、損害は150億ドル(2009年当時の米ドル)に及んだ。その翌年にはオーストラリアで起きた大洪水で、25万人以上が被害を受けた』

『科学者が調査できる範囲と方法を制限する法律が(特にアメリカで)可決された。
 その先鞭をつけたのが、2012年にアメリカ合衆国ノースカロライナ州議会で可決された、悪名高い下院法案819、いわゆる「海面上昇予想否定法案」だった。
 また、2012年の政府歳出と責任についての法案」は、公的機関に所属する科学者の、研究結果を公表・分析する会議への出席を制限する内容だった』

『2010年代半ばには、北極の夏期の海氷面積が、人工衛星による正確な測定が始まった1979年に比べ、およそ30パーセントも減っていた』

『2001年、気候変動に関する政府間パネルは「大気中の二酸化炭素濃度は2050年に倍になる」と予測した。
 実際は2024年に、そのレベルに達してしまった。科学者は気温が2℃から3℃上昇するマイルドな温暖化を予想していたが、実際には3.9℃上昇した』

『2040年には、熱波と干ばつは、ごくふつうのことになっていた』

『海面の上昇は、この時点では地球全体で9センチから15センチにとどまり、海岸地域の人口はほとんど変わらなかった』

『2041年の北半球の夏、かつてないほどの熱波が襲い、世界中の作物が枯れ果てた』

『2050年代になると社会秩序が崩れ始め、政府が倒された。
 特にひどかったのはアフリカだが、アジアやヨーロッパの多くの地域でも同じことが起こった』

『2060年には、夏期の北極で氷が見られなくなっていた』

『その後20年間(2073年から2093年まで)で、氷床の90パーセントがばらばらになって融解し、地球上のほとんどの地域で海面が約5メートルも上昇した』

『海面が8メートル上昇すると、世界の人口の10パーセントが住む場所を移動せざるを得なくなると予想されていた。
 しかしそれは過小評価だった。
 実際に移動したのは20パーセント近くにのぼった』

『このときの集団移動は、第二の黒死病流行の一因となった。
 新しい系統のペスト菌がヨーロッパで発生し、アジアと北米に広がったのだ。
 中世にペストが流行したとき、ヨーロッパには人口の半分を失った地域もあった。
 この第二の流行においても同じくらいの被害があった』

 かくして、2093年にアメリカとカナダは二国で北アメリカ合衆国となり、オーストラリアとアフリカには人がいなくなり、新自由主義は終焉し、世界は第二次中華人民共和国(あるいは新共産主義中国)の元に再編成されるのだ。なぜ、中国が生き延びるのかと言えば、ある種の専制主義は民主主義よりも力を発揮できるという考え方だろう。それは本当かも知れない。

 我々日本人として多少はホッとできるのは、『日本人の遺伝子工学者アカリ・イシカワが、大気中の二酸化炭素を、既存の生物よりはるかに大量に消費して光合成を行い、あらゆる環境条件で育つ、一種の地衣類を開発した』その結果『20年もたたないうちに、風景が目に見えて変わり、大気中の二酸化炭素量の数値も変化した』『そこから地球の大気の回復、社会、政治、経済の回復への道のりが始まったのだ』という記述。

 まあ、何故それが日本人なのかという点はよくわからないのだが、気分はいい。

 本書の原書は2014年6月14日に刊行されている。なので、2014年前半までに関する記述は実際にあったことを書いてある。それ以降は、現在実際に起こっていることからの類推だ。SFなのは唯一アカリ・イシカワに関する記述だけ。

 2012年にノースカロライナ州議会が通した「海面上昇予想否定法案」っていうのは実際にある決議(勿論そんな名前の法律ではないが)。ノースカロライナ州はその東部分が大西洋に面しており、海面上昇の可能性を認めてしまうと商工業や保険に多大な影響があるということで、そんな法案を通してしまったのだけれども、なんてバカな法案なんだろうか。

 しかし、考えてみればわが国でも東日本大震災後の東京電力と政府による原発問題における隠蔽や誤魔化しを見てみると、あまりノースカロライナを笑えないのかも知れない。

 しかし、そんな簡単に、あと80年で新自由主義が崩壊するとも思えないが、いずれは新自由主義も崩壊するだろうし、資本主義経済も崩壊はするんだろう。その後に来るのは多分ソビエト連邦型ではない形の共産主義であるだろうというのも、大方予想はつくのだけれども、しかし、じゃあ具体的にそれがどんな形の政体であり、経済体制なのかは未だに見えていない。

『こうして、世界は終わる――すべてわかっているのに止められないこれだけの理由』(ナオミ・オレスケス、エリック・M・コンウェイ著/渡会圭子訳/ダイヤモンド社/2015年6月25日刊)Kindle版も出ていたんだ!

2015年7月11日 (土)

ヤン・ヨーステンとリーフデ号

 ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインはオランダの航海士で、徳川家康の「お雇い外国人」だった。日本名は耶楊子(やようす)。江戸城の内堀内に屋敷を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりで、日本名の耶楊子から「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」になったとされる。

 それを記念して、八重洲地下街には「ヤン・ヨーステン記念像」が、日本橋三丁目の交差点には、ヤン・ヨーステンとリーフデ号のレリーフ「ヤン・ヨーステン記念碑」が飾られている。

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 日本名・三浦按針で知られるイギリス人ウィリアム・アダムスと一緒にホープ号、リーフデ号、ヘローフ号、トラウ号、フライデ・ボートスハップ号の5隻で極東を目指す航海を始めた。

 しかし、トラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、ヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返し、太平洋を航海中にホープ号も沈没。何故か? ポルトガルもスペインもカトリックの国だという正解がある。この時期、ヨーロッパではカトリック対プロテスタントの争いが凄かったんだな。

 極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となってしまった。

 豊後(現在の大分県)の臼杵に漂着した一行は、臼杵城主太田一吉に捕えられ、長崎奉行の寺沢広高に渡される。太田は船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬などの武器を没収し、大坂城の豊臣秀頼に報告、五大老首座の徳川家康の指示でウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

 この間、カトリックであるイエズス会の宣教師たちが執拗にプロテスタントのアダムスたちを処刑するように要求したが、直接彼らと会った家康は、彼らを気に入り、釈放した後、江戸に招く。

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 ところで、ウィリアム・アダムスは家康から船大工としての経験を買われ、西洋式の帆船を検層することを要請。最初は80トンの小さな西洋船を建造、その後は120トンの大型船の建造を果たした。

 これに気を良くした家康は、アダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許し、相模国逸見に領地を与え、三浦按針の日本名を与えて、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な運命を与えたのである。

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 しかし、ヤン・ヨーステンはそのような境遇とはならずに、家康の通訳を行った後、東南アジア方面での朱印船貿易を行うといった、相変わらずの船乗り生活を続けた。多分、そうやって外国に行ってなんとか本国に帰る途を探していたんだろう。

 しかし、それも叶わず、日本に帰国するために乗船していた船がインドシナで座礁し溺死したという。

Dsc_00202丸ビル脇のリーフデ号

 結局、船大工としての経験のあるなしが二人の運命を分けてしまったのだが、なんとも皮肉なことではあるなあ。

NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Yaesu & Marunouchi (c)tsunoken

2015年7月10日 (金)

『我が逃走』ハチャメチャだけれども、納得できる生き方

 しかしまあ、こういうのを「ジェットコースターみたいな人生」っていうんだろうか。

 とにかく、成功とその後の失敗と、そして更なる人生ってのが、なんか振幅が大きすぎるんですね。家入氏って。

 なんせ、元ひきこもりの起業家だもんなあ。その部分で既に振幅の大きい人生だって予感があったんだろうか。

Photo 『我が逃走』(家入一真著/平凡社/2015年6月9日刊)

『いまから十四年前の二〇〇一年、二十二歳のときに、僕は福岡の片田舎でレンタルサーバー「ロリポップ!」を立ち上げた。そのときの会社名は「合資会社マダメ企画」。なけなしの貯金をはたいての創業だった。そのときは別に、会社を大きくしたいなんていうことはまったく考えていなかった。家で仕事ができて、仕事をしながら子育てができればそれでいいや、と思っていた』

『その後、マダメ企画は「株式会社paperboy & co.」、略して「ペパボ」へと進化した』

『ゆったりとした、家族経営スタイル。これが福岡時代のペパボだった』

『それは、「会社に行きたくない」という後ろ向きな理由で起業した僕が初めて「経営者」に憧れを感じた瞬間だった。
「ペパボの自由度は守ります。そのまま来ていただければ大丈夫ですよ」
 熊谷さんの言葉に背中を押され、僕たちは福岡に支店を残しながらも、東京に本社を持つGMOインターネットグループの一員となったのだった』

『二〇〇八年十二月十九日、中央区日本橋にあるジャスダック東京証券取引所。その重々しい建物の前で、僕は緊張した面持ちで立ちすくんでいた。今日、ついにペパボの株式が市場に公開されるのだ』

『株価は初値四千円。大変好調なスタートだった』

『ペパボが上場したのが十二月。年が明けた一月には、僕が代表取締役社長を降りて、ケンタロこと佐藤健太郎が社長に就任することが決まった』

 と、ここまでは取り敢えず順風満帆。

 ところがカフェに手をだしてからがハチャムチャなんだなあ。

『でも僕は、カフェが大好きだった。カフェというより喫茶店というべきだろうか。なぜなら昔、両親が喫茶店を営んでいた時代があったからだ。
 それは、まだ僕が幼かった頃のこと。記憶はおぼろげだけど、ちょっとすすけた思い出の中のその場所は、いつも笑顔の両親がいて、コーヒーの匂いがして、皿を洗う音がして、マンガがあって、ソファがあって、とにかく居心地の良い、幸せな空間だった。そののちの僕の青春時代は、引きこもりになったり、父親が交通事故にあったり、母親が深夜まで働きに出ないといけなくなったり、両親が離婚をしたり、父親が自己破産したりで、どちらかというと波瀾万丈な方向へと急展開したけれど、思い出の中のあの喫茶店は、いつも平和で幸せなムードのままだ』

『(いつか僕も、カフェがやれたらな……)そう空想することがあっても、それが現実になるなんて、当時は思ってもいなかった』

『二〇〇八年五月、僕の初めてのカフェ、ハイスコアキッチンがオープンした』

『ペパボ上場の際、ある程度の株を手放した僕のもとには、数億円の現金がドカッと転がり込んでいた。
 パーティカンパニーの資金もそこから運用し、足りなくなると、随時、その個人資金から補填していた。ハイスコアキッチンの利益はいまだ微々たるものだったから、毎月の赤字を僕の個人資金でまかなっている状況だった』

 この辺の金銭感覚は、経営者としては陥ってはいけないところなんだが、それを平気で書いちゃうってところが、家入氏の凄いところだ。

『同時に、僕は個人的にいろんな会社へ出資を行っていた。金額は数百万円のときもあれば、数千万円というときもあり、面白そうな人や事業にはポンポンとお金を出していた。それでも、お金が底をつくことはなかった。それぐらいの大金が、僕のもとにもたらされていたのだ。「お金がある」ということの精神的な安定感は大きかった。「お金のことは考えずに、好きなことができる」。そう思えることで、どこへでも行けるような自由を得た気分だった』

 まあ、それはそうだ。そりゃお金を出していれば、悪く言う人はいないし、もっともっとといろいろな話を持ち込んでくる人も多くなってくるし、そんなところでいい気になってお金を出しても、まだまだ大丈夫だったんだろうな。

 でも……。

『一日三百万円使う夜遊びを、仮に三十日間続けたら九千万円になる。それに、自宅に帰りづらくなっていた僕はほかにもいくつか部屋を借りていて、住居費だけで月に三百万円くらいかかっていた。お金がなくなった要因のひとつは僕の無駄使いなのだ。誰かを疑うまでもない』

 ってなっちゃうところが地獄ですな。

 で、ペパボもカフェ運営会社も手放してしまう家入氏なのだが、しかし、読んでいてすがすがしい気分で読めるのは、そうした失敗にも、この人全然めげていないとことなんだなあ。

『ペパボ、カフェ、リバ邸、選挙。居場所をつくるのが僕の仕事だとばかりに、いろんなところで旗を揚げてきたけど、自分がそこに滞在して、時間を過ごすことはほとんどしてこなかった。つくって壊す、というわけじゃない。つくって移動してしまうのだ』

『止まらずに動き続けてきたおかげで、僕はいまでも少しずつ成長している(と思う)。もうペパボにいたあの頃の僕じゃないし、カフェをつくって六本木で浮かれていた頃の僕でもない。でも僕は僕で、変わらない部分もある。このふたつのバランスが、自分の中で落ち着いたような気がしている。さまざまな経験をしたことで、もしかするとほんの少しだけ、自信がついたのかもしれない』

 まあ、まだまだ若い家入氏だ。今後もどんなことをしてくれるか楽しみではある。

 あ、勿論、都知事選には家入氏に投票しましたよ。

『我が逃走』(家入一真著/平凡社/2015年6月9日刊)

2015年7月 9日 (木)

原町田「町田壹番商店街」絹の道

 小田急線町田駅を南口に出ると、「絹の道」の碑がある。

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 片側には「此方 はちおうじ」、反対側には「此方 よこはま」と書かれたこの碑、昭和58年に「原町田誕生400年記念」として、町田壹番商店街が建立したもの。

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 つまり、文化・文政期(1804~1829年)に編まれた「新編武蔵国風土記」に「神奈川道」と称された道の一部がここ原町田中央通りな訳なんだ。

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 神奈川道(町田街道)とは、長野・山梨・群馬などで作られた絹織物が一度八王子で集積されて、ということで八王子には呉服屋さんが多いわけで、ユーミンの実家の荒井呉服店なんかもその一つ。その後、横浜まで運ばれて、当時の主要輸出商品として、横浜港から外国へ送られたのである。で、「絹の道(シルクロード)」ってな訳ですね。

 で、八王子と横浜の中間地点がここ町田。なので、旅人もこの辺りで一休みしたのかも知れない。そんな形で町田市というのが発展されたのだろうなあ。まあ、プチ宿場町みたいなもんですかね。

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 しかし、町田市ってなんか特別な思いのある町で、海に近いところになると東京都と神奈川県の境は多摩川なのだが、この町田市辺りでは多摩川は東京都の中の方にまで食い込んでいて、境川が東京都と香川県の県境になる。で、JR横浜線町田駅と小田急線町田駅に挟まれた地域が「原町田」として、町田市の中央部分を形成する。

 って言うか、高崎と八王子を結ぶ八高線、八王子と横浜を結ぶ横浜線それぞれが、基本的に「絹の路線」だったんですね。

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 それはいいとして、ということなので、この原町田の商店やデパートは町田市民だけでなく、相模原市民の買い物客や通勤客も含めて始終ごった返しているということになる。そう言えば、私の友人の相模原市民も最寄駅は町田だったな。

 小田急線で新宿から町田を目指しても、登戸を過ぎるとずっと神奈川県を走って、玉川学園と町田だけが再び東京都なのだ。と言っても別に町田が飛び地なのではなく、八王子や稲城からずーっと南東に伸びた先が町田というわけ。

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 で、厚木飛行場への進入路になっているので、米軍や自衛隊の飛行機がちょっと五月蠅い町田なのでありました。

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2015年7月 8日 (水)

「マンション再生協議会」って、何だ?

 マンション再生協議会の総会と講演会が、文京区後楽にある一般独立行政法人住宅金融支援機構(旧・住宅金融公庫)で行われたので、家からも近いし行ってきた。

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「マンション再生協議会」って、何だ? と思われるでしょう。そんなもの、私だって家のマンションを建替える時まで知らなかった。我々がその存在を知ったのは、マンション再生協議会から、我がマンションの建替え情報をサイトに載せたいんだけれども、と言ってきたからだった。

 マンション再生協議会とは『マンションは都市における居住形態として広く普及し、現在では約1000万人が居住しています。
 その一方で、老朽化等により、居住環境の悪化や耐震性の不足などが懸念されるマンションが急速に増え、適正な修繕・改修による居住環境の維持向上の必要性は高まっており、また、老朽化が著しいマンションについては建替えが避けられない問題となっています。今後21世紀における快適な都市居住を実現し、都市の再生を図るためには、マンションの修繕・改修や建替えといった「マンション再生」を図ることが大きな政策課題となっています。
 このような状況を踏まえ、これまで「マンションの管理の適正化の推進に関する法律」、「マンションの建替えの円滑化等に関する法律」の制定や区分所有法の改正が行われ、マンション再生に関する法制度が整備されました。さらに、補助制度、融資制度、税制の特例措置等、財政面での支援制度も充実しつつあります。
 しかしながら、マンション再生の主体である管理組合や建替組合等はマンションの区分所有者により構成されており、法制度、支援制度についての情報や事業推進のノウハウが不足しているなど、その実施にあたっては、適正な支援が不可欠であります。 また、マンション再生は、マンションの状況に応じた適切な対策を実施する必要があることから、それを支援する体制は、各分野の専門家や公共団体等が連携し、管理組合や建替組合等に対して多面的な支援を臨機応変に行う必要があります。
 以上の背景を踏まえ、我々発起人一同は、マンション再生に関連する各分野の専門家や公共団体等が相互に連携しながら、情報提供、専門家の紹介等により管理組合や建替組合等を支援することでマンション再生の円滑化を図ることにより、良好な居住環境の確保と都市の再生に寄与するため、ここに「マンション再生協議会」を設立するものであります』というのが、平成15年6月11日に「マンション再生協議会」発起人代表・小林重敬氏(現会長・横浜国立大学名誉教授)の言葉。 

 まあ、マンションの建替えや大規模修繕なんかの時の相談相手みたいなものかな。

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 で、そのマンション再生協議会の平成27年度の総会が昨日、住宅金融支援機構の本店で行われ、その後に国、東京都、大阪市、横浜市の各担当者から、各地域における「マンション再生の取組み」が発表された。

Dscf66752国は国土交通省住宅局市街地建築課マンション政策室の山本課長補佐。

Dscf66762東京都は都市整備局住宅政策推進部マンション課の高橋課長。

Dscf66772大阪市は都市整備局企画部住宅政策課の阿部課長。

Dscf66782横浜市は建築局住宅部住宅再生課の大友課長。

 東京都におけるマンションのストック数は約168万戸(総世帯数の約4分の1)となっていて、都市の主要な居住形態として広く普及している。一方、約168万戸の内、旧耐震基準(1981年改正以前の基準)のマンションが約36万戸、旧々耐震基準(1971年改正以前の基準)が約7万戸と、新規建設や建替えが進んでいる東京でも、まだ約2割は旧耐震基準のマンションが残っているということなのだ。

 結局、これまでに建替えが実現したマンションは、「駅からの距離が近い」「容積使用率に余裕がある」などの条件に恵まれたものが多く、それ以外のマンションではなかなか建替えも大変だということである。

 特に、大阪市は管理規約がないマンション、長期修繕計画自体がないマンションなどが多く、マンションの耐震補強工事やマンション建替えを検討しているところもまだまだ15%と、あまり前向きには進んでいないようだ。

 まあ、東京ですら耐震補強や建替えというところに進むのにはいろいろ障害があって、住民(区分所有者)の合意形成は難しい。まあ、我が家のマンションも高齢者が多く、当初は建替えに難色を示していた人も多かったが、比較的生活に余裕がある人が多かったらしく、全員賛成で建替えが決まってしまったが、なかなかそういうところは少ないようで、反対した人にどう対処すればいいのか、という問題もかなり出ているようだ。

 ということで、昨日の講演の資料などはマンション再生協議会のサイトでご覧ください。

2015年7月 7日 (火)

『世界の旅先ベスト25』というけれど、私の趣味じゃないなあ

『一生に一度は行きたい 世界の旅先ベスト25』って言っても、それはあくまでも著者、多賀秀行氏にとっての「ベスト25」であって、「旅先をどこにするか」というのは人それぞれの哲学なのであります。なので、人がいればいるだけの数、「ベスト25」は変わってくるのであります。

 まあ、「旅行に行きたいけれど、どこに行くのか自分では決められない人」にとっては参考になるんだろうけれども。

25〈オールカラー版〉一生に一度は行きたい 世界の旅先ベスト25』(多賀秀行著/光文社新書/2015年6月20日)

 で、多賀氏が選んだ「ベスト25」はどこなのか? 多賀氏はそれを難易度別に分けて、各行先別に「DATA」として「一般的なツアーの目安代金 日程」「一般的な行き方」「旅のシーズン」「必要な体力」「備考」を各文末に載せている。まあ、便利ではあります。

 では……

Ⅱ 難易度1の旅先
1 フランス モン・サン=ミシェル 〈世界遺産〉〈絶景〉15万円~ 6日間
2 カナダ イエローナイフのオーロラ観賞 〈絶景〉20万円~ 6日間
3 ネパール エベレスト(チョモランマ) 〈世界遺産〉〈絶景〉20万円~ 6日間
4 カナダ カアンディアンロッキー 〈世界遺産〉〈絶景〉25万円~ 8日間
5 フランス領ポリネシア タヒチ 〈南の島〉〈絶景〉 38万円~ 8日間

Ⅲ 難易度2の旅先
6 エジプト ピラミッドとルクソール 〈世界遺産〉 15万円~ 6日間
7 オーストラリア ウルル(エアーズロック) 〈世界遺産〉〈絶景〉 17万円~ 6日間
8 トルコ ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群 〈世界遺産〉〈絶景〉 13万円~ 7日間
9 ヨルダン ペトラ遺跡 〈世界遺産〉 20万円~ 7日間
10 ロシア サンクトペテルブルク 〈世界遺産〉 23万円~ 7日間
11 チリ イースター島(ラパヌイ) 〈世界遺産〉〈絶景〉〈秘境〉〈南の島〉 40万円~ 9日間
12 スイス アルプス山脈 〈世界遺産〉〈絶景〉 28万円~ 10日間

Ⅳ 難易度3の旅先
13 カンボジア アンコール遺跡 〈世界遺産〉 8万円~ 5日間
14 中国 九寨溝 〈世界遺産〉〈絶景〉 17万円~ 6日間

Ⅴ 難易度4の旅先
15 ペルー マチュピチュ歴史保護区 〈世界遺産〉〈絶景〉 28万円~ 8日間
16 アルゼンチン パタゴニア 〈世界遺産〉〈絶景〉〈秘境〉 45万円~ 10日間

Ⅵ 難易度5の旅先
17 ボリビア ウユニ塩湖 〈絶景〉〈秘境〉 38万円~ 8日間
18 ナミビア ナミブ砂漠 〈世界遺産〉〈絶景〉〈秘境〉 45万円~ 8日間
19 ベネズエラ エンジェル・フォール 〈世界遺産〉〈絶景〉〈秘境〉 45万円~ 9日間

Ⅶ 難易度0の旅先
20 世界一周クルーズ 〈世界遺産〉〈絶景〉〈秘境〉〈南の島〉 129万円~ 91日間

Ⅷ 一生に一度は行きたい旅先ベスト5
21 【第5位】アルゼンチン イグアスの滝 〈世界遺産〉〈絶景〉〈秘境〉 38万円 8日間
22 【第4位】ケニア マサイマサラ国立保護区 〈絶景〉〈秘境〉 32万円~ 7日間
23 【第3位】クロアチア ドブロブニク 〈世界遺産〉〈絶景〉 18万円~ 6日間
24 【第2位】エクアドル ガラパゴス諸島 〈世界遺産〉〈秘境〉 52万円~ 9日間
25 【第1位】南極 〈絶景〉〈秘境〉 150万円~ 14日間

 以上、「旅先ベスト25」でした。

 なんだ、結局この人〈世界遺産〉〈絶景〉〈秘境〉〈南の島〉が好きなんだけじゃないか。

 う~ん、そんなのばっかりが旅先なんだろうか。私なんかはそんなのばっかりが好きなわけではない。むしろ、人が作った「街」の方に興味があるし、そんな街の普通の旅人が行かないような裏町や、ガイドブックにも載っていないような普通の町の人が住んでいる場所なんかの方が好きだし、行ってみたい。って、そうか、それもある種の「秘境」なのかなあ。

 一昨年、香港に行った時も「屏山文物徑(ピンサン・ヘリテイジ・トレイル)」とか、「元朗(イェンロン」とかの、あまり日本人や西洋人が観光に行かないところばかり行っていた。勿論、香港島にも行きましたけど、泊まったところも「九龍(クーロン)」だしね。

 なので、上の旅先で言うと、私が興味があるのはモン・サン=ミシェルよりはパリの方だし、あとはボリビアだったら首都ラパスでぶらぶらしたいし、アルゼンチンだったらブエノスアイレスに行きたいなあ。結局、多賀氏がオススメの旅先で「ここはっ」ってドンピシャなのはサンクトペテルブルク位のものかなあ。

 実はこのサンクトペテルブルクはロシア革命後にモスクワに遷都するまではロシアの首都だったわけで、なのでエルミタージュ美術館とか血の上の救世主教会とかペテルゴフ宮殿とかエカテリーナ宮殿とかの昔からの建造物がたくさん残っている政治都市だったのである。勿論、そうした建造物なんかも興味はあるが、一方でロシアの2月革命と10月革命は、まさしくここサンクトペテルブルク(旧レニングラード)で主に戦われたわけで、なのでそうしたロシア革命にちなんだ場所とか遺構なんかがある筈なのだ。で、私としてはやはりそうした場所にたって、ここがレーニンが演説した場所か、ここがトロツキーが陰謀を巡らせた場所か、という感慨にふけりたいわけなのですね。

 ソビエト連邦は崩壊しちゃったけれども、ロシア革命はやはり世界中にも、ロシアの歴史の中でもエポック・メイキングなことだったわけなので、その記念のものは残されている筈だ。すみません、多賀氏とは全く別のサンクトペテルブルク像を持っているわけなのです。まあ、その辺は1951年生まれの私と、1981年生まれの多賀氏の30年の歳の差の問題ですね。

 最後に、ガラパゴスに多賀氏が行った時のツアーのガイドが言った言葉。

『ガラパゴスに残せるものは足跡のみ。持ち帰ることができるのは、思い出だけ』

 というのは、決してガラパゴスだけではなくて、世界中どこに行っても同じだろう。世界の町に行っても、そこに勝手なものは持ち込めないし、勝手に持って帰ってきてもいけないのだ。

〈オールカラー版〉一生に一度は行きたい 世界の旅先ベスト25』(多賀秀行著/光文社新書/2015年6月20日)

2015年7月 6日 (月)

『絶歌』への疑問、なぜ「元少年A」なのか

 神戸連続児童殺傷事件の加害者「少年A」が書いた『絶歌』を読んだ。

 全体が二部構成になっていて、第一部が彼の起こした二つの犯罪、つまり1997年3月16日に彩花さん殺害、そして1997年5月24日に淳君を殺害した事件に関すること、第二部が2004年3月10日に少年院から仮退院した日から現在までのことを書いている。

 でも、基本的に自己憐憫ばっかりで、あまり読んでいて気持ちはよくないんだよなあ。

 本書には「元少年A」の事件に対する反省は一言もないんですね。

 要は、この「元少年A」って、医療少年院から退院したんだけれども、結局、多分、入院する前と変わっていないと思うよ。

 もしかすると、更に犯罪を犯すかもしれない。

Photo 『絶歌』(元少年A著/太田出版/2015年6月28日刊)

 本書の第二部「最終居住地(二〇〇四年五月中旬~二〇〇五年一月)」の中で「元少年A」が見たテレビドキュメンタリー「罪の意味 少年A仮退院と被害者華族の7年」の中で、「元少年A」が殺害した淳君のお兄さんがは話した言葉が載っている。

『更生してくれるのは結構なことだと思いますけど、内心はどうして弟はあんな目にあわされたのに、相手側はのうのうと生きられて、まともな生活ができるのかなと思います。もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、所詮言い逃れにすぎない』

 そう、その通り、私にはこの「元少年A」は傲慢な奴としか思えない。

 何故、既に32歳になっている「元少年A」が本名ではなく「元少年A」という匿名で本を書くんだろうか? 「被害者のご家族の皆様へ」で『まず、皆様に無断でこのような本を出版することになったことを、深くお詫び申し上げます』と書くのなら、何故、一言被害者家族に事前に相談しなかったんだろうか?

「元少年A」は少年院を出てから、彩花さんの命日3月23日、淳君の命日5月24日に、それぞれの遺族に謝罪の手紙を送ったいるそうだが、じゃあなんでその手紙の中でこの本について触れなかったんだろうか? おかしいじゃないか。

 更におかしいのは、やはり匿名のままの「元少年A」で本を書いたこと。

 結局、匿名のままで本を出すってことは、基本的にその少年法で守られた自分をそのまま生かすってことなのだろう。それはどう考えても傲慢でしょう。本を出す、文章を他人に向けて発表するっていう行為は、自分をさらけ出す行為だ。だったら、そこで自分の正体を他人に向かってすべてさらけ出さなければならない筈だ。それをして初めて文章を他人に発表する資格がある。つまり、よくある匿名ブログみたいなもので本を出しちゃあいけないのであります。勿論、商業的な意味で匿名で本を出すっていう意味はありだが、その場合は誰が読んでもそれは商業的な意味で匿名で出しているというのが見えている訳であり、実は本名(実名)がバレているケースがほとんどである。

 つまり、本を書くって言う行為は、他人を傷つけるかもしれないこともありうるし、書いた本人が気がつかないうちに他人を誹謗中傷することになってしまうことだってある。なので、基本的には本を書くという行為をする人は、自分が「何者」であるかをはっきりさせなければいけない。

 それがなんで、少年法に守られた「元少年A」なんだ。

『この十一年間、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころして生きてきました。それはずべて自業自得であり、それに対して「辛い」「苦しい」などと口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います。本当に申し訳ありません』

 というのであれば、それこそ本書の刊行を事前に被害者遺族に相談すべきであったということに思いをはせるのだ。当然、そうした中で、「書いてもいいけど本名で書けよ」という要求は当然出てくるはずだ。いつまでも「少年法」を隠れ蓑にして匿名で動くんじゃないよ、という要求も出てくるはずなのだ。

 つまり、この「元少年A」はそんな匿名性の生き方に対して、どこかその住み心地の良さを知ってしまったんじゃないだろうか。特に、この本の後半「第二部」を読むとなんとなくそんな感じがしてくる。

 要は本人が、あの「酒鬼薔薇聖斗」であることがバレそうになると、職を転々とするというまさに第二部で語っているその事実が語っている。本当は、本人が「酒鬼薔薇聖斗」であることを受け入れて、それと同時に「酒鬼薔薇聖斗」として生きていかなければならない、という過酷かもしれないが、そんな過酷な生を受け入れなければ、生きていく価値はないという事実を何故受け入れないのだろうか。

 結局、自己憐憫の書でしかない本書は、それは当然被害者遺族にしてみれば許されるものではないものだろうから、被害者遺族には相談しないで出版をしてしまったんだろう。

 同時に、太田出版もなあ、なんでこんな本を出版しちゃったんだろう。幻冬舎が原稿を読んで、こりゃまずいなあということで出版を取りやめ、太田出版を「元少年A」に紹介したそうだが、その太田出版が簡単に「元少年A」の企画に乗ってしまったっていうのは、まさしく安易。

 太田出版から被害者遺族に連絡を取るという方法もあったはずなのだが、それもやっていないというのは、まさしく怠惰。っていうか、確信犯? っていうか、「元少年A」の身元調査もやっていないんだって……、あきれますね。

 太田出版って、そんな最低な出版社だったんだろうか。

『絶歌』(元少年A著/太田出版/2015年6月28日刊)

2015年7月 5日 (日)

ツール・ド・フランス開幕!

 今年もいよいよツール・ド・フランスが始まった。

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 昨日は初日の個人タイムトライアル(TT)が始まったんだけれども、これまでは初日は「プロローグ」といって数キロ程度の個人TT(まさにプロローグ=顔見世)的なレースだったんだけれども、今年はプロローグで15km程度のコースで争われ(それでも普通のTTに比べれば短いが)、その代わり今年はチームTTはあるけれども個人TTはレース中にはない、という設定。

 その他、各ステージ毎のゴール時に与えられるゴール・ポイントが大幅に変わったりして、これまでのツールとはかなり違った設定のレースになっている。

 今年は、オランダのユトレヒトでの個人TTが第1ステージで、オランダ~ベルギーと進んできて、フランス入り。7月25日がアルプスのラルプ・デュエズの頂上ゴールが第20ステージで、7月26日が最終日、パリ、シャンゼリゼのフィニッシュという構成。

 今日のレースは昨日の個人TTで優勝しマイヨジョーヌを獲得したローハン・デニス(オーストラリア/BMC)がプロトンにしっかりいるが、まあ、今日明日はオランダの平地レースなので、このままローハン・デニスがマイヨジョーヌを維持する可能性が強いだろう。

 この後、フランスに入って山岳コースに入ってくるとどう状況が変化するかが楽しみ。

 ちなみに、今年は別部史之も新城幸也も出ていないのは、ちょっと残念。

 このブログでも、気になるステージがあったら、ちょくちょくレポートします。

 ということで、もっと知りたい方は「J SPORTS」のサイトへGO!

高崎、そぞろ歩き

 久しぶりに高崎の街に行ってきた。

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 最後に高崎に行ったのは、確か2010年4月に「シネマテークたかさき」で自転車映画を観に行ったのだから、あれから5年経っているわけだ。

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 相変わらず、高崎の街の中心街である「中央ぎんざ通り」は闌れっぱなしである。

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 店がどんどんなくなってしまい、クラブや飲み屋になってしまっている。

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 えっ? 何でクラブや飲み屋なんだ? って思うけれど、考えてみれば郊外の幹線道路ではそんなアルコールを出す店はできないからなのだろう。

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 で、もともと商店街だった中央の街は飲み屋街になってしまうのであります。ただし、なくなるペースに新しくクラブが開店するペースが追いついていかないので、結局、空きスペースがどんどん増えてきてしまう。

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 ま「シネマテークたかさき」は駅のそばでまだまだ健在ではあるようですが、郊外のショッピングモールにはシネマコンプレックスができてしまっているし、ここも経営は大変なのかも。

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 高崎駅のショッピングモール「モントレー」だけは、まだまだ人でいっぱいだけれどもね。

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 ただ、街に出ると全然人が歩いていない高崎の街ではありました。

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NIKON Df + Ai NIKKOR 24mm/F2.8 @Takasaki (c)tsunoken

2015年7月 4日 (土)

佐原逍遥

 千葉県の旧佐原市(現・香取市)は水運の街だ。

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 利根川に流れ込む小野川沿いに街が発展してきた。

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 勿論、こんな狭い裏通りもある。

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 実は上の写真は、伊能忠敬旧宅裏の道。

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 貸家有り、六帖二間、場所 橋替、連絡先 52-3038 川又

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 酒は長久、ビールはキリン 株式会社大野酒店

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 小江戸さわら舟めぐり、赤い郵便ポストは使用不可

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 使用可

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NIKON Df + AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5 @Sawara (c)tsunoken

2015年7月 3日 (金)

「下流老人」だけでなく、「中年ひきこもり」というのが、もっと問題なんだが、それ以上に「朝日新聞」の劣化が気になる

 まあ、本(電子書籍)の作り方としては安易と言えば安易だが、もともと新聞社のつくる本と言えば、新聞記事を元にしたものが多いのだから、こんなのもアリかなとも思う。

 本書は2013年10月7日から10月12日に朝日新聞に連載された記事を集めたものなのであります。

20 『ひきこもり20年、その先 時間との闘いにもがく老親たち』(朝日新聞(金成隆一、堀井正明)著/朝日新聞select/2013年10月25日WEB新書版刊・2013年12月31日EPUB版刊)

 要は一昨日書いた『下流老人』の逆、というか実はもっと大きい問題である「中年ひきこもり」というやつなんだな。

『私が死んだら家にひきこもっている息子は生きていけるんでしょうか」。東京都のファイナンシャルプランナー畠中雅子さん(50)は15年ほどこんな相談を受けてきた』

 いちいち、人名を載せるたびに年齢を書くって言ういかにも新聞風な書き方は、出版社にいた私にはなんかあまり気持ちの良いことではないが、まあ、それは関係ない。要は、就職して間もなく失業して、以来20年近くひきこもる息子の話なのだそうだ。

『「ネットでCDやゲームソフトを代引きでどんどん注文し、私が払うんです。でも本当に必要でもないみたいで。未開封の箱が部屋の前に積まれていて……」
 家計の収支があいまいなのは明らかだ。畠中さんは女性宅の全資産を聞き取って紙に書き出し、息子が80歳まで1人で生きると仮定して1カ月に使える金額をはじいた。
「生活費に上限が必要です。『浪費をやめれば今の貯金で生きていけるが、このままでは65歳で底をつく』と紙に書いて渡してください」。貯蓄残高が減っていく様子を表にして女性を説得した。その後どうなったかは、連絡はない。
 相談に来るのはほとんどが母親だ。60~70代が多い。「道連れにしたい」と泣き出す人や、「お前の育て方が悪い」と夫から暴力を受けている人もいる。医師やカウンセラーに相談しても前進できず、親族からも心ない言葉を投げつけられる』

 う~ん、こうなると一昨日の「下流老人」にぶら下がっている、さらに下流の「中年ひきこもり」という存在がいるって言う訳なんだなあ。確かに、以前書いたような気もするんだが、若者のひこきこもりは、まだ親世代が現役だったりして経済的にも何とかなったり、若者らしくひきこもりから立ち直るケースも多かったりするんだが、それが30~40代位のひきこもりになってしまうと、親世代がすでに現役を退いてしまったりして経済的に苦しくなってきてしまい、さらにその位の引きこもりになってしまうと、もはやひきこもりをこじらせてしまって、最早立ち直ることはほぼ不可能という状態になってしまう。さらに、そんなひきこもり状態なので、生活保護を受けるための条件や手続きなどの知識もなく、最後は野垂れ死にをするしかないという状況にまで陥ってしまうのだろう。

 2010年の内閣府「若者の意識に関する調査」によれば、ひきこもりになったきっかけは
○職場になじめなかった                23.7%
○病気                                       23.7%
○就職活動がうまくいかなかった    20.3%
○不登校(小学校・中学校・高校)   11.9%
○人間関係がうまくいかなかった   11.9%
○大学になじめなかった                6.8%
○受験に失敗した(高校・大学)      1.7%
○その他                                    25.4%

 だそうである。まあ、病気は仕方ないにしても(ただし、その病気というのも「鬱病」なんてのもあるしなあ)、基本的に「職場になじめなかった」「就職活動がうまくいかなかった」というのが「二大ひきこもり理由」ってのが、基本的に自らの就職感の間違いなんじゃないかとも思えるんだが。

 要は、自分が就職しようと考えて就職できた会社が、自分が思っていた会社のイメージとは違っていた、あるいは自分が就職しようとおもっていた企業ジャンルになかなか就職できないうちに、自分が希望していなかった会社に内定してしまった、ということなんだろう。

 しっかし、こんなことは当たり前でしょう。

 会社に入る前に持っていたその会社の外部から見たイメージと、実際にその会社に入ってから見せられるその会社の実態が違うのは当たり前だし、自分が就職しようと思っていた企業ジャンルに就職できないというのは、やはり自分がその企業ジャンルから求められている人材ではなかったというだけのこと。まあ、そうやって割り切れる人ははじめからひきこもりになんてならない人なんだろうけれどもね。

 つまり、人生をもうちょっと大局的に見られる能力を身につけていれば、別にどうということもなく乗り越えられるんだろうけれども、いちいちひとつの躓きにこだわっているひとにとっては、その集積が「ひきこもり」の原因になってしまうんだろう。

 そんなひきこもり対策として、2010年に一般社団法人として設立された栃木県若年者支援機構「しごとや」というのがあるそうだ。

『理事長の中野謙作さん(53)は「若者が自分に合った働き方で様々な仕事を体験して、自信をつけて社会に一歩踏み出せるような事業を用意しています」と語る』

 とあるが

『国は就労訓練を「中間的就労」という名称で制度的に整理しようとしています。「しごとや」が取り組んできたような就労訓練を、経済的にも長期間続けられる仕組みにするのは国や行政機関の課題です。就労訓練を有効性が高いものとして、制度的に位置づけることが重要です』

 という、本書の結論にはちょっと矛盾、というかテーマの置き換えがないだろうか。

 もともと、本書の書き出しは「中年ひきこもり」なのである。ところが、いつのまにか「ひきこもり」の対象は「中年」から「若年」になってしまっている。

 そうじゃなくて

『親の世代が次々と年金生活に突入し、現実を直視しなければならない段階に来た。余裕のない家庭では子が生活保護を受けるしかなくなると感じる』

 ということが最初の問題だったんではないのだろうか。

 それがいつの間にか「若者のひきこもり」の話になってしまっている。そりゃあ、若者はまだまだ可能性があるんだから、ひきこもりから脱出する手立てはあるだろう。問題は、そんな手立てがなくなってしまった「中年」や「壮年」の「ひきこもり」の話だったはずなんだけれどもなあ。

 まあ、そんな「中年」や「壮年」の「ひきこもり」は生活保護を受ければいいんだけれども、若者のひきこもりからの脱却方法を書くんだったら、同じように中年や壮年のひきこもりからの脱却方法も書かなければいけないんじゃないだろうか。

 なんか、この辺、最近の「朝日新聞」はちょっとダメになってきたなあ。

『ひきこもり20年、その先 時間との闘いにもがく老親たち』(朝日新聞(金成隆一、堀井正明)著/朝日新聞select/2013年10月25日WEB新書版刊・2013年12月31日EPUB版刊)

2015年7月 2日 (木)

第22回東京国際ブックフェア始まる

 今年も東京国際ブックフェアが昨日から始まった。

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 講談社ブースは『なかよし』が創刊60周年ということで、基本的には『なかよし』一色の大展開。いいのかなそれで……、とも思うんだが、所詮、こうした展示会では講談社の展開の一部しか見せることが出来ないんだから、まあいいか。

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 小学館は毎年同じで、「児童書フェア」の会場で図鑑の新作の売り込み。まあ、毎年夏休み前というのが図鑑が年間で一番売れる時なのだから、国内書店及び読者向けのプレゼンとしては、こんなもんだろう。

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 でKADOKAWAは相変わらずベストセラーをずらずら並べる展開で、あんまりまとまりがない。「映像化」が伴わないと、結構この会社は手抜きするんですね。

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 というのが大手三社の展開イメージ。

 同時開催の「第19回電子出版EXPO」も既に定着した感じで、こちらはハードウェアとソフトウェアの両方の展示をそれぞれのブースで展開。

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 一番目立ったのがホライゾンのブースで、プリントオンデマンドのマシンを大展開だし、ソフトウェアの方では、相変わらずボイジャーが存在感を見せている。

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 しかし、ブックフェアの一番の目的は海外市場へ向けた版権売買の場である、ということなのだ。

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 なので、むしろ海外の出版社の地味なブースの方が本来のブックフェアの姿なのだ。

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 ところが、日本の出版社が如何に海外へ目を向けていないかを示すのが、このバーゲンブックの展開。

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「人文・社会科学書フェア」の各社ブースは完全にそんなバーゲンブックのコーナーになってしまっていて、「なんかなあ」の感じなのであります。そんな読者へのサービスは書店にまかせて、もっと版権売買に力を入れてほしいのだが……。

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第22回東京国際ブックフェアは7月4日まで、東京ビッグサイトにて開催中。

公式サイトはコチラ

2015年7月 1日 (水)

老人大国「日本」を救う処方箋ってないんだろうか

『下流老人』って一体何だ?(って、大体予想はつくけどさ)

『本書では下流老人を「生活保護基準相当で暮らす高齢者およびその恐れがある高齢者」と定義する』

『下流老人は、いまや至るところに存在する。日に一度しか食事をとれず、スーパーで見切り品の惣菜だけを持ってレジに並ぶ老人。生活の苦しさから万引きを犯し、店員や警察官に叱責される老人。医療費が払えないため、病気を治療できずに自宅で市販薬を飲んで痛みをごまかす老人。そして、誰にも看取られることなく、独り静かに死を迎える老人……』

 フムフム

Photo 『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(藤田孝典著/朝日新書/2015年6月25日刊)

 こうした「下流老人」には三つの特徴があるというのだ。

『①収入が著しく少「ない」
 まず、下流老人の特徴は、世帯の収入が著しく低く、その収入では普通の暮らしが営めないことだ。その生活水準は、生活保護レベルか、それより低い状況にある』

『年金などを含めた収入がこのラインと同程度であれば、生活保護で受けられる収入となんら変わらない。つまり〝保護を必要とするレベル〟なのだ。むしろ年金などの収入が、額面上、生活保護と同レベルなら、実際の生活はそれ以下と言えるだろう』

『注目したいのは、高齢者世帯の相対的貧困率は、一般世帯よりも高いことだ。内閣府の平成22年版男女共同参画白書」によれば、65歳以上の相対的貧困率は22・0%である。さらに、高齢男性のみの世帯では38・3%、高齢女性のみの世帯では52・3%にもおよぶ。つまり、単身高齢者の相対的貧困率は極めて高く、高齢者の単身女性に至っては半分以上が貧困下で暮らしている状況なのだ』

『②十分な貯蓄が「ない」
 二つ目に下流老人は貯蓄が少ないか、あるいはまったくない』

『③頼れる人間がい「ない」(社会的孤立)
 下流老人の特徴の三つ目は、困ったときに頼れる人間がいないことだ』

『じつはこのような気軽に会話ができたり、相談ができるような豊かな人間関係を築いている高齢者が、下流老人には少ない。いわゆる「関係性の貧困」という状態にあり、社会的に孤立している姿が見えてくる』

 勿論、こうした「下流老人」の存在は、後の世代にまで悪影響を残すわけで……

『悪影響Ⅰ 親世代と子ども世代が共倒れする  
 まず、身内の誰かが下流老人になった場合、その子どもたちも共倒れするような事態が考えられる。親が生活に困ったら、多くの子どもは援助したいと思うのが実情だろう。しかし親の面倒を見たくても、経済的事情がそれを許さないという問題もある』

『悪影響Ⅱ 価値観の崩壊  
 このように高齢者のために若者世代が共倒れするような事態になれば、下流老人を中心にして、「高齢者が尊敬されない」「年寄りなんか邪魔だ、お荷物だ」としか見られなくなる社会になる危険性もおおいにあり得るだろう』

『悪影響Ⅲ 若者世代の消費の低迷  
 高齢者が尊重されない社会であれば、若者が自分の将来や老後に希望を持てるはずもない。すると若者は必然的に「貯蓄」に向かうことになる。下流老人にならないために、計画的に生活していかなければならないという、強力なインセンティブが働くからだ』

『悪影響Ⅳ 少子化を加速させる  
 下流老人の問題は、間接的に少子化を加速させる一因にもなっている。現代において、子どもをつくって家族を持つことは、もはや「リスクである」という考え方さえある』

 う~ん、こうやって読んでくると、自分がかろうじてこうした「下流老人」には入っていないということを確認できて、まあ、ホッとするんだが、現状はそんな自分勝手にホッとしている場合でもないようだ。

 現在、日本は自由主義経済のもとに運営されているのだし、その中でもグローバリズムの後押しを受けて、更なる規制緩和を進めている最中だ(とは言っても自民党の守旧派勢力もなかなか根強いようですが)。

『2014年5月、OECDは「過去約30年間における上位1%の所得割合の推移」を発表した。これによると上位1%の人たちの所得割合は、1981年と2012年で比較したとき、アメリカは8・2%から20%に、日本でも7・5%から10%に上昇している。要するにアメリカでは、全労働者が得る所得のうち、上位1%の人々がその20%を、日本では10%を独占しているということだ』

 確実に、日本も「一億総中流社会」から、「一億総下流社会」に移りつつあるわけなのであります。

 まあ、そうした経済社会のあり方を変えられないのだとしたら、それに対応して生活保護行政やら年金行政を変えるしかないのだろう。つまり、現在のような「加入者が資金を収める」というような年金制度はやめて税金で年金を維持するとか、そうすれば「消えた年金」なんてバカなことは起こり得ないし、「日本年金機構」なんて厚労省の天下り機関も一つはなくせる訳だしね。要は、厚生年金なんてものはやめて、生活保護一本にしてしまって、一定額を支給するという方法にする。勿論、企業年金は残しますよ。そこがサラリーマンとして定年まで安月給で働いてきた見返りなんだから。というか企業年金は企業が勝手に運営しているだけなんだから、そこには手を入れてはいけない。

 じゃあ、その原資はどうするの? 消費税をまたまた上げるの? という言葉が出てきそうだが、実はそれはあり。日本の消費税、現在は8%だが、これはもっと上げてもいいと、私は考える。問題は税金の率ではなくて、税金の使われ方なんだ。

 税金の使われ方が公正であれば、国民は税金を納めることには躊躇しないだろう。現状は、税金の使われ方がなんとも理解しがたいので、日本国民は税金を納めることに躊躇しているのである(まあ、それでも南欧諸国に比べると日本の税金納入の素晴らしいことか!)。

 北欧諸国にしても、その収めている税金(所得税、消費税共に)の税率は日本とは比べ物にならないくらい高い。しかし、一方でそのおかげで享受している社会福祉のレベル(日本に比べれば)全然高いので、国民は文句は言わないのだ(一部、言っている人もいるようですが)。

 更に言ってしまえば、トマ・ピケティ氏が提唱するような世界すべての国で同じ所得税をかけるような、世界法を作ればいいという案もあるが、これは難しいかな。だって、いまだに国連だってまとまっていないものね。

 ということなので、結論。

「もっと税金をとってもいいから、社会福祉制度を充実させろ」ということなのだ。

 本当、もはや親の介護を子供世代に押しつける時代ではないのだ。

『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(藤田孝典著/朝日新書/2015年6月25日刊)

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